2019年10月 5日 (土)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(6)

死後の『魂』『霊』の存在を、近世以前の人類は『主観の共有』として、『信じて』いて、特に『非業の死』を遂げた人の『魂』『霊』は、『個の世』に復讐として『祟り』をもたらすとも『信じて』いました。

『天災』『疫病の流行』などは、全てこの『祟り』と考えられていましたので、『魂』『霊』を『鎮める』ための『加持祈祷』が真剣に行われました。

『為政者』にとっては、『民を治める』実務に加えて、『加持祈祷』も重要な仕事であり、『加持祈祷』に特別の能力を持つ『聖職者』を登用しました。『空海』などがその代表例です。

日本の歴史では、『武家』の台頭と同時に、『民を治める』実務は『武家』の為政者が担当し、『加持祈祷』は『天皇家』が担当するという、役割分担が確立し継承されてきました。現在の日本は、『民を治める』実務は『武家』ではなくなりましたが、『天皇家』の役割は基本的に継承されています。天皇家に伝わる『神事』は、『国家安寧』『五穀豊穣』などを願う『加持祈祷』です。

現代の日本人の多くは、天皇家の『神事』は、伝統的な形式として観ているだけで、『加持祈祷』の実効などは期待していません。ただ、日本の場合は、『民を治める』実務を担当する『為政者』の暴走を抑制する役割で『天皇』が存在するという、実に巧妙な『しくみ』が暗黙のうちに存在することが特徴となっています。

これは日本人の『知恵』ともいうべきもので、『天皇聖廃止論』に、梅爺が必ずしも賛成しない理由になっています。日本では『トランプ大統領』のような思いあがった人物が出現しにくいことになるからです。

近世以降の『科学』は、人類が『精神世界』で考え出し『主観の共有』として継承してきたものが、『理』の観点では『虚構』であることを明らかにしてきました。『あの世(地獄、極楽)』『魂』『霊』の存在は、『理』では説明できないこと、『加持祈祷(人間の願い、祈り)』は、『物質世界』の事象である『天災』『疫病』などには効用が無いことを明らかにしました。人類の歴史の中で、このような状況を体験しているのは現代人だけです。

しかし、人類の『主観の共有』は根強いものであり、私たちは一方で『科学』が明らかにしたことを受け入れながら、他方では、『あの世』『魂』『霊』の存在を信じ、都合の悪いこと、良いことを『加持祈祷』に頼って解決しようとします。

しかし、永い目で観れば、人類の『主観の共有』内容は、変貌し、すたれていくであろうと梅爺は想像しています。

『古代エジプトの神々』『古代ギリシャの神々』『古代ローマ帝国の神々』を、『信ずる』人は現代ではいなくなっていることがその証拠です。

しかし、『願う』『祈る』『信ずる』という行為は、先が見通せない人間にとって、『生きる』ために必要な行為ですから、形を変えて存続し続けるでしょう。

『芥川龍之介』の『地獄』論が、とんでもない話に脱線しましたが、このように、あることに啓発されて、思考の世界が広がるのも、人間の特徴であり、梅爺の生きる『楽しみ』でもあります。

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2019年10月 4日 (金)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(5)

古代から現代まで、人類にとって『死』は不可解なものであり続けています。『何故死ななければならないのか』『死後はどうなるのか』などの疑問に悩まされ続けてきました。

『死』は『生』の終焉であり、誰もが避けられないことであることは、古代の人でも経験則で『認めざるを得ないこと』として観念していたことと思いますが、『不可解』『理不尽』という想いはぬぐい切れなかったに違いありません。

現代の私たちは、『科学』的な視点で、『死』という事象の知識を保有するようになりましたが、相変わらず『不可解』『理不尽』の思いが付きまとうのは、古代の人たちと大きく変わることがありません。

これは、『精神世界』の『価値観』の根底に、『安泰を希求する本能』があるからであろうと梅爺は推察しています。『自分の死』はもとより『知人の死』『他人の死』も、『死』は『安泰』を脅かす強い要因であり、『都合の悪い事態』として『情』が忌避しようとするからであろうと思います。

『死』は受け入れざるを得ないものと観念すると、今度は『死が訪れるまでどう生きるか』ということが気になり、人は『生』と『死』を対とみなして『死生観』に思いをはせることになります。

『死生観』は、『精神世界』の価値観ですから、『個性的』なものになり、多くの人が自分の『死生観』を表明して、中にはそれが周囲の人に感銘を与えることもしばしばあります。『科学』が説明する『死』は、あくまでも『物質世界』の事象であり、『物質世界』を支配する『摂理』に則った事象以外の何物でもありません。しかし『科学』も、何故『摂理』は存在するのかについては説明できませんから、『死は何故必要なのか』を説明することはできません。

そこで、人類は『摂理』を逆にうまく利用して、『老化防止』『寿命延長』を人工的に実現しようと努力を重ねています。『平均寿命500歳時代の到来』も、『理』による科学的な予測としては不可能ではないと考えられています。

古代の『王』や『皇帝』が、夢見た『不老不死』を、現代の私たちは手に入れようとしています。

『死後自分はどうなるのか』も、古代から人類の変わらぬ疑問でした。梅爺は『全てが無に帰す』と味気ない認識を『理』で受け入れていますが、『寂寥感』という『情』が自分にもあることは受け入れています。

歴史的に人類は、『死後の世界(あの世)』の存在を、『精神世界』で考え出し、それに一縷の『安堵』を求めようとしてきました。

どの『宗教』も、この考え方を導入し、肉体は滅びても『魂』『霊』は『あの世』で存在し続けると説いてきました。更に、『信仰の厚い人』は『天国(極楽)』へ行き、『信仰の薄い人』は『地獄』へ堕ちるという考えも思いつきました。

しかし、『理』で『あの世』の存在は証明できませんので、『信じなさい』と説いてきました。

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2019年10月 3日 (木)

『侏儒の言葉 』考・・『地獄』(4)

『キリスト』の頭にあった『神』は、あくまでも『ユダヤ民族の神(ヤーヴェ)』であり、『ユダヤ民族とユダヤ民族の神の関係の在り方』を説いたものであったと想像できます。

しかし『使徒パウロ』は、ユダヤ民族以外にも『布教』することを推し進め、『ユダヤ民族の神』を『全人類の神』へ格上げする必要に迫られました。

この時『使徒パウロ』が下した判断は、『旧約聖書(ユダヤ教の聖典を踏襲)』におけるユダヤ民族の『神』に関する『認識』は『誤り』とすることでした。このため、『使徒パウロ』は『ユダヤ教』からみると、『異端者』ということになりました。

『使徒パウロ』は、『十字架の死』の意味も、『人々の罪を、人々に代わって購う』ものであるという『贖罪』の考え方を導入しました。『使徒パウロ』は、生前の『キリスト』とは面識がないことを考えると、偉大な『宗教的思想家』であったと言えます。『キリスト』の教えの本質は『愛』であるとしたのも彼です。

『カトリック』では、『キリスト』の死後何人かの著者が書いた『伝記』や、『使徒パウロ』が、当時の信徒に送った『手紙』等をまとめて、『新約聖書(全人類と神との間の契約)』としてまとめ採用しました。

ただ『キリスト』の存在を歴史的位置づけるために『旧約聖書』も、重要関連書類として採用しましたので、後の『神学者』や、現在の『信徒』が、それをどのように受け入れるかで頭を悩ませる原因にもなっています。『天地創造』『アダムとイヴ』『ノアの箱舟』などは『旧約聖書』からの引用であるからです。

『キリスト』の伝記に関しては、『新約聖書』に採用されなかったものが存在することが分かっており、そこに書かれている内容は、『カトリック』の『教義』とは相容れないものであることも分かっています。『トマスによる福音書』などが代表例で、その『教義』は『グノーシス派』の考え方と呼ばれています。もちろん、これらは『カトリック』からみると『異端の書』ということになります。

『釈迦』の教えが、死後色々な『解釈』で、宗派分かれしていったように、初期の『キリスト教』にも色々な『解釈』が存在してことがわかります。

人間の『精神世界』は宿命的に『個性的』ですから、必ず『私はこう考える(解釈する)』とそれまでの考え方に異を唱える人が登場します。『宗教』の『宗派分かれ』も、人間社会の宿命として生じます。

各宗派は、『権威』を維持する為に、色々な手段を講じ、異を唱える人がどうしても手に負えない時は『異端』として弾圧、排除しようとしてきました。

『大聖堂』『大伽藍』『大モスク』などの圧倒的な建築物、『聖職者』のきらびやかな衣装、『音楽』や『絵画、彫像』などを布教の手段とすること、『信徒』は心理的に圧倒され、『教義』が『主観の共有』として根強く継承されてきました。

一方、『宗教』は、人間の『安泰を希求する本能(心の安らぎ)』に対応するための手段として、人類の歴史に大きな影響も与えてきました。『宗教』の本質を考える時は、このことを配慮しなければなりません。

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2019年10月 2日 (水)

『侏儒の言葉 』考・・『地獄』(3)

『釈迦』は、自らが『仏教』という宗教の教祖になろうなどとは考えずに、その時代のインドで取得できる知識や、自分の及ぶ限りの『理』による推論で、『人が生きることは何故苦しみを伴うのか』という疑問に納得のいく『答』を導き出そうとしただけではないでしょうか。

勿論その『内容』は、多くの人を啓蒙するものであり、『釈迦』を師とする『弟子たち』が周囲に集まってきました。『釈迦』の死後、『弟子たち』は生前の『師』の教えを、『経典』として残し、それが後に出現する沢山の『経典』の元になりました。

『キリスト』も、自らが『キリスト教』という宗教の教祖になろうなどとは考えずに、その時代のユダヤで取得できる知識や、自らの思考で、『人と神の関係の在り方』を述べようとしただけではないでしょうか。

当時のユダヤは『ローマ帝国』の属州であり、『皇帝』を『神』と仰ぐように強いられ、ユダヤ民族がそれまで、継承してきた『ユダヤ人の神(ユダヤ人だけの神)との契約』がおろそかにされたり、『ユダヤ教』の神官たちも、為政者の『ローマ帝国』におもねるようにして権威を維持しようとしていました。このような状況に『キリスト』は警鐘をならそうとしました。直接支配者である『ローマ帝国』』に反旗をひるがえすように、民衆を扇動などはしませんでしたが、『ユダヤ人の神との契約』の原点へ戻ることを説きました。『キリスト』の周りには『弟子たち』が集まり、多くの民衆も、ユダヤ民族で継承されてきた『救世主』のイメージを『キリスト』にダブらせて抱くようになりました。

為政者の『ローマ帝国』と、腐敗した『ユダヤ教』の神官たちにとっては、『キリスト』は自分たちの権威や権益を脅かす『危険分子』とみなされ、『キリスト』は裁判にかけられて、『ローマの刑法』のしきたりで『十字架の刑』に処せられました。

『キリスト』の死の直後、ユダヤ民族は『ローマ帝国』に反旗をひるがえし、結果は徹底的に弾圧され、敗北に終わりました。これが歴史上の『ユダヤ戦争』です。『キリスト』の存在が、この民族蜂起に関与している証拠はありませんが、間接的な影響はあったのではないかと梅爺は想像しています。この時『エルサレム』の『ユダヤ教神殿』は徹底破壊され、現在は『壁』の一部だけが『嘆きの壁』として残されました。『嘆きの壁』は『ユダヤ教』の聖地です。『エルサレム』には、『キリスト』の処刑地(ゴルゴダの丘)跡に建てられたカトリックの聖地『聖墳墓教会』や、『イスラム教』の教祖『ムハンマド』が、大天使の先導で一時昇天し、『アッラー(神)』に謁見したと言われる『岩のドーム(イスラム教の聖地)』もあり、宗教的にデリケートな場所になっています。中世の『十字軍』は、当時『イスラム国家』が支配していた『エルサレム』を奪回するようにと言う『カトリック法王』の命にしたがって派遣されました。

『仏教』『キリスト教』が、『宗教』として確立するのは、後の関係者(布教者)の努力によるものです。特に『キリスト教』は『使徒パウロ』の功績が大で、『教義』の体系化は彼によって成し遂げられたと言ってよいのではないでしょうか。

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2019年10月 1日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(2)

『生きることは何故苦しみに満ちているのか』という疑問を抱いた先人として『釈迦』が有名です。『釈迦』はインドの王国の王子で、地位、財産、家族(妻と子)に恵まれていましたが、29歳の時に、それらを全て捨てて出家し、6年間の過酷な修行(哲学的思考)の末に、ついに自分で納得できる『答』を見出しました。『煩悩を解脱して涅槃(ねはん)に入る(仏になる)』がその『答』です。最初に『釈迦』が『苦しみ』ととらえたのは『病』『老い』『死』です。

『釈迦』の死が『涅槃』の姿として伝えられていますが、本来『涅槃』は『悟りの境地』のことで、死を意味するものではありません。

『釈迦』の教えを、他の言葉で表現すれば『人間の心には、邪心(煩悩の元)と仏心が共存しているので、できるだけ邪心を排除して仏心だけの存在(仏)に近づきなさい』ということであろうと梅爺は解釈しています。

『釈迦』にとっては『仏』は、人間が到達すべき理想の境地で、論理的には誰でも『仏』になれる可能性を秘めているということです。この『人間は仏になれる』という考え方は、他の宗教の『人間は神になれない(神と言う実態は別に存在する)』という考え方と、決定的に異なっています。

もっとも、『釈迦』の死後、その教えは各地へ広まると同時に、その地に以前から存在していた土着の宗教と結びついたりして、現在の『仏教』は、『釈迦』の教えそのものから大きく異なったものに変貌しています。『日本の仏教』も例外ではありません。中国、朝鮮半島経由で学んだことと、日本人の高僧が考え出したこと、日本独自の風習、土着の宗教(神道)と結び付いたことなどが、まじりあったものになっています。『チベットの仏教』『タイの仏教』とも異なります。

その変貌の中で、『阿弥陀如来』『薬師如来』などという、『人間とは異なる実態』が出現し、人々はこれに『救い』を求めるようになりましたので、これだけをみると、『人間は阿弥陀如来にはなれない』ということになり、他の宗教の『人間は神になれない』という考え方と似たものになってしまっています。

『釈迦』が現在の『日本の仏教』の内容を知ったら、『私はそのような話をしたことは一度もない』とおっしゃるのではないでしょうか。『如来』『菩薩』『天』などという諸々の仏たちや、『地獄』『極楽』といった『あの世』の話は、『釈迦』の教えには含まれていません。

梅爺には『釈迦』は、宗教の教祖というより、『偉大な哲学者』に観えます。『生きることは何故苦しい』のかという『疑問』を、徹底追及し、極めて論理的な思考で、『答』を見出そうとしています。

そのために、この世を支配している基本的な法則を特定し、その法則から、『理』の連鎖で『答』に到達するという手法を用いています。

『煩悩を生み出す原因』『煩悩を解脱する為の方法』などが、4つとか8つの箇条書きで提示されているのも、『理』を尊重する人の手法です

思考方法だけを観れば、古代ギリシャ哲学の『理』で真実に迫る思考方法に似ています。

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2019年9月30日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『地獄』という文章に関する感想です。

『芥川龍之介』は、この文章の中で、『人生は地獄より地獄的である』と述べています。その理由として、『地獄』の試練は、それがどのようなものであるか試練の名前を聴けば想像できるのに対して、人生の試練は、何が先行き待ち受けているかが分からないからと述べています。

『何が起こるか分からない』方が、『何が起こるか分かっている』ことより、始末に悪く、四六時中それにさらされることは、『地獄』より耐えがたいという論法を展開しています。

『針の山』も『血の海』も、2~3年それを経験し続ければ、格別苦痛と感じなくなるはずだと書いています。

『芥川龍之介』は、『地獄の苦しみ』の方が『人生の苦しみ』より、軽いと比較をしていますが、この比較は便宜的なもので、『人生の苦しみ』に勝る苦しみはないということを云いたいのでしょう。この文章には明示されていませんが、ホンネでは『地獄の存在など信じていない』風情が感じられます。

『芥川龍之介』は『人生の苦しみ』だけを論じていますが、人生には『人生の楽しみ』もあるはずで、その両方を平等に論じないと、話は一方的に暗いものになってしまいます。更に、ブログに何度も書いてきたように人間の『精神世界』の『判断(価値観)』は、生物進化で継承してきた種の存続のための『両性生殖』というしくみのおかげで、両親の遺伝子の偶発的な組み合わせによってその人の『遺伝子構造』が決まり『個性的』なものになります。何を『苦しみ』『楽しみ』と感ずるかは、人によって異なるというややこしい話になります。

話がそれますが、受胎時には『両親の遺伝子構造を偶発的な組み合わせで受け継いだ遺伝子構造』だけでなく、子供の『遺伝子構造』には、80~100個の、両親の遺伝子には存在しない遺伝子が、『突然変異』として出現することが、最近の研究で分かってきました。この事は、幸運で、『トンビが鷹を産む』という、普通の能力の両親から、天才的な資質をもつ子供が生まれる可能性もあることを意味します。一方不幸なことに、健康な両親から、生まれつきの難病をもつ子供が生まれる可能性もあることを意味します。

この遺伝子継承の仕組みが、『種の継続』のために深い意味を持つと同時に、『ヒト』の進化や、人間社会を多様性に富んだものにするために大きくかかわっていることが分かります。

『人生の苦しみ』は『地獄の苦しみ』に勝ると、『芥川龍之介』に云われても、誰も『そうだ』とも『そうでない』とも断言できません。

このような論法で問題を提起するのであれば、色々な主観的主張を展開することができます。たとえば、梅爺が『人生の悦楽』は『極楽(天国)の悦楽』に勝ると述べたらどうなるのでしょう。梅爺は無名の爺さんで、『芥川龍之介』は日本の文学史上に残る大作家なので、梅爺は怪しいが、『芥川龍之介』は信頼できるということになるのでしょうか。

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2019年9月18日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(4)

『生誕(受胎)』『生命の維持(生きる)』『死』は、『物質世界』の事象として観れば、『摂理』のみに支配されて繰り広げられる『動的な変容』にしかすぎません。

しかし、人間の『精神世界』は、これらに特別の『意義』『目的』『あるべき姿(理想)』を付与して観ようとします。

単なる偶然の『動的な変容』などと言われては、『不安』『不満』ですから、何としても『意味のあるもの』にしたいと『願う』からです。

中でも『死』は、人間にとって最も厄介な事象です。どんなに『願っても』それを回避できないと観念せざるを得ないものであるからこそ、逆に『特別な意義』を見出そうとします。最も影響力の強い事象であると認めざるを得なくなると、『いやいや、死よりも更に強い影響力を持つものがある』と言いだして、『死』を相対的に軽んじようとしたりします。『恋は死よりも強し』などという表現は、そのように生まれます。

『精神世界』は、『どちらが正しいか』『どちらが強いか』などと、白黒の決着をつけようとします。それで『安泰』が得られるからです。

しかし、残念ながら世の中の事象の大半は、特に人間の『精神世界』の価値観が絡む事象は、『どちらが正しいか』『どちらが強いか』などと判定することはできません。

現実には、白黒の決着はつけられないにも関わらず、白黒の決着をつけないと『精神世界』の安泰が得られないという矛盾を抱えながら生きていることを、冷静に見つめることができる人は『器の大きな人』です。

多くの人は、どのような問題にも必ず『正解』があるはずだと、勘違いしています。学校のテストでは必ず『正解』があったことから、そういう勘違いが助長されてきたのでしょう。自分は『正解』を知らないけれども、『正解』を記述した本があるはずだ、『正解』はネット検索でみつかるはずだ、『正解』を知っている人がいるはずだと、助けを外部に求めようとします。その結果、テレビに登場する『専門家』『解説者』のことばを鵜のみにしたりします。

『賢明な人』は、外部の『助け』は参考にしますが、最終的には、自分の持てる能力を総動員して、自分なりに矛盾が少ないと思える『答』を見出そうとします。その『答』には、自分の個性的な『価値観』が関与していることも承知していますから、その『答』が『正しい』などと主張することには極めて慎重な姿勢をとります。常に他人が提示する『答』にも注意を払い、自分の『答』よりは矛盾が少ないとすれば、自分の考えも柔軟に修正しようとします。

『芥川龍之介』が、人間の根幹は『感傷主義』であるというのも、『理想的な状態にある自分を夢想しながら生きる』ということなら、それも『安泰を希求する本能』から派生したものと言えます。

『感傷主義』が根幹にあるのではなく、『安泰を希求する本能』が根幹にあると考えた方が矛盾が少ないという梅爺の考え方は、依然変わりがありません。

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2019年9月17日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(3)

『精神世界』を根底で支配しているものの一つが『安泰を希求する本能』であろうと、梅爺は何度もブログに書いてきました。これは『仮説』ですが、このように考えるとに矛盾は見いだせませんので、梅爺は気に入っています。

『安泰を希求する本能』は、生物が生き残りの確率を高めるために、周囲の事象が『自分にとって都合がよいものか、悪いものか』を最優先で判断することとも言い換えることができます。これが『好ましい(好き)、好ましくない(嫌い)』という情感を生み出しています。この『好き、嫌い』の判断を最優先する習性は、原始的な生物の時代から、継承されてきていますので、『ヒト』だけが持つ習性ではありません。

このように『ヒト』の『脳』は、根底に『情感』による判断があることを理解する必要があります。

その後『ヒト』の『脳』は、高度に進化し、『理』で判断する習性も、追加されました。『理』の判断とは、『因果関係を特定して納得しようとする』習性のことです。これによって『判断ミス』が減少し、生き残りの確率が高まることになるからです。

『生物進化』の過程で、『理』による判断能力は、後から追加されたものであることは、その機能が『脳』の表面に近い『大脳皮質』で行われていることで分かります。

一方、『情』による判断能力は、より原始的であるために、最初に形成された『脳幹』の部分が関与しています。

私たちは、日常周囲の事象を判断するときに、上記の『情』による判断と、『理』による判断を、意識的に、また無意識に巧みに組み合わせて使っています。しかし、『生物進化』の名残が強いために、最初の判断は『情』による判断であることが大半です。

先ず『好き、嫌い』『都合の良し悪し』で判断し、その後『なぜ好きなのか』を『理』による『後付け論理』で補強しようとします。『情』による判断は『理屈抜き』ですから、それ自体は『何故か』と問われても答に窮します。

『精神世界』にとって、『分からないこと』『不思議なこと』は、放置すると『不安』を助長しますので、何とか『因果関係』を考え出して納得しようと(安泰を得ようと)します。このような人間の習性が、『科学』『哲学』『文学』『宗教(教義)』を生み出し、それが文明を進展させてきました。

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』も、梅爺の『梅爺閑話』も、『安泰を希求する本能』から派生した著述であるといえます。しかし、その内容は『精神世界』の『個性』を色濃く反映したものですから、『同じような考え方』『同じような感じ方』になるとは限りません。ですから、『どちらが正しいか』などという議論は、意味がありません。

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2019年9月16日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(2)

人間の『精神世界(心)』は、私たちがそれを所有していると自分では実感はできますが、目で観たり、触ったりして確かめることができないものです。自分が『精神世界』を所有している以上、他人も所有しているに違いないと推測はできますが、その内容を知ることは非常に困難です。

唯一、他人が自らの『精神世界』を、何らかの方法で『表現』してくれた時に、それを手がかりにして『なるほど、そういう風に考えているのか、感じているのか』と他人の『精神世界』の一面を知ることができます。

『芸術』は、『創作者(芸術家)』の『精神世界』の『表現』で、『鑑賞者』は自分の『精神世界』でそれを『評価』し、『共鳴』したり『感動』したりします。『精神世界』を利用した『絆の確認』が『芸術』の本質です。

『絆の確認』は、生物として『群をなして生きていく』方式を採用した『ヒト』にとって、『安泰を確認』するために重要な意味を持ちます。『群の一員であると存在が認められる』ことが、生き残りに関係するからです。『芸術』を何故人間は必要とするのかの答がここにあります。『芸術』は空腹を満たす手段にはなりませんが、『精神世界』の『安泰(満足)』を満たす手段になるからです。

『精神世界』は、直接目で観たり、触ったりできないものなので、『仮想世界』のような存在ですが、実は『物質世界』に属する実態である『肉体』や『脳』が土台に無ければ存在できないものであることを理解しておく必要があります。

端的にいってしまえば、『脳』が存在しなければ『精神世界』は存在しないということで、『死』で『脳』が機能停止した時点で『精神世界』も消滅します。

『芥川龍之介』の『死』と同時に、『芥川龍之介』の『精神世界』は消滅しましたが、彼が残した文学作品(『侏儒の言葉』のような)を介して、私たちは、『芥川龍之介』が生きていた時に所有していた『精神世界』の一面を垣間見ることができます。このように過去に存在した『精神世界』は、まさしく『仮想世界』ですが、それも私たちは『精神世界』と呼びますので、ややこしい話になります。

そういう意味で、私たちは『ダ・ヴィンチ』『バッハ』『モーツァルト』『ゲーテ』の『精神世界』の一端を垣間見ることができます。

現在生きている人の『脳』が創出している『精神世界』と、死者が生前に『脳』で創出していた『精神世界』を同じ『精神世界』という言葉で呼ぶことの違いは、『活火山』と『死火山』を、同じく『火山』と呼ぶのと似ていますから、『活精神世界』と『死精神世界』と区別したほうが分かりやすい時もあります。

生きている人の『活精神世界』の観察は『動画』を観るようなもので、絶えずダイナミックに変動していて観察が難しいものですが、死者が残した『死精神世界』は『静止画』を観るようなもので、ある意味じっくり観察が可能です。

いずれにしても、『精神世界』は、『脳』が基盤にありますので、『脳の生物進化』と『精神世界』は深くかかわっています。

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2019年9月15日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある、『恋は死よりも強し』というエッセイに関する感想です。

『恋は死よりも強し』という表現は、モーパッサンの小説に出てくるものと紹介されています。

『死』より強いのは、別に『恋』ばかりではなく、『食欲』『愛国心』『宗教的感激』『人道的精神』『利慾』『名誉心』『犯罪的本能』など数え上げればきりがないと書いています。

つまり、『死に対する情熱』だけを例外として、その他のあらゆる『情熱』は、『死』より強いものだと述べています。

そして我々を支配しているものは、フランスの小説『ボヴァリー夫人(フローベル著)』の主人公のように、自身を伝奇の中の恋人のように空想する『感傷主義』であると書いています。

『ボヴァリー夫人』は、田舎の退屈な生活に飽き飽きして、華やかな生活を求めて都会へでますが、不倫や借金の問題を抱えて、最後は服毒自殺するというストーリーです。

『死』より最も強いものが『恋』と言えるかどうかは別として、『死』より強いものが存在することは認めたうえで、我々を支配している大元は『感傷主義』であると断じています。

『恋は死より強し』ということは、『恋が成就するならば死んでもよい』『愛する人のためならば自分の命は捧げてもよい』というような、『死』より『恋』の価値観を優先することを言うのでしょう。

本来、『死』と『恋』は直接比較することができない概念です。比較する為の普遍的な尺度が無いからです。

しかし、私たちの『精神世界』は、これを『価値観』という尺度で、比較の対象にします。この『価値観』という尺度は、普遍的ではなく『個性的』なものですから、『ある人の価値観ではそのように言える』ということにすぎません。

言い方を変えると、私たちの『精神世界』は、『個性的な価値観』で、どんなものも比較の対象にすることができます。典型的な例をあげれば『命は地球より重い』などという表現がそれに当たります。

『侏儒の言葉』で述べられていることの大半は、『芥川龍之介』の個性的な『精神世界』が下した『判断』『評価』であるということになります。『芥川龍之介』がどのような人物であるかを私たちが『判断』『評価』するうえで、これらは有益なものですが、『芥川龍之介』のような偉大な作家が言っていることなので、この『判断』『評価』は『正しい』と短絡的に『受け入れる(信ずる)』必要はありません。

もちろん『芥川龍之介』の『判断』『評価』に『共鳴』する方がおられるのも当然ですが、自分の『価値観』とは『違う』と梅爺は感じています。しかし、梅爺は『芥川龍之介』の存在を否定するつもりはありません。偉大な才能に敬意を表した上で、『価値観が違う』と感じているだけです。『精神世界』が個性的である以上、これは当然の話です。

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