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2019年10月31日 (木)

江戸の諺『のぼす(のぼされる)』

江戸の諺『のぼす(のぼされる)』の話です。

これは『諺』ではなく、動詞の単語に過ぎませんが、その意味にこめられた『諧謔性』から、『諺臍の宿替』という原本に作者が採用したのでしょう。

『のぼす』は『おだてる』、『のぼされる』は『おだてられる』という意味です。現在でも『のぼせあがる』などという表現で使われます。

『のぼす(おだてる)』『のぼされる(おだてられる)』と言う行為が、意味を持つのは『ヒト』が『精神世界』を保有する生物であるからでしょう。

何度もブログに書いてきたように、『精神世界』を支えるものは『安泰を希求する本能』ですから、『のぼされる(おだてられる)』と人は、『自分以上の自分になった』と勘違いし、良い気分になります。つまり『精神世界』は『安泰』を感じて満足することになります。

『安泰』の状態にあるときには、脳内にそれに対応するホルモンが分泌され、『気分爽快』で『前向き』になり『自信』が湧いてきます。『ヒト』にとって、それは肉体的にも、精神的にも『好ましい状態』と言えるものになります。

逆に他人から『叱責される』『貶(けな)される』と、『安泰』は脅かされ、逆の状態になります。

『スポーツ』や『教育』で、コーチや教師が、選手、生徒を『褒める』ことが、『やる気』や『能力』を引き出すことに有効と言われるのは、このためです。『長所』を伸ばしてあげれば、選手や生徒は自ら自分の『短所』に気づき、それを自分の努力で克服しようとするようになるからです。

しかし、人間社会で『のぼす』『のぼされる』は、何らかの『損得勘定』が裏側にあることが多く、『スポーツ』や『教育』のように、『きれいごと』にはならない場合が大半です。

上司に『ゴマをする』部下は、本心では上司の無能に辟易していながら、自分への高評価を期待して、追従(ついしょう)していることになります。

まじめな部下は、『ゴマをする』という『さもしい行為』は、自分には耐えられないと控えます。

本当に有能な上司なら、部下の『ゴマすり』の下心を見抜いて、その部下を高くは評価することはなく、『ゴマすり』をしない部下を低く評価することはないはずですが、残念ながら人間には弱いところがあり、多くの上司は『ゴマすり』と感じながらも、その心地よさに麻痺するようになっていきます。

公平な判断ができていたはずの有能な人も、地位が高くなり、権力を持つようになると、自分の周囲に『イエスマン』だけを配置するようになりがちなのは、このためです。

江戸の人たちは、脳におけるホルモンの機能等に関する知識は持ち合わせていませんでしたが、『のぼす』『のぼされる』という行為には、人間関係で悲喜劇を引き起こす、何やらいかがわしいものが潜んでいると察知して、これらの言葉を『諧謔』の対象として、笑い飛ばしていたのでしょう。『アッパレ』と称賛したくなります。

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2019年10月30日 (水)

江戸の諺『糞喰らわされる』

江戸の諺『糞喰らわされる』の話です。上品な表現とは言えませんが、今日でも『糞喰らえ』などと、相手を罵倒し、打ちのめす時に使われます。

『糞喰らわされる』は、相手からひどい仕打ちを受ける、騙される、などの意味で使われていました。

排泄物や性に関連する言葉を、日常会話の中で『良からぬ意味』として使うのは、英語も同じですから、人間に共通する習性なのでしょう。

英語の『shit(糞)』は、会話の中で『shit !』と叫んだときには、『クソッ、騙された』『クソッ、間違った』の『クソッ』に当たりますから、日本語とほぼ同じです。

英語の『piss(小便)』は、会話の中では『take the piss out of~』というイデオムで良く使われ、『~をからかう』という意味になります。受身の表現でも『コケにされた』という意味で良く使われます。

『fuck(性行為を行う)』に至っては、会話の中に『fucking ~~』と挿入され、『クソッタレの~~』『いまいましい~~』という意味になります。

これらは、もちろん下品な表現であるという認識がありますから、良識のある人は普段使いませんし、公式なスピーチなどでも使用は避けられます。

しかし、日常会話の中の『くだけた表現』としては多用され、妙玲な女性が口にすることもあって、梅爺は驚きました。『アメリカ映画』を見ていれば、これらは必ずと言ってよいほど登場します。

『排泄』や『性』は、『秘め事』という認識がある一方、逆に、『あからさまに』使って、何かを強調しようとする心理が、人間に働くのではないでしょうか。

日本語では『屁』も、諧謔的な表現として多用されます。『屁の河童』『屁の突っ張りにもならない』『いたちの最後っ屁』『屁をひって尻つぼめる』『沈香も焚かず、屁もひらず』『百日の説法も屁一つ』『屁と火事は元から騒ぐ』などがあります。

科学が『性』や『体内でも排泄物やガスの生成』に関する、カラクリや意味を詳細に明らかにしたのは近世以降のことで、それ以前の人たちは、人間には欠かせない行為でることは、事象として理解していたにすぎません。それでも、『性』が快楽や子供を作ることに関連していること、体内の不要物が排泄されることは、容易に推測できることでしたから、その程度のことは誰もが『知っていた』ことになります。

『性行為』や『排泄行為』を、『はしたない、恥ずかしい秘め事』と考えるのは、動物の中で『ヒト』だけという説があり、それには『宗教の価値観』『道徳』など関与しているという説明や、行為の最中は無防備になるので『敵に襲われると危険』を避けるために『隠れて行おうとする』のだという説明がなされますが、梅爺は人間の『精神世界』にかかわるもっと本質的な意味が込められているように感じます。

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2019年10月29日 (火)

指の触角を使わなくなりつつある(4)

『指の触覚を使わなくなりつつある』といった局部的な話ではなく、人間同士の『直接接触』の機会が、『電話』『テレビ電話』『メール』などの、『間接接触』手段で代行されることで減りつつあることが、人間にどのような影響を及ぼすのかが、本来『危惧』すべきことではないでしょうか。

人間の『精神世界』の根底を支配するのが『安泰を希求する本能』であり、『絆』の確認のためには、本質的に『直接接触』しか満足をもたらさないということであれば、『便利』というだけで現在多用されている、『間接接触』の手段は、人間の潜在的な『ストレス』を累積させる要因になるのかもしれません。

生物進化の永いプロセスで継承してきた、『直接接触』でないと本質的な満足が得られないという本能的な習性は、そうやすやすと『間接接触』でも満足できるという習性には置き代わらないような気がします。

『直接接触』とほぼ同様の満足感を与える『間接接触』の方法を、将来科学が生み出すのかもしれませんが、そう簡単なことではないでしょう。

こう考えると、『幼児期』の両親との直接接触、『学齢期』における教師や友人との直接接触は、人間にとって非常に重要なものであるということになります。

生物進化で人類が太古に獲得した『群を作って生きる』という習性は、私たちが『人間らしく生きる』ために、想像以上の重要な意味を秘めているのかもしれません。

『モノ』との連携(接触)で得られる快適さ、便利さは、今後さらに増えていくと思いますが、それに反比例して『ヒト』同士の連携(接触)の機会が減っていくかもしれないとしたらそれは『危惧』すべきことではないでしょうか。

『モノ』は、『ヒト』に都合よく反応してくれますが、『他人』は『自分』の思うようには反応、行動してくれません。その予測不能な『関係』が、『ヒト』同士の接触の妙であり、その一種の葛藤の中から、『相手への理解』が醸成され、真の『絆』が生まれます。そしてその『絆』が、『精神世界』へ深い満足感をもたらします。

『ヒト』同士の接触は、深い満足感をもたらす代わりに、『容易』なものではありません。『洞察』『推測』『思いやり』などを駆使する必要がある『やっかい』なものでもあります。

一方『モノ』は、『ヒト』の思い通りに反応してくれますから、葛藤をさけることができます。

この事から、最近若い男性の中に、人間の『女性』と接触(交際)することに『恐怖心』を感じ、『テレビ』『パソコン』『スマホ』などに登場する、アニメの女主人公に『恋する』といった倒錯的な人が増えていると報じられています。

これは、悲しい『逃避』であり、人間としての本当の満足感は得られませんから、人間社会にとっても好ましい事象とは思えません。

『ヒト』同士の接触がもたらす、素晴らしさを、幼いころからの体験で覚え、それへ立ち向かう『ヒト』が多い社会が、健全な社会ではないでしょうか。

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2019年10月28日 (月)

指の触角を使わなくなりつつある(3)

『ヒト』が『モノ』と連携するときに、『ヒト』と『モノ』との間の情報授受の様式を、『マン・マシン・インターフェース』と呼びます。

幼稚な『道具(モノ)』を使う時も、それなりの『マン・マシン・インタフェース』は存在しますが、『コンピュータ』『スマート・フォン』などの高度な道具を使う時は、高度な『マン・マシン・インタフェース』が採用されます。

将来、生活のなかで、実用的な『ロボット』が使われるようになれば、新しい『マン・マシン・インタフェース』が登場することでしょう。

『コンピュータ』『スマート・フォン』等では、『キーボード』『マウス』『スクリーン・タッチ』『マイクロフォン』などが、『ヒト』から『モノ』へ情報入力するのに使われていて、『モノ』から『ヒト』への情報出力は、『スクリーン』『プリンター』『スピーカー』などが使われます。

従来、情報入力には『指』が、主役で活躍してきましたが、それが『音声入力』などにとって代わられ、『指』を使わなくなりつつあることは、確かなことです。

しかし、このような傾向が、『ヒトらしさ』を奪うことになるかどうかは、梅爺には判定できません。

社会環境の変化や、科学の進展で『マン・マシン・インタフェース』の様式は、変容していくことは確かですが、それが一層『ヒトらしさ』を奪う要因になるとは考えにくいような気がします。

何を『ヒトらしさ』とするかどうかの価値判断も、時代や環境とともに変容していくに違いありません。従来の『ヒトらしさ』が好ましいとするのは、変革や困難に遭遇すると『昔は良かった』と言いたがる『ヒト』の習性に類するものかもしれません。

『昔は良かった』と言ってみても、現実に『昔へ帰る』ことはできません。

『指』を使わなくなると、人間の『脳』にどのような影響が出るのかは、感傷的な議論ではなく、是非『脳科学』の問題として究明してもらいたいものです。

老人の『脳』の老化に関与しているなどということが判明したら、梅爺はあわてて『指』のトレーニングを日課にすることになるでしょう。

『指』の触覚だけでなく、人間同士が直接接触することは、『ヒト』が『絆』を確認するための重要な手段でした。

『握手』『抱擁』『接吻』などが、『絆』確認のための重要な手段として、現在も行われています。

『電話』『テレビ電話』『メール』などの、『道具』を介して、直接接触ではない間接的な手段で、実際には遠隔地にありながら『絆』の確認の代用とすることができる時代になりましたが、それでは本能的な『満足』が得られないために、私たちは直接接触することを重視します。

歳をとると、『同窓会』などが、重要な意味を持つのはそのためでしょう。

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2019年10月27日 (日)

指の触角を使わなくなりつつある(2)

『ヒト』が高度な知能を持つ哺乳類生物に進化した真因を、特定するのは難しいことですが、『二足歩行』を選択したことにあるという『仮説』を唱える人類学者が多数います。

『二足歩行』することで、『手』が他の目的で使えるようになり、特に『指』を器用に使うことで、『道具』を作る、使うなど色々なことが可能になりました。

『掴む』『叩く』などの動作の他に、『触る』ことで『触覚情報』を得て対象物の質感を判断したり、『指さす』『口に人差し指を当てて、静粛を求める』など『コミュニケーション』の手段としても活用するようになりました。

上記のように『二足歩行』で獲得した能力は沢山あり、それは『長所』と言えますが、『四足歩行』比べて『短所』もあり、『短所』を保有するようになったことも知っておく必要があります。『平衡を保つことが難しい』『移動速度が遅くなる』『骨盤が出産を困難にする形に変わった』などがあげられます。

『生物進化』は、ある優先目的を重視するような『選択』であって、必ず『失うもの』もあるという『トレード・オフ』なのです。

『ヒト』は『神が御自分に似せて理想に近いものとして創ってくださった』という説明は、説得力を欠きます。『ヒト』は沢山の『短所』を抱えている生物であるからです。

『サル』は、移動時は『四足歩行』ですが、他の目的では、手や指を自由に使うという習性を選択しています。『カンガルー』は『二足歩行(飛び跳ねて移動)』を選択しています。『サル』や『カンガルー』が、『ヒト』のような知能を獲得できていないことを見ると、『二足歩行』だけを高度な知能を獲得する理由とするのは難しいような気がします。『ヒト』の場合は、他の要因も複雑に絡んでいると見るのが自然でしょう。

『指』を器用に使うためには、『脳』の機能との連携が必要になります。『ピアニスト』や『手品師』は、人間業(わざ)とは思えない速さで、複雑な『指』の動きを演じて見せますが、辛抱強い『繰り返しトレーニング』の末に、『指と脳の連携』として習得したものです。『ピアニスト』は、更に『触覚』を使って、音色のニュアンスも表現します。

『ヒト』の場合、受胎、出産、成人への成長のプロセスで、『生物進化』のプロセスを再現していると、よくいわれます。

赤ん坊は、『ハイハイ(四足歩行)』から『タッチ(二足歩行)』へ移行し、成人への生育過程で、『情』に加えて『理』の機能を『脳』が獲得していきます。

確かに、数百万年かけて『進化』してきたプロセスを、短期間で再現しているという表現はあたっているように思えます。『生物進化』論の強力な傍証であるようにも思えます。

現在の『ヒト』を、『ヒト』らしくしている要因の一つが、『指』を使うことであるという説明は、説得力を持ちますが、そうであるからと言って、現代人が従来のような目的で『指』をあまり使わなくなりつつあることが、『ヒト』らしさを失う要因になるという『危惧』は、その必要があるかどうか検証する必要があります。『指を使う』ことが『脳の創造性を向上させる』という、このエッセイの著者の推測も、本当かどうか検証する必要があります。

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2019年10月26日 (土)

指の触角を使わなくなりつつある(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の98番目のタイトルは『Losing Touch(指の触覚を使わなくなりつつある)』で、著者は人類学者の『Chrisine Finn』です。

英国ニューカッスル大学の、生物学者たちが、『風呂に永く浸かっていると、指先にしわができるのは、ヒトが生物進化の過程で獲得したものである』という仮説を発表したことを紹介しています。

太古の人類は、狩猟で生活をしていて、川や海の岩場で、魚介類を捕る時に、ぬるぬるした獲物をつかむのに、『しわができた指』は効果的であったということなのでしょう。

確かに今でも、『しわができた指』は、ぬるぬるした石鹸をつかむのに有効ですが、説明に窮したらなんでも『生物進化』のせいにしてしまう風潮が学者にはあり、『本当だろうか』と梅爺は疑念をもつことがあります。

しかし、上記の『仮説』に対抗する『仮説』は思い浮かびませんので、一応受け入れようと思います。

このエッセイの著者の『危惧』は、現代人が、指の『触覚』を利用しなくなりつつあることが、人類の将来にどのような影響を及ぼすだろうかということです。

指の『触覚』と『脳』は、密接に連携しています。指の『触覚』をる要する機会が減れば、それに対応する『脳』の機能も使われなくなり、ある意味で『脳』が『退化』してしまうということが『危惧』なのでしょう。

盲目の人が、訓練することで指を使って『点字』が読めるようになり、麻雀の好きな人は、指先の感触で『牌』の種類を判別できるようになったりしますから、確かにこの場合『脳』に特殊な能力が付加されたに違いありません。

もしも、この能力が、『脳』の他の能力にも影響を及ぼし、『脳』全体が更に活性化するというのなら、『危惧』は『ごもっとも』と言えますが、梅爺には判定ができません。

このエッセイの著者は、『指の触覚』利用は、『脳』の創造性を刺激するのではないかという『仮説』で論じています。

機械的に大量生産された『モノ』より、手作りの『モノ』の方が、優れている場合がありますから、指を使わなくなると、『何かを失う』という『危惧』には一理があるのかもしれません。

『ヒト』が『指』を使うことで『進化』してきたことは、紛れもない事実ですから、『指』を使わなくなることが、何らかの影響を及ぼすことは確かなことでしょう。

『指』を多用していた『ヒト』と、『指』をあまり使わなくなった『ヒト』に、何らかの差異が生ずることは確かですが、どちらが『好ましい』かを判定することは容易ではないでしょう。

私たちは日常あまり意識しませんが、生物である以上現在でも『進化』の途上にあることは確かなことです。 

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2019年10月25日 (金)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(4)

『スポーツ』『科学』『芸術』などは、『マイノリティ』に属する『天才』の出現で『進化』します。

一番分かりやすいのは『スポーツ』で、『天才』の能力は数字や勝敗に現れますから、能力では遠く及ばない『マジョリティ』の大衆は、『天才』を称賛を持って迎え入れます。そして『記録』が更新され、『スポーツ』のレベルは進化していきます。

『科学』は、『マイノリティ』の『天才』が、革新的な『仮説』を披露し、最初大衆はその意味を理解できませんが、『仮説』が証拠に支えられて『定説』に変わっていくことで、ようやく大衆もその本質的な意味に気付き受け入れ始めます。『科学』は『理』で、『真偽』の判定が下される世界ですから、『好き』『嫌い』といった情感が入り込む余地がなく、『天才』は『天才』としての功績を歴史に残し、『科学』の世界は進展します。

『芸術』も『マイノリティ』である『天才』が登場して進化しますが、『スポーツ』や『科学』のように、『天才』が『天才』として大衆に受け入れられるプロセスは、判然としません。

『芸術』に関しては、大衆が継承、共有している保守的ともいえる『価値観』があり、これが新しい『価値観』の受け入れに抵抗要因として作用するからです。死後に評価が高まる芸術家も少なくありません。

梅爺は、できるだけ柔軟に『芸術』に接しようと思いますが、それでも『前衛』といわれる表現には、戸惑うことがあります。『マジョリティ』が待つ保守的な『価値観』に、無意識のうちに支配されているからなのでしょう。

『醜聞』の話が、いつの間にか『天才』論になってしまいましたが、これは『芥川龍之介』が『天才の一面は明らかに醜聞を起こしうる才能である』などと書いていることに啓発されたからです。

『醜聞』という表現には、『恥ずべき行為』という意味が込められていて、世の中の『マジョリティ』が共有する『価値観』からみて、『それは好ましくない』と判断されるものですが、『マジョリティ』が共有する『価値観』は、その社会で受け入れられやすい『無難』なものであっても、普遍的に『正しい、好ましい』とは必ずしも言えないものであることを認識する必要がありそうです。

一方、『マジョリティ』が共有する『主観的な価値観』は、不必要なものではなく、これが無ければ人類は高度な『文明』を築けませんでした。『神』『国家』『貨幣価値』などというのは、『主観の共有』が無ければ、機能しない概念です。

生物の中で、『ヒト』だけが、高度な『文明』を築くことができたのは、これに由るものです。『マジョリティ』の『主観の共有』の長所、短所、『マイノリティ』が発信する独創的、革新的、個性的な『主観』の長所、短所を、総合的に理解して、どのようにバランスをとるかは、人類の将来に大きく影響します。

『マイノリティ』を、端(はな)否定し、抹殺しようとする社会は、『進化』を拒否する社会で、健全とはいえないような気がします。

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2019年10月24日 (木)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(3)

『正規分布』の中央部に位置する大半の人たちは、『普通の人たち』で社会の『マジョリティ』になります。

この人たちが共有する『常識』という『価値観』は、社会を運営していく上で重要な役割を果たし、『常識』は強固な基盤ですので、社会を『保守的に維持する力』として作用します。

一方『正規分布』の裾野に位置する『普通でない人たち』は、社会の『マイノリティ』で、『天才』もこれに属します。

この『マイノリティ』の人たちの、『常識』を逸脱した行動や、考え方は、『革新的』で、多くの場合『保守的な力』に抑圧されてしまいますが、稀に『マジョリティ』の人たちを感化し、やがては『マジョリティ』にも支持されて、社会の『価値観』を変えていく要因になることがあります。

人類の『文明の進化』を鳥瞰すると、はじめは『マイノリティ』であった人たちの『価値観』が、やがて『マジョリティ』を感化し、社会を変えていく要因になっていることが分かります。

『マジョリティ』の『常識』から、いつまでも脱却できない社会は活気を失い、『マイノリティ』から始まった『革新』で活気ある社会に敗れていくことになります。

『芸術』の世界では、これが顕著です。ベートーベンの『交響楽』も、ゴッホの絵画も、『マジョリティ』が受け入れるまでに、時間を要しました。

『NHKから国民を守る会』などという政党が出現し、『NHK不要論』を主張していますが、梅爺は賛同できません。『民放があるからNHKは不要』という主張は、両者の番組の『質』を無視しているからです。『民放』は、広告収入で経営が成り立っていますから、基本的に視聴率最優先で、『大衆が求める番組』に重きがおかれますから、『おちゃらかバラエティ番組』『バラエティ仕立てのワイドシュー番組』が多くなります。

梅爺は『NHK』の『日曜美術館』『クラシック音楽館』『コズミック・フロント(宇宙科学の啓蒙番組)』などを愛好する視聴者ですが、このレベルの『質』の番組を『民放』に求めることができません。『民放』では、視聴率が稼げないこのような番組は、編成会議でふるい落とされるでしょうし、その結果このような番組を企画し制作する能力も失ってしまっているのではないでしょうか。

『NHK』の番組は、全て『高尚』であるなどと褒めるつもりはありませんが、『文化』のレベルを維持し、啓蒙していく役割は、日本の将来にとって重要です。梅爺は、『NHK』の視聴料金が、不当に高いとは思いません。

『マイノリティ』を受け入れない社会は、『革新』を受け入れない社会同様、進化が期待できません。

『役員会が全員賛成したら、私はその方針に疑念を抱く』と主張する会社の経営トップがおられますが、これは傲岸さの表明ではなく、人間社会の本質を突いている指摘であると、梅爺は感じます。 

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2019年10月23日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(2)

『侏儒の言葉』『醜聞』という文章の最後に、『芥川龍之介』は以下のような、気になる一文を添えています。

『天才の一面は明らかに醜聞を起こしうる才能である』

『天才』は普通の人が計り知れない才能の持ち主で、その考え方や行動の規範も、普通の人が『常識』とするものをはるかに超えている、だからこそ『天才』なのだということなのでしょう。

普通の人から観ると『常軌』を逸した行動に出る可能性も高く、それは一般には『醜聞』と言えるものかもしれないと言いたいのでしょう。

普通の人が、自分の『常識』で『天才』を律してはいけないというようにも取れますし、『自分もそのような天才でありたい』という羨望が込められているようにも感じます。

この世は、普通の人たちの『常識』を基盤として営まれていますが、そのような『常識』を金科玉条のように『正しい』と信奉することに、異を唱えたくなる反骨精神がうかがえます。

人間は、肉体的にも精神的にも『個性的』に創られています。『神』がそのように人間を創ったのではなく、『生物進化』の過程で、子孫を残す方法として『両性生殖』という方式が選択されたからです。受胎時に両親の『遺伝子』を偶発的に組み合わせ選択して、子供の『遺伝子』が決まるからです。また受胎時に、ごくわずかな『突然変異の遺伝子』も保有するようになることが最近の研究で分かってきました。『両親』が保有していない、独自の『遺伝子』も子供は保有しているということです。

この『突然変異の遺伝子』は、深刻な『欠陥』をもたらすこともありますが、逆に『天才的な能力』をもたらすこともあります。『トンビが鷹を産む』というような現象は、このようにして起こります。

人間が『個性的』であるということは、一人一人が異なった体格、容貌を保有し、考え方、感じ方も異なっているということです。

しかし、その違いは、統計学の『正規分布』を用いて示すこともできます。『正規分布』の中央部分には、大半の人がそこに包含されて、この人たちは『ミクロ』に観れば『個性的』で異なっていますが、『マクロ』に観れば相互に大きな違いのない似たような人たちであることになります。

そのために、世の中は『相互に大きな違いのない似たような人たち』で大半は構成されていることになり、この人たちの『常識』が、世の中の『常識』になります。

そのことで、私たちは本来『個性的』に創られているという認識が希薄になり、『常識』を共有しているのであるから自分の他人も同じであると錯覚します。そして『常識』から外れた考え方や行動は、『正しくない』と非難し始めます。

『天才』は、『正規分布』でいえば、裾野に位置する『マイノリティ』で、ある種の『能力』は、『正規分布』の中央付近に位置する『普通の人』からは、並はずれて高い人と言うことになります。

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2019年10月22日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『醜聞』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある、『醜聞』という文章の感想です。

『醜聞』は、多くの場合著名人の『スキャンダル』のことで、『公衆は醜聞を愛するものである』と『芥川龍之介』は最初に断じています。

『他人(ひと)の不幸は蜜の味』というような表現がありますから、人間の深層心理に触れる話です。

『私は他人の不幸を喜ぶなどというはしたない人間ではない』と憤慨される方もおられると思いますが、『釈迦』のように煩悩を解脱した人でもない限り、道徳的に好ましいとは言えない『自分の実態』を認めたくないとする心理が働いているだけのことではないでしょうか。人間は『仏心』と『邪心』の双方を併せ持っているという現実を、認めたくないという心理が背景にあるのでしょう。

『公衆は何故他人の醜聞を愛するのか』という問いに対する『グルモン』と言う人の次のような答が、紹介されています。

『隠れたる自己の醜聞も当たり前のように見せてくれるから』

『芥川龍之介』は『グルモン』の主張は当たっていると認めながら、必ずしもそればかりではないであろうと、次のように述べています。

『醜聞さえ起こし得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼らの怯惰(きょうだ)を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである』

『怯惰』は『臆病で気が弱いこと』という意味ですから、分かりやすく言ってしまえば、『自分の弱さを弁解したり、存在しない優越性をでっちあげて自己満足している』ということになります。

美人の映画スターが不倫事件を起こせば、『私は彼女ほど美人ではないが、彼女より貞淑である』と自己弁護し、著名な才人が醜聞を起こせば、『私は彼ほどの才能はないが、彼よりは世間を知っている』と自己弁護するといったことが具体的な例です。

梅爺はこの『芥川龍之介』の見解に共感できます。

梅爺流に言えば、人間の精神世界は、『安泰を希求する本能』に強く支配されている』ということで、他人の『醜聞』を高みから見物し、相対的に自分の『安泰』が確認できる『満足感』が根底にあるということになります。

『有名人が自分の知人である』ことを吹聴したり、有名人の『サイン』を貰おうとしたり、有名人に『握手』を求めたりする行為も、相対的に自分の立場を『有名人と同じレベル』に引き上げて満足しようとするものに過ぎません。

自分の『絶対的な能力レベル』を直視し、認めることができる人は『器の大きな人』です。多くの人は、『他人のレベル』と『自分のレベル』を、相対的に比較操作して、喜んだり、落ち込んだりしながら生きています。そして、その滑稽さになかなか気づきません。

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2019年10月21日 (月)

江戸の諺『行燈見ぬと寝られぬ』

江戸の諺『行燈(あんどん)見ぬと寝られぬ』の話です。

この場合の『行燈(あんどん)』は、店先に掲げた『看板』の役目も果たす『灯り』のことですから、現在流にいえば、『ネオンサイン』『赤提灯(ちょうちん)』のようなものです。

『行燈見ぬと寝られぬ』は、夕刻になると、遊里や居酒屋へ出掛けたくなる男の本性を表現したものです。

『仕事も遊びも一生懸命』というのが、甲斐性のある男で、情熱的で魅力的とされることになりますが、これはある意味で男性側の論理であり、女性は『家庭第一主義』の男性が望ましいと主張したりしますので、『食い違い』はいつの世にもあったのでしょう。

江戸時代の男性が、全て『夜遊び』に興じていたわけではありませんが、『夜遊び』好きがいたことは、現在と変わりがないのでしょう。

人間社会に何故『遊興の巷』が出現するのかは、興味深いことです。欲望への対応を、ビジネスにするのは、極めて手っ取り早い『金儲け』の方法であるからなのでしょう。人類の最初の『職業』は『娼婦』であるなどと言う表現も、もっともらしく聞こえます。

しかし、『宗教』や『イデオロギー』の考え方が、社会に『主観の共有』として定着するようになると、『享楽主義』は、好ましくないことになり、表向きは『禁欲主義』が、人としてあるべき姿と考えられるようになりました。

近世の文明社会では、『性差別』は基本的人権に反するものとして、『売春』などが法的に規制されるようになりました。

しかし、人間の『欲望』は、『理性』で抑制できるといった生易しいものではなく、いくら『法』や『社会道徳』で規制しようとしても、マグマのように噴出します。

表向きは『遊興の巷』が存在しないはずの、『イスラム文化圏』の国々や、社会主義の国々でも、『闇のビジネス』が存在するであろうことは、想像に難くありません。

人間の欲望を、野放図に放置はできないにしても、ある程度は『容認』しなければならないというバランスのとり方は、社会にとって難しい課題です。

国によって、そのバランスのとり方は現在でも微妙に違っています。これも『異文化』の領域に属することですので、日本人が外国へ出向いた時は、その国の『考え方』を理解し、遵守しなければなりません。この対応を間違えると、『逮捕』されたり法的『処刑』されたりすることになります。

『個人の欲望』と『社会の抑制』は、『個』と『全体』の価値観の違いという問題へ帰結します。何度もブログに書いてきたように、この価値観の違いを、普遍的に解消する『方法』を人類は見出していません。多分、将来も見いだせないでしょう。

どの社会も、社会の『約束事』を定めて、この問題に対応していますが、『約束事』の内容は、社会の歴史、宗教、文化などで異なっています。また時代によっても『約束事』の内容は変わります。

日本の『遊興の巷』も、時代によって変わってきました。しかしそれが無くなることはありませんでした。

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2019年10月20日 (日)

江戸の諺『箒(ほうき)客』

江戸の諺『箒(ほうき)客』の話です。箒(ほうき)で『掃く』という表現は、遊里で遊女が手当たり次第に次々に客をとるという意味でも使われ、転じて『客掃けが良い』は、お店に客が次から次へ訪れ、去っていく様子を表現することになりました。

箒を逆さに立てかけるのは、嫌な客が長居をせずに早く帰ってほしいと願う『おまじない』のことです。『箒客』は『歓迎したくない客』の意味になりますが、現在ではあまり使われません。

京都の人は、『タテマエ』で客に対応し、『ぶぶ漬け(お茶漬け)でも、どうどす』と勧めた時は、『早く帰ってほしい』というのが『ホンネ』であると、その慇懃無礼を大阪の人が茶化す話は有名です。

客に『ごゆるりと』と口ではいいながら、陰で箒を逆さに立てているような様子が目に浮かびます。

日本人は『ホンネ』と『タテマエ』が判然としないと、外国人から批判されますが、これは社会の価値観が、『個人重視』より『全体重視』に重きを置く文化が踏襲されているからなのでしょう。

日本は『農耕文化』の色合いが強いために『全体重視』になり、西欧は『狩猟文化』の色合いが強いために『個人重視』になるというような、もっともらしい説明がよく行われますが、一部は当たっているとしても、文化のルーツはそれほど単純な理由ではないような気がします。

『タテマエ』を聴いて『ホンネ』を『忖度(そんたく)』するという、日本の文化は、社会に波風をたてない奥ゆかしい文化でもありますが、『忖度できない人』や『過度の忖度をする人』が、問題を起こすことにもなります。

個人の『ホンネ』を重視する文化は、『違い』が明確になる文化でもありますから、『違い』にどう対応するかが問題になります。波風が立つのは仕方がないということにもなります。『ディベート』は『違い』を明確にした上で、『妥協点』を見出そうとする方法です。

『個人重視』の社会では、『自己主張』は当然であり、これをしないと『損』をすることになります。

スポーツの『チーム・ワーク』という言葉も、日本と外国では、少しことなった意味になります。日本では『規律を守る』『全体のために自分を犠牲にする』というような意味になりますが、外国では『自分の個性を発揮して全体に貢献する』という意味になります。

日本の野球やサッカーの選手が、外国のチームへ移籍した時に、この違いを克服することが最初の課題になります。

『個人重視』と『全体重視』のどちらが優れているか等と言う議論は、あまり意味がありません。双方に長所と短所があるからです。

ただ、日本人が外国の人と付き合う時には、『違い』を理解しておく必要があります。

日本社会では、日本人らしく、国際社会ではそれに準じた対応をしなければなりませんから、『ダブル・スタンダード』になりますが、それができる日本人が増えることが、日本の将来にとって重要なことになります。

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2019年10月19日 (土)

江戸の諺『色におぼれる』

江戸の諺『色におぼれる』の話です。『○○におぼれる』という表現は、多くの場合ある種の強い情感に支配され常軌を逸して、人生の道を誤ったり、最悪死に至るような状況を表したもので、冷静さや『中庸』を重視する価値観が背後にあります。

一時的に、強い情感に襲われることは誰でも経験することですが、そのことだけにこだわっていると、他の何かを逸してしまうことになりかねません。

私たちは、相互に同じ尺度では比較できない多様な『価値観』を持ちながら生きています。

『仕事をとるか、家庭(結婚)をとるか』などという設問には、普遍的な『答』はありません。

人間の能力は、有限なものですから、どちらかに『重き』をおけば、他は『軽んじ』ざるを得なくなります。妥協の上で、両立させることができても、今度は『満足』が得られない『不満』が残ることにもなります。

人生は、多様な価値観のバランスを、自分で判断し、その選択結果に責任を負いながら遂行していくことに他なりません。

『他人の生き方』は参考にはなりますが、あくまでも参考にすぎません。

しかし、自分の選択には、『これで本当に良いのだろうか』という疑念や不安が付きまといますから、誰かに『それでよいのだ』と肯定してもらいたい気持ちが、常に心の片隅にあります。『神仏に頼る』のもそのためです。

私たちの『精神世界』は、生物進化の過程で獲得した『情』と『理』という要素が、支配の根底にあります。生物として先に獲得した『情』の要素が、強い支配力をもっていますから、特定の『情』にとらわれて『おぼれる』ことになりやすいのはそのためです。

『冷静に判断する』『我に帰る』『バランスをとる』などは、強い『情』の支配を抑制する為の『理』の働きです。

面白いことに、他人には『情におぼれている』人は、『魅力的』に眼に映ることがあります。『恋におぼれて死にいたる』話や、『死を賭して復讐に走る』話は、一種の『美学』として小説の題材になります。

『中庸』を守る方が、人生の『得策』と感じながら、自分では選択できない他人の極端な『情重視』の生き方を見て、『羨望』や『共感』を覚えることがあるからなのでしょう。

『多様な価値観のバランスを取りながら生きる』ことが人生であり、それを判断する『精神世界』は、『個性的』であるわけですから、『生き方』に普遍的な規範などありません。

『自分で選んだ人生を歩む』しか方法がありません。

『道徳』『宗教』などは、『正しい生き方』を提示しようとしますが、それは自分の『生き方』に自信が持てない人への、『無難な解決策』にすぎないような気がします。

他人の『生き方』に害を及ぼすような『生き方』は論外として、『自分の人生は、自分で決める』という『覚悟』が最後には求められるのではないでしょうか。

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2019年10月18日 (金)

江戸の諺『お釜掘る』

江戸の諺『お釜掘る』の話です。男性同士の同性愛者の『性行為』を意味する隠語として現在でも使われています。男性の同性愛者を『オカマ』と呼ぶのは、ここからきています。

西欧のキリスト教文化圏では、『同性愛』は『神』への背徳行為と断じられてきましたので、『同性愛者』の社会的立場は公には認められませんでした。

しかし、『同性愛』を『個人の選択の権利』として認めるという『価値観』が台頭し、『同性愛者の存在』『同性同士の婚姻』を認める風潮が、西欧社会中心に広がりつつあります。

日本では、古来男性同士の性愛行為を『男色』と呼び、『お殿様』が美貌の『お小姓』に『夜伽』の相手をさせるなどという行為は、『おおっぴら』に行われてきました。

一方『お殿様』は『正室』や『側室』に『世継ぎ』を産ませることも行っていましたので、『男色』は、気まぐれな『性の好奇心』を満たすものといった程度のものとして、社会は、ある程度寛容に、これを受け入れていました。多くの人が自分たちとは違う『変わり者』の存在をそれとなく認め、マイノリティである『変わり者』は、少々肩身の狭い思いをすることがあっても、キリスト教文化のように『背徳者』として糾弾されることはありませんでした。

この風潮は、現代の日本への継承されていて、『オカマ』のタレントが、それを逆手にとって人気者となり、テレビの司会者などとして活躍し、視聴者もそれを受け入れています。

今でも『同性愛者』を公には認めない『イスラム文化圏』の人たちが、日本のこの現状を観たら、『日本はモラルを欠いた国』と受け止めるに違いありません。これはまさしく『異文化』に類します。

『性同一性障害』と診断される人もいて、こちらは肉体的な生まれつきの『性』とは異なった『性』でありたいという欲求を保有する人です。結果的に『同性愛』と同じ行為をもとめることもありますが、『性同一性障害』と『同性愛』は、同じ概念ではありません。

『性同一性障害』は、『自分とは異なった性になりたいという欲求意識の持ち主』であり、『同性愛者』は、『自分と同じ性の人を、性行為の対象にしたいという欲求意識の持ち主』で、微妙に異なります。

『同性愛』も『性同一性障害』も、何故そのような欲求意識の人が、出現するのかは、遺伝子が関与しているのであろうという推測はできますが、真の原因は科学的に究明されていません。

受胎時に生成されたその人の『遺伝子配列』の一部に『突然変異』で多くの人の平均的な遺伝子内容とはことなった遺伝子が、組み込まれたのであろうという『仮説』が有力です。

平均的な多くの人たちにも、潜在的にそのような『欲求意識』が秘められているのかもしれません。ただそれが、強く表面化した症状が、『同性愛』『性同一性障害』なのかもしれません。

統計的に、平均値から遠く逸れた『資質』の保有者が、『遺伝子配列』生成との関連で必ずある比率で出現することは、生物としての宿命です。人間は『個性的』に創られているという典型例です。これに社会がどのように対応するかは科学の問題ではありません。

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2019年10月17日 (木)

江戸の諺『腹が見え透く』

江戸の諺『腹が見え透く』の話です。『魂胆が見え透く』と同じで、『ホンネが見え見え』の状態を表現したもので、現代でも使われます。

『ホンネ』は『タテマエ』の逆で、『タテマエ』は自分を取り繕った『きれいごと』ですから、『ホンネ』は理屈抜きで自分に都合のよいことを望む慾得が絡みます。『ホンネ』は、梅爺がいつも書いてきた『安泰を希求する本能』を率直に表現したものになります。

人間の行動が複雑なのは、『ホンネ』を持ちながら『タテマエ』で対応しようとしたりすることです。

何故このようなことになるのかと言えば、『ホンネ』は『自分勝手』であり、それをあからさまに表現すると、他人から『蔑(さげす)まされる』ことを感じとって、防御のために『自分を取り繕う』『見栄を張る』『体裁を飾る』ことをしようとするからです。

生物そして『群を作って生きる』ことを選択した『ヒト』にとって、他人から自分は否定的に観られることは、『安泰』を脅かされることになりますから、これを避けようとする心理が無意識に働くことになります。人間社会で『絆』が重視されるのはこのためです。

無人島で一人暮らす『ロビンソン・クルーソー』には、『タテマエ』などの必要はありません。

一見矛盾する『ホンネ』も『タテマエ』も、同じ『安泰を希求する本能』が根源であるということです。

『ホンネ』を『タテマエ』でカモフラージュすることが、『上手い人』と『下手な人』がいて、どちらも他人から、良くいわれることもあれば、悪くいわれることもあります。

『上手い人』は、『思慮深い人』と褒められたり、『腹黒い人』とけなされたりします。『下手な人』は、『軽率な人』とけなされたり、『天真爛漫な人』と褒められたりします。

子供は、『タテマエ』を弄する術を身につけていませんから、一般に『天真爛漫』で『ホンネが見え見え』に振舞います。

人間が『何を考えるか、何を感じるか』は『脳』の機能であることは、現代人は科学知識として知っていますが、江戸の人たちは、『魂胆』は文字通り『腹』にあると考えていたのでしょう。

『腹が立つ』『腹が煮えくりかえる』『腹が据わる』『腹を決める』『腹をくくる』『腹黒い』などという表現が、沢山日本語として継承されています。外国人から観ると、これは『異文化』で興味深いことではないでしょうか。

古代エジプトから中世の西欧まで、『心』は『心臓』の働きと考えられていました。恋をすれば『胸がときめき』ますから、そう考えたくなるのも分かります。

古代エジプトでは、死者の『心臓』を壺に入れて、ミイラと一緒に埋葬しました。『あの世』でも『心』が必要と考えたからなのでしょう。

『腹が見え透く』は、あまり良い意味では使われません。相手が『自己中心の人であることが見え見え』と蔑むニュアンスがこめられます。

しかし、生物の宿命として『ヒト』は、誰も多かれ少なかれ『自己中心』であることは弁えておく必要があります。 

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2019年10月16日 (水)

手を失いつつある(6)

『先進の民主国家』では、『個人』が『個性的』であることを基本的に認め、たとえ能力格差があっても、人間として生きていくための『基本的な権利』は最低限保証するという認識が社会にあります。

このため、『個人』は、自分の能力を駆使して、『自分らしく生きる』ことに『生きがい』を感じてきました。

能力差がありますから、『他人に優る』ことはかなわなくても、『自分らしく』生きることに大きな意味があることになります。

『仕事』は、生活の糧をえる手段でもありますが、『自分らしさを発揮する』場でもあり、自分の『存在価値』を確認するものでもありました。

この『仕事』の大半が、『機械で代行される』ことになったら、人間社会は継続できるのかという問題提起が、このエッセイの著者によってなされていることになります。

『力仕事』や『人間には嫌な仕事』を『機械』に代行させるというレベルと、人間の『脳』よりははるかに優れた総合判断力を持つ『機械』に、人間の『仕事』を代行させるというレベルでは、問題は決定的に異なります。

『人間』が『主人』で、『機械』が『下僕』であるという関係が成立している間は、『AI』は素晴らしい成果を人間社会へもたらす可能性を秘めていますが、関係が逆転した時の『AI』は、『人間』の『存在価値』を否定するものに豹変するかもしれません。

梅爺は『人間』が『不完全』な存在であるのに対して、『AI』が『完全』なものであるなどとは考えていません。仮に『AI』は『人間』の『不完全』さより、少しましな『不完全』さであったとしても、相対的に『人間』は、『存在価値』を失うかもしれないと考えているだけです。

私たちは、『科学』の可能性を抑制する必要はありませんが、『科学』がもたらす『成果』について、人間や人間社会にそれを取り入れるかどうかは、別問題として具論すべき時代にきているのではないでしょうか。

この『知恵』を誤ると、人類は自ら創出した『科学』の『成果』によって、滅亡の道をたどることになるかも知れません。

既に『核エネルギー』で、この問題に直面しています。『核兵器の保有が、核抑止力になる』という『毒をもって毒を制する』考え方と、核保有国同士の愚かしく見える『疑心暗鬼』が『核兵器廃絶』という、多くの人の願いを『絵に描いたモチ』にしてしまっています。『国家』と『人類全体』の関係は、『個』と『全体』の関係と同じで、普遍的な解決策を人類は持ち合わせていません。

経済的に魅力的に見える『原子力発電』も、『福島原発事故』のような災厄をもたらす可能性を秘めており、災厄が無いにしても『使用済みウラン燃料』の究極的な処理方法を、人類はまだ見いだせていません。

同様に、最先端科学の『遺伝子操作』も、人類にバラ色の未来だけをもたらすものではありません。

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2019年10月15日 (火)

手を失いつつある(5)

『人が手を失いつつある』というこのエッセイの表現は、『人間の仕事を機械が代行するようになりつつある』という意味です。

そのようなことは、今に始まったことではなく、特に『産業革命』以降、ずっと続いてきたことであり、確かに一部は社会に混乱を起こしたりはしましたが、人々は何とか対応してきた結果、全体としては社会は健全な発展を遂げてきたので、今後もそうなるのではないかと御指摘される方もおられるでしょう。

このエッセイの著者が危惧していることは、『本当にそうか』という問題意識です。

この事を考える上では、『人間の仕事を機械が代行する』という意味が、『今まで』と『これから』では異なってくるのかどうかが問題になります。

『今まで』は、『機械に仕事を代行させる』ことで、人間の『存在価値』が脅かされることはないという共通認識が、社会にありました。言い方を変えれば、『機械で代行できること』は機械に任せ、人間は『機械が代行できないこと』をすればよいという考え方です。部分的には機械が人間に勝ることがあっても、全体的な総合能力で人間は機械に劣ることはないという考え方ともいえます。前にも書いたように、人間が『主人』で、機械は『下僕』であるという認識です。

この時の『全体的な総合能力』は、『脳』を駆使した高度な『推論』『判断』のことを意味します。

ところが、『これから』は、この『全体的な総合能力』で、人間が機械より劣ることになるのではないかと、エッセイの著者は危惧していることになります。

『AI(人工知能)』と呼ばれる『コンピュータ』の『推論』『判断』は、人間の能力をはるかに超えてしまうかもしれないということです。

もしそうなら、『今まで』人間を必要とすると考えてきた『砦』が崩壊することになり、人間の『存在価値』が基盤から崩れ去ることになります。

『AI』のプログラムを、継続的に改良する為のプログラマーだけが、人間として必要で、その他の職業は、全て機械にとって代わられるという予測になります。

それどころか、『AI』自身が自己改善する機能を持つようになって、プログラマーさえ不要になるのかもしれません。

『機械の医者』は、人間のいかなる名医よりも、確率的に正確な診断と手術を行い、『機械の教師』は、人間のいかなる教師より適切な教育指導を行い、『機械の裁判官』は、人間の裁判官より、妥当な判決を下し、『機械の気象予報士』は人間の予報士より、確率の高い予測をするようになり、『機械の政治リーダー』は、人間の政治リーダーより、国益を重視した妥当な判断をするかもしれません。

勿論、このようなことが、『明日』起こるわけではありませんが、数十年後には、このような問題に人類は直面するであろうことが予測できます。

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2019年10月14日 (月)

手を失いつつある(4)

『富国』が国家の健全な運営の基盤であるという考え方は、『自由経済主義』『資本主義』『民主主義』を掲げる国家では『共通認識』となっています。

しかし、『富国』が『富民』につながるという主張は、必ずしもそうではない側面が露呈し、問題視されつつあります。

『中国』のように、『共産主義』『社会主義』を標榜しながら、『富国』を追い求める国家は、経済行為は『資本主義』となんら変わらないではないかと矛盾が指摘されますが、『中国』の『政治リーダー』は、そうは考えていないのでしょう。

『一党独裁』という国家基盤を何としても維持する為に、『富国』が必要であり、便宜的な手段として、一見『資本主義』に似た経済行為を、国民の一部に『許容』していると考えているのではないでしょうか。その証拠に、全ての経済行為は、究極において国家の『統制下』にあると自負しているのでしょう。

一方、『一党独裁』という国家基盤を維持する為に、国民の『思想統制』も必要であり、これは、『思想弾圧』『恐怖政治』を生み出す温床にもなります。更に『党』内部も一枚岩にしておかなければならず、これが激しい『権力闘争』を喚起します。

『富国』のために、一部の国民に、経済的行為に限って『自由採択』を認めながら、思想に関しては、『自由採択』を認めないということに、『中国』の大きな『矛盾』があります。

問題の根源は、梅爺が何度もブログに書いてきた、『個人』と『全体』の『価値観』の違いを、どのように調整するかに関して、人類は普遍的な『解』を持たないということにあります。

何故『個人』と『全体』の間に『価値観』の違いが生ずるかは、単純な理由で、『個人』は生物として『個性的』であるように宿命づけられているからです。

私たちは、同じ事象に接しても、一人ひとり『考え方』『感じ方』は同じではありません。

『社会』はそのような『個性的』な『個人』で構成されているという事実を『是認』すれば、『自由経済主義』『資本主義』『民主主義』を尊重するようなことになります。

一方『全体の秩序が最優先で、個人は全体に従うべき』という考え方では、『個性的』であることは認めませんから、『独裁主義』が生まれることになります。

人間にとって、自分が『個性的』であることが認められることが、最も重要なことであるとすれば、『自由経済主義』『資本主義』『民主主義』の下で生きることを望むでしょう。『思想』『言論』『芸術的表現』『信仰』等で、基本的な『自湯採択』が認められないとしたら、『精神世界』はそれを『安泰を脅かす要因』と感じとり、『苦痛』に苛まれるからです。

『全体の秩序が最優先で、個人は全体に従うべき』という考え方は、『全体』にとっては効率のよい話ですが、人間が『個性的』であるという『事実』が、無視または軽視され、個人にとっては『苦痛』が残ることになります。

コミュニティにとって、どのような『体制』が好ましいかは、単純な議論ではありませんが、『個人は個性的である』という『事実』をどのように認識するかが、決め手のような気がします。

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2019年10月13日 (日)

手を失いつつある(3)

新しい『道具』や『機械』が出現するたびに、人類社会や特定の個人は、少なからず影響を受けてきました。『自動車』が出現して、交通様式が変わり、『馬車』や『馬』は不要になり、『馬車職人』『馬車の御者』は職を失いました。

『産業革命』の時に、機械に職を奪われた『職人』たちは、『ラッダイト運動(機械打ちこわし運動)』に走りました。自分たちの『安泰』を脅かすことになった『機械』を、あたかも仇敵のように憎んだという話です。

しかし、社会は『道具』や『機械』の出現で、職を失った人の数より、圧倒的な多数の人たちは、『快適』『便利』を手にして、職を失った人たちの『反抗』などはかき消されてしまいました。

何よりも、『道具』や『機械』の出現で、『付加価値』を生み出した『企業家』や、それを資金面で支えた『金融業者』は、莫大な『利益』を手にし、貧富の差は拡大されましたが、圧倒的多数の庶民が手に入れた『快適』『便利』の力は絶大で、『企業家』や『金融業者』が『不当な利益を得ている』と非難することにはなりませんでした。

『政治リーダー』にとっても、『富国』は好ましいことで、『企業家』『金融業者』を擁護する立場をとりました。

『富』の拡大を『善』とする、『自由市場経済』『資本主義』が、人間社会の一つの基盤として定着してきた背景がここにあります。

『企業家』や『金融業者』が得た利益は、社会へ再投資されるので、社会は更に豊かになるという主張がなされましたが、現実は、利益は社会に還元されずに、富裕層の『貯蓄(内部留保)』が増えるだけという弊害が露呈しつつあります。

それでも、『アメリカ』のように、一部の人が『大もうけ』することを、『アメリカン・ドリーム』と人々は称賛し、羨望する風潮が形成されました。『アメリカン・ドリーム』は『アメリカ』が『自由な国』であるからであると、『自由』の意味を深く考えずに、これまた『自由』を礼賛する風潮もあります。

『資本主義』は、観方を変えれば、『資本家による労働者からの搾取』であり、人類にとって好ましい社会形態ではないという考え方が、『共産主義』『社会主義』で、人類の歴史で、壮大な実験がなされましたが、結局『ソ連』の崩壊で、表向きは『資本主義』に敗北することになりました。

この事から『資本主義』が、人類にとって『理想』と端的に勘違いする人がおられますが、そのような単純な話ではないと梅爺は思います。

『ソ連』が崩壊せざるを得なくなったのは、『共産主義』『社会主義』の考え方が悪かったわけではなく、それを実現する為に採用した『社会構造』が、多様な価値観を認めない『恐怖政治』に走ったことにあります。何故『共産主義』『社会主義』は、権力抗争や『恐怖政治』に走るのかは、別の議論を要するころではないでしょうか。

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2019年10月12日 (土)

手を失いつつある(2)

人間が『手』を使うということは、『脳』を使うということでもあります。『手』と『脳』は連動して目的を果たすからです。『手』を使って何かを実現できるようになると、それに関連する『知識』が『脳』に蓄積され、その『知識』を利用して、更に似たような他の目的も果たせるようにもなります。

『自給自足』社会では、このようにして誰もが、『生きるための知識』を、同様に広く浅く保有していたことになります。『知識』の『分散』保有が特徴です。

『専門の職業分化』社会では、ある『知識』は『専門家』だけが保有するという『集中』が特徴になります。もちろんその分『知識』は高度なものになります。

『自給自足』社会では、生活に必要な基本的なものは、創りだせますが、『自動車』『テレビ』『パソコン』『スマホ』などは出現しません。

『専門の職業分化』社会であるからこそ、私たちは『自動車』『テレビ』『パソコン』『スマホ』を当たり前のように道具として利用しています。しかし、ほとんどの人は、『内燃機関』『映像処理』『情報処理』『通信処理』の詳しい『仕組み』に関する『知識』は持ち合わせていません。『知識』は一握りの『専門家』が集中的に独占保有しています。

このエッセイの著者は、人間の『手仕事』を機械が代行するようになると、それに関連する『脳』の『知識』が、消滅することを危惧しています。

しかし、『自給自足』社会から『専門の職業分化』社会へ移行した時に、多くの人はある種の『知識』を保有しなくなったことを考えると、この事が大問題であるとは思いません。人間は、『脳』の能力を違った方面へ活用し、新しい『知識』を獲得してきたからです。

私たちは『自動車』を運転したり、『スマホ』を駆使したリしていますが、この行為自身が多様な『知識』が要求するからです。『自給自足』社会の人は、これらの『知識』を持ち合わせませんでした。

人間の『手仕事』を機械が代行することになることの本当の問題は、経済的な視点で、『付加価値』を生み出すのが機械であって人間ではなくなるということにあります。

これは、機械さえあれば、人間は要らないという極端な考え方を生み出す危険性を秘めていあす。

近世以降、人類は多くの便利な機械を創出してきました。しかし、あくまでも人間が『主人(マスター)』で機械は『下僕(サーバント)』であるという、暗黙の『共生』の関係が成立していました。

しかし、逆に人間が機械に依存したり、機械(人工知能)の判断に従ったりするようになると、『主人』と『下僕』の関係は曖昧になり、時に逆転することにもなりかねません。

経済的には、機械の方が人間より付加価値が高いという考え方が台頭してきます。

『姥捨て山』のような極端な話にはならないにしても、社会で『付加価値』を生み出せない人たちは、阻害され、格差が一層大きな社会になりかねません。

梅爺のような、老人は、社会的には『無駄』と白眼視されかねません。

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2019年10月11日 (金)

手を失いつつある(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の97番目のタイトルは『Losing Our Hands(手を失いつつある)』で、著者は心理学者の『Susan Blackmore』です。

著者が危惧していることは、もちろん物理的に『手』が切断されることではなく、私たちが仕事を『機械』に任せて、自分の『手』を使うことが無くなりつつあることがもたらす『人類の未来』です。

太古の人類は、生きるために、全てのことを自らの『手』を用いて対応しました。その後『文明』がもたらした『専門の職業分化』はまだ存在しませんでしたから、自ら『手』を下す『自給自足』が必要であったことになります。

誰もが『自給自足』する社会と、『専門の職業分化』が実現されている社会とは、どちらが優れているかは、単純な議論ではありません。一般論としては、『自給自足』は、社会効率が高いとは言えず、大規模な社会構造には適していない代わりに、環境変化に耐える『強靭性』は優れているといえるでしょう。逆に、『専門の職業分化』は、社会効率は高く、大規模な社会構造を維持できる代わりに、環境変化に対しては、全体が一気に麻痺してしまう『脆弱性』のリスクを内包しています。

現在の日本で、『里山経済』の重要性を説く人たちがいますが、これは、『専門の職業分化』を基盤とする『都市』集中型の国家は、今後『弊害』が目立つようになり、立ち行かなくなるであろうという推測の下に、『自給自足』を前提とする小さなコミュニティ(里山)の寄せ集め国家に変貌していくべきであるという主張なのでしょう。

過疎化で、人影が無くなりつつある『地方』を再生する手段としても有効であるということでしょう。

しかし、梅爺は現時点で、日本が『里山経済』へ向かって大きく舵をきることはないと思います。『都市』集中型の国家を支えているものは、『社会的、経済的な効率の良さ』『高付加価値(利益)の創出』『物理的な快適さ』であり、人々が『高収入』で『物理的な快適さ』を優先度高く求める限り、これを放棄して、比較的『低収入』で『物理的な快適さ』に劣る『里山経済』を選択しないと思うからです。

しかし、『競争』『ストレス』に明け暮れる都市の生活よりは、自然の中でのんびり生きる『心の満足』を求めて、『都市』から『地方(田舎)』への『Uターン』をする人たちは徐々に増えていくのではないでしょうか。

情報通信システムが高度化して、『地方』にいても、最先端の仕事はできる時代になりつつあることも、『Uターン』を加速する要因になるでしょう。

人々は、必ずしも『都市』での生活を『理想』とするのではなく、自分の『価値観』で、『都市』か『田舎』を選択するようになでしょう。日本にとって、これは健全な『変化』であると思います。昔の『田舎』が復活するのではなく、新しい『田舎』が出現するということです。

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2019年10月10日 (木)

江戸の諺『京の着倒れ、大阪の喰い倒れ』

江戸の諺『京の着倒れ、大阪の喰い倒れ』の話です。

その土地土地に、歴史などが絡んだ文化があることを表現しています。世界から見ると、小さな島国の日本ですが、『ケンミン・ショー』などというバラエティ番組を観ていると、近接の県でありながら、微妙に異なった方言、食文化、風習などが今でも継承されていることを改めて知ることができます。

『京』と『大阪』は、双方近い距離関係にある上方の都市ですが、『京』の人は、良い衣装を手に入れることに、全財産を投げ出すほどの執着をし、『大阪』の人は、美味しいものを食べることに、全財産を投げ出すほど執着すると、優先する『価値観』の違いを誇張して表現した諺です。

『衣装』『食べ物』は、単に比喩のために諧謔で使っている言葉で、本質は、『京』の人は『形式的な体裁』を、『大阪』の人は『実質的な実利』を優先すると言っていることになります。

天皇がお住まいになる『御所』を擁する『京』は、きらびやかな公家文化が継承されていて、『形式的な体裁』がものを言う土地であったのに対し、『太閤はん』のおひざ元で栄えた『大阪』は商人主体の都市で、『実利』がものをいう土地であったという歴史を反映しているのでしょう。

『大阪』の人は、『京』の人を体裁にこだわるけれども『渋ちん(けち)』であると笑いものにし、『京』に人は、『大阪』の人を、開けっぴろげで『ガラが悪い(品がない)』と笑いものにします。

現在では、更に『神戸』が、『私たちは、京都とも大阪とも違う』と主張して、関西では三つ巴の主張合戦になっています。

自分の『アイデンテティ』を、他人より優れたものであると、主張するのは、個人も『コミュニティ』も同じです。『安泰を希求する本能』が、人間の『精神世界』の根底にあるからです。

距離的に近い関係にあるほど、相手に対して『ライバル』心をたぎらせることになります。クラス内やチーム内の『ライバル対決』、近い関係にある『学校』『会社』同士の『ライバル意識』、近隣の『県』『国家』に対する『ライバル意識』などが、すぐに思い浮かびます。

過去に、日本の植民地としての支配された『韓国』は、その歴史的な『恨み』もあって、何事にも『日本には負けたくない』という国民感情が強いのも、そのためでしょう。

『韓国』の政治リーダーが、この国民感情を権力維持の基盤として利用しようとするところがあり、両国が『友好的に競い合う』のではなく、『敵愾心で競い合う』ことになってしまうのは不幸なことです。

冷静に考えてみれば、双方にそれほどの違いがあるわけでもありませんから、つまらないことでいがみ合うのは、日本の『諺』で表現すれば、『目くそ、鼻くそを笑う』ということで、滑稽なことです。

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2019年10月 9日 (水)

江戸の諺『三味線に喰われる太夫』

江戸の諺『三味線に喰われる太夫』の話です。

これは浄瑠璃(ジョウルリ)を語る太夫の腕前が、伴奏の立派な三味線やその音色に比べて貧相で、釣り合っていないことを、からかっているものです。

『道具』だけは立派で、それを使う人の腕が、『道具』にそぐわないという状況は、よく見かける光景です。

高価な『ゴルフ・セット』を自慢する下手なゴルファー、『高級車』を自慢げに乗り回すいかがわしい人物、高価な『調理道具』一式をそろえた下手な料理人、立派な『カラオケ・セット』で得意げに歌う音楽センスのない人など思い浮かびます。

本人は、『道具』が良ければ、自分の腕も上がるであろうと勘違いしていたり、立派な『道具』を持っていれば、周囲の人が自分を高く評価してくれるであろうと、これまた勘違いしているわけですから、客観的にみれば滑稽な話です。

一念発起して、何か新しいことに挑戦するときに、高価で一流の『道具』を先ず入手するという考え方は、『道具』に似合う腕前になるまでは、安易な妥協や挫折は絶対にしないぞという、『退路を断つ』という意味もありますから、必ずしも、滑稽とは言えない面があります。

しかし、自分が『願うレベル』と『実現できるレベル』には差があることを事前に、冷静に予測することは難しいことです。

『どうせ自分はダメだ』と最初からあきらめてしまうと何事も成就できませんし、一方『無理なことにいつまでもこだわる』のも、貴重な人生を浪費になりかねません。

誰でも、多かれ少なかれ、このような問題を抱えながら生きていることになります。

他人のことはある程度客観的に評価できても、自分のことになると客観視は難しくなるということです。これも『安泰を希求する本能』が私たちの心の底にあるからです。

『道具』として有名なものに、楽器の『ストラディヴァリ』があります。17世紀のイタリアの楽器職人『アントニオ・ストラディヴァリ』が製作した、『ヴァイオリン』『ヴィオラ』『チェロ』で、それを保有することは、演奏家のあこがれの的です。

素人には、『ストラディヴァリ』とその他の職人が創った楽器の音色の違いは、聞き分けることは難しいのですが、『名器』であるという評価は一種の『主観の共有』として継承されています。現在まで、世界に600ほどの『ストラディヴァリ』が残されていますが、時価は3億円程度もしますから、誰もが保有できるわけではありません。

音楽業界には、独特の『レンタル制度』があり、金持ちの所有者が、演奏者の力量や知名度を配慮して、演奏者に貸し出すしきたりになっています。

世界のコンクールで上位入賞した演奏家や、音楽会で、知名度が高く誰もが認める実力の持ち主が貸し出しの対象になります。

金持ちがただ所有してしても『宝の持ち腐れ』ですから、実際に『使って価値を発揮する』ことを重視した、なかなかうまい仕組みです。 

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2019年10月 8日 (火)

江戸の諺『人を茶にする』

江戸の諺『人を茶にする』の話です。これはヒトを愚弄する、からかうことを意味します。現代でも『人を茶化す』などという表現を使います。

梅爺は日本語の歴史に詳しくありませんが、古代の『和語』には『チャ』という発音を使う言葉はなかったのではないでしょうか。中国からた『茶』がもたらされて、『漢語』の発音『チャ』が、日本で使われるようになったのでしょう。

それでも耳で聴く『チャ』という響きは、昔の日本人にとって『美しい語感』ではなく、何となく軽々しい異質な感じを受けるために『茶道』を『チャドウ』ではなく『サドウ』と発音したのは、そのためではないでしょうか。

一方、新しいものへの興味心が旺盛な日本人は、『チャ』という響きに新鮮さを感じ、何となく軽々しいニュアンスを表現するときに、これを用いるようになったのではないでしょうか。梅爺の勝手な想像ですから間違っているかもしれません。

もしそうなら、『人を茶にする』『人を茶化す』は、飲み物の『茶』と本来無縁で、当て字として『茶』を使ったことになります。

現代では、『オチャラカ』『チャッカリ』『チャンと』などと『チャ』の発音は、使われますが、それでもかしこまった文章では、日本語の美しさを乱すものとして、避ける人が多いように感じます。これらの言葉が、日本語として根付いたのは、近世以降のことではないでしょうか。

『チャルメラ』も、ポルトガル語で『芦(あし)』の意味ということらしいので、これもあの独特なラッパの音色とともに。珍しい外来語として根付いたのでしょう。

『チャ・チャ・チャ』は、新しいラテン音楽のリズムの一つとして、日本にもたらされたのですが、今までにない新鮮な感覚として、流行しました。『おもちゃのチャ・チャ・チャ』などは、子供が好きそうな楽しい語感です。日本のサッカー代表が試合をする時に、サポーターは『ニッポン、チャ・チャ・チャ』と手拍子で叫びますが、これも新鮮で楽しい語感を利用していることになります。

『茶化す』の語源は、当て字ではなく、『お茶にする(休憩にする)』という意味で、それまでの状態を曖昧にして、なんとなくごまかしてしまうという意味が語源であるという説もあるようです。確かに『チャラにする』などという時の意味はこれに当てはまるようにも感じますが、少しこの説には無理を感じます。

『人を茶化す』は、決して良い行為ではありません。しかし、私たちの『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があり、相対的に他人より自分を有利な立場に置きたいという欲望があって、こういう行為に走りがちです。

歪んだ相対的『優越感』が根底にありますから、『茶化す』は、笑いごとでは済まされい『いじめ』『差別』にもつながりかねません。

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2019年10月 7日 (月)

江戸の諺『手打ち』

江戸の諺『手打ち』の話です。これは『同意する』『合意する』の意味で、今日もよく使われます。同音語の『手討ち』の方は、『刀で成敗する』という意味ですから、日本語を学ぶ外国の方には、区別が難しいかもしれません。

日本では、『一件落着』の時に、『お手を拝借』ということで、全員で決められた様式の手拍子を打つことになります。また『会合』の終わりを告げる時も『〆(しめ)』と称して、全員で決められた様式の手拍子を打ちます。

梅爺の仕事の現役時代に、海外の子会社で、『わだかまりを捨てて心を一つにする』ための日本では重要な儀式であると『〆の手拍子』を紹介し、現地の人たちも、結構面白がって対応していました。

儀式そのものは異様に見えても、『絆の確認』は人間社会では重要なものであることを外国人もすぐに理解しますから、その意味を汲み取ることができたのでしょう。グループスポーツ競技でも、試合の前に全員で肩を組んで『さぁ、行くぞ』と叫んだりするのは、世界共通ですから、日本人の知恵が込められた『〆の手拍子』も理解してもらえるのでしょう。

前に『目(眼)』に関する、語彙の豊富さを紹介しましたが、『手』も人間にとっては重要な身体の部位ですから、これに関しても沢山の表現が日本語にはあります。

『手足を伸ばす』『手が上がる』『手が空く』『手が後ろに回る』『手が付けられない』『手が届く』『手(打ち手)が無い』『手が長い』『手が入る』『手が速い』『手が塞がる』『手が回る』『手ぐすね引く』『手癖が悪い』『手心を加える』『手玉に取る』『手取り足取り』『手に汗握る』『手に落ちる』『手にする』『手に取るように分かる』『手に乗る』『手に入る』『手に渡る』『手の裏を返す』『手の施しようがない』『手回しがいい』『手も足も出ない』『お手上げになる』『手を合わせる』『手を替え品を替え』『手を借りる』『手を切る』『手を下す』『手を加える』『手を拱(こまね)く』『手を差し伸べる』『手を染める』『手を出す』『手をつなぐ』『手を握る』『手を延ばす』『手を離れる』『手を引く』『手を広げる』『手を回す』『手を結ぶ』『手を緩める』『手を汚す』『手を煩わす』『上手に出る』『上手を行く』『得手に帆を揚げる』『王手をかける』『お手の物』『片手落ち』『大手を振る』『下手に出る』『引く手あまた』『人手に渡る』『押しの一手』『痒い所に手が届く』『火の手が上がる』『猫の手も借りたい』『六十の手習い』『その手は食わない』『手綱を締める』『濡手で粟』『手が要る』『手が切れる』『手がこむ』『手がすく』『手が付かない』『お手がつく』『手が離れる』『手が焼ける』『手に汗を握る』『手に合わない』『手に掛ける』『手八丁口八丁』『手も無く』『手を反す』『手を組む』『手を摺る(揉む)』『手を鳴らす』『小手を効かせる』『手の内に丸め込む』『手の内の珠』『手刀を切る』『手塩に掛ける』『お手盛り』『手車に乗せる』『手鍋下げても』『手間隙いらず』『諸手を挙げる』『触手を伸ばす』

『言語』と『文化』は強い関係を有しますが、これを見ただけで外国の方が日本語を習得するのがいかに難しいかが分かります。

私たちが外国語を学ぶ時も、同じことが言えます。『異文化を理解する』ことが、いかに難しいかが分かります。

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2019年10月 6日 (日)

江戸の諺『赤眼釣り合う』

江戸の諺『赤眼釣り合う』の話です。『上方落語』には、この表現が使われたりしていますので、江戸と言うより上方で主に使われた表現で、関西の方には現在でもなじみの表現なのかもしれません。『心外である』とむきのなって突っかかる様子が目に浮かびます。

『赤眼』は『充血した眼』のことで、興奮して血圧が上がる状態ですから、激しい『怒り』などが原因になります。

私たちの『脳』が、他人の顔を識別するときに、先ず『眼』を基準にすると言われています。出生後の赤ん坊は、目が見えるようになると、先ず母親の『眼』を追うようになるのは、それが人間の遺伝子で継承される基本的習性であるからなのでしょう。

顔を識別する為に『眼』を基準にすると同時に、『眼』の表情で相手の『情感』も読み取ろうとする習性もあるように思います。

梅爺が昔飼っていた犬は、梅爺の『眼』を真剣に見つめることがよくありました。『眼』で相手の『情感』を読み取ろうとする習性は、人間だけでなく『生物進化』の過程で、他の動物も共有している習性なのではないでしょうか。

『眼は口ほどにものを言い』などと言う表現は、現在でも使われます。『口』からは『言葉』が発せられ、『言葉』は話し手の考えや情感を伝える重要な手段ですが、『言葉』だけでは伝えられない情感があるために、『眼』をはじめ、色々な身体の部位を利用して、情感は表現されます。『言葉』に頼る『文学』といった芸術様式の他に、『絵画』『造形』『音楽』『舞踊』などの芸術様式は、このようにして出現したのでしょう。

『背中の表情で演技できる俳優は名優である』といわれるのもそのためです。

『眼』がコミュニケーションの手段として重要なものであると、古代から人類は感じとっていましたので、『眼』にかかわる諺やイデオムは、どの言語にも多数存在します。

『目が合う』『目が堅い』『目が利く』『目が曇る』『目が眩む』『目が暮れる』『目が肥える』『目が冴える』『目が覚める』『目が据わる』『目が高い』『目が近い』『目が散る』『目が出る』『目が点になる』『目が遠い』『目が届く』『目が飛び出る』『目が(に)留まる』『目が無い』『目が離せない』『目敏(めざと)い』『目を細める』『目頭が熱くなる』などと、日本語にも沢山の表現があります。

『鋭い目』『鈍い目』『聡明な目』『愚鈍な目』などは、その人の性格、能力を一言で表します。

私たちが周囲から取得する情報の80%は、『視覚情報』であると言われています。『生物進化』の過程で、生き残りの確率を高める手段(周囲の状況が自分に都合がよいものかどうかを判断)として、『目』の機能と、それから得られた情報を認識、判別する為の『脳』を保有することになったことが、人間の高度な『精神世界』の基盤としても継承されていることに感謝しなければなりません。

『老眼』や『視力の低下』に悩まされながら、梅爺も『目』を活用して読書をしたり、テレビを観ることを楽しみに生きています。

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2019年10月 5日 (土)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(6)

死後の『魂』『霊』の存在を、近世以前の人類は『主観の共有』として、『信じて』いて、特に『非業の死』を遂げた人の『魂』『霊』は、『個の世』に復讐として『祟り』をもたらすとも『信じて』いました。

『天災』『疫病の流行』などは、全てこの『祟り』と考えられていましたので、『魂』『霊』を『鎮める』ための『加持祈祷』が真剣に行われました。

『為政者』にとっては、『民を治める』実務に加えて、『加持祈祷』も重要な仕事であり、『加持祈祷』に特別の能力を持つ『聖職者』を登用しました。『空海』などがその代表例です。

日本の歴史では、『武家』の台頭と同時に、『民を治める』実務は『武家』の為政者が担当し、『加持祈祷』は『天皇家』が担当するという、役割分担が確立し継承されてきました。現在の日本は、『民を治める』実務は『武家』ではなくなりましたが、『天皇家』の役割は基本的に継承されています。天皇家に伝わる『神事』は、『国家安寧』『五穀豊穣』などを願う『加持祈祷』です。

現代の日本人の多くは、天皇家の『神事』は、伝統的な形式として観ているだけで、『加持祈祷』の実効などは期待していません。ただ、日本の場合は、『民を治める』実務を担当する『為政者』の暴走を抑制する役割で『天皇』が存在するという、実に巧妙な『しくみ』が暗黙のうちに存在することが特徴となっています。

これは日本人の『知恵』ともいうべきもので、『天皇聖廃止論』に、梅爺が必ずしも賛成しない理由になっています。日本では『トランプ大統領』のような思いあがった人物が出現しにくいことになるからです。

近世以降の『科学』は、人類が『精神世界』で考え出し『主観の共有』として継承してきたものが、『理』の観点では『虚構』であることを明らかにしてきました。『あの世(地獄、極楽)』『魂』『霊』の存在は、『理』では説明できないこと、『加持祈祷(人間の願い、祈り)』は、『物質世界』の事象である『天災』『疫病』などには効用が無いことを明らかにしました。人類の歴史の中で、このような状況を体験しているのは現代人だけです。

しかし、人類の『主観の共有』は根強いものであり、私たちは一方で『科学』が明らかにしたことを受け入れながら、他方では、『あの世』『魂』『霊』の存在を信じ、都合の悪いこと、良いことを『加持祈祷』に頼って解決しようとします。

しかし、永い目で観れば、人類の『主観の共有』内容は、変貌し、すたれていくであろうと梅爺は想像しています。

『古代エジプトの神々』『古代ギリシャの神々』『古代ローマ帝国の神々』を、『信ずる』人は現代ではいなくなっていることがその証拠です。

しかし、『願う』『祈る』『信ずる』という行為は、先が見通せない人間にとって、『生きる』ために必要な行為ですから、形を変えて存続し続けるでしょう。

『芥川龍之介』の『地獄』論が、とんでもない話に脱線しましたが、このように、あることに啓発されて、思考の世界が広がるのも、人間の特徴であり、梅爺の生きる『楽しみ』でもあります。

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2019年10月 4日 (金)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(5)

古代から現代まで、人類にとって『死』は不可解なものであり続けています。『何故死ななければならないのか』『死後はどうなるのか』などの疑問に悩まされ続けてきました。

『死』は『生』の終焉であり、誰もが避けられないことであることは、古代の人でも経験則で『認めざるを得ないこと』として観念していたことと思いますが、『不可解』『理不尽』という想いはぬぐい切れなかったに違いありません。

現代の私たちは、『科学』的な視点で、『死』という事象の知識を保有するようになりましたが、相変わらず『不可解』『理不尽』の思いが付きまとうのは、古代の人たちと大きく変わることがありません。

これは、『精神世界』の『価値観』の根底に、『安泰を希求する本能』があるからであろうと梅爺は推察しています。『自分の死』はもとより『知人の死』『他人の死』も、『死』は『安泰』を脅かす強い要因であり、『都合の悪い事態』として『情』が忌避しようとするからであろうと思います。

『死』は受け入れざるを得ないものと観念すると、今度は『死が訪れるまでどう生きるか』ということが気になり、人は『生』と『死』を対とみなして『死生観』に思いをはせることになります。

『死生観』は、『精神世界』の価値観ですから、『個性的』なものになり、多くの人が自分の『死生観』を表明して、中にはそれが周囲の人に感銘を与えることもしばしばあります。『科学』が説明する『死』は、あくまでも『物質世界』の事象であり、『物質世界』を支配する『摂理』に則った事象以外の何物でもありません。しかし『科学』も、何故『摂理』は存在するのかについては説明できませんから、『死は何故必要なのか』を説明することはできません。

そこで、人類は『摂理』を逆にうまく利用して、『老化防止』『寿命延長』を人工的に実現しようと努力を重ねています。『平均寿命500歳時代の到来』も、『理』による科学的な予測としては不可能ではないと考えられています。

古代の『王』や『皇帝』が、夢見た『不老不死』を、現代の私たちは手に入れようとしています。

『死後自分はどうなるのか』も、古代から人類の変わらぬ疑問でした。梅爺は『全てが無に帰す』と味気ない認識を『理』で受け入れていますが、『寂寥感』という『情』が自分にもあることは受け入れています。

歴史的に人類は、『死後の世界(あの世)』の存在を、『精神世界』で考え出し、それに一縷の『安堵』を求めようとしてきました。

どの『宗教』も、この考え方を導入し、肉体は滅びても『魂』『霊』は『あの世』で存在し続けると説いてきました。更に、『信仰の厚い人』は『天国(極楽)』へ行き、『信仰の薄い人』は『地獄』へ堕ちるという考えも思いつきました。

しかし、『理』で『あの世』の存在は証明できませんので、『信じなさい』と説いてきました。

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2019年10月 3日 (木)

『侏儒の言葉 』考・・『地獄』(4)

『キリスト』の頭にあった『神』は、あくまでも『ユダヤ民族の神(ヤーヴェ)』であり、『ユダヤ民族とユダヤ民族の神の関係の在り方』を説いたものであったと想像できます。

しかし『使徒パウロ』は、ユダヤ民族以外にも『布教』することを推し進め、『ユダヤ民族の神』を『全人類の神』へ格上げする必要に迫られました。

この時『使徒パウロ』が下した判断は、『旧約聖書(ユダヤ教の聖典を踏襲)』におけるユダヤ民族の『神』に関する『認識』は『誤り』とすることでした。このため、『使徒パウロ』は『ユダヤ教』からみると、『異端者』ということになりました。

『使徒パウロ』は、『十字架の死』の意味も、『人々の罪を、人々に代わって購う』ものであるという『贖罪』の考え方を導入しました。『使徒パウロ』は、生前の『キリスト』とは面識がないことを考えると、偉大な『宗教的思想家』であったと言えます。『キリスト』の教えの本質は『愛』であるとしたのも彼です。

『カトリック』では、『キリスト』の死後何人かの著者が書いた『伝記』や、『使徒パウロ』が、当時の信徒に送った『手紙』等をまとめて、『新約聖書(全人類と神との間の契約)』としてまとめ採用しました。

ただ『キリスト』の存在を歴史的位置づけるために『旧約聖書』も、重要関連書類として採用しましたので、後の『神学者』や、現在の『信徒』が、それをどのように受け入れるかで頭を悩ませる原因にもなっています。『天地創造』『アダムとイヴ』『ノアの箱舟』などは『旧約聖書』からの引用であるからです。

『キリスト』の伝記に関しては、『新約聖書』に採用されなかったものが存在することが分かっており、そこに書かれている内容は、『カトリック』の『教義』とは相容れないものであることも分かっています。『トマスによる福音書』などが代表例で、その『教義』は『グノーシス派』の考え方と呼ばれています。もちろん、これらは『カトリック』からみると『異端の書』ということになります。

『釈迦』の教えが、死後色々な『解釈』で、宗派分かれしていったように、初期の『キリスト教』にも色々な『解釈』が存在してことがわかります。

人間の『精神世界』は宿命的に『個性的』ですから、必ず『私はこう考える(解釈する)』とそれまでの考え方に異を唱える人が登場します。『宗教』の『宗派分かれ』も、人間社会の宿命として生じます。

各宗派は、『権威』を維持する為に、色々な手段を講じ、異を唱える人がどうしても手に負えない時は『異端』として弾圧、排除しようとしてきました。

『大聖堂』『大伽藍』『大モスク』などの圧倒的な建築物、『聖職者』のきらびやかな衣装、『音楽』や『絵画、彫像』などを布教の手段とすること、『信徒』は心理的に圧倒され、『教義』が『主観の共有』として根強く継承されてきました。

一方、『宗教』は、人間の『安泰を希求する本能(心の安らぎ)』に対応するための手段として、人類の歴史に大きな影響も与えてきました。『宗教』の本質を考える時は、このことを配慮しなければなりません。

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2019年10月 2日 (水)

『侏儒の言葉 』考・・『地獄』(3)

『釈迦』は、自らが『仏教』という宗教の教祖になろうなどとは考えずに、その時代のインドで取得できる知識や、自分の及ぶ限りの『理』による推論で、『人が生きることは何故苦しみを伴うのか』という疑問に納得のいく『答』を導き出そうとしただけではないでしょうか。

勿論その『内容』は、多くの人を啓蒙するものであり、『釈迦』を師とする『弟子たち』が周囲に集まってきました。『釈迦』の死後、『弟子たち』は生前の『師』の教えを、『経典』として残し、それが後に出現する沢山の『経典』の元になりました。

『キリスト』も、自らが『キリスト教』という宗教の教祖になろうなどとは考えずに、その時代のユダヤで取得できる知識や、自らの思考で、『人と神の関係の在り方』を述べようとしただけではないでしょうか。

当時のユダヤは『ローマ帝国』の属州であり、『皇帝』を『神』と仰ぐように強いられ、ユダヤ民族がそれまで、継承してきた『ユダヤ人の神(ユダヤ人だけの神)との契約』がおろそかにされたり、『ユダヤ教』の神官たちも、為政者の『ローマ帝国』におもねるようにして権威を維持しようとしていました。このような状況に『キリスト』は警鐘をならそうとしました。直接支配者である『ローマ帝国』』に反旗をひるがえすように、民衆を扇動などはしませんでしたが、『ユダヤ人の神との契約』の原点へ戻ることを説きました。『キリスト』の周りには『弟子たち』が集まり、多くの民衆も、ユダヤ民族で継承されてきた『救世主』のイメージを『キリスト』にダブらせて抱くようになりました。

為政者の『ローマ帝国』と、腐敗した『ユダヤ教』の神官たちにとっては、『キリスト』は自分たちの権威や権益を脅かす『危険分子』とみなされ、『キリスト』は裁判にかけられて、『ローマの刑法』のしきたりで『十字架の刑』に処せられました。

『キリスト』の死の直後、ユダヤ民族は『ローマ帝国』に反旗をひるがえし、結果は徹底的に弾圧され、敗北に終わりました。これが歴史上の『ユダヤ戦争』です。『キリスト』の存在が、この民族蜂起に関与している証拠はありませんが、間接的な影響はあったのではないかと梅爺は想像しています。この時『エルサレム』の『ユダヤ教神殿』は徹底破壊され、現在は『壁』の一部だけが『嘆きの壁』として残されました。『嘆きの壁』は『ユダヤ教』の聖地です。『エルサレム』には、『キリスト』の処刑地(ゴルゴダの丘)跡に建てられたカトリックの聖地『聖墳墓教会』や、『イスラム教』の教祖『ムハンマド』が、大天使の先導で一時昇天し、『アッラー(神)』に謁見したと言われる『岩のドーム(イスラム教の聖地)』もあり、宗教的にデリケートな場所になっています。中世の『十字軍』は、当時『イスラム国家』が支配していた『エルサレム』を奪回するようにと言う『カトリック法王』の命にしたがって派遣されました。

『仏教』『キリスト教』が、『宗教』として確立するのは、後の関係者(布教者)の努力によるものです。特に『キリスト教』は『使徒パウロ』の功績が大で、『教義』の体系化は彼によって成し遂げられたと言ってよいのではないでしょうか。

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2019年10月 1日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(2)

『生きることは何故苦しみに満ちているのか』という疑問を抱いた先人として『釈迦』が有名です。『釈迦』はインドの王国の王子で、地位、財産、家族(妻と子)に恵まれていましたが、29歳の時に、それらを全て捨てて出家し、6年間の過酷な修行(哲学的思考)の末に、ついに自分で納得できる『答』を見出しました。『煩悩を解脱して涅槃(ねはん)に入る(仏になる)』がその『答』です。最初に『釈迦』が『苦しみ』ととらえたのは『病』『老い』『死』です。

『釈迦』の死が『涅槃』の姿として伝えられていますが、本来『涅槃』は『悟りの境地』のことで、死を意味するものではありません。

『釈迦』の教えを、他の言葉で表現すれば『人間の心には、邪心(煩悩の元)と仏心が共存しているので、できるだけ邪心を排除して仏心だけの存在(仏)に近づきなさい』ということであろうと梅爺は解釈しています。

『釈迦』にとっては『仏』は、人間が到達すべき理想の境地で、論理的には誰でも『仏』になれる可能性を秘めているということです。この『人間は仏になれる』という考え方は、他の宗教の『人間は神になれない(神と言う実態は別に存在する)』という考え方と、決定的に異なっています。

もっとも、『釈迦』の死後、その教えは各地へ広まると同時に、その地に以前から存在していた土着の宗教と結びついたりして、現在の『仏教』は、『釈迦』の教えそのものから大きく異なったものに変貌しています。『日本の仏教』も例外ではありません。中国、朝鮮半島経由で学んだことと、日本人の高僧が考え出したこと、日本独自の風習、土着の宗教(神道)と結び付いたことなどが、まじりあったものになっています。『チベットの仏教』『タイの仏教』とも異なります。

その変貌の中で、『阿弥陀如来』『薬師如来』などという、『人間とは異なる実態』が出現し、人々はこれに『救い』を求めるようになりましたので、これだけをみると、『人間は阿弥陀如来にはなれない』ということになり、他の宗教の『人間は神になれない』という考え方と似たものになってしまっています。

『釈迦』が現在の『日本の仏教』の内容を知ったら、『私はそのような話をしたことは一度もない』とおっしゃるのではないでしょうか。『如来』『菩薩』『天』などという諸々の仏たちや、『地獄』『極楽』といった『あの世』の話は、『釈迦』の教えには含まれていません。

梅爺には『釈迦』は、宗教の教祖というより、『偉大な哲学者』に観えます。『生きることは何故苦しい』のかという『疑問』を、徹底追及し、極めて論理的な思考で、『答』を見出そうとしています。

そのために、この世を支配している基本的な法則を特定し、その法則から、『理』の連鎖で『答』に到達するという手法を用いています。

『煩悩を生み出す原因』『煩悩を解脱する為の方法』などが、4つとか8つの箇条書きで提示されているのも、『理』を尊重する人の手法です

思考方法だけを観れば、古代ギリシャ哲学の『理』で真実に迫る思考方法に似ています。

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