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2019年10月11日 (金)

手を失いつつある(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の97番目のタイトルは『Losing Our Hands(手を失いつつある)』で、著者は心理学者の『Susan Blackmore』です。

著者が危惧していることは、もちろん物理的に『手』が切断されることではなく、私たちが仕事を『機械』に任せて、自分の『手』を使うことが無くなりつつあることがもたらす『人類の未来』です。

太古の人類は、生きるために、全てのことを自らの『手』を用いて対応しました。その後『文明』がもたらした『専門の職業分化』はまだ存在しませんでしたから、自ら『手』を下す『自給自足』が必要であったことになります。

誰もが『自給自足』する社会と、『専門の職業分化』が実現されている社会とは、どちらが優れているかは、単純な議論ではありません。一般論としては、『自給自足』は、社会効率が高いとは言えず、大規模な社会構造には適していない代わりに、環境変化に耐える『強靭性』は優れているといえるでしょう。逆に、『専門の職業分化』は、社会効率は高く、大規模な社会構造を維持できる代わりに、環境変化に対しては、全体が一気に麻痺してしまう『脆弱性』のリスクを内包しています。

現在の日本で、『里山経済』の重要性を説く人たちがいますが、これは、『専門の職業分化』を基盤とする『都市』集中型の国家は、今後『弊害』が目立つようになり、立ち行かなくなるであろうという推測の下に、『自給自足』を前提とする小さなコミュニティ(里山)の寄せ集め国家に変貌していくべきであるという主張なのでしょう。

過疎化で、人影が無くなりつつある『地方』を再生する手段としても有効であるということでしょう。

しかし、梅爺は現時点で、日本が『里山経済』へ向かって大きく舵をきることはないと思います。『都市』集中型の国家を支えているものは、『社会的、経済的な効率の良さ』『高付加価値(利益)の創出』『物理的な快適さ』であり、人々が『高収入』で『物理的な快適さ』を優先度高く求める限り、これを放棄して、比較的『低収入』で『物理的な快適さ』に劣る『里山経済』を選択しないと思うからです。

しかし、『競争』『ストレス』に明け暮れる都市の生活よりは、自然の中でのんびり生きる『心の満足』を求めて、『都市』から『地方(田舎)』への『Uターン』をする人たちは徐々に増えていくのではないでしょうか。

情報通信システムが高度化して、『地方』にいても、最先端の仕事はできる時代になりつつあることも、『Uターン』を加速する要因になるでしょう。

人々は、必ずしも『都市』での生活を『理想』とするのではなく、自分の『価値観』で、『都市』か『田舎』を選択するようになでしょう。日本にとって、これは健全な『変化』であると思います。昔の『田舎』が復活するのではなく、新しい『田舎』が出現するということです。

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