2020年1月25日 (土)

江戸の諺『尻持って来る』

江戸の諺『尻持って来る』の話です。これは現在でも使われる表現で、『面倒なことの後始末をさせられる』という意味になります。もう少し直接的な表現では、汚い仕事をおしつけられるということで『尻ぬぐいをさせられる』になります。

物事がうまくいっている時には、誰もが自分の手柄のように得意げに振舞いますが、一旦事がうまく運ばなくなると、『これは元々お前が始めたことだから、自分で始末をつけろ』などと『尻持って来る』ことになります。

『嫌なこと』はできるだけ避けようとするのが人間の心理です。『安泰を希求する本能』が根幹にあるからです。

梅爺もこの性格が強く、子供のころは夏休みの宿題を、切羽詰まるまで放置する癖がありました。英語では、この『先延ばしにする』という行為を『concrastinate』という一つの単語で表現することを前に知り、ブログで紹介したことがあります。

しかし、世の中は梅爺のように、『先延ばし癖』のひとばかりではなく、『嫌なこと、気がかりなこと』から先に処置してしまう方も沢山おられます。

これも『嫌なこと、気がかりなこと』を放置することが『安泰を脅かす』と感ずることがそうさせるわけですから、『安泰を希求する本能』に由来することには変わりはありません。つまり、何を優先するかの『価値観』が違うということです。誰も自分を弁護したくなりますから、『腰の重い人』は、『腰の軽い人』を『せっかち』と呼び、『腰の軽い人』は『腰の重い人』を『ぐず』と呼びます。

しかし、公平に観て『腰の軽い人』最の方が、『ストレス』を貯めこまないという意味で、健全な生き方のように思います。

梅爺は、40歳から50歳までの10年間、毎年『青梅マラソン』に参加していましたが、このころは、日ごろのジョギングをトレーニングとして欠かさないようにしていました。その時の体調や、天候などでジョギングに出かけるのが『億劫』と感ずる日もありましたが、自分を鼓舞して続けていると、結果的に『達成感』『満足感』が得られるという実感を体験でき、その頃は自分の悪い『先延ばし癖』を克服しようと、仕事も『嫌なこと』を先にこなすような努力をしていました。

しかし、仕事をリタイアした今では、すっかり『先延ばし』爺さんに後戻りしてしまっています。

『尻持ってこられる』のは、ネガティブに考えれば悪い役回りを引き受けさせられるということになりますが、ポジティブに考えれば『この難局はあなたしか対応できない』という周囲の期待の表れでもありますから、見事にこなせば、周囲から更に尊敬され、一目おかれる人物になれるチャンスなのかもしれません。

世の中は『お互い様』『持ちつ持たれつ』ですから、『尻持ってこられる』のも時に『災い転じて福となす』ということになる可能性がないわけではありません。『お人よしを振舞う』『馬鹿を振舞う』のも賢い生き方かもしれません。

| | コメント (0)

2020年1月24日 (金)

江戸の諺『客すりおろす』

江戸の諺『客すりおろす』の話です。

現代ではあまり聞かない表現ですが、客をよってたかって喰い物にするというような意味なのでしょう。

金持ちでちょいと人の良い客を、おだてたりすかしたりして、出費させる光景が目に浮かびます。

原典の『諺臍の宿替』には、『幇間(たいこもち)』『仲居』『芸子』が、舟遊びでよってたかって『旦那』にたかる小噺が掲載されています。『旦那』も鷹揚(おうよう)に、『両足まではすりおろしても良いが、それ以上は立つところが無くなるからやめておくれ』などと対応しています。

この『旦那』は、自分が『すりおろされている』ことを承知で、その状況を楽しんでいるところがあり、このような『粋な関係』が江戸の人たちの好みであったのでしょう。

人は、他人から『褒められたり』『良く言ってもらったり』すると、『嬉しくなる』習性を有しています。『安泰を希求する本能』が満たされるからです。

子供の教育や、スポーツの指導でも『褒める』方が『叱る』よりも効果があると言われるのはこのためです。

上手な先生やスポーツのコーチは、『叱る』時でも、直接ではなく『あなたは素晴らしい。でもここを直せばもっと素晴らしくなる』などと表現して、マイナスをプラスに変えてしまいます。

『幇間(たいこもち)』などというのは、世界にあまり類をみない職業ではないでしょうか。外国のおどけ役『ピエロ』は、何か物悲しい雰囲気ですが、『幇間』はあっけらかんとしています。

『旦那』も『幇間』のお追従を承知の上で、『楽しむ』わけですから、『旦那』も『幇間』も舞台の上で自分の役どころを理解して『演じている』ようなものです。舞台を降りて、日常の世界に戻れば、両方とも普通の人間に戻るということになります。

しかし、世の中には、日常の生活の中で、『お追従』『ゴマスリ』をする人も沢山います。

『独裁者』の周りには、『イエスマン』だけが配置されることになりがちです。苦言や諫言(かんげん)をすれば、左遷させられたり、時には処刑されたりするからです。

『科学』や『数学』の世界では、普遍的に『正しい』事象は存在しますが、人間の『精神世界』の価値観が絡む世の中の事象の大半は、普遍的に『正しい』などと言えるものは、ほとんどありません。

『自分の考え方、感じ方』が『適切である』と、『信ずる』ことは、生きる上で重要なことですが、それを『普遍的に正しい』と誤解することは避けるべきです。

『他人の考え方、感じ方』に耳を傾ける度量が必要になります。

他人に合わせる必要はありませんが、他人と自分の違いを『認識』することは、人間関係の基本条件です。

| | コメント (0)

2020年1月23日 (木)

江戸の諺『身けずる』

江戸の諺『身けずる』の話です。寝食を厭わず、健康に差し支えがあるほど、何かに打ち込むといった意味の表現です。

『何かに熱中する』『誰かに尽くす』など、『精神世界』が最優先の『価値観』を見つけると、他のことが目に入らなくなり、命がけでそのことに打ち込むという人間の習性が背景にあります。

普通は『命』が最も大切なものですが、それ以上の『価値』を有するものがあると『信じ込む』わけですから、いわゆる『常識』とはかけ離れた行為です。

夢中のあまり『命』のことを忘れてしまうというケースと、『命』を損なうことを承知の上で事に当たるケースがあるように思います。

前者は、常識的な人には無謀な行為に見えますが、それほど打ち込める対象を持っていることに対しては『うらやましい』と感じたりもします。

後者は、余命わずかと宣告された役者などが、舞台を努めようとしたりする行為で、本人は『舞台で死ねれば本望』という『価値観』に突き動かされていることになります。周囲もその『役者根性』を称賛したりします。

何故人間の『精神世界』でこのようなことが起こるのかは、『精神世界』の『判断』に『信ずる』という行為が絡んでいるからです。

私たちは、周囲の事象を『自分にとって都合が良い』か『自分にとって都合が悪い』かを先ず本能的に判断します。生物の『生き残り』に重要な意味をもつ習性として、『生物進化』の過程で継承してきたものです。

周囲の事象の中で、客観的に『真偽』の判断ができるものは、『物質世界』の一部の事象に限られていて、大半は、客観的な判断をすることができません。

しかし、判断する方法がないからと言って、手をこまねいていたら、先に進めませんし、危険を招くことになりかねませんから、私たちは主観的に判断をくだすことになります。

主観的にポジティブな判断をくだす時に必要とされるのが『信ずる』という行為です。反対に、ネガティブな判断をくだす時に必要とされるのが『疑う』という行為です。

『神の存在を信ずる』『神の存在を疑う』などという行為が典型例です。

『客観的に誰もが納得できる判断』が好ましいと私たちは考えますから、『信ずる』『疑う』などという行為は、できれば避けたいと考える方もおられるかもしれませんが、そうはいきません。

私たちの周囲の事象は、『真偽を決めることができないこと』『先行きどうなるかわからないこと』で満ち溢れていますから、『信ずる』『疑う』を放棄しては生きていけないことになります。無神論者も『信ずる』ことを多用して生きています。

従って、『命が最も大切』などという判断を『信ずる』人だけでなく、『身をけずってもなし遂げたい大切なもの』を『信ずる』人が現れることになります。

主観的な判断は、人間を素晴らしい存在にも、恐ろしい存在にもします。常識的な人には『狂信』にとりつかれた人は、恐ろしく見えます。

| | コメント (0)

2020年1月22日 (水)

江戸の諺『ふところ子』

江戸の諺『ふところ子』の話です。『秘蔵っ子』という表現に似ていますが、ニュアンスはかなり違います。『猫っ可愛がる』『蝶よ花よと育てる』などという表現が近いような気がします。

子供が可愛いばかりに、世間の雨風にさらしてつらい思いをさせたくないと庇護する過保護な親の行為は、結局子供にとっても幸せな話ではないという意味が込められているのでしょう。

世間に出て、『良いこと』も『嫌なこと』も経験しながら、人は一人前になっていくという庶民の考えがあったのでしょう。『嫌なこと』に目をそむけていては、世の中に通用しないひ弱な人間になってしまうということでしょう。

人間の身体が、ある程度『バイキン』や『ウィルス』にさらされながら、『免疫力』を身につけていくということに似た話です。

逆の意味で『可愛い子には旅をさせよ』という諺があります。

私たちは『自然界(物質世界)』の中で生きていますが、『物質世界』は、私たちに『都合のよいこと』と『都合の悪いこと』の両方を必ずもたらします。

『物質世界』は、私たちを苦しめようと『都合の悪いこと』をもたらすわけではありません。『物質世界』は、『摂理』に従って絶え間なく『変容』しているだけで、たまたまその一部は『人間』にとっては『都合が悪いこと』であるにすぎません。

『物質世界』は『人間』のために存在しているわけではなく、私たちが『物質世界』の一部を『利用』しているだけのことです。

『人間』の『精神世界』は、願い事を沢山思いつき、『物質世界』に対しても沢山の願い事をしますが、願いがかなうなどということはありません。

地震や台風は容赦なく襲ってきますし、『雨乞い』の加持祈祷をしても、雨が降る保証はありません。

それでも私たちは、『五穀豊穣』『大漁豊作』などを願う『祭祀』を現代でも行っています。昔から継承されている『主観の継承』が、社会に根強く残っているからです。

『自然界』で生きている以上、私たちは必ず『都合の悪い事態』に遭遇します。『老化』『病気』などもこの類です。

一方、『人間社会』で生きることもか『都合の悪いこと』が必ず付きまといます。自分が願うように他人は自分を評価してくれないことが大半ですし、自分と『考え方』『感じ方』が異なる人に必ず遭遇し、対応に苦慮することになります。

これは『人間』が『個性的』であることに由来するもので、誰も避けることができません。

『自然界』で生きることも、『人間社会』で生きることも、このように『都合が悪い』ことに必ず遭遇するわけですから、これを避けては生きていけないことになります。

『ふところ子』が、結局子供を不幸にするということを、江戸の庶民は、直感的に理解していたに違いありません。

現代の方が、むしろ『過保護な親』が増えているように感じます。江戸の庶民より、人間の本質理解が劣っているためでしょうか。

| | コメント (0)

2020年1月21日 (火)

江戸の諺『両がけの芸子』

江戸の諺『両がけの芸子』の話です。一つの仕事では生きていけないので、もう一つ仕事をして生活を支える芸子(芸者)ということですから、三味線や踊りのお座敷芸に加えて、身を売るというような意味でしょう。

さしずめ、現代ならば本業のほかに副業のアルバイトなどで、身を支えるということに他なりません。

江戸の世では『芸者』は、それほど身入りの良い職業ではなく、普通に暮らせる庶民の優越感の裏返しで、このような表現が使われていたのか、自分も貧しく、副業でもしないと生きていけない庶民が自嘲的にこのような表現を用いたのか分かりませんが、少し物悲しい諺です。

江戸の世では『士農工商』という身分制度が行われていました。『士農工商』の身分の区分けと優位順序は、元々『儒教』の考え方ですが、武家政権であった徳川幕府にとっては、都合のよい精度であったに違いありません。

コメ本意経済であった当時は、殿様の禄高、武士の扶持高は、コメの量で表示されていましたから、コメの生産者である『農』を『士』の次に置いたのは、当然のことでしょう。

『農』の中も、『庄屋』『小作』と貧富の差があり、最も貧しい百姓は『水呑み百姓』などと呼ばれて、苦しい生活を強いられていましたから、ひとまとめにして『農』と呼ばれて『士』の次と言われても実感はなかったでしょう。

『工』は職人の階級で、『商(商人)』より上にランク付けされているのは、手に汗をして実質的な『モノ』を作り出すことを評価する『儒教』の考え方が反映しているのでしょう。

才覚だけでモノや貨幣を、右から左へ移し、利ざやを稼ぐなどという行為は、卑しい行為という『儒教』の考え方があるのでしょう。しかし江戸の経済の実権を握っていたのは『商』であるというのも皮肉な話です。結局社会を支えるのは『経済』であるという主張に説得力があります。

現在も、『実質(実体)経済』と『仮想経済』という考え方があります。『実質経済』は実態がある付加価値を生み出す経済行為で、生産にかかわる職業がこれを支えます。一方『仮想経済』は、目に見えない『付加価値』を生み出す経済行為で、『サービス業』『金融業』などがこれを支えます。『実質経済』は地道な稼ぎ、『仮想経済』は投機的な稼ぎのイメージがあります。

『仮想経済』は景気の影響を受けやすく、不況時には社会の経済基盤を脅かすことになりますので、不況になると、『実質経済』に重きを置くべき主張する経済学者が必ず現れます。

資源が豊富な国ならば『実質経済』に特化することができますが、日本のような資源に乏しい国では、『仮想経済』も無視できません。

ただし『仮想経済』にだけ依存することは、確かに危険ですの、バランスをとるということになるのでしょう。

多くの庶民が『両がけ』をしないと生きていけないという社会は、豊かさに問題があるということになります。

| | コメント (0)

2020年1月10日 (金)

江戸の諺『穴(けつ)な娼妓(おやま)』

江戸の諺『穴(けつ)な娼妓(おやま)』の話です。

現代では、使われない表現ですが、『性』に関するあまり上品な表現とは言えません。

お座敷や寝間で『男を楽しませる客商売の女性』で、若さを売り物にするのは『赤襟(あかえり)』、中年のお色気を売り物にするのは『中詰(ちゅうづめ)』と呼ばれましたが、年老いた『娼妓(おやま)』は、下半身だけしか売り物にするものがないという意味で、『穴(けつ)の娼妓(おやま)』という表現になったのでしょう。

原本の『諺臍の宿替』には、『顔』が『尻』になった奇想天外の『娼妓』の絵が載っています。

男の客にとっては、『可愛い顔』『お色気のある容姿』ではなく、『そのものズバリ』が目的ですから、『顔』が少々不細工でもかまわないという、ひどい話です。

人類最初の『職業』は『売春婦』であるというジョークがあるように、『男を楽しませる客商売の女性』は、いつの世にも存在していました。

王侯貴族を対象とする、宮廷内の特別な役割の女性から、庶民を対象とする女性まで、様々です。

朝鮮の李王朝では、『妓生(キーセン)』と呼ばれる、女性たちが、外国からの賓客などをもてなしました。宴会に侍り、寝室もともにするという『高級ホステス』ですから、容姿端麗で、芸や教養にも優れていることが求められました。

女性に『貞節』を求める、儒教社会の朝鮮で、『妓生(キーセン)』がどのように考えられていたのか興味深いところですが、賓客のもてなしを優先した、誇り高い職業であったのかもしれません。

先進国でも『男女同権』が根付き始めたのは最近のことで、『男性中心』の考え方が、完全に払しょくされているとは言えません。

『イスラム教』文化圏のように、『宗教』が『女性』の生き方を厳格に規制しているところでは、私たちが云う『男女同権』が近い将来実現するとは思えません。人間社会で『常識』となっている『主観の共有』で形成される価値観は、歴史、文化、宗教で異なりますから、どれが正しい、どれが間違いと単純に区分けはできません。

『キリスト教』文化圏の人たちは、『イスラム教』文化圏の人たちを『遅れている』とみなしがちですが、そのような観方は慎重であるべきです。

『私は、これが好ましいと思う』という主張は、その人の『価値観』の表明ですから、自由に許されますが、それの裏返しで『あなたは間違っている』という論理飛躍は控えるべきです。

『性』は人間にとって根源的な欲望(本能)ですが、それぞれの人間社会には、歴史、文化、宗教、倫理観などの違いから、それぞれの『性の考え方』が、『主観の共有』として根付いています。

江戸時代の日本人の『受け止め方』は、現代の私たちとも異なっています。それを垣間見るうえで、『諺』に現れる『性』の表現は、興味深いものです。

| | コメント (0)

2020年1月 9日 (木)

江戸の諺『姫を掃く』

江戸の諺『姫を掃く』の話です。

これは江戸というより上方(京阪地方)で使われた表現のようです。『姫』は尊い家柄の女児を意味する言葉ですが、ここでは『遊女』を指す隠語です。庶民の男には、『姫』が縁遠い存在であるがゆえに、自分にとっては『遊女』が『姫』であると笑い飛ばす気持ちが込められているのでしょう。

『掃く』は、『箒(ほうき)で掃く』動作の比喩で、『次々に処理する』というような意味になります。

現在でも『客の掃けが良い』などと使います。『効率よく、多くの客対応をこなす』状態を指しますから、商売にとっては好ましい話です。

『姫を掃く』は、男が遊里へいって、馴染みの遊女にこだわることなく、次々に遊女と『遊ぶ』という、自分の強壮さを自慢するニュアンスの表現になります。

『掃く』で連想する『箒(ほうき)』には、『男根』の意味が『隠喩』として込められているのでしょう。

どこの国の小噺にも、『性』に関するものがあるのは、人間の根源的な欲望に関心が深いからなのでしょう。『はしたない』『いやらしい』などと上品ぶってみても、『本当は、あなたもお好きなんでしょう』と、人間の本性を指摘して、滑稽にしてしまう可笑しさが、そこにあります。

地球上に、『生命体』が出現した詳しい経緯は、現代科学でも解明できていません。『生命体』が、世代交代で『種の継承』をしていくことに、『遺伝子』という実に巧妙な仕組みが採用されたことは分かっていますが、何故このような仕組みが、登場したのかも、分かっていません。それまで存在していなかった『生命体』の出現、『種の継承』のための『遺伝子』の仕組みの出現は、偶然の試行錯誤の結果であると推測されますが、あまりにも見事なものであるがゆえに、昔の人が『神による創造』と考えたのは、分からないでもありません。

『単細胞生物』の時代は、『遺伝子』のコピーを利用した細胞分裂が、『種の継承』の主流でしたが、色々な目的の細胞が要せ集まった『多細胞生物』が出現すると、単純な細胞分裂では『種の継承』はできなくなり、『両性生殖』という、これも実に巧妙な方法で、子孫を残す方法が出現しました。

『生殖行為』に、強い快楽を伴う『性欲』が付与されているのは、世代交代をより確実にするために『生物進化』の過程で採択された本能です。

科学知識がなかった時代の人たちも、『性』が子孫を残すための行為であることは、気づいていましたが、『快楽』を対象とした『性』だけにも執着したのも当然のことです。

手段として付与された『快楽』が、目的と化してしまったとも言えます。

『快楽』目的の『性』を、『宗教』の一部は、『罪深い行為』としましたから、人間社会で『性』は、扱いが難しいものになってしまいました。江戸時代までの日本人は、『性』には比較的大らかであったように感じられます。 

| | コメント (0)

2020年1月 8日 (水)

江戸の諺『子にひかれる』

江戸の諺『子に引かれる』の話です。『子供に引きまわされる』ということで、『子供の世話で手いっぱいになり、他のことができない』といった意味になるのでしょう。

母親は、『子に引かれる』などと口では愚痴を言いながら、可愛いわが子にかかりっきりになることを『生きがい』と感ずる側面もありますから、『母性愛』ほど強い『愛』はないとも言えます。

動物によって、産まれてきた子供が『一人前』になるまでの期間には長短がありますが、いずれにしても『母親』が授乳なども含め、『子供の世話をする』習性は共通です。

『種の継承』のために、それは必須の要件ですから、『生物進化』の過程で、『母子の本能』として確立したものに違いありません。言い方を変えれば『子供の世話をする』習性を遺伝子として強く保有するものの子孫が生き残ってきたことになります。

しかし、動物の母親にも、人間の母親にも『育児拒否』をする平均から外れた母親が出現し、子供にとって不幸な事態が起こることがあります。『育児』に関心がないのか、それとも『育児』より優先する他の『欲望』が強いのかは分かりませんが、とにかく、平均から外れた『個』が出現するのも、生物の宿命です。

『自分を犠牲にしても、全てを他人のためにささげる』行為を、私たちは『愛』という抽象概念の究極の姿と考え、人間社会で共有してきました。『母性愛』は中でも崇高な『愛』と考えられてきました。しかし、『育児本能』は、ありていに言ってしまえば、脳内に分泌されるある種の『ホルモン』にはよってもたらされるもので、体内の『化学反応』が引き起こす事象とも言えますから、『育児本能』が『愛』と呼ばれることにふさわしいかどうかは、別の議論とも言えます。

『愛』は『崇高』『美しい』という抽象概念と結び付いて表現されますが、これは人類社会で継承されてきた『主観の共有』であり、『物質世界』の事象と関連付けてはあまり考えられてきませんでした。

『愛』の実態は、『ホルモン』が引き起こす『化学反応』であるなどと言って、従来の『愛』の概念を貶めようとは思いませんが、『科学』が提示する『事実』も受け入れて対応していく必要があります。幻滅させるようなことを『科学』は提示するなというわけにもいかないからです。

同様なことがが、『心の救済』『心の安らぎ』などにも、起こることになります。『脳科学』が『パンドラの箱』を開けてしまうかもしれませんが、私たちはそれでたじろぐ必要はありません。新しい観点で『自分は何か』を見つめなおせば良いだけのことです。

動物の中で、『人間』ほど、産まれてきた子供が一人前の成人になるまで、永い期間を要する『種』はありません。

何故このような不利な条件を継承してきたかは、それを補うための『長所』があったからで、それは『脳』の成長結果を重視したからなのでしょう。

『脳』の成長がもたらす『知性』『理性』は、『人間』を『人間』たらしめる最大の要因であるということでしょう。

| | コメント (0)

2020年1月 7日 (火)

江戸の諺『寺の大黒』

江戸の諺『寺の大黒』の話です。江戸時代は、仏教の僧侶は公には妻帯は禁じられていました。『女犯(にょぼん)』は、破戒行為の一つであったことになります。

しかし、全ての僧侶が『聖人君子』であったわけではなく、『生臭坊主』が出現して、こっそり『隠し妻』を囲っていました。この『隠し妻』は『大黒(だいこく)』『梵妻(ぼんさい)』と呼ばれていました。

何故『隠し妻』が『大黒』と呼ばれたのかは、必ずしも判然としませんが、寺の厨房の守り神として『大黒』様が祭られていて、僧侶が『隠し妻』を『飯炊き女』ということで囲うことが多かったことから、『隠し妻』を『大黒』と称するようになったという説が有力です。

『釈迦』は全ての『煩悩』を『解脱』することで、人は『仏』になれると説きました。深遠な論理思考の末に到達した『悟り』で、『大変ごもっとも』なことですが、現実には生物である『人間』は、『煩悩』の一部は『解脱』できないという『矛盾』を抱えているように梅爺は感じます。

どうしても『解脱』できない『煩悩』が『食欲』で、これを絶てば、生きていけませんから、自らの存在を否定することになります。更に『一切の殺生(せっしょう)を禁ず』と言われると、論理的には食べるものが無くなってしまいます。

『精進料理』で『肉食』を禁じてみても、食材の『植物』も、生物としての『命』を保有していますから、これは『殺生』ではないとは、言い難くなります。

つまり私たちは、他の生物を『殺生』しないと、自分が生きていけないという宿命から逃れようがありません。

『精進料理』『粗末な食事』で、最小限に『殺生』をとどめれば『許される』というのは少々身勝手な『論理』のように思います。

『性欲』も人間にとっては強い『煩悩』の一つですが、これを意思の力で『絶って』も、命に別条はありません。しかし、人類の全てが『煩悩』を絶てば、生物としての『種の存続』はできなくなりますから、これも根源的な『矛盾』を抱えることになります。

『仏』の救済の対象になるのは、『特定の修行を積んだ人(出家人)』だけと考えるか、凡人を含む『全ての人』と考えるかで、仏教の基盤が変わってきます。『小乗仏教』『大乗仏教』の違いでもありますが、いずれにしても、『矛盾』を内包することになると、梅爺は感じます。

『生臭坊主』は、そのような深遠な話ではなく、自分の『煩悩』を抑えがたいという単純な理由で『大黒』を囲ったのでしょう。

庶民も目くじらを立てて、僧侶を難詰などせず、『よさこい節』のように『坊さんかんざし買うを見た』などと、寛容に笑いの対象にしてしまっているところが、江戸の文化の特徴です。

明治5年に、『官令』で、僧侶の『妻帯』『肉食』『帯髪』が解禁になりましたが、何故政治が『宗教』に関与したのかは、興味深いことです。

| | コメント (0)

2020年1月 6日 (月)

江戸の諺『子にかかる』

江戸の諺『子にかかる』の話です。『子にかかる』は『親が子供の世話になる』という意味です。

子供が一人前になるまでは、『親が子供の世話をする』のが、動物の一般的な習性です。従って『子にかかる』は逆の関係で、多くの場合成人した子供に親が頼るということですから、『不甲斐ない親』か『年老いた親』が『子にかかる』ことになります。

何代もの世代が同じ家で暮らすことが一般的であった昔の日本では、年老いた親の面倒を子供がみるという社会価値観が定着していました。

しかし、現代の日本は、核家族中心になり、親子は同居していませんし、独立した子供も、自分の生活がありますから、子供が年老いた親の面倒をみることは、非常に難しい状態になっています。

親子の絆で。子供は年老いた親の面倒をみることが気がかりであったとしても、現在の生活基盤(仕事や地位)を捨ててで、それ優先することは現実には困難です。

『年老いた親の面倒は子供がみる義務がある』と昔流の価値観で、『わがまま』『無理難題』を並べる親が今でもいて、子供たちを悩ませることになります。

北欧のように社会保障のシステムとして、老人の世話が行き届いている国は、うらやましい限りですが、現状の日本で、国費でそれをまかなうことは難しいために、老後はできるだけ老人の『自助努力』で対応してほしいということになってしまいます。このある意味で中途半端な政策が、老人にも子供たちにも負担をかけることになっています。

富裕な老人は、サービスが行き届いた『有料老人ホーム』に入居できますが、多くの庶民にはそれはかないませんから、『老後の不安』を抱えながら生きていくことになります。

梅爺のところも、老夫婦の2人暮らしで、半人前を2人で補いながら生きています。息子も娘も結婚して自分の家庭で手いっぱいですから、『子にかかる』ことは困難ですし、そのようなことも期待しないように心がけています。

現在は、幸いにも『自助努力』でやっていますが、必ず施設や病院のお世話になる最後が訪れることは覚悟しています。『ピンピンコロリ』は願いますが、願えばかなうものでもありません。

老人は、当然『死』を意識するようになりますが、同時に『生』の有難さを、日々感ずるようにもなります。若いころには全くなかった体験です。

『永生きしてください』などと、おっしゃっていただくのはありがたいことですが、一方『社会のお荷物』『老害』などと陰でささやかれていることも承知していますので、出しゃばったりしないように心がけています。

身体は、なかなか言うことをきいてくれませんが、『精神世界』は、『記憶力低下』などはあるものの、ある意味で若いころより、『洞察力』『感性』などが鋭くなっているようにも感じますので、勝手ながら『自分の世界』を堪能して余生を過ごしたいと思っています。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧