2018年3月 6日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『死がもたらす不利益、利益について(6)』

『人は何故死ぬのか』という問いに、哲学者、神学者、科学者などが答えようとしてきました。

どのような答が提示されようと、『死』は避けられないであろうことは、推測できます。

科学技術、医療技術が進歩すれば、人間の平均寿命は、150歳程度までは延ばせるという予想を聞いたことがありますが、それが『個人』にとって、『社会』にとって好ましいことなのかどうかは、梅爺には即断できません。

しかし、実現すれば『人生設計』『社会の運営』に大きな影響をもたらすであろうことは容易に推測できます。

『死』は、自分だけの問題ではなく、周囲への負担も避けられない『出来事』です。自分の『死』は、できるだけ周囲への負担の少ないものであってほしいと願いますが、こればかりは自分では制御できません。

『死』をどのように受け容れるかは、言葉を換えれば『どのように生きるか』ということになります。

歳をとると肉体機能の衰えは、誰もが避けられず、その影響は『精神世界』にも及びますが、幸いなことに、ある種の訓練や努力で、『精神世界』への影響を少しにとどめたり、寧ろ『精神世界』を拡大したりするこもできたりします。これは老人にとって『心の満足』『生きがい』につながります。

ブログを書くようになってからの梅爺の『精神世界』は、現役でバリバリ働いていた時の梅爺の『精神世界』より異なった広がりを見せています。

若い頃よりは、現在の方が事象への『洞察力』が鋭くなっているとさえ感じます。

若いころに現在の『洞察力』を身につけていたら、もっと違った成果を出せたろうにと悔やまれますが、『生きる』ということは、自分を『変えていく』ということなので、このようなことが起こるのも当然なのでしょう。

老人にとって『精神世界』を健全に保つことが、最大の願いになります。『物質世界』に属する『脳』が損なわれないことが条件ですので、これも願いの対象です。

『精神世界』が維持できる間は、『他人と会話する』『本を読む』『テレビを観る』『芸術を鑑賞する』『歌を歌う』などをしながら『考える』『書く』を続けたいと思っています。

少なくともそれができている現状に深く感謝しています。

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2018年3月 5日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『死がもたらす不利益、利益について』(5)

『もし自分が不死の身になったら』という前提で考える時に、『自分だけが不死になったら』という場合と、『人類全体が不死になったら』という場合に分けて『ウンベルト・エーコ』は考察しています。 

確かに論理的な考察なのですが、このような『理屈っぽさ』には、多くの日本人は辟易させられると感ずるのかもしれません。しかし、『ギリシャ哲学』の『理』を重んずる文化を伝統して継承している西欧の教養人では、ごく自然の対応なのでしょう。梅爺個人は、このような『理屈っぽさ』はあまり苦にならない性格です。 

『自分だけが不死の身になったら』、周囲の人、特に愛する人達が次々のこの世をさっていくのに立ち会わなければならないことになります。子や孫、そのまた子や孫と付き合っていくなどと考えただけで気が重くなり、特に去っていった人たちに対する思いが増えるばかりで、とても耐えられないことになると『ウンベルト・エーコ』は書いています。 

梅爺が同じ境遇でも、そのように感ずるだろうと思いますが、『不死の人』が一人だけ存在するという社会で、人々はこの『不死の人』をどのように見、どのように扱うだろうかということの方が気になります。大昔ならば『神』と崇められたかもしれませんが、現代ならば、好奇心、羨望、嫉妬の対象になるにしても結局社会にとってもゾッとする『厄介者』になり、歓迎される存在であるとは思えません。 

『人類全体が不死になったら』と考えると、もっとおぞましい事態を想像することになります。人口は増える一方で、若者には希望のない社会にるに違いありません。資源や社会の地位をめぐって、老人層と若者層が対立することになると『ウンベルト・エーコ』は書いています。

若者層が、地球を見捨てて他の惑星へ移住するようなことになれば、地球に残された老人層は、お互いに毎日繰り言を言いあって過ごすことになり、とても耐えられないと『ウンベルト・エーコ』は皮肉をこめて書いています。

人の『死』は、個人にとっては累積してきた知識や知恵を全て無にするという点で、『不利益』な面があり、生前自分の『死』を考えると、『悲しい』『空しい』『惜しい』などと言うマイナスのストレスが『精神世界』を襲いますから、『死』は避けられないものとしても『できるだけ生きていたい』と願うことになります。

しかし、人間社会の営みを考えると、上記のように『不死』の『不利益』が想像できますから、これを言いかえれば『死』には『利益』があるということになります。

『ウンベルト・エーコ』は触れていませんが、『生物進化』のためには『世代交代』が必要条件ですから、『死』は必要と言うことになります。

なんとか自分を納得させる理由を見つけて、『思い残すことはない』などと強がりを言いながら死ぬことが理想であるとは梅爺は思いません。しかし、『あれもやりたかった、これもやりたかった』などと悔いばかり口にしながら死ぬのも少しみっともないように感じます。

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2018年3月 4日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『死がもたらす不利益、利益について(4)』

生きている分だけ、人間の知識、知恵、経験は増えていくと単純に考えると、老人の知識、知恵、経験は若い人に比べて多いということになります。

『ウンベルト・エーコ』は、多くの人が、『もう一度若かった日々へ戻りたい』というけれども、自分はそうは思わないと書いています。

肉体は衰えていても、現在の知識、知恵、経験が、人生において頂点にあるという自負があるのでしょう。『知の巨人』に、そう言われてしまうと『若かりし日へ戻りたい』と時折夢想する梅爺は黙るしかありません。

折角積み上げてきた膨大な、知識、知恵、経験が、『死』によって一瞬に無に帰してしまうと想像すると、『悲しみと恐ろしさ』を感ずるとも書いています。これは誰もが感ずることではないでしょうか。

芸術家や哲学者は、この『悲しみと恐ろしさ』を少しでも振り払おうと、作品や著作を後世に残す努力をするのかもしれません。ひょっとすると梅爺がブログを書いているのも、このような衝動が無意識に働いているのかもしれません。

しかし、どのように頑張ってもある人の『精神世界』の全貌を、後世に残すことはできず、そのことが『死がもたらす最大の不利益』であると、『ウンベルト・エーコ』は述べています。『愛する人への思い』『星空を眺めた時の感動』などは残せないと説明しています。

先人が達したかもしれない『精神世界』の高みが具体的に残されていないために、私たちは、また山の麓から登り始めることを繰り返すことになり、これは効率の悪い話であるということになるのかもしれませんが、梅爺は必ずしもそうとは思いません。

梅爺は、『人間』の本質の一つが『個性的であること』と考えていますので、人生で目指す『精神世界』の高みは、それぞれ違い、違っていることが自然であると思うからです。

もし、先人の到達した高みの全貌が、具体的に残されていたら、確かにそれは参考になり、効率の点では有利なことかもしれませんが、それが自分の目指す目的の地点かどうかは、各人が決めることではないでしょうか。

『死がもたらす不利益』というものがあるならば、『死がもたらす利益』は何かと『ウンベルト・エーコ』の思索は移行していきます。西欧の教養人に共通する論理的な思考パターンと言えます。

『死がもたらす利益』は『不死がもたらす不利益』と同義と考え、『もし自分が不死の身になったら、どういうことになるか』を想像することで、これを検証しようとします。

梅爺は『死がもたらす利益』と聞けば、『世代交代の必要性』などという生物進化の考え方や、『社会全体の経済性』などという社会問題として考えようとしますが、『ウンベルト・エーコ』は、あくまでも『もし自分が不死の身になったら、自分に何が起こるか』という主観的な視点で、この問題を論じています。

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2018年3月 3日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『死がもたらす不利益、利益について』(3)

このエッセイの中で、『ウンベルト・エーコ』は、自らの『死』を受け入れるための次のような方法論を述べています。

『馬鹿馬鹿しく見えるかもしれないが、本気で考えたことだ』と、ことわって、『生徒』の質問に『先生(ウンベルト・エーコ)』が答えるというユーモラスな形式で表現しています。梅爺の意訳(一部省略)で紹介します。

(生徒) 死にアプローチする最善の策は何でしょう?

(先生) それは、周りの人達全部が馬鹿者であると自分に言い聞かせることです。だってそうでしょう、もし君が死の床についているときに、将来有望な若い男女がディスコで踊っていたり、優れた科学者が宇宙の最後の秘密をついに発見したり、腐敗とは縁遠い政治家が良い社会を創りあげたり、新聞やテレビが意義あるニュースばかりを報じたり、責任感の強い経営者が環境を損なわない製品を市場に送って、そのために飲み水にもできる河の流れや、オゾン層に護られたきれいな空と降り注ぐ甘美な雨が当り前に存在していたら、君は心残りで死ねないでしょう。
ですから、ディスコで踊っている若者たちは全員馬鹿者、宇宙の謎を解いたなどという科学者は馬鹿者、社会に安寧をもたらすなどと主張する政治家も馬鹿者、ゴシップだけを報ずるジャーナリストは馬鹿者、地球環境を破壊し続けている企業経営者は馬鹿者と考えれば良いのです。そうすれば、安心して、救われて、満足して、君は馬鹿者に満ちたこの世におさらばできるでしょう。

(生徒) どの年齢からそのように考え始めれば良いのですか?

(先生) 20代、30代の頃は、周りの人間は全員賢い人たちであるとして畏敬の念を持ちなさい。もし、周りが全部馬鹿者であると主張する人がいたら、理性のない人ですから無視しなさい。40代で、少し周囲に疑いの目を向け、50代、60代ではすこしづつ疑いを強め、100歳までは生きられるかもしれないと思い始め、それでもお迎えが来たらいつでも受け入れられると悟ったら、初めて周囲は全員馬鹿者と思いなさい。
考え方を変えていくのはやさしいことではありません。勉強や努力が必要です。死の直前までは、君が愛する人たち、尊敬する人達を馬鹿者と思ったりしてはいけません。そして最後の最後に、自分でさえも馬鹿者と思いなさい。そうすれば心おきなく死ねるのです。

(生徒) そうするかどうか、ゆっくり考えてから決めたいと思います。でも、大変失礼ながらそのような考えの先生が馬鹿者に見えてしまうのですが・・・

(先生) 君はまともで、なかなか良い線をいっているよ。

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2018年3月 2日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『死がもたらす不利益、利益について』(2)

古代ギリシャの哲学者の『死』に関する以下の『三段論法』は有名です。 

『人間は皆死ぬ。ソクラテスは人間である。したがってソクラテスは死ぬ』

古代ギリシャの人達も、『人間は皆死ぬ』という『命題』を覆す証拠を持ち合わせていなかった(見出すことができなかった)のでしょう。この『命題』が『真』であるという前提を肯定すれば『三段論法』は成立します。

『死は免れない』と『理』で肯定せざるを得ないとしても、『自分の命が尽きる』という事態は、『さびしい』『悲しい』『心残り』という『情』は誰でも感じることになります。『精神世界』の『安泰を希求する本能』が強固に働くからです。

歴史上の多くの権力者は、『自分だけは死を免れたい』と願い、『不老不死』の方法や薬を探し求めたりしました。しかし、これに成功した事例は伝えられていません。

そこで、今度は『死』で肉体は朽ちるのは仕方がないとしても、『霊魂』だけは死後も存在し続けるという推測を思いつき、その推測は『事実』であると『信ずる』ことで、『心の安らぎ』を得ようとすることになります。

どの宗教でも、『死後の世界が存在する』という説明がなされますから、『死後の世界』という概念は、必ず人間が思いつくアイデアであり、『心の安らぎ』を得るために、実に巧妙な方法論であると梅爺は感心してしまいます。『死後の世界』は誰も生前確認できませんから、反論もできないからです。

更に、生前『善行を行った者』『功徳を積んだ者』だけに、『死後の世界』では『良い場所(極楽、天国)』が与えられると『宗教』は追加説明するようになります。人間社会で『善人』を尊重する風習が出来上がるという利点ばかりではなく、『功徳』の中には『宗教組織』への『献金』『お布施』も含まれますから、『宗教』を経済的に支えるアイデアとしても見事なものです。

一方『悪行を行った者』『罪を犯した者』は『死後の世界』では『悪い場所(地獄)』に堕ちることになるということにもなり、これを免れるために人々の宗教組織へ依存度が高まることになります。

『死後の世界』『功徳』『罪の救済』などは、宗教組織の権威や立場を維持するために、実にうまくできたストーリーであると、信仰心の薄い梅爺は感じますが、これは梅爺の『価値観』ですから、この考え方が『正しい』と主張するつもりはありません。

多くの方が『信仰』で『心の安らぎ』を得ておられる『事実』は、上記のような批判を打ち消すほどの『価値』『利点』であるという主張も成り立つからです。

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2018年3月 1日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『死がもたらす不利益、利益について』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の42番目のエッセイ・タイトルは『On the Disadvantages and Advantages of Deth(死がもたらす不利益、利益について)』で、文字通り人間の『死』の意味を論じたものです。

これがこのエッセイ集の最後のエッセイです。難しい内容にお付き合いいただきありがとうございました。 

『ウンベルト・エーコ』は、人類は『物事には始めと終わりがある』ことを認識した時に哲学的思考を開始したのであろうと書いています。 

何故『初め』と『終わり』があるのかという疑問への『答』を、人々は『精神世界』で推論して求めようとしたということでしょう。

『分からないこと(疑問)』は、『脳』がストレスとして感じますので、『安泰を希求する本能』が働いて、なんとしても『因果関係』を推論して得ようとするのは、古代人も現代人も同じです。

推論した『因果関係』を、誰かが『事実である』と言い出すと、人間社会に大きな影響を及ぼすことになりかねません。『神が天地創造を行った』などという推論は、永らく人類にとって『事実』と受け止められてきましたし、今でもそれを『信ずる』人は少なくありません。

『物質世界』の事象に関わる『因果関係』は、『摂理(法則)』によって普遍的に『真偽』の特定が可能ですが、『精神世界』が考え出した『因果関係』は、『摂理』の支配を受けない自由奔放なものですので、多くの場合『真偽』の特定はできません。『神が天地創造を行った』という『因果関係』は後者に属するものと梅爺は考えています。

『釈迦』も、『初め』と『終わり』の関係を、哲学的な思索で『生まれる性質のものは、滅する性質のものである』と表現しています。

若い人たちは、『死』を一般論として理解していますが、自分にとって差し迫った問題とは受け止めません。

しかし、親しい他人の『死』に遭遇したり、自分自身が年老いたりすると、『死』は切実な問題になって迫ってきます。

稀代の教養人で賢人の『ウンベルト・エーコ』も、老齢に達して、自分の『死』を受け入れるために、あれやこれやと自分を納得させる『理屈』を考えていることがこのエッセイを読むと分かり、凡人の梅爺は『あなたのような方でも、私とあまり変わりませんね』と安心しました。

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2018年2月18日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(6)

人類が多量に蓄積してきた『共通知識(巨人)』を利用して(巨人の肩の上に乗って)、遠くを見通すことができるという状態は、人間(主人)が『知識(道具)』を完全に掌握していると言える限り安泰です。

しかし、現実には『知識』の大半は、難解な内容になり、常人では理解が難しくなりつつあります。

その結果、私たちは『便利な結果』だけを求めるようになり、その『結果』がもたらされるプロセスで幾重にも使われる『知識』については興味を示さなくなります。

パソコンのワン・クリックで何が起こるのか、スマホのワン・タッチで何が起こるのかは知っていますが、内部でどのようなしくみが働いているのかは理解していないことになります。

ワン・タッチで結果に到達できるという便利さに慣れ切ってしまうと、世の中の『因果関係』は全て短絡的に得られると勘違いすることになります。これは大変危険なことです。

『因果関係』の間には、多くのプロセスが関与し、このプロセスは『知識』で成り立っていることを理解することが大切です。

常人では理解しがたい『知識』でも、その詳細は別にして『本質』は理解しておく必要があります。

『知識』そのものが、新しい『知識』を生みだしていく『人工知能』は、『知識』が人間の思惑を離れて暴走したり、極端な場合、知識が主人となって人間を道具として操るというようなことになったりする危惧があります。

梅爺は『人工知能』に反対はしませんが、その将来が全てバラ色であるとは思えません。『核兵器』が人類を脅かすように、『人工知能』も人類を脅かすものになるかもしれないという危惧です。

『ウンベルト・エーコ』は、『やがて、巨人(知識)が、小人(人間)の肩に乗るような事態が招来するかもしれない』と書いて、このエッセイを結んでいます。

深遠な洞察であるように思います。

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2018年2月17日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(5)

若者は『現状は気に入らない』と言っても、『過去を理想として復活させよう』とは一般に言いません。『新しい未来を築こう』ということになります。

しかし、人は成人になり、老人になると、『今は良くない、昔は良かった』という表現に変わります。いつの時代も大人は『いまどきの若者は』といって眉をひそめてきました。現在の若者も、歳をとるとそう言うにきまっています。

若者も、老人も『現状に不満』を持つ傾向は同じです。これは、身近なものは、長所より短所の方が目立つということなのでしょう。

恋愛に舞い上がっている男女は、相手の長所だけが大きく見えますが、その時期を過ぎると今度は相手の短所が気になり始めます。

前にも書きましたが『夜目、遠目、笠の内』は、身近に確認できないものを、理想化、美化しようとする人間の本性を見事に表現しています。

老人は、『現状への不満』のアンチテーゼとして『昔は良かった』と言いがちです。しかし、昔もつらく、苦しいことがあったはずですが、それは薄らいで、『良かった』ことが誇張され、美化されます。『同窓会』などはこれで話が盛り上がります。

梅爺流に考えると、これは『昔を肯定することで、自分の過去も肯定したい』と考えるからであろうということになります。自分の生きてきた過去を否定されてはかなわないからです。『安泰を希求する本能』といういつもの論法に行き着きます。

しかし、『現在と過去の比較』は、都合よくある特定の事柄に限定して行っている場合が多く、そんなに昔が良いのなら、生活の全てを昔に戻したいのかというと、『それはご免だ』と、多くの場合はなります。

梅爺も、『東京物語』というような昔の映画観ていて、日本人の話し方、テンポ、語彙が現在と大きく異なることを感じ、現在の日本語より『美しい』と個人的には感じます。

『言語』は、論理を伝えるだけでなく、美や情感を伝える手段であるという日本の伝統的な精神文化が、せわしない現代社会では、論理が伝わればよいという考え方に変わりつつあるのかもしれません。

梅爺は老人ですから、『美しい日本語』の伝統は保持してほしいと、この点ではやはり過去を賛美したくなります。

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2018年2月16日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の方の上に』(4)

私たちは代々継承されてきた『言語』を『母語』として使っています。

『ウンベルト・エーコ』は、この『言語』も、『息子の父親否定』の対象になることを、中世西欧の『言語学者』『文学者』などを例にあげて論じています。

父親から継承されて現在使っている『言語』は、『劣った言語』で、遠い昔には『優れた言語』があったにちがいないという『考え方』の話です。

『言語』は非常に複雑で多様な要因が絡み合って、人間社会の中で『進化』『変容』していくものですから、『現在は劣っている』『昔は優れていた』などと比較の対象にはならないと梅爺は思いますが、中世西欧の文化人がそのような『考え方』を保有していたのは、キリスト教文化の影響があるからです。

『旧約聖書』の『バベルの塔』の逸話を、『事実』として受け入れていたということです。

『バベルの塔』の逸話の内容は以下のようなものです。

昔、人々は一つの言葉を話していて、『天(神)に届く塔(バベルの塔)』の建設を始めた。神はこれを見て『一つの言葉故に人間はこのような不遜な行為を始めた』と判断し、塔を崩し、人々の言葉をバラバラにした。

つまり、民族が皆違った言葉を話しているのは、『不遜になりがちな人間』を神が戒めたからであるという『因果関係』として説明されています。

『神』は『人間』を創っておきながら、『人間』が『神』のレベルに近づこうとするのは快く思わないという話は、どうも奇妙です。まるで『父親』が『息子が自分を越えようとすること』を快く思わないという話に似ていて、なんと『神』は狭量なのかと疑いたくなります。そもそも、自分の気に入るように『人間』を創っておけばこのようなことにはならなかったのにと言いたくなります。

それはそれとして、『バベルの塔』の逸話を事実とするならば、昔は『言葉』が一種類であったことになり、更に遡れば最初の『人間』である『アダム』の話していた言葉となり、これこそが『望ましい言葉(神から与えられた言葉)』ではないかという推論になります。

『ウンベルト・エーコ』のエッセイには、本気で『最初に存在した望ましい言語』を再現しようと努力した言語学者や文学者の話が紹介されています。

『乗っている巨人の肩の高さ』が低い故に起きたことですから、『高い肩』にのっている私達現代人は、中世のこのような試みは、『的外れ』であることを指摘できます。

しかし、17万年前にアフリカに出現した『ホモ・サピエンス』の言葉が、その後枝分かれし、現在のような8000種を超えると言われる『言語』に『変容』していったプロセスは、必ずしも解き明かされてはいません。『脳科学』とも関連しますので、『言語論』は大変難しいものになります。

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2018年2月15日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(3)

人間の本質を理解する上で、『生物として個性的であるように宿命づけられている』ことを理解することが最も重要であると、梅爺は何度もブログに書いてきました。

容貌、体格ばかりではなく、『考え方』『感じ方』が、一人一人異なっているということで、それは親子、兄弟でも同じことです。ましてや他人は言うまでもありません。

『理性』ではこれを理解していても、いざとなると忘れてしまいがちなのも、人間の習性の一つです。いざとなると『安泰(自分にとって都合のよいこと)を希求する本能』の方が強く働くからです。自分の『考え方』『感じ方』だけが『正しい』と思い込み、そのうちに『絶対正しい』と信ずるようになったりするからです。

人間社会から『戦争』『宗教対立』などがなくならないのは、このためです。

平和主義者は『戦争反対』と叫ぶのではなく、『違いを認め合おう』と叫ぶべきです。『一神教』の宗教観は、この『違いを認める』ことができないという、本質的な問題を抱えていることが大変厄介です。

昨日も書いたように、自分と近い関係にある人と『考え方』『感じ方』『価値観』が異なっていることが露呈すると、人間関係は大きな歪を抱えて、深刻な事態になります。

その典型例が『父親と息子の相克』であるとしてこのエッセイは議論が進められます。

『父親』『目上の人』と『考え方』が異なっている場合、その人たちの『考え方』は間違っていると否定することになりますが、その場合自分独自の『考え方』を持ちだすのではなく、ずっと昔には模範にすべき『考え方』があったとして、過去に回帰しようとすることが人間社会ではよく起こると『ウンベルト・エーコ』は指摘しています。

『暗黒時代』の中世を否定して、ギリシャ、ローマの時代を賛美した『ルネッサンス』などがその例です。

『宗教』において、過去の『教祖』を絶対視するのも、この例なのかもしれません。近い過去の人達は『間違っている』として、遠い過去の人達は『正しい』と考える論拠は確かに曖昧です。遠いものが『良く観える』というのは『精神世界』の興味深い現象です。

日本人は『夜目、遠目、笠の内』とこれを表現しています。遠いもの、観えないものは『自由な想像の対象』になりそこに『理想』があると勝手に思い込むからなのでしょう。これも『安泰を希求する本能』がもたらす事象であろうと梅爺は考えています。

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