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2020年1月30日 (木)

ブログの休止

当分の間、入院加療中につきブログを休止いたします。

再開出来るようになったら、経緯はご報告いたします。

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2020年1月29日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(4)

繰り返しで恐縮ですが、昔誰かが『主観』で言いだした虚構の概念や虚構の因果関係を、やがて多くの人が『信じて』共有することが『主観の共有』です。

『桃太郎』や『かぐや姫』は、創り話の中の虚構の人物で、実際には存在しない人物であることは、多くの人の共通認識ですから、『主観の共有』とは言えません。

大人にとっては『サンタクロース』は、虚構の人物であるという共通認識ですから、これも『主観の共有』とは言えません。しかし、多くの子供にとっては、『サンタクロース』は、贈り物を持ってきてくれる実在の人物と『信じている』対象ですから、子供たちにとっては『サンタクロース』は『主観の共有』ということになります。

コミュニティのどのくらいの割合の人が『信じた』ら、『主観の共有』と言えるのかなどという基準はありませんので、何を『主観の共有』とするかは、微妙な問題です。

『侏儒の言葉』の表現を観る限り『芥川龍之介』は『ユウトピア』の存在は、『疑って』いると言えるでしょう。現代社会の多くの人も『ユウトピア』の存在を『疑って』いるように思えますので、『ユウトピア』を『主観の共有』とみなすことには、異論があるかもしれません。

しかし、『日本と言う国家』が存在することや、『一万円札には一万円の価値がる』ことを、『疑う』人はほとんどいないでしょうから、『国家』『貨幣価値』は強固な『主観の共有』ということになります。

それでは、『神』『霊』『あの世』はどうでしょう。

近世以前の人類にとって、『神』『霊』『あの世』は、強固な『主観の共有』対象でした。『神への感謝』『神への奉仕』が、人々の『生活』そのものであり、皇帝や王も、『神』の前にぬかずきました。芸術家も『神』を信じて、『宗教画』を描き、『宗教曲』を作曲しました。

災いの大半は『悪霊』がもたらすものと、人々は『信じて』いましたから、『悪霊』を封ずるための『加持祈祷』は、コミュニティの重大な行事として執り行われました。

死後に『あの世』があることも、『疑う』人はほとんどおらず、死への不安を人々は『安堵』に変えました。

『宗教』によって、人間社会に深く根付いたこれらの『主観の共有』が、現代でも大きな影響力を持ち続けていることは御承知の通りです。

近世以降、『宗教』と並んで『イデオロギー』も『主観の共有』対象として、人類へ大きな影響を及ぼし続けています。

『イデオロギー』と『宗教』は、同じように論ずる対象ではありませんが、『信じて』いる人たちで支えられているのは共通です。

それでも、近世以降『宗教』が提示する『主観の共有』が、人間社会で必ずしも『強固』と言えなくなったのは、『科学』が、『物質世界』の事象を解明し始めたからです。『科学』は普遍的な事実を提示しますから、『信ずる』対象にはなりません。

『神』『霊』『あの世』を、『疑う』人たちが増えつつあることに、『宗教』はどのように対応していくのか、梅爺の興味の対象です。

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2020年1月28日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(3)

『ユウトピア』や『神』は、人間の『精神世界』が創出した虚構の抽象概念であろうと、梅爺は仮説を昨日述べました。梅爺の稚拙な理性が判断する限り、この『仮説』に矛盾を見出せません。

『ユウトピア』や『神』が、『物質世界』のどこかに存在するという『仮説』には、むしろ多くの矛盾を指摘することができます。

それでも、梅爺は『ユウトピア』『神』は実態として『存在しない』とは断言できません。論理的には『存在しない』ことを証明することは不可能であるからです。

人間の『精神世界』は、自由奔放に虚構の概念を創出できることが特徴です。

『安泰を希求する本能』を満たすために、虚構の概念や虚構の因果関係を『表現』することになります。

『願う』『期待する』『希望する』『祈る』などは、全て『安泰を希求する本能』がもたらす行為です。

『不思議なこと』『分からないこと』を私たちは、放置すると、『安泰』、が脅かされますから、何としても自分で納得できる『因果関係』を考え出そうとします。勿論それは『自分にとって都合が良いもの』になります。

『ユウトピア』や『神』は、『そういうものが存在してほしい』と『願う』人間の『精神世界』が創出したものに違いありません。

特に『神』は、それによって『不思議なこと』『分からないこと』の説明ができてしまうという、絶大な効果をもたらしました。全て『神の御業』『神の御意志』とすれば良いからです。古代の人が『天地(人間も含み)は神が創造した』と考えたのは、これに優る『因果関係』を思いつかなかったからです。梅爺も当時の人間であれば、それを『信じた』でしょう。

『精神世界』が考え出す『因果関係』は、『物質世界』を説明する『因果関係』のように、普遍的なものではありません。このため『精神世界』の考え出す『因果関係』は、自由奔放になります。『桃から男の子が生まれる(桃太郎)』『竹の中から女の子が生まれる(かぐや姫)』ことになります。

『人間社会』にとって重要なことは、『誰か』が主張し始めた『虚構の概念』『虚構の因果関係』に、多くの人が共感して『自分の考え方』として受け入れる(信ずる)という現象が起こることです。

これは『主観の共有』という現象で、一度『人間社会』に根付いた『主観の共有』は、大きな影響力を発揮し続けます。

『ユウトピア』は、『主観の共有』の一つの例です。

本来『主観』は『個性的』でバラバラなものですが、『人間社会』で、多くの人たちが『共有』すると、一色になってしまうという不思議なことが起こります。

『神』『国家』『貨幣価値』などは、『主観の共有』の中でも特に大きな影響力をもたらしたものです。 

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2020年1月27日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(2)

私たちは『ユウトピアなど存在しないだろう』と『感じ』ますが、存在しないと断言できません。梅爺は『神は存在しないだろう』と『感じ』ますが、存在しないと断言できません。

断言するには、論理的で普遍的なルールで、『ユウトピアは存在する』『神は存在する』という『命題』が『偽』であることを証明しなければなりません。

『科学』や『数学』の世界は、普遍的な『真偽』を判定する場で、論理的で普遍的なルールが活躍します。

『物質世界(自然界)』は『科学』が探究する場ですから、『物質世界』の事象は『真偽』判定の対象になります。

『地球という惑星は球体である』という『命題』は、普遍的に『真』と判定できます。

それでは、何故『ユウトピア』『神』は、『真偽』の判定の対象にならないのでしょう。

梅爺が思いつく仮説は、『ユウトピアや神は、物質世界に実態が存在するものではなく、人間の精神世界が創出した仮想の抽象概念(虚構)である』というものです。

人類の歴史の中で、昔『誰か』が、『ユウトピア』や『神』という抽象概念を思いついて、『主張』したのであろうという推測です。

この主張は、周囲の人たちの『共感』を喚起し、やがて多くの人たちも、その抽象概念を支持する(信ずる)ようになったのでしょう。

『信ずる』は、論理的、普遍的に『真偽』が判定できないことに対して、『こうであろう』と判定を下す行為です。『信ずる』の反対の行為は『疑う』です。

私たちの周囲の事象で、『真偽』が判定できる事象は一部にしか過ぎず(大半は『物質世界』の事象)、ほとんどは『真偽』の判定ができない事象です。しかし、それでも『何らかの判定』を下して、先へ進むしかありませんから、私たちは『信ずる』『疑う』を多用しながら『生きる』ことになります。この習性は、人間ばかりではなく、他の動物も同様です。

『信ずる』『疑う』は、普遍的な判定ではなく、個性的な判定です。同じ事象に遭遇しても、Aさんは『信じ』、Bさんは『疑う』という違いが生じます。

『精神世界』は、このように『個性的』であると認識することが重要です。社会の中で、私たちは、自分の存在を周囲の仲間から認識してもらう必要があり、このために自分の『考え方』『感じ方』を『主張』することが大切になります。つまり、自分が何を『信じて』いるか、何を『疑って』いるかを表明することには大きな意味があります。この時に注意を要するのは、あくまでも個人的な見解を述べているだけで、『普遍的に正しい』ことを主張しているわけではないという認識です。

しかし、残念ながら多くの人たちは、この『個人的な判定』と『普遍的な判定』の違いが区別できず、『個人的な判定』を『普遍的な判定』と勘違いしてしまいがちです。

この結果、『私は正しい(正義)』『あなたは間違い(邪悪)』とののしりあうことになります。この大規模なものが『宗教対立』『イデオロギー対立』で、不幸なことに『戦争』にまで発展したりします。

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2020年1月26日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『ユウトピア』という一文に関する感想です。

原文は大変短い文章なので、全文を以下に紹介します。

完全なるユウトピアの生まれない所以(ゆえん)は大体下の通りである。―――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものは忽(たちま)ち不完全に感ぜられてしまう。

『ユウトピア』は、古来人類が夢見てきた『理想郷』のことで、あの世の『天国』『極楽』もその一種ですが、あの世といった不確かなものではなく、この世で手っ取り早くそれを体験したいと、欲張って願ってきました。

『憂い悩み苦しみががなく、ただ心安らかに過ごせる場所』を願うのは、この世が憂い悩み苦しみに満ちているからです。

『釈迦』も『何故生きることは苦しいことなのか』という根源的な疑問に、答えを出そうと修行し、『煩悩を解脱した涅槃の境地』を見出しました。

『涅槃』は『ユウトピア』と言えますから、『煩悩』を解脱できれば『ユウトピア』を体験できることになります。しかし、それは『論理的な解』であって、人間の本性を考えると、『煩悩の解脱』は、不可能に近い無理難題ですから、仏教は、『限りなく煩悩の解脱のための努力を続ける』ことに意味があると説いています。具体的には『できるだけ邪心を排して、仏心に近づきない』ということになります。

『芥川龍之介』は『人間性』という言葉を使いながらその定義は示していませんので、推測するほかありません。

文脈を考えると『飽くなき欲望を有する』ことが『人間性』というようなことかと思いつきます。

『飽くなき欲望を有する』限り、一度『ユウトピア』と思ったものにもやがて不満を感じますから、『人間性』が変わらなければ『ユウトピア』は存在しないことになります。

『飽くなき欲望』をあきらめるとすれば、つまり『人間性』を変えるとすれば、本来『ユウトピア』でない不完全なものも『ユウトピア』として受け入れてしまうという矛盾に陥ります。

『ユウトピア』が『絵に描いた餅』であることは、現代人の多くは、『そうであろう』と感じていますから、『芥川龍之介』に『そのようなものはありませんよ』と言われても、特別驚きません。

問題は、何故古来人類が『ユウトピア』や『幸せの青い鳥』を夢見てきたのかということです。

梅爺がブログで論じてきた人間の『精神世界』の本質を理解すれば、これは容易に説明できることです。『精神世界』は自由奔放に、自分に都合のよい『虚構』や『因果関係』を創出することが特徴です。『神』『天国(極楽)』『ユウトピア』といった抽象概念を次々に思いついたことになります。

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2020年1月25日 (土)

江戸の諺『尻持って来る』

江戸の諺『尻持って来る』の話です。これは現在でも使われる表現で、『面倒なことの後始末をさせられる』という意味になります。もう少し直接的な表現では、汚い仕事をおしつけられるということで『尻ぬぐいをさせられる』になります。

物事がうまくいっている時には、誰もが自分の手柄のように得意げに振舞いますが、一旦事がうまく運ばなくなると、『これは元々お前が始めたことだから、自分で始末をつけろ』などと『尻持って来る』ことになります。

『嫌なこと』はできるだけ避けようとするのが人間の心理です。『安泰を希求する本能』が根幹にあるからです。

梅爺もこの性格が強く、子供のころは夏休みの宿題を、切羽詰まるまで放置する癖がありました。英語では、この『先延ばしにする』という行為を『concrastinate』という一つの単語で表現することを前に知り、ブログで紹介したことがあります。

しかし、世の中は梅爺のように、『先延ばし癖』のひとばかりではなく、『嫌なこと、気がかりなこと』から先に処置してしまう方も沢山おられます。

これも『嫌なこと、気がかりなこと』を放置することが『安泰を脅かす』と感ずることがそうさせるわけですから、『安泰を希求する本能』に由来することには変わりはありません。つまり、何を優先するかの『価値観』が違うということです。誰も自分を弁護したくなりますから、『腰の重い人』は、『腰の軽い人』を『せっかち』と呼び、『腰の軽い人』は『腰の重い人』を『ぐず』と呼びます。

しかし、公平に観て『腰の軽い人』最の方が、『ストレス』を貯めこまないという意味で、健全な生き方のように思います。

梅爺は、40歳から50歳までの10年間、毎年『青梅マラソン』に参加していましたが、このころは、日ごろのジョギングをトレーニングとして欠かさないようにしていました。その時の体調や、天候などでジョギングに出かけるのが『億劫』と感ずる日もありましたが、自分を鼓舞して続けていると、結果的に『達成感』『満足感』が得られるという実感を体験でき、その頃は自分の悪い『先延ばし癖』を克服しようと、仕事も『嫌なこと』を先にこなすような努力をしていました。

しかし、仕事をリタイアした今では、すっかり『先延ばし』爺さんに後戻りしてしまっています。

『尻持ってこられる』のは、ネガティブに考えれば悪い役回りを引き受けさせられるということになりますが、ポジティブに考えれば『この難局はあなたしか対応できない』という周囲の期待の表れでもありますから、見事にこなせば、周囲から更に尊敬され、一目おかれる人物になれるチャンスなのかもしれません。

世の中は『お互い様』『持ちつ持たれつ』ですから、『尻持ってこられる』のも時に『災い転じて福となす』ということになる可能性がないわけではありません。『お人よしを振舞う』『馬鹿を振舞う』のも賢い生き方かもしれません。

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2020年1月24日 (金)

江戸の諺『客すりおろす』

江戸の諺『客すりおろす』の話です。

現代ではあまり聞かない表現ですが、客をよってたかって喰い物にするというような意味なのでしょう。

金持ちでちょいと人の良い客を、おだてたりすかしたりして、出費させる光景が目に浮かびます。

原典の『諺臍の宿替』には、『幇間(たいこもち)』『仲居』『芸子』が、舟遊びでよってたかって『旦那』にたかる小噺が掲載されています。『旦那』も鷹揚(おうよう)に、『両足まではすりおろしても良いが、それ以上は立つところが無くなるからやめておくれ』などと対応しています。

この『旦那』は、自分が『すりおろされている』ことを承知で、その状況を楽しんでいるところがあり、このような『粋な関係』が江戸の人たちの好みであったのでしょう。

人は、他人から『褒められたり』『良く言ってもらったり』すると、『嬉しくなる』習性を有しています。『安泰を希求する本能』が満たされるからです。

子供の教育や、スポーツの指導でも『褒める』方が『叱る』よりも効果があると言われるのはこのためです。

上手な先生やスポーツのコーチは、『叱る』時でも、直接ではなく『あなたは素晴らしい。でもここを直せばもっと素晴らしくなる』などと表現して、マイナスをプラスに変えてしまいます。

『幇間(たいこもち)』などというのは、世界にあまり類をみない職業ではないでしょうか。外国のおどけ役『ピエロ』は、何か物悲しい雰囲気ですが、『幇間』はあっけらかんとしています。

『旦那』も『幇間』のお追従を承知の上で、『楽しむ』わけですから、『旦那』も『幇間』も舞台の上で自分の役どころを理解して『演じている』ようなものです。舞台を降りて、日常の世界に戻れば、両方とも普通の人間に戻るということになります。

しかし、世の中には、日常の生活の中で、『お追従』『ゴマスリ』をする人も沢山います。

『独裁者』の周りには、『イエスマン』だけが配置されることになりがちです。苦言や諫言(かんげん)をすれば、左遷させられたり、時には処刑されたりするからです。

『科学』や『数学』の世界では、普遍的に『正しい』事象は存在しますが、人間の『精神世界』の価値観が絡む世の中の事象の大半は、普遍的に『正しい』などと言えるものは、ほとんどありません。

『自分の考え方、感じ方』が『適切である』と、『信ずる』ことは、生きる上で重要なことですが、それを『普遍的に正しい』と誤解することは避けるべきです。

『他人の考え方、感じ方』に耳を傾ける度量が必要になります。

他人に合わせる必要はありませんが、他人と自分の違いを『認識』することは、人間関係の基本条件です。

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2020年1月23日 (木)

江戸の諺『身けずる』

江戸の諺『身けずる』の話です。寝食を厭わず、健康に差し支えがあるほど、何かに打ち込むといった意味の表現です。

『何かに熱中する』『誰かに尽くす』など、『精神世界』が最優先の『価値観』を見つけると、他のことが目に入らなくなり、命がけでそのことに打ち込むという人間の習性が背景にあります。

普通は『命』が最も大切なものですが、それ以上の『価値』を有するものがあると『信じ込む』わけですから、いわゆる『常識』とはかけ離れた行為です。

夢中のあまり『命』のことを忘れてしまうというケースと、『命』を損なうことを承知の上で事に当たるケースがあるように思います。

前者は、常識的な人には無謀な行為に見えますが、それほど打ち込める対象を持っていることに対しては『うらやましい』と感じたりもします。

後者は、余命わずかと宣告された役者などが、舞台を努めようとしたりする行為で、本人は『舞台で死ねれば本望』という『価値観』に突き動かされていることになります。周囲もその『役者根性』を称賛したりします。

何故人間の『精神世界』でこのようなことが起こるのかは、『精神世界』の『判断』に『信ずる』という行為が絡んでいるからです。

私たちは、周囲の事象を『自分にとって都合が良い』か『自分にとって都合が悪い』かを先ず本能的に判断します。生物の『生き残り』に重要な意味をもつ習性として、『生物進化』の過程で継承してきたものです。

周囲の事象の中で、客観的に『真偽』の判断ができるものは、『物質世界』の一部の事象に限られていて、大半は、客観的な判断をすることができません。

しかし、判断する方法がないからと言って、手をこまねいていたら、先に進めませんし、危険を招くことになりかねませんから、私たちは主観的に判断をくだすことになります。

主観的にポジティブな判断をくだす時に必要とされるのが『信ずる』という行為です。反対に、ネガティブな判断をくだす時に必要とされるのが『疑う』という行為です。

『神の存在を信ずる』『神の存在を疑う』などという行為が典型例です。

『客観的に誰もが納得できる判断』が好ましいと私たちは考えますから、『信ずる』『疑う』などという行為は、できれば避けたいと考える方もおられるかもしれませんが、そうはいきません。

私たちの周囲の事象は、『真偽を決めることができないこと』『先行きどうなるかわからないこと』で満ち溢れていますから、『信ずる』『疑う』を放棄しては生きていけないことになります。無神論者も『信ずる』ことを多用して生きています。

従って、『命が最も大切』などという判断を『信ずる』人だけでなく、『身をけずってもなし遂げたい大切なもの』を『信ずる』人が現れることになります。

主観的な判断は、人間を素晴らしい存在にも、恐ろしい存在にもします。常識的な人には『狂信』にとりつかれた人は、恐ろしく見えます。

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2020年1月22日 (水)

江戸の諺『ふところ子』

江戸の諺『ふところ子』の話です。『秘蔵っ子』という表現に似ていますが、ニュアンスはかなり違います。『猫っ可愛がる』『蝶よ花よと育てる』などという表現が近いような気がします。

子供が可愛いばかりに、世間の雨風にさらしてつらい思いをさせたくないと庇護する過保護な親の行為は、結局子供にとっても幸せな話ではないという意味が込められているのでしょう。

世間に出て、『良いこと』も『嫌なこと』も経験しながら、人は一人前になっていくという庶民の考えがあったのでしょう。『嫌なこと』に目をそむけていては、世の中に通用しないひ弱な人間になってしまうということでしょう。

人間の身体が、ある程度『バイキン』や『ウィルス』にさらされながら、『免疫力』を身につけていくということに似た話です。

逆の意味で『可愛い子には旅をさせよ』という諺があります。

私たちは『自然界(物質世界)』の中で生きていますが、『物質世界』は、私たちに『都合のよいこと』と『都合の悪いこと』の両方を必ずもたらします。

『物質世界』は、私たちを苦しめようと『都合の悪いこと』をもたらすわけではありません。『物質世界』は、『摂理』に従って絶え間なく『変容』しているだけで、たまたまその一部は『人間』にとっては『都合が悪いこと』であるにすぎません。

『物質世界』は『人間』のために存在しているわけではなく、私たちが『物質世界』の一部を『利用』しているだけのことです。

『人間』の『精神世界』は、願い事を沢山思いつき、『物質世界』に対しても沢山の願い事をしますが、願いがかなうなどということはありません。

地震や台風は容赦なく襲ってきますし、『雨乞い』の加持祈祷をしても、雨が降る保証はありません。

それでも私たちは、『五穀豊穣』『大漁豊作』などを願う『祭祀』を現代でも行っています。昔から継承されている『主観の継承』が、社会に根強く残っているからです。

『自然界』で生きている以上、私たちは必ず『都合の悪い事態』に遭遇します。『老化』『病気』などもこの類です。

一方、『人間社会』で生きることもか『都合の悪いこと』が必ず付きまといます。自分が願うように他人は自分を評価してくれないことが大半ですし、自分と『考え方』『感じ方』が異なる人に必ず遭遇し、対応に苦慮することになります。

これは『人間』が『個性的』であることに由来するもので、誰も避けることができません。

『自然界』で生きることも、『人間社会』で生きることも、このように『都合が悪い』ことに必ず遭遇するわけですから、これを避けては生きていけないことになります。

『ふところ子』が、結局子供を不幸にするということを、江戸の庶民は、直感的に理解していたに違いありません。

現代の方が、むしろ『過保護な親』が増えているように感じます。江戸の庶民より、人間の本質理解が劣っているためでしょうか。

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2020年1月21日 (火)

江戸の諺『両がけの芸子』

江戸の諺『両がけの芸子』の話です。一つの仕事では生きていけないので、もう一つ仕事をして生活を支える芸子(芸者)ということですから、三味線や踊りのお座敷芸に加えて、身を売るというような意味でしょう。

さしずめ、現代ならば本業のほかに副業のアルバイトなどで、身を支えるということに他なりません。

江戸の世では『芸者』は、それほど身入りの良い職業ではなく、普通に暮らせる庶民の優越感の裏返しで、このような表現が使われていたのか、自分も貧しく、副業でもしないと生きていけない庶民が自嘲的にこのような表現を用いたのか分かりませんが、少し物悲しい諺です。

江戸の世では『士農工商』という身分制度が行われていました。『士農工商』の身分の区分けと優位順序は、元々『儒教』の考え方ですが、武家政権であった徳川幕府にとっては、都合のよい精度であったに違いありません。

コメ本意経済であった当時は、殿様の禄高、武士の扶持高は、コメの量で表示されていましたから、コメの生産者である『農』を『士』の次に置いたのは、当然のことでしょう。

『農』の中も、『庄屋』『小作』と貧富の差があり、最も貧しい百姓は『水呑み百姓』などと呼ばれて、苦しい生活を強いられていましたから、ひとまとめにして『農』と呼ばれて『士』の次と言われても実感はなかったでしょう。

『工』は職人の階級で、『商(商人)』より上にランク付けされているのは、手に汗をして実質的な『モノ』を作り出すことを評価する『儒教』の考え方が反映しているのでしょう。

才覚だけでモノや貨幣を、右から左へ移し、利ざやを稼ぐなどという行為は、卑しい行為という『儒教』の考え方があるのでしょう。しかし江戸の経済の実権を握っていたのは『商』であるというのも皮肉な話です。結局社会を支えるのは『経済』であるという主張に説得力があります。

現在も、『実質(実体)経済』と『仮想経済』という考え方があります。『実質経済』は実態がある付加価値を生み出す経済行為で、生産にかかわる職業がこれを支えます。一方『仮想経済』は、目に見えない『付加価値』を生み出す経済行為で、『サービス業』『金融業』などがこれを支えます。『実質経済』は地道な稼ぎ、『仮想経済』は投機的な稼ぎのイメージがあります。

『仮想経済』は景気の影響を受けやすく、不況時には社会の経済基盤を脅かすことになりますので、不況になると、『実質経済』に重きを置くべき主張する経済学者が必ず現れます。

資源が豊富な国ならば『実質経済』に特化することができますが、日本のような資源に乏しい国では、『仮想経済』も無視できません。

ただし『仮想経済』にだけ依存することは、確かに危険ですの、バランスをとるということになるのでしょう。

多くの庶民が『両がけ』をしないと生きていけないという社会は、豊かさに問題があるということになります。

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2020年1月20日 (月)

詳細な観察と記録(6)

他人が提供する『情報』や『データ』だけに頼らず、自分で『観察』し『記録』することに意味がある、というこのエッセイの著者の主張に、梅爺は全面的に賛同するわけではありませんが、自分が愚直に『ブログ』を書き続けてきたために、『物質世界と精神世界を区別して事象を観る』という方法論を『成果』として獲得できたことを例に挙げて、時間と労力をかけるだけの価値があることは確かにあると紹介しました。

『ブログ』を書かずに、ただ関連の書物を読んでいただけなら、多分『成果』にはいきつかなかったに違いありません。

江戸時代の画家『伊東若冲(じゃくちゅう)』の『鶏』の描写は、細密さと鮮やかな色彩で有名ですが、『若冲』は、庭で『鶏』を飼って、写生を繰り返したと言われています。

『若冲』が他の画家の『鶏の絵』を参考に、描いたりしたら、『鶏』の真に迫った描写はできなかったでしょう。自分で『観察』『記録』することで、得られるものの典型例です。、

要は、『情報』や『データ』は、自分で作成しようが、他人が作成しようが、一度自分の『脳』で咀嚼して、自分で『納得』できるかどうか確かめなさいということなのでしょう。

このためには、『信ずる』『疑う』という一見矛盾する『脳』の行為の間を行き来することが必要になります。人間は生きていくためにこの両方の行為を必要としていることを理解する必要があります。

現代人は、多様な『情報』『データ』を参照しながら生きていますが、その全てを自分で『観察』『記録』して創りだすことはできません。

どうしても、他人が提供する『情報』『データ』を利用することになりますが、その場合でも、鵜のみにせず、一度自分の『脳』で、『疑う』べきか『信ずる』べきかをチェックしてみる習慣をつけるべきでしょう。

トランプ大統領は、自分に都合が悪いメディアの報道内容は『フェーク・ニュース』であると切って捨てますが、本当に『フェーク・ニュース』であるのかどうかの判断は、アメリカ市民や私たち視聴者にゆだねられています。

『大統領がそう言っているのだからフェーク・ニュースである』と単純に『信ずる』市民が多ければ、大統領の再選の確率が高まりますし、大統領の発言内容を『疑う』市民が多ければ、再選は難しくなります。

日本の国会でも、『記憶にございません』などという答弁が多用されますが、『本当に記憶にない』のか『弁明のための逃げ口上』なのかは、私たちが判断しなければなりません。

このように『物質世界』ではなく、人間が絡む『精神世界』の事象を、『観察』『判断』することは容易sではありません。

人間は必ずしも『ホンネ』を口にするとは限りませんし、『ホンネ』を態度で示すともかぎりません。

最近多用される『忖度』は、何か悪いことに加担するような意味にとられがちですが、本来は他人の『精神世界』を洞察することですので、生きるために必要な行為です。 

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2020年1月19日 (日)

詳細な観察と記録(5)

『主観の共有』が人類を高度な文明を築くことができる生物にしたということを昨日書きました。

『地球は球体である』というような、『科学』が『真』とする命題を、人々が『共有』して受け入れることは『客観の共有』で、これと『主観の共有』は大きく異なります。

『主観の共有』は、実態として存在しない抽象概念を、あたかも存在するものとして、更にその存在に『価値』があると人々が『信じて』受け入れることを指します。

『一万円札』は客観的に観れば、一枚の紙きれに過ぎませんが、私たちは、これに『一万円の価値がある』と『信じて』、社会に流通させています。

『正月には初詣に行く』『故人の命日には法要をする』『節分には豆をまく』などは、『主観の共有』が、生活に根付く『習慣』となってしまっているものです。

『主観の共有』は、良いことばかりを人類へもたらしたわけではありません。

異なったコミュニティが、異なった『主観の共有』をそれぞれ保有して対立する時の深刻な問題が存在します。

『キリスト教文化圏』と『イスラム教文化圏』の対立、『民主主義』と『社会主義』の対立などがそれに当たります。

人類は、この問題の普遍的な解決方法を見出していません。誰もが『平和』を願いながら、人間社会から『戦争』が無くならない一つの原因にもなっています。

『個人』間、『国家』間、『宗教』間、『イデオロギー』間の対立は、いずれも『私は正しい、あなたは間違い』という論法では解決できません。『違いを認めない』ということに固執すれば、必ず不幸な結果を招きます。

しかし『主観の共有』が根強いものであればあるほど、対立は深刻になります。自分は『正義』、相手は『邪悪』とののしりあい、ついには相手を『抹殺』しようとします。

『主観の共有』のもう一つの問題は、コミュニティのリーダーが、コミュニティの中を、自分に都合良く一色にするために、『主観の教養』をメンバーに強いることがあることです。

本来『主観の共有』は、個人が自発的に『信ずる』ことで成立するものですが、この場合は、『信ずる』ことを強いられることになります。

『独裁者』による『恐怖政治』などが、このパターンです。本心では『信じていない』ことを、コミュニティの中では『信じている』ように振舞わないと、命が保障されないというような状態になります。

更に『洗脳』によって、『本当に信じている』状態へ変えられてしまうこともあります。

北朝鮮の国民が、どの程度の割合で『洗脳』されてしまっているのか、どの程度の人たちが、『信じている』ふりをして我慢しているのか、梅爺はわかりませんが、いずれにしても、コミュニティが永続的に『一色に染まる』という状態は、人間の本性を考えると、不自然な体制であるように思います。 

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2020年1月18日 (土)

詳細な観察と記録(4)

『物質世界(宇宙、自然界)』は、多様な事象に満ち溢れていて、人類はその全てを理解できているわけではありません。

しかし、その本質は、それほど多くない『条件』として記述できます。

(1) 宇宙誕生時に出現した、有限の種類の『素粒子』を素材とする物質しか存在しない。勿論、『人間』の肉体も例外ではない。
(2) 絶えず『変容』している。『変容』は『動的平衡移動』で、空間の物質分布密度に違い(ムラ)があると、それを解消しようとして始まる。『変容』を支配している普遍的な『摂理(ルール)』が存在する。『摂理』に反する事象は『物質世界』に存在しない。『摂理』の全てを人類は解明できていないし、そもそも何故『摂理』が存在するのかもわかっていない。

(3)『変容』には『理想』『目的』『あるべき姿』などという概念は適用できない。これらの概念は『精神世界』が生み出したもので、『精神世界』だけでしか通用するものである。

何やら難しいことを述べているようですが、煎じつめれば『物質世界は有限の素材だけでできていて、摂理に支配された目的のない変容が続いている』というだけのことです。

仮に将来『宇宙人』が発見されたとしても、『宇宙人』の身体は、ありきたりの素材(元素)でできているでしょうし、その生命活動も『摂理』に支配されているという推測が成り立ちます。更に、もしも『神』が天空のどこかに存在しておられるとしたら、『神』もありきたりの素材でできていて、『摂理』の支配を受けているという推測になります。『神』の活動を支える『エネルギー源』は何かを明らかにする必要もあります。。

『物質世界』に実態としての『神』は『存在しないだろう』と梅爺が考えるのはこのためです。『物理世界』に支配されている『神』が、『天地(部室世界)を創造した』などという論理は成り立たないからです。

『神』は人間の『精神世界』が創造した『虚構』の概念であると考えれば、矛盾は無くなります。人間は『神』だけでなく、沢山の『虚構』の概念を創造し、それを社会のメンバーが『主観の共有』として継承してきました。

生物の中で、群(社会)の『主観の共有』という能力が、大きな役割を果たすのは『ヒト』だけです。『神』『国家』『貨幣価値』などが『主観の共有』の代表例です。実態のない概念であるにもかかわらず、あたかも存在して『価値』を有すると、群のメンバーが『信じて』結束する力になってきました。見知らぬ他人が結束して、『宗教文化圏』『大帝国』などを築くことができたのは『主観の共有』があってのことです。

人間の肉体が『個性的』にできているように、『精神世界』も基本的には『個性的』です。同じ事象に遭遇しても、一人一人『考え方』『感じ方』『価値観』は異なります。

この人間の『精神世界』が『個性的』であることの意味も重大なのですが、その個性的な人間が『社会』を構成した時に、『主観の共有』で、『個性的』であることを放棄して、『一つにまとまる』ことができるという、一見矛盾した能力を発揮します。

『ヒト』という生物を理解する上で、これは重要なことになります。

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2020年1月17日 (金)

詳細な観察と記録(3)

梅爺が『心象を書き続ける』ことで得られた『成果』は、世の中の事象を『物質世界』『精神世界』に分けて観ることで、多くのことが判然と見えてくるということを『知った』ことです。

勿論、突然このような『成果』を得たのではなく、色々な事象を別個に論じている内に、その相関関係や因果関係に気づき、全体像が見えてきたという話になります。

『スティーブン・ホーキンス博士』が人類の究極の疑問として、『私たち(人間)はどこから来たのか』『宇宙はどのように始まったのか』の二つを挙げていますが、梅爺の最初の『好奇心』の対象も、『生命』『脳』『宇宙』でした。もちろん人類が継承してきた『文明』『哲学』『宗教』『芸術』『イデオロギー』『科学』にも興味がありました。

梅爺の能力では、詳細に理解できたとは言えませんが、『宇宙の始まり(特異点、インフレーション、ビッグバン、素粒子の出現)』、『宇宙の膨張(恒星、惑星、衛星、銀河、ブラックホール、ダークマター、ダークエネルギー)』、『素粒子を対象とした量子力学』、『生命体の出現』、『生物進化』、『細胞』、『ミトコンドリア』、『脳』について、基本的な知識を習得し、その『本質的な意味』を自分なりに、把握し自分の頭の中で、少しづつ『関連付け』ができるようになりました。

その結果、『自然界で起きている事象』をまとめて『物質世界』の事象とし、人間の『脳』の中で起きている『思考』『推論』『判断』などの活動を『精神世界』の事象として区分することに意味があることに気づきました。

人間の『肉体』『脳』は、『物質世界』に属し、実態ある『モノ』として存在します。『肉体』『脳』『生命活動』は、『物質世界』の『摂理(ルール)』に支配されていますから、『摂理』が適応できなくなったときに、『生命活動』は終焉(死)を迎えます。

『生命活動』をしている『脳』は、独自の『仮想世界』である『精神世界(心)』を作り出します。その意味で『精神世界』は『物質世界』の支配下にあり、地続きといえます。

つまり、『生命活動』が死を迎えた時に、連鎖的に『精神世界』も消滅します。『精神世界』が存在しなくとも『物質世界』は存在しますが、『物質世界』が成り立たない状況では『精神世界』は存在できません。

『神仏』『あの世(天国、地獄)』『死後の霊』などが、存在しないことを論理的に証明することはできませんが、少なくとも『物質世界』の支配下で、そのようなものが実態として存在するとことを考えるには無理があります。存在するとしたら『素材』『エネルギー源』などの解明が可能ということになるからです。『物質世界』の支配下にある『神』が、天地の創造主(『物質世界』を創った)であるという論理にも矛盾が生じます。

梅爺は『神仏』『あの世』『死後の霊』は、人間の『精神世界』が創りだした『抽象概念』であろうと考えました。人間の『精神世界』でのみ意味を持つ概念で、人間が地球上からいなくなれば、これらの『抽象概念』も消滅して無くなると考えています。

『物質世界』は、『神』の存在を想定せずに、全て説明できると『スティーブン・ホーキンス博士』も言っています。

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2020年1月16日 (木)

詳細な観察と記録(2)

私たちは『脳』を駆使して生きていますが、『脳』の仕組みについては良く理解できていません。

梅爺は『薔薇』という漢字は『読めます』が、突然『薔薇という漢字を書きなさい』と言われたら『書けません』。英語の文章はかなりのレベルで『読めます』が、ネイティブな人の話す英語を完全に聴きとることは『できません』し、ネイティブの人のようにスラスラ話すことも『できません』。

実際の『薔薇』をみて『薔薇』と認識することと、『薔薇』という漢字を認識することと、『薔薇』という漢字を書くという行為は、『脳』の中では別であることが分かります。同様に『英語』を『読む』『聴きとる』『話す』は、『脳』にとって全く無関係とは言えませんが、基本的には別の機能が関与しているらしいことが分かります。

この事から、『観察』して『脳』がそれに関する情報を取得することと、それを『絵として描く』こと、『文章として記述する』ことは、『脳』にとっては別の行為であることも分かります。

従って『観察』して『記録』すると、『脳』の異なった機能が使われ、それらの『関連付け』も『脳』が行おうとするのではないでしょうか。

何かを『観察』したり何かを思いついたら『写生』『メモ』すると、『記憶』を強固にするだけでなく、『写生』『メモ』の途中で、また何か新しいことを思いついたり、発見したりしますから、『脳』は相乗効果的に活性化することになります。

野球の監督や選手が、ベンチの中で『メモ』をとったりしていますが、経験則でそれが将来『役立つ』ことを知っているからなのでしょう。

『観察』して『記録』することを、繰り返していると思わぬ『成果』を得ることができるということを、梅爺は10年以上『ブログ』を書き続けることセ体験、実感してきましたから、この著者の提言には異論がありません。

梅爺は『ブログ』を書き始める時に、『今日どこへ行った』『誰と会った』『何をした』『何を食べた』などという日記風の記録は、原則として『書かない』方針を決めました。それらは、自分の記録としては意味がありますが、他人に読んでいただくことには、あまり意味がないと考えたからです。

また、その時ニュースとなった世の中の『できごと』『事件』『災害』なども、『ブログ』の対象にしないことにしました。ニュースの内容をオウム返しで、述べてみても意味がありませんし、いわんや、生半可の情報で『解説』を試みるのは無謀と考えたからです。

この結果、『あなたは世事に興味がないのですか』と尋ねられることがよくありますが、そのようなことはありません。梅爺は人一倍『野次馬根性』の強い人間です。

その代わりに『ブログ』には、梅爺の『心象』を書こうと決めました。梅爺の基本的な『好奇心』の対象を探究してみようと考えたからです、その結果『梅爺閑話』は『難しい』『面白くない』と評されることになりましたが、梅爺にとっては予期しなかった大きな『成果』が得られました。

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2020年1月15日 (水)

詳細な観察と記録(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集103番目のタイトルは『Close Observation and description(詳細な観察と記録)』で著者は英国のコンピュータ科学者『Ursula Martin』です。

著者は、現代人が、他人が提供する『情報』や『データ』に頼って、自分で『観察』や『記録』を行わなくなりつつあることを危惧しています。

他人が提供する『情報』や『データ』を鵜のみにする危険と同時に、自分自身の『思考』を放棄する弊害を指摘したいのでしょう。

主としてこのエッセイは『植物学』といった『科学』の分野を例に挙げて述べています。

梅爺は、『分からないこと』に遭遇すると、すぐ『Google 検索』を利用しますし、『植物学』に至っては全くの音痴で、庭の雑草の名前も言い当てることができませんから、この指摘には『畏れ入りました』と申し上げるほかありません。

近世までの『植物学』『昆虫学』ではなど、植物や昆虫に魅せられた学者が、拡大鏡を持参して『フィールド・ワーク』を行い、観察結果を詳細に『写生』し、気づいたことや疑問点を文章にして残しました。

その成果は本として出版され、学者ではない普通の人たちも、それを興味を満たす素材として利用していました。

このエッセイの著者が所有するその頃の『植物図鑑』の、最初の所有者は、19世紀の好奇心あふれる女性であると書いてあります。

有名な『ファーブル昆虫記』なども、このようにして生まれました。昆虫好きの人たちによって今でも読み継がれています。

『自分で観察し記録する』には、時間や労力を要しますし、その時間や労力に見合う『見返り』があるという保証はありません。

しかし、『観察』や『記録』のプロセスで、その人の『精神世界』がフルに活動していることに意味があります。

そのプロセスの中で、新しい好奇心や疑問点が喚起されたり、幸運な発見もあり、確かな記憶として残ることにもなります。

『ダーウィン』は、『種の起源』を執筆する前に、膨大な数の『動物』『植物』を『観察』し自ら写生を行うと同時に、文章の『記録』を行いました。

当時写真技術が現在のようなものではなかったこともありますが。自ら『観察』『記録』を繰り返すことで、自分が思いついた『生物進化』の『仮説』に、矛盾する事象がないことを確認し、自信を深めていったのではないでしょうか。

現代では『植物図鑑』を購入して、それを飽かず眺めることで興味を満たすというような人が減りつつあります。

どの分野も、高度な専門知識がないと対応できなくなり、庶民は、自分で対応することをあきらめ、『専門家』に任せれば良いと考えるようになったからでしょう。

庶民は自分が利用している『パソコン』『スマホ』『高画質テレビ』の内部で、どのように高度な技術が使われているかを『知りません』し、興味の対象にもしていません。

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2020年1月14日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(4)

人間の場合、『敵』という概念は、一人一人が『個性的』であるが故に生まれます。『個』が『個性的』であることは、生物全般に言えることで、人間だけの特徴ではありません。

『容姿』『体格』『性格』『能力』『判断基準』を観察すれば、『違い』があることが分かります。人間の場合は『精神世界』の『価値観』の違いが『個性的』の中でも際立って、重要な役割を演じます。

何故生物が、同じ種の中でも『個性的』であるのかという理由は単純で、『生物進化』の過程で選択した『遺伝子』を利用する世代交代の方式が、『個』の違いを生みだすように仕組まれているからです。『神』が私たちに『個性』を付与してくださったわけではありません。

何事にも『長所』と『短所』があるように、『個性的』であることが、人間社会へもたらしていることには、『良い面』と『悪い面』があります。

人間社会を魅力あるものにしているのも、おぞましいものにしているのも、『個性的』であることが関与しています。

私たちが『個性的』であることの、本質的意味を、深く考えてみる必要があります。表面的には、誰もが『人間は個性的に創られている』ことは『分かって』いますが、その本質的な意味には、多くの人が気づいていないように思われます。

『個性的』であるといことは、私たちの存在が『平等』ではなく、厳然と『格差』があるということです。人間社会で『個』が『個性的』であることを野放しに放置すると、人間社会の『秩序』が成り立ちませんので、人類は、『群をつくって生き延びる確率を高める方式』を選択して以来、本来多様な価値観を有する『個』を、群の『秩序』で規制しようとしてきました。本質的に多様なものを、一見一様に見せかけようという無理難題ですから、普遍的な解決策は、見いだせていません。

それでも、『法』『憲法』『道徳』『倫理』『宗教の教え』などという、次善の策で、『個』でと『社会』、の抱える『矛盾』を何とかしのいできました。

つまり、ある『社会』の中では、『個』の暴走は、『裁判』や『警察』の機能で、なんとか抑制されているということです。しかし、『個』と『全体』の関係が、何となく保てるのは、『国家』などという規模が限界で、グローバルに観ると、『国家』間の『価値観』の違い、『宗教文化圏』間の『価値観』の違いは、上位の『秩序』を形成することにほとんど成功していません。もちろん『国際連合』『国際法』『国際司法裁判所』などは、存在しますが、いざとなると、ほとんど効力を発揮しません。

つまり、『国家』間や、『宗教文化圏』間の、『敵意』を、上位の『秩序』で抑制することがほとんどできません。人類にとって、このレベルの『敵意』をどのように緩和するかが、難題中の難題です。

人類の歴史で、『戦争』や『テロ』による復讐合戦が無くならないのは、このためです。

『世界の平和』は、『個』が願ったり、祈ったりしてももたらされません。人類の知恵が、グローバルな『秩序』を保つための、次善策を見いだせるかどうかにかかっています。

現状は、効率の悪い『話し合い』『折衝』などしか、対応の方法がありません。

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2020年1月13日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(3)

道徳は、『他人に敵意を持ってはいけません』などと、あたかも『敵意』を持つことは『罪』であるような、きれいごとの精神論を説きますが、人間の本性を考えると、これは無理難題であると分かります。

生物として『安泰を希求する本能』を継承している限り、周囲の事象を必ず『都合が良い/油号が悪い』『好き/嫌い』で区分けすることを、無意識のうちに行っているからです。

『都合が悪い』『嫌い』の感情が最も強く働く場合が、対象を『敵』『ライバル』と認識することになりますから、誰でも『敵』『ライバル』という抽象概念を『精神世界』で保有することは避けられません。

『精神世界』が『敵』『ライバル』を『許しがたい存在』と狂信するようになると、『相手を抹殺したい』『相手を貶めたい』と考えるようになります。しかし、このレベルはまだ『精神世界』で『相手を抹殺したい』『貶めたい』と『願って』いるだけですから、本当に『抹殺行為』『貶める行為』を実行するまでには至っていません。

ここまでは、『あんな嫌なやつは、いない方が良い』と空想するレベルで、程度の差はあれ誰もが経験することです。

しかし、多くの人は、『相手を抹殺する』『相手を貶める』ことは、法や社会道徳上、『いけないこと』であると『理性』で判断しますから、実際の行動に移ることは、『思いとどまる』ことになります。

従って、『他人に敵意を持ってはいけません』というのではなく、『敵意を実行に移すことは、理性で押しとどめなさい』というのが、現実的な助言ということになります。

『理性』で抑制できるかどうかは、微妙な問題ですので、『人間』は『綱渡り』のように、危なっかしく人生を送っているとも言えます。『理性』の抑制が効かずに、人生を棒に振る話は、連日のように、新聞やテレビを賑やかしています。

誰もが、潜在的には『復讐心』のようなものを抱えていると言えますから、『映画』や『小説』の『復讐劇』で、主人公に『復讐』を代行してもらい、欲求不満を解消して心で『快哉』を叫ぶことになります。

『アレキサンドル・ヂュマ』の『モンテ・クリッスト伯(岩窟王)』や、『山本周五郎』の『五弁の椿』などを梅爺も若いころに熱中して読みました。当時は何故自分が『面白い』と熱中するのか理解できていませんでしたが、今なら上記のように、自分の『精神世界』を冷静に眺めることができます。

ブログを書き続けて、『人間』の本性が、『何に由来するのか』について、自分なりに整理できるようになったからです。

『芥川龍之介』が、『敵意を適度に感ずる時は爽快である』と書いているのは、梅爺流に表現すれば、『精神世界の抽象概念として敵意を保有し、復讐などを実行する強迫観念にとらわれないレベル(空想を楽しんでいるレベル)では他愛のない話で済まされる』ということになります。

『芥川龍之介』が、『敵意は持つな』などと言っていないところはさすがです。

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2020年1月12日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(2)

私たちの『脳』の総合能力には限界がありますから、全ての事象について『都合が良いもの』『都合が悪いもの』に『区分け』しているわけではありませんが、少しでも『気になる(これも情による直感)』ものは、意識的であれ、無意識であれ『区分け』の対象にしています。

その意味では『脳』が創りだす『精神世界』で、誰もが『ライバル』『敵』といった存在を抽象概念として保有することはあり得ます。

抽象概念として相手の存在をとどめ、『あいつには負けたくない』『あいつより自分の方が優れていることを示したい』と願うことは、反って『生きがい』や『生きる活力』を生む源泉にもなますから、『芥川龍之介』が言うように、『健康のために必要』と言えるかもしれません。

『ライバル』を想定することで、スポーツ選手や芸術家のレベルが上がるのは、そのためです。

『精神世界』で抽象概念としてとどまっている間は、『敵意』はそれほど問題になりませんが、『敵』を『抹殺する』といった、具体的な行為へ『敵意』が発展すると、人間社会では大きな波風が生じます。

『敵』を打ち負かした方は、『敵に勝利した』と喜びますが、打ち負かされた方やその仲間は、『復讐』という『敵意』を更につのらせ、相互に『復讐』合戦がとめどもなく続くことになります。

日本の戦国時代に、『勝者』が『敗者』の一族郎党を、女子供も含めて『皆殺し』にしたのは、『復讐』合戦に終止符を打つという非常手段としたからです。少なくとも『勝者』は、『復讐』合戦が果てしなく続くという、人間の習性だけは、経験則で知っていたからです。

『戦争』や『殺し合い』で、『敵意』による『復讐』合戦に終止符を打つという手段は、あまり賢い手段とは言えませんが、『人間』は『許しがたい敵』という『判断』から逃れられないために、『戦争』や『テロ』が無くなりません。

『イスラム国』の最高指導者を、アメリカの特殊部隊が追いつめ、死へ追いやった時に、『トランプ大統領』は、『正義が行われた。これで世界は少し平和になった』と誇らしげに宣言しましたが、大国のリーダーとしては『幼稚すぎる発言』です。『正義』や『平和』は、このように軽々しい概念ではないからです。このような発言に、アメリカ国民の大半が、賛同するのであれば、アメリカの民度のレベルも、大統領同様に幼稚であると言いたくなります。

次の大統領選挙に勝つために、自分やアメリカの『力』を世界に示したと言いたいのでしょうが、『復讐』合戦を更に煽っただけで、アメリカやアメリカ国民に更に不利益が及ぶ事態になりかねません。

『イスラム国』ばかりではなく『中国』『ロシア』『北朝鮮』からもアメリカは『敵意』の対象になりつつあるのは、アメリカ側にもその要因があることを、理性で考えてほしいと願います。『アメリカだけが正義』などという論法で、『復讐』合戦は緩和されません。

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2020年1月11日 (土)

『侏儒の言葉』考・・『敵意』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある一文『敵意』に関する感想です。

大変短い内容なので、全文を掲載し、紹介します。

敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且(かつ)又健康を保つ上には何びとにも必要である。

私たちは、周囲の事物を『自分に都合が良いもの』『自分に都合が悪いもの』に区分けして認識する習性を世有しています。これを梅爺は『安泰を希求する本能』と呼んでいます。

これは『人間』だけの習性ではなく、『生物』全般に共通な習性です。『生物』にとっては『個』『種』の生き残りが最優先の本能であり、これが『生物進化』を推進する最大の要因になっています。

区分けは、『好き』『嫌い』といった比較的一般的な表現、『仲間(友)』『他人』といった穏やかな表現、そして『味方』『敵』といった強い表現と、色々あります。

『味方』『敵』は、お互いの存亡を賭けて争うような、対立の度合いが強い深刻な表現になります。

『脳』を保有する動物では、『区分け』は『脳』が行います。『感覚器官』で周囲の事象を『情報』として感知し、ほぼ即座に都合の良し悪しを『判断』します。

多くの場合この『判断』は、本能的な直感で決まります。

『人間』の『脳』の判断は、上記の『本能的な直感(情感)』に加えて、『理(理性、知性)』も働きます。

順序としては先ず『情』による直感的な『判断』が下され、時と場合に応じてその後『理』によるチェックが行われます。

『情』の『判断』が先行し、その後『理』によるチェックが行われるという、時間差を伴った二重構造の『判断』が『人間』の特徴です。

何故、このようになっているかは簡単な話で、私たちの先祖の『生物』が最初に獲得した能力が、『情』による直感的な『判断』であったからです。『理』による『判断』は、『人間』が後に獲得して追加した能力です。

その証拠に、『情』の『判断』は『脳』の中枢近くで行われ、『理』の『判断』は『脳』の外側(大脳皮質)で行われます。私たちの『脳』は、『生物進化』の過程で、建造物が増築されていくように、形成されてきました。

このプロセスは、私たちの日常の行為を思い浮かべてみれば、分かります。初めての『食べ物』を口にしたとき、直感的に『美味しい(好き)』『不味い(嫌い)』を感じとりますが、実は『不味い』ものが、『健康のために良い』と『理』で分かった後には、『不味くても食べる』という『判断』に代わります。

初めての『他人』に出くわした時も、直感的に『良い人』と感じとっても、その後その人に関する『悪い噂』などを耳にすると、『警戒を要する人』と『判断』が変わります。

『推論能力(因果関係を理でとらえる能力)』『知識』『経験の記憶』などを駆使して、『理』の『判断』ができるところが、『生物』として『人間』の特筆すべき特徴です。

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2020年1月10日 (金)

江戸の諺『穴(けつ)な娼妓(おやま)』

江戸の諺『穴(けつ)な娼妓(おやま)』の話です。

現代では、使われない表現ですが、『性』に関するあまり上品な表現とは言えません。

お座敷や寝間で『男を楽しませる客商売の女性』で、若さを売り物にするのは『赤襟(あかえり)』、中年のお色気を売り物にするのは『中詰(ちゅうづめ)』と呼ばれましたが、年老いた『娼妓(おやま)』は、下半身だけしか売り物にするものがないという意味で、『穴(けつ)の娼妓(おやま)』という表現になったのでしょう。

原本の『諺臍の宿替』には、『顔』が『尻』になった奇想天外の『娼妓』の絵が載っています。

男の客にとっては、『可愛い顔』『お色気のある容姿』ではなく、『そのものズバリ』が目的ですから、『顔』が少々不細工でもかまわないという、ひどい話です。

人類最初の『職業』は『売春婦』であるというジョークがあるように、『男を楽しませる客商売の女性』は、いつの世にも存在していました。

王侯貴族を対象とする、宮廷内の特別な役割の女性から、庶民を対象とする女性まで、様々です。

朝鮮の李王朝では、『妓生(キーセン)』と呼ばれる、女性たちが、外国からの賓客などをもてなしました。宴会に侍り、寝室もともにするという『高級ホステス』ですから、容姿端麗で、芸や教養にも優れていることが求められました。

女性に『貞節』を求める、儒教社会の朝鮮で、『妓生(キーセン)』がどのように考えられていたのか興味深いところですが、賓客のもてなしを優先した、誇り高い職業であったのかもしれません。

先進国でも『男女同権』が根付き始めたのは最近のことで、『男性中心』の考え方が、完全に払しょくされているとは言えません。

『イスラム教』文化圏のように、『宗教』が『女性』の生き方を厳格に規制しているところでは、私たちが云う『男女同権』が近い将来実現するとは思えません。人間社会で『常識』となっている『主観の共有』で形成される価値観は、歴史、文化、宗教で異なりますから、どれが正しい、どれが間違いと単純に区分けはできません。

『キリスト教』文化圏の人たちは、『イスラム教』文化圏の人たちを『遅れている』とみなしがちですが、そのような観方は慎重であるべきです。

『私は、これが好ましいと思う』という主張は、その人の『価値観』の表明ですから、自由に許されますが、それの裏返しで『あなたは間違っている』という論理飛躍は控えるべきです。

『性』は人間にとって根源的な欲望(本能)ですが、それぞれの人間社会には、歴史、文化、宗教、倫理観などの違いから、それぞれの『性の考え方』が、『主観の共有』として根付いています。

江戸時代の日本人の『受け止め方』は、現代の私たちとも異なっています。それを垣間見るうえで、『諺』に現れる『性』の表現は、興味深いものです。

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2020年1月 9日 (木)

江戸の諺『姫を掃く』

江戸の諺『姫を掃く』の話です。

これは江戸というより上方(京阪地方)で使われた表現のようです。『姫』は尊い家柄の女児を意味する言葉ですが、ここでは『遊女』を指す隠語です。庶民の男には、『姫』が縁遠い存在であるがゆえに、自分にとっては『遊女』が『姫』であると笑い飛ばす気持ちが込められているのでしょう。

『掃く』は、『箒(ほうき)で掃く』動作の比喩で、『次々に処理する』というような意味になります。

現在でも『客の掃けが良い』などと使います。『効率よく、多くの客対応をこなす』状態を指しますから、商売にとっては好ましい話です。

『姫を掃く』は、男が遊里へいって、馴染みの遊女にこだわることなく、次々に遊女と『遊ぶ』という、自分の強壮さを自慢するニュアンスの表現になります。

『掃く』で連想する『箒(ほうき)』には、『男根』の意味が『隠喩』として込められているのでしょう。

どこの国の小噺にも、『性』に関するものがあるのは、人間の根源的な欲望に関心が深いからなのでしょう。『はしたない』『いやらしい』などと上品ぶってみても、『本当は、あなたもお好きなんでしょう』と、人間の本性を指摘して、滑稽にしてしまう可笑しさが、そこにあります。

地球上に、『生命体』が出現した詳しい経緯は、現代科学でも解明できていません。『生命体』が、世代交代で『種の継承』をしていくことに、『遺伝子』という実に巧妙な仕組みが採用されたことは分かっていますが、何故このような仕組みが、登場したのかも、分かっていません。それまで存在していなかった『生命体』の出現、『種の継承』のための『遺伝子』の仕組みの出現は、偶然の試行錯誤の結果であると推測されますが、あまりにも見事なものであるがゆえに、昔の人が『神による創造』と考えたのは、分からないでもありません。

『単細胞生物』の時代は、『遺伝子』のコピーを利用した細胞分裂が、『種の継承』の主流でしたが、色々な目的の細胞が要せ集まった『多細胞生物』が出現すると、単純な細胞分裂では『種の継承』はできなくなり、『両性生殖』という、これも実に巧妙な方法で、子孫を残す方法が出現しました。

『生殖行為』に、強い快楽を伴う『性欲』が付与されているのは、世代交代をより確実にするために『生物進化』の過程で採択された本能です。

科学知識がなかった時代の人たちも、『性』が子孫を残すための行為であることは、気づいていましたが、『快楽』を対象とした『性』だけにも執着したのも当然のことです。

手段として付与された『快楽』が、目的と化してしまったとも言えます。

『快楽』目的の『性』を、『宗教』の一部は、『罪深い行為』としましたから、人間社会で『性』は、扱いが難しいものになってしまいました。江戸時代までの日本人は、『性』には比較的大らかであったように感じられます。 

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2020年1月 8日 (水)

江戸の諺『子にひかれる』

江戸の諺『子に引かれる』の話です。『子供に引きまわされる』ということで、『子供の世話で手いっぱいになり、他のことができない』といった意味になるのでしょう。

母親は、『子に引かれる』などと口では愚痴を言いながら、可愛いわが子にかかりっきりになることを『生きがい』と感ずる側面もありますから、『母性愛』ほど強い『愛』はないとも言えます。

動物によって、産まれてきた子供が『一人前』になるまでの期間には長短がありますが、いずれにしても『母親』が授乳なども含め、『子供の世話をする』習性は共通です。

『種の継承』のために、それは必須の要件ですから、『生物進化』の過程で、『母子の本能』として確立したものに違いありません。言い方を変えれば『子供の世話をする』習性を遺伝子として強く保有するものの子孫が生き残ってきたことになります。

しかし、動物の母親にも、人間の母親にも『育児拒否』をする平均から外れた母親が出現し、子供にとって不幸な事態が起こることがあります。『育児』に関心がないのか、それとも『育児』より優先する他の『欲望』が強いのかは分かりませんが、とにかく、平均から外れた『個』が出現するのも、生物の宿命です。

『自分を犠牲にしても、全てを他人のためにささげる』行為を、私たちは『愛』という抽象概念の究極の姿と考え、人間社会で共有してきました。『母性愛』は中でも崇高な『愛』と考えられてきました。しかし、『育児本能』は、ありていに言ってしまえば、脳内に分泌されるある種の『ホルモン』にはよってもたらされるもので、体内の『化学反応』が引き起こす事象とも言えますから、『育児本能』が『愛』と呼ばれることにふさわしいかどうかは、別の議論とも言えます。

『愛』は『崇高』『美しい』という抽象概念と結び付いて表現されますが、これは人類社会で継承されてきた『主観の共有』であり、『物質世界』の事象と関連付けてはあまり考えられてきませんでした。

『愛』の実態は、『ホルモン』が引き起こす『化学反応』であるなどと言って、従来の『愛』の概念を貶めようとは思いませんが、『科学』が提示する『事実』も受け入れて対応していく必要があります。幻滅させるようなことを『科学』は提示するなというわけにもいかないからです。

同様なことがが、『心の救済』『心の安らぎ』などにも、起こることになります。『脳科学』が『パンドラの箱』を開けてしまうかもしれませんが、私たちはそれでたじろぐ必要はありません。新しい観点で『自分は何か』を見つめなおせば良いだけのことです。

動物の中で、『人間』ほど、産まれてきた子供が一人前の成人になるまで、永い期間を要する『種』はありません。

何故このような不利な条件を継承してきたかは、それを補うための『長所』があったからで、それは『脳』の成長結果を重視したからなのでしょう。

『脳』の成長がもたらす『知性』『理性』は、『人間』を『人間』たらしめる最大の要因であるということでしょう。

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2020年1月 7日 (火)

江戸の諺『寺の大黒』

江戸の諺『寺の大黒』の話です。江戸時代は、仏教の僧侶は公には妻帯は禁じられていました。『女犯(にょぼん)』は、破戒行為の一つであったことになります。

しかし、全ての僧侶が『聖人君子』であったわけではなく、『生臭坊主』が出現して、こっそり『隠し妻』を囲っていました。この『隠し妻』は『大黒(だいこく)』『梵妻(ぼんさい)』と呼ばれていました。

何故『隠し妻』が『大黒』と呼ばれたのかは、必ずしも判然としませんが、寺の厨房の守り神として『大黒』様が祭られていて、僧侶が『隠し妻』を『飯炊き女』ということで囲うことが多かったことから、『隠し妻』を『大黒』と称するようになったという説が有力です。

『釈迦』は全ての『煩悩』を『解脱』することで、人は『仏』になれると説きました。深遠な論理思考の末に到達した『悟り』で、『大変ごもっとも』なことですが、現実には生物である『人間』は、『煩悩』の一部は『解脱』できないという『矛盾』を抱えているように梅爺は感じます。

どうしても『解脱』できない『煩悩』が『食欲』で、これを絶てば、生きていけませんから、自らの存在を否定することになります。更に『一切の殺生(せっしょう)を禁ず』と言われると、論理的には食べるものが無くなってしまいます。

『精進料理』で『肉食』を禁じてみても、食材の『植物』も、生物としての『命』を保有していますから、これは『殺生』ではないとは、言い難くなります。

つまり私たちは、他の生物を『殺生』しないと、自分が生きていけないという宿命から逃れようがありません。

『精進料理』『粗末な食事』で、最小限に『殺生』をとどめれば『許される』というのは少々身勝手な『論理』のように思います。

『性欲』も人間にとっては強い『煩悩』の一つですが、これを意思の力で『絶って』も、命に別条はありません。しかし、人類の全てが『煩悩』を絶てば、生物としての『種の存続』はできなくなりますから、これも根源的な『矛盾』を抱えることになります。

『仏』の救済の対象になるのは、『特定の修行を積んだ人(出家人)』だけと考えるか、凡人を含む『全ての人』と考えるかで、仏教の基盤が変わってきます。『小乗仏教』『大乗仏教』の違いでもありますが、いずれにしても、『矛盾』を内包することになると、梅爺は感じます。

『生臭坊主』は、そのような深遠な話ではなく、自分の『煩悩』を抑えがたいという単純な理由で『大黒』を囲ったのでしょう。

庶民も目くじらを立てて、僧侶を難詰などせず、『よさこい節』のように『坊さんかんざし買うを見た』などと、寛容に笑いの対象にしてしまっているところが、江戸の文化の特徴です。

明治5年に、『官令』で、僧侶の『妻帯』『肉食』『帯髪』が解禁になりましたが、何故政治が『宗教』に関与したのかは、興味深いことです。

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2020年1月 6日 (月)

江戸の諺『子にかかる』

江戸の諺『子にかかる』の話です。『子にかかる』は『親が子供の世話になる』という意味です。

子供が一人前になるまでは、『親が子供の世話をする』のが、動物の一般的な習性です。従って『子にかかる』は逆の関係で、多くの場合成人した子供に親が頼るということですから、『不甲斐ない親』か『年老いた親』が『子にかかる』ことになります。

何代もの世代が同じ家で暮らすことが一般的であった昔の日本では、年老いた親の面倒を子供がみるという社会価値観が定着していました。

しかし、現代の日本は、核家族中心になり、親子は同居していませんし、独立した子供も、自分の生活がありますから、子供が年老いた親の面倒をみることは、非常に難しい状態になっています。

親子の絆で。子供は年老いた親の面倒をみることが気がかりであったとしても、現在の生活基盤(仕事や地位)を捨ててで、それ優先することは現実には困難です。

『年老いた親の面倒は子供がみる義務がある』と昔流の価値観で、『わがまま』『無理難題』を並べる親が今でもいて、子供たちを悩ませることになります。

北欧のように社会保障のシステムとして、老人の世話が行き届いている国は、うらやましい限りですが、現状の日本で、国費でそれをまかなうことは難しいために、老後はできるだけ老人の『自助努力』で対応してほしいということになってしまいます。このある意味で中途半端な政策が、老人にも子供たちにも負担をかけることになっています。

富裕な老人は、サービスが行き届いた『有料老人ホーム』に入居できますが、多くの庶民にはそれはかないませんから、『老後の不安』を抱えながら生きていくことになります。

梅爺のところも、老夫婦の2人暮らしで、半人前を2人で補いながら生きています。息子も娘も結婚して自分の家庭で手いっぱいですから、『子にかかる』ことは困難ですし、そのようなことも期待しないように心がけています。

現在は、幸いにも『自助努力』でやっていますが、必ず施設や病院のお世話になる最後が訪れることは覚悟しています。『ピンピンコロリ』は願いますが、願えばかなうものでもありません。

老人は、当然『死』を意識するようになりますが、同時に『生』の有難さを、日々感ずるようにもなります。若いころには全くなかった体験です。

『永生きしてください』などと、おっしゃっていただくのはありがたいことですが、一方『社会のお荷物』『老害』などと陰でささやかれていることも承知していますので、出しゃばったりしないように心がけています。

身体は、なかなか言うことをきいてくれませんが、『精神世界』は、『記憶力低下』などはあるものの、ある意味で若いころより、『洞察力』『感性』などが鋭くなっているようにも感じますので、勝手ながら『自分の世界』を堪能して余生を過ごしたいと思っています。

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2020年1月 5日 (日)

物質文明の発展が抱えるパラドックス(6)

人間にとって『快適』『便利』は、『安泰を希求する本能』をみたすものですから、『物質文明の発展』は、当然起こりうることです。

『科学』が発見した『自然の摂理』を利用して、『快適』『便利』をもたらす、自然界には存在しない『人工物』を創り出し、『人工物』そのもの、またはその『人工物』を利用した『サービス』が私たちに提供されるようになりました。

『自家用車』は『人工物』であり、『新幹線による輸送』は『サ-ビス』です。

『サービスする』は『タダで提供する』ことと理解している日本人が沢山いますが、英語の『service』は『誰かに仕える行為』のことですから、原則としては『対価の支払い』を前提にしています。『無償のサービス』ももちろんあり得ますが、それが主の意味ではありません。教会の礼拝は『神に仕える行為』ですから、『サービス』と表現されます。

古代中国の『陰陽思想』は、物事の本質をとらえているように思います。『表』と『裏』、『長所』と『短所』は対となって内在しているという考え方です。

私たちは、『表』『長所』といった『都合のよい側面』だけに気をとられて、『裏』『短所』を見落とすか、見ようとしない習性があります。

『物質文明の発展』の『長所』は、『快適、便利をもたらす』ことですが、『地球資源を枯渇させる』『精神の世界を軽視する』などの『短所』も同時に存在します。

このエッセイの著者が主張する『社会格差(特に所得格差)を増大させる』も『短所』と言えるでしょう。

『長所』だけに目を奪われていて、ある日突然『短所』の存在に気づき、『パラドックス』『矛盾』であると指摘したくなる気持ちは分かりますが、もともと始めから、内在していた両面に過ぎません。

『結婚』『民主主義』に、バラ色の夢を抱いていたら、思いもかけない問題が露呈して、大騒ぎするようなものです。

そもそも、人間の心には、『仏心』と『邪心』が混在していることを考えれば、私たち自身が『矛盾』を抱えた存在です。

『世の中の問題には、必ず正しい答がある』『世の中の事象で矛盾を抱えるものは認めない』という価値観をお持ちの方は、釈然としないかもしれませんが、『矛盾を内包したものの存在を受け入れる』方が、生きていく上で現実的なような気がします。

『物質文明が発展』が『社会格差を増大させる』という副作用をもたらすのは、『パラドックス』ではなくて、もともと内包している『短所』が露呈しただけのことです。

梅爺は『物質文明の発展』がもたらす『短所』としては、むしろ『精神文化が相対的に軽視されるようになる』ことの方が気になります。

『モノ』でえられる『満足』は、『心』の『満足』の全てを満たせません。

『身体』と『心』の両方が健康であって、人は初めて健康といえることに似ています。 

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2020年1月 4日 (土)

物質文明の発展が抱えるパラドックス(5)

『物質文明の発展』で、それまで『富裕階級』しか所有できなった『モノ』『サービス』を、『中産階級』『貧困階級』の人も所有できるようになる現象を、私たちは体験してきました。

梅爺は『富裕階級』ではありませんが、少し前までは『高嶺の花』であった、各種家電、車、情報機器を所有して、時折海外旅行を楽しむようなこともできるようになりました。

『モノ』『サービス』の提供に携わる企業の努力で売価が下がることと、『中産階級』『貧困階級』の所得が、相対的に増えることの相乗効果でこのようなことが起こります。

多くの場合、『技術』『資本主義』『市場のグローバル化』などを基盤とした、右肩上がりの『経済成長路線』が、これらを可能にしていると言えます。

『モノ』や『サービス』の一部が、『コモデティ(市場に普及した標準商品)』になることで、社会の格差は緩和されたと観ることができますが、実はそうはならないと、このエッセイの著者は指摘しています。

『富裕階級』は、『コモデティ』になり難い、希少価値のある『モノ』や『サービス』を今度は所有することを誇示するようになり、新しい格差が生ずるという指摘です。

希少価値の『モノ』や『サービス』は、『高額所得者』『特別の才能を持った人』『特別の地位にある人』しか所有できませんから、結局、新しい社会格差が顕著になるということです。

これを『物質文明の発展』が抱えるパラドックスと言いたいのでしょう。

このエッセイの最初に紹介されているエピソードを例にとるならば、『大型モーターボートを個人的に所有して、家族でクルージングを楽しむ』『ローマ法王に個人的に謁見する』などが、希少価値の『モノ』『サービス』ということになります。

しかし、人類の歴史を眺めてみると、それまでの社会格差がなくなると、新しい社会格差が登場するという現象は、たびたび存在したのではないでしょうか。

何も『物質文明の発展』だけが、このよう現象の要因であるとは言えないような気がします。

いつの時代にも『高額所得者(金持ち)』『特別な才能を持った人』『特別の地位にある人』といった『特別の人たち』は存在し、その社会の環境に応じて、ステータスを誇示することを行ってきたからです。

人間は誰でも、自分のステータスを誇示したいという欲望を保有しているという指摘は、『その通り』と思います。自分の優位性を確認しようとするのは『安泰を希求する本能』が背景にあるからです。

庶民は、『金持ち』『特別な才人』『特別な地位の人』ではありませんから、それらを保有する『特別な人たち』の、ステータス誇示を、指をくわえて、羨むしかありません。

言い換えれば、人間社会には必ず、その時代時代で何らかの『格差』が出現するということではないでしょうか。

行き過ぎた『格差』を是正する『知恵』は、その社会に求められます。

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2020年1月 3日 (金)

物質文明の発展が抱えるパラドックス(4)

『富裕階級』の人たちも、中には『底なしの欲張り』の人が少しはいるかもしれませんが、大半は『あるレベルの所得』で『満足』する習性を持っています。この『あるレベル』の決定を大きく間違わなければ、『富裕階級』の人たちから、高い税率で税金を納めてもらうことができます。

『貧困階級』の人たちには、『生活保護費の支払い』『最低賃金の保障』『免税』などの、社会制度に基づく国や自治体の『出費』が必要になりますが、これを『富裕階級』『中産階級』が納める税金で補填することで、社会の『所得格差』が緩和されます。

北欧の国家は、高い税率で『福祉国家』を維持しています。日本のモデルとは異なりますが、日本はアメリカほど、ひどい『所得格差』の事態にはなっていません。国によって事情が異なりますから、日本は『日本型モデル』を追究する必要があります。

エッセイの著者が危惧していることは、『物質文明』の発展基盤が、いつまでも続かないであろうということと、発展するとしても、社会の『所得格差』は一層ひどくなるのではないかということです。

そして、もう一つ興味深い視点で、『物質文明の発展』を洞察しています。

それは生物が保有する、『自分に都合が良い立場(ステータス)を主張しようとする本能』という視点です。梅爺流にいえば『安泰を希求する本能』ということになります。

オスのクジャクは、羽を広げてメスのクジャクの関心を引こうとします。これが『自分の立場を主張する本能』による行為で、子孫を残すために自分が他のオスより優れていることをアピールするものです。

サルの群れでは、オスのサルたちは、『ボス』の座を巡って争い、一番強いオスザルがその座を射止めます。『ボスザル』はハーレムの王様のように、メスたちに子供を産ませますから、『ボスザル』の遺伝子は種の『遺伝子プール』の一部として継承されますが、争いに負けたオスザルの遺伝子は、子孫に継承されずに消滅することになります。『強い者』『環境に順応できる能力を保有する者』の遺伝子が、子孫へ継承されていくという、これが自然界における『生物進化』の本質です。

『人間』の場合は、基本的に『誰でも子供を作れる』という価値観が社会に根付いていますから、特定の遺伝子だけが、子孫へ強く影響を与える度合いは『サル』のようには強くはありません。これは『生物進化』の変化が表面化しにくいことを意味しています。

『人間』も生物ですから『自分に都合が良い立場(ステータス)を主張しようとする本能』をも有しています。

この本能が『物質文明の発展』とどのようにかかわるのか、エッセイを読んでいて梅爺も戸惑いましたが、著者の主張は以下のような内容です。

『物質文明の発展』で、多くの人が『便利な道具』『快適な環境』を手に入れることができるようになり、『社会の格差』は緩和される様に見えますが、実は『物質文明の発展』では得られない特別なものを、少数の特別な人たちだけが手にする事態が一層顕著になり、『社会の格差』は、更に助長されるという主張です。、

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2020年1月 2日 (木)

物質文明の進展が抱えるパラドックス(3)

『物質文明の進化』と、その成果を『誰もが享受できる状態』は同次元の話ではありません。前者は『科学』が、後者は『社会経済』が主として関与する問題です。

『物質文明の進化』の成果は、最初は一部の『富裕階級』だけが享受し、やがて『中産階級』や『貧困階級』も享受できるように普及していきます。

この事は『中産階級』や『貧困階級』の人たちの『所得』が増えたからというよりは、成果の入手に必要な『価格』が、『中産階級』『貧困階級』でも購入できるレベルに下がったからという理由で起こります。

勿論『中産階級』『貧困階級』の『所得』を増やすことも重要で、このためには、社会全体の『パイ』を大きくする右肩上がりの『経済成長』が必要という議論になります。仮に『パイ』の拡大が見込めない時に、『富裕階級』の『所得』を削って『中産階級』『貧困階級』へ分配するという考え方も理論的には存在しますが、現実にそれを実現させることは困難です。なぜならば、『富裕階級』の『所得』が多い背景には、『能力』『創造力』『努力』に対する『対価』という側面があり、これを認めないとすると『個人の権利の侵害』となるばかりか、社会全体の『パイ』を大きくする意欲を削ぐことになりかねないからです。社会全体の『パイ』を拡大することに、『富裕階級』の活動が大きく関与しているという実態も無視できません。

これが顕著になっているのが『アメリカ』で、1%の『富裕階級』が、『パイ』の99%を所有していると言われています。

『民主主義』『資本主義』『自由経済』は、このような極端な『所得格差』をもたらすことになりかねないことを示しています。

社会が『個人』の『能力』差を認めると、高い『能力』の人が高額な『所得』を得ることに反対しがたくなります。『著名なスポーツ選手』『人気の高い芸能人』などの『所得』は、『中産階級』の人の感覚からすると、度はずれに高額になりますから、『本当にそんな高額な所得に値するのか』と内心は思いながら、『でも自分にはあのような能力はない』とあきらめ、『別世界の話』と渋々認めることになります。

『中産階級』の人は、必ずしも100%満足しているわけではありませんが、社会の中で自分は『平均』に位置していると考え、『上を観ればきりがない、下を観てもきりがない。現状で良しとしよう』と自己肯定する習性があります。人間も生物として『安泰を希求する本能』を根強く継承していまから、『大満足』でなくても『まあまあの満足』を受け入れようとするためです。

このように『中産階級』は、『大不満』を抱いて爆発する危険性が少ない人たちですから、国家の為政者にとっては、国民の大半に『自分は中産階級である』と思わせる政策が功を奏することになります。

日本は、『民主国家』で、『個人の基本的権利』を認めていますから、『自由が焼く圧されている』というような『大不満』の爆発は抑制されている上に、国民の大半が『自分は中産階級である』と考えていますから、国家としてはまずまずうまくやっている部類に入るのではないでしょうか。

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2020年1月 1日 (水)

梅爺詩集『老いの言の葉』(7)

あけましておめでとうございます。
皆さまのご多幸をお祈りします。

音楽 

目をつむり、情感だけに身を任せて、新しい自分を確認する
それが音楽の世界です
 

「知る」「分かる」必要はありません、「感ずる」ことで十分です

「感ずる」だけですから、何の予備知識も要りません
むしろ知識が邪魔になることもあります
 

音楽が自分の感性に呼び掛けてくるものを
ただ素直に受け止めれば良いのです
 

受け止めた内容を、無理に言葉で表現する必要もありません 

クラシックは難しい
ジャズはうるさい
演歌は品に欠ける
宗教曲は抹香くさい
 

などと、先入観念で決めつける必要はありません

心が震え
懐かしさが蘇り
美しいものが目に浮かび
安泰と安らぎに包まれ
感謝の念が湧き
涙がこみ上げ

そういう自分を見つけたら、「好き」になればよいだけです
「感ずる」前に、「嫌い」ときめつけるのは、もったいない話です

音楽は、我がままに対応して一向にかまいません
気に入らないものは避け、好きなものを愛すればよいのです
他人の言葉や、他人の好き嫌いを気にする必要はありません
 

あなたが音楽を「聴く」人であれば、これで十分です

でもあなたが音楽を「創る」人になりたければ、話はすこし違ってきます

「創る」ことには、才能、たゆまぬ鍛錬努力、知識の習得などが必要です

私たちは、誰でもモーツァルトを「聴く」ことはできますが
誰もがモーツァルトやモーツァルトの曲の演奏家になれるわけではありません

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