« 2019年3月 | トップページ | 2019年5月 »

2019年4月30日 (火)

権威主義への服従(9)

『サルの群れの掟』と異なり、『人間社会の掟』は本能的に形成され継承されてきたものより、後天的に人間が『精神世界』で創出した、言ってみれば人為的なものが主流になっていると昨日書きました。

『掟』が形成されるプロセスに、『権威』『権力』という『抽象概念』が関与しがちです。

『人間社会』の『掟』の形成には、以下のようなパターンがあります。

(1) 『神』のご託宣(価値観)。
(2) 『イデオロギー』の価値観。
(3) 『リーダー(リーダーグループ)』の価値観。
(4) 『合議』で約束事となった価値観。

『掟』は、『教義(宗教)』『憲法』『法』『倫理』『道徳』などと、別の呼び方をされることがありますが、いずれも人間の『精神世界』が関与して形成された『約束事』ですから、科学の世界の『普遍的な真理』のような、絶対的なものではありません。

その証拠に、『人間社会』の『掟』は、その社会の特性を反映して『個性的』であり、また時代やその社会の変貌と共に変わってきました。

日本の『憲法改定議論』の中で、現行『憲法』の内容を神聖視するような主張があるのは、おかしな話です。『改定議論』をすることと、実際に『改定』をして新しい『約束事』とするかどうかは、別の話です。『議論』をして、『改定しない』という結論もありえるのですから、『議論』そのものを罪悪視するような主張は教条的すぎます。『議論』することと、『改定』することの違いが分からないとしたら、その人は論理的思考ができない人です。

現行の『憲法』内容が、現在や近い将来の『日本』にとって、好ましいものかどうかを議論し判断するのは、国民の義務ではないでしょうか。

『人間社会』のメンバーにとって、上記の(1)から(3)で形成される『掟』は、他人の『価値観』を受け容れるように迫られることを意味します。『自分で判断することを放棄して、盲目的に従う』『自分で判断し、信ずるか納得して従う』『自分には不利なことと判断しながら、保身などのために嫌々従う』と、受け入れ姿勢が異なることは前にも書きました。また、この場合人間は『洗脳』されてしまう習性も保有していることも紹介しました。

『神』や『イデオロギー』といった、『精神世界』が創り出した『抽象概念』が提示する『価値観』を、主観的に共有して『従う』などという行為は、『人間』にしかできないものです。しかし、現状の『神』や『イデオロギー』の『価値観』を、将来『人間』は受け容れなくなることもあり得ます。古代エジプトの『神々』、古代ギリシャの『神々』は、現在では『神話』の中に存在するだけで、『信じて』いる人はあまりいません。

| | コメント (0)

2019年4月29日 (月)

権威主義への服従(8)

『群』をなして生きる方法を、生物進化の過程で選択した『生物』で、『脳』を保有する動物の場合には、必ず『群の掟(秩序)』の問題に遭遇します。『個』が勝手気ままに振る舞っては『群』の『安泰』は維持できないからです。『アリ』『ハチ』『サル』『人間』など皆同様です。

動物の『群の掟』が、どのように形成されるのかには違いがあります。『アリ』『ハチ』などでは、生物進化のプロセスの中の試行錯誤で、『種の継続(生き残り)』に有利な様式が『掟』として選択され、それに従う資質は、『個』の遺伝子に組み込まれているように見受けられます。

『女王蜂』『働き蜂』は、『群』が『種の継続』を行うための、役割分担を負っているだけで、『女王蜂』には権力を謳歌している優越感や、『働き蜂』には権威に服従している卑屈感などはないはずです。

『サル』の場合は、『力(闘争力)の強いボス猿』が多数の『メス猿』に子供を産ませ、『強い資質を持った子孫』を残すことで、『種の継続(生き残り)』を有利にする様式が選択されました。『ボス猿』は、日常『群』の『安泰』を保つ『リーダー』の役割も担うことになります。『リーダー』が一般に『オス』になるのは、その方が『良い資質を持った多くの子孫を残す』ことになるからです。

『オス猿』には、『ボス』の座を『争う本能』が継承されていて、権力闘争で『ボス』は決まりますが、『ボス』が確定すると、他の『オス』は『服従』の姿勢を選びます。『オス猿』の『脳』の中で何が起きているかは推測するしかありませんが、『ボスになりたい』という欲望と、『服従した方が安泰』という、微妙な駆け引きが行われているのではないでしょうか。

『人間』の『群(社会)』の場合、原始社会では『サル』に近い『掟』の様式があったものと思いますが、その後『脳』が高度に進化して、本能に支配される『掟』の部分より、『精神世界』の『価値観』の共有が創出する人為的な『掟』が圧倒的に主流になったように思われます。

この結果『人間社会』の『掟』は多様に分化し、その社会固有の『掟』が出現することになりました。

『人間社会』の『リーダー』は、『ボス猿』ほど単純な役割ではなくなり、『権威』『権力』などという、厄介な『抽象概念』が社会に定着するようになりました。

| | コメント (0)

2019年4月28日 (日)

権威主義への服従(7)

『権威主義への服従』の問題が、少しずれた議論になっているように感じておられる方がおられるでしょうが、梅爺が言いたいことは、この問題の本質は、人間の『精神世界』から読み解くしかないということです。

『権威主義への服従』の背景には、以下のものがあります。

(1) 疑念なくそれを、当り前のこととして受け容れている。
(2) 不満であるが、保身や出世のためにやむなく受け容れている。
(3) 権威の価値を認め、積極的に受け容れている。

『権威主義への服従』は、『人間社会』の運用にかかわることで、その社会の『メンバー』の『精神世界の能力(一律ではなく、統計的には正規分布をなしている)』と、『リーダー』の『資質(能力)』『考え方』が、両方関与します。

『メンバー』の『精神世界』の多様さが、上記のような(1)(2)(3)の違いを生み出します。

(1)は、自分で判断することを『放棄』して、盲目的に決められたことを遵守する人たちですから、『リーダー』からみると『御しやすい衆愚』になります。

(2)は、『メンバー』は『精神世界』では『不満』と感じながら、保身や出世のために、やむなく『服従』している人たちで、いつかその『不満』が爆発するかもしれない、『リーダー』にとっては警戒を要する人たちです。独裁的な『リーダー』は『恐怖政治』で『不満』を抑えつけますし、実利主義の『リーダー』は、ニンジンを『メンバー』の鼻先へぶら下げて、『損得』で従わせようとします。

(3)は、『宗教』で『信仰者』が『教義』を受け容れる姿勢などが典型です。『メンバー』が自分で『判断』していることですから、『服従』というよりは『納得』という言葉が妥当かもしれません。ただし、(3)で恐ろしいのは、『リーダー』が行う『洗脳』という手段です。『精神世界』の厄介なことの一つは、人は『洗脳』されやすい習性を有することです。

勿論、『洗脳』されやすさの度合いも、人によって異なりますが、多かれ少なかれ、誰でも『洗脳』されやすい習性を保有することは同じです。

『洗脳』は、心理学でいう『確証バイアス』を創り出し、人間はこの『確証』を覆すことが非常に難しくなります。自分の『理性』で、論理的に導いた『確証』もありますが、いかがわしい『リーダー』は、『洗脳』という非人道的な手段で、『メンバー』の『精神世界』に『確証』を植え付けようとします。

『理性』が確立しない幼児期に、『価値観』を植え付けるのも『洗脳』ですが、こちらは『しつけ』などという言葉で正当化されることが大半です。『親の価値観を押し付ける』ことと、『しつけ』の違いは微妙です。

『権威主義への盲目的な服従』は『好ましくない』などという主張は、表面的なもので、人間社会でどうしてそのようなことが起こるのかは、実に複雑な要因を内包していることが分かります。

| | コメント (0)

2019年4月27日 (土)

権威主義への服従(6)

人間の『精神世界』の中身は、他人からは『見て確認できない世界』であるために、『自分と他人の違い』を認識することが難しく、これが人間関係を難しくする要因になっています。

このために、私たちは、『他人も自分と同じように考えている、感じているのであろう』とつい勘違いしてしまいます。ですから『他人の言動』から、『自分とは違うように考えている、感じているらしい』と『気付いた』ときに、当惑します。

当惑しても『ああ、違うんだな』と違いを受け容れれば、あまり人間関係に波風は立ちませんが、多くの場合『あなたの考えや感じ方は間違っている』と、相手を非難しようとします。つまり、自分の尺度で、相手を量ろうとします。時に自分を正当化する為に『正義』などという言葉が使われます。

人間社会のすべての『対立』の背景に、『自分は正しい、あなたは間違い』という『主張の齟齬(そご)』がありますが、これは上記のプロセスで生じたものです。『離婚』『親友との絶交』など身近なものから、『宗教対立』『イデオロギー対立』などのグローバルな問題まで、根は同じです。

『物質世界』に属する『肉体』は、『見て確認できる』ものですから、他人を『背が高い』『美人である』などと見分けることができます。つまり、『自分と他人の違い』は認識が容易です。他人が『美人』であると認めることは『嫉妬』などの対象にはなりますが、『あなたが美人であることはけしからん』などと非難するまでには普通はいたりません。

『日本』と『アメリカ』の国土環境の違いも、物理的に確認できますから、日本人が『アメリカの国土面積、気候風土は日本と同じに違いない』などと『勘違い』することはまずありません。

しかし、『アメリカ人』の『精神風土(文化)』が日本のそれと『異なっている』と認識できず、『自分たちと同じであろう』と勘違いしている『日本人』は沢山見受けられます。『人類みな兄弟』などという言葉を、皮相に理解すると一層そうなってしまいます。

他人の『精神世界』を推測し、違いを認め、どう対応するかを判断することも、『異文化』の内容を推測し、違いを認め、どう対応するかを判断するのも、同じように難しいことです。

しかし、『自分』が社会で生きていくために、『日本』が国際社会で生きていくためには、『違い』を認識し、どう対応するかを理性で考えることが必須の要件になります。

人間は『自分の能力レベルでしか、周囲を理解することができない』というのは、冷酷な現実ですが、それでも『自分とは異なった能力が存在し、自分とは異なった認識が存在するかもしれない』と、想像してみることが重要なことです。

一人でも多くの人が、この様に対応すれば、世の中は大きく変わることになります。

| | コメント (0)

2019年4月26日 (金)

権威主義への服従(5)

物質的に豊かになり、快適な生活環境を手に入れても、『人間社会』が『健全』に向かわないのは、昨日も書いたように『大衆』が『衆愚』であることが一つの要因ですが、もうひとつは『リーダー』の資質が、時代と共に『賢明』になっているとは言えないからです。

『自尊心が強く、自分をリーダーであると自認する人は、自発的な判断を好む』というのは、『リーダー』の一つの側面で、これだけで『社会』にとって好ましい『リーダー』が出現するわけではありません。

むしろ、上記の条件だけで、単純な思考の持ち主が、『自分こそが真のリーダー』と勘違いすると、『社会』は不幸なことになってしまいます。

『リーダーになりたい人』と『リーダーにふさわしい人』が一致しないことが、最大の問題ですが、この問題を解決する方法を、人類はまだ見つけていません。

民主的な選挙で、候補者の中から『大衆』が『リーダー』を選ぶという様式が、好ましい『リーダー』をかならずしも出現させるとは言えないことは、最近の『アメリカの大統領選挙』の結果を観るまでもありません。

『独裁者』や『一党独裁』が支配する『社会』も、勿論『ふさわしい人』が『リーダー』になる保証などありません。

『賢明な人』ほど、物事の複雑な要因の相関関係を、総合的に洞察し判断しようとしますから、『判断』『決断』が慎重になりがちで、観方を変えると『優柔不断』と見なされがちです。

『いかがわしいリーダー』が自分こそは『真のリーダー』であると勘違いして、次々に登場し、『大衆』も複雑を極める世の中の事象を、自ら洞察しようとせずに安易な『衆愚』へ逃避しようとすれば、『人間社会』は、まとまりがつかなくなり、深刻な問題を抱えることになるのは当然のことです。

文明や科学の『知識』が増えても、人間は決して『賢くなっている』とは言えません。

『人間』や『人間社会』いとって、『最善の解決方法を見つける』などということは言葉だけのことで、大半は、多くの『次善策』の中から優先度を洞察して、一つの対応方法を、勇気と責任をもって選択する以外に方法はありません。

『人間社会』で、これができるのが『リーダー』であり、勿論『リーダー』は、その決断プロセスを『大衆』へ提示して、理解を求めることも必要になります。

『大衆』も、『リーダー』の決断プロセスを、理解し、必要なら批判する能力も持ち合わせなければなりません。このような関係が『賢明なリーダー』と『賢明な大衆』の間の理想の関係になります。

『野球』や『サッカー』の強いチームでは、『コーチ(監督)』と『選手たち』の間に、この様な理想に近い関係が成立していることがうかがえます。

しかし、大規模な『会社』や、『国家』で、『経営者』と『社員』、『政治リーダー』と『国民』の関係を、この様に変えていくのは易しいことではありません。

しかし、その努力をしない『会社』や『国家』は、その代償をいつか払わされることになるでしょう。

| | コメント (0)

2019年4月25日 (木)

権威主義への服従(4)

昨日紹介したアメリカの心理学者『Abraham Maslow』の『仮説』には、『自分をリーダーであると自認する人は、自尊心が強く、自発的な判断(決断)をする』とあります。

これを逆に表現すれば、『自尊心などにこだわらない人は、自発的な判断はせずに、リーダーになろうとしない』ということになるような気がします。

世の中の人は、以下に二分できるということになります。

(A) 自尊心にこだわる・・リーダーになることを望む・・自発的な判断をする。
(B) 自尊心にこだわらない・・リーダーになろうとしない・・自発的な判断をしたがらない。

『安泰』を望むことは同じですが、(A)と(B)では、そのための手段が対極的に異なります。(A)は、『自分で判断すること』が『安泰』であり、(B)は『自分で判断しないこと』が『安泰』であるということになります。これは、『安泰』に対する『価値観』の違いで、『精神世界』が『個性的』であるが故に生ずることです。

(B)の人は、『自分の判断』ではなく『別の判断』を、行動の基準にしようとする人で、『別の判断』は、『その社会で常識とされてきたこと(従来の慣例など)』『偉い他人、賢い他人(政治リーダ、親、教師、聖職者、専門家など)の判断(主張)』などが当たります。

『自分で判断する』ことを避けることは、『自分で考える(洞察する)』ことを煩雑として好まないことであり、『自分の判断』に『責任』を負わされることを『回避』することでもあります。

『人間社会』は一握りの『リーダー』と、その他は『大衆』で構成されていますから、『大衆』の大半は(B)のタイプの人間であると考えると、なんとなく周囲の状況がそのように見えてきます。『大衆』が『衆愚』と呼ばれるのは、このためでしょう。

(B)のタイプの人は、『しきたり』を重視し、問題に遭遇すると、懸命に他人の『解答』を求めます。テレビに多数の『専門家』『解説者』が登場し、その説明内容を『大衆』は批判なく受け容れるわけですから、『衆愚』と呼ばれてもしかたがありません。

『衆愚』は、後々、『しきたり』や『他人の判断』が都合の悪い結果をもたらすことが判明すると、一転して『私は騙された』などと叫んで、『社会』や『判断をした他人』の『責任』を問おうとします。『責任逃れ』で『アンチョコな安泰』を手に入れ、それが本当の『安泰』と勘違いしているわけですから、手に負えません。

『賢明なリーダー』と『賢明な大衆』で構成されている『人間社会』は理想的で健全ですが、現実には『いかがわしいリーダー』と『衆愚』で構成される『人間社会』になってしまいがちです。

文明や科学が進展しているとは言えても、『人間社会』は『健全』へ向かって進化しているとは言えない、むしろ退化しているように見えるのは何故なのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年4月24日 (水)

権威主義への服従(3)

このエッセイでは、アメリカの心理学者『Abraham Maslow』の興味深い『仮説』が紹介されています。この事例は昨日紹介した『サルの群れ』の事例と関連しています。『権威主義への服従』とどのような関連があるのか、はっきりしないところがありますが、『仮説』そのものは面白いものなので、以下に紹介します。

自分は『リーダー』であると自認する人は、自尊心を満足させるために、自発的な『判断(決断)』をする。

人間の資質の基盤として、以下の五つのプログラムが組み込まれている。
(1) 緊急な危険が迫れば逃げる。
(2) 身の安泰と、心の安寧を求める。
(3) 社会との関連を見出そうとする。
(4) 社会との関連の中で自尊心を形成する。
(5) 意図的に大きな夢を指向する。

この五つのプログラムが『満足』に作動した時、人はもっと複雑で難しい問題へ挑戦するようになる。

これに類する梅爺の『仮説』は、『精神世界の基盤に、安泰を希求する本能がある』という、一つのことだけで、その他のことは、これから『派生』する事項として説明できるというものです。『危険からの逃避』『群のなかでの安泰志向(自尊心)』『こうあって欲しいと夢を抱く(虚構の因果関係を創出する)』などを、別々に論ずる必要はないと思いますし、何故五つに限定されるのかも説得力を欠くように思います。

梅爺の『仮説』と『Maslow』の『仮説』のどちらが『正しい』かを論ずる意味はあまりありませんが、ただ言わんとしていることは『同じ』ような気がします。

話を『権威主義への服従』に戻しましょう。

『権威主義への服従』を論じようとすれば、『精神世界』の相反する行為である『信ずる』と『疑う』に言及しなくてはなりません。

『信ずる』も『疑う』も、『安泰が希求する本能』がもたらすもので、人は『生きる』ためにこの両方の『行為』を必要とします。

私たちは、周囲の事象の『因果関係』をすべて明解に理解できるわけではありません。自然界には『分からない(理解できない)事象』は沢山ありますし、自分の『将来』に何が待ち受けているかも『分からない(予測不可能)』ことです。

『将来のために正しい選択をする』などと、気軽に口にしますが、現実には『正しいかどうか分からない』ことが大半ですから、そのような選択はしたくてもできません。

『分からない』ことは、『精神世界』にとって『安泰を脅かす要因』ですから、私たちは懸命に『精神世界』を駆使し、虚構の『因果関係』を創り上げ、それを『信じて』安心しようとします。つまり『信ずる』行為をすべて拒否しては『生きて』いけません。

厄介なことに、『信じて』受け容れた『因果関係』が、もし適切でなかったらどうしようと、さらなる『不安』を感ずる人が出てきます。つまり、『安泰』は本当かと『疑う』ことになります。『信じて』安心しきってしまう人もいないわけではありませんが、多くの人は『信ずる』『疑う』の間を右往左往しながら『生きて』います。

| | コメント (0)

2019年4月23日 (火)

権威主義への服従(2)

『権威主義』というと、何か上の方に『黙って言うことを聞け』と威張り散らす人や組織があり、反撥すると身に不利なことや、時に身の危険が生ずるために、嫌々服従するという『恐怖政治』のような事態を想像しますが、そうばかりとは限りません。

私たちの多くは、『権威』を『権威』と認識せず、従うことも『嫌々』ではなく、むしろ『当たり前』と考えて対応しています。

このエッセイでは『サルの群れ』の例が紹介されています。群のメンバーは『ボスの支配(権威)』に『服従』し、群を離れて自分だけ勝手に生きていこうとはしません。見つかれば『ボス』の手痛い『制裁』を受けるか、外部の捕食者の餌食になるからです。

『群』全体がどのような状態にあるのか、『群』として次にどのように行動すべきかは、『ボス』だけの『判断(決断)』事項であり、それについては群のメンバーは考えません(考えているようには見えません)。

エッセイの著者が、何故この事例を引用しているのかは、想像するしかありませんが、多分、『権威主義へ服従』する人は、サルの群れのメンバーと同じで、主体的な『判断』を放棄している『衆愚』であり、『人間』として好ましくないということなのでしょう。

しかし、梅爺にはこの事例は、人間の社会にとっても、重要なことを示唆しているのではないかと、別の解釈をしたくなります。

『人間』としての尊厳を考えれば、『個人』が主体的な『判断』を放棄することは、好ましくないと言えますが、『社会』を効率よく運営し、安泰に保つためには、『社会の掟(権威)に服従する個人』の数が多いほどよいという矛盾した結論になります。

何度も梅爺がブログに書いてきたように、『個』と『全体(社会)』は、『安泰』に対する『価値観』が矛盾することが多く、この『矛盾』を普遍的に解決する方法を人類は見出していません。

『個』の主体的な『判断』を優先すれば、人間の『精神世界』は『個性的』であるために、異なった『価値観』がはびこり『全体』は収拾がつかなくなり、一方『全体』の『掟』を『個』に強制すれば、『個』は『精神世界』の自由を失って、ストレスを抱えることになるからです。

皮肉な言い方をすれば、全体の状況を判断し、決断できる一握りの『賢い』リーダーと、無条件で『権威に服従』するそれ以外の『衆愚』で構成される『社会』の方が『安泰』であるということにもなります。

『大衆』をできるだけ『衆愚』にとどめるか、『大衆』を啓蒙して、『個』の『判断能力』を高めるように導くかは、その『社会』が選択する『考え方』です。

後者が好ましいと梅爺は思いますが、その場合、『個』は、『社会』との関係も『判断』の対象にして、『社会の掟』の意味を理解し『納得して従う』必要があります。その実現度が高い社会が、健全な社会といえるのでしょう。

| | コメント (0)

2019年4月22日 (月)

権威主義への服従(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の87番目のタイトルは『Authoritarian Submission(権威主義への服従)』で、著者は起業家の『Michael Vassar』です。

大変難解な内容で、著者が何を言いたいのかが分かりにくいのですが、多分こういうことなのだろうと推察しました。

私たちは、決められていること、教えられたことを、すばやく理解し、それを遵守することを『美徳』であり『賢い』としています。しかし、このことは、背後には何らかの『権威』が存在し、その『権威』が決めたこと、教えることに『従順』であるべきであるということを意味します。

『権威』は、社会の法や倫理、宗教の教義、先生や親の教え、有名な学者の主張など、色々ありますが、『従順』には『権威』を疑ってはいけないという前提が求められます。

しかし、この様な『権威主義への服従』の中からは、革新的な『創造』は生まれません。

世の中が、『権威主義への服従』にどっぷりつかっているいることを、誰も憂いたりしないことを著者は『危惧』しています。

革新的な『創造』ができる『頭の良い人』を育成しようと、国家は多額の教育予算を計上していますが、『権威主義への服従』を前提とした現状の教育システムでは、財産や地位を得ることで『自尊心』を満たそうとする人を輩出するだけで、目的とは裏腹の結果になっているというようなことを著者は述べています。

心理学の色々な学説や、多くの社会事例を引用したエッセイで、そのため、反って『言いたいこと』がぼけてしまっているように梅爺は感じましたが、なんとか上記のようなことが言いたいのであろうと推察しました。

『私は物知りだぞ』とばかりに、色々なことを引用する人がいますが、そのために焦点がぼけてしまうこともあります。ブログを書いている梅爺も他人事(ひとごと)ではありませんので、自戒させられました。

| | コメント (0)

2019年4月21日 (日)

科学の世界にヒーローがいなくなりつつある(4)

このエッセイの著者は、『民主主義』を肯定しながら、『民主主義』が前提としている、『国民は、健全な判断能力を有している』という条件は信用していないように見受けられます。

 

現代社会に最も影響力をもつ『科学』に、国民は『関心』を示さないと嘆いているわけですから、国民は『衆愚』であると、暗に認めていることになります。

 

そこで『衆愚』の国民をの鼻先に『ヒーロー』というニンジンをぶら下げて、走り出してもらおうという『戦術』を思いついたのでしょう。

 

『中国のような、『共産党一党独裁国家』では、このような姑息な『戦術』は必要ではありません。

 

『習近平』が、アメリカとの覇権争いに勝つために、科学者、技術者の育成投資を行い、研究開発にも多額の国家予算を割り振るように指示することは容易に想像がつきます。つまり『習近平』や一握りの党幹部の『決断』で、『科学』への投資が行われることになります。『共産党の政策』に、国民が批判的になることが権力者にとって最も恐ろしいことですから、国民に与える『情報』を操作したり、制限したりして、国民を『衆愚』という洗脳状態にしておく方が、むしろ都合が良いと考えるに違いありません。

 

このことから『習近平』が『科学』を理解し、その本質を洞察できる能力の持ち主であるということにはなりません。『権力闘争』『覇権闘争』の手段として、『科学』を重視しているということにすぎません。

 

このような投資では、『成果』が確実であることが求められますから、『基礎科学』の情報は、手っ取り早く先進国から盗めばよい、ということになり、『産業スパイ』が横行することになります。この結果、このような『中国』からは『ノーベル賞』受賞者はなかなか出てこないでしょう。

 

もっとも、『習近平』が、『中国』の名誉のために、『ノーベル賞』受賞者をこれからは沢山出すようにせよと指示し、『大当たりのためには、金に糸目をつけない。無駄遣いもかまわない』と言い出せば、逆に近い将来『ノーベル賞』受賞者は中国人で占められるというようなことになるかもしれません。

 

梅爺は、『科学』は大切であるからもっと投資せよ、という議論の前に『科学は人類社会に何をもたらすのか』の議論を深めてほしいと願っています。もはや、そのような時期にきているからです。

 

今までは、『科学』がもたらすものは、『人間』が主人として使いこなす便利な『道具』に留まっていましたが、近い将来『科学』がもたらすものが、逆に『人間』を支配するように変貌する危険が見えてきています。

 

『人工知能(AI)』『遺伝子操作』などは、『人間』や『人間社会』を根本的に変えてしまう可能性を秘めているからです。これらが、政治の『覇権闘争』の手段になることも恐ろしい話です。

 

『科学の世界にヒーローがいなくなるつつある』といったことは、梅爺にとっては大きな関心事ではありません。

| | コメント (2)

2019年4月20日 (土)

科学の世界にヒーローがいなくなりつつある(3)

『民主主義』の国家では、国民の『関心』が高いものへ、『政府』は国家予算を割り当てることになるので、『科学』への『関心』を高めるための『手段』として『ヒーロー』が必要という主張は、いかにも西欧人が好む『論理思考』のような気がします。

エッセイの著者も、本当は『ヒーロー』の存在は本質的な要件ではないと認めています。『目的』のためならこの『手段』が必要という論理は、日本人は『権謀術数』の一種と考えて、あまり評価しない傾向が強いように思います。

『太平洋戦争を終わらせるために(日本本土への上陸作戦でアメリカ人兵士の死者を多く出さないために)広島、長崎へ原爆投下を決めた』というような『アメリカ』人の大半が受け容れる論理を、日本人は『自分勝手の論理』と感情的に反撥します。

『科学』の分野の『ヒーロー』は、『基礎科学』の研究分野から出てくる可能性が高いので、『国家』は『基礎科学』の研究体制を強化する政策を推進し、多額の予算を割り当てるべきであるという主張は、一つの『価値観』で、全く別な『価値観』も存在します。

つまり、『基礎研究』への投資は、必ず『成果』を生む保証はないではないかという反論です。そのような、宝くじを買うようなことに、国も予算は割り当てられないという主張になります。

『もし成果が出たら幸運であるが、成果が出なくても非難しないから、このお金を思う存分研究に使いなさい』などといって、研究費を差し出す太っ腹の『政治リーダー』や『会社経営者』は常識的には考えられません。

『基礎研究』は『カケ』と言えるものですが、『宝くじ』を買わない限り、『宝くじ』に当たることがないと同様、『基礎研究』に出資ない『国家』や『会社』は、『大当たり』をつかむことはありません。

このことを、現実的にどのように判断し、どのような裁量を下すかは、『政治リーダー』や『経営者』の資質の問題です。

| | コメント (0)

2019年4月19日 (金)

科学の世界のヒーローがいなくなりつつある(2)

科学の世界のヒーローとして、庶民にも分かりやすいのは、科学分野の『ノーベル賞』受賞者でしょう。

『ノーベル賞』の過去受賞者の累計では、『日本』は、世界のランキングで、6~7位に位置し、アジアの国では圧倒的に1位です。

近年の実力を、独自の指標で比較した英国の科学雑誌のランキングでは、『日本』は『アメリカ』『イギリス』に次いで3位です。特に強い分野としては『物理学』が挙げられています。この評価でも、『日本』はアジアの他国(中国など)を圧倒しています。

これらの実績から、『日本人は頭が良い』と単純に判断するのは、適切ではありません。

『ノーベル賞』受賞者の数が圧倒的に多いのは『アメリカ』ですが、このことから『アメリカ人は頭が良い』ということにはならないのと同じです。

『アメリカ人』の定義は、現状で『アメリカ』の国籍を有する人ということですが、この人たちの大半は、『移民』として他の大陸から移り住んだ人たちの末裔であり、先祖は『イギリス人』『ドイツ人』『オランダ人』『ユダヤ人』『中国人』『日本人』と呼ばれていた人たちです。

『日本人』の先祖は、アメリカより遠い昔の『移住者』で、現在の『日本人』は比較的『均一性』が高いと表現はできますが、2~3万年前に移住してきた、『縄文人(朝鮮半島、中国大陸、樺太・サハリン、東南アジアなどから複数ルートで日本へ移住と推定される)』と、3千年くらい前に渡来した『弥生人(朝鮮半島ルート)』であり、私たちはその『混血』としての末裔にすぎません。

現在地球上に存在しているすべての『人類』は、生物学的な分類ではすべて『ホモ・サピエンス』ですから、どの『○○人』も煎じつめれば『ホモ・サピエンス』同士の『混血』の末裔です。

論理的に考えれば、『頭が良い人』が出現する『確率』は、どの『○○人』も同じはずです。現実に『差』が出るように見えるのは、現在の『国家』の、政治、経済、教育、文化などの体制に違いがあるからです。

『頭が良い人』を発掘、育成する体制がない『国家』では、『頭が良い人』が埋もれて表面に出てこないだけのことです。

近年、日本の『サッカー』は、世界の中で『強く』なりつつありますが、これは、関係者の努力で、『優秀な能力の持ち主』を発掘、育成する体制が、整いつつあるからです。

『ノーベル賞』受賞者の排出も同じです。日本の関係者が永年かけて築き上げてきた、研究体制が背景にあると考えるべきでしょう。

しかし、現在の『受賞者』の大半は、数10年前の『成果』が、今評価された人たちですから、現在の若い研究者の成果が、数10年後に『ノーベル賞』受賞者になるとは限りません。数10年後は『中国』が、受賞者を独占しているというようなことがないとは限りません。

| | コメント (0)

2019年4月18日 (木)

科学の世界のヒーローがいなくなりつつある(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の86番目のタイトルは『The Decline of the Scietific Hero(科学の世界のヒーローがいなくなりつつある)』で、著者は英国の科学博物館の関係者である『Roger Highfield』です。

オリンピックで金メダルをとったアスリートたちは、その国の『英雄』となり、次のオリンピックでは、もっと沢山金メダルが取れるようにと人々は期待し、その準備のために国がスポーツ振興の予算を計上することに賛同します。

しかし、科学の世界ではヒーローがいなくなりつつあるために、人々が『科学』の振興に、『スポーツ』と同様な関心を抱かなくなりつつあることを、著者は危惧しています。

民主主義の原則として、国民の関心度が低いものに国の予算を計上する優先度は低くなってしまうことを危惧するのでしょう。

『科学』は現代社会の文化に最も強い影響を及ぼしているものであるにも関わらず、国民は『科学』そのものには関心を持ちません。国民の大半は『科学』がもたらした最終成果だけを『便利』に利用できれば、それでよいと考えているように見受けられます。『基礎科学』と『最終成果』の間には、沢山の『因果関係』の連鎖が実際には存在していますが、それらの事実は興味の対象になりません。

このエッセイは20年前の英国で書かれたものですから、『英国』を例にとって説明がなされています。確かに、英国で当時の科学の世界のヒーローと言えば、『ヒッグス粒子』の存在が予言から50年後に立証された理論物理学者『ヒッグス博士』くらいしかいません。

『日本』も、上記のように国民の多くが『科学』に関心を抱いているとは言えませんが、それでも毎年のように『ノーベル賞』受賞者が出て、そのたびにマスコミが大騒ぎをし、内容の『にわか解説』が行われますから、一時的とは言え国民が盛り上がり、『英国』よりはましと言えるのかもしれません。

日本の受賞者の多くは、『基礎科学』の研究に、政府がもっと力をいれるように望むコメントをしますから、実情はお寒いものなのでしょう。

何故『科学』の世界でヒーローが出にくくなったのかは、『科学』の研究規模が巨大になり、多くの人たちの『協力』がなければ、発見や成果が難しくなってきたからです。『科学』は無名で多数の関係者で支えられているのです。

『ニュートリノ』の観測に成功し、『ノーベル賞』を受賞した『小柴昌俊』博士は、巨大実験設備『カミオカンデ』の立案、設計、監督に携わったことは確かですが、『カミオカンデ』そのもの実現や実験遂行には、多くの人たちが関与しています。勿論、『東大』や『政府(文部科学省)』の支援も重要な役割を演じています。

『小柴』博士一人ではなしえなかったことですが、プロジェクトの代表者として『ノーベル賞』を受賞されたということでしょう。

この様に、『科学』の成果を、一人のヒーローに結びつけた方が、大衆には分かり易く、それで大衆の『科学』への関心が高まるのであれば、結構ではないか、というのが著者の主張です。目的達成の手段として『ヒーロー』の存在は必要であるという主張です。

| | コメント (0)

2019年4月17日 (水)

『幸せ』の定義(8)

『幸せ』は、その人の『個性的価値観』に基づく『情感』ですから、個別の『幸せ』を比較することはあまり意味がありません。

 

音楽において『ベートーベン』が好きと言っている人と、『ストラビンスキー』が好きと言っている人を比べて、どちらの音楽鑑賞能力が高いかを論ずるようなものであるからです。

 

同様に『ピカソ』が好きという人と、嫌いという人を比べて、どちらの美術鑑賞能力が高いかを論じても始まりません。

 

しかし、国民の『幸福度』を、何らかの基準で統計処理し、その『因果関係』を考えてみることは、全く無意味とは言えません。

 

ただ難しいのはその『基準』に何を選ぶかで、選定された『基準』に対して、私たちは冷静な目を向けるべきです。国連機関が調査対象にしたから、妥当であるなどと梅爺は思いません。

 

このことは、『個』と『全体』の『幸せ』の意味が異なっていることを意味します。

 

梅爺が何度もブログに書いて来たように、人間にとって『個人』と『社会』の関係は、相互に矛盾する要因を含んでいるもので、人類の歴史の中で、その関係がどうあるべきかを、模索し続けてきましたが、いまだに、最適な解は得られていません。人類が抱える最大の『難問』の一つではないかと思います。

 

『幸せ』『愛』『自由』『正義』などという、本来非常に難しい『概念』を、私たちは日常、気軽に口にして生きています。しかし、時に立ち止まって、その意味を深く考えてみないと、うわべだけの『言葉』に騙されてしまうかもしれません。

 

結婚式の祝辞で『お二人の末永い幸せをお祈りします』と言われて、その気になったはずの二人の結婚生活が、『幸せ』でない結果に終わることもあります。

 

国の指導者が『正義』にこだわって、国民が悲惨な戦争に巻き込まれることもあります。

 

『安泰を希求する本能』が、人類社会に、『共有する価値観』としてもたらした、『幸せ』『愛』『自由』『正義』などの『抽象概念』は、『物質世界(自然界)』では通用しない概念です。

 

人間にとってのみ重要なこれらの『概念』の本質を、時に考えてみることは無駄なことではありません。

 

そういう思いを強めてくれる『サピエンス全書』という本は、極めて啓発的です。

| | コメント (0)

2019年4月16日 (火)

『幸せ』の定義(7)

『サピエンス全書』の中で、『幸せ』の判断基準が人によって異なる、『個性的』であることは、エアコンの設定温度の比喩で説明されています。

 

『0』から『10』の間の整数で、『幸せ』を表現する場合、設定温度(『幸せ』と感ずる平均値)が『8』の人は、大概の環境に身をおいても『自分は幸せである』と主張する人で、他の人が『不幸』と感ずる環境でも『幸せ』であると感ずる性向が強いことになります。『好々爺』と呼ばれる爺さんは、これに相当します。

 

一方設定温度が『3』の人は、逆に、他の多くの人が『幸せ』と感ずる環境でも『自分は不幸である』と主張する性向の強い人ということになります。いつも『苦虫をかみつぶしたような顔』をしている爺さんは、これに相当します。

 

このことから、人類はどのような時代、どのような環境でも、『幸せ』と感ずる人と、その同じ環境を『不幸』と感ずる人が存在していた理由が分かります。

 

文明社会に生きる私たちは、石器時代の人より『幸せ』であるなどと断定はできません。

 

人の『精神世界』の『主観的な判断基準(価値観)』は、『個性的』でそれぞれ違うということで、『幸せ』の感覚意外でも、『美の価値観』『信仰の度合い』などに差が生じます。

 

『蓼(たで)食う虫も好き好き』と、日本人はこの本質を見抜いてきました。

 

『科学』や『数学』の世界でない限り、自分の『個性的主観』は大切であり、それと同時に他人の『個性的主観』も尊重しなければなりません。

 

『芸術』や『宗教』の世界では、特に『個性的主観』が重要な意味を持ちます。自分の『価値観』を主張することは許されますが、他人の『価値観』を非難することは慎重であるべきです。

 

肉体が健康であり、心が安らかであることが、『幸せ』の基本であるとは思いますが、人間の『精神世界』は、複雑多様で、何を『幸せ』と判断するかは、一様ではありません。

 

『幸福度ランキング』の上位にランクされた国に生きる人たちは『幸せ』とは一概に言えませんが、自分の『個性的主観』を自由に表現できる環境に生きることは、『幸せ』の一つの要因でないでしょうか。

 

『梅爺閑話』のようなブログを、書くことが許されている日本の社会環境は、梅爺は『幸せ』なことです。

| | コメント (0)

2019年4月15日 (月)

『幸せ』の定義(6)

昨日紹介した、『人間の幸せ』を、(A)(B)(C)に区分する考え方は、梅爺が考えたことで『サピエンス全書』に啓発され思いついたものです。

 

『サピエンス全書』では、生物化学(脳科学)の学者の考え方が述べられているだけです。

 

『脳』が分泌する『ホルモン』で誘発される『快感』が、『幸せ』のそもそもの原点であるという指摘で、この指摘に梅爺は異論がありません。

 

ただ、高度に進化した人間の『脳』が創り出す『精神世界』独自の高度な『幸せ』の概念もあるのではないか、と考えた方が梅爺の『幸せ』についての実感に近いような気がします。

 

『ホルモン』が誘発する『快感』は、比較的短時間の持続で終わります。生物として『生きて』いくために、それが必要であるからでしょう。『性の快感』がいつまでも持続していたら、人は『食欲』を忘れて餓死してしまうと、『サピエンス全書』の著者はユーモラスに解説しています。

 

『悲しみ』や『怒り』も、やがては薄らいでいくということがなければ、人生はつらいものになってしまいます。

 

生物化学(脳科学)の学者は、もうひとつ重要な指摘をしています。それは、一人一人『幸せ』を感ずるレベルが『異なっている』ということです。

 

梅爺が、人間は肉体(物質世界に属する)も心(精神世界に属する)も『個性的』であるとブログに書いてきたことと符合します。

 

両親から偶発的に受け継いだ子供の『遺伝子の構成』が、この『個性的』であることの真因です。

 

私たちは、『人間は個性的である』ことを、日常体験して生きていますから、それは『当たり前』と受け止めて、『個性的』であることがもたらす、本質的で重要な意味を看過しがちです。

 

そして、時に『個性的』であることを忘れ、他人も自分と同じように『考え』『感じて』いるにちがいないと錯覚します。他人が自分と『違う』ことに気付くと、『それは間違っている』と自分中心の正当化を行おうとします。

 

人間関係のもつれは、多くの場合、この錯覚や自己正当性の主張で起こります。自分を棚に上げて他人を誹謗するのは、『個性的』の本質を理解していないからです。

| | コメント (0)

2019年4月14日 (日)

『幸せ』の定義(5)

『幸せ』の真の正体は、『ホルモン』による化学反応であり、それは実際には、比較的短時間しか持続しないものであるとすると、私たちが実感している『幸せ』とは、少し異なるような気がします。『幸せ』の感覚は、数分間で消滅してしまうものとは思えないからです。 

 

以下は梅爺の推測ですが、『幸せ』は以下のパターンを総合的に包含したものではないでしょうか。 

 

(A) 『安泰』と関連した『ホルモン』で強く感ずる『快感』。ただしこの『快感』は、『情』に属するもので長時間は持続しない。
(B) (A)の体験は、『脳』に記憶され、その記憶がよみがえる時にえられる二次的な仮想の『快感』。
(C) (A)のような体験はないが、『精神世界』の『理』で考え出した『因果関係』の結果を、『幸せ』という抽象概念で自分に言い聞かせるもの。
 

 

美味しいものを口にして、『美味しい』と叫ぶのは(A)、美味しいものを食べたことを思い出し『あれは美味しかった』と表現するのは(B)ということになります。 

 

老人が、自分の人生を振り返って、『私の人生は幸せだった』と述懐するのは(C)にあたります。この『幸せ』は『脳』の『ホルモン』で誘発された『快感』とは異なります。

 

『ホルモン』と関連する『快感』だけを『幸せ』とすると、『食欲』『性欲』『支配欲』『所有慾』など、他の動物も継承しているであろう『生物進化』でえた原始的(動物的)な『資質』だけに注目することになり、『人間の幸せ』の本質がボケてしまうのではないでしょうか。

 

むしろ(C)のような、『精神世界』を駆使して創出する『幸せ』の概念が人間には大切であり、それが『人間の幸せ』の本質なのではないでしょうか。自分は『不幸』ではなく『幸せ』なのだと自分に言い聞かせるために、創出する『因果関係』で、その人の『幸せ』が『精神世界』に根付くことになります。

 

『宗教』の『信仰』がもたらす、『心の安らぎ』は(C)に属する『幸せ』であり、『神に愛されている(仏の慈悲を受けている)』という『因果関係』が背景にあります。『心の安らぎ』も『ホルモン』を結果的に分泌することになるのかもしれませんが、動物的な『欲望』と関連して得られる『快感』とは少し異質な気がします。

| | コメント (0)

2019年4月13日 (土)

『幸せ』の定義(4)

社会心理学の『アンケート』による方法では、『幸せ』についての理解が深まりません。

 

一方、生物化学の学者は、『脳科学』で『幸せ』に迫ります。

 

『脳』が、周囲の状況を『自分に都合がよい状態』と判断している場合の、一つの表現様式として『幸せ』があると考えます。『幸せ』以外にも、『快い』『楽しい』『心が安らぐ』『陶酔する』などの表現も使われます。

 

梅爺はブログで、『自分に都合がよい状態』を『安泰』と表現し、人間の『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があるという『仮説』を唱えてきました。

 

『安泰』を表現する様式は、『幸せ』を含め沢山ありますが、すべて煎じつめれば『自分にとって都合がよいか悪いか』といった判断から派生していると言えます。

 

『脳』は『安泰』『快』に対応する『ホルモン』を分泌し、その信号は血流と共に全身へ届けられ、私たちは、『安泰』を認識して相応に反応します。

 

逆に、『不安』『不快』『危険』の場合には『脳』はそれに対応する『ホルモン』を分泌し、私たちはそれを認識して相応に対応します。

 

『幸せ』と表現すると、何か崇高なものと思いたくなりますが、実は『快』『不快』は、『ホルモン』による化学反応にすぎないという味気ない話になります。

 

梅爺は、生物化学のアプローチの方に共感を覚えます。『脳』『ホルモン』は、『物質世界』に属する実態があるものですから、『精神世界』は『仮想世界(心))』であると同時に、『物質世界』と地続きであることが分かります。

 

『精神世界』のホストである『肉体』『脳』が『死』で活動できなくなったときに、『精神世界』は一緒に『消滅』するという推定になります。『肉体』は滅びても『霊』は不滅で永遠に存在するなどという話は、人間の『願望』が生み出した『虚構(フィクション)』にすぎないと梅爺は考えています。

 

電源を切られた『パソコン』は、『アプリケーション・ソフト』の作動による『表現』を創り出すことができないのと同じです。

 

『ホルモン』は、私たちが特定の状況で、『都合の良し悪し』を判断することに関連して分泌されますから、分泌の持続時間は限度があり、いつまでも続くことはありません。『怒り』や『悲しみ』もやがては薄らいでいくのはこのためです。

 

もしそうならば『幸せ』の感覚は、ある時間だけ存在するもので、いつまでも続くものではないということになります。

| | コメント (0)

2019年4月12日 (金)

『幸せ』の定義(3)

社会心理学者の『幸せ』解明方法は、『アンケート』を利用する方法です。

 

『あなたは現在幸せですか』という設問に、『0』から『10』の間の整数で答えてもらいます。『幸せ度』が最も高い人が『10』、最も低い人が『0』になります。

 

たとえば、年収500万円未満の人と、1000万円未満かつ500万円以上の人にグループ分けし、上記のアンケートを行い、前者のグループの平均値と後者のグループの平均値を比較し、もし後者のグループの平均値が、有意的に高い数値であれば、『年収』は『幸せ』と『相関関係』があると見なします。

 

上記のようなグループ分けならば、多分高年収のグループが『幸せ度』が『高い』という結果になるのではないでしょうか。

 

それならば、年収番付のトップを争うような億万長者は、誰よりも『幸せ度』が高いのかというと、そういう結果にはなりません。

 

つまり、『年収』は、『幸せ』と『相関関係』がないとは言えませんが、それが絶対の要因ではないという、私たちが想像している『当たり前の結果』しか得られません。

 

『既婚者』『未婚の独身者』『離婚経験のある独身者』を対象に、同じような『アンケート』調査をしてみても、同じく『結婚』は『幸せ』と『相関関係』がないとは言えませんが、それが絶対的な要因とは言えないという、これまた『当たり前』の結果になります。

 

特に、どのような時代の、どのような環境でも『幸せ』である人と、『幸せ』でない人が存在するのはなぜかという問いに、社会心理学者は答えることができません。

 

石器時代の人より、中世の人が『幸せ』で、更に現代社会に生きる人はもっと『幸せ』であるなどとは言えないからです。

| | コメント (0)

2019年4月11日 (木)

『幸せ』の定義(2)

ブータンという小国が『国民総幸福量(GMH:Gross National Happiness)』の向上を国家の最重要政策として取り上げ、世界の注目を集めています。

 

『アンケート』に『私は幸せです』と答える人の比率を『指標』としていますが、ブータンでは97%の人が、そう答えていると伝えられています。

 

『アンケート』は統計的にある事象を分析する上で有効な手段ですが、『設問の設定のしかた』で、回答を誘導することもできますので、あくまでも参考として受け止める必要があります。

 

テレビ・コマーシャルを観ていると、『顧客満足度第一位』の『商品』や『会社』が、乱立していて、失笑させられます。『内閣支持率』の上下で、永田町が右往左往するのも滑稽です。

 

『幸福』には絶対尺度がないはずですが、何と『国連』の機関が、世界156ケ国の『幸福度ランキング』を、数値化して公表しています。

 

これを観ると、『幸福度』が高い上位国は、北欧の諸国が占め、政情が不安定で貧しいアフリカの諸国が下位を占めています。

 

『アメリカ』は18位、『日本』は54位、『中国』は86位で、何と『ブータン』は97位です。

 

経済指標やアンケート結果をもとに、数値化しているらしいことは分かりますが、この結果だけで、日本人が一喜一憂する必要はないでしょう。FIFA(国際サッカー連盟)のランキングと同じで、数値化の『前提』は、ある意味を含みますが、全体として『正しい』などとは誰も言えないからです。

 

このような手法で、『偏屈爺さんのランキング』などが発表されたらたまったものではありません。

 

ただ、その時の『数値化』の手法の意味は、自省事項として尊重しなければならないかもしれません。

 

『国連』の機関が、『数値化』に挑んだように、社会心理学や生物化学の専門学者も、『科学的』に『幸せ』を解明しようとしています。

 

『サピエンス全書』という本には、その内容が分かり易く解説されていて、興味を惹かれます。

| | コメント (0)

2019年4月10日 (水)

『幸せ』の定義(1)

80歳近い爺さんが、青二才の書生のように、『幸せ』を論ずるのは、少し気がひけますが、『サピエンス全書』という本を読んで、『幸せとは何か』について、日ごろモヤモヤ考えていたことが、『やっぱりそうか』と思い当たりましたので、感想として紹介します。

 

私たちは、『幸せ』『幸福』という言葉を、日常深く考えずに多用していますが、『幸せ』『幸福』の『定義』を問われれば、はたと困惑する筈です。勿論対(つい)となる『不幸』の『定義』にも困ります。

 

『愛』『自由』『正義』なども同じです。

 

私たち『ホモ・サピエンス』は、10万年位前に、『抽象概念』を仲間と『共有』できる能力を『生物進化』の過程で獲得し、そのことが『地球』上で、最も繁栄する『生物』になる要因になったと、『サピエンス全書』の著者は推測しています。このエポック・メーキングな出来事を『認識革命』と呼んでいます。

 

10万年前に、突然『抽象概念を共有する能力』を身につけたのではなく、それ以前にもすでに萌芽はあったはずですが、『サピエンス』全体が、保有している状態が顕著になったのが10万年前であるということでしょう。

 

『国家、帝国』『貨幣価値』『神』などは、すべて『抽象概念』ですから、『認識革命』がなければ、『文明』『経済行為』『宗教』『芸術』などは、出現しなかったことでしょう。

 

『言葉』で表現される『抽象概念』は、コミュニケーションでは重要な役割を果たします。

 

『物質世界(自然界)』に存在する実態がある『具象概念』に関連する『抽象概念』は、定量化して客観的に比較ができます。『高い、低い』『重い、軽い』『速い、遅い』などがそれにあたります。

 

一方『精神世界』が、『精神世界』の中で創出した『抽象概念』は、定量化する尺度がありませんから、比較はできません。『美しい』『楽しい』などがそれに相当します。『抽象概念』の大半は、主観的には相対比較ができますが、客観的には絶対比較ができません。

 

『富士山は日本一高い山である』という表現は、論理的に『真』ですが、『富士山は日本一美しい山である』という表現は、論理的に『真』とは言えません。

 

そのように考えると、『幸せ』『幸福』も、普遍的な尺度がないことは、すぐに理解できます。

 

そのように実態がはっきりしないものならば、意味がないものなのかというと、そうではなく、人が『生きて』いく上で、これほど重要なものはないことも実感できますから、『幸せ』や『幸福』の正体を、もっとはっきり知りたくなります。

| | コメント (0)

2019年4月 9日 (火)

健全なプライドと傲慢なプライド(4)

『ありのままの自分以上に自分を見せる』行為が、『法』やその社会の『道徳』に反すると知りながら、そのような行為に出るのは『確信犯』で、確かにひどい話ですが、社会的には『処罰』の対象になり、本人も何故『処罰』されるのかは胸に覚えがあることですから、一件落着へ持ちこむことができます。

このエッセイの著者も、『傲慢なプライド』に社会的に対応する一つの方法は、『処罰』を重くすることであると書いています。

しかし、『処罰(刑罰)』の重くすれば、社会の犯罪は減るといった、単純な相関関係が存在するのかどうか、梅爺は知りません。

社会で本当に始末に負えないのは、『自分の能力は低い』のではという自己疑念を一切持たずに、『自分の能力は高い』と勘違いして、得意げに振る舞う人です。日本では、これを『夜郎自大(やろうじだい)』と表現してきました。

前にも書きましたが、『トランプ大統領』『金正恩』などが思い浮かびます。

これも『傲慢なプライド』に属するものと考えれば、ある意味で上記の『確信犯』より始末が悪いとも言えます。

人間は、誰でも『自分の能力』で、周囲の事象に対応しますから、『低い能力』の人に『高い能力』の判断を求めることは論理的にできませんが、それでも多くの人は、社会生活の体験から、『世の中には自分より能力が高い人がいる』ことを感じ取りますから、自分の言動が適切でないかもしれないと自省し、能天気に『夜郎自大』にはならないように振る舞います。

面白いことに、『能力の高い』人は、自分の『能力は高くない』と自己査定し、『能力の低い』人は自分の『能力は高い』と自己査定する傾向にあります。

梅爺は、他人の地位や肩書などに惑わされずに、誰に対しても『畏敬の念を持つ』よう心がけていますが、時折『傲慢なプライド』が頭をもたげてきそうになることがあり、後々落ち込むことがあります。

『傲慢なプライド』は、実に厄介です。

| | コメント (0)

2019年4月 8日 (月)

健全なプライドと傲慢なプライド(3)

『精神世界』は、本来生物としての生き残り確率を高めるために、『生物進化』の過程で習得してきた『能力』ですので、『安泰を希求する本能』が基盤にあります。

つまり、周囲の事象を、自分にとって『都合が良いこと』か『都合が悪いこと』かを、判別することが基盤になります。

ややこしいことに、『人間』は、『群で生きる』ことを生活の様式として採用したために、『個』と『群』の『都合』は、相反することが多いという『矛盾』を抱え込んでしまいました。勿論『群で生きる』様式は、生き残り確率を高めるために選択したものです。

『群』の中では、『個』と『群』の両方の都合を配慮しながら、他人である『仲間』と、自分にとって『都合の良い関係(絆)』を構築、維持することが重要になります。

『群』の中で、仲間から『自分の存在』に一目置いてもらえることは自分にとって『都合がよい(安泰)』ですが、仲間から無視される、うとまれることは、『都合が悪い(不安)』ことになりますので、『安泰』は『絆』と結びつく重要な『情感』として、現代人の私たちにも遺伝子で継承されています。

他人に一目置いてもらいたいと欲することは、『安泰』を求めることから派生しますので、多くの人に共通する習性になります。これは更に『ありのままの自分以上に自分を見せたい』という欲求になります。

『着飾る』『化粧をする』などの行為の背景に、このような心理が働いています。『馬子にも衣装』と、日本人はこの本質を諧謔で笑い飛ばしてきました。

自分の『レベル』を客観視できる人は、『ありのままの自分以上に自分を見せる』ことに、『むなしさ』『恥ずかしさ』を感じて、実際の行為は抑制します。つまり『理性』による抑制が働きます。

しかし、自分の『レベル』を客観視することは、ふつうの人には至難の業です。後で冷静になって反省することがあったりはしますが、咄嗟の対応では、『嘘をつく』『弁解をする』などといった対応で、自分を取り繕(つくろ)うとします。

『ありのままの自分以上に自分を見せたい』という欲求は『虚栄心』であり、それが、『傲慢なプライド』の背景でしょう、したがって、誰もが程度の差はあれ基本的にその習性を保有していることになります。

しかし、このエッセイで紹介されているような、『法』や『道徳』に背く行動にでる人は、『理性』の抑制が利かなかった人ということになります。

『盗む人』『殺す人』が必ずどの社会にも出現するように、『虚栄心』で、悪事に及ぶ人も、残念ながら必ず出現します。冷たい言い方をすれば、『精神世界』が個性的であることの、一つの証左であるということになります。

| | コメント (0)

2019年4月 7日 (日)

健全なプライドと傲慢なプライド(2)

『健全なプライド』『傲慢なプライド』は、『心理学』が探求する『精神世界』の事象です。

『精神世界』とは何か、『精神世界』は何故存在するのか、『精神世界』を理解する為の本質は何か、などとは無縁に、突然『健全なプライド』『傲慢なプライド』の話を断片的にされても、皮相な知識の習得で終わってしまいます。

梅爺は、大学の教養課程で『心理学』の講義を受けた時に、前提条件である『精神世界』について深く考えたことがありませんでしたので、『視覚的な錯覚』『ロールシャッハ・テスト』などの話を突然聞かされても、深い興味をそそられることはありませんでした。不遜にも『これは学問と言えるのか』『いかがわしい学問ではないのか』と勝手に判断してしまいました。

『生物進化』『脳科学』などを絡めて、『精神世界』の説明を受け、『精神世界』を探求する手段の一つとして『心理学』があるという説明が最初にあれば、全く事情は変わっていたに違いありません。

梅爺は10年間以上ブログを書き続け、『精神世界』を学際的に考察して、ようやく、その本質を自分なりに把握できるようになった気がしています。

『精神世界』の本質は以下に集約できます。

(1) 『物質世界』に属する『脳』が創り出す『仮想世界』である。したがって『物質世界』とは地続きである。
(2) 生物としての生き残り確率を高めるための『能力』である。『安泰を希求する本能』が基盤として働いている。
(3) 『情』と『理』の判断が複雑に絡んでいる。
(4) 主として『情』は『無意識』、『理』は『意識』が関与している。
(5) 『抽象概念』を理解することができる。
(6) 自由奔放に『因果関係』を考え出すことができる。
(7) 個性的であり、常に動的に変容している。

この様な高度な『精神世界』を『人間』が保有していなかったら、『文明』は勿論のこと『宗教』『芸術』などは出現しなかったに違いありません。

『人間』や『人間社会』を理解する上で、『精神世界』は欠かせない要因ですので、『心理学』の目的は『精神世界』を探求することだと、このように順序だって教えてもらえば、梅爺の『心理学』に対する考え方は全く変わり、興味を示したに違いありません。

『精神世界』を理解することが特に難しいのは、『個性的で、しかも動的に常に変容している』ことでしょう。

梅爺の『精神世界』は、厳密には他の誰とも異なっており、しかも時々刻々変容していることになります。若いころの梅爺と、現在の梅爺では『別人』のように『精神世界』は異なっています。

この様な状況で、『健全なプライド』『傲慢なプライド』は論ずる必要があります。

| | コメント (0)

2019年4月 6日 (土)

健全なプライドと傲慢なプライド(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の85番目のタイトルは『Unmitigated Arrogance(傲慢の極み)』で、著者は、ブリティッシュ・コロンビア大学の心理学教授『Jessica L.Tracy』です。

著者が危惧しているのは、不適切な手段を用いて、名声を得ようとする著作者、学者、スポーツ選手などが横行している現状です。

無断で他人の文章を引用する著作者、他人の論文のデータを自らのデータのように装って論文を発表する学者、禁止されている薬物で筋肉を増強するスポーツ選手などが、何人か実名で糾弾されています。

エッセイの著者は、これらの行為の背景には、心理学で『傲慢なプライド(Hubristic Pride)』と言われているものが働いていると述べています。『傲慢なプライド』と対称的なものとして『健全なプライド(Authentic Pride)』があると書いてあります。

『健全なプライド』は、何か困難なことを成し遂げたような時に感ずる自信に裏付けされた『誇らしい気持ち』ですが、『傲慢なプライド』は、不適切な手段を使ってまでも、自分を立派に、大きく見せたいという欲望のことです。

心のどこかに『やましさ』を感じながら『傲慢なプライド』を行使する人は、まだ救いようがありますが、『傲慢なプライド』と思い至らず、自分は本当に『立派な人物』『大きな人物』と思い込んでいる人は、手のつけようがありません。

このエッセイを読んで、梅爺の念頭には『トランプ大統領』『プーチン大統領』『金正恩』などが思い浮かびました。

『傲慢なプライド』は、最近問題になったことではなく、人類の歴史の初めから存在していたものであると書いてありました。

梅爺流にいえば、生物進化の過程で、人類が『精神世界』を保有するようになった当初から、この問題は存在していたということでしょう。

ということは、私たちの誰もが『傲慢なプライド』を行使する可能性があるということに外なりません。『釈迦』のいう『煩悩』に属すると考えれば、分かりやすいかもしれません。

| | コメント (0)

2019年4月 5日 (金)

江戸の諺『痛くない腹を探る(探られる)』

江戸の諺『痛くない腹を探る(探られる)』の話です。

現代でも、これは使われる表現です。何も悪いことをしていないのに、他人から疑いをかけられるという意味で使われます。

腹痛でもないのに、『ここが痛いのでしょう』などと腹を探られて、当惑顔の人の様子が目に浮かびます。

私たちの『精神世界』は、『安泰を希求する本能』で支配されているというのが、梅爺の『仮説』ですが、もしそうだとすると、私たちは、他人との関係の中で、『自分がどのように思われているのか』を常に意識しながら生きていることになります。群をなして生きる生物には、仲間との関係が重要であるからです。

『よく思われている』ということならば、『安泰』が確認できる状態ですから、愉快を促すホルモンが分泌され、嬉しい気持ちになりますが、『よく思われていない』と感じた時には、逆に『不安』を促すホルモンが分泌され、悲しい、不安な気持ちになります。

『不安』の表現として『泣く』『怒る』などの行為をとることがありますが、積極的に解消する為に『反論する』などといった行為にも出ます。

他人が自分のことをどう思っているかは、『言葉』で表現されることもありますが、多くは『素振り』『顔の表情』などから類推されます。

『顔の表情』を判定するには、『目』が重要な役割を果たします。赤ん坊が、母親の『目』を追うのは、『安泰を希求する本能』の典型例です。『目』を中心に顔の表情を認識するという基本能力が脳に備わっているのでしょう。

『犬』も飼い主の『目』を見て、飼い主の意図を感じ取ろうとしますので、これは『生物進化』の中で、動物が獲得した原始的な本能なのでしょう。

悪いことをしていないのに、嫌疑をかっけられるということは、悪いことをしたかしないかという事実判定の問題より、『自分が正当に観られていない』ということが大問題なのです。『自尊心』は『安泰』から派生する『精神世界』の中の重要な情感の一つです。

| | コメント (0)

2019年4月 4日 (木)

江戸の諺『出る杭を打つ(出る杭は打たれる)』

『出る杭は打たれる』は現代でも使われる表現です。

才能があって頭角を現す者は、人から憎まれやすい、差し出た振る舞いをする者は、人から制裁を受けるという意味であると、解説が載っています。

世の中は、他人と同じように振る舞っていれば、まずは『安泰』という、日本社会の価値観が垣間見えます。

しかし、この価値観は、日本以外では通用するとは限りません。『出る杭は打たれる』という諺とその意味を聞いて、多くの外国人は怪訝な顔をするのではないでしょうか。

梅爺は、仕事の現役時代に、たびたびアメリカへ出張し、ビジネス折衝するたびに、この価値観の違いを思い知らされました。

アメリカ人の一般的な価値観では、『他人と同じ』ことは評価の対象にならず、『自分は他人より秀でている』ことを、積極的にアピールすることがむしろ評価の対象になるからです。

アメリカの会社の受付嬢は、満面の笑みと大袈裟なしぐさで訪問者に対応し、とても『大和撫子』の控え目で清楚な風情はありませんが、彼女らにとっては、『いかに自分が魅力的か』を誇示することが、存在を認めてもらう決め手であるからです。

ビジネス折衝でも、梅爺が少し『沈黙』すると、『お前さんの沈黙は、お前さんを有利にはしませんよ』などと、アメリカ人にたしなめられました。

梅爺の判断では、どう見ても『優秀でない』アメリカ人が、突っ張って『俺は優秀だぞ』と主張するのには閉口しました。

アメリカの街中でも、多くの男が『俺はマッチョだぞ』と言わんばかりに、ふんぞり返って歩いています。

アメリカでも、頭角を現した人の『足を引っ張る』行為は当然あるのですが、少なくとも、『自己主張することは、処世術として得策ではない』という考え方は、希薄です。

『チームプレイをするスポーツ競技』で、『チームの規律を乱さない』ことと『個性的な能力を発揮する』ことの、どちらが重要かというような議論で、日本人は『チームの規律を乱さない』ことを重視するために、本当に強くなれないといわれますが、『出る杭な打たれる』の分化が根強いからなのでしょう。

煎じつめると『個』と『全体』の関係に帰着します。この問題に普遍的な解はありませんから、『出る杭は打たれる』は一つの対応法であって、すべてに使える処世術ではないことを、日本人は知っておくべきでしょう。

| | コメント (0)

2019年4月 3日 (水)

江戸の諺『七重(たたえ)の膝八重(やえ)に折る』

『七重の膝八重に折る』は、現在でも使われる表現です。

丁重な上にもさらに丁重に、お願いしたり、お詫びしたりする様子を表現したものです。

『諺臍の宿替』という原本には、借金がかさんで、返すめどが立たず、それでも催促されて、渋々謝りにでかける男の小話が載っています。

『七重の膝八重に折る』の外に、『合わせる顔がない』『敷居が高い』などの慣用句も使われています。

『膝』はひとつだけ『折る』ことができるものであることは、誰もが承知しながら、『七重(ななえ)』『八重(やえ)』などと、ありえない表現を用いるところが、日本流の表現です。

『七重八重』は、沢山重なっていることを表現する日本語の一般的な『慣用句』で、これを『膝』と組み合わせてしまうところが『突飛な』発想です。

何となく『平謝りに謝っている』様子が目に浮かびます。

江戸の落語『道灌(どうかん)』の、『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき(後拾遺和歌集)』を巧みに用いた内容を思い出しました。

『太田道灌』が狩りの途中村雨(むらさめ)に会い、雨具を借りようとあばら家に立ち寄ったところ、小娘がでてきて、お盆の上に『山吹の花』を一輪のせてさしだしました。『道灌』がいぶかっていると家臣が『蓑(みの:実の)一つだなき』の意を伝えます。『道灌』は自らの浅学を恥じてその後、歌の勉強に励んだという故事があります。

これを聞いた『八五郎』が、雨の日に知人が傘を借りに来たら、この手で対応しようと、『和歌』を大屋に『カナ』で書いてもらい待ち受けます。折よく知人が来ましたが傘は所持していて『提灯(ちょうちん)』を貸してほしいといいだします。『八五郎』は、『傘を貸してほしいと言えば提灯を貸そう』と持ちかけ、知人がしかたなしにそういうと、『和歌』を書いた紙を差し出します。

知人は、それを『ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ』と、たどたどしく読み間違います。『八五郎』が『おめぇは、歌道に暗いな』となじると、知人は『角(歌道)が暗いから提灯を借りにきた』と答えます。

お後がよろしいようで。

| | コメント (0)

2019年4月 2日 (火)

江戸の諺『足が摺小木(すりこぎ)』

『足が摺小木(すりこぎ)』は、現代では『足が棒になる』というような表現が多くなっています。『足が非常に疲れる』という意味で、元は『摺小木』の先が減ってしまう例えから、『疲れる』ばかりではなく『徒労になる』という意味も含まれていたのでしょう。

英語のイデオム(慣用句)でも、『例え(比喩)』は多用されますが、論理的な因果関係を想起させるものが多いように感じます。詩の表現にしても、『君の唇はバラの花びらのようだ』などという、誰でも類似性を想起できるような表現が好まれます。

古代ギリシャの『理性』重視の文化が、西欧に継承されているためと考えられます。『外交』『ビジネス』の『折衝』も、基本的には『理』を用いた論法になります。このため、子供の時から『ディベート(Debate)』の訓練が教育の中に組み込まれ重視されます。

梅爺は、日本では『理屈屋』として、敬遠されがちですが、西欧の会社とのビジネス折衝は、それほど苦になりませんでした。『理』を駆使した議論が『嫌い』ではないという性分からなのでしょう。西欧に生まれていたら、言葉も自由にこなせるわけですから、一層はつらつと活躍できたであろうにと、内心考えたりもしました。

一方、日本の諺や慣用句は、類似性を想起しやすい比喩ではなく、『突飛な組み合わせ』『虚を突いた』表現が、『面白い』として受け容れられてきたように感じます。勿論、因果関係が全くないというわけにはいきませんから、『強引なこじつけ』のような説明が行われますが、それはそれでまた『面白い』ということになっていいるようです。

これらは、日本の言語文化の中の『粋』に関連したものですが、『粋』の背景には『笑い(諧謔)』が込められています。

日本の『諺』を、英語に直訳しても、『粋』や『諧謔』は伝わらないでしょう。

『足が摺小木』などという表現は、その典型です。逆に『君の唇はバラの花びらのようだ』などという表現に、私たちは『粋』や『諧謔』を感じません。むしろ、あまりに直接過ぎて『気恥ずかしさ』を感じます。

| | コメント (0)

2019年4月 1日 (月)

江戸の諺『金が敵(かたき)』

『金が敵(かたき)』は、現在でも使われる表現ですが、『資本主義』『自由経済主義』を社会の基本として受け容れている今の日本では、『金が敵』どころか『金』は拝んでも欲しいものと考える『拝金主義者』であふれかえっています。

『金が敵』とは、金で苦労をしたり、金のために身を滅ぼしたりすることを意味し、『金』を『憎っくきもの』と観る考え方が江戸の人たちにはあったのでしょう。

とはいえ、江戸の人たちもホンネでは『金』が欲しいと思う気持ちは変わらなかったはずです。『金』があれば、自分にとって都合の良い状態を手に入れることができますから、『安泰を希求する本能』に支配されている『人間』なら、誰も『欲しい』と思うに違いないからです。

しかし、『安泰の限りない追及』は、『欲望』だけを膨らませることになり、『欲望』の行き過ぎは『煩悩(ぼんのう)』となって、身を滅ぼす魔物に変ずることも、江戸の人たちは感じ取っていたのでしょう。

そのような『価値観』が、『仏教』からもたらされたのか、『儒教』からもたらされたのか推測の域を出ませんが、『金』は『両刃(もとは)の剣』と受け取る『価値観』は、健全であるように思います。

『金』そのものに責任はないのですが、それにかかわると人間は、『欲望の鬼』になったり、『絆がとげとげしいもの』になったりします。

『宵越の金を持たない』などと『粋』がった『江戸っ子』は、『強がり』でもありますが、そのような『きっぷの良さ』が、人間関係を良くするという考え方も、意中にあったのかもしれません。

『金』は『信用を共有する』という抽象概念を保有できる『人間』の世界だけで通用する不思議なシステムです。

『ホモ・サピエンス』は『金』の概念を共有できるようになって、『文明』を進化させました。その『金』が人間にとって、『神』でもあり『悪魔(魔物)』でもあるという側面は、興味深いことです。

| | コメント (0)

« 2019年3月 | トップページ | 2019年5月 »