« 江戸の諺『箒(ほうき)客』 | トップページ | 『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(1) »

2019年10月21日 (月)

江戸の諺『行燈見ぬと寝られぬ』

江戸の諺『行燈(あんどん)見ぬと寝られぬ』の話です。

この場合の『行燈(あんどん)』は、店先に掲げた『看板』の役目も果たす『灯り』のことですから、現在流にいえば、『ネオンサイン』『赤提灯(ちょうちん)』のようなものです。

『行燈見ぬと寝られぬ』は、夕刻になると、遊里や居酒屋へ出掛けたくなる男の本性を表現したものです。

『仕事も遊びも一生懸命』というのが、甲斐性のある男で、情熱的で魅力的とされることになりますが、これはある意味で男性側の論理であり、女性は『家庭第一主義』の男性が望ましいと主張したりしますので、『食い違い』はいつの世にもあったのでしょう。

江戸時代の男性が、全て『夜遊び』に興じていたわけではありませんが、『夜遊び』好きがいたことは、現在と変わりがないのでしょう。

人間社会に何故『遊興の巷』が出現するのかは、興味深いことです。欲望への対応を、ビジネスにするのは、極めて手っ取り早い『金儲け』の方法であるからなのでしょう。人類の最初の『職業』は『娼婦』であるなどと言う表現も、もっともらしく聞こえます。

しかし、『宗教』や『イデオロギー』の考え方が、社会に『主観の共有』として定着するようになると、『享楽主義』は、好ましくないことになり、表向きは『禁欲主義』が、人としてあるべき姿と考えられるようになりました。

近世の文明社会では、『性差別』は基本的人権に反するものとして、『売春』などが法的に規制されるようになりました。

しかし、人間の『欲望』は、『理性』で抑制できるといった生易しいものではなく、いくら『法』や『社会道徳』で規制しようとしても、マグマのように噴出します。

表向きは『遊興の巷』が存在しないはずの、『イスラム文化圏』の国々や、社会主義の国々でも、『闇のビジネス』が存在するであろうことは、想像に難くありません。

人間の欲望を、野放図に放置はできないにしても、ある程度は『容認』しなければならないというバランスのとり方は、社会にとって難しい課題です。

国によって、そのバランスのとり方は現在でも微妙に違っています。これも『異文化』の領域に属することですので、日本人が外国へ出向いた時は、その国の『考え方』を理解し、遵守しなければなりません。この対応を間違えると、『逮捕』されたり法的『処刑』されたりすることになります。

『個人の欲望』と『社会の抑制』は、『個』と『全体』の価値観の違いという問題へ帰結します。何度もブログに書いてきたように、この価値観の違いを、普遍的に解消する『方法』を人類は見出していません。多分、将来も見いだせないでしょう。

どの社会も、社会の『約束事』を定めて、この問題に対応していますが、『約束事』の内容は、社会の歴史、宗教、文化などで異なっています。また時代によっても『約束事』の内容は変わります。

日本の『遊興の巷』も、時代によって変わってきました。しかしそれが無くなることはありませんでした。

|

« 江戸の諺『箒(ほうき)客』 | トップページ | 『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 江戸の諺『箒(ほうき)客』 | トップページ | 『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(1) »