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2019年11月 3日 (日)

江戸の諺『膳の上いっぱいになる』

江戸の諺『膳の上いっぱいになる』の話です。

お膳の上が、余地のないほど色々な料理で満たされているということですから、必要なものが皆そろっている満ち足りた状態を表現しているのでしょう。

『膳いっぱいの料理』で客人をもてなすのが、最上のもてなし方という考え方がどの国にもあるのかどうか知りませんが、中国『西大后』の『満漢全席』などという宮廷料理をみてみると、希少な食材を使って、どうせ食べないものをこのように揃えるのは、いくらなんでも行き過ぎであろうと思います。『権力の誇示』は時に、このような滑稽な『常識』を生み出します。

旅館の夕食で、『膳いっぱいの料理』が出てくると、『これはすごい』と感激したり、自分もこのもてなしに匹敵するいっぱしの『お大人(たいじん)』になったと勘違いして喜んだりしたしますが、人間の食べる量には限界があり、すぐ腹いっぱいになって、『このような夕食を毎日続けていたら身が持たない』などと今度は言い出しますから、人間は身勝手なものです。

人間の『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されていると梅爺は考えています。

ところが、あるレベルで『安泰』が得られると、一時の『満足感』を味わいますが、すぐにまたそれ以上の『安泰』を求めるようになります。

『欲望』は果てしなく肥大化していくことになります。つまり、人間は、いつも『不満の種』を創りだし続けているともいえます。

『釈迦』は、この人間の習性に気付き、『不満の種』の元凶である『煩悩』から逃れない限り、『心の安らぎ(涅槃)』は得られないと考えたのでしょう。

梅爺は凡人なので、欲望はあるレベルで抑制して、それで『満足』であると自分に言い聞かせることは重要と思いますが、、『煩悩を解脱して仏の境地にいたる』ことは、現実に自分には無理なことだと、逃げ腰になってしまいます。

それに、世の中は人間の『煩悩』をうまく利用する仕組みで成り立っていますから、全員が『煩悩』を解脱してしまうと世の中が成り立たなくなるという矛盾もあるような気がします。

生物として『生きる』ためには、『欲望』を満たす必要があり、それを全て『煩悩』として排除すれば、『生きる』ことを放棄するほかなくなります。

『禅僧』も、何も食べずに生きているわけではありません。

『欲望の肥大』を、どのレベルで抑制するかは、その人の『理性』で決まります。普遍的な解答はありませんから、自分でそのレベルを見つけるしかありません。『煩悩の解脱』は、その極端なレベルといえるのではないでしょうか。

現状の『膳の上いっぱい』を、抑制レベルとして受け入れるか、更なる『膳の上いっぱい』を求めるかは、その人に依りますが、誰もが自分なりの『膳の上いっぱい』を求めるのは、人間として自然なことのような気がします。

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