2019年11月17日 (日)

『芸術』の政治的統制(6)

『独裁者の支配する国家』『独裁的政党が支配する国家』では、『信条の自由』『表現の自由』は優先されません。『独裁者』『独裁的政党』の権威が脅かされるものは、全て排除しようとするからです。

『全体』の秩序を守ることが最優先になり、『個』は自分を抑制しなければならなくなります。もし『全体』の秩序に異を唱えれば、『反社会的』と糾弾され、強制労働が科せられたり、処刑されたりします。『個』の言動は『秘密警察』に監視され、『恐怖政治』が支配することになります。

『梅爺閑話』の様な能天気で言いたい放題のブログを書いていたら、真っ先に糾弾対象になるでしょう。

このような環境下で、大きな『精神的苦痛』をこうむるのは、『宗教』『芸術』『思想』の関係者と言うことになります。

人類の歴史の中で、自分の考え方に従わない人たちを徹底粛清した『政治権力者』は沢山存在します。日本の歴史でもそのような『権力者』は皆無ではありません。近世以降では『ドイツナチスのヒットラー』『ソ連のスターリン』が最悪の例としてあげられます。

『独裁者』は、『恐怖』で他人を制御できると本当に思いこんでいるのか、それとも権力を維持する手段として『恐怖』を利用する以外の方法がないのか、分かりませんが『独裁』は陰湿な『恐怖政治』と結び付くことになります。そして『独裁者』の顔からも、支配される人々の顔からも、『本当の笑み』は消え失せます。『金正恩』『習近平』『プーチン』に梅爺は『能面』のような冷たさしか感じません。『本当の笑み』を感じません。

『精神世界』の自由な表現が、『資本主義にくみする退廃』『愛国心の欠如』とされ、多くのソ連の『芸術家』は、精神的苦痛に耐えかね『亡命』の道を選びました。梅爺の好きな『音楽』の世界では、『ストラヴィンスキー』『プロコイエフ』などがアメリカへ亡命しました。彼等は20世紀を代表する『大作曲家』の評価を現在得ています。エストニアの大指揮者『ネーメ・ヤルヴィー』一家も、アメリカへ亡命しました。その息子が、現在NHK交響楽団の首席指揮者『パーヴォ・ヤルヴィー』です。

亡命しなかった作曲家では『ショスターコヴィッチ』が有名です。『スターリン』に作曲のし直しを命じられたり、作品の演奏が禁止されたりしましたが、それでも演奏されることがないと分かっていても、作曲を続けました。当然、心の闇、絶望感などが表現されていて、現代の私たちの心に響きます。『スターリン』の死後、彼の作品の一部は『ソ連』でも演奏されるようになり、同胞の人たちにも感銘を与えました。

『芸術家』にとって、『政治的統制』は、存在が全否定されるような苦しみであったに違いありません。

しかし、『民主主義』体制でも、『芸術』は野放しの『自由』が許されるわけではありません。『公序良俗』という、社会の『主観の共有』があり、この一戦を越えると、社会から糾弾されることになります。『個』と『全体』の間の齟齬は、いつの時代、どのような体制下でも、程度の差はあれ存在するのです。

| | コメント (0)

2019年11月16日 (土)

『芸術』の政治的統制(5)

『民主主義国家』では、『基本的人権』として『信条の自由』『表現の自由』が法により保護されていて、それは好ましいことであると私たちは考えています。また『人は生まれながらにして平等である』という価値観も、好ましいとして受け入れています。

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』などという『福沢諭吉』の言葉にも感銘を受けます。

しかし、『自由』『平等』『正義』などと言う概念は、それほど単純なものではありません。

たとえば『平等』のことを考えてみれば、現実に私たちは『生まれながらに平等』には創られていません。

『容貌』『体格』『知的能力』『運動能力』『情感能力』など、一人一人異なって生まれてきます。『生物進化』の過程で、そのように『個性的』につくられるように宿命づけられています。生き残りに適した資質の持ち主が、『種の継承』をけん引するという冷厳なルールがそこには働いています。自然界の生態系でも、冷厳な『弱肉強食』が支配しています。

『人間社会』は『格差』を是認することで成り立っています。『経済』行為などはその典型です。先進国は後進国の『低賃金』な労働力格差を利用します。

『民主主義国家』でも、『試験』『オーディション』『トライアウト』は日常的に行われ、『合格者』は『不合格者』より、有利な扱いを受けます。

『基本的人権』としての『平等』の概念を理解するには、人間社会が抱える『個』と『全体』の問題を認識しなければなりません。

本来個性的な『個』が集まって『コミュニティ(群れ、全体)』を形成した時に、『個』は個性的であるからと言って勝手気ままにはふるまえなくなりました。

『コミュニティ(全体)』の秩序を維持する為には、『個』が自分を抑制してまでも、従う必要がある『約束事』が出現しました。『法』『憲法』『倫理』『道徳』がそれに当たります。

無人島で一人暮らす『ロビンソン・クルーソー』には、『法』『憲法』『倫理』『道徳』などは不要です。

『個』の価値観と、『全体』の価値観が必ずしも一致しない『矛盾』を、普遍的に解決する『知恵』を人類は見出していません。多分これからも見いだせないでしょう。『法』『憲法』『倫理』『道徳』は、次善の策に過ぎません。その証拠に、『コミュニティ』によってこれらの内容は同じではありません。

それならば、『個』はいつでも『全体』のために自分を犠牲にして『泣き寝入り』しなければならないのかと言うと、そういうわけにもいきません。『個』の『安泰を希求する本能』は強固なものであり、『全体』のために自分の安泰が脅かされていると『感じた』ときには、大きな『精神的苦痛』を抱え込むことになるからです。

『格差』は認めざるを得ないものですが、『格差』がもたらす一部の人への『苦痛』を看過できないという『禅問答』のような論理が、『人間は生まれながらに平等』という思想の背景にあります。現実は『平等』ではないから、『平等』という考え方が必要であるという難しい考え方を、私たちは受け入れなければなりません。

| | コメント (0)

2019年11月15日 (金)

『芸術』の政治的統制(4)

『芸術』に類似したのので『芸能』があります。両者ともに『創造者(作者、演者など)』と『鑑賞者(読者、聴衆など)』の関係で成り立っているのは同じです。

違いは、『創造者』の制作動機にあります。『芸術』の『創造者』は、自らの気持ちや情感を表現したいという動機が優先しますが、『芸能』の『創造者』は、『鑑賞者』に『うける』ことを優先します。

『芸術』で『鑑賞者』が感動のあまり涙を流すことはありますが、『芸能』の場合は、『創造者』がしかけた『お涙ちょうだい』のしかけに、『鑑賞者』が狙い通りにはまって落涙することになります。

『芸能』は『娯楽』提供が目的になり、その分『大衆』が受け入れやすいものになります。

一方、『芸術』は、特定の能力を保有する限定された『創造者』と『鑑賞者』の関係で成立することになり、社会の中では『少数派』になりがちです。

ただし『芸術』と『芸能』の境界は、それほど明確ではなく、『芸術』の中にも『芸能』の要素が、『芸能』の中にも『芸術』の要素がないわけではありません。

一般論として『芸術』は『高尚』であり、『芸能』は『低俗』ということになるのかもしれませんが、それほど単純な区分けにはなりません。

『芥川賞』と『直木賞』のことを考えていただくと分かりやすいかも知れません。

『文楽』や『歌舞伎』は、もともと庶民の『大衆芸能』でしたが、洗練された高みを目指す努力もあり、現在では『伝統芸能』として、『芸術』に近いレベルの評価を受けるに至っています。一部の『ジャズ』は、『クラシック音楽』の領域と似たものになっています。

『低俗』のままでは飽き足らず、高みを目指そうとするところが、『人間』の素晴らしいところです。『伝統工芸』『茶道』『華道』『俳句』『和歌』『和食』など、精神性の高みを目指す努力が、日本文化の得に素晴らしいところで、世界に誇りうるものです。

『芸能』は『ビジネス』として『金儲け』が目的になりますが、『芸術』は『金儲け』が直接の目的にはなりません。しかし『芸術家』も生きていくためには『金』は必要であり、芸術行為が『金』になるなら、それに越したことはありません。

結果的に『金儲け』ができる『芸術家』は幸運な人であり、『金儲け』ができない『芸能人』は不幸な人と言うことになります。

人類の歴史に中で『芸術』と良好な関係を築いてきたと言えるのが『宗教』ではないでしょうか。『神仏を讃える』『霊を弔う』などという『精神世界』の情感を、『芸術家』の『信仰心』が表現し、『信者』はそれに『共感』して、結果的に『宗教』の基盤が強固なものになりました。『宗教』が本当に『芸術』の本質を理解していたかどうかは分かりませんが、結果的に『宗教』と『芸術』は、相互依存の関係を築いてきたことになります。

『芸術』の本質を理解しない『政治権力者』が出現すると、『政治』と『芸術』の間に深刻な問題が生じます。『政治権力者』は、自分の価値観で不都合と判断する『芸術』は弾圧の対象にし、都合が良いと判断する『芸術』は庇護の対象にしようとします。言葉を換えれば、『芸術』は『政治』の手段となり、『芸術の政治的統制』が始まります。

| | コメント (0)

2019年11月14日 (木)

『芸術』の政治的統制(3)

『群をなして生きる』ことを選択した『人間』にとって、『絆』が群のなかにおける『安泰』を確認する重要な要因になりました。『同窓会』『趣味の仲間の集い』『信仰の仲間の集い』『親しい老人の集い』などに、私たちが惹きつけられるのは、このためです。その場に身を置けば、『自分は一人ではない』という実感が得られるからです。

自分が帰属する『コミュニティ』に愛着を持つのも、『絆』の確認に起因する習性です。

『国のために身を捧げる』ことを『愛国心』と定義すれば、『道徳教育を強化して愛国心を高める』などの発想になるのでしょうが、『愛国心』は自分が帰属する『コミュニティ』への愛着であると定義すれば、ほとんどの日本人は本能的に『愛国心』を保有していることになりますから、『道徳』などを持ち出す必要はありません。

『オリンピック』や『ワールド・カップ』で『日本』が勝ち進めば、多くの日本人は熱狂します。

梅爺が現在でも『男声合唱』を続けているのは、『歌うことが好き』『より高いレベルの表現を実現できた時の満足感』もありますが、単純に『絆』の確認が大きな要因になっています。

『人間社会』で『芸術』が成立するには、基本的に『創造者』と『鑑賞者』の存在が必要になります。

もともと、『群のなか』で、『自分が考えていること、感じていること』を何としても表現したいという本能が、『創造者』の動機になっています。一般論でいえば『人間』は誰もが『創造者』の資質を保有していると言えます。

やがて特別に仲間の注目を集める『表現』をする人が現れ、それが『芸術』の『創造者』の原点となったのでしょう。

仲間が『注目』したのは、『創造者』の『表現』に触発されて、仲間の『精神世界』が『感動』や『共感』を覚えたからです。この仲間の体験が『鑑賞者』の原点になりました。

『芸術』は、『創造者』の能動的な『表現』が、『鑑賞者』の中に受動的ながら、今まで体験したことがない新しい『感動』『共感』を誘発し、両者の間で深い『絆』が確認されるといった行為を意味します。

『芸術』は、肉体的な空腹を満たしたり、寒さから身を守る手段にはなりませんが、『心』の渇きをいやすという高度な『絆』の確認を実現します。

『肉体的な安泰』『精神的な安泰』を、車の両輪のように必要とする『人間』にとって、『芸術』は何故必要とされるのかがお分かりいただけたでしょうか。

ただし『芸術』は、高いレベルの『絆』の確認を追い求めますから、そのようなことに興味を示さない、『名作』『名曲』『名画』などに無関心な人たちが存在するのも、当然のことです。その人たちは、低俗な娯楽で『絆』を確認していることになります。人間の『精神世界』は『個性的』であるからです。

高いレベルの『絆』を求める人が、どのくらいの割合で社会に存在するかが、その社会の成熟度の目安になります。文化の進化は、高いレベルへ移行することであるからです。

| | コメント (0)

2019年11月13日 (水)

『芸術』の政治的統制(2)

『芸術』が何故『人間』にとって重要な意味をもつかは、『安泰を希求する本能』が『人間』を支配していると考えないと見えてきません。

勿論、『人間』だけでなく、あらゆる『生物』は、『安泰を希求する本能』に支配されています。『生物進化』の過程で、『個』や『種』の生存確率を高めるために、最も重要な要因であったからです。『安泰を希求する本能』の資質を強く保有する遺伝子をもつものが、生き残ってきたと考えられます。『人間』は、その資質を継承しているに過ぎません。

『脳』の進化で、高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』は、『心身ともに健やか』が『安泰』の要件になりました。つまり、『肉体の安泰』『精神の安泰』を両輪のように必要とする存在になりました。

もっとも、『イヌ』や『ネコ』も、急激な環境の変化がストレスになって、『病気』になるところをみると、『人間』と同じレベルではないにせよ、何らかの『精神(心)』』を保有していると推測できます。

『生物進化』を考えれば、『人間』だけが『精神』を保有していると考える方が不自然です。ただそのレベルが大きく異なるということなのでしょう。

もう一つ、『芸術』を考える時に重要な要因は、『人間』が生物として『群をなして生きる』という方法を選択したことです。

『群をなして生きる』ことを選択したのは、生物として『人間』だけではありませんが、高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』にとって、『群をなして生きる』は『個だけで生きる』のとは異なった『資質』を求められることになりました。

一般論としては、これは『人間』だけの問題ではなく、『群をなして生きる』生物にとっても共通の同様です。

『人間』の高度な『精神世界』は、『群をなして生きる』上で、『人間』独特の『資質』を獲得、継承していくことになりました。

ここでも『安泰を希求する本能』が強く働きました。『群』の中で『安泰』が脅かされるのは『仲間はずれ』にされてしまうことで、何としても『自分の存在を仲間に認めてもらう』ことが必要になりました。

そのために『他人がどう考えているか、どう感じているか』を『知る』ことと、『自分がどう考えているか、どう感じているか』を他人に『知ってもらう』ことが重要なカギを握ることになります。

『コミュニケーション』能力は、このようにして養われて行きました。『言葉』『言葉以外の表現(音、絵、造形)』『顔の表現』『身体のジェスチャー』などあらゆる手段が『コミュニケーション』のために駆使されました。

私たちが現在でも『絆』にこだわるのは、この基本的な『資質』を継承しているからです。『絆』を確認することは、『群のなかのでの安泰』を確認することです。

『孤独』や『仲間はずれ』が、『人間』にとって大きなストレスになるのはこのためです。

| | コメント (0)

2019年11月12日 (火)

『芸術』の政治的統制(1)

『芸術』の政治的統制は、『好ましくない』と多くの日本人は答えるでしょう。

『統制』という言葉が秘めるネガティブなニュアンスに反応して、直感的に『好ましくない』と感ずるからでしょう。『自由』は『好ましい』と答えるのも同様な反応ではないでしょうか。

『芸術とは何か』『人間は何故芸術を必要とするのか』や、『人間社会に何故統制は必要なのか』などを、深く考察して『理』で『好ましくない』と答える人は、意外に少ないに違いありません。

『芸術の政治的統制』について、理屈っぽい議論はあまり意味がないのではないか、大体『芸術』は人間社会の共有『文化資産(遺産)』であって、無形の価値は高く評価されるべきであり、保護して後世へ継承していくのは『当たり前』ではないかと、おっしゃる方もおられるでしょう。

現代の日本社会で、『芸術の政治的統制は好ましくない』と『考え方』が『当たり前』のことという『主観の共有』として根付いていることに梅爺は異を唱えるつもりなどありません。結論的にいえば、梅爺も『好ましくない』と判断しますので、この『主観の共有』は健全であると思います。

日本人が歴史的に育んできた『伝統』の『受け止め方』、『民主主義』を採用して『基本的人権』を尊重しようとしてきた姿勢、『玉石混淆』の多様な『芸術』に接して、『石』と『玉』を見分ける鑑識眼を保有するようになったこと、『芸術』が精神的満足に関係していることを実体験していること、などが相まって『当たり前』という『主観の共有』が醸成されているのでしょう。

しかし、世界中の国が、日本と同じような『当たり前』を保有しているわけではありません。

『人間』は『肉体的な安泰』と『精神的な安泰』の双方を希求する生物ですが、『精神的安泰』の価値など認めない体制の国家では、『芸術』は、『国威発揚』や『愛国心涵養』の手段程度にしか過ぎず、政治リーダーにとって『好ましくない』芸術表現は統制の対象になります。

現在でもそのようなことが行われている国は、少なからずあります。

| | コメント (0)

2019年11月11日 (月)

『人間』と『自然』の乖離(8)

現在75億人に達した、地球上の『ホモ・サピエンス』が、『快適』『便利』な生活を求めて、地球資源をむさぼるように消費するようになると、それは地球環境の『平衡状態』を変える要因にもなりえます。そしてそのことが『人間』にとって不都合な状態を惹起する要因にもなるという可能性を秘めています。

現在進行している『地球温暖化』の現象は、全て『人間』の所業に由来するものとは断定できないにしても、全く関係がないとも断定できません。

将来のことより、目先のことを優先してしまうという『人間』の習性が、結果として不都合な将来をおびき寄せてしまうことになりかねません。目先より将来を優先するという判断には、『理性』を必要としますが、人類全体の現状の対応は、残念ながら『理性的』なレベルには達していません。認識に『甘さ』があると言いたくなるのはこのことです。

『人間』の『自然』に対する勘違いの二つ目は、『自然』を自分の外に存在する『別世界』と観ていることです。このエッセイの『人間と自然の乖離』などという表現が、端的にそれを表しています。

梅爺がブログに書いてきた『物質世界』は『自然』『宇宙』のことですが、『人間』の肉体や『生命活動』は、すべて『物質世界』に包含される事象です。この視点で観れば『人間』は『自然』の一部で、『誕生』『生きる』『死』は、摂理に支配される『自然』界の『変容』の一部に過ぎません。人間の肉体を構成している素材は『自然』界の当たり前の素材に過ぎず、生命の維持は全て『摂理』に支配されています。

『人間』は『自然』の一部なのですから、『乖離』などできるはずがありません。『人間』の所業が『自然』の『平衡状態』に影響を与えるのも当然のことです。現代の科学知識がもたらした、『人間は自然の一部に過ぎない』という認識を、私たちはもっと重視すべきです。近世以前の人たちとは、違った意味で、私たちは『自然』に畏敬の念を持つべきです。私たちは『自然』によって『生かされている』のですから。

それでは、何故私たちは『自然』を、自分たちと対立する存在とみなすのでしょう。それは、『人間』の『精神世界』がもたらす認識であるからです。

『精神世界』は、『自分』と『自分以外』に分けて、物事を観ます。『自分』は特別な存在であり、『自分』の力や能力で『生きている』と思いがちです。こう考えると、『自然』は『自分以外の別世界』になり、対立する存在になってしまいます。

しかし、生物としての『人間』は、『自然』の一部にすぎないというのが実態です。『自然』と『共生』すべきであるなどと言う主張は的外れで、『共生』しなければ生きていけない存在なのです。私たちの腸内には、700兆個と言われる『腸内フローラ(微生物)』が『共生』しています。

『人間』や『人間社会』の事象を、『物質世界(自然界)』『精神世界』の両面で観る必要があると、何度もブログに書いてきましたが、今回もその意を強くしました。『精神世界』は『人間』の特徴を見極めるために重要ですが、それだけで判断すると、全体を見間違うことになりかねません。

| | コメント (0)

2019年11月10日 (日)

『人間』と『自然』の乖離(7)

近世以降の『人間』は、『自然』を能動的に利用できる対象と観るようになりました。

『自然』の摂理や資源を利用して、『自然』界には存在しない『モノ』を多数生み出し、それを『便利』『快適』を実現する道具として使い始めました。

中世以前の『人間』、鉄を『刀』に変え、木材を『家』や『馬車』に変えていたという点では同じですが、近世以降の『自然』利用のレベルと量は、圧倒的な違いと言えます。

結果的に、近世以降『人間』は『自然資源』をむさぼるように消費し始めました。

私たちは、『自然』を『畏敬の対象』というより、『利用できる対象』と考えるようになったということです。

ある意味で『自然』に対して『不遜』になった『人間』の重大な勘違いが二つあるように思います。

一つは、『人間』の過度の行動が、『自然』の平衡状態を変える要因になりえることの認識の甘さです。『地球(自然)』の環境は、『ホモ・サピエンス』が出現して以来、約20万年間、幸いなことに『ホモ・サピエンス』が、生息できる環境(平衡状態)を継続しています。これは『物質世界』の本質を考えれば、『必然』的なことではなく、むしろ『偶然の僥倖』と言う方が適切です。

『地球環境(平衡状態)』』が、いつまでも『ホモ・サピエンス』にとって都合の良いものである保証など何もありません。

『人間』の視点で『地球』の歴史を観ると、現在の『環境(平衡状態)』が出現したのは、『偶然の僥倖』の連鎖であることが分かります。

『太陽(恒星)』からの距離が『ハビタル・ゾーン』と言われる場所に軌道が定まり、液体の『水』が存在可能な『岩石惑星』として誕生したこと、多量の『水』を保有するようになったこと(この理由は確定できていない)、内部の『マントル』が自転軸にそって回転し、『地磁気』が生じて宇宙からの有害な宇宙線(放射線)を、遮蔽するようになったこと、大気が存在し、後にその大気に『酸素』が多量に含まれるようになったこと、など全て『偶然の僥倖』』としか言いようがありません。もし、一つでも条件が異なっていたら、『地球』に『生命体』が出現することもなく、当然私たちも存在していなかったことになります。

『偶然の僥倖』の連鎖は、『神』が『人間』のために用意してくれた『意図』であるという主張には無理があります。『物質世界』の絶え間ない『変容(動的平衡移動)』は、『摂理』によるもので、唯一『摂理』の存在は『神』の『意図』と言えそうですが、『摂理』は『人間』にとって不都合なことが起こる要因でもありあすので、『愛』や『慈悲』の象徴である『神』と関連付けるのには無理があります。

『物質世界』に何故『摂理』が存在するのかは、現代科学も『分からない』ことです。多分『科学』にとって最大の難問の一つと言えます。

現状において『物質世界』を説明するのに、『神』は必要でないように見えます。

『天地創造』は『神』の御業という説明も説得力を持ちません。

| | コメント (0)

2019年11月 9日 (土)

『人間』と『自然』の乖離(6)

『人間』の『自然』に関する観方が、近世以降、それ以前の時代と変わってきたのは、これもまた『主観の共有』内容が『変容』しつつある事象と観ることができます。

このエッセイの著者が、その『変容』を『乖離』と観るのは、以前の関係は『親密』であったものが、『疎遠』に変わりつつあると感ずるからでしょう。

これは、『科学』が、『人間』にとって『摩訶不思議で神秘な存在』であった『自然』を、『冷徹な摂理(ルール)で絶えず変容する物質の集合体』という味気ない認識に変えてしまったことに由来するものと梅爺は考えます。

『自然』の『変容』には、『人間』の『精神世界』にとって重要な意味を持つ『あるべき姿』『目的』『意図』などという概念は含めれていませんし、同じく『人間』の『精神世界』では重要な役割を果たす『情感』も存在しません。『崇高な日の出』は、あくまでも『人間』の『精神世界』の認識であって、『自然』にはただ『日の出』という事象が『変容』の一つとして存在するだけです。『恵みの雨』『息を呑む絶景』『妖しげな闇夜』なども同じです。

当然ながら、『人間』の『精神世界』では重要な行為である『願う』『期待する』『祈る』も『自然』には通用しません。『加持祈祷』で、『台風の進路』を変えたり、『地震』の発生を食い止めたりはできません。

『自然が突然牙をむいて襲ってきた』などと言われるのは、『自然』にとっては迷惑な話になります。『自然』には『人間』を喜ばせようとか、困らせようとかいう『意図』はないからです。

中世以前の『人間』にとって、『自然』は『摩訶不思議で神秘な存在』ではありましたが、時に優しく、時に厳しい『隣人』『友人』といった、一種の『人格』を感じとっていたのではないでしょうか。

したがって、『自然』の中に『人間』へ向けられた『メッセージ』が込められているはずであると『信じ』、それを懸命に読み取ろうとしました。『赤い星』が夜空に現れたら、それは不吉の予兆であるといった『因果関係』としてとらえました。

当然、『人間』の願いを、『自然』に届け、それをかなえてほしいと『祈り』ました。

ところが『科学』は、『自然』は『冷徹の摂理で絶えず変容を続ける物質の集合体』に過ぎず、『人間』の存在などには全く無頓着であることを明らかにしてしまいました。

交際相手が、自分に関心を持ってくれているに違いないと期待していたら、実は関心のひとかけらも持ち合わせていないことを突然知らされたようなものです。

これでは、『人間』の『自然』への思いが、冷めてしまうのは当然のことです。

このエッセイの著者が、『もう一度自然への愛を取戻そう』などと叫んでも、無理な話です。

『科学』は更に、『人間』が『便利』で『快適』な生活をするために、『自然』の摂理や資源は利用できることも明らかにしました。

中世以前の『人間』も、『自然』のもたらす恵みは、『生きる』ために必要と考えていましたが、それは『恵みを受ける』という受動的な姿勢でした。

近世以降『人間』は、逆に『自然』を能動的に利用するという姿勢に一変したことになります。

| | コメント (0)

2019年11月 8日 (金)

『人間』と『自然』の乖離(5)

生物の中で、『人間』だけが保有する『主観の共有』能力は、人類が『文明』を進展させる上で、決定的な役割を果たしました。『神(神々)』『国家』『貨幣』などという、本来抽象概念であるものを、実態として『価値ある存在』として認める、『主観の共有』が出現したからです。

『イヌ』や『ネコ』の世界には、『神』『国家』『貨幣』などの概念を共有する習性は存在しないように見えます。

『主観の共有』は、見ず知らずの多くの人たちが、『結束』できる要因であることが重要なことです。地球上の広域に普及した『宗教』、広域な版図(はんと)を支配する『帝国』、グローバルに通用する『貨幣』などは、『人間』だけが保有するものです。

この『主観の共有』は、『ホモ・サピエンス』が約7~8万年前に、『生物進化』で獲得した『抽象概念の認識能力』によるものであると、『ホモ・デウス』という本の著者は主張しています。『ネアンデルタール』を絶滅に追いやり、ホモ・サピエンス』が地球上の唯一の人類種として君臨するようになったのは、この『抽象概念の認識能力』によるものとこの著者は推論しています。

科学知識を保有しなかった時代の『人間』にとって、『自然』は『摩訶不思議で神秘な存在』であったと前に書きました。

『自然』は、自分たちが生きていく上で、重要な影響力を持つことは、当時の『人間』も認識しましたが、『自然』が時折、『人間』にとって不都合な事態をもたらすことに、困惑したに違いありません。特に『天災』は恐ろしいものでした。

『自然』を支配している『何者』かが存在すると考え、これが『神(神々)』の概念となりました。『宗教』の原点は、この『自然に宿る神(神々)』という概念を、人々が『主観の共有』をしたことであろうと梅爺は思います。『アミニズム』の登場です。

『アミニズム』では、『神(神々)』と『人間』の橋渡し役が必要になり、そのような特殊能力をを保有する人物(シャーマン)が人間社会で重要な役割を果たしました。『アミニズム』は『シャーマニズム』とも表現されるのはこのたです。日本の歴史では『卑弥呼』が、その典型的な『シャーマン』です。

『アミニズム』では、ある種の動物が『神の化身』『神の使い』と考えられました。『白馬』は『神馬』、『白鹿』は森の守り神、『狐』は『稲荷神』と考えられました。そして架空の動物『八咫烏(やたがらす)』は『神の使い手』となり、『竜』は水を司り、火事から家屋を守る『神』となりました。

このような『主観の共有』は、現代の日本にまで一部継承されているのですから、いかに根強いものであるかが分かります。

それでもさすがに現在では、『古代エジプトの神々』『古代ギリシャの神々』『古代ローマの神々』は、人々の信仰の対象で無くなっていますので、『主観の共有』の内容も、永い時をかけて『変容』していくものであることが分かります。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧