江戸の諺『身けずる』
江戸の諺『身けずる』の話です。寝食を厭わず、健康に差し支えがあるほど、何かに打ち込むといった意味の表現です。
『何かに熱中する』『誰かに尽くす』など、『精神世界』が最優先の『価値観』を見つけると、他のことが目に入らなくなり、命がけでそのことに打ち込むという人間の習性が背景にあります。
普通は『命』が最も大切なものですが、それ以上の『価値』を有するものがあると『信じ込む』わけですから、いわゆる『常識』とはかけ離れた行為です。
夢中のあまり『命』のことを忘れてしまうというケースと、『命』を損なうことを承知の上で事に当たるケースがあるように思います。
前者は、常識的な人には無謀な行為に見えますが、それほど打ち込める対象を持っていることに対しては『うらやましい』と感じたりもします。
後者は、余命わずかと宣告された役者などが、舞台を努めようとしたりする行為で、本人は『舞台で死ねれば本望』という『価値観』に突き動かされていることになります。周囲もその『役者根性』を称賛したりします。
何故人間の『精神世界』でこのようなことが起こるのかは、『精神世界』の『判断』に『信ずる』という行為が絡んでいるからです。
私たちは、周囲の事象を『自分にとって都合が良い』か『自分にとって都合が悪い』かを先ず本能的に判断します。生物の『生き残り』に重要な意味をもつ習性として、『生物進化』の過程で継承してきたものです。
周囲の事象の中で、客観的に『真偽』の判断ができるものは、『物質世界』の一部の事象に限られていて、大半は、客観的な判断をすることができません。
しかし、判断する方法がないからと言って、手をこまねいていたら、先に進めませんし、危険を招くことになりかねませんから、私たちは主観的に判断をくだすことになります。
主観的にポジティブな判断をくだす時に必要とされるのが『信ずる』という行為です。反対に、ネガティブな判断をくだす時に必要とされるのが『疑う』という行為です。
『神の存在を信ずる』『神の存在を疑う』などという行為が典型例です。
『客観的に誰もが納得できる判断』が好ましいと私たちは考えますから、『信ずる』『疑う』などという行為は、できれば避けたいと考える方もおられるかもしれませんが、そうはいきません。
私たちの周囲の事象は、『真偽を決めることができないこと』『先行きどうなるかわからないこと』で満ち溢れていますから、『信ずる』『疑う』を放棄しては生きていけないことになります。無神論者も『信ずる』ことを多用して生きています。
従って、『命が最も大切』などという判断を『信ずる』人だけでなく、『身をけずってもなし遂げたい大切なもの』を『信ずる』人が現れることになります。
主観的な判断は、人間を素晴らしい存在にも、恐ろしい存在にもします。常識的な人には『狂信』にとりつかれた人は、恐ろしく見えます。
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