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2019年9月30日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『地獄』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『地獄』という文章に関する感想です。

『芥川龍之介』は、この文章の中で、『人生は地獄より地獄的である』と述べています。その理由として、『地獄』の試練は、それがどのようなものであるか試練の名前を聴けば想像できるのに対して、人生の試練は、何が先行き待ち受けているかが分からないからと述べています。

『何が起こるか分からない』方が、『何が起こるか分かっている』ことより、始末に悪く、四六時中それにさらされることは、『地獄』より耐えがたいという論法を展開しています。

『針の山』も『血の海』も、2~3年それを経験し続ければ、格別苦痛と感じなくなるはずだと書いています。

『芥川龍之介』は、『地獄の苦しみ』の方が『人生の苦しみ』より、軽いと比較をしていますが、この比較は便宜的なもので、『人生の苦しみ』に勝る苦しみはないということを云いたいのでしょう。この文章には明示されていませんが、ホンネでは『地獄の存在など信じていない』風情が感じられます。

『芥川龍之介』は『人生の苦しみ』だけを論じていますが、人生には『人生の楽しみ』もあるはずで、その両方を平等に論じないと、話は一方的に暗いものになってしまいます。更に、ブログに何度も書いてきたように人間の『精神世界』の『判断(価値観)』は、生物進化で継承してきた種の存続のための『両性生殖』というしくみのおかげで、両親の遺伝子の偶発的な組み合わせによってその人の『遺伝子構造』が決まり『個性的』なものになります。何を『苦しみ』『楽しみ』と感ずるかは、人によって異なるというややこしい話になります。

話がそれますが、受胎時には『両親の遺伝子構造を偶発的な組み合わせで受け継いだ遺伝子構造』だけでなく、子供の『遺伝子構造』には、80~100個の、両親の遺伝子には存在しない遺伝子が、『突然変異』として出現することが、最近の研究で分かってきました。この事は、幸運で、『トンビが鷹を産む』という、普通の能力の両親から、天才的な資質をもつ子供が生まれる可能性もあることを意味します。一方不幸なことに、健康な両親から、生まれつきの難病をもつ子供が生まれる可能性もあることを意味します。

この遺伝子継承の仕組みが、『種の継続』のために深い意味を持つと同時に、『ヒト』の進化や、人間社会を多様性に富んだものにするために大きくかかわっていることが分かります。

『人生の苦しみ』は『地獄の苦しみ』に勝ると、『芥川龍之介』に云われても、誰も『そうだ』とも『そうでない』とも断言できません。

このような論法で問題を提起するのであれば、色々な主観的主張を展開することができます。たとえば、梅爺が『人生の悦楽』は『極楽(天国)の悦楽』に勝ると述べたらどうなるのでしょう。梅爺は無名の爺さんで、『芥川龍之介』は日本の文学史上に残る大作家なので、梅爺は怪しいが、『芥川龍之介』は信頼できるということになるのでしょうか。

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2019年9月29日 (日)

科学に対する過大な期待(6)

『物質世界』や、それを究明しようとする『科学』や『数学』の世界は、基本的に『理』だけで論ずることが可能であり、真偽の判定や、事象の比較が、普遍的に可能ですから、真偽の判定や、事象の比較を普遍的な尺度で行えない『精神世界』よりも、『優れている』『スマートである』と考えられがちです。梅爺もそのようなニュアンスで、『物質世界』『科学』をブログであつかってきたようなきらいがあり、反省しています。

本来、『物質世界』と『精神世界』は、そのような比較をすべきものではありません。

何故『精神世界』では、普遍的な真偽の判定や、事象の比較が難しいのかは、単純な話で、判断に『情』の要素が入り込むからです。『情』は本来定性的に表現されるもので、普遍的な比較尺度がありません。AさんとBさんが、両方『悲しい』と言ったときに、どちらの悲しさの度合いが大きいかなどは、判定できません。Aさんは『モーツァルトが好き』と言い、Bさんは『モーツァルトが嫌い』と言ったときに、どちらが『正しい』かなどは判定ができません。

その上、『精神世界』は、一人一人個性的ですから、普遍的な真偽の判定、事象の比較などはほとんど不可能ということになります。

『人間関係』『人間社会』の出来事や事象は、ほとんど『精神世界』の判断が絡んだものですから、『何が正しい』か、『どちらが優れているか』などは単純に判定できません。

しかし、そのようなことを言っていては、『人間関係』『人間社会』の秩序は保てませんから、私たちは、『憲法』『法』『道徳』『倫理』『宗教の教義』などを、約束事として創りだし、それらの判断基準を『正しい』とする『主観の共有』を行っています。約束事を『主観の共有』として受け入れる能力は、生物の中で『ヒト』だけが保有している優れた能力です。この能力が、『文明』を築きあがる大きな要因となっています。

しかし、『主観の共有』内容は、もともと約束事ですから、それを批判したり、矛盾を指摘したり、疑ったりすることは、許される行為であるべきです。『主観の共有』内容を、尊重しながらも、自由な議論の対象にすることができる社会は、健全で高度な社会です。

『独裁者が支配する国家』『一つのイデオロギーだけを認める国家』『特定の宗教を神聖視する国家』は、個性的な『精神世界』を認めないという点で、人間の基本的な習性を抑圧する無理な体制であると梅爺は感じます。やがてその無理は、何らかの形で爆発し、体制は崩壊の方向へ向かうのではないでしょうか。

『科学に対する過大な期待』を危惧しているエッセイの著者は、『科学』はそれほど重要なものではないと言っているのではなく、技術開発、製品化開発には、膨大な時間、労力、コストが要求されることを、正しく認識してほしいと言っているだけです。

『科学』の成果に、大きな『期待』『夢』を持つことは、別に悪いこととは思いませんが、実現のための困難さを推測し、成果そのものが人間および人間社会へ及ぼす影響も事前に推測することも忘れないようにすべきです。特にすぐにでも実現し、バラ色な結果が待ち受けているというような表現をするメディアの発表は、鵜のみにすると危険です。

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2019年9月28日 (土)

科学に対する過大な期待(5)

昨日も書いたように、『物質世界』を支配するのは『理』だけですが、『精神世界』を支配するのは『理』と『情』、およびその組み合わせになります。これが、『精神世界』の特徴です。

言い換えると、『物質世界』には通用しない『情』が『精神世界』には存在し、重要な役割を演じていることになります。

『情』の基盤は、生物進化で継承されてきた『安泰を希求する本能』です。生き残りの確率を高めるために、『精神世界』は周囲の事象を、『自分に都合がよい』ものか、『自分に都合が悪い』ものかを、まず『判断』しようとします。これが『安泰を希求する本能』です。

『自分に都合が良い』ものは、『好ましい(好き)』『心地よい』『嬉しい』『安心できる』という『情』の母体となり、『自分に都合が悪い』ものは、『好ましくない(嫌い)』『心地悪い(不快)』『悲しい』『安心できない危険(危険)』という『情』の母体になります。

『情』に関する多様な表現を私たちは駆使しますが、基盤は『安泰を希求する本能』に集約できると梅爺は考えています。

周囲の事象を判断するときに、『情』が先行するということが、人間も生物である以上避けられない宿命です。しかし、生物進化の過程で、『安泰かどうか』を『理』で判断する能力も、人間はその後保有するようになりましたので、最初に『情』で判断した結果を、『理』で見直すことも行われます。『他人に弱みを見せるのは損だ』という『理』の判断が働けば、悲しい時も涙をこらえようとします。

『死によって精神世界は無に帰す』ということに対して、梅爺が『寂寥感(情)』を覚えながら、『理』では受け入れようとするのはこのためです。

『物質世界』は、『理(法則)』によって、『動的な平衡移行』という『変容』が継続しているだけで、この『変容』には、『目的』『あるべき姿』『意図』などというものはありません。

『目的』『あるべき姿』『意図』『理想』などは、『精神世界』にとっては、『都合がよいもの』を想定するときに必要とする重要な概念ですが、『物質世界』では意味のない概念です。

『生物進化』の過程で、『ヒト』が出現したのは、『動的な平衡移行』による『変容』によるもので、それ自体には『目的』『意図』などは存在しません。『神が神に似せて人間を創った(神の意図)』などという話は、『精神世界』が『安泰』を求めて創り上げた『虚構』にすぎないろ梅爺は、『理』で推論しています。

私たちは、自分の『精神世界』で全て周囲の事象を『判断』『認識』しようとします。そして『物質世界』の事象の『判断』『認識』にも、この『判断』『認識』を適用しようとします。このことが、多くの混乱を招くことになります。

『天災』は『思いあがった人間に対する神の処罰(天罰)』であるなどと言う主張をする人が出現したりします。

『天災』は、『物質世界』の『変容』がもたらすもので、『神の意図』などは関与していません。『生命体』が生息できる『地球』という惑星環境も、『変容』がもたらした偶然の僥倖で、『神の意図』などは、関与していません。

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2019年9月27日 (金)

科学に対する過大な期待(4)

『科学』が究明対象にする『物質世界』は、『摂理(理)』だけが支配する領域です。私たちの『肉体』は、『物質世界』に属する実態であり、したがって生物としての『生命活動』は、『摂理』だけに支配されています。

『物質世界』の『活動』には、『エネルギー』が必要であり(これが摂理です)、私たちは、その『エネルギー』を確保するために、『飲食』『呼吸』を行っています。『飲食』『呼吸』が絶たれれば、誰もが必ず『死(生命活動の停止)』を余儀なくされます。

『善人』『悪人』、『信仰深い人』『信仰の薄い人』の区別なく、『死』に至ります。

『物質世界』は『理』だけが支配する領域で、人間の『精神世界』が重要視する『情』は関与しません。この単純な事実に梅爺は気付いて、それ以降周囲の事象を、『物質世界』『精神世界』のいずれに属するものなのかを区別するようになりました。

当然のことながら、『精神世界(心)』とは何かを考えることになりました。『精神世界』は『脳』が創りだす『仮想世界』で、目で観たり、手で触ったりはできません。つまり、『精神世界』は『物質世界』に属する存在ではないと推察できます。しかし、私たちはそれが存在することを実感できます。『喜怒哀楽』などは『精神世界』が関与していると感ずるからです。この『実感』も、『精神世界』による『判断』ということになります。

非常にややこしい話ですが、『物質世界』に属する『脳』が、『物質世界』に属さない『精神世界』を派生的に創りだしているということになります。

別の言い方をすると、『精神世界』は、『物質世界』と地続きでありながら、『別世界』であるということです。『脳』が『死』に至れば、『精神世界』は基盤を失って、その時点で『消滅』し『無』に帰すると論理推測できます。

『肉体』の『死』とともに、『精神世界』は消滅し、無に帰すという論理的推論は、梅爺には矛盾なく受け入れられることですが、多くの方が継承している過去からの『主観の共有』内容とは異なった『認識(価値観)』であるために、『あなたは、何と味気ない考えの持ち主なのか』と非難されることになります。

多くの方が過去からの『主観の共有』で保有しておられる内容は、死後も『魂』『霊』は存続し続けるという『認識』です。なぜならば、『無誤謬である宗教の教義(神の教え)』が、そう教えているからです。さすがに『宗教』も、『魂』『霊』が『物質世界(自然界)』の中の実態として存在するという主張には無理があると感じたのか、多くの場合『魂』『霊』は、『冥界(あの世)』という『別世界』で、存続し続けると説明します。『冥界』の存在は『信ずる』対象であり、『理』でその存在を確認しようとしたり、『疑ったり』することは、『不信仰』として退けられます。

梅爺も、『死によって精神世界は無に帰す』ということに『寂寥感』を覚えます。生きている梅爺の『精神世界』が、『寂寥感』という『情』を作り出すからです。しかし、梅爺の『精神世界』は、一方『理』で『死によって精神世界は無に帰す』という推論を矛盾が無い『仮説』として優先して受け入れます。つまり『情』より『理』を優先していることになります。

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2019年9月26日 (木)

科学に対する過大な期待(3)

人類は、『物質世界』を支配する『摂理』の一部を解明し、その『摂理』を応用する『技術』で、『物質世界(自然界)』にはそれまで存在しなかった、多くの『人工物』を創出してきました。私たちの快適、便利な生活は、それらの『人工物』で実現しています。その大半の成果は20世紀以降のことですから、『ホモ・サピエンス』の約17万年の歴史の中では、『科学の時代』と呼ぶことができる期間は、非常に短いことになります。

他の言い方をすれば、人類の歴史のなかの大半の人たちは、私たちが保有している『科学知識』や『科学知識』がもたらした成果を知らずに生きていたことになります。

『科学知識』が乏しかった時代に、培われた『主観の共有』内容が、『科学知識』を保有する現代にまで、根強く継承されています。昨日も書いた『宗教』などが、その典型です。

『科学知識』が無かった時代の人たちにとっては、『疑った』としてもそれを証明することは難しいことでしたから、大半の人が無条件に『信ずる』強固な『主観の共有』が醸成されやすかったことになります。

しかし、幸いなことに現代に生きる私たちは、豊富な『科学知識』を保有していますので、過去から継承されてきた『主観の共有』内容ばかりではなく、あらゆる周囲の事象を、新しい観点で観ることが可能になりました。

『科学知識』も含めて、あらゆる知識を総合的に駆使して(学際的に)、周囲の事象に対応すべきであると梅爺がブログに書いてきたのはそのためです。

このことは、過去から継承されてきた『主観の共有』内容を、何から何まで否定することを意味しません。ただ、『これは疑ってはいけない』と無条件に神聖視する対象にすることには慎重であるべきだと申し上げたいだけです。

何故『過去』の人たちが当時そのように考えたのかを推察し、それを『現代』の視点でみるとどうなるかを、両方考えてみることが、『歴史』を学ぶ時に必要になります。『文明』はそのようにして進展していくからです。『不易』と『流行』の区別は、そのように見直されていくべきことではないでしょうか。

既に獲得した『科学知識』や、近い将来獲得するであろう『科学知識』を利用して、『このようなことが可能になるであろう』という『予測』は、大衆の夢をかきたてることにもなり、メディアがこぞって取り上げる話題です。『未来学者』の予測も、ベストセラーになったりします。『科学への過大な期待』はこのようにして生まれます。

しかし、『可能になるであろう』ということと『可能である』ということの間には、大きなギャップがあります。

『車は自動運転が標準装備される』『人間の平均寿命は500歳になる』時代が到来するであろうという予測は、全く可能性がゼロとは言えませんが、すぐに明日にでも実現する話ではありません。

開発や実用化にかかる時間や費用が、経済的に許容できるものかという問題のほかに、『人間』や『人間社会』にとって、それが『望ましいことか』という問題も生じます。

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2019年9月25日 (水)

科学に対する過大な期待(2)

『科学』は、常に現状で肯定される『仮説(論理)』に、新しい『矛盾』が見つかるかもしれないという可能性があることを、関係者(科学者たち)が『当然のこと』として認めている分野です。

新しい『矛盾』を指摘すること、新しい『仮説』を提唱することは、称賛される好意であり、そのことで、古い『仮説』を提唱した人が貶(おとし)められることもありません。むしろ、自説に『誤り』があったことを認めることも称賛の対象になります。

『科学』は、漸進的に『進歩』していくものであり、そのプロセスに貢献したことを、誰もが認めるからです。『アインシュタイン』でさえ、『自説』に『誤り』があったことを、認めています。そのことで『アインシュタイン』の全てが誹謗されるようなことにはなりませんでした。

『宗教』は、『科学』に対比して論じられることがありますが、一番の大きな『違い』は、『宗教』の『教義』には『誤謬』は無いという前提であることです。『教義』の『矛盾』を指摘したり、否定したりすれば『異端者』『信仰が薄い人』として糾弾されます。

『教義』の『無誤謬性』を権威として維持するために、信者には『信ずる』行為が求められます。キリスト教の礼拝では、『使徒信条』の朗読や、ミサの中で『Credo』が歌われ、『要約された教義を述べて、私はこれらを全て信じます』と『誓い(告白)』が行われます。

これは『主観の共有』という、生物の中で人間だけが保有する、『精神世界』の能力を、『宗教』がうまく利用していることを意味します。

『信ずる』という行為は、本来『宗教』だけで求められるものではなく、人間が生きていく上で、必ず必要とする行為です。それは『先のことを見とおす能力』を保有しない宿命を負っているからで、先へ進むためには『信ずる』ことが必須の要件になります。進学、就職、結婚などの判断に、『信ずる』行為がかかわっていることを思い浮かべていただければ、御理解いただけるはずです。『信仰が薄い』人も、必ず『信ずる』行為は行っています。

重要なことは、この『信ずる』という行為には、『疑う』という行為が表裏一体で存在することです。一見『矛盾』するように見えますが、人間は『信じながら疑い』『疑いながら信じて』生きています。このバランスをどのようにとるかは、その人の『精神世界』が個性的に関与します。結果的に、誰もが同じ判断をするとは限りません。

この人間の一般的習性に反することを『宗教』は求めていることに無理があると、梅爺は感じます。つまり『教義』を『疑う』ことを許容しないからです。

しかし、『疑う』ことを許容すれば、強固な『主観の共有』が崩壊することになりかねませんから、『宗教』自身が危機にさらされることになります。

『疑う』ことを『当たり前』に許容する『科学』の考え方が、新しい『主観の共有』になることを『宗教』が恐れるのはそのためです。『宗教』が『科学』を蔑視したり、『科学がすべてではない』などと反論するのはそのためです。

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2019年9月24日 (火)

科学に対する過大な期待(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の96番目のタイトルは『Exaggerated Expectations(過大な期待)』で。著者はコロンビア大学の生物学教授『Stuart Firestein』です。

『科学』に対する、過大な期待、盲目的な信用を戒める内容のエッセイです。

勿論、このエッセイの著者は、自身が科学者なのですから『科学』を否定しているわけではありません。むしろ多くの人に『科学』の不可避的な課題の存在を理解して対応してほしいと願っています。バラ色の過大な期待をして、裏切られたと言って一転して『科学』を否定するようなことが起こることを危惧しています。

盲目的に恋に落ちた人は、相手の全てが『素晴らしく』観え、更に理想的な存在と思い込みますが、やがてふとしたことで相手の『嫌な部分』に気づくと、一転して恋が冷め、忌避するようになるといったよくある話に似ています。

梅爺も、この著者の主張に異論はなく、『科学』が抱える不可避的な課題の存在に関して理解しているつもりですが、今まで『梅爺閑話』で、『科学』に関してやや好意的な表現をしてきたかもしれないと反省させられました。

梅爺の、『科学』に関して、主に以下のような記述をしてきました。

(1)『物質世界(自然界)』を支配する『摂理』を解き明かすことが目的
(2)『摂理』の全てが解明できているわけではない(理解できない事象が沢山まだある)
(3)『物質世界』の事象は、『摂理』で『真偽』の判定対象になる(量子力学の世界は必ずしもそうはいえないが、ここでは対象外とする)
(4)『摂理』を発見、応用はできるが、『摂理』そのものを創造はできない

しかし、このような記述だけでは、『科学』の不可避的な課題については何も述べていませんから、そのことを反省したことになります。

不可避的な課題とは何かと言えば、『科学』が発見した『事実(摂理を含む)』は、その時点で矛盾がないと科学者たちが判断したことで、それは本当に『普遍的な真』とは言い切れないという問題です。

論理的に表現すれば『矛盾がその時点で見いだせない仮説』であるということになります。その意味で、『科学』が見出した全ての『事実』は、『仮説』であることになります。

『仮説』である以上、やがて新しい矛盾が見つかると、『仮説』は修正されるか、他の新しい『仮説』に置き換えられるかということになります。従来の説とはまるで反対の説に置き換えられるというようなことさえあります。

このエッセイでは、『科学』が見出した『事実』は、『provisional(仮定的)』であり『not immutable(不易とは言えない)』と表現されています。

何故このようなことになるかは単純な話で、『科学者』も人間で『全知全能』ではない(能力には限界がある)ということに他なりません。

このことで、『科学は信頼できない』と考えるのは適切ではありません。信頼のレベルが、常に更新され、より高いものになっていくということです。 

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2019年9月23日 (月)

江戸の諺『帳(ちょう)きり』

江戸の諺『帳(ちょう)きり』の話です。これも諺ではなく『用語』に類するものです。

『帳きり』という表現は、梅爺にはなじみのない言葉で、『家業が倒産して家屋敷を人手に渡すとき、家屋敷の台帳名義を切り替えること』の意味であることを知りました。

江戸時代の『不動産登記システム』がどうなっていたのかも、梅爺は詳しく知りませんでしたので、インターネットで調べてみました。

人類が原始社会から『文明社会』へ移行した時から、『不動産の正当な所有者の証明』が必要になったはずです。『この土地は俺のものだ』という言い争いが果てしなく続いたのでは社会は安定しませんので、為政者が『台帳』を作成・管理し、その『台帳』は権威あるものと、誰もが認めることで、この問題に決着がついたはずです。

『台帳』そのものは、木簡、羊皮紙、パピルス(紙)に記された記号(文字)にすぎませんが、それに『価値』があると認める行為は、『主観(価値観)の共有』という、生物の中で人間だけが保有する高度な『精神世界』の能力です。『神』『国家』『貨幣』なども代表的な『主観の共有』の事例です。『主観の共有』の存在が『文明』を進展させてきたと言えます。

不動産の所有権は『為政者』が保有し、それを人民に『貸し与えて』そ見返りに『税』を徴収するというシステムと、不動産の所有権は人民であることを認め、ただし『登記』の管理を行う手間暇の代償として『税』を徴収するというシステムが生まれたはずです。『税』は金や作物で支払われました。

この基本的な『不動産登記システム』は、現代社会にまで継承されています。

日本では『豊臣秀吉』が、大規模な『太閤検地』を行い、正確な『土地台帳』を作成して、確実に『徴税』する仕組みを作り上げました。為政者として『豊臣秀吉』が卓説した才能を持っていたことがわかります。

江戸時代では、『幕府』や『藩』が、為政者として『土地台帳』を管理し、その見返りに『徴税』が行われていました。所有権は人民にあることを認めていましたので、江戸時代には『田畑・山林』などの『所有権(沽券)』の売買が盛んに行われました。つまり『台帳』の名義変更が行われたということです。『沽券にかかわる』などという表現は、ここから生じたのでしょう。

『帳きり』は、この名義変更を行う行為のことです。倒産した人間にとっては、自分の名義が消滅するわけですから、やるせないものであったに違いありません。

現代『中国』の、『不動産登記システム』がどうなっているのか、詳しくは知りませんが、基本的には『国家の所有物』を、人民に『仮貸与』することで、徴税対象としているのではないでしょうか。何かの時には、国家が、『仮貸与』を強制的に剥奪できますから、『中国』では、国家が決めたプロジェクトは、人民の『反対』など無視して強行できることになります。国家としては効率のよいシステムですが、人民の潜在的な不満は、マグマのようになって、やがて『中国』の体制を脅かすのではないでしょうか。

『帳きり』という言葉から、色々なことの本質を考えてしまいました。

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2019年9月22日 (日)

江戸の諺『酒、人を呑む』

江戸の諺『酒、人を呑む』の話です。『酒に呑まれる』『酒に溺れる』は現代でも使われる表現です。

酒は『百薬の長』でもあり、『身を滅ぼす麻薬』にもなります。多量の飲酒習慣が『アルコール中毒』を引き起こし、肉体も精神も蝕むことになります。体質的に『アルコール』を受け付けない人にとっては、『酒に呑まれる』心配はありませんが、『酒がうまい』と感ずる人にとっては、『度を越さない』ようにするのは、易しいことではありません。

『アルコール(エタノール)』が体内に摂取された時、肉体という『物質世界』で起こる事象は、医学的に、科学的に解明されています。

人体は『アルコール』を貯蔵する資質を持ちませんので、肝臓が酵素をつかって、『アルコール』を分解し、体外へ排出しようとします。この肝臓の代謝能力以上の『アルコール』が摂取されると、『アルコール』は血中に交じり、人体を循環することになります。

この『アルコールの血中濃度』の高さによって、人体は異なった『酔い』の状況を示すことになります。『血中濃度』と『酔い』の一般的な関係は以下のようになります。

(05~0.08%)・・・『微酔(ほろ酔い)』気分の発揚、陽気、運動機能低下
(0.1%)・・・『酩酊』明らかな運動機能低下(千鳥足)
(0.2%)・・・『泥酔』錯乱、思い運動機能低下(立ち上がれない)
(0.3~0.4%)・・・『昏睡』意識の喪失、昏睡、死

人によっても反応は異なりますが、『ほろ酔い』程度にとどめておくのが好ましいのは明白です。『貝原益軒』も『養生訓』の中で、『酒はほどほどが良い』と教えています。江戸時代の人たちにとっては、上記のような『アルコール』と人体の反応の関係は分かっていなかったわけですから、『養生訓』は経験則による『知恵』ということになります。

『アルコール』は、脳内で一時的に『安泰を脅かす要因を感知する能力』を麻痺させるために、気分が高揚し、陽気になるのでしょう。

『悩み』を抱える人が、一時的に解放されたと錯覚することになりますから、その経験を再現しようと『酒』に溺れていくケースが多発します。

『ソ連』の『恐怖政治時代』に、ウォッカによる『アルコール中毒患者』が急増したという話は有名です。社会的ストレスも、『酒に呑まれる人』を増やす要因になります。

単なる『酒好き』が『酒に呑まれる』のは、その人の理性が関与する問題で、『自業自得』とも言えますが、『悩み』や『ストレス』から逃れようと『酒に呑まれる』ケースは、『精神世界』の本質が絡む問題ですので根が深いことになります。

人類は、『文明』を手にしたと同時に、『酒』を作り出すようになったと考えられています。人類最古の『向精神薬』と呼ばれるのもそのためです。

『酒』との付き合いが『豊かな人生』をもたらすのか、『破滅の人生』をもたらすのかは、私たちの対応次第です。

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2019年9月21日 (土)

江戸の諺『頭(ず)が高い』

江戸の諺『頭(ず)が高い』の話です。これは現代でもよく使われる表現で、『相手を見下す』『目上の人を敬う姿勢を取らない』『傲岸に振舞う』『生意気である』などの意味になります。

『事がうまく運ばない』『失敗した』『負けた』時に、『頭(こうべ)をさげる』『俯(うつむ)く』『視線を下げる(下を見る)』などという行為を私たちは本能的に行います。『失意』は『精神世界』にとっては、『安泰』が脅かされた状態で、『それ以上悪い状態が襲いかかってこない』ように、『一時的な敗北を認め、これ以上自分には戦意が無い』ことを周囲に示して身を守ろうとする習性として、『生物進化』で継承されてきたのではないかと梅爺は推測します。『負け犬』が『尾を下げる』などというのも同じではないでしょうか。

スポーツで負けた選手に、コーチが『下を向くな、胸を張れ』などと鼓舞するのは、一刻も早く『戦意』を取り戻させるためなのでしょう。

動物は、未知の相手と遭遇した時に、相手の『眼の高さ』を確認して、強い相手なのか、弱い相手なのかを判断する習性があるように思います。一般的に大きな相手は、『眼の高さ』が自分より上ですから『強そうだ』と警戒します。

人間社会では、この習性を利用して、『権威』を示すために、格上の人が『高座』を占める習慣が生まれました。『皇帝』『王』『法王』『天皇』『殿様』が、『高座』に位置し、臣下は更に『平身低頭』で、『敬意』『恭順の意』を示す習慣が根付きました。人間の心理をうまく利用して、『権威』の確認が行われてきたことになります。しかしその地位にふさわしい資質を持たない人でも、『高座』を占めるだけで『権威』を示そうとしますので、時に馬脚が露呈して社会が混乱したり、『下剋上』が起きたりもします。

『目上の人』や『お上(かみ)』などという表現も、このようにして社会に根付いた『価値観』に違いありません。

『頭が高い』は、このような社会的な『価値観』に反する行為ということになります。

動物は、『相手が自分より強いかどうか』を警戒すると同時に、『自分を自分以上に強く見せよう』という努力も行います。毛を逆立てて自分を大きく見せたり、うなり声をあげたりする『威嚇行為』がそれに当たります。

人間の同じで、『自分を自分以上に大きく見せよう』とする行為や、『威嚇行為』を行います。全て『安泰を希求する本能』が根底にあると梅爺は考えています。

『頭が高い』のは、愚かな『示威行為』なのか、崇高な『自尊心』によるものかは、時と場合で異なるのでしょうが、賢明で理性的な人ほど、自分を客観視できますから、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という姿勢をとることになるのでしょう。 

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2019年9月20日 (金)

江戸の諺『百姓の泣き言』

江戸の諺『百姓の泣き言』の話です。『愚痴ばかりこぼす人』といった意味です。

表向きは『士農工商』などと言いながら、江戸の町人(庶民)は、『百姓(農)』を、自分たちより劣った人たちとみなしていた風情がうかがえます。比喩の対象になった『百姓』にとっては迷惑な話です。『百姓』の中にも、立派な人はいたはずですが、全て一緒くたにされたのは気の毒な話です。

同じく『武士(士)』に対しても、庶民は処世の術として平服しながら、『あんな固苦しい生き方はまっぴら』と観ていたのではないでしょうか。華やかな江戸の文化を推進した主役は庶民でした。

現代でも、世の中を動かす原動力は『政治(権力)』ではなく、『経済』であるという考え方があり、『経済』に携わる人の自負がありますから、この関係は、人間社会共通なのかもしれません。

『中国』の『国力』も、『経済』が支えていますが、『一党独裁』の権力者たちは、自分たちが『経済』も支配していると考え、その地位を維持するために懸命です。

社会の原動力が『経済』であるからといって、『市場主義』『営利主義』だけが最優先の社会も問題になります。トランプ大統領のように、あからさまにそれを主張する政治リーダーが、世界から顰蹙(ひんしゅく)を買うのも、そのためです。

『政治』と『経済』の健全なバランスが、好ましいのは当然ですが、何を健全とするかは易しい判断ではありません。しかし、どちらかに大きく偏った体制は無理があり、いつか是正を迫られることになるでしょう。『中国』と『アメリカ』といった、現状で相反する方向へ偏った国同士が、『経済戦争』を行っている現状は、他の国々からは大変迷惑な状況です。振り上げた拳(こぶし)を、下ろせないという状況も危険です。

江戸の庶民が、『百姓』より自分たちが実質的に上のクラスであるとみなしていたように、私たちも、必ず自分たちより何かしら下のクラスを想定して、『優越感』で『安泰』を得ようとします。『中国人は社会マナーが悪い』『韓国人は、恨み事ばかり言っている』などと、『中国人』『韓国人』をひとまとめにして評する習性があります。

『安泰を希求する本能』が人間を支配しているために、起きがちなことですが、『理性』でそれは控えるべきことです。

他人を故意に低くみて、相対的に自分は高いと思いたくなる気持ちは分からないでもありませんが、自分自身を高める努力を優先すべきです。

賢明でない人は、自分を賢明であると勘違いしますが、本当に懸命な人は、自分は賢明であるとは思っていません。

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2019年9月19日 (木)

江戸の諺『具(とも)に組んで落ちる』

江戸の諺『具(とも)に組んで落ちる』の話です。現代ではあまり耳にしない表現です。

『死なば諸共』に似ているようにも思いますが、少しニュアンスが違うように感じます。

『死なば諸共』は、『自分の運命に相手も無理やりつきあわせてやる』というような意味が込められていて、つきあわされる相手にとっては、迷惑な話です。

『具(とも)に組んで落ちる』は、何かの拍子で不幸や不運に巻き込まれた二人が、『こうなったら行きつくとこまで一緒に行くしかない』と、腹を据えて運命に身をまかすと言った風情が感じられます。合意の上とは言え、『えーい、どうとでもなれ』というやけっぱちな感じもうかがえます。

見知らぬ他人同士が『具(とも)に組んで落ちる』ということはありませんから、親しい友人(仲間)同士、夫婦などといった関係が思い浮かびます。

二人とも、逆らい難い境遇に見舞われ、こうなったら『落ちるところまで落ちよう』と覚悟を固める場合もあるでしょうが、そうではなく、片方の人間の不遇に、もう一方の人間が『同情』して、『自分も付き合うぞ(お前を見はなさないぞ)』という場合もありそうです。

この場合は、『惚れた仲』や、親友への『義侠心』などが背景にあるように思います。何よりも『絆』を優先するという考え方ですから、『義理人情』を大切にしていた江戸の人にとっては、『馬鹿な奴ら』と見下すというより、同情、共鳴する感覚があったのかもしれません。

その証拠に、江戸の芝居や落語には、『具(とも)に組んで落ちる』という話がたくさん登場します。男女の『心中』を扱ったものや、『義侠心』から弱者側に加担すると言ったストーリーが観客にうけたからに違いありません。

主君の不幸に、『忠義』で殉じた『赤穂浪士』の話などもその類でしょう。『義理と人情の板挟み』になった時に、悩んだ末に『義理』を優先するという話は、江戸の人たちの涙を誘ったのでしょう。

歌舞伎の様式美は、現代人の私たちも魅了し、日本の伝統文化の継承を感じますが、『義理』を優先するストーリーには、少々違和感を覚えることがあります。忠義のためにわが子の命(首)を差し出すなどという話は、江戸の人たちの涙を誘ったのかもしれませんが、現代の私たちの価値観には合いません。

もちろん、現代でも『義理と人情の板挟み』はありますが、『義理』のために命を引き換えにするという判断は一般的な価値観としては受け入れられません。

しかし、明治維新以降、第二次世界大戦の敗戦までは、『天皇の赤子(せきし)として、愛国のために身を捧げる』ことは、『美徳』であったわけですから、日本人の価値感覚が変わったのは最近のことと言えます。

『義理と人情の板挟み』などということに悩むのは、生物の中で人間だけで、高度に進化した『精神世界』を保有するからです。

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2019年9月18日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(4)

『生誕(受胎)』『生命の維持(生きる)』『死』は、『物質世界』の事象として観れば、『摂理』のみに支配されて繰り広げられる『動的な変容』にしかすぎません。

しかし、人間の『精神世界』は、これらに特別の『意義』『目的』『あるべき姿(理想)』を付与して観ようとします。

単なる偶然の『動的な変容』などと言われては、『不安』『不満』ですから、何としても『意味のあるもの』にしたいと『願う』からです。

中でも『死』は、人間にとって最も厄介な事象です。どんなに『願っても』それを回避できないと観念せざるを得ないものであるからこそ、逆に『特別な意義』を見出そうとします。最も影響力の強い事象であると認めざるを得なくなると、『いやいや、死よりも更に強い影響力を持つものがある』と言いだして、『死』を相対的に軽んじようとしたりします。『恋は死よりも強し』などという表現は、そのように生まれます。

『精神世界』は、『どちらが正しいか』『どちらが強いか』などと、白黒の決着をつけようとします。それで『安泰』が得られるからです。

しかし、残念ながら世の中の事象の大半は、特に人間の『精神世界』の価値観が絡む事象は、『どちらが正しいか』『どちらが強いか』などと判定することはできません。

現実には、白黒の決着はつけられないにも関わらず、白黒の決着をつけないと『精神世界』の安泰が得られないという矛盾を抱えながら生きていることを、冷静に見つめることができる人は『器の大きな人』です。

多くの人は、どのような問題にも必ず『正解』があるはずだと、勘違いしています。学校のテストでは必ず『正解』があったことから、そういう勘違いが助長されてきたのでしょう。自分は『正解』を知らないけれども、『正解』を記述した本があるはずだ、『正解』はネット検索でみつかるはずだ、『正解』を知っている人がいるはずだと、助けを外部に求めようとします。その結果、テレビに登場する『専門家』『解説者』のことばを鵜のみにしたりします。

『賢明な人』は、外部の『助け』は参考にしますが、最終的には、自分の持てる能力を総動員して、自分なりに矛盾が少ないと思える『答』を見出そうとします。その『答』には、自分の個性的な『価値観』が関与していることも承知していますから、その『答』が『正しい』などと主張することには極めて慎重な姿勢をとります。常に他人が提示する『答』にも注意を払い、自分の『答』よりは矛盾が少ないとすれば、自分の考えも柔軟に修正しようとします。

『芥川龍之介』が、人間の根幹は『感傷主義』であるというのも、『理想的な状態にある自分を夢想しながら生きる』ということなら、それも『安泰を希求する本能』から派生したものと言えます。

『感傷主義』が根幹にあるのではなく、『安泰を希求する本能』が根幹にあると考えた方が矛盾が少ないという梅爺の考え方は、依然変わりがありません。

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2019年9月17日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(3)

『精神世界』を根底で支配しているものの一つが『安泰を希求する本能』であろうと、梅爺は何度もブログに書いてきました。これは『仮説』ですが、このように考えるとに矛盾は見いだせませんので、梅爺は気に入っています。

『安泰を希求する本能』は、生物が生き残りの確率を高めるために、周囲の事象が『自分にとって都合がよいものか、悪いものか』を最優先で判断することとも言い換えることができます。これが『好ましい(好き)、好ましくない(嫌い)』という情感を生み出しています。この『好き、嫌い』の判断を最優先する習性は、原始的な生物の時代から、継承されてきていますので、『ヒト』だけが持つ習性ではありません。

このように『ヒト』の『脳』は、根底に『情感』による判断があることを理解する必要があります。

その後『ヒト』の『脳』は、高度に進化し、『理』で判断する習性も、追加されました。『理』の判断とは、『因果関係を特定して納得しようとする』習性のことです。これによって『判断ミス』が減少し、生き残りの確率が高まることになるからです。

『生物進化』の過程で、『理』による判断能力は、後から追加されたものであることは、その機能が『脳』の表面に近い『大脳皮質』で行われていることで分かります。

一方、『情』による判断能力は、より原始的であるために、最初に形成された『脳幹』の部分が関与しています。

私たちは、日常周囲の事象を判断するときに、上記の『情』による判断と、『理』による判断を、意識的に、また無意識に巧みに組み合わせて使っています。しかし、『生物進化』の名残が強いために、最初の判断は『情』による判断であることが大半です。

先ず『好き、嫌い』『都合の良し悪し』で判断し、その後『なぜ好きなのか』を『理』による『後付け論理』で補強しようとします。『情』による判断は『理屈抜き』ですから、それ自体は『何故か』と問われても答に窮します。

『精神世界』にとって、『分からないこと』『不思議なこと』は、放置すると『不安』を助長しますので、何とか『因果関係』を考え出して納得しようと(安泰を得ようと)します。このような人間の習性が、『科学』『哲学』『文学』『宗教(教義)』を生み出し、それが文明を進展させてきました。

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』も、梅爺の『梅爺閑話』も、『安泰を希求する本能』から派生した著述であるといえます。しかし、その内容は『精神世界』の『個性』を色濃く反映したものですから、『同じような考え方』『同じような感じ方』になるとは限りません。ですから、『どちらが正しいか』などという議論は、意味がありません。

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2019年9月16日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(2)

人間の『精神世界(心)』は、私たちがそれを所有していると自分では実感はできますが、目で観たり、触ったりして確かめることができないものです。自分が『精神世界』を所有している以上、他人も所有しているに違いないと推測はできますが、その内容を知ることは非常に困難です。

唯一、他人が自らの『精神世界』を、何らかの方法で『表現』してくれた時に、それを手がかりにして『なるほど、そういう風に考えているのか、感じているのか』と他人の『精神世界』の一面を知ることができます。

『芸術』は、『創作者(芸術家)』の『精神世界』の『表現』で、『鑑賞者』は自分の『精神世界』でそれを『評価』し、『共鳴』したり『感動』したりします。『精神世界』を利用した『絆の確認』が『芸術』の本質です。

『絆の確認』は、生物として『群をなして生きていく』方式を採用した『ヒト』にとって、『安泰を確認』するために重要な意味を持ちます。『群の一員であると存在が認められる』ことが、生き残りに関係するからです。『芸術』を何故人間は必要とするのかの答がここにあります。『芸術』は空腹を満たす手段にはなりませんが、『精神世界』の『安泰(満足)』を満たす手段になるからです。

『精神世界』は、直接目で観たり、触ったりできないものなので、『仮想世界』のような存在ですが、実は『物質世界』に属する実態である『肉体』や『脳』が土台に無ければ存在できないものであることを理解しておく必要があります。

端的にいってしまえば、『脳』が存在しなければ『精神世界』は存在しないということで、『死』で『脳』が機能停止した時点で『精神世界』も消滅します。

『芥川龍之介』の『死』と同時に、『芥川龍之介』の『精神世界』は消滅しましたが、彼が残した文学作品(『侏儒の言葉』のような)を介して、私たちは、『芥川龍之介』が生きていた時に所有していた『精神世界』の一面を垣間見ることができます。このように過去に存在した『精神世界』は、まさしく『仮想世界』ですが、それも私たちは『精神世界』と呼びますので、ややこしい話になります。

そういう意味で、私たちは『ダ・ヴィンチ』『バッハ』『モーツァルト』『ゲーテ』の『精神世界』の一端を垣間見ることができます。

現在生きている人の『脳』が創出している『精神世界』と、死者が生前に『脳』で創出していた『精神世界』を同じ『精神世界』という言葉で呼ぶことの違いは、『活火山』と『死火山』を、同じく『火山』と呼ぶのと似ていますから、『活精神世界』と『死精神世界』と区別したほうが分かりやすい時もあります。

生きている人の『活精神世界』の観察は『動画』を観るようなもので、絶えずダイナミックに変動していて観察が難しいものですが、死者が残した『死精神世界』は『静止画』を観るようなもので、ある意味じっくり観察が可能です。

いずれにしても、『精神世界』は、『脳』が基盤にありますので、『脳の生物進化』と『精神世界』は深くかかわっています。

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2019年9月15日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある、『恋は死よりも強し』というエッセイに関する感想です。

『恋は死よりも強し』という表現は、モーパッサンの小説に出てくるものと紹介されています。

『死』より強いのは、別に『恋』ばかりではなく、『食欲』『愛国心』『宗教的感激』『人道的精神』『利慾』『名誉心』『犯罪的本能』など数え上げればきりがないと書いています。

つまり、『死に対する情熱』だけを例外として、その他のあらゆる『情熱』は、『死』より強いものだと述べています。

そして我々を支配しているものは、フランスの小説『ボヴァリー夫人(フローベル著)』の主人公のように、自身を伝奇の中の恋人のように空想する『感傷主義』であると書いています。

『ボヴァリー夫人』は、田舎の退屈な生活に飽き飽きして、華やかな生活を求めて都会へでますが、不倫や借金の問題を抱えて、最後は服毒自殺するというストーリーです。

『死』より最も強いものが『恋』と言えるかどうかは別として、『死』より強いものが存在することは認めたうえで、我々を支配している大元は『感傷主義』であると断じています。

『恋は死より強し』ということは、『恋が成就するならば死んでもよい』『愛する人のためならば自分の命は捧げてもよい』というような、『死』より『恋』の価値観を優先することを言うのでしょう。

本来、『死』と『恋』は直接比較することができない概念です。比較する為の普遍的な尺度が無いからです。

しかし、私たちの『精神世界』は、これを『価値観』という尺度で、比較の対象にします。この『価値観』という尺度は、普遍的ではなく『個性的』なものですから、『ある人の価値観ではそのように言える』ということにすぎません。

言い方を変えると、私たちの『精神世界』は、『個性的な価値観』で、どんなものも比較の対象にすることができます。典型的な例をあげれば『命は地球より重い』などという表現がそれに当たります。

『侏儒の言葉』で述べられていることの大半は、『芥川龍之介』の個性的な『精神世界』が下した『判断』『評価』であるということになります。『芥川龍之介』がどのような人物であるかを私たちが『判断』『評価』するうえで、これらは有益なものですが、『芥川龍之介』のような偉大な作家が言っていることなので、この『判断』『評価』は『正しい』と短絡的に『受け入れる(信ずる)』必要はありません。

もちろん『芥川龍之介』の『判断』『評価』に『共鳴』する方がおられるのも当然ですが、自分の『価値観』とは『違う』と梅爺は感じています。しかし、梅爺は『芥川龍之介』の存在を否定するつもりはありません。偉大な才能に敬意を表した上で、『価値観が違う』と感じているだけです。『精神世界』が個性的である以上、これは当然の話です。

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2019年9月14日 (土)

精神の病と遺伝子の関係(2)

『一卵性双生児』で、二人とも『自閉症』が発症する確率は30~90%、『統合失調症』では40~60%とエッセイには書いてあります。

更に沢山の家族を対象に行った『自閉症』や『統合失調症』の発症に関する研究でも、特定の遺伝子の『突然変異』『挿入』『欠落』『複製回数』などが、直接の原因であるという証拠は得られませんでした。

これらのことは『精神の病』を、『遺伝子』の特定で見つけることや、治すことが難しいことを示しています。しかし、『遺伝子』は無関係であるとも断定できませんので、この問題がいかに難しいかが分かります。

『躁鬱病』も、厄介な『精神の病』の一つで、アメリカでは1500万人の患者がいますが、20%の人たちには、『抗鬱剤』が効かないとエッセイは書いてあります。『前頭葉』に電気的刺激を与える治療法が、一部の『躁鬱病』の患者に、劇的な効果を表すことが最近分かってきました。『脳』への電気的な刺激が、『躁鬱病』の根底にある、『不安の感情』を『安泰の感情』へ変えるためと推測できますが、『どうしてそのようになるのか』の因果関係は分かっていません。電気的刺激ではなく、『脳』の特定の部位に、レーザー光を照射すると、症状が良くなる場合もあることも分かってきました。『パーキンソン病』のような難病にも効果が認められています。しかし、これも今のところ経験則による対症療法で、何故効果があるのかの理由は分かっていませんし、当然誰にも効くわけではありません。これらのことも『個性』が関与している証拠で、一律の対応方法で問題が解決できないことを示しています。

『精神の病』は、『脳の基本機能』が損なわれて起きる場合と、損なわれてはいない場合に分けて考える必要があるのではないでしょうか。

損なわれていない場合は、基本的には機能しているにも関わらず、何らかの理由で『不安』の情感を促すホルモンが分泌され続けていて、『安泰』の情感へ復帰できないことが起きていると推測できます。『躁鬱病』の多くはこれに相当するのではないでしょうか。

誰でも一時的に『不安』の情感を持つことはありますが、多くの人の場合、それを促すホルモンの分泌は、逆に『安泰』を促すホルモンで緩和され、『不安』は時間とともに薄らいでいくことになります。

つまり、『躁鬱病』の軽い症状は、程度の差はあれ誰もが体験しているにもかかわらず、幸いそれを『病気』と感じないで過ごしているだけのことではないでしょうか。

逆にいえば、不幸にしてそれが重い症状になって出てしまう『個性』のひとが、『躁鬱病』と診断されてしまうのでしょう。

『遺伝子』との関連も含め、『精神の病』の研究は、その歩みが遅いとはいえ、着実に進んでいくことでしょう。

『脳』の全貌が明らかになることは、人類にとって幸せなことかどうかは、また別の問題です。『宗教』や『芸術』で『神聖』と言われていたものの実態が明るみに出てしまうかもしれないからです。

 

 

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2019年9月13日 (金)

精神の病と遺伝子の関係(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の95番目のタイトルは『The failure of Genomics for mental disorders(精神疾患の原因となる遺伝子欠陥)』で、著者は精神科医の『Terrence J.Sejnowski』です。

『脳』の機能が関与する、『自閉症』『統合失調症』『躁鬱病』などの精神的な病については、多くの究明努力がなされていますが、現時点では単純な『因果関係』で、病因を特定したり治療したりすることに成功していません。

遺伝子が関与しているらしいことは分かっていますが、特定の遺伝子の『欠陥』が、病因であるとは単純に言えないということです。

『脳』の特定部位だけを観察しても、病因は特定できず、複数の部位を同時に観察して、機能の相関関係を見極めないと、病因は見えてこないであろうと推測できますが、そのような観察、分析技術は、残念ながらまだ確立できていません。

もちろん、生後の外部成育環境も、無関係ではありませんし、何よりも、『脳神経細胞ネットワーク』や生育環境は、一人一人異なりますから、精神的な病の背景も個性的であり、単純、一律な診察や治療が存在しないことになります。

エッセイの著者は、問題の難しさをや、解決に程遠い現状を説明し、楽観的な期待にくぎを刺しています。

私たちは、身内に『自閉症』『統合失調症』『躁鬱病』の人を抱える人を知人や友人に持っており、その悩みや生活上の負担も知っていますので、解決はまだほど遠いといわれると、心が暗くなります。

『自閉症』は、8歳以下の子供の1%に発症し、一人あたりの社会負担額は、年額320万円(アメリカの場合)で、これはその人の一生続くことになるとエッセイには書いてあります。アメリカの『自閉症』に関係する国費負担は、毎年350億円になります。

『統合失調症』は、人口の1%の割合で成人初期で発症し、一人あたりの社会負担額は年額320万年で、アメリカの国費負担は毎年330億円になります。

アメリカが、アフガニスタンに費やしていた戦費は、年額1000億円でしたから、『自閉症』『統合失調症』は、観方を変えれば、国家は他の『戦争』を同時に闘っているとも言えます。

身内の方の精神的な負担は、金額には換算できませんし、その生活にも深刻な影響を及ぼしていますから、そのことも重視しなければなりません。

『循環器系疾患』や『ガン』も、人類にとっては大きな問題ですが、病因や対応方法は、『精神的な病』よりは、まだ進んでいます。

『脳』やそれが創りだす『精神世界』の科学的な解明は、少しづつは進んでいますが、人類にとってまだまだ未知の領域です。

『宇宙』よりも、『脳』や『精神世界』の究明は、更に難しいであろうと、多くの科学者が観ています。一つの大きな原因は、『脳』や『精神世界』が個性的であることです。常に『一般論』と『各論』を併用しながら進めなければならないことになるからです。

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2019年9月12日 (木)

江戸の諺『頭を丸める』

江戸の諺『頭を丸める』の話です。『坊主頭になる』ことで、『出家して仏門に帰依する』ことを本来意味します。

しかし、江戸の人たちは、この諺を『猛省する』『罪滅ぼし(謝罪)の意を示す』といった意味の比喩で使っていたのではないでしょうか。本当に『坊主頭になる』わけではありません。

不始末を仕出かした部下に、上司が『頭を丸めて出直せ』などと叱ることは、現代でもある話です。

俗世の苦しみ、悲しみを嫌というほど味わった人が、仏門に帰依して仏の慈悲の下(もと)に、心穏やかな新たな生活を開始するというような、人物は沢山歴史上登場します。

罪を逃れるための手段として『出家する』ということもあったと思いますが、俗世の人も出家した人の科(とが)はそれ以上問わないという不文律があったのでしょう。

梅爺が現役時代に働いていた会社の部署で、一部の事業内容を他社と設立する新合弁会社へ移管するという計画が進められたことがありました。もちろん経営内容がおもわしくない状況に追い込まれていたこともありますが、日本のコンピュータ産業の国際競争力を高めるために、会社の数を減らすといった通産省の思惑も背後にありました。

この合弁会社設立、一部事業移管の計画は、関連する両社の経営トップと限られた実務者だけで、秘密裏に行われ、その内容が公に発表されるまでは、梅爺たちには知らされませんでした。発表は文字通り『寝耳に水』でした。

梅爺が属していた部署の、約半分の人たちは、『新合弁会社』へ出向することになり、残りの半分は、そのまま元の会社に残ることになり、梅児は残留組になりました。

サラリーマンにとっては、生活環境が一変する一大事で、『これからどうなるのだろう』と不安に駆られることになりました。

その時、梅爺の会社で、合弁会社設立の秘密計画を進めていた実務責任者が、発表の当日、文字通り『頭を丸めて(坊主頭になって)』出社してきたことに梅爺たちは驚きました。そして『会社の経営方針とは言え、仲間を欺いてきたこと』に『無言の謝罪の意』を示したかったのであろうとその心中を察しました。『土下座をする』『頭を丸める』などという行為は、観方によっては『スタンドプレイ』で、白々しいということにもなりますが、日本の文化の中では、一般に『誠意のある謝罪』の表現と受け止められます。

『頭を丸める』『駆け込み寺へ逃げ込む』などということは、俗世の手が及ばない『別世界』が宗教にはあるということを示しています。

人間社会のこの『価値観』は『主観の共有』に由来します。『精神世界』で『主観の共有』が意味を持つのは、生物の中で人間だけのように見受けられます。

『神』『国家』『貨幣価値』などという、抽象概念が『主観の共有』の対象になると、あたかもそれは実態のあるもののように変貌し『文明』の基盤になります。犬や猫の世界では、このようなことは起きません。

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2019年9月11日 (水)

江戸の諺『阿弥陀も銭ほどの光』

江戸の諺『阿弥陀も銭ほどの光』の話です。

『阿弥陀様』の有難い御威光も、お布施の額で変わってくるということですから、『地獄の沙汰も金次第』と同じような意味になります。

あの世で極楽へ導いてくださる、尊い『阿弥陀様』をこのような一見不謹慎な表現の対象にしてしまう、江戸の庶民感覚は、梅爺の好むところです。

江戸の庶民は、『あの世』『極楽』『地獄』『阿弥陀様』を、『信じながら、疑っている』様子がうかがえるからです。

人間の『精神世界』にとって、『信じながら疑う』『疑いながら信ずる』は『生きる』上で避けられないことで、『ただ信ずる』『ただ疑う』よりは健全であると梅爺は感じています。

つまり、江戸の庶民は健全な『感覚』の持ち主であるということになります。

人間の能力では、何事も『普遍的に正しい』ことを見極めて行動することなどできません。『一寸先は闇』かどうかは別にしても、『先を正確に見通すこと』もできません。

しかし、『前へ進む』には、ある判断を下す必要があります。『先を正確に見通せない』などと言っていたら、進学も就職も結婚もできません。

この『見通せない状況』で『判断』するには、『信ずる』という行為が必須になります。つまり『信じる』ことは、『生きる』ために必要な行為になります。

しかし『理』だけで構成される『科学』や『数学』の世界では、『信ずる』などという行為は意味を持ちません。『信ずる』は『精神世界』にとってのみ必要な行為ということになります。

『信ずる』という行為は、反面『予想とは違う結果になる』というリスクをはらんでいますから、そのリスクを承知の上で、つまり『疑い』を抱きながら行う行為であるということを理解すべきです。

『信じながら疑う』ことは、矛盾した行為に見えますが、人間にとってはそれが健全であるというのはそのこと意味しています。

人間の『精神世界』は、自由奔放に『抽象概念』『虚構の物語』を創出できることが特徴です。『精神世界』の根底に『生物進化』で継承してきた『安泰を希求する本能』があり、人間は『自己弁護』『自分に都合のよい話』を生み出します。

更に厄介なことに、人間の『精神世界』は『個性的』ですから、その下す『価値判断』は一人一人微妙に違います。

したがって、人間社会で人間の『精神世界』の『価値判断』が絡む事象には、科学や数学の世界のように『普遍的な真』はありません。『政治』『経済』『宗教』『芸術』の世界で『正しい』という言葉が使われたら、それは主張者が『正しいと信ずる』と言っていることに外なりません。科学や就学の『正しい』とは異なります。

『私は自分の価値判断でこれを選択する(受け入れる)』という主張は、人間関係で意味があり許されることですが、『私は正しいと信ずる』『したがってこれは正しい』『あなたが信じないのは間違いである』という論理の飛躍は、差し控えるべきです。

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2019年9月10日 (火)

江戸の諺『狂言師』

江戸の諺『狂言師』の話です。これも諺ではなく、江戸の時代に使われていた比喩の用語です。

『狂言師』は、本来は、『狂言』を演ずる人のことで、江戸時代は、大名お抱えの『エンターテイナー(芸人)』のような立場にありました。

しかし、庶民の間で『狂言師』は、色々な細工をこらして人をだます、現代でいえば『詐欺師』の意味で使われました。『からくり師』ともいわれました。

現代の感覚でいえば、『能』『狂言』は、格式高い日本の伝統芸能であり、関係者は『人間国宝』に叙せられる方もおられるくらいですから、『狂言師』を『詐欺師』に例えるのは失礼な話です。

『狂言』のストーリーには、確かに『人をだます』内容のものおありますが、それよりも『狂言』という文字表現があたえる印象で、『詐欺師』の意味に転じたのではないでしょうか。江戸の庶民の娯楽は『歌舞伎』『人形浄瑠璃』が中心で、『能』『狂言』は、室町時代から伝統的に武士社会中心に継承されてきました。

『能』『狂言』は、日本の『精神文化』を理解する上で、重要なものと梅爺は感じています。『能』は『ワビ』『サビ』、『狂言』は『諧謔』という『精神世界』の価値観を様式化した日本独特の芸能様式で、日本人の『死生観』『美意識』が色濃く反映しています。

無駄なものを、徹底的に排除して、本質を『型』に凝縮しながら、逆にその『型』の制約の中で、自由奔放な精神の解放を表現しようとする、世界にあまり類を見ない芸能の域に達しています。厳選された『所作』や『言葉』が、非日常の世界を創り上げていながら、実は人間の本質を洞察したものになっています。『茶道』『華道』『和歌、俳句』なども共通した『精神文化』が根底にあります。

この日本の『精神文化』を、感じとれる外国人は多くはいないと思いますが、最近では日本人の多くもこの『精神文化』が疎遠になりつつあります。

しかし、この『精神文化』の一端は、今でも日本人の中に無意識に継承されているように思います。

日本の『精神文化』が、他国より『優れている』と思いあがることは控えるべきですが、私たちの『アイデンテティ(特徴的な個性)』であることを誇りに思い、自らの価値観として堂々と主張すべきです。

『四季が鮮明な豊かな自然環境』『武士の台頭』などが、この『精神文化』を育む土壌になっているように感じます。そしてもっと深くこの事について考えてみたくなります。

もうひとつ梅爺の興味の対象は、『芸能』『娯楽』が昇華して『芸術』の領域に達するプロセスです。『能』『狂言』などが典型です。

人間はなぜ、『世俗的なもの』を『高尚なもの』に変えようとするのかという疑問です。

『高尚なもの』は、庶民の多くにとって疎遠になってしまいますが、人間社会の一部にこれを高く評価する人たちがいて、『芸術』は認められ、継承されていきます。

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2019年9月 9日 (月)

江戸の諺『節季のからくり』

江戸の諺『節季のからくり』の話です。

江戸時代は、盆や暮れといった『節季』に、商売人が、決算をする習わしになっていました。『掛け売り』で対応していた客に、『掛け売り金』の一括支払いを求めることが行われました。

『掛け売り』という形式が、日常的に行われていたことは、日本の文化の一面を表しているような気がします。

その都度、現金で決算する方が、商売人にとっても好都合なことであるはずですが、客の懐具合を斟酌(しんしゃく)し、相手を信用するというリスクを冒して『掛け売り』を容認する風習は、日本人の『人間関係』に対する価値観が反映していると思うからです。この世はお互いの信頼で成り立っている、『お互い様』という考え方が強いということです。

英語で『お互い様』を表現するのは難しいような気がします。『in the same boat(同じ船に乗る:運命共同体)』『face the situation with the same problem(同じ問題を抱えて事に当たる)』などがありますが、少々理屈っぽくてニュアンスも違うように感じます。

『借金が払えない人』にとっては、節季は魔の季節で、トンズラしたり居留守を使ったり病気を装ったりとあの手この手で、取り立てを逃れようとし、一方取り立て側は、心を鬼にして、支払いを迫ることになります。

この様子を『節季のからくり』と表現しているのでしょう。盆暮れを無事に迎えられるかどうかは庶民にとって大変なことであったということです。

『からくり』は、機械じかけの仕組みのことで、江戸時代には『からくり人形』『覗きからくり』などの、見世物がありました。手品の『タネ』も、『からくり』と表現されました。

『節季のからくり』の『からくり』は、借金とりたての裏側で展開する、知恵をこらしたあの手この手の攻防を比喩的に表現したものなのでしょう。

日本語には『節目を付ける』などという表現もあり、過去を清算して、新しい気持ちで、生活を始めるような時に使います。

『心機一転』などという言葉もよく使われます。

人間が生きていく上で、このような『リセット』『再スタート』は、重要な意味を持つように感じます。『新年』『改元』『祭り』などという行事が特別な意味を持つのはそのためでしょう。

何度もブログに書いてきたように、このような『主観的な価値観を他人同士でも共有できる能力』が、人間という生物の大きな特徴です。

この特徴ゆえに、人類は、『宗教』『芸術』をはじめ、『文明』を創りだしてきました。

犬や猫が、節季に『からくり』を弄して、大騒ぎするようなことはありません。

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2019年9月 8日 (日)

江戸の諺『山出し娘』

江戸の諺『山出し娘』の話です。これも諺というより、江戸の世で使われていた『用語(表現)』です。

現代では、田舎や山奥に住んでいても、テレビ・ラジオやインターネットで、最新のニュース、流行や、アナウンサーの標準語等に接することができますから、『田舎住まい』の人も、その気になれば、『洗練された都会人』のように振舞うこともできますが、江戸時代は、『田舎育ち』は、文字通り着ているものや、話し方の『訛り』で、『都会人』には『田舎者』と判別できました。

『山出し娘』は、それを表現したもので、『都会人』の『自分たちの方が垢抜けしている(洗練されている)』という優越感が込められています。

人間の『精神世界』の根底に、『安泰を希求する本能』があり、『他人より自分の方が勝っている』と思うことで、『安泰』を得ようとします。『優越感』はそのようにして生じます。

私たちは、何とかして他人の『あらさがし』をして、『優越感』を満足させるためのネタ探しをします。

『容貌』『体格』『貧富』『出自(出身)』『教育レベル』『言葉づかい』など、ありとあらゆるものが『あらさがし』の対象になります。『相手を蔑むこと』が目的ですから、『あらさがし』の対象は必ず見つかります。根拠があろうが無かろうが、『あら』を必ずでっちあげることになるのが『精神世界』の特徴の一つです。

『格差のない社会を実現』などと政治家は、奇麗事を言いますが、『優越感』が人間の本性に深く根ざしている以上、人間社会から『格差』は無くなりません。

『人種差別』も、『理』ではなく『情(好き嫌い)』が根底にあることが問題を難しくしています。『情』は生物としての原始的な判断基準であり、理屈抜きのものであるからです。

『好き嫌い』という情感が先行し、それを裏付ける『あらさがし』をして、『優越感』を満足させる(格差を確認する)という行為を、私たちは無意識に繰り返しながら生きています。『いじめ』もこれが根底にあります。

梅爺がブログの中で、『トランプ大統領』『プーチン大東証』『習近平国家主席』『金正恩委員長』を、『いかがわしい人物』と表現しているのも、これに類する行為です。

自分の『優越感』は、客観的な根拠を欠く『さもしい』ものだと、恥入り抑制できる人は器の大きな人です。

『理』では理解していても、根拠のない『優越感』を抑制することは、なかなかできません。

梅爺が好々爺(こうこうや)になかなかなれないのはそのためです。

『山出し娘』は、実は『都会の娘』より、健康的で気立てもやさしい娘であるのかもしれません。

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2019年9月 7日 (土)

ガンを発症させる要因の究明(4)

『ガン細胞』を一種の生物とみなすならば、この生物は他の生物の多くが生物進化の過程で取得しているある種の『知恵』を未だ保有していないように見えます。

多くの生物が保有している『知恵』というのは、『自分の安泰を最優先』するにしても、ある安泰のレベルが獲得できた時には、それ以上『敵』を攻撃したり、殺戮したりはしないという本能的な習性のことです。

果てしなく『安泰』のために欲望をつのらせると、反ってそれは自分を不利な状況に追い込むことになると本能的に判断することを意味します。

アフリカ・サバンナで、ライオンはガゼルの群を襲って、餌食にしますが、刹那的な食欲を満たすことが目的で、ガゼルの群を殲滅に追いこむことを目的には行動しません。

残念ながら人間という生物種は、この『知恵』を保有しているとは言い切れないところがあります。生物種の中でもっとも獰猛なのが人間かもしれません。

『ガン細胞』は、増殖を最優先しているように見えますが、これは『宿主(ホスト)』を死に追いやることにおなり、結局自分も死ぬことになります。

いつの日にか『ガン細胞』も『知恵』を獲得し、自らあるレベル以上の増殖を抑制してくれるようになれば、人間とは『共存』できるようになりますが、今のところ、人間にとってそのような都合のよいことは起きそうにもありません。

このエッセイの著者も、そのことを指摘しています。

『病気』『老い』『死』は、人類にとって『悩みの種』でした。しかし、これらは人間の力ではどうすることもできないことと『観念』して対応してきました。

『釈迦』は『悩みの種』を、『煩悩の解脱』で克服し、『涅槃(悟りの境地)』にいたる対応法を考え出しました。

その他の多くの宗教は、信仰を貫けば『死後魂は神の国に召される』と説き、『死の不安』を緩和しようとしました。

しかし、現代科学は、『病気』『老い』『死』といえども、必ずしも『どうすることもできない』ことではなさそうだという可能性を具体的に提示し始めています。

『ガンへの対応』もその可能性を高めつつあります。

人類が『ガンの撲滅』に成功し、『不老不死』も可能にすることは、『夢物語』ではなくなりつつあります。

『ホモ・デウス』という本を何回かにわたって紹介してきましたが、この本は、『ガンを撲滅』し『不老不死』をも手に入れた人類の未来を論じたものです。

個人にとっては『ガンの撲滅』『不老不死』は、永年の『悩みの種』を解消できる歓迎すべき事態であるように見えますが、『人類全体』にとって、これが歓迎すべき事態であるかどうかは、深い洞察を要します。

『自然の摂理でいきる生物』であった人間が、『人為的に摂理を利用して人工的な能力を併せ持つ生物』に変身することは、素晴らしいことというより、おぞましいことのように梅爺は感じています。

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2019年9月 6日 (金)

ガンを発症させる要因の究明(3)

『DNA』の中で、ヒトの遺伝子にかかわる情報は2%程度で、あとの98%は『ジャンク(ガラクタ)DNA』と呼ばれていました。

この話を聞いた時に、梅爺は直感的に『本当にそうかなぁ』と思いました。40億年に近い生物進化の過程で、継承されてきたものの98%が『無意味なガラクタ』であるはずがないと考えたからです。もし、不要なものならとっくに退化して消滅しているのではないかという疑問です。

最近の研究では、この98%の部分に、人間の『設計情報』が含まれていることが分かってきて、多くの科学者がこの部分を研究の対象にするようになってきました。

『ジャンク』どころか、人間を形成するうえで必須の情報であることが、判明するのではないかと期待しています。

このエッセイの著者も、『ガン』を究明する上で、この98%の部分の研究をすべきであると述べています。このエッセイが書かれたのは、約20年位前のことですから、なかなかの慧眼であると思います。

多くの研究者が、『ガン細胞』の遺伝子構造や、その性質を研究対象にしていますが、本質的なことは、『正常な細胞』を『ガン細胞』に変える最初の要因は何か(原因:種の究明)、その変化をもたらす環境は何か(土壌の究明)であろうと、この著者は指摘しています。20年後の現在、この『種』と『土壌』の問題が、どこまで解明できているのか梅爺は理解できていませんが、人類が『ガン撲滅宣言』をできる日は、まだまだ先のように思います。

60兆個ある細胞の一つが、何らかの要因で『ガン細胞』に変わり、更に増殖を開始するのが『ガン』ですが、多くは増殖する前に、『免疫機能』が働いて、『ガン』を抑制しているに違いありません。つまり、誰でも日常的に『ガン細胞』が生まれては消えていることになります。増殖に至ってしまったものは『不運』と受け入れるしかありません。

細胞の数が、10個とか100個とか言うなら『気をつけて』対応はできますが、60兆個の細胞となると、自分の意思で『気をつけて対応する』などというレベルには程遠いものになります。

基本的に『ガン』は、体内でおきている『物質世界』の事象の一つですから、『精神世界』で祈ったり、願ったりしても避けることなどできません。『品行方正』に生きていれば、『ガン』にならないなどということにもなりません。

人類が保有する『ガン』に関する知識は、一昔前に比べれば格段に多く、医療レベルも進歩しています。

『ガン』は人類の『大敵』ですが、自然界の中で『絶対安泰』などという生物はいないのですから、『大敵』を認めて、対応をするしかありません。

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2019年9月 5日 (木)

ガンを発症させる原因の究明(2)

生まれつきの『ガン細胞』が、ある時期まで『冬眠』していて、何らかの環境変化で『覚醒(発症)』するという仮説を昨日紹介しました。しかし、梅爺は寡聞にして、そのような『事実』が証明されたという話は聞いたことがありません。

それよりも、可能性の高い考え方は、『正常であった細胞』が、何らかの要因で『ガン細胞』に変貌するというものではないでしょうか。

放射能や宇宙線にさらされたときに、『正常細胞』が破壊され、それによって『ガン細胞』に変わることがあることも分かっていますし、現在では、特定の『病原体(ウィルス)』が、特定の『ガン』を発症させる要因であることも分かっています。厳密にいえば、『病原体』が、正常な『体内微生物環境』を、ガンにかかりやすい『炎症性の環境』に変えてしまうらしいことも分かってきています。

ガンの20~30%は、特定の『病原体』を慢性的に保有することに由来することも研究で分かってきました。『ピロリ菌』が『胃ガン』を発症させやすいなどという因果関係も、それに相当します。

私たちの体内には、沢山の微生物が共生で住み着いており、この存在なしでは『生きていけない』ことも分かっています。この微生物の種類は1万種にものぼるということですから驚きです。更にこの微生物の数は、私たちの細胞の数(60兆個)の10倍にもなるということですから、唖然としてしまいます。『腸内フローラ』はその一部です。

普段私たちは、自分以外の『生物(微生物)』によって『生かされている』などと実感はしませんが、現実は、『自分だけで生きている』わけではありません。

生物進化の過程で、生物同士の『共生』が実現し、継承されてきた証拠です。人間も例外ではありません。私たちの『細胞』のなかにある『ミトコンドリア(小容体)』も、元はといえば、独立した『単細胞生物』であったものが、他の『単細胞生物』に取り込まれ、『共生』するようになったものです。

『ミトコンドリア』なしには、人間の生命活動は維持できませんから、これも『共生』で『生かされている』と言える事象の一つです。

人間は『神によって創られた特別な存在』と信じていた近世以前の人たちが、『人間は下等な微生物の力を借りなければ生きていけない』などということを知ったら、腰を抜かすかもしれません。

私たちの体内で『共生』している微生物の全てが、私たちの『生命活動』に有益に貢献しているわけではなく、中には、好ましくない『悪玉』も含まれています。

この『悪玉』が、『ガン』の発症に、何らかの関わり合いを持つのではないかと容易に推測できます。

このエッセイの著者は、『ガン細胞遺伝子構造』の特定も重要ですが、更に体内微生物と『ガン』の関係を明らかにする研究が重要であると主張しています。因果関係が判明すれば、対応策も見えてきますから、これは一理ある主張です。

体内微生物の研究は、最近主流になりつつありますから。『ガン』との関係も色々判明することになるのではないでしょうか。 

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2019年9月 4日 (水)

ガンを発症させる原因の究明(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の94番目のタイトルは『Current Sequencing Strategies ignore the Role of Microorganisms in Cancer(ガン細胞の遺伝子構造特定戦略優先で、ガンと関係する体内微生物の研究がおろそかになっている)』で、著者はコロンビア大学の薬学教授『Azra Raza』です。

著者は、40年間ガン治療の研究に従事してきた医学者です。ガン細胞の遺伝子構造が、正常な細胞の遺伝子構造からどのように『変わっているか』を特定する努力が、最近の研究の中心になっていることを危惧しています。

確かにガンは、正常な細胞遺伝子構造が、突然変異でガン細胞遺伝子構造に『変わる』ことで発症する病気ですが、『何が突然変異を起こす要因になっているのか(種)』や『どのような体内環境が突然変異やその後の増殖を助長するのか(土壌)』を追究することが本質であろうという主張です。

ガン細胞の遺伝子構造を特定することは『結果』の特定で、『原因』の特定にはならないという主張ですから、一理があります。

最初に著者は、ガン治療の分野が、どのように変遷してきたかを解説しています。

1970年代は、『化学療法』中心の時代で、『特定薬』が、ガン増殖の抑制に効果的であり、更に『補助薬』を併用することで効果が倍増することが判明しました。

1980年代は、ヒトゲノムの解明が急速に進んだ時代で、ガン細胞の遺伝子構造のマップが作成され、抗体を用いた免疫療法が主流になりました。

ガン細胞の遺伝子構造と、正常な細胞の遺伝子構造の違いを明らかにすることで、ガンに関する理解が進み、放射線治療などの治療法も現れました。

このように、遺伝子構造の違いを明らかにすることばかりが、研究の主流である風潮が続いていて、ガンを最初に発症させる病原体や、突然変異を起こさせやすい体内環境についての研究がおろそかになっていることが、この著者の危惧する所です。

男性の2人に1人が、生涯でガンにかかり、女性の3人に1人が同じく生涯でガンにかかるという統計もあります。現代人にとって、ガンは決して珍しい病気ではないとも言えます。梅爺も昨年大腸ポリープの一つにガン細胞が見つかりました。

ガンは正常な細胞の遺伝子構造が、ガン細胞の遺伝子構造に変貌することで発症する病気であることは明白です。

問題は、この変貌が、どのような要因でもたらされるのかということです。

可能性は色々考えられますが、一つは、『生まれつきガン細胞遺伝子構造を保有する細胞』を持っていたという考え方です。しかし、そのガン細胞は、ある時期まで『冬眠』状態にあり、何らかの体内環境の変化で、『覚醒』するという仮説です。遺伝的にガン体質の人がいるという考え方は、これに合致します。 

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2019年9月 3日 (火)

遺伝子の異常発生が増えている(6)

人のDNAは、基本的には両親のDNAを利用した受胎時の偶発的組み合わせで決まりますが、それ以外に両親に由来しない新規の『資質』を平均的に80~100個保有するようになることが報告されています。

この新規の『資質』が、幸運にも『天才』を生み出す要因になることもありますが、不幸にも『難病』や『精神障害』をもたらすことにもなりえます。

大半の人にとっては。その新規『資質』は、それほどの大きな影響を及ぼさないために、本人も周囲も気づかずに看過しているだけのことです。

受胎時に正常でない『資質』を保有するようになってしまう人や、生後の何らかの環境で正常でない『遺伝子』情報を保有するようになってしまう人の人口比率が増えつつあるということが確かなら、このエッセイの著者が指摘するように、科学的な『因果関係』を明らかにする努力が必要です。

生物進化の中でも、ある確率で『突然変異』や、それによる『難病の発症』は起こりえますので、そのような『自然選択』の要因ではなく、何らかの時代環境に由来する要因によって、遺伝子の異常変化が『増えている』かどうかの見極めが重要です。

両親に由来しない新規の『資質』を、80~100個保有することになるのは、何故なのかもそカラクリを解明する必要があります。

難病の苦しみから人類を解放するという視点で、『DNA』に関する研究や、正常な『細胞』を取り戻すための医療手段には期待がたかまりますが、それは裏を返せば人工的に『天才』を創出する手段にもなりかねません。

人類の大半が、『凡人』から『天才』へ変貌してしまうという状況は、素晴らしいというより、何やらおぞましいことになるような予感がします。

『能力差』や『格差』で、人間の基本的な扱いを変えてはいけないという、約束事としての『価値観』が、先進国社会には定着していますが、それは逆にいえば、現代社会は、『能力差』『格差』を暗黙の前提として、成り立っているということです。

『試験』で、人選がなされますし、高い能力は、スポーツや芸術の世界では、高い評価の対象になります。優れた科学者には『ノーベル賞』が授与されます。

しかし、大半の人たちが、人為的な遺伝子操作によって、『天才』レベルの人間に変身すれば、現状の社会を維持している、『価値基準』が崩れ去るからです。

遺伝子の異変の影響を、阻止する方法を人類が見出すということは、思いもよらない新たな問題を人類は抱え込むことになります。

少なくとも梅爺は、人為的な手段で、自分を『凡人』から『天才』に変身させたいとは思いません。

『凡人』であるが故に、泣いたり笑ったりしている自分に愛着を感じています。『天才』に出会えば、驚愕し、尊敬はしますが、嫉妬の対象として観ることはありません。

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2019年9月 2日 (月)

遺伝子の異常発生が増えている(5)

DNAは、外見は二重らせん構造の高分子物質ですが、これを4種の塩基を文字コードとした『情報表現媒体』という視点で観ると、それを保有する人の『基本設計情報』であり、『人体生成指示書(プログラム)』であるということになります。

このカラクリは、コンピュータのプログラムによる『情報処理』と極めて似ています。コンピュータによる『情報処理』は、近世以降に人類が確立した手法ですが、40億年前に地球上に出現した『生命体』の中には、このカラクリが既に存在していたという驚くべき話です。人類が地球上に出現するずっと前から『物質世界』には『情報処理』の概念が存在していたということにほかなりません。

コンピュータは基本的に『1』と『0』という2種の文字コードを利用した『情報表現』『情報処理』を行っていますが、人間の身体は、DNAによる4種の塩基を文字コードを利用した『情報表現』『情報処理』を行っているということです。

DNAに記述されている情報の内で、『遺伝子情報』といわれるものはたった2%程度で、残りの98%は、『なんのために存在するのか分からない無意味な存在』と従来言われてきました。それゆえに、この98%の部分は『ジャンク(ガタクタ)DNA』などとも呼ばれてきました。

この話を初めて聞いた時に、梅爺は『そんなはずはない』と直感的に感じました。40億年かけて進行してきた『生物進化』で、98%もの『無意味なもの』が継承され続けることなどあろうはずがないと感じたからです。もし本当に『無意味なもの』ならば、とっくに退化して消滅しているに違いないと考えたからです。

案の定、最近になってこの『ジャンクDNA』はジャンクどころか、人間の身体を生成したり、維持したりする上で重要な『情報』を包含しているらしいことが判明し始めました。

たとえば、『鼻の高さ』を指示する情報が含まれているといったことが分かってきました。

『ジャンクDNA』の役割が、詳細に解明されれば、DNAによって、その人の体格、要望までも『復元』できるかもしれないという話です。

更に『自閉症』なども、この『ジャンクDNA』が関与しているらしいことも分かってきました。『ジャンクDNA』の解明で、脳科学は格段の進展をみるかもしれません。

人間の身体の中で、『細胞』が『再生成』される時には、必ず『DNA』がコピーされて受け継がれます。しかし、『DNA』の内容の一部が、環境要因によって(たとえば放射能が照射されるなど)突然変わってしまったり、コピー時に『ミススペル』が発生するなどの『不都合』を完全に排除できません。

これによって、『ガン』が発症したり、難病と言われる『病気』に生まれつきかかってしまう人や、突然かかってしまう人が出現します。『iPS細胞』を利用した、『正常な細胞』を取り戻す医療に期待がかかるのはこのためです。 

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2019年9月 1日 (日)

遺伝子の異常発生が増えている(4)

『一つの遺伝子情報』を中枢部に配置し、それを全ての機能が参照しながら稼働する『システム』は、『集中制御』方式と呼ばれます。

一方、人間の身体のように、60兆個の『細胞』が、それぞれ『同じ遺伝子情報』を保有して、自律的に稼働する『システム』は『分散制御』方式と呼ばれます。

人間の身体は、膨大な数の『細胞』が『分散制御』で稼働していますから、『超自律分散システム』といってもよいでしょう。

人間が創りだした人工的な『システム』の中で、『超自律分散システム』に近いものは『インターネット』です。無数の自律的な『サーバー』が、ネットワークの中で連携して全体が成り立っています。『インターネット』には『中枢制御部』はありません。一方『パソコン』などの『コンピュータ』は、『集中制御』方式が採用されています。『CPU』が中枢制御を担当しています。

一概に『分散制御』は『効率が悪い』とは言えませんが、『あるべき姿』を実現するには『集中制御』が適していると言えます。しかし、『集中制御』では『中枢部』が機能しなくなれば『システム』は維持できませんので『脆弱』であることになります。『分散制御』は、部分が機能しなくても、全体がそれで機能しなくなるとは言えませんので比較的『強靭』ですが、全体として『システム』がどうなるかは見通すことが難しくなります。

人間の身体が、何故『分散制御』になっているかは、40億年をかけた生物進化の過程で、自然選択された結果ですから、『偶然そうなった』ということに他なりません。『神』が設計選択した方式とは言えません。

人間の身体で、一部に『ガン』が発症し、全体を脅かすのは、『超自律分散システム』であるが故の宿命ともいえます。『インターネット』が『ウィルス』に脅かされるのも同じことです。

人間の『細胞』の核内には、23X2(計46)個の『染色体』が格納されていて、この『染色体』の中に、『DNA(二重らせん構造)』とよばれる高分子物質があり、『DNA』の一部に『遺伝子情報』が、4種の『塩基』を文字のように用いて記述されています。

男女ともに、22対の『染色体』は、『常染色体』で同じですが、残りの1対の『染色体』は『性染色体』で、男は『XX』、女は『XY』と構成内容が異なっています。

『卵子』は、『性染色体』の半分が創りだした単独細胞で、資質は『X』に限られますが、同様に『精子』は『性染色体』の半分が創りだした単独細胞で、資質は『X』か『Y』かに分かれます。

『X』の資質をもつ『精子』が『卵子』と結び付けば『女の子(XX)』が、『Y』の資質をもつ『精子』が『卵子』と結び付けば『男の子(XY)』が生まれるという仕組みです。

なんとも巧妙な仕組みを生物進化が実現しています。『物質世界』の『摂理』は、男女が産まれる確率を、平等に設定していることになります。これが『両性生殖』の仕組みです。

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