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2019年8月31日 (土)

遺伝子の変異発生が増えている(3)

生物進化の過程の中で、ある統計的確率で『突然変異』の資質が子供に発現することは、分かっていましたが、それとは異なり、社会環境が『突然変異』を発現させる確率を高めているとすれば、それは生物進化と切り離して考えるべき問題になります。

しかし、人間社会に『突然変化』の発現が増えれば、それは永い目で観れば、人類の生物進化にも影響を与えることになります。この複雑な関係を私たちは理解しなければなりません。

今のところ、『両親の高齢化』がなぜ『精子』『卵子』の質の劣化をもたらすのか、社会環境のどの要因が『精子』『卵子』の質の劣化をもたらすのか、科学的な『因果関係』の特定はできていないような気がします。

『人工的な電磁波(電波)にさらされている』『生きる上でのストレスが増えている』などと、その要因を推測はできますが、定量的にその『因果関係』は証明できていないということです。

更に、これらの事象は『個人差』があることですので、統計的に『因果関係』を立証する必要があります。個人に『ガンが発症する』という事象と、社会の『ガン発症率が高まっている』ということは、相関関係はありますが、そうであるからといって誰もが『ガンになる』わけではありません。

私たちの身体は、基本的には受胎時に決定した『遺伝子情報』に基づいて形成されています。もちろん、生誕後の、生活習慣などで、身体の状態は変わりますが、基本的な『設計図』は、『遺伝子情報』で付与されていることになります。

人間の身体は、約60兆個の『細胞』で構成されていて、その『細胞』は原則的に新陳代謝で『死滅』『生誕』を繰り返しています。全体としての梅爺は『生きて』いますが、梅爺の中では日夜無数の『生死』が繰り返されていますから、昔の梅爺と現在の梅爺では別の『細胞』で形成されているという不思議な話です。梅爺の『細胞』は黙々と『物質世界』の『摂理』に則って、生命活動を維持しているだけで、死を悲しんだり、生誕を喜んだりはしていません。自分の中で展開されるこの膨大な別世界に、梅爺は唖然とするだけで、『御苦労さん』というほかありません。

更に驚くべきことに、梅爺の60兆個の『細胞』は、元はといえば両親の『精子』『卵子』というそれぞれ1個の『性細胞』が結合することから、『細胞分裂』が開始され、現在に至っているということです。

そして、更に驚くべきことは、梅爺の60兆個の『細胞』は、全て『同じ遺伝子情報』を保有しているということです。

工学技術者であった梅爺が『システム設計』をするならば、このような効率の悪い方法は採用しないに違いありません。『一つの遺伝子情報』を、中枢に配備して、それを、全ての機能が参照するように設計するでしょう。

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2019年8月30日 (金)

遺伝子の変異発生が増えている(2)

『両親が保有していない新種の遺伝子』を、子供が持つようになるということは、両親にはない資質が子供に出現することを意味します。

日本人は、これを『トンビが鷹を産む』と、表現してきました。なぜそのようなことが起きるかは理解していたわけではありませんが、表面的な事象として『そのようなことが起きる』ことを知っていたからです。

しかし、『両親が保有していない新種の遺伝子』は、『優れた資質』として発現するとは限りませんから、『劣った資質』になる可能性も同様な確率であるはずです。

『立派な両親』から『平凡な子供』が生まれることは、話題としてはあまり興味の対象になりませんので、『鷹がトンビを産む』などという諺にはならなかっただけのことでしょう。

私たちが保有する『両親が保有していない新種の遺伝子』の大半は、際立った資質として出現することはなく、自分も周囲もそのことは気付かずに過ごしているということなのでしょう。

非常に『優れた資質』にせよ『劣った資質』にせよ、個人レベルで観れば、出現する可能性は極めて低いわけですから、問題になりませんが、社会全体で観ると、非常に『劣った資質』の出現が『増えつつある』ということがあるとすれば、それは大きな問題です。

本人の『意思』や『責任』とは無関係に、自然の『摂理』で確率的に出現する資質を、『非情に劣った資質』と表現するのは、道義的には好ましいことではありませんが、それは『精神世界』の価値観に由来する判断で、『物質世界』では、『好ましい』『好ましくない』などという価値観に関係なく、『平均を上回る』『平均の幅に入る』『平均を下回る』資質が、厳然と出現します。

梅爺の『100メートル走のタイム』は、『平均を下回る』ことがあるとすれば、それは厳然たる事実です。しかし、そのことをもって、『梅爺は劣っている』と全人格を否定するような表現をすることは、『精神世界』の価値観では『好ましくない』という話です。

結婚年齢が高くなり、『不妊』の比率が高くなりつつある、『高齢出産』が増えて『ダウン症』の子供が生まれる確率が高まりつつある、という事象は『物質世界』の厳然たる事象であると梅爺は言いたいだけです。『ダウン症』の子供を『劣っている』と表現することは極めて不適切であることは承知しています。

社会環境が、『精子』『卵子』の質を劣化させることがあるとすれば、それは両親の高齢化で『精子』『卵子』の質が劣化する(遺伝子情報のコピーミスが増える)のと同様に、人間社会にとっては問題です。

現代の社会環境が、それ以前の時代に比べて、『精子』『卵子』の質を劣化させる要因が多いということがあるとすれば、その因果関係を科学的に究明する必要があります。

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2019年8月29日 (木)

遺伝子の変異発生が増えている(1)

『What should we be worried about ?(我々はなにを危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の93番目のタイトルは『The Rise in Genomic Instability(遺伝子の異常変化が増えつつある)』で、著者は遺伝子学者の『Eric J.Topol』です。

最近、遺伝子に関する研究は急速に進展し、私たち誰もが、80~100個の、『両親が保有していない新種の遺伝子』を保有していることが判明しています。

『両親が保有していない新種の遺伝子』というのは、文字通り両親の遺伝子の中には存在しない独自な遺伝子のことです。

従来、私たちは学校で、『受胎時に両親の遺伝子が、偶発的に組み合わされて子供の遺伝子が形成される』と教えられてきました。しかし、その時『両親の遺伝子の中には存在しない新種の遺伝子』が出現するという現象が、誰にでも起きているなどということは習いませんでした。

『突然変異』が生物進化の過程で統計的に稀に出現することは、想像していましたが、『誰もが突然変異の可能性を抱えている』とは予想もしませんでした。

このエッセイは、約20年前に書かれたものですので、この時点で、誰もが『両親が保有していない新種の遺伝子』を保有しているという事実は、当時の最新科学知識であったことになります。

そして、この『両親が保有していない新種の遺伝子』が、『自閉症』や『精神障害』の発症に関連しているらしいことを示唆し、エッセイの著者は問題の更なる究明の必要性(危惧)を表明しています。

20年後の現在、この問題はどこまで究明されているのかを、梅爺は理解していませんが、本質的な究明には至っていないのではないかと推察します。人類にとっては大問題ですから、もし究明されていたら、大きく報じされているに違いないからです。

『両親に由来しない新種の遺伝子』が、何故出現するのかの原因は、予測の域を出ませんが、大きな可能性の一つが、『精子』と『卵子』の、遺伝子表記に『スペルミス』が起きる確率が、両親が歳をとるほど『高くなる』ということにあります。つまり、『精子』と『卵子』の質は、両親の年齢が高くなるほど劣化しやすいということです。

『精子』『卵子』は、両親の体内の『性細胞生成』で創りだされます。遺伝子情報は、4種の塩基を『基本文字』として記述されますが、かなり厳密な『チェック機能』のもとに『コピー』されますので、『スペルミス』は起きにくいはずです。しかし現実には、『精子』では30~60個、『卵子』では15~30個の『スペルミス』が平均的に混入していることが報告されています。

端的にいってしまえば、『子供は両親が若い時につくった方が、遺伝子による異常発症の確率が低い(正常な子供が生まれる確率が高い)』ということになります。

日本のような先進国では、結婚年齢が高くなり、必然的に最初の子供ができる時の両親の年齢も高くなりつつありますから、『スペルミス』の観点だけで言えば、好ましいことではないということになります。

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2019年8月28日 (水)

『主観』と『客観』(4)

『客観』は『普遍的である(誰にも、何にでも通用する)』であるのに対して、『主観』は『普遍的でない(自分にしか通用しない)』ものであるということになると、なにやら『客観』の方が『優れている』と私たちは考えがちですが、そうではありません。

『世の中の事象の全てに、普遍的な判断基準がある』のであれば、『主観』には全く価値が無いことになりますが、『世の中の事象の大半には、普遍的な判断基準が無い』からこそ、『主観』が重要な意味を持つことになります。

言い方を変えると『人間が生きていくために、主観は必須の要件である』ということになります。

普遍的な判断基準が存在しない事象が周囲に満ち溢れている環境で私たちは『生きて』いかなければなりません。その時、『自分が受け入れられる価値観』を持つことが必要になります。『受験』『就職』『結婚』などに直面した時に、どこを探しても『正解』などありませんから、『主観』で判断して、前へ進むしかありません。結果的に不都合な結果に遭遇した場合でも、『主観』の判断の責任は、自分で負うしかありません。

『個人』が、『主観』を持つことが、『生きる(前へ進む)』ために必要であるように、『人間社会』も『主観』を共有することが『社会を維持する』ために、必要になります。

『ホモ・サピエンス』は、この『主観を共有する能力』が、他のどの生物よりも優れているために、現在地球上に君臨していることになります。

『神』『国家』『貨幣』『法』など、全て『主観の共有』能力が無ければ、成り立たない概念です。

しかし、『共有している主観』は、あくまでも原点は『主観』であり、普遍的な判断基準を伴う『客観』ではないということを認識することが大切になります。

多くの人たちは、この認識ができていないために、『共有している主観』は、『客観』同様に『正しい』『間違い』を普遍的に判断できる基準であると勘違いしています。

『コミュニティ』が異なれば、『共有している主観』の内容も異なることを考えれば、勘違いであることが確認できるはずです。『キリスト教文化圏』と『イスラム教文化圏』では、それぞれ『共有している主観』である『神』の概念が異なります。通用する『法』も同じではありません。

『法による正義の裁き』などと、言われると、『法』は『客観的』な判断基準であると勘違いしますが、『法』はその『コミュニティ』の『約束事(主観の共有)』にすぎません。もちろん『憲法』も同じです、『神聖で犯してはならない憲法』などは論理的にあるはずがありません。『憲法を変えないようにする』ことを、『コミュニティ』で議論をし、『主観の共有』として再確認することがあっても、議論そのものを『憲法改悪反対』と端(はな)から受け付けない態度は、『主観』と『客観』を混同しているとしか言いようがありません。 

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2019年8月27日 (火)

『主観』と『客観』(3)

多くの方々が、『世の中の問題』には、必ず『客観的』な『正解(正しい答)』があると勘違いされているように梅爺は感じます。自分では何が『正解』であるかを『知らない』場合にも、『自分はたまたま知らないだけで、どこかに正解が必ずあるはずだ』と考えますから、『参考書』を探したり、『ウェブ検索』をしたり、『専門家』『評論家』の意見を聞こうとしたりします。学校教育のテストでは、必ず『問い(問題)』に対して『正解』があり、このテストで100点満点を取ることが『頭が良い』と判定される体験を重ねてきたために、『世の中の問題』には、必ず『正解』があると勘違いするようになったのではないかと梅爺は想像しています。『知識が多い人』が『頭が良い人』という単純な考え方も定着しています。

テレビの番組にも、『専門家』『評論家』が多数登場し、まことしやかに『答』を提示します。そして視聴者の多くは、その『解説内容』を『正解』と鵜のみにし、自分が『一つ利口になった』と満足します。『健康問題や病気対策』をテーマにしたテレビのバラエティ番組や『ためして合点』などという番組の視聴率が高いのはこのためです。『さば(缶詰)』『エゴマ油』が、身体に良い食材であるという『答』を知った視聴者は、翌日スーパー・マーケットに押し掛けて、『さば缶』『エゴマ油』を買い漁ります。

しかし、世の中の事象で、『客観的』な『正解(論理的な因果関係が成立するもの)』が存在するものは限定されており、その他の大多数の事象には、客観的な『正解』は存在しません。『正解』が存在するのは、『科学』や『数学』が探究する世界に関与する事象だけといってよいのではないでしょうか。

この『世の中の事象(問題)の大半には正解はない』という事実を、私たちはもっと認識する必要があります。そしてこの事実を、学校教育にも反映させる必要があります。

『知識詰め込み教育』から『自分で考える能力重視の教育』に変えていこうという主張が最近多くなっていて、それには梅爺も賛成しますが、『他人に頼らず自分で論理思考して正解を見つける』ことと、ここでも勘違いされる方がおられます。

『自分で考える能力重視の教育』とは、『客観的』な『正解』を自分で見つけることではなく、『自分にとって受け入れられる価値観を見つける』訓練を重視することです。

欧米の教育で重視されている『ディベート』はまさしく、これに対応する手法です。本能的、直感的な『価値観』は誰でも保有しますが、そこに『推論』なども理性的な行為も加えて、矛盾が少ないと感ずる『価値観』に変えていくことは易しいことではありません。

言い換えると、これが『主観的』な『価値観』です。『ディベート』は、自分の『主観的な価値観』と、他人の『主観的な価値観』は、『違う』ことを如実に体験できる場でもあります。

『ディベート』は、どちらが『勝つ』かが重要ではなく、『立場の違い』を相互に確認することに意味があります。

欧米の会社とビジネスを行う時に、最初に双方が『立場(Position)』を開示するプロセスを踏むことを梅爺は現役時代に体験しました。

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2019年8月26日 (月)

『主観』と『客観』(2)

人間が勝手気ままに願いを込めて、物事を『観る』内容と、それが『普遍的な真』であるかどうかは、別の問題です。

『神が存在してほしい(存在するに違いないと思う)』と『神は存在は真である』とは、同じことではありません。

『主観的』は、人間の『精神世界』が、ものを『観る』ことを意味します。『精神世界』は、勝手気ままに、『因果関係』や『抽象概念』を創出します。『精神世界』の根底に、生物進化の過程で継承してきた『安泰を希求する本能』があるからであろうと、梅爺は推測しています。

『生物』は、周囲の事象が『自分に都合がよいものか悪いものか』を最優先で判断し、生き残りの確率を高めようとします。人間も同様であり、周囲を判断すると同時に、『都合のよいストーリー』を考え出して、それを『安泰』のよりどころにしようとします。

逆にいえば、『安泰』を希求する本能が、都合のよい『因果関係』や『抽象概念』を創出する習性を生み出しているということになります。

自分にとって都合のよい『因果関係』『抽象概念』ですから、それが『物質世界』の『摂理』に適うものであるかどうかは、問われません。つまり人間の『精神世界』は虚構のストーリーを自由奔放に創りだすことになります。

更に、人間の『精神世界』は、一人一人『個性的』ですから、虚構のストーリーも多種多様になります。

『物質世界』には『空飛ぶ象』は存在しませんが、童話では『ダンボ』が空を飛びます。『物質世界』では人間の赤ん坊は『桃』からは生まれませんが、『桃太郎』は『桃』から生まれたことになっています。

ここまでは、現代人の誰もが、『創り話(虚構)』として受け入れますが、『神』とい概念や『神が天地を創造した』という因果関係になると、多くの方がそれを『虚構』と断ずることに逡巡します。

なぜ『神』と『桃太郎』は同様な虚構概念で、『神が天地を創造した』と『ダンボが空を飛ぶ』は同様の虚構ストーリーということにならないのか、梅爺は不思議に思っていましたが、『サピエンス全書』という本を読んで、その理由が理解できました。

それは、人間は、一人一人が『虚構のストーリー』を自由に創出すると同時に、ある時、ある人が言い出した『虚構のストーリー』を、周囲の人たちも受け入れて、仲間で『共有』する習性を私たち『ホモ・サピエンス』は、約7万年前に、生物進化の過程の中で保有するようになったからという説明になります。『サピエンス全書』ではこれを『認識革命』『主観の共有』と呼んでいます。

『主観の共有』のおかげで、人類は『神』『国家』『貨幣(価値)などという抽象概念を、多数の仲間で共有し、高度な『文明』を築くことができるようになりました。それと同時に一度根付いた『主観の共有』は強固であることにもなります。

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2019年8月25日 (日)

『主観』と『客観』(1)

梅爺は、これまで、『主観的(Subjective)』『客観的(Objective)』という言葉を、会話や文章の中で、『それらしく』使ってきました。『それらしく』というのは、大体においてその使い方に齟齬はなかったに違いないという意味です。

しかし、人間や人間社会の事象を観察理解する方法として、『物質世界』『精神世界』の視点で分けて考えてみるという習慣が身についてからは、『主観的』『客観的』という言葉は、重要な概念であり、再度厳密に把握する必要があると気付きました。

『主観的』『客観的』という対になる言葉を、日本人が使うようになったのは、いつからか梅爺は理解できていませんが、その論理性から、明治維新以後、西欧の文献を翻訳することで使うようになった言葉ではないかと推察しています。

もしそうであるならば、それ以前の日本人は、ドンピシャリそれに対応する『言葉』を保有していなかったということになります。多分、古代日本に大きな影響を与えた『漢語』にも対応する表現はなかったという推測になります。梅爺の勝手な想像ですから、間違っているかもしれません。

江戸の人たちも、『そいつはお前さん、少しばかり身勝手な了見じゃないかい』などと表現していたでしょうから、『主観的』の概念の一部である『身勝手な考え方』は弁えていたのでしょう。しかし『客観的』という概念は、曖昧であったのではないでしょうか。『身勝手ではない考え方』は、必ずしも『客観的』とは言えないからです。

西欧の伝統的な文化のルーツは、古代ギリシャ文明で、そこでは『真理』『論理性』が重視されました。『哲学』『論理学』『科学』はここから生まれました。古代インド文明や、古代中国文明にも、哲学的思考はありましたが、『論理学』『科学』と一体のものではなかったように梅爺は思います。

古代ギリシャの人たちは、『自然界(物質世界)』が、普遍的な『摂理(ルール)』で支配されていることを、具体的な『法則』の発見で実証しました。『アルキメデスの法則』などが有名です。

『自然界』を支配する『摂理』は、普遍的な『真理』でもあり、人間の情感とは無関係な冷徹なものであるということに気づいたことになります。

一方、人間は、周囲の事象を、『期待』『願い』『祈り』などで、『こうあってほしい』『こうあってほしくない』と観ようとします。『こうあってほしい』と『普遍的にこうである』ということには、大きな違いがあります。

人間は、勝手気ままに『こうあってほしい』と願いますが、『自然界』の『普遍的にそうである(真である)』ということには対応しません。

『科学』『数学』『論理学』『哲学』は、普遍的な『真』を求める領域で、その領域だけに普遍的な『真』と言えるものが存在すると、現代の私たちは理解するようになりました。

それが『客観的』にものを観るということを意味します。

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2019年8月24日 (土)

江戸の諺『口でポンポン言う、目の肥えた、手のやせた下手な絵描き』

江戸の諺『口でポンポン言う、目の肥えた、手のやせた下手な絵描き』の話です。諺にしては冗舌すぎますので、本当にこのような表現が江戸時代に流布していたのかどうかは疑問です。

しかし、内容は『滑稽』ですので、つい笑ってしまいましたが、『梅爺さん、あなたのことですよ』ともとれますので、反省もしました。

『頭でっかち』『理屈屋』といわれる人によくありがちなことで、『もっともらしい話をする』『あーだこーだと評論をする』のですが、『それではあなたがやってごらんなさい』といわれると、まるで対応できないというような状況が目に浮かびます。

梅爺も、テレビで『野球』や『サッカー』の試合を観戦することが好きで、『もっと低めに制球しないと、打たれるぞ』とか、『そこは、パスではなく自分でシュートすべきだろう』などと勝手にわめいています。『それでは、お前やってごらん』と言われたら、梅爺は、何もできません。

『客観的に情勢判断する』ことは、『生きる』上で大切なことですが、自分は安全な『観覧席』に身を置いて、現実に対応している他人の行為の是非を論ずることは、本来慎重を要することではないでしょうか。

自分の身に危険が迫っていない時に、『戦争反対』『平和優先』などとは、梅爺も言えますが、理不尽に外国から攻撃を受け、自分の身にも危険がせまった時でも、同じ主張を通せるのかは、はなはだ疑問です。

梅爺は『戦争』を容認しているわけではありません。『戦争』は最後の最後の手段であり、それを避けるためのあらゆる努力をすべきであると思いますが、『戦争反対』と叫べば、『戦争』は避けられるとは考えていません。

『戦争の悲劇』は、人類の最大の悲劇であることは、歴史が物語っています。私たちは、『日本』が『戦争』を余儀なくされる状況を、どうやったら回避できるかを具体的に議論すべきです。

『日本』は世界の中で単独に存在はできませんから、『日本ファースト』などという考え方は危険です。外国から、リスペクトされる国家であることが、最優先事項になります。それは、軍事力や経済力で『覇権』を握ることではなく、『文化』『教育』『倫理観』の高いレベルを示すことです。

日本人は自国の『文化』に誇りを持つと同時に、他国の『異文化』も認める必要があります。そのためには、語学の習得も含め『異文化』を理解する努力が必要になります。

『日本』がそのような民度の高い国家になれば、『戦争』に巻き込まれる可能性は低くなりますが、それでも『日本』を敵視する他国がなくなるわけではありません。

奇麗事なスローガンではなく、本質を理解して、具体的な対応を議論できる国家であってほしいと梅爺は願っています。

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2019年8月23日 (金)

江戸の諺『髷(わげ)が日和見る』

江戸の諺『髷(わげ)が日和(ひより)みる』の話です。

『髷』は江戸では『まげ』ですから、『わげ』は上方の読み方で、したがってこの諺は上方で多く用いられていた表現なのでしょう。

明治維新の文明開化で、『髷』を結う風習は無くなりましたから、現在ではこの表現は使われないような気がします。

『日和』は、もともとは天候の良し悪しのことですが、転じて物事を行うのに『吉日』かどうかも意味するようになりました。更に、『日和見る』は、周囲の情勢が自分にとって都合がよいかどうかを判断して去就を決めるといった、抽象的な行為も意味するようになりました。

『髷が日和見る』は、体の一番上に位置する『髷』が、空や遠くを見渡すのに適しているというニュアンスを表現しているのでしょう。『風見鶏』が屋根のてっぺんにあるのと同じです。

人間の『精神世界』の基盤に『安泰を希求する本能』があるというのが、梅爺の自論ですが、そうであるとすれば、『日和を見る』のは『生きる』ことの基本動作になります。

梅爺は、『天気予報』に関心が薄い性格です。もちろん、台風が直撃するのはいつかなどといったことには関心を払いますが、普段は、こまめに『天気予報』をチェックしたりせず、どんな時でも折り畳み傘を携帯していて、『雨が降ったらさせばよい』と能天気に対応しています。

『天気予報』は、『物質世界』の事象を、科学的に推測した結果で、人工衛星からの雲の写真、膨大な数の観測器具の配置、スーパー・コンピュータによるシミュレーションなどを活用して、一昔前に比べれば、格段に精度の高い『予報』が可能になっています。更に『GPS』の情報と突き合わせて、現在地の『天気予報』を取得することも可能になっています。梅爺は、そのことは承知していますが、所詮『物質世界』の事象は、梅爺の思惑、期待、願いなどとは無関係な『変容』であることも承知していますので、『そのようなことを、思い煩っても仕方ない』という気持ちがどこかにあり、関心が薄いのでしょう。

しかし、テレビでは『天気予報』は繰り返し放映されるところを見ると、多くの人にとって『天気予報』は優先度の高い関心事なのでしょう。

現代では『日和を見る』が、『周囲の情勢で、コロコロ自論を変える』という意味で使われることが多く、『日和見主義者』は、自分の『信念』を持たない、『軽薄な人』として軽蔑の対象になったりします。

『強い信念を保有する』『大義に殉ずる』などということが、『人間』のあるべき姿として説かれることがありますが、梅爺は、『日和を見て、対応を変える』ことは、一方的に『悪いこと』とは思っていません。『信念』や『大義』は、所詮『抽象概念』で、何が『正しい』かを判断する要因にはならないと思うからです。『是々非々』の判断は、その都度自分の責任で行うしかありません。

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2019年8月22日 (木)

江戸の諺『女郎蜘蛛』

江戸の諺『女郎蜘蛛』の話です。これは諺というより、用語ですが、江戸の人たちにとっては、単なる昆虫の『蜘蛛』の一種のことではなく、伝承の妖怪『絡新婦(じょろうぐも)』にまつわる話が念頭にあったのでしょう。おそらく、『手練手管(てれんてくだ)』で男を惑わす『毒婦』のイメージがあったのでしょう。

『蜘蛛』は、昔から洋の東西を問わず、あまりよいキャラクタとして扱われていないような気がします。『タランチュラ』『毒蜘蛛』のような毒を持つ人間にとって危険な存在であったこともあるのでしょうが、巣を網目に張り巡らして、獲物を絡め取るという習性も、陰険な『手練手管』で悪事を謀るという印象を与えたに違いありません。

日本の神話には、『土蜘蛛』なる悪者が登場します。歴史書を編纂したヤマト朝廷に恭順せず刃向かった豪族またはその頭領を指す言葉でしたが、その後の時代では、一般的な『悪者』『妖怪』の意味になり、『能』や『歌舞伎』にも妖怪として登場するようになりました。縄文、弥生時代から、日本人は『蜘蛛』『おろち』などを、『悪役』とみる風習を継承してきたのではないでしょうか。

日本の各地に伝わる妖怪『絡新婦(じょろうぐも)』の話は、その中から生まれたものなのでしょう。美しい女に変身して、男をたぶらかすという『毒婦』のイメージです。

江戸には、幕府が容認する『花街』があり、ここの遊女は『公娼』で、中でも『花魁(おいらん)』は、ヒロインとして君臨していたのは御承知の通りです。

しかし、『岡場所』などと呼ばれる非合法の売春エリアも存在し、それ以外にも『夜鷹』と呼ばれる怪しげな個人営業の娼婦も出没して、客引きを行っていました。

いつの時代にも、『風俗営業』は後を絶たず、表向き『売春禁止法』が成立している現代の日本でも、その状況は変わりません。

人類の最古の職業は『売春婦』と言われていますから、人間社会に付きまとう『闇』の部分で、将来も『闇』はなくなりそうにありません。

江戸の男たちの大半は、『遊女に騙される』ことを承知で、通っていたに違いありませんから、そういった女の側面を『女郎蜘蛛』と表現したのでしょう。

しかし、中には『花魁』の言葉を、真に受ける『まじめな男』もいて、それを主人公にした『落語』もあります。

人間の『精神世界』には、『仏心』と『邪心』が共存していますから、女性の中にも『菩薩のような心』と『夜叉のような心』が共存していることになります。

ある側面を『女郎蜘蛛』と呼ぶからといって、その女性の全人格を否定することにはなりません。

しかし、世の中には、『仏心』や『菩薩の心』をほとんど持たない、『極悪人』が出現します。『精神世界』が個性的であることに由来する、これも人間社会の『闇』の部分です。

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2019年8月21日 (水)

江戸の諺『焼け石に水』

江戸の諺『焼け石に水』の話です。これは現代でもよく使われる表現です。熱く焼けた石に、少しばかりの水をかけても、すぐ蒸発してしまい、石を冷やすことにはならないということから、『その程度の努力や手段では、効果は期待できない』という意味として使われます。

水が、温度によって、『氷』『水』『湯気(蒸気)』に変わることは、古代の人も気づいていたと思いますが、これを『物理学』『熱力学』が、『相転移』として理解したのは、近世以降のことです。

『分子』という概念が確立して、『分子』の集まりが強固な『結晶』となったり、緩やかな相互結合になったり、バラバラになったりすることが判明しました。

この『相転移』には『エントロピーの変化』が付随しますので、これを利用して『エネルギー』を取り出す『蒸気機関』が発明され、『産業革命』の基盤となりました。

江戸の人たちは、『焼け石に水』の現象は理解していましたが、その特徴を利用して、同じ時代のヨーロッパ(英国)で、『蒸気機関』が発明され、『産業革命』が進行しているなどということは知りませんでした。

『黒船』の到来で、『蒸気機関』の威力を知って、幕府や各藩は、『彼我の差』を思い知らされました。佐賀藩は、『蒸気機関車』のミニチュアモデルを輸入し、殿様の前で動かしてみて、人々は仰天したと伝えられています。しかし、好奇心の強い日本人は、すぐに、自分たちで『同じもの』を創ろうとしたとも伝えられています。

明治維新の『文明開化』の象徴のが『蒸気機関車』の導入であったことは、御承知のとおりです。

これは、たった150年前の出来事です。この間、日本は列強に伍する為に『富国強兵』に走り、『戦争』を繰り返して、最後には『核兵器』の攻撃被害を受けることになりました。

更に150年後の『日本』『世界』『人類』は、どのようになっているのかは、想像することも難しいことです。少なくとも、『現状』が続いているとは思えません。

過去の150年間の変化の要因で、最も大きなものは『科学』『技術』です。多分今後150年の変化に、最も大きな影響を及ぼすものは、同じく『科学』『技術』でしょう。

私たちは、最先端の『科学』『技術』の詳細を理解することは、難しいことですが、少なくともその『本質』は、理解する努力が必要です。

『遺伝子操作』『核エネルギーの利用』『ナノ・テクノロジー(物質の分子レベルの捜査)』『量子コンピュータ』『人工知能(アルゴリズム)』などが、『人間』や『人間社会』に及ぼす影響は、『バラ色の未来』ばかりを保証するものではありません。

『人間』が『社会』を維持するための必ずしも必須要因でなくなる(ロボットや人工知能が代行する)可能性がありますから、単なる『ごくつぶし』になり、やがて滅亡へ向かうことにもなりかねません。その時、『愛』『自由』『基本的人権』『正義』などを持ち出してみても『焼け石に水』かもしれません。

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2019年8月20日 (火)

江戸の諺『三十の尻くくり』

江戸の諺『三十の尻くくり』の話です。

三十歳にもなれば、思慮も定まり、堅実な生活を営むようになるという意味です。これで思い出すのは、『論語』で『孔子』が語った人生の節目の話です。読み下し文は以下です。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

現代文へ訳すと以下のようになります。

孔子が云う、
「私は十五才で(学問の道に入ろうと)決めた。
三十才で(学問に対する自分なりの基礎)を確立した。
四十才で戸惑うことがなくなった。
五十才で天命を悟った。
六十で何を聞いても動じなくなった。
七十になってからは、心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった」と。

梅爺は自分の人生を振り返ってみると、とても『孔子』のように順調に節目をクリアしてきたとは言えませんから、『畏れ入りました』というほかありません。

80歳に近くなって、確かに『心のおもむくままに行動』していますが、とても『道理に違うことはなくなった』などとは言えません。

60歳の半ばからブログを書き始め、世の中の事象は、『物質世界(自然界)』と『精神世界(心)』に区分けして、各々の世界の特徴に照らして観ると、たいていのことは納得できる説明ができることに気づきました。

しかし、『孔子』は30歳にして、既に『学問の基礎を確立した』ということですから、雲泥の差です。

もし、梅爺が30歳の時に、『物質世界』『精神世界』の規範で世の中の事象を観ることに気づいていたら、梅爺の人生は大きく異なったものになっていたでしょう。

しかし、30歳の頃は、『物質世界』に関する人類の『科学知識』のレベルは、10年前のレベルには程遠いものでしたので、梅爺もそれを知るすべがなく、多分『物質世界』『精神世界』の規範で世の中の事象を観る方法論は見いだせなかったでしょう。

『三十の尻くくり』は、『そうありたい』と考えたくなることですが、最近の事件のニュースなどをみていると、とても30歳で『思慮分別』が身についているとは言えない人たちの話ばかりです。

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2019年8月19日 (月)

二つの異なった『自我』のせめぎあい(4)

『右脳』の『経験重視自我』は、それを体験している時がピークで、それが働く要因がなくなると、『経験』は『記憶』へ移行し、『感覚』も『想像上の感覚』にかわります。『想像上の感覚』は、一般に時が経つと薄れていきます。

『痛さ』を感じている時と、『あの時は痛かった』と『記憶』を呼び起こした時の『感覚』は同じではありません。『のど元過ぎれば熱さを忘れる』のはそのためです。

また異なった二つの『経験重視自我』が連続して働いた場合、最後に体験した『経験重視自我』の方が強い影響力を持ちます。

女性の出産は、最大限の『苦痛』と言われていますが、生まれてきた赤ん坊を見た時に、母親は『大きな満足感(達成感)』を経験し、更に『母性愛』に包まれ、直前の『苦痛』をこの『満足感』『母性愛』が圧倒してしまうことになると『ホモ・デウス』には書いてあります。一般に、後の『経験重視自我』が勝るという傾向が強く、『また子供を産もう』ということになるのでしょう。

もちろん、この体験感覚は人によって異なりますから、『あんな苦痛は二度とゴメン』と考える人がいないとは限りません。

『生物進化』の過程で、『右脳』の『経験重視自我』が最初に形成され、後に『左脳』の『語り部自我』が加わったものと考えられます。

人間以外の『動物』も、『経験重視自我』は保有しているようにみえますから、『語り部自我』こそが、他の動物から人間を区別する要因といってもよいのではないでしょうか。

『語り部自我』は、自由奔放に自分にとって都合のよいストーリーを創出します。『神』『愛』『自由』『平和』『平等』などという高度な『抽象概念』を考え出し、それを他人と共有することで、人間は他の動物とは異なった『文明』を築いてきたといってもよいでしょう。

周囲の事象に触発されて、先ず『右脳』の『経験重視自我』が機能し、そこに『左脳』の『語り部自我』が介入するというのが、一般的なケースですが、『経験重視自我』なしに、直接『語り部自我』が機能し始めることもあるように思います。

このような場合は、人間は自分の『自由意思』で意識的に判断していると思うはずです。前に『ジャンケン』の例をあげて、梅爺は『自由意思』で決めていると感ずると書きましたが、これはそれにあたるのではないでしょうか。この場合、『語り部自我』のトリガーとなるものは何かを『脳科学』は明らかにしてほしいと願います。

いずれにしても、『語り部自我』も『経験重視自我』も、『脳』の中では、『物理反応』『化学反応』であることは確かです。

これらの『物質世界』の反応が、『精神世界』を生み出す基盤と言えます。

私たちは『自分のことは自分で分かっている』『自分は自分で制御できる』と考えがちですが、実態はそれほど単純ではありません。異なった二つの『自我』のせめぎあいが、その複雑さの象徴です。ただ『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されているという梅爺の持論に矛盾がないと再確認できました。 

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2019年8月18日 (日)

二つの異なった『自我』のせめぎ合い(3)

梅爺は従来ブログの中で、人間の『精神世界』の特徴の一つとして、『理』と『情』が複雑に絡み合っていることを指摘してきました。

『ホモ・デウス』という本を読んで、人間には二つの異なった性格を持つ『自我』があると科学者たちが指摘していることを知り、その内容は、梅爺が指摘してきた『理』と『情』に匹敵するものと確認できました。自分の『考え方』が補強されたような気がして嬉しくなりました。

『ホモ・デウス』という本での説明はこうです。『自我』の一つは、人間の『左脳』が担当し、『理論優先』の性格を帯びています。『理論優先』では分かりにくい表現ですが、くだけた云い方をすれば『屁理屈優先』で、体験した事象について、自分にとって都合のよい『屁理屈』をなんとかひねり出して、自分を納得させようとする『自我』のことです。更に分かりやすく言えば『自己弁明(言い訳)』をなんとかひねり出そうとする『自我』です。自分に都合のよい『屁理屈』『自己弁明』ですから、客観的に『論理的』であるなどという保証はありません。『嘘をつく』ことにもつながります。『ホモ・デウス』ではこの自我を『語り部(自己弁明)自我』と呼んでいます。

『左脳』は、『論旨思考の中枢』『言語中枢』の場所としても知られていますので、『左脳』が『語り部(自己弁明)自我』を担当しているという話はうなずけます。

これを読んで、まじめな方は、『私は、嘘をついてまで自己弁明することはない』と反論されるかもしれませんが、その反論そのものが『自己弁明』ではないでしょうか。人は本能的に『自己弁明』しようとする習性をもっているということで、これは梅爺が主張してきた『安泰を希求する本能』に由来するものです。明らかに『嘘』と分かるような『弁明』の言動を押しとどめて、自尊心を保とうとするような行為は、更に高度な『価値観』を重視する論理思考が働くからで、これができる人は『器が大きい人』『理性的な人』です。多くの場合子供は『語り部自我』が直接前面にでます。

もう一つの『自我』は、人間の『右脳』が担当し、『感覚優先』の性格を帯びています。

『喜怒哀楽』『好き嫌い』『苦痛』『快楽』など、理屈抜きでとっさに感ずる『感覚』を優先する『自我』のことです。人間は、周囲の事象を感覚器官で検知し、その事象が自分にとって都合がよいものか、悪いものかを、最優先で『判断』します。これが『感覚優先自我』で、『ホモ・デウス』という本では、『経験重視自我』と呼んでいます。『経験重視自我』は無意識に機能しますから、『突然感動する』『突然悲しくなる』などということになります。病気や怪我の『痛み』も、突然襲ってきます。

『右脳』の『経験重視自我』は、それを体験しているときは、大きな影響力を発揮します。しかし、すぐに『左脳』の『語り部自我』が介入して影響力を発揮しますから、両者のせめぎあいがどのような『結末』をもたらすのかは、『時と場合』で異なることになります。勿論『脳』は個性的ですから、人によっても『結末』はことなります。

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2019年8月17日 (土)

二つの異なった『自我』のせめぎ合い(2)

古代の人たちは、『神が人間を創造した』『神は人間に特別の魂を付与した』『人は死で肉体は滅びるが、魂は神に召させる』という説明を思いつき、多くの『宗教』はこれらを教義として重視してきました。

『生前に神に背く言動があれば(信仰が乏しいと)、死後魂は地獄へ落ちる』『あの世には、天国(神の国)と地獄がある』などという説明も付随して行われ、人々は、それを信じました。

これらの説明は、現代にも継承されています。

古代から近世に至るまで、多くの哲学者が、『人間』の特質として『一人一人がユニークな自我(Self)を保有する』と説明してきました。そして『自我は、自分の行動を自分で決める意思を保有する』と説明してきました。『自分の行動を自分で決める意思』は英語では『Free Will(自由意思)』と表現します。

梅爺は、科学知識を駆使して理性で考える限り、『魂(霊)』の存在や、『あの世(天国、地獄)』の存在は、『疑わしい』と感じています。もちろん、日常の会話の中でそれらの言葉に遭遇した場合、いちいち目くじらを立てて反論はしませんが、『疑わしい』という考え方に矛盾を感ずることはありません。

『宇宙物理学』『生物進化』『生命科学』『脳科学』などにかかわる多くの科学者も、それらの『存在』の根拠を見出せないと主張しています。

更に科学者たちは、『ユニークな自我』『自由意思』の存在も、『疑わしい』と主張し始めています。しかし、『魂』や『あの世』の問題ほど、現時点で梅爺は、『疑わしい』という主張に矛盾なく同意できてはいません。

たとえば『ジャンケン』をする時に、『グー』『チョキ』『パー』のどれを出すかは、梅爺の『自由意思』で決めているという『実感』があるからです。

しかし、梅爺が『自由意思』と思い込んでいるのは『錯覚』で、実は『脳』の中で行われる『判断』は、何らかの先行する『トリガー』を情報源として開始される、『物理反応(電子信号の情報伝達)』『化学反応(ホルモンを媒体とする情報伝達)』の必然的な帰結にすぎないというのが、最近の『科学』の説明内容です。

つまり、主として脳内で先行する、『物理反応』『化学反応』のプロセスの結果を、梅爺は『自分の意思で決めた』と『錯覚』して受け取っているという話になります。

『ユニークな自我』を科学者が『疑う』根拠は、『人間』の『脳』の、『右脳』と『左脳』は、異なった役割を分担していて、そのどちらの機能がその時の『判断』に強い影響を与えるかは、『時と場合』によって変わるということに由来します。

云ってみれば、『右脳』と『左脳』は、異なった『判断』をする二つの『自我』の母体ですから、とても『人間』は『ユニークな自我』を保有しているなどと単純には言えないということになります。 

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2019年8月16日 (金)

二つの異なった『自我』のせめぎ合い(1)

『科学』が『パンドラの箱』を開けてしまったという内容のブログを前に書きました。

科学知識が乏しかった中世までは、人類にとって『宇宙』『生命』『人間』は、『ブラック・ボックス』で、表面的な事象はもちろん認知できましたが、その表面的な事象の裏側に、どのような『しくみ』が潜んでいるのか、その『しくみ』はどのような『法則』で成り立っているのかは、理解出来ませんでした。

それでも、『わからない』ことを放置することは、人間の『精神世界』にとっては『安泰を脅かす要因』ですから、古代から多くの人たちが想像を巡らせて、『もっともらしい話』を創作し、それが権威をもつようになって人々は『そういうことか』と受け入れてきました。特に『宗教』が『神』という概念を利用して、『全ては神の御業』とすることで、『ブラック・ボックス』の謎は一見解消したようにみえました。何か『わからない』ことがあれば、『神』『聖書』『聖職者の判断』に頼るということですから、梅爺はこれを『神道主義』と呼ぶことにしました。

現代人の私たちは、『神話』は、古代の人たちが幼稚な頭で考え出した根拠のない『ファンタジー』と考え、真実の『歴史』とは一線を画して受け止めますが、古代の人たちにとって『神話』は、まじめな『歴史』でした。『古事記』『日本書紀』で語られる『神話』は、8世紀の日本人にとって、決して『ファンタジー』などではありませんでした。

『ブラック・ボックス』の中で、『人間』がもっとも厄介なものであったと言ってよいでしょう。なぜなら、中世までの人たちにとって、『自分が人間として生きている』ことは、間違いなく認識できているにも関わらず、『自分の中で何が起きているのか』は皆目見当がつかないことであったからです。

『私はどこから来たのか、なぜ存在するのか、そしてどこへ行くのか』と哲学者や芸術家は、問い続けることになりました。

もちろん現在でもこの問いに答えることは易しくありませんが、それでも『科学』知識で、ある種の論理的な説明は可能になりました。

『人間』は、『物質世界』の『変容』によって出現した『生物種』の一種で、『死』によって、無機質な素材だけが残り『物質世界』へ再び吸収されることになる、という実に味気ない説明になります。『物質世界』の『変容』には、『目的』『意義』などはありませんから、『物質世界』の視点で観るかぎり、『なぜ存在するか』などと問うことにも意味がありません。

誤解が無いように申し上げれば、梅爺は人間の『精神世界』にとって、『目的』『意義』は重要な事柄であることは承知しています。『自分はなぜ存在しているのか』という問いに、自分を説得させられるだけの『目的』『意義』を設定しないと、『安泰が脅かされる』からです。しかし、これは『人間』にとって重要なことであるだけで、『物質世界』にはそのような価値観はありません。

『人間』を『物質世界』に属する『生物』として観るか、『精神世界』を重視する『生物』として観るかで、物事は代わって見えてきます。この二つを混同せずに、しかも双方を尊重して『人間』を認識する必要があります。

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2019年8月15日 (木)

科学が『パンドラの箱』を開けてしまった(4)

『科学』が『宇宙』『生命』『人間』という、従来『ブラック・ボックス』であった存在の中身やその『カラクリ』を、明らかにし始めました。

その結果『宇宙』『生命』『人間』の出現と現在にいたる変容には、『神』の関与は見当たらないことが判明しました。『聖書』の内容や『聖職者』の判断を仰がなくても、普遍的、論理的に説明が可能であるということです。

この事で、それまでの『聖書』や聖職者の判断を『正しい』としてきた『神道主義』の基盤が揺らぐことになりました。

近世以降、人類が『人道主義』を重視し始めた背景には、『科学』が『物質世界』の『摂理』を解明し始めたことが関連しています。『主観の共有』の内容を『神道主義』から『人道主義』へ置き換える必要に迫られたからです。人類は、『人間社会』を維持するために、いつの時代でも何らかの『主観の共有』を必要とする習性をもっています。

『人道主義』から、『共産主義』『社会主義』『ナチズム』などが生まれましたが、必ずしも成功せず、現時点では、『人道主義』と『民主主義』との組み合わせが世界の主流になりつつあります。

アメリカの童話『オズの魔法使い』は、『人道主義』を端的に表現したものになっています。主人公の少女ドロシーは、家へ帰る方法を求め、『勇気』が欲しいライオン、『脳』が欲しいカカシ、『心』が欲しいブリキのきこりと一緒に、『オズの魔法使い』を訪ねますが、魔法使いは実は詐欺師であることが分かり、ライオン、カカシ、ブリキのきこりも、『勇気』『脳』『心』をもともと持っていることが判明するという話になっています。

『判断』を『オズの魔法使い(神)』に頼ってもだめで、頼りになるのは自分の『勇気』『脳(思考)』『心(情感)』であるという、『人道主義』の本質が語られています。

『ホモ・デウス』という本の著者は、『人道主義』を礼賛するあまり、人間の『判断』を過大評価して、『民主主義』『自由経済主義(市場主義)』に問題が生じていることを指摘しています。

『神の判断』が正しいとする『神道主義』も、『人の判断』が正しいとする『人道主義』もいずれも、万全ではないということに他なりません。

人類は、今後『人道主義』に代わる新しい『主観の共有』概念を、見出すことになるのかというテーマが『ホモ・デウス』では論じられています。

『科学』によって、自然界に存在してきた『ホモ・サピエンス』が、人工的な能力で補強した新人種『ホモ・デウス(神の能力に近付いた存在)』に変身した時に、何が起こるかを予測した内容になっています。

『判断』は『神』でも『人』でもなく、『人工知能』が行うというような時代が想定されますが、梅爺は何やら人類の将来に不安を感じます。

『間違う』ことがあっても、『判断』は『人』が行うことが、健全なような気がします。

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2019年8月14日 (水)

科学が『パンドラの箱』を開けてしまった(3)

中世以前の人たちにとって、自分たちの存在や営みの全ては、『神』の存在なしには成り立たないという認識でしたから、『宗教』は必須なものでした。それを信じないかぎり、『宇宙』『生命』『人間』の説明ができなかったからです。

その時代、『宗教』は人類にとって全てであり、現代の『科学』の役割も果たしていました。聖職者も『天体を観測する』ことは、『神』の真理を理解することにつながると、信じて疑いませんでした。現在でも『バチカン』には、『天体観測施設』があり、聖職者がそれに携わっていることをテレビの番組で観たことがあります。聖職者はインタビューで『真理を追究することは神を知ること』と答えていました。しかしこれは『天体観測』の意義と『神の存在』の両方を肯定しようとする無理な論理です。『宇宙』の始まりから今日までの変容の中に、『神』の関与の痕跡は見当たりません。

『神』の真理は、全て『聖書』に答えが書いてあるという前提でしたから、『分からない』ことに遭遇すると、聖職者は、『聖書』を隅から隅まで読んで、その『答』を探そうとしました。

人々も、自分の行為に自信が無い時には、神父に『懺悔』し、神父が『それを神はお喜びにならない』と言えば、それが『正しい答(規範)』になりました。

近世以降『科学』が、色々な『真実』を見出すまでは、人々は、全て『神の御意志』を『正しい』と受け入れることに、矛盾を感じていなかったことになります。梅爺はこの時代を『神道主義』の時代と呼んで、前にブログに書きました。聖職者も、まさか『科学』が後に、『宗教』にとって都合の悪い存在になるなどとは、想像もしていなかったことでしょう。

『ガリレオ』の『地動説』は、聖職者による『異端尋問(裁判)』で、『神にそむく考え方』と断じましたが、このころから、『宗教』にとって雲行きが怪しくなり始めました。

『ダーウィン』が『種の起源』で、『生物進化論』を発表した時、さすがに『異端尋問』はありませんでしたが、それでも多くの人からの批判にさらされました。

現代でもアメリカの40%の人々は、『生物進化論』を受け入れていないと言われていますから、一度人間社会に根付いた『主観の共有』は、強固な慣性を持ち続けることが分かります。

『科学』は、『宇宙』『生命』『人間』といった、従来『ブラック・ボックス』として『宗教』がその説明を担当していた領域で、『宗教』の説明とは異なる『真実』を提示し始めました。

科学が『パンドラの箱』を開けてしまったと梅爺が表現したのはこの事です。

『箱』の中から『災い』が噴出したとは言えませんが、少なくとも『宗教』からすると、都合の悪い話が明るみに出てきたことになります。

『科学』は『ブラック・ボックス』の全容を解明できているわけではありませんが、少なくとも重要な基本的な事柄は明らかになりつつあり、その説明には『神』は登場しないからです。

中世までの全ては『神』を規範に考えれば『正しい』とする『神道主義』の基盤が揺らぎ始めたために、人々はそれに変わる『価値規範』として『人道主義』を唱え始めました。 

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2019年8月13日 (火)

科学が『パンドラの箱』を開けてしまった(2)

『科学知識』が乏しかった中世以前の人たちにとって、『宇宙』『生命』『人間』は、神秘的で不思議な『ブラック・ボックス』でした。

これらの『ブラック・ボックス』を、説得力のある『因果関係』で説明するために、人類は『神』という、実に見事な抽象概念を創出しました。

地球上の、未開部族を含む、あらゆる民族が『神(または神々)』という概念を保有していますので、脳の進化のレベルに応じて、人間は必ず『神(神々)』という概念を思いつくように見えます。他の動物は、『神』という概念を保有していないとするならば、脳に関する生物進化のレベルに関して、人間だけあるレベルを越えたのであろうと推測できます。この『あるレベル』を越える要件は何かを追求すれば、『人間』の本質が見えてくるのではないでしょうか。

ある人が思いついた抽象概念とその価値観はその人にとっての『主観』ですが、他の人もその『主観』に共鳴し、自分のものとする『主観の共有』能力こそが、生物の中で『人間』だけが保有する能力であり、これが『文明』を築く基盤になったと『ホモ・デウス』の著者は述べています。この鋭い洞察に、梅爺も『同意(共鳴)』します。

『主観の共鳴』の代表的な対象が、『神』『貨幣』『国家』であると、『ホモ・デウス』の著者は指摘しています。『主観の共有』能力が無ければ、見ず知らずの人間が多数集まった『コミュニティ』は維持できないという指摘です。

『宇宙』『生命』『人間』は、全て『神(神々)』が想像したものであり。その営みは『神(神々)』によって司られているという『因果関係』が、『宗教』によって提示だれ、人々はそれを『信じ』ました。つまり『神』を『信ずる』ようになったということです。

『神』による『創造』という『因果関係』の説明は、『ブラック・ボックス』の中身を説明したことにはなりませんが、少なくとも『宇宙』『生命』『人間』が存在するのはなぜかという疑問に答えたものでした。

人々にとって『誕生』『死』も神秘で不思議な事象でした。『誕生』には男女の本能的な『性行為』がかかわることや、その結果が『妊娠』『出産』につながると言ったことは経験則で分かっていたとしても、『受精卵』が細胞分裂を繰り返して、新生児になるなどという『カラクリ』は分かっていませんでした。

『死』は、『生命』の停止であることは、表面的に理解できたとしても、『死』によって自分の存在が、消滅するという『恐怖』『不安』を誰もが抱いたに違いありません。

『宗教』は、人間の存在そのものを『神』による創造としただけではなく、『誕生』『死』にも『神』がかかわるという『因果関係(説明)』を提示しました、

『誕生』時に、人間は『神』から『魂』が与えられ、『死』後この『魂』は、『神のみもと(天国)』に招かれるという説明がなされました。ただし生前『神』にそむく生活をした人は、死後『天国』へは行けず『地獄』に落ちるという恐ろしい条件も付いていました。

 

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2019年8月12日 (月)

科学が『パンドラの箱』を開けてしまった(1)

『ホモ・デウス』という本を読んでいて、少し大袈裟ですが『科学はパンドラの箱を開けてしまった』という表現を思いつきました。

『パンドラの箱』は、御存じのとおり『ギリシャ神話』に由来します。人類初の女性『パンドラ』が、開けてはならないとされていた箱を、禁を破って開けてしまったために、箱から『苦しみ』『病気』などの『災い』が流出し、この世に蔓延するようになったという話です。

なぜこの世には、『苦しみ』『病気』などの『災い』があるのかを、古代の人たちは、このような虚構の『因果関係』で納得しようとしたことになります。

同じく『釈迦』は、『なぜ生きることは苦しいことなのか』という問いを思索し、その原因を人の中に巣くう『煩悩』と特定しました。

人間の『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があり、『分からないこと』を放置することは『安泰を脅かす』ことになりますから、何としてもある『因果関係』を考え出して安堵しようとします。

この習性は、古代の人たちも私たちも同じです。『精神世界』はこのように自由奔放に、虚構の『因果関係』を創出することが特徴です。

『パンドラの箱』も『煩悩』も、聖書の『天地創造』も、この習性が創りだしたものです。

私たちは、上司や教師から『叱られた』時に、『自分を認めてくださるからこその愛の鞭である』などという都合の良い『因果関係』で、自分を納得(安堵)させようとするのもこの習性が関与しています。

『ホモ・デウス』という本では『パンドラの箱』ではなく、『ブラック・ボックス』という言葉が使われています。

『ブラック・ボックス』は、あるものが存在し、機能していることは認識できても、その『中身』がどのような『カラクリ』や『法則』で構成されているかは、『分からない』ときに使う言葉です。

現代人は、当たり前のように『コンピュータ』『スマート・フォン』『テレビ』を使いこなしていますが、その中身がどのような『カラクリ』や『法則』で動いているのかは、ほとんどの人が知りません。もちろん、設計者や技術者は、それを『知って』いますが、利用者のほとんどにとっては、それらは『ブラック・ボックス』です。

近世の『科学』の時代になる以前の時代では、人々にとって『宇宙』や『生命』や『人間』は『ブラック・ボックス』でした。

その存在や、機能していることの一部は表面的に認識していましたが、『中身』の『カラクリ』や『法則』は理解しえなかったということです。

人々は、『ブラック・ボックス』に関して、『神話』や、『宗教』が提示する『説明』を『信じて』いました。それ以外の対応は考えられなかったからです。『宗教』が重要な役目を果たすことができたのはそのためです。

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2019年8月11日 (日)

江戸の諺『皮引きゃ身がつく』

江戸の諺『皮引きゃ身がつく』の話です。現代ではあまり使われない表現のような気がします。

皮を引っ張れば肉も一緒についてくることから、密接な関係にあるものは、どちらかに利害が発生すれば、もう一方にも影響がでるという意味になります。『皮引きゃ肉が痛い』という似たような表現もあったようです。

想定していなかった思わぬところに影響が及ぶというようなことは、体験したこと、見聞きした経験は誰にもありますから、『物事をうわべだけでみて行動するのは慎みなさい』というような教訓が含まれているのでしょうか。

しかし、世の中の事象、自然界の事象は、『皮と肉』といった単純な要素で構成されていません。自然界(物質世界)の事象などは、極端にいえば、『全ての要因が関連している』ということになりますから、人間の能力では、正確に『見通す』ことができません。

『スーパー・コンピュータ』による『シミュレーション』では、人間の能力では及ばない『予測』を可能にしていますが、それでも『関連する要因』は、『全て』ではなく、影響力が大きそうな有限の要因だけを選んで、その他の要因の影響は『無視できる』という前提で計算は行われます。

『天気予報』は、この結果昔より『当たる確率』が飛躍的に向上しましたが、それでも『はずれる』ことがあるのは、全ての要因を組み入れた『シミュレーション』でないからです。2500年前に『釈迦』は、『全てがつながっている』ことの本質を『縁起』という言葉で表現しました。見事な洞察で、現代の科学も同じ認識で『物質世界』を捉えています。しかし、『全ての要因』を加味した『予測』は、現代の科学でもできません。それでも影響力が高いと思われる有限の要因を選択して、『予測』を行う精度は、飛躍的に向上しています。『小惑星探査機』を目的の『小惑星』まで送る軌道計算は、有限の要因で、ほぼ正確に可能ですが、途中で、予期せぬ他の『小惑星』と衝突して破壊されてしまう、可能性を正確には見通せません。科学者は、そのようなことが起こる可能性の『確率』計算をして、後は『無事を祈る』ことになります。

人間社会の『政治』や『経済』などの事象は、それにかかわる多数の人間の、『精神世界』の価値観が要因で展開しますから、これも全ての要因を加味した『予測』は、人間には不可能です。

『しっかり議論をして、国民の合意を得た政策を実行する』などと『政治家』は軽々しく発言しますが、『しっかりした議論』も『国民の合意』も、『言葉』にすぎません。

『主張』の無い人が集まって『議論』してもても、『小田原評議』になるだけです。論理的に自己主張のできる人が、議論をすることで、より矛盾の少ない『予測』が可能になります。『リーダー』はこのような資質を備えた人でなければなりません。 

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2019年8月10日 (土)

江戸の諺『山の神』

江戸の諺『山の神』の話です。これは、現在でも『女房』『妻』『家内』の意味で使われる表現です。

語源については諸説あるようですが、日本においては古代から『山神』は、『女性神』で『恐ろしい神様』と考えられてきたために、『口うるさい恐ろしい女』という意味で使われるようになったのでしょう。

『諺臍の宿替』という原本には、女房が一生懸命我が家を守っているのに、亭主は外を遊び歩いているので、怒った女房(山の神)が、亭主の行き先に雷を落とすとわめく小噺が載っています。

だらしがない亭主に業を煮やして女房が『山の神』になるのか、女房の『山の神』を恐れて亭主が家に寄り付かないのかは、何とも微妙な関係のように思います。

女性からすれば、女を悪者にするのはけしからんと言いたくなるのでしょうが、亭主にも『雷親父』などという表現がありますから、おあいこです。

夫婦といえども、本来は『他人』ですから、二人の『価値観』が『ほぼ同じ』等というケースは稀で、『食い違う』のは当然のことです。『惚れたはれた』の期間は、相手のよいところだけが見えていたり、自分をよく見せようという見栄が強かったりで、『食い違い』が露呈しませんが、それがいつまでも続くわけではありません。

『価値観』が異なる二人が、『うまくやっていく』には、少なくとも二人のうちのどちらかが『賢い』必要があります。『賢い』というのは、『違い』の存在を認識する能力を持っているということです。分かりやすく言えば『私は蕎麦が好き』『あなたはうどんが好き』というようなことが『違い』ですから、どちらが『正しい』かなどと議論しても始まりません。『蕎麦好き』の人が『うどん好き』に『変わる』ことが『違いを認める』ことではありません。

『賢い』亭主なら、『かかあ天下』を『認める』ように振舞い、『賢い』女房なら『亭主関白』を『認める』ように振舞って、事を丸く収めることができます。世の中で『夫婦円満』などといわれているケースの大半は、このようなものです。

亭主、女房が両方『賢い』場合は、ほとんど問題が生じませんが、それでも二人の『価値観』が『同じ』とは限りません。

些細なことでも自分の『価値観』以外は『認めない』という人が、最も『賢くない』人で、周囲は辟易します。

『理』では、そのようなことは分かっていても、『情』が絡む『価値観』は根深いものですから、梅爺も自分の『価値観』にこだわって、つい『いやな顔』をしてしまうようなことがあります。

人間の『精神世界』が『個性的』であるということは、意外に厄介なことなのです。

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2019年8月 9日 (金)

江戸の諺『宵(よい)払い』

江戸の諺『宵(よい)払い』の話です。この表現は、江戸時代の『決算の習慣』を知っていないと理解できません。したがって現在ではあまり使われない表現です。

江戸時代、『盆暮れ』に、『決算』をするのが商家のしきたりでした。借金を清算して、新しい気持ちで『盆暮れ』を迎えるという、『リセット』が重要であったのでしょう。

この清算のために、多くの商家が『盆暮れ』が近付くと『金繰り』に苦労した様子が、井原西鶴の作品などに描かれています。

『宵払い』は、前日の夕刻(宵)に、清算を済ませてしまうという意味ですから、裕福でゆとりのある状態を表現しています。

現代の『資本主義』『自由経済主義』『市場主義』でも、企業や、国家、自治体などの『決算』は重要な意味を持ちます。

現在の経済システムは、債券、株券のように『将来の利益』を期待して発行されたものの、現状における『評価価値(含み益)』などが、『決算』評価の対象にもなると言った、非常に複雑なものになっていますが、江戸時代の『決算』は、それに比べれば単純であったといえるでしょう。

それでも、商家や大名家は、『大福帳』を用いて、『入金』『出費』を記録し、そろばんで決算を行っていたのですから、『決算』は、地道で労力のいる仕事であったものと思われます。

当然のことですが、地球上の生物の中で、このような複雑な、経済システム、金融システムを行っているのは『人間』だけです。

なぜ『人間』だけが、このような複雑な行為を行うことが可能なのかは、『ホモ・サピエンス』が7万年くらい前に、生物進化のプロセスで獲得した、『認識能力の革命』があったからであると、『サピエンス全書』の著者は指摘しています。

『認識能力の革命』で、私たちは、『主観の共有』という、他の生物が保有しない能力を獲得しました。『主観の共有』は『神』『貨幣価値』『国家』などという抽象概念を、『実態あるもの』と人々が認識して(信じて)、共有することを意味します。コミュニティの中で、見ず知らずの人たちも、『主観の共有』でつながることになり、コミュニティの規模が他の生物では例をみないほどのものになりました。

更に、文字、数字を用いて、情報を『記録』することで、複雑な経済システムにも対応できるようになりました。

私たちが『あたりまえ』に受け入れている、『経済』『金融』のしくみは、このような人類の歴史に由来しています。

7万年前の生物進化の『認識能力の革命』が起こらなかったら、『人間』は地球上最強の哺乳類にはならなかったかもしれません。

『物質世界(自然界)』で起きている事象は、目的やあるべき姿を求めた『変容』ではありませんから、私たちの現在の存在は、『幸運な偶然』によるものとしかいいようがありません。

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2019年8月 8日 (木)

江戸の諺『鎗(やり)を喰らう』

江戸の諺『鎗(やり)を喰らう』の話です。『鎗』は(やじり)のことで、『鎗を喰らう』は現在の言葉で表現すれば『野次を飛ばされる』ことになります。同じような表現で『半畳を入れる』がありますが、これは江戸時代芝居小屋の土間であった客席に敷かれていた、『半畳の茣蓙(ござ)』を、客が役者の芸が気に入らないと言って、舞台へ投げ込んだことに由来する表現です。

『野次る』は、『相手を罵倒する』というようなニュアンスで日本人はとらえます。自分を高い立場におき、相手を見下して『詰(なじ)る』『揶揄する』ということになりますから、『野次られた』人は自分の尊厳が傷つけられたと感じて、『不快』を感じ、『怒り』を露わにしたりします。その場に立ち会った第三者も、時に『野次』に共感することもありますが、気まずい雰囲気に『不快』を催すことの方が多いような気がします。

『野次』が日常茶飯事に横行するのが英国議会で有名です。日本の国会や都議会でも、『野次』が飛び、その内容が『不適切』というようなことでニュースになることがあります。日本人は、上記の『野次』の認識がありますから、『下品な行為』と考え、少なくとも国民や都民の代表が集まる場で、このような『下品な行為』が横行することに眉をひそめます。そして『政治家の資質レベルが低い』と、政治評論家は、したり顔で評論します。

ですから『英国の議会でも野次は日常茶飯事』と聞くと、『そうか、日本だけではなく英国も議員はレベルが低いのか』と誤解をします。

もちろん英国議会の『野次』にも、『低俗な内容』なものもありますが、本来、『議論の質を高める』ものとして、『民主的な議論』に必要な要素と考えられ、歴史の中で育まれ継承されてきたものなのです。

幼少時から『ディベート(議論)』の訓練をする英国教育が背景にあります。『ディベート』では『反論』は当然ですが、相手を中傷誹謗するのではなく、相手の論点の弱点を『ユーモア』を含めて鋭く指摘することが、『野次』の本質です。これを行うには、本質の理解、深い教養などが必要になります。英国の文化の中かで、『野次』は必ずしも『下品な行為』ではなく、上質な『野次』は、国民の喝采をうけることになります。

英国議会は、与野党が向かい合って『腰かけ』、議論が展開します。最前部には『野次専門部隊』が陣取り、応酬することになります。議員の中でこの『野次専門部隊』に選ばれることは名誉なことなのです。

『野次』がエスカレートした状態で、これを即座に『沈静化』する能力も、議長や首相には求められます。

英国のこの文化は、外国人には異文化に見えたりしますが、『ユーモアに富んだ鋭い野次』を、人間社会を円滑にする要素として、文化基盤に取り込んでいる英国に梅爺は好意を抱きます。

『金正恩』『習近平』『プーチン』を『野次』れば、暗殺されてしまうような社会に比べて、英国は高度な民主主義と、高度な民度をもつ社会であるような気がします。

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2019年8月 7日 (水)

江戸の諺『前後(あとさき)が分からぬ人』

江戸の諺『前後(あとさき)がわからない人』の話です。これは、現在でもよく使われる表現です。

物事の順序や、因果関係を理解出来ない思慮の浅い人を指すことになりますが、人間は誰でも『前後が見通せる』わけではありませんから、『自分はそうではない』とは言えません。

世の中の事象は、『物質世界(自然界)』に属するものであれ、『精神世界』の価値観が絡む個人や社会の行為に属するものであれ、『この先何が起こるか』を正しく見通すことはできません。

非常に複雑な沢山の要因が絡んで、事象は展開するためで、比較的要因が限定される競馬の勝ち馬を予想することができないのもそのためです。

人間は、昔からこの自分の能力の限界を感じとり、その弱点を補なおうとして、『なんでも知っている存在』を『精神世界』の虚構として考え出し、それに頼って『安堵』を得ようとしました。『神』という概念がそれです。

『自分は知らないが、神は知っている、だから神の言葉を信ずれば安堵が得られる』という論理で、自分の不安を解消しようとしたことになります。

『God knows.(神のみぞ知る)』という表現が、そのことを示しています。

『知りたい』という好奇心は、『安泰を希求する本能』が背景にありますから、人間の基本的な欲求であることは確かですが、『知りたい』と『知る』はそう簡単に直結しません。

『科学者』は『知りたい』という好奇心が強い人たちですが、全てを『知っている』わけではありません。

人間は基本的に『前後(あとさき)が分からない』存在であるということを、率直に認めることはやさしくありません。しかし、その認識は重要なことではないでしょうか。

本当に『知る』ことはできないまでも、自分の能力の全てを結集して、『こういうことではないか』と自分なりの推論を行うことは、人生では重要なことになります。

しかし、その自分の『推論』が、『正しい』と主張することには、慎重であるべきです。

常に自分の『推論』に、矛盾が無いかどうかを、『疑う』ことも必要になります。

自分の『推論』を『信じ』ながら『疑う』ということが、能力に限界がある人間の、せいぜいできる『生き方』なのではないでしょうか。

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2019年8月 6日 (火)

『神道主義』と『人道主義』(6)

『人道主義』の『経済的価値観』としての『消費者はいつも正しい』も、『無理な前提』です。『お客様は神様です』や『黒いネコも白いネコでも、ネズミをとるネコはよいネコである』という表現同様に『利益至上主義(金がもうかれば何でもよい)』を賛美するものにすぎません。

『需要』と『供給』のバランスで、『経済』が進行することは確かですが、『需要』の基盤となる消費者の嗜好は、『個』の『価値観』であって、『全体』のために『好ましい』ものである保証はありません。

民放テレビ局にとっては、財源となる『広告費』を増やすために、『視聴率』は重要な指標となり、『視聴率が得やすい』という理由で、『オチャラカ・バラエティ番組』が増えることになります。『大宅壮一』が、民放テレビが開局されたころ、テレビを『一億総白痴化』の要因と皮肉ったのは、この事を洞察したからでした。

市場に問題が生じたとき、楽観的な経済学者は、『必ず見えない神の手が働いて、市場は是正される』というような主張をしますが、『神の手』の正体が『賢明な消費者の判断』であるとすれば、これも当てになりません。

『消費者』を『個』ととらえるか、個性的な『個』が集まった『消費者の集合体』ととらえるかで議論は異なります。『消費者の集合体』ならば、統計的に『正しい』方向を採択するというのであれば、『個』の資質の分布は、『正しい』を採択することに重みのなる分布で無ければなりません。そのようなことが云えるのかどうか梅爺は知りません。

『人道主義』の『政治的価値観』『経済的価値観』を肯定するのであれば、『国家』や『企業』は、『なりふり構わず自分の利益を重視する』ということになりかねません。

『都民ファースト』『アメリカ・ファースト』などという政治リーダーが高い支持を受ける背景は、投票者も『人道主義』の価値観に染まっているからなのでしょう。

『パイ』の大きさが一定であれば、『誰かが得をすれば、誰かが損をする』という『ゼロサム』の考え方が成り立ちますが、『誰もが得をする』ことを可能にするためには『パイ』は大きくなり続けなければなりません。

人間社会は、中世まで『ゼロサム』社会でしたが、近世以降『新資源の発見』『科学による問題の解決』『仮想価値の導入』などで、一見『パイ』が大きくなり続けているように見えるようになりました。

しかし、自転車はこぎ続けなければ倒れるように、『パイ』を大きくし続ける行為が、いつまでも可能なのかどうかは不透明です。

『神道主義』から『人道主義』に変わり、現在はその価値観が主流ですが、やがて『人道主義』では立ちいかなくなり、新しい『○○主義』の価値観を受け入れなければならない時が来るのかもしれません。

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2019年8月 5日 (月)

『神道主義』と『人道主義』(5)

『ホモ・デウス』の著者が、『人道主義』の基本的『価値観』として記述する、『政治』『経済』『審美』『倫理』『教育』の『価値観』を眺めてみると、その洞察に感心し、確かにこのような『価値観』が受け入れられていると感じますが、一方、『現実とは異なった無理』があるとも思います。

この『現実とは異なった無理』が、言い換えれば『人道主義』の問題点であろうと思います。

たとえば『政治的価値観』の『選挙民は何が最善かを知っている』という表現は、『褒め殺し』すぎます。梅爺は選挙の時に、自分が投票する候補者が、最善の人物であるなどとは思っていませんし、そのようなことは知る由もありません。

民主的な『選挙』で、統計的に『民意』が示されることは確かですが、『民意』が最善であるなどという保証は何もありません。

イギリスは『EU脱退』を、国民投票による『僅差』で決定し、いざ脱退しようとしましたら、『そう簡単にはいかない』ことが判明して、再度国民投票を行うべきなどという、行き当たりばったりの対応が露呈してしまっています。

アメリカも、『アメリカ第一主義』で、なんでもビジネス同様の『折衝』で解決できると考えている『トランプ大統領』を選んでしまってから、良識ある人々は『これではアメリカが世界で一層孤独になる』と案じています。

とても『選挙民が何が最善かを知っている』などと言えない状況です。

日本でも、『都民ファーストの会』が、都議選で圧勝してみたものの、長続きせず、次の選挙腕も圧勝するなどと、考えている人はいないように見受けられます。

『民意』等というものは、その時の『空気』で、突然膨らんだり、急にしぼんだりする頼りないものに見えます。とても『選挙民は何が最善かを知っている』などと言えません。

しかし、民主的な選挙で、政治リーダーを『選ぶ』という方法を権威づけるためには『選挙民は何が最善かを知っている』という前提が必要になります。

北朝鮮や中国は、『民意』などという危なっかしいものより、『独裁者』『独裁政党』の『見識』の方が、よっぽど効率よく国家運営できるという前提ですから、『民主的な選挙』など、ちゃんちゃらおかしいというのが本音でしょう。

私たちは『民主的な選挙』こそが『正しい』と思い込んでいますが、『正しい』などという保証はどこにもありません。『正しい』は適切な言葉ではなく、『他の方法よりましである』ということでしょう。

しかし、独裁者や独裁政党の『見識』を国民に強い続けると、一部の国民に必ず『不満』が芽生え、やがてその『不満』が、マグマのように寄り集まって、独裁者や独裁政党を脅かす存在になりかねません。人類の歴史は、そのようなことで、独裁者や独裁政党が倒された事例で満ち溢れています。歴史は繰り返すと言うなら、北朝鮮や中国の『恐怖政治』もやがて何らかの終焉を迎えることになるのでしょう。それが、いつ、どのように起こるのかは、今は誰にも分かりません。

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2019年8月 4日 (日)

『神道主義』と『人道主義』(4)

人類が、地球上に出現して以来、変わらず抱え続けてきた大きな問題の一つは、『個』と『全体』の矛盾する『価値観』を、解消する普遍的な方法や知恵を保有していないことです。

生物として『個性的』であることを宿命づけられている『個(個人)』が集まって、『社会(全体)』が形成されました。『個』で生きるよりも『群(社会)』で生きる方が、『個』も『群』も生き残りの可能性が高まるからです。

『社会(全体)』を効率よく維持するためには、『社会』の秩序が必要になり、『個』はその秩序を遵守するよう求められます。しかし、上記のように『個』は『個性的』で、一人一人が異なった『価値観』を保有していますから、この異なった多様な『価値観』と、『社会』の秩序を、どのように両立させるかが難問で、『普遍的に解消する方法や知恵を保有していない』と梅爺が書いたのはこのことです。

手っ取り早く解消したように見せかける方法は、『個の個性的な価値観』などは認めず、『社会(全体)』の秩序だけが『正当』であるとしてしまう方法です。この方法は、『個』に潜在的な『不満』が残りますが、その『不満』がマグマとなって噴出し、『社会』の秩序が破壊されないような体制側の対応策が必要になります。

中世の『神道主義』は、ある意味で実に見事な対応策であったと言えます。『神』だけが『正当』であるとし、『人間』には何が『正当』かを論ずる能力など無いと断じているからです。相手が『人間』なら、反発したくなりますが、『神』では太刀打ちできないと誰もが畏れ入りました。それでも目に見えない『神』の権威を、危うくしないために『神の言葉(価値観)』が記述されている『聖典(聖書など)』を権威の象徴とし,『聖職者』は『神』の言葉を『人間』に伝える代理人としてこれも権威の一部を担ってきました。

『科学』が、この『聖書』の記述内容とは異なった『事実』を次々に明らかにしたために、『神道主義』は揺らぎ始めました。しかし、現在でも『神道主義』を全面的に信ずる人たちや、部分的に信じている人たちは沢山存在しています。

『神道主義』ではない方法で、『全体(社会)』の秩序だけが『正当』であるとする対応策は、過去に『ナチスドイツ』等がありましたが、北朝鮮のような『独裁者国家』、中国のような『一党(共産党)独裁国家』として現在も存在しています。こちらは『聖書』のような絶対的権威の象徴がありませんから、『洗脳政治』『個人崇拝政治』『恐怖政治』で、人々の不満の爆発を抑制しようとしています。

北朝鮮や中国は『神道主義』ではありませんが、日本のような『人道主義』を優先する『民主国家』ではありません。ロシアなどは、『民主主義』を装った『独裁国家的』な色彩を残す国です。

梅爺は、日本が『人道主義』を優先する『民主国家』であることを相対的に『好ましい』と考えていますが、これが、人類の求めてきた『理想』に最も近いものであるかのような幻想は抱いていません。

 

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2019年8月 3日 (土)

『神道主義』と『人道主義』(3)

『物質世界(自然界)』の事象を解明するようになった『科学』は、『物質世界』は、有限の数の素材で構成され、『摂理(法則)』によって、絶えず新しい平衡状態へ移行しようと『変容』しているだけにすぎないことを明らかにしました。その『変容』は、『目的』『理想』『あるべき姿』『意図』とは無縁なものであることも分かってきました。

『物質世界』には『神』の存在や居所を求めることは難しく、事象は『神』の関与なしに起きていることも分かってきました。

そして、『神』と切り離して『人間とは何か、自分は何者か』を思索する風潮が高まりました。『パスカル』『デカルト』『ジャン・ジャック・ルソー』などの思想が、『人道主義』の基盤を形成していき、ついに哲学者の『ニーチェ』は『神は死んだ』と宣言しました。

現代の『人道主義』は、以下の五つの『価値観』を基盤にしていると『ホモ・デウス』の著者は分析しています。

A 政治的価値観 選挙民は何が最善かを知っている
B 経済的価値観 消費者はいつも正しい
C 審美的価値観 鑑賞者が美しいと感ずるものが美しい
D 倫理的価値観 それが良いことだと感じたら、実行してよい
E 教育的価値観 自分で考え判断せよ

もちろん『ホモ・デウス』の著者は、皮肉をこめて上記の五つの『価値観』を提示しています。『人道主義』にも多くの『矛盾』が内在していることは、すぐに気付きます。このような『価値観』で皆が行動すれば、社会の問題は解決されるとも思えません。

『神道主義』が、『神』への『信仰』を基盤としていたのと同じで、『人道主義』も、その考え方に対する『信仰』を基盤にしていると『ホモ・デウス』の著者は言いたいのでしょう。

梅爺流に『人道主義』を観れば、これは『民主主義』『自由経済主義』などと同じく、『個』と『全体』が抱える基本的な矛盾に、対応するために考え出された、一つの『便法』であって、『金科玉条』に『信仰』の対象にするものではないということです。

何度もブログに書いてきたように、人類は『個』と『全体』が抱える基本的な矛盾を、普遍的に解決する方法や知恵は持ち合わせていません。人類が存在する限りこの矛盾は解消できないのではないでしょうか。

『個』と『全体』の問題を考える基盤は、『人間』がどのように生物進化をしてきたかを考えることです。以下がその要件です。

イ 『個』は自分の安泰を希求する本能で行動する(本質的に利己的)
ロ 『個』は、肉体的にも精神的にも、宿命的に個性的である(両親からの多様な遺伝子の偶然組み合わせ継承)。
ハ 『個』は『群(全体)』で生きる方法を選択した(時に利他的に行動することがある)。

個性的な『個』が集まって『群(全体)』を形成して生きるために生ずる『矛盾』が、人類にのしかかってきますが、解決の方法は見当たりません。

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2019年8月 2日 (金)

『神道主義』と『人道主義』(2)

中世の人たちは、『疫病の流行』『飢饉』それに『戦争』までも、背景に人間のはかり知ることができない『神のお考え』が関与していると考え、その原因に自分たちの『信仰』の足りなさが関与していると想像して、それを『罪』として恥じました。隣国との間に、一時の休戦状態があったとしても、相手国がいつまた攻めてきてもおかしくないと人々は考えながら生きていました。つまり『戦争のない世界』などは『信じて』いませんでした。ローマ法王が『神の御意志』を代弁して、『異教徒から聖地エルサレムを奪還せよ』と述べれば、騎士たちは『神の正義』を実現するために『十字軍』に参加しました。

ヒットラー時代の苦い経験があっても、現在のフランス人の大半は、近い将来ドイツが、突然攻め込んでくることなどは『無い』と感じながら生きていますから、中世の人たちとは全く異なった『価値観』で世界を観ていることになります。

中世の人たちも、『人間』である以上、『理解できない事象』の『因果関係』を特定して、『精神世界』の安堵を得ようとする習性は、現代人と同じでしたが、『自分たちが知らないことも神は御存じで、その答は聖典(聖書)に示されている』という考え方を受け入れ、それで安堵を得ようとしました。『天地は神が創造した』という説明以上に納得できる考えは浮かびませんでしたから、誰もがそれを『信じ』ました。『地球は平らなのか、丸いのか』などという議論も、その答えを『旧約聖書』の中の記述に求めようとしました。

私たちは今、『人道主義』を尊重して、それを『あたりまえ』として受け入れていますから、中世の人たちも自分たちと同じと勘違いしがちです。『神道主義』を『あたりまえ』とする自分を想像してみることは難しいからです。

しかし、少数ながら現在でも『神道主義』を最優先する考え方の人たちも存在します。『宗教』の『原理主義者』の人たちです。他の多くの『宗教』の信仰者は、時代の『人道主義』尊重の風潮からも多大な影響を受けて、ある種の『矛盾』を心の中に抱きながら、何とかバランスを取りながら生きていることになります。多くの信仰者も、『原理主義者のテロリズム』を非難する穏健な立場を取ろうとすることからもそれが分かります。

これに関して面白いエピソードが『ホモ・デウス』には紹介されています。エルサレムで『同性愛者が権利を求めるパレード』を行ったときに、もちろん『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』の関係者から、『パレードはやめろ』と反対の声があがりました。『神道主義』の時代なら、反対の理由は明確で、『神は同性愛をお認めになっていない』で済みましたが、現代の『反対表明理由』はそうではなく、『信仰者を不快にする行動はやめろ』というものでした。これは明らかに『他人を不快にする行為は良くない』という『人道主義』の考え方に則ったものです。『同性愛は神が認めない罪』と断ずることを避けて、『私を不快にする権利はあなたにない』という間接的な主張になっているのは、現代社会ではその方が『説得力を持つ』と、感じているからでしょう。

『神道主義』から『人道主義』への転換のきっかけは、『科学』がもたらした知識です。『聖書』に書かれている『物質世界』の事象に関する説明が、『正しいとは言えない』ことが判明し始めたからです。

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2019年8月 1日 (木)

『神道主義』と『人道主義』(1)

『ホモ・デウス』という本を読んでいて、人類の歴史の中で、人々の基本的在認識が、『中世』の『神道主義』から、現代の『人道主義』へと大きく変貌しているという指摘に出会い、色々考えさせられました。

ここでいう『神道(しんどう)主義』という言葉は、梅爺が『人道主義』になぞらえて勝手に使ってみた言葉で、日本古来からの宗教『神道(しんとう)』とは関係ありません。『神道主義』と『人道主義』の対比は、『一神教』が中心的な『宗教』であった地域で特に顕著で、ヨーロッパ、中近東、西アジアなどを例に挙げて説明するのが分かりやすいかもしれません。もちろん現代の『日本』は、先進文明国であり『人道主義』を優先することが『あたりまえ』になっていますが、中世の『日本』は『一神教』の支配下ではありませんでしたので、必ずしも『神道主義』であったとは言えないかもしれません。

これからの話は、『一神教』支配地域のこととして、お読みください。

『神道主義』は、『何が正しいか、何が間違いかは神が決める』『何が美しいか、何が醜いかは神が決める』『神のお考えは全て聖典(聖書など)に書かれている(聖典に書かれていることが正しい)』という基本的な認識のことです。

一方『人道主義』は、『何が正しいか、何が美しいかは、人間が判断することだ』という基本的な認識になります。

『ホモ・デウス』という本では、梅爺のように『物質世界』と『精神世界』の事象に分けて必ずしも論じられていませんが、ここでは梅爺流の表現にあてはめて説明します。

『何が正しいか』を検証する対象は、『物質世界』の事象と『精神世界』の事象の両方があります。現在では前者は『科学や数学による真偽の判定』に類することで、『神』にお伺いを立てなくとも、普遍的、論理的に真偽の判定が可能です。現時点では『因果関係』を説明できない事象もありますが、やがて説明できるようになると科学者は考えます。

『精神世界』の事象として『何が正しいか』や『何が美しいか』を検証する場合には、人間の『精神世界』の抽象的な価値観が問題になり、これには絶対的な尺度はなく、一人一人の価値観も個性的で多様ですから、『物質世界』の事象のように、普遍的、論理的に『判定』はできません。科学者もこの問いには答えることができません。

『君に忠、親に孝という教えは正しい』か、『モーツァルトの音楽は、バッハの音楽より美しい』か、などという例えで考えてみていただければお分かりいただけるでしょう。これに対する『梅爺の考え方』はありますが、それは梅爺の主観であって、普遍的に『正しい』とは言えません。

中世の人たちは、『物質世界』のことも『精神世界』のことも、いっしょくたにして、『神のお考えが正しく、それは聖典に書いてる』と『あたりまえ』に信じて生きていたことになります。

自分の行為で気になることがあれば、聖職者の前で『告白(懺悔)』し、聖職者は『神』の代行者として、明確に『それは罪である』となどと断定し、告白した人も畏れ入ってそれを受け入れました。

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