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2019年11月10日 (日)

『人間』と『自然』の乖離(7)

近世以降の『人間』は、『自然』を能動的に利用できる対象と観るようになりました。

『自然』の摂理や資源を利用して、『自然』界には存在しない『モノ』を多数生み出し、それを『便利』『快適』を実現する道具として使い始めました。

中世以前の『人間』、鉄を『刀』に変え、木材を『家』や『馬車』に変えていたという点では同じですが、近世以降の『自然』利用のレベルと量は、圧倒的な違いと言えます。

結果的に、近世以降『人間』は『自然資源』をむさぼるように消費し始めました。

私たちは、『自然』を『畏敬の対象』というより、『利用できる対象』と考えるようになったということです。

ある意味で『自然』に対して『不遜』になった『人間』の重大な勘違いが二つあるように思います。

一つは、『人間』の過度の行動が、『自然』の平衡状態を変える要因になりえることの認識の甘さです。『地球(自然)』の環境は、『ホモ・サピエンス』が出現して以来、約20万年間、幸いなことに『ホモ・サピエンス』が、生息できる環境(平衡状態)を継続しています。これは『物質世界』の本質を考えれば、『必然』的なことではなく、むしろ『偶然の僥倖』と言う方が適切です。

『地球環境(平衡状態)』』が、いつまでも『ホモ・サピエンス』にとって都合の良いものである保証など何もありません。

『人間』の視点で『地球』の歴史を観ると、現在の『環境(平衡状態)』が出現したのは、『偶然の僥倖』の連鎖であることが分かります。

『太陽(恒星)』からの距離が『ハビタル・ゾーン』と言われる場所に軌道が定まり、液体の『水』が存在可能な『岩石惑星』として誕生したこと、多量の『水』を保有するようになったこと(この理由は確定できていない)、内部の『マントル』が自転軸にそって回転し、『地磁気』が生じて宇宙からの有害な宇宙線(放射線)を、遮蔽するようになったこと、大気が存在し、後にその大気に『酸素』が多量に含まれるようになったこと、など全て『偶然の僥倖』』としか言いようがありません。もし、一つでも条件が異なっていたら、『地球』に『生命体』が出現することもなく、当然私たちも存在していなかったことになります。

『偶然の僥倖』の連鎖は、『神』が『人間』のために用意してくれた『意図』であるという主張には無理があります。『物質世界』の絶え間ない『変容(動的平衡移動)』は、『摂理』によるもので、唯一『摂理』の存在は『神』の『意図』と言えそうですが、『摂理』は『人間』にとって不都合なことが起こる要因でもありあすので、『愛』や『慈悲』の象徴である『神』と関連付けるのには無理があります。

『物質世界』に何故『摂理』が存在するのかは、現代科学も『分からない』ことです。多分『科学』にとって最大の難問の一つと言えます。

現状において『物質世界』を説明するのに、『神』は必要でないように見えます。

『天地創造』は『神』の御業という説明も説得力を持ちません。

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