2011年3月30日 (水)

テオ・アンゲロプロス(4)

今回観た3本の作品の中では、『エレニの旅』が最も大作で、完成に2年を要したとのことです。最初から最後まで、『悲劇』に翻弄されるエレニという一人の女性の半生を描いた映画です。たった一つのシーンのために、『これは大変な費用と手間がかかっているな』と梅爺でも想像できる箇所がいくつもありました。黒澤明監督も、同じようなこだわりでスタッフを悩ませたと聞いたことがありますので、自己主張の強さは『巨匠』の証なのでしょう。梅爺のように、『まあこの程度で良いだろう』とすぐ妥協するような人間は『巨匠』にはなれません。

最近の映画では、実写では金がかかるシーンは、『CG(コンピュータ・グラフィックス)』で対応するのが主流で、騙すほうも、騙される方もそれを楽しむ風情がありますが、テオ・アンゲロプロスや黒澤明からみると、『世も末』ということかもしれません。

『エレニの旅』が大作であることは、梅爺にもわかりますが、3本の中の梅爺の好みは『永遠と一日』です。

『永遠と一日』は、年老いた一人暮らしの詩人が、難病を宣告され、明日から入院ということになって、再び退院することはないと『死』を悟り、身の回りの整理に奔走する一日を描いた映画です。一緒に暮らしていた愛犬を、娘夫婦に預けようとしますが、体(てい)良く断られ、その上、亡き妻との思い出が残る浜辺の別荘も、娘の亭主によって売りに出されていることなどを告げられ、孤独感がつのります。車に愛犬を乗せて、引き取り手を探してさまよううちに、密入国しているギリシャ系アルバニア人の少年と、ひょんなことで知り合い、奇妙な『老人と少年の交流』が展開します。人生を表現するのに、老人と少年を対比させる手法は出色です。

妻や家族、仲間との幻想的な回顧シーンと、現在が交差しますが、どのシーンでも主人公は、現在の黒いコートを着た老人として画面に登場します。この表現手法が、現在の老人の孤独感を一層際立たせます。

詩人は、『自分の言葉を見つけ、自分の世界に深入りすればするほど、他人との距離は遠くなる』というようなセリフをつぶやきます。それほど深刻ではありませんが『梅爺閑話』もそのような一面があるなと、身につまされました。

タイトルの『永遠と一日』は、亡き妻との回顧シーンで、『明日と言う時間はどのように定義したら良いのか』と詩人が妻に質問し、妻が『永遠と一日』と答えることから採られています。物理的には、単なる『一日』であることは明白ですが、個人にとっては、無限の可能性を秘めた『永遠』とも言えますので、なかなか味わいの深い表現です。

失ってしまった『絆』を、見知らぬ少年との交流に見出そうとしたり、昔を回顧して確認しようとしたりする老人の『孤独』がひしひしと伝わってくる映画で、同じく老人である梅爺には、胸に迫る映画でした。『明日』を『永遠』と感ずることができるのは、若い人の特権です。そう言えば梅爺にもそのような時代がありました。

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2011年3月29日 (火)

テオ・アンゲロプロス(3)

『冷笑』や『蔑(さげすみ)の笑い』でない『笑い』は、人間の精神や時に肉体を健全に保つために有効な手段と考えられています。脳が無意識に要求するストレス解消の手段であるからではないでしょうか。『笑い』の対象を、人は『喜劇』に求めますが、高尚な『喜劇』は、観ている人に『あなたも、滑稽な対象の一人ですよ』とこっそり教えます。つまり、人間は誰もが『ちぐはぐで、滑稽な面を持っている』ということをあらためて思い起こさせます。梅爺は、自分の滑稽さを認めて、笑いの対象に出来る人が大好きです。逆に、『自分は笑いの対象ではない』と思いこんでおられる方は苦手です。

生きることの代償として、人生には『悲しさ』『寂しさ』という苦悩が付きまといます。生きるためには『耐えなければいけない』ことは『理』では分かりますが、そう簡単にはいかないように人間の脳はできています。この峻厳な本質を、『喜劇』で表現するか、『悲劇』で表現するかは、表現者の『好み』です。『悲しさ』『寂しさ』を『悲劇』で表現する方が、直截的であり、ぐさりと本質に迫ることができるのは間違いありません。

人間に『悲しさ』『寂しさ』をもたらす要因は、多くの場合『絆の喪失』です。愛する人や自分の『死』は勿論その最たるものですが、『周囲が自分を必要としていない』『自分は周囲に役立つ存在ではない』と感じた時も同様に『絆の喪失』となります。生物進化の過程で『群をなして生きる』習性を遺伝子として受け継いできた人間にとって、『絆の消失』は、『不安』『恐怖』と感ずるように、脳はできています。『孤独』が人間をもっとも蝕(むしば)みます。

更に『絆の喪失』をもたらすものは、『人間にとって避けがたい要因』と『人間自身がつくりだした要因』に分類できます。『老いて死ぬ』『天災で命を落とす』などは前者で、『戦争』『差別』『貧困』『他人を顧(かえり)みない自分中心の考え方』などが後者に相当します。

テオ・アンゲロプロス監督は、全ての『絆の喪失』に由来する『悲しさ』『寂しさ』を取り上げて描いていますが、特に、戦争などの、人間がつくりだした要因による『絆の喪失』の不条理を強く訴えているように感じました。

『ギリシャの内戦』『ロシア革命でロシアを追われたギリシャ系難民』『ギリシャへ不法入国するギリシャ系アルバニア人の浮浪児』などが、映画の背景に取り上げられています。

しかし、映画を観終わって、単なる『反戦映画』であるというより、『人間は、悲しさ、寂しさと無縁には生きられない』という、『理』では解きようがない事実を、そのまま放りだすように提示していることに気付きます。そこには『強く生きろ』とか『神に救済を求めろ』とか、説教がましいことは何もありません。生きることにつきまとう『どうしようもないこと』には、自分で対応するしかないということなのでしょう。それが人間の宿命であるということなのでしょう。

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2011年3月28日 (月)

テオ・アンゲロプロス(2)

『人間』という、なんとも単純に割り切れない存在の『本質』を、えぐりだして見せる手法に、『喜劇』と『悲劇』があります。『本質』は、梅爺流に表現すれば、『情と理の絡み合い』で、どちらを重視するかのバランスの度合いは無数にありますから、『どうあるべきだ』と割り切ることはできません。『理』を優先すれば『情』を殺すことになり、『情』を優先すれば『理』を殺すことになります。夏目漱石は、『草枕』の中で、『智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』とこれを見事に表現しています。

チャップリンや『男はつらいよ』の山田洋次監督は、『喜劇』を選択しています。『笑い』は人間が無意識に求める『自己ヒーリング(癒し)』ですから、観客は屈託のない笑いを求めて映画を観ようとしますが、やがて、笑いの原因が、主人公の善意や純粋な心に発した行為であることに気付き、『待てよ、これに比べたら自分はなんと不純に毒されてしまっているのだろう、笑いごとではない』と悟ります。『喜劇』は、時に『哀しみ』や『人間の中にある矛盾』を表現する最高の手段ともなります。

テオ・アンゲロプロスは、反対に『悲劇』を選択する監督です。映画は最初から最後まで、陰鬱なシーンの連続です。『曇天』『雨降り』『夜』『荒れた海』『廃屋』『暗い部屋』と徹底しています。音楽も陰鬱を効果的に盛り上げます。『ギリシャ悲劇』を産み出した国の伝統なのかどうか知りませんが、そこには、エーゲ海の青、紺碧の空、燦々たる陽の光、白壁の家、陽気な人々といったギリシャのイメージはありません。

今回3本の作品(『シテール島への船出』『永遠と一日』『エレニの旅』)を観て、イタリアのヴィスコンティ監督と作風が似ているように感じました。ヴィスコンティの『揺れる大地』については、感想を前に書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-9448.html

ヴィスコンティにしても、テオ・アンゲロプロスにしても、アメリカ文化ではなく、ヨーロッパ文化の土壌に根ざしているように感じます。ハリウッド映画では、このような作風にはなかなか出会いません。テオ・アンゲロプロス監督が映画を製作するのに、フランス、ドイツ、イタリアの会社が出資をしていますが、アメリカの会社は名を連ねていません。『悲しみをついに乗り越えて、希望へ向かって再出発する』というような楽観的な結末の映画ではありませんので、アメリカ人は興行的に成功しないと判断するからではないでしょうか。

テオ・アンゲロプロス監督は、さらに『ゆったりしたカメラアングルの動き』『1シーンのカットが非常に長い』『会話は最低限に抑えられている』などが特徴で、梅爺は日本の『能』のような様式美を感じました。言葉による説明にだけ頼るのではなく、映画と言う総合的な表現様式の中で、登場人物の心の動きを観る人に伝えようと言う意図ではないかと思いました。

人生はそれでなくても苦悩に満ちているので、せめて映画くらいは気楽に観ることができるものを選びたい、とおっしゃる方には、いずれもお薦めできる作品ではありませんが、時には『悲劇』や『人間の苦悩』を直視する勇気を持ちたいと考える方には、お薦めできる作品です。

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2011年3月27日 (日)

テオ・アンゲロプロス(1)

『テオ・アンゲロプロス』という現代ギリシャの偉大な映画監督の存在を梅爺は偶然知りました。NHKBS第二の『衛星映画劇場』で、『シテール島への船出』『永遠と一日』『エレニの旅』という、彼の作品が数夜にわたり以前放映され、それを録画して観てのことです。

『音楽とは何だろう?』というブログで、『音楽を含む芸術は、創作者にとっては、自己追及、自己表現であり、鑑賞者にとっては、触発された自己発見が目的である』のではないかというような趣旨のことを書きました。人間は『言葉』だけでは表現できない、『共有の絆』を求めて、芸術を創出し、高度なレベルへ発展させていったのであろうという推測です。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-e3f5.html

全ての映画が『芸術』であるとは言い難いですが、映画の一部は高い『芸術性』を表現するレベルに達しています。興行成績の良い映画だけに興味を惹かれて観ていては、芸術性の高い映画を見落としてしまうことになります。アメリカ文化を代表するものが映画で、ハリウッドがその中心であると単純に受け取って、『ハリウッド映画』や『ハリウッド映画を模倣した映画』が『映画』であると考えているのは、もったいないことかもしれません。

確かに世界には、『ハリウッドに認められることがメジャーになること』と考え、この努力をしている映画人は沢山います。中国の優れた映画監督チャン・イーモウ(張 芸謀)なども、今ではハリウッド資本の映画を創るようになっています。

しかし、『ハリウッド』には全く目もくれず、独自の『映画表現』を追求している人たちも世界には沢山います。前に『こんなに近く、こんなに遠く』というイランの映画を観て、梅爺が驚いた様子はブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_b50e.html

テオ・アンゲロプロスというギリシャの映画監督も、その一人であることを知りました。『シーンのワンカットが非常に長い』『カメラ・アングルの移動が非常にゆっくりしている』『曇天ばかりで晴天が無い』『言葉(会話)は厳選されていて非常に少ない』『映像美と役者の演技だけで、人物の心理描写が行われる』『貧しいはずの登場人物が立派な服装をしている』というような手法に最初は戸惑いますが、やがて、観ている内にその手法やテンポの意図がなんとなく理解できて来て、心地よいものになり、映画の世界に引き込まれていきます。

映画好きの年金爺さんにとっては、思いがけない発見、遭遇で、大変得をしたような気分になりました。

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2011年1月17日 (月)

アンジェイ・ワイダ(3)

『アンジェイ・ワイダ』は、社会主義のポーランド政府から見ると、『好ましからざる人物』であったに違いありません。『夜の終わり』では、抑圧された社会の若者達の生態を描き、背景の音楽にポーランドでは『アメリカ資本主義の退廃の象徴』であるとされるジャズさえも使っています。政府が、苦々しく思いながら認めざるを得なかったのは、『アンジェー・ワイダ』が、世界中から高い評価を得てしまっていて、皮肉なことに、それはポーランドの名誉でもあったからではないでしょうか。こんな有名人を政府が抑圧したら、世界中から『人権問題』として非難されることも承知していて、迂闊に手が出せなかったというのが実情でしょう。『アンジェイ・ワイダ』は、社会主義政権末期に、反政府で立ち上がったワルサの『連帯』を支持することも公言していました。

それでも彼は、直接的に社会主義を非難する映画は、勿論作りませんでしたが(実態は、作りたくても作れなかった)、国威発揚の『ちょうちん持ち映画』も作りませんでした。多くは『ナチに侵略された時代』やそれ以前のポーランドを時代背景として、『不条理』に巻き込まれる人間を描いていますが、観かたをかえれば、『スターリンの侵略』や、社会主義ポーランドの『不条理』を暴いていることにもなります。

『アンジェイ・ワイダ』は、学生時代に美術を専攻したこともあり、見事な『映像美』が特徴ですが、何よりも『人間の描き方』で傑出しています。黒澤明の『赤ひげ』や『椿三十郎』のような、個性や能力を誇張するが故に現実味を欠くヒーローを登場させたりはせず、どこにでもいそうな人物の『臆病なのに勇気を振り絞る』『良心を押し殺してでも欲得に走る』姿を、的確に描き出します。キャスティングも見事で、それらしい振る舞いの人物には、それらしく見える役者を割り振っています。リアリズムを重視するタイプの監督なのでしょう。

何気なく見える『しぐさや台詞』の中に、『矛盾だらけの人間』をうまく表現していますので、『アンジェイ・ワイダ』という人の人物観察眼、人間の本質を洞察する能力が、特段に秀でていることが分かります。

梅爺は前に、梅爺が選ぶ『五つの映画ランキング』をブログで紹介しましたが、その頃は『アンジェイ・ワイダ』を知りませんでしたので、彼の作品は含まれていませんでした。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_7602.html

今なら、間違いなく『約束の土地』などが、上位にランクインします。

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2011年1月16日 (日)

アンジェイ・ワイダ(2)

『アンジェイ・ワイダ』のすごいところは、その代表作の大半を、ポーランドが共産主義体制下にあったときに、監督制作していることです。政府が制作費を出すと言う特典があるのかもしれませんが、脚本レベルからの徹底検閲を受け、『社会主義イデオロギーに反するもの』『西欧、特にアメリカの退廃文化を是認するもの』は全て削除され、ひどい場合は、出来上がった映画の撮りなおしを強要されたり、エンディングを脚本とは全く異なったものに変更するよう命じられたりしたと、『アンジェイ・ワイダ』は後に述懐しています。彼は、80歳半ばの年齢ですが、今も健在です。

これほどの『手かせ足かせ』の中で、世界の映画人が『ウーン』と唸る映画を制作したわけですから、もし『手かせ足かせ』が無かったら、どんなことになったのだろうと想像してしまいますが、ひょっとすると『制約』が反って『研ぎ澄まされた才能』を開花させたのかもしれません。不思議なことに、人間は『制約』や『逆境』を跳ね返し、糧にして、飛躍することがあります。貧しい家庭から偉人が出てくる確率が高いのも、その証左です。

資本主義社会では、映画はビジネスですから、どんなに芸術性に優れ、一部の批評家が絶賛しても、『興行収益』があがらなければ、失敗ということになります。ビジネスでは、この『ボトム・ライン(最終結果)』の責任を負うことが経営者の務めですから、リスクを避けて『大衆迎合作品』に映画界は走り勝ちです。そこで『大スペクタクル』『痛快活劇』『陳腐な勧善懲悪』『薄っぺらいお涙頂戴』『性と暴力』の映画が増えますが、大衆もまたしたたかで、これを見抜き、必ずしも単純に受け容れたりはしません。この『ボトム・ライン』と『大衆のしたたかさ』の『せめぎあい』の中で、映画文化は、進化していきます。

『アンジェイ・ワイダ』にとっては、政府の検閲が最大難関で、それを潜り抜ければ『ボトム・ライン』は気にせずに映画を作れたのかもしれず、それが結果的に『すばらしい映画』を産み出すことにつながったのかもしれません。

『アンジェイ・ワイダ』の作品は、西欧の映画祭で最高の賞を総なめしましたので、当時の社会主義ポーランド政府としては、『外貨獲得』『国威発揚』ともなり、彼のわがままに、仕方なく目をつむることを余儀なくされたとも考えられます。ほんものの才能は、どんな制約の中でも輝きを放つものだという典型かもしれません。

『地下水道(モノクロ)』『灰とダイヤモンド(モノクロ)』『夜の終わのに(モノクロ)』『約束の土地(カラー)』を梅爺は、今までに録画して観てきました。どれも甲乙つけがたいすばらしい映画です。梅爺が知性を感ずる映画監督は、『エリヤ・カザン(アメリカ)』『ルキノ・ヴィスコンティ(イタリア)』ですが、『アンジェイ・ワイダ』はそれ以上かもしれません。日本の黒澤明とは、作風が異なりますので、単純な比較は難しいのですが、『人間を洞察する鋭い感覚』では、『アンジェイ・ワイダ』が上のような気がします。

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2011年1月15日 (土)

アンジェイ・ワイダ(1)

テレビが普及する前の時代は、『劇映画』が最高の大衆娯楽でした。梅爺が高校生のときに、新潟県の長岡でもテレビ電波が受信できるようになり、我が家に、初めてモノクロ・テレビが設置され、大興奮したことを今でも鮮明に覚えています。それ以前の小学校、中学校時代は、映画館へ行って『映画』を観ることが、最大の楽しみで、映画館の中で、日常とは異なった別世界に、ただただうっとりしていました。

大学時代は、下宿住まいの侘しさを紛らわせるために、時折映画館へ出向きましたが、就職後は、映画館で映画を観る機会はほとんどなくなりました。そのかわり、テレビで放映される映画をテープに録画して観ていましたが、当時のテレビは小画面の上に、テープ録画したものは画質も悪いものでした。それでも、『テレビ画面で、テープ録画の映画を観るということは、こんなものだ』と思っていましたので、特段不満を感じていたわけではありません。

現役引退後は、奮発して梅爺専用のハイビジョン対応テレビを購入し、ハイビジョン録画も可能な録画環境も整えましたので、映画館並みとはいかないまでも、かなり鮮明で迫力のある映像を独り占めして楽しめるようになりました。これ以外にも、封切された話題の映画は、シネマ・コンプレックス(映画館)へ出かけて観ています。シニア向け料金1000円というのも、ありがたい話です。

というようなわけで、最近は、テレビで放映される面白そうな映画を、片っ端から録画して、観るようになり、少々映画中毒になりかけています。ソファーにふんぞり返っているだけですから、不健康と言えばそのとおりですが、年金爺さんの娯楽としては、こんな安上がりなものはありません。

人生経験を積み、外国も少しは見聞し、その上屁理屈爺さんになっていますので、子供のときのように、映画の中の別世界にうっとりするというような初々しさは無くなり、荒唐無稽を、さも現実のように見せようとする演出には、『おいおい、それはないだろう』などとブツブツ独り言を言いながら、批判精神旺盛に映画を観るようになりました。

期待して観たら面白くなかったり、あまり期待せずに観たら、めっぽう面白かったり、映画は、本を読むのと似たところがあります。そうこうするうちに、好きな作家が見つかるのと同様に、好きな映画監督も自然に見つかります。

梅爺は、ポーランドの映画監督『アンジェイ・ワイダ』に惹かれるようになりました。

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2010年12月19日 (日)

オットー・プレミンジャー(3)

『枢機卿(すうきけい)』は、アメリカ人のカトリック神父が、幾多の試練を乗り越えて、アメリカのカトリックを統括する『枢機卿』に上り詰めるという話です。映画の真ん中で休憩が挿入される、3時間の大作です。『枢機卿』は、英語では、『Cardinal』で、文字とおり『枢機卿』の礼服の『真紅色』を表したものです。

中世は、『枢機卿』の定員は70人と決められていましたが、現在では、世界各地へ布教が拡大し、180~200人と増えています。勿論日本人も含まれています。『法王』が亡くなった場合、『枢機卿』による『投票(コンクラーベ)』で次の『法王』が決まりますので、『枢機卿』は『法王』への登竜門でもあります。現在までのところ、アジア地区、アフリカ地区、アメリカ地区から『法王』は選出されたことはありません。将来カトリックが、『ヨーロッパ主導、白人主導』から脱皮できるかどうかは、注目に値します。

この映画では、主人公が、『厳しいカトリックの戒律の遵守』『アメリカの人種差別』『ヒトラーのオーストリア併合時のカトリック弾圧』などの試練に立ち向かっていきます。自分自身の恋心との相克、実の妹が異教徒であるユダヤ教の青年と恋に落ちたことへの対応など、悩みを抱えますが、あくまでも『戒律』を曲げずに対応します。その結果、彼を慕う女性や妹を不幸にし、妹にいたっては絶望して自堕落な生活を送り、妊娠して出産しようとしますが、難産で医者は、母親か胎児のどちらかしか命は救えないと宣告します。ここでも、兄の神父は『戒律』をまもり、胎児を見捨てることは殺人だといって、妹を死に追いやります。

『オットー・プレミンジャー』は、『戒律は本当に神の意思なのか』『宗教はどこまで現実の政治に影響を行使できるのか』などの重い問題を、次々に提示し、見る人に迫りますが、カトリックを肯定も否定もせずに、公平に描いていきます。『私には答がわかりません。観るあなた自身で考えてください』と言う姿勢ですから、こちらも『うーん』と呻ってしまいます。ただ、梅爺は『自由尊重のアメリカ民主主義』を基本的に賛美している映画のように、なんとなく感じました。ベトナム戦争以前のアメリカでつくられた映画であるためかもしれません。

バチカンで撮影したと思われる、壮麗な儀式の場面や、映画監督のジョン・ヒューストンが、前任のアメリカ地区枢機卿役の役者として登場するなど、気楽に観ていれば、面白い金のかかった豪華な映画です。しかし、あまりにも、『理』で『善悪』を問う話題が『てんこ盛り』のために、『良くできた紙芝居』のような感じをうけましたので、梅爺は3本の中では、最下位の評価を下すことになりました。

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2010年12月18日 (土)

オットー・プレミンジャー(2)

続けざまに観た『オットー・プレミンジャー』の3作品に関して、梅爺の好みの順は、『月蒼くして』『野望の系列』『枢機卿』です。小津安二郎の映画のように『これでもか、これでもかと言わんばかりの同じトーン』ではなく、3本とも毛色の異なった映画ですから、『オットー・プレミンジャー』の多彩な能力と表現意欲を感じます。

『月蒼くして』は、建築家で裕福な独身青年(若き日のウィリアム・ホールデン)と女優の卵で貧しい娘との、ハッピー・エンドで終わるラブ・コメディです。゙『オットー・プレミンジャー』が、ブロードウェイで演出したことがある舞台劇の映画化ですから、限定された登場人物が繰り広げる『軽妙洒脱な大人の会話』が何といっても秀逸です。『処女』とか『セックス』とか言う語彙が頻繁に使われるのはよろしくないと、当時映画製作会社は公開中止にしようとしましたが、怒った『オットー・プレミンジャー』は、映倫を脱退して、強引に公開し、大当たりとなった映画です。現代人ならば、あまり抵抗を感じない会話ですが、当時(1950年代)のアメリカの、社会的な倫理観では、『扇情的』であったのでしょう。『十二人の怒れる男たち』と同様、計算されつくされた舞台劇のような映画は、梅爺の好みです。

『野望の系列』は、一転して、アメリカの大統領や上院議員達の権力抗争の裏側を描いた政治的内容のフィクション映画です。大統領が推薦した国務長官候補を推す陣営と、排除しようとする陣営が、上院小委員会で、丁々発止のやりとりをする様子が圧巻です。国務長官候補が、若い頃に共産主義者の集会に参加していた事実が、反対陣営のよって暴き出されますが、大統領は、証拠を握りつぶしてまでも自分の主張を通そうとします。このために、小委員会委員長の過去のスキャンダル(軍隊時代に、同性愛者であった事実)をほじくり出し、恐喝材料にしたりします。反対陣営の古狸のような親玉と、これまたしたたかな賛成派の親玉が、国務長官候補を含めた証人尋問を交えて、小委員会で繰り広げる『討論』は、まるで裁判所の検察側と弁護側が繰り広げる『やりとり』のように、スリリングです。

当時のアメリカの政治家にとって、『アカ』『ホモ』は致命的であったことが推察できます。『オットー・プレミンジャー』は、こういうレッテルを貼って、その人の全てを否定する単純な行為に批判的であったのでしょう。何といっても、この映画では、権謀術数を駆使した『討論(ディベート)』の弁術に引き込まれます。日本の国会ならば、相手を罵倒し、殴り合いになりそうな気がしますが、アメリカの政治家は、『したたかな論理』や『皮肉たっぷりのユーモア』などで、一見冷静に対応していきます。日本の国会議員の先生には、到底望めないような資質と能力です。

アメリカ人と外交やビジネスで渡り合うときには、このような資質、能力が求められますよ、というような内容なので、梅爺は昔を思い出し、身につまされながら観ました。こういう能力で、アメリカ人と丁々発止とやりあえる白洲次郎のような日本人は、残念ながらそう沢山はいません。

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2010年12月17日 (金)

オットー・プレミンジャー(1)

我が家は、二人の子供達が、独立、結婚して家を離れて、梅爺、梅婆の二人暮らしですが、テレビ視聴環境、録画環境は、奮発して『梅爺専用(液晶37インチ)』『梅婆専用(液晶52インチ)』に分けてあります。これで、『チャンネル争い』などのトラブルは一切発生しません。梅爺が、現役を退いた時に、居間のテレビを『好き勝手に利用』することが、それまで主導権を持っていた梅婆には『ストレス』になるらしいことが分かり、それならばと、即刻決断して、視聴環境を分けました。

テレビ画面の大きさは、『梅婆専用』が勝りますが、『梅爺専用』は、更に地元のケーブルテレビと契約し、ケーブルテレビが『標準パッケージ』として提供しているCS放送チャンネル(スポーツ、ニュース、映画、漫画、音楽)も視聴できるようにしてあります。もっとも、地デジ、BS衛星放送は、もともと視聴できるわけですから、ケーブルテレビは、もっぱらスポーツ専用チャンネルを観ています。これで、野球中継が、『良いところで、尻切れトンボで終わる』というような、イライラはありません。というようなわけで、我が家は既に『地デジ移行』が完了しています。

『梅爺専用』は、テレビ(東芝Regza)に外付けでハード・ディスクを直接接続すると、録画ができる仕様になっていますので、1テラ・バイトのハード・ディスクを別に購入しました(1万円程度で購入可能)。これで、ハイビジョン番組が、約90時間録画できます。昔のビデオ・テープ録画とは異なり、完全に鮮明なハイビジョンで、録画・再生ができますので、90時間という総録画時間も含め、『テレビっ子』の梅爺は、大いに満足しています。

梅爺が主に録画するのは、『映画』『オペラ』『クラシック音楽コンサート』『ドキュメンタリー番組』です。常時20~30本の番組が、ハード・ディスクに収まっていて、梅爺のために待機していることになります。

もうだいぶ前のことになりますが、NHKBS衛星2チャンネルで、1950年から60年にかけて、ハリウッドで活躍した映画監督『オットー・プレミンジャー』の以下の3作品が放映され、録画して観ました。

『月蒼くして』(モノクロ) 1954年
『野望の系列』(モノクロ)1961年
『枢機卿』 (カラー)   1962年

オットー・プレミンジャーは、ユダヤ系のオーストリア人で、祖国では舞台監督でしたが、ナチの台頭でアメリカへ渡り(1935年)、ブロードウェイでミュージカルなどを手がけた後に、ハリウッドの映画監督に転じた人です。彼は、それまでのハリウッドの『常識』を次々に覆すアイデアを実践し、物議をかもし出しましたが、『堕ちた天使』『ポーギーとベス』『黄金の腕』『帰らざる河』『悲しみよこんにちわ』『栄光への脱出』など、その作品は、高い評価を受けました。反骨精神と、高い知性の持ち主であったのではないかと、梅爺は想像しています。

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