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2019年10月 4日 (金)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(5)

古代から現代まで、人類にとって『死』は不可解なものであり続けています。『何故死ななければならないのか』『死後はどうなるのか』などの疑問に悩まされ続けてきました。

『死』は『生』の終焉であり、誰もが避けられないことであることは、古代の人でも経験則で『認めざるを得ないこと』として観念していたことと思いますが、『不可解』『理不尽』という想いはぬぐい切れなかったに違いありません。

現代の私たちは、『科学』的な視点で、『死』という事象の知識を保有するようになりましたが、相変わらず『不可解』『理不尽』の思いが付きまとうのは、古代の人たちと大きく変わることがありません。

これは、『精神世界』の『価値観』の根底に、『安泰を希求する本能』があるからであろうと梅爺は推察しています。『自分の死』はもとより『知人の死』『他人の死』も、『死』は『安泰』を脅かす強い要因であり、『都合の悪い事態』として『情』が忌避しようとするからであろうと思います。

『死』は受け入れざるを得ないものと観念すると、今度は『死が訪れるまでどう生きるか』ということが気になり、人は『生』と『死』を対とみなして『死生観』に思いをはせることになります。

『死生観』は、『精神世界』の価値観ですから、『個性的』なものになり、多くの人が自分の『死生観』を表明して、中にはそれが周囲の人に感銘を与えることもしばしばあります。『科学』が説明する『死』は、あくまでも『物質世界』の事象であり、『物質世界』を支配する『摂理』に則った事象以外の何物でもありません。しかし『科学』も、何故『摂理』は存在するのかについては説明できませんから、『死は何故必要なのか』を説明することはできません。

そこで、人類は『摂理』を逆にうまく利用して、『老化防止』『寿命延長』を人工的に実現しようと努力を重ねています。『平均寿命500歳時代の到来』も、『理』による科学的な予測としては不可能ではないと考えられています。

古代の『王』や『皇帝』が、夢見た『不老不死』を、現代の私たちは手に入れようとしています。

『死後自分はどうなるのか』も、古代から人類の変わらぬ疑問でした。梅爺は『全てが無に帰す』と味気ない認識を『理』で受け入れていますが、『寂寥感』という『情』が自分にもあることは受け入れています。

歴史的に人類は、『死後の世界(あの世)』の存在を、『精神世界』で考え出し、それに一縷の『安堵』を求めようとしてきました。

どの『宗教』も、この考え方を導入し、肉体は滅びても『魂』『霊』は『あの世』で存在し続けると説いてきました。更に、『信仰の厚い人』は『天国(極楽)』へ行き、『信仰の薄い人』は『地獄』へ堕ちるという考えも思いつきました。

しかし、『理』で『あの世』の存在は証明できませんので、『信じなさい』と説いてきました。

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