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2019年7月31日 (水)

江戸の諺『飯蛸(いいだこ)にパッチ履かせる』

江戸の諺『飯蛸(いいだこ)にパッチ履(は)かす』の話です。『パッチ』は長い股引のようなもので、『上方(関西地方)』でよく使われる言葉のような気がします。

『飯蛸』は、比較的小さな『蛸』で、短い足ですから、長い『パッチ』を履かせるのに、または八本足に『パッチ』を履かせるのに『モタモタする』であろうことから、この諺は仕事の要領を得ず、なかなかはかどらないことを意味します。

少なくとも、梅爺はこのような表現をあまり聞いたことがありませんので、現在では使われないもののような気がします。

『要領が悪い』には、『不器用である』ことと『計画性がない』ことの両方があり、少なくとも梅爺は『何をやらせても不器用である』と日ごろ梅婆から云われています。そういう意味では『飯蛸にパッチを履かす』人には、同情したくなります。

それでは、梅爺は『計画性に優れている』かというと、こちらも自信を持って『そうだ』とは言えません。

先のことを『因果関係』で見通すことは、『きらい』ではなく、それは『梅爺閑話』で次々に屁理屈を述べていることでもお分かりいただけると思いますが、一方において『疑い深い』性格でもあり、世の中は『緻密に計画』しても、必ず思わぬ事態が発生して、『計画通り』にはいかないことが多いと、今までの経験で思い込んでいますので、『大雑把な計画』で、済ませて、後は臨機応変に対応することを選びがちです。

しかし、これも弁解がましい云い方で、実際は『ずぼら』であるために、『緻密な計画』に執着しないのかもしれません。

『旅行』をする時も、主要な乗り物の『時刻表』などは事前に参照しますが、細かいことは現地へ行って臨機応変に対応しようとします。その方が『思いもよらない経験』ができ、『旅の楽しみ』は、計画通りに進行するより、この『思わぬ経験』の方に醍醐味があると考えてしまいます。

しかし、梅爺の周囲には、『旅の計画を周到に立てる』ことに執着される方も多く、そう云う方は『計画している時間』も『旅の楽しみの一つ』と主張されますから、人の価値観は多様であると再認識させられます。

『要領がよい』方が、人生では得をする可能性が高いとは思いますが、あまり『要領がよすぎる』と、周囲から敬遠されることもありますので、人生は難しいものです。 

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2019年7月30日 (火)

江戸の諺『からけつ』

江戸の諺『からけつ』の話です。現代でも使う表現で、『無一文』の意味です。

江戸時代は、れっきとした文明社会で、社会は分業で成り立っていましたから、生きるための『必需品』を手に入れるには、『金』が必要であり、『からけつ』は、深刻な事態であったに違いありません。それは、現代も同じで、年金生活の梅爺が、一応『明日の米』の心配をせずに、能天気なブログを書いていたりできるのは、少なくとも『からけつ』ではないという安心感があるからです。

昔『植木等』の『金がない奴は俺ん所へ来い、俺も無いけど心配すんな。見ろよ青い空白い雲、そのうち何とかなるだろう』という内容の歌があって、あまりに現実離れした楽観論に、私たちは笑い転げましたが、自分が『からけつ』のときには、とてもこのようには過ごせません。

人類がいつ頃からモノの価値を『貨幣』に換算して、商取引をするようになったのかは、梅爺も分かっていませんが、一説には古代中国が発祥地と言われています。

地球上の生物で、『貨幣』で価値換算して、取引するのは『人間』だけで、この能力は、高度に進化した人間の『精神世界』が関与しています。

『貨幣すステム』が成り立つためには、抽象的な概念である『価値』を『貨幣』が保有しているということを、関係者が全員『信用』することが前提です。このように誰かが考え出した『抽象概念』の内容を、自分も主観的として共有して受け入れるという習性は、『人間』だけが保有するものです。

『貨幣価値』だけではなく、『神』『国家』なども同様に『主観の共有』が背景にあります。『主観の共有』は、見ず知らずの多数の人たちと価値を共有し、同じベクトルへ向かって行動できる基盤になります。『主観の共有』こそが、人類を地球上最強の生物にした要因です。一億人以上の人間が『日本』という『コミュニティ』で結束できるのはこのためです。

『貨幣』は、関係者の『信用』が前提になりますので、『アレキサンダー大王』や『女王クレオパトラ』の横顔がコインの表面に刻印されました。大王や女王の権勢を誇示するためだけではなく、権威者が『貨幣価値』を保証する意味があったということでしょう。

『貨幣』ができたおかげで、人間は、モノの商取引決済にそれを利用するだけではなく、将来へ備えて『蓄財』するようにもなりました。

現代社会では、私たちは『貨幣』を『投資』にも使います。江戸時代の『経済』は基本的に『ゼロサム・システム』で、世間の『価値』のパイは一定の大きさと考えられていましたから、『誰かが得をすれば、誰かが損をする』システムでした。

しかし、現代の『資本主義』は、『科学』が新しい『リソース(資源)』や『エネルギー』を創出するために、パイが一定ではなく膨張するものという考え方が、現代人の『主観の共有』対象になっています。『誰もが得をする』ことも可能と考えるゆえに、私たちは『投資』をすることになります。

パイはいつまでも膨張するとは限りませんので、その時人類がどう振舞うことになるのでしょう。

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2019年7月29日 (月)

江戸の諺『自腹切る』

江戸の諺『自腹切る』の話です。これも現在でも使われている表現です。自分の金で支払うという意味で、本来負担しなくてもよい経費を支払うというニュアンスがこめられます。

日本には『金は天下の回りもの』という表現もあり、他人のために金を使っておけば、今度は自分が困っているようなときに他人が支払って助けてくれるという『おたがいさま』の考え方が背後にあるのかもしれません。

目先の損得ばかりにとらわれていると、大損をすることにもなるということで、商人には『損して元取れ』と云うような教訓もあります。

イスラム文化圏では、宗教上の教えで『金持ちは貧乏人に施すのが徳』とされていて、貧乏人は施しを受けても特に感謝せず、『当然』と考えるという話を聞いたことがありますが、もし本当なら、『異文化』の典型です。

日本でも『金持ちは貧乏人に施すのが徳』という考え方がありますが、『徳』は神の教えで身に着くとものという考え方はありませんし、施された貧乏人は『感謝』するのが普通です。

強欲な金持ちが、貯めこんだ財産を、『鼠小僧次郎吉』のような義盗が、見事に盗み出して、貧しい人に分け与えるなどという話は、庶民が喝采して受け入れます。外国にも『怪盗ルパン』や『ロビン・フッド』のよう話がありますから、庶民が日ごろのうっぷんを晴らすという点では世界中同じ心情が働くのでしょう。

江戸時代、酒田で米の取引で大もうけをした豪商『本間宗久』がいて、地域のためにも金を使って、庶民からは尊敬されていましたが、当時庶民の間では『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と言いふらされていました。

士農工商の世の中で、『殿様』が本来一番偉いはずですが、庶民は『本当に力を持っているのは本間様』と肌で感じて、このような皮肉たっぷりな言い回しを楽しんでいたのでしょう。こういう日本人の『諧謔精神』は、梅爺の好みです。

『自腹を切る』は、本来『切腹』のことで、こちらは『咎めを受けた』または『戦いに敗れた』武士でも、他人の手によって『処刑される』ことは不名誉なことで、最後は『自ら死ぬ』事を『武士への情け』として自他ともに認める考え方が、当時の日本にありました。本能時の炎に包まれた中で、傍若無人の気質の『織田信長』は、家臣の謀反を呪い、憤ったに違いがありませんが、『これまで』と悟った時には『切腹』して果てています。

諺の『自腹切る』は、これほどの深刻な『美学』とは無縁で、『自分を格好良く見せる』という『見栄』や、『将来の損得を読む』といった『実利』が背後に垣間見えます。

庶民は、武士の『切腹』を『自己満足』と何となく感じて、このような表現を使ったのかもしれません。本当に『腹を切る』のは嫌であるけれども、『身銭を切る』位はできると言いたかったのかもしれません。

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2019年7月28日 (日)

江戸の諺『付焼刃(つけやきば)』

江戸の諺『付焼刃(つけやきば)』の話です。

これは現在も使われる表現です。本来は、『鈍刀』に『鋼(はがね)』の焼刃を付けたものの意味ですが、転じて、一時その場を間に合わせるために、にわかに習い覚えたこと、またはそれで得た知識という意味になります。

つまり『付焼刃』は、長もちせず、イザという時に役に立たないということで、『学ぶ』時には腰を据えて、じっくり重要なことを身につけなさいという教訓になります。

梅爺は学生時代比較的『要領がよい』方で、試験の時だけ『にわか勉強』で切り抜けた記憶がありますから、『付焼刃』は耳が痛い言葉です。

人生は、『その場だけ取り繕ってみても、必ずボロが出る』ということでしょう。分かっていても、つい『手を抜いて』対応し、後で痛い目にあう羽目を繰り返しています。逆に痛い目にあって、初めて『身につく』ことを習得できるともいえます。

梅爺は40歳を超えたころ、突然アメリカの会社と技術折衝する機会が多くなり、それまでの英語が『付焼刃』であることが露呈しました。

恥ずかしい失敗を繰り返しながら、英語の再習得をすることになりました。この経験がなかったら、現在の『英語の本を読む習慣』などは身に付かなかったことになります。

『付焼刃』が露呈することは恥ずかしいことですが、それがきっかけで奮起して、少しは役に立つ技量や知識を得ることができることもありますから、『怪我の功名』にもなるということでしょう。

40歳になってから英語の再特訓をしたことの思わぬ効用を、会社をリタイアして、年金生活をしている現在、享受しています。

一つは、できるだけ辞書を引かずに、英語の本を読むことで、初めて出会う単語の意味を、前後の文脈や、単語の構成要素から『推測』することになります。この事で、日本語の文章を読むのに比べて、数倍の負担が『脳』にかかりますから、知らず知らずに『脳トレーニング』『ボケ防止』になっているような気がしています。

もう一つの効用は、英語の文章表現、イデオムから、『なるほど、英語文化圏の人たちは、こんな表現をするのか』と、日本人との『考え方』『感じ方』の違いを感じとることができることです。

『異文化』を知ることは、現場に赴くことが手っ取り早い方法ですが、梅爺のような年金爺さんでも、家に居ながらにして『異文化』の体験の一部はできることはありがたいことです。

先ず『付焼刃』で対応し、そのうちボロが出て恥ずかしい思いをし、これではならじと気を入れて少しましな技量や知識を増やしていくという繰り返しが、普通の人の人生ではないでしょうか。最初のきっかけは『付焼刃』ですから、『付焼刃』を悪者にする必要は無いように思います。

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2019年7月27日 (土)

江戸の諺『目玉を喰らう』『目玉をやる』

江戸の諺『目玉を喰らう』『目玉をやる』の話です。『目玉を喰らう』は現在でも『お目玉を喰らう』という表現で、『叱られる』意味で使われます。『目玉をやる』はあまり現在では使われませんが、逆の立場の視点で『叱る』という意味で使われていたのでしょう。

『叱る』人は、きつい目つきになりますから、『叱る』と『目』は関係がないわけではありませんが、それにしても『目玉を喰らう』は突飛な表現です。

江戸の庶民は、論理的な因果関係で表現するよりも、突飛な言葉の組み合わせを、『面白い』として受け入れる習性が強かったのでしょう。奇抜な表現を『つじつまが合わない』などと批判するのは『野暮』であり、『面白いじゃねーか』とすんなり受け入れる方が『粋(いき)』であったのでしょう。

人間社会でよく行われる『叱る』という行為の背景を考えてみると、色々なことに気づきます。一般に『叱る』側は『正しい』、『叱られる』側は『間違っている』という関係で私たちは観ますが、世の中の事象には、ほとんど『正しい』『間違い』を普遍的に決める尺度はありませんから、実は『叱る』側の『主観的価値観』を、『叱られる』側に押し付けていることが大半です。

『叱る』人の多くは、自分の『主観的価値観』を『叱られる』人に押し付けているなどとは、少しも思っていませんから、『自分が正しい』と信じて疑っていないことになります。

梅爺がこのように書くと、『そのようなことを云っていたら、何も言えなくなってしまうだろう。大体世の中には明らかに、良いこと、悪いことと区別ができることがあるのだから、悪いことを正すのは当然ではないか』と反論を受けることになりそうです。

梅爺は、『法』『しきたり』『礼儀作法』などは、無意味なものであると言いたいのではありません。その社会が『約束事』として共有していることは、社会の秩序を維持するために必要であることも承知しています。

ただ『約束事』を受け入れるということと、その『約束事』が『正しい』とすることには大きな隔たりがあると言いたいだけです。日本で通用する『約束事』は、外国では通用しないことがあるということを思い浮かべていただけラバ、この隔たりを御理解いただけるでしょう。

私たちが日常多用している『正しい』という表現は、『私はそれが適切であると考え受け入れている』という相対的な価値観にすぎません。この事を弁えていれば、人間関係でいさかいを減らすことができます。

教育の場で、『叱る』べきか『褒める』べきか等という議論がありますが、これは『叱る』という行為が『叱られる』側の『精神世界』に与える影響に関する議論です。『叱られる』側は、『安泰が脅かされた』と感じて、防御的になり、『叱る』側が期待した結果とは逆の結果を招来することにもなるからです。

もちろん、個性も関与しますから『何が正しい』という尺度はありません。『アメ』と『ムチ』を使い分けるという、昔からの知恵に従うしかありません。

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2019年7月26日 (金)

『現実(リアリティ)』という概念の考察(6)

D(主観共有現実)はA(実態現実)の対極ともいえるもので、これを『現実』と呼ぶことに反対される方もおられるでしょう。実際には『虚構』であり実態がありませんが、『信ずる』人は『現実』として受け容れるという、ややこしいものであるからです。

『主観共有現実』の代表例は、『神』『貨幣価値』『国家』等で、いずれも『人間』の『精神世界』が考え出した主観に基づく抽象的な『概念』で、『物質世界(自然界)』の事象のように『実態』があるものではありません。

個人の『主観概念』とは異なり、『主観共有現実』は、昔誰かが『精神世界』で思いついた『概念』を、周囲の人たちも自分の『主観』として受け入れ、人間社会で『共有』しながら継承してきたもの指します。継承を繰り返す中で、『主観共有現実』は、人々の『信ずる』対象に変わり、やがてあたかもそれは『現実』として疑いも無く実在するものであるとして扱われるようになりました。

『神』は『信ずる』人たちにとっては『存在する現実』であり、『一万円札』は、『貨幣価値』を信ずる人たちには、ただの『紙切れ』ではなく、相当の価値と交換できる『存在する現実』であり、『日本』は、国際法を『信ずる』限り、コミュニティの枠組みとして他国から区別できる『存在する現実』となります。

『日本人』も同じく『主観共有現実』に他なりません。歴史的に観れば『日本人』は、約三万年前ごろから日本列島へアジアの各地から移り住んだ『モンゴロイド(ホモ・サピエンスで分類される人類種)』が、更に交雑を繰り返して現代にいたっている『雑種』の末裔にすぎませんが、私たちは『日本人』という特別な区分けを『信じて』それを『存在する現実』として受け入れています。

『主観共有現実』の本質は、それを『信ずる』人たちを『統率(一体化)』する力になることです。現実には『見ず知らず』の人たちが、『神』『貨幣価値』『国家』を受け入れることで、一体意識を持ち、同じベクトルを有する巨大な『コミュニティ』が出現することになります。

『ホモ・サピエンス』はこの『主観共有現実』を保有することで、それ以前の『人類種』や他の生物の『群(コミュニティ)』の規模が『顔見知り』の範囲にとどまっていたことを大きく打ち破り、巨大なメンバー(実際には見ず知らずのメンバー)が、同じベクトルで行動する『集団』に変わりました。

これこそが、地球上で『ホモ・サピエンス』が、最強の生物として現在君臨している真の要因です。

実態のないものを『信ずる』ことで、『共有する現実』に変えてしまう習性こそが、文明を進化させる原動力であったということです。

『憲法』『法』『道徳』『倫理』なども、『主観共有現実』です。観方によってはこれらはコミュニティの『約束事』にすぎませんが、実際には『コミュニティ』のベクトルを同じ方へ向ける力になって作用しています。実際には『見ず知らず』の人たちが、これによって『統率』されています。

歴史的には『主観共有現実』にも流行り廃(すた)りまがあります。古代の『神々』は現在では『信ずる』対象になっていません。もし現代の『神』が将来『信ずる』対象で亡くなった時に、人類は何を新しい『主観共有現実』にするのでしょう。

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2019年7月25日 (木)

『現実(リアリティ)』という概念の考察(5)

『孔子』が弟子の質問(人間にとって一番大切なものは何か)に対して『それ仁』とだけ答えているのは、『孔子』が『言葉』をないがしろにしているからではありません。『孔子』が『仁とはこういうことだ』と追加説明していないところがポイントです。『漢字』は表意文字で、色々な意味が内包されている所が特徴です。『仁』『義』『礼』『智』『信』なども同様です。

弟子が『仁』とは何かを、自分で深く考え、自分の中に自分の価値観を構築することを『孔子』は重要と考えているのでないでしょうか。

『言葉』は『正しく伝える』手段としては限界がありますが、『話し手』の『言葉』が、『聞き手』の『精神世界』の中に、『新しい思想や情感を想起させる(誘発する)』ことに大きな意味があるということではないでしょうか。

日本人の『言葉』に対する考え方も、これに則っているように思います。日本人は『正しく伝えられない』からといって『言葉』をないがしろにはせず、『言葉』によって自分の中に『新しい思想や情感が宿り始める』ことを大切にしてきたように思います。

『俳句』や『和歌』のように、極めて制約された短い言葉の様式で、どれほど『雄大な世界』を相手に想起させることができるかを大切にしてきました。制約された様式であるが故に、それが際立ちます。冗長な表現で、内容を説明的に伝えようとする西欧の詩のスタイルとは考え方が大きく異なります。『俳句』や『和歌』では、詠み手の『精神世界』の内容が『正しく』鑑賞者に伝わるかどうかではなく、『どれだけ広大な世界』を鑑賞者の中に想起させるかが大切なことになります。西欧文化のように『正しく内容を伝える』ことを最重要視していません。『わび』『さび』『粋(いき)』などという表現に対しても、日本人同士は、その言葉の『定義』は何かといった『野暮』な質問はしません。『以心伝心』などという表現も、これに類するものです。

『忖度(そんたく)する』という言葉は、最近は『官僚が上司の考え方を想像して媚びる』というような悪い意味で使われますが、もともとは『他人の心を推測する』ということで、むしろ『思いやり』が背景にあり、悪い意味はありません。

話が大分逸れましたが、『情感現実』は、その本人しか認識できないから『意味がない』ということではなく、むしろそれを他人が『推測』して、想像上の共有をすることに大きな意味があると言いたかっただけです。人間関係で『情感現実』を『想像上の共有』することが『絆の確認』であるということです。『群で生きる』他の生物も『絆の確認』は行っていますが、人間の『絆の確認』レベルは、高度に進化した複雑なものになっています。これがなければ『文明』『文化』の進化は無かったでしょう。

梅爺は、この『現実』にかんするブログの冒頭に、A(実態現実)、B(仮想現実)、C(情感現実)、D(主観共有現実)の4つの区分を提示しました。

C(情感現実)とD(主観共有現実)は、『ホモ・デウス』という本からヒントを得たものです。この本を読まなければ、C,Dは梅爺の認識の中で、『現実』のジャンルとして分類されることはなかったでしょう。

これまでに、A、B,Cについて感想を述べてきました。最後にD(主観共有現実)の感想を述べますが、このDこそが、地球上の哺乳類の中で『人間』を最強の生物にした原動力であることを『ホモ・デウス』という本から学びました。

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2019年7月24日 (水)

『現実(リアリティ)』という概念の考察(4)

『思想』や『情感』を他人に伝える手段として『言葉』は万全なものではないと、人類は何となく気付いたが故に、多様な『芸術』様式が誕生したのであろうと昨日書きました。

しかし西欧の文化は、『理』を重んずる古代ギリシャの哲学の伝統を受け継いでいて、『言葉』は万能であるという思い込みが根強いように梅爺は感じます。確かに、『言葉』なしに『論理』を表現することは困難ですから、『論理』の表現手段である『言葉』は万能であることから敷衍(ふえん)して、そう考えたくなる気持ちは分からないでもありません。

しかし、『理(論理)』と並んで人間の『精神世界』の重要な要素である『情(情感)』を表現する『言葉』は、『抽象概念』であるために、その内容や価値レベルを絶対的な尺度で表現することができません。『苦しい』『悲しい』は、どのような状況かはおおよそ想像できますが、その内容やレベルを、表現者とそれを聴いた人が、厳密に共有しているわけではありません。

『芸術』を鑑賞して、ある人が『感動した』と表現した場合、他人はその『感動』の内容やレベルを想像するしかありません。私も『感動した』と言い返してみても、二人の『精神世界』は同じとは言えません、

キリスト教の『新約聖書ヨハネ伝』の冒頭は、『はじめに言葉あり。言葉は神なりき』です。この深遠な表現の解釈は色々あろうと思いますが、『キリスト教』文化の中で、『言葉』を絶対視、神聖視する考え方が継承されている原因がここにもあるように思います。

『言葉は神』『神は万能』ゆえに『言葉は万能』という三段論法が派生する背景がここにありそうです。

日本には、古来『言霊(ことだま)』という表現があり、『言葉に霊が宿る』と考えられてきました。しかし、これは全ての自然事象に『霊』が宿るという『アミニズム』から派生した考え方で、キリスト教の『言葉は神なりき』という考え方とは大きく異なります。『言霊』は、『呪いの言葉を繰り返すことで、相手を呪い殺すことができる、言葉に霊があるからだ』というような場合に引用されます。日本人は『縁起の悪いことは口にするな』という言い伝えで、これを踏襲してきました。

梅爺は、日本文化の背景を詳しく学んだことがありませんが、個人的な『感覚』では、日本人は『言葉で伝えることができることには限界がある』という考え方を共有してきたように思います。西欧人にとって日本文化を理解することが難しい一つの要因ではないでしょうか。

この考え方の背景が、大陸(中国)経由でもたらされたものであるのかどうか知りませんが、もしそうであるとしたら、『東アジア』に共通する文化基盤なのかもしれません。『孔子』が弟子から『人間にとって一番重要なことは何ですか』という質問を受けた時に『それ仁(じん)』と答えています。これで弟子が納得するのであれば、中国にも『言葉で伝えることができることは限界がある』という考え方があるということになりそうです。

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2019年7月23日 (火)

『現実(リアリティ)』という概念の考察(3)

『情感現実』は、本人しか体験できない『現実』ですから、人類はこれを他人に伝える方法に苦心してきました。

自分の存在を『群(コミュニティ)』の中で他人に認識してもらうことは、『群れをなして生きる』ことを、生き残りの可能性を高める方法として選択した人類にとっては、重要なことで、『絆の確認』は現代の私たちにとっても、本能的に大切にしようとする習性として継承しています。『安泰を希求する本能』を保有する生物種としての『人間』が、『群で生きる』ことを選択したが故に派生的に獲得した本能が『絆の確認(重視)』です。

『情感現実』を何とか他人に伝えようと、人類は『言語』の中に、多くの『抽象概念』を表現する『言葉』を創りだし組み込んで、その『言葉』を仲介にして、他人の『情感現実』を、自分の過去の『情感現実』体験と照らし合わせることで、想像し、共有しようとしてきました。

他人が『苦しい』『悲しい』という言葉で『情感現実』を表現した時には、自分の過去の『苦しい』『悲しい』体験を想起して、想像上の共感を行います。しかし、厳密にいえば、同じ度合いや内容を共有しているわけではありません。

この想像上の共感で、『絆の確認』を行うという、特殊な習性が人類の歴史や文明の進化を考える上で重要な意味を持ちます。

人間は自分の『情感現実』を何とか表現して他人に理解してほしいという本能的な欲求を有すると同時に、他人の『情感現実』を自分の『情感現実』に置き換えて理解することにも興味を抱きます。そのことが群の中で、自分の存在を確認することにつながるからです。『絆の共有』ができているということを確認して、安堵するわけで、これも『安泰を希求する本能』が根底にあるからです。

この人間の習性が『芸術』を生み出しました。『何故人間は芸術を必要とするのか』という問いに対する答がここにあります。『芸術』は創作者と鑑賞者の『絆の確認』で成り立っています。創作者は自分の『情感現実』を表現するために、ある時は『言葉』を、ある時は『音』を、ある時は『絵』や『造形』を、ある時は『顔の表情』や『体のしぐさ』を、そしてある時はそれらを総合的に駆使する方法を選択しました。『文学』『音楽』『絵画・彫刻』『舞踊』『演劇』『映画』『オペラ』等の芸術様式がそれに対応して出現しました。

『情感現実』を表現するのに、『言葉』は有力な手段ですが、『言葉』だけで全ては表現できないと人類は気付いたからにほかなりません。

自分が『考えていること』『感じていること』を表現するのに『言葉』は有力な手段ですが、『言葉』なら、なんでも伝えられるわけではありません。

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2019年7月22日 (月)

『現実(リアリティ)』という概念の考察(2)

Bの『仮想現実』は、科学技術が生み出した人工的な『現実』です。したがって、人間がいない世界には『仮想現実』は存在しません。

梅爺は、我が家のテレビで、『野球中継』『サッカー中継』を楽しんで観ています。この場合のテレビ画面に映し出されている映像は、野球場、サッカー競技場で現在進行している試合の様子ですが、観ている梅爺はその内容を『実態現実』に置き換えて認識していることになります。電波で送られてきた情報をテレビが映像に変換して提示しているだけで、映像は『仮想現実』にすぎませんが、観ている梅爺の『精神世界』はこれを『実態現実』として受け入れます。

最近では、『昔の江戸城の内部』や『人間の血管網の内部』などを、3Dのコンピュータ・グラフィックで再現し、それを私たちは『ゴーグル』という特殊メガネで観ながら、内部を仮想体験で動き回って、『その場にいるような体験』をすることもできるようになりました。

これも高度な『実態現実』の疑似体験で、『仮想現実』と言えるものです。飛行機の『操縦シュミレーション装置』なども『仮想現実』といえるでしょう。

一般論でいえば、『実態現実』の現場に居合わせなくとも、それを体験できるという素晴らしい技術で、『娯楽』分野だけではなく、『医学』『建築』など多くの分野で更に利用されるようになると思います。

しかし、『仮想現実』はあくまでも『実態現実』の疑似体験であり、必ずしも全てが忠実に再現されるとは限らないうえに、意図的に誤認させるための情報操作が介入しないとは限りませんので、『仮想現実』を『実態現実』であると鵜のみにすることには危険がないとは言えません。

『仮想現実』のもつ限界や、誤認という危険性を常に意識しながら、これに対応することはやさしいことではありません。独裁的リーダーが、『仮想現実』を民衆洗脳の手段として悪用するような事態も無いとは言えません。現に、中国や北朝鮮では、独裁政党、独裁者にとって都合の悪い情報や映像は、テレビで事前に検閲されて放映されません。

Cの『情感現実』は、私たちが肉体の五感で感じた感覚、『精神世界』が生み出す情感のことで、『実態現実』『仮想現実』とは、かなり趣が異なります。

肉体的な苦痛、精神的な苦痛まどがそれに当たりますが、『情感現実』は、本人だけが確かに体験している『現実』で、他人は間接的に想像はできますが、体験している本人と同じ『現実』は論理的には体験ができません。

テレビの料理番組で、料理を食べたレポーターが、言葉を尽くしてその『味覚,食覚』を視聴者に伝えようとしますが、レポーターの感じている『現実』は伝わらないのはそのためです。

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2019年7月21日 (日)

『現実(リアリティ)』という概念の考察(1)

私たちは普段『現実(リアリティ)』という言葉を、何気なく多用しています。『ホモ・デウス』という本を読んでいて、実は『現実(リアルティ)』は、人間の精神世界、人類の文化の進化に深くかかわる重要な概念であることを再認識しました。

『現実(リアリティ)』は、以下の概念のいずれかに当てはまります。

A 『実態現実』・・『物質世界(自然界)』に存在する実態ある事象
B 『仮想現実』・・『実態現実』を人工的な映像などで仮想体験できるようにしたもの
C 『情感現実』・・主観的に体験する感覚、情感
D 『主観共有現実』・・人間社会が共有する虚構実態(神、貨幣価値、国家など)

Aの『実態現実』には、『太陽』『地球』『月』『山』『川』『雨』『風』などといった、自然界の事象と、『車』『コンピュータ』『爆弾』などといった人間が科学知識を応用した技術で創出した人工的な事象の二つがあります。前者は、人間が地球上に存在するかしないかとは無関係に存在する事象ですが、後者は人間が存在する世界だけに存在する事象です。いずれにしても『実態現実』は、『物質世界』に存在する限定された素材だけで構成され、同じく『物質世界』に存在する『摂理(法則)』だけの支配で成り立っています。もちろん私たちの存在も『生物』として観れば、『物質世界』に属する『実態現実』です。

『実態現実』は、時に私たちに『恵み』『利便性』を供するものでもあり、時に私たちの存在を危うくする『災害』『危害』ともなります。

古代の人類にとって『実態現実』は、『摩訶不思議な事象』であり、その背後で事象を司る何者かが存在すると推測し、『神(神々)』という概念を考え出しました。『アミニズム』は典型的な例ですが、近代の洗練された『宗教』にもこの考え方が継承されています。

近世以降、人類の科学知識が一気に増え、『実態現実』の『因果関係』の多くは科学で普遍的、論理的に説明できるようになりました。それどころか、前述のように、科学技術を駆使して自然界には存在しなかった人工的な『実態現実』を多数創りだし、生活環境を便利・快適なものに変えつつあります。しかし人工的な『実態現実』の一部は、『核兵器』のように皮肉なことに人類を破滅に導きかねないものにもなっています。

科学が説明する『実態現実』と、従来『宗教』が用いてきた説明とは、大きく食い違うことが明らかになり、その意味では現代人の『宗教離れ』が始まっているように見えます。『ビッグ・バン』と『天地創造』、『生物進化』と『アダムとイヴの物語』などがその例です。

しかし、『宗教』の本質は、後で説明するDの『主観共有現実』と関連があり、『実態現実』だけで『宗教』を、不条理とするのは早計過ぎます。

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2019年7月20日 (土)

不確かなことを洞察できない社会の危険(4)

現在私たちが危惧すべき問題は、『科学』が『自然な人間』を『人工的な人間』に変えることを可能にするレベルに達しつつあることです。

『人工的な人間』とは以下のような『人間』のことです。

A 遺伝子操作で生まれつきの遺伝子構造を変えた人間
B 人工的な道具を体内に組み込んだり、体に装着して、能力アップした人間

Aは、従来不治とされてきた難病を治癒できる方法として、注目されていますが、その域を超えて、健常者が自分の『短所』を矯正するために利用し始めたりすると、個性的な『自然な人間』で構成されていた『人間社会』バランスが崩壊することになります。『自然な人間』では、『体格』『知能』『運動能力』がばらついていて、少数の『優れた学者』『優れたスポーツ選手』が貴重な存在でしたが、誰もが一律の能力を保有するようになると、従来『人間社会』で『あたりまえ』とされてきたことが、根底から覆ることになります。

美容整形で、誰もが同じような美男美女の顔を保有している『人間社会』を想像していただければ、その異常さが御理解いただけるでしょう。『短所を矯正する権利は誰にでもある』などと皆が主張し始めたらどうなるのでしょう。

Bは、『コンピュータ(AI)』『人工臓器』『人工四肢』などを組み込んだり装着したりした人間でSF(science fiction)では『サイボーグ』と呼ばれる『人間』と『道具』が合体したものです。

私たちは既に、『メガネ』『補聴器』『心臓ペースメーカー』『人工骨』などを利用することで、『自然な人間』の能力を補っていますが、『サイボーグ』は極端にそのレベルが進化した状態になります。問題は、自然な能力の補強ではなく、『自然な人間』の能力をはるかに超えた、人工的な増強された能力レベルが実現することです。

人間の欲望を満たすことにはなるのかもしれませんが、このような『サイボーグ』で構成される『人間社会』も、従来の考え方が通用しなくなります。特に『AI』で補強された『脳』は、昨日も書いたように、『判断』『価値観』の違いをもたらしますから、何やら恐ろしいことが起こりそうな予感がします。

A,Bに更に『ロボット』が加わった、次世代の『人工的な人間』で構成される社会は、さらなる『進化』で繁栄をもたらすのか、それとも人類を絶滅に追いやるのかは、想像するしかありませんが、梅爺は、保守的な人間なのでいやな予感がします。

このエッセイの著者は『不確かなことを洞察できない社会の危険』を指摘していますが、現状の『人間』は『不確かなことの全てを洞察する能力』は宿命的に保有していませんから、歴史的に人間の社会は、いつも必然的に『危険』と隣り合わせでした。

残念ながら、この『危険』を解消する能力も、現状の『人間』は保有していません。『賢者』が『愚者』を『啓蒙すべき』などという提言は皮相すぎるような気がします。

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2019年7月19日 (金)

不確かなことを洞察できない社会の危険(3)

『物質世界(自然界)』の事象の一部は、その事象に影響を及ぼす要因の数が少なく、その要因にかかわる『摂理(法則)』の数も限定されますので、先行き何が起こるかをかなり正確に予測できます。その他の大半の事象は、一般論としてあることが起こると断言できても、それが『いつ』『どのように』起こるのかは正確に予測ができません。その事象に影響を及ぼす要因の数が多くなるためです。『太陽は燃え尽きる』ことは確かですが、それが『いつ』かは正確に特定できません(大雑把にいえば約50億年後です)。『南海トラフ』に沿って『大地震(東海地震)』が起こることは確かですが、それが『いつ』『どこ』で『どのような規模』になるかは正確には特定できません。私たちもいつかは必ず『死ぬ』ことは明らかですが、『いつ』『どのように』は分かりません。

このように多数の複雑な要因が関与する『変容』を、科学者は『複雑系システム』と呼んでいます。

人間の『精神世界』の『価値観』が絡む、『人間社会』の事象は、『物質世界』の事象に比べて、更に格段に複雑になります。自分の先行きのこととして『進学校』『就職先』『結婚相手』をどのように選べば、自分の将来を最大限に幸せにできるかなどは、誰も事前に予測できません。皮肉なことに『いい加減な選択』をして『成功』する人もいれば、『慎重な選択』をして『失敗』する人もいます。将来の『最大限の幸せ』は、自分の『能力』や『努力』とは無関係に、外部から与えられると勘違いしたりする人も少なくありません。そのような人は、結果がうまくいかないときは、責任を他人のせいにして非難します。

つまり『人間社会』の事象は、大半が『複雑系システム』で、『政治』も『経済』も、人間の価値観による判断が関与していますから、先行きは正確に『読めない』事象になります。

言い換えると人間の能力では、多数の複雑な要素が絡む事象の『変容』を正確に『読む』ことはできません。『賢い人』でもそれは『読めません』。

人間には無理なこの『変容』の予測を、『スーパーコンピュータ』にやらせればできるかもしれないという期待があります。要因が全体に与える影響を数学モデルの『アルゴリズム』としてプログラムし、多くの要因をインプットすれば、『スーパーコンピュータ』は、人間には対応できない速さでこれを計算し、『結果』を導き出しますから、これをもって『予測』としたらどうだろうという考え方です。『シュミレーション』の高度な応用になり、『AI(人工知能)』の一つの形態になります。

もしこのようなことが実現すると、人間は人間以上の能力を保有する『道具』を創りだすことになります。しかし、一方でこの事は『判断』を、『道具』に頼るということになり、それが『人間社会』を利するかどうかは、別の問題として洞察する必要に迫られます。この『洞察』さえも『AI』で行うことになれば、人間は自分で創りだした『道具』を『神』のように敬い、『道具』の『判断』に従順に従う生物になりさがってしまいます。 

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2019年7月18日 (木)

不確かなことを洞察できない社会の危険(2)

このエッセイの著者は、『不確かなことがもたらす結果について洞察できる能力が高いのは、科学者や技術者である』として、この人たちが、近視眼的な『政治家』や『大衆』を啓蒙することが重要と述べています。

しかし、問題はそれほど単純なものではないように梅爺は思います。これで問題が解決するとはとても思えません。理由は二つあります。

一つは、昨日も書いたように、『人間社会』の『少数派』が『多数派』の考え方を変える(啓蒙する)というような事態は現実には起こりにくいからです。

『梅爺閑話』で、梅爺は自分では矛盾が少ないと考える『因果関係』を『仮説』としていくつか提示してきましたが、梅爺が期待するほど多くの方から『同意』が得られることはありません。『変な爺さんが変な屁理屈を述べている』『なぜそのようなことにこだわるのか分からない』『難しすぎて興味が持てない』などと評されることの方が大半です。つまり『自分の考え方を他人にわかってもらう』ことはやさしいことではありません。

梅爺は、自分の『心象を書き残す』ことを目的にブログを書いていて、『読者を啓蒙しよう』などと大それたことは意図していませんので、能天気に自分のスタイルを貫いています。

二つ目の理由としては、梅爺は『不確かなことがもたらす結果について洞察できる能力が高いのは科学者や技術者である』というこのエッセイの著者の主張にも、必ずしも同意できません。

このエッセイの著者は、『物質世界』の事象と、人間の『精神世界』の価値観が絡む人間社会の事象の違いを理解していないように思うからです。

確かに『物質世界』の事象は、『摂理(自然の法則)』に支配されていますから、小惑星『竜王』に探査機『はやぶさ2』を到着させるには、どのような軌道をとればよいかなどは、かなり正確に予測でき、予測通りに到達できました。このようなことに関して科学者や技術者の予測能力は高いとは言えますが、科学者や技術者といえども、無数の複雑な要因が絡む事象は、正確に予測できません。地震や火山の爆発がいつ起きるかについてや、ある特定場所の1週間後の天気予報を言い当てることはできません。

いわんや、人間の『精神世界』の価値観が絡む人間社会の事象は、科学者や技術者を含め、誰も正確には予測できません。

比較的単純なルールや、要素で構成される『スポーツ』の試合結果さえも、誰も正確には予測できないが故に、逆に『筋書きのないドラマ』に惹かれて多くの観客が押し寄せます。

『人間社会』は先行き大きな問題につながるかもしれない沢山の『不確かなこと』を抱えていますが、それがいつどのような形で襲ってくるかは、論理的には誰も正確に言い当てることはできません。厳然たる『人間の能力の限界』がそこに存在するからです。賢い人の洞察に従えば、この問題が解決できるというような単純な話ではありません。

人間のこの『弱点』をなんとなく感知した古代の人たちは、問題を克服でできる存在として『神』という概念を考え出したのではないでしょうか。自分にない能力を『神』に託したことになります。『神のみぞ知る』という表現はこうして生まれました。 

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2019年7月17日 (水)

不確かなことを洞察できない社会の危険(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の92番目のタイトルは『Society’s Parlous Inability to Reason about Uncertainty(不確かなことを洞察する能力を欠いた危険な社会)』で著者は、『老化』の医学的研究者である『Aubery De Grey』です。

このエッセイの著者が危惧していることは、『近視眼的に物事を判断し、対応しようとする』人間の一般的な習性です。

私たちは、『よくわからないこと』『なんとなく不安なこと』に感づいたとしても、『当面大きな問題ではない』と考えて、対応をしないか、対応を後回しにしようとします。損得がはっきりしている目先のことを優先して行動します。

この人間の習性は、『生物進化』の過程で保有するようになったもので、生き延びる可能性を高めるために、目の前の事象が、自分にとって都合がよいものか悪いものかを即座に判断し、『逃げる』『闘う』『無視する』などの行動選択を優先してきたからであるというような趣旨のことをエッセイの著者は述べています。

遠い将来を見越して、今有益な手を打つというようなことを人間が苦手にするのは、『生物進化』の中で獲得してきた『近視眼的な対応能力』が優先されるからであるということなのでしょう。

当面『わからないこと』を放置すると、やがてその『わからないこと』が累積して、突然『不都合な事態』になって襲ってくることがあります。

『自覚症状がないのに、ガンが進行していると宣告される』ことがあったり、社会的には『突然バブル経済がはじける』などということが起こったりします。

世の中には、『今これを放置すると、やがて重大な問題が発生する』と洞察し、『警鐘』を鳴らす人がいないわけではありませんが、それは極めて少数派であり、大衆が多数派である人間社会では、相手にされません。

大半の『政治家』も、次の選挙でまた当選することが最優先関心事で、目先のことを優先する大衆の世論に従いますから、少数派の『警鐘』などには耳を傾けません。『警鐘』の本質を理解する教養さえも持ち合わせていない『政治家』も少なくありません。

そのくせ、問題が起きた後では、大衆は『こんなことになるまで放置していた責任』を誰か他人に転嫁して、非難しようとします。

『東日本大震災』の不幸な『福島原発事故』が起きた後の、『政府』のドタバタ対応は苦い思い出です。大衆は『私たちは、原発は安全と聞かされていた。騙された』とこぞって叫びました。

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2019年7月16日 (火)

江戸の諺『山を張る』

江戸の諺『山を張る』の話です。現在でも使われている表現で、万に一つの僥倖を狙って試みることを意味します。試験問題に狙いをつけて、そこだけ勉強して臨む、野球の打者が投手の球種をこうと決めつけて臨むといった時に使われます。『山』は『たくらみ』『もくろみ』といった意味ですが、元は『鉱山』のことで、金や銀といった貴金属の鉱脈の存在を経験や勘でみつける職業を『山師』と言いました。失敗のリスクも多いしごとですから、『山師』は『かけごとをする人』『詐欺師』のような意味にも転じていきました。

『山を張る』に似た表現で『一か八か』があります。こちらは賭博のニュアンスがあります。

人間は残念ながら『先のこと』を正確に見通す能力がありません。世の中のことには、必ず『正しい答』があり、ただ自分はそれを『知らない』だけだと考えておられる方が、意外に多いことに梅爺は時折戸惑います。『専門家に聞く』『参考書を調べる』などに頼って、手っ取り早く『答』を入手しようとしますが、たいていうまくはいきません。

梅爺は『先を予測する』ことは無意味だと言っているのではありません。知識や知恵を総動員して、『先を予測する』ことは、可能性の幅を絞ることになり、行き当たりばったりで対応するより、『うまくいく』確率が高いことは間違いありません。このような高度な推論能力は生物の中で『人間』だけが保有するもののように見えます。

『先を予測する』ことにおいては、『自分で考える』ことが重要な要素で、自分は思考を放棄して、『専門家』『参考書』にアンチョコに頼るのはいかがなものかと申し上げたいだけです。『自分で考えた』ことは、自分で責任を負うというのも当然です。

『物質世界(自然界)』の事象は、『摂理(法則)』を利用して、かなり正確に『予測』できることがありますが、人間社会の事象は、人間の『精神世界』の価値観が絡み、これは『個性的』ですから、『予測』は至難の業です。何が『正しい』かは『分からない』ことになります。

『私の価値観では、これが正しいと思う』という表現と、『これは普遍的に正しい』という表現は大きく異なります。前者は、自分の立場を他人に分かってもらうために、必要な主張ですが、『私は正しい、あなたは間違い』という後者の意味で主張することは慎重であるべきです。

人間は、多かれ少なかれ『山を張り』ながら生きています。『山』があたる確率は万に一つですから、大概は落胆する羽目になりますが、それでもまた懲りずに『山を張り』ます。常に『安泰を希求する本能』が働いているからです。『一山当てた』状態を最大の『安泰』と夢想するからです。

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2019年7月15日 (月)

江戸の諺『御幣(ごへい)かつぎ』

江戸の諺『御幣(ごへい)かつぎ』の話です。『縁起を担ぐ』というような意味です。

『御幣』は、神主さんが邪気のお祓いをする時に用いる、白紙、または金銀・五色の紙を幣串にはさんだ道具です。西欧の魔法使いが振り回す『魔法のスティック(棒)』のようなもので、世界中の色々な『宗教』には、必ずこのような邪気を払う道具や、儀式が存在します。

古代の人たちは、自分に都合の悪いことが起きるのは、『邪気』『霊のたたり』『神の怒り』によるものと『因果関係』を推測し、シャーマンや神官は、『邪気払い』を権威づけて見せるために、『専用の道具』『特定の儀式』を考え出したのでしょう。

中には『邪気は本当に存在するのか』『こんなことで邪気は本当に祓えるのか』と理性で疑う人もいたかもしれませんが、大半の人たちが、それを『信じて』、やがてはそれがコミュニティが共有する『主観(価値観)』となって、コミュニティに強固に根付くことになりました。

科学革命が急速に進行する現在の日本でも、『事始め』には必ず『お祓い』をしてもらうという風習が継承されていますから、『主観の共有』の慣性がいかに強固なものであるかが分かります。

『科学』の世界は、『客観の共有』で成り立っていますが、『人間社会』ではこれに加えて『主観の共有』が重要な役割を演じています。

『神』『貨幣』『国家』『会社』などというものが『主観の共有』の代表的な例です。いずれも、最初は誰かが思いついた、『仮想の実態』ですが、やがてそれを多くの人が『信じて』、『現実の実態』のように受け入れることになりました。それどころか『現実の実態』として逆に『人間社会』に強い影響を与えるようになりました。

『主観の共有』が無ければ、何万人、何百万人といった見知らぬ人たちで構成される『コミュニティ』が同じ価値観で行動することなどできませんから、この『主観の共有』こそが、人類を地球上でもっとも優勢な生物にした原因と言えます。

江戸の庶民が、『あいつは御幣担ぎだ』という時には、『信心深い奴だ』と褒めているのではなく、『なんでも縁起のせいにして、責任逃れをする』といった嘲笑の対象になっているように感じられます。庶民は『主観の共有』を『信じ』ながら、心のどこかで『疑って』いたのかもしれません。梅爺は、その方が健全であると感じます。

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2019年7月14日 (日)

江戸の諺『雷婆々(かみなりばば)』

江戸の諺『雷婆々(かみなりばば)』の話です。

『雷婆々』は、口やかましくガミガミいう老婆のことで、現在では『雷親父』の方がよく使われ、こちらはすぐに怒り散らすこわい親父のことです。『雷』と、『女』と『男』の組み合わせで、微妙なニュアンスの違い表現されているところが面白いと感じます。

『雷婆々』は、昨日紹介した『耳はたこ』の『話し手』にあたるもので、口やかましくガミガミ云うということは、自分の価値観を強く主張することに他なりません。

誰もが感じ入る御高説をこの『婆さん』はたれているのではなく、『些細なこと』『どうでもよいこと』『あたりまえなこと』をガミガミ繰り返している様子が目に浮かびます。

『自分のことは棚に上げて、大声で口うるさくガミガミ云い続ける婆さんが世の中にはいますなぁ。あれにはほとほとまいりますなぁ』という江戸庶民の笑いが込められています。

江戸の庶民は、『雷』の正体を、現代人のようには理解していませんでした。『俵屋宗達』の有名な『風神雷神図』に描かれているように、天空に『風』『雷』を司る『神』がいると信じていたことになります。『臍』を出していると『雷』が取りに来るなどという話も一般に流布していました。

『雷婆々』などと、少し蔑む意味を込めた比喩に、『神(雷神)』を使うところが、日本らしいところです。『アミニズム』の『宗教』感覚を強く継承している日本人は、『神々』を自分たちに身近な存在として、人間的な親しみを持って接する所があり、『妖怪』も恐ろしいものというより愛きょうのなるものとして受け入れます。

『ゲゲゲの鬼太郎』『ドラエモン』『ピカチュウ』などという日本発のアニメが、外国の人たちに新鮮に見えるのは、人間と『妖怪』の関係が日本独特の表現となっているからです。外国でも『アミニズム』の名残として『妖精』がありますが、『妖精』は日本の『妖怪』のよに人間臭さはあまりありません。

教養の高い人に『雷婆々』や『雷親父』はあまりいません。教養を高めることは、自分とは異なった『価値観』が世の中にはたくさんあることを『知る』ことすから、自分は『正しい』と主張することに慎重になります。

『雷婆々』『雷親父』は愛嬌がありますが、こういう人たちばかりでは世の中は収まりません。

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2019年7月13日 (土)

江戸の諺『耳はたこ』

江戸の諺『耳はたこ』の話です。

現在でも『耳にたこができる』というような表現で継承されています。何度も同じ話を聞かされるという意味で、『わずらわしい』『いい加減飽き飽きする』という反発の情感が込められています。

前にも書きましたが、日本の『諺』には日本独特の『諧謔』の精神が込められていることが多く、人の意表をついた突飛な表現、言葉の組み合わせが多いように梅爺は感じます。

『耳にたこができる』『眼から鱗が落ちる』などもとその部類に入ります。

西欧の諺は、論理的に説得しようとしますが、日本の諺は、表現がもたらす情感の妙を楽しむところがあります。現実に『耳』が『たこ』になったり、『眼』から『鱗』が落ちることはないのですが、日本人の情感では『云いえて妙』と受け止め、そのような比喩は『粋』であるとして庶民は喝采してうけいれたのでしょう。

『耳はたこ』の裏側には、『話し手』と『聞き手』の価値観の違いが垣間見えて、そのことにこの諺の本質があるように感じます。

『話し手』は、絶対譲れない、我慢が出来ないと感じて、何度も何度も同じことを繰り返すのですが、『聞き手』にとっては、それはどうでもよい、気にならないことで、『馬耳東風』と受け流している様子が目に浮かびます。

梅爺も結婚以来梅婆から、『家の中でも身だしなみはちゃんとしてください』と繰り返し言われ続けてきましたが、今でもまだ言われますから、梅爺の『身だしなみ』は、梅婆の合格点に達していないのでしょう。梅爺は、わざと『身だしなみ』に無頓着であるのではなく、それを最優先と思わないという価値観が無意識に働いているにすぎません。

何度も書いてきたように、『人間』は、容姿も考え方、感じ方も『個性的』であるように、運命づけられていますから、自分の『価値観』を表明することは当然重要なことですが、『私が正しい』『あなたは間違い』と主張して、相手が『間違い』を改めるまでは、同じことを繰り返すとなると、事態は解決に向かうどころか、もつれることになります。『耳にたこ』ができるほど繰り返しても効果はさほどありません。

江戸の庶民は、このような人間関係の妙を、感じ取って『耳はたこ』といっていたのではないでしょうか。

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2019年7月12日 (金)

江戸の諺『二十歳後家は立つ』『三十後家は立たず』

江戸の諺『二十歳(はたち)後家)は立つ』『三十後家は立たず』の話です。

『立つ』は『操を通す』という意味で、これは、人間の『性』に関する少々生臭い内容です。

『二十歳(はたち)』で夫に先立たれた嫁は、夫婦生活の経験が浅く、『性』の奥深さをあまり知らないので、その後一生操を守って後家を通すことができますが、『三十歳』で夫に先立たれた嫁は、『性』の味を知ってしまっている故に、後家は通せないという、まじめな人が聞いたら眉をしかめそうな話です。

『人間』も、基盤は『生物』ですから、『安泰を希求する本能』に支配されていて、自分にとって都合のよい状態を優先しますので、『理性』による抑制が働かないと、『欲望』が暴走しがちです。『釈迦』はこれを『煩悩』と呼びました。

『食欲』『性欲』などは、『生きる』『子孫を残す』という『生物』にとっては、最大の『安泰』につながるものですから、『欲望』も強く、状況によっては抑制が効かないことになりかねません。

『人間社会』では、これを完全に否定はできないまでも、『法律』『道徳』『倫理』などでこれを野放しにしないように、『約束事』として共有してきました。『宗教』の教えもこれに深く関与してきました。

『道徳』『倫理』がいくら『きれいごと』を説いても、庶民は『人間』の本質を鋭く嗅ぎ取る感性を保有していますので、この諺のように、こっそり『笑い飛ばして』しまうことになります。

『性』は多くの人間社会で『秘め事』の部類に属する扱いになっていますが、庶民はしたたかに、陰でこれを好んで話題にしたり、笑い飛ばしたりしてきました。

世界の各地に、それぞれ『性に関するジョーク』は継承されています。

そういう意味で、江戸は健全な人間社会であったと言えそうです。

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2019年7月11日 (木)

『魂(Soul)』について(4)

『脳(物質世界に属する)』と『心(精神世界に属する)』は『地続き』であると、梅爺は今までブログに書いてきましたが、その関係をもう少し詳しく説明すると以下のようになります。

『脳』は『情報処理器官』であり、情報処理は、『脳神経細胞ネットワーク』に流れる『電子信号』を利用して行われます。『電子信号』を利用するという点では『コンピュータ』と同じです。両者ともに、基本的に自然界の物理法則だけを利用しています。もちろん自然界の物理現象ですから、駆動源として『エネルギー』を必要とすることも同じです。『脳』では血流とともにもたらされる『酸素』が『エネルギー』生成に必要で、これが絶たれれば『脳』は機能不能になります。『コンピュータ』も電気エネルギーが絶たれれば機能不能になります。

情報処理の結果に対応して、『脳』内で『ホルモン』が生成され、これが血流と一緒に全身にいきわたります。この『ホルモン』を感知(化学反応)して『脳』は『心』が『情感』と呼んでいる状態を作り出します。『脳』ばかりではなく、『心臓』は鼓動を早めたり、『肌』は発汗量を増やしたりもします。『逆毛立つ』『鳥肌立つ』などという現象はこのようにして生じます。

問題は、最初の情報処理は何をきっかけに始まるのかということですが、一つは人間が外部情報を感覚器官で把握したことをきっかけ(トリガー)とします。もう一つは、外部情報に頼らない、『脳』内で自発的に発生するきっかけが存在すると推測できます。後者の正体は、まだよくわかっていませんが、これがあるために、私たちは『突然アイデアがひらめく』『睡眠中に夢を観る』などを体験するのではないかと梅爺は思います。

このように考えると、『心(精神世界)』は先行する『脳(物質世界)』の情報処理の結果が創りだす『ホルモン』を脳内で感知した『結果』として生ずるということになります。

『心』が『ホルモン』を分泌させるのではなく、『ホルモン』が『心』を生み出しているということになります。

『心』は肉体と独立に存在しているのではなく、『脳』が『心』を生み出しているという、『地続き』のカラクリがこれで少し明らかになりました。

人間の『死』で、『心(精神世界)』は機能しなくなり『無に帰す』という、多くの方が受け入れることに抵抗を示すことが、残念ながら『事実』であろうと梅爺が考える所以です。

『宗教』が説く『魂』は、『虚構』であると言われても異論はありませんが、『心』は、『物質世界(肉体、脳)』と『地続き』で発生する『仮想世界』であって、誰もが実感できるものですから、『魂』と同列には扱えないものです。

『心』は、『生物進化』の過程で出現したもので、『神』が人間に特別に付与したものではありません。『信仰』の有無と無関係に人間は誰もが生きている限り個性的な『心』を保有しています。

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2019年7月10日 (水)

『魂(Soul)』について(3)

『魂(Soul)』を虚構の概念として、人類が受け入れなくなるとしたら、『精神』『心』『情感』『意識』も同じ運命をたどるのでしょうか。

梅爺は、『魂』は存在しないと言われても、自分の理性で矛盾は感じませんが、普段『笑ったり』『泣いたり』、美しい音楽、絵画、景色に『感動したり』、難しいことに挑戦しようと『決意したり』、分からないことの因果関係を自分なりに『推論したり』しながら生きていますので、『精神』『心』『情感』『意識』なども『魂』同様幻想ですと言われると、そう簡単には承服できないと云いたくなります。目には見えないものですが、『存在』することは『実感』できるからです。

『ホモ・デウス』の著者も、『精神』『心』『情感』『意識』は幻想であるなどとは云っていません。

脳科学者は、これらの正体は、『脳』の脳細胞神経ネットワークを飛び交う『電子信号』や、その結果脳内で生成され、血液中に流入する『ホルモン』であると主張しています。つまり、『精神世界』の事象は、実は『物質世界(脳)』で起きている『物理反応』『化学反応』の反映であるということになります。

『物理反応』『化学反応』が『情感』を引き起こす(トリガーになる)のか、『情感』が『物理反応』『化学反応』を引き起こすのかという疑問が梅爺にはありましたが、脳科学者の主張は前者であることになります。

『物質世界(脳)』と『精神世界(心)』は『地続き』であると、梅爺は従来からブログに書いてきましたから、この主張には基本的に驚きませんが、『情感』が『物理反応』『化学反応』のトリガーになることもあるのではないかという疑問が残ります。

しかし、梅爺の疑問は、次のように考えれば、解消します。

脳内に『物理反応』『化学反応』を引き起こすトリガーになるものは、以下の二つがある。

(A) 感覚器官がとらえた外部情報を、脳が処理した結果
(B) 外部情報とは無関係に、脳内で起きる情報処理の結果

(A)は五感で取得した情報をトリガーとして『情感』が発現するということですから、私たちの日常体験と矛盾しません。
(B)は、『突然アイデアがひらめく』『虫の知らせで不吉な気持ちになる』『睡眠中に夢を観る』などを説明するために必要になる条件です。『過去の記憶』などが関与することが想像できますが、この脳のカラクリについては、解明が遅れていますので、現時点では(B)は『仮説』です。しかし、この考えを受け入れれば、多くの事象が矛盾なく説明できます。
 

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2019年7月 9日 (火)

『魂(Soul)』について(2)

『神』が最初の『人間(アダム)』に『Soul』を付与したとすると、その子孫である『人間』も同じく『Soul』を継承していると言えるのか、継承されているとするとどのようにして行われるのかと、疑問を抱く人が現れ、中世には『神学者』がそれに答えようとしました。

西欧には、『キリスト教』文化以前から継承されている古代ギリシャの『理を重んずる考え方』があり、『神学者』はなんとかこれに『理』で答えようとしたわけです。

そして考え出した答は、『男性の精子がSoulの種である』というものでした。そうすると今度は、『妊娠中の胎児にはいつSoulが発現するのか』という質問を受けることになりました。追いつめられた『神学者』は、『受胎後○○週間程度で発言する』と苦し紛れに答えました。『それならば、発現以前の胎児は人間とは云えないので、この期間に堕胎してもそれは殺人行為ではないといえるのか』更に質問が続くことになり、『神学者』は窮地に立たされました。

当時『神学者』が上記のように、悪戦苦闘しながら、自分の持てる知識と推論能力を駆使して、何とか『理にかなった説明』をしようとしている様子が目に浮かびます。既に『理にかなった説明』を知っている現代人からみると、なんとなく微笑ましい話ですが、当時の『神学者』は大まじめに洞察していたことになります。上記のような『説明』を、『カトリック』の総本山『バチカン』が、正規の考え方として必ずしも受け入れませんでしたから、『避妊』『堕胎』『快楽のための性行為』は、『好ましくない』という基本的な認識が、現在まで『カトリック』では継承されています。

『宗教』と『科学』は相いれないという認識は、近世以降に強まってきたもので、それまでは、『真実』を知ることは『神を知ること』であると考えられていましたので、『神学者』の一部は『科学者』の役割も果たしていました。現在でも『バチカン』に所属する『天文学』研究の部署があり、『神職者』が研究に携わっています。

しかし、近世以降『科学』が明らかにしたことは、『聖書に書かれていることは必ずしも真実とは云えない』ということが多く、『宗教』は『飼い犬に噛まれる』ような苦い体験をすることになりました。

現時点で『科学』の弱点は、『物質世界』を支配する『摂理』はなぜ存在するのかを説明できないことです。したがって、『宗教』を擁護する人から『摂理』こそが『神』であるという主張がなされますが、『摂理』は『非情冷徹なもの』で、『人間』を『愛』『慈悲』の対象で扱ってくれるものとはとても言えないことがこの主張の難点です。

『真実』を知れば知るほど、『人間』は『神離れ』していくであろうというのが『ホモ・デウス』の著者の予測で、同時に『魂(Soul)』という概念も虚構の概念として、受け入れられなくなると書かれています。『理』で考えればそうですが、人間の『精神世界』の基盤には強固な『情』があり、一度『信じた』ことは人間社会では『主観の共有』として継承されますので、『神離れ』『魂離れ』が起きるにしても、それはかなり時間がかかることではないでしょうか。

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2019年7月 8日 (月)

『魂(Soul)』について(1)

『ホモ・デウス』という本を読んでいると、色々啓発されますが、今回は、人類の歴史に大きな影響を与えてきた概念で、この本でも論じている『魂(Soul)』について考えてみようと思います。

梅爺は、ブログで『自然界』を『物質世界』、人間の『心』を『精神世界』と呼んで区別してきました。この表現は、梅爺が勝手に定義したものです。

『科学革命』が進行する現代でも、『精神世界』は謎だらけで、とても解明できているとは言えません。

『精神世界』に関連して使われる言葉も多様で、『抽象概念』に属するものが大半ですから普遍的に通用する『定義』がありません。私たちは、その時の状況で、これらの『言葉』を適当に使い分けていますが、厳密な意味を問われると答に窮します。

日本語では、『魂』『霊』『精神』『心』『気持』『情感』『意識』などが使われます。

英語では、『Soul』『Sprit』『Mind』『Heart』『Emotion』『Passion』『Consciousness』などが使われます。どのように使い分けるのか、日本語と英語の意味は1対1で対応するのかなどを問われると、梅爺は答えられません。

『人間』や『人間社会』にとって重要な『概念』であるからこそ、継承されてきた言葉であることは間違いありませんが、最新の『科学知識』で、見直してみるとどうなるのかが興味の対象です。

西欧の『キリスト教文化』の世界では、『Soul』は、教義にかかわる重要な『言葉』です。『神』が『天地創造』を行ったとき、六日目に『人間(アダムトイヴ)』を創造したのですが、『神』はこの時、『人間』に『Soul』を吹き込んで与えたと旧約聖書の創世記には書かれているからです。『Soul』は『神』が『人間』だけに与えたもので、『他の生物』は『Soul』を持っていないというのが『カトリック』の見解です。つまり、『Soul』は、『人間』が『神』との関係で特別な存在であることを象徴する言葉ということになります。

更に『人間』の肉体が死を迎えたときに、『Soul』は肉体から離れて、『神のみもとへ召されて存在し続け、やがて最後の審判が下るときに人間として復活する』と教義は教えています。『天国(地獄)』という概念もこれと関連して語られます。

死によって、『肉体』と『魂』が分離し、『魂』は不滅であるという考え方は、他の『宗教』でも語られることで、『人間』の『死』に関する不安を緩和することに役立ってきました。『宗教』にとっては『Soul(魂)』という概念は、布教のために重要な役割を負ってきたことになります。

『ホモ・デウス』の著者は、『科学革命』で知識を得た人類は、やがて『神』『魂』という概念を放棄するであろうと予測しています。これらは過去に人類が『精神世界』で創りだした『虚構』であり、実態としては存在しないとするほうが、科学知識にてらして矛盾が少ないからです。

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2019年7月 7日 (日)

人類はいつから不遜な生物になったのか(8)

『人間』にとって『知りたい』という欲求は、『安泰を希求する本能』に由来するものです。幼児が、『どうして』『なぜ』と大人に次々に質問を浴びせるのもそのためです。大人が『あたりまえなこと』として、疑問の対象にしていないことを、幼児は質問の対象にしますので当惑することもたびたびあります。

大人も当然『疑問』に対しては『知りたい』と思いますが、『因果関係』があまり明確でないことも、『そういうことになっている』と一度受け入れてしまうと、それを『疑問』の対象にしなくなります。心理学でいう『確証バイアス』がこれに当たります。

『社会的常識』『宗教の教義』など大人は多くの『確証バイアス』を抱えて生きています。これに染まっていない幼児が質問を多発するのはそのためです。

大人で『どうして』『なぜ』と質問を多発する人は、周囲から『理屈っぽい』と敬遠されがちです。梅爺もこの性格が強いことが、『梅爺閑話』に反映していますので、『難しい』『面白くない』と一般に評されます。科学者はこの性格が強い人たちです。

『人間』の『精神世界』のふしぎなところは、『疑問』を抱いても『知りたくない』と思うことがあることです。『悪い結果』を推測した時に、この現象が起こります。

『人間』は個性的であるために、『知りたい』『知りたくない』と考えるレベルには個人差があります。

『知る』ことで、『知識』が増えますが、その分『疑問』の数は減るのかというと、そうではなくむしろ新しい『疑問』が増えて、一層『知りたい』ことの数が増えます。本を読んでも、テレビを観ても、『疑問』は増え続けますので、『梅爺閑話』のネタが尽きることがありません。

『人間』が『不遜』になったかどうかは別として、『科学革命』によって、『人間』そのものや、『人間』と『他の生物』『神(神々)』との関係について、私たちは近世以前の人類が保有していなかった『知識』を保有するようになりました。

『自然界(物質世界)』を支配している『摂理』を利用して、『自然界』に存在しない『モノ』を人工的に沢山創造してきましたが、ついに対象が『人間』にも及ぼうとしています。『自然界』に存在しない『新種の人間』を人工的に生み出そうとしています。論理的には『老い』や『死』を克服した『人間』、道具を体内に組み込んで大幅に能力アップしただ『サイボーグ人間』も可能になります。

このことが人類を繁栄に導くのか、破滅へ追いやるのかを、私たちは真剣に考えなければならない時代に生きていることになります。『科学の応用』は、『快適』『便利』をもたらすなどという、従来の能天気な『確証バイアス』に染まっていると、痛い目にあうかもしれません。

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2019年7月 6日 (土)

人類はいつから不遜な生物になったのか(7)

『不遜な態度をとる』ということは、『相手に敬意を払わない』『相手を無視する』『相手を意のままに扱えると考える』『相手を劣るものとして見下す』といった態度をとることです。

『ホモ・デウス』の著者の見解では、人類は『狩猟』『採取』の古代には、『他の生物』『神(神々)』とは自然の中で、『共存』『共生』していましたから、それらに対して『不遜』ではなかったことになります。むしろ『畏れていた』といえるでしょう。

やがて、『農業革命』で『農耕』を社会基盤にする時代になると、『他の生物』に対して『不遜』な態度をとるようになりました。『作物』『家畜』は、自由に支配できるものであり、自分たちが『生きる』ためには、『他の生物』の『命』を奪うことも、優位者としての当然の権利と考えるようになりました。

この考え方を、強固にしたことには、『宗教』の教義が関与しています。この時代の『宗教』は、それ以前の『アミニズム』とは異なり、『神(神々)』は、人間にとって『創造主』『絶対的支配者』であるとみなされるようになりました。そして、『神(神々)』は『人間』を『他の生物』より優れた存在として『創造』したと都合のよい説明がなされました。『神(神々)』から『魂』を付与されたのは『人間』だけで、『他の生物』には『魂』がないなどという説明が典型的なものです。

このことが、『人間』の『他の生物』に対する『不遜』な態度を助長したことになります。

しかし、『神(神々)』は、『絶対的支配者』ですから、『崇拝』の対象であり、『不遜』の対象にはなることはありませんでした。この『人間』と『神(神々)』との関係は、近世までは全面的に継承され、現代でもまだ多くの人々が受け入れています。

しかし、『科学革命』が進行する現代になると、今まで『神のみ業』と考えられてきた『自然界(物質世界)』の摩訶不思議な事象の多くが、『摂理』を用いて、普遍的、論理的に解明、説明されるようになり、『神』を持ち出す必要がなくなりました。

『ホモ・デウス』の著者は、現代人が『古代エジプトの神々』『古代ギリシャの神々』『古代ローマの神々』を既に信仰の対象にしていないのと同様に、現代信仰の対象になっている『神(神々)』もやがて見放すことになるであろうと書いています。

一度人間社会に根付いた『主観の共有(神は存在するという認識)』の慣性は思いのほか強固ですから、すぐに『神離れ』が進行するかどうかは分かりませんが、長い目でみれば、人間社会の共通認識は変貌するであろうと梅爺も思います。

ついに『人間』は『神(神々)』に対しても『不遜』な態度をとるようになるかもしれないという話です。

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2019年7月 5日 (金)

人類はいつから不遜な生物になったのか(6)

近世以降、特に『科学革命』が進行する現代になって、私たちは、『自然界(物質世界)』の中で『人間』がどのような立場にあるのかを、より詳細に知るようになりました。

最先端の科学でも『宇宙はどうして出現したのか』『地球上にどうして生命体が出現したのか』は、『分からない(仮説はあっても定説になっていない)』ことですが、それでも『宇宙』も『生命体』も、何らかの多分幸運な『偶然』がきっかけで出現したのであって、『神』の意図やデザインは関与していないであろうと推定できるようになりました。

『科学革命』で私たちが獲得したもう一つの重要な認識は、『自然界(物質世界)』は、普遍的な『摂理』によって支配されていて、例外はなさそうだということです。

人類は、いくつかの『摂理』を『発見』し、そのたびに『自然界(物質世界)』への理解が深まりました。しかし、全ての『摂理』を見出してはいませんので、『自然界』にはまだたくさんの説明できない『謎』が存在しています。科学者たちは、未知の『摂理』を明らかにすることで、『謎』を解こうと努力しています。『自然界(物質世界)にはなぜ摂理が存在するのか』は、最も難しい『謎』の一つです。科学者たちは『謎』の答として『人間には理解できない神の意図が働いているから』という説明で、究明を断念しようとはしていません。

人類は、『摂理』を『発見』し、それを応用することで、『自然界』に従来存在しなかった事象を出現させてきました。文明社会は、その成果の上になりたっています。従来なかったものを出現させることは、一見『手品』『マジック』『魔法』のように見えます。近世以前の人類が、私たちが当たり前に利用している『飛行機』『コンピュータ』『テレビ』『携帯端末』『自動車』を観れば、『魔法』と思うでしょうし、『核兵器』の威力を知れば、驚愕のあまり腰を抜かすでしょう。

『遺伝子操作』『ナノテクノロジーの応用』『人工知能ソフトウエアの応用』などが進めば、一層『魔法』めいたものが出現することになります。これらの成果を目にして、現代の『人間』は、自分たちがついに『神』の領域に到達したと思いあがることになるであろうと、『ホモ・デウス』の著者は述べています。そしてその新しい人類を『ホモ・デウス(神のような人間)』と呼んで従来の『ホモ・サピエンス』と区別しています。

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2019年7月 4日 (木)

人類はいつから不遜な生物になったのか(5)

『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』の『一神教』が、『宗教』として人類の多くの信仰対象になり、『神』が『人間』を支配し、『人間』が『他の生物』を支配するという階層認識がより強固に定着しました。

『天地創造』の最後に『神』は『人間』を創造し、『人間』だけに特別の『魂(Soul)』を吹き込んだと『旧約聖書』に書かれているからです。

『魂』は、肉体とは異なって不滅であるという考え方が、『死』に対する人間の不安を緩和することになり、生前『神』を信じた人は『天国』へいけるという、ありがたい御託宣が、宗教布教に拍車をかけました。

『人間』は、『神』から『魂』を授かった特別な存在であり、『他の生物』には『魂』がないという宗教の『教義』は、一層『人間』による『他の生物』の支配を正当化することになりました。

『ダーウィン』が『生物進化論(種の起源)』を発表した時に、多くの人が猛反発したのは、自分たちが『他の生物』と同列に扱われたことに対する嫌悪感でした。そして『聖書』には、『人間は神から魂を授かった特別の存在』と書いてあるではないかと叫びました。現代でもアメリカ人の40%は、『聖書』の記述を信じ、『生物進化論』を受け入れていません。『生物進化論』を学校で教えることを禁じた州が最近までいくつかありました。日本では90%の人が『生物進化論』を受け入れています。

現在地球上に生息する野生の『馬』『牛』『豚』『羊』『鶏』の数は、人間が、食肉、牛乳、卵、羊毛を得るために、人工的な環境で飼育しているそれらの動物の数に比べると、圧倒的に少数です。

短期間に『太らせ』たりするために、身動きできないような狭い人工的な囲いのなかで飼育し、人工的な繁殖で生まれた子供は、すぐに親から隔離されるといった、自然界で生きる生物の風習を無視した『手段』が、当たり前のように採用されています。

『人間』がもしこのような過酷な環境を強いられたら、『精神的苦痛』で耐えられないことになりますが、『他の生物』には『魂』がないと都合よく人間は考えて、『他の生物』に拷問を強いているなどとは考えません。

『他の生物』を人間が生きていくために利用することは現実に『やむを得ない』ことだとしても、『生殺与奪』の権限を当然人間が持っていると考えるのは、『不遜』ではないかという主張がなされるようになりつつあります。『魂』はともかくとして『他の生物』も『意識』や『情感』を保有していると科学者たちが認め始めたからです。

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2019年7月 3日 (水)

人類はいつから不遜な生物になったのか(4)

『農耕』や『家畜飼育』が主体になり、人類は『定住地』で生活するようになると、群の規模は大きくなり、やがて『権力者』をリーダーとする『国家』が出現しました。人類の歴史で『文明』と呼ばれるものが出現したことになります。

同時に『農耕』や『国家』の運営に強い影響力を持つ『神(神々)』が、特別に重視され、人々の信仰の対象になりました。

『神(神々)』が『人間』を支配し、『人間』が『他の生物』を支配するという、階層支配の構造が出現したことになります。

『アミニズム』の時代、『人間』『他の生物』『神々』は、自然の中で役割分担があるにしても、基本的には対等な立場で認識されていたことに比べると、大きく変化したことになります。

『農耕』を主体に、『国家』『職業分化』『階級制度』などを『文明』で生み出した人類は、自分たちを支配する『神(神々)』に、『自分たちに都合のよい状況』をもたらしてもらいたいと祈願し、『神(神々)が喜ぶ生贄(いけにえ)』を奉納しました。

『生贄』としては、飼育していた貴重な『家畜』があてられるのが普通でしたが、時に『国家』間の争いで、敗者になった『人間』は『奴隷』とされ、『奴隷』が『生贄』になることもありました。戦勝国の人たちは、敗戦国の『奴隷』を自由に支配できるという認識ですから、『奴隷』は『他の生物』と同じレベルと考えられていたことになります。近世まで『白人』は『黒人奴隷』をこの様に認識し、扱ってきました。

『キリスト』が生きていた時代、エルサレムには『ユダヤ教』の『大神殿』がありましたが、私たちがそこに居合わせたとしたら、そこは『屠殺場』のような血なまぐさいところであることを目にすることになったであろうと『ホモ・デウス』の著者は書いています。

数多くの『巡礼者』が『生贄』の『家畜』を携えて『大神殿』を訪ね、『生贄』をそこで殺して奉納していたからです。現代人が想像する『神聖な大神殿』のイメージとは大きく異なります。

殺された動物の『肉』は、現実には神官や奉納者の貴重な食材となったのでしょう。自分たちにとって貴重なものであるからこそ『神(神々)』も喜んでくださると考えていたに違いありません。貴重な家畜を『生贄』として奉納する習慣は、現代でも世界の各地に残っています。

『神(神々)』が『人間』を支配し、『人間』が『他の生物』を支配するという、支配の階層構造認識は、人類の歴史の中で、最近まで継承されてきました。

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2019年7月 2日 (火)

人類はいつから不遜の生物になったのか(3)

『狩猟』『自然の食用植物採取』から、『農業』が『糧』を得るための手段に変わったのが、人流の歴史の『農業革命』です。約2万年前のメソポタミアで始まったと考えられていますが、その後『ホモ・サピエンス』は世界のいたるところで『農業』を開始し、『農耕社会』が人類の中心に変わりました。

『農耕社会』が、後に人類が『文明』と呼ばれるものを生み出し発展させる原点になりました。『ホモ・デウス』の著者は、この時代、『人間』『他の生物』『神(神々)』の関係が、前の『アミニズム』の時代とくらべて、大きく変貌したことを指摘しています。

人類は、食用植物の一部を『栽培』の対象に変え、動物の一部を『家畜』として飼育するようになりました。そして『人間』は『他の生物』を支配できる立場にあると認識が変わりました。

『狩猟社会』で、『他の生物』を『糧』として殺した時に、『他の生物』は自分たちと同じ立場と考えていましたから、殺されたもの苦しみ、悲しみなどを想像し、必要以上の殺戮を回避するような風習がありました。『アボリジニ』『アメリカ原住民』『南米密林に住む未開族』などに、この風習は今でも継承されています。

『アミニズム』の時代では、『他の生物』は、人間と対等な立場でしたから、『他の生物』が人間と言葉を交わす物語が創られました。

しかし『農耕社会』になると、『他の生物』に対する『人間』の認識は一変し、自分たちが『支配者』になりましたから、食肉を得るための『殺戮』は当然のこととなり、『他の生物』との『会話』はなくなりました。『ホモ・デウス』の著者は、これを『人間が他の生物を沈黙させた』と表現しています。

ユダヤ教(キリスト教)の『旧約聖書』の『創世記』には、『人間と話をする蛇』が登場しますが、それ以外の『旧約聖書』には、『人間と話をする他の生物』の話は登場しなくなります。『旧約聖書』は『農耕社会』時代に編纂されたものですので、『創世記』にのみ『アミニズム』の名残があると、『ホモ・デウス』の著者は指摘しています。

『農耕社会』の時代になって、『人間』と『神(神々)』の関係も大きく変わりました。

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2019年7月 1日 (月)

人類はいつから不遜な生物になったのか(2)

『農業革命』以前の人類にとって、自然界の中で自分たちは特別な存在ではなく、他の生物と同じ立場であると認識していたであろうと昨日書きました。

『糧』とするために、他の動物を捕獲、殺害しましたが、同時に自分たちも時に強い動物の餌食になることあったわけですから、同じ立場であるという認識は当然のことです。

周囲の『摩訶不思議』の背後に、その『摩訶不思議』な事象を司る『神』『精霊』『妖精』が存在するであろうと考えたのも当然です。これが『アミニズム』で『宗教』の原型です。

『摩訶不思議』な事象は、時に人間に恵みをもたらし、時に不都合な事態をもたしましたから、それを司る『神』『精霊』『妖精』に、『恵みをもたらし、不都合はもたらさないでください』とお願いしたであろうことも当然想像できます。これが『祈祷』という儀式になりました。『神』『精霊』『妖精』と意思疎通ができる特別の能力を保有する人は『シャー、マン』として、人類のコミュニティで重要な役割を果たしました。日本の『卑弥呼』は典型的な『シャーマン』です。

自然界に存在する全てのモノの背後に『神』『精霊』『妖精』は存在すると考えましたが、特に自分たち大きな影響力を持つ『神』『精霊』『妖精』が宿ると考えたものは、モノ自体を『神の化身』『ご神体』とみなし、モノが崇拝の対象になりました。

日本では、『山』『大岩』『大木』などが『ご神体』となり、古代エジプトでは、『ライオン』『ジャッカル』『コブラ』『イーグル』などが『神の化身』と考えられていました。今でもある種の動物を『神の化身』として神聖視する『宗教』は存在します。

重要なことは、『アミニズム』の時代、自然の中で『人類』『他の生物』『神々』は、共存していたということです。『神々』は人間が保有しない特別の能力の持ち主であるということで、畏敬の対象ではありましたが、現在の『宗教』の『神』のように、『創造者』『全知全能』『絶対的真実』『慈愛』『贖罪』などと関連する存在ではありませんでした。

『アミニズム』の時代、『人類』は、『他の生物』『神々』に対して特別不遜な存在ではなかったことになります。 

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