2020年1月20日 (月)

詳細な観察と記録(6)

他人が提供する『情報』や『データ』だけに頼らず、自分で『観察』し『記録』することに意味がある、というこのエッセイの著者の主張に、梅爺は全面的に賛同するわけではありませんが、自分が愚直に『ブログ』を書き続けてきたために、『物質世界と精神世界を区別して事象を観る』という方法論を『成果』として獲得できたことを例に挙げて、時間と労力をかけるだけの価値があることは確かにあると紹介しました。

『ブログ』を書かずに、ただ関連の書物を読んでいただけなら、多分『成果』にはいきつかなかったに違いありません。

江戸時代の画家『伊東若冲(じゃくちゅう)』の『鶏』の描写は、細密さと鮮やかな色彩で有名ですが、『若冲』は、庭で『鶏』を飼って、写生を繰り返したと言われています。

『若冲』が他の画家の『鶏の絵』を参考に、描いたりしたら、『鶏』の真に迫った描写はできなかったでしょう。自分で『観察』『記録』することで、得られるものの典型例です。、

要は、『情報』や『データ』は、自分で作成しようが、他人が作成しようが、一度自分の『脳』で咀嚼して、自分で『納得』できるかどうか確かめなさいということなのでしょう。

このためには、『信ずる』『疑う』という一見矛盾する『脳』の行為の間を行き来することが必要になります。人間は生きていくためにこの両方の行為を必要としていることを理解する必要があります。

現代人は、多様な『情報』『データ』を参照しながら生きていますが、その全てを自分で『観察』『記録』して創りだすことはできません。

どうしても、他人が提供する『情報』『データ』を利用することになりますが、その場合でも、鵜のみにせず、一度自分の『脳』で、『疑う』べきか『信ずる』べきかをチェックしてみる習慣をつけるべきでしょう。

トランプ大統領は、自分に都合が悪いメディアの報道内容は『フェーク・ニュース』であると切って捨てますが、本当に『フェーク・ニュース』であるのかどうかの判断は、アメリカ市民や私たち視聴者にゆだねられています。

『大統領がそう言っているのだからフェーク・ニュースである』と単純に『信ずる』市民が多ければ、大統領の再選の確率が高まりますし、大統領の発言内容を『疑う』市民が多ければ、再選は難しくなります。

日本の国会でも、『記憶にございません』などという答弁が多用されますが、『本当に記憶にない』のか『弁明のための逃げ口上』なのかは、私たちが判断しなければなりません。

このように『物質世界』ではなく、人間が絡む『精神世界』の事象を、『観察』『判断』することは容易sではありません。

人間は必ずしも『ホンネ』を口にするとは限りませんし、『ホンネ』を態度で示すともかぎりません。

最近多用される『忖度』は、何か悪いことに加担するような意味にとられがちですが、本来は他人の『精神世界』を洞察することですので、生きるために必要な行為です。 

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2020年1月19日 (日)

詳細な観察と記録(5)

『主観の共有』が人類を高度な文明を築くことができる生物にしたということを昨日書きました。

『地球は球体である』というような、『科学』が『真』とする命題を、人々が『共有』して受け入れることは『客観の共有』で、これと『主観の共有』は大きく異なります。

『主観の共有』は、実態として存在しない抽象概念を、あたかも存在するものとして、更にその存在に『価値』があると人々が『信じて』受け入れることを指します。

『一万円札』は客観的に観れば、一枚の紙きれに過ぎませんが、私たちは、これに『一万円の価値がある』と『信じて』、社会に流通させています。

『正月には初詣に行く』『故人の命日には法要をする』『節分には豆をまく』などは、『主観の共有』が、生活に根付く『習慣』となってしまっているものです。

『主観の共有』は、良いことばかりを人類へもたらしたわけではありません。

異なったコミュニティが、異なった『主観の共有』をそれぞれ保有して対立する時の深刻な問題が存在します。

『キリスト教文化圏』と『イスラム教文化圏』の対立、『民主主義』と『社会主義』の対立などがそれに当たります。

人類は、この問題の普遍的な解決方法を見出していません。誰もが『平和』を願いながら、人間社会から『戦争』が無くならない一つの原因にもなっています。

『個人』間、『国家』間、『宗教』間、『イデオロギー』間の対立は、いずれも『私は正しい、あなたは間違い』という論法では解決できません。『違いを認めない』ということに固執すれば、必ず不幸な結果を招きます。

しかし『主観の共有』が根強いものであればあるほど、対立は深刻になります。自分は『正義』、相手は『邪悪』とののしりあい、ついには相手を『抹殺』しようとします。

『主観の共有』のもう一つの問題は、コミュニティのリーダーが、コミュニティの中を、自分に都合良く一色にするために、『主観の教養』をメンバーに強いることがあることです。

本来『主観の共有』は、個人が自発的に『信ずる』ことで成立するものですが、この場合は、『信ずる』ことを強いられることになります。

『独裁者』による『恐怖政治』などが、このパターンです。本心では『信じていない』ことを、コミュニティの中では『信じている』ように振舞わないと、命が保障されないというような状態になります。

更に『洗脳』によって、『本当に信じている』状態へ変えられてしまうこともあります。

北朝鮮の国民が、どの程度の割合で『洗脳』されてしまっているのか、どの程度の人たちが、『信じている』ふりをして我慢しているのか、梅爺はわかりませんが、いずれにしても、コミュニティが永続的に『一色に染まる』という状態は、人間の本性を考えると、不自然な体制であるように思います。 

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2020年1月18日 (土)

詳細な観察と記録(4)

『物質世界(宇宙、自然界)』は、多様な事象に満ち溢れていて、人類はその全てを理解できているわけではありません。

しかし、その本質は、それほど多くない『条件』として記述できます。

(1) 宇宙誕生時に出現した、有限の種類の『素粒子』を素材とする物質しか存在しない。勿論、『人間』の肉体も例外ではない。
(2) 絶えず『変容』している。『変容』は『動的平衡移動』で、空間の物質分布密度に違い(ムラ)があると、それを解消しようとして始まる。『変容』を支配している普遍的な『摂理(ルール)』が存在する。『摂理』に反する事象は『物質世界』に存在しない。『摂理』の全てを人類は解明できていないし、そもそも何故『摂理』が存在するのかもわかっていない。

(3)『変容』には『理想』『目的』『あるべき姿』などという概念は適用できない。これらの概念は『精神世界』が生み出したもので、『精神世界』だけでしか通用するものである。

何やら難しいことを述べているようですが、煎じつめれば『物質世界は有限の素材だけでできていて、摂理に支配された目的のない変容が続いている』というだけのことです。

仮に将来『宇宙人』が発見されたとしても、『宇宙人』の身体は、ありきたりの素材(元素)でできているでしょうし、その生命活動も『摂理』に支配されているという推測が成り立ちます。更に、もしも『神』が天空のどこかに存在しておられるとしたら、『神』もありきたりの素材でできていて、『摂理』の支配を受けているという推測になります。『神』の活動を支える『エネルギー源』は何かを明らかにする必要もあります。。

『物質世界』に実態としての『神』は『存在しないだろう』と梅爺が考えるのはこのためです。『物理世界』に支配されている『神』が、『天地(部室世界)を創造した』などという論理は成り立たないからです。

『神』は人間の『精神世界』が創造した『虚構』の概念であると考えれば、矛盾は無くなります。人間は『神』だけでなく、沢山の『虚構』の概念を創造し、それを社会のメンバーが『主観の共有』として継承してきました。

生物の中で、群(社会)の『主観の共有』という能力が、大きな役割を果たすのは『ヒト』だけです。『神』『国家』『貨幣価値』などが『主観の共有』の代表例です。実態のない概念であるにもかかわらず、あたかも存在して『価値』を有すると、群のメンバーが『信じて』結束する力になってきました。見知らぬ他人が結束して、『宗教文化圏』『大帝国』などを築くことができたのは『主観の共有』があってのことです。

人間の肉体が『個性的』にできているように、『精神世界』も基本的には『個性的』です。同じ事象に遭遇しても、一人一人『考え方』『感じ方』『価値観』は異なります。

この人間の『精神世界』が『個性的』であることの意味も重大なのですが、その個性的な人間が『社会』を構成した時に、『主観の共有』で、『個性的』であることを放棄して、『一つにまとまる』ことができるという、一見矛盾した能力を発揮します。

『ヒト』という生物を理解する上で、これは重要なことになります。

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2020年1月17日 (金)

詳細な観察と記録(3)

梅爺が『心象を書き続ける』ことで得られた『成果』は、世の中の事象を『物質世界』『精神世界』に分けて観ることで、多くのことが判然と見えてくるということを『知った』ことです。

勿論、突然このような『成果』を得たのではなく、色々な事象を別個に論じている内に、その相関関係や因果関係に気づき、全体像が見えてきたという話になります。

『スティーブン・ホーキンス博士』が人類の究極の疑問として、『私たち(人間)はどこから来たのか』『宇宙はどのように始まったのか』の二つを挙げていますが、梅爺の最初の『好奇心』の対象も、『生命』『脳』『宇宙』でした。もちろん人類が継承してきた『文明』『哲学』『宗教』『芸術』『イデオロギー』『科学』にも興味がありました。

梅爺の能力では、詳細に理解できたとは言えませんが、『宇宙の始まり(特異点、インフレーション、ビッグバン、素粒子の出現)』、『宇宙の膨張(恒星、惑星、衛星、銀河、ブラックホール、ダークマター、ダークエネルギー)』、『素粒子を対象とした量子力学』、『生命体の出現』、『生物進化』、『細胞』、『ミトコンドリア』、『脳』について、基本的な知識を習得し、その『本質的な意味』を自分なりに、把握し自分の頭の中で、少しづつ『関連付け』ができるようになりました。

その結果、『自然界で起きている事象』をまとめて『物質世界』の事象とし、人間の『脳』の中で起きている『思考』『推論』『判断』などの活動を『精神世界』の事象として区分することに意味があることに気づきました。

人間の『肉体』『脳』は、『物質世界』に属し、実態ある『モノ』として存在します。『肉体』『脳』『生命活動』は、『物質世界』の『摂理(ルール)』に支配されていますから、『摂理』が適応できなくなったときに、『生命活動』は終焉(死)を迎えます。

『生命活動』をしている『脳』は、独自の『仮想世界』である『精神世界(心)』を作り出します。その意味で『精神世界』は『物質世界』の支配下にあり、地続きといえます。

つまり、『生命活動』が死を迎えた時に、連鎖的に『精神世界』も消滅します。『精神世界』が存在しなくとも『物質世界』は存在しますが、『物質世界』が成り立たない状況では『精神世界』は存在できません。

『神仏』『あの世(天国、地獄)』『死後の霊』などが、存在しないことを論理的に証明することはできませんが、少なくとも『物質世界』の支配下で、そのようなものが実態として存在するとことを考えるには無理があります。存在するとしたら『素材』『エネルギー源』などの解明が可能ということになるからです。『物質世界』の支配下にある『神』が、天地の創造主(『物質世界』を創った)であるという論理にも矛盾が生じます。

梅爺は『神仏』『あの世』『死後の霊』は、人間の『精神世界』が創りだした『抽象概念』であろうと考えました。人間の『精神世界』でのみ意味を持つ概念で、人間が地球上からいなくなれば、これらの『抽象概念』も消滅して無くなると考えています。

『物質世界』は、『神』の存在を想定せずに、全て説明できると『スティーブン・ホーキンス博士』も言っています。

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2020年1月16日 (木)

詳細な観察と記録(2)

私たちは『脳』を駆使して生きていますが、『脳』の仕組みについては良く理解できていません。

梅爺は『薔薇』という漢字は『読めます』が、突然『薔薇という漢字を書きなさい』と言われたら『書けません』。英語の文章はかなりのレベルで『読めます』が、ネイティブな人の話す英語を完全に聴きとることは『できません』し、ネイティブの人のようにスラスラ話すことも『できません』。

実際の『薔薇』をみて『薔薇』と認識することと、『薔薇』という漢字を認識することと、『薔薇』という漢字を書くという行為は、『脳』の中では別であることが分かります。同様に『英語』を『読む』『聴きとる』『話す』は、『脳』にとって全く無関係とは言えませんが、基本的には別の機能が関与しているらしいことが分かります。

この事から、『観察』して『脳』がそれに関する情報を取得することと、それを『絵として描く』こと、『文章として記述する』ことは、『脳』にとっては別の行為であることも分かります。

従って『観察』して『記録』すると、『脳』の異なった機能が使われ、それらの『関連付け』も『脳』が行おうとするのではないでしょうか。

何かを『観察』したり何かを思いついたら『写生』『メモ』すると、『記憶』を強固にするだけでなく、『写生』『メモ』の途中で、また何か新しいことを思いついたり、発見したりしますから、『脳』は相乗効果的に活性化することになります。

野球の監督や選手が、ベンチの中で『メモ』をとったりしていますが、経験則でそれが将来『役立つ』ことを知っているからなのでしょう。

『観察』して『記録』することを、繰り返していると思わぬ『成果』を得ることができるということを、梅爺は10年以上『ブログ』を書き続けることセ体験、実感してきましたから、この著者の提言には異論がありません。

梅爺は『ブログ』を書き始める時に、『今日どこへ行った』『誰と会った』『何をした』『何を食べた』などという日記風の記録は、原則として『書かない』方針を決めました。それらは、自分の記録としては意味がありますが、他人に読んでいただくことには、あまり意味がないと考えたからです。

また、その時ニュースとなった世の中の『できごと』『事件』『災害』なども、『ブログ』の対象にしないことにしました。ニュースの内容をオウム返しで、述べてみても意味がありませんし、いわんや、生半可の情報で『解説』を試みるのは無謀と考えたからです。

この結果、『あなたは世事に興味がないのですか』と尋ねられることがよくありますが、そのようなことはありません。梅爺は人一倍『野次馬根性』の強い人間です。

その代わりに『ブログ』には、梅爺の『心象』を書こうと決めました。梅爺の基本的な『好奇心』の対象を探究してみようと考えたからです、その結果『梅爺閑話』は『難しい』『面白くない』と評されることになりましたが、梅爺にとっては予期しなかった大きな『成果』が得られました。

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2020年1月15日 (水)

詳細な観察と記録(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集103番目のタイトルは『Close Observation and description(詳細な観察と記録)』で著者は英国のコンピュータ科学者『Ursula Martin』です。

著者は、現代人が、他人が提供する『情報』や『データ』に頼って、自分で『観察』や『記録』を行わなくなりつつあることを危惧しています。

他人が提供する『情報』や『データ』を鵜のみにする危険と同時に、自分自身の『思考』を放棄する弊害を指摘したいのでしょう。

主としてこのエッセイは『植物学』といった『科学』の分野を例に挙げて述べています。

梅爺は、『分からないこと』に遭遇すると、すぐ『Google 検索』を利用しますし、『植物学』に至っては全くの音痴で、庭の雑草の名前も言い当てることができませんから、この指摘には『畏れ入りました』と申し上げるほかありません。

近世までの『植物学』『昆虫学』ではなど、植物や昆虫に魅せられた学者が、拡大鏡を持参して『フィールド・ワーク』を行い、観察結果を詳細に『写生』し、気づいたことや疑問点を文章にして残しました。

その成果は本として出版され、学者ではない普通の人たちも、それを興味を満たす素材として利用していました。

このエッセイの著者が所有するその頃の『植物図鑑』の、最初の所有者は、19世紀の好奇心あふれる女性であると書いてあります。

有名な『ファーブル昆虫記』なども、このようにして生まれました。昆虫好きの人たちによって今でも読み継がれています。

『自分で観察し記録する』には、時間や労力を要しますし、その時間や労力に見合う『見返り』があるという保証はありません。

しかし、『観察』や『記録』のプロセスで、その人の『精神世界』がフルに活動していることに意味があります。

そのプロセスの中で、新しい好奇心や疑問点が喚起されたり、幸運な発見もあり、確かな記憶として残ることにもなります。

『ダーウィン』は、『種の起源』を執筆する前に、膨大な数の『動物』『植物』を『観察』し自ら写生を行うと同時に、文章の『記録』を行いました。

当時写真技術が現在のようなものではなかったこともありますが。自ら『観察』『記録』を繰り返すことで、自分が思いついた『生物進化』の『仮説』に、矛盾する事象がないことを確認し、自信を深めていったのではないでしょうか。

現代では『植物図鑑』を購入して、それを飽かず眺めることで興味を満たすというような人が減りつつあります。

どの分野も、高度な専門知識がないと対応できなくなり、庶民は、自分で対応することをあきらめ、『専門家』に任せれば良いと考えるようになったからでしょう。

庶民は自分が利用している『パソコン』『スマホ』『高画質テレビ』の内部で、どのように高度な技術が使われているかを『知りません』し、興味の対象にもしていません。

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2020年1月 5日 (日)

物質文明の発展が抱えるパラドックス(6)

人間にとって『快適』『便利』は、『安泰を希求する本能』をみたすものですから、『物質文明の発展』は、当然起こりうることです。

『科学』が発見した『自然の摂理』を利用して、『快適』『便利』をもたらす、自然界には存在しない『人工物』を創り出し、『人工物』そのもの、またはその『人工物』を利用した『サービス』が私たちに提供されるようになりました。

『自家用車』は『人工物』であり、『新幹線による輸送』は『サ-ビス』です。

『サービスする』は『タダで提供する』ことと理解している日本人が沢山いますが、英語の『service』は『誰かに仕える行為』のことですから、原則としては『対価の支払い』を前提にしています。『無償のサービス』ももちろんあり得ますが、それが主の意味ではありません。教会の礼拝は『神に仕える行為』ですから、『サービス』と表現されます。

古代中国の『陰陽思想』は、物事の本質をとらえているように思います。『表』と『裏』、『長所』と『短所』は対となって内在しているという考え方です。

私たちは、『表』『長所』といった『都合のよい側面』だけに気をとられて、『裏』『短所』を見落とすか、見ようとしない習性があります。

『物質文明の発展』の『長所』は、『快適、便利をもたらす』ことですが、『地球資源を枯渇させる』『精神の世界を軽視する』などの『短所』も同時に存在します。

このエッセイの著者が主張する『社会格差(特に所得格差)を増大させる』も『短所』と言えるでしょう。

『長所』だけに目を奪われていて、ある日突然『短所』の存在に気づき、『パラドックス』『矛盾』であると指摘したくなる気持ちは分かりますが、もともと始めから、内在していた両面に過ぎません。

『結婚』『民主主義』に、バラ色の夢を抱いていたら、思いもかけない問題が露呈して、大騒ぎするようなものです。

そもそも、人間の心には、『仏心』と『邪心』が混在していることを考えれば、私たち自身が『矛盾』を抱えた存在です。

『世の中の問題には、必ず正しい答がある』『世の中の事象で矛盾を抱えるものは認めない』という価値観をお持ちの方は、釈然としないかもしれませんが、『矛盾を内包したものの存在を受け入れる』方が、生きていく上で現実的なような気がします。

『物質文明が発展』が『社会格差を増大させる』という副作用をもたらすのは、『パラドックス』ではなくて、もともと内包している『短所』が露呈しただけのことです。

梅爺は『物質文明の発展』がもたらす『短所』としては、むしろ『精神文化が相対的に軽視されるようになる』ことの方が気になります。

『モノ』でえられる『満足』は、『心』の『満足』の全てを満たせません。

『身体』と『心』の両方が健康であって、人は初めて健康といえることに似ています。 

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2020年1月 4日 (土)

物質文明の発展が抱えるパラドックス(5)

『物質文明の発展』で、それまで『富裕階級』しか所有できなった『モノ』『サービス』を、『中産階級』『貧困階級』の人も所有できるようになる現象を、私たちは体験してきました。

梅爺は『富裕階級』ではありませんが、少し前までは『高嶺の花』であった、各種家電、車、情報機器を所有して、時折海外旅行を楽しむようなこともできるようになりました。

『モノ』『サービス』の提供に携わる企業の努力で売価が下がることと、『中産階級』『貧困階級』の所得が、相対的に増えることの相乗効果でこのようなことが起こります。

多くの場合、『技術』『資本主義』『市場のグローバル化』などを基盤とした、右肩上がりの『経済成長路線』が、これらを可能にしていると言えます。

『モノ』や『サービス』の一部が、『コモデティ(市場に普及した標準商品)』になることで、社会の格差は緩和されたと観ることができますが、実はそうはならないと、このエッセイの著者は指摘しています。

『富裕階級』は、『コモデティ』になり難い、希少価値のある『モノ』や『サービス』を今度は所有することを誇示するようになり、新しい格差が生ずるという指摘です。

希少価値の『モノ』や『サービス』は、『高額所得者』『特別の才能を持った人』『特別の地位にある人』しか所有できませんから、結局、新しい社会格差が顕著になるということです。

これを『物質文明の発展』が抱えるパラドックスと言いたいのでしょう。

このエッセイの最初に紹介されているエピソードを例にとるならば、『大型モーターボートを個人的に所有して、家族でクルージングを楽しむ』『ローマ法王に個人的に謁見する』などが、希少価値の『モノ』『サービス』ということになります。

しかし、人類の歴史を眺めてみると、それまでの社会格差がなくなると、新しい社会格差が登場するという現象は、たびたび存在したのではないでしょうか。

何も『物質文明の発展』だけが、このよう現象の要因であるとは言えないような気がします。

いつの時代にも『高額所得者(金持ち)』『特別な才能を持った人』『特別の地位にある人』といった『特別の人たち』は存在し、その社会の環境に応じて、ステータスを誇示することを行ってきたからです。

人間は誰でも、自分のステータスを誇示したいという欲望を保有しているという指摘は、『その通り』と思います。自分の優位性を確認しようとするのは『安泰を希求する本能』が背景にあるからです。

庶民は、『金持ち』『特別な才人』『特別な地位の人』ではありませんから、それらを保有する『特別な人たち』の、ステータス誇示を、指をくわえて、羨むしかありません。

言い換えれば、人間社会には必ず、その時代時代で何らかの『格差』が出現するということではないでしょうか。

行き過ぎた『格差』を是正する『知恵』は、その社会に求められます。

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2020年1月 3日 (金)

物質文明の発展が抱えるパラドックス(4)

『富裕階級』の人たちも、中には『底なしの欲張り』の人が少しはいるかもしれませんが、大半は『あるレベルの所得』で『満足』する習性を持っています。この『あるレベル』の決定を大きく間違わなければ、『富裕階級』の人たちから、高い税率で税金を納めてもらうことができます。

『貧困階級』の人たちには、『生活保護費の支払い』『最低賃金の保障』『免税』などの、社会制度に基づく国や自治体の『出費』が必要になりますが、これを『富裕階級』『中産階級』が納める税金で補填することで、社会の『所得格差』が緩和されます。

北欧の国家は、高い税率で『福祉国家』を維持しています。日本のモデルとは異なりますが、日本はアメリカほど、ひどい『所得格差』の事態にはなっていません。国によって事情が異なりますから、日本は『日本型モデル』を追究する必要があります。

エッセイの著者が危惧していることは、『物質文明』の発展基盤が、いつまでも続かないであろうということと、発展するとしても、社会の『所得格差』は一層ひどくなるのではないかということです。

そして、もう一つ興味深い視点で、『物質文明の発展』を洞察しています。

それは生物が保有する、『自分に都合が良い立場(ステータス)を主張しようとする本能』という視点です。梅爺流にいえば『安泰を希求する本能』ということになります。

オスのクジャクは、羽を広げてメスのクジャクの関心を引こうとします。これが『自分の立場を主張する本能』による行為で、子孫を残すために自分が他のオスより優れていることをアピールするものです。

サルの群れでは、オスのサルたちは、『ボス』の座を巡って争い、一番強いオスザルがその座を射止めます。『ボスザル』はハーレムの王様のように、メスたちに子供を産ませますから、『ボスザル』の遺伝子は種の『遺伝子プール』の一部として継承されますが、争いに負けたオスザルの遺伝子は、子孫に継承されずに消滅することになります。『強い者』『環境に順応できる能力を保有する者』の遺伝子が、子孫へ継承されていくという、これが自然界における『生物進化』の本質です。

『人間』の場合は、基本的に『誰でも子供を作れる』という価値観が社会に根付いていますから、特定の遺伝子だけが、子孫へ強く影響を与える度合いは『サル』のようには強くはありません。これは『生物進化』の変化が表面化しにくいことを意味しています。

『人間』も生物ですから『自分に都合が良い立場(ステータス)を主張しようとする本能』をも有しています。

この本能が『物質文明の発展』とどのようにかかわるのか、エッセイを読んでいて梅爺も戸惑いましたが、著者の主張は以下のような内容です。

『物質文明の発展』で、多くの人が『便利な道具』『快適な環境』を手に入れることができるようになり、『社会の格差』は緩和される様に見えますが、実は『物質文明の発展』では得られない特別なものを、少数の特別な人たちだけが手にする事態が一層顕著になり、『社会の格差』は、更に助長されるという主張です。、

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2020年1月 2日 (木)

物質文明の進展が抱えるパラドックス(3)

『物質文明の進化』と、その成果を『誰もが享受できる状態』は同次元の話ではありません。前者は『科学』が、後者は『社会経済』が主として関与する問題です。

『物質文明の進化』の成果は、最初は一部の『富裕階級』だけが享受し、やがて『中産階級』や『貧困階級』も享受できるように普及していきます。

この事は『中産階級』や『貧困階級』の人たちの『所得』が増えたからというよりは、成果の入手に必要な『価格』が、『中産階級』『貧困階級』でも購入できるレベルに下がったからという理由で起こります。

勿論『中産階級』『貧困階級』の『所得』を増やすことも重要で、このためには、社会全体の『パイ』を大きくする右肩上がりの『経済成長』が必要という議論になります。仮に『パイ』の拡大が見込めない時に、『富裕階級』の『所得』を削って『中産階級』『貧困階級』へ分配するという考え方も理論的には存在しますが、現実にそれを実現させることは困難です。なぜならば、『富裕階級』の『所得』が多い背景には、『能力』『創造力』『努力』に対する『対価』という側面があり、これを認めないとすると『個人の権利の侵害』となるばかりか、社会全体の『パイ』を大きくする意欲を削ぐことになりかねないからです。社会全体の『パイ』を拡大することに、『富裕階級』の活動が大きく関与しているという実態も無視できません。

これが顕著になっているのが『アメリカ』で、1%の『富裕階級』が、『パイ』の99%を所有していると言われています。

『民主主義』『資本主義』『自由経済』は、このような極端な『所得格差』をもたらすことになりかねないことを示しています。

社会が『個人』の『能力』差を認めると、高い『能力』の人が高額な『所得』を得ることに反対しがたくなります。『著名なスポーツ選手』『人気の高い芸能人』などの『所得』は、『中産階級』の人の感覚からすると、度はずれに高額になりますから、『本当にそんな高額な所得に値するのか』と内心は思いながら、『でも自分にはあのような能力はない』とあきらめ、『別世界の話』と渋々認めることになります。

『中産階級』の人は、必ずしも100%満足しているわけではありませんが、社会の中で自分は『平均』に位置していると考え、『上を観ればきりがない、下を観てもきりがない。現状で良しとしよう』と自己肯定する習性があります。人間も生物として『安泰を希求する本能』を根強く継承していまから、『大満足』でなくても『まあまあの満足』を受け入れようとするためです。

このように『中産階級』は、『大不満』を抱いて爆発する危険性が少ない人たちですから、国家の為政者にとっては、国民の大半に『自分は中産階級である』と思わせる政策が功を奏することになります。

日本は、『民主国家』で、『個人の基本的権利』を認めていますから、『自由が焼く圧されている』というような『大不満』の爆発は抑制されている上に、国民の大半が『自分は中産階級である』と考えていますから、国家としてはまずまずうまくやっている部類に入るのではないでしょうか。

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