2020年1月29日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(4)

繰り返しで恐縮ですが、昔誰かが『主観』で言いだした虚構の概念や虚構の因果関係を、やがて多くの人が『信じて』共有することが『主観の共有』です。

『桃太郎』や『かぐや姫』は、創り話の中の虚構の人物で、実際には存在しない人物であることは、多くの人の共通認識ですから、『主観の共有』とは言えません。

大人にとっては『サンタクロース』は、虚構の人物であるという共通認識ですから、これも『主観の共有』とは言えません。しかし、多くの子供にとっては、『サンタクロース』は、贈り物を持ってきてくれる実在の人物と『信じている』対象ですから、子供たちにとっては『サンタクロース』は『主観の共有』ということになります。

コミュニティのどのくらいの割合の人が『信じた』ら、『主観の共有』と言えるのかなどという基準はありませんので、何を『主観の共有』とするかは、微妙な問題です。

『侏儒の言葉』の表現を観る限り『芥川龍之介』は『ユウトピア』の存在は、『疑って』いると言えるでしょう。現代社会の多くの人も『ユウトピア』の存在を『疑って』いるように思えますので、『ユウトピア』を『主観の共有』とみなすことには、異論があるかもしれません。

しかし、『日本と言う国家』が存在することや、『一万円札には一万円の価値がる』ことを、『疑う』人はほとんどいないでしょうから、『国家』『貨幣価値』は強固な『主観の共有』ということになります。

それでは、『神』『霊』『あの世』はどうでしょう。

近世以前の人類にとって、『神』『霊』『あの世』は、強固な『主観の共有』対象でした。『神への感謝』『神への奉仕』が、人々の『生活』そのものであり、皇帝や王も、『神』の前にぬかずきました。芸術家も『神』を信じて、『宗教画』を描き、『宗教曲』を作曲しました。

災いの大半は『悪霊』がもたらすものと、人々は『信じて』いましたから、『悪霊』を封ずるための『加持祈祷』は、コミュニティの重大な行事として執り行われました。

死後に『あの世』があることも、『疑う』人はほとんどおらず、死への不安を人々は『安堵』に変えました。

『宗教』によって、人間社会に深く根付いたこれらの『主観の共有』が、現代でも大きな影響力を持ち続けていることは御承知の通りです。

近世以降、『宗教』と並んで『イデオロギー』も『主観の共有』対象として、人類へ大きな影響を及ぼし続けています。

『イデオロギー』と『宗教』は、同じように論ずる対象ではありませんが、『信じて』いる人たちで支えられているのは共通です。

それでも、近世以降『宗教』が提示する『主観の共有』が、人間社会で必ずしも『強固』と言えなくなったのは、『科学』が、『物質世界』の事象を解明し始めたからです。『科学』は普遍的な事実を提示しますから、『信ずる』対象にはなりません。

『神』『霊』『あの世』を、『疑う』人たちが増えつつあることに、『宗教』はどのように対応していくのか、梅爺の興味の対象です。

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2020年1月28日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(3)

『ユウトピア』や『神』は、人間の『精神世界』が創出した虚構の抽象概念であろうと、梅爺は仮説を昨日述べました。梅爺の稚拙な理性が判断する限り、この『仮説』に矛盾を見出せません。

『ユウトピア』や『神』が、『物質世界』のどこかに存在するという『仮説』には、むしろ多くの矛盾を指摘することができます。

それでも、梅爺は『ユウトピア』『神』は実態として『存在しない』とは断言できません。論理的には『存在しない』ことを証明することは不可能であるからです。

人間の『精神世界』は、自由奔放に虚構の概念を創出できることが特徴です。

『安泰を希求する本能』を満たすために、虚構の概念や虚構の因果関係を『表現』することになります。

『願う』『期待する』『希望する』『祈る』などは、全て『安泰を希求する本能』がもたらす行為です。

『不思議なこと』『分からないこと』を私たちは、放置すると、『安泰』、が脅かされますから、何としても自分で納得できる『因果関係』を考え出そうとします。勿論それは『自分にとって都合が良いもの』になります。

『ユウトピア』や『神』は、『そういうものが存在してほしい』と『願う』人間の『精神世界』が創出したものに違いありません。

特に『神』は、それによって『不思議なこと』『分からないこと』の説明ができてしまうという、絶大な効果をもたらしました。全て『神の御業』『神の御意志』とすれば良いからです。古代の人が『天地(人間も含み)は神が創造した』と考えたのは、これに優る『因果関係』を思いつかなかったからです。梅爺も当時の人間であれば、それを『信じた』でしょう。

『精神世界』が考え出す『因果関係』は、『物質世界』を説明する『因果関係』のように、普遍的なものではありません。このため『精神世界』の考え出す『因果関係』は、自由奔放になります。『桃から男の子が生まれる(桃太郎)』『竹の中から女の子が生まれる(かぐや姫)』ことになります。

『人間社会』にとって重要なことは、『誰か』が主張し始めた『虚構の概念』『虚構の因果関係』に、多くの人が共感して『自分の考え方』として受け入れる(信ずる)という現象が起こることです。

これは『主観の共有』という現象で、一度『人間社会』に根付いた『主観の共有』は、大きな影響力を発揮し続けます。

『ユウトピア』は、『主観の共有』の一つの例です。

本来『主観』は『個性的』でバラバラなものですが、『人間社会』で、多くの人たちが『共有』すると、一色になってしまうという不思議なことが起こります。

『神』『国家』『貨幣価値』などは、『主観の共有』の中でも特に大きな影響力をもたらしたものです。 

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2020年1月27日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(2)

私たちは『ユウトピアなど存在しないだろう』と『感じ』ますが、存在しないと断言できません。梅爺は『神は存在しないだろう』と『感じ』ますが、存在しないと断言できません。

断言するには、論理的で普遍的なルールで、『ユウトピアは存在する』『神は存在する』という『命題』が『偽』であることを証明しなければなりません。

『科学』や『数学』の世界は、普遍的な『真偽』を判定する場で、論理的で普遍的なルールが活躍します。

『物質世界(自然界)』は『科学』が探究する場ですから、『物質世界』の事象は『真偽』判定の対象になります。

『地球という惑星は球体である』という『命題』は、普遍的に『真』と判定できます。

それでは、何故『ユウトピア』『神』は、『真偽』の判定の対象にならないのでしょう。

梅爺が思いつく仮説は、『ユウトピアや神は、物質世界に実態が存在するものではなく、人間の精神世界が創出した仮想の抽象概念(虚構)である』というものです。

人類の歴史の中で、昔『誰か』が、『ユウトピア』や『神』という抽象概念を思いついて、『主張』したのであろうという推測です。

この主張は、周囲の人たちの『共感』を喚起し、やがて多くの人たちも、その抽象概念を支持する(信ずる)ようになったのでしょう。

『信ずる』は、論理的、普遍的に『真偽』が判定できないことに対して、『こうであろう』と判定を下す行為です。『信ずる』の反対の行為は『疑う』です。

私たちの周囲の事象で、『真偽』が判定できる事象は一部にしか過ぎず(大半は『物質世界』の事象)、ほとんどは『真偽』の判定ができない事象です。しかし、それでも『何らかの判定』を下して、先へ進むしかありませんから、私たちは『信ずる』『疑う』を多用しながら『生きる』ことになります。この習性は、人間ばかりではなく、他の動物も同様です。

『信ずる』『疑う』は、普遍的な判定ではなく、個性的な判定です。同じ事象に遭遇しても、Aさんは『信じ』、Bさんは『疑う』という違いが生じます。

『精神世界』は、このように『個性的』であると認識することが重要です。社会の中で、私たちは、自分の存在を周囲の仲間から認識してもらう必要があり、このために自分の『考え方』『感じ方』を『主張』することが大切になります。つまり、自分が何を『信じて』いるか、何を『疑って』いるかを表明することには大きな意味があります。この時に注意を要するのは、あくまでも個人的な見解を述べているだけで、『普遍的に正しい』ことを主張しているわけではないという認識です。

しかし、残念ながら多くの人たちは、この『個人的な判定』と『普遍的な判定』の違いが区別できず、『個人的な判定』を『普遍的な判定』と勘違いしてしまいがちです。

この結果、『私は正しい(正義)』『あなたは間違い(邪悪)』とののしりあうことになります。この大規模なものが『宗教対立』『イデオロギー対立』で、不幸なことに『戦争』にまで発展したりします。

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2020年1月26日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『ユウトピア』という一文に関する感想です。

原文は大変短い文章なので、全文を以下に紹介します。

完全なるユウトピアの生まれない所以(ゆえん)は大体下の通りである。―――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものは忽(たちま)ち不完全に感ぜられてしまう。

『ユウトピア』は、古来人類が夢見てきた『理想郷』のことで、あの世の『天国』『極楽』もその一種ですが、あの世といった不確かなものではなく、この世で手っ取り早くそれを体験したいと、欲張って願ってきました。

『憂い悩み苦しみががなく、ただ心安らかに過ごせる場所』を願うのは、この世が憂い悩み苦しみに満ちているからです。

『釈迦』も『何故生きることは苦しいことなのか』という根源的な疑問に、答えを出そうと修行し、『煩悩を解脱した涅槃の境地』を見出しました。

『涅槃』は『ユウトピア』と言えますから、『煩悩』を解脱できれば『ユウトピア』を体験できることになります。しかし、それは『論理的な解』であって、人間の本性を考えると、『煩悩の解脱』は、不可能に近い無理難題ですから、仏教は、『限りなく煩悩の解脱のための努力を続ける』ことに意味があると説いています。具体的には『できるだけ邪心を排して、仏心に近づきない』ということになります。

『芥川龍之介』は『人間性』という言葉を使いながらその定義は示していませんので、推測するほかありません。

文脈を考えると『飽くなき欲望を有する』ことが『人間性』というようなことかと思いつきます。

『飽くなき欲望を有する』限り、一度『ユウトピア』と思ったものにもやがて不満を感じますから、『人間性』が変わらなければ『ユウトピア』は存在しないことになります。

『飽くなき欲望』をあきらめるとすれば、つまり『人間性』を変えるとすれば、本来『ユウトピア』でない不完全なものも『ユウトピア』として受け入れてしまうという矛盾に陥ります。

『ユウトピア』が『絵に描いた餅』であることは、現代人の多くは、『そうであろう』と感じていますから、『芥川龍之介』に『そのようなものはありませんよ』と言われても、特別驚きません。

問題は、何故古来人類が『ユウトピア』や『幸せの青い鳥』を夢見てきたのかということです。

梅爺がブログで論じてきた人間の『精神世界』の本質を理解すれば、これは容易に説明できることです。『精神世界』は自由奔放に、自分に都合のよい『虚構』や『因果関係』を創出することが特徴です。『神』『天国(極楽)』『ユウトピア』といった抽象概念を次々に思いついたことになります。

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2020年1月14日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(4)

人間の場合、『敵』という概念は、一人一人が『個性的』であるが故に生まれます。『個』が『個性的』であることは、生物全般に言えることで、人間だけの特徴ではありません。

『容姿』『体格』『性格』『能力』『判断基準』を観察すれば、『違い』があることが分かります。人間の場合は『精神世界』の『価値観』の違いが『個性的』の中でも際立って、重要な役割を演じます。

何故生物が、同じ種の中でも『個性的』であるのかという理由は単純で、『生物進化』の過程で選択した『遺伝子』を利用する世代交代の方式が、『個』の違いを生みだすように仕組まれているからです。『神』が私たちに『個性』を付与してくださったわけではありません。

何事にも『長所』と『短所』があるように、『個性的』であることが、人間社会へもたらしていることには、『良い面』と『悪い面』があります。

人間社会を魅力あるものにしているのも、おぞましいものにしているのも、『個性的』であることが関与しています。

私たちが『個性的』であることの、本質的意味を、深く考えてみる必要があります。表面的には、誰もが『人間は個性的に創られている』ことは『分かって』いますが、その本質的な意味には、多くの人が気づいていないように思われます。

『個性的』であるといことは、私たちの存在が『平等』ではなく、厳然と『格差』があるということです。人間社会で『個』が『個性的』であることを野放しに放置すると、人間社会の『秩序』が成り立ちませんので、人類は、『群をつくって生き延びる確率を高める方式』を選択して以来、本来多様な価値観を有する『個』を、群の『秩序』で規制しようとしてきました。本質的に多様なものを、一見一様に見せかけようという無理難題ですから、普遍的な解決策は、見いだせていません。

それでも、『法』『憲法』『道徳』『倫理』『宗教の教え』などという、次善の策で、『個』でと『社会』、の抱える『矛盾』を何とかしのいできました。

つまり、ある『社会』の中では、『個』の暴走は、『裁判』や『警察』の機能で、なんとか抑制されているということです。しかし、『個』と『全体』の関係が、何となく保てるのは、『国家』などという規模が限界で、グローバルに観ると、『国家』間の『価値観』の違い、『宗教文化圏』間の『価値観』の違いは、上位の『秩序』を形成することにほとんど成功していません。もちろん『国際連合』『国際法』『国際司法裁判所』などは、存在しますが、いざとなると、ほとんど効力を発揮しません。

つまり、『国家』間や、『宗教文化圏』間の、『敵意』を、上位の『秩序』で抑制することがほとんどできません。人類にとって、このレベルの『敵意』をどのように緩和するかが、難題中の難題です。

人類の歴史で、『戦争』や『テロ』による復讐合戦が無くならないのは、このためです。

『世界の平和』は、『個』が願ったり、祈ったりしてももたらされません。人類の知恵が、グローバルな『秩序』を保つための、次善策を見いだせるかどうかにかかっています。

現状は、効率の悪い『話し合い』『折衝』などしか、対応の方法がありません。

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2020年1月13日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(3)

道徳は、『他人に敵意を持ってはいけません』などと、あたかも『敵意』を持つことは『罪』であるような、きれいごとの精神論を説きますが、人間の本性を考えると、これは無理難題であると分かります。

生物として『安泰を希求する本能』を継承している限り、周囲の事象を必ず『都合が良い/油号が悪い』『好き/嫌い』で区分けすることを、無意識のうちに行っているからです。

『都合が悪い』『嫌い』の感情が最も強く働く場合が、対象を『敵』『ライバル』と認識することになりますから、誰でも『敵』『ライバル』という抽象概念を『精神世界』で保有することは避けられません。

『精神世界』が『敵』『ライバル』を『許しがたい存在』と狂信するようになると、『相手を抹殺したい』『相手を貶めたい』と考えるようになります。しかし、このレベルはまだ『精神世界』で『相手を抹殺したい』『貶めたい』と『願って』いるだけですから、本当に『抹殺行為』『貶める行為』を実行するまでには至っていません。

ここまでは、『あんな嫌なやつは、いない方が良い』と空想するレベルで、程度の差はあれ誰もが経験することです。

しかし、多くの人は、『相手を抹殺する』『相手を貶める』ことは、法や社会道徳上、『いけないこと』であると『理性』で判断しますから、実際の行動に移ることは、『思いとどまる』ことになります。

従って、『他人に敵意を持ってはいけません』というのではなく、『敵意を実行に移すことは、理性で押しとどめなさい』というのが、現実的な助言ということになります。

『理性』で抑制できるかどうかは、微妙な問題ですので、『人間』は『綱渡り』のように、危なっかしく人生を送っているとも言えます。『理性』の抑制が効かずに、人生を棒に振る話は、連日のように、新聞やテレビを賑やかしています。

誰もが、潜在的には『復讐心』のようなものを抱えていると言えますから、『映画』や『小説』の『復讐劇』で、主人公に『復讐』を代行してもらい、欲求不満を解消して心で『快哉』を叫ぶことになります。

『アレキサンドル・ヂュマ』の『モンテ・クリッスト伯(岩窟王)』や、『山本周五郎』の『五弁の椿』などを梅爺も若いころに熱中して読みました。当時は何故自分が『面白い』と熱中するのか理解できていませんでしたが、今なら上記のように、自分の『精神世界』を冷静に眺めることができます。

ブログを書き続けて、『人間』の本性が、『何に由来するのか』について、自分なりに整理できるようになったからです。

『芥川龍之介』が、『敵意を適度に感ずる時は爽快である』と書いているのは、梅爺流に表現すれば、『精神世界の抽象概念として敵意を保有し、復讐などを実行する強迫観念にとらわれないレベル(空想を楽しんでいるレベル)では他愛のない話で済まされる』ということになります。

『芥川龍之介』が、『敵意は持つな』などと言っていないところはさすがです。

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2020年1月12日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(2)

私たちの『脳』の総合能力には限界がありますから、全ての事象について『都合が良いもの』『都合が悪いもの』に『区分け』しているわけではありませんが、少しでも『気になる(これも情による直感)』ものは、意識的であれ、無意識であれ『区分け』の対象にしています。

その意味では『脳』が創りだす『精神世界』で、誰もが『ライバル』『敵』といった存在を抽象概念として保有することはあり得ます。

抽象概念として相手の存在をとどめ、『あいつには負けたくない』『あいつより自分の方が優れていることを示したい』と願うことは、反って『生きがい』や『生きる活力』を生む源泉にもなますから、『芥川龍之介』が言うように、『健康のために必要』と言えるかもしれません。

『ライバル』を想定することで、スポーツ選手や芸術家のレベルが上がるのは、そのためです。

『精神世界』で抽象概念としてとどまっている間は、『敵意』はそれほど問題になりませんが、『敵』を『抹殺する』といった、具体的な行為へ『敵意』が発展すると、人間社会では大きな波風が生じます。

『敵』を打ち負かした方は、『敵に勝利した』と喜びますが、打ち負かされた方やその仲間は、『復讐』という『敵意』を更につのらせ、相互に『復讐』合戦がとめどもなく続くことになります。

日本の戦国時代に、『勝者』が『敗者』の一族郎党を、女子供も含めて『皆殺し』にしたのは、『復讐』合戦に終止符を打つという非常手段としたからです。少なくとも『勝者』は、『復讐』合戦が果てしなく続くという、人間の習性だけは、経験則で知っていたからです。

『戦争』や『殺し合い』で、『敵意』による『復讐』合戦に終止符を打つという手段は、あまり賢い手段とは言えませんが、『人間』は『許しがたい敵』という『判断』から逃れられないために、『戦争』や『テロ』が無くなりません。

『イスラム国』の最高指導者を、アメリカの特殊部隊が追いつめ、死へ追いやった時に、『トランプ大統領』は、『正義が行われた。これで世界は少し平和になった』と誇らしげに宣言しましたが、大国のリーダーとしては『幼稚すぎる発言』です。『正義』や『平和』は、このように軽々しい概念ではないからです。このような発言に、アメリカ国民の大半が、賛同するのであれば、アメリカの民度のレベルも、大統領同様に幼稚であると言いたくなります。

次の大統領選挙に勝つために、自分やアメリカの『力』を世界に示したと言いたいのでしょうが、『復讐』合戦を更に煽っただけで、アメリカやアメリカ国民に更に不利益が及ぶ事態になりかねません。

『イスラム国』ばかりではなく『中国』『ロシア』『北朝鮮』からもアメリカは『敵意』の対象になりつつあるのは、アメリカ側にもその要因があることを、理性で考えてほしいと願います。『アメリカだけが正義』などという論法で、『復讐』合戦は緩和されません。

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2020年1月11日 (土)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある一文『敵意』に関する感想です。

大変短い内容なので、全文を掲載し、紹介します。

敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且(かつ)又健康を保つ上には何びとにも必要である。

私たちは、周囲の事物を『自分に都合が良いもの』『自分に都合が悪いもの』に区分けして認識する習性を世有しています。これを梅爺は『安泰を希求する本能』と呼んでいます。

これは『人間』だけの習性ではなく、『生物』全般に共通な習性です。『生物』にとっては『個』『種』の生き残りが最優先の本能であり、これが『生物進化』を推進する最大の要因になっています。

区分けは、『好き』『嫌い』といった比較的一般的な表現、『仲間(友)』『他人』といった穏やかな表現、そして『味方』『敵』といった強い表現と、色々あります。

『味方』『敵』は、お互いの存亡を賭けて争うような、対立の度合いが強い深刻な表現になります。

『脳』を保有する動物では、『区分け』は『脳』が行います。『感覚器官』で周囲の事象を『情報』として感知し、ほぼ即座に都合の良し悪しを『判断』します。

多くの場合この『判断』は、本能的な直感で決まります。

『人間』の『脳』の判断は、上記の『本能的な直感(情感)』に加えて、『理(理性、知性)』も働きます。

順序としては先ず『情』による直感的な『判断』が下され、時と場合に応じてその後『理』によるチェックが行われます。

『情』の『判断』が先行し、その後『理』によるチェックが行われるという、時間差を伴った二重構造の『判断』が『人間』の特徴です。

何故、このようになっているかは簡単な話で、私たちの先祖の『生物』が最初に獲得した能力が、『情』による直感的な『判断』であったからです。『理』による『判断』は、『人間』が後に獲得して追加した能力です。

その証拠に、『情』の『判断』は『脳』の中枢近くで行われ、『理』の『判断』は『脳』の外側(大脳皮質)で行われます。私たちの『脳』は、『生物進化』の過程で、建造物が増築されていくように、形成されてきました。

このプロセスは、私たちの日常の行為を思い浮かべてみれば、分かります。初めての『食べ物』を口にしたとき、直感的に『美味しい(好き)』『不味い(嫌い)』を感じとりますが、実は『不味い』ものが、『健康のために良い』と『理』で分かった後には、『不味くても食べる』という『判断』に代わります。

初めての『他人』に出くわした時も、直感的に『良い人』と感じとっても、その後その人に関する『悪い噂』などを耳にすると、『警戒を要する人』と『判断』が変わります。

『推論能力(因果関係を理でとらえる能力)』『知識』『経験の記憶』などを駆使して、『理』の『判断』ができるところが、『生物』として『人間』の特筆すべき特徴です。

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2019年11月28日 (木)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(6)

『言葉』で全ては表現できるという考え方が、西欧の文化の基盤にあるように思います。

『新約聖書』の『はじめに言葉あり、言葉は神なりき』などという表現は、それを端的に示しています。『言葉は真理であり、万能である』ということなのでしょう。

しかし、日本では『言葉』は、『精神』を啓発する『手段』であり、啓発された『精神』の内容は、必ずしも『言葉』では表現できないと考えられてきたように思えます。

このため、『言葉』は大切にされますが、『言葉』によって啓発された『精神』は更に尊重されることになります。

制約された語数の中で、広大な『精神世界』を表現しようとする『俳句』『和歌』や、厳選された『言葉』や極限に形式化した所作で、『ワビ』『サビ』『滑稽』を表現する『能』『狂言』が、日本独特の『文化』になっているのはこのためです。

西欧の人たちにとって、この『文化』の違いを理解することは非常に難しいのではないでしょうか。

日本人が『言葉』ではなく、『空気』で、『絆』を確認しようとするのは、この『文化』の継承があるからでしょう。

『阿吽の呼吸』『惻隠の情』『忖度』などが重要となるのはそのためです。

西欧の夫婦のように、毎日『I love you』と口に出して、愛情を確認すると言った行為は、日本では必ずしも誠意の表現とは限らないと受け止められます。

仲間内で高度なレベルの『主観の共有』が実現していないと、『阿吽の呼吸』『惻隠の情』『忖度』などは成り立たず、むしろ『誤解』を生むことにもなりかねません。

親しくない人とのコミュニケーションには、『言葉』は重要な役目を果たし、例え形式的な表現でも、表現すること自体に意味があります。

親しい間柄では、『言葉』だけでお互いの『精神』状態を深く理解することが、難しくなります。

『言葉』の達人は、このような『言葉』の特性を熟知している人で、世の中にはそう沢山はおられません。『語彙』が豊富であっても、『言葉』の達人とは言えません。

コミュニティのメンバーの『考え方』『感じ方』『価値観』を、統計的に集計した結果が『輿論』として反映されることになりますが、統計的に集計する方法が適切ではない場合は、『輿論』は、それほどあてになるものではなくなります。

誰かが『輿論』を振りかざして、『正義』を主張するときには、その『輿論』の実態を検証してみる必要があります。

また、大衆が感情的になっている時の『輿論』は、冷静さを欠きますので、注意を要します。

イギリスが国民投票で『EU離脱』を決めてから、進退に窮していることを観ると、『多数決』『国民投票』『輿論』などという概念は、私たちの日常の判断同様、必ずしも適切な結果を招来するものとは限らないと考えるべきでしょう。

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2019年11月27日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(5)

『輿論』は昨日も書いたように、『個性』の『違い』を『正規分布』でプロットした時の。中央部分の『多数派』を中心に形成されます。

『多数派』は『大衆』とよばれる集団で、この人たちの習性の特徴は、『理』ようりも『情』で物事を判断することです。論理的な『因果関係』で納得して判断するのではなく、理屈抜きに『嫌いなもの』『不都合と感ずるもの』に反応して、これを糾弾の対象にします。

冷静に『理』で判断する人は、世の中の『少数派』で、この人たちの『考え方』は『輿論』にはなりにくい側面があります。

『大衆』は『情』で判断しながら、自分たちは『正しい』と思い込んでいますから、糾弾対象は『悪の権化』になり、自分たちは『白馬の騎士(正義の味方)』であると思いあがることになります。

『芥川龍之介』が、『輿論は私刑(リンチ)である』と洞察するのは、この事を指していることになります。

糾弾される側は、法廷などで反論することもできず、徹底的に葬り去られてしまいます。『私刑(リンチ)』の恐ろしい側面です。

『輿論』は自然発生的に形成されるものばかりではなく、『黒幕』が意図的に仕掛けて形成されるものもあります。

『輿論』は『正しい』などと、単純に思いこんでいると、私たちは『誰か』の思惑通りに踊らされてしまうことにもなりかねません。『輿論』はいつもいつも社会にとって『良薬』であるとは限らず、『激薬』『毒薬』にもなりえます。

『輿論』『国際世論』を誰かが主張した時、それは厳密な裏付け資料に基づくものではなく、主張する人が『そうあってほしい』と願う内容であったりしまうから、これも注意を要します。

『権力者』にとって『輿論』は、両刃の剣で、自分たちに都合よくそれを利用しようとすると同時に、自分たちが糾弾対象になることを非常に恐れます。

『独裁者』や『独裁政党』が、メディアを統制下において、『情報』を監視するのはそのためです。一方、大衆が『輿論』で決起し、自分たちに権力基盤が崩壊することを何よりも恐れますから、『独裁者』や『独裁政党』にとって都合の悪い『輿論』は、徹底蹂躙の対象になります。『輿論の存在する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである』と『芥川龍之介』がいうのは、この事なのでしょう。

日本には『輿論』より更に厄介な『空気』『気配』などの言葉があります。

『空気が読めない男(女)』は、仲間から後ろ指をさされ、敬遠されます。逆にわざと『空気』を無視して振舞い、『あ、お呼びでない。これは大変失礼しました』などと笑いの種にすることも一時はやりました。

何となくその場の人たちが共有している『価値観』が『空気』の対象ですが、これを『察する』ことは容易なことではありません。私たちは自覚せずに、『空気』を読まずに行動しているのではないでしょうか。 

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