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2019年9月16日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(2)

人間の『精神世界(心)』は、私たちがそれを所有していると自分では実感はできますが、目で観たり、触ったりして確かめることができないものです。自分が『精神世界』を所有している以上、他人も所有しているに違いないと推測はできますが、その内容を知ることは非常に困難です。

唯一、他人が自らの『精神世界』を、何らかの方法で『表現』してくれた時に、それを手がかりにして『なるほど、そういう風に考えているのか、感じているのか』と他人の『精神世界』の一面を知ることができます。

『芸術』は、『創作者(芸術家)』の『精神世界』の『表現』で、『鑑賞者』は自分の『精神世界』でそれを『評価』し、『共鳴』したり『感動』したりします。『精神世界』を利用した『絆の確認』が『芸術』の本質です。

『絆の確認』は、生物として『群をなして生きていく』方式を採用した『ヒト』にとって、『安泰を確認』するために重要な意味を持ちます。『群の一員であると存在が認められる』ことが、生き残りに関係するからです。『芸術』を何故人間は必要とするのかの答がここにあります。『芸術』は空腹を満たす手段にはなりませんが、『精神世界』の『安泰(満足)』を満たす手段になるからです。

『精神世界』は、直接目で観たり、触ったりできないものなので、『仮想世界』のような存在ですが、実は『物質世界』に属する実態である『肉体』や『脳』が土台に無ければ存在できないものであることを理解しておく必要があります。

端的にいってしまえば、『脳』が存在しなければ『精神世界』は存在しないということで、『死』で『脳』が機能停止した時点で『精神世界』も消滅します。

『芥川龍之介』の『死』と同時に、『芥川龍之介』の『精神世界』は消滅しましたが、彼が残した文学作品(『侏儒の言葉』のような)を介して、私たちは、『芥川龍之介』が生きていた時に所有していた『精神世界』の一面を垣間見ることができます。このように過去に存在した『精神世界』は、まさしく『仮想世界』ですが、それも私たちは『精神世界』と呼びますので、ややこしい話になります。

そういう意味で、私たちは『ダ・ヴィンチ』『バッハ』『モーツァルト』『ゲーテ』の『精神世界』の一端を垣間見ることができます。

現在生きている人の『脳』が創出している『精神世界』と、死者が生前に『脳』で創出していた『精神世界』を同じ『精神世界』という言葉で呼ぶことの違いは、『活火山』と『死火山』を、同じく『火山』と呼ぶのと似ていますから、『活精神世界』と『死精神世界』と区別したほうが分かりやすい時もあります。

生きている人の『活精神世界』の観察は『動画』を観るようなもので、絶えずダイナミックに変動していて観察が難しいものですが、死者が残した『死精神世界』は『静止画』を観るようなもので、ある意味じっくり観察が可能です。

いずれにしても、『精神世界』は、『脳』が基盤にありますので、『脳の生物進化』と『精神世界』は深くかかわっています。

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