2011年5月 4日 (水)

福岡伸一著『動的平衡』(8)

私たちは、生きている以上『不変の自分』が存在すると想像しがちですが、細胞や細胞を構成する分子レベルは、刻々『新旧交代』を繰り返していますので、常に『新しい自分』に生まれ変わりながら、全体としての自分を維持していることになります。この本では以下のように表現されています。

生命を構成している分子は、全て高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けていくのである。だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へ解き放たれていく。

つまり、『生命』は、『分子の流れの淀み』であると、福岡先生は表現しておられます。『生命』は、環境との関係も、それ自身の内部もすべて『動的平衡』で維持されていることになります。機械のように、部品が壊れないかぎり、同じ部品で構成され機能しているわけではありません。

『生命』の『動的平衡』が維持できなくなった時に、全体としての『個』は『死』を迎え、もはや分子の再生産はできませんので、肉体はやがて分解して環境(自然)へ戻っていくだけになります。しかし、マクロに観れば、子孫へ『生命』は受け継がれていますので、これも『動的平衡』と観るこことができます。

『動的平衡』が、自然の摂理に深く関与していると梅爺は感じています。

人間の崇高さは、主として『精神活動』に起因しますが、崇高な精神活動を支える基盤は、『分子の流れの淀み』として存在している肉体(脳も含む)であるという、なんとも不思議な組み合わせに、梅爺は戸惑いを感じます。

梅爺が戸惑うのは、『精神活動』やそれを支える脳のしくみが、ほとんど解明されておらず、その知識を持ち合わせていないからです。この解明は『パンドラの箱』を開けるようなものだと主張される方もおられますが、梅爺はそうは思いません。味気ない『真実』が待ち受けているかもしれませんが、その『真実』とどう向き合うかが、次の世代の人間の『知恵』に任せれば良いと考えています。『真実』が明らかになると同時に、人間の崇高さが失われていくとは思いません。

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2011年5月 3日 (火)

福岡伸一著『動的平衡』(7)

人間にとって、『身体の病』や『精神的苦痛(悩み、不安、不満など)』は『安泰』を脅かすものです。『身体の病』について、その原因(細菌、ウィルス、毒性物質)を科学が突き止めてから、未だ200年程度しか経っていません。私たちが現代に生を受けたことが、いかに幸運かが分かります。それまでの人類は、経験則による対処療法か、『祈る(あるいは、まじないをしてもらう)』しか対応の方法がありませんでした。

『元を断つ』方法を見つけて、『身体の病』に関して人間は、強力な武装ができたように見えますが、敵(病原菌、ウィルス)もさるもの、新しい攻撃方法が可能な姿に変身して(突然変異で)、虎視耽耽(こしたんたん)と人間攻略を狙っています。人間が生き残りに懸命なように、病原菌やウィルスも生き残りに懸命なのですから、冷静に観れば『お合いこ』で、両者の攻防は、『いたちごっこ』で今後も果てしなく続くのではないでしょうか。人間にとっては、不都合な存在ですが、病原菌やウィルスは、特別に人間に恨みを持って行動しているわけではなく、自然の摂理のなかで自分が『生き残ろう』としているだけです。

本来ウィルスは、ある特定の生物『種』の細胞にだけ取り付ける性質を持っていて、他の『種』には影響が及ばないのが原則ですが、『突然変異』がこの原則を覆(くつがえ)します。『鳥インフルエンザ』が『豚インフルエンザ』に変貌し、ついには『人インフルエンザ』に変わって、最近世界中がパニックになりました。ウィルスもまた自然の摂理の中で『進化』をすることを止めません。

『身体の病』の科学的対応に比べて、『精神的苦痛(心の病)』への科学的対応は遅れています。『脳』のカラクリが解明されていないこともあり、多くは対処療法にとどまっています。『神や仏に祈りをささげて、救いを求める』という行為も、不遜な表現をお許しいただければ対処療法の一つですが、これが『きわめて有効』でることが、経験則で分かっています。現代社会でも宗教の存在が大きな意味をもっている理由です。

『神や仏』という概念を『信ずる』ことが、なぜ『心の安らぎ』をもたらすのか、を解明するには、『脳』に関する知識が不足しています。

しかし、『心が騒ぐ』からこそ、『心の安らぎ』を求めるのであって、『心の安らぎ』だけでは、今度は『退屈』という『心の騒ぎ』を呼び起こすことになりかねません。『心が騒ぐ』のは、人間が生きている証拠で、死ぬまで、決して手に入らない絶対的な『心の安らぎ』を求めて奮闘することになるのではないでしょうか。人間の脳は実に厄介な代物(しろもの)です。

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2011年5月 2日 (月)

福岡伸一著『動的平衡』(6)

梅爺は、文学的表現としては、『奇跡的』という言葉をあまり深く考えずに使いますが、自然の摂理の中に、『奇跡』は存在しないのではないかと疑っています。それでも、以下のようなことは、確かに『奇跡』に近いと認めざるをえません。人間は、自分の理解能力を超えた事象には、惧れおののき、当惑します。つまり、悲しいことに、自分の能力を超えた理解はできませんので、理解できないことは『奇跡』や『神の御業(みわざ)』ではないかと推測します。しかし梅爺が『奇跡』に近いと感じたから、客観的にも『奇跡』なのだと、他人に同意を求めるつもりはありません。

(1)『無』に見える状態から宇宙が膨張を開始した。
(2)太陽系の中に、地球という特殊な環境の惑星が出現した。
(3)地球の中に、『生命』が誕生した。
(4)生命体の進化の中で、『人間』が誕生した。

これらは、人間の感覚では、『稀有な偶然』で起きたように見えますが、『動的平衡』で変遷する自然の摂理の中では、『必然』の出来事であったのかもしれません。

『生物分子学』は、『生命』とは何かへ科学的に迫る学問で、ここ数十年の間に、多くのことが解明され知識が増えましたが、『生命』が私達へ突きつけている謎の大半は未だ分かっていません。梅爺の能力では、学者が既に突き止めた内容も、正しく詳細に理解できませんが、大雑把には、何が分かっていて、何が分かっていないかを、この本を読むことで知ることができます。生物としての人間は、基本的に何も特殊な存在ではないことを知ると同時に、進化で到達したレベルはきわめて特殊であることを知ることができます。この『特殊ではないが、特殊でもある』という人間の本質を知ることは重要なことです。言うまでもなく『特殊である』ことは、進化で獲得した脳の能力に由来しています。

最初単細胞であった人間の卵細胞が、受精後分裂を開始し、やがては60兆個の細胞にまで達すること、60兆個の細胞の中には、各々数百個の『ミトコンドリア(細胞小容体)』が存在し、酸素を摂取してエネルギー源を生成していること、同じく細胞の中には、細胞の活動の『指令書』である、DNA(遺伝子情報を保有)が存在すること、遺伝情報は各人異なっているが、基本要素は共通の3万個程度の遺伝子の組み合わせで決まっていること、DNAを構成する基本記号は4種類しかないこと(この4種類の記号で、文字、文章にあたる情報指令が作られる)、などが判明しています。

一つの卵細胞が、どうしてやがて、臓器、脳、骨、筋肉、皮膚、毛髪などの使命を異(こと)にした細胞に変貌、分裂するのかは今のところ分かっていません。細胞は、まるで『環境を読み』『タイミングをとらえて』いるかのように、目的の細胞へ変貌していきます。将来、何の細胞にも変身できる資質を備えた『ES細胞(万能細胞』の存在は分かっていますが、どのような『環境』と『タイミング』で、目的の細胞に変貌するのか、『環境』と『タイミング』の情報を細胞に与えている要因は何か、などは皆目分かっていません。『ES細胞』を利用すれば、人間を悩ませてきた難病も克服できるという話は、可能性を述べただけで、具体的な手掛かりの発見にはまだ程遠い状態にあります。しかし、ここまで追い詰めたわけですから、『突破』の可能性は確かにあります。

人間は、『神が神の形に似せて作ったもの』ではなく、生物の途方もない世代交代の繰り返しの中で、偶然突然変異で環境に適したものが出現して生き残るというプロセスをこれまた途方もない回数繰り返して、できあがってきたということになります。現在の環境を肯定すれば、人間の身体は、一見合理的にできていますが、地球温暖化で、平均気温が数度あがるだけで、多くの人間は、生き残れるかどうかの危機に直面します。体温が数度上がれば大変なことになるように、数度の気温変化も侮れません。勿論、突然変異で人間は今後も変貌していく可能性を秘めています。

人間の性別を決めるY染色体(男性だけにある)が、『どんどん痩せ細っている』ことが、明白になっていて、人類滅亡の予兆と言う人もいますが、これも、『誰かが悪い』わけでも『神が罰している』わけでもなく、進化のプロセスで偶然採用した『生殖方式』が、運悪くそうなるような『しくみ』にできているまでのことです。人間の身体が、全て合理的にできているわけではないことの証左です。人間が滅亡した後、数億年後に、また姿かたちや能力で、人間そっくりの生物が出現する保証は何もありません。

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2011年5月 1日 (日)

福岡伸一著『動的平衡』(5)

食品は、生命活動を支える素材ですので、目先の安さだけをを優先して購入すると、将来思いもよらない代償を支払わされることになるかもしれないと福岡先生は警告しています。最近は、生産者や流通ルートを明示した販売方法がとられることも多くなり、消費者は、自分でリスクを判断しながら購入できるようになりましたが、それでも、『とにかく安い方を買う』という、近視眼的な習性から、私たちはなかなか逃れられないでいます。消費者のこの習性が、安くするために偽装までしてしまう生産者を産み出す温床にもなっています。

防腐剤が添加された食品、遺伝子組み換えで、生産者にとって都合の良い品種にかえられた野菜、豆類、穀物が直接的、間接的(遺伝子組み換えした飼料を食べて育った動物の肉など)に、店頭で売られています。

防腐剤は、食品にとりついて繁殖しようとする細菌を殺すほどの能力を持っているわけですから、当然人間の身体に入っては、消化酵素も殺してしまうはずです。人間にとって危険ではない量に規制されているとはいえ、負担であることにはちがいがありません。遺伝子組み換えが行われた食品は、人間が消化のプロセスで完全にタンパク質を分解し、元の食品の情報を消滅させてしまえば、安全とも言えますが、遺伝子組み換えは、自然ではないことを植物や動物に強いるわけですから、それに逆らおうとして、人間には毒性のある新しい物質を作り出す可能性が無いとは言えず、100%安全とは言えません。

手間暇がかかる品種改良ではなく、遺伝子組み換えという手っ取り早い方法で、消費者受けの良い商品を作ったり、中には、除草剤と、その除草剤に耐性のある遺伝子組み換えした豆の種を組み合わせて売り出した、アメリカの強欲なアグリ・ビジネス大手会社の例などが、この本では紹介されています。文字通り『マッチポンプ』で、マッチ(点火手段)とポンプ(消火手段)を一緒に売ろうと言うあこぎな商法です。

自分の身体は自分でしか守れないと、神経質になって、何もかも疑いだすときりがありませんが、食品は、生命にかかわるものでありますので、最低限の知識は、消費者も持ち合わせる必要があります。そして、生産や販売に携わる人には、勿論倫理観が求められます。このバランスが保たれる国が文明国です。

生産者や流通ルートを明示するために、コストがかかり、売値が上がることがあっても、消費者はその負担を許容するのではないでしょうか。

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2011年4月30日 (土)

福岡伸一著『動的平衡』(4)

この本には、ダイエットのメカニズムを説明した章があり、メタボが気になる梅爺は真剣に読みました。人間の一日の基礎代謝エネルギーは約2000キロカロリーで、これ以上の余分な食物の摂取は、『太る(体脂肪を増やす)』原因になると単純に考えてしまいますが、人間の生命維持活動のメカニズムは、非常に複雑で、そのように単純に律することができないことが分かりました。

そもそも、『太る』ということは、脂肪細胞が、血液中のブドウ糖を脂肪に変えて細胞内へ貯めこむことですが、何故そうするかは、人間が進化してきた環境のせいで、人類種が地上に現れてから約700万年の間、ほとんどの時代人間は飢餓に怯えて生きてきたことに由来すると考えられています。まさかの時に備え、余った分は貯金をしておこうという発想と同じです。この仕組みの司令塔は、脳ではなく、膵臓(インシュリンで警告)であることも、生物進化の名残として興味深い話です。メタボは逆に飽食に悩まされているということですが、人間は、飽食が種の存続を脅かす要因であるなどという状況を従来深刻に経験してきていませんので、飽食に対する防御策は、生命維持のメカニズムの中に持ち合わせていません。数十万年後の人間は、太り過ぎを自動的に抑えるメカニズムを進化で獲得しているかもしれません。

一度貯めこんだ脂肪を、運動で消費するという行為は、非常に効率が悪いことが分かっていますので、よほど意志の強い人でない限り、運動を継続することは困難で、運動に頼るダイエットは多くの場合挫折します。勿論、運動にはダイエット以外の効果もありますので、運動が無意味であるということではありません。

人間の身体の中で作り出せない、ビタミン、元素(カルシューム、金属など)、必須アミノ酸などは、外から補給する必要があり、サプリメントの服用が有効と考えがちですが、必要以上の補給は、返って身体に有害ということもあり、逆効果にもなりかねません。通常は、普通の食生活で、これらは十分補えるようにできていると、福岡先生は書いておられます。

同じ量でも、チョビチョビ時間をかけて食べれば太らず、空腹を我慢した後にドカッと食べれば太るという仕組みに人間はできているようです。長期間でみれば、食べる量を減らせば痩せることになりますが、短期間では、むしろ身体を飢餓状態に置くことを避け、偏食を避けて、チョビチョビ食べることの方が太らず、健康を維持できる秘訣になるようです。

タンパク質は体内に貯めこむことができず、しかも、細胞が死と生を繰り返す『動的平衡(生命活動の根源)』の源ですので、人間は食べ続ける必要があります。『You are what you ate(汝は、汝が食したものなり)』とは、よく言ったものです。

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2011年4月29日 (金)

福岡伸一著『動的平衡』(3)

人間は、食べ物を口にした時から『食べ物が体内に入った』と思いますが、果たしてそうなのかと福岡先生は問います。消化器内で、食べ物が分解され(消化され)養分の一部が消化器内壁から血液内へ吸収されて初めて『食べ物が体内に入った』と見れば、食道、胃、腸の内部は未だ『体外』であるとも言えます。ちくわの内部を貫く筒状の空間は、ちくわの一部ではないという論法です。

勿論、体内、体外の定義を議論することが目的ではなく、人間は、単純に模式化すれば、ミミズのように、口から肛門までの筒状の体外部分を内部に持つ生物であると見ることができるという話です。脳とか心臓とか、私たちが非常に重要な器官であると考えますが、それらは生物進化の過程の後の段階で追加獲得したもので、ミミズのようであった時の原型が人間にも残されているという見かたは、人間を理解する上で意味があります。受精卵が分裂して人間の形を形成していく初期の段階で、筒状の『内部体外部分』が先ず確保されることも分かっています。消化器や心臓には、脳の指令とは別の自律神経があることも、どの順序で人間が出来上がっていったかを推測させる材料です。

筒状の内部空間とも言える消化器内部で、食べ物は消化酵素によって分解され(タンパク質はアミノ酸へ)、食べ物が保有していた固有の情報(タンパク質の構造情報)は消滅します。人間のタンパク質の持つ情報とは異なった食べ物固有の情報がそのまま体内に入ると、人間に悪影響を及ぼすからです。消化の本質的な目的は、吸収されやすいように細かくするということより、食べ物固有の情報を消去することにあるのだと分かります。完全に消去できれば、遺伝子操作で作られた動物、植物を食べても大丈夫という論理になります。

人間に必要なタンパク質は、吸収したアミノ酸などを利用して、再度合成されます。食べ物やサプリメントのタンパク質がそのままの形で補填(ほてん)利用されるわけではありません。

こう考えると、歳をとって関節がギシギシする人は『ヒアルロン酸』『コンドロイチン』を、お肌がカサカサしたら『コラーゲン』を、頭を良くするには『味の素(グルタミン酸ソーダ)』を摂取しなさいという話はあやしいことになります。これらはいずれも、全て人間の体内で、ありきたりのアミノ酸を材料に合成できるものであるからです。人間に効果のあるものは、人間の体内では作り出せない必須アミノ酸を外部から摂取する時に限るということになります。

関節がギシギシし、お肌がカサカサするのは、老人のタンパク質合成能力が衰えているためですので、材料のアミノ酸だけを多量に補給しても、必ずしも有効ではないということになります。老人はサプリメントのテレビ広告に、惑わされないようにする必要がありそうです。

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2011年4月28日 (木)

福岡伸一著『動的平衡』(2)

自然界に存在する一見ランダムな事象の中に、人間はある『パターン』や『ルール(法則・規律)』を本能的に見出そうとします。空に浮かぶ雲の形や、壁のしみを見ても、勝手に『何か』を連想したりします。生物としての進化の過程で、環境の状況を判断し、生き残るために、そのような能力必要であり、その資質が現生人類にまで継承されていると考えると、この習性の意味は得心がいきます。科学や哲学は勿論のこと、宗教もこの人間の習性がなければ、存在しなかったのではないでしょうか。

『パターン』や『ルール』を鋭く感知できる人は、そうでない人より先に身を護ったり、獲物を捕獲できたりできますから、断然有利と言えますが、この人間の習性には、大きな陥穽(かんせい)が待ち受けています。この本では、それを『脳のバイアス』の功罪として説明しています。意味があるものと思いこんだ『パターン』や『ルール』は、『真実』とは縁のない『単なる思いこみ』『勘違い』であることが大半です。虹は厳密には7色ではありませんし、平家蟹の甲羅に浮き出て見える人の顔は、海の藻屑と消えた平家の人たちの無念の形相ではありません。このような他愛のない『勘違い』で済むことなら問題はありませんが、時に甚大な影響を周囲にもたらす弊害の元となることもあります。『思いこみ』が嵩(こう)じて、他人を恨み、ついには殺してしまうというような悲劇も生じます。

人は誰も『脳のバイアス』の束縛から基本的に逃れられませんが、唯一この呪縛を逃れて『自由』を獲得する方法は、『学ぶ』ことであり、人は何故勉強をする必要があるのかという意味がそこにあると、福岡先生は指摘されます。自分が獲得(認識)した『パターン』や『ルール』は、『客観的な真実とは縁遠いものかもしれない』と『疑ってみる』能力は『理性』であり、この『理性』を研ぎ澄ますためには、『学ぶ』しかないという主張ですから、ごもっともな話です。

表現を変えれば、『直感を疑いなさい』ということになりますが、一方人間は個性を発揮するために『直感は大切にしなさい』という教えも間違いではありません。『直感』を疑っていては芸術などは成り立ちません。『直感』とどう付き合うかは、人間にとって大変厄介なことであることが分かります。

『直感』を産み出すのは脳細胞ネットワークですが、この脳細胞ネットワークは、人によって詳細の構成は異なっています。これが『個性』の源泉です。脳細胞ネットワークの形成は、胎児の時のランダムな接続に始まり、出生後外部環境の刺激を受けて、必要なものが強化され、不要なものは刈り取られて(消滅して)出来上がると言われています。先ずやみくもに接続して(行動してみて)、その後必要なものを残していく(生き残っていく)という、プロセスは、生物進化の過程の踏襲のように見えて、梅爺は大変興味深く感じます。

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2011年4月27日 (水)

福岡伸一著『動的平衡』(1)

自然界を支配する『摂理』というものがあるとすれば、『様々な要因が、刻々その時の平衡状態を求めて遷移する(動的平衡)』と『生まれる、生きる、死ぬを繰り返す(創造と破壊)』ではないかと梅爺は感じています。

宇宙も、星も、生物も、勿論生物の一種である『人間』も、この同じ『摂理』に支配されていると観ると、色々なことに得心がいきます。

自然界に『奇跡』と言えるほどの偶然があるとすれば、それは、生物の中で人間だけが『高い理性(知性)』を進化の過程で獲得したことではないでしょうか。勿論、この『理性』やそれをもたらした『進化』も、『動的平衡』『創造と破壊の繰り返し』という『摂理』に支配されていますので、実は稀有な偶然ではありますが、『奇跡』ではありません。

人間はその高い『理性』で、『愛』や『正義』といった抽象概念を思いつき、その象徴である『神や仏』という概念も考え出したのではないでしょうか。その結果、『愛』『正義』『神』が、人間の精神生活の根本であると思いついたのも、『理性』の推論として肯けます。しかし、冷静に自然界を観察してみると、これらの抽象概念は、少なくとも自然界の支配要因にはなっていないように思えます。

『愛』『正義』『神』が、人間や人間社会を支配する重要な概念であることに、梅爺は異論がありませんが、これを自然界を支配する『摂理』に格上げすることには疑問を感じています。人間が『理性』と『情感』を織り交ぜて作り上げた『精神世界』である宗教、芸術、哲学、科学は、人間が創造した『別世界』であり、自然界とは次元が異なったものであると考えた方が、矛盾がすくないように思います。ただ『科学』だけは、自然界の摂理を探究しようという行為ですので、自然界との接点があり、無縁のものとは言えないかもしれません。

梅爺が、自然界の『摂理』は、『動的平衡』と『創造と破壊の繰り返し』ではないかと『推論』するのも、梅爺の『理性』がなせる業(わざ)です。人間や人間社会が消滅すれば、人間が考えだした抽象概念やその成果である『精神世界』も消滅し、後に残るのは、『摂理』に支配される自然界だけということになるのではないかと考えています。

梅爺が傾倒する生物分子学の権威、福岡伸一先生の著書『動的平衡』を読みました。『生物の生命活動は動的平衡である』という先生の主張が底流にありますが、ちりばめられているエピソードとそれを表現する日本語の美しさを堪能できる本でした。

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2010年10月28日 (木)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(14)

この本のエピローグの最後を、福岡先生は以下の文章で締めくくっています。

この世界のあらゆる要素は、互いに関連し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界には部分が無い。部分と呼び、部分として切りだせるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
 そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、本当の意味での因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

梅爺は、世の中に究極のルールと言えるものがあるとすれば、それは『自律分散処理システム』ではないかと、何度もおこがましくブログに書いてきました。創造(生まれる)、維持(生きる)、破壊(死ぬ)を繰り返すことも、このルールに関連しているように感じています。この世は、誰かがデザインし、そのあるべき姿へ向かって動いているのではなく、多数の要因の複雑な相関関係のもとに『動的平衡』を求めて変容しているものと受け止めています。このルールを産み出したものを『神』と呼ぶならば、梅爺も『神』を認めますが、この『神』は、宗教の教義が説く『神』とは異なっています。このルールは冷徹なもので、愛とか慈悲とかいう考えとは無縁です。

このように考える梅爺を、自分ではどうも変人らしいと感じていましたが、上記の福岡先生の文章を読んで、まったく同じような認識をお持ちの方が他にもおられることを知り、嬉しくなりました。勿論、梅爺と福岡先生の、表現力の違いは、上記の文章を見るだけで歴然ですが、基本認識が近い人に巡り合えた梅爺の喜びが一入(ひとしお)であることは、ご推察いただけると思います。

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2010年10月27日 (水)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(13)

私たちの生命活動を維持するために、多数の『酵素(エンザイム)』が活躍しています。体内で作り出される酵素では足りませんよと、もっともらしい広告で脅されて、ついサプリメントを購入してしまったりしています。

胃や腸で活躍する『消化酵素』は有名ですが、何故消化酵素は、外部から摂取された動物性、植物性のタンパク質だけを分解し、人間の消化器官そのものは分解しないのだろうかと、不思議に思っています。梅爺が知らないだけで、単純な理由があるはずです。

消化は、外部から食べ物として摂取したタンパク質をアミノ酸に分解して、人間が体内で再利用するためですが、実は消化には、もっと重要な目的があることをこの本を読んで知りました。食べ物として摂取したタンパク質は、元の生物の固有情報を遺伝子として保有しているために、これを完全に『消去』することが消化の役割の一つであるということです、他の生物の遺伝子情報で、人間の細胞の遺伝子情報が、悪い影響を受けないための防御であることが分かります。

遺伝子組み換えを行った穀物、豆類は使用していませんと、食品には書いてあっても、このような穀物、豆類が家畜の飼料になっているとすれば、遺伝子組み換えが、人間に間接的な影響を及ぼすかもしれないと、心配になりますが、もし消化が完全に行われれば、人間の体内に摂取した外部のタンパク質の『遺伝子情報』は消去されるはずですので、論理的には遺伝子組み換えの影響を恐れる必要がないように思われます。遺伝子組み換えは、食糧難を解決する方法ですので、安全が確認できれば人類には朗報です。オーガニック食品しか食べないなどというのは、裕福な国の人たちの贅沢な主張です。

この他にも、細胞内のATPを分解して、エネルギーを取り出す『ATP分解酵素』もすごい酵素です。この酵素はATPを分解すると同時に、細胞内のナトリュームイオンを細胞外へ汲みだし、イオンの濃度勾配を常に作り出しています。そしてこのイオン濃度勾配こそが、生命現象の源泉になっていることをこの本で知りました。

人間という『小宇宙』は、実に驚きに満ちています。

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