2019年11月28日 (木)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(6)

『言葉』で全ては表現できるという考え方が、西欧の文化の基盤にあるように思います。

『新約聖書』の『はじめに言葉あり、言葉は神なりき』などという表現は、それを端的に示しています。『言葉は真理であり、万能である』ということなのでしょう。

しかし、日本では『言葉』は、『精神』を啓発する『手段』であり、啓発された『精神』の内容は、必ずしも『言葉』では表現できないと考えられてきたように思えます。

このため、『言葉』は大切にされますが、『言葉』によって啓発された『精神』は更に尊重されることになります。

制約された語数の中で、広大な『精神世界』を表現しようとする『俳句』『和歌』や、厳選された『言葉』や極限に形式化した所作で、『ワビ』『サビ』『滑稽』を表現する『能』『狂言』が、日本独特の『文化』になっているのはこのためです。

西欧の人たちにとって、この『文化』の違いを理解することは非常に難しいのではないでしょうか。

日本人が『言葉』ではなく、『空気』で、『絆』を確認しようとするのは、この『文化』の継承があるからでしょう。

『阿吽の呼吸』『惻隠の情』『忖度』などが重要となるのはそのためです。

西欧の夫婦のように、毎日『I love you』と口に出して、愛情を確認すると言った行為は、日本では必ずしも誠意の表現とは限らないと受け止められます。

仲間内で高度なレベルの『主観の共有』が実現していないと、『阿吽の呼吸』『惻隠の情』『忖度』などは成り立たず、むしろ『誤解』を生むことにもなりかねません。

親しくない人とのコミュニケーションには、『言葉』は重要な役目を果たし、例え形式的な表現でも、表現すること自体に意味があります。

親しい間柄では、『言葉』だけでお互いの『精神』状態を深く理解することが、難しくなります。

『言葉』の達人は、このような『言葉』の特性を熟知している人で、世の中にはそう沢山はおられません。『語彙』が豊富であっても、『言葉』の達人とは言えません。

コミュニティのメンバーの『考え方』『感じ方』『価値観』を、統計的に集計した結果が『輿論』として反映されることになりますが、統計的に集計する方法が適切ではない場合は、『輿論』は、それほどあてになるものではなくなります。

誰かが『輿論』を振りかざして、『正義』を主張するときには、その『輿論』の実態を検証してみる必要があります。

また、大衆が感情的になっている時の『輿論』は、冷静さを欠きますので、注意を要します。

イギリスが国民投票で『EU離脱』を決めてから、進退に窮していることを観ると、『多数決』『国民投票』『輿論』などという概念は、私たちの日常の判断同様、必ずしも適切な結果を招来するものとは限らないと考えるべきでしょう。

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2019年11月27日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(5)

『輿論』は昨日も書いたように、『個性』の『違い』を『正規分布』でプロットした時の。中央部分の『多数派』を中心に形成されます。

『多数派』は『大衆』とよばれる集団で、この人たちの習性の特徴は、『理』ようりも『情』で物事を判断することです。論理的な『因果関係』で納得して判断するのではなく、理屈抜きに『嫌いなもの』『不都合と感ずるもの』に反応して、これを糾弾の対象にします。

冷静に『理』で判断する人は、世の中の『少数派』で、この人たちの『考え方』は『輿論』にはなりにくい側面があります。

『大衆』は『情』で判断しながら、自分たちは『正しい』と思い込んでいますから、糾弾対象は『悪の権化』になり、自分たちは『白馬の騎士(正義の味方)』であると思いあがることになります。

『芥川龍之介』が、『輿論は私刑(リンチ)である』と洞察するのは、この事を指していることになります。

糾弾される側は、法廷などで反論することもできず、徹底的に葬り去られてしまいます。『私刑(リンチ)』の恐ろしい側面です。

『輿論』は自然発生的に形成されるものばかりではなく、『黒幕』が意図的に仕掛けて形成されるものもあります。

『輿論』は『正しい』などと、単純に思いこんでいると、私たちは『誰か』の思惑通りに踊らされてしまうことにもなりかねません。『輿論』はいつもいつも社会にとって『良薬』であるとは限らず、『激薬』『毒薬』にもなりえます。

『輿論』『国際世論』を誰かが主張した時、それは厳密な裏付け資料に基づくものではなく、主張する人が『そうあってほしい』と願う内容であったりしまうから、これも注意を要します。

『権力者』にとって『輿論』は、両刃の剣で、自分たちに都合よくそれを利用しようとすると同時に、自分たちが糾弾対象になることを非常に恐れます。

『独裁者』や『独裁政党』が、メディアを統制下において、『情報』を監視するのはそのためです。一方、大衆が『輿論』で決起し、自分たちに権力基盤が崩壊することを何よりも恐れますから、『独裁者』や『独裁政党』にとって都合の悪い『輿論』は、徹底蹂躙の対象になります。『輿論の存在する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである』と『芥川龍之介』がいうのは、この事なのでしょう。

日本には『輿論』より更に厄介な『空気』『気配』などの言葉があります。

『空気が読めない男(女)』は、仲間から後ろ指をさされ、敬遠されます。逆にわざと『空気』を無視して振舞い、『あ、お呼びでない。これは大変失礼しました』などと笑いの種にすることも一時はやりました。

何となくその場の人たちが共有している『価値観』が『空気』の対象ですが、これを『察する』ことは容易なことではありません。私たちは自覚せずに、『空気』を読まずに行動しているのではないでしょうか。 

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2019年11月26日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(4)

『多数決』で最後は物事を決めるという『民主主義』のルールは、それが『正しい』からルールとして定着しているのではなく、『それに代わる良い方法が見つからない』からという理由で、社会の約束事になったものです。いわば『次善の策(知恵)』といえるものです。

『民主主義』にも『多数決』にも、沢山の欠陥がありますが、多くの人はそうは考えず、『民主主義』『多数決』は絶対的に『正しい』と思い込んでいます。

『輿論』は『多数決』の母体となることで、これまた『輿論』は『正しい』という単純な考え方を多くの人が信奉しています。しかし、現実に『輿論』は『正しい』などとは言い切れません。

梅爺が何度もブログに書いてきたように、人間は生物として『個性的』に生まれてくるように宿命づけられています。『精神世界』も『個性的』ですから、ミクロに観れば一人一人の『考え方』『感じ方』『判断のための価値観』は異なっています。

しかし、この『違い』は、『正規分布』でプロットされるようなものですから、『正規分布』の中央部を占める『多数派』の『違い』は、マクロに観れば、『似たりよったり』で、顕著な『違い』としては表面に現れません。

したがって、『多数派』に属する大半の私たちは、自分たちが『個性的』であることをあまり意識しません。そして自分が『標準的』であると考え、周囲の他人にも『標準的』であることを求めます。

しかし、あるとき自分と同じであると考えていた他人の、『考え方』『感じ方』『判断の価値基準』が『異なっている』と気付いた時に、動転して『あなたは間違っている』などと非難します。人間関係のギクシャクは、このような単純な理由で始まります。

『輿論』は、言ってみれば『正規分布』の中央部をしめる『多数派』の『考え方』『感じ方』『判断の価値基準』の平均値を反映したものと言えます。

『正規分布』の末端の裾野を占める『少数派』の『考え方『感じ方』『判断の価値基準』は、『多数決』のルールで『輿論』には反映しません。

興味深いことに、人間社会の全てのことは『多数派』中心に展開されているわけではありません。

『宗教』『芸術』『科学』『スポーツ』などの世界は、『正規分布』でいえば、末端の裾野を占める、標準的な能力からみると、『非情に異なった特筆すべき能力(非凡な能力)』の人たちが『主役』の世界です。『釈迦』や『キリスト』は、『非凡の人』であったがゆえに『教祖』となりました。『芸術』『科学』『スポーツ』の進展を支えてきた人たちも『非凡な人』です。

人類の『文明』を進化させてきたのは、標準的な『多数派』ではなく、非凡な『少数派』であったことに注目すべきではないでしょうか。

『非凡な人』を、排除してしまう『民主主義』『多数決』の政治は、人間社会の中では、特殊な世界と言えるのかもしれません。

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2019年11月25日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(3)

大衆の『輿論』を、統計的、定量的に把握することが行われるようになったのは、人類の歴史上近世以降のことではないでしょうか。

『選挙』『世論(輿論)調査』などが、その手段となりました。

古代ギリシャの『都市国家』で、市民権を持つ男たちによって、『投票』が行われ、リーダーの選出が行われたのが、『直接民主制』の始まりと言われていますが、コミュニティの規模が大きくなかったために可能であったとも言えます。

『法王』を選ぶための、枢機卿による投票『コンクラーベ』も、枢機卿の数が限定されるコミュニティであるがゆえに可能であったのでしょう。

大規模な『有権者』による、『選挙』が行われるようになったのは、近世以降のことですが、現在でも公正な監視環境下で『選挙』が行われているかどうかは、国家体制によっては『疑わしい』ところも沢山あります。『権力者』は自分に都合よく『選挙』結果を操作しようとするからです。

『民主主義』体制化の『選挙』が、端的に『輿論』を反映していると言ってよいかもしれません。それでも僅差で勝利した『与党』が、『国民の附託を得た』などと、圧倒的な支持を得たかのように主張しますから、『輿論』が『詭弁』の種として使われることに注意が必要です。

報道機関などが行う『輿論調査』も、無意味とは言えませんが、実態を反映しているかどうかは、検証する必要があります。アンケートの設問の設定次第で、結果を操作することが不可能ではないからです。アンケートの結果を『正しい』と盲信するのは危険です。

アンケートが行われた時の『状勢』も、結果に大きく反映します。『9.11』直後のアメリカでは、『テロ組織への徹底報復』を主張するブッシュ政権が国民から圧倒的な支持を得ました。『何故アメリカは世界の一部の人たちから嫌われるのか』などといった、反省の論調は影をひそめてしまいました。『輿論』は刹那的な情感に作用されることの証拠です。

何かと言えば『反日デモ』『日本製品不買運動』などに走る『中国』や『韓国』の『輿論』も、後ろで糸を引く黒幕がいるのかどうかは別にしても、刹那的に見えます。

一方『輿論調査』の結果で、『権力者』も一喜一憂することになります。永田町は『内閣支持率』などの結果に敏感になります。

『支持率』を挙げるために、国民に媚びる言動が多くなり、発言内容は『美辞麗句』のオンパレードになります。『国民の命と財産を守る政治』『誰もが安心して暮らせる格差のない社会』などという、歯が浮くような発言が、臆面もなく飛び交います。

メディアはこれを『ポピュリズム』と非難の対象にしますが、『ポピュリズム』を生み出す母体が、メディアの行っている『輿論調査』であることには触れません。

国民の大半の意向に沿う政治を行うことは、政治にとって重要な要因ですが、『支持率を高めること』『次の選挙に勝つこと』を目指す『ポピュリズム』政治は、国の将来を危うくしかねません。『輿論』は尊重すべきですが、それだけを指針の基準にするわけにもいきません。

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2019年11月24日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(2)

『輿論』とは何かを定義することは、意外に容易ではありません。

コミュニティに関連する事象について、コミュニティのメンバーが、自由意思で『何を考えているか』『どう感じているか』『どう評価しているか』などを表明し、その結果を公正な方法で集計した統計的『結果』が、『輿論』といえるのかもしれません。

メンバーの『自由意思による表明』と、『公正な方法での集計』が重要で、『自由意思が表明できない環境』、『公正とは言えない集計方法』が関与している場合は、結果は『輿論』とは言えません。

『独裁国家』や『独裁政党国家』などの、『輿論』は全く当てになりません。秘密警察が跋扈(ばっこ)しているような社会では、国民は、保身のために『自由意思』による表明などは避けますし、『権力』の支配下にある機関が、集計した内容には、『権力』に都合が良い捏造が包含されるからです。

北朝鮮の国民が100%『将軍様を信奉し、賛美している』といっても、それは『輿論』の反映とは言えません。

それでは、『民主主義体制』の下の『輿論』は信頼できるのかというと、手放しでそうとは言えない問題を抱えています。

確かに、『独裁国家』や『独裁政党国家』よりは『まし』であると言えますが、国家の将来を決める指針になるほど確かなものかと言えば、きわめて『おぼつかいない』と言わざるをえません。

私たちは、自分に与えられた『情報』で、『考え』『感じ』『判断する』わけですが、その『情報』に『偏り』があると、『考え』『感じ』『判断する』内容にも『偏り』が生じかねません。『メディアの報道』『政治リーダーの発現』『有識者の意見』などが、『情報』源ですが、それが『偏っている』かどうかを見極めることは非常に困難です。

私たちは『情報』を『鵜のみにする』、『情報』に『感化される』習性を持っています。更に自分に都合のよい『情報』を優先して受け入れる習性も保有しています。

このため、自分では自由意思で『考え』『感じ』『判断した』内容は、必ずしもそうとは言えない側面を持っています。

何よりも、『理性』より『情感』が『精神世界』では強く作用しますから、情緒的な判断を下すことになりかねません。

『多数決』という『民主主義』のルールを、金科玉条のように考える人には、『輿論』は尊重すべきものと言うことになりますが、全幅の信頼を寄せ得るほどの確かなものではないというのが実態ではないでしょうか。

『権力』は『輿論』の影響を受けますが、逆に『権力』は『輿論』を操作して利用しようともします。

『民主主義』体制化の『メディア』も、公正中立ではなく、発行部数(売上)や視聴率を稼ぐために、大衆が『好む』情報を優先したりします。 

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2019年11月23日 (土)

『侏儒の言葉』考・・『輿論(よろん)』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『輿論(よろん)』という文章に関する感想です。短い内容なので、以下に全文を掲載します。

輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代わりに新聞の記事を用いたとしても。

輿論の存在に値する理由は輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。

これは『輿論』が持つ、恐ろしい一面を表現していることは、梅爺にも理解できます。しかし、これだけでは『輿論』は百害あって一利なしということになってしまいます。

『輿論』は、民主主義の母体となるもので、そのコミュニティが次にどう振舞うべきかを決める指針になる重要なものであると思い込んでいる多くの庶民の『浅はかさ』を、『芥川龍之介』は、『私が実態を教えてあげましょう』と衝撃的な表現でたしなめているようにも思えます。

つまり『私は本当のことを知っている賢い人』で、あなたたち(読者)は、『浅はかで賢くない人』という蔑みが込められているように感じてしまいます。

『芥川龍之介』のこのような辛辣な表現は、『ブラック・ユーモア』とは言えるかもしれませんが、日本人が好きな『諧謔』とは異なっているように感じます。

『諧謔』は、他人を笑い飛ばすと同時に、自分も同類と認めて、自らも笑い飛ばす対象にしているように感じます。

『芥川龍之介』の『輿論』に対する考え方は、勿論『間違っている』と言えるものではなく、『輿論』の持つ一面を鋭く洞察しています。

しかし、この一面だけで『輿論』を断ずるのは、『片手落ち』のような気がします。

人間社会に、何故『輿論』は登場するのか、人間や人間社会の本質と『輿論』はどのようにかかわっているのかをどうしても考えてみたくなります。

『芥川龍之介』の指摘するように、『輿論』がコミュニティで『私刑(リンチ)』となり、その『私刑』をコミュニティのメンバーは、内心『娯楽』として楽しむといった『おぞましいここと』が何故起きるのか、そして必ずその『輿論』を、今度は否定したくなる興味を何故一部の人たちが抱くようになるのかといった理由を知りたくなります。

梅爺が今までブログに書いてきたことと照らし合わせれば、『輿論』は『主観の共有』という表現に相当します。

17万年前に、アフリカ中央のサバンナに出現した、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』は、約7~8万年前に、『主観の共有』という新しい資質を身につけるようになったと考えられています。後の『農耕革命』『産業革命』『情報革命』など、『ホモ・サピエンス』が達成した『革命』になぞらえれば、『主観の共有』は『認識革命』と呼ぶにふさわしいものです。

どの『革命』も、『文明』を大きく進展させることに貢献してきました。 

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2019年10月25日 (金)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(4)

『スポーツ』『科学』『芸術』などは、『マイノリティ』に属する『天才』の出現で『進化』します。

一番分かりやすいのは『スポーツ』で、『天才』の能力は数字や勝敗に現れますから、能力では遠く及ばない『マジョリティ』の大衆は、『天才』を称賛を持って迎え入れます。そして『記録』が更新され、『スポーツ』のレベルは進化していきます。

『科学』は、『マイノリティ』の『天才』が、革新的な『仮説』を披露し、最初大衆はその意味を理解できませんが、『仮説』が証拠に支えられて『定説』に変わっていくことで、ようやく大衆もその本質的な意味に気付き受け入れ始めます。『科学』は『理』で、『真偽』の判定が下される世界ですから、『好き』『嫌い』といった情感が入り込む余地がなく、『天才』は『天才』としての功績を歴史に残し、『科学』の世界は進展します。

『芸術』も『マイノリティ』である『天才』が登場して進化しますが、『スポーツ』や『科学』のように、『天才』が『天才』として大衆に受け入れられるプロセスは、判然としません。

『芸術』に関しては、大衆が継承、共有している保守的ともいえる『価値観』があり、これが新しい『価値観』の受け入れに抵抗要因として作用するからです。死後に評価が高まる芸術家も少なくありません。

梅爺は、できるだけ柔軟に『芸術』に接しようと思いますが、それでも『前衛』といわれる表現には、戸惑うことがあります。『マジョリティ』が待つ保守的な『価値観』に、無意識のうちに支配されているからなのでしょう。

『醜聞』の話が、いつの間にか『天才』論になってしまいましたが、これは『芥川龍之介』が『天才の一面は明らかに醜聞を起こしうる才能である』などと書いていることに啓発されたからです。

『醜聞』という表現には、『恥ずべき行為』という意味が込められていて、世の中の『マジョリティ』が共有する『価値観』からみて、『それは好ましくない』と判断されるものですが、『マジョリティ』が共有する『価値観』は、その社会で受け入れられやすい『無難』なものであっても、普遍的に『正しい、好ましい』とは必ずしも言えないものであることを認識する必要がありそうです。

一方、『マジョリティ』が共有する『主観的な価値観』は、不必要なものではなく、これが無ければ人類は高度な『文明』を築けませんでした。『神』『国家』『貨幣価値』などというのは、『主観の共有』が無ければ、機能しない概念です。

生物の中で、『ヒト』だけが、高度な『文明』を築くことができたのは、これに由るものです。『マジョリティ』の『主観の共有』の長所、短所、『マイノリティ』が発信する独創的、革新的、個性的な『主観』の長所、短所を、総合的に理解して、どのようにバランスをとるかは、人類の将来に大きく影響します。

『マイノリティ』を、端(はな)否定し、抹殺しようとする社会は、『進化』を拒否する社会で、健全とはいえないような気がします。

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2019年10月24日 (木)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(3)

『正規分布』の中央部に位置する大半の人たちは、『普通の人たち』で社会の『マジョリティ』になります。

この人たちが共有する『常識』という『価値観』は、社会を運営していく上で重要な役割を果たし、『常識』は強固な基盤ですので、社会を『保守的に維持する力』として作用します。

一方『正規分布』の裾野に位置する『普通でない人たち』は、社会の『マイノリティ』で、『天才』もこれに属します。

この『マイノリティ』の人たちの、『常識』を逸脱した行動や、考え方は、『革新的』で、多くの場合『保守的な力』に抑圧されてしまいますが、稀に『マジョリティ』の人たちを感化し、やがては『マジョリティ』にも支持されて、社会の『価値観』を変えていく要因になることがあります。

人類の『文明の進化』を鳥瞰すると、はじめは『マイノリティ』であった人たちの『価値観』が、やがて『マジョリティ』を感化し、社会を変えていく要因になっていることが分かります。

『マジョリティ』の『常識』から、いつまでも脱却できない社会は活気を失い、『マイノリティ』から始まった『革新』で活気ある社会に敗れていくことになります。

『芸術』の世界では、これが顕著です。ベートーベンの『交響楽』も、ゴッホの絵画も、『マジョリティ』が受け入れるまでに、時間を要しました。

『NHKから国民を守る会』などという政党が出現し、『NHK不要論』を主張していますが、梅爺は賛同できません。『民放があるからNHKは不要』という主張は、両者の番組の『質』を無視しているからです。『民放』は、広告収入で経営が成り立っていますから、基本的に視聴率最優先で、『大衆が求める番組』に重きがおかれますから、『おちゃらかバラエティ番組』『バラエティ仕立てのワイドシュー番組』が多くなります。

梅爺は『NHK』の『日曜美術館』『クラシック音楽館』『コズミック・フロント(宇宙科学の啓蒙番組)』などを愛好する視聴者ですが、このレベルの『質』の番組を『民放』に求めることができません。『民放』では、視聴率が稼げないこのような番組は、編成会議でふるい落とされるでしょうし、その結果このような番組を企画し制作する能力も失ってしまっているのではないでしょうか。

『NHK』の番組は、全て『高尚』であるなどと褒めるつもりはありませんが、『文化』のレベルを維持し、啓蒙していく役割は、日本の将来にとって重要です。梅爺は、『NHK』の視聴料金が、不当に高いとは思いません。

『マイノリティ』を受け入れない社会は、『革新』を受け入れない社会同様、進化が期待できません。

『役員会が全員賛成したら、私はその方針に疑念を抱く』と主張する会社の経営トップがおられますが、これは傲岸さの表明ではなく、人間社会の本質を突いている指摘であると、梅爺は感じます。 

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2019年10月23日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(2)

『侏儒の言葉』『醜聞』という文章の最後に、『芥川龍之介』は以下のような、気になる一文を添えています。

『天才の一面は明らかに醜聞を起こしうる才能である』

『天才』は普通の人が計り知れない才能の持ち主で、その考え方や行動の規範も、普通の人が『常識』とするものをはるかに超えている、だからこそ『天才』なのだということなのでしょう。

普通の人から観ると『常軌』を逸した行動に出る可能性も高く、それは一般には『醜聞』と言えるものかもしれないと言いたいのでしょう。

普通の人が、自分の『常識』で『天才』を律してはいけないというようにも取れますし、『自分もそのような天才でありたい』という羨望が込められているようにも感じます。

この世は、普通の人たちの『常識』を基盤として営まれていますが、そのような『常識』を金科玉条のように『正しい』と信奉することに、異を唱えたくなる反骨精神がうかがえます。

人間は、肉体的にも精神的にも『個性的』に創られています。『神』がそのように人間を創ったのではなく、『生物進化』の過程で、子孫を残す方法として『両性生殖』という方式が選択されたからです。受胎時に両親の『遺伝子』を偶発的に組み合わせ選択して、子供の『遺伝子』が決まるからです。また受胎時に、ごくわずかな『突然変異の遺伝子』も保有するようになることが最近の研究で分かってきました。『両親』が保有していない、独自の『遺伝子』も子供は保有しているということです。

この『突然変異の遺伝子』は、深刻な『欠陥』をもたらすこともありますが、逆に『天才的な能力』をもたらすこともあります。『トンビが鷹を産む』というような現象は、このようにして起こります。

人間が『個性的』であるということは、一人一人が異なった体格、容貌を保有し、考え方、感じ方も異なっているということです。

しかし、その違いは、統計学の『正規分布』を用いて示すこともできます。『正規分布』の中央部分には、大半の人がそこに包含されて、この人たちは『ミクロ』に観れば『個性的』で異なっていますが、『マクロ』に観れば相互に大きな違いのない似たような人たちであることになります。

そのために、世の中は『相互に大きな違いのない似たような人たち』で大半は構成されていることになり、この人たちの『常識』が、世の中の『常識』になります。

そのことで、私たちは本来『個性的』に創られているという認識が希薄になり、『常識』を共有しているのであるから自分の他人も同じであると錯覚します。そして『常識』から外れた考え方や行動は、『正しくない』と非難し始めます。

『天才』は、『正規分布』でいえば、裾野に位置する『マイノリティ』で、ある種の『能力』は、『正規分布』の中央付近に位置する『普通の人』からは、並はずれて高い人と言うことになります。

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2019年10月22日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある、『醜聞』という文章の感想です。

『醜聞』は、多くの場合著名人の『スキャンダル』のことで、『公衆は醜聞を愛するものである』と『芥川龍之介』は最初に断じています。

『他人(ひと)の不幸は蜜の味』というような表現がありますから、人間の深層心理に触れる話です。

『私は他人の不幸を喜ぶなどというはしたない人間ではない』と憤慨される方もおられると思いますが、『釈迦』のように煩悩を解脱した人でもない限り、道徳的に好ましいとは言えない『自分の実態』を認めたくないとする心理が働いているだけのことではないでしょうか。人間は『仏心』と『邪心』の双方を併せ持っているという現実を、認めたくないという心理が背景にあるのでしょう。

『公衆は何故他人の醜聞を愛するのか』という問いに対する『グルモン』と言う人の次のような答が、紹介されています。

『隠れたる自己の醜聞も当たり前のように見せてくれるから』

『芥川龍之介』は『グルモン』の主張は当たっていると認めながら、必ずしもそればかりではないであろうと、次のように述べています。

『醜聞さえ起こし得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼らの怯惰(きょうだ)を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである』

『怯惰』は『臆病で気が弱いこと』という意味ですから、分かりやすく言ってしまえば、『自分の弱さを弁解したり、存在しない優越性をでっちあげて自己満足している』ということになります。

美人の映画スターが不倫事件を起こせば、『私は彼女ほど美人ではないが、彼女より貞淑である』と自己弁護し、著名な才人が醜聞を起こせば、『私は彼ほどの才能はないが、彼よりは世間を知っている』と自己弁護するといったことが具体的な例です。

梅爺はこの『芥川龍之介』の見解に共感できます。

梅爺流に言えば、人間の精神世界は、『安泰を希求する本能』に強く支配されている』ということで、他人の『醜聞』を高みから見物し、相対的に自分の『安泰』が確認できる『満足感』が根底にあるということになります。

『有名人が自分の知人である』ことを吹聴したり、有名人の『サイン』を貰おうとしたり、有名人に『握手』を求めたりする行為も、相対的に自分の立場を『有名人と同じレベル』に引き上げて満足しようとするものに過ぎません。

自分の『絶対的な能力レベル』を直視し、認めることができる人は『器の大きな人』です。多くの人は、『他人のレベル』と『自分のレベル』を、相対的に比較操作して、喜んだり、落ち込んだりしながら生きています。そして、その滑稽さになかなか気づきません。

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