2019年11月22日 (金)

江戸の諺『親の面(顔)に泥塗る』

江戸の諺『親の面(かお)に泥塗る』の話です。

子供の不祥事で、親が世間に対する面子を失うという意味で、現在でも使われる表現です。逆に親の不祥事で、子供が世間から後ろ指を指させるということも起こります。

法的には、親子といえども独立した人格で、連帯責任を負う必要はありませんが、世間はそのように割り切った対応はしないのが通常です。

子供が不祥事を起こせば、親は世間に『申し訳ない』と謝罪し、世間は『親が甘やかして育てたことの因果』などと、憶測の『因果関係』を考え出して、親を糾弾します。

独裁者が支配する国家などでは、家族から一人でも『反逆者』が出れば、一族郎党全てを連帯責任で処刑するような、非道が見せしめとして行われたりします。

親子は、遺伝子的に近い関係にありますから、相対的に『似る』確率は高いと言えますが、『同じ』とは言えません。人間は生物として宿命的ん『個性的』に生まれてきます。

生まれつきの遺伝子の影響ばかりか、生後の生育環境も、『脳神経細胞ネットワーク』の形成に影響しますから、親子といえども『考え方』『感じ方』は『同じ』にはなりません。

親が期待するように子供は反応せず、子供が期待するように親も反応しません。

親子は他人同士より、強い『情感』で『絆』が形成されますので、他人同士なら『我慢』で済まされる『違い』が、そうはいかなくなり、深刻な愛憎劇に進展したりします。

私たちは、人間は一人一人『容貌』『体格』『能力』が異なっていることは、経験や体験から知っていますが、『考え方』『感じ方』『価値観』も異なっているとは、なかなか思い至りません。他人も自分と同じように『考え』『感じ』『判断している』と勝手に勘違いしてしまいます。

そして突然『違い』を突き付けられると、『愕然とした』『裏切られた』などと、相手を非難したりします。

更に、私たちは自分の『考え方』『感じ方』『価値観』が、『正しい』『最高のレベル』と思いがちです。つまり自分のレベルで相手を観ようとします。

『考え方』『感じ方』『価値観』は、目に見えませんので、このようなことになります。

世の中には、自分の『考え方』『感じ方』『価値観』をはるかに凌駕する高いレベルの『他人』がいるのであろうと『類推』できる人は、器の大きな人です。このような人は、他人に『畏敬の念』をもって接しようとします。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』と言われるように、高いレベルの人ほど、自分を高く評価しません。

逆に、低いレベルの人ほど自分を高く評価しがちです。残念ながら、世の中にはあまり高くない自分のレベルで『傍若無人』に振舞う人が沢山いるのはそのためです。

人間や人間社会を理解する上で、人間は『個性的』に生まれつくという事実は、私たちが考えている以上に大きな影響力を持っていると梅爺は感じています。

世界中の人たちが、この意味を深く知れば、人間社会の争いの多くは、なくなるはずです。自分とは異なった『他人』と共存する以外に、私たちには選択肢がないということなのですから。 

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2019年11月21日 (木)

江戸の諺『男はあたってくだけ』

江戸の諺『男はあたってくだけ』の話です。現在でも『男ならやってみろ』『男は度胸』などと、『男』の奮起を促す表現はあます。

世の中の『大事』は、『男』の役割で、『女』は『内助の功』で『男』に従うものという、社会の通念(主観の共有)があった江戸の時代では、特に『男』の『潔(いさぎよ)さ』は『粋(いき)』とみなされたのでしょう。

そうはいってみても、そのような『圧力』に耐えねばならぬのは大変なことですから、『男はつらいよ』と言いたくもなります。

人間の『精神世界』の特徴の一つが『推論能力』で、その能力を駆使して『予測』を行います。目の前の近い将来については、他の動物も『予測』することはあるのでしょうが、人間は遠い将来までも『予測』の対象にします。

『推論』は『因果関係』を想定することが前提になります。普遍的に矛盾のない『因果関係』を『物質世界(自然界)』の事象の中に見出そうとするのが『科学』です。その普遍的な『因果関係』は『自然の摂理(ルール)』と呼ばれ、『科学』の世界では、『予測』はこの『摂理』だけを用いて行われます。単純な要因で、『因果関係』を論ずることができるケースでは『科学』は、かなり正確に『予測』できますが、それでも『自然界』の事象は、非常に複雑で多様な要因が絡みますから、『科学』といえども、正確な『予測』ができないことが大半です。『台風の進路』『地震の発生』『火山の爆発時期』などを、現在の『科学』レベルでは正確に言い当てることはできません。

一方、人間の思惑や価値観が絡む、世の中の事象を『予測』するのは、『自然界』の事象の『予測』よりもさらに難しくなります。

私たちは、懸命に『予測』を試みますが、現実には将来を正確に見通すことが『できない』という矛盾を抱えて生きています。言葉を変えると、私たちは『こうあってほしい』と将来について、『夢』『期待』『願望』を沢山抱きますが、『そうなる』という保証のない状況で生きていることになります。

私たちが『夢』『期待』『願望』を抱くのは、『安泰を希求する本能』が根底にあるからです。そしてそれらが実現してほしいと、自由奔放に考え出した『因果関係』を駆使して『予測』をします。多くの場合この『因果関係』には『科学』のルールのような普遍性はありません。自由奔放に考え出した『因果関係』は、自分に都合のよい『屁理屈』に過ぎないことが大半です。『あの娘が、私を流し目でみたから、きっと私に気があるに違いない』などという『予測』をすることになります。

現実には、私たちは将来を正確に『予測』することはできません。したがって、何か問題にぶち当たった時には、『挑戦する』『何もしない(現状に耐える)』『逃げる』の選択肢しかありません。

『当たってくだけろ』は、その選択肢の中の『挑戦する』ことを意味します。

自分の責任で、どの選択肢を選ぶかは、人間の問題で、『男』に限った話ではありません。『男』にそれを強いるのは、社会の価値観が背景にあるだけの話です。

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2019年11月20日 (水)

江戸の諺『犬の手も人の手』

江戸の諺『犬の手も人の手』の話です。

『猫の手も借りたい(ほど忙しい)』という表現がありますから、これをもじった洒落なのでしょう。『猫の手が人の手の代用になるなら、犬の手もつかえるだろう』と茶化しているのでしょう、

『諺』や『洒落』は、『言葉』を用いた『遊び』です。『人間』は特別に『遊び』を好む動物です。これは高度な『精神世界』を保有していることに由来するのでしょう。

『遊び』は『楽しさを味わいたい』という欲求が背後にあり、いつもの梅爺流に表現すれば『安泰を希求する本能』が根底にあるということになります。

謹厳実直な人は、『遊ぶのは時間の無駄、遊ぶ時間があったら勉強しろ』などとお説教を垂れますが、『遊び』は、人間が無意識に利用している『ストレス解消法』でもあり、必ずしも『無駄』ではありません。

『良く学び、良く遊べ』という表現は、人間の本質を見抜いた名言であるように思います。

特に、子供にとっては『遊び』は、『好奇心を満たすもの』『ルールを学習するもの』『応用知識を増やすもの』『人間関係を知るもの』『情感を豊かにするもの』などの意味があり、大人になるプロセスとして『脳神経細胞ネットワーク』を強化していく重要な意味を持ちます。『遊び』に熱中するのは、健全な子供として当然のことです。

大人にとっても『遊び』は、『息抜き』であり、ストレス解消の手段として有効なものです。面白いもので、『遊び』でストレスが解消されれば、今度は、ストレスを求めて人間は有意義な目的に『挑戦』しようとします。弓を緩めたり張ったり繰り返すのが人生の極意なのでしょう。

『遊び心』をもった大人は、どこか魅力的です。

『スポーツ』は元より『芸術』も、原点は『遊び』ではないかと思います。人間は、これらを高度に様式化して、『スポーツ』『芸術』にまで高めたのでしょう。

『ゲーム』『娯楽』『芸能』に私たちが熱中するのは、『遊び』が人間にとって切っても切り離せないものであることを示しています。

精神状態を『楽しい』状態に保つことは、対応するホルモンが分泌されて、代謝が進み、免疫力が向上するなど、肉体的に良い効果をもたらすことが、医学知識で分かってきました。『笑う』ことは、健康に良いということです。結婚式で、新郎新婦が『笑いの絶えない家を作ります』などと誓いますが、大変重要なことです。人の顔から『笑み』が消えると、何か深刻な問題が起こったりします。

人間は、周囲のものを何でも『遊び』の手段にしてしまいますが、時に『言葉の遊び』は豊富です。

『日本語』の特性を活かして、日本人は沢山の『言葉お遊び』を考え出しました。『しりとり』などは、外国の言語では実現できない『遊び』です。

『アナグラム(文字の位置を変えて異なった意味の言葉に変える)』や『回文(前から読んでも後ろから読んでも同じ文章)』などもありますが、『五七五』『五七五七七』にこだわる『俳句』『川柳』『和歌』『狂歌』なども『言葉の遊び』の典型例でしょう。 

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2019年11月19日 (火)

江戸の諺『背中に腹』

江戸の諺『背中に腹』の話です。

現代でも『背に腹は代えられない』と言う表現は使います。『大事のためなら少々の犠牲は覚悟しなければならない』『他のものでは代用がきかない』というような意味いなります。

もともとは、大切な『腹』を守るためなら、『背』を犠牲にするのは仕方がないということだったのでしょうか。

江戸の諺は、『諧謔精神』に富んでいます。世の中に『代用が効かない』ものは、いくらでもありますが、比喩に『腹』と『背』という、意表を突いたものを持ち出してくるところが、笑いを誘います。諺を、『まじめなお説教』と言うよりは、『偉そうに振舞ってみても、所詮人間の本性なんてやつはこんなもんでござんしょう』と笑い飛ばしているところが、梅爺の好みです。庶民が、人間の本性を鋭く感じとっているところに感心します。

高僧や儒学者が、『人間はこうでなくてはなりませんぞ』などと、いくら奇麗事の『お説教』をしても、庶民は、いざとなれば『背に腹は代えられぬ』のが人間であると、弁えていたのでしょう。

『大事のためなら少々の犠牲は覚悟しなければならない』と言われると、『ごもっとも』と思いたくなりますが、自分にとって『大事』と思い込んでいることが、客観的な視点で観ると実は『些事(さじ:ささいなこと)』である多々あります。

何故このようなことが起こるかと言うと、人間の『精神世界』の価値観の尺度は、個性的であって、『バイアス』がかかっており普遍的ではないからです。

自分を客観視して、自分にとって『大事』は、他人にとって『些事』であることに気づく人は『器の大きな人』です。

『人間』は、『自尊心』や『面子(めんつ)』を、『大事』にする習性があります。

『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があり、周囲から自分が『ひとかどの人物である』と認められることを『願い』ます。それが自分にとって『安泰』であるからです。

したがって、他人から『蔑まされた』『無視された』『子供扱いされた』と『感じた』ときに、立腹のあまり『キレてしまう』人が沢山います。

他人が意図的に『蔑む』行為にでることはないとは言えませんが、多くの場合、それほど深く考えていない行為であったにもかかわらず、『蔑まされた』と『感じて』立腹することが大半です。

『夫婦喧嘩は犬も喰わない』などと言われますが、『夫婦喧嘩』の元の大半は、『自分がないがしろにされた(相手の言動が思いやりに欠けている)』と『感じて』、立腹することから始まります。『そんなつもりはない』と弁明すれば、更に『無神経だ』と火に油を注ぐことになりかねません。他人から見ると、『些事』で『犬も喰わない』ということに他なりません。

人間の『立腹』は、脳内に対応するホルモンが分泌される現象ですが、幸いなことに7秒くらい経つと、沈静化しますので、7秒我慢をすることが、知恵の一つになります。

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2019年11月18日 (月)

江戸の諺『首を長くして待つ』

江戸の諺『首を長くして待つ』の話です。

これは現代でも通用する表現で、朗報が届くのや、待ちわびた人が遠方から訪ねてくるのを、今か今かと心待ちにしている様子が目に浮かびます。

他の生物に優る能力として、『人間』の『推論能力』『予測能力』があります。

『人間』が考え出した『推論』の方法は、基本的に『演繹(Deduction)』と『帰納(Induction)』に区分されます。

『演繹』は、一つ一つの『正しい命題(理論)』を組み合わせて、新しい『正しい命題』を導き出す方法です。ここでの『命題(Proposition)』は、論理を表現した文章のことで、私たちが日常会話で多用する『命題(解決しなければならない問題)』の意味ではありません。

言葉はこのように、本来の使い方ではないにも関わらず、誰かが使い始めて流布してしまうと、一般に通用するようになってしまいます、基本的に言葉は、社会の約束事ですから、そのようなことが起こります。教養のある人は『命題にはそのような意味はない』などと指摘しますが、社会に定着してしまった約束事は、元には戻りません。

『演繹』を手っ取り早く理解するには、『三段論法』を典型例として考えればよいでしょう。

『動物は目を持つ』『人間は動物である』したがって『人間は目を持つ』といった論理展開が『三段論法』です。『動物は目を持つ』と言った表現が『命題』です。

『演繹』の落とし穴は、前提とする『命題』の中に『真』ではないものがあった場合です。上記の例でもし動物の中には目を持たないものが存在するとすれば、結論は『偽』に代わってしまいます。

他人を説得するときに、前提に『偽』の命題をそれとなく挿入して、自分に都合が良い結論を導き出し、それを利用しようとする人がいます。『神仏は人間を愛してくださる』『悪人も人間である』したがって『神仏は悪人も愛してくださる』という『三段論法』は、もし『神仏は人間を愛してくださる』という『命題』が必ずしも『真』でないならば、成立しません。『命題』の『真偽』を自分で判断することがいかに重要であるかが分かります。

『帰納』は、観察事項(事実)に例外がないことを確認して、個別の事例から『一般法則』を導き出す方法です。『Aさんが亡くなった』『Bさんも亡くなった』『過去に亡くならなかった人は存在しない』したがって『人は必ず亡くなる』という結論をえます。

『帰納』の場合、観察事項の『命題』が、一つ一つ納得できるものでなければなりません。一つでも納得できないもの(矛盾を含むもの)があれば結論は『真』とは言えなくなります。

『科学』は『演繹』『帰納』を駆使して、普遍的な『法則』を見出そうとする学問領域です。期待や願いと言った、非論理的要素は、『科学』の世界では通用しません。

しかし、人間の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』に支配されていますので、『推論』『予測』に期待や願いが込められることになります。

『こうあってほしい』と願う故に、『首を長くして待つ』ことになります。

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2019年11月 3日 (日)

江戸の諺『膳の上いっぱいになる』

江戸の諺『膳の上いっぱいになる』の話です。

お膳の上が、余地のないほど色々な料理で満たされているということですから、必要なものが皆そろっている満ち足りた状態を表現しているのでしょう。

『膳いっぱいの料理』で客人をもてなすのが、最上のもてなし方という考え方がどの国にもあるのかどうか知りませんが、中国『西大后』の『満漢全席』などという宮廷料理をみてみると、希少な食材を使って、どうせ食べないものをこのように揃えるのは、いくらなんでも行き過ぎであろうと思います。『権力の誇示』は時に、このような滑稽な『常識』を生み出します。

旅館の夕食で、『膳いっぱいの料理』が出てくると、『これはすごい』と感激したり、自分もこのもてなしに匹敵するいっぱしの『お大人(たいじん)』になったと勘違いして喜んだりしたしますが、人間の食べる量には限界があり、すぐ腹いっぱいになって、『このような夕食を毎日続けていたら身が持たない』などと今度は言い出しますから、人間は身勝手なものです。

人間の『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されていると梅爺は考えています。

ところが、あるレベルで『安泰』が得られると、一時の『満足感』を味わいますが、すぐにまたそれ以上の『安泰』を求めるようになります。

『欲望』は果てしなく肥大化していくことになります。つまり、人間は、いつも『不満の種』を創りだし続けているともいえます。

『釈迦』は、この人間の習性に気付き、『不満の種』の元凶である『煩悩』から逃れない限り、『心の安らぎ(涅槃)』は得られないと考えたのでしょう。

梅爺は凡人なので、欲望はあるレベルで抑制して、それで『満足』であると自分に言い聞かせることは重要と思いますが、、『煩悩を解脱して仏の境地にいたる』ことは、現実に自分には無理なことだと、逃げ腰になってしまいます。

それに、世の中は人間の『煩悩』をうまく利用する仕組みで成り立っていますから、全員が『煩悩』を解脱してしまうと世の中が成り立たなくなるという矛盾もあるような気がします。

生物として『生きる』ためには、『欲望』を満たす必要があり、それを全て『煩悩』として排除すれば、『生きる』ことを放棄するほかなくなります。

『禅僧』も、何も食べずに生きているわけではありません。

『欲望の肥大』を、どのレベルで抑制するかは、その人の『理性』で決まります。普遍的な解答はありませんから、自分でそのレベルを見つけるしかありません。『煩悩の解脱』は、その極端なレベルといえるのではないでしょうか。

現状の『膳の上いっぱい』を、抑制レベルとして受け入れるか、更なる『膳の上いっぱい』を求めるかは、その人に依りますが、誰もが自分なりの『膳の上いっぱい』を求めるのは、人間として自然なことのような気がします。

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2019年11月 2日 (土)

江戸の諺『金のつるにつく』

江戸の諺『金(かね)のつるにつく』の話です。『金づる』という言葉は現在でも使われます。ある人にとって『資金源』となる人(または場所)のことですが、『金づる』に取り付いていれば、労せず金が手に入るというニュアンスが込められています。

『金のつるにつく』は、労せず金が手に入る相手と分かったら、それにしがみついて放さないという様子が目に浮かびます。肌に吸着して血を吸う『蛭(ひる)』のようなイメージです。

人間社会において、『金が支払われる』には、それに相当する『価値』が必要になります。『価値』は『労働』『サービス』『能力』『モノ』などが評価の対象になります。

この原則に従えば、『労せず金を手にする』方法を見つけることは、易しいことではないはずですが、人間はあの手この手で、この方法を考え出そうとします。

『窃盗』『恐喝』『詐欺』など、『非合法』の手段で、『金を手に入れようとする』人が、後を絶たないのはこのためです。

『非合法』とは言えないものに、『宝くじを買う』『競馬、競輪などに賭ける』などがあります。しかし、これらの方法は『必ず儲かる』保証はなく、むしろ『損をする』確率の方が高いしくみになっていますが、それでも『幸運』を夢見て人々は、これに群がります。

『金融業』を『労せず儲ける』手段と言えば、関連する方々からお叱りを受けそうですが、他人から集めた資金で、『運用益』を得る行為を、『サービス』『特殊な才能』と観るかどうかは微妙な気がします。

個人の才覚で、『株や債券へ投資する』という行為も、観方によっては『労せず儲ける』部類に入るのかもしれません。

『銀行』『証券会社』『ベンチャー・キャピタル』などは、『世の中の経済の仕組み(ルール)』を『金づる』にしているといえば言い過ぎかもしれませんが、汗水流してわずかばかりの収入を得ている人から見れば、そう言いたくなります。

『金持ちと結婚した女性』『金持ちの愛人になった女性』『女性に貢がせて、遊んでいる男性』『働かずに親のすねをかじって生きている子供』など、『金のつるに取り付いている』人たちと言えるでしょう。

『金づる』側にも、何らかの『負い目』や『もくろみ』がないと、このような関係は成り立ちません。

『金のつるにつく』生き方は、『本当に幸せな生き方』なのかと問うまじめな方もおられると思いますが、何を『幸せ』と考えるかは人それぞれで、どんな生き方をしても、優先するものがあれば、失うものもあるということなのではないでしょうか。

『労せず金を手に入れて、面白おかしく遊んで過ごしたい』と願うのは、『天国』を夢見ることに似ているような気がします。『天国』を心安らぐ場所と感ずるかどうかは、これもまた人それぞれで、梅爺は三日くらいすると『退屈だ』と、言い出しそうな気がします。

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2019年11月 1日 (金)

江戸の諺『槌で庭はく』

江戸の諺『槌(つち)で庭掃く』の話です。

掃除には『箒(ほうき)』を使うのが当たり前ですが、慌てふためき、気も動転して、上(うわ)の空になり、場違いな『槌』で掃いてしまうという様子が表現されています。

想定外の『パニック』に陥ると、人間はトンチンカンな行動をするということで、普段冷静な人でも、過去の経験で思い当たることがいくつかあるのではないでしょうか。

この諺は、予期せぬ客が訪ねてきて、慌てふためいて追従(ついしょう)歓待するというような意味が込められていることを知りました。

何やら『落語』の一場面を彷彿させるような『滑稽』を感じます。

人間が何故このように行動するのかは、『精神世界』を理解しないと説明がつきません。『精神世界』は『理』と『情』の機能の、複雑な組み合わせで構成されています。『物質世界』に属する『脳』と関連付けるならば、『理』は『左脳』、『情』は『右脳』が主として担当します。

『生物進化』のプロセスでは、生物は『情』の機能をまず獲得しました。周囲の事象が『自分に都合が良いものであるか、そうでないか』を、直感的に判断する能力で、やがて『都合が良い』は、『好き』『嬉しい』『楽しい』などという情感を生み出す元になりました。一方『都合が悪い』は、『嫌い』『悲しい』『楽しくない』という情感を生み出す元になりました。梅爺は、このことを『安泰を希求する本能』が全ての根底になるという『仮説』として何度もブログで紹介してきました。

人間は進化の過程で、その後『理』の機能を獲得しました。『因果関係』を想定して、物事を判断する機能です。『推論能力』がこれに当たります。この能力も周囲の状況が、『自分に都合が良いものか、そうでないか』を判断するもので、これも『安泰を希求する本能』に支配されています。端的にいってしまえば『得か損か』といった判断です。

私たちの『精神世界』は、先ず『情』で周囲の状況を判断します。『情』は理屈抜きのものですから、『何故好きか』『何故嫌いか』と問われても、答えられません。『感動』や『悲しさ』は突然襲ってきます。

しかし、その後遅れて今度は『理』が機能し始めて、『因果関係』を想定しながら、新たな判断を下そうとします。『男は人前で涙を見せてはならない』という『理』の価値観が働けば、『情』では『悲しい』と判断しても、涙をこらえる努力をすることになります。つまり『理』はかならずしも『情』と同じ判断はしないこともあるということです。私たちの中で、二つの異なった人格がせめぎ合っているようなものです。

『情』が先行し、『理』が後追いで続くというのが一般的な『精神世界』の反応になります。

そして、『情』が非常に強い時には、『理』は介入する余地が無くなるような時があります。

これが『槌で庭掃く』というような、トンチンカンな行動を引き起こします。

多くの場合、やがて冷静さを取り戻し、『理』の機能が有効になりますが、あまりにも大きな『情』のショックを経験すると、不幸にも『精神障害』を引き起こすことにもなります。

勿論、人間の『精神世界』は『個性的』ですから、上記の説明は一般的なもので、同じ状況に遭遇しても、一人一人異なった対応をすることになります。『冷静沈着』な人は、極めて『理』が優っている人と言うことになります。

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2019年10月31日 (木)

江戸の諺『のぼす(のぼされる)』

江戸の諺『のぼす(のぼされる)』の話です。

これは『諺』ではなく、動詞の単語に過ぎませんが、その意味にこめられた『諧謔性』から、『諺臍の宿替』という原本に作者が採用したのでしょう。

『のぼす』は『おだてる』、『のぼされる』は『おだてられる』という意味です。現在でも『のぼせあがる』などという表現で使われます。

『のぼす(おだてる)』『のぼされる(おだてられる)』と言う行為が、意味を持つのは『ヒト』が『精神世界』を保有する生物であるからでしょう。

何度もブログに書いてきたように、『精神世界』を支えるものは『安泰を希求する本能』ですから、『のぼされる(おだてられる)』と人は、『自分以上の自分になった』と勘違いし、良い気分になります。つまり『精神世界』は『安泰』を感じて満足することになります。

『安泰』の状態にあるときには、脳内にそれに対応するホルモンが分泌され、『気分爽快』で『前向き』になり『自信』が湧いてきます。『ヒト』にとって、それは肉体的にも、精神的にも『好ましい状態』と言えるものになります。

逆に他人から『叱責される』『貶(けな)される』と、『安泰』は脅かされ、逆の状態になります。

『スポーツ』や『教育』で、コーチや教師が、選手、生徒を『褒める』ことが、『やる気』や『能力』を引き出すことに有効と言われるのは、このためです。『長所』を伸ばしてあげれば、選手や生徒は自ら自分の『短所』に気づき、それを自分の努力で克服しようとするようになるからです。

しかし、人間社会で『のぼす』『のぼされる』は、何らかの『損得勘定』が裏側にあることが多く、『スポーツ』や『教育』のように、『きれいごと』にはならない場合が大半です。

上司に『ゴマをする』部下は、本心では上司の無能に辟易していながら、自分への高評価を期待して、追従(ついしょう)していることになります。

まじめな部下は、『ゴマをする』という『さもしい行為』は、自分には耐えられないと控えます。

本当に有能な上司なら、部下の『ゴマすり』の下心を見抜いて、その部下を高くは評価することはなく、『ゴマすり』をしない部下を低く評価することはないはずですが、残念ながら人間には弱いところがあり、多くの上司は『ゴマすり』と感じながらも、その心地よさに麻痺するようになっていきます。

公平な判断ができていたはずの有能な人も、地位が高くなり、権力を持つようになると、自分の周囲に『イエスマン』だけを配置するようになりがちなのは、このためです。

江戸の人たちは、脳におけるホルモンの機能等に関する知識は持ち合わせていませんでしたが、『のぼす』『のぼされる』という行為には、人間関係で悲喜劇を引き起こす、何やらいかがわしいものが潜んでいると察知して、これらの言葉を『諧謔』の対象として、笑い飛ばしていたのでしょう。『アッパレ』と称賛したくなります。

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2019年10月30日 (水)

江戸の諺『糞喰らわされる』

江戸の諺『糞喰らわされる』の話です。上品な表現とは言えませんが、今日でも『糞喰らえ』などと、相手を罵倒し、打ちのめす時に使われます。

『糞喰らわされる』は、相手からひどい仕打ちを受ける、騙される、などの意味で使われていました。

排泄物や性に関連する言葉を、日常会話の中で『良からぬ意味』として使うのは、英語も同じですから、人間に共通する習性なのでしょう。

英語の『shit(糞)』は、会話の中で『shit !』と叫んだときには、『クソッ、騙された』『クソッ、間違った』の『クソッ』に当たりますから、日本語とほぼ同じです。

英語の『piss(小便)』は、会話の中では『take the piss out of~』というイデオムで良く使われ、『~をからかう』という意味になります。受身の表現でも『コケにされた』という意味で良く使われます。

『fuck(性行為を行う)』に至っては、会話の中に『fucking ~~』と挿入され、『クソッタレの~~』『いまいましい~~』という意味になります。

これらは、もちろん下品な表現であるという認識がありますから、良識のある人は普段使いませんし、公式なスピーチなどでも使用は避けられます。

しかし、日常会話の中の『くだけた表現』としては多用され、妙玲な女性が口にすることもあって、梅爺は驚きました。『アメリカ映画』を見ていれば、これらは必ずと言ってよいほど登場します。

『排泄』や『性』は、『秘め事』という認識がある一方、逆に、『あからさまに』使って、何かを強調しようとする心理が、人間に働くのではないでしょうか。

日本語では『屁』も、諧謔的な表現として多用されます。『屁の河童』『屁の突っ張りにもならない』『いたちの最後っ屁』『屁をひって尻つぼめる』『沈香も焚かず、屁もひらず』『百日の説法も屁一つ』『屁と火事は元から騒ぐ』などがあります。

科学が『性』や『体内でも排泄物やガスの生成』に関する、カラクリや意味を詳細に明らかにしたのは近世以降のことで、それ以前の人たちは、人間には欠かせない行為でることは、事象として理解していたにすぎません。それでも、『性』が快楽や子供を作ることに関連していること、体内の不要物が排泄されることは、容易に推測できることでしたから、その程度のことは誰もが『知っていた』ことになります。

『性行為』や『排泄行為』を、『はしたない、恥ずかしい秘め事』と考えるのは、動物の中で『ヒト』だけという説があり、それには『宗教の価値観』『道徳』など関与しているという説明や、行為の最中は無防備になるので『敵に襲われると危険』を避けるために『隠れて行おうとする』のだという説明がなされますが、梅爺は人間の『精神世界』にかかわるもっと本質的な意味が込められているように感じます。

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