2017年2月12日 (日)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven minutes(11分)』(6)

最初にも書いたように、小説のタイトル『Eleven Minutes(11分)』は、男女の性行為が持続する平均時間を意味しています。

たったこれだけの短い時間が、人間の『生き方』『精神世界の価値観』にまで影響を及ぼすという『不釣り合い』なことに、『パウロ・コエーリョ』は何か神秘な意味が隠されているのではないかと考え、この小説を書いたのでしょう。

しかし、梅爺流の観方をすれば、『Eleven Minutes』は『物質世界』の『性』に関わる事象であり、『精神世界』とは独立したものに見えます。

他の動物の性行為平均時間は、『Three Seconds』であったり『One Hour』であったりするのかもしれませんが、『ヒト』の場合は『Eleven Minutes』であるということに過ぎません。子孫再生産のために『ヒト』に本能として付与された能力ですから、種々の肉体条件、脳の働きなどが複雑に絡んで偶然『Eleven Minutes』になっているだけのことです。

繰り返しで恐縮ですが、『物質世界』の事象を『物質世界』だけで通用する『理』で論ずることと、『物質世界』の事象を『精神世界』の抽象概念と絡めて論ずることとは区別すべきです。

この区別が共有でき、『精神世界』の価値観の多くには普遍的な判定基準が存在しないことを認めれば、私達が日常行っている多くの『不毛な議論』はなくなります。

ややこしいことに『文学』は、『物質世界』の事象を文学者の個性的な『精神世界』の価値観を絡めてとらえ表現する様式が採られます。

『閑(しずか)さや岩にしみいる蝉の声』などという芭蕉の俳句が典型的です。他の人が同じ場所で同じ蝉の声を聴いても、この句は創れません。

他の芸術と同様に、『文学』も、作者の『精神世界』が、読者の『精神世界』と響き合って啓発が行われることに意味があります。この『啓発』も個性的なものであることは言うまでもありません。『精神世界』は本質的に個性的であるからです。

『パウロ・コエーリョ』が彼の『精神世界』で、『性』という『物質世界』の事象を『愛』と絡めてどのように考えるかは梅爺の興味の対象であり、共感することもありますが、『こういう観方が正しい』とは受け取りません。『Eleven Minutes』は『文学』の作品であって、『性科学』の解説書ではないからです。

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2017年2月11日 (土)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven Minutes(11分)』(5)

梅爺の唱える『物質世界』の視点で『性』を観るとこうなります。

(1)『両性生殖』のしくみは、『生物進化』の過程で生物が獲得した子孫再生産の仕組みである。個(親)には寿命があっても、種は絶やさない(継続させる)ようにした見事なしくみであるが、試行錯誤の中の偶然で見出したものである。
(2)両親となる雌雄(男女)の性細胞(動物の場合は卵子、精子)が結合し、子供の最初の細胞が出現する。この細胞は、やがて細胞分裂を繰り返し、子供は成人になっていく。
(3)雌雄の性細胞結合(受胎)時に、両親の遺伝子の偶発的な組み合わせで、子供の遺伝子が決まる。遺伝子の全体構成は、親と子で同じではない。つまり、『両性生殖』は、個性的な子供をつくりだすしくみである。
(4)生物の『性』の基本的な仕組みは、『物質世界』の制約と『摂理』の支配下にある。素材は、『物質世界』の共通素材(炭素、窒素などといった)を利用しており、『しくみ』の基本は、化学反応(ホルモン利用など)、物理反応といった『普遍的な法則』を利用して機能している。
(5)種の絶滅を避けるために、『性』には『性本能』『性欲』も付随している。代償として人間の場合『快楽』を伴うのも、種の保全の確率を高めるために『生物進化』が選択、継承してきたものである。

『精神世界』の価値観(後ろめたい、汚らわしいなど)を一切排除して『性』を観ると、上記のような味気ない説明になります。基本的に『性』は、『精神世界』抜きに成立する事象です。自然界(物質世界)の動植物の『性』は、基本的に人間の『性』と変わりません。

換言すると、人間が『性』を特別視するのは、生物として高度な『精神世界』を保有するに至ったからです。

『精神世界』の中の多様な概念、価値観と『性』を組み合わせると、本来上記のような味気ない『物質世界』の子孫再生産の手段であった『性』が、異なった意味を持って見えてくるのは当然のことです。

『日の出』は『物質世界』の厳然たる事象に過ぎませんが、『精神世界』がからむと『崇高なもの』になり、崇拝、祈願の対象になったりするのと同じです。

『宗教の価値観』『支配者の価値観』『快楽優先の価値観』などが、人間社会の『性』に大きな影響を与えてきました。

『精神世界』が共通概念として作り上げ、重視される『愛』という概念と、『性』を結びつける、または切り離せないとする『考え方』が登場するのも自然な成り行きです。

『精神世界』の横綱級の概念『愛』と、『物質世界』では子孫再生産の手段として極めて重要な事象『性』を、一緒に論ずることになりますから、議論は多様を極めます。

『パウロ・コエーリョ』のように『崇高な愛』に伴う『性』が、『崇高な性』であるという観方もその一つです。梅爺も、これに反対するつもりはありませんが、自分の考えとするつもりもありません。

『快楽だけを追求した性は低俗である』という主張も、議論から生まれる一つの主張です。しかしそれなら『美味だけを追求する食欲は低俗である』ということになるのかという反論もしたくなります。

梅爺が申し上げたいのは、『物質世界』の事象である『性』を、『精神世界』の価値観で論じ始めた途端、『これが正しい』という観方は見つけにくくなるということです。

『愛』と『性』の関係を論ずるのは結構なことですが、結局各自が自分の価値観で、『自分の考え方』を見つけるよりほかに方法はありません。

従来の社会の価値観、宗教の価値観に共鳴するのも、自分だけの価値観を見出すのも各自に任されています。ただし、自分だけの価値観に基づく行動が他人の肉体や心を傷つけるものではないという前提においてのことです。

でも『愛』も『性』も、相手を傷つけやすいものであるがゆえに、『自分の考え方』を見出すのはやさしくはありません。

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2017年2月10日 (金)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven Minutes(11分)』(4)

従来多くの哲学者、宗教家、作家、評論家などが、『性』と『愛』の関係を論じてきました。いずれも、その人の『精神世界』の視点で、『性』を観ようとしています。

キリスト教では『愛を伴わない性は罪の行為』とされ、『懺悔(ざんげ)』の対象でもありました。この価値観が現在まで踏襲されていて、西欧社会の人々の倫理観、道徳観を拘束してきました。神の前で誓って結婚した夫婦のみに許される行為で、子孫を残すために、本来は好ましくないがやむなく認めてあげると言わんばかりの対応です。

その証拠に、カトリックの聖職者は『妻帯』が許されていません。仏教の禅宗などでも、僧職者の一部は自分の意思で『妻帯』を選ばない生き方を選んでいます。仏教では『性』ばかりか『愛』までも『煩悩』とすることがあります。

『性』には『いやらしい』『汚らわしい』という『精神世界』の価値観が伴ないがちで、その結果『隠微な世界』として秘匿される風習も継承されています。

『性』は『快楽』を伴うために、『快楽』だけに走る行為を『道徳に反する』として『つつましく自制して生きる』ことこそが『人のあるべき姿』という主張が社会の主流を占めてきました。

何回も梅爺がブログに書いてきたように、『精神世界』の下す価値観には、科学のような普遍的な評価尺度がありませんから、いくらでも異なった主張が出現することになります。

『パウロ・コエーリョ』がこの小説で展開する『考え方』もその一つですから、『なるほど、そういう観方が正しいのですか』などと畏れ入る必要はなく、『参考にいたします』と一つの知識として受け止めればよいだけの話です。

『パウロ・コエーリョ』は、『運命で出会うべくして出会う男女がある』『相手が放つ光で男女はそれを認識する』『求めず与えるだけに喜びを見出すこの男女(光を確認しあった)の間の性が究極の性である』というような話を展開します。このように『オカルト』的な視点が『パウロ・コエーリョ』の小説にはよく登場します。繰り返しで恐縮ですが、これは『パウロ・コエーリョ』の『精神世界』が創造した『虚構(フィクション)』ですから『真偽』を問うても始まりません。

主人公の『娼婦』が、現実には色々な『性』を体験し、哲学的思考を深めながら、このような境地へ導かれることになります。

この展開を、梅爺も『ロマンティック』と感じないわけではありませんし、『何としても深遠な意味がある』としたい気持ちもわかりますが、『性』は『物質世界』に属する事象として、『情』を排除して観ることも必要なのではないかと感じました。『物質世界』の事象としての『性』と『精神世界』の事象としての『性』は、地続きでつながっているという認識も必要という意味です。つまり『性』も『学際的』に探求すべき対象であるという考えです。

『性』を『精神世界』で観ることに意味がないということではなく、『物質世界』の事象としても認識しないと、『神秘な世界』から抜け出せないのではないかということです。『宗教』『哲学』『文学』の世界だけで『人間』の本質を論ずる時代から、そろそろ脱却してもよいのではないでしょうか。

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2017年2月 9日 (木)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven Minutes(11分)』(3)

この小説は、ブラジルの田舎の店員であった若い(美人の)娘が、物見遊山のために出かけた『リオデジャネイロ』で、スイスでナイトクラブを経営する男に、『スターになれる、金儲けができる』とスカウトされ、突然スイスへ行くことになるところから始まります。

しかし、ナイトクラブでの待遇は、『スター』や『金儲け』とは程遠いひどいもので、このナイトクラブをやめて、今度は、『高級娼婦』を斡旋(あっせん)することを裏の稼業とする別のナイトクラブの専属『娼婦』になります。

『娼婦』として出会った何人かの男を介して、彼女は、『性』『愛』『快楽』『苦痛』『精神の輝き』などに関する『思索』を深めていきます。

『パウロ・コエーリョ』は、この主人公を『世間知らずの、浅慮な娘』ではなく、深い思索(哲学的思索)ができる能力(自分の行動に責任を持つ能力)を持った人物として描いています。勿論主人公は高い学歴などはありませんが、思索能力と学歴は必ずしも相関がないということなのでしょう

主人公が、時に応じて記述する『日記』の内容が、小説の中では重要な役割を演じています。つまり『平易な文章』ながら、内容は深遠な哲学的問題提起、問題把握として表現されています。これこそが『パウロ・コエーリョ』の真骨頂です。

『田舎娘』と『哲学的思索』の結びつきは現実的ではないだろうと批判はできますが、これこそが『パウロ・コエーリョ』の小説が『大人のための童話』であるような印象を与える要因でもあります。『精神世界』の創作(虚構)は、どのような想定も可能になりますから、それを承知で読めばよいだけで、嫌ならば読まなければ良いだけのことです。

この小説は、主人公の若い女性の『心の旅路』がテーマですから、『精神世界』が変容していく様子が重要で、ストーリーそのものは単純で、副次的です。

人間の『精神世界』が興味の対象でない方には、『パウロ・コエーリョ』の小説は、単調で面白くないものかもしれません。

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2017年2月 8日 (水)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven Minutes(11分)』(2)

『性』は、古代の人間にとっても、自ら『神秘』『不思議』を実感できる対象であったに違いありません。

『欲望』『快楽』が関与することに加えて、『妊娠』『出産』が関与することは、古代人も推量できたに違いありませんが、現代人のような『生殖のしくみ』に関する科学知識は持ち合わせていませんでしたから、『不思議な力』を信仰の対象にしたのも無理からぬことです。多くの土着宗教は『五穀豊穣、子孫繁栄』を『神』への祈願対象にしています。

『ヒンズー教』や、日本の土着信仰の一部では、『性器』をかたどったものを、崇拝対象にしていますが、現代人のようにそれを『淫猥』または『低俗』と観る考え方は、全くなかったはずです。『豊穣』をもたらす、不思議な力の元として、まじめな信仰の対象であったはずです。

現代人は『生殖のしくみ』は科学知識で知るようになりましたが、依然として『性』をどのように考えるかという点では、誰もが共通認識を保有しているわけではありません。

とりわけ、『精神世界』の中にある『罪の意識』や『愛の情感』との関連で、『性』をどのように受け止めるかについては、多様な価値観が氾濫しています。

『パウロ・コエーリョ』も、この問題を放置できずに、『Eleven Minutes(11分)』という小説を書こうと思ったのでしょう。『11分』は平均的な性行為の時間を意味するらしいことを知りました。『物質世界』の事象と観れば、『性』の一面はこのような定量的な尺度で表現されるここと、『精神世界』で観れば『愛』などという概念が関与する何やら崇高な事象となるということの極端な違いを、『パウロ・コエーリョ』は表現したかったのではないでしょうか。世俗的な興味を喚起するために、このようなタイトルを選んだとは思えません。

この小説には、『性』と『売春』『加虐的な快楽(サディズム)』『被虐的な快楽(マゾヒズム)』『愛』『嫉妬』などの関係が登場します。

小説の登場人物に、いろいろな体験や主張を託していますが、『パウロ・コエーリョ』の『精神世界』がそこに反映されています。

梅爺の『物質世界』『精神世界』を区別する観方でみれば、『パウロ・コエーリョ』とは異なる認識になりますが、それはそれとして『パウロ・コエーリョ』の『精神世界』を垣間見ることで啓発されますから、有益な読書になりました。

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2017年2月 7日 (火)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven Minutes(11分)』(1)

パウロ・コエーリョの小説『Eleven Minutes(11分)』を、英語版ペーパーバックで読みました。

ブラジルの国際的な人気作家『パウロ・コエーリョ』の著作に魅せられて、梅爺は彼の作品を愛読してきました。

人気作家となるきっかけになったデビュー作『Alchemist(錬金術師)』に偶然出会ったのがきっかけです。

一言でいえば、『パウロ・コエーリョ』の関心は『人間とは何か』『人は何のために生きるのか』といった、哲学が追求してきた課題です。

しかし、哲学者のような難解な表現は一切用いず、むしろ平易な文体で小説は書かれています。テーマによっては『大人のための童話』のような印象を読者に与えます。平易な文体で、深遠な内容を伝えるという作風がこの作家の特徴で、世界中の読者を魅了する一つの要因になっています。

勿論原書は『ポルトガル語』で書かれていて、梅爺が読んでいるのは『英語への翻訳版』ですから、『平易な文体』の印象を受けるのは英語の表現からの推測です。

当然『パウロ・コエーリョ』の関心は、梅爺流に言えば『人』の『精神世界』へ向けられます。つまり、多くの『抽象概念』を探求の対象にしています。

『大自然と魂が渾然一体となる恍惚感』『愛』などがよく小説に出現します。オカルトまがいの儀式もよく登場します。

小説の中で、主人公が『たどりつく境地』はありますが、それが『正しい』として読者を説得しようとするような姿勢はありません。『精神世界』の多くの概念は『真偽』を議論をする対象ではありませんから当然のことです。読者は、『私もそう思う』または『私はそうは思わない』と自らで判断することに意味があります。『芸術鑑賞』とはそういうものです。

読者は、作者が小説で提示する『神秘』に興味を抱きますが、一層深い霧の中に迷い込んだような印象をもって本を読み終わります。作者の『精神世界』が、読者の『精神世界』に新しい何かを喚起するということで、『芸術』の目的は『それで十分』ということなのでしょう。

具体的な『解決』『結論』を期待する人には、『パウロ・コエーリョ』の小説は不向きです。

『Eleven Minutes(11分)』は、『性』と『愛』の関係を扱った小説です。きわどい表現が出現しますが、性的興味を喚起することが目的ではありませんから、読者は『精神世界』の思索へと誘(いざな)われます。

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2016年5月10日 (火)

パウロ・コエーリョ『アクラで発見された古文書』(8)

『無用』

神の眼で観れば、この世に無用なものなど無い。
有用であろうと頑張る必要は無い。あなた自身であるように務めなさい。

『変化』

夢見ている(空想している)間は何も懸念はいらない。最も危険なことは、夢を現実に変えようとする時に起こる。
自然が定めた道に従えば良い。その道は絶えず変化している。
道に従えば、自分が大きな意志の持ち主であることに気付き、事態はその決断に沿うように変わる。

『美』

美は同質なものではなく異質なものの中にある。不完全なものが、驚きと魅力の対象になる。
美は内部の光で輝くことであり、外部の光を利用することではない。

『愛』

愛は信頼の行為で、相互交換の行為ではない。一度も愛された事が無いより、自分から愛してそれを失った経験の方が尊い。
愛は、その意味を知らしめる誰かが現れないかぎり単なる言葉に過ぎない。

『望まない事態』

あなたと同じように考える人ではなく、あなたが正しいということを説得できそうもない異なった考え方をしている人を求めて交わりなさい。
誰にでも愛想をよくしても、誰からも尊敬はされないことになる。
悲しみの中にいる時、言葉だけの慰めを云う人は避けなさい。その人は、『私はあなたより賢い』と不遜に云っているだけである。

『仕事』

仕事は、日々の糧を得るための行為であるが、そこに他人への愛を込めるかどうかで、形態が変わる。

『成功』

毎晩平穏な心で眠りにつければ、それは人生の成功である。

『不安』

不安は愛の一部である。人は不安を避けることはできない。それと付き合うしかない。

『未来』

我々の精神は、愛、死、力、時という4つの要因に支配されている。未来は、あなたの愛を受け容れる度量で変わってくる。

『敵』

敵とはあなたの勇気を試す相手ではなく、あなたの弱さにつけ込もうとする臆病者のことである。

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2016年5月 9日 (月)

パウロ・コエーリョ『アクラで発見された古文書』(7)

この本は『質疑形式の言語録』ですから、一般の小説のような、ストーリーはなく、どこを、どの順序で読んでもかまいません。 

したがって、この本の内容を紹介しようと思えば、全部翻訳するしかないことになり、著作権の問題に触れる可能性がありますから、それはできません。日本で翻訳本が発刊されているのかどうか梅爺は知りません。 

『梅爺閑話』では、時折『英語の諺』についての感想文を掲載していますが、『アクラで発見された古文書』と言う本は、どのページをとっても、『諺』『金言』ともいえる表現で満ち溢れています。 

それが、どのようなものであるかを知っていただくために、梅爺が、面白いと感じた部分を、勝手に抜粋して、拙い翻訳で紹介します。 

是非全部読んでみたいという方は、『Manuscript Found in Accra』という英語のペーパーバックをお読みいただくしかありません。非常に易しい英語で書かれていますから、初めて英語の本を読もうという方にはお薦めできます。 

『敗北』

自然の中で繰り返されていることには、勝利も敗北もない。そこには絶え間ない動きがあるに過ぎない。

打ちひしがれた者だけが、愛とは何かを知っている。

負けたことが無い者は哀れむべき人達だ。彼らは人生で真の勝者に決してなれない。

『孤独』

孤独は、愛が欠如している状態ではない。孤独と愛は補完し合っている。

独りになって、初めて自分を知ることができる。自分を知らない人は、空虚を恐れ始める。しかし、空虚など存在しない。私たちの内には、隠された広大な世界が秘められていて、見出されるのを待っている。

自分で深く考えれば、『No』と言うことは、必ずしも寛容の欠如ではなく、『Yes』ということは、必ずしも美徳でないことがわかるだろ。

孤独にさいなまれる者は、人生で最も意味のある時(生と死の時)は、いつも我々は独りであることを思い返しなさい。

愛は神の世界に、孤独は人の世界に属する。人生の奇跡を理解する者は、愛と孤独が完璧に共存することを知っている。

『若者と老人』

若者は、世の中は沢山の大きな問題があると感じ、それを自分で解決しようと夢見る。しかし、誰もその若者の思いに興味を抱かず、『お前は、未だ世の中がどうなっているのかが分かっていない』『老人たちの言葉に耳を傾ければ、何をすべきかが分かるはずだ』とたしなめられる。
老人は、人生で沢山の経験をし、苦難に厳しく対応する知恵を身につけている。しかし、必要な時が来て、その知恵を伝授しようとしても誰もそれに興味を示さない。『時代は変わったのだ』『もう少し若者の云うことに耳を貸して、新しい時代に合わせてもらわねば困る』と言われてしまう。

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2016年5月 8日 (日)

パウロ・コエーリョ『アクラで発見された古文書』(6)

この本で、賢人が問答形式で語っている内容は、『忠誠心』『恐れ』『勇気』『孤独』『愛』『性』『美』『優雅』などです。

『性』だけが、やや異質な話題に感じられますが、これも卑俗な『行為』のことではなく、『概念』や『意義』を問うているなら、全ての話題は、『人』の『精神世界』が『抽象概念』に与えた言葉が対象であることが分かります。

云いかえると、これらの言葉が通用したり、問題となったりするのは、『人』や『人の社会』だけで、自然界のような『物質世界』では意味をもちません。

『物質世界』に実態がある、『星』『空』『海』などについて、人々は賢人に質問せず、『精神世界』の『抽象概念』について質問するところに、『人』の習性の本質が潜んでいるように思います。

『星』『空』『海』とは何か、何故存在するのかに答えるのは簡単ではありません。このような疑問を放置できないのが科学者です。

しかし、多くの人は、五感で感知できる自然界の実態については、それが『星』『空』『海』であるという認識を得たことで『満足』し(安泰を取得し)、それ以上の追求はしません。

一方、『人』は、『嬉しい』『悲しい』『寂しい』などと感ずる『自分』は認識できますが、自分では制御できないそれらの情感は『一体何だろう』と疑念を持ちます。『自分』の中に、摩訶不思議なもう一人の自分がいるように感じるからです。したがって、上記のような言葉(抽象概念)を選んで賢人に質問することになります。

賢人は、それらに示唆に富んだ回答をしますが、その回答が『正しい』わけではなく、『一つの見解』に過ぎません。『抽象概念』を定量的に計る尺度も、『真偽』を判定する手段も存在しないことを、わきまえておくことが大切です。自分が考えた『見解』も含め、存在しうる多数の『見解』の中から、自分の『お気に入り』を見つけ出すしかありません。そして、その『お気に入り』を選んだ自分に責任を持つしかありません。

『真偽』の判定ができるのは、『物質世界』の『摂理』が関わる事象だけで、『精神世界』の事象の大半は、『真偽』の判定が誰にもできないという事実を、梅爺は学校で教わった記憶がありません。このことにもっと早く気付いていたら、梅爺の人生は大きく変わっていたかもしれないと残念に思います。

どんなに考えても、どれほど沢山の本を読んでも、どれだけ議論をしても、万人が納得する『正しい答え』は見つからないと知れば、『不安』がつのりますが、『人』の『精神世界』は『そのようにできている』と観念するしかありません。多様な見解が存在するのは、『ヒト』や『人』が宿命的に個性的であることに起因しています。

『絶対的な見解』があって欲しいと願い、『人』は『神』という概念を考え出したのではないでしょうか。『神の言葉に従えば安泰(心の安らぎが得られる)』ということになるからです。

しかし、実際は『人』の『精神世界』が創りだす『見解』は多様であり、そのことが人間を魅力的であると同時におぞましい存在にしています。おぞましくしないための第一歩は、『精神世界』が関わるほとんどの事象に『正しい答えなど存在しない』ということを受け容れることではないでしょうか。

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2016年5月 7日 (土)

パウロ・コエーリョ『アクラで発見された古文書』(5)

小説『アクラで発見された古文書』の原本写本は、1974年イギリスの考古学者が、エジプトに近いパレスチナ地区で発見したもので、アラビヤ語、ギリシャ語、ラテン語で書かれていますから、上記の著名な『古文書』に比較すると、ずっと新しいもので、11~14世紀ごろに書かれたものと推定されます。

十字軍の攻撃に怯えるエルサレムで、コプト人の賢人が、人々の問いに答えて、深い洞察内容を披露する内容になっていることが上記の時代推定の根拠の一つです。

写本を保有していた考古学者の子息(ウェールズ在住)と『パウロ・コエーリョ』が1982年に出会い、親交を深め、『古文書』のコピーを入手し、現代語に訳したとこの本の序文に書かれています。

謎の賢人の話を拝聴している人の中には、庶民のほかに、ユダヤ教のラビ、イスラム教のイマム、キリスト教の僧侶といった聖職者が含まれていますから、賢人は、これらの宗教に属さない哲学者のような人物であるようにも見えます。

当時のエルサレムでは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の人達が共存していたことが分かり、興味深い話です。『十字軍』は『カトリック』が派遣した騎士団ですが、攻撃対象となったエルサレムに当時存在していたのは、異なった宗派の『キリスト教』関係者であったのかもしれません。

現在もエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって『聖地』であり、微妙な勢力バランスで維持されています。言い換えると、この三つの宗教は、同根であることを如実に示しています。イスラム教の教祖『ムハンマド』に啓示を与えるために出現したのは『大天使ガブリエル』であるということですから、『大天使ガブリエル』は重宝な郵便配達夫のように、時に『ヤーヴェ(ユダヤ教の神)』、時に『アッラー(イスラム教の神)』、時に『ゴッド(キリスト教の神)』の神意をつたえる使者として働いていることになります。

『アクラで発見された古文書』の語り手の賢人は、ただ『コプト人』としか書かれていません。男性の老人らしいことは推察できますが、それ以外のことは一切不詳です。

人々の問いに答える形式で、『忠誠心』『恐れ』『勇気』『孤独』『愛』『性』『美』『優雅』などについて語っています。したがって、ストーリーのある小説ではなく、話題ごとに独立した『質疑形式の言語録』となっていて、『ソクラテスの対話』『論語』などと形式は同じです。生前の『釈迦』や『キリスト』は、このような賢人として、深い思索内容を語り、周囲へ影響を与えた人物であったのではないでしょうか。『科学』の世界に『アインシュタイン』のような天才が出現するように、哲学的な思索の世界でも、歴史の中で時折天才が出現すると考えれば、納得がいきます。

これらの哲学的思索の内容は、現代の私たちにも、『人間』の本質を理解するための手掛かりを提供してくれます。

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