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2019年6月30日 (日)

人類はいつから不遜な生物になったのか(1)

『ホモ・デウス』という本の著者『ユヴァル・ノア・ハラリ』の人類の歴史を洞察する能力の高さに驚かされます。 

私たちは、『人類』が地球上で一番優れた生物であると不遜にも思いこんで生きています。しかし、人類の歴史を俯瞰すると、原始的な時代から『人類』はそのように思いこんでいたわけではありません。 

『何が私たちを不遜な生物にしたのか』について、『ホモ・デウス』は見事な仮説を展開しています。仮説ですが、これ以上に矛盾のない『因果関係』を梅爺は思いつきませんので、『きっとそうにちがいない』と確信的に受け入れることができます。 

『ホモ・デウス』では、『自然』『神』と『人間』の関係を、以下の3つの時代に分けて説明しています。 

  1. 『農業革命』以前の時代
  2. 『農業革命』から近世までの時代
  3. 『科学革命』の時代(現代) 

『農業革命』以前の時代は、『狩猟、自然の食用植物の採取』の時代で、この時の『宗教』は『アミニズム』です。自然界の事象は、人類にとって全て『摩訶不思議』な事象であり、その『摩訶不思議』な事象と関連して『糧』を得るわけですから、『摩訶不思議』の背後に、『神』『精霊』『妖精』が宿ると考えるのは当然のことです。 

この時代の『人間』は、自然の中で自分が特別な存在であるなどという不遜さは持ち合わせず、周囲の生物と自分は同じレベルの存在と考えていたはずです。その証拠に、この時代から伝わる伝承には、動物や植物が『人間』と対等に会話をかわす物語が沢山あります。

旧約聖書『創世記』の、『エデンの園』で『へび』が『イヴ』に『知恵の木の実』を食べるように誘惑する話も、その一つと『ホモ・デウス』の著者は述べてています。

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2019年6月29日 (土)

江戸の諺『親の光、子に目鼻を付ける』『目鼻を付けてもらう子』

江戸の諺『親の光、子に目鼻を付ける』『目鼻を付けてもらう子』の話です。 

『親の光』は現在では『親の七光り』などと表現します。有名な親、裕福な親、高い地位の親を持つ子が、親の威光のおかげで、世の中を得して渡る様子を表現したものです。 

『目鼻を付ける』は現在でも使う表現で、『物事の大体の見通しをつける』というような意味のなります。 

『目鼻のない顔』は『のっぺらぼー』ですから、目鼻がついてようやく顔のていを為すことになりますから、突飛ながらなかなかうまい表現を昔の人は選んだものです。 

江戸の人たちは、『遺伝子』やその継承のしくみについての知識は持ち合わせていませんでしたが、『どうすれば子供ができるか』『子供は一般に親に似る傾向にある』『親に劣る子供や親に勝る子供が生まれることがある』というような事柄はもちろん経験や伝承で承知していたはずです。『親に勝る子供が生まれる』ことを『とんびが鷹を産む』と表現していたことでも分かります。 

現代の私たちは、『遺伝子』の継承のしくみを知っていますから、江戸の人たちが『知らなかった』ことの本当の理由を理解しています。つまり『一般的にはなぜ子供が親に似るのか』『親に劣る子供、親に勝る子供がなぜ生まれるか』の理由を知っているということです。そして梅爺がいつも主張するように、『人間』が『個性的』である理由もこれに起因することも知っています。 

親の威光で子供を庇護することは、『子供のためにならない』と考える賢い親もいれば、可愛さだけが先に立って、威光で子供を庇護しようとする親もいます。一方親の威光をすんなり受け入れる子供もいれば、それを嫌う子供もいます。 

これらは、すべて『人間の精神世界』が『個性的』であることに起因します。 

自分の分を弁えて、それで生きていくことが、好ましいことですが、人は『安泰を希求する本能』ゆえに、『自分以上に自分を見せよう』とする習性があります。そして、このことが人生に悲喜劇をもたらします。 

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2019年6月28日 (金)

江戸の諺『鼻毛を読む』

江戸の諺『鼻毛を読む』の話です。相手の本心(下心)を読みとって、『愚弄する』『なぶる』というような意味で、現代でも使われますが、元々は自分に惚れた男を女が自由に操り、手玉にとることを表現したもののようです。前に紹介した『尻の毛を抜く』は、男が女に騙され、思うままに持てあそばれるという意味でしたから、いつの時代にも『したたかな女』と『能天気な男』という組み合わせはあったのでしょう。もっとも、男はわざと『能天気』に振る舞うこともありますので、男女の関係は見かけほど単純ではありません。

現代では、『鼻毛』や『耳毛』を処理することが『男のたしなみ』とされ、専用の『電動カッター』なども売られています。床屋へ行けば、丁寧に剃ってもらえます。江戸時代でも、そのような風習があったのかどうか知りませんが、一般には『見えにくい場所』ですから、そのような場所の『毛の数を数える(読む)』ことは、隠れているものを読みとるということで、本心(下心)を読みとることの比喩にしたのでしょう。なんとなく滑稽な表現であるのは、江戸の『諧謔』精神によるものと思います。

他人に『本心』を読みとられては、自分の分が悪いと感じ、『本心』を見せないように振る舞おうとする習性が人間にはあります。勿論これも『安泰を希求する本能』のなせる業です。『ポーカー・フェースに徹する』『無愛想に振る舞う』『体裁を飾る』『見栄を張る』などこれから派生する行為です。

反対に、一見天真爛漫に振る舞い、本心や時に自分の『弱み』を積極的に披露する人もいます。それが他人に与える効果を計算して、そのように振る舞う人もいれば、本能的にその方が得であると感じて振る舞う人もいます。自分を『隠す』よりは『見せる』方が、一般には、第三者の『理解』や『同情』を獲得しやすくなります。

梅爺も、『無表情で自分を見せない人』と付き合うのは苦手で、例え少々の『計算(打算)』が裏に隠されていようがいまいが、『ありのままを見せようとする人』の方に好感を持ちます。

『顔の表情』は、言葉以上に多くのメッセージを伝えますから、『表情』が豊かである方が、自分にも周囲にも善い結果をもたらします。理屈ではそのようなことは分かっていても、人間には体調が悪い時、心配事を抱えている時などがありますから、梅爺も四六時中『好々爺』ではなかなかいられません。

『鼻毛を読む』かどうかは別として、人間は周囲の他人の『本心』を知ろうと欲し、勝手に『推測』したりするようにできています。

 

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2019年6月27日 (木)

江戸の諺『喉(のど)の下へ入る』

江戸の諺『喉(のど)の下へ入る』の話です。この表現は、現在ではあまり使われませんが、『媚びへつらったり、おだてたりして利を得ようとする行為』のことのようです。前に紹介した『人の衿につく』と似ています。

『衿につく』『喉の下へ入る』は、必要以上に相手にすり寄って、上目づかいで相手の顔へ密着している様子は感じとることができますが、これから『へつらう』という意味に転ずるのは、少々突飛に感じます。

他人から利を得ようとする欲求が強い時に、なりふり構わず『へつらう、おもねる、媚びる』行為に出るのは、『利を得る』ことが自分にとって『安泰』と判断するからです。しかし、そのような行為は第三者の目には『さもしい行為』と映り、『蔑(さげすまれる)』ことにもなりかねません。『蔑まれる』ことは、自分の『安泰』が脅かされることですから、こちらの価値を重視する人は、利の欲求を抑制しても、『自尊心』を優先することになります。

つまり、『へつらう』のも『へつらわない』のも、『安泰を希求する本能』によるものですが、結果が全く逆の行為になるのは、その人の『精神世界』の『価値観(優先順度)』が人によって異なるからです。何度も前に書いたように、『精神世界』は『個性的』であるために、このようなことになります。

他人から『褒められた』時に、多くの人は悪い気持ちはしませんから、『精神世界』は『嬉しい』と感じます。『安泰』が得られたことで、対応するホルモンが分泌されるからです。『幼児教育』や『スポーツ選手のコーチング』などで、『褒める』ことが重要とされるのは、『安泰』が『自信』や『やる気』を誘発し、才能を伸ばす結果にります。

しかし、相手に下心あって、『褒める』行為を他の目的のための手段として用いる人が世の中にはいますから、嬉しがってばかりはいられません。相手の本心を見抜けるかどうかも『精神世界』の判断にかかります。『おだてに乗る人』と『おだてに乗らない人』に分かれるのも『精神世界』が『個性的』であるためです。『理性的』な人は『信ずる』と『疑う』のバランスがとれる人で、『おだてに乗らない』ことを選択します。

江戸時代には、『騙す』方も、『騙される』方も、それを承知の上で行う商売形態がありました。『幇間(たいこもち)』です。多分他国には類をみない商売形態ではないでしょうか。外国には似たものとして『ピエロ(道化師)』がありますが、これは複数の客を対象として、『愚かな行為』で客の『優越感』をくすぐるものです。『幇間(たいこもち)』は、客(旦那)と一対一で、『褒める』『媚びる』を徹底して行います。『承知の上で騙される』ということは、江戸の『粋』から生まれたものかもしれません。

現代では『褒め殺し』などという表現が使われます。『過度に褒めることは、貶(けな)すことに等しい』という複雑な論理ですが、こういう矛盾した表現を受け容れるのも日本人の特徴のように思います。

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2019年6月26日 (水)

江戸の諺『人の衿(えり)につく』

江戸の諺『人の衿につく』の話です。富裕の人からおこぼれを頂戴しようとへつらう様子を表現したものです。

宝くじが当たったり、多額の遺産を相続したりしたことが知れ渡ると、突然今まで疎遠であった人たちが、ニコニコしながら寄ってくるというような話はよく耳にします。一方、金が無くなると、『金の切れ目が縁の切れ目』で、周りから潮が引くように人がいなくなります。

『ボロは着てても心は錦』『武士は喰わねど高楊枝』などと、自尊心がたかく、弱みを見せて他人に助けを求めたりはしない人も世の中にはいます。

『自尊心』よりは『損得勘定』を優先する価値観の人は、臆面もなく『権力者』『富裕者』に『へつらう』ことになり、周囲が眉をしかめても、あまり気にはしません。

人の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』に支配されていますから、『権力者』『富裕者』に『へつらう』のは、むしろ生物として原始的な本能に殉じているともいえます。程度の差はあれ、本来は誰もがそのような習性を保有しているといってよいでしょう。

その対極にみえる『自尊心』は、『理性』で『欲求』を抑止しているともいえますが、これもまた『安泰を希求する本能』に起因するのではないかと梅爺は考えています。『群で生きる』ことを選択した人類は、『群の仲間が自分をどのように評価しているか』を重要視します。『評価されない』ことは『群の中で安泰が保てない(安泰が脅かされる)』ことを意味しますから、『弱みを見せないように』振る舞うことになります。これが『自尊心』です。無人島に一人住む『ロビンソン・クルーソー』には『自尊心』などは不要です。

高額所得者が、課税対象金額を減らすために、所得の一部を寄付するという話もよく耳にします。一般に寄付は、善意の行為のように思われますが、この場合は、『損得勘定』で自分に有利という判断ですから、寄付の意味は色褪せます。

『イスラム文化圏』では、富者が貧者に『施す』というのは、当然のことということらしく、『施される』側も、ありがたく押し戴くというより、当り前のこととして受け取るのだと聴いたことがあります。

人類が小規模の『群』で生きていた時には、『群』の仲間は、誰もが『知人』ですから、『分かち合い』が当たり前であったことはわかりますが、社会の規模が大きくなり、見知らぬ『他人』と共存するようになると、『分かち合い』はかならずしも当り前な行為ではなくなりました。

『利己』と『利他』のバランスは、どの社会にとっても、誰にとっても尺度のない難しい問題です。

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2019年6月25日 (火)

江戸の諺『人のかすり取る』

江戸の諺『人のかすり取る』の話です。他人からこっそり『上前』をはねるという意味です。

正々堂々と『手数料』や『サービス料』を受け取るのとはちがい、ずる賢く相手を騙してかすり取るということですから、一種の『コソ泥』行為です。

『諺臍の宿替』という原本には、『買い物に行ってあげる』といって、『一分(ぶ)』の金を預かり、お釣りをごまかして、『300文(もん)』を『かすり取ろうとする』人の小噺が載っています。

江戸時代の『貨幣制度』に詳しくない梅爺は、『一分』から『300文』を『かすり取る』というのは、どの程度の割合なのかを調べてみました。

江戸時代の『貨幣制度』は、『金貨』『銀貨』『銭貨(せんか)』の『三貨幣制度』で構成されています。

『金貨』の単位は、『両(小判)』『分(ぶ)』j『朱』の3種があり、相互の価値関係は、(1両)=(4分)=(16朱)です。
『銀貨』の単位は、『貫』『匁(もんめ)』『分』の3種があり、(1貫)=(1000匁)=(10000分)です。
『銭貨』の単位は、『貫』『文(もん)』の2種があり、(1貫)=(1000文)です。

『銭貨』は、貴金属ではない金属(主として銅)で鋳造された『穴あき銭』で、三代将軍『家光』時代に鋳造を開始した『寛永銭貨』が主流となりました。

『金貨』『銀貨』『銭貨』間の両替相場は、幕府が定めた『目安』はありましたが、実際には『両替商人』が取り仕切り、『上前』をはねて(表向きは手数料をとって)大もうけしていたわけですから、いつの世にも『うまく世の中を渡る』人たちがいるものです。

『分』という同じ呼び名が『金貨』と『銀貨』に、『貫』という同じ呼び名の単位が『銀貨』『銭貨』にあり、実際には『価値』が異なるわけですから複雑で、よく江戸の人たちは使い分けていたなと感心します。庶民は『銭貨』と『銀貨』を主として用いていたのでしょう。

江戸の時代によっても、『価値』は変動していたと思いますが、現在の貨幣価値に感ざんすると、『銭貨』の1文は25円程度ということになるようです。『かけ蕎麦(16文=400円)』『天ぷら蕎麦(32文=800円)』『握り鮨(8文=200円)』『うな丼(100文=2500円)』といった相場であったようです。

因みに、1両(金貨)は米の1石とほぼ同等の価値で、現在の価値感覚では75000円程度になります。

上記の小噺では、『1分(多分銀貨で現在の貨幣価値なら25000円程度)』を預かって、買い物をし、『300文(7500円)』を『かすり取る』という話ですから、かなりひどい話になります。

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2019年6月24日 (月)

飢餓、病疫、戦争(8)

『物質世界』を支配する『摂理(法則)』は、普遍的、絶対的なもので、さすがの人類も、これを『変えたり』『新しく創造したり』はできません。

科学者は、『摂理』を発見し、それが『摂理』であることを、色々な手段で確認してきただけです。『物質世界』が何故『摂理』で支配されているのか、『摂理』は何故存在するのか、存在するようになったのかは、全く分かっていません。『科学』の究極の謎はこのことですが、今のところそれを解く手がかりも見つかっていません。この様に途方に暮れた時には、必ず『摂理こそが神である』『摂理を創ったのは神である』と、『神』を持ち出して『因果関係』を説明しようとする人っちが登場しますが、科学者の多くはそのような『無理な説明』は受け容れません。

宇宙物理学者の中には、私たちの属する『宇宙』のほかに、無数の別の『宇宙』が存在するという『仮説』を唱えている人たちがいます。『ビッグ・バン』のからくりを考えるとそうなるという主張ですが、詳細は梅爺には理解する能力がありません。ただ、この『マルチ・バース(複数宇宙)』論では、それぞれの『宇宙』が私たちの『宇宙』とは異なった『摂理』で支配されている可能性が高いといわれています。他の『宇宙』は私たちの『宇宙』とは似て非なるものであるということになります。言い換えると、私たちが保有する『摂理』故に、私たちの『宇宙』が現在の形で存在し、私たちも存在しているということになります。

『摂理』は『物質世界』の事象の『因果関係』を決めていますから、『摂理』を応用すれば、自然界には存在しない事象を、人工的に創りだすことができます。私たちが日常利用している、道具、工業製品はすべてこれによって生み出されました。

一方、私たちの『命』も、基本的には『摂理』だけで維持されていることが、分かってきました。『老化』や『死』は、細胞の『老化』や『死』でもたらされるということですから、『摂理』を利用して、細胞を『若返らせる』ことができれば、理論的には人間は『老化』や『死』を回避できるということになります。勿論、技術がすでに確立しているわけではありませんが、近い将来人間の寿命を、150歳から500歳程度に延ばすことが可能であると、科学者は予測しています。

『老化』や『死』の問題を軽減し、難病も細胞操作で治るとすれば、結構な話ではないかということになりそうですが、話はそう簡単ではありません。細胞の資質を人工的に変えるということは、遺伝子操作を行うことを意味しますから、元々の自分の遺伝子を操作して、『一流アスリートの運動能力』『天才の知能指数』などを誰もが『手に入れることができる』可能性を示唆しているからです。

生物として『個性的』であることが特徴であった私たちが、誰でも『イチロー』や『アインシュタイン』に慣れるというのは、何やらおぞましい話に聞こえます。『ホモ・デウス』という本は、そのような可能性を秘めた人類の『未来』を論じた本です。『科学』の進歩は、私たちに『幸せ』をもたらすなどという思い込みを、私たちは考え直さなければならなくなるかもしれません。この話は、又別にブログで紹介したいと思います。

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2019年6月23日 (日)

飢餓、病疫、戦争(7)

『飢餓』『病疫』『戦争』の脅威が、人類全体にとってかならずしも最優先課題でなくくなりつつある背景には、人類が獲得してきた『科学知識とその応用技術』があります。

先進国の農業は、『科学知識とその応用技術』に支えられて、収穫率の高い作物栽培がおこなわれていますし、畜産も同様です。地球上に生息する、野生の馬、牛、羊、鶏、犬、猫の数は、食肉用、牛乳生産用、卵生産用、羊毛生産用、愛玩用などの目的で人間に飼育されている動物の総数に比べれば、微々たるものにすぎません。

『ホモ・デウス』の著者は、前著『サピエンス全史』の中で、人類が他の生物と異なった『社会』を構築してきた要因を、『認識革命』『農業革命』『産業革命』『情報革命』であると論じています。『認識革命』はこの著者が命名したもので、従来の歴史書では、あまり取りあげられてこなかった概念です。

『認識革命』は、『ホモ・サピエンス』が故郷である『アフリカ』を離れ、世界各地へと移動を開始した7~8万年くらい前にはすでに保有していた『資質』で、『抽象概念』を『価値観』として共有する能力を意味します。『神』は代表的な『抽象概念』ですが、物々交換の時、二つの異なった『モノ』が『等価』であると判断する『価値』や、後に人間社会の構成要素となる『国家』も、『抽象概念』です。『神』『価値(貨幣)』『国家』などを共有できるのは人間だけです。

『認識革命』は、高度に進化した『脳』が保有した資質で、中世以降急速に増えた人類の『科学知識』も、『脳』が保有する『推論能力』を基盤としてもたらされたものです。『認識』『推論』は人間の『精神世界』を考える上で、欠かせない重要なものです。

『農業革命』以前の人類は、自分たちだけが自然界で『特権的な生物』であるなどとは考えていませんでした。自然界のあらゆる者に『霊』が宿ると考える『アミニズム』が『精神世界』の基盤でしたから、時に強い『動物』は『神の化身』として崇められました。

『農業革命』以降、野生の植物や野生の動物を、人間がコントロールする『農作物』『家畜』に変えることに成功した人類は、やがて自分たちを自然界の中で『特権的な生物』であると考えるようになり、『神は自分に似せて人間を創った』などという主張を始めました。

地球上で、たった17万年の歴史しか持たない『ホモ・サピエンス』が、この様にして我が物顔で地球を支配する生物に変貌していきました。地球の資源や、他の生物の『命』もすべて、自分たちのために『利用する』ことを当然と考えているように見えます。さすがに良心がとがめることもあり『野生動物保護』『動物愛護』などと叫ぶこともありますが、肉、卵、魚を食べながらの主張は、矛盾を抱えたもので、迫力を欠きます。私たちの『命』は、『きれいごと』だけで説明がつきません。『命』は『物質世界』の他のものと密接に関連しながら保たれており、そのすべてが『きれいごと』ではないからです。

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2019年6月22日 (土)

飢餓、病疫、戦争(6)

『飢餓』『病疫』『戦争』の中で、『戦争』だけが、『気候』『病原菌やウィルス』のような『物質世界』の事象に因るものではなく、『人間』の『精神世界』の『価値観』が引き起こす事象です。

『ホモ・デウス』の著者は、ごく最近まで人類を支配していた『戦争』の要因を、『ジャングルの法則』と呼んでいます。ジャングルを支配している『弱肉強食』の法則のことです。ただ人間以外の生物は、『個』や『種』の生き残りに必要な行為として『弱肉強食』の法則で行動しますが、その目的が満たされる限り、それ以上の際限もない『征服』などは行いません。『縄張り』で『群』の生存が維持できるかぎり、それ以上の『縄張り』の拡大などは試みません。

人間は、『個』や『種』の生き残りに必要と判断した時は他の生物同様に『弱肉強食』の法則で行動しますが、それ以上に『名誉欲』『征服欲』などという『価値観』で、際限なく『弱肉強食』の法則を使います。『アレキサンダー大王』『チンギスハン』『ヒトラー』などは、その『価値観』に突き動かされた支配者であったのではないでしょうか。『大帝国』などという版図を実現したのは、生物の中で人間だけです。

『ホモ・デウス』の著者は、『ジャングルの法則』と並んで『チエホフの法則』も紹介しています。『チエホフ』はロシアの文学者『チエホフ』のことで、彼の『芝居の一幕目に小道具として鉄砲が出現したら、三幕目には必ずその鉄砲は劇中で使われる』という言葉を引用したものです。つまり、権力者は一度すぐれた『兵器』を手にすると、必ずそれを使いたくなり、使うという比喩を『チエホフの法則』という表現に込めています。

ごく最近まで『ジャングルの法則』『チエホフの法則』が人間社会を支配していましたから、『戦争』は『不可避なもの』と認識しながら生きていたことになります。

現在『フランス人』『ドイツ人』の大半は、現在維持されている両国の友好関係が崩れて、いつ戦争関係になるか分からないと、怯えながら生きてはいません。しかし、中世の『フランス人』『ドイツ人』は、両国の関係が一時の小康状態にある時でも、『いつ相手が攻めてくるかわからない(攻めてきてもおかしくない)』と覚悟しながら生きていたことになります。

『第二次世界大戦』以降、『ジャングルの法則』『チエコフの法則』が、適用されるケースが大幅に減ったために、世界規模の『戦争』は回避され、『戦争』が人類の最大の問題という意識が薄らいだことになります。

現在の強欲な『権力者』にも、『名誉欲』『征服欲』は人間である以上ある筈ですが、それが抑制されているのは、『戦争』に勝ったとしても得られるものは、失うものより大きいという『世界大戦』の経験で得られた教訓が、人類の共通認識になりつつあるからです。『核保有国』は複数個の地球を徹底破壊できるほどの『核兵器』をそれぞれ保有していますが、『チエホフの法則』が適用されないのは、そのためです。

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2019年6月21日 (金)

飢餓、病疫、戦争(5)

人類が、『疫病』の『原因』を知るようになったのは、近世以降のことです。

それまで、人類にとって『疫病』の大流行は、目に見えない魔物に襲われるような恐怖の対象でした。

『黒死病(ペスト)』の大流行は、古代ギリシャ、ローマ帝国、東ローマ帝国でも記録が残っていますが、とくに有名なのは14世紀のアジア、ヨーロッパにおけるもので。2000万人から3000万人が犠牲になったと推定されていますから、ヨーロッパでは人口の1/3以上が犠牲になったと考えられます。

近世以前の人類のとって、『疫病の流行』は、『神の怒り』『悪霊の祟り』『死神のとりつき』が原因と信じられていましたから、宗教的な儀式(加持祈祷)や悪魔払いが行われました。特別の能力を保有すると考えられる『聖職者』や『呪術師』が重要な役割を果たしました。現在の視点で観れば、この『聖職者』『呪術師』は怪しげな人物ということになりますが、当時は本人も周囲も、その能力を『信じて』いたことになります。

日本では、『平安京』を悪霊から守る僧侶として『空海』は『桓武天皇』の信頼を獲得し、『陰陽師』は、占いで吉兆を予言し、対応する術を持つと考えられた人たちでした。誰もが、大真面目に『加持祈祷』を信じ、頼っていたことになります。

『疫病』の原因が判明した現在でも、多くの人が『加持祈祷』『占い』『厄除け』『悪魔払い』などを依然として『信じて』います。人間社会に継承される『共有される主観(価値観)』の慣性は、想像以上に根深いものであることが分かります。

20世紀の初頭でも、世界中に流行した『スペイン風邪』は、感染者5億人、志望者5000万人以上の大被害をもたらしました。『ウィルス』が原因と分かっていても、当時は対抗できるレベルに医療が達していなかったからです。

『AIDS』『SARS』『エボラ熱』など、昔なら人類に大被害を及ぼしたであろう『疫病』の流行を、現在あるレベルで押さえこめているのは、医療技術、知識が大幅に向上したためです。勿論『加持祈祷』『悪魔払い』は何の役にも立っていません。

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2019年6月20日 (木)

飢餓、病疫、戦争(4)

1945年の第二次世界大戦の終結以降と、それ以前では、確かに『飢餓』『病疫』『戦争』が人類に与える苦痛の量には、大きな差があります。

古代から近世に至るまで、『冷夏』や『干ばつ』など、異常気候が原因で、それに襲われた地域の人たちは『飢餓』に苦しみました。『餓死』した人の数は、人口の1/3からひどいときには半数に及びました。気候変動という自然環境ばかりではなく、その地域の統治体制、統治者の資質も『飢餓』に追い打ちをかけることになりましたから、『飢餓』の責任を『自然』だけに負わせることはできません。日本も歴史上、何度もひどい『飢饉』を経験しています。

第二次世界大戦の終わりに、梅爺の一家が住んでいた新潟県長岡市は、米空軍の大規模焼夷(しょうい)弾爆撃を受け、家や家財は全焼し、母親が大やけど、父親もけがを負いました。当時4歳の梅爺は、両親から離され、茨城県の親戚へ預けられました。ひもじさから、『干し芋』を盗んで食べ、それが原因で下痢になり、叱られたり、苦しい思いをしたことを今でも覚えています。その後、両親の傷が癒え(母親はひどいケロイドが下半身に残りました)、梅爺は長岡へ戻りましたが、家は雨風が吹き込むようなバラックで、食べるものも十分にありませんでしたから、『イナゴ』や『つくし』で飢えをしのぎました。

幼い梅爺は、ただただ運命に翻弄されて、わけもわからず生きていましたが、子供に食べ物を与えられない両親の気持ちは、どれだけつらいものであったかは、今なら想像することができます。『飢餓』は、肉体の苦痛だけではなく、精神の苦痛も伴います。『ホモ・サピエンス』が全滅することなく、一部が命を継承してきたことは『幸運』と言えますが、背景に多くの悲惨な犠牲者が存在したことも、知っておくべきです。

1945年以降、人類は『病疫』への対応能力も大きく改善し、伝染病による死亡率、出産時の母親の死亡率、新生児の死亡率などが、それ以前の時代に比べて大幅に減少しました。云うまでもなく、『科学』『医学』の進歩が、この改善をもたらしました。

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2019年6月19日 (水)

飢餓、疫病、戦争(3)

今までの私たちの歴史を通して、『ホモ・サピエンス』を悩ませ続けてきたことのトップスリーは、『飢餓』『疫病』『戦争』であったと、著者は指摘しています。そして、これらは現在の人類にとって、かならずしも最優先の『問題』ではなくなりつつあると述べています。

こういう主張に対しては、『それは楽観的すぎる』と反論したくなる方もおられるでしょう。地球上には今なお『飢え』で苦しんでいる人たちが少なからず存在し、アフリカには『エイズ』『エボラ熱』の恐怖にされされている人たちが沢山おり、中東では『戦争』が続き難民があふれているではないかと反論されたくなるのではないでしょうか。

しかし、著者と、反論したくなる人の違いは、『マクロな視点とその価値観』と『ミクロな視点とその価値観』のどちらを優先するかの違いです。どちらが『正しい』かは議論しても始まりません。

『マクロな視点とその価値観』を優先する人は、『理』でものごとを『合理的』に判断する傾向が強い人です。欧米の教養人にはこの傾向が強い人たちが多いように梅爺は感じています。一方、多くの日本人は、『目の前の事象』を『情』で受け止める傾向が強いために『ミクロな視点とその価値観』を重視します。しかし、これは時に『重箱の隅をつつく』議論になる弊害もあります。『木を観て森を観ない』という弊害です。

たとえば『ホモ・デウス』の著者は、地球規模で観れば、現在『戦争』や『テロ』の犠牲で亡くなっている人の数は、『交通事故』『自殺』で亡くなっている人の数より少ない、『エイズ』『エボラ熱』で亡くなっている人の数は、ジャンク・フードに毒され『肥満』などで亡くなっている人の数よりはるかに少ないと述べて、『戦争』『テロ』や『疫病』が人類にとって最優先課題ではなくなりつつあると主張しています。

梅爺は、過去に比べて『飢餓』『疫病』『戦争』が人類全体に与える苦痛は軽減していることは認めますが、この問題の本質から目を逸らすことは危険であろうと感じます。『マクロな視点とその価値観』も『ミクロな視点のその価値観』も、双方重要であり、時と場合に応じて私たちはそのバランスを考えなければならないのではないでしょうか。

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飢餓、病疫、戦争(2)

『ホモ・デウス』は、生物学的にはあくまでも『ホモ・サピエンス』です。『ホモ・デウス』は著者独自の命名で、この呼び名は一般的なものではありません。20年後、50年後の『ホモ・サピエンス』は、『科学』『技術』で、従来になかった『能力』『資質』を備えるようになり、現在の私たち『ホモ・サピエンス』とは明らかに『異なった様相』を呈することになることを推測し、その状態を『ホモ・デウス』と呼んでいます。
『デウス』はラテン語で『神』を意味する言葉です。現在の私たちが、『神の御業(みわざ)』の領域と考えていた『老化』や『死』をもコントロール下に置くかもしれない状態を、『神のような人間』と皮肉とユーモアで表現したものです。著者の『宗教』認識は、梅爺と同様、『物質世界には実態としての神は存在しない。精神世界の共通抽象概念としてのみ神は存在している』というものですから、敬虔な信仰で『デウス』を引用したわけではありません。
中世以前の人類(ホモ・サピエンス)にとって、自然界(物質世界)の森羅万象のほとんどは、『理解を超えた』ものであり、それゆえに『森羅万象は神の御業』という因果関係を受け容れることで『安堵』を得ようとしました。『理解を超えたもの(分からないこと)』を放置することは、『精神世界』にとって『不安』であり、人間は必ず『精神世界』で、自分を納得させようとする虚構の因果関係を考え出す習性を持っているからです。
梅爺も日ごろ、『分からない』ことに遭遇すると、『こういうことではないか』と勝手な因果関係を考えだします。観方を変えるとこれは『好奇心』ですが、その本質は『安泰を希求する本能』に由来するものと考えています。『科学』や『芸術』も、煎じつめれば『安泰を希求する本能』から派生した領域であろうとも考えています。『梅爺閑話』も同様です。
近世以降、従来『理解を超えていた』ことがらの大半は、『科学』によって、普遍的な『摂理』に支配されている事象であることが分かってきました。そしてその因果関係の説明には、それ以前の人たちが必要としていた『神』の存在は不要であることが判明し始めました。
それならば、人類は急速に『神離れ』するようになったかと言えば、そうでもありません。現代の人たちの多くが、昔と変わらず『宗教の教義』『神の存在』を『信じて』います。これは、人間社会に一度根付いた『共有された主観(価値観)』は、大きな慣性を保有して、簡単には消滅しないからです。これも、『人間』の『精神世界』が保有する特徴の一つです。
しかし、『ホモ・デウス』の時代になると、さすがに現在の『宗教』『神』は、消滅へ向かうであろうと、著者は推測しています。それならば、『ホモ・デウス』は『心の安らぎ(安堵)』として、『神』の代わりに何を求めるようになるのでしょう。

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2019年6月18日 (火)

飢餓、病疫、戦争(1)

前に読んで紹介した『サピエンス全史』の著者(ユヴァル・ノア・ハラリ)が、次なる著作『ホモ・デウス』を出版し、話題を集めています。前作の『サピエンス全史』は、私たち現生人類(ホモ・サピエンス)の約17万年の歴史を、最新の知見に基づいて学際的に論じたものです。文明、科学、宗教、政治、経済、生物進化、脳科学など多面的な視点で、本質に迫りますから、『私たちは何者なのか』を考える上で、示唆に富んだものでした。
梅爺も10年以上ブログを書き続ける中で、『宇宙の歴史』『地球の歴史』『生命体の出現と生物進化』『脳科学』などについて知り得たことを、総合的にあれこれとひねくりまわしたり、組み合わせたりして、『人間』『人間社会』『自然環境』の本質を理解する方法論を色々模索してきました。
その結果、行き着いた方法論は、周囲の事象を『物質世界』と『精神世界』に区分けして『観る』ということでした。このことは、梅爺が物事を考える時の基本ですから、どのブログの記事にも、それが反映しています。繰り返し登場する『方法論』に、読者の皆様は食傷気味であろうと思いますが、『方法論』もさることながら、梅爺にとっては、その『方法論』で『観た(考えた)』内容が、自分の理性で矛盾なく受け入れられるかどうかが興味の対象です。受け容れられる限り、方法論は利用できることになるからです。
『物質世界』は、普遍的な『摂理』に支配される『自然界』のことで、私たちの『肉体(命)』は、『物質世界』に属しています。『精神世界』は『物質世界』に属する人間の『脳』が創り出す『心』のことで、『物質世界』のような実態を伴わない『仮想世界』です。しかし『精神世界』の情感(情)と理性(理)が複雑に絡み合って創出される『価値観』は、人間が生きる上で重要な役目を果たしています。『神』『愛』『正義』『平和』などという抽象概念は、すべて『精神世界』が創り出したもので、『物質世界』をいくら探し回っても、その実態は見つかりません(存在しません)。つまり、地球上から人間がいなくなった『物質世界』だけの世界には、『神』『愛』『正義』『平和』の概念さえも存在しないことになります。
『サピエンス全史』を読んで、梅爺が嬉しかったのは、著者が提示する『人間』に関する理解と、それまで梅爺が考えていた理解の間に、大きな差がないということを知ったことです。日本とイスラエル(著者はイスラエルの大学教授)という離れた場所で、勿論面識もない人間同士が、『同じ理解』を共有していることに無常の喜びを感じました。勿論、『宗教』に関する見解もほぼ同じです。『神が人間を創った』のではなく、人間の『精神世界』が、『神という概念を必要として創った』という考え方です。
『ホモ・デウス』は、『サピエンス全史』の続編ともいえるもので、今後『ホモ・サピエンス』はどのように変わっていくかを洞察したものです。『老化』『死』は避けられないものと私たちは今まで考えてきましたが、最新科学は、それも克服できるかもしれない可能性を示唆し始めました。『不老不死』を実現した人間は、もはや『神の領域』に手を染めたも同様ですから、『ホモ・サピエンス』はその時『ホモ・デウス』になるであろうという推測です。
しかし『ホモ・デウス』は、幸せな生物かどうかという洞察が重要になります。

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2019年6月17日 (月)

ジョン・グリシャムの小説『The Racketeer』(4)

『The Racketeer』という小説を読み始めて、読者が最初に抱く興味は、5年間刑務所に服役中の主人公が、何故外の世界で起きた『殺人・強盗事件』の詳細(犯人、犯行動機、実際の犯行内容、犯行時期など)を知り得たのであろうかということです。
いわば古典的探偵小説や推理小説の定番である『密室殺人事件』の逆で、密室(刑務所)に身を置く主人公が、外の世界の『事件』の詳細を知っているのは何故かという興味です。
作者の『ジョン・グリシャム』は、まず、これらに読者が納得する『筋書き』を提示し、読者は『なるほど、そうか』と読み進むと、実はその『筋書き』は『騙し』であることが判明し、何故『騙す』のかと次なる疑問を読者が抱くと、新しい『筋書き』が提示され、やがてそれも『騙し』であると判明するといった、『ドンデンガエシ』の連続が、この小説の面白いところです。
主人公が繰り出すこれらの『騙し(ワナ)』に、FBIも読者同様に翻弄され、主人公の思う壺に話は展開していきます。
当然『外の世界』に共犯者や共犯者たちが必要になりますが、この小説では、主人公と共犯者たちとの関係が実に絶妙な設定で、共犯者の一部は最初は主人公の『敵』と思わせて登場したりします。これも、物語の進行の中で、『ドンデンガエシ』になります。
FBIとの『司法取引』で、別人となって刑務所を出所した主人公は、共犯者たちと次々に『ワナ』をしかけ、FBIが解決できなかった『連邦判事強盗殺人事件』の真相を暴き、殺人犯を証拠とともにFBIへ引き渡すと同時に、殺人犯が隠し持っていた『金の延べ棒』をちゃっかり着服してしまいます。
普段は権威や権謀術数を振りまわすFBIや連邦司法機構が、主人公や共犯者たちから、翻弄され『こけにされる』物語の展開に、アメリカの読者は『判官びいき』で喝采を送ることになるのでしょう。手段はともあれ、これも『アメリカン・ドリーム』の一種なのかもしれません。
英語で『難しい本』を読むのも、ボケ防止になりますが、時折この様な面白い『娯楽小説』を読むのは息抜きになります。、

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2019年6月16日 (日)

ジョン・グリシャムの小説『The Racketeer』(3)

この小説は、一介の無名の弁護士が『正義』をかざして国家権力の不正を暴くといった、ありきたりの勧善懲悪の物語ではありません。自分の罪を免除してもらうための後ろめたい『司法取引』や、司法や警察が、法的に訴追できないスレスレの『灰色な行為』を見事に駆使して、『刑の免除』『別の人物(自由人)への変身』『巨万の富』を手に入れるという、破天荒な物語です。
最後の最後で、大ドンデンガエシがあり、すべてが水泡に帰して、主人公は再び刑務所へ逆戻りするのかもしれないと、予測しながら読みましたが、主人公にとって『ハッピーエンド』が待ち構えていて、『ヤレヤレ』と安堵しました。
読者は、『怪盗ルパン』や『鼠小僧次郎吉』の話を読むような気持で、『憎めない悪党』が展開する痛快さを共有しながら読むからでしょう。作者は読者の『判官びいき』の心理を熟知しています。
この本の『あとがき』で、著者の『ジョン・グリシャム』は、すべてがフィクションであり、モデルとなった事件や人物は一切ないと述べています。しかし、この破天荒な物語に、物語としての整合性をあたえるために、大変苦労したことも告白しています。法律に関する豊富な知識や、過去の判例の内容を熟知していなければ、物語の構成は思いつきませんが、それでも苦労したというのがホンネなのでしょう。あらゆる因果関係に矛盾がないような入念な配慮がなされていることは確かですが、あまりに『できすぎ』の感があり、『現実はこうはいかないだろう』と梅爺は思いながら読みました。しかし、『娯楽小説』と割り切れば、飛びきり面白い作品です。
『ジョン・グリシャム』は、多作の小説家で、出版したほとんどの小説がベストセラーになり、多くは『ハリウッド』で映画化されていますから、著作権や版権で多大な収入を得ているはずです。『ストーリー・テリング』に秀でた才能の持ち主で、『アメリカン・ドリーム』の実現者の一人です。この『The Racketeer』という小説も、『ハリウッド』が飛びつきそうな作品です。
著者がいくら『これはフィクションです』と主張しても、アメリカの読者は、『このようなことが起きても不思議ではない』と感じながら読むはずですから。梅爺のような日本人の読者は、『アメリカ社会』の現実を、この小説からうかがい知ることになります。
この小説では、殺された連邦判事が、自らの裁判の被告である大企業(環境汚染で住民から訴えられている)から、『闇ルートで流通する裏金工作用の金の延べ棒』を賄賂として受け取っていたことが、明らかになります。
日本に例えれば『最高裁判事』が、係争中の大会社から、『賄賂』を受け取っていたという話ですから、日本の作家は、そのようなプロットの設定に二の足を踏むのではないでしょうか。アメリカの小説や映画は、『大統領の不正』や『政府要人の不正』を平気で、物語に組み込みます。勿論、一方で『大統領』を『ヒーロー』として描いたりもします。この様に『架空の人物』とはいえ、権力者は『悪を働いても不思議ではない』と抵抗なく受け止める国民の『価値観』は、日本人から観るとやや異文化に感じます。もっとも日本の若い人たちの『価値観』は、アメリカのようになりつつあるのかもしれません。

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2019年6月15日 (土)

ジョン・グリシャムの小説『The Racketeer』(2)

この小説で、主人公が利用するのが『司法取引』です。『国家権力』に重大な事実を告げ、関連する裁判で『国家権力』に有利な証言をするなどの取引条件で、罪人が自分の罪を軽減、または無効にしてもらうのが『司法取引』です。
日本にも『司法取引』がありますが、アメリカのそれは、『そこまでやるか』と云いたくなるほど徹底しています。重大な裁判で『国家権力』に都合の良い証言をすれば、被告がギャングや悪党一味であったりすれば、彼らから命を狙われることになりますので、証言する際には被告から顔が見えないような遮蔽が施されて、声も電子装置で変えて証言台に立つことになります。それでも悪党一味は、証言者が裏切り者の誰であるかは見当がつきますから、命が狙われることには変わりがありません。
この『証言者』を保護する為に、『国家権力』は、『証言者』を全く新しい別人物に仕立てることを支援します。『別の名前』『別の(仮想の)履歴』『別の社会保障ナンバー』『別のパスポート』『別のクレジットカード』『別の運転免許証』などが賦与され、『証言者』が望む場所への移住、就職なども斡旋します。当座の生活資金も賦与され、望むなら『整形手術』で容貌も会えることができます。日本の『司法取引』にはこのような徹底した『保護プログラム』はありません。
FBIは、この『保護プログラム』は完ぺきで、『証言者』の安全は保障されると主張しますが、現実には、『証言者』がギャングなどに暗殺されてしまうケースがないわけではありません。『国家権力』側から秘密が漏えいしてしまうためで、アメリカ社会の闇がそこにあります。
刑期の半分である5年間が経過した時、主人公とは一見かかわりがないように見える『強盗殺人事件』が刑務所の外で起こります。被害者は連邦判事の要職にあった人で、人里離れた被害者の別荘で、秘書で愛人の女性と密かに週末を過ごしていたところを強盗に襲われ、二人は無罪に殺害されると同時に、地下にあった金庫の中身が奪われます。この金庫の中身は、物語の後半で、闇ルートで流通する『金の延べ棒』であることが判明します。鋳造者が誰であるか分からない裏金工作用の『金の延べ棒』で、何故これを連邦判事が保有していたのか、それを強盗殺人犯は何故知っていたのかが、物語のカギをにぎることになります。
国家司法機構の要職にあった人物が殺されたとあって、メディアはこの事件を大々的に報じます。FBIや警察は、威信にかけて犯人を捕らえようとしますが、何一つ手掛か見つからず、窮地に追い込まれます。
この時、主人公は、『私は、この事件の犯人が誰で、犯行動機も知っている』と主張し、この情報提供で『司法取引』をしたいと申し出ます。つまり、刑を免除してもらい、自由人として出所したいと願い出たことになります。ここから、主人公と司法機構、FBIの間の虚々実々のやりとりが始まり、読者も『一体どうなるのだろう』と興味に駆られて読み続けることになります。

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2019年6月14日 (金)

ジョン・グリシャムの小説『The Racketeer』(1)

アメリカの人気小説家『ジョン・グリシャム(John Grisham)』の小説『Racketeer』を、アマゾンの電子書籍リーダー『Kindle』にダウンロード(英文)して読みました。『ジョン・グリシャム』は、日本で云えば『松本清張』のような作風で、アメリカ社会の問題を推理小説仕立てで作品にしています。自身も弁護士であったことから、弁護士を主人公にした法廷を舞台とする作品が多いのも特徴です。今まで読んだ作品の感想は『梅爺閑話』に記載してきました。カテゴリー『ジョン・グリシャム』で検索できます。
日本とアメリカの裁判システムの違いを、梅爺は『ジャン・グリシャム』の小説を読むことで学ぶことができました。
『Racketeer』は、英語では『不正な方法で金儲けをする人』の意味ですが、日本での翻訳本は『脅迫者』という表題で売られているようです。脅迫で金を奪うことは『Racketeer』の一つの行為ではありますが、『脅迫者』は『Intimidator』が一般的な表現です。
『Racketeer』の主人公は、アメリカ南部の小さな町で、弁護士事務所の共同経営者であった黒人の中年弁護士がです。大学時代の友人の口車に乗せられて、ワシントンの悪徳ロビイストの『マネー・ロンダリング』に結果的に加担することになってしまい、FBIの追求を受けて、裁判で10年の実刑判決を受けて、刑務所へ送られてしまいます。
これで、家庭は崩壊し、妻とは離婚、一人息子も妻に引き取られ、父親が刑務所へ面会にくるだけの、孤独な人生を突然強いられることになりました。主人公は、大学時代の友人や悪徳ロビイストに『騙された被害者』であって、犯罪の『加害者』ではないという意識が強く、FBIをはじめとする国家権力に対して復讐心を募らせます。
しかし、現実にはなすすべもなく、刑期の半分が経過します。読者は、『国家権力』に対して『弱者』である主人公に心情的に同情しながら、読み進むことになりますが、刑期の5年が過ぎたところから、物語は意外な展開を始めます。
推理小説の筋書きを、詳細に明かすことは、ルール違反ですし、これからこの小説を読まれる方の興をそぐことになりますから避けますが、この小説は主人公が『国家権力』に対して見事な『復讐』を果たして、『メデタシ、メデタシ』で終わります。主人公に心情的な共感を覚えていた読者も一緒に溜飲を下げることになります。
主人公と『国家権力』が、狸と狐のような化かし合いを展開しますが、主人公の仕掛けた精緻な『ワナ』が次々に功を奏し、結果として主人公は、『国家権力』から訴追されない『自由人』になります。
よくできたストーリーであるが故に、本当にこんなにうまくいくのかと疑いたくなるところもありますが、娯楽小説と割り切れば、面白い作品です。

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2019年6月13日 (木)

『侏儒の言葉』考・・政治的天才(4)

『政治家』が民衆に迎合するために、一度ある『仮面』をかぶってしまうと、その『仮面』は二度と外せない状態になり、はずせば命取りになると『芥川龍之介』は書いて、『徒然草』に出てくる座興に『鼎(かなえ)』を頭にかぶったら、脱げなくなり難儀する『仁和寺の和尚』の逸話を紹介しています。

『徒然草』には、『仁和寺の和尚』に関する逸話が三つ載っていますが、上記の話は2番目のもので、一座の座興を買うために、調子に乗って『鼎』をかぶってみせたところまではよかったのですが、脱げなくなって大騒ぎになり、医者に頼んでも埒(らち)が明かず、結局、耳や鼻を削ぎ落してようやく脱ぐことができたという、滑稽で凄惨な話です。

良かれと思ってやったことが、とんでもない不幸を招くことがあるという教訓ですが、逆に『災い転じて福となす』という諺もありますから、人生に運不運はつきものということなのでしょう。このことを日本人は『禍福はあざなえる縄のごとし』『人生すべて塞翁が馬』などと云い現わしてきました。

無難を優先して、何もしなければ安泰で幸運な生活が送れるわけでもなく、リスクを犯した挑戦が、幸運を呼び寄せることもあります。将来の予測は誰もが行いますが、将来を言い当てることは誰にもできません。自分は将来は見通せないけれど、きっと見通せる人がいるに違いないという期待が、『預言者』『陰陽師』『占い師』などを人間社会に生み出します。『科学』の分野の『予測』だけは、『摂理(自然界を支配するルール)』をもちいた因果関係の推論ですので、的中するか的中する確率が高いものになります。『天気予報』はこれに該当しますが、『北朝鮮の将来』は『天気予報』のようには予測できません。

『政治的天才』の話が、大分逸れましたが、梅爺は『芥川龍之介』ほど『政治的天才』を頭ごなしになじる気持ちにはなれません。『政治的天才』の手腕をぜひ拝見してみたいと思わないわけではありません。

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2019年6月12日 (水)

『侏儒の言葉』考・・政治的天才(3)

『政治的天才』は、民衆の支持を得るために俳優のように振る舞うところがあると『芥川龍之介』は書いています。そして、以下のように『ナポレオン』を例に挙げています。

ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅(わず)かに一歩であると云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉に相応(ふさわ)しそうである。

うろ覚えですが、『チャップリン』も『笑いと涙は紙一重』というようなことを云っていたような気がします。『街の灯』『キッズ』『独裁者』『ライムライト』などの名作を観れば、それが良く分かります。

人間の行為や、人間社会の事象には、普遍的な評価基準がありませんから、視点や価値観を変えて観ると『荘厳』は『滑稽』に、『笑い』は『涙』に変わります。洞察力の深い人は、この様に多面的に物事を観ることができる人です。人間の『精神世界』は個性的で、沢山の価値観が存在することを認めているからです。逆に、一つの価値観だけにこだわる人は、『ぶれない人』『信念を貫く人』などと高い評価を得ることもありますが、『融通が利かない人』として、周囲を辟易させることもあります。

多面的な価値観の存在を認めながら、必要な時に自分が最優先する『価値観』を勇気を持って選択し提示できる人が、『真の大人』ではないでしょうか。なかなかそういう人はいません。

パリのルーブル美術館には、『ナポレオンの戴冠式』を描いた『ダヴィッド』の大作が展示してあります。跪(ひざまず)く『ジョセフィーヌ』に王妃の冠を授けようとしているのは、後ろに座す『ローマ法王』ではなく、『ナポレオン』自身であることが、『最高の権力者は私である』と民衆に伝えるための『しかけ(演技)』であるといわれています。

『権威』を『荘厳』で演出しておきながら、『ナポレオン』が『荘厳と滑稽との差は僅か一歩である』と本当に発言していたとすれば、全く『喰えない男』であると苦笑はさせられますが、さすがに人間や人間社会への洞察は鋭いと感心もさせられます。『織田信長』『豊臣秀吉』『徳川家康』なども同様の人物であったのではないかと思います。

誰もが『自分をよく見せかけよう』として、『肩書』やら『衣装』やら『化粧』にこだわったり、ある種の『演技』を無意識に行ったりしているわけですから、梅爺は『人を欺く行為』として『けしからん』と糾弾する気にはあまりなれません。

下手な演技で馬脚をすぐに現すのは、程度の低い人で、有能な人は、たとえ演技であれ、周囲を不快にはさせません。

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2019年6月11日 (火)

『侏儒の言葉』考・・政治的天才(2)

『芥川龍之介』の『政治的天才』を読むと、『政治家』はおしなべて『権謀術数で民衆を操る信用のおけない輩』であるという印象を受けます。

『民衆の意思』を名優の演技のよう受け容れるように振る舞い、民衆が好む『大義』も尊重するように見せかけ、実は『自分の価値観』で物事を進める狡猾な人間であると、蔑むように断じているからです。

しかし、『民衆の意思』はかならずしも深慮に富んだものではなく、民衆が好む『大義』も刹那的で身勝手なものである場合もありますから、一人の『政治的天才』の洞察の方が、後々その社会を利するものであることがないわけではありません。

『民衆の意思』や『民衆の好む大義』に、迎合するだけでは、単なる『ポピュリズム』で、とても有能な政治家とは言えませんから、たとえ『権謀術数』を弄しても『自分の意思』を貫く政治家の方が信頼に足る場合もないわけではありません。

本心は『私利私欲』優先であったり、『人間社会』のリーダーに最低限必要な教養さえ持たぬ『政治家』は論外ですが、人間は誰もが、生きていく上で、『自分に有利なこと』を獲得しようと、程度の差はあれある種の『権謀術数』を弄しながら行動しているわけですから、『政治的天才』にも情状酌量の余地があるように梅爺は感じます。

『芥川龍之介』は、色々な人生の体験から『政治家』は、胡散(うさん)臭い人たちで、その中の『天才』などと呼ばれる人物は、更に胡散臭いと、直感的に受け止めていたのかもしれません。端的にいってしまえば『政治家』がきらいであったのでしょう。

現在の『民主主義』は、『政治家になりたい人』が『政治家』になり、『政治家にふさわしい資質を持った人』は、そもそも『政治家』になりたがらないという問題を抱えています。『民主主義』を信奉するアメリカで、『トランプ大統領』のような人物が選ばれてしまうことが端的な証左です。『民衆の意思』などはそれほどあてになるものではないことが分かります。

少々あくの強い『政治的天才』が出現してくれた方が、社会のためになるのかもしれません。因みに『トランプ大統領』はあくが強いことは確かですが、とても『政治的天才』とは思えません。

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2019年6月10日 (月)

『侏儒の言葉』考・・政治的天才(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』の中にある『政治的天才』に関する感想です。

『侏儒の言葉』をこれまで読んできて、『芥川龍之介』の、発想、表現はあらかた予測できますので、『政治的天才』の内容も、読む前からある程度予想することができました。

そして、読んでみて想像通りであることが分かりました。一言でいえば『シニカルなものの観方』が『芥川龍之介』の特徴です。

梅爺も、へそ曲がりでは人後に落ちませんので、『ひねくれたものの観方』をする方ですが、それでも『芥川龍之介』の『蔑むような冷笑』には少々辟易します。

『芥川龍之介』は、『凡庸な読者の皆さんは、そう考えたことがないと思いますが、実はこういうことなのですよ』と言わんばかりに、断定的に自論を展開します。この高圧的な断言に、一部の読者は『さすがに頭の良い方は違いますね』と畏れ入るかもしれませんが、多くの読者には良い印象を与えないような気がします。

『冷笑』は、人間の長短あわせもつ本質を、笑い飛ばす日本人の好きな『諧謔』とは似て非なるものです。梅爺は『冷笑』より『諧謔』が好きです。

『政治的天才』の一部を抜粋で以下に紹介します。

古来政治的天才とは民衆の意思を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意思を民衆の意思とするもののことを云うのである。少なくとも民衆の意思であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に、政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。(中略)
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛(なげう)たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用いなければならぬ。しかし、一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆(たお)れる外はない。

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2019年6月 9日 (日)

科学はガンを制圧できていない(4)

昨今の、『ガン』に関する科学的な多くの知見の獲得は、やがて人類を『ガン撲滅戦争』に勝利するであろうことを予感させます。

その勝利の日を見とどけたり、その成果の恩恵を被ることは、梅爺はないと思いますが、過去の人類のすべてが、同じ環境で生涯をとじてきたわけですから、梅爺だけが、『甘い汁を吸おう』と考えるのは勝手すぎると戒めています。

梅爺は、最近の大腸カメラ検診で、ポリープがいくつか見つかり、大きなものは切除しましたが、その一つのポリープの細胞から『がん細胞』が見つかっていますので、少なくとも自分の中で『突然変異』が起こり、増殖の過程にあったことは事実として受け容れています。

その後のCTによるリンパ検査で、他の部位への『ガン』の転移は見つかっていませんが、現状は『執行猶予』で生きていると考えています。『自分はガンとは無縁である』などと根拠のない盲信で、不安を打ち消して生きていくより健全であろうと考えています。

『ガン』に関する一般論で、自分の『ガン』をすべて説明できませんし、個性との関係を含めて『ガン』のすべてが解明できていない現状では、『分からない』ことを抱えて生きている現実を覚悟して受け入れなければなりません。

別に『ガン』だけではなく、私たちは『分からない』ことをたくさん抱えながら生きていますので、『ガン』だけを目の敵にしても始まりません。

『ガン撲滅戦争』に勝利しても、人類は『永遠の命』を保証されるわけではありません。次なる『○○撲滅戦争』にまた勝利しても同じです。

ただ、人類が長寿になると、人間社会は、今度は『異なった深刻な問題』を抱えるはずです。個人が長生きすることはおめでたいことですが、全員が長生きすると『社会』は問題を抱えるという矛盾を人類はどのように克服していくのでしょう。

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2019年6月 8日 (土)

科学はガンを制圧できていない(3)

ノーベル賞を受賞した『本庶佑(ほんじょたすく)』先生の、免疫を利用した『ガン治療薬オプシーボ』が話題になっていますが、『オプシーボ』は、『劇的に効果がある人』『効果が表れな人』『副作用に苦しむ人』と分かれるため、『その原因を探ること』が次の研究課題であると、先生は述べています。

『正常細胞』が何かの理由で『がん細胞』へ突然変異することは、避けられないとしても、自分の免疫能力を利用して、『がん細胞』の増殖を抑制し、消滅させる『免疫療法』は、『ガン治療』の主流であるように梅爺は感じます。従来の『放射線療法』『化学療法』などに比べて、患者への負担が少ないからです。

効果の個人差の原因が究明され、誰にでも適用できる『一般薬』が発明されれば、大変結構ですが、個人の特性に合わせた『特殊薬』が必要と言うことになれば、薬も高価になり、経済的な理由で、誰もが利用できるとは限らないことになるかもしれません。

60兆個の『細胞』が、個々にその目的を果たし、相互に綿密な連携をしながら私たちの『命』は支えられています。

『細胞』は『物質世界』に属する実態であり、その活動は『物質世界』の『摂理』だけで支えられています。すべてが正常であって欲しいと『精神世界』で『願ったり』『祈ったり』しても、『物質世界』の事象にそれが反映することは原則としてありません。

原則としてないと言ったのは、ネガティブな『情感』は、それに対応するホルモンを分泌させることになり、そのことで免疫力が落ちることがあったり、逆にポジティブな『情感』は、それに対応するホルモンを分泌させ、結果的に免疫力を高めることがないとは断言できないからです。

つえり、『精神世界』が『物質世界』に全く影響を与えないとは言えないという推測で、日本人はこれを『病は気から』と鋭く感じ取ってきました。

できるだけ『ポジティブ』な『情感』を維持し、『好々爺』に徹することができれば、梅爺も少しは長生きできるかもしれませんが、いつでも『好々爺』は、至難の業です。

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2019年6月 7日 (金)

科学はガンを制圧できていない(2)

『ガン』は、私たちの身体を構成している60兆個の細胞の一つが、『何かの原因』で、生命にとって不都合な『がん細胞』に突然変異し、しかも『自己増殖』してやがては、生命を脅かし、死へ誘うという病気のことです。

勿論『人間』は『個性的』ですから、同じ状態に遭遇しても、『がん細胞』に変異する人と、しない人がいますし、『がん細胞』を自らの免疫力で、初期に治癒してしまう人と、それができずに『がん細胞』の増殖を許してしまう人がいることになります。

一般に、私たちの体内では、日常的に『がん細胞』が発生しますが、それを免疫力で治癒しているために、大事にはならないのだと聴いたことがあります。60兆個の細胞の数を考えると、『そうなのだろう』と思います。

免疫力による治癒を、なんとか潜り抜けた『がん細胞』が増殖して、『ガン』が発症するとすると、『運が悪い』と言いたくなりますが、『ガン』になり易い体質、なりにくい体質が、遺伝と関係して存在するという話も聴きますので、『ガン』が発症するかどうかは、『偶然』の要素ばかりではないということなのでしょう。

喫煙、食事(食材)、ストレス、運動が『ガン』発症に関係していると言われますが、可能な限りの対応をしたとしても、『ガン』にならないとは限りませんから、厄介です。それに、人間にストレスのない生活をしろというのは、無理難題です。十分運動しているアスリートは、『ガン』にかからないということでもありません。

『ガン』の原因要素と、発症の関係は、統計学的な表現としては、意味のあることですが、個性的である『個人』にとっては、かならずしも当てはまることではないということが問題を複雑にします。

『ファストフードのジャンク・フードを食べ続けるとガンになり易い』『有機栽培の野菜を食べればガンになり難い』などという表現は、統計学的な因果関係としては、間違いとはいえないにせよ、『ジャンク・フード』をある量食べれば誰もが『ガン』になるわけでもなく、『有機栽培野菜』を食べていれば絶対『ガン』にならないということを考えると、『曖昧な指針』にすぎません。

メディアが『○○(食材)にはガンを抑制する』などと報ずると、次の日にショッピング・センターの棚から『○○』が消えるなどと言う現象は、何か過剰反応すぎるようなきがします。しかし、『藁にもすがりたい』という庶民の心情は分からないでもありません。

『人間』は『個性的』であるという要因が、『ガン撲滅戦争』でも大きな障壁であることが分かります。

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2019年6月 6日 (木)

科学はガンを制圧できていない(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の91番目のタイトルは『Science has not brought us closer to understanding canser.(科学は、ガンに関する私たちの理解を深めてくれてはいない)』で、著者はジャーナリストの『Xenijardin』です。

このエッセイが書かれたのは、今から7~8年前ですから、現時点では事情が変わっている可能性を理解して読む必要があります。ただし、梅爺は、『ガン』に関する人類の理解が、この7~8年で『どれほど変わったのか』について、皆さまにお伝えできるほどの知識を持ち合わせていませんので、原則として、このエッセイの著者の主張をご紹介します。

アメリカでは、1971年にニクソン大統領が、『アメリカのガン撲滅戦争』を宣言しましたが、このエッセイが書かれた約40年後でも、アメリカはこの『戦争』に勝利したとはとても言えない状態であることを、著者は危惧しています。

過去20年間(このエッセイが書かれた時点を現在として)、乳がんで死亡したアメリカ女性の数は、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で戦死したアメリカ兵士の総数を上回っていると書かれています。

ガンの治療は、見つかった『がん細胞』をとにかく取り除くという対症療法が主流で、これでは、雑草が見つかったら除草するということと同じで、『ガン』『雑草』が根絶される保証はありません。

『放射線照射』『化学薬品投下』なども、対症療法で、副作用など患者への重い負担が問題視されてきました。患者の中には、『あんな苦しい治療を受けなければならないのなら、死んだ方が良い』と発言する人も出てきます。

現状の『ガン撲滅戦争』は、相手の攻撃をなんとか押しとどめる程度の戦果に止まっていて、とても『勝利』の兆しが見えてきたといえる段階ではないということでしょう。

優秀な多くの科学者、医者が、懸命に『ガン』に挑戦しているにも関わらず、現状は上記のようなものであるということは、誰かを『怠慢』となじることもできません。それほど『ガン撲滅戦争』は人類にとって難しいものであると、受け止める必要があります。

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2019年6月 5日 (水)

不安を有効に活用しよう(6)

『不安』を、ポジテブな活動のエネルギー源にする方法を考えるべきだ、『不安』を有効に活用すべきだなどと言われても、具体的な方法はすぐには思い浮かびません。 

『ネガティブ思考は止めて、ポジティブ思考で対応しなさい』と言う説得は『ごもっとも』ですが、それで本当に『ポジティブ思考』ができるようになるとは限りません。 

政治家の『前向きに対処する』『粛々と対応する』『慎重に検討する』『再発防止に努める』などという答弁と同じで、具体的な対応策がないことには変わりがありません。

『生きている』以上『不安』は必ず付きまとうわけですから、『不安』がない状態を実現する方法は論理的にありません。そうであるとすれば、『不安(現時点で抱えている)』の存在を認めたうえで、それへの対応を考えるしかありません。

『不安』とそれを引き起こしている『原因』の『因果関係』は通常推論できます。『胸騒ぎ』『虫の知らせ』などという、『原因』が曖昧に見える『不安』もありますが、よく考えてみると、必ず『脅かされる安泰』の正体は思い当たる筈です。

現在抱えている『不安』は、以下のように分類できます。

(A) 『因果関係』は分かっているが、自分の能力では対応の術がない『不安』。
   - いつか訪れる自分の死
   - 大災害(地震、惑星の地球への衝突など)への遭遇
   - 受験結果発表待ち、健康診断結果通知待ち
(B) 自分の能力で、『不安』を緩和、解消ができるかもしれない『不安』。
   - 『健康寿命』を延ばすための日ごろの努力
   - 論理思考で、実行可能な具体策を創出
   - スポーツ選手のトレーニング

(A)は、考えても対応の術がないわけですから、『覚悟』して付き合うしかありません。『自分の死』は避けられませんが、『せめて生きている時間を大切にしよう』と、視点を切り替えるほかありません。

(B)は、このエッセイが『不安を有効に活用する方法』といっているものにあたるのかもしれません。『不安』の一部は、確かに将来へ向けての行動のエネルギー源となります。しかし、これは『不安』を前向きにとらえる能力のある人の話で、『もうダメだ』とすぐあきらめる人にとっては、『不安』はネガティブにしか働きません。

 

『前向き』『楽観的』などという性格は、人間の『精神世界』が『個性的』であることで生ずる属性ですから、『そうしなさい』と教えれば『そうなる』ものではありません。

 

同じような『不安』を抱えても、対応は人によって異なるわけですから、『不安』を有効に活用する一般的な方法などありません。

 

『難問』に挑戦する人たちがいたからこそ、『文明』は発展してきたとも言えます。梅爺のようなすぐ『逃げ腰』になる人間には、『タフ』な人は羨ましい、ありがたい存在です。

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2019年6月 4日 (火)

不安を有効に活用しよう(5)

このエッセイが指摘していることで、梅爺が従来主張してきたことと一致する点は以下です。

(1) 『人間』の『不安』を感ずるレベルは、一人一人異なっている(個性的)。
(2) 脳の『予測』能力が、その一面として『不安』を生み出す。
(3) 『不安』は、人間の行動のエネルギー源になることがある。

『人間』が宿命的に『個性的』な存在であるのは、『両性生殖』という方法を子孫を残す方法として『生物進化』の過程で採用したからです。両親の『遺伝子』の偶発的な組み合わせで子供の『遺伝子』が決まります。『人間』の『遺伝子』の構成要素は3万種程度と言われていますので、組み合わせ結果が『個性的』となるのは当然の話です。現在地球上に存在する75億人の『現生人種』の、体格、容姿、能力、嗜好などが異なる(個性的)のはそのためです。子供が誕生するプロセスは、『物質世界』の『摂理』で支配される事象であり、『子授け祈願』が功を奏して子供が生まれるわけではありません。

『人間』が『個性的』であるということは、誰もが日常的に感じていることですが、それが『人間社会』に与える深遠な意味を、多くの方々は見過ごしておられるように思います。『戦争』『差別』『いじめ』などが根絶できない理由が、ここにあります。『異なっている』という事実に、『正しい、間違い』という判断を下そうとすることが、齟齬(そご)の原因になります。『正しい、間違い』という普遍的な判断が可能なのは、『科学』や『数学』の世界の事象だけで、『人間』の『精神世界』の『価値観』が絡む事象に、それを持ちこむことは慎重を要します。『価値観』は『個性的』であって、普遍的ではないからです。

『脳』が、周囲の事象を『自分にとって都合が悪い』と判断した時、または『脳』の『推論能力』が、『自分にとって都合が悪い』結果を導き出した時に、脳内には危険を知られる『ホルモン』が分泌され、それが、『精神世界』の『不安』として表現されます。『パニック』で『頭の中が真っ白になる』『血圧が上がる』『体が金縛りにあったようになる』などは、上記の『ホルモン』が引き金となって起きる現象です。

『自分にとって都合の悪い』事象に遭遇すると、人は以下の行動を選択します。基本的には、動物が『危険』に遭遇して時の対応と同じです。

(1) 逃げる。
(2) 立ち向かう(戦う)。
(3) 無視する(立ちすくむ)。

(2)の『立ち向かう』は、『不安』を人間が次なる行動のエネルギー源としていると観ることができます。

『文明』の大半は、この『立ち向かうエネルギー』で発展してきましたから、『不安』を悪者扱いせずに、対応を考えよという、このエッセイの著者の主張は一理があります。

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2019年6月 3日 (月)

不安を有効に活用しよう(4)

昨日も書いたように、『不安』は単独で存在するのではなく、必ず対となる『安泰(への希求)』があります。

『こうあって欲しい』というのが『安泰の希求』であり、『そうならなかったらどうしよう』というのが『不安』です。『生の維持(健康)』は『安泰』であり、それを阻む『死』は『不安』を喚起します。『合格』『勝利』は『安泰』であり、それを願いながら『落第』『敗北』を想像して『不安』になります。 

『願い』や『期待』は、『安泰の希求』に外なりません。『祈り』は、それを聴き届けて対応してくださるであろう『神仏』の存在を『信じて』行う行為です。 

『苦しい時の神頼み』は、諧謔に富んだ日本の諺で、普段は『神仏』に無関心な人が、追い込まれてにっちもさっちも行かなくなると、『なんとかお助けください』と手を合わせるご都合主義を笑い飛ばしたものです。言い換えれば、『安泰』が確保されている時、人は『神仏』のことを忘れてしまう習性があると、人間の本質を鋭く見抜いているように思えます。時に庶民は哲学者より、鋭く人間を観ています。『のど元過ぎれば熱さを忘れる』と庶民は喝破しています。『安泰』を希求しながら、『安泰』が手中にある時は、それを『安泰』であると感じないという厄介な習性です。

『人間』は『安泰を希求する』ために、それと一緒に必ず『不安』を抱え込むことが宿命であったために、その『不安』を解消してくれる『神仏』という虚構の概念を思いついたのであろうと梅爺は思います。

『神仏』が存在するから『心の安らぎ』が得られるのではなく、『心の安らぎ』を得るために『神仏』という概念を必要としたということではないでしょうか。『神仏の存在』という思いつきは卓抜であったが故に、現在にまでそれが『宗教』として継承されてきたのでしょう。

勿論『無神論者』も人間ですから、『不安』を抱えますが、それは『神仏』とは無関係なものであることを理性で認識し、別の対応方法を模索しようとしているに違いありません。梅爺の場合は、『覚悟して耐える』か、『それがどうした』と強がって開き直るかして対応しています。

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2019年6月 2日 (日)

不安を有効に活用しよう(3)

周囲の事象を『自分に都合が悪い』と判断した時に、『精神世界』に『不安』が生じます。生きていく上で必ず『都合が悪い』事態に遭遇しまうから、生きている以上常に『不安』が付きまとうのは当然です。

人間の『精神世界』は、現在の事象だけではなく、将来を予測する『推論能力』を持ち合わせていますので、『不安のタネ』を自分で推測して、『不安』になります。

この将来を予測する『推論能力』は、人間の能力の大きな特徴です。近い将来は他の動物も『予測』して行動することがありますが、遠い将来まで見通して『不安』を感じたり、その『不安』をはねのけるために行動しようとしたりするのは、『人間』だけです。

自分や自分が愛する人たちの将来の『死』や『病』は、『不安のタネ』になるのは当然のことです。

『私は死を恐れない』と言う人の、本心はこれまた推測するしかありません。本当に『死を恐れない』勇敢な人なのか、『不安』をかき消すために、強がりを言っているのか分からないからです。

『死(命の消滅)』に、誰もが『寂寥感』を感ずるは当然のことです。『存在が消滅』する以上に、衝撃的なことはないからです。

梅爺は、最近健康診断で、『大腸がん陽性』と診断され、大腸カメラで2度検査をしました。最初の検査で、数個の『ポリープ』が見つかり、検査と同時に切除処置をしたのですが、その『ポリープ』の一つから『がん細胞』が見つかりました。

その後、CTによるリンパ検査などを行い、現時点で他の部位へのがんの転移は見つからないということで、『執行猶予』の条件で、現在は元の生活へ復帰しています。

病院で梅爺の担当をしてくださった医師の先生は、『死』に関して以下の名言を梅爺に授けてくださいました。

(1) いつかは必ず死ぬ。
(2) しかし、そう簡単には死なない(死ねない)。
(3) でも、対応できない大きな力に襲われれば、あっけなく死ぬ。

いずれも『命』は『物質世界』の『摂理』で維持されていることに関することで、(3)は、災害、事故、犯罪などに巻き込まれれば、『あっけなく死ぬ』という意味です。

(2)は、『人間』の生命力(免疫力など)は、想像以上に強靭であるという意味なのでしょう。

梅爺は、この様に言ってくださる先生を『冷たい人』とは全く感じず、むしろ『生かされていることに感謝しなさい』と暖かく諭してくださったのだと感じました。

『不安』を和らげようと、遠回しな説明を受けるより、この様に正面からズバリと指摘された方が、理性で割り切れて、むしろ乗り切る勇気がわいてきます。先生は、誰にもこの様に話すのかどうかは分かりませんが、梅爺の性格を見抜いて、話してくださったのでしょう。

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2019年6月 1日 (土)

不安を有効に活用しよう(2)

『不安』は、このオムニバス・エッセイ集の一つ前のエッセイとして紹介した『ストレス』とほぼ同じ意味を持ちます。

生物進化で、目覚ましい進化を遂げた『人間』の『脳』のおかげで、『精神世界(心)』という広大な『仮想世界』を私たちは保有するようになりました。

地球上に生息する生物の中で、『人間』だけが、飛びぬけたレベルの『精神世界』を保有しているといってよいでしょう。他の生物は『精神世界』は保有していないとは言えませんが、それは『人間』の『精神世界』に比べれば、稚拙なレベルに止まっているように思えます。

75億人の『ホモ・サピエンス』が、事実上、最上位の生物として地球上に君臨できているのは、『精神世界』のおかげです。

『文明』は『精神世界』なしでは築けなかったでしょうし、『科学』『宗教』『芸術』『哲学』などは、出現しなかったに違いありません。

善いことばかりではなく、『戦争』『宗教対立』『イデオロギー対立』など、人類の存続を脅かすような事柄も、『精神世界』が生み出しています。

私たちは『精神世界』だけを抜き出して論ずる傾向が強いのですが、忘れてはならないのは、『精神世界』は『脳』が創り出す『仮想世界』であるということです。『肉体』や『脳』は、自然界を支配している『摂理(法則)』だけで制御されている『物質世界』に属する実態の一つです。私たちが『生きている』のは、命の維持を『摂理』が許容しているからで、許容できない条件に遭遇すれば、命は存続できなくなります。

言い方を変えれば、『命』は、ある許容範囲で『動的な平衡』が保たれているということになります。『命』は、『物質世界』の他の事象と同様で、『動的な平衡』が引き起こす『変容』の一つにすぎません。『宇宙』も『動的な平衡』で、『変容』を続けている事象です。

申し上げたいことは、『物質世界』と『精神世界』は『地続き』であるということで、『精神世界』だけを抜き出して論ずると、おかしな結論になることもあるということです。

 

一番端的な話は、『精神世界』はホストである『脳(物質世界の実態)』が、活動を停止すれば、一緒に消滅するということです。パソコンの電源が切れれば、一切のアプリケーションの作動は存在しなくなるのと同じです。つまり『人間』は死ねば、『精神世界』は無に帰すということですが、多くの人は、この事実を素直に受け入れようとしません。

『死』で肉体が滅びることは、さすがに認めざるを得ないとあきらめますが、せめて『霊』だけは永遠に存続してほしいと『願う』ために、『霊の存在』『あの世の存在』を『宗教』が説けば、待ってましたとそれに飛びつきます。『千の風になって』などという歌が、まことしやかに歌われます。

『精神世界』は周囲の事象が、『自分にとって都合がよいことか悪いことか』を常に判断しようとします。生物として『生き残る』為にそれが一番重要であるからです。

この習性を梅爺は『安泰を希求する本能』と呼んでいます。『精神世界』の本質を理解するにはこの『安泰を希求する本能』について知ることが必要になります。

崇高に思える『科学』『宗教』『芸術』『哲学』なども、元はと言えばすべて『安泰を希求する本能』から派生した分野であるということです。

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