2017年10月18日 (水)

Live and learn.

英語の諺『Live and learn.』の話です。

『長生きして一層学びなさい』という意味ですから、まさしく梅爺が自戒すべき諺です。

永らく『英語の諺』をシリーズとしてブログに書いてきましたが、少々内容がマンネリ化してきたこともあり、このシリーズは今回の『長生きして一層学びなさい』をもって最後にしたいと思います。

突然思い立ってブログを書き始めて、10年が過ぎました。仕事の現役を引退した後に、『どのように余生を送るか』について、はっきりした考えがあったわけではありませんが、『ブログを書く』ことを日々のルーチンの一つとしたことは、結果的によかったと思っています。

『書く』ためには、『内容の理解』『表現方法の模索』など、老人にとって老化しやすい『脳』を、なんとか鞭打って活性化させることが必要で、老化防止の効用が少々あったと勝手に自認しています。

『本を読む』『テレビ番組を観る』など、ブログを『書く』ことを前提にすると、注意深く読んだり、集中して観たりすることになり、これも『なんとなく』ではないという意味で、老人の生きがいになります。

何よりも、ブログを書いている内に、従来ばらばらであった知識が、関連付けされて見えてくるようになり、望外の成果が得られたと喜んでいます。

世の中の事象を、すべて『物質世界』『精神世界』の特性で考えてみるという習慣が身に付きました。

この結果『人間の本質の一つは個性的であるように宿命づけられている』ことだと知り、自分とは異なった『意見』や『考え方』にも、前よりは寛容に対応できるようになった気がします。

その分『理屈っぽい爺さん』から『好々爺』へと変貌しつつあると言えるかもしれません。

『英語の本を読む』『英語の諺について考えてみる』という行為も、『異文化』を理解する上で、寛容さを必要とし、思いがけない発見があったりしますから、『英語の本を読む』ことは続けたいと思います。

命の継続が許される限り、『生きて学ぶ』ことを自分に課していきたいと考えています。

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2017年9月28日 (木)

Empty vessels make the most sound.

英語の諺『Empty vessels make the most sound.』の話です。

『空の容器が一番大きな音を立てる』ということで、『頭が空っぽな人ほど、大言壮語をする』という意味になります。実に耳が痛い話です。

もっとも、自分で『耳が痛い』と少しでも反省する人は、まだましで、『自分は大言壮語などしていない』と思い込んでいる人は厄介です。

長屋の『八っつぁん』『熊さん』が、『大言壮語』していても、『笑いの種』で済みますが、一国の政治リーダーが、『大言壮語』をするのは、笑い話では済まされません。

『トランプ大統領』や『金正恩(キムジョンウン)』の『大言壮語』は、深い思慮の裏付けがあるのか、単なる『頭が空っぽ』なのか分かりませんから、判断に窮します。

しかし、梅爺の人生経験では、深い思慮の裏付けがあって『大言壮語』する人に出会ったことはあまりありません。その視点で観ると『トランプ大統領』『金正恩』は、いかがわしい人物と言うことになります。

『頭が空っぽ』という表現は、『単純な基準で何事も判断する』『本質の理解を欠いている』ということを意味します。

人間の『精神世界』は、宿命的に『個性的』ですから、『精神世界』が関与する事象には、多種多様な『価値観』が存在するということをわきまえていることが、本質を理解していることになります。

『自分に都合のよい価値観』だけを認め、それが『正しい』と単純に主張する人ほど始末に負えない人はいません。それが一国の『政治リーダー』であれば、その国を不幸にする可能性が高いからです。

梅爺がこのような話をすると、『そのように多種多様な価値観を認めていたら、何も主張できなくなり、前へ進めないではないか』と必ず反論を受けます。

『ごもっともなご意見』ですが、梅爺は『これが、自分が優先する価値観である』と主張するなと言っているのではありません。

相手に自分の『価値観』を知ってもらうために、それを主張することは、『絆』を確認する上で寧ろ重要なことです。特に『好き、嫌い』の表現は、この目的では許されます。

ただ、自分の主張(価値観)が『正しい』と主張することには、慎重であるべきだと申し上げたいだけです。

梅爺は『モーツァルト』の音楽が好きですが、『モーツァルト』が嫌いであるという人に『あなたは間違っている』とは言えないということです。

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2017年9月 3日 (日)

Wanton kittens make sober cats.

英語の諺『Wanton kittens make sober cats.』の話です。 

『いたずら好きの子猫も真面目な親猫になる』ということで、『落ち着きのない子供を案ずることはない。大人になればまともになる』という意味になります。 

人間は『誕生』から『死』までの間、絶え間なく『変容』します。『変容』はポジティブにとらえれば『成長』ですが、ネガティブな場合は『衰退、老化』になります。 

肉体的な『変容』と、精神的な『変容』があることも重要なことで、精神的な『変容』は『脳』の機能が関与します。具体的には、『脳神経細胞』のネットワークの内容が刻々と変化していることを意味します。言い方を変えれば、『私は常に同じ私ではない』とも言えます。

梅爺は自分の『幼少期』『青年期』『壮年期』『老年期』を思い返してみると、大きく『変容』していることを自覚できます。

今でも『生意気で思いあげっている』ところがありますが、昔はもっとひどかったと恥ずかしくなります。昔読んだ本を読み返してみると、前は気付かなかったことを発見できたり、異なった解釈を思いついたりしますから、自分の『変容』に驚かされます。

『子供』が一般的に『無邪気』『天真爛漫』に見えるのは、『脳』の機能が未発達なことに由来します。『知性』『理性』の『脳神経細胞ネットワーク』が大人ほどに整備されていませんので、生物学的には原始的な『情感』『本能』の支配が強い状態にあります。したがって、『感じたこと』『認識したこと』をすぐに言動で表現します。『無邪気』『天真爛漫』に見えるのはそのためです。

当然『分からないこと』『不思議なこと』は、『何故』『どうして』と質問することになり、『好奇心旺盛』にも見えます。

『脳神経細胞ネットワーク』は、生まれてからだんだんに形成されていくのではなく、最初は『ランダム』につながっていたものが、生後の体験を通して、必要なつながりだけを残して、余分なものが消滅していくのであると本で読んだことがありますが、真偽のほどは分かりません。

大人になるということは、『知性』『理性』が成長して、必要な場合『情感』『本能』を抑制できるようになることを意味しています。

その分『好奇心』の鋭敏さは少し失われていきます。

個人差がありますから、子供の時の『好奇心』の強さを持ち続ける大人や、『知性』『理性』で『情感』『本能』を抑制できない大人も出現します。

ですから『いたずら好きの子猫はまじめな親猫になる』という保証はありません。

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2017年8月 5日 (土)

The best doctors are Dr.Diet, Dr.Quiet, and Dr.Merryman.

英語の諺『The best doctors are Dr.Diet, Dr.Quiet, and Dr.Merryman.』の話です。

『最高の名医は、ダイエット先生、安泰先生、快活先生』である、ということですから、『節度ある食事、心穏やかな生活、笑顔の振る舞いが健康の決め手』という意味になります。

梅爺流に分類すると『節度ある食事』は『物質世界(身体)』に関わり、『心穏やかな生活』『笑顔の振る舞い』は『精神世界(心)』に関わる事柄と言うことになります。つまり『健康』は『身体』と『心』のバランスで得られるということにほかなりません。

日本人は昔からこのことを『病は気から』という表現で、経験則で知っていました。しかし、『心』が何故『病』の原因になるかというカラクリが判明したのは、そう昔のことではありません。

人間は『安泰を脅かす状況』に直面すると、『脳』は、それを『ストレス』として認識し、特定の『ホルモン』を分泌して『身体』に警告(ネガティブ・シグナル)を発します。『身体』の機能はこれに通常とは異なった対応をし、『ストレス』が強かったり、長引いたりすると変調をきたし、やがて『病』になったりします。『緊張で胃が痛む』などがこれに相当します。『物質世界』と『精神世界』は別の世界のように見えて、実は地続きであることの証左でもあります。

『安泰を脅かす状況』は、通常周囲環境によってもたらされますが、中には『脳』が将来の『心配事』を予測して、自ら『安泰を脅かす状況』を創りだしたりもしますから厄介です。更に厄介なことは、『ストレス』がなければ良いのではなく、『適度なストレス』が健康維持に必要ということになります。人間は実に微妙なバランスで『生きて』いるということなのでしょう。

『心穏やかな生活』『笑顔の振る舞い』のお膳立ては、他人に求めるべきものではありません。本能に従って生きていれば、『安泰を脅かす状況』は嫌でも押し寄せてきますから、『理性』の意志がないと、これを『心穏やかな生活』『笑顔の振る舞い』に変えることができません。

梅爺は、年齢を重ねて、自然に『好々爺(こうこうや)』になれるだろうと甘く見ていましたが、実際は『偏屈爺(へんくつじじい)』になっていきそうな事態を知って、あわてています。

『もう遅い』と言われそうですが、これからも修業を積んで、『好々爺』を目指したいと考えています。

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2017年7月 3日 (月)

Kings have long arms.

英語の諺『Kings have long arms.』の話です。

『王様の腕は長い』ということで、『権力者のの力は、遠くにまで及ぶ』ということなのでしょう。

徳のある王様の善政が、国の隅々にまで及ぶという意味と、ひどい王様の悪政が国の隅々にまで及ぶという相反する意味が考えられますが、どちらの意味なのか梅爺は分かりません。何となく『権力者は、力に任せて過酷なことを全員に強いる』というような意味なのかと思います。間違っているかもしれません。

話が飛躍しますが、梅爺は『日本』に『王様』と呼ばれる人物が登場したのは、いつのことだろうと考えたことがあります。勿論『古代史』の話です。

3世紀の半ばに『邪馬台国』に『卑弥呼』という『女王』がいたことが、中国の歴史書『魏志倭人伝』から分かっています。

『卑弥呼』は、中国、朝鮮半島に使節を送っていますから、その地の情勢をよく知っていたことになりますし、中国に『文字文化』をはじめ優れた『文化』『技術』があることも知っていたことになります。『邪馬台国』は、航海技術も保有していたことになりますから、決して未開の野蛮国家ではありません。

『卑弥呼』は、日本の豪族間の争いが絶えなかったために、豪族間で擁立した『女王』であると『魏志倭人伝』には書かれています。宗教と政治を統括する『シャーマン』であったのであろうと推測されています。

紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて、弥生時代に日本へ渡来した人たちが、日本各地に豪族の支配地域を確立していき、その集大成として『邪馬台国』が出現したのでしょう。

問題は、その後出現した『ヤマト王権』と『邪馬台国』の関係が、現状では分かっていないことです。『ヤマト王権』の支配者は『大王』と呼ばれていましたが、7~8世紀にかけて『天皇』と呼ばれるように変わりました。

これらを総合すると、日本に『王様』と呼ばれるような人物が出現したのは、3~5世紀ごろではないかと推察できます。

それらの『王様』が、どのような『長い腕』を持っていたのかも知りたくなります。『良い王様』も『ひどい王様』もいたに違いないからです。

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2017年6月10日 (土)

Six hours' sleep for a man, seven for a woman, and eight for a fool.

英語の諺『Six hours' sleep for a man, seven for a woman, and eight for a fool.』の話です。

『男は6時間、女は7時間、馬鹿は8時間眠る』ということで、人間を『男』『女』『馬鹿』に区分けし、『男』を『馬鹿』の対極に位置づけていますから、この場合の『男』は『まともな男(馬鹿でない男)』という意味になるのでしょう。

『勤勉なる男は6時間の睡眠で十分、寸暇を惜しんで働け』というようなことを言いたいのでしょうか。

梅爺は、仕事の現役時代は確かに睡眠時間は6時間に満たないもので、今考えるとよく身体がもったものだと思います。

現在は、全く『怠惰な老人』になり果てて、8時間どころか10時間程度眠っていることもざらですから、『馬鹿』以下という体(てい)たらくです。

『歳をとると、早く目が覚めてかなわない』などとおっしゃるお年寄りが多いのですが、梅爺はそうではありませんから、『特異な老人』なのかもしれません。

この諺では、『男』と『馬鹿』の中間に『女』を位置づけていますから、大変女性には失礼な表現になっています。『男』同士が、優越感をあらわにして、この諺を交わしている様子が目に浮かびます。

『Lady First』は確かに、西欧社会に定着している習慣ですが、男同士の会話の中では、この諺のように、『男尊女卑』の表現がユーモアとして使われることを、梅爺は体験しました。

『男女平等』などという考え方が定着したのは、西欧といえども近世以降のことで、『Lady First』は、『強い男が、か弱い女を守る』という『騎士道』などの考え方が反映しているように思います。

『男同士』が集まれば、『女はしょうがない』とこき下ろし、『女同士』が集まれば『男はしょうがない』とこき下ろすのは、ある意味で健全な人間社会のユーモアなのかもしれません。

男女の違い、男女を問わず個性の違いは、人間が宿命的に保有するものですから、『法による人権』などという論理的な概念を抜きにすれば、私達は『違い』を現実的に受け止めて生きていくしかありません。

自分を『馬鹿ではない』という立場に置いて、『馬鹿』を蔑むことは、ほめた行為ではありませんが、『安泰を希求する本能』に支配されている私達が、自分を優位な立場において、つい他人を蔑むことはありがちなことです。

これを慎むためには、『知性』『理性』を高めるしかありませんが、難しい話です。

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2017年5月24日 (水)

The apple never falls far from the tree.

英語の諺『The apple never falls far from the tree.』の話です。

『リンゴの実は、木の幹から離れた遠いところには落ちない』という訳になり、ニュートンの『万有引力』の話かと思いましたが、そうではなく『子供は親と似たり寄ったり』という意味で使われるようです。

日本流にいえば『蛙の子は蛙』『瓜の蔓に茄子はならず』ということになります。

しかし、この諺が普遍的に『真』かというと、そうではありません。

日本にはこれを示す別の『トンビが鷹を生む』という表現があります。

子供の資質は、両親の遺伝子の偶発的な組み合わせで継承されますから、多くの場合『子供は親に似たり寄ったり』になるのは当然のことです。

しかし、遺伝子の組み合わせはには、稀な組み合わせや突然変異が起きることもあります。結果として障害を持った子供が生まれることや、逆に『天才的な能力』の持ち主が生まれることもあります。後者を『トンビが鷹を生む』と表現していることになります。

遺伝子のことなど知らなかった昔の日本人が、『事象』だけを観て『蛙の子は蛙』だけでなく『トンビが鷹を生む』ことも気づいていたことが分かります。

人間の総合的な資質に関して、厄介な話は、それが先天的な遺伝子の継承だけで決まらないということです。

生後の環境の中で、何を体験したか、何を学習したかで、その人の資質は大きく変化していきます。

したがって、『トンビが鷹を生む』という諺も、遺伝子継承の結果だけではない場合もあることになります。

つまり、子供が生まれた後に、親をしのぐ努力をして、親より優れた人間と評価されることもあるということです。

『自分の頭が悪いのは、親も頭が悪かったから』などと言い訳をしている人は、意気地のない人です。

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2017年4月29日 (土)

Great love, great sorrow.

英語の諺『Great love, great sorrow.』の話です。

『愛が深ければ深いほど悲しみも深くなる』という訳になりますから、何が言いたいかはすぐに理解できます。

『深い愛に包まれて生きている』『深く愛する人と一緒にいられる』などの状態は、『精神世界』が『安泰』を実感している状態のときで、人間は『幸せ』に浸ることになります。

しかし、『物質世界(自然界)』が絶え間なく『変容』しているように、人間が『生きる』こともいつまでも同じ状態を維持することは残念ながらできません。

『釈迦』は、これを『諸行無常』と喝破(かっぱ)しました。勿論、人間の『生』も『死』も『諸行無常』の一環です。

『幸せな状態』に酔いしれている人に、『その状態はいつまでも続きませんよ』というのは、意地悪なようですが、『諸行無常』は誰にも避けられないことであることは確かなことです。

『深い愛』で『幸せの極致』を体感した人は、『愛が破局した時』『愛する人が亡くなった時』には、今度は『悲しみの極致』を味わうことになります。この諺はそれを表現しています。

しかし、『悲しみの極致』を恐れて、『幸せの極致』を追い求めない人の人生は、無味乾燥なものになります。負けることを恐れて、勝負を避けるアスリートはいません。『勝つ喜び』と『負ける悔しさ』を両方味わうことが、アスリートにとっては『生きている証左』であるからです。

『幸せの極致』と『悲しみの極致』を両方体験した人は、むしろ『見事に生きた人』なのではないでしょうか。

『物質世界』の『摂理』によって、私達の『命』は、有限の期間活動できる宿命を帯びています。

この『生きている期間』を有効に使い、『大いに笑う』ことを追い求め、その反動として『大いに泣く』ことがあったとしても、それは望ましい『生き方』なのではないでしょうか。

梅爺は、自分の人生もそうありたいと願っています。

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2017年4月 2日 (日)

Necessity has no law.

英語の諺『Necessity has no law.』の話です。

『必要の前に法は通用しない』ということで、『やっぱりホンネはそういうことでしょう』と梅爺はついニヤニヤしてしまいます。人間の本質の一面を鋭くとらえていると感ずるからです。

梅爺のいつもの思考規範でこの諺を観れば、何を言いたいのか理解できます。

『必要』は言いかえれば『自分にとって必要なこと(自分にとって都合がよいこと)』で、『安泰を得る』条件として求めている概念です。

『安泰を希求する本能』が、人間の『精神世界』を基盤のところで支配していると梅爺は考えていて、この視点で人間や人間社会の事象を眺めるようにしています。

『法』は人間社会が『文明』を保有するようになった後に考え出された、そのコミュニティの規範となる『約束事』です。個人の『必要』ではなくコミュニティの『必要』を具現化するために考え出されたものです。

『個人』の『必要(都合)』と、コミュニティ(社会)の『必要(都合)』は、必ずしも同じではなく、多くの場合『矛盾』します。

人類は、群(コミュニティ)を形成して生きていく方法を生物として選択しましたので、それ以来この『矛盾』は私達につきまとい、解けない難題となっています。

『法』は便宜的に考え出された一つの『約束事』に過ぎませんから、絶対的に『正しい』とはかぎりません。

この諺は、『個人の都合(必要)』を優先すれば、『コミュニティの法(約束事)』は役に立たないことがあるということを言っています。両者は『矛盾』しているわけですから当然の話です。言い換えれば、いざとなると人間はコミュニティより自分を優先しようとするという習性が強いということでしょう。

人間は『利己』を優先すれば、『法』より自分を優先し、『利他』を優先すれば『法』を優先して自分は抑制することになります。親は本能的に身を賭して子供を守ろうとしたりしますが、一般的に『利他』の価値を認める人はかなり理性的な人です。

したがって、この諺が『正しい』かどうかなど議論しても始まりません。人間にはそのような側面があり、『矛盾』を抱えながら生きていることを指摘しているだけであるからです。

梅爺は、このような堅苦しい表現より、日本の『背に腹は代えられぬ』という、諧謔で笑い飛ばす表現が好きです。『お前さん、いざとなれば、人てぇものは、そういうものよ』という江戸の庶民の語り口が聞こえてくるからです。

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2017年3月14日 (火)

The devil is not so black as he is painted.

英語の諺『The devil is not so black as he is painted.』の話です。 

直訳すれば『悪魔は描かれているほど黒くはない』となり、意訳すれば『悪いだけの人間はそうはいない』ということになります。 

誰もが保有すると仏教が教える『邪心』『仏心』のこととして観れば、『悪人にも仏心はある』ということを言っているのでしょう。 

しかし、報道される『血も涙もない冷酷な殺人事件』などに接すると、『救い難い極悪人』と考えたくなる犯人はいますから、『少し甘すぎませんか』と反論したくもなります。 

人間は、宿命的に『個性的』ですから、『邪心と仏心が共存する』というのは論理的な表現で、実際には『限りなく邪心だけ』の人間が、ある確率で社会には必ず存在するともいえます。 

問題は、『救い難い極悪人』が先天的要因(遺伝子)と後天的な要因(生後の体験)のどちらに起因するかの判定で、これも容易ではありません。 

『救い難い極悪人』が先天的な要因で出現するなら、社会はある確率で犯罪が起きることを覚悟しなければなりません。全体的には『善良な人たち』が大多数を占める社会でも、犯罪を皆無にはできないということになります。 

後天的な要因が強く作用しているとしたら、幼児期からの『情育』など教育への投資が効果的に犯罪率を減らすことにつながるはずです。 

梅爺は、自分の体験も含め『成人』の『精神世界』は、かなり後天的な体験で決まると感じていますので、幼児期からの『情育』の充実は、国として取り組み投資すべき事柄と考えています。 

犯罪は皆無にはできませんが、減らすことは可能です。犯罪発生率が低い国は『文明度』の高い国と言ってよいのではないでしょうか。 

話が変わりますが、西欧のキリスト教文化の中で、『神(God)』と『悪魔(Devil)』という対比概念が存在することに、梅爺は興味を惹かれます。 

『全知全能の神』が、どうして自分に対抗する(言うことをきかない)『悪魔』の存在を認めているのか(排除しないのか)と素朴な疑問を抱いています。 

『神』が唯一なら、『悪魔』も唯一なのかそれとも複数存在するのかも問いたくなります。 

梅爺なりの見解は、ブログに何度も書いてきましたが、皆さまはどのように考え、納得されますか?

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