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2019年11月30日 (土)

『Steve Berry』の小説『14番目の植民地』(2)

アメリカが『カナダ』を武力制圧して、自国の領土にしようとしたことが、歴史上2度あったことを、この本を読んで知りました。

最初は、アメリカの『独立戦争』の時で、東部13州に『カナダ(14番目の植民地)』を加えようとしたことです。この試みは失敗し、逆にイギリスにワシントンまで攻め込まれ、大統領公邸(後のホワイトハウス)は消失しました。

後に、『ホワイトハウス』が再建されたとき、大統領は、もしもの時の秘密の逃げ道として、『ホワイトハウス』と隣接する『聖ヨハネ教会』を地下道で結んだということに、この小説ではなっています。この秘密の工事を担当したのが、『シンシナチ協会』という愛国団体で、現在まで継承されている『シンシナチ協会』に保管されていた過去の資料の中に、上記の秘密の地下道に関する記述があり、この情報が『米ソ冷戦時代』に『KGB』の手に落ちたというストーリーになっています。

『大統領就任式』に合わせて、ワシントンを小型『核爆弾』で消滅しようとする、元『KGB』の犯人が、上記の地下道を利用して、『ホワイトハウス』の真下に『核爆弾』をセットしようとする話になっています。

『ホワイトハウス』の再建、『シンシナチ協会』の存在、『聖ヨハネ教会』などは、『事実』ですが、『秘密の地下道』『小型核爆弾』などは、『虚構』です。

2度目にアメリカが『カナダ』を武力制圧して自国の領土にしようとしたのは、『第二次世界大戦』の初期のころで、ヒトラーがイギリス本土を制圧すれば、イギリスと関係が深い『カナダ』にも手を伸ばしてくるであろうと予測し、先に手を打って『カナダ』をアメリカのものにしておこうとしたことになります。

『カナダ』武力制圧の詳細計画が、残されているのは『事実』のようです。しかし、この計画は実行されませんでした。

この小説の背景として描かれているもので、興味深いのは、『米ソ冷戦時代』に、『レーガン大統領』が、バチカンを訪れ、当時の法王『ヨハネ・パウロ2世』と二人だけで『密談』をしている『事実』です。

この時二人は『ソ連を崩壊させる』意思を確認しあったということに、この小説ではなっています。『密談』の内容に関しては、実際は明らかにされていませんが、後の『レーガン大統領』『ヨハネ・パウロ2世』の行動と、『ベルリンの壁崩壊』『東欧社会主義諸国の民主化』『ソ連の崩壊』はつながっているようにも見えます。

『レーガン大統領』はタカ派のあまり有能ではない大統領と評価されることが多いのですが、実は強い意志で『ソ連崩壊』を実現した政治家であったということにこの小説ではなっています。

ポーランド出身の『ヨハネ・パウロ2世』は、東欧諸国の『民主化』を支援した政治的な法王として有名です。このため、2度の『暗殺』計画に巻き込まれています。『暗殺』は2度とも未遂に終わりましたが、最初の『暗殺』の背後に『KGB』が絡んでいるらしいことは、歴史的に『事実』と考えられています。

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2019年11月29日 (金)

『Steve Berry』の小説『14番目の植民地』(1)

アメリカの大衆小説作家『Steve Berry』の小説『The 14th Colony(14番目の植民地)』を電子書籍リーダー(Kindle)に英語版(原書)をダウンロードして読みました。

『コロニー』は、歴史的にアメリカ東部に、英国が開拓した13の『植民地』のことで、これがアメリカの独立戦争(英国との戦い)で13の『州』として独立を果たし、最初の『アメリカ合衆国』が誕生しました。

『The 14th Colony(14番目の植民地)』は、現在の『カナダ(東部)』に当時英国が保有していた『植民地』のことで、アメリカは独立の時、ここも『アメリカ合衆国』の一部にしようと画策しましたが、失敗しました。

この小説は、その歴史的事実を一つの題材にしていますが、主たるストーリーは、『米ソ冷戦』で『ソ連』が敗北して崩壊した歴史を背景にしています。

『米ソ冷戦』の時代、『ソ連』は全世界に70万人もの『KGB(スパイ工作員』メンバーを配備していたと言われています。

勿論『仇敵アメリカ』には、沢山の『KGB』要員が送り込まれ、いざという時に利用するアメリカの『弱点』を探っていたことになります。

この小説は、『ソ連』の崩壊後、一部の狂信的『KGB』の元要員が、アメリカへの報復をする執念を持ち続け、30年後の現在のアメリカに『最大限の打撃』を与えようとする話になっています。

あくまでも、元『KGB』要員の復讐計画で、現在の『ロシア』が背景には絡んでいないことになっています。

アメリカに与える『最大限の打撃』の内容が、奇想天外なもので、アメリカの新旧大統領の交代の儀式(新大統領の就任式)に合わせて、ホワイト・ハウスや『キャピトル・ヒル(国会議事堂)』を含むワシントンDCの中心地を、小型『核爆弾』で攻撃して消滅させようというストーリーになっています。

アメリカの『憲法』では、『大統領』が不慮の死を遂げた時には、『副大統領』がその役目を引く次ぐことになっています。更に『副大統領』も不慮の死を遂げた時には、次にだれが引き継ぐかといった、序列が細かく規定されていますが、『新大統領の就任式』では、国家の要人が参列のために全て同じ場所に集まっていることになり、この人たちが全て一緒に亡くなってしまうと、アメリカは路頭に迷うことになります。

元『KGB』要員は、これらのアメリカの『弱点』を熟知していて、実現のために小型『核爆弾』をワシントンDCの中心地で炸裂させようとします。

『新大統領の就任式』という、警備が厳しいワシントンDCにどのように小型『核爆弾』を持ちこむのか、大体そのような小型『核爆弾』が存在する可能性はあるのか、といった読者の疑問に、作者は『もっともらしい話』で応えていきます。

歴史を絡めて、現代を舞台にする破天荒な『ミステリー小説』を次々に発表するのが『Steve Berry』の真骨頂です。『真実』と『虚構』の組み合わせの面白さに惹かれて、梅爺はこの作者の小説を読み続けています。

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2019年11月28日 (木)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(6)

『言葉』で全ては表現できるという考え方が、西欧の文化の基盤にあるように思います。

『新約聖書』の『はじめに言葉あり、言葉は神なりき』などという表現は、それを端的に示しています。『言葉は真理であり、万能である』ということなのでしょう。

しかし、日本では『言葉』は、『精神』を啓発する『手段』であり、啓発された『精神』の内容は、必ずしも『言葉』では表現できないと考えられてきたように思えます。

このため、『言葉』は大切にされますが、『言葉』によって啓発された『精神』は更に尊重されることになります。

制約された語数の中で、広大な『精神世界』を表現しようとする『俳句』『和歌』や、厳選された『言葉』や極限に形式化した所作で、『ワビ』『サビ』『滑稽』を表現する『能』『狂言』が、日本独特の『文化』になっているのはこのためです。

西欧の人たちにとって、この『文化』の違いを理解することは非常に難しいのではないでしょうか。

日本人が『言葉』ではなく、『空気』で、『絆』を確認しようとするのは、この『文化』の継承があるからでしょう。

『阿吽の呼吸』『惻隠の情』『忖度』などが重要となるのはそのためです。

西欧の夫婦のように、毎日『I love you』と口に出して、愛情を確認すると言った行為は、日本では必ずしも誠意の表現とは限らないと受け止められます。

仲間内で高度なレベルの『主観の共有』が実現していないと、『阿吽の呼吸』『惻隠の情』『忖度』などは成り立たず、むしろ『誤解』を生むことにもなりかねません。

親しくない人とのコミュニケーションには、『言葉』は重要な役目を果たし、例え形式的な表現でも、表現すること自体に意味があります。

親しい間柄では、『言葉』だけでお互いの『精神』状態を深く理解することが、難しくなります。

『言葉』の達人は、このような『言葉』の特性を熟知している人で、世の中にはそう沢山はおられません。『語彙』が豊富であっても、『言葉』の達人とは言えません。

コミュニティのメンバーの『考え方』『感じ方』『価値観』を、統計的に集計した結果が『輿論』として反映されることになりますが、統計的に集計する方法が適切ではない場合は、『輿論』は、それほどあてになるものではなくなります。

誰かが『輿論』を振りかざして、『正義』を主張するときには、その『輿論』の実態を検証してみる必要があります。

また、大衆が感情的になっている時の『輿論』は、冷静さを欠きますので、注意を要します。

イギリスが国民投票で『EU離脱』を決めてから、進退に窮していることを観ると、『多数決』『国民投票』『輿論』などという概念は、私たちの日常の判断同様、必ずしも適切な結果を招来するものとは限らないと考えるべきでしょう。

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2019年11月27日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(5)

『輿論』は昨日も書いたように、『個性』の『違い』を『正規分布』でプロットした時の。中央部分の『多数派』を中心に形成されます。

『多数派』は『大衆』とよばれる集団で、この人たちの習性の特徴は、『理』ようりも『情』で物事を判断することです。論理的な『因果関係』で納得して判断するのではなく、理屈抜きに『嫌いなもの』『不都合と感ずるもの』に反応して、これを糾弾の対象にします。

冷静に『理』で判断する人は、世の中の『少数派』で、この人たちの『考え方』は『輿論』にはなりにくい側面があります。

『大衆』は『情』で判断しながら、自分たちは『正しい』と思い込んでいますから、糾弾対象は『悪の権化』になり、自分たちは『白馬の騎士(正義の味方)』であると思いあがることになります。

『芥川龍之介』が、『輿論は私刑(リンチ)である』と洞察するのは、この事を指していることになります。

糾弾される側は、法廷などで反論することもできず、徹底的に葬り去られてしまいます。『私刑(リンチ)』の恐ろしい側面です。

『輿論』は自然発生的に形成されるものばかりではなく、『黒幕』が意図的に仕掛けて形成されるものもあります。

『輿論』は『正しい』などと、単純に思いこんでいると、私たちは『誰か』の思惑通りに踊らされてしまうことにもなりかねません。『輿論』はいつもいつも社会にとって『良薬』であるとは限らず、『激薬』『毒薬』にもなりえます。

『輿論』『国際世論』を誰かが主張した時、それは厳密な裏付け資料に基づくものではなく、主張する人が『そうあってほしい』と願う内容であったりしまうから、これも注意を要します。

『権力者』にとって『輿論』は、両刃の剣で、自分たちに都合よくそれを利用しようとすると同時に、自分たちが糾弾対象になることを非常に恐れます。

『独裁者』や『独裁政党』が、メディアを統制下において、『情報』を監視するのはそのためです。一方、大衆が『輿論』で決起し、自分たちに権力基盤が崩壊することを何よりも恐れますから、『独裁者』や『独裁政党』にとって都合の悪い『輿論』は、徹底蹂躙の対象になります。『輿論の存在する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである』と『芥川龍之介』がいうのは、この事なのでしょう。

日本には『輿論』より更に厄介な『空気』『気配』などの言葉があります。

『空気が読めない男(女)』は、仲間から後ろ指をさされ、敬遠されます。逆にわざと『空気』を無視して振舞い、『あ、お呼びでない。これは大変失礼しました』などと笑いの種にすることも一時はやりました。

何となくその場の人たちが共有している『価値観』が『空気』の対象ですが、これを『察する』ことは容易なことではありません。私たちは自覚せずに、『空気』を読まずに行動しているのではないでしょうか。 

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2019年11月26日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(4)

『多数決』で最後は物事を決めるという『民主主義』のルールは、それが『正しい』からルールとして定着しているのではなく、『それに代わる良い方法が見つからない』からという理由で、社会の約束事になったものです。いわば『次善の策(知恵)』といえるものです。

『民主主義』にも『多数決』にも、沢山の欠陥がありますが、多くの人はそうは考えず、『民主主義』『多数決』は絶対的に『正しい』と思い込んでいます。

『輿論』は『多数決』の母体となることで、これまた『輿論』は『正しい』という単純な考え方を多くの人が信奉しています。しかし、現実に『輿論』は『正しい』などとは言い切れません。

梅爺が何度もブログに書いてきたように、人間は生物として『個性的』に生まれてくるように宿命づけられています。『精神世界』も『個性的』ですから、ミクロに観れば一人一人の『考え方』『感じ方』『判断のための価値観』は異なっています。

しかし、この『違い』は、『正規分布』でプロットされるようなものですから、『正規分布』の中央部を占める『多数派』の『違い』は、マクロに観れば、『似たりよったり』で、顕著な『違い』としては表面に現れません。

したがって、『多数派』に属する大半の私たちは、自分たちが『個性的』であることをあまり意識しません。そして自分が『標準的』であると考え、周囲の他人にも『標準的』であることを求めます。

しかし、あるとき自分と同じであると考えていた他人の、『考え方』『感じ方』『判断の価値基準』が『異なっている』と気付いた時に、動転して『あなたは間違っている』などと非難します。人間関係のギクシャクは、このような単純な理由で始まります。

『輿論』は、言ってみれば『正規分布』の中央部をしめる『多数派』の『考え方』『感じ方』『判断の価値基準』の平均値を反映したものと言えます。

『正規分布』の末端の裾野を占める『少数派』の『考え方『感じ方』『判断の価値基準』は、『多数決』のルールで『輿論』には反映しません。

興味深いことに、人間社会の全てのことは『多数派』中心に展開されているわけではありません。

『宗教』『芸術』『科学』『スポーツ』などの世界は、『正規分布』でいえば、末端の裾野を占める、標準的な能力からみると、『非情に異なった特筆すべき能力(非凡な能力)』の人たちが『主役』の世界です。『釈迦』や『キリスト』は、『非凡の人』であったがゆえに『教祖』となりました。『芸術』『科学』『スポーツ』の進展を支えてきた人たちも『非凡な人』です。

人類の『文明』を進化させてきたのは、標準的な『多数派』ではなく、非凡な『少数派』であったことに注目すべきではないでしょうか。

『非凡な人』を、排除してしまう『民主主義』『多数決』の政治は、人間社会の中では、特殊な世界と言えるのかもしれません。

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2019年11月25日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(3)

大衆の『輿論』を、統計的、定量的に把握することが行われるようになったのは、人類の歴史上近世以降のことではないでしょうか。

『選挙』『世論(輿論)調査』などが、その手段となりました。

古代ギリシャの『都市国家』で、市民権を持つ男たちによって、『投票』が行われ、リーダーの選出が行われたのが、『直接民主制』の始まりと言われていますが、コミュニティの規模が大きくなかったために可能であったとも言えます。

『法王』を選ぶための、枢機卿による投票『コンクラーベ』も、枢機卿の数が限定されるコミュニティであるがゆえに可能であったのでしょう。

大規模な『有権者』による、『選挙』が行われるようになったのは、近世以降のことですが、現在でも公正な監視環境下で『選挙』が行われているかどうかは、国家体制によっては『疑わしい』ところも沢山あります。『権力者』は自分に都合よく『選挙』結果を操作しようとするからです。

『民主主義』体制化の『選挙』が、端的に『輿論』を反映していると言ってよいかもしれません。それでも僅差で勝利した『与党』が、『国民の附託を得た』などと、圧倒的な支持を得たかのように主張しますから、『輿論』が『詭弁』の種として使われることに注意が必要です。

報道機関などが行う『輿論調査』も、無意味とは言えませんが、実態を反映しているかどうかは、検証する必要があります。アンケートの設問の設定次第で、結果を操作することが不可能ではないからです。アンケートの結果を『正しい』と盲信するのは危険です。

アンケートが行われた時の『状勢』も、結果に大きく反映します。『9.11』直後のアメリカでは、『テロ組織への徹底報復』を主張するブッシュ政権が国民から圧倒的な支持を得ました。『何故アメリカは世界の一部の人たちから嫌われるのか』などといった、反省の論調は影をひそめてしまいました。『輿論』は刹那的な情感に作用されることの証拠です。

何かと言えば『反日デモ』『日本製品不買運動』などに走る『中国』や『韓国』の『輿論』も、後ろで糸を引く黒幕がいるのかどうかは別にしても、刹那的に見えます。

一方『輿論調査』の結果で、『権力者』も一喜一憂することになります。永田町は『内閣支持率』などの結果に敏感になります。

『支持率』を挙げるために、国民に媚びる言動が多くなり、発言内容は『美辞麗句』のオンパレードになります。『国民の命と財産を守る政治』『誰もが安心して暮らせる格差のない社会』などという、歯が浮くような発言が、臆面もなく飛び交います。

メディアはこれを『ポピュリズム』と非難の対象にしますが、『ポピュリズム』を生み出す母体が、メディアの行っている『輿論調査』であることには触れません。

国民の大半の意向に沿う政治を行うことは、政治にとって重要な要因ですが、『支持率を高めること』『次の選挙に勝つこと』を目指す『ポピュリズム』政治は、国の将来を危うくしかねません。『輿論』は尊重すべきですが、それだけを指針の基準にするわけにもいきません。

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2019年11月24日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『輿論』(2)

『輿論』とは何かを定義することは、意外に容易ではありません。

コミュニティに関連する事象について、コミュニティのメンバーが、自由意思で『何を考えているか』『どう感じているか』『どう評価しているか』などを表明し、その結果を公正な方法で集計した統計的『結果』が、『輿論』といえるのかもしれません。

メンバーの『自由意思による表明』と、『公正な方法での集計』が重要で、『自由意思が表明できない環境』、『公正とは言えない集計方法』が関与している場合は、結果は『輿論』とは言えません。

『独裁国家』や『独裁政党国家』などの、『輿論』は全く当てになりません。秘密警察が跋扈(ばっこ)しているような社会では、国民は、保身のために『自由意思』による表明などは避けますし、『権力』の支配下にある機関が、集計した内容には、『権力』に都合が良い捏造が包含されるからです。

北朝鮮の国民が100%『将軍様を信奉し、賛美している』といっても、それは『輿論』の反映とは言えません。

それでは、『民主主義体制』の下の『輿論』は信頼できるのかというと、手放しでそうとは言えない問題を抱えています。

確かに、『独裁国家』や『独裁政党国家』よりは『まし』であると言えますが、国家の将来を決める指針になるほど確かなものかと言えば、きわめて『おぼつかいない』と言わざるをえません。

私たちは、自分に与えられた『情報』で、『考え』『感じ』『判断する』わけですが、その『情報』に『偏り』があると、『考え』『感じ』『判断する』内容にも『偏り』が生じかねません。『メディアの報道』『政治リーダーの発現』『有識者の意見』などが、『情報』源ですが、それが『偏っている』かどうかを見極めることは非常に困難です。

私たちは『情報』を『鵜のみにする』、『情報』に『感化される』習性を持っています。更に自分に都合のよい『情報』を優先して受け入れる習性も保有しています。

このため、自分では自由意思で『考え』『感じ』『判断した』内容は、必ずしもそうとは言えない側面を持っています。

何よりも、『理性』より『情感』が『精神世界』では強く作用しますから、情緒的な判断を下すことになりかねません。

『多数決』という『民主主義』のルールを、金科玉条のように考える人には、『輿論』は尊重すべきものと言うことになりますが、全幅の信頼を寄せ得るほどの確かなものではないというのが実態ではないでしょうか。

『権力』は『輿論』の影響を受けますが、逆に『権力』は『輿論』を操作して利用しようともします。

『民主主義』体制化の『メディア』も、公正中立ではなく、発行部数(売上)や視聴率を稼ぐために、大衆が『好む』情報を優先したりします。 

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2019年11月23日 (土)

『侏儒の言葉』考・・『輿論(よろん)』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『輿論(よろん)』という文章に関する感想です。短い内容なので、以下に全文を掲載します。

輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代わりに新聞の記事を用いたとしても。

輿論の存在に値する理由は輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。

これは『輿論』が持つ、恐ろしい一面を表現していることは、梅爺にも理解できます。しかし、これだけでは『輿論』は百害あって一利なしということになってしまいます。

『輿論』は、民主主義の母体となるもので、そのコミュニティが次にどう振舞うべきかを決める指針になる重要なものであると思い込んでいる多くの庶民の『浅はかさ』を、『芥川龍之介』は、『私が実態を教えてあげましょう』と衝撃的な表現でたしなめているようにも思えます。

つまり『私は本当のことを知っている賢い人』で、あなたたち(読者)は、『浅はかで賢くない人』という蔑みが込められているように感じてしまいます。

『芥川龍之介』のこのような辛辣な表現は、『ブラック・ユーモア』とは言えるかもしれませんが、日本人が好きな『諧謔』とは異なっているように感じます。

『諧謔』は、他人を笑い飛ばすと同時に、自分も同類と認めて、自らも笑い飛ばす対象にしているように感じます。

『芥川龍之介』の『輿論』に対する考え方は、勿論『間違っている』と言えるものではなく、『輿論』の持つ一面を鋭く洞察しています。

しかし、この一面だけで『輿論』を断ずるのは、『片手落ち』のような気がします。

人間社会に、何故『輿論』は登場するのか、人間や人間社会の本質と『輿論』はどのようにかかわっているのかをどうしても考えてみたくなります。

『芥川龍之介』の指摘するように、『輿論』がコミュニティで『私刑(リンチ)』となり、その『私刑』をコミュニティのメンバーは、内心『娯楽』として楽しむといった『おぞましいここと』が何故起きるのか、そして必ずその『輿論』を、今度は否定したくなる興味を何故一部の人たちが抱くようになるのかといった理由を知りたくなります。

梅爺が今までブログに書いてきたことと照らし合わせれば、『輿論』は『主観の共有』という表現に相当します。

17万年前に、アフリカ中央のサバンナに出現した、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』は、約7~8万年前に、『主観の共有』という新しい資質を身につけるようになったと考えられています。後の『農耕革命』『産業革命』『情報革命』など、『ホモ・サピエンス』が達成した『革命』になぞらえれば、『主観の共有』は『認識革命』と呼ぶにふさわしいものです。

どの『革命』も、『文明』を大きく進展させることに貢献してきました。 

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2019年11月22日 (金)

江戸の諺『親の面(顔)に泥塗る』

江戸の諺『親の面(かお)に泥塗る』の話です。

子供の不祥事で、親が世間に対する面子を失うという意味で、現在でも使われる表現です。逆に親の不祥事で、子供が世間から後ろ指を指させるということも起こります。

法的には、親子といえども独立した人格で、連帯責任を負う必要はありませんが、世間はそのように割り切った対応はしないのが通常です。

子供が不祥事を起こせば、親は世間に『申し訳ない』と謝罪し、世間は『親が甘やかして育てたことの因果』などと、憶測の『因果関係』を考え出して、親を糾弾します。

独裁者が支配する国家などでは、家族から一人でも『反逆者』が出れば、一族郎党全てを連帯責任で処刑するような、非道が見せしめとして行われたりします。

親子は、遺伝子的に近い関係にありますから、相対的に『似る』確率は高いと言えますが、『同じ』とは言えません。人間は生物として宿命的ん『個性的』に生まれてきます。

生まれつきの遺伝子の影響ばかりか、生後の生育環境も、『脳神経細胞ネットワーク』の形成に影響しますから、親子といえども『考え方』『感じ方』は『同じ』にはなりません。

親が期待するように子供は反応せず、子供が期待するように親も反応しません。

親子は他人同士より、強い『情感』で『絆』が形成されますので、他人同士なら『我慢』で済まされる『違い』が、そうはいかなくなり、深刻な愛憎劇に進展したりします。

私たちは、人間は一人一人『容貌』『体格』『能力』が異なっていることは、経験や体験から知っていますが、『考え方』『感じ方』『価値観』も異なっているとは、なかなか思い至りません。他人も自分と同じように『考え』『感じ』『判断している』と勝手に勘違いしてしまいます。

そして突然『違い』を突き付けられると、『愕然とした』『裏切られた』などと、相手を非難したりします。

更に、私たちは自分の『考え方』『感じ方』『価値観』が、『正しい』『最高のレベル』と思いがちです。つまり自分のレベルで相手を観ようとします。

『考え方』『感じ方』『価値観』は、目に見えませんので、このようなことになります。

世の中には、自分の『考え方』『感じ方』『価値観』をはるかに凌駕する高いレベルの『他人』がいるのであろうと『類推』できる人は、器の大きな人です。このような人は、他人に『畏敬の念』をもって接しようとします。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』と言われるように、高いレベルの人ほど、自分を高く評価しません。

逆に、低いレベルの人ほど自分を高く評価しがちです。残念ながら、世の中にはあまり高くない自分のレベルで『傍若無人』に振舞う人が沢山いるのはそのためです。

人間や人間社会を理解する上で、人間は『個性的』に生まれつくという事実は、私たちが考えている以上に大きな影響力を持っていると梅爺は感じています。

世界中の人たちが、この意味を深く知れば、人間社会の争いの多くは、なくなるはずです。自分とは異なった『他人』と共存する以外に、私たちには選択肢がないということなのですから。 

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2019年11月21日 (木)

江戸の諺『男はあたってくだけ』

江戸の諺『男はあたってくだけ』の話です。現在でも『男ならやってみろ』『男は度胸』などと、『男』の奮起を促す表現はあます。

世の中の『大事』は、『男』の役割で、『女』は『内助の功』で『男』に従うものという、社会の通念(主観の共有)があった江戸の時代では、特に『男』の『潔(いさぎよ)さ』は『粋(いき)』とみなされたのでしょう。

そうはいってみても、そのような『圧力』に耐えねばならぬのは大変なことですから、『男はつらいよ』と言いたくもなります。

人間の『精神世界』の特徴の一つが『推論能力』で、その能力を駆使して『予測』を行います。目の前の近い将来については、他の動物も『予測』することはあるのでしょうが、人間は遠い将来までも『予測』の対象にします。

『推論』は『因果関係』を想定することが前提になります。普遍的に矛盾のない『因果関係』を『物質世界(自然界)』の事象の中に見出そうとするのが『科学』です。その普遍的な『因果関係』は『自然の摂理(ルール)』と呼ばれ、『科学』の世界では、『予測』はこの『摂理』だけを用いて行われます。単純な要因で、『因果関係』を論ずることができるケースでは『科学』は、かなり正確に『予測』できますが、それでも『自然界』の事象は、非常に複雑で多様な要因が絡みますから、『科学』といえども、正確な『予測』ができないことが大半です。『台風の進路』『地震の発生』『火山の爆発時期』などを、現在の『科学』レベルでは正確に言い当てることはできません。

一方、人間の思惑や価値観が絡む、世の中の事象を『予測』するのは、『自然界』の事象の『予測』よりもさらに難しくなります。

私たちは、懸命に『予測』を試みますが、現実には将来を正確に見通すことが『できない』という矛盾を抱えて生きています。言葉を変えると、私たちは『こうあってほしい』と将来について、『夢』『期待』『願望』を沢山抱きますが、『そうなる』という保証のない状況で生きていることになります。

私たちが『夢』『期待』『願望』を抱くのは、『安泰を希求する本能』が根底にあるからです。そしてそれらが実現してほしいと、自由奔放に考え出した『因果関係』を駆使して『予測』をします。多くの場合この『因果関係』には『科学』のルールのような普遍性はありません。自由奔放に考え出した『因果関係』は、自分に都合のよい『屁理屈』に過ぎないことが大半です。『あの娘が、私を流し目でみたから、きっと私に気があるに違いない』などという『予測』をすることになります。

現実には、私たちは将来を正確に『予測』することはできません。したがって、何か問題にぶち当たった時には、『挑戦する』『何もしない(現状に耐える)』『逃げる』の選択肢しかありません。

『当たってくだけろ』は、その選択肢の中の『挑戦する』ことを意味します。

自分の責任で、どの選択肢を選ぶかは、人間の問題で、『男』に限った話ではありません。『男』にそれを強いるのは、社会の価値観が背景にあるだけの話です。

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2019年11月20日 (水)

江戸の諺『犬の手も人の手』

江戸の諺『犬の手も人の手』の話です。

『猫の手も借りたい(ほど忙しい)』という表現がありますから、これをもじった洒落なのでしょう。『猫の手が人の手の代用になるなら、犬の手もつかえるだろう』と茶化しているのでしょう、

『諺』や『洒落』は、『言葉』を用いた『遊び』です。『人間』は特別に『遊び』を好む動物です。これは高度な『精神世界』を保有していることに由来するのでしょう。

『遊び』は『楽しさを味わいたい』という欲求が背後にあり、いつもの梅爺流に表現すれば『安泰を希求する本能』が根底にあるということになります。

謹厳実直な人は、『遊ぶのは時間の無駄、遊ぶ時間があったら勉強しろ』などとお説教を垂れますが、『遊び』は、人間が無意識に利用している『ストレス解消法』でもあり、必ずしも『無駄』ではありません。

『良く学び、良く遊べ』という表現は、人間の本質を見抜いた名言であるように思います。

特に、子供にとっては『遊び』は、『好奇心を満たすもの』『ルールを学習するもの』『応用知識を増やすもの』『人間関係を知るもの』『情感を豊かにするもの』などの意味があり、大人になるプロセスとして『脳神経細胞ネットワーク』を強化していく重要な意味を持ちます。『遊び』に熱中するのは、健全な子供として当然のことです。

大人にとっても『遊び』は、『息抜き』であり、ストレス解消の手段として有効なものです。面白いもので、『遊び』でストレスが解消されれば、今度は、ストレスを求めて人間は有意義な目的に『挑戦』しようとします。弓を緩めたり張ったり繰り返すのが人生の極意なのでしょう。

『遊び心』をもった大人は、どこか魅力的です。

『スポーツ』は元より『芸術』も、原点は『遊び』ではないかと思います。人間は、これらを高度に様式化して、『スポーツ』『芸術』にまで高めたのでしょう。

『ゲーム』『娯楽』『芸能』に私たちが熱中するのは、『遊び』が人間にとって切っても切り離せないものであることを示しています。

精神状態を『楽しい』状態に保つことは、対応するホルモンが分泌されて、代謝が進み、免疫力が向上するなど、肉体的に良い効果をもたらすことが、医学知識で分かってきました。『笑う』ことは、健康に良いということです。結婚式で、新郎新婦が『笑いの絶えない家を作ります』などと誓いますが、大変重要なことです。人の顔から『笑み』が消えると、何か深刻な問題が起こったりします。

人間は、周囲のものを何でも『遊び』の手段にしてしまいますが、時に『言葉の遊び』は豊富です。

『日本語』の特性を活かして、日本人は沢山の『言葉お遊び』を考え出しました。『しりとり』などは、外国の言語では実現できない『遊び』です。

『アナグラム(文字の位置を変えて異なった意味の言葉に変える)』や『回文(前から読んでも後ろから読んでも同じ文章)』などもありますが、『五七五』『五七五七七』にこだわる『俳句』『川柳』『和歌』『狂歌』なども『言葉の遊び』の典型例でしょう。 

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2019年11月19日 (火)

江戸の諺『背中に腹』

江戸の諺『背中に腹』の話です。

現代でも『背に腹は代えられない』と言う表現は使います。『大事のためなら少々の犠牲は覚悟しなければならない』『他のものでは代用がきかない』というような意味いなります。

もともとは、大切な『腹』を守るためなら、『背』を犠牲にするのは仕方がないということだったのでしょうか。

江戸の諺は、『諧謔精神』に富んでいます。世の中に『代用が効かない』ものは、いくらでもありますが、比喩に『腹』と『背』という、意表を突いたものを持ち出してくるところが、笑いを誘います。諺を、『まじめなお説教』と言うよりは、『偉そうに振舞ってみても、所詮人間の本性なんてやつはこんなもんでござんしょう』と笑い飛ばしているところが、梅爺の好みです。庶民が、人間の本性を鋭く感じとっているところに感心します。

高僧や儒学者が、『人間はこうでなくてはなりませんぞ』などと、いくら奇麗事の『お説教』をしても、庶民は、いざとなれば『背に腹は代えられぬ』のが人間であると、弁えていたのでしょう。

『大事のためなら少々の犠牲は覚悟しなければならない』と言われると、『ごもっとも』と思いたくなりますが、自分にとって『大事』と思い込んでいることが、客観的な視点で観ると実は『些事(さじ:ささいなこと)』である多々あります。

何故このようなことが起こるかと言うと、人間の『精神世界』の価値観の尺度は、個性的であって、『バイアス』がかかっており普遍的ではないからです。

自分を客観視して、自分にとって『大事』は、他人にとって『些事』であることに気づく人は『器の大きな人』です。

『人間』は、『自尊心』や『面子(めんつ)』を、『大事』にする習性があります。

『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があり、周囲から自分が『ひとかどの人物である』と認められることを『願い』ます。それが自分にとって『安泰』であるからです。

したがって、他人から『蔑まされた』『無視された』『子供扱いされた』と『感じた』ときに、立腹のあまり『キレてしまう』人が沢山います。

他人が意図的に『蔑む』行為にでることはないとは言えませんが、多くの場合、それほど深く考えていない行為であったにもかかわらず、『蔑まされた』と『感じて』立腹することが大半です。

『夫婦喧嘩は犬も喰わない』などと言われますが、『夫婦喧嘩』の元の大半は、『自分がないがしろにされた(相手の言動が思いやりに欠けている)』と『感じて』、立腹することから始まります。『そんなつもりはない』と弁明すれば、更に『無神経だ』と火に油を注ぐことになりかねません。他人から見ると、『些事』で『犬も喰わない』ということに他なりません。

人間の『立腹』は、脳内に対応するホルモンが分泌される現象ですが、幸いなことに7秒くらい経つと、沈静化しますので、7秒我慢をすることが、知恵の一つになります。

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2019年11月18日 (月)

江戸の諺『首を長くして待つ』

江戸の諺『首を長くして待つ』の話です。

これは現代でも通用する表現で、朗報が届くのや、待ちわびた人が遠方から訪ねてくるのを、今か今かと心待ちにしている様子が目に浮かびます。

他の生物に優る能力として、『人間』の『推論能力』『予測能力』があります。

『人間』が考え出した『推論』の方法は、基本的に『演繹(Deduction)』と『帰納(Induction)』に区分されます。

『演繹』は、一つ一つの『正しい命題(理論)』を組み合わせて、新しい『正しい命題』を導き出す方法です。ここでの『命題(Proposition)』は、論理を表現した文章のことで、私たちが日常会話で多用する『命題(解決しなければならない問題)』の意味ではありません。

言葉はこのように、本来の使い方ではないにも関わらず、誰かが使い始めて流布してしまうと、一般に通用するようになってしまいます、基本的に言葉は、社会の約束事ですから、そのようなことが起こります。教養のある人は『命題にはそのような意味はない』などと指摘しますが、社会に定着してしまった約束事は、元には戻りません。

『演繹』を手っ取り早く理解するには、『三段論法』を典型例として考えればよいでしょう。

『動物は目を持つ』『人間は動物である』したがって『人間は目を持つ』といった論理展開が『三段論法』です。『動物は目を持つ』と言った表現が『命題』です。

『演繹』の落とし穴は、前提とする『命題』の中に『真』ではないものがあった場合です。上記の例でもし動物の中には目を持たないものが存在するとすれば、結論は『偽』に代わってしまいます。

他人を説得するときに、前提に『偽』の命題をそれとなく挿入して、自分に都合が良い結論を導き出し、それを利用しようとする人がいます。『神仏は人間を愛してくださる』『悪人も人間である』したがって『神仏は悪人も愛してくださる』という『三段論法』は、もし『神仏は人間を愛してくださる』という『命題』が必ずしも『真』でないならば、成立しません。『命題』の『真偽』を自分で判断することがいかに重要であるかが分かります。

『帰納』は、観察事項(事実)に例外がないことを確認して、個別の事例から『一般法則』を導き出す方法です。『Aさんが亡くなった』『Bさんも亡くなった』『過去に亡くならなかった人は存在しない』したがって『人は必ず亡くなる』という結論をえます。

『帰納』の場合、観察事項の『命題』が、一つ一つ納得できるものでなければなりません。一つでも納得できないもの(矛盾を含むもの)があれば結論は『真』とは言えなくなります。

『科学』は『演繹』『帰納』を駆使して、普遍的な『法則』を見出そうとする学問領域です。期待や願いと言った、非論理的要素は、『科学』の世界では通用しません。

しかし、人間の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』に支配されていますので、『推論』『予測』に期待や願いが込められることになります。

『こうあってほしい』と願う故に、『首を長くして待つ』ことになります。

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2019年11月17日 (日)

『芸術』の政治的統制(6)

『独裁者の支配する国家』『独裁的政党が支配する国家』では、『信条の自由』『表現の自由』は優先されません。『独裁者』『独裁的政党』の権威が脅かされるものは、全て排除しようとするからです。

『全体』の秩序を守ることが最優先になり、『個』は自分を抑制しなければならなくなります。もし『全体』の秩序に異を唱えれば、『反社会的』と糾弾され、強制労働が科せられたり、処刑されたりします。『個』の言動は『秘密警察』に監視され、『恐怖政治』が支配することになります。

『梅爺閑話』の様な能天気で言いたい放題のブログを書いていたら、真っ先に糾弾対象になるでしょう。

このような環境下で、大きな『精神的苦痛』をこうむるのは、『宗教』『芸術』『思想』の関係者と言うことになります。

人類の歴史の中で、自分の考え方に従わない人たちを徹底粛清した『政治権力者』は沢山存在します。日本の歴史でもそのような『権力者』は皆無ではありません。近世以降では『ドイツナチスのヒットラー』『ソ連のスターリン』が最悪の例としてあげられます。

『独裁者』は、『恐怖』で他人を制御できると本当に思いこんでいるのか、それとも権力を維持する手段として『恐怖』を利用する以外の方法がないのか、分かりませんが『独裁』は陰湿な『恐怖政治』と結び付くことになります。そして『独裁者』の顔からも、支配される人々の顔からも、『本当の笑み』は消え失せます。『金正恩』『習近平』『プーチン』に梅爺は『能面』のような冷たさしか感じません。『本当の笑み』を感じません。

『精神世界』の自由な表現が、『資本主義にくみする退廃』『愛国心の欠如』とされ、多くのソ連の『芸術家』は、精神的苦痛に耐えかね『亡命』の道を選びました。梅爺の好きな『音楽』の世界では、『ストラヴィンスキー』『プロコイエフ』などがアメリカへ亡命しました。彼等は20世紀を代表する『大作曲家』の評価を現在得ています。エストニアの大指揮者『ネーメ・ヤルヴィー』一家も、アメリカへ亡命しました。その息子が、現在NHK交響楽団の首席指揮者『パーヴォ・ヤルヴィー』です。

亡命しなかった作曲家では『ショスターコヴィッチ』が有名です。『スターリン』に作曲のし直しを命じられたり、作品の演奏が禁止されたりしましたが、それでも演奏されることがないと分かっていても、作曲を続けました。当然、心の闇、絶望感などが表現されていて、現代の私たちの心に響きます。『スターリン』の死後、彼の作品の一部は『ソ連』でも演奏されるようになり、同胞の人たちにも感銘を与えました。

『芸術家』にとって、『政治的統制』は、存在が全否定されるような苦しみであったに違いありません。

しかし、『民主主義』体制でも、『芸術』は野放しの『自由』が許されるわけではありません。『公序良俗』という、社会の『主観の共有』があり、この一戦を越えると、社会から糾弾されることになります。『個』と『全体』の間の齟齬は、いつの時代、どのような体制下でも、程度の差はあれ存在するのです。

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2019年11月16日 (土)

『芸術』の政治的統制(5)

『民主主義国家』では、『基本的人権』として『信条の自由』『表現の自由』が法により保護されていて、それは好ましいことであると私たちは考えています。また『人は生まれながらにして平等である』という価値観も、好ましいとして受け入れています。

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』などという『福沢諭吉』の言葉にも感銘を受けます。

しかし、『自由』『平等』『正義』などと言う概念は、それほど単純なものではありません。

たとえば『平等』のことを考えてみれば、現実に私たちは『生まれながらに平等』には創られていません。

『容貌』『体格』『知的能力』『運動能力』『情感能力』など、一人一人異なって生まれてきます。『生物進化』の過程で、そのように『個性的』につくられるように宿命づけられています。生き残りに適した資質の持ち主が、『種の継承』をけん引するという冷厳なルールがそこには働いています。自然界の生態系でも、冷厳な『弱肉強食』が支配しています。

『人間社会』は『格差』を是認することで成り立っています。『経済』行為などはその典型です。先進国は後進国の『低賃金』な労働力格差を利用します。

『民主主義国家』でも、『試験』『オーディション』『トライアウト』は日常的に行われ、『合格者』は『不合格者』より、有利な扱いを受けます。

『基本的人権』としての『平等』の概念を理解するには、人間社会が抱える『個』と『全体』の問題を認識しなければなりません。

本来個性的な『個』が集まって『コミュニティ(群れ、全体)』を形成した時に、『個』は個性的であるからと言って勝手気ままにはふるまえなくなりました。

『コミュニティ(全体)』の秩序を維持する為には、『個』が自分を抑制してまでも、従う必要がある『約束事』が出現しました。『法』『憲法』『倫理』『道徳』がそれに当たります。

無人島で一人暮らす『ロビンソン・クルーソー』には、『法』『憲法』『倫理』『道徳』などは不要です。

『個』の価値観と、『全体』の価値観が必ずしも一致しない『矛盾』を、普遍的に解決する『知恵』を人類は見出していません。多分これからも見いだせないでしょう。『法』『憲法』『倫理』『道徳』は、次善の策に過ぎません。その証拠に、『コミュニティ』によってこれらの内容は同じではありません。

それならば、『個』はいつでも『全体』のために自分を犠牲にして『泣き寝入り』しなければならないのかと言うと、そういうわけにもいきません。『個』の『安泰を希求する本能』は強固なものであり、『全体』のために自分の安泰が脅かされていると『感じた』ときには、大きな『精神的苦痛』を抱え込むことになるからです。

『格差』は認めざるを得ないものですが、『格差』がもたらす一部の人への『苦痛』を看過できないという『禅問答』のような論理が、『人間は生まれながらに平等』という思想の背景にあります。現実は『平等』ではないから、『平等』という考え方が必要であるという難しい考え方を、私たちは受け入れなければなりません。

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2019年11月15日 (金)

『芸術』の政治的統制(4)

『芸術』に類似したのので『芸能』があります。両者ともに『創造者(作者、演者など)』と『鑑賞者(読者、聴衆など)』の関係で成り立っているのは同じです。

違いは、『創造者』の制作動機にあります。『芸術』の『創造者』は、自らの気持ちや情感を表現したいという動機が優先しますが、『芸能』の『創造者』は、『鑑賞者』に『うける』ことを優先します。

『芸術』で『鑑賞者』が感動のあまり涙を流すことはありますが、『芸能』の場合は、『創造者』がしかけた『お涙ちょうだい』のしかけに、『鑑賞者』が狙い通りにはまって落涙することになります。

『芸能』は『娯楽』提供が目的になり、その分『大衆』が受け入れやすいものになります。

一方、『芸術』は、特定の能力を保有する限定された『創造者』と『鑑賞者』の関係で成立することになり、社会の中では『少数派』になりがちです。

ただし『芸術』と『芸能』の境界は、それほど明確ではなく、『芸術』の中にも『芸能』の要素が、『芸能』の中にも『芸術』の要素がないわけではありません。

一般論として『芸術』は『高尚』であり、『芸能』は『低俗』ということになるのかもしれませんが、それほど単純な区分けにはなりません。

『芥川賞』と『直木賞』のことを考えていただくと分かりやすいかも知れません。

『文楽』や『歌舞伎』は、もともと庶民の『大衆芸能』でしたが、洗練された高みを目指す努力もあり、現在では『伝統芸能』として、『芸術』に近いレベルの評価を受けるに至っています。一部の『ジャズ』は、『クラシック音楽』の領域と似たものになっています。

『低俗』のままでは飽き足らず、高みを目指そうとするところが、『人間』の素晴らしいところです。『伝統工芸』『茶道』『華道』『俳句』『和歌』『和食』など、精神性の高みを目指す努力が、日本文化の得に素晴らしいところで、世界に誇りうるものです。

『芸能』は『ビジネス』として『金儲け』が目的になりますが、『芸術』は『金儲け』が直接の目的にはなりません。しかし『芸術家』も生きていくためには『金』は必要であり、芸術行為が『金』になるなら、それに越したことはありません。

結果的に『金儲け』ができる『芸術家』は幸運な人であり、『金儲け』ができない『芸能人』は不幸な人と言うことになります。

人類の歴史に中で『芸術』と良好な関係を築いてきたと言えるのが『宗教』ではないでしょうか。『神仏を讃える』『霊を弔う』などという『精神世界』の情感を、『芸術家』の『信仰心』が表現し、『信者』はそれに『共感』して、結果的に『宗教』の基盤が強固なものになりました。『宗教』が本当に『芸術』の本質を理解していたかどうかは分かりませんが、結果的に『宗教』と『芸術』は、相互依存の関係を築いてきたことになります。

『芸術』の本質を理解しない『政治権力者』が出現すると、『政治』と『芸術』の間に深刻な問題が生じます。『政治権力者』は、自分の価値観で不都合と判断する『芸術』は弾圧の対象にし、都合が良いと判断する『芸術』は庇護の対象にしようとします。言葉を換えれば、『芸術』は『政治』の手段となり、『芸術の政治的統制』が始まります。

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2019年11月14日 (木)

『芸術』の政治的統制(3)

『群をなして生きる』ことを選択した『人間』にとって、『絆』が群のなかにおける『安泰』を確認する重要な要因になりました。『同窓会』『趣味の仲間の集い』『信仰の仲間の集い』『親しい老人の集い』などに、私たちが惹きつけられるのは、このためです。その場に身を置けば、『自分は一人ではない』という実感が得られるからです。

自分が帰属する『コミュニティ』に愛着を持つのも、『絆』の確認に起因する習性です。

『国のために身を捧げる』ことを『愛国心』と定義すれば、『道徳教育を強化して愛国心を高める』などの発想になるのでしょうが、『愛国心』は自分が帰属する『コミュニティ』への愛着であると定義すれば、ほとんどの日本人は本能的に『愛国心』を保有していることになりますから、『道徳』などを持ち出す必要はありません。

『オリンピック』や『ワールド・カップ』で『日本』が勝ち進めば、多くの日本人は熱狂します。

梅爺が現在でも『男声合唱』を続けているのは、『歌うことが好き』『より高いレベルの表現を実現できた時の満足感』もありますが、単純に『絆』の確認が大きな要因になっています。

『人間社会』で『芸術』が成立するには、基本的に『創造者』と『鑑賞者』の存在が必要になります。

もともと、『群のなか』で、『自分が考えていること、感じていること』を何としても表現したいという本能が、『創造者』の動機になっています。一般論でいえば『人間』は誰もが『創造者』の資質を保有していると言えます。

やがて特別に仲間の注目を集める『表現』をする人が現れ、それが『芸術』の『創造者』の原点となったのでしょう。

仲間が『注目』したのは、『創造者』の『表現』に触発されて、仲間の『精神世界』が『感動』や『共感』を覚えたからです。この仲間の体験が『鑑賞者』の原点になりました。

『芸術』は、『創造者』の能動的な『表現』が、『鑑賞者』の中に受動的ながら、今まで体験したことがない新しい『感動』『共感』を誘発し、両者の間で深い『絆』が確認されるといった行為を意味します。

『芸術』は、肉体的な空腹を満たしたり、寒さから身を守る手段にはなりませんが、『心』の渇きをいやすという高度な『絆』の確認を実現します。

『肉体的な安泰』『精神的な安泰』を、車の両輪のように必要とする『人間』にとって、『芸術』は何故必要とされるのかがお分かりいただけたでしょうか。

ただし『芸術』は、高いレベルの『絆』の確認を追い求めますから、そのようなことに興味を示さない、『名作』『名曲』『名画』などに無関心な人たちが存在するのも、当然のことです。その人たちは、低俗な娯楽で『絆』を確認していることになります。人間の『精神世界』は『個性的』であるからです。

高いレベルの『絆』を求める人が、どのくらいの割合で社会に存在するかが、その社会の成熟度の目安になります。文化の進化は、高いレベルへ移行することであるからです。

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2019年11月13日 (水)

『芸術』の政治的統制(2)

『芸術』が何故『人間』にとって重要な意味をもつかは、『安泰を希求する本能』が『人間』を支配していると考えないと見えてきません。

勿論、『人間』だけでなく、あらゆる『生物』は、『安泰を希求する本能』に支配されています。『生物進化』の過程で、『個』や『種』の生存確率を高めるために、最も重要な要因であったからです。『安泰を希求する本能』の資質を強く保有する遺伝子をもつものが、生き残ってきたと考えられます。『人間』は、その資質を継承しているに過ぎません。

『脳』の進化で、高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』は、『心身ともに健やか』が『安泰』の要件になりました。つまり、『肉体の安泰』『精神の安泰』を両輪のように必要とする存在になりました。

もっとも、『イヌ』や『ネコ』も、急激な環境の変化がストレスになって、『病気』になるところをみると、『人間』と同じレベルではないにせよ、何らかの『精神(心)』』を保有していると推測できます。

『生物進化』を考えれば、『人間』だけが『精神』を保有していると考える方が不自然です。ただそのレベルが大きく異なるということなのでしょう。

もう一つ、『芸術』を考える時に重要な要因は、『人間』が生物として『群をなして生きる』という方法を選択したことです。

『群をなして生きる』ことを選択したのは、生物として『人間』だけではありませんが、高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』にとって、『群をなして生きる』は『個だけで生きる』のとは異なった『資質』を求められることになりました。

一般論としては、これは『人間』だけの問題ではなく、『群をなして生きる』生物にとっても共通の同様です。

『人間』の高度な『精神世界』は、『群をなして生きる』上で、『人間』独特の『資質』を獲得、継承していくことになりました。

ここでも『安泰を希求する本能』が強く働きました。『群』の中で『安泰』が脅かされるのは『仲間はずれ』にされてしまうことで、何としても『自分の存在を仲間に認めてもらう』ことが必要になりました。

そのために『他人がどう考えているか、どう感じているか』を『知る』ことと、『自分がどう考えているか、どう感じているか』を他人に『知ってもらう』ことが重要なカギを握ることになります。

『コミュニケーション』能力は、このようにして養われて行きました。『言葉』『言葉以外の表現(音、絵、造形)』『顔の表現』『身体のジェスチャー』などあらゆる手段が『コミュニケーション』のために駆使されました。

私たちが現在でも『絆』にこだわるのは、この基本的な『資質』を継承しているからです。『絆』を確認することは、『群のなかのでの安泰』を確認することです。

『孤独』や『仲間はずれ』が、『人間』にとって大きなストレスになるのはこのためです。

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2019年11月12日 (火)

『芸術』の政治的統制(1)

『芸術』の政治的統制は、『好ましくない』と多くの日本人は答えるでしょう。

『統制』という言葉が秘めるネガティブなニュアンスに反応して、直感的に『好ましくない』と感ずるからでしょう。『自由』は『好ましい』と答えるのも同様な反応ではないでしょうか。

『芸術とは何か』『人間は何故芸術を必要とするのか』や、『人間社会に何故統制は必要なのか』などを、深く考察して『理』で『好ましくない』と答える人は、意外に少ないに違いありません。

『芸術の政治的統制』について、理屈っぽい議論はあまり意味がないのではないか、大体『芸術』は人間社会の共有『文化資産(遺産)』であって、無形の価値は高く評価されるべきであり、保護して後世へ継承していくのは『当たり前』ではないかと、おっしゃる方もおられるでしょう。

現代の日本社会で、『芸術の政治的統制は好ましくない』と『考え方』が『当たり前』のことという『主観の共有』として根付いていることに梅爺は異を唱えるつもりなどありません。結論的にいえば、梅爺も『好ましくない』と判断しますので、この『主観の共有』は健全であると思います。

日本人が歴史的に育んできた『伝統』の『受け止め方』、『民主主義』を採用して『基本的人権』を尊重しようとしてきた姿勢、『玉石混淆』の多様な『芸術』に接して、『石』と『玉』を見分ける鑑識眼を保有するようになったこと、『芸術』が精神的満足に関係していることを実体験していること、などが相まって『当たり前』という『主観の共有』が醸成されているのでしょう。

しかし、世界中の国が、日本と同じような『当たり前』を保有しているわけではありません。

『人間』は『肉体的な安泰』と『精神的な安泰』の双方を希求する生物ですが、『精神的安泰』の価値など認めない体制の国家では、『芸術』は、『国威発揚』や『愛国心涵養』の手段程度にしか過ぎず、政治リーダーにとって『好ましくない』芸術表現は統制の対象になります。

現在でもそのようなことが行われている国は、少なからずあります。

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2019年11月11日 (月)

『人間』と『自然』の乖離(8)

現在75億人に達した、地球上の『ホモ・サピエンス』が、『快適』『便利』な生活を求めて、地球資源をむさぼるように消費するようになると、それは地球環境の『平衡状態』を変える要因にもなりえます。そしてそのことが『人間』にとって不都合な状態を惹起する要因にもなるという可能性を秘めています。

現在進行している『地球温暖化』の現象は、全て『人間』の所業に由来するものとは断定できないにしても、全く関係がないとも断定できません。

将来のことより、目先のことを優先してしまうという『人間』の習性が、結果として不都合な将来をおびき寄せてしまうことになりかねません。目先より将来を優先するという判断には、『理性』を必要としますが、人類全体の現状の対応は、残念ながら『理性的』なレベルには達していません。認識に『甘さ』があると言いたくなるのはこのことです。

『人間』の『自然』に対する勘違いの二つ目は、『自然』を自分の外に存在する『別世界』と観ていることです。このエッセイの『人間と自然の乖離』などという表現が、端的にそれを表しています。

梅爺がブログに書いてきた『物質世界』は『自然』『宇宙』のことですが、『人間』の肉体や『生命活動』は、すべて『物質世界』に包含される事象です。この視点で観れば『人間』は『自然』の一部で、『誕生』『生きる』『死』は、摂理に支配される『自然』界の『変容』の一部に過ぎません。人間の肉体を構成している素材は『自然』界の当たり前の素材に過ぎず、生命の維持は全て『摂理』に支配されています。

『人間』は『自然』の一部なのですから、『乖離』などできるはずがありません。『人間』の所業が『自然』の『平衡状態』に影響を与えるのも当然のことです。現代の科学知識がもたらした、『人間は自然の一部に過ぎない』という認識を、私たちはもっと重視すべきです。近世以前の人たちとは、違った意味で、私たちは『自然』に畏敬の念を持つべきです。私たちは『自然』によって『生かされている』のですから。

それでは、何故私たちは『自然』を、自分たちと対立する存在とみなすのでしょう。それは、『人間』の『精神世界』がもたらす認識であるからです。

『精神世界』は、『自分』と『自分以外』に分けて、物事を観ます。『自分』は特別な存在であり、『自分』の力や能力で『生きている』と思いがちです。こう考えると、『自然』は『自分以外の別世界』になり、対立する存在になってしまいます。

しかし、生物としての『人間』は、『自然』の一部にすぎないというのが実態です。『自然』と『共生』すべきであるなどと言う主張は的外れで、『共生』しなければ生きていけない存在なのです。私たちの腸内には、700兆個と言われる『腸内フローラ(微生物)』が『共生』しています。

『人間』や『人間社会』の事象を、『物質世界(自然界)』『精神世界』の両面で観る必要があると、何度もブログに書いてきましたが、今回もその意を強くしました。『精神世界』は『人間』の特徴を見極めるために重要ですが、それだけで判断すると、全体を見間違うことになりかねません。

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2019年11月10日 (日)

『人間』と『自然』の乖離(7)

近世以降の『人間』は、『自然』を能動的に利用できる対象と観るようになりました。

『自然』の摂理や資源を利用して、『自然』界には存在しない『モノ』を多数生み出し、それを『便利』『快適』を実現する道具として使い始めました。

中世以前の『人間』、鉄を『刀』に変え、木材を『家』や『馬車』に変えていたという点では同じですが、近世以降の『自然』利用のレベルと量は、圧倒的な違いと言えます。

結果的に、近世以降『人間』は『自然資源』をむさぼるように消費し始めました。

私たちは、『自然』を『畏敬の対象』というより、『利用できる対象』と考えるようになったということです。

ある意味で『自然』に対して『不遜』になった『人間』の重大な勘違いが二つあるように思います。

一つは、『人間』の過度の行動が、『自然』の平衡状態を変える要因になりえることの認識の甘さです。『地球(自然)』の環境は、『ホモ・サピエンス』が出現して以来、約20万年間、幸いなことに『ホモ・サピエンス』が、生息できる環境(平衡状態)を継続しています。これは『物質世界』の本質を考えれば、『必然』的なことではなく、むしろ『偶然の僥倖』と言う方が適切です。

『地球環境(平衡状態)』』が、いつまでも『ホモ・サピエンス』にとって都合の良いものである保証など何もありません。

『人間』の視点で『地球』の歴史を観ると、現在の『環境(平衡状態)』が出現したのは、『偶然の僥倖』の連鎖であることが分かります。

『太陽(恒星)』からの距離が『ハビタル・ゾーン』と言われる場所に軌道が定まり、液体の『水』が存在可能な『岩石惑星』として誕生したこと、多量の『水』を保有するようになったこと(この理由は確定できていない)、内部の『マントル』が自転軸にそって回転し、『地磁気』が生じて宇宙からの有害な宇宙線(放射線)を、遮蔽するようになったこと、大気が存在し、後にその大気に『酸素』が多量に含まれるようになったこと、など全て『偶然の僥倖』』としか言いようがありません。もし、一つでも条件が異なっていたら、『地球』に『生命体』が出現することもなく、当然私たちも存在していなかったことになります。

『偶然の僥倖』の連鎖は、『神』が『人間』のために用意してくれた『意図』であるという主張には無理があります。『物質世界』の絶え間ない『変容(動的平衡移動)』は、『摂理』によるもので、唯一『摂理』の存在は『神』の『意図』と言えそうですが、『摂理』は『人間』にとって不都合なことが起こる要因でもありあすので、『愛』や『慈悲』の象徴である『神』と関連付けるのには無理があります。

『物質世界』に何故『摂理』が存在するのかは、現代科学も『分からない』ことです。多分『科学』にとって最大の難問の一つと言えます。

現状において『物質世界』を説明するのに、『神』は必要でないように見えます。

『天地創造』は『神』の御業という説明も説得力を持ちません。

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2019年11月 9日 (土)

『人間』と『自然』の乖離(6)

『人間』の『自然』に関する観方が、近世以降、それ以前の時代と変わってきたのは、これもまた『主観の共有』内容が『変容』しつつある事象と観ることができます。

このエッセイの著者が、その『変容』を『乖離』と観るのは、以前の関係は『親密』であったものが、『疎遠』に変わりつつあると感ずるからでしょう。

これは、『科学』が、『人間』にとって『摩訶不思議で神秘な存在』であった『自然』を、『冷徹な摂理(ルール)で絶えず変容する物質の集合体』という味気ない認識に変えてしまったことに由来するものと梅爺は考えます。

『自然』の『変容』には、『人間』の『精神世界』にとって重要な意味を持つ『あるべき姿』『目的』『意図』などという概念は含めれていませんし、同じく『人間』の『精神世界』では重要な役割を果たす『情感』も存在しません。『崇高な日の出』は、あくまでも『人間』の『精神世界』の認識であって、『自然』にはただ『日の出』という事象が『変容』の一つとして存在するだけです。『恵みの雨』『息を呑む絶景』『妖しげな闇夜』なども同じです。

当然ながら、『人間』の『精神世界』では重要な行為である『願う』『期待する』『祈る』も『自然』には通用しません。『加持祈祷』で、『台風の進路』を変えたり、『地震』の発生を食い止めたりはできません。

『自然が突然牙をむいて襲ってきた』などと言われるのは、『自然』にとっては迷惑な話になります。『自然』には『人間』を喜ばせようとか、困らせようとかいう『意図』はないからです。

中世以前の『人間』にとって、『自然』は『摩訶不思議で神秘な存在』ではありましたが、時に優しく、時に厳しい『隣人』『友人』といった、一種の『人格』を感じとっていたのではないでしょうか。

したがって、『自然』の中に『人間』へ向けられた『メッセージ』が込められているはずであると『信じ』、それを懸命に読み取ろうとしました。『赤い星』が夜空に現れたら、それは不吉の予兆であるといった『因果関係』としてとらえました。

当然、『人間』の願いを、『自然』に届け、それをかなえてほしいと『祈り』ました。

ところが『科学』は、『自然』は『冷徹の摂理で絶えず変容を続ける物質の集合体』に過ぎず、『人間』の存在などには全く無頓着であることを明らかにしてしまいました。

交際相手が、自分に関心を持ってくれているに違いないと期待していたら、実は関心のひとかけらも持ち合わせていないことを突然知らされたようなものです。

これでは、『人間』の『自然』への思いが、冷めてしまうのは当然のことです。

このエッセイの著者が、『もう一度自然への愛を取戻そう』などと叫んでも、無理な話です。

『科学』は更に、『人間』が『便利』で『快適』な生活をするために、『自然』の摂理や資源は利用できることも明らかにしました。

中世以前の『人間』も、『自然』のもたらす恵みは、『生きる』ために必要と考えていましたが、それは『恵みを受ける』という受動的な姿勢でした。

近世以降『人間』は、逆に『自然』を能動的に利用するという姿勢に一変したことになります。

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2019年11月 8日 (金)

『人間』と『自然』の乖離(5)

生物の中で、『人間』だけが保有する『主観の共有』能力は、人類が『文明』を進展させる上で、決定的な役割を果たしました。『神(神々)』『国家』『貨幣』などという、本来抽象概念であるものを、実態として『価値ある存在』として認める、『主観の共有』が出現したからです。

『イヌ』や『ネコ』の世界には、『神』『国家』『貨幣』などの概念を共有する習性は存在しないように見えます。

『主観の共有』は、見ず知らずの多くの人たちが、『結束』できる要因であることが重要なことです。地球上の広域に普及した『宗教』、広域な版図(はんと)を支配する『帝国』、グローバルに通用する『貨幣』などは、『人間』だけが保有するものです。

この『主観の共有』は、『ホモ・サピエンス』が約7~8万年前に、『生物進化』で獲得した『抽象概念の認識能力』によるものであると、『ホモ・デウス』という本の著者は主張しています。『ネアンデルタール』を絶滅に追いやり、ホモ・サピエンス』が地球上の唯一の人類種として君臨するようになったのは、この『抽象概念の認識能力』によるものとこの著者は推論しています。

科学知識を保有しなかった時代の『人間』にとって、『自然』は『摩訶不思議で神秘な存在』であったと前に書きました。

『自然』は、自分たちが生きていく上で、重要な影響力を持つことは、当時の『人間』も認識しましたが、『自然』が時折、『人間』にとって不都合な事態をもたらすことに、困惑したに違いありません。特に『天災』は恐ろしいものでした。

『自然』を支配している『何者』かが存在すると考え、これが『神(神々)』の概念となりました。『宗教』の原点は、この『自然に宿る神(神々)』という概念を、人々が『主観の共有』をしたことであろうと梅爺は思います。『アミニズム』の登場です。

『アミニズム』では、『神(神々)』と『人間』の橋渡し役が必要になり、そのような特殊能力をを保有する人物(シャーマン)が人間社会で重要な役割を果たしました。『アミニズム』は『シャーマニズム』とも表現されるのはこのたです。日本の歴史では『卑弥呼』が、その典型的な『シャーマン』です。

『アミニズム』では、ある種の動物が『神の化身』『神の使い』と考えられました。『白馬』は『神馬』、『白鹿』は森の守り神、『狐』は『稲荷神』と考えられました。そして架空の動物『八咫烏(やたがらす)』は『神の使い手』となり、『竜』は水を司り、火事から家屋を守る『神』となりました。

このような『主観の共有』は、現代の日本にまで一部継承されているのですから、いかに根強いものであるかが分かります。

それでもさすがに現在では、『古代エジプトの神々』『古代ギリシャの神々』『古代ローマの神々』は、人々の信仰の対象で無くなっていますので、『主観の共有』の内容も、永い時をかけて『変容』していくものであることが分かります。

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2019年11月 7日 (木)

『人間』と『自然』の乖離(4)

中世以前の人類にとって、『摩訶不思議で神秘な存在』であった『自然』の正体を『科学』は、次々に暴きだしました。この結果『幽霊の正体見たり枯れ尾花』といったことになってしまい、『人間』にとって『自然』は、『摩訶不思議で神秘な存在』では無くなってしまいました。

科学知識がなかった時代も、『人間』は『自然』を、なんとかして『因果関係』で説明し、自分を納得させようとしました。『精神世界』の基盤に『安泰を希求する本能』があり、『分からないこと』を放置することは、安泰を脅かす要因になりますので、自分が納得しやすい『因果関係』を考え出しました。

勿論、この習性は現代人の私たちも、継承しています。『分からないこと』『自分に都合が悪いこと』に遭遇すれば、安泰が脅かされますから、懸命に『因果関係』を考え出して、自分を納得させようとしたり、自分を弁解したりしようとします。

『科学者』が真理を追究するのも、基本的にはこの習性によるものですが、『科学』の場合の『因果関係』は、普遍的に『真偽』が判定できるものでなければならないという条件がつきますから、私たちが普段思いつく、『自分を納得させる』『自己弁明をする』ための、いわば自分にだけ通用する『因果関係』とは性質がことなります。

もっとも、私たちは、自分が考え出した『因果関係』を時に、普遍的に正しいと勘違いしがちです。そして『私は正しい、あなたは間違っている』と主張することになります。

政党間で戦わされる議論、国家間で戦わされる外交上の議論など、冷静に観れば、大半がこのレベルの議論で、『科学』の『真偽』を対象とした議論とは異なります。

私たちが普段議論する時に、『問題』には必ず一つの『正しい答』があると勘違いするのは、学校教育で受けたテストのせいではないでしょうか。『科学』や『数学』の問題でもない限り、世の中の『問題』の大半には一つの(普遍的な)『正しい答』などありません。これは『人間』の『精神世界』の『価値観』が『個性的』であることに由来します。

『人間』は生物として、肉体的にも精神的にも『個性的』であるように宿命づけられているということの、真の意味を私たちはもっと深く受け止めるべきです。

『自分を納得させる』『自己弁明する』ために、『人間』の『精神世界』は、自由奔放に『因果関係』を思いつきます。『個性的』であることに加えて、これは『人間』の『精神世界』の重要な特徴の一つです。

一方私たちは、誰か他人が考え出した『因果関係』に、大きく影響される習性も持ち合わせています。他人が考え出した『因果関係』を、受け入れて(信じて)、以降それを自分の『因果関係』としてしまう習性です。独創的な『因果関係』を考え出すよりは、手っ取り早い、安易な方法であるからでもあります。聖職者の『説教』、雄弁なリーダーの『演説』、著名な評論家の『主張』、有名人の残した『名言』などが、大きな影響をもちます。

このようにして、本来他人の『主観』であった内容を、あたかも自分の『主観』におきかえることを、『主観の共有』と呼びます。

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2019年11月 6日 (水)

『人間』と『自然』の乖離(3)

このエッセイの著者は、『人間』と『自然』の乖離の問題を解決するカギは、『人間』の『自然』に対する『愛』を回復すべきであると主張しています。

大自然の中に、身を置いたときに誰もが感ずる『心の安らぎ』を体験する機会を増やし、『愛』を回復すべきであると言った主張です。

静寂な森林の中に身を置いたときや、海辺で繰り返し寄せる波の音を聴いているときに、確かに私たちは『心が癒される』体験をします。

『生物進化』論を主張する学者は、木の実や魚介を採取しながら、『安泰』を得て生活していた太古の人間の環境に対する感覚(習性)が、本能として現代人の遺伝子の中にまで継承されているからであると説明し、『脳科学者』は、森林が生み出す『酸素イオン』や、波の音に含まれる『α波』が、『脳』に『安らぎ』を感じさせる要因であると説明します。

『α波』は、胎児の時に母親の子宮の中で聴いていた『環境音』に似ていて、更にその音は、先祖の生物が『海』で生きていた時の『環境音』に類似しているからであると、こちらも『生物進化』を引用して説明します。

『自然』への『愛』を回復すべきであるという主張は、『自然』への『愛』が、現代人の中で失われつつあるという主張の裏返しでもあります。

一理ある主張のように見えますが、『人間が愚かな戦争を回避する為には、神への信仰や他人に対する愛を大切にすべきである』といっているような、空疎な理想論のようにも思えます。

少なくとも議論を具体化するには、何故『人間』は『自然』に対する『愛』を失うことになったのかを見極める必要があります。

この事には、『科学』が大きくかかわっていると梅爺は思います。

『科学』の知識が増えるに従って、『人間』は『自然』を、『摩訶不思議で神秘な対象』ではなく、『ルールで変容する物質の総合体』と観るようになったことが真の原因であると思います。梅爺も『自然界』を『物質世界』と表現してきました。

『太陽』『月』『星』『風』『雷』などへの観方は一変しました。それらに付随していた『神』の概念も消滅しました。近世以前の人類は、『太陽神(お天道様)』『月の女神』『星座の神や生物』『風神』『雷神』を、本当に『信じて』いたことを思い浮かべてみる必要があります。『俵屋宗達』は、そう信じて『風神雷神図』を描いていたということです。

私たちが歴史を考える時には、『昔の人は太陽神を信じていた』と認識するだけでは十分ではなく、自分が当時の人間であったら、『自分もそれを信じていた』という前提で、当時の人たちの『考え方』『感じ方』を仮想体験することが大切です。

『古事記』『日本書紀』に現れる『神話』は、現代人の私たちが『神話』と区別しているだけで、当時の日本人にとってはまぎれもなく『歴史』の一部であったということです。

『天災』も『疫病』も、『悪霊のたたり』で起きるもので、『陰陽師』のまじないや、神官、僧侶の『加持祈祷』は、それを封じる手段として『信じられて』いました。『天皇』が執り行う『神事』は、形式ではなく、『国家安泰』のための、最重要政治(まつりごと)でした。『科学』の知識が、なかったからに他なりません。

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2019年11月 5日 (火)

『人間』と『自然』の乖離(2)

『自然』の『再生能力』が、自分たちがいつまでも安心して生きていけるための大切な要因と考え、資源の使用量を抑制するか、、『自然』の『再生能力』を越えてまでも、現状の『快適さ』『便利さ』を優先する為に資源をどんどん利用すべきか、といった違いをこのエッセイの著者は論じています。

上記のように書けば、『理性的』な人なら躊躇なく前者の態度が『好ましい』と判断するでしょう。

このエッセイも含め、多くの見識者が、人類がすぐにでも『考え方』を変えて、『自然』を『共生』の対象にする『施策』を打ち出すべきだと警鐘を鳴らしています。

『アル・ゴア』の『不都合な真実』などが、代表例です。

『自然』は、人間にとって必要なものを、永久に、無尽蔵に供給してくれるものと、多くの人間が、蒙昧(もうまい)にも『勘違い』していたというなら、『考え方』を変えることは可能かもしれません。

しかし、多くの『警鐘』が鳴らされ、『このままでは、人類は絶滅の危機に瀕するかもしれない』と、不安を抱くようになった現在でも、地球資源を大量に消費する傾向に、歯止めをかける抜本的な『施策』が打たれないのは、何故なのでしょう。

『炭酸ガス排出規制』『漁業量の規制』『森林保護』『生態系保護』『再生エネルギーへの転換』など、部分的な努力がなされていますが、そのような努力でさえ、国際的な『合意』を得ることが極めて難しいことは、御承知の通りです。

このような部分的な努力の累積で、問題が解決するように思えません。また、救世主のような『英邁な政治リーダー』が突然出現し、人類を救ってくれることを期待するのも非現実的です。

少なくとも、この問題は、人間の本質的な習性を直視し、それを認めないと議論が始まらないのではと梅爺は感じます。

人間の本質的な習性とは、『当面の都合(安泰)を最優先する本能』や、自分に都合が良い『因果関係』を考え出して、『自己肯定』『自己弁護』する習性のことです。

一度手に入れた『快適さ』『便利さ』を放棄し、以前の状態に戻ることがいかに難しいか、もう少しで手に入れられそうな『便利さ』『快適さ』をあきらめることも、いかに難しいかを、自分のこととして考えてみればご理解いただけるでしょう。

この本能は、『欲望』『煩悩』の元で、『好き』『嫌い』という生物として原始的な『情感』を生み出す元でもあります。

『欲望』『煩悩』『情感』は、『理性』で抑制できる対象ではありますが、誰にとってもこれは容易なことではありません。

『後進国』の人は『先進国』の人が享受している『便利さ』『快適さ』を、自分たちは何故あきらめなければならないのかと、それを『理不尽』であると出張します。

将来の『危機』を、焦眉の急とは考えず、誰も、『なんとかなるのではないか』と自分に都合よく考えようとします。

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2019年11月 4日 (月)

『人間』と『自然』の乖離(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の99番目のタイトルは『The Human /Nature Divide(人間と自然の乖離)』で著者は恐竜生物学者の『Scott Sampson』です。

この著者の『危惧』は、人間は本来『自然』を再生可能な環境として維持しながら、『共生』の対象とすべきであるにも関わらず、自分たちに都合よく『搾取』するだけの対象と考えるようになってしまっていることです。

『太古』から『中世』まで、『人間』と『自然』の関係は、上記のような『共生』関係にあったと言ってよいでしょう。基本的に『自然の恵み』によって、自分たちは『生きていくことができる』と認識していたと考えられます。

仮にそのような認識はなかったとしても、当時の地球の全人口は、現在の10分の1程度で、当時の衣食住のために『自然』の再生能力を大きく超えて、地球資源を破壊するには至らなかったと観ることができます。

もっともこのような過去の『人間』に対する好意的な観方は、必ずしも当たっていないという反論もあろうかと思います。

確かに、『マンモス』や南北アメリカ大陸に過去に生息していた『大型哺乳類』が絶滅したのは、『人間』がその地へ入植して、『捕獲し、食べつくしてしまった』からという説もあります。

『人間』の全てが、『自然』に畏敬の念を持ち、『共生』を大切にしていたというのは、言い過ぎかもしれません。『生きる』ことに精一杯であるときには、そのことを最優先し、身勝手に見える行動をするというのは、昔も今も変わらないと考えるのが自然であるからです。

ある程度生活環境が安定した時に、『人間』は、『自然の恵み』はそこに存在する『神々』によってもたらされると考え、畏敬の念をもって『共生』することが、結果的に自分たちを利すると認識するようになったのかもしれません。

偶然にせよ、『人間』の恣意がはたらいたにせよ、中世までは『人間』と『自然』の関係は、『共生』といえるものであったということになります。

近世以降、『人間』が『自然』に対して、『不遜』に振舞うようになったのは、『科学』が人間社会へ大きな影響をもたらすようになったからです。

『科学』は、次々に『人間』に『便利さ』『快適さ』をもたらす一方、それまで『人間』が使わなかった『地球資源』をエネルギー源として、素材として大量に消費するようになりました。

手にした『便利さ』『快適さ』は、あまりにも魅力的で、その結果『地球資源』を枯渇するかもしれないなどと言う嫌なことは、見て見ぬふりをしてきたことになります。新しいエネルギー源や素材に関しても、『科学』が打ち出の小づちのように、また解決策を見出してくれるであろうと楽観的に観ようとしてきました。

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2019年11月 3日 (日)

江戸の諺『膳の上いっぱいになる』

江戸の諺『膳の上いっぱいになる』の話です。

お膳の上が、余地のないほど色々な料理で満たされているということですから、必要なものが皆そろっている満ち足りた状態を表現しているのでしょう。

『膳いっぱいの料理』で客人をもてなすのが、最上のもてなし方という考え方がどの国にもあるのかどうか知りませんが、中国『西大后』の『満漢全席』などという宮廷料理をみてみると、希少な食材を使って、どうせ食べないものをこのように揃えるのは、いくらなんでも行き過ぎであろうと思います。『権力の誇示』は時に、このような滑稽な『常識』を生み出します。

旅館の夕食で、『膳いっぱいの料理』が出てくると、『これはすごい』と感激したり、自分もこのもてなしに匹敵するいっぱしの『お大人(たいじん)』になったと勘違いして喜んだりしたしますが、人間の食べる量には限界があり、すぐ腹いっぱいになって、『このような夕食を毎日続けていたら身が持たない』などと今度は言い出しますから、人間は身勝手なものです。

人間の『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されていると梅爺は考えています。

ところが、あるレベルで『安泰』が得られると、一時の『満足感』を味わいますが、すぐにまたそれ以上の『安泰』を求めるようになります。

『欲望』は果てしなく肥大化していくことになります。つまり、人間は、いつも『不満の種』を創りだし続けているともいえます。

『釈迦』は、この人間の習性に気付き、『不満の種』の元凶である『煩悩』から逃れない限り、『心の安らぎ(涅槃)』は得られないと考えたのでしょう。

梅爺は凡人なので、欲望はあるレベルで抑制して、それで『満足』であると自分に言い聞かせることは重要と思いますが、、『煩悩を解脱して仏の境地にいたる』ことは、現実に自分には無理なことだと、逃げ腰になってしまいます。

それに、世の中は人間の『煩悩』をうまく利用する仕組みで成り立っていますから、全員が『煩悩』を解脱してしまうと世の中が成り立たなくなるという矛盾もあるような気がします。

生物として『生きる』ためには、『欲望』を満たす必要があり、それを全て『煩悩』として排除すれば、『生きる』ことを放棄するほかなくなります。

『禅僧』も、何も食べずに生きているわけではありません。

『欲望の肥大』を、どのレベルで抑制するかは、その人の『理性』で決まります。普遍的な解答はありませんから、自分でそのレベルを見つけるしかありません。『煩悩の解脱』は、その極端なレベルといえるのではないでしょうか。

現状の『膳の上いっぱい』を、抑制レベルとして受け入れるか、更なる『膳の上いっぱい』を求めるかは、その人に依りますが、誰もが自分なりの『膳の上いっぱい』を求めるのは、人間として自然なことのような気がします。

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2019年11月 2日 (土)

江戸の諺『金のつるにつく』

江戸の諺『金(かね)のつるにつく』の話です。『金づる』という言葉は現在でも使われます。ある人にとって『資金源』となる人(または場所)のことですが、『金づる』に取り付いていれば、労せず金が手に入るというニュアンスが込められています。

『金のつるにつく』は、労せず金が手に入る相手と分かったら、それにしがみついて放さないという様子が目に浮かびます。肌に吸着して血を吸う『蛭(ひる)』のようなイメージです。

人間社会において、『金が支払われる』には、それに相当する『価値』が必要になります。『価値』は『労働』『サービス』『能力』『モノ』などが評価の対象になります。

この原則に従えば、『労せず金を手にする』方法を見つけることは、易しいことではないはずですが、人間はあの手この手で、この方法を考え出そうとします。

『窃盗』『恐喝』『詐欺』など、『非合法』の手段で、『金を手に入れようとする』人が、後を絶たないのはこのためです。

『非合法』とは言えないものに、『宝くじを買う』『競馬、競輪などに賭ける』などがあります。しかし、これらの方法は『必ず儲かる』保証はなく、むしろ『損をする』確率の方が高いしくみになっていますが、それでも『幸運』を夢見て人々は、これに群がります。

『金融業』を『労せず儲ける』手段と言えば、関連する方々からお叱りを受けそうですが、他人から集めた資金で、『運用益』を得る行為を、『サービス』『特殊な才能』と観るかどうかは微妙な気がします。

個人の才覚で、『株や債券へ投資する』という行為も、観方によっては『労せず儲ける』部類に入るのかもしれません。

『銀行』『証券会社』『ベンチャー・キャピタル』などは、『世の中の経済の仕組み(ルール)』を『金づる』にしているといえば言い過ぎかもしれませんが、汗水流してわずかばかりの収入を得ている人から見れば、そう言いたくなります。

『金持ちと結婚した女性』『金持ちの愛人になった女性』『女性に貢がせて、遊んでいる男性』『働かずに親のすねをかじって生きている子供』など、『金のつるに取り付いている』人たちと言えるでしょう。

『金づる』側にも、何らかの『負い目』や『もくろみ』がないと、このような関係は成り立ちません。

『金のつるにつく』生き方は、『本当に幸せな生き方』なのかと問うまじめな方もおられると思いますが、何を『幸せ』と考えるかは人それぞれで、どんな生き方をしても、優先するものがあれば、失うものもあるということなのではないでしょうか。

『労せず金を手に入れて、面白おかしく遊んで過ごしたい』と願うのは、『天国』を夢見ることに似ているような気がします。『天国』を心安らぐ場所と感ずるかどうかは、これもまた人それぞれで、梅爺は三日くらいすると『退屈だ』と、言い出しそうな気がします。

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2019年11月 1日 (金)

江戸の諺『槌で庭はく』

江戸の諺『槌(つち)で庭掃く』の話です。

掃除には『箒(ほうき)』を使うのが当たり前ですが、慌てふためき、気も動転して、上(うわ)の空になり、場違いな『槌』で掃いてしまうという様子が表現されています。

想定外の『パニック』に陥ると、人間はトンチンカンな行動をするということで、普段冷静な人でも、過去の経験で思い当たることがいくつかあるのではないでしょうか。

この諺は、予期せぬ客が訪ねてきて、慌てふためいて追従(ついしょう)歓待するというような意味が込められていることを知りました。

何やら『落語』の一場面を彷彿させるような『滑稽』を感じます。

人間が何故このように行動するのかは、『精神世界』を理解しないと説明がつきません。『精神世界』は『理』と『情』の機能の、複雑な組み合わせで構成されています。『物質世界』に属する『脳』と関連付けるならば、『理』は『左脳』、『情』は『右脳』が主として担当します。

『生物進化』のプロセスでは、生物は『情』の機能をまず獲得しました。周囲の事象が『自分に都合が良いものであるか、そうでないか』を、直感的に判断する能力で、やがて『都合が良い』は、『好き』『嬉しい』『楽しい』などという情感を生み出す元になりました。一方『都合が悪い』は、『嫌い』『悲しい』『楽しくない』という情感を生み出す元になりました。梅爺は、このことを『安泰を希求する本能』が全ての根底になるという『仮説』として何度もブログで紹介してきました。

人間は進化の過程で、その後『理』の機能を獲得しました。『因果関係』を想定して、物事を判断する機能です。『推論能力』がこれに当たります。この能力も周囲の状況が、『自分に都合が良いものか、そうでないか』を判断するもので、これも『安泰を希求する本能』に支配されています。端的にいってしまえば『得か損か』といった判断です。

私たちの『精神世界』は、先ず『情』で周囲の状況を判断します。『情』は理屈抜きのものですから、『何故好きか』『何故嫌いか』と問われても、答えられません。『感動』や『悲しさ』は突然襲ってきます。

しかし、その後遅れて今度は『理』が機能し始めて、『因果関係』を想定しながら、新たな判断を下そうとします。『男は人前で涙を見せてはならない』という『理』の価値観が働けば、『情』では『悲しい』と判断しても、涙をこらえる努力をすることになります。つまり『理』はかならずしも『情』と同じ判断はしないこともあるということです。私たちの中で、二つの異なった人格がせめぎ合っているようなものです。

『情』が先行し、『理』が後追いで続くというのが一般的な『精神世界』の反応になります。

そして、『情』が非常に強い時には、『理』は介入する余地が無くなるような時があります。

これが『槌で庭掃く』というような、トンチンカンな行動を引き起こします。

多くの場合、やがて冷静さを取り戻し、『理』の機能が有効になりますが、あまりにも大きな『情』のショックを経験すると、不幸にも『精神障害』を引き起こすことにもなります。

勿論、人間の『精神世界』は『個性的』ですから、上記の説明は一般的なもので、同じ状況に遭遇しても、一人一人異なった対応をすることになります。『冷静沈着』な人は、極めて『理』が優っている人と言うことになります。

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