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2019年10月14日 (月)

手を失いつつある(4)

『富国』が国家の健全な運営の基盤であるという考え方は、『自由経済主義』『資本主義』『民主主義』を掲げる国家では『共通認識』となっています。

しかし、『富国』が『富民』につながるという主張は、必ずしもそうではない側面が露呈し、問題視されつつあります。

『中国』のように、『共産主義』『社会主義』を標榜しながら、『富国』を追い求める国家は、経済行為は『資本主義』となんら変わらないではないかと矛盾が指摘されますが、『中国』の『政治リーダー』は、そうは考えていないのでしょう。

『一党独裁』という国家基盤を何としても維持する為に、『富国』が必要であり、便宜的な手段として、一見『資本主義』に似た経済行為を、国民の一部に『許容』していると考えているのではないでしょうか。その証拠に、全ての経済行為は、究極において国家の『統制下』にあると自負しているのでしょう。

一方、『一党独裁』という国家基盤を維持する為に、国民の『思想統制』も必要であり、これは、『思想弾圧』『恐怖政治』を生み出す温床にもなります。更に『党』内部も一枚岩にしておかなければならず、これが激しい『権力闘争』を喚起します。

『富国』のために、一部の国民に、経済的行為に限って『自由採択』を認めながら、思想に関しては、『自由採択』を認めないということに、『中国』の大きな『矛盾』があります。

問題の根源は、梅爺が何度もブログに書いてきた、『個人』と『全体』の『価値観』の違いを、どのように調整するかに関して、人類は普遍的な『解』を持たないということにあります。

何故『個人』と『全体』の間に『価値観』の違いが生ずるかは、単純な理由で、『個人』は生物として『個性的』であるように宿命づけられているからです。

私たちは、同じ事象に接しても、一人ひとり『考え方』『感じ方』は同じではありません。

『社会』はそのような『個性的』な『個人』で構成されているという事実を『是認』すれば、『自由経済主義』『資本主義』『民主主義』を尊重するようなことになります。

一方『全体の秩序が最優先で、個人は全体に従うべき』という考え方では、『個性的』であることは認めませんから、『独裁主義』が生まれることになります。

人間にとって、自分が『個性的』であることが認められることが、最も重要なことであるとすれば、『自由経済主義』『資本主義』『民主主義』の下で生きることを望むでしょう。『思想』『言論』『芸術的表現』『信仰』等で、基本的な『自湯採択』が認められないとしたら、『精神世界』はそれを『安泰を脅かす要因』と感じとり、『苦痛』に苛まれるからです。

『全体の秩序が最優先で、個人は全体に従うべき』という考え方は、『全体』にとっては効率のよい話ですが、人間が『個性的』であるという『事実』が、無視または軽視され、個人にとっては『苦痛』が残ることになります。

コミュニティにとって、どのような『体制』が好ましいかは、単純な議論ではありませんが、『個人は個性的である』という『事実』をどのように認識するかが、決め手のような気がします。

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