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2019年11月 1日 (金)

江戸の諺『槌で庭はく』

江戸の諺『槌(つち)で庭掃く』の話です。

掃除には『箒(ほうき)』を使うのが当たり前ですが、慌てふためき、気も動転して、上(うわ)の空になり、場違いな『槌』で掃いてしまうという様子が表現されています。

想定外の『パニック』に陥ると、人間はトンチンカンな行動をするということで、普段冷静な人でも、過去の経験で思い当たることがいくつかあるのではないでしょうか。

この諺は、予期せぬ客が訪ねてきて、慌てふためいて追従(ついしょう)歓待するというような意味が込められていることを知りました。

何やら『落語』の一場面を彷彿させるような『滑稽』を感じます。

人間が何故このように行動するのかは、『精神世界』を理解しないと説明がつきません。『精神世界』は『理』と『情』の機能の、複雑な組み合わせで構成されています。『物質世界』に属する『脳』と関連付けるならば、『理』は『左脳』、『情』は『右脳』が主として担当します。

『生物進化』のプロセスでは、生物は『情』の機能をまず獲得しました。周囲の事象が『自分に都合が良いものであるか、そうでないか』を、直感的に判断する能力で、やがて『都合が良い』は、『好き』『嬉しい』『楽しい』などという情感を生み出す元になりました。一方『都合が悪い』は、『嫌い』『悲しい』『楽しくない』という情感を生み出す元になりました。梅爺は、このことを『安泰を希求する本能』が全ての根底になるという『仮説』として何度もブログで紹介してきました。

人間は進化の過程で、その後『理』の機能を獲得しました。『因果関係』を想定して、物事を判断する機能です。『推論能力』がこれに当たります。この能力も周囲の状況が、『自分に都合が良いものか、そうでないか』を判断するもので、これも『安泰を希求する本能』に支配されています。端的にいってしまえば『得か損か』といった判断です。

私たちの『精神世界』は、先ず『情』で周囲の状況を判断します。『情』は理屈抜きのものですから、『何故好きか』『何故嫌いか』と問われても、答えられません。『感動』や『悲しさ』は突然襲ってきます。

しかし、その後遅れて今度は『理』が機能し始めて、『因果関係』を想定しながら、新たな判断を下そうとします。『男は人前で涙を見せてはならない』という『理』の価値観が働けば、『情』では『悲しい』と判断しても、涙をこらえる努力をすることになります。つまり『理』はかならずしも『情』と同じ判断はしないこともあるということです。私たちの中で、二つの異なった人格がせめぎ合っているようなものです。

『情』が先行し、『理』が後追いで続くというのが一般的な『精神世界』の反応になります。

そして、『情』が非常に強い時には、『理』は介入する余地が無くなるような時があります。

これが『槌で庭掃く』というような、トンチンカンな行動を引き起こします。

多くの場合、やがて冷静さを取り戻し、『理』の機能が有効になりますが、あまりにも大きな『情』のショックを経験すると、不幸にも『精神障害』を引き起こすことにもなります。

勿論、人間の『精神世界』は『個性的』ですから、上記の説明は一般的なもので、同じ状況に遭遇しても、一人一人異なった対応をすることになります。『冷静沈着』な人は、極めて『理』が優っている人と言うことになります。

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