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2019年5月31日 (金)

不安を有効に活用しよう(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の90番目のタイトルは『Putting Our Anxieties Work(不安を活用する)』で、著者はニューヨーク大学の脳科学、心理学の教授である『Joseph LeDoux』です。

私たちが日常抱える『不安』についての短いエッセイです。内容は、梅爺が従来『精神世界』の特徴をブログで述べてきたことと、ほぼ一致しますので、『世の中には、自分と同じように考えている人がいる』ことを知って、嬉しい気持ちになりました。

比較的短いエッセイですので、全てを梅爺の拙訳で以下に紹介し、その後感想を述べます。

『我々は何を危惧すべきか』ですって?それなら、あなたが『毒(有害なもの)』と感ずるものをを採りあげればよいでしょう。数えれば枚挙に暇(いとま)がないはずです。主要な新聞の最初のページを読むか、テレビのニュース番組を視聴するだけで、それは見つかるはずです。もし、あなたが危惧すべきことは、そんなに思い当たらないとおっしゃるなら、それ以上無理をされることはないでしょう。危惧する人は、いくらでも外におられるのですから。
『不安の時代』という表現は、よく使われる語彙になっていて、どの世代の人たちも、前の世代より自分たちは多くの不安を抱えていると主張してきました。しかし事実を申し上げれば、『不安』は人間の状態の一部で、生きていく以上必ず付きまとうものです。『不安』は私たちが『予測』をする『脳』を持ち合わせていることの代償として生じます。『予測』は、かならずしも過去の経験や知識では読み解けない将来を見通そうとする能力のことです。
私たちは『不安を抱える生物種』ですが、誰もが同じように『不安』を感ずるわけではありません。私たちは、一人一人異なった『不安を感じ、反応するレベル(閾値)』を保有しています。『不安』をひとつ取り除いてみても、それによって得られる『安泰』は、永続きしないことを体験しておられるでしょう。ひとつ『不安』を取り除いてみても、今度はまた異なった『不安』がそれに代わるだけで、私たちは、いつでもなにがしかの『不安』を抱えて生きています。
『不安』は、私たちにとってマイナスの要因です。『不安』による精神疾患を持たない人でも、脳神経細胞ネットワークには多くの『不安』の元となる情報が日常生活の中で飛び交っています。『不安』はかならずしも排除すべきことではなく、むしろ有益なものになり得ます。『不安』は、私たちの未来へ立ち向かう力を喚起します。危惧すべきことは、『不安』をただ憂(うれ)いるのではなく、それを利用する方法をどうして見つけるかということではないでしょうか。

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2019年5月30日 (木)

ストレス(6)

『ストレス』は人間にとって、実に厄介な存在で、過大すぎれば、耐えられず病になったり、最悪の場合は命を落としますが、一方『ストレス』がない状態が、長く続くと、退屈になったり、脳がボケてしまったりすることにつながります。

生きることに付きまとう『苦しさ』から、『極楽』や『天国』に私たちは憧れを抱きますが、実際に10日以上『極楽』や『天国』で過ごせば、『この退屈さに耐えられない』と今度は言い出すのではないかと、へそ曲がりな梅爺は考えています。

人間は生きていく上で適量の『ストレス』を必要とするということも理解しておく必要があります。しかし、どこまでが適量で、どこからが過大であるかの判定は難しいことですし、人によってその判定基準が異なりますから、単純に律することはできません。

前にも書いたように、私たちは『ストレス』に慣れると、それを『ストレス』と強く感じなくなりますから、個人的な『閾値(いきち)』は変動します。

スポーツ選手が、重要な試合に臨む前には『プレッシャー』を感じますが、そのような重要な試合の経験を何度も積むと、『プレッシャー』は減ります。

統計学的にいえば、現代は昔より『ストレス』に満ちていて、それが原因で病気になる人の比率が昔より高まっているという表現は間違いとは言えません。

しかし、現代人の病気の要因は、『ストレス』だけではなく、『食文化』や『環境条件』の変化も挙げられますから、このエッセイの著者が指摘しているように、最新の『科学知識』や『技術』を利用して、『病気』の予防にあたることは、望ましいことです。

個人にとって『命を維持すること』は最優先事項ですが、身に付けた『ウェアラブル・デバイス』が、頻繁に警告を発し、『あれはやってはいけない、これもやってはいけない』と忠告してきたりすると、『それでは、生きる楽しみがなくなる』などと不平を言ったりするのではないでしょうか。

『安泰を希求する本能』は、その都度勝手な価値観を持ちだしますから、人間は実に厄介な生物です。

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2019年5月29日 (水)

ストレス(5)

中世以前の人たちにとって、『周囲の摩訶不思議にみえる事象』を『因果関係』として受け容れる時に、『神』という概念で説明することは、大変説得性が高いものでした。歴史上人類が『精神世界』で考え出した抽象概念の傑作は、『神』『愛』『自由』『平和』『正義』など沢山ありますが、中でも『神』は傑出していると、、梅爺は畏れ多くも密かに感じています。それは『神の御心による』と言ってしまえば、すべてのことはそれで済むからです。『神の御心』は、言ってみれば『水戸黄門』の『葵の紋どころの印籠』のようなものです。

勿論、その時代も『神の存在』を疑う人はいましたが、社会の中では『冒涜者』呼ばわりをされ、大衆からは忌避されました。

現代のアメリカ人のアンケート回答でも、『息子や娘の結婚相手で一番避けたい人』は『無神論者』であるという話をどこかで読んだことがあります。『無神論者』は『人にあるまじき人』とみなされるということでしょう。

『宗教』の『主観(価値観)の共有』が、人間社会ではいかに根強い『慣性』を伴って継承されているかが分かります。

ところが、近世以降、人類は『科学』によって、多くの『摩訶不思議』の『因果関係』を、普遍的に説明できる『論理』で解明することに成功してきました。

勿論、すべての『摩訶不思議』が消滅したわけではなく、むしろもっと多くの『摩訶不思議』の存在に気付きましたが、少なくとも中世以前の人たちにとって『摩訶不思議』であったことの大半は、『科学』知識で説明できるようになりました。

『宇宙』『地球』『生命』『人間』『脳』『細胞』などの関係が、『物質世界』の『摂理』によって、関連付けて理解できるようになったということです。

『科学』には『虚構の因果関係』は持ち込めませんから、普遍的に『真偽』を問うことができる『因果関係』で説明がされるということです。『科学』の分野では、『信ずる』と言う行為はあまり意味を持ちません。

そして、この一連の説明は、従来の『宗教』が説いてきた『神』や『神の御心』の存在を必要とせずに成立することも分かってきました。

私たち現代人は、一方では『宗教』の価値観を『主観の共有』として継承していながら、一方では、『神』の存在を必要としない『科学』の説明を保有することになっています。

この様な状況に置かれたのは、人類の歴史の中で、私たちだけです。この特殊な状態を『社会学者』が何故人類にとって重要な問題として指摘しないのか梅爺には不思議です。『宗教』に不利なことを口にするのは『タブー』なのでしょうか。

『ストレス』の話から大きく脱線してしまいましたが、人類はこの状況にどう対応していくことになるのであろうかと、梅爺は興味を抱いています。

『宗教』はやがて消滅するのか、または『変容』して存在し続けるのかという興味です。仮に『宗教』がなくなった時に人間は『心の安らぎ』をどのようにして取得しようとするのかも気になります。

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2019年5月28日 (火)

ストレス(4)

私たちは『悩み』『悲しみ』に苛(さいな)まれると、なんとか解放されたいと願います。『神』や『仏』を信仰し、祈りを捧げることで、『神や仏が、その悩みや悲しみを一緒に負ってくださる』と聖職者から聴かされ、または『聖書』や『経典』を読んで『信じた』時に、『悩み』『悲しみ』が軽減し、『心の安らぎ』が得られたと『感じ』ます。これが、『宗教』の本質です。

人間は自分だけの力で『生きている』のではなく、『神』や『仏』の大きな慈愛に包まれて『生かされている』と感ずることや、『神』や『仏』の前では、自分は小さな存在にすぎないと感ずることは、その人を『謙虚』にし、他人に対しても、慈愛をもって接しようとすることは、その人を『柔和』にします。これも『宗教』の本質です。

2~3万年前に絶滅した、『ネアンデルタール人』は、『宗教』の概念を保有していたかどうか、梅爺は知りませんが、『死者の埋葬』などが遺跡で見つかるとすれば、それは『宗教的な儀式』と考えられますから、原始的な『宗教』の概念は保有していたであろうということになります。

私たち『現生人類』は、原始的な時代から『宗教』を保有していたであろうと推測されています。脳の進化で、『精神世界』が『抽象的な虚構概念(神の概念)』と『創造された虚構の因果関係(神と人間の関係など)』を奔放に作り出し、それをコミュニティの中で、共通の『信ずる対象』にするようになったと考えられます。

人類は、自分たちの周囲に存在する『摩訶不思議な事象』と、自分たちとの関係を『創造された虚構の因果関係』を共有して『信ずる』ことで、納得しようとしたに違いありません。『摩訶不思議』をそのまま放置しておいては、『心の安泰』が得られないからです。『天地は神によって創造された』などという虚構の因果関係が典型例です。

地球上のどの未開部族も、自分たちの『神』や『神にまつわる因果関係を説明する虚構のストーリー』を保有しています。『精神世界』は必ず『宗教』にいきつくことを示唆しています。つまり、人間は『ストレス』にまず『宗教』で対応しようとすることが分かります。

しかし、歴史上存在した沢山の『宗教』の内容は、今日梅爺が冒頭に書いたような『洗練された宗教の教義』と一致するわけではありません。

現代社会にまで継承されてきた『宗教』は、歴史の中で、関係者によって『洗練された内容』に変容してきたものです。

『キリスト』の死後、各地に発生した宗派の『教義』は、現在の『カトリック』『プロテスタント』の『教義』と同じではありません。

現代の日本の『仏教』は、現代の『タイ』や『チベット』の『仏教』と同じではありません。

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2019年5月27日 (月)

ストレス(3)

『釈迦』は、私たちの中にある『こうあって欲しい』と願う心が、『苦しみ』を引き起こす原因となる『煩悩』を作り出すと推測しました。

梅爺流にいえば、『こうあって欲しい』と願う心は『安泰を希求する本能』であり、『煩悩』は『ストレス』ということになります。

現代科学が見出した結論と、『釈迦』の推論は矛盾しません。

『生きることが苦しい』のは、『煩悩』が『利己の心』を生み出すためと『釈迦』は考え、『煩悩』を解脱すれば、私たちの中には『仏心(利他の心)』だけが残ると結論を見出しました。

これも梅爺流にいえば、『安泰を希求する本能』は、『精神世界』に『利己』の価値観と、『利他』の価値観の両方を生み出すということになります。『利他』は『群』の中で生きる時に必要となる価値観で、巡り巡って結局自分の『安泰』にもつながるという考え方です。

『ストレス(煩悩)』は、生物として生きる上で、不可避なもので、これを完全に払しょくすることは、生物である以上『不可能』であると、梅爺は考えますが、『釈迦』はなんと『煩悩』を解脱し、『涅槃の境地(仏心だけの境地)』に到達したと伝えられています。

梅爺の考え方には矛盾しますので、『うそでしょう』と言いたくなりますが『うそ』と証明はできませんので、極めて『涅槃の境地』に近い状態に達したのであろうと勝手に想像しています。

人間は生物の一種である以上、『個』や『種』が、生き残るために『食欲』『性欲』などの本能を保有しています。それを否定しては、人類は滅亡しますから、『涅槃の境地』どころの話でなくなります。禅の修行で大方の欲望は抑制できたとしても、最低の食事はとらなければならないことが、完全な『煩悩の解脱』は不可能であることを端的に示しているように梅爺は感じます。

『殺生はいけない』といいながら、生きる(食べる)ために『最低限の殺生』はやむを得ないというのも、都合の良い妥協のように思えます。

『人間』が生きる上で抱える問題は、生物としては『物質世界(自然界)』の『摂理』によって『命』を維持しながら、一方において『精神世界』が紡ぎだす、『崇高な価値観』に殉じたいと『願う』心も保有していることから生じます。

この視点で観ないと、『人間』や『人間社会』の本質は見えてきません。『生きる』ことは『きれいごと』だけでは済まされません。

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2019年5月26日 (日)

ストレス(2)

私たちは、常に周囲の事象が、自分にとって都合の良いものか、悪いものかを意識的または無意識に脳で『判断』しながら生きています。

五感で取得する情報の中で、私たちの『視覚情報』が圧倒的に多いのは、『判断』にそれが最も有効に作用するためです。洞窟内の暗い所で生きるために『蝙蝠(こうもり)』は『聴覚情報』に頼っています。これも『蝙蝠』が生物進化の過程で獲得した能力です。

生物として生き残りの確率を高めるために獲得した、『安泰を希求する本能』としてそのような習性が身についていると梅爺は考えています。

私たちは周囲の事象が自分にとって都合が良いともの『判断』した時には、脳は対応するホルモンを分泌し、『精神世界』はそれを『愉快』『楽しい』『安泰』『好き』と感じます。

逆に、周囲の事象が都合が悪いものと『判断』して時には、脳はそれに対応する別のホルモンを分泌し、『精神世界』はそれを、『不快』『悲しい』『悩ましい』『危険』『嫌い』と感じます。これが『ストレス』の正体です。

周囲の事象の大半は、私たちの『願い』『期待』『祈り』などに沿うようには展開しませんから、私たちは必然的に『ストレス』を抱え込むことになります。特に自然界の事象である『天災』などは、『精神世界』とは無関係な『物質世界』の『変容』で起こるものですから、私たちの『願い』『期待』『祈り』などは通じません。

昔の人たちは、自分たちに都合の悪いことをもたらすのは、『悪霊』や『それを司る神』の仕業と考えましたから、『加持祈祷』は、最も切実な行為でした。

しかし、『科学知識』を獲得した私たちは、『干ばつ』に『雨乞いの儀式』が有効であるとは考えません。そうは言いながら、『明日は晴れてほしい』といって、『てるテてる坊主』をぶら下げ、『家内安全』を願って神社やお寺で『厄除け』のお祓いを受け、絵馬や七夕の短冊に『願い事』を書いて奉納したりします。

『社会のしきたり』は、『共有の主観(価値観)』として代々人々の『精神世界』で根強く継承されますから、現代人も『加持祈祷』の名残を引きずって生きています。

『釈迦』は『何故生きることは苦しいのか』を、究明する為に29歳で出家し、修行(思索)の末に35歳でついに『答』を見つけました。『悟り』を拓いたことになります。

これは『ストレス』について、何故起こるのか、どう対応すべきかについて考え、納得できる結論を得たということに外なりません。

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2019年5月25日 (土)

ストレス(1)

『What should we be woriied about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の89番目のタイトルは『Stress(精神的負荷)』で著者はコラムニストの『Arianna Huffington』です。

このエッセイの著者は、現代社会は『ストレス』の要因に満ち溢れていて、このため現代人は、高血圧症、糖尿病、肥満など健康を害する傾向にあり、これを早期に予防する為に、常時健康状態をチェックする、『ウェラブル・デバイス(腕時計のように身につけて、健康上の異常値を監視し警告する装置)』の開発と普及を望むと書いています。

一見論理明快で、『ごもっとも』と言うべきなのでしょうが、へそ曲がりな梅爺は、少々異議をさしはさみたくなります。

『そのように難しく考えなくてもよいのでは』『いちいち水を差すのでは、人生面白くないでしょう』などと言われそうです(現に梅婆からは、そう云われています)が、『梅爺閑話』の特徴でもありますので、『そのように考える人が世の中にはいる』ということでお付き合いください。自分の考え方を皆様に強いるつもりはさらさらありません。

最初に気になるのは、『現代人』の受けている『ストレス』は、中世や古代の人たちのそれより強いという主張です。

確かに現代は、社会の仕組みも複雑で、生活範囲も広域に渡り、生きていくために対応しなければならないことは、中世や古代より多くなっていると言えますので、『ストレス』の絶対量は多いという表現は間違いないのかもしれません。

しかし、『ストレス』を『ストレス』と感ずる閾値(いきち:感知レベル)は、人によって同じではなく、一人の人間の中でも、『ストレス』に慣れてくると、閾値は変化するのではないでしょうか。

つまり、同じ『ストレス』に遭遇しても、『ストレス』と感ずる人と感じない人がいますし、同じ人間が昔は『ストレス』と感じたものを今は感じないということがある筈です。

時代によって閾値が変化する(相対的なものである)と考えれば、どの時代でも『ストレス』を感じていた人はいたはずです。中世や古代の人は『能天気』に生きていたというのは言い過ぎではないでしょうか。

その上『ストレス』が病気を誘発する要因であるとは、かならずしも言えません。

統計学的な表現でのみ、『ストレスが多いと病気を誘発する確率が高い』という因果関係の表現は許されるのではないでしょうか。多分、このエッセイの著者もそのことを言いたかったのかもしれませんが、読んだ印象は『現代人はストレスが原因の病気から逃れられない』と断言しているように受け取れました。

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2019年5月24日 (金)

インターネットが科学の分野にもたらした功罪(6)

『インターネット』は、私たちに以下の手段を提供してくれます。

(1) 他人との『絆』を確認する手段(メール、ブログ、SNSなど)
(2) 未知の情報を取得する手段(検索、閲覧)
(3) 娯楽を享受する手段(ゲーム、スポーツ観戦、動画、音楽)

特に、『無線通信』と『インターネット』が結びつき、それに対応する携帯可能な『ターミナル(スマホ、i-Padなど)』が普及して、いつでも、どこでも上記の手段が利用できるようになりました。このような環境は、『ユビキタス環境』と呼ばれます。

電車に乗ると、10人中7~8人が、スマホで『自分だけの世界』に入り込んでいる様子は、一昔前にはなかった『異様』にみえる光景です。しかし、これは梅爺が『昔を知る人間』であるためで、次の世代の人たちには、これが『当たり前の光景』になるのでしょう。

(1)については、昨日まで述べてきましたが、『群のなかで自分の存在を認めてほしい』『群の仲間が、自分をどのように観ているのかを知りたい』という欲求は、『インターネット』という、仮想環境で創り出される『群(グループ)』においても同様に働きますから、強迫観念に襲われたように、四六時中、メールやチャットを確認し対応しようとすることになります。『仲間はずれ』は『孤独』同様、『精神世界』の安泰を脅かすからです。さらに『情報』を発信する時には、最低限の『作法』『モラル』が必要ですが、私たちはその訓練を受けていないために、『インターネット』上で、不適切な事態が起こりがちです。

(2)の情報取得手段としても『インターネット』は便利ですが、広く浅い知識で止まり、自分で深く考えようとしなくなる傾向が気になります。『情報』が有り余るほどあると、それは『情報』は無いのと同じことになるからです。

『インターネット』は地球規模のネットワークであることも、注視すべき要因です。地理的に存在する、人間が勝手に決めた『国境』などありませんから、自国の体制を維持したい政治リーダーにとっては、非常に厄介なものになります。

『イデオロギー』『文化』『宗教』の違いが、『インターネット』によってどのような様相を呈していくのかも、梅爺の興味の対象です。

『インターネット』が人間社会へもたらす功罪については、今後も眼が離せません。

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2019年5月23日 (木)

インターネットが科学の分野にもたらした功罪(5)

ブログに何度も書いて来たように、『人間』は『生物進化』の過程で『群をなして生きる』方法を採用しました。その方が『個』も『群』も、生き残る可能性が高いからです。『群をなして生きる』方法を採用した生物は『人間』だけではありませんし、『人間』が出現する以前から、その方法を採用していた生物は存在しますから、『人間』だけが特別であるわけではありません。

『群の仲間』との『絆』を求めるのは、『人間』だけではありませんが、進化した『脳』で高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』は、『絆』を重要な概念として重視し、継承してきました。

『絆』は『安泰を希求する本能』を満足させるための、重要な要因です。『孤独』が『精神世界』にとって深刻なストレスになるのはこのためです。

原始社会では、『絆』は『お互いの存在が確認できる近い距離』『アイコンタクトやボディコンタクトができる至近距離』で確認できるものでした。

その後『文明』が芽生え、『人間』は『手紙』で『絆』を確認する方法を見出しました。『手紙』はリアルタイムの意思疎通ではありませんし、『近い距離』『至近距離』という条件は満たされませんが、最低限『絆』を確認する方法としては、代替手段となりますから画期的な方法であったことになります。

近代になると、『電話』が発明され、『近い距離』『至近距離』でなくてもリアルタイムで『絆』が確認できるようになりました。

『インターネット』は、『手紙』『電話』の機能はもとより、動画によるリアルタイムな『テレビ電話』の機能のような『近い距離』『至近距離』の疑似環境も提供していますから、いつでも、どこでも『絆』の確認が可能になりました。この様な環境で生きているのは、人類の歴史の中で私たちだけです。

しかし本当の『近い距離』『至近距離』で『絆』を確認したいという『生物進化』の過程で確立した『本能』は根強く私たちの中に継承されており、『インターネット』だけでは真の満足は得られません。

盆暮れの『帰郷』、『同窓会』などは言うに及ばず、『インターネット』の『SNS』で知り合った仲間が『オフ会』と称して、直接会合を持つのはこのためです。

近い将来、『人間』が、『インターネット』などの疑似環境を、『近い距離』『至近距離』の代替として、抵抗なく受け容れるようになるとは思えません。

『生物進化』の歴史は、数千万年以上のものであり、それに比べれば『科学技術』を利用するようになってからの『人間』の歴史は、数百年程度にすぎないからです。

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2019年5月22日 (水)

インターネットが科学の分野にもたらした功罪(4)

現在のような『インターネット』の状況を、40年前に梅爺は予測できませんでした。

当初の『インターネット』は、基本的な『通信網』であって、通信速度も現代に比べれば桁違いに遅いものでしたから、やがて世界中の人たちが、自分専用の『ターミナル(パソコン・スマホなど)』を用いして、このネットワークに参加し、『マルチメディア情報』を自由自在に交信し合うようになるなどとは、想像することが難しかったからです。

『半導体集積回路』『光通信技術』『無線通信技術』『ターミナル(PC/スマホ)のコモデティ化』『マルチメディア情報の処理技術(ブラウザ技術)』『セキュリティ技術』『大規模複雑なソフトウェア』などの技術開発が急速に進み、すべてが『インターネット』を裏側で支えています。

私たちが『当たり前』のものとして利用しているものの背後に、眼もくらむような複雑多様な技術が使われています。

しかし、このシステムにも『ボトルネック』や『泣きどころ』がありますから、それが機能しなくなった時に、私たちの社会は、『大混乱』に陥る危険を秘めています。『快適・便利』の代償として、私たちは大きな『リスク』を抱え込んでいると認識すべきでしょう。科学技術の応用には多かれ少なかれ『リスク』が伴います。そうであるからと言って、私たちは、40年前の生活環境に後戻りはできません。

40年前に梅爺が予想できなかったことは、『個人』と『社会』の関係が、『インターネット』で大きく変わるということでした。

それまでの社会では、『個人』は情報に関しては『受信者』であり、情報の『発信者』は、『新聞、雑誌社』『テレビ・ラジオ局』『映画会社』『レコード会社』『お役所』など、一部の組織に限られていました。

『インターネット』の出現で、『個人』が突然情報の『発信者(「不特定多数の他人へ向けての情報発信)』になることが可能になり、その今まで味わったことのない体験に、魅了されました。梅爺がブログを掲載するなどと言うことが典型例です。

情報の『発信者』が、専門の組織に限定されていた時は、不文律の『倫理』が存在して、無責任な情報の発信は規制されていましたが、そのよう訓練を受けていない『個人』の情報発信は、無法状態のようなものになり、『インターネット』上には、文字通り『金の鉱石』と『ただの石ころ』が混在していて、本物と偽物を区別することが難しくなりました。

情報の『真偽』を判断するのも『個人』に任されることになっていますが、その能力は誰もが持ち合わせているとは限りませんので、時折不都合な事態が起きることになります。

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2019年5月21日 (火)

インターネットが科学の分野にもたらした功罪(3)

『インターネット』が人間社会へもたらした功罪の方が梅爺の興味の対象であると昨日書きました。

40年前の『インターネット』の黎明期に、梅爺は『コンピュータをビジネスで利用する分野』の仕事に従事していましたから、ビジネスの世界に『インターネット』が大きな影響を及ぼすであろうことは、当時から予感していました。

『インターネット』が『誰でも接続できるネットワーク』であることは、ビジネスにとって通信コストを低減できる可能性を秘めており、魅力的ではありますが、一方において通信情報が、外部に漏れたり、盗用されたりするリスクがあり、多くの企業は、『セキュリティ』を危惧して『インターネット』を企業の通信手段とすることに、前向きではありませんでした。

企業は、企業内で『閉じた』専用のネットワークを利用しており、これは『インターネット』に対抗して『イントラネット』と呼ばれていました。

その後『インターネット』の『セキュリティ』についても、研究開発がすすめられ、現在では、大半の企業が、『社内ネットワーク』『社外ネットワーク』の共通基盤として『インターネット』を採用するようになりました。

文字通り『インターネット』が『通信標準インフラ』になり、『イントラネット』は過去のものになりました。企業にとっては、独自の開発コストの削減になりますから、経済的な視点で当然の趨勢といえます。

しかし、『インターネット』の『セキュリティ』は現在でも『万全』とは言えず、『ハッキング』『サイバーテロ』などの問題が後を絶ちません。

『ハイテクに詳しい不届き者の個人』が『犯人』とは限らず、国家ぐるみの『秘密組織』で『サーバーテロ』を行う国家も少なからずありますから、眼に見えない『頭脳戦争』の舞台に『インターネット』はなってしまっています。

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2019年5月20日 (月)

インターネットが科学の分野にもたらした功罪(2)

エッセイの著者は、『インターネット』が科学の進展にもたらした弊害として以下を挙げています。

(1) 科学者は、認められるために、『論文』を多数『インターネット』に掲載することが重要になり、またその『論文』が他の科学者から、どれだけ『引用』されるかの数も重要な指標になっている。
(2) 科学者は調べたいことを『インターネットのキーワード検索』で手軽に調べるだけで済ましたしまうことになる。
(3) 研究費を獲得する為に、多大の努力が必要になっている。

(3)は『インターネット』とは直接関係のない指摘のように思えますが、(1)と(2)は確かに、問題を内包しているといえるでしょう。

科学者は、『不可解な事象』の『因果関係』を解き明かすことが本分ですから、このことだけに思考を集中すべきですが、『出世』のために、『論文』を沢山公表し、その『論文』が他の科学者から引用されるようにと趣向を凝らすことにエネルギーを使うようになるのは、目的が『論文を沢山書く』『論文を魅力的な体裁にする』という本来の目的から逸れたものになってしまう恐れがあります。

自分の『真理探究の満足』より、『他人の興味を引く』ことが主体になるとすれば、芸術家が自分の表現欲求より、鑑賞者の『ウケ』を狙って作品を作るようなことに似ていますから、『純粋とは言えない』という指摘も肯けないではありません。

『手軽なキーワード検索』で済ませてしまうことも、便利ではありますが、原典のすべてを丹念に読まずに、『キーワード』が出現する箇所のみを読んで『わかったような気になる』のは、『深い理解』とは縁遠く、誤解をする可能性を秘めていることは確かです。

梅爺も『インターネットのキーワード検索』は多用し、『分かったような気になっています』から、耳が痛い指摘です。

『インターネット』が科学の分野にもたらした『長所』は、圧倒的ですから、この様に『短所』だけを指摘するのも、誤解を生ずる原因になるように感じます。

『インターネット』がない時代でも、『出世』を優先し、他人の論文を精読せずに、都合の良い部分だけを『引用』した科学者はいたはずですから、『インターネット』の問題と言うより、『科学者の本分』は何かという問題に過ぎないような気がします。

『インターネット』が、人間社会へ及ぼした影響を洞察することの方が、梅爺は興味を覚えます。

人間は『より繋がると、より孤独になる』ようにみえる事象は、人間の『精神世界』の特質を考えないと解き明かせません。

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2019年5月19日 (日)

iインターネットが科学の分野にもたらした功罪(1)

『What should we be worrid about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の88番目のタイトルは『Are We Becoming too Connected ?(我々過剰にはつながりすぎていないか)』で著者はペンシルベニア大学の物理学教授『Gino Segre』です。

『インターネット(World Wide Web)』が、世の中に登場して約40年が経ちます。『インターネット(WWW)』は今や現代人には欠かせない、生活環境のインフラになっています。

元々『インターネット』は、ヨーロッパの『CERN(欧州原子核研究機構)』の科学者たちが、実験データを効率よく共有する為の通信ネットワークとして利用する為に誕生しました。

独特の『通信規約(プロトコール)』を定め、これに準拠さえすれば、ネットワークの中に『中継機能(サーバー)』をどんどん接続して増やしていけるという画期的なアイデアが採用されました。

このため、ネットワークは文字通り『網の目(蜘蛛の巣状態)』のように拡大し、仮に通信路の一部に不具合が生じても、『う回路』を使って、交信ができるために、システム全体がダウンしてしまう可能性が低い利点を有しています。

『インターネット』には、『中央集中管理機能』がありませんから、『自律分散型のシステム(ネットワーク)』と言えます。

人間の脳の『脳神経細胞ネットワーク』も『自律分散型のネットワーク』です。

科学者は、世界のどこに居ても『インターネット』を介して、『CERN』の膨大な実験データを共有しながら、効率よく研究を進めることが可能になったわけですから、『インターネット』は科学の分野に大きく貢献したことになります。

しかし、何事にも『長所』と『短所』は、表裏一体で存在しますから、勿論、『インターネット』が科学の健全な進展を阻害する要因にもなる側面があり、このエッセイの著者は、そのことを『危惧』しています。

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2019年5月18日 (土)

江戸の諺『尻に帆をかける』

江戸の諺『尻に帆をかける』の話です。

追い風に帆をあげれば、船は一目散に走りますから、『尻に帆をかける』は、慌てふためいて大急ぎで出かける様子を表現したものです。

江戸時代までは、物流の運搬手段として『船』が主役であったことを、梅爺は迂闊にも最近まであまり深く理解していませんでした。まことにお恥ずかしい話です。

考えてみれば、日本は山国ですから、陸路での輸送は、牛や馬の背に荷物を載せて運ぶ程度が精々で、とても一度に多量の荷物は運べません。

日本を海路で周遊した『北前舟』が、物流の大動脈であったことは有名で、これにかかわった商人が、大富豪であったことも肯けます。

しかし、海は必ずしも安全な場所ではありませんので、嵐に遭遇して難破でもすれば、すべてを失いますので、今流にいえば『ハイリスク・ハイリターン』のビジネスであったことになります。

梅爺が最近まで認識が浅かったのは、内陸の河川を使った、船による輸送システムについてです。鉄道輸送、航空輸送、トラック輸送が主流になって、これが『当たり前』と受け取っていたために『河川の役目』に気付くのが遅れました。

日本の大小の河川は、当時『網の目状の輸送路』として結ばれており、今でいえば『高速道路』『鉄道路』のような機能をはたしていました。

『最上川舟歌』などの民謡が、当時の風情を今に伝えています。

蝦夷の物産である『ニシン』や『タラ』を使った料理が、『京都』や『会津』の名物料理になっているのも、瀬戸内海で産出した石材を加工した豪華な庭石や石灯籠が山形の『酒田』にあったりするのも、『北前舟』や河川を利用した船輸送に由来するものです。

日本文化に大きな影響を与えている、昔の、海、河川の『物流』システムの重要さを、学校の歴史の時間ではあまりとりあげてもらえなかったような気がします。『有名人物』『有名な出来事』だけが歴史ではありません。

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2019年5月17日 (金)

江戸の諺『女(おなご)の芝居行き』

『女(おなご)の芝居行き』は、諺ではなく、当時の風俗を風刺した内容です。

江戸時代は、現在とは異なり、庶民の『娯楽』は限られていて、『芝居見物』は最大の『娯楽』でした。

貧しい庶民には『高嶺の花』で、『芝居見物』を楽しむことができたのは、庶民といってもある程度の経済力のある人たちであったのでしょう。

女性にとっては、『華やかな舞台・衣裳』『贔屓の役者』『舞踊』など、非日常が体験できる『芝居見物』は夢のような世界であったにちがいありません。更に、出かける時には自分も精一杯化粧をし、着飾ることや、幕間の『幕の内弁当』なども楽しみであったのでしょう。

『諺臍の宿替』には、女性の『芝居行き』をからかった以下の突飛な想定の小噺が掲載されています。内容はとても上品とは言えない、『下ネタ』ものですが、こういう小噺が掲載されていることがベストセラーななった要因の一つなのでしょう。いつの時代も庶民はこの手の話が大好きです。

(腰より下が言う)『これこれ、いくら気持ちが急(せ)いて焦っていても、そのように首だけが向こうへいったところで、肝心なお尻が後に残っていては、座ることができないよ。これこれ、待っておくれ。あぁ忙しいなぁ。芝居見物だからと言って、裾から下を残して行って、万が一、贔屓(ひいき)の役者が惚れてくれて、色事にでもなったときはどうするつもりだろう』
(腰より上が言う)『もう早く行かないと、序の幕が終わってしまうから、このように気がいらだって、首ばかりが向こうへ行くのじゃ。これこれお前もそう落ち着いていないで、早く歩いておくれ。あぁ、いらいらする。もうそのように愚図々々するのなら、もう家へ帰っておくれ。そうすれば一日小便に立つ面倒がなくて、ゆっくりと見ていられるわ』

ニンジンを鼻先へぶら下げられた馬のように、つんのめるように急ぐ『女の芝居行き』の「様子が眼に浮かびます。

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2019年5月16日 (木)

江戸の諺『焼き餅をやく』

江戸の諺『焼き餅をやく』の話です。

これは『嫉妬する』という意味で現在でも使われる表現です。

原典の『諺臍の宿替』では、以下の夫婦のやりとりが小噺として掲載されています。

男『これこれ、どうするのだ。もういいではないか。俺が悪かったといっているのに、あまりにもひどい焼き餅で、胸にこたえてコリコリするわ』<br />女『ええい、またしても外で買い喰いをして、本当に腹が立つ。もう焼き餅をいくら焼いても少しもこたえないから、これからはその顔もどこもかも、かき餅にしてやる』<br />男『そうそう、そうすると、おれが茶化すときかき餅茶ができる。そのほうが、焼き餅よりあっさりしていてよいヮ』

この小噺は『かき餅茶』について知識がないと理解できません。

『かき餅茶』というのは、塩茶に焼いたかき餅を浮かべたもので、大阪では『おかき茶』といい、夏の夜、夕涼みの客をあいてにした腰掛け茶屋で出されたもの(多分江戸時代の話でしょう)という解説がついています。

亭主は、『かき餅』にされたら、『おかき茶』になって、その方があっさりしていると、女房に減らず口をたたいているところが、滑稽ということになります。

『嫉妬』も人間の『精神世界』では厄介な情感です。他人が自分より優れていると認めざるを得ない状況で、多くの人が抱く情感です。『自分が劣っていると認めざるを得ない状況』は、その人の『精神世界』では『安泰を脅かすストレス』となりますから、本能的に『嫉妬』が襲ってきます。

それを逆に『敬う心(respect)』に変えることができるのは、『理性』の判断ができる人』です。

亭主が浮気をしたときに、女房が本当に『嫉妬するのは、浮気相手の女に対してで、腹いせで亭主にも当たることになります。

『美人』が世の中でなにもかも得するのでは面白くありませんから、『美人でない人たち』は、『美人薄命』などと根拠のない話を持ち出して、溜飲を下げようとします。『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されていますから、このように、自分を肯定する『虚構』を考え出そうとします。

梅爺も自分を肯定する色々な『虚構』を思いつき、いいわけをしながら生きています。

『青春とは人生のある期間をいうのではなく、心の持ち方をいう』などという『サムエル・ウルマン』の詩は有名ですが、何となくへそ曲がりな梅爺には老人の『いいわけ』っぽく聞こえます。

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2019年5月15日 (水)

江戸の諺『姑(しゅうとめ)の十八』

江戸の諺『姑(しゅうとめ)の十八』の話です。

この表現は今ではあまり使われないように思います。

原典の『諺臍の宿替』には、以下の小噺が載っています。

『エー情けない、また夫婦喧嘩か。もうよしてくれ、やめてくれ。私の十八の頃は、姑さんが難しい人で、そんな浮ついたことはしなかった。本当にうるさい嫁じゃ。十八のときは、どうしてどうして色気どころではなかったから、嫉妬なんてあさましい根性はなかった。私が十八の頃は、焼き餅は焼かなかった代わりに、人からはぼた餅といわれたものじゃ』

『嫁と姑の確執』は、どの時代にもあったものらしく、この小噺では姑が息子の嫁について、小言を言っている様子を、最後の『オチ』で、小噺の作者が姑そのものを茶化しています。

『お前さんの御面相では、十八であろうがなかろうが焼き餅をやく資格なぞなかろうに』ということですから、読者は腹を抱えて笑うことになります。

老人が、『今時の若者はなっていない』と嘆くのは、万国共通のようです。

これは人間の『精神世界』にその原因があるからなのでしょう。時代が変わり状況も変われば、老人と若者の『価値観』に違いが生ずるのは避けがたいことですが、人はそうやすやすと自分にしみついた『価値観』を放棄できませんから、『私が正しい、あなたは間違い』と主張することになります。

その証拠に、逆に若者はいつの時代も老人を『時代遅れ』と非難します。そしてその若者が老人になった時には、今度は『今時の若者はなっていない』と嘆くことになります。

心理学者は、人間が一度獲得した『確信』からは、なかなか抜け出せない習性を『確証バイアス』と呼んでいます。

しかし、『確信』が覆ることがないわけではなく、その場合は極端な対応になり、『愛』が一転して『憎』に変わったり、『昨日の友は今日の敵』になったりしますから、人間の心は実に厄介です。

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2019年5月14日 (火)

江戸の諺『眼が高い』

江戸の諺『眼が高い』の話です。

これも現在でも使われる常套句で、『鑑識力に優れている』『真贋を見極める能力が高い』という意味です。

顔の部品でいえば、『鼻が高い』という表現もあります。『自慢に思う』という意味ですが、これが嵩(こう)ずると『天狗になる』になり、今度は高慢になっている人をけなす時の表現になります。

また『頭(ず)が高い』ということになると、自分の身分もわきまえず、偉い人の前で『偉そうに振る舞う』という意味になります。

『眼が高い』に関して、原本の『諺臍の宿替』には、『大店(おおだな)の大旦那』らしき人物の述懐が小噺として載っています。『眼が高い』という表現を茶化したもので、梅爺の抄訳で紹介します。

『久介は、口先はよいが、腹黒い男だった。おとよは、親切なように見えて実は油断のならぬ女だった。私は人を観る眼が高いので、あの二人の奉公人に対して早々に暇を出したのは間違いではなかった。聞けば、二人はここで奉公中もこっそり情事を交わしていたとのことで、今では、生活に難儀して、相変わらず善からぬことを繰り返しているらしい。しかし、私もこれ以上眼が高くなると、今度は下の方が見えなくなり、またまた悪さをする奉公人が現れるかもしれない』

『眼が高い』などという表現は、日本語独特のものですから、これを英語に直訳しても全く通じません。

多分これに該当する英語の表現は『appriciate』ではないでしょうか。

『I appriciate you.』は、一般に『私はあなたに感謝する』と訳されますが、『appriciate』の本来の意味は、『本当の価値を理解する』ということですから、本来は『あなたの本当の価値を理解する』という直訳になります。ですから『I appricate it.』という表現は、『それに感謝する』ではなく『その本当の価値を理解している』ということになります。

外国語の単語の『元々の意味』まで理解しないと、異文化は理解できないと考えると、外国語の習得は易しくないことが分かります。

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2019年5月13日 (月)

『侏儒の言葉』考・・仏陀(8)

『釈迦』は『論理』でものを考える人です。ただし『釈迦』の『論理』は、基盤である基本ルールをいくつか設定し、そのルールで思索を深めていきます。しかし、それらのルールは、私たちに馴染みのある西欧の『論理学』の基本ルールとは必ずしも同じではありません。

『釈迦』は、例によって、四つ、八つといった箇条書きの区分けで論理を展開します。

『四聖諦(ししょうたい)』・・『悟り』へと近づく4つの真理

(1) 『苦諦(くたい)』・・生きることは苦しみと向き合うことであると理解する。
(2) 『集諦(しゅうたい)』・・苦しみの原因は煩悩であることを理解する。
(3) 『滅諦(めったい)』・・煩悩をなくすことが悟りへの道と理解する。
(4) 『道諦(どうたい)』・・悟りに達する為に行う8っつの道を理解する。

『八正道(はっしょうどう)』・・悟りへ達する為の8つの修行

(1) 『正見(しょうけん)』・・正しく見、正しく考える。
(2) 『正思惟(しょうしゆい)』・・情に左右されることなく理で考える
(3) 『正語(しょうご)』・・正しい言葉を使う
(4) 『正業(しょうぎょう)』・・悪い行いはしない
(5) 『正命(しょうみょう)』・・行儀正しくいきる
(6) 『正精進(しょうしょうじん)』・・善いことへ向かって努力をする
(7) 『正念(しょうねん)』・・正しい思いを抱く
(8) 『正定(しょうじょう)』・・正しい心を保つ

『八正道』は、『当たり前の結論』のように見えますが、『正しい』という言葉が曲者で、梅爺にとっては『はい、わかりました』と言い難いものです。

『精神世界』の『正しい』という抽象概念には、普遍的な尺度がありませんから、『正しい考え』『正しい行い』『正しい努力』『正しい心』は、『言語明瞭、意味不明』になってしまうからです。

『周囲の事象を情を排して、ありのままに受け容れ、理で考えよ』と『釈迦』は言いたかったのかなと勝手に推察しています。『釈迦』は『仏教』の教祖というより、偉大な『思索者』という側面が魅力的です。

『侏儒の言葉』の『仏陀』から、話が大きく逸れてしまいましたが、触発されて自分で考えることにはなりましたから満足しています。

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2019年5月12日 (日)

『侏儒の言葉』考・・仏陀(7)

人間の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』の影響を強く受けているとすると、自分の都合を最優先しようという『利己』の欲求は避けられません。この『利己の心』から『邪心』が派生しますから、『邪心』は誰の中にも存在することになります。

生真面目な方は、自分の中に『邪心』があることを『後ろめたく』感じ、『罪』の意識にさいなまれたり、時に見て見ぬ振りをして、『私にはやましいことなどありません』などと主張したりします。

一方『人間』は、『群のなかで生きる』環境に適応してきましたから、一見矛盾するようですが『利己』ではなく『利他』の心も持ち合わせています。『利他』は『群』や、『群』の中の他人の安泰を優先することで、自分の安泰も確保するという2段構え考え方です。人間の『精神世界』は、意識的であれ、無意識であれ常に『利己』と『利他』の間で揺れ動いています。

『理性』は『邪心』を表面化しないように抑制する一つの手段です。『理性』を養うことが重要であるのはそのためです。『身勝手な人』は自分を『理性』で客観視できない人です。

『釈迦』は、『苦』の原因を思索する中で、『誰の中にも邪心と仏心がある』という結論に達しました。勿論人間は個性的ですから、その程度には差があります。

しかし、西欧の文化、特に『キリスト教』の文化では、『邪心』は『悪魔の誘惑に屈する』ことで生まれると、自分の外の存在である『悪魔』のせいにしています。そして『悪魔の誘惑』に負けるのは『人間の心が弱いため、信仰心がうすいため』という論理になり、その弱さは『原罪』という概念になります。

『悪魔』の誘惑に負けないためには、『神』への信仰心を強める必要があるという論理ですから、自分の外の存在である『神』と『悪魔』という概念を信ずることにが必要になります。

梅爺が何を言いたいのか、お気づきいただけたでしょうか。『釈迦』は、『邪心』『仏心』を『人間の中の問題』としてとらえ、『邪心』をできるだけ抑制する努力を人間に求めているのに対し、『キリスト教』の考え方は、人間の外の存在である『神』『悪魔』が、人間の『清い心』『邪(よこしま)な心』に影響を与えているというものです。

もっとも、後の『仏教』では、『阿弥陀如来による救済』などと、人間の外に存在する『仏』の概念を提示していますから、『キリスト教』に似ているということになりますが、少なくとも『釈迦』は、『仏は人の中にあるもの』という話しかしていません。

『釈迦』の教えでは人は『仏』になれる可能性を秘めていますが、『キリスト教』の教義では人は『神』にはなり得ません。ここに大きな違いがあります。

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2019年5月11日 (土)

『侏儒の言葉』考・・仏陀(6)

『釈迦』は、『生きていく上での苦しさ』を『四苦八苦』と箇条書きにして提示しています。

(1) 『死』・・死んでいく苦しみ
(2) 『病』・・病の苦しみ
(3) 『老』・・老いていく苦しみ
(4) 『生』・・生きている苦しみ
(5) 『五蘊盛苦(ごうんじょうく)』・・心身を思うように制御できない苦しみ
(6) 『愛別離苦(あいべつりく)』・・愛する人といつか別れる苦しみ
(7) 『怨憎会苦(おんぞうえく)』・・恨み憎しみを抱いてしまう人に出会う苦しみ
(8) 『求不得苦(ぐふとくく)』・・物品、地位、名誉を求めて得られない苦しみ

(1)から(4)は、『物質世界』に属する肉体が、『精神世界』の『願い』『期待』とは無関係に自然の『摂理』に支配され『変容』していくことを、『精神世界』が『苦しみ』と感ずることを意味しています。

(5)から(8)は、『安泰を希求する本能』が周囲の状況を『自分にとって都合が悪い』と判断する事態に遭遇した時に、『精神世界』が『苦しみ』と感ずることを意味しています。

すべて『願い』『期待』がかなわないことが原因で生ずる『苦しみ』ですから、『願い』『期待』を生み出すもとである『安泰を希求する本能』を抑制すれば、『苦しみ』から逃れることができるという論理になります。

この『安泰を希求する本能』を抑制することを、『釈迦』は『煩悩の解脱(悟りの境地、仏になる)』と表現し、その状態を『涅槃(ねはん)』と呼びました。

『釈迦』は、生きながらにして『涅槃』を獲得し、『仏』になったと伝えられています。へそ曲がりな梅爺は、『人間』は『仏』に近づくことはできても、決して『仏』にはなれないと思いますので、この話は疑っています。

『人間』の『安泰を希求する本能』を完全に抑制することはできませんが、それが『邪心(煩悩)』と『仏心』の両方を生み出す原因であることはたしかですから、『精神世界』の『理性』で、できるだけ『邪心』を抑制し、『仏心』だけの『人間』に近づくように努力しなさいという『教え』が、『仏教』の本質ならば、共感して受け容れることができます。誰の中にも『邪心』と『仏心』は共存していると思うからです。

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2019年5月10日 (金)

『侏儒の言葉』考・・仏陀(5)

論理思考をする人の多くが、『本質』を箇条書きで提示しようとする習性があることを昨日書きました。

思考者自身の頭の中を整理するのにも有効ですが、相手を説得するのにも効果的です。『プレゼンテーション』でこの手法がよく使われるのはそのためです。

しかし、これは『倒叙法』で書かれた探偵小説のように、いきなり『犯人』が提示されるようなものですから、読者の興味を引いておいて、後々『何故その人が犯人なのか』という論理的な『因果関係』が示されればよいのですが、そうではないとすると、読者は当惑するか欲求不満になります。

『釈迦』に、いきなりこの世の『本質』は、『一切皆苦』『諸行無常』『諸法無我』『涅槃寂静』の4つであるといわれても、私たちの多くは当惑し、一層分からなくなってしまうのではないでしょうか。

ブログを書き始める前の梅爺ならば、『なにやら深い意味がありそうだ』と感じたとしても、『何故そのような断定ができるのか』と疑問視して終わったかもしれません。

しかし、『物質世界』『精神世界』にわけて周囲の事象を観る『方法論』を身に着けていたために、『一切皆苦』『涅槃寂静』は『精神世界』のことを説明している言葉で、『諸行無常』『諸法無我』は『物質世界』のことを説明している言葉であると判別ができ、『2500年前に、そこまで洞察しておられたのですか』と驚くことになりました。

特に『すべてはつながっている(諸法無我)』を、『釈迦』は『縁起(えんぎ)』とも表現していていますが、『ビッグ・バン』『生物進化』などの知識がない環境で『縁起』という本質を洞察できていることには驚かされます。

自然界で実態あるものは、すべて同じ『素材』で構成され、同じ『法則』で存在が維持されていることは、『科学知識』を保有する現代人ならば理解できますが、『釈迦』の時代の洞察ですから畏れ入るばかりです。

梅爺の身体を構成していた『元素』は、梅爺の死後、土にかえり、やがて他の生物を構成する『元素』として使われることはあり得ますから、それを『輪廻転生』と呼ぶのであれば、『縁起』の一つとして理解できます。

『釈迦』を理解する上で『縁起』は重要なキーワードの一つです。

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2019年5月 9日 (木)

『侏儒の言葉』考・・仏陀(4)

『釈迦』の思索の原点は、『何故生きることは苦しいことなのか』という疑問です。生きることのすべてに『苦』が付きまとうのはなぜかという、哲学者らしい問題の設定です。

『科学者』も適切な『問題設定』ができれば、解明できたも同然といわれますが、『哲学者』も、普通の人があまり関心をよせないような疑問から思索を深めていきます。

『何故生きることは苦しいのか』『自分は何者で、何故存在するのか』『神は存在するのか』などといった疑問に、多くの哲学者が立ち向かってきました。

言い換えると、『疑問の解明に情熱を抱く強い習性を持った人』が、『科学者』『哲学者』であると言えます。多くの人たちは、疑問を抱かないか、それに関心をもつことなく生きています。『ちこチャン』に『ボーッと生きてるんじゃないよ!』と叱られる所以(ゆえん)ですが、考え方によってはその方が健全な生き方かもしれません。

梅爺が『屁理屈爺さん』と言われるのは、『因果関係』をなんとか特定しようとする習性ですから、その点では『科学者』『哲学者』に似ています。

『釈迦』は、『何故生きることは苦しいのか』という問いに、6年の思考(修行)の後に『答(法:悟り)』を出しました。

そのの内容は『法』と呼ばれ、『四つ』または『八つ』のカテゴリーに区分けして表現されています。

この様に、箇条書き風に、カテゴリー区分するのも、西欧の論理思考の特徴です。『釈迦』が古代ギリシャ哲学に影響を受けているとは考えにくいので、カテゴリー区分する習性は偶然のものなのでしょう。『論理』でものを考える人の共通の特徴なのかもしれません。

『釈迦』の区分は以下の通りです。

この世の中を支配する4っつの真理

(1) 『一切皆苦』・・思い通りにはいかない
(2) 『諸行無常』・・すべては変容を続けている
(3) 『諸法無我』・・すべてはつながっている
(4) 『涅槃寂静』・・悟りの境地を必要とする

(2)と(3)は、梅爺の『物質世界』の本質と一致します。『物質世界』はすべて同じ素材を使って構成されており、その存在は同じ『法則』で『変容』を続けています。

『物質世界』には『目的』『あるべき姿』などはありませんから、『精神世界』の『願い』『思い』『祈り』などとは無関係に『変容』しています。人間から見て(1)『思い通りにいかない』のは当然のことです。

(4)は、『物質世界』に対峙する時の『精神世界』の理想的な対応方法で、『究極の心の安らぎを獲得する』ことを表現しています。理想ですから、現実にこれが得られるとは言い難いものです。しかし、それへ向かって『努力』することが生きる上で重要な意味を持ちます。

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2019年5月 8日 (水)

『侏儒の言葉』考・・仏陀(3)

『芥川龍之介』が『釈迦』について、非難がましいことを書いているのを読むと、へそ曲がりな梅爺は『釈迦』を擁護したくなります。

現在の『仏教』は、各地へ布教されていく過程で、その土地に存在した既存の土着的な『宗教』と融合し、最初の『釈迦の法』を基盤にしているとはいえ、大きく『変容』してしまい、より『様式的』『神秘的』になっているように梅爺は感じます。

『天平・飛鳥』時代に、日本へ渡来した『仏教』は、朝鮮半島からもたらされたものですが、『奈良時代』になると、中国の『仏教』をお手本にするようになりました。『鑑真』を最高の師として中国から迎えたのはそのためです。

中国で学んだ『空海』『最澄』は、中国仏教をお手本にしながら日本に適した内容に、『変容』させ、その後『平安』『鎌倉』『室町』時代には、すぐれた思想家である日本人の僧が何人も出現し、その『思想』をベースに各宗派が更に『仏教を『変容』させることになりました。

私たちが現在『仏教』と理解しているのは、これらの『日本の仏教』であり、『インド』『スリランカ』『チベット』『タイ』『中国』『韓国』など外国の『仏教』とは似て非なるものになっています。勿論、『日本の仏教』は、日本土着の『宗教』の影響を受け、その一部が取り込まれています。

梅爺は、『仏教』に深い知識は持ち合わせませんが、『釈迦の教えそのもの』『日本の仏教』『外国の仏教』は分けて受け止めています。

そして『釈迦の教えそのもの』に共感を覚えます。

梅爺は、何度もブログに書いてきたように、世の中の事象を『物質世界』『精神世界』との関連で観ることが重要であると考えています。『科学知識』なども含め、そのように観ることができるのは、梅爺が現代に生きる人間であるからです。

2500年前の『釈迦』は、そのような『科学知識』のない時代の人間ですが、その教えの『本質』は、梅爺の考え方と矛盾するところがほとんどありません。

『思想家』『哲学者』としての『釈迦』に、敬意を表したくなるのはそのためです。

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2019年5月 7日 (火)

『侏儒の言葉『考・・仏陀(2)

芥川龍之介は、『仏陀』という文章で、『釈迦』の『悟り』の内容(法)については、全く触れていません。むしろ、そのような内容は、関心がないというより『有意義なものとは思えない』というような侮蔑のニュアンスもうかがえます。

梅爺は『釈迦』の『思想』について、本格的に勉強したわけではありませんが、その一端に触れただけで、『釈迦』が偉大な『思想家、哲学者』であったと感じ取ることができましたので、この侮蔑的なニュアンスは同意できません。

芥川龍之介は、『釈迦』の『出家』後の6年間の苦しい修行は、それまでの王城での贅沢な生活の『祟(たた)り』であると述べています。

そして、布教を開始する前に、『キリスト』が荒野で40日間の断食などの苦しい修行をしたことを例に出し、『キリストが40日で済ませた修行を、釈迦が6年間も続けなければならなかった』ことを、前述の『祟り』という『因果関係』で断じています。

実態のない『祟り』などを持ち出すことも含め、『釈迦』『キリスト』に少しばかり失礼ではないかと梅爺は思いました。

『釈迦』が修行中に深く物思いに沈むことがあったことを紹介し、夫が『出家』してくれて、一番ほっとしたのは王城に残された奥さんであったのではないかとも書いています。確かに世の中には『気難しい亭主』は沢山いますが、そのようなありきたりな夫婦関係を『釈迦』に当てはめるのは、これまた少々失礼な話です。

また、『釈迦』が『悟り』をひらく前に、川で『沐浴(もくよく)』したこと、食べ物として『乳製品』のお布施を受けたというエピソードを取り上げ、『物質がいかに精神に影響を与えるか』を示していると書いています。

『精神を集中させる』ために、肉体的な『準備』をするルーチンは、『禅の修行』やカトリックの『修道士』も行うことですが、『精神世界(こころ)』と『物質世界(肉体)』は地続きであることを考えると、『物質の影響』などと単純に割り切ることはできないような気がします。

『大自然の中で瞑想をする』『静かな聖堂のろうそくの明かりだけの中で祈る』などという行為が『こころの安らぎ』をもたらすことは、人間が経験則で会得した知恵であり、多くの人が体験していることでもあります。

これらの表現から、芥川龍之介が、『宗教』やその『教え』に対して懐疑的であることが想像できます。『懐疑的』であることは、その人の『価値観』ですから、それ自体は問題ありませんが、対象を貶めるような発言は、少々大人げないように梅爺は感じます。

『物質世界(自然界)』に実態としての『神仏』は存在しないという推測は、多くの科学者や知識人が述べることですが、これをもって『精神世界』の抽象概念として『神仏』が存在することを否定するわけにはいきません。

少なくとも、科学知隙がなかった近世以前の人類にとって、『精神世界』の『神仏』という抽象概念は、『生きる』ために必要なものであったと梅爺は考えています。そしてそれが現代人にまで継承されています。

ただし、『釈迦』が『悟り』で会得した『この世の法』は、梅爺の表現では『物質世界』『精神世界』の本質を言い当てたもので、『神仏』と直接の関係はありません。『釈迦』が『仏』と呼ぶものは、人間の中に内在する『仏心』のことで、『物質世界』に実態として『仏』が存在するなどとは言っていません。

『釈迦』は宗教家であるというより、偉大な思想家、哲学者であると梅爺が思うのはそのためです。

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2019年5月 6日 (月)

『侏儒の言葉『考・・仏陀(1)

芥川龍之介の『侏儒の言葉』の中の『仏陀』の感想です。

『釈迦』の『出家』『煩悩解脱(悟り)』について、皮肉たっぷりな感想を述べた、極めて短い文章です。

『釈迦』は、2500年位昔の人で、インドの小国の王子として生まれました。20歳前に結婚し、子供も一人もうけましたが、29歳のときに突然『出家』をし、6年間の修行の後に35歳で『悟り』をひらいたと言われています。

『悟り』で得たこの世の『法』を、弟子たちと民衆に説いて回り、80歳で亡くなった(入滅した)と伝えられています。

『釈迦』は、『キリスト』より500年も前の人物ですが、種々の歴史資料から実在の人物であったことは間違いないと考えられています。

一方『キリスト』が歴史的に実在したのかどうかは、『聖書』の記述しか手掛かりがありませんから、実在を疑う人も少なくありません。当時の『ユダヤ』は『ローマ帝国』の属領でしたが、『ローマ帝国』の歴史資料には、『キリスト』らしい人物の記述は見当たりません。『神の子』『救世主』とユダヤの民衆から崇められた人物が、『ローマ帝国』から見ると『危険人物』であったために、『ローマ帝国』の裁判(ユダヤ属領の総督であったポンテオ・ピラトの裁き)を受けた後に、『ローマ帝国』の刑法に従って『十字架の刑』で処刑されたと伝えられています。『聖書』によれば死後三日目に『蘇った』ことになっていますから、本当なら当時の驚天動地の『大事件』で、『ローマ帝国』の歴史資料に記述がないのは不思議です。

ユダヤ側にも、『死海の書』など、『キリスト』と同時代の多くの文献資料が見つかっていますが、これらの中にも『キリスト』と特定できる人物は見当たりませんん。

『新約聖書』は、『キリスト』の死から100年後位に、『伝承』を編集して書かれたもので、著者たちは『キリスト』と面識があったわけではありません。

『伝承』は、『脚色』『美化』された内容になっていたかもしれませんが、全くの『作り話』とは考えにくいので、『神の教え』を説いた、何らかの布教者が存在したのであろうと梅爺は考えています。

『釈迦』の場合は、弟子たちが『釈迦』の死後、その言動を『経典』の原書として書き残したことで、『生涯』『思想内容』が現在に伝えられています。『キリスト』が『神の子』とされ、神秘な存在になってしまったのに対し、『釈迦』は実在の『人物(人間)』であったことはより確かです。

芥川龍之介の『仏陀』という短い文章の感想を述べる前に、『釈迦』『キリスト』についての梅爺が解説を加えたのは、予備知識として必要と考えたからです。芥川龍之介は、ぶっきらぼうに『出家』『悟り』を語っているだけです。

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2019年5月 5日 (日)

江戸の諺『首筋の三本足』

江戸の諺『首筋の三本足』の話です。

これは、『諺』というより、『風俗』の表現で、現代では全く使われません。

江戸時代の『文化』から『天保』にかけての大阪で、未婚、既婚を問わず女性の首筋の生え際を三筋残して、上へ剃りこむのが流行し、これを『首筋の三本足』と表現したものです。

原書の『諺臍の宿替』には、以下のような小噺が載っています。

『今はこれが流行だと言っても、三本足の首筋では一本が邪魔になって歩きにくいから、先ごろから抜いてもらったり剃ってもらったりしているが、生まれつきが三本足なのでどうにも二本にはなりにくい。しかし、芝居を見に行く時は、とにかく首だけが先に行きたがるから、その時はこの三本足で走るには都合がよい。けれども、履物が一足半必要なるのは困ったものだ』

なんとも他愛のない話ですが、こういう『とぼけた』表現を日本人は『面白い』として受け容れる習性があるのでしょう。

故人となった『立川談志』は、江戸の落語の真髄は『ファンタジー』であると洞察していましたが、上記の小噺も、できはそれほど良いとは思いませんが、それに類するものでしょう。

『理』を優先する西欧人には、この『とぼけた』面白さが理解しにくいかもしれません。

人間社会で『ファッション』が流行するのは何故なのでしょう。

誰かが『自己顕示』のために、新しい『ファッション』を思いつくというのは、その人にとって、他人の注目が得られれば『安泰(満足)』を得たことになるという道理として分かりますが、周囲の人たちがこぞってそれを雪だるま式に『真似る(流行rせる)』という心理は何故働くのでしょう。

『自分も注目されたい』『仲間はずれにはなりたくない』などという『価値観』を優先して『安泰』を得ようとするためなのでしょうか。

本来『個性的』である筈の人間が、『流行』の前に主体性を放棄するのは不思議な話です。現代では『商業主義』『市場主義』がこれに付け込んで『流行』を一層肥大化させます。

『定年』で引退後、梅爺はほとんど『ネクタイ』を締める機会がなくなりましたが、考えてみると何故、現役時代は『ネクタイ』が必需品であったのかよくわかりません。『ネクタイ』には実用的な意味があまりないように思うからです。

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2019年5月 4日 (土)

江戸の諺『世帯に追われる』

江戸の諺『世帯に追われる』の話です。

現代の『貧乏ヒマなし』という表現と相通ずるものでしょう。『生きる』ために、色々な雑事をこなさなければならないことや、なんとか少ない持ち金をやりくりしながら生活している様子は、『追われる』という表現にぴったりです。

英語でも、『生活に追われる』様子は『pressed(せきたてられる)』と表現されることがありますから、人間の感覚は同じなのかもしれません。

『追われる』状態が続くと、人は早くこの状態から解放されたいと夢見ます。時間やお金に余裕のある生活は、『悠々自適』という桃源郷のように思えます。

サラリーマンの多くが、『定年』を迎えると、これまでのストレスに苛まれた生活から解放されて、『さあ、これからは自由気ままに生きるぞ』と期待しますが、実際は、『何もすることのない状態』は、退屈で、心が満たされず、むしろ『多忙であった現役時代がなつかしい』などと回顧する羽目になります。

『生物進化』で獲得した人間の『精神世界』は実に矛盾に満ちています。

過大な『ストレス』は、『安泰を脅かす要因』として、なんとか逃れようとしますが、『ストレス』がない状態は、今度は『物足りない』と感ずることになります。

適度な『ストレス』を感じながら『生きる』ことが、『生きがい』という『安泰』を獲得する上で、必要なのでしょう。

『つらかった過去』『悲しかった過去』を、時を経て『美化』し、『あの頃の自分は充実していた』などというのも、一種の『安泰を求める本能』のなせる業ではないでしょうか。

『戦争』や『災害』の記憶を『決して風化させてはならない』と、私たちは『理』で主張し、それはその通りなのですが、一方『脳』は『過去』を『風化』させ、時に『美化』するようにできています。『忘れる』『風化させる』『美化する』は、『脳』の容量が無限大ではなく、老化もしていくためにおこる現象でもあり、または『ストレス』を引きずらずに『今』を優先して『生きる』ために必要なことでもあるのでしょう。

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2019年5月 3日 (金)

江戸の諺『座敷の蜘蛛(クモ)の巣とり』

江戸の諺『座敷の蜘蛛の巣とり』の話です。

これは、あまり現在では耳にしない表現です。

原書には、年末に行う舞の稽古をしていたら、結果的に座敷の隅々まですっかり掃除ができて、蜘蛛の巣も払うことになったという小噺が添えられています。よほど所作が大きい舞なのでしょう。しかし、近所の人からは、『(舞の稽古が)うるさいから、三軒目の空家へ行け(ついでに空家の掃除にもなる)』と言われてしまうというのが小噺のオチになっています。

この小話から類推すると、本人は掃除をするつもりがないのに、舞の稽古の副次効果として、掃除になってしまったということですから、『ある行為に、思いがけない余録がついてくる』というような時に使われる表現なのでしょうか。

『風が吹くと桶屋が儲かる』ほどの、突飛な『因果関係』ではありませんが、『思いもよらない事態が生ずる』という滑稽さが伝わってきます。

世の中のことは、大抵のことが『副次効果』『副作用』を伴います。薬の副作用などが典型例です。

都合の良い『副次効果』が得られることはむしろ稀で、多くの場合は不都合な事態が生じます。

用心深い人は、何か不都合な事態を伴わないかと危惧して、『石橋をたたいて渡ろう』とします。時には何もせずに済まそうとしたりします。

一方楽観的な人は、『目的』のためならとすぐに行動し、『危ないよ』とたしなめられると『やってみないと分からない』と反論します。

どちらの性分が人生の勝者になるかは分かりません。何事にも臆病で行動せず、大魚を逃してしまうこともあれば、とにかくやってみたら幸運に恵まれることもあり、またその逆もあるからです。

色々なことを知れば知るほど、人は『あれやこれや』と結果を予測しますので、慎重になりがちです。

大衆は、その場の空気に流されて行動を起こし、『有識者』の警告に耳を貸そうとしません。

しかし『有識者』の警告が、結果的に当たらないこともありますので、世の中は実に厄介です。

皮相な判断ですぐに行動にでる『トランプ大統領』は、梅爺には危険極まりない人物に見えますが、結果的にアメリカにとって偉大な大統領という結果にならないとも限りません。

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2019年5月 2日 (木)

江戸の諺『三味線かじる』

江戸の諺『三味線かじる』の話です。

『○○を(少し)かじる』は現在も使われる表現で、『何かを少し習ってみる(手を染めてみる)』という意味です。

習おうとする対象は、奥が深く習得、習熟は大変難しいのですが、『○○をかじる』は、そのほんの表面を体験した程度のレベルjのニュアンスになります。

すぐにとても『歯が立たない』と思い知って、挫折してしまうという結末が思い浮かびます。

ちょっと『かじった』だけで、習得できたと勘違いする人は『能天気』な人で、周囲の冷笑の対象になります。旅行会社の主催する『パック・ツアー』に参加して、1週間程度外国を旅してきて、『あの国はこういう国だ』などとすべて分かっているように得意げに吹聴するような例がそれにあたります。

現地へ赴いてじかに観てみることは、勿論無意味なことではありませんが、その国の歴史、文化、宗教などを含めて『異文化』を知ることは、そう易しいことではありません。

外国へ赴くことが、非常に希有な体験であった昔とは異なり、『カネとヒマ』さえあれば、誰でも『パック・ツアー』に参加できる時代になっていますから、『外国へ行った』ということは、『優越感』で自慢するほどのことではありません。

添乗員やガイドが、すべて『日本語』で面倒をみてくれるわけですから、何の苦労や努力もせずに旅が進行します。外国人観光客が『はとバス』で、東京をめぐっただけで『私は東京を理解した』と言っていることの滑稽さを思い浮かべてみればお分かりいただけるでしょう。

『異文化』は、まず関門となる『外国語の習得』を含め、ちょっと『かじった』程度では到底理解できません。むしろ皮相な理解で、『わかった』と誤認することの弊害の方が大きいような気がします。

興味本位で『少しかじってみる』ことと、習得とは大差があることを知っておく必要がありそうです。

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2019年5月 1日 (水)

権威主義への服従(10)

『権威主義への服従』を表現するものとして、日本には『お上(かみ)には逆らえない』『長いものには巻かれろ』があります。

『権力者』と『庶民』の間の、歴然とした『力の差』を現実的に認めて、『真面目に逆らって痛い目に会う』のは『ばからしい』という『価値観』を反映したもので、『権威主義への服従』などという固い表現より,日本人らしく『諧謔』に富んでいます。

『庶民』は『お上』『長いもの』が、いかがわしいものと感じながら、生きる術として『逆らわない』という表面的で、したたかな選択をしているわけですから、『盲目的な服従』や絶望的な『負け犬根性』とは、少しニュアンスが異なります。

この場合の『庶民』は、『衆愚』ではなく、生きる方便として『衆愚』を装っている『したたかな輩(やから)』に見えてきます。

このエッセイでは、自ら最終決断を下す社会の『リーダー』が、『自己顕示欲』『自尊心』の強い人であると『権威主義』の温床になる危険がありますので、私利私欲がなく奉仕精神に富んだ『リーダー』の出現が望まれると述べています。たしかにそのような『リーダー』の下では、『権威主義への服従』などということは問題にならなくなります。

残念ながら、そのような理想の『リーダー』は、『勉強が良くできるという意味で賢い』人材を主に育成している現行の『教育システム』からは、出てこないであろうと危惧しています。

『民主主義』が『リーダー』を選ぶプロセスや、すべて『市場主義』で律する価値観を基盤とする現代社会が抱える、『問題』であることには、梅爺も同意します。

『富裕』であることが『幸せ』であり、その『幸せ』を求めて『リーダー』になりたい人が『リーダー』になるのでは、『私利私欲なく奉仕精神に富んだリーダー』など、出現するわけがないからです。

『権威主義への服従』が問題にならない世の中が、すぐに実現するとは思えません。すぐにどころか永遠に実現しないかもしれません。

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