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2019年12月31日 (火)

物質文明の進化が抱えるパラドックス(2)

『物質文明の進化』を支えている、『技術』『資本主義』『自由貿易』が、今後も今までのように機能し続けるのかといった『危惧』をこのエッセイの著者は述べています。

次々に、新しい『資源(リソース)』を供給し続けることができるという前提で、右肩上がりの『経済成長』を、日本を始め各国が政治の第一目標に掲げています。

しかし、世界規模で人口は増え続け、一方地球資源は無限ではないことを考えると、『自転車操業』ともいえる右肩上がりの『経済成長路線』は、いつか頭打ちになることが予測できます。

そのような場合には、一定の『パイ』を、皆で分かち合いながら、共倒れにならないように『生きていく』ことが理想的ですが、『自分の都合を優先する本能』が根強く支配する人間が、そのように振舞えるかどうかは極めて疑問です。

現に、『アメリカ・ファースト』などと公言してはばからないアメリカ大統領が出現していることを考えると、『パイ』の分かち合いどころか、見苦しいぶんどり合戦が顕著になりそうな気配です。

あれほど『資本主義』を嫌っていた『社会主義』の中国も、経済成長でしか国家運営は支えきれないと判断し、経済政策に関しては、『グローバル・スタンダード』と呼ばれる、『資本主義』『自由貿易』を基盤とする考え方を導入しました。

『民主主義』との相性の良さで、成立してきた『グローバル・スタンダード』を、経済行為に関しては遵守しなければならないという『矛盾』を中国がどのように克服するのかは、予測が難しいことですが、『グローバル・スタンダード』の導入と一緒に、中国へ流れ込んでくる『民主主義』的な『考え方』は、中国政府の『頭痛のタネ』になり続けるのではないでしょうか。経済政策で富裕になった中国の人たちが、観光旅行で日本を訪れた時に感ずる自国とは異なった『自由の居心地の良さ』も、やがては『社会主義』への疑念を抱くことにつながっていくのではないでしょうか。

永く英国の統治下にあった『香港』の人たちは、『民主主義』を既に体験していますから、『香港の民主化運動』は、中国にとって対応が易しくないのは当然です。

『香港』のデモ隊が着用している『マスク』が、『国家反逆』の象徴であると勘違いしたのか『マスク禁止法』などという子供じみた嫌がらせ対応策を取ろうとする、中国の焦りが伝わってきます。

『個性的』な人間にとって、『個性』の主張は本能的な欲求です。これを抑制する『社会主義』は、国民に対して『個性を抑制した方が、国益上有利である』つまり、『個の都合より、全体の都合を優先した方が、全体は有利であり、それは個にとっても結局有利になる』ことを説得し続けなければなりません。この説得は『理』で行われる行為ですが、『個性を主張したい』という欲求は『情』が絡む行為ですので、『理』で『情』を抑え込むことが求められることになります。これは『嫌いなもの(情)』を、『好きになるべきだ(理)』と説くようなことですから、非常に難しい話です。この根源的な問題を『マスク禁止法』で解決できるはずがありません

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2019年12月30日 (月)

物質文明の進化が抱えるパラドックス(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の102番目のタイトルは『The Paradox of Material Progress(物質文明の進歩が抱えるパラドックス)』で、著者はスイス在住のジャーナリスト『Rolf Dobell』です。

エッセイは、著者が著作権を専門に扱う友人の弁護士の邸宅を訪ねた時のエピソードから始まります。

邸宅は、景観に富んだチューリッヒ湖畔にあり、著者は友人の案内で、邸宅内を見学して回ります。各部屋には、最新の電化製品が装備されていて、それらは、全て『iPad(タブレット無線端末)』から、無線操作できるようになっています。凝った内装の『サウナ風呂』もあります。最後に『我が家の写真ギャラリー』と称する写真を飾った専用の部屋に案内されます。そこには、『ヨット』『スキー』『ゴルフ』『テニス』『乗馬』を楽しむ家族の写真に加えて、友人が『ローマ法王』に謁見している写真も得意げに掲げられています。

友人は、『これらは物質文明の進歩が可能にしたもので、やがて誰もが所有できる時代がくる』と話します。

要するに、この友人は『物質文明の進歩』を享受している『金持ち』であることが分かります。

このエピソードを元に、著者の『物質文明の進化』に関する洞察が始まります。

ここでいう『物質世界の進化』は、近世以降幾何級数的に増加した『科学知識』を元に、『技術』が創出した人工的な『モノ』や『エネルギー』が、人類に『快適』『便利』をもたらしたことを意味しています。

『技術』のほかに、『資本主義』『世界規模の自由貿易』などの仕組みが、『物質文明の進化』を支える要因になっています。

『科学知識』ばかりではなく『知識』を継承、普及させることに、『情報の記録』が関わっていることは当然です。

太古の人類から、『言語』能力は保有していましたが、『文字』を発明するまでは、『情報』の継承、普及は『口伝えの記憶』に頼っていました。このような手段に頼っていた時代は、多くの『情報』は、継承されずに『消滅』してしまったことになります。

この事態は、『文字』の出現で改善されましたが、『手書きコピーの作成』は、効率の悪い方法でした。

やがて、『版木』を用いて『複数のコピー』を作り出す方法が普及し、環境は改善されましたが、何といっても『グーテンベルク』が『活版印刷』の方法を発明したことが、文明の進展に大きく寄与することになりました。

日本人が『活版印刷』された西欧の書物の存在を知ったのは江戸時代後期のことで、自ら『活版印刷』で書物を商用に出版するようになったのは、明治以降のことです。

現在では、電子記録を用いた『情報』が、『インターネット』などで『共有』されるようになりました。人類の『情報共有環境』が、大きく変わったのは、最近のことといって良いのではないでしょうか。 

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2019年12月29日 (日)

江戸の諺『手分けする』

江戸の諺『手分けする』の話です。仕事を分業でこなすという意味で、現在でも使われる表現です。

『手』は、人間の身体の中でも、生きていくための様々行為にかかわる部位ですから、用語や諺で引用されることが多いのは当然です。

『生物進化』の過程で、『ヒト』が『二足歩行』を選択し、『手』『指』を歩行以外の目的で利用し始めたことが、『文明』を構築できるような高等生物に変貌していった、重要な要因であると、多くの人類学者が指摘しています。

しかし、『二足歩行』の選択が、偶然であったのか、何かの必然が関与していたのかは判然としていません。『二足歩行』には『利点』があると同時に、『欠点』もありますから、『利点』だけを取り上げて、それを必然の要因にはできません。

『脳』の機能の高度化が、『ヒト』の特徴の一つに挙げられますが、『脳』の高度化と『二足歩行』がどのような相関を持つのかも判然としていません。

いずれにしても『手』『指』を、多様な目的に使えることが、『ヒト』を『ヒト』たらしめている大きな原因であることは間違いありません。

『芸術』は、高度な『脳(精神世界)』が基盤になっていますが、『手』『指』の機能が伴わなければ、成り立ちません。

私たちは、遠い祖先が、偶然であれ必然であれ『二足歩行』を選択してくれたことに感謝しなければなりません。

私たちは、『人が二足歩行をするのは当たり前』と疑念を抱いたりはしませんから、『神』という抽象概念を『精神世界』で抄出した時に、『神も二足歩行である』ことにも疑念を抱かなかったのでしょう。梅爺は『四足歩行の神』などという表現は、絵画や彫刻の中で出会ったことがありません。『神が人を創った』のではなく『人が神を創った』と考える、一つの間接的な証拠のような気がします。

高度な『手分け』を実現したのも、生物種として『ヒト』の特徴です。

私たちの『文明』においては、多様な『専門の職業』で社会を構成しています。誰もが『自給自足』するよりは、『分業(手分け)』の方が、社会全体として効率が良いことが背景にありますが、一方、『支配者』『被支配者』といった区別や、『上流社会』『庶民』といった区分けも出現しました。

『専門の職業』が成り立つのは、同時に『貨幣制度』という、共通価値基準を人々が共有できているからです。『貨幣価値』という抽象概念を、『主観の共有』できる能力が、人類の『文明』になっているという指摘は説得力があります。

約7万年前に、『ホモ・サピエンス』は、『抽象概念の価値観を共有する能力』を保有するようになったと言われています。これが『主観の共有』を可能にし、『神』『国家』『貨幣』などといった抽象概念を、現在にまで継承してきた要因になっています。

生物種の中で、高度な『主観の共有』ができるのは、『ヒト』だけです。

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2019年12月28日 (土)

江戸の諺『髪結を伏せる』

江戸の諺『髪結を伏せる』の話です。現在では全く使われていない表現で、何のことか分かりにくいのですが、原典(諺臍の宿替)に掲載されている小噺から推察すると、『野放図に放っておくと、手に負えないことになるので、ある習慣を取り決めて、定期的に対応する』というような意味らしいと理解しました。

毎月一度は『髪結(床屋)』へ行って、散髪してもらわないと、髪がボサボサに伸びてしまって手に負えないことになるので、毎月決まった日に。『髪結』を拘束して(伏せて)、髪を整えてもらうというような内容の小噺が載っています。安い賃金で、そのようなことを強いられてはたまらないという『髪結』の愚痴が述べられています。

『伏せる』は、無理やり拘束して従わせるというような意味なのでしょう。『説き伏せる』などという表現が今でも使われています。

何か困ったことが起きたら、その時対応するか、予測できる困った事態には、それを避ける『習慣』で対応するかは、人によって異なります。

『習慣』を苦痛と受け止めずに、受け入れることができる人と、『習慣』を拘束と感じて苦痛に感ずる人がいるからでしょう。梅爺は、どちらかというと後者のタイプで、『子供の時にどのようなしつけを受けたのか』と、梅婆からしょっちゅう非難されています。

一言で言ってしまえば、『ずぼら』な性格ということになりますが、敢えて自己弁護するなら、『こうすれば、こうなる』という『因果関係』が分かってしまった時点で、その『因果関係』に興味を失ってしまうという『性格』が背景にあるように思います。

有無を言わせず、命令に従えと言われると反発するのも、この『性格』によるものでしょう。

逆にいえば、『因果関係』が分からないことには、異常なほど『好奇心』を抱くということになり、『こういうことではないか』と、勝手な想像を巡らせることになります。

『梅爺閑話』は、その勝手な想像のオンパレードで成り立っています。

予測できる将来の不都合な事態を避けようとするのは、人間に『予測能力』があるからで、この能力は他の生物よりも優れているように見えます。しかし、この能力ゆえに、『想像による心配事』を自ら作り出して『悩む』というようなことにもなります。

都合のよいことを『想像』して、楽観的に対応できる人と、都合の悪いことを『想像』して悲観的になる人が世の中にはいます。『精神世界』が『個性的』であるからです。

悲観的な人は、それが原因で体調を崩すことにもなりかねませんから、健康のために『笑顔を絶やすな』などと、よく言われます。『心』と『身体』は、地続きであるということを考えると、ごもっともな話ですが、『能天気な楽観』だけで、世の中は渡ってはいけません。

楽観的な人が、健全でいつも得をするとは限らないからです。

『楽観』と『悲観』に翻弄されながら、時に『有頂天』になり時に『打ちのめされて』生きていくのが『人生』ではないでしょうか。

多くの賢人が、『悪い状態を常態と思え』と説いているのは、その方が『良い状態』への感謝の気持ちがつのるからなのでしょう。

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2019年12月27日 (金)

江戸の諺『臍くり』

江戸の諺『臍くり』の話です。これは『諺』というより、『用語』ですが、表現に諧謔味があるためにこの本(諺臍の宿替)に載せられたのでしょう。こっそり金を隠し貯める行為を指す言葉で、現在でも使われます。

語源として有力なのは、『綜麻(へそ)』を繰って貯めたお金を意味する『綜麻繰り金(へそくりがね)』から転じたとする説です。『綜麻(へそ)』は、紡いだ麻糸を環状に幾重にも巻きつけた糸巻きのことで、『苧環(おだまき)』とも呼ばれます。女が、残り物の麻糸を紡いで『綜麻(へそ)』にし、それを金に替えて、こっそり『おこずかい』にしたということなのでしょう。同音語の『綜麻(へそ)』が『臍』に転じたという説です。

人類が考え出した社会の特筆すべきしくみの一つが『貨幣制度』です。『モノ』や『サービス』の価値を、『貨幣価値』に換算して取引するシステムで、最初は、原価価値が実感できる希少な『金』『銀』『銅』などのが、『貨幣』の素材として使われました。

一度『モノ』や『サービス』の価値を、共通の価値単位に替えるという発想は、それ以前の『物々交換』の仕組みに比べると、格段に効率が良いものになりました。

しかし、やがて素材を『紙』とする『紙幣』が登場し、現在ではそれが主流として流通しています。『千円札』も『一万円札』も、素材の原価は似たりよったりの安価なものですが、私たちは、それぞれに『千円』『一万円』の『価値』があると、思いこんで(信じて)対応しています。

『貨幣制度』は、抽象的な『価値観』を、人々が共有して受け入れることで成立する仕組みです。この『主観(価値観)の共有』という高度な能力は、生物の中で『ヒト』だけが保有するもので、人類が『文明』を築いてきた『基盤』ともいえるものです。

『神』や『国家』などという抽象概念も『主観の共有』の代表例です。『芸術』も『主観の共有』が無ければ成り立ちません。

『主観の共有』で、『ヒト』は、見ず知らずの多数の人たちと連帯意識で共存できるようになりました。限定された顔見知りの人たちだけで構成されていた古代の人類の『コミュニティ』は、やがて『国家』『帝国』『連邦』などの大規模なものに代わりました。

『貨幣制度』を成立させるためには、『システムを保証する権威』が必要になります。『金貨』に『アレキサンダー大王』や『クレオパトラ』の『顔』が刻印されているのは、『金貨』の『価値』が、『権威』によって保障されていることを人々に知らしめるためです。

現在でも『国家』が、『貨幣システム』を保証する母体となっているのはそのためです。母体の『権威』が崩壊した時に、『貨幣システム』は悲惨なものになるのは当然で、人類の歴史にはこのような悲劇が何度もありました。

『職業の分化』も『貨幣制度』が無ければ、出現しなかったことでしょう。

こっそり自分だけで自由に使える『臍繰り』を貯めようとするのは、『精神世界』で『安泰を希求する本能』が働くからです。しかし『臍繰り』が『バレた』時に生ずる。『絆の失墜』という別の問題がありますから、ややこしい話になります。

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2019年12月26日 (木)

江戸の諺『夢に屁ふむ』

江戸の諺『夢に屁ふむ』の話です。これは現在ではあまり使われない表現で、原典(諺臍の宿替)に載っている小噺を読んでも、何を比喩の対象にしているのかは、良く分かりません。

『屁をふむ』は、『屁』をしてしまってから、あわててそれを『踏みにじり』、自分が犯人ではないふりをしようという、『体裁を飾る』行為であるとすると、夢の中で『屁をふむ』のは、『体裁』を飾ってみても意味のないことですから、『無意味な行為』と嘲笑しているのか、それとも夢の中でも『体裁』を飾ろうとする『見栄っ張り』を嘲笑しているのか、どちらかであろうと梅爺は類推しました。

自分が仕出かしてしまった『不都合な行為』を、何とか隠匿しようとする心理も、昨日の『肩で風切る』と同様『精神世界』の『安泰を希求する本能』が関与しています。

幼児も『ボクそんなことをやっていない』と『嘘』をつきますから、この本能は極めて根強いものです。

告発された大人も、『記憶にございません』などと、しらを切って、逃げのびようとしますが、周囲の人の疑惑は一層深まることになるだけです。

『屁』とか『糞』とかの、実態は近世以降『科学』が明らかにしましたが、それ以前の人たちは、誰もが体験する明らかな事象として捉えていただけのことです。

『太陽』とか『月』に関する『科学』が解明した実態は知らなくとも、『太陽』や『月』が明らかに存在する事象であることは承知していたのと同じです。

『科学知識』があれば、それなりの利益は享受できますが、それが無くとも生物は基本的に生きていけます。人間も基本的には同じです。

『科学知識』が無くても、直感的に『屁』や『糞』は、『臭い』『穢(きたな)い』ものであると『感じ』ますから、人や状況を罵るときに、『くそっ』とか『くそったれ』とか『くそくらえ』などと比喩の表現に使いました。英語の『Shit !』ほぼ同じ表現として使われます。

ただ江戸の人たちは『人糞』が、肥料になることを経験でえた『知恵』として知っていたことになりますから、人間の『知恵』は馬鹿にはなりません。太古の人類も多くの『知恵』を活用して生きていたに違いありません。『知恵』の中には『精神世界』が考え出した根拠のない事柄も沢山含まれています。

そしてそれらの一部は、現代社会にまで継承されているものもありますから、一度人間社会に根付いた『共通認識』は、なかなか簡単には消滅しません。

『神』『あの世』『不滅の霊』などの抽象概念は、代表的な例であろうと梅爺は考えています。何故これらの概念が、現代にまで継承されているのかは、これらが『心の安らぎ(安泰)』の獲得と関連しているからなのでしょう。

しかし『科学』は今や『心の安らぎ』の実態も解明の対象にしつつあります。それでも『ホルモン』で『心に安らぎ』を安直に得るというようなことが、人間にとって適切なことかどうかは、別の問題です。

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2019年12月25日 (水)

江戸の諺『肩で風切る』

江戸の諺『肩で風切る』の話です。現在でも使われる表現です。モノが動けば風(空気)の抵抗を受けますが、それをものともぜず『颯爽と進む(歩く)』様子から、『権勢を極める』『世の中怖いものなしと威張り散らす』『得意絶頂の様子で振舞う』などの意味になります。

英語では『有能な人物』は『something』、『無能な人物』は『nothing』と表現されます。

人間の『精神世界』の根底には『自分の安泰を希求する本能』があり、自分が他人と比べて優位な状態であるかどうかを確かめようとします。

元々、生物が『何ものか』に遭遇した時に、自分が生き残るために(安泰を得るために)『闘う』『無視する』『脱げる』のいずれかの行動をとるための本能的な『判断』機能が。私たちの中にも継承されているからと梅爺は考えています。

自分は『something』であり、相手は『nothing』であると判断した時に得られる『安泰』が『優越感』です。

ところが厄介なことに、判断はその人の『価値観』で行われますから、客観的な尺度を用いた比較ではありません。『優越感』を得るために、自分に都合のよい『因果関係』を考え出して、相手を貶(おとし)め、何とか『優越感』を手に入れようとします。自由奔放に『因果関係』を創出するのが『精神世界』の特徴です。

自分が『美人』ではないと内心『劣等感』を持っている女性は、『美人』に対して『あの人は美人ですが、他人への思いやりがない身勝手な人です』と述べ、『自分は美人ではないが、他人への思いやりは深い(人間にとってはその方が大切なことだ)』と自分に言い聞かせて『安泰(優越感)』を得ようとします。

『学歴』などで内心『劣等感』を持っている男性は、『高学歴(有名大学出身)』の人に対して『あの人は、頭が良いかもしれないが人付き合いが悪く愛相がない』などと述べ。相対的な『優越感』を確保しようとします。

有名人の『スキャンダル』に私たちが群がるのは、『優越感』を確保するのに格好の材料であるからです。『他人の不幸は蜜の味』などという心理も、これによるものです。

『肩で風切る』のも、自分の『権威』を誇示する姿勢ですから、客観的にみると、『虚勢を張っている』『空威張りしている』ことが多いので、江戸の人たちは、『肩で風切っている人』を、『やっかみ』や『蔑(さげす)み』の目で観ていたのではないでしょうか。

つまり、『nothing』が『something』のように振舞っている様子を『笑い(諧謔)』の対象としていたのでしょう。人間の本性を、鋭く感じとっている江戸の人たちの『諧謔』精神は、梅爺の好みです。

面白いことに、『something』の人は、自分を『nothing』であると思い、『nothing』の人は、自分を『something』であると思うという習性があります。

自分を『客観視』できるのは、『理性』に富んだ人で、そのような人は『実るほど頭を垂れる稲穂かな』ということになり、決して『肩で風切る』ような振舞いはしません。

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2019年12月24日 (火)

『本質』に迫る(4)

英語では『難問を打開する』ことを『ブレーク・スルー(break through)』と言います。このエッセイの著者は、従来の視点でしか物事を考えることができない『普通の人たち』では、世の中の難題の『ブレーク・スルー』は無理で、全く新しい視点で斬新な発想ができる一部の人たちでないと『ブレーク・スルー』は可能にならないと述べています。

英語では、全く新しい視点で全てを見直すことを『パラダイム・シフト(paradigm shift)』と言います。

人間社会で、斬新な発想で『パラダイム・シフト』を実現させることは容易なことではありません。世の中の大半を占める『普通の人たち』は、斬新な発想の価値を認める能力を欠いていて、変化を阻止しようとするからです。

それでも、『賢明なリーダー』の辛抱強い説得や、外部からの有無を言わせぬ圧力で、『パラダイム・シフト』は起こります。『文明』の飛躍は、多くの場合『パラダイム・シフト』が背景にあります。

日本は近世以降、『明治維新』『第二次世界大戦敗北後の民主国家への変貌』という2度の『パラダイム・シフト』を経験してきました。

日本の精神文化の中に、『不易と流行』という矛盾した概念を寛容に受け入れる習性があり、これが『パラダイム・シフト』に比較的混乱なく対応することに貢献しているのかもしれません。

『不易と流行』は、現状を認めながら、現状に批判の目を向けるという矛盾した行為ですが、人間にとっては、むしろこれが健全な対応ではないでしょうか。『現状がベスト』『これが正しい』と決めつけ、一切の批判を許さないという体制は、人間の『精神世界』の自由を奪うことになり、健全とはいえません。

一部の人たちの斬新な発想で、『世の中の難問が一気に解決する』というような印象をこのエッセイが読者に与えていることに、梅爺は少し抵抗を感じます。

現実は、『大きな改善が期待できる』なら大変結構という程度のことではないでしょうか。

もう一つ梅爺が抵抗を感じたのは、斬新な発想を検証する手段として『科学的手法』を駆使すべきという主張です。

『科学的手法』を判断の手段として用いることは、重要なことであり、この事自体を梅爺は批判するつもりはありません。

特に、『物質世界』の事象を『予測』する時には有効です。『台風の進路』をスーパー・コンピュータのシミュレーションで『予測』することは、災害の被害を抑える上で、重要な役割を演じます。

しかし、今まで述べてきたように、人間の『精神世界』が絡む、世の中の事象は、そもそも普遍的な判定基準がないわけですから、この『予測』を、コンピュータにお願いしようという考え方事態に無理があります。

人間に判断できないことを全て『AI(人工知能)』にお願いし、人類の行く末を決めてもらおうと発想は危険です。

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2019年12月23日 (月)

『本質』に迫る(3)

世の中の大半の事象には、『普遍的に真偽や正誤を判定する基準がない』理由は簡単で、人間の『精神世界』が判断の基準にする『価値観』には、『情』の要因が混入するからです。『情』は基本的には『自分に都合が良い(好き)』か『自分に都合が悪い(嫌い)』かを、直感的に判断する能力で、定性的な相対比較しかできません。真偽や正誤を判定するには、普遍的な尺度が使える『理(ルール)』が必要です。

梅爺の『情』は『戦争が悲惨な経験を個人にもたらす』ことは承知していますから『戦争は嫌い』ですが、日本が外国から不当な武力侵略を受けたとしてら、『反撃する』ことを肯定するに違いありません。つまり『戦争は正しくない』という論理命題さえ、普遍的に『真』であるとは言えないことになります。

『情』も『理』も、人によって能力差がありますから、『精神世界』は『個性的』であることになります。この能力差は、統計的に観れば『正規分布』していると類推できますから、中心部を占める大半の人は、厳密には『個性的』ですが、マクロに観れば『類似』していることになります。したがって、私たちは、『他人』も、『自分』と同じように『考え』『感じて』いるであろうと錯覚します。

肉体が『個性的』であることは、容貌や体格から理解できますが、『精神世界』も『個性的』であることの意味や、重要性を私たちは見落としがちになります。

人間が『個性的』であるのは、生物として両親の遺伝子を、偶発的な組み合わせで継承することに由来します。『人間は平等である』という主張は、『基本的人権』という抽象概念を前提に成り立つ話で、実際には『人間は平等に作られていない』ことは明白です。

更に厄介なことに、『精神世界』では、『生まれつきの資質(遺伝子で決まる)』と、『生後の体験、経験で獲得する資質』が組み合わされて『価値観』が発現しますので、『個性的』の背景は非常に複雑になります。

本来『個性的』であるメンバー(個人)が集まって、『社会』が構成されますから、『社会』を統治する為の『価値観』と、個人の『価値観』をどのように調整するのかが、重要な問題になります。

人類は、この調整のための便宜的な方法を、色々考案し適用してきましたが、普遍的に適用できる方法は見出していません。『憲法』『法』『倫理』『道徳』『イデオロギー(政治経済の基本的なし指針)』など、全て試行錯誤で見出した便宜的な方法です。

『宗教』は、『普遍的に正しい神に判断を仰ぎ、人間はそれを信じて受け入れる』ということで、この問題に対応してきました。しかし『普遍的に正しい神』の存在を証明する方法はなく、現代では、『神は人間の願望が生み出した抽象概念である』と考える人たちが、増えつつあります。梅爺の拙い『理性』で考えても、その方が矛盾が少ないと感じています。

このように考えてくると、人間社会が抱える『難問』への対応は、試行錯誤の便宜的方法しかなく、『魔法のように一気に解決する斬新な方法』など、存在しないと考える方が自然であるように思います。

勿論、試行錯誤による便宜的な方法にも、効果が大きいもの小さいものの差がありますから、その意味で『斬新なアイデア』は必要になります。

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2019年12月22日 (日)

『本質に迫る』(2)

このエッセイでは、『斬新な発想』の例として、学童に無償で『iPad』のようなタブレット・モバイル端末を配布する案を提示しています。

この端末は、どこからでも『クラウド』と無線接続でき、多くのサード・パーティの『ソフトウェア会社』が、学童がゲーム感覚で学べる新しいタイプの『教育ソフトウェア』を提供する可能性を述べています。

新しいタイプの『教育ソフトウェア』とは、『多様な仮想教室に参加できる』『問題解決の方法を教える』『必要な知識を検索する方法を教える』『機密にどのように対応するかを教える』『インターネットの長所、短所を教える』などで、これらは従来の『学校教育』の内容より、子供には役立つものであると述べています。

この端末は、壊れにくいような設計になっていて、基本的には『同じ仕様』の『コモデティ(標準商品)』ということになれば、『盗み』の対象にはならない(盗む価値がない)とも述べています。

従来の『学校教育』システムと、この『端末』を併用するのかどうかは書いてありませんが、アメリカ政府が『教育』に費やしている国費は膨大であることを指摘しているところをみると、従来の『学校教育』システムを止めて、この『端末』方式に切り替えた方が、経費節約になり、むしろ教育効果は大きいと主張しているようにも見えます。

著者が『ソフトウェア』の専門家で、『ソフトウェア』の潜在能力を高く評価しているのかもしれませんが、従来の『学校教育』は『勉強の場』であるばかりではなく、『先生や友人との接触の場』であり、大人になった時に必要な、『人間関係(絆)』の基礎能力を身につける訓練の場でもありますから、『端末』が『学校教育』の代替になると考えるのは危険です。人間は『生物進化』の過程で、『絆』は直接接触することで得られるものであるという感覚を本能的に継承していますから、『インターネット』や『SNS』からは、真の『絆』は得られません。

人間社会は、『人間同士の直接接触』を必要要件として構成されています。『家族』も『恋愛』も『直接接触』で『絆』や『満足』が得られます。

上記の『教育端末無償配布』のアイデアに、異論を述べることが梅爺の主旨ではありません。

梅爺が反論したいのは、『世の中の一部の賢者たちとそれを補佐する科学的手法』が、現在私たちが抱えている社会的難問を、一気に解決する斬新な発想を提供するという考え方に対してです。

『斬新な発想』を自由に表明できる社会体制は重要であり、それが抑制される環境は好ましくないのは当然ですが、『難問が魔法のように一気に解決できる方法が存在するはずである』という前提が、人間の本質理解を欠いていると感じます。

『凡人』には思いつかない解決法を『賢人たちや科学手法』なら編み出してくれるという期待は、『人間』には不可解なことを『神』なら解決してくださると期待するのと似ています。端的に言ってしまえば、梅爺は『世の中の大半の事象には、普遍的な真偽の判定基準が存在しない』と考えた方が現実的であると考えています。

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2019年12月21日 (土)

『本質に迫る』(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の101番目のタイトルは『Close to the edge(本質に迫る)』で、著者はソフトウェアの専門家でて哲学者の『Kaikruse』です。

『Close to the edge』は『限界に近づく』というような意味にもなり、『本質に迫る』とともに、どちらもエッセイの主旨から逸れていないので、迷いましたが『本質に迫る』を採りました。著者の本意は『限界に近づく』かもしれません。

このエッセイは、現代社会の大半の問題が、非常に複雑で多様な要因で構成されているため、専門家と称する人たちを集めた討議、政府や官僚の従来の陳腐な発想、利益優先の企業やロビイストの発想などでは解決できない『限界に近づいていて』、むしろ、洞察力に富んで『本質に迫る』ことができる、世の中の一部の人たちの、斬新な発想でないと対応できなくなりつつあることを訴えています。

しかし、その斬新な発想は、従来の教育を受けた大半の『普通の人たち』には、理解が難しく、『そのようなことは、現実的ではない』『実現する為には金がかかる』などとネガティブな反論を受けることになるであろうとも書いています。

問題解決を『対投資効果(コスト・パフォーマンス)』だけで観ようとする習性に、私たちはとらわれていますが、人間の行動の原点は、『その解決方法が美しいか』『その解決を生み出す創造性に喜びを感ずるか』といった『芸術』と同じ価値観が、人間の本性には秘められているはずであるとこのエッセイの著者は論じています。

『大富豪』や企業の経営者の全てが、『金の亡者』ではなく、人道的な立場といった、ありきたりの発想というより、社会への貢献、自分と社会の『絆』の確認を優先する本性を保有していることに期待を述べています。

斬新な発想を、検証するには、『科学』の手を借りることが必要になり、『科学』が提供する『Smart Thinking(賢い思考)』『Intelligent Planning(知性的計画)』『Scientific Analysis(科学的分析)』などが重要になるとも書いています。

本来、斬新な発想を担当すべき人たちが、現状では、社会の些事にかかわることを余儀なくされていて、斬新な発想どころか、危惧の種を増やすことに加担しているようにみえるのは、残念なことと書いて、このエッセイを締めくくっています。

現在人間社会が抱える問題の多くは、非常に多様で複雑な要因が背景にあり、従来の延長の陳腐な発想では、解決方法が見つからないという主張には、梅爺は異論がありませんが、一部の『賢者たち』と、それを補佐する『科学的手法』が、『救世主』として斬新な発想を生み出す解決方法であるという主張には、諸手を挙げて賛成しかねると感じました。

そのようなネガティブな反応こそが、『普通の人たち(凡人)』の短所であると言われそうですが、梅爺は『凡人』の一人として、『凡人にも凡人なりの知恵がある』ことを認めていただきたいと念じながら、このブログを書いています。梅爺が『賛成しかねる』と考える理由を、述べてみたいと思います。 

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2019年12月20日 (金)

江戸の諺『口がすべる』

江戸の諺『口がすべる』の話です。これは現在でも使われる表現です。『言わなくてもよいこと、言ってはいけないことを、つい口に出してしまう』という意味になります。

後々後悔することを、つい口に出してしまうという状況を『口がすべる』と表現したのは言い得て妙で、見事な『諧謔』センスを感じます。

『他言は無用』などと念を押されると、反って『言いたくなる』のが人間の心理で、これは、『隠しごと』を罪悪感と感じ、『しゃべってしまう』ことでストレスを解放しようとする場合と、『自分だけが知っている』ことを優越感として示そうとする場合があるのではないでしょうか。

『他言は無用』は、『どうぞ話しなさい』とけしかけているようなものです。

『口がすべる』のは、『脳』がある事象に反応するとき、最初に『情』が機能し、その後『理』が機能するといった、『時間差』があることにも起因します。

分かりやすく言えば、最初は『好き、嫌い』といった本能的な判断を『情』が下し、その後『理』が、その判断が自分を利するものかどうか(都合のよいものであるかどうか)を、あらためて判断しなおそうとするということです。

『情』で涙が出そうになった時に、『男は人前ではやたらと涙をみせてはいけない』という『理』の判断が働いて『涙をこらえる』などということが、このように起こります。

非常に短時間に、『理』で総合判断できる人は、『理性』『知性』に富んだ人で、『賢い人』でもありますが、時によっては『ずる賢い』人とも言えますが、一般論では『頭が良い』人ということになります。

『失言』を繰り返す政治家は。その意味では『知性』や『教養』に乏しい人ですが、このような人を選んだ私たちにも、責任がないわけではありません。

『政治家』に本来ふさわしい人ではなく、『政治家』になりたい人が、結局選ばれることになるのは、『民主主義』の大きな問題点の一つです。

『トランプ大統領』が、アメリカを率いる人物として、トップクラスであるとはとても思えません。梅爺は仕事の現役時代に、アメリカの多くの経営者と接する機会がありましたが、アメリカには沢山の優れた人材『理性、知性に富んだ人』がいると感じていました。

少なくとも、人間社会の『リーダー』になる人は、あるレベル以上の『知性』や『教養』を保有している必要があります。

『脳』の機能として、『情』が先行し『理』が追随するという習性は、『生物進化』の過程で、生物が『情』を獲得したことに起因します。『情』には『脳』の中枢部が多く関与し、『理』は『大脳皮質』という表面部が関与するのはそのためです。『脳』は増築を繰り返した建造物のようなもので、表面部は後から加わったことを示しています。

『情』には色々な情感がありますが、煎じつめれば、『自分の生き残りに有利かどうか(自分にとって都合が良いかどうか)』を判断する機能が基盤になっています。『好き』『楽しい』『嬉しい』『美しい』は、『都合が良い』という判断から派生し情感で、『嫌い』『苦しい』『悲しい』『醜い』は『都合が悪い』という判断から派生した情感です。

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2019年12月19日 (木)

江戸の諺『水かけ論』

江戸の諺『水かけ論』の話です。これは現在でも使われる表現で、互いに自説を主張するばかりで、終わりのない議論のことを意味します。

語源は定かではありませんが、狂言『水かけ婿(むこ)』に由来するという説があります。この狂言は、隣り合わせに田んぼを持つ、舅(しゅうと)と婿が、日照りの時に、自分の田んぼに優先的に水を引こうと争いになり、お互いが顔に水を掛け合うという話です。

逆に『水かけ論』から『水かけ婿』という狂言が創られたという説もありますので、語源は分からないというのが正しいのかもしれません。

西欧で『水かけ論』に当たるのが『神学論争』で、『神は存在する』と主張する人と、『神は存在しない』と主張する人の論争は、果てしないことを揶揄する表現になっています。

江戸の人たちが、何故『水かけ論』のようなことが起きるのかについて、洞察できていたのかどうかは分かりませんが、『水かけ論』が『不毛』であることは理解していて、『諧謔』の対象にしたのでしょう。

世の中のことは、なんでも『正しい』『間違い』と区別できると、多くの方が『誤解』されているように梅爺は感じています。学校のテストには必ず『正解』があるということが『誤解』の種ではないかと思ったりします。

国会で、与党と野党が『あなたは間違っている(私が正しい)』と単純に主張しあうために、国民は『どちらが正しいのだろう』と困惑し、結局『政治評論家』の意見に頼ろうとしたりします。

残念なことに、人間の『精神世界』の価値観が絡む事象の大半は、『正しい』『間違い』の判断はできません。つまり世の中の大半のことは、『正しい』『間違い』を普遍的に決める証拠や判断基準がありません・

しかし、この事は『自分の意見』を言ってはいけないということではありません。むしろ大いに『自分の意見』は主張すべきです。『精神世界』の価値観は『個性的』ですから、ある人がどのような『考え方、感じ方』をしているのかを周囲が『知る』ことは重要なことであるからです。ただし、『私はこれが正しいと思う』ということは、『私が正しい』と主張することではありません。多くの方がこの区別ができないために、『私はこれが正しいと思う』『だからこれが正しい』『それを認めないあなたは間違っている』と論理飛躍をします。世の中で諍(いさか)いが絶えないのも、『水かけ論』が果てしなく続くのも、これが原因です。

梅爺は個人的には『独裁主義』『社会主義』よりも『民主主義』の方が『好ましい』と思い、その理由を述べることができますが、それでも人間社会の基盤システムとして、『民主主義』だけが『正しい』と証明することはできません。

人間の『精神世界』の価値観が『個性的』である以上、私たちは、自分の周囲に自分とは異なった『価値観』の人が存在することを『認める』必要があります。

人間関係で『忍耐』と『寛容』が、重要であると言われるのはそのためです。自分の『価値観』を表明し、他人の『価値観』の存在も認めるということは易しいことではありません。

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2019年12月18日 (水)

江戸の諺『けんびきが肩越す』

江戸の諺『けんびきが肩越す』の話です。これは梅爺には何のことかさっぱり分からない表現で、原本に載っている関連する小噺を読んでも、良く理解できませんでした。

調べてみると『けんびき』は現在でいう『肩こり』のことで、時にはそれに関連する『按摩(目の不自由な人)』の意味にもなることが分かりました。

間違っているかもしれませんが、『けんびきが肩越す』は、『肩こりが、肩にとどまらず首のこりにまでなる』ということで、『悪い状態が一層悪くなる』というような例えなのかなと解釈しました。

『状況が次から次へと悪くなる』というようなことは、人生で経験することで、『負の連鎖』『ヴィシアス・サイクル(悪魔の連鎖)』などと表現されます。

そこそこ強い野球やサッカーのプロ・チームが、負け始まると連敗がなかなか止まらないというようなことは良く起こります。

立て続けに台風に襲われるなど、単なる『自然現象』で不運が続くことは、人間の力ではいかんともしがたいことですが、野球やサッカーのチームの『連敗』は、人間の『精神世界』が関与するために、対応が難しくなります。

『失敗を避けたい』と強く思えば思うほど、行動が消極的になり、大胆な行動ができなくなって、結果はむしろ悪いことになってしまうということがあります。

野球では、投手も野手も『全体としては力を抜いて、一点だけに力を込める』ことが大切と言われますが、緊張やストレスで、不必要な力みが悪い結果を誘発することになります。投手は、『ホームランを打たれてもよい』と割り切った上で、思い切って打者を攻めたり、打者は、『狙い球を決めてそれをしとめる(狙い球がこなかったら三振してもよい)』と割り切った上で、投手に対応した方が、良い結果につながるということもあります。

スポーツでは、このように『技量』や『才能』に加えて、精神状態をコントロールする『メンタル・コントロール』が重要になりますので、コーチ陣にプロの『メンタル・ケア』の専門家を加えることが行われています。

スポーツの世界だけでなく、私たちの日常生活も、『精神状態』から大きな影響を受けます。心が晴れない時には、どうしても『後ろ向き』なことを考えてしまいます。『不眠症』は『負の連鎖』の要因になります。

『肉体』と『心』の連携は、もともと生物として、『生き残りの確率をあげる』ために、生物進化の過程で獲得した能力ですが、それがあるとき、むしろ悪い方へ働いてしまうということですから、厄介な話です。

自分で意識して、明るくふるまう、笑顔を絶やさない、などである程度の対応はできますが、『心の病』にまで発展してしまうと、そう簡単な話ではなくなります。

人間の『精神世界』は、解明ができていませんので、私たちは、手探りで自分の『心』に向き合いながら、試行錯誤で対応していくしかありません。

 

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2019年12月17日 (火)

江戸の諺『頭割り』

江戸の諺『頭割り』の話です。この表現は現在でも使います。人数で均等割りにして勘定を払うことで、いわゆる『割り勘』のことです。

人間一人に頭は一つですから、人数を数える時に『頭数』を用いるのは、自然なことですが、口も一つなので、日本語では『人口』で住民の数を表現します。

貧しい家庭では、家計をやりくりするのに、『口減らし』と称して、家族の数を減らす算段がなされました。男の子は丁稚奉公に、女の子は女中奉公に出すというようなことですが、中には女の子を女郎に売ったり、老人を『姥捨て山』に捨てたりと、悲しいことも行われました。

英語では『hand(手)』が、『人』を意味する時があります。『役に立つ人』というようなニュアンスがあるのかもしれません。

『頭(首から上)』は、その人の象徴であり、戦国時代では、敵将の『首(しるし)をあげる』ことが武勲となりました。また『確かに殺した』ことを示す方法として『首を差し出す』方法が求められ、歌舞伎などには、『首桶』にいれた生首が、小道具としてよく登場します。忠義を示すために、自分の子供の『首』を差し出すなどという、おぞましい話が多いのですが、当時の日本人にとっては、『義理と人情の板挟み』とみて、涙ながらに受け入れる事柄であったのでしょう。世の中の『価値観』は、時代とともに変わるということです。

私たちの数世代後の日本人は、現在の私たちの『常識』を、 『笑い物』にするかもしれません。

頭蓋骨に収納されている『脳』が、『生物』として『生きる』ことの基本制御器官であることや、人間の『精神世界(心)』を生み出す基盤であることが分かってきたのは、近世以降のことです。

それ以前は、むしろ『心臓』が、人間の身体の制御中枢であると考えられていました。愛情を『ハート・マーク』で表現したりするのは、その名残です。

古代エジプトでは、死者の『心臓』を特別の容器に入れて、ミイラとともに葬っています。『あの世』での生活には『心臓』が必要と考えていたのでしょう。

一方、太古から人類にとって、『頭蓋骨(ドクロ)』は、神秘な力を持つ者として、宗教的な儀式などに用いられてきました。

『脳』の重要性を感じとっていたというよりは、『眼腔』が何かを見つめているように見えることに、『神秘な力』を感じとったのではないでしょうか。

現代の『科学』にとっても、『脳』は、未知の領域です。部分的な『知識』は増えつつありますが、『精神世界』を総合的に理解すると言ったことは、ほとんどできていません。

『宇宙』より『脳』の解明の方が難しいと、多くの科学者は認めています。

『脳』の解明を難しくしているのは、『脳』の機能が個性的で、一人一人厳密な意味では異なっているということにあります。私たちにとって『他人を理解する』ことが非常に難しいのはそのためです。

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2019年12月16日 (月)

江戸の諺『飯がもたれる』

江戸の諺『飯がもたれる』の話です。

『飯がもたれる』は、『食べた飯が胃にもたれる(胃の負担になる)』ということで、何事も欲張って沢山所有したり摂取しようとすると、反って重荷(障害)になるということを言いたいのではないかと思います。

日本語としては『飯が胃にもたれる』の『胃に』を省略したもので、『飯』が主語ですが、現在では同じような状況は『胃がもたれる』と『胃』を主語として表現することが多くなっています。しかし、『もたれる』は本来『もたれかかる』という意味の『動詞』であるとすると、『飯がもたれる』の方が論理的なのかもしれません。

現在では『もたれる』の意味が、『負担になる』というような意味に転じているということで、『言葉』は時代とともに変わっていく一つの事例なのでしょう。

梅爺は、若い人が『何気に』という表現を使うのが気になっています。本来は『何気なく』という表現が省略されたもので、論理的にはおかしなことになりますが、多くの人が使うようになれば、『言葉』として通用するようになります。

『大丈夫』という言葉も、使い方が変わってきていて、孫に『人参も食べなさい』といったら『大丈夫』という答えが返ってきて、『食べるから大丈夫』という意味かと思いましたら、『人参はいらない』という意味らしいことが分かってびっくりしました。

『大丈夫ですか』は、本来『何か差しさわりやお困りのことはありませんか』という意味ですが、現在では『よろしいでしょうか』という広い意味に転じていて、場合によって『大丈夫』は『要らない』になるというややこしい話です。

『大丈夫』という答えは、『要る』という意味なのか『要らない』という意味なのかを、『忖度』しなければなりませんから、なにやら誤解が生じそうな気がします。

コンビニで買い物をしたときに、店員から『小銭大丈夫ですか』と聞かれて、一瞬戸惑いました。この場合は、『小銭をお持ちではありませんか(もしお持ちならば当方は、おつりが簡単になって助かります)』という意味らしいことを『忖度』しました。年寄りは『言葉』でも、時代に取り残されていくような気がします。

『飯がもたれる』は『過ぎたるは及ばざるがごとし』というような戒めで、『貝原益軒』も健康のためには『腹八分目』が良いと説いています。

『中庸』を『徳』とするのも、同じ考え方です。沢山所有したい、沢山摂取したいという欲望は、『安泰を希求する本能』に由来する『欲望』で、誰でも持ち合わせていますが、『欲望』に歯止めがかからなくなったり、『過度』が思わぬ弊害を生むことになったりと、不幸を招くことがありますから、『ほどほどが良い』という生き方は確かに無難です。

貧乏人が金持ちに対して、『金が人生のすべてではない』『金で身を滅ぼす』などと言いたくなるのは、『徳』を薦めているというより、『やっかみ』の心理もありますので、『ほどほどが良い』は『持たない』人が自分を慰める言葉としても便利です。

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2019年12月15日 (日)

人間の4つの気質(6)

各『遺伝子』に、その機能を発現させるかどうかを決める『スイッチ』があるということが、いかに大発見であるかは、つぎのよう事例で理解できます。

『ガン細胞の増殖を抑止する』という機能の『遺伝子』の『スイッチ』が『OFF』になっている人は、『ガン』になりやすいということで、この因果関係は臨床実験で判明しつつあります。何故ある人の『スイッチ』が『ON』で、ある人の『スイッチ』が『OFF』なのか、それはいつ『決まった』ことなのかは、まだ分かっていません。

アメリカではすでに、『ガン細胞の増殖を抑止する遺伝子』の、『OFF』状態を『ON』に変える薬が創られ、末期肺ガン患者に適用して、画期的な効果が得られたなどの報告もあるようです。この薬は、あらゆる『ガン』に効果があるのかどうか、梅爺は分かっていませんが、『肺ガン』だけとしても画期的です。

現時点では、あらゆる『遺伝子』の『スイッチ』を自由に操作する方法は、見つかっていません。しかし、将来それが可能になったとしたら、人類は『幸せ』だけを手にするわけではありません。

『命の営み』は、基本的に『物質世界』の『摂理(物理法則、化学法則など)』だけで維持されているということや、高度な『情報処理』の仕組み(遺伝子構造、遺伝子の複写、チェック修正機能、脳のアルゴリズムなど)が採用されているということは、驚くべきことです。結果だけを観れば『神のデザイン』と考えたくなりますが、事実は、『物質世界』で展開されている『変容』が、偶然創出したものであろうと思います。138億年の『宇宙の歴史』、45億年の『地球の歴史』という、永いスパンであるからこそ『偶然』の結果が継承されてきたと考えるべきでしょう。言い換えれば私たちは、『幸運な偶然』のおかげで存在しているということです。主要な『偶然』が一つでも欠けていたら、私たちは存在していないということです。

『脳』の『精神世界』を決めている『アルゴリズム』の詳細、『ヒト』の設計図である『遺伝子』やそれを補佐する『DNA』の詳細を、人類が掌握し、それに人工的な手を加えることが可能になるということは、『ホモ・サピエンス』が『ホモ・サピエンス』でなくなることを意味します。『ホモ・デウス』という本はそのことを論じています。

難病の人を救済するといった、特定の目的で、『アルゴリズム』や『遺伝子』を操作するということに限れば、人類の永年の悩みが解消されますが、普通の人の『気質』や『体格』『容貌』『能力』変えることも可能であるということでもありますので、『ホモ・サピエンス』が永年かけて創り上げてきた人間社会の『秩序』の大半が崩壊することになります。

誰もが『美男美女』『秀才、天才』『長寿』『優れたアスリート』『優れたアーチスト』などという社会は、想像することもおぞましいような気がします。

『科学』がもたらすことの本質を洞察できない『政治リーダー』は、人類を不幸や破滅に向かわせてしまうと、梅爺が危惧するのはそういうことです。

『科学』が『人類を救済する』『快適、便利をもたらす』などとだけ期待するのは、あまりにも能天気な話です。

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2019年12月14日 (土)

人間の4つの気質(5)

人間の『気質』を4つに区分して表現するのは便宜的なもので、『気質』が4つしかないということではありません。

私たちは、『三つの○○』『四つの○○』『八つの○○』『十の○○』などと、区分して表現することを好みますが、それは理解、把握を容易にするための一種の便宜的な手段であって、『それだけが正しい』わけではないことが大半です。高度な論理思考の現れですから、動物の中では人間だけの習性でしょう。

『気質』は、『精神世界』が『アルゴリズム』を利用して行った情報処理の『結果』であるらしいいと昨日書きました。この『仮説』に矛盾がないとするならば、私たちは『脳』が保有している『アルゴリズム』の『正体』を解明する必要があります。

現時点では、『アルゴリズム』が、いつ、どのように形成されるのか、『脳』の中にどのような表現様式で格納されているのか、『脳』の情報処理と具体的にどのようにかかわっているのかは、分かっていません。

これらが解明されることは、人類にとっては画期的なことになりますが、同時に非常に深刻な問題をもたらすことにもなります。

『アルゴリズム』に人工的に手を加えることで、その人の『気質』を変えてしまうことができるということを意味するからです。

この事は『ヒト』の『DNA』の構造、内容が解明されつつあるという状況に似ています。

『DNA』は、4種の『ヌクレオチド(化学物質)』を、情報処理の基本記号(コード)として連結させた高分子物質で、『二重らせん構造』であることが有名です。

『ヒト』の60兆個の『細胞』には、全てその人の『DNA』が含まれています。新しい『細胞』が誕生するときには、『DNA』も複写(コピー)されて継承されます。この複写の時に『転記ミス』が生じないように、『二重らせん構造』がチェック機構として機能しています。

『DNA』の中の2%が、いわゆる『遺伝子』といわれる情報で、2~3万種に分類され、各『遺伝子』が『人体設計図』として機能します。

『DNA』の残りの98%は、従来『無意味なもの』と考えられ『ジャンクDNA』と呼ばれていました、しかし、最近では『ジャンク』どころか、この98%の部分が、『遺伝子の解読』や『設計図の付帯情報』として非常に重要な役割を果たしていることが分かってきました。『鼻を創る』設計図は『遺伝子』ですが、『高い鼻』にするか『低い鼻』にするかは、98%に含まれる情報で決まるというようなことです。

40億年にわたる『生物進化』の過程で、98%もの『不要なもの』が継承されるなどということは不自然ですから、『ジャンク』などと予測した人は、洞察を欠いたことになります。

更に最近、『遺伝子』には、機能を発現するかどうかを決める『スイッチ』があることが分かってきました。従来『遺伝子』の情報内容が『変わる』のは、非常に稀なことと考えられていましたので、『スイッチ』の存在は大発見といえるものです。 

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2019年12月13日 (金)

人間の4つの資質(4)

『精神世界』は、『脳』という『情報処理の場』で、『アルゴリズム(プログラム)』に従って行われた処理の『結果(出力)』として表現されたものである、という考え方は、味気ないように見えますが、説得性を持ちます。

『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』を『脳』に例えれば、『アプリケーション・プログラム(アツゴリズム)』に従って行われた情報出力結果が『精神世界』に相当するという『アナロジー』として理解しやすくなります。

『精神世界』は、独立した世界ではなく、『物質世界』で行われる実態ある事象によって形成されるものであるということになりますので、『物質世界』と『精神世界』は地続きであるということも分かります。

つまり、肉体から離れた『死後の霊』が、永遠に存在し続けるなどという説明は、『理』にかなわないということになります。

『物質世界』で行われる実態ある事象、というのは『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』の場合は、プログラムに従って進行する『電子の流れの制御』のことで、これは『物質世界』の『摂理』である『物理法則』に則った事象のことにほかなりません。もちろん、この事象を行うために『エネルギー』を消費することになります。『物質世界』の事象は必ず『エネルギー』を必要とします。

『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』で作動する『アルゴリズム』は、『基本ソフトウェア』『アプリケーション(応用)ソフトウェア』として、人間が開発し、搭載したものです。『アルゴリズム』も、それが搭載された『ハードウェア』も、『個性的』ではありませんから、『アプリケーション・ソフトウェア』の出力結果も『個性的』にはなりません。

これに比べると『脳』が出力する『精神世界』の場合は、非常に複雑で、『分からない』こともまだ沢山あります。

最大の謎は、『アルゴリズム』はどのように形成されるのかということです。先天的に『遺伝子』が『アルゴリズム』を作り出すことに関与しているであろうということは想像できますが、それ以外に後天的な体験や経験が、『アルゴリズム』を作り出すこともあるような気がします。現時点では『分からない』ことに属しますが、なにやら『個性的』であるにおいがします。

『ハードウェア』にあたる『脳』も、『脳神経細胞ネットワーク』の詳細な構成は、個人によって異なりますから、『個性的』です。『精神世界』の出力結果が、『個性的』であるという特徴を帯びるのはこのためでしょう。『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』の場合とは決定的な違いになります。

『脳』が『アルゴリズム』によって、情報処理を行う時には、『物理反応』『化学反応』という『物質世界』の『摂理』が使われ、当然『エネルギー』の消費も伴います。体重の2%に当たる『脳』が、私たちの『エネルギー』の24%を消費していると言われていますので、『精神世界』を維持するのに、高価な代償が支払われていることになります。

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2019年12月12日 (木)

人間の4つの気質(3)

『精神世界』は、視覚や聴覚で、直接確認できないものですが、私たちは間接的にその存在を『確認』できます。『泣いたり』『笑ったり』するのは『精神世界』のせいであると『感ずる』からです。

『精神世界』は『絶え間なく動的に変容する仮想世界』であり、『生きている人間の脳』が創りだしていると現在では考えられています。

中世の人たちは、『脳』ではなく『心臓』が、『精神世界(心)』を作り出していると想像していました。今でも『愛情』を表現するのに『ハート』の形が使われるのは、その名残です。『精神世界』は、太古から人類にとって、『不思議なもの』でしたから、それに関していくつもの『説明』を『虚構』として考え出してきました。

昨日紹介した『神が人間を創造した時に、人間に精神(Soul)を吹き込んだ』はその一つです。他にも『人間は死によって肉体は滅びるが、心は霊となって霊界(あの世)に帰属し永遠に存在し続ける』『神は生前信仰が厚かった人の霊は、天国に迎え入れてくださる』『天国では悩みも悲しみもなく、ただ平穏に過ごせる』などがあります。

これらは、『そうに違いない』『そうあって欲しい』という人間の『願望(これも精神世界が創りだすものです)』が生み出したものであって、残念ながら『真』であることを立証するすべはありません。受け入れるには『信ずる』という行為が必要になります。

これらの『虚構』は、数千年前から多くの人たちが『信ずる』ことで、人間社会の強固な『主観の共有』として、現在にまで継承されています。

梅爺の拙い『理性』は、『人間の死(脳の活動の停止)によって、精神世界も同時に消滅し無に帰す』と考えた方が、『矛盾』がないと感じます。

『死後の霊』『あの世』『天国(地獄)』などを、信じて『安堵』したいという気持ちもないわけではありませんが、それよりも『矛盾』を感じない『理による論理』を受け入れたくなります。

人間の『脳』は、『物質世界(自然界)』に存在する『実態』ですから、『精神世界』は『脳』があって初めて存在できるものということになります。つまり、『精神世界』は独立した世界ではなく、『物質世界』と地続きで存在していると考える方が自然です。

『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』の電源が切れれば、『アプリケーションが表現する世界は消滅する』ということと同じです。

『脳』は、『パーソナル・コンピュータ』『スマート・フォン』で、『精神世界』は『アプリケーションが表現する世界』という関係になります。

このように、『精神世界』を一種の『情報処理が行われる場』と考えて理解しようとする科学者が増えつつあります。

『脳』には、多種多様な『アプリケーション・プログラム(アルゴリズム)』が収納されていて、入力情報(外部からの刺激、脳内で発生する何らかのトリガー)に従って、『アルゴリズム』が作動した結果が、『精神世界』の出力であるという考え方です。

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2019年12月11日 (水)

人間の4つの資質(2)

人間の『4つの気質』は、Wikipediaでは以下のように説明されています(抜粋)。

● 黄胆汁質(胆汁質、en.Choleric) 荒々しい性格で熱血漢、短気で行動的、野心も強い。気前がいいが傲慢で、意地悪で気難しい面もある。
● 黒胆汁質(憂鬱質、en.Melancholic) 寡黙で頑固、孤独癖があり、運動も休養も社交も好まない。強欲で倹約家、利己的で根に持つタイプ。神経質で自殺傾向がある。注意深く明敏、勤勉で、一人で思索に耽ってばかりいる。
● 多血質(en.Sanguine) 人柄は機嫌よく社交的で、ずうずうしいが気前もいい。先のことは考えず、心変わりしやすい。娯楽が好きで好色であり、教養とは無縁のタイプ。
● 粘液質(en.Phlegmatic) 精神的に鈍く優柔不断で臆病だが、おだやかで公平、人を騙したりしない。

まるで『占い師』のご託宣を聴いているような気になります。誰でも自分のこととして考えると、思い当たることがあるような気になります、梅爺は『強欲で倹約家』『自殺願望』は当てはまりませんが、どちらかと言えば『黒胆汁質』が近いと自己判定しました。

人間の気質は、これ以外にも『内向的/外交的』『積極的/消極的』『楽観的/悲観的』『理性的/情緒的』『夢想的/現実的』『好奇心旺盛/無関心』『情熱的/陰鬱的』『陽気/陰気』などの分類も良く使われます。

人間の『気質』は、人間の『精神世界(心)』の表現の一側面であると言えますが、『個性的』であると同時に『流動的』でもあります。

つまり、梅爺は概して『理屈っぽい』気質ではありますが、時に『情感』に流されて行動する時もあり、時と場合で『陽気』でもあり『陰気』でもあるということです。

若いころの梅爺の『気質』と、現在の『気質』も微妙に変化しています。

結局のところ、『気質』とは何かを考えることは、『精神世界(心)』とは何かということになり、現代の最先端科学でも、全てが解明できていません。

『心理学』『脳科学』『生物分子学』『遺伝学』『情報処理学』などの科学者が、そうがかりで挑戦していますが、一向に全貌が見えてきません。

科学者の多くは、『宇宙』の解明より『精神世界』の解明の方が難しいと述べています。

このように謎に満ちた『精神世界』を、私たちは誰もが保有していて、その強い影響を受けながら『生きている』というのも、『分からないもの』に支配されているということですから不思議な話です。

太古から、人類は、自分が『精神世界』を保有していることを感じとり、その『正体』を知ろうと努力してきました。『分からない』と放置することは、安泰を脅かすストレスになりますから、人々はその時点の『知識』を駆使して『因果関係』を考え出し、何とか納得しようとしました。こういう行動も『精神世界』がもたらすものです。

代表的な例は、『ユダヤ教』『キリスト教』が教える『教義』で、『神が人間を創造し、その時神は人間に精神(Soulを吹き込んだ』というものです。

当時の人にとっては、反論が難しい『因果関係』の提示であり、多くの方がそれを受け容れたために、この考え方は現代にまで『主観の共有』として、継承されています。

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2019年12月10日 (火)

人間の4つの気質(1)

梅爺は、『NHK交響楽団の定期演奏会』の内容を主として放映する、NHK地上波Eテレ(教育放送チャンネル)の『クラシック音楽館』という番組のファンで、録画して観ています。

最近の放送で、首席指揮者『パーヴォ・ヤルヴィー』が指揮するデンマークの作曲家『カール・ニールセン(1865-1931)』の作品『交響曲第二番ロ短調(4つの気質)』を聴いて、主題の『4つの気質』に興味を惹かれました。

人間の気質が4つに分類できるという考え方は、古代ギリシャの医学者『ヒポクラテス』の提示した『仮説』に由来しています。

『ヒポクラテス』は、人間の身体は、4種の体液で構成されていて、それらは『黄胆汁』『黒胆汁』『血液』『粘液』であると考えました。この4つの体液のバランスが取れていれば健康が保たれ、バランスが崩れると病気になるという主張です。

物事の本質を、基本要素に分類して、箇条書き風に提示するというやり方は、『理』を重視する人が好んで採用する方法で、古代ギリシャの『哲学』などは代表例です。『釈迦』もこのような『理』を好む人であったらしく、『釈迦』の教えは、『四諦(4つの真理)』『八正道(悟りに至る8つの方法)』などと、箇条書きで提示されます。

古代ギリシャの『理』を尊ぶ考え方は、西欧文化へ根強く継承されています。『日本』ではどちらかと言えば『理』よりも『情』を尊ぶ文化が根強く、梅爺のような人間は『理屈っぽい』と煙たがられます。

箇条書きで説明する方法は、説得力をもつこともあり、最近では『プレゼンテーション』などで多用されています。

『ヒポクラテス』の『4つの体液』の考え方は、中世のヨーロッパでは、『4つの気質』と関連付けて説明されるようになりました。

『4つの体液』は、現代医学の視点で観れば、現在ではあまり意味を持ちませんが、『4つの気質』の方は、人間の『精神世界』を考える上で、現在でも無意味とは言えません。『心理学』『脳科学』などが研究対象にしていますが、必ずしも全貌は明らかになっているとは言えません。

『4つの気質』のそれぞれの名前は、『4つの体液』に由来していますので、名前自体は重要ではありませんが、その内容は重要な意味を持つということです。

● 黄胆汁質
● 黒胆汁質(憂欝質)
● 多血質
● 粘液質

中世でそれぞれの気質が、どのように説明されていたかは、これから説明していきます。

これを音楽で表現しようとした『カール・ニールセン』の好奇心、教養、感性に興味を抱きました。

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2019年12月 9日 (月)

権力とインターネット(7)

『インターネット』と私たち一人一人がどのように付き合っていくかということについて、やがて新しい『秩序』が醸成されていくことになるのでしょう。一人でも多くの人が、『情報』の内容に責任を負うようになり、一人でも多くの人が、自分で『情報』の信頼性を判断できるようになれば、その社会の『民度』が向上することになります。それは一人一人が『理性』に磨きをかけるということであるからです。

庶民の『武器』となった『インターネット』は、2010年から始まった『アラブの春』と言われる北アフリカの反政府運動(民主化運動)で、絶大な力を発揮しました。政府の不当な武力介入の実態などが、『SNS』を介して全世界へリアルタイムで発信され、民主化運動を支援する『国際世論』が醸成されました。

従来の戦場特派員からの現地レポートなどに比べて、『インターネット』の情報は、迫力が決定的に違っていたことになります。

『インターネット』のこの力を観て、『独裁主義』『社会主義』の国家の権力者は、震え上がったに違いありません。

国内の反政府勢力(民主化運動、民族独立運動など)が『インターネット』と結び付いた時に、体制崩壊につながることを『アラブの春』が実証したからです。

その結果、『独裁主義』『社会主義』国家は、国外から流入する情報、国外へ流出する情報を、厳しく検閲する体制が一層強化されました。もちろん国内で飛び交う情報内容も、厳しく検閲されることになりました。『北朝鮮』『中国』などで、『インターネット』検閲のために働いている要員の数は膨大であり、その組織も巨大であることが容易に想像できます。

国家権力は、国民監視ばかりではなく、『インターネット』を逆に利用して、権力側に都合のよい情報を流しているに違いありません。

まさしく『インターネット』は権力にとって『諸刃の剣』であることが分かります。『権力とインターネット』というエッセイは、この権力の『インターネット』悪用を危惧していることになります。

『民主主義』体制国家にとっても、『インターネット』は不都合の種になることがないわけではありません。国家の主体性を主張する『国境』という概念が、こと情報に関しては、無力化してしまうことです。

『www(World Wide Web)』と言われる『インターネット』は、75億人の地球上の『ホモ・サピエンス』が文字通り共有する情報ネットワークであり、『国家』『国境』という概念は必須の要件ではないからです。

人類の歴史の中で、このような経験は初めてのことです。『インターネット』を介した国際金融決算など、瞬時に資産の移動が行われてしまうことも、『国家』にとっては頭痛の種ですが、国民が『異文化』の良いところを取り込んで、『文化』が徐々にグローバル化していくことも、手放しで歓迎はできない面があるかもしれません。

『権力とインターネット』だけが問題ではなく、『人類の将来とインターネット』が本当に考えなければならない問題なのです。

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2019年12月 8日 (日)

権力とインターネット(6)

現在の『インターネット』は、複数の最先端科学応用技術を包括的に利用しています。『最先端半導体技術を駆使した、高速情報処理、高速通信処理』『デジタル表現で統一されたマルチ・メディア情報処理』『高度なアルゴリズム(ソフトウェア)』などがそれに当たります。

人類の歴史に中で、新しい科学技術の登場は、少なからず人間社会へ影響を与えてきましたが、20世紀以降その影響度は、飛躍的に高まりました。

もはや『科学』は、『政治』『経済』とは別世界の話として、切り離すことができなくなっています。政界のリーダー、経済界のリーダーは、最先端科学の本質を理解する人物である必要があります。

この視点で観ると、日本ばかりか世界の先進国のどの政界リーダーも、時代の要請に対応できていないように見えます。

日本の新閣僚の顔ぶれをみると、『IT担当大臣』には、大臣ポストを順番待ちしていた比較的高齢のか議員が就いています。単なる論功行賞で、『IT』が日本の将来へ及ぼす影響力を洞察し、対応できる人物には見えません。

『インターネット』が人類社会へもたらした影響は様々です。

『庶民』『市民』『国民』が、今まで保有していなかった『武器』を保有するようになりました。誰もが、自分の『考え方』『感じ方』を情報として発信でき、同時に他人の『考え方』『感じ方』を情報として受信できるようになりました。見知らぬ他人と意見交換したり議論することもできるようになりました。『インターネット』上に、新しい『絆』が登場したことになります。『ブログ』『SNS(Social Network System )』の普及が端的な例です。

この意味で、『インターネット』は、『百家争鳴』を是認する『民主主義』との相性は良いことになります。ただし、『民主主義』にも、社会の約束事としての『秩序』があり、各情報発信者は、この『秩序』を遵守するという前提で、情報発信が許されることになります。しかし現実には、『なんでも発信できる』と勝手に思い込んだ人たちが、『核兵器の作り方』『自殺の方法』、過度な『性的描写』『暴力描写』などを『インターネット』へ発信し、社会の顰蹙の対象になっています。何よりも『根拠のない情報』『偽情報』も沢山『インターネット』に出回りますから、情報を鵜のみにする人には、厄介な状況が発生しがちです。

『信頼できる情報』と『信頼できない情報』が、『インターネット』の上を飛び交い、むしろ数としては後者の方が圧倒的に多いと思われますので、対抗手段は私たち一人一人が、『情報』の真偽を判断する能力を高めるほかありません。

『インターネット』がなかった時代は、『新聞』『雑誌』『ラジオ』『テレビ』の情報は、発信元が事前に自主規制で校閲し、受け取る私たちも、それを信頼していました。それでも不適切な情報がないわけではありませんでしたが、『騙される』危険性は少なかったと言えます。

『インターネット』は庶民に、今までなかった情報発信という機会を提供しましたが、その分『インターネット』は『情報の無法地帯』になってしまいました。

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2019年12月 7日 (土)

権力とインターネット(5)

ロンドンには、市民にパンをどのように供給するかを計画する役人などいないにも関わらず、パンの供給は問題なく行われるのに対し、モスクワではパンの供給を計画する役人が懸命に努力してみても、市民へのパンの供給に問題が生ずるという、『事実』は何に由来するのかを昨日述べました。

その上、ロンドン市民は自分の好みのパンを、相応の価格を支払って購入できるのに対し、モスクワ市民は、決められた品質のパンを決められた価格でしか購入できません。

『民主主義』『自由経済主義』では、システムの到達点は、最初に誰かによって設定されるのではなく、『サブシステム』同士が、相互干渉による調整を微妙に繰り返すことで、結果的に到達したバランスを、『疑似最適点』として受け入れるシステムです。

『サブシステム』が自主的に少しづつ譲り合うことで、『疑似最適点』に達しますから、『サブシステム』にとっては100%の満足は得られないにしても、自分が自主的に関与した『結果』という認識がありますから、『まあまあの満足』が得られます。

一方『独裁主義』『社会主義』では、『これがあるべき姿』という結論が、独裁者の意思や、政府の『計画』で先ず示され、市民や国民は、ただそれに従うように強いられます。

このシステムには、『人間』にとって受け入れがたい二つの欠点があります。

一つは『人間』の『精神世界』は『個性的』であり、一人一人の『考え方』『感じ方』『価値観』が異なっているという『事実』に、配慮がなされないことです。強制された命令や計画に、ただ従えというやり方は、人間の心に『不満』を残すことになります。

もう一つの欠点は、『必ず正しい判断をする能力を、人も人が構成する組織も持ち合わせていない』という『事実』を認めないことです。

その結果、『独裁者』『社会主義政権』の『命令』『計画』は、『神』の判断同様に『正しい』という根拠のない前提が必要になります。異を唱えるものや反抗するものを摘発する『秘密警察』が跋扈し、『恐怖政治』や『洗脳政治』が行われることになります。

『北朝鮮』は典型的な『独裁国家』ですので、将来にわたってこの体制を維持し続けることができるかどうかは微妙です。人類の歴史は、『独裁国家』は必ず崩壊するという事例を繰り返してきているからです。何がきっかけでその崩壊が開始するのかは、梅爺も予測できませんが、『戦争』という最悪のシナリオではないことを願います。

『中国』の場合は、更に複雑です。『社会主義』という政治体制であるにもかかわらず、『自由経済主義』を経済システムとして容認するという苦肉の策を採用しているからです。

一見経済システムを自由に振舞わせるように見せかけて、いざという時は政治システムの『計画』が介入できると考えているのでしょうが、うまくいくのかどうか梅爺には分かりません。『中国』の現体制が崩壊するとすれば、政治システムが経済システムを制御できなくなる事態が生じたときかもしれません。もちろん、政治システムに『民主化』を求める国民の運動も考えられます。経済システムで『民主的』な体質を経験してしまった国民が、政治にもそれを求める可能性は高いからです。『中国』は無理で危なっかしい綱渡りをしているように見えます。

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2019年12月 6日 (金)

権力とインターネット(4)

情報処理システムの観点で観ると、『民主主義』『自由経済主義』は『分散処理』であり、『独裁主義』『社会主義(共産主義)』は、『集中処理』であるということになります。

『集中処理』は、中枢部に『必ず正しい判断ができる人または組織が存在する』という前提のシステムになります。もしこの前提が、『誤り』であったとすると、『独裁主義』『社会主義』は悲惨な結果を国民に強いることになります。

北朝鮮は『将軍様』の判断が『正しい』、『ソ連』は中央政府の立案した『計画経済』が『正しい』という前提で成り立つことになります。前提が正しければ、これほど効率のよい政治システムはありません。

しかし、『人間』の本質を洞察する限り、『必ず正しい判断ができる人や組織は存在しない』という考え方の方が妥当ではないでしょうか。

『民主主義』『自由経済主義』はこの前提に立っているからこそ、人間社会に適していると言えるのではないでしょうか。『民主主義』『自由経済主義』における『個人』『組織』は、『分散処理』を構成する『サブシステム』になります。

『サブシステム』は、自分を最適化しようと振舞いますが、周囲の他の『サブシステム』との相互干渉で、振舞いを修正せざるを得ない状況に追い込まれます。最初に期待したことは実現できなくなりますが、修正してなんとか『次善の策』を見出そうとします。この修正行為の判断は、自らの『判断』で行われますから、誰かに『強いられた』という精神的不満は残りません。

『サブシステム』が少しづつ譲り合ったり、妥協しながら、全体の『秩序』が形成されていくことになります。全体の『秩序』は、一種の『合意』であり、これは特定の人や組織が意図的に計画したものではありません。

これこそが『民主主義』『自由経済主義』の本質です。『人間』の資質を肯定しているために、誰かに『強いられている』という精神的不満が少ないことが長所ですが、『独裁主義』『社会主義(計画経済)』に比べて、著しく効率が悪いことが短所になります。

『民主主義』では『百家争鳴』が許されますが、『合意』までに時間と労力を要します。『独裁主義』『社会主義』では『百家争鳴』は許されませんが、『命令』『指令』は効率よく発することができます。

『ホモ・デウス』という本に、『ソ連』時代モスクワの市民に毎日どれだけのパンを供すればよいかを立案している担当官僚が、ベーカリーの前に毎日パンを買う人の長蛇の列ができてしまう問題を抱えて、ロンドンを視察にいったという笑い話が載っています。

ロンドンのベーカリーの前には、パンを買う人の列がまったくできていないことを観て、この官僚は、『是非ロンドンのパンの供給計画を立案している人に会って、そのノウハウを教えていただきたい』といったという話です。

『自由経済』と『計画経済』の本質的な違いを分かりやすく提示した笑い話です。『必ず正しい判断を下せる人や組織が存在する』という前提は、『人間』の本質を洞察する限り、成り立たないということを端的に示しています。

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2019年12月 5日 (木)

権力とインターネット(3)

昨日『インターネット』が『分散処理』であることが、人類社会にとって非常に重要な影響を与えつつあると書きました。

『分散処理』は『民主主義』『自由経済主義』の社会システムに類似しており、対極である『集中処理』は、『独裁主義』『社会主義』の社会システムに類似しているということです。

『分散処理』では、部分である『サブシステム』が、自分に都合よく振舞おうとしても、全体としてそれが不都合の場合は、周囲から否定的な反応が返ってきて、振舞いを変えるか、抑制するかをせざるを得ない状況になります。

分かりやすい例をあげれば、『自由経済』の世界では、町の『ベーカリー』は、1日に何個のパンを作ろうが、それをいくらの単価で売り出そうが『自由』です。

仮に、他の『ベーカリー』の10倍の単価を設定すれば、消費者はこの『ベーカリー』からパンは買いませんから、パンは売れ残り、この『ベーカリー』は経営が成り立たなくなります。結局この『ベーカリー』の店主は、このような試行錯誤を体験して、毎日どのくらいのパンを焼き、どのくらいの単価で売り出せば、自分の店が成り立つかどうかを『知る』ことになります。もちろん、他の『ベーカリー』より『美味しいパン』を売り物にして、少し単価を高く設定した方が、利益は増大するといった方針を採用することもできます。

『分散処理』の本質として重要なことは、『サブシステム』は最初から『最適な判断』をする能力を『持たない』という前提になっていることです。

『民主主義』では、『人間』は誰も『最適な判断』をする能力を保有していないという前提になっているということです。しかし、それでは何となく不安ですから、『全知全能』である『神』という概念を考え出し、不安な時は『神』に頼ろうとしてきました。人間は『神』が『正しい』かどうかさえ判断する能力を持たないわけですから、『神』に頼るという行為はパラドックスになります。そこで『宗教』は、『無条件に信じなさい』と説くことになります。

『独裁主義』『社会主義』では、人間でも『最適な判断』が可能であるという前提が採用されます。これは『分散処理』ではなく『集中処理』で、『最適な判断』ができる人(組織)のところに『情報』を集めて、そこで『判断』すればよいということになります。

『ソ連』は、『自由経済』ではなく、国家が関与する『計画経済』のシステムを採用しました。国民のために毎日何個のパンを焼けば良いかを国家が決めて、認定された各『ベーカリー』に割り当てを課しました。一見非常に合理的に見えますが、『計画』通りにはことは運ばず、国民は毎日パンを買うために、行列を作るようなことになりました。

『ベーカリー』は言われたノルマを果たせば良いだけで、特別『美味しいパン』をつくろうなどという意欲を持たないことにもなります。

人間の資質を考えると、どんなことでも『最適な判断』を下せる人など『存在しない』と考えた方が、実態に即しています。

『最適な判断』は人間でも可能であるという考え方は、『勘違い』であるばかりではなく、人間社会に大きな不幸をもたらす原因にもあると梅爺は感じます。

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2019年12月 4日 (水)

権力とインターネット(2)

『インターネット』の原型を考え出した科学者たちは、その後『インターネット』が現在のように人類社会全般に大きな影響を与えるものになるとは予想していなかったと思われます。彼等は、膨大な実験データを、効率よく『共有』して研究に役立てようとしたにすぎません。

ある研究所で行われた実験データは、その研究所の『コンピュータ』の記憶装置に蓄積されますが、その実験データを他の研究所の科学者も、通信ネットワークを介して参照できるような仕組みを考え出したことになります。

『コンピュータ』は、通信ネットワークの中で『サーバー』という概念に置き換えられました。人間(科学者)とシステムを仲介するものとして『ワークステーション』という装置が配備され、『ワークステーション』は、その研究所の『サーバー』にネットワーク接続されました。現在の『インターネット』で『ワークステーション』にあたる代表的なものが『パーソナル・コンピュータ』『スマート・フォン』『テレビジョン』などです。

科学者の『ワークステーション』『自分の研究所のサーバ』『他の研究所のサーバ』は通信ネットワークで接続され、科学者は『他の研究所のサーバ』の記憶装置に蓄積されている『実験データ』を参照することができるようになりました。

複数の『研究所』を、全て接続する為に、ネットワークの中間に『ルーター』という、振り分け装置を配備し、ネットワーク構成が複雑になることを回避する手段もとられました。基本的にこの形式は現在の『インターネット』への継承されていて、『ワークステーション』『ルーター』『サーバ』が主要構成要素になっています。

当初の『インターネット』では『有線通信』が主流でしたが、最近の『ネットワーク』は『有線通信(光通信網など)』と『無線通信(スマート・フォン用の4G,5G通信方式)』が併用されており、大変複雑になっています。

『インターネット』の最大の特徴は、システムとして『分散処理』方式が採用されていることです。『インターネット』には、システム全体を集中的に管理する装置はありません。『インターネット』は全て野放図であるわけではなく、『ワークステーション』『ルーター』『サーバ』には、システムでユニークな番号(IPアドレス)が付与されていて、『デジタル・パケット通信』を行うための『約束事』、メルチ・ネディア情報を表現する『約束事』が定められています。この『約束事』は『プロトコール(外交での儀礼から来た言葉)』と呼ばれています。

最低限の制約事項と、基本的なルール(プロトコール)だけを与えて、あとは『ご自由に振舞ってください』と放任している分散処理システムが『インターネット』です。

『インターネット』が『分散処理』システムとして普及したことが、人類社会には非常に大きな意味があります。

なぜならば、『インターネット』は、『約束事』だけを与えて、『個』の自由を尊重する『民主主義』に似ているからです。『独裁国家』『社会主義国家』の権力者にとって『インターネット』が厄介な存在であるのはそのためです。

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2019年12月 3日 (火)

権力とインターネット(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の100番目のタイトルは『Power and the Internet(権力とインターネット)』で著者は機密技術の専門家『Bruce Schneier』です。

内容は、タイトルから容易に想像できる通り、社会の権力を握る側が『インターネット』を自分たちに都合よく利用し、改造していくことを危惧したものです。

『インターネット』という言葉は、今や誰もが知っていますが、その技術の本質、応用が社会にもたらす影響などを理解する人は、多くはありません。

『インターネット』は本来『通信システム』の一つですが、私たちは『インターネット』を利用した多様な『応用システム(アプリケーション)』を含めて『インターネット』と呼ぶようになってしまっていますので、『インターネット』が更に分かりにくいものになっています。

『メール・システム』『マルチメディア情報閲覧システム(ブラウザ利用)』『キーワード検索システム』などは、全て『インターネット』を利用した『応用システム』であり、厳密には『インターネット』とは別に議論されるべきものです。

このエッセイの著者も、『通信システム』と『通信システムを利用した応用システム』を区別することなく『インターネット』と呼んでいます。

『通信システム』としての『インターネット』は、1980年代の後半に『科学者が利用するネットワーク』として誕生しました。元々は1960年代ごろから利用が始まった、『デジタル情報のパケット通信方式』が基盤として利用されています。

科学技術の歴史で観れば、『情報をディジタル・データで表現する』ようになって、『情報処理』『通信』は飛躍的な進化を遂げることになりました。処理速度が飛躍的に速まったからです。私たちの生活は、『ディジタル情報処理・通信』の上に成り立っています。

『パーソナル・コンピュータ』『スマート・フォン』『4K,8Kハイビジョンテレビ』『ゲーム機』『CD.DVD』は勿論のこと、自動車、飛行機、電車、発電機、家電なども、この技術なしでは機能しない時代になっています。

約17万年の『ホモ・サピエンス』の歴史で、このような恩恵を享受できるようになったのは、たった50年前くらいからですから、私たちが如何に特殊な『人類』であるかが分かります。

『釈迦』の教えが、日本へもたらされるまでに、約1000年が経過していますが、『トランプ大統領』が『ツゥイッター』でつぶやく内容を、私たちは、即座に知ることができます。『トランプ大統領』は、自分を得意げに誇示していますが、全世界の人は、彼の人間としての『器量』の程度を感じとってもいます。

この程度の人物が『大統領』に選ばれてしまう、アメリカの『民主主義』の底の浅さを私たちが疑うようになるのも、アメリカがどんどん世界の尊敬を失っていくのも、全て『インターネット』が関与しています。

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2019年12月 2日 (月)

『Steve Berry』の小説『14番目の植民地』(4)

『Steve Berry』の小説は、『史実(事実)』と『虚構』を組み合わせて、奇想天外ともいえるストーリーが展開する所が特徴です。

勿論、常連の登場人物がいて、読者は新しい作品で、彼らに再会し、旧知の知人に会ったような懐かしさを感じます。

『コットン・マローン』がスーパー・ヒーロー。中年のアメリカ人男性。デンマークで古本屋を営んでいる。独身(離婚歴あり)。アメリカ司法省の特殊工作機関『マジェラン・ヴィレ』の元工作員。現在は、フリーランスで、事件があるごとに『マジェラン・ヴィレ』から依頼を受けて活動している。

『カシオペア・ヴィット』がスーパー・ヒロイン。スペインの富豪の娘で、現在はフランスに在住。中世の工法で、『城』を再現しようとしている。独身。フリーランスの冒険家。『マジェラン・ヴィレ』と関係があり、ここからの依頼で事件解決に加わる。『コットン・マローン』とは恋人関係。

『ステファニー・ネリ』。アメリカ人中年女性。『マジェラン・ヴィレ』の責任者。独身(結婚歴あり)。アメリカ大統領と親しく、必要時には大統領のバックアップが得られる。物語は大体、彼女が掴んだ『情報』で始まる。

今回の小説の犯人側は、『ソ連』の『KGB』の元スパイ2人。一人は『ソ連』崩壊後、シベリアで暮らしていた男『ゾーリン』、もう一人はアメリカ社会に溶け込んで、現在はカナダ在住の男『ケリー』。『ケリー』は『米ソ冷戦』時代、小型『核爆弾』を5個アメリカへ持ちこみ、ワシントン郊外の秘密の場所に隠匿。『核爆弾』の保守点検を続けてきて、現在でも『使用可能』状態を維持している。

『ゾーリン』と『ケリー』は、先ずカナダで落ち合い、一緒に車でアメリカへ潜入。隠匿してあった5個の『核爆弾』を回収して、『大統領就任式』が行われる直前のワシントンDCへ向かう。

4個の『核爆弾』は、わざとアメリカ側の警戒網に見つかるようにしくみ、その隙に、1個の『核爆弾』を、『ホワイト・ハウス』の真下の地下へ設置して、『大統領就任式』に合わせて爆発するようにセット。

手に汗を握るような緊迫事態に、我らがヒーロー『コットン・マローン』が見事に対応して。『核爆弾』の爆発は未然に防がれて、メデタシメデタシとなります。

『ステファニー・ネリ』をバックアップしてくれていた『大統領』は今回退任し、次の『大統領』の意向で、特殊任務機関『マジェラン・ヴィレ』は閉鎖されることになっていましたが、今回の功績を新『大統領』が認め、『マジェラン・ヴィレ』は継続できることになり、こちらもメデタシメデタシとなります。

引退した元『大統領』は、引退後離婚をほのめかしていますので、こちらは『ステファニー・ネリ』とのロマンスが今後待ち受けているような気配がします。

『小型核爆弾』が本当に実在し、現在でも作動可能なのかどうかは、梅爺には分かりません。

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2019年12月 1日 (日)

『Steve Berry』の小説『14番目の植民地』(3)

『レーガン大統領』は、『ソ連』の経済的な破綻を早めるために、『大陸間弾道ミサイル』の攻撃からアメリカを防衛する為の完璧な『宇宙防衛システム』を開発すると宣言し、そのための膨大な開発予算を議会に承認させました。

科学者や技術者の多くは、それが実現困難な難題であることを進言し、膨大な国費の浪費になることを危ぶみましたが、『レーガン大統領』は断固たる態度で、この計画を進める姿勢を崩しませんでした。

『レーガン大統領』も、実はこの計画の実現は難しいと本心では思いながら、対抗上『ソ連』にも膨大な軍事開発の出費を強いることで、『ソ連』の経済的破綻を早めようとしたのであれば、大変な策略家であるということになります。

経済的な体力消耗競争に持ち込めば、アメリカは『ソ連』に勝てると読んだ『大バクチ』ということになります。この小説では、『宇宙防衛システム』などという大アドバルーンを打ち上げた真意を、『大バクチ』とみなし、結果的に『レーガン大統領』が勝利を収めたことを讃えています。

『米ソ冷戦』が幕を閉じた後、この『宇宙防衛システム』はどの程度の完成度に至っているのか梅爺は分かっていませんが、現在でも完璧なレベルとは言えないものなのではないでしょうか。この計画で甘い汁を吸ったのは『軍需産業』だけであったのでしょう。

一方、法王の『ヨハネ・パウロ2世』は、『ソ連』の支配下にあった東欧職の『民主化運動』を支援し続けました。

『KGB』が、法王暗殺計画を仕組んだという話は、もっともらしい話であり、現在ではそれが『事実』と考えられています。

法王は、自分を暗殺しようとした犯人に直接面会し、『あなたを許す』と伝えた話は有名です。これで法王の人気は一層堅固なものになりました。

『経済的』『思想的』に、追いつめられていった『ソ連』は、アメリカやバチカンへ報復する計画を『KGB』中心に進めようとしたことは当然予測できます。

この小説では、『ソ連』6代目の指導者『アンドロポフ』が、自ら『アメリカへ大打撃を与える計画』を立案し、5人の『KGB』に特別の任務を課したことになっています。

5人には、別々の役割分担が科せられ、その全体像は『アンドロポフ』だけが掌握していたということになっています。

5人が、それぞれの任務を果たせば、必然的に『アメリカへ大打撃を与える計画』は達成できるという、込み入った話です。

不幸なことに『アンドロポフ』は、書記長の任期2年で病死してしまいました。そしてその後『ソ連』は、崩壊してしまい、『アンドロポフ』の計画は、実行されずに宙に浮く形になってしまいました。

この小説では、5人の『KGB』のうち、現代まで生き残った2人が、『アンドロポフ』の計画の全貌を突き止め、これを実行に移すというストーリーになっています。

勿論『アンドロポフ』の計画や、2人の『KGB』は『虚構』です。

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