2012年3月12日 (月)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(8)

この4回のシリーズ番組で、『人間』を他の生物とは大きく異なったものに変化させた牽引役は、『分かち合いの心』『投擲道具(武器)』『農耕』『マネー』であると解説されました。それぞれごもっともな話ですが、『人間』という複雑な存在を、たった4つの要因で語りつくすことはできません。

私たち現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史は17万年程度で、地球上の生物種の中では、これは最も短い歴史と言えます。勿論現生人類は17万年前に降ってわいたように出現したわけではなく、先行する800万年の『人類種(猿人、原人、旧人)』の進化のプロセスの最終後継者として現れました。云い方を変えれば、現生人類とチンパンジーは、800万年前の共通の先祖を持っていたということになります。

梅爺は、現生人類は出現した時には既に、現在の私たちとさほど変わらない基本的な『潜在能力』を保有する程度に『進化』は進んでいたのではないかと勝手に、しかも大胆に想像しています。頭蓋の脳容量などは現代人と同じ程度に進化していたという意味です。仮に17万年前の赤ん坊をタイムスリップして現在に連れてきて、私たちの生活環境で育てれば、『現代人』として立派に通用する成人になるのではないかという大胆な推測です。

『バカなことをいうな。毛皮をまとい、原始的な石器の道具を使う程度の人間が、どうして私たちと同じなんだ』とご批判があると思いますが、それは生活能力の話で、梅爺が云っているのは生物としての『潜在能力』の話です。最初から後の『文明』を生みだすに必要な『潜在能力』のレベルを備えていたという推測です。現代の『科学文明』の歴史はたった数100年ですが、この間に『人間』の生物としての『潜在能力』が大幅に変わったわけではありません。『釈迦』『アリストテレス』『キリスト』の時代も、現代の人間と同じ『潜在能力』をもった人たちがいたにちがいありません。そういうことから延長した上での推測です。

今回のシリーズ番組は、現生人類が持てる『潜在能力』を開花させ、どのように文明をつくってきたかという内容で、そのプロセスのなかで、いかに外観(そとみ)の生活様式や社会環境を変貌させたかを示すものでしたが、梅爺が推測するように、17万年前には、後の変貌を可能にする『潜在能力』をもった『人間』が存在していたとすれば、『人間』が『人間になった本当の要因』は、現生人類種以前の人類の進化過程に大半が潜んでいるということになります。

『思いやり、分かち合いの心を持つ』『将来に夢を抱いて実現努力する』などという人間が持つ本能的な特徴を、倫理的にみて『素晴らしい』と云いたくなりますが、全て『そうしないと生き残れない過酷な環境での経験』が生みだした本能なのではないでしょうか。したがって『都合の悪い相手は徹底殺戮する』という本能も同時に私たちは継承しています。

『人間』の最後の頼みは、『理性』で本能を制することができる可能性を秘めていることです。『争う』『分かち合う』という一見矛盾をはらんでいるようにみえる本能がどうして継承されてきたかを冷静に理解し、人類が今後も存続するためには、本能のままだけで生きていくわけにはいかないことを同様に『理性』で理解する必要があります。このような『理性』を育む手段は、適切な『教育』しかありません。

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2012年3月11日 (日)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(7)

シリーズ4回目(最終回)は、テーマが『お金(マネー)』でした。実経済が生みだすモノやサービスの付加価値を等価交換するマネーではなく、複雑怪奇化した国際金融システムの上で、実経済からは遊離した『金融商品』を操り、手に汗せずに才覚だけで際限なく『儲け』を得ようと言う人たちが横行するようになった現代社会は、マネーに翻弄されてしまっています。一部の人たちが考え出した『悪知恵』が破綻し、世界中の人たちの資産が、瞬時に目減りしても、システムの複雑さと巧妙な手口のために、誰が悪いのか責任が曖昧で、結局社会全体で『損』を引きうけることになるという、何とも釈然としないことが起きています。

勿論『マネー』が悪いわけではなく、人間の欲望が生みだす『悪知恵』が根源で、国際金融システムと情報通信技術(IT)の合体が、『悪知恵』を支える手段になっています。

『マネー』は、『文字』同様に人類が考え出した見事な『しくみ』であり、『マネー』が文明推進に大きな役割を果たしたであろうことは、この番組を観なくても想像ができることでしたが、具体的に、『いつ』『どこで』『なにが』『どのように』使われたのかを解説してもらって、経済音痴の梅爺も『なるほど』と理解が進みました。6000年前のメソポタミアで、『小麦』を通貨とするシステムが始まり、古代ギリシャのアテナイで『銀貨』が誕生し、古代ローマ帝国時代の広域で『コイン(マネー)』が共通概念になったという話でした。

当初の『マネー』は、小麦、塩、羊など実際の価値が当事者間で合意できるもので、ギリシャの『銀貨』までは純度の高い銀を用いて、この考え方が継承されましたが、ローマ帝国では、『マネー』が信用保証の対象としての立場を確立したことを逆手(さかて)にとって、銀含有量を極度に減らしたコインをつくり、『銀貨』として通用させました。実際には価値の無いものを『価値あるもの』と保証するというトリックのような話で、これならいくらでもコインの発行が可能になります。このしくみは現代でも『紙幣』というかたちで継承されています。日本の1万円札も原価は、数10円程度ではないでしょうか。現在、世界中で一日に印刷される『紙幣』は、8兆円規模と言うことでした。

梅爺がこの番組を観て、一番興味をそそられたのは、『マネー』という概念を保有して、人間の『脳』の活動がどのように変化したかということでした。

人間のあらゆる行為は、『どうしたら自分がより安泰に生きていけるか』を追求することに帰着し、複雑な『政治』『経済』のしくみも、元はと言えばこれが原点です。矛盾するように見えますが『殺し合い』『戦争』もこれで起こります。『マネー』のしくみも当然この目的で考え出されました。

『マネー』の概念のない原始社会で、不安定なその日暮らしをしていた人たちは、群で全てを『分かち合う』という共産社会を『安泰』の基盤にしていました。『一人占めしたい』という欲望は、群の『安泰』のために抑制されていたことになります。しかし『マネー』の概念を知ると、『他人より多く蓄財して将来に備える』という『夢』や『群よりは自分だけを優先する』という欲望が、抑制できないほどに大きくなったとこの番組は解説していました。ある意味で『マネー』は群から個人を解放する手段になったということなのでしょう。

『マネー』は、『都市』『権力者』を作り出し、『専門の職業』が生まれて、一気に文明を開花させる原動力になりましたが、一方で『格差』や『争い』を生みだすことになりました。『マネー』は人類を豊かにもしましたが、一方『不幸』にも追いやることになり、『どうしたら適度なバランスがとれるのか』については、現代でも『回答』が見つかっていません。

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2012年3月10日 (土)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(6)

番組のシリーズ3回目は、『農耕』が人類へもたらした影響に関するものでした。『狩猟』行為は、他の動物も行いますが、『農耕』は人間だけが行うものですから、『農耕』が人間たらしめた要因であるという説明はもっともです。

『狩猟』時代は、獲物を求めて移動する生活環境が主であったのに対して、『農耕』では、定住が主になりますから、生活様式や社会構成が一変したことは容易に推測できます。やがて、コミュニティの規模は大きくなり、『階級社会』や『国家』が誕生するきっかけになったのでしょう。この番組では、『農耕』が始まった当初、コミュニティが自分の農耕地を他のコミュニティの侵略、略奪から守るために、『狩猟』時代より、人間同士の『争い、殺し合い』が激しくなったと解説しています。

しかし、他の動物も『群の縄張り』を巡って、同じ『種』同士が『争い、殺し合い』を行いますから、『農耕』が、人間同士の『殺し合い』の原点であったとは思えませんが、『殺し合い』の度合いが激しくなったのは確かかもしれません。

『小麦』の原種は、西アジアの野生植物であったことは分かっていますが、初期の『小麦』は、実が熟すると風で飛び散ってしまい、とても多量の収穫は期待できないものであったと、この番組は解説しています。そして、『小麦』は主食であったというより、宗教的祭事で『神』に捧げる『酒(ビール)』をつくるためのものであったのではないかと推測しています。同じ宗教を共有する複数の部族が、祭事場にあつまり、『酒』を神に奉納して、自分達も宴で呑み、絆を確かめ合って、『争い』を避ける手段にしていたのではないかとも推察しています。同様の祭事、神事は世界中の宗教で今でも行われていますから、説得力があります。

『宗教』も人間だけが行う活動ですから、これも人間たらしめた要因の一つであるという説明も肯けます。『ネアンデルタール』人は、異なった部族が『宗教』で団結することがなかったために滅亡したと唱える学者もいます。

やがて人類は、実っても風で飛び散らない新種の『小麦』を発見し、『小麦』は主食の座を勝ち取ることになります。これも『小麦』の側からみれば、『子孫繁栄』のために『飛び散る』必要があったものが、人間が必ず『種まき』してくれることで、『飛び散る』必要がなくなり、突然変異でできた『飛び散らない』品種がその後の主流になっていったとも言えます。人間の関与が『小麦』の『生物進化の自然選択』を促したことになります。

この番組では、私たちには『闘争心を高める』『他人と穏やかな気持ちを共有する』という矛盾した『ホルモン』が継承されていることを解説していました。これは、『戦う』『共存する』は、生物種の『生き残り』にとって、どちらも場合によって必要なことですから、『農耕』に出会うずっと以前から継承していた習性ではないでしょうか。

『農耕』に出会って、人間は殺し合うようになり、やがて共存するようにもなったというような印象をこの番組は与えていますが、梅爺はそうは思いません。ただ『農耕』が、『戦う』『共存する』ことを、より人間に強いるきっかけになったというのであれば、そうかもしれないと思います。

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2012年3月 9日 (金)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(5)

4回にわたって放映されたこのドキュメンタリー番組の『第2回目』を梅爺は、見落としましたが、山崎次郎さんが、ブログ『おゆみ野四季の道(新)』に詳しい論評を記載してくださったために、梅爺は、内容を想像することができました。

現生人類は、生き残り、繁栄のために数々の『道具』を創り出してきましたが、中でも『投擲型武器』を考え出したことが、生き残りにもっとも寄与したという説明であったらしいと理解しました。

後に『投擲型武器』は進化して、『弓矢』や火薬を利用した『飛び道具(鉄砲、大砲)』になったと考えられますは、原始的な『投擲型武器』は、『槍』や『ブーメラン』のようなものであったと推察できます。

現生人類が進出する前のヨーロッパの先住人類『ネアンデルタール人』が絶滅し(約3万年位前)、新しく進出した現生人類のみが生き残ったのは、『投擲型武器』を『持っていない』『持っている』の違いが原因である、というこの番組の説明は『本当かな?』と山崎さんは、疑念を表明しておられます。梅爺も、『仮説』であるにせよ、少々強引な説明のように感じます。

人類種として『旧人』に属する『ネアンデルタール人』が、『何故絶滅したのか』は、考古学的にはっきりは分かっているわけではありません。発掘された骨から、『ネアンデルタール人』は、体格はむしろ現生人類より大柄で頑健であり、『脳』の容量も現生人類と大差ないことが分かっています。『脳』の容量だけで、その知脳レベルを比較するのは危険であるにせよ、知能が現生人類にくらべて『格段に劣っていた』とは考えにくいように思います。

仮に、後から進出してきた現生人類が、新式の『投擲型武器』を使っていることを『ネアンデルタール人』が知ったら(見たら)、すぐにそれを真似するようになったのではないでしょうか。『真似することを思いつくほどの知能をもっていなかった』、つまり『大きな知能差があった』とは考えにくいように思うからです。だいたい『石を投げる』などの『投擲行為』は、『旧人』以前の『原人』レベルでも思いつく行為ではないでしょうか。

番組では、現生人類は『投擲型武器』を利用して、自分の身を危険にさらさずに、狩りで獰猛な大型動物をし止めたり、すばしこい小型動物や、鳥なども食糧(獲物)にしたために『生き残れた』という説明があったようですが、『ネアンデルタール人』が、こん棒のような武器だけを振りまわし、小型動物には眼もくれずに、危険を伴う大型動物だけを狩りの対象として、ついに獲物の数も減ってしまったために、自らも絶滅の道を歩むことになった、という説明は説得性が乏しいと感じます。動物でも人間でも、空腹になれば、周囲の食べられるものは何でも食べるのではないでしょうか。『ネアンデルタール人』が、小型動物に眼もくれずに、絶滅したとは思えません。

『ネアンデルタール人』と『現生人類』の関係は、日本における『縄文人』と『弥生人』の関係と同じで、先住民が絶滅したのではなく、後から進出してきた人たちとの交雑で、『同化』してしまったのではないかと、梅爺は勝手に推測しています。『ネアンデルタール人』と『現生人類』は、交雑が可能である程度の近い『種』の関係であった、という前提です。現在のヨーロッパ人の金髪、白い肌などの外見的な特徴はは『ネアンデルタール人』から受け継がれているのではないでしょうか。最近、『ネアンデルタール人』のDNAが数%、現在のヨーロッパ人に継承されているというドイツの科学者の報告があり、梅爺は意を強めています。

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2012年3月 8日 (木)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(4)

昨日も書いたように、人間には『自分に都合よく考え、行動しようとする』生物としての原始的とも言える本能があります。一方、『身勝手な考え、身勝手な行動』は、グループの『和』を乱すものとして、多くの場合顰蹙(ひんしゅく)の対象になります。『他人様(ひとさま)のご迷惑にならないように』と幼い時からしつけられます。

梅爺は、『身勝手』は原始的な本能で、『和』が大切という考え方は、人間が『理性』で後に獲得した『知恵』ではないかと永らく思っていました。しかし、この番組を観る限り、人間には『見ず知らずの他人とも分かち合おう』とする本能が備わっていることを知りました。心理学者が、以下のような実験でそれを確認しました。

この実験の被験者は、密室に招き入れられます。そして、『誰か見ず知らずの人の存在を思い描いて下さい。目の前に、コイン(またはお札)が10ケ(枚)あります。どうぞ、自分が思うままの数のコインを持ちかえってください。あなたにコインは差し上げます』と告げられます。興味深いことに、被験者の多くはコインを一人占めにして持ちかえりません。この実験は、世界中で行われ、数値には多少の違いがありますが、平均的には、コインの半分程度を『見ず知らずの他人』のために残すという結果が得られました。

社会風習、宗教の教え、教育のレベル、見栄など、この結果に影響を与えている要因はあるとは思いますが、もし、この番組の解説通りに『人間には、見ず知らずの人とも分かち合う心』が、『生き残り』に有利な基本的な資質(本能)として継承されているとしたら、『身勝手』と『分かち合い』という一見矛盾する資質(本能)を両方持ち合わせていることになります。ここで重要なことは、『分かち合い』は、道徳的な『善』である故に継承されてきたのではなく、『生き残る』という切羽詰まった状況がもたらしたということです。『分かち合い』をしなければ、現生人類は絶滅していたかもしれないということです。

繰り返しで恐縮ですが、人間は『理性』で、自分たちの考え方や行動を『善良』『邪悪』という抽象概念で区分するようになり、やがて『善良』『邪悪』の象徴として『神』『悪魔』と言う概念をも創りだしたのであろうと梅爺は推測しています。云いかえれば、宗教とは無関係に人間は『善良』『邪悪』を思いつく能力を持っていたと考えています。

吉川英治は『新平家物語』のなかで、『人間とは一日中に、何百遍(へん)も菩薩になり悪魔になり、たえまなく変化(へんげ)している』と書いていますが、一見摩訶不思議なこの資質は、上記の『生き残りをかけた生物進化の過程』を考えれば、説明がつきます。

『悪魔(身勝手を優先する資質)』は、私たちが不徳であるが故に、忍びこんでくるものではなく、『元々そういうふうにできている』と直視してしまうほうが現実的です。人間である以上『悪魔』を抱え込む宿命を帯びていて、自分の責任とはいえません。誰もがそうなのですから、『私は罪深い』と悩んでみても始まりません。ただこの『悪魔』が奔放に振舞わないように手綱を引くことは、大切なことで、個人の責任の対象にもなるということではないでしょうか。人間の『理性』がそれを可能にしています。

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2012年3月 7日 (水)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(3)

『人間』が他の動物と大きく異なる点と云えば、進化した『脳』が作り出す高度な『精神世界』を保有することでしょう。『精神世界』をどのように定義するかにもよりますが、『精神世界』を保有するのは『人間』だけとは考え難いように思います。『生物進化』の過程で、突然人間だけが降ってわいたように『精神世界』を獲得したという想定は無理があるからです。『他の動物は、人間と同程度の精神世界は保有していない』という表現が妥当なのではないでしょうか。

梅爺は以前『人の心、動物の心』というテーマのブログを書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-b189.html

『人間』の『精神世界』は、『理と情』『意識と無意識』の要素が複雑に絡み合った世界(論理的には4象限に分類できる)である、というのが梅爺の推測です。そして『本能』は多く『情/無意識』に根ざしていると推定しています。こう考えると、摩訶不思議に見える『人間』の『脳』の活動の本質が垣間見えるように思うからです。『人は何故神や仏を必要とし、願いや祈りをささげるのか』『人は何故睡眠中に夢をみるのか』『愛する人を失うと何故嘆き悲しむのか』というような疑問に、詳細ではないにしても、大雑把な説明が可能になります。

私たちは、『自分のことは、自分が一番よく分かっている』と勘違いしてしているのではないでしょうか。『分かっている』といえるのは『理/意識』の象限だけの話で、その他の象限の『脳』の活動は、自分でも『分からない』はずですから、本当は『自分のことの多くは分からない』という認識が必要になります。冷たい云い方になりますが『分からない』ことを思い悩んでみても始まりませんから、『分からない』と認める方が現実的です。

『心のときめき』『悲しさ』『寂しさ』などの情感は、突然襲ってきます。荘厳な景色を観て『感動した』ことは分かりますが、何故その景色が『感動』を呼び起こしたのかは分かりません。

生物が、環境からうける『情報』を判断する能力を最初に獲得したであろうことは容易に推測できます。『生き残りのために都合がよい、都合が悪い』を判断できる資質をもった子孫が生き延びたと考えられるからです。勿論この『判断』には、人間の場合は特に『理と情』『意識と無意識』の組み合わせが複雑に絡みます。

実は『人間』にとっても、『脳』の基本機能は、『生き残りのために都合がよい、都合が悪い』を判断することであると推定すると、『人間』の摩訶不思議さの多くを説明できるような気がします。

その後高度な『精神世界』を獲得した『人間』は、『善良』『邪悪』などの抽象概念を考え出し、これで自分の行動を律するようになって、今度は、自分の中に『善良な心』と『邪悪な心』が共存することの矛盾に悩み始めます。

本来は、『都合の良し悪し』が最優先に判断対象になると考えれば、『善良か邪悪か』は結果的に生ずる区分ですから、誰の中にも『善良な心』『邪悪な心』が『存在する』のは当然のことになります。

自分の中に『邪悪な心』があることを『罪』として恥じることも、無意味ではありませんが、それよりも、『邪悪な心』の存在を素直に認めて、『自分はそれには従わないぞ』と『理性』で自分を律しようとすることが『人間らしさ』なのではないでしょうか。

この番組では、『人間』らしさの原点は、『分かち合う心(思いやりの心)』であると紹介していましたが、本来は、『分かち合わないと生き残れない』過酷な環境に遭遇して獲得した資質であったと考えられます。

『愛』『思いやり』『正義』などという一見崇高に観える人間世界の重要な抽象概念も、原点は『生き残りに有利な要素』から出発していると梅爺は考えています。そう考えれば、何故『愛』『思いやり』『正義』が、人間社会に必要であるかが逆に理解できるからです。

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2012年3月 6日 (火)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(2)

『なぜ人間になれたのか』を考える時の一つの手掛かりは、他の動物と『人間』の違いに注目することでしょう。『文明』を築き、今や地球上に君臨する『人間』は、他の動物とは決定的に異なっていると云いたくなりますが、身体の構成要素、生命の営みやしくみなどを観るかぎり、他の動物と『ほとんど変わるところが無い』とも言えます。

『生物進化論』を肯定すれば、『人間』も他の動物も、元をたどれば同じ『祖先』に到達するわけですから、『ほとんど変わらない』のは当然のことです。日本では、あまりピンとこない話ですが、西欧、特にアメリカでは、現在でも『生物進化論』を受け入れない人たちが40%以上いて、学校で『生物進化論』を教えることに反対しています。聖書の教えである『神』による『天地創造』が正しいと『信じて』いるからです。『創造論』を主張する学者もいて、『生物進化論』の学者との間で激しい議論が交わされています。

『創造論』者によれば、『天地創造』は今から約6000年前のことで、『神』が自分に似せて『人間』をつくり、他の動物も最初から『他の動物』としてつくったということになります。科学者が提唱する、『137億年の宇宙の歴史』『46億年の地球の歴史』『地球上に生命体が出現したのは、少なくとも30億年前』『サルとヒトが生物種として枝分かれしたのは800万年前』などという、タイムスケールと比べると、6000年前の『天地創造』は、あまりにもかけ離れています。

科学者は、あらゆる手段を駆使して、遠い昔の『出来事』を推測、算定していて、『生物進化論』には『矛盾』が見つからないことから、『定説』になっています。『創造論』者は、『聖書に記述されているから正しい』の一点張りですから、どうみても論争にならないはずですが、それでもアメリカ人の40%以上が『創造論』を受け容れているわけですから、単純な話ではありません。

NHKのこの番組のように、『生物進化論』を当然のこととして肯定した上で、『なぜ人間になれたのか』を追求する内容が、もしアメリカで放映されたら、ごうごうたる非難がまきおこる可能性があるということです。しかし、日本では、NHKに抗議が殺到したと言う話は聞きません。

日本人の多くは『アメリカは文明先進国』と単純に考えていますが、アメリカのこのような側面も理解しないと、『社会的異文化』は理解できません。

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2012年3月 5日 (月)

ドキュメンタリー番組『なぜ人間になれたのか』(1)

NHK地上波デジタルチャンネルで、日曜日の夜『ヒューマン、なぜ人間になれたのか』というシリーズのドキュメンタリー番組が放映されて、こういう話題には目が無い梅爺は、早速毎回録画して観ようと勇み立ったまではよかったのですが、迂闊なことに2回目の録画予約を失念してしまい、すっかりしょげてしまいました。年齢とともにこのような『ポカミス』の数が増えるのはしかたがないとしても、今回は期待が大きかっただけに、その分失望も大きなものでした。

ところが、梅爺が毎日楽しく愛読しているブログ『おゆみ野四季の道(新)』の山崎次郎さんが、丹念に番組をフォローして、見事な感想をブログに掲載してくださったために、梅爺は観ていない2回目の内容も『観たような気分』になり、少し気を取り戻すことができました。

山崎さんのブログに梅爺が強く惹かれるのは、ご自分の『考え方』を述べることが主体になっているからです。山崎さんは、梅爺のような無精者ではなく、過酷なマラソンに挑戦したり、地域(おゆみ野)のためのボランタリー活動に率先参加したり、読書会に参加したりと、羨ましいくらいの『行動派』ですから、その日常を綴っただけで、面白いブログになるのは請け合いなのですが、それに止まらず、必ずご自分の『考え方』が添えられているために、読者は、山崎さんの『お人柄』の内面までも感じ取ることができて、親しみを感ずることができます。

特に銀行に勤めておられた経歴を活かした『経済』に関する論評は、経済音痴の梅爺にはありがたい内容で、『なるほど、そういう観方ができるのか』と感心してしまいます。山崎さんの主張が『正しい』かどうかは、梅爺の興味の対象ではありません。本質を推量しようとされる、その独特の思考プロセスが魅力的なのです。味気ない新聞の記事からは、このようなことは期待できません。

『なぜ人間になれたのか』の番組の感想にしても、山崎さんは単に『こういう内容でした』となぞっているだけではなく、『納得できたこと』と『納得できないこと』を区分けして、『何故納得できないか』も論理的に表現しておられます。

だいたい『なぜ人間になれたのか』などという深遠な問題に、一律、断定的な『回答』などあるはずがありません。NHKは、番組を際立たせるために、ある程度『断定』しようとするのは、やむを得ないとしても、視聴者は、自分で『考え』ながら対応することが重要です。山崎さんも、この番組を『想像』を膨らませる材料として利用されたらいかがと、ブログの読者に推奨しておられました。

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2012年3月 3日 (土)

またまた『日本人のルーツ』(8)

東北地方出身の作家『井上ひさし』氏は、日本語の原型は『縄文人』の言葉であり、東北弁がその名残を残すと、主張しています。身びいきの仮説とも言えますが、『日本人』同様に『日本語(特に縄文人の言葉)』もどのような経緯で出来上がってきたのかは、はっきり分かっていませんので、諸説が可能であり、井上氏の仮説もその一つと言えます。

文化水準の高い『弥生人』が渡来してきたにもかかわらず、言葉は『縄文人』のものがベースとして継承されたとすれば、『弥生人』の日本への溶け込み方を推測する上で、大きな要素の一つになります。圧倒的に文化のレベルが高い人たちが、一挙に多数渡来したとすれば、自分たちの言葉をベースに『置き換え』が起こったはずです。明治時代に、朝鮮や台湾を支配下にした日本は、現地の人たちに『日本語』を強いました。

このことから、最初に渡来した『弥生人』の数はそれほど多くなく、日本で自分たちの存在を認めさせるために、言葉のうえでは『縄文人』に合わせようとしたことが推察できます。勿論、ものの名前や概念で、新しい単語が持ち込まれたことはあったと思いますが、基本的な文法は『縄文人』の言葉が残ったということになります。

一方、井上氏とは逆に、『弥生人』の言葉が日本語のベースに変わったという仮説も考えられます。この場合は、かなり強圧的に『弥生人』は『縄文人』を支配する手段をとったということになります。

梅爺はどちらが正しいかを判断する能力を欠いていますが、直感的には『縄文人』の言葉が基本として残ったという仮説が正しいように感じます。

その後、中国大陸から『文字』として『漢字』が持ち込まれ、当時の『やまと言葉』に大きな影響を与えます。一部の人たちは『中国語』をそのまま習得しました(空海など)が、多くの人は『やまと言葉』を『漢字』を当て字として利用して表現しました(万葉集)。やがて当て字を簡略化した『カタカナ』『ひらがな』を考え出し、『ひらがな』を用いた女流文学(源氏物語)も出現しました。同時に、『やまと言葉』の意味を考え、相当する『漢字』をもちいる『訓読み』が導入され(『やま』には『山』、『かわ』には『川』など)、便利にはなりましたが、複雑にもなりました。『漢字』の『音読み』と『訓読み』を覚えなければならなくなったからです。

勿論、ものの名前、抽象概念などは中国語の漢字表記がそのまま使われるようになり、更に近世になると西欧の言葉を『カタカナ』で表記する習慣も根付きましたから、日本語は非常に複雑になりました。日本人は、無意識に『やまと言葉』『中国の概念の漢字表記』『西欧の概念のカタカナ表記』を使い分けていますが、外国人には理解が難しい世界にちがいありません。

現在の日本語は、明治政府が人為的に作り上げた『標準日本語』ですから、100年ちょっとの歴史しかありません。言葉は、文化の中で根強くのこるものと、環境に応じて柔軟に変貌するものとの両面があることを承知しておかないと、歴史は正しく理解できません。

『日本人』は、『坩堝(るつぼ)』のなかで溶け合ってできた人種(亜種)であり、『日本語』は、その『日本人』が、環境に応じて知恵を絞って作り上げてきた『文化遺産』であることが分かります。

これらを総合して私たちは『日本人』であり、日本の文化を継承していることを自覚して、誇りをもつことは重要なことですが、そうであるからといって、『日本人は特別優秀な人種である』という主張に転ずることは、差し控えるべきであると梅爺は考えています。

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2012年3月 2日 (金)

またまた『日本人のルーツ』(7)

10万年前にアフリカを出た『ホモ・サピエンス』は、紅海を渡ってアラビア半島に達し、そこから、一部は中東、北アフリカ、ヨーロッパへと向かい、一部はインド沿岸を経由して、4万年位前に『スンダランド(現在のマレーシア半島を含む)』に到達し、その一部は、海を渡って南下しオーストラリアに達し(アボリジニ)、一部は北へ向かって中国中央部、モンゴル、満州、シベリア、朝鮮半島、日本(縄文人の一部および後の弥生人)へ到達、さらに異なった一部は東の中国東南沿岸を経由して、沖縄、日本(縄文人の一部)にまで到達したという進出経緯が想定できます。

日本人の共通先祖は、最初に『スンダランド』へ到達した『ホモ・サピエンス』であると言えますが、その後の経路の違い、進化の違いで、日本へ到達した時期に差異が生じ、当然『異なった人種(ホモ・サピエンスの亜種)』変わっていたことになります。『縄文時代』は大変永い期間ですから、その間複数の経路から、複数回数、複数の亜種が到来したと考えるべきでしょう。最も古い時期は、2万年位まえで、『スンダランド』から東へ向かった人たちの子孫ではなかったかと思います。勿論、『スンダランド』から北へ向かった人たちの子孫の一部も、やがて『縄文時代』の日本へ到達していると考えられます。『アイヌ人』はその中に含まれるのでしょう。

『弥生人』の先祖は、頭蓋の特徴などから、中央アジア、北アジアにいた人たちではないかと推定されています。シベリア、バイカル湖付近と特定する学者もいます。『縄文人』と異なり、永い期間アジア大陸で進化を遂げ、3千年前に日本へ到来した時には、『稲作農耕』『鉄器』など高い文化水準を保有していたことになります。文化水準の高い『弥生人』が、文化水準の低い『縄文人』と遭遇した時に、何が起きたのかは、推定するしかありませんが、興味深いことです。少なくとも数の上では圧倒的に多かった『縄文人』は、完全に絶滅へ追いやられることはなかったのは確かです。現代の日本人の『ミトコンドリアDNA』の35%が『弥生人』、10%が『縄文人』から継承されているという『事実』を、私たちがどう読み解くのかがカギとなります。

日本へ住み着いた『人』の歴史の永さを、短く見積もって約2万年と想定しても、3千年前の『弥生人』の到来は、『新しい出来事』であり、1700年前の『卑弥呼』は更に『最近の出来事』のように感じられます。『卑弥呼』はキリストより、200年も後の人物なのです。学校教育の『日本史』の時間では、このような相対的な時間感覚を教えませんから、多くの日本人は『弥生人』『卑弥呼』は、とんでもない大昔の人間と勘違いしているのではないでしょうか。

『古墳時代』を経て大和朝廷が日本の支配者になりますが、これらは『弥生人』の子孫、または、その後朝鮮半島から渡来した人々が中心であったものと思います。『縄文人』色の強い人たちは、徐々に東北地方や沖縄へ追いやられれていったのではないでしょうか。現在の日本人も、東北の人たちは『端正でおっとりした容貌(アイヌ人などとの混血のため?)』であり、沖縄の人たちは『目鼻立ちがはっきりした容貌(最初に到来した縄文人で東南アジア系の容貌に近い?)』と特徴を残しているのは、その名残ではないでしょうか。

『坩堝(るつぼ)』のなかで、複数の素材が溶け合って出来上がったのが『日本人』であることは確かですが、素材の配合比で、微妙に特徴の異なった金属ができるように、同じ『モンゴロイド』といっても、中国人、朝鮮人、日本人は、現在では異なった人種(亜種)になっていると云えます。日本人は、人類学的には、純粋な人種(亜種)とは言えませんが、文化的には独立した人種(亜種)になっていると云っても差し支えないのかもしれません。少なくとも、このような背景を私たちは理解していれば、トンチンカンな『日本人優位論』などは生まれないはずです。

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