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2019年10月 3日 (木)

『侏儒の言葉 』考・・『地獄』(4)

『キリスト』の頭にあった『神』は、あくまでも『ユダヤ民族の神(ヤーヴェ)』であり、『ユダヤ民族とユダヤ民族の神の関係の在り方』を説いたものであったと想像できます。

しかし『使徒パウロ』は、ユダヤ民族以外にも『布教』することを推し進め、『ユダヤ民族の神』を『全人類の神』へ格上げする必要に迫られました。

この時『使徒パウロ』が下した判断は、『旧約聖書(ユダヤ教の聖典を踏襲)』におけるユダヤ民族の『神』に関する『認識』は『誤り』とすることでした。このため、『使徒パウロ』は『ユダヤ教』からみると、『異端者』ということになりました。

『使徒パウロ』は、『十字架の死』の意味も、『人々の罪を、人々に代わって購う』ものであるという『贖罪』の考え方を導入しました。『使徒パウロ』は、生前の『キリスト』とは面識がないことを考えると、偉大な『宗教的思想家』であったと言えます。『キリスト』の教えの本質は『愛』であるとしたのも彼です。

『カトリック』では、『キリスト』の死後何人かの著者が書いた『伝記』や、『使徒パウロ』が、当時の信徒に送った『手紙』等をまとめて、『新約聖書(全人類と神との間の契約)』としてまとめ採用しました。

ただ『キリスト』の存在を歴史的位置づけるために『旧約聖書』も、重要関連書類として採用しましたので、後の『神学者』や、現在の『信徒』が、それをどのように受け入れるかで頭を悩ませる原因にもなっています。『天地創造』『アダムとイヴ』『ノアの箱舟』などは『旧約聖書』からの引用であるからです。

『キリスト』の伝記に関しては、『新約聖書』に採用されなかったものが存在することが分かっており、そこに書かれている内容は、『カトリック』の『教義』とは相容れないものであることも分かっています。『トマスによる福音書』などが代表例で、その『教義』は『グノーシス派』の考え方と呼ばれています。もちろん、これらは『カトリック』からみると『異端の書』ということになります。

『釈迦』の教えが、死後色々な『解釈』で、宗派分かれしていったように、初期の『キリスト教』にも色々な『解釈』が存在してことがわかります。

人間の『精神世界』は宿命的に『個性的』ですから、必ず『私はこう考える(解釈する)』とそれまでの考え方に異を唱える人が登場します。『宗教』の『宗派分かれ』も、人間社会の宿命として生じます。

各宗派は、『権威』を維持する為に、色々な手段を講じ、異を唱える人がどうしても手に負えない時は『異端』として弾圧、排除しようとしてきました。

『大聖堂』『大伽藍』『大モスク』などの圧倒的な建築物、『聖職者』のきらびやかな衣装、『音楽』や『絵画、彫像』などを布教の手段とすること、『信徒』は心理的に圧倒され、『教義』が『主観の共有』として根強く継承されてきました。

一方、『宗教』は、人間の『安泰を希求する本能(心の安らぎ)』に対応するための手段として、人類の歴史に大きな影響も与えてきました。『宗教』の本質を考える時は、このことを配慮しなければなりません。

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