2012年1月16日 (月)

京に田舎あり

上方いろはカルタの『ん』、『京に田舎あり』の話です。

『梅爺閑話』は、約5年前に、江戸いろはカルタの『い』、『犬も歩けば棒に当たる』から開始しましたので、自分でも想像していなかった時間をかけて、『江戸いろはカルタ』と『上方いろはカルタ』の全てについて、感想を書き終えることになります。ここまできたからには、ついでに今度は『尾張いろはカルタ』に挑戦しようかとも思いましたが、似たり寄ったりの感想になりそうなので、『いろはカルタ』については、これで筆をおくことにしたいと思います。

『いろはカルタ』は、日本語の特性を利用して、庶民が処世訓として日常使ってきたものですから、日本人の『考え方』『生き方』を端的に表現していて、梅爺は、そのレベルの高さを誇りに思います。

処世訓ですから、必ず『理』を踏まえていることになりますが、そこに『情』の表現をからめて、『理』と『情』が渾然一体となっているところが魅力です。『理』は究極的に『真』か『偽』かを論ずることですが、それに『滑稽(可笑しさ)』を加えると、味わいが大きく変わってきます。人間は『理』だけで生きているわけではないことを考えると、『滑稽』を加味したくなる気持ちが分かります。『正しいこと』『真面目なこと』と『滑稽』は、紙一重であることは、チャップリンの映画を観れば分かります。日本の『いろはカルタ』は、日本の庶民が、人間の本質を鋭く見抜いていたことの証左であろうと思います。『正しいこと』『真面目なこと』を茶化しているわけではなく、その価値を認めた上で、『でも視点を変えると、こうも見えますよ』と指摘しています。『律儀者の子だくさん』などが典型的です。

さて、本題の『京に田舎あり』ですが、日本語には『ん』で始まる言葉が無いために、『江戸いろはカルタ(京の夢大阪の夢)』と同様『上方いろはカルタ』も『京』をあてています。『終り』を東海道の『終点(京三条大橋)』と関連付けていると言われますが、梅爺は本当のことは分かりません。

都である『京』の中にも『田舎』の部分がありますよ、ということは、『物事を一つの言葉でくくって見てはいけませんよ』という意味になります。政治論争で『アメリカ一辺倒はけしからん』などと主張をよく聞きますが、まさしく『京に田舎あり』とたしなめたくなります。私たちは、『日本の農業』『現代の若者たち』『日本の官僚』などと、一つの言葉でくくって、論じたがりますが、一度立ち止まって反省してみる必要があるのかもしれません。

永い間、『江戸いろはカルタ』『上方いろはカルタ』に、お付き合いいただきありがとうございました。

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2011年12月26日 (月)

雀百まで踊り忘れず

上方いろはカルタの『す』、『雀百まで踊り忘れず』の話です。

この諺は、現在でもよく引用されますので、説明を要しません。『若い時に身につけた、技能や習慣は、歳をとっても発揮できる』ということですから、『若い時には苦労をしてでも、色々なことを身につけておきなさい。そうすれば歳をとった時に助かりますよ』という前向きな教訓ともなりますが、一方、『あいつは、いい歳をして、まだ女道楽が止められない』などと、いちど覚えた癖はなかなか直らないことを嘲笑する場合にも使われることになります。

若い時に、しっかり脳に覚え込ませたことは、歳をとっても再び思い起こして利用できるということは、自分が歳をとった現在、ある程度『実感』できますが、『一度獲得した記憶は消えることが無い』と断言できるほど確かなものであるとは思えません。人間の『記憶』のメカニズムは完全に解明されていませんが、少なくとも年月を経ると、『記憶』は『薄らいでいく』か『変容していく』ことが心理学の実験などで確認されています。

同じ鮮明さで維持することはできませんが、ある条件で獲得した『記憶』は、『薄らぎ難い』『変容し難い』ということはあるのでしょう。どういう条件ならば、そのようなことになるのかは分かっていませんが、『脳神経ネットワークの形成が活発な時(若い時)』『繰り返し繰り返し同じ刺激を脳に与えた時』『情の制御範囲を越えたような強烈な刺激(ショック)を受けた時』に獲得した『記憶』がそれに相当するような気がします。

人間の場合『知性』にかかわる脳の機能が、重要なものとして話題になりますが、本来生物の脳は、『生き残りの確率を高める』目的で獲得したもので、人間も例外ではありません。一見高尚にみえる人間の脳の機能も、そもそもは『生きる』ための目的に立脚していると考えると合点がいくことが多いように梅爺は感じています。『生き残りの確率を高める』ということは、『安泰』であることを求め、判断し行動する能力のことです。『安泰』を脅かすものは、物理的なものであれ、精神的なものであれ、『不安』『危険』『心配』を本能的にストレスとして感ずることができるように脳はできています。『愛』とか『善良』とか高尚な概念も、元々は『安泰希求の本能』に根ざすものであろうと推察できます。

ストレスを感ずるとそれを排除しようと、身体も脳も反応するように人間はできています。排除しきれない時に、身体や心は病になります。

『雀百まで踊り忘れず』が、思わぬ脳の話になってしまいましたが、『記憶』という解明されていない人間の能力も、元はと言えば『生き残る』ために必要なものとして付与され、進化してきたものであるということが言いたかっただけのことです。『脳』は神聖な精神世界に関与しますが、『脳』そのものを神聖視する必要はないように思います。

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2011年12月 8日 (木)

性は道によって賢し

上方いろはカルタの『せ』、『性は道によって賢し』の話です。

ことわざ辞典などで調べてみても、これは元々『芸は道によって賢し』であったものが変形したものという説明があるだけで、味も素っ気もありません。もしそうなら、これは『その道の専門家は、それなりの知恵を持っている』という意味になり、直前の『も』、『餅は餅屋』とほぼ同じ意味になってしまいます。上方いろはカルタを編纂した人が、本当にそのような無神経に同じような意味の諺を並べたとは考えにくいように梅爺は感じます。

確かに、元は『芸は道によって賢し』であったとしても、語感が似ていると言う理由だけで『芸』を『性』に変えたのではなく、『性』に変えることで全く異なった意味が生ずることを重視したのではないかと推察したくなります。

そこで、以下に梅爺の勝手な解釈を試みることにします。この解釈が『正しい』と言い張るつもりは微塵もありませんので、『へー、屁理屈爺さんが読み解くとそういうことになるの』という程度に、気軽に読んでいただければ幸甚です。

『性』は、その人の人柄と解釈し、『道』は物事の道理と解釈すると、突然深遠な意味が見えてきます。

毎度毎度の梅爺の主張で恐縮ですが、人間の脳のはたらきは『情』と『理』の複雑な絡み合いで出来上がっていると考えると、その人の人柄は、脳のはたらきが表面に現れたものということになります。『情』は『情が深い』などと良い意味を持つ言葉としても使われますが、本来は生物としての本能に根ざしていて、自分にとって都合がよいか悪いかを判断するために保有しているものであると梅爺は考えています。『嬉しい』『悲しい』は、『情』の感覚ですが、本能ですから自分で悲しもうと考えて悲しんでいるわけではありません。悲しみは突然襲ってきます。『愛する』『恨む』というような行為も同様で、好き、嫌いの『情』が、理屈抜きに先行します。『好きな理由』は、『理』が後付けで考えたものに過ぎません。

むき出しの『情』は、子供ならば『無邪気でかわいい』と受け容れられますが、大人の場合は、そうはいきません。道理をわきまえて、むき出しの『情』が周囲を気まずくしないように、自ら『情』を抑制することが求められるようになります。『温厚柔和』は、『理』による抑制が効いた大人が到達できる境地ですが、『情』は地底のマグマのように、噴出する機会を常に窺(うかが)っていますから、容易に到達できる境地ではありません。

『性は道によって賢し』は、『道理(理)で、煩悩(情)を抑制できる人は賢い』と言っているのではないかというのが、梅爺の解釈です。人間の深遠な習性を洞察した見事な諺ということになります。

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2011年11月18日 (金)

餅は餅屋

上方いろはカルタの『も』、『餅は餅屋』の話です。

この諺は、現代でも日常の会話の中でよく使われますので、今更解説の必要はあまりありません。『その道のことは、その道の専門家に任せればよい』『あることを極めた人の知識や知恵は、さすがに称賛に値する』というような意味で、素人が生半可な知識で、出しゃばろうとするときに、たしなめる言葉にもなります。

梅爺が、仕事の現役の頃、『エキスパート・システム』と称するものの開発が流行ったことがありました。コンピュータ・システムの規模や性能が拡大、向上し、コンピュータへの過剰な期待が高まって、『かなり専門的な分野の仕事でも、人間ができることならコンピュータにもできるはず』という楽観的な考えが蔓延(まんえん)していました。

『エキスパート・システム』は、その道の『専門家』や『匠』に、徹底インタビューし、知識や知恵の詳細を聴きだして、その内容をプログラムに置き換え、コンピュータで人間の仕事を代行しようという試みです。

この考え方の落とし穴は、『人間の知識や知恵は、言葉で完全に表現することが可能で、それを論理構造に置き換えれば、コンピュータで利用できるはず』という『前提』に依存していることです。確かに、単純な知識や知恵は、言葉で表現し、論理構造に置き換えが可能なものもあります。製造現場で活躍するロボットなどがそれを実証しています。しかし、人間の知識や知恵の全てが、その対象であるという保証はありません。その様なことは、少し考えて観れば分かる話で、『名ピアニスト』の知恵と知識を、すべて聴きだして、コンピュータにインプットすれば、『名ピアニスト』と同じレベルの自動演奏が可能であると、勘違いするような無謀な話です。

さすがに、何にでも『エキスパート・システム』は適用できるという楽観論はその後下火になりましたが、それでも『金融トレーダー』をコンピュータに代行させるようなしくみが導入され、どの金融会社も皆同じような反応をするために、世界経済の変動が、急峻でかつ増幅されると言った弊害が生じました。

人間の脳の仕組みは、解明されていませんので、全てをコンピュータで代行させようという話には無理があります。放射能を処理する知恵や技術を持たずに、完全に遮蔽できると言う『前提』で、原子力発電を推進し、『前提』が崩れて右往左往する羽目になる事態と同じようなことが起きかねません。

人間同士が『餅は餅屋』と認めあっている間は、問題がありませんが、誰かが『餅はコンピュータ』と言い出したら、疑ってかかることをお薦めします。近い将来、人間の脳のしくみの全貌が明らかになる可能性は極めて低いと梅爺は予測しています。

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2011年11月 3日 (木)

瓢箪から駒

上方いろはカルタの『ひ』、『瓢箪(ひょうたん)から駒』の話です。

江戸いろはカルタは、『理(論理)』で表現する傾向が強く、一方、上方いろはカルタは、唐突な表現、突飛なものの組み合わせなど、語感の面白さを表現しているものが多いように梅爺は感じます。江戸と上方の庶民文化の微妙な違いがあるのかもしれません。

現代でも、東京のお笑い芸人と、関西のお笑い芸人の芸風に違いがみてとれます。関西人は、芸人でなくても、『つっこみ』を軽い『のり』で受け流して、その場の雰囲気を和(なご)ませる習性を受けついでいます。『嫌なこともおまんが、ま、ここはひとつ楽しくいきまひょ』という生き方に、梅爺も好感を抱きます。

『瓢箪から駒』は、『思いもかけないことが現実になる』『冗談に言っていたら、それが本当になる』などという例えとして使われる諺ですが、例によって、関西の『突飛なものの組み合わせ』かと思いましたら、中国明代の小説『東遊記』の中の逸話からの引用であることを知りました。

中国の八仙の一人とされる道士の『張果』は、白い驢馬(ろば)にまたがって、一日数万理も旅する能力の持ち主ですが、休息する時には、腰に下げた瓢(ひさご)の中に、白い驢馬を納めた、という逸話が原典のようです。似たような表現に『嘘から出たまこと』があります。

どうして、この逸話が『思いもかけないことが現実になる』『冗談に言っていたら、それが本当になる』という意味に転じたのかは、いまひとつ判然としません。

『なでしこジャパン』の澤選手が、自身5回目の『女子サッカー・ワールドカップ』に挑戦する前に、『今度はメダルをとる』と発言していましたら、なんと金メダルを獲得してしまいました。問題だらけで疲れ切っていた日本国民にとっては、まさしく『瓢箪から駒』のような、嬉しい出来事になりました。

こういう嬉しい『瓢箪から駒』なら、もっともっと沢山起きて欲しいと願いますが、永田町という『瓢箪』をいくら振ってみても、立派な政治リーダーという『駒』は、出てきそうもない雰囲気で、心が暗くなります。

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2011年10月19日 (水)

縁の下の力持ち

上方いろはカルタ『ゑ』の『縁の下の力持ち』の話です。

この表現は、現在でも多用されますから、説明の必要がありません。表向きにものごとが成り立っている裏側では、人知れずそれを支えている人たちがいるということで、感謝すると同時に、自分も世の中でそのような役割を果たしたいものだと考えるきっかけにもなります。

表舞台で華やかな脚光を浴びると、裏方の努力など忘れて、自分だけの成果だと勘違いするのが、人の常ですから、このように自戒することは重要なことです。自分は『多くの人の努力』や『自然』に支えられて『生きている(生かされている)』という感謝の念を常に持ちたいものです。

宗教は『神の恵み』『仏の慈悲』に感謝の念を持つように教えを説きますが、『周囲への感謝の念』は、宗教とは無関係であっても理解できることです。梅爺のような『信仰の薄い人間』は、『感謝を知らず、冷酷な人間』と思われますが、そのようなことはありません。

上方いろはカルタでは、『縁の下の舞』という表現が採用されることもあるようです。この場合は『縁の下の力持ち』とは、意味合いが微妙に異なるように感じます。

『縁の下の舞』の場合は、『他人の目ばかりを意識して行動せずに、他人が観ていないところでも、手抜きせずに振舞いなさい』というような意味が汲み取れます。

表から見えないところの『おしゃれ』に気を使う、『粋(いき)』という感性と似たところがあります。

表面だけを取り繕って、うまくこの世を渡ろうと思っても、やがてメッキがはげる事例を沢山みれば、結局『内面を充実させる』ことが、重要であることに気付きます。自分の内面を高める努力は、『自己満足』だけではなく、世の中に自分を還元させる、切り札になります。

内面の素晴らしさは、周囲の感動を呼び起こし、また誰かがそれを越えようと、社会が『切磋琢磨』する要因になるからです。このような『切磋琢磨』の連鎖が起こる社会が、真に成熟した文明社会といえるのではないでしょうか。

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2011年9月29日 (木)

しはん坊の柿のさね

上方いろはカルタの『し』、『しはん坊の柿のさね』の話です。

『しはん坊』は『けちん坊』のことで、『柿のさね』は『柿の種』のことですから、そのまま解釈すれば、『けちん坊は、役に立ちそうもない柿の種までも、捨てられずに貯め込んでしまう』ということになります。極端な例として、テレビで時々、ゴミが捨てられずに、『ゴミ屋敷』化した家に住んでいる人が紹介されます。『他人への迷惑』『非衛生』などへの配慮より、『捨てない』ことにこだわるのは、何故なのか、梅爺には見当もつきません。脳が異常なのか、正常から少しずれているだけの状態なのかが気になります。後者ならば、誰もが『ゴミ屋敷』の住人になる可能性を秘めていることになり、他人事(ひとごと)ではなくなります。身の回りの不要なものを捨てる『断捨離』などという言葉がはやっていますが、つい『もったいない』と考えてしまい、対応はやさしくありません。

ひろく解釈すれば、『人は、他人にはどうでもよいように見えることに、こだわる習性がある』ということでしょうか。心理学には『確証バイアス』という言葉があり、『人は、一度思いこんでしまうと、その考え方を基準にして全てを判断するようになってしまう』という意味です。

従って、『客観的に物事を観る』などという行為は、至難の業であることになります。人は自分の物差しで、はかっていながら、『客観的』であると勘違いしていることになります。

一人の人間の『ズレ』ならまだしも、人間社会はある『空気』が創り出されると、社会全体が『ズレ』ることにもなりかねません。真珠湾攻撃の後、アメリカに住む日系アメリカ人は、法的にはアメリカ人であるにも関らず、『潜在的敵対行為の実行者』として、『強制収容所』へ送られました。1978年、日系アメリカ人として始めてアメリカ閣僚になったノーマン・ミネタ議員等の努力で、アメリカは、日系人に対する『不当な差別』を謝罪し(レーガン大統領)、補償金を支払う法律を可決しました。40年も後の事です。『9.11』事件の後、アメリカに住むアラブ系アメリカ人は、全て『仮想的テロ実行犯』として白眼視されました。

人間は、『自分はズレているかもしれない』と疑っていては、何も行動できなくなりますが、そうかといって疑わないと、個人的にも、社会的にも、『トンチンカンで手に負えない行為』に走る危険性を秘めています。『疑う』『信ずる』だけなら、誰でもできますが、微妙なバランスが取れる『器量』が大きい人はそうそういません。勿論、梅爺も自信がありません。

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2011年9月13日 (火)

身は身で通る

上方いろはカルタの『み』、『身は身で通る』の話です。

解釈のしかたで、色々な意味が読み取れ、『人間の生き方』を示唆するなかなか秀逸な諺です。

現状は自分の『器量』の反映で、丁度バランスがとれていると考えれば、『天才バカボン』の父親のように、『それで良いのだ』と達観して生きていけるという解釈が思い浮かびます。

ブログを書き始めた頃に、『お前はお前で丁度良い』という『佛さまの言葉』を紹介したことがあることを思い出しました。

(佛様のことば)

お前はお前で丁度良い
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度良い
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度良い
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くも無い
お前にとって丁度良い
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度良い
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下も無い
死ぬ日月さえも丁度良い
佛さまと二人連れの人生丁度よくないはずがない
これでよかったと戴けた時億念の信が生まれます
南無阿弥陀佛

不遜にならず、卑下もせず、ありのままの自分を認めれば、人は生きていけるという教えですが、現実はなかなかそうはいきません。自分の能力はこんなものではないと幻想を抱いたり、自分は不当に扱われていると、それを他人のせいにしたりしながら梅爺のような凡人は生きています。そして、挙句の果てに『現状を全て肯定してしまうことは、向上心を自ら放棄することではないか』などと、屁理屈をいったりします。

『これで丁度良い』と『理』で自分を説得しようとしても、自分の中の『情』は、『丁度良い』とは感じていないというように、人間の脳は、厄介にできています。そう考えれば、この諺は、『情に振り回されずに、理で自らを律しなさい』といっているようにも受け取れます。

『身は身で通る』のもう一つの解釈として、『人間は、結局自分本位に生きていくものだ』ということが思い浮かびます。

煎じつめれば、己が一番可愛いと言われてしまえばその通りですが、人間は、そのような本性を、『理』で抑制できるところが、『素晴らしいところ』と言えますので、本性は本性として認めた上で、理性を重視し、『自分本位で何がいけない』などと居直らずに生きていきたいものです。

日本人は『哲学』が苦手などと言われますが、庶民でさえも、人間の本質を鋭くとらえているこのような諺をみると、そのようなことはないと誇らしく感じます。

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2011年8月27日 (土)

盲の垣のぞき

上方いろはカルタの『め』、『盲(めくら)の垣のぞき』の話です。

眼が見えないはずの盲人が、好奇心に駆られて垣根の隙間から中をのぞいている様子が想像できて、つい笑ってしまいます。そして、この盲人の興味の対象は一体何だろうと、あれこれ考えてもしまいます。

最近では『盲(めくら)』は差別語として、公共的な場での表現は自粛することになっていますが、『盲人』なら許され、『盲(めくら)』は許されないなどという形式主義は、いかがなものかと梅爺は感じています。根拠のない優越感で、相手を見下す態度と、『言葉』は無関係ではありませんが、『言葉』だけを自粛してみても、不遜(ふそん)で思いやりない態度が払しょくされるわけではありません。言葉使いに問題がなくても、不遜な人間は世の中には沢山います。

この諺は、人間は『盲(めくら)』でなくても、『盲の垣のぞき』のような行為をするものだと諭(さと)しているのであろうと梅爺は受け止めました。

つまり、その人の理解能力をはるかに越えたような問題にまで首を突っ込み、拙い自分の知識だけで、全体を理解できたと勘違いすることがあり、自分だけで得心しているならまだしも、自分の勘違いを、他人にまで強要する困った習性を人間は持っているということではないかと思います。

『梅爺閑話』も、梅爺の勘違いを、得意げに披露していると言われれば、まさに『盲の垣のぞき』そのもので、反論の余地はありません。

周囲を好奇心で観ようとするのは、人間だけではなく動物に共通な本能です。何か変ったものに遭遇した時に、それが『自分にとって都合のよいものか、都合の悪いものか』を判別する最初のきっかけが好奇心であるからです。我が家で飼っていた犬も、梅爺が普段と異なった行動で接すると、好奇心にあふれた目つきで、梅爺の真意を理解しようとじっとみつめることがよくありました。

好奇心から、物事に首を突っ込むことは、本能として避けられないことですが、本当に理解するためには、相応の理解能力が必要であることも承知していなければなりません。

好奇心と理解能力は、時にバランスが取れていないことを、折に触れて思い起こし、自戒しながら『梅爺閑話』を書いていこうというのが、『盲の垣のぞき』から梅爺が得た教訓です。そこまで配慮しても内容は依然不遜であると非難された場合は、平謝りに謝るほかありません。

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2011年8月 5日 (金)

幽霊の浜風

上方いろはカルタの『ゆ』、『幽霊の浜風』の話です。

幽霊が、強い浜風に煽(あお)られて、飛ばされそうになり、オロオロしている様子から、『元気のない様、迫力を欠いた様』をこのように表現したもののようです。

普段怖いイメージの幽霊ですが、足が無い悲しさから『地に足がつかない』のは当然のことで、裾の乱れなどを気にしながら、懸命に吹き飛ばされまいと、もがいている様子は、想像しただけでも滑稽です。

元気のない仲間に『おい、どーしたい。幽霊の浜風みてーじゃないか』と声をかける時に使われるのでしょう。しかし、梅爺には、普段威厳を取り繕ったり、権威をひけらかして、『立派に』『偉そうに』振舞っている人が、ちょっとした不都合に遭遇しただけで、慌てふためき、オロオロするのをみて、庶民が陰で笑い転げている様子が目に浮かびます。胆力が売り物のはずの武士が、オロオロすれば、庶民にとっては、格好の嘲笑の的であったにちがいありません。そう言えば、『幽霊の浜風』をすぐに露呈してしまう政治家が、現在の日本にも沢山いることに気付きました。

平常時に、冷静を保つことは、誰にもそれほど難しいことではありません。『理』で『情』を制することができるからです。しかし、予期せぬ非常事態や不都合に見舞われた時に、人は頭の中が真っ白になって、パニック状態になり、冷静さは二の次になりがちです。

お釈迦様のように『完全修行者(悟りを拓いた人)』の境地に達することは、人間の脳のしくみを考えると、ほとんど不可能なことですが、少なくとも『そうなりたい』と願い、努力することは尊いことです。お釈迦さまが『煩悩(ぼんのう)』としているものは、人間の精神世界の話であり、80歳で入滅(にゅうめつ)する直前のお釈迦様は、肉体的な病苦には苦しむ様子(勿論苦しさは口にせずじっと耐えている様子)が、経典に書かれています。肉体的には、私たち同様お釈迦さまも苦しいのだと知って、親近感を覚えます。お釈迦さまが悟った自然の摂理は『あらゆる事象は流転する』ということで、人間も例外ではなく、『病』『老い』『死』は流転の中で避けられず、それには『肉体的な苦しみ』が伴うことをお釈迦様自身が示しているからです。『精神的な苦しみからの解脱(げだつ)』は、『理』を修行することで達成できても、『肉体的な苦しみ』は『理』では克服できないことがわかります。

修行が足りない私たちは、『幽霊の浜風』のように、つい動顛(どうてん)して、オロオロしてしまうことは避けられませんが、せめて後で我にかえった時に、『お見苦しいところをお見せし、申し訳ない』と反省するしかありません。自分の振舞いが、『幽霊の浜風』であると、いつまで経っても気付かない人は、ご本人は幸せでも、他人から尊敬されることはありません。

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