« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »

2019年3月31日 (日)

人は何故絆を求めるのか(6)

『生物進化』は、原則として『自然環境』の変化に対し、時間をかけてゆったり進行してきました。

ところが、『文明』の発生以来、人類は、自身で『自然環境』ではない、『人工的な環境』を採択し、その変化を受け容れながら生活するようになりました。

『人工的な環境』の大半は、人類が考え出した『抽象概念』を、あたかも実態のあるものとして共有することで、出現したものです。この能力を獲得した過程を、『サピエンス全史』の著者は『認識革命』と呼んでいます。

『国家、帝国などの枠組み』、『物事のすべてを貨幣価値に換算して表現する仕組み』、『イデオロギーによる政治基盤』、『市場主義、資本主義などの経済基盤』、『神仏の存在と教義を信ずる宗教基盤』などがこれにあたります。

この様なことが可能になったのは、約10万年前に、『人類』が体験した前述の『認識革命』によるもので、生物のなかで『人類』だけが保有する高度な能力です。他の動物は、『貨幣』で価値を換算したり、神仏を拝んだりはしません。

『認識革命』は、その後登場した『農業革命』『産業革命』『情報革命』以上に重要な意味を持つと指摘する『サピエンス全史』の著者の洞察は見事です。

『文明』がもたらした『人工的な環境』は、20世紀以降の急速な『科学知識』の応用で、その変化は、さらに加速され続けています。

『自然環境(物質世界)』の変化に対応する『生物進化』はゆったりしたペースで進行し、それには対応してきた『人類』ですが、自分たちが創り出した『人工的な環境』の急速な変化は、初めての体験ですから、『ストレス』は強大で、そこに色々な問題が生ずるのは当然のことと言えます。

『絆の喪失』『利己主義の横行』『適応能力を欠いた弱者の出現』『種々の心の病の蔓延』『いじめ、差別』などがそれに相当します。

『人類』は、この急速な『変化』に対応できる柔軟な能力を保有しているのか、それとも、押しつぶされて挫折するのかは、誰にも分かりません。

急速な『人工的な環境』の中といえども、生物として『人類』は、『安泰を希求する本能』で、次なる行動を選択することだけは確かでしょう。

『サピエンス全史』のように、学際的に人類の歴史を解き明かす本は、現代人にとっては、将来を考えるためのかけがえのない啓蒙書です。

| | コメント (0)

2019年3月30日 (土)

人は何故絆を求めるのか(5)

私たちは『文明社会』で生きることを『当たり前』と受け止め、社会が急激に変貌していくことも、『快適な社会』への変貌として肯定的に対応しています。

『人口の急激な増大』を、『地球資源』では支えられないであろうという予測がだいぶ前から唱えられながら、実態は、科学が新しいエネルギーを提供したり、大規模で効率の良い農業、酪農などが出現したりして、人類社会の変化に終止符が打たれるようには一向に見えません。

私たちは、『市場主義』『資本主義』の基盤は、当分崩壊しないであろうと考えているとも言えます。

しかし、『人類』の歴史を考えると、『文明』の歴史は5000年程度しかなく、それ以前の永い期間は、『群』を基盤とした生活で、『市場主義』『資本主義』などは存在しなかったことを知るべきです。『絆』の情感は、この永い期間でゆっくりと醸成された根強いものです。言い換えると、私たち『現代人』は、『人類』の中で希有な体験の中で生きているということになります。

現代は、祖父母と孫では、全く違う生活環境になっています。代々同じ行動パターンを繰り返していた古代とは、全く異なった環境です。

辛うじて『家族』という『群』の最小単位は維持されていますが、多くは『核家族』であり、何世代もが同居しているなどという環境は希有になっています。

現代人にとっては、『親子』『兄弟姉妹』などの間柄で『絆』が存在していますが、古代の人たちのように、周囲の関係がすべて『絆』で結ばれているといった環境は消滅してしまいました。

それでも、現代人も『絆』の本能は継承していますから、『市場主義』『資本主義』の基盤の中で、なんとか新しい代替の『絆』を求めようとします。

『同級会』『同窓会』『県人会』『会社の入社同期会』などへの熱心な参加、宗教の『教会の集い』、『スポーツチームのサポーター仲間』、『趣味の仲間』、『同じ商品を愛用している仲間』などに、『絆』を求めます。

『オリンピック』『サッカーのワールドカップ』『野球のWBC』などで『日本』が勝てば、『日本人』という『絆』で私たちは盛り上がります。

『絆』を求める習性をうまく利用しているのが、インターネットを利用した『SNS』でしょう。この仮想環境の中で、私たちは『仲間意識』を醸成し、『絆』の欲求を満たそうとします。

| | コメント (0)

2019年3月29日 (金)

人は何故絆を求めるのか(4)

古代の『群』は、すべて顔見知りの人たちの集団でしたから、『群』の規模は、精々数十人程度であったと想像できます。『群』の世代交代が繰り返され、人々の行動パターンも、同じ内容の繰り返しであったに違いありません。

『群』の中の『助け合い』『思いやり』『分かち合い』といった情感の共有は自然なものであり、これが『絆』として遺伝子の中に定着したものと推察できます。『絆』の情感は永い年月をかけて醸成されました。

『群』と『群』との間では、『物々交換』のような原始的な商取引があったかもしれませんが、同じ『群』の中では、無償の『助け合い』『分かち合い』であったと考えられます。『精神世界』に存在する『利他の心』の原点は、古代の『群』で培われた『絆』の情感ではないでしょうか。

『絆』や『愛』といった、崇高な情感も、元はと言えば『個』や『群』が、生き延びる確率を高めるために進化の過程で獲得したものであろうと、梅爺は推察しています。すべて『安泰を希求する本能』に帰着します。

人類社会が、『文明』を獲得した時に、『群』は大規模な『コミュニティ』に変貌することになりました。『国家』『帝国』の出現です。『群』は『国家』や『帝国』に対抗しては生き残れませんから、『個』は『国家』『帝国』への帰属を、『安泰』のためにやむなく選択したことになります。

『個』にとって、これは大きな環境の変化を意味します。つまり『コミュニティ』のメンバーの大半は『見知らぬ人(赤の他人)』になったことです。

『個』が『見知らぬ人たち』と共存して生きていかねばならないという環境は、人類にとっては大きな試練であったと想像できます。

『共通の言葉の採用』『より細かい掟(法)の制定と施行』『職業の分化』などが必要になり、特に『コミュニティ』内のすべての行動が、共通の『価値』に変換されて『有償』で決済されることになりました。『通貨』が出現し、それを多く保有することは『資本』として大きな力を意味するようになりました。

『文明』は多くの変化をもたらしましたが、この『市場主義』『資本主義』という考え方は、現在にまで継承され、更に強固に私たちの社会基盤となっています。

『サピエンス全史』の著者は、この『市場主義』『資本主義』に対して、古代から継承されてきた『絆』の情感を、現代人がどのように適応すべきかで、無意識に右往左往し、悪戦苦闘していると洞察しています。

『絆』が満たされない現代人の様子は、『アスファルト・ジャングルの中の孤独』などと表現されるのは、このためとみています。

| | コメント (0)

2019年3月28日 (木)

人は何故絆を求めるのか(3)

『安泰を希求する本能』は、生物の『個』としては、『エゴ』を優先するということに外なりません。

『宗教』や『道徳』は、『エゴ』を『好ましくないもの』として、私たちに『教え』てきましたので、多くの人は自分が『エゴイスト(自己優先の人物)』であることを、認めようとしません。

しかし、『自分はエゴイストではない』といくら主張して踏ん張ってみても、残念ながら私たちは本質的に『エゴイスト』であるように、創られた『生物』であるという現実から逃れることができません。『エゴイスト』でないように振る舞うのは『精神世界』が『抑制』しているだけのことです。

ところが、『人類』はその後、『群れをなして生きる』という方法を『選択』したために、『エゴ』に関して、解決できない『矛盾』を抱えるようになりました。

『個』の『エゴ』と、『群(コミュニティ)』の『エゴ』は、相反するものであることが多いという『矛盾』です。

『個』だけなら『利己的』を通せばよいのですが、『群』のためには『利他的』でなければならないということで、人類は現在もこの『矛盾』を普遍的に解決する『方法』を見出していません。『法』『憲法』『道徳』『倫理』『宗教の教義』『イデオロギー』などは、すべて対処する為の『方法』ではありますが、普遍的な解決法ではありません。その証拠に、『コミュニティ』によって、それらの内容は異なっています。

『釈迦』は、この人間の『実態』を見事に喝破し、それを『人の中には邪心(利己)と仏心(利他)が同居している』と説きました。邪心は『煩悩』の源泉なので、よりよく『生きる』ためには、出来るだけ『邪心(煩悩)』を排除し、『仏心』を優先しなさいとも説きました。『仏』になるというのはそういうことです。

現代の『仏教』は、形式化、様式化が進み、理解が難しいものになっていますが、『釈迦』の教えそのものは、非常に哲学的ではありますが、単純です。

『キリスト教(特にカトリック)』についても、同様のことがいえるのではないでしょうか。大聖堂や、まばゆい法王の衣装などを観たら、『キリスト』も驚くのではないでしょうか。

古代の『人類』は、『群』で生活しており、その『群』は、『家族』や『同族』など『見知った人たち』の集団で構成されていました。当然『群』は『助け合って生きていた』ことになり、『群』の中では『絆』が重要な要因でした。

『安泰を希求する本能』から『群のなかで絆を大切にする本能』が派生し、その資質は『現代人』にまで継承されてきているということです。

| | コメント (0)

2019年3月27日 (水)

人は何故絆を求めるのか(2)

『人は何故絆を求めるのか』については、『サピエンス全史』を読む前から梅爺は、自説(仮説)を何度もブログに書いてきました。

すべての『生物』は、進化の過程で、『安泰を希求する本能』を、活動、行動の基盤にしてきたという『仮説』です。遺伝子の中にその『本能』は組み込まれていると考えています。

周囲の状況が、自分にとって『有利』なものか『不利な』ものかを『判断』し、『不利』な状況に対しては『逃げる(避ける)』『戦って相手を倒す』などの『行動』を選択します。特に『動物』の『脳』は、この『判断』を行う器官として進化してきました。

何故この様な『本能』を基盤にしたのかは簡単な話で、『個』や『種』が生き延びる可能性を高めるために有効であったからです。

『人類』も、『生物進化』の中で出現した『生物種』ですから、この『安泰を希求する本能』を継承しています。私たちの行動の根源には、常にこの『本能』が付きまといます。

『人類』は、高度に進化した『脳』を保有する生物です。この『脳』は、肉体的に『生きる』ことを制御する中枢であると同時に、『安泰を希求する本能』を補佐する中枢ともなりました。『脳』が創出する『精神世界(心)』は、『理』や『情』を駆使して『認識』『判断』を行うための重要な役割を負っています。

『生物』としての『生命活動』は、『物質世界(自然界)』に属するもので、その『摂理』だけに支配されていますが、更に『人類』は、高度な『脳』を利用した『精神世界(心)』を保有する為に、その存在の全貌を理解することが、非常に難しい『生物』に変貌したことになります。

この『精神世界』の本質を理解することが、『人間』や『人間社会』を理解する為の出発点になると梅爺は考えています。『絆』も勿論これに関連してきます。

『安泰を希求する本能』などという言葉は用いていませんが、『サピエンス全史』の著者も、『生物進化』の過程で、人類が獲得した『資質』が、『絆』に関与していると説明しています。同士を得て、梅爺は心強く感じています。

| | コメント (0)

2019年3月26日 (火)

人は何故絆を求めるのか(1)

『サピエンス全史』という本は、人類(現生人類:ホモ・サピエンス)の歴史を、『学際的』に解説した本です。『生物学』『遺伝学』『脳科学』『考古学』『文化人類学』『宗教学』『経済学』『政治学』などを総合的に駆使した書物ですので、従来の『歴史書』とは異なった圧倒的な説得力と面白さで読者に迫ってきます。

『科学知識』をはじめ、多くの知識を獲得した私たち現代人は、『人間』や『人間社会』を、それらの知識を総動員して、見直してみる必要があります。このことを梅爺は何度もブログで、『学際的な視点の重要性』として主張してきました。

『専門領域』を詳しく知る『専門家』は、勿論必要ですが、私たち庶民に必要なことは、『人間』や『人間社会』の本質を深く洞察できる総合能力を高めることです。

この様な能力を持つ庶民が多い社会が、健全で強靭であり、更に高いレベルへ文明を移行させていく原動力になります。梅爺は『日本』がそのような社会になっていくことを望んでいます。

『サピエンス全史』では、現代社会で、『人間』が『孤独感』に苛まれ、『心の病』を患う人が増えているのは、何故かを見事な『仮説』で解説しています。

『モノが豊かになって、人々の心は貧しくなった』と、多くの人が嘆き、私たちは自らそれを実感しますが、何故そのようなことになったのかを論ずる人は意外に多くはありません。

『思いやりのある人間になろう』などと道徳的な対処法が述べられますが、その程度のスローガンを掲げるだけで、この問題は解消するほど単純な問題ではありません。

一部の人たちは『芸術』や『宗教』に、『心の豊かさ』を求める行動にでます。本能的に『危機感』を抱き、自ら対処しようとするものですが、それが本質的な問題への対処法なのかどうかは、あまり深く考えたりはしません。

| | コメント (0)

2019年3月25日 (月)

江戸の諺『杯廻す』『杯の捻じ合い』『杯おさえる』

『杯(を)廻す』は、現代の酒宴でもよく見かけられる光景です。

同じ『小さな杯』を利用して、酒を注ぎながら、酒宴の参加者が『廻し呑み』をするのが現代流ですが、昔は『大きな杯』になみなみ酒を注いで、それを皆で『廻し呑み』することもあったのでしょう。

世界中で『乾杯』をする風習はありますが、同じ『杯』を利用して『廻し呑み』するのは、日本独特の風習のような気がします。

『杯廻す』のには、『毒見』や『主君への忠誠心表明』の意味が込められています。

酒を利用した『毒殺』への警戒心を解くために、ホスト役の主人がまず『呑み』、毒殺の意図がないことを客人へ示すといったことから始まった風習です。

家臣が主君から、『お流れ頂戴』と杯を受け、それで『忠誠心』を示す意味が込められました。現代のビジネスでも接待の酒宴などで『お流れ頂戴』は継承されています。

『杯の捻じ合い』は、酔って理屈をこねて人に食ってかかる『捻上戸(ねじじょうご)』の様を表現したものです。普段おとなしい人が、酔うと人が変わって、人に絡むというようなことは、今も昔もよくある話であったのでしょう。酔って人が変わっていく様を巧みに表現した『落語』や『歌舞伎芝居』などがあります。

『杯おさえる』は、『杯』をさされたときに、それを押し戻し、相手にもう一度呑ませることを表現しています。

目下の人がこれを目上の人に行うのは、『失礼』ですが、目上の人が目下の人に『まあまあ、もう一杯飲め』と『杯おさえる』ことになると、断ることが逆に『失礼』になり、悪酔いしてしまう原因にもなります。

『杯』は、日本では『絆を確認する手段』の意味があり、『杯』に関する諺も、このように沢山あるのでしょう。

| | コメント (0)

2019年3月24日 (日)

江戸の諺『小便桶の三番叟(さんばそう)』

『小便桶の三番叟』は、今では使われない表現です。現代人には『小便桶』そのものが馴染みのうすいものになってしまっているからでしょう。

『三番叟』は能や歌舞伎で披露される古典芸能(の踊りのことで、『飛んだり跳ねたり』する所作が特徴です。

『小便桶』で小便をすると、あちこちにはねることから、『小便桶の三番叟』は、『あちこちに、飛び散る』様子を表現したものです。あまり上品な表現ではありませんが、庶民の『笑い』を誘うものであったのでしょう。

江戸は当時、人口が100万人を超える、『世界一の都市』でした。そして、驚くべきことに『上下水道網』が完備した都市でもありました。

当時、日本の地方では、『上水』は『井戸』でくみ上げることが主流でしたが、江戸は『井戸』だけでは、まかなえないきれないために、『玉川上水』『神田上水(井の頭池を水源)』から取水する、『上水網』が敷き詰められていました。

『玉川上水』は西多摩『羽村』から多摩川の水を取り込み、江戸まで人工的に高低差だけを利用した『上水路』で水を流したわけですから、当時すでに『すぐれた測量技術』が存在していたことが分かります。

末端の『上水路』は、木製の樋(とい)を地中に埋めたものでした。これも高低差を利用したものですから、かなりの知恵や技術を必要としたはずです。

『下水路』は逆に、江戸の町から木製の樋で創った『どぶ』のネットワークで汚水を集め、最後は『川』へ流す仕組みでした。現代のように『化学洗剤』などは使われませんでしたから、これで『川』が汚染されることも問題にはなりませんでした。むしろプランクトンが増えて、魚が増えるということにもなったようです。『どぶ』には木製の蓋が敷いてあり、これが『どぶ板』です。

梅爺の創作落語にしばしば登場する『神田どぶ板長屋』は、この『どぶ板』のことです。

上記の『小便桶』は、『簡易トイレ』で、たまった小便は、『どぶ』へ流されたのでしょう。

勿論、江戸は現代より『衛生的』であったとはいえませんが、当時のレベルでは世界でも最先端の『上下水道網』を保有していたと言えます。

設営は元より、腐った『樋』の交換、『樋』の定期的な清掃など保守にも、ばかにならない費用がかかったことでしょうが、これらは『大名家』『地主』が分担負担し、長屋の住民などは、『無料』でこれらの『上下水道』を利用していたと言われています。江戸は私たちが想像する以上に、庶民も住みやすい進んだ『都市』であったと言えそうです。

| | コメント (0)

2019年3月23日 (土)

江戸の諺『足手まとい』

『足手まとい』は現在でも使われる表現です。

自分が目的を達する為に、優先する行為を妨げる要因を『足手まとい』と表現します。

手や足に邪魔なものがまとわりついて、動きが取れない様子が目に浮かびます。

『諺臍の宿替』という本には、子供を残して女房に死なれた男が、『俺一人なら、なんなりと自由に振る舞えるのに、子供が足手まといになって、どうにもならない。どうしてこんなもの(子供)を作ってしまったんだろう』と嘆く小話が掲載されています。

女房がいた時には『子は鎹(かすがい)』などと、宝物のようにしていたものが、状況が変わると『足手まとい』になるという、滑稽な話です。

人間の『精神世界』は、動的に『変容』していますから、同じ事象に対して、いつも同じように『考えたり』『感じたり』するわけではありません。

体調がすぐれない時には、普段はなんとも思わないことに、『腹を立てたり』することがありますから、梅爺は『好々爺』でありたいとは願いながら、『無愛想な爺さん』になってしまうことがあります。

『精神世界』の価値観が『変容』すると、今まで『愛(いと)おしい』と思っていたものが、急に『鬱陶(うっとう)しい』ものに変わったりします。いったんそのように思うようになると、『耐えられない』気持ちになります。

相思相愛で結婚した男女が、罵りあいの末に離婚するなどというケースの大半はこの様な原因に因るものです。

『相手が自分の願うように行動しない』と嘆く前に、相手も同じように感じているかもしれないと思いつくことが出来れば、『お互いさま』として許容できる可能性が残ります。

自分を棚に上げて、相手を非難することは身勝手であり、そもそも『精神世界』は個性的であるということへの配慮を欠く行為です。

意外なことに、世の中の多くの人は『人間の精神世界は個性的である』ということの意味を深く考えていないように見えます。

人間は生物として『個性的』であるように、宿命づけられているのです。『夫婦』はもとより『親子』でさえも、『別の精神世界の保有者』なのです。

| | コメント (0)

2019年3月22日 (金)

江戸の諺『わらでしても男は男』

『わらでしても男は男』という表現は、現在ではあまり使われません。『痩せても枯れても男は男』に近い意味ではないでしょうか。

『藁』は『我』にかけたものと考えられます。頭髪を藁で束ねたような百姓の身でも、男は男としての権威があるというような解説が添えられています。

『女』に対比して『男』が偉いといっているのではなく、『男には男の自負心がある』ということでしょう。

アメリカの結婚(離婚)コンサルタントが書いた『男は火星人、女は金星人』という本を読むと、深刻な問題を抱えた時に、男は他人に頼らずに、一人で解決しようとする性向が強く、逆に女は、窮状を周囲の人に訴えて、同情や救いを求める性向が強いと書いてあります。

古代人の男は、外に出て狩猟をし、女は住居に留まって家事、育児をするために適した習性が、生物進化の過程で育まれ、現代人にまで継承されているからということになっていますが、これは『仮説』の一つにすぎないような気がします。

現代の『脳科学』は、男と女では『脳』の部位の役割分担が違っていることを明らかにしていますから、男と女では『考え方、感じ方』に違いがあることは確かなことでしょう。男は『理』で判断する傾向が強く、女は『情』で判断する傾向が強いという違いは、よく聞く話です。『男は脳で考え、女は子宮で考える』などと言う人もいます。

『男は火星人、女は金星人』という本の結論は、お互いに相手が異星人であると認めれば、多くの男女のイザコザはなくなるというものです。

夫が問題を解決しようと、深刻な顔をして書斎に引きこもっている時に、妻は『どうかしたの、顔色が悪いわね』などと詰め寄るのは逆効果で、放っておく方がよい、妻が何か愚痴をこぼしたら、夫は『論理的な解答』など提示せずに、『それは、大変だね』とただ相槌を打てばよいと本に書いてありました。妻は『解答』を期待しているのではなく『同情してもらいたい』と願っているのだからというわけです。

『わらでしても男は男』という諺は、男の本生を江戸の人たちがそれとなく気づいていたことを示しているような気がします。

しかし、上記は一般論で、『女のような男』『男のような女』も、世の中にはいますから、そのこともわきまえておく必要があります。

| | コメント (0)

2019年3月21日 (木)

江戸の諺『茶臼』

『茶臼(ちゃうす)』は、『諺』というより『隠語』で、それも『性』にかかわる『隠語』です。

あからさまに言ってしまえば『茶臼』は、『女性上位の性行為』のことで、ついでに言ってしまえば『正常位』を江戸の人たちは『本手(まとも)』と表現していました。『女性上位』や『正常位』などという、そのものずばりの『理』の表現より、『茶臼』『本手』の方が『粋』であると梅爺は感じます。

『諺』を面白おかしく扱った『諺臍の宿替』という本に、どうして『茶臼』が含まれているのか分かりませんが、作者にとっては『茶臼』も『諺』の一種と考えていたのか、それとも読者に対するサービス精神で付け加えたのでしょうか。ひょっとすると、本の売れ行きを良くするために、版元の要請があったのかもしれません。

何しろ『性』にかかわることは、人間にとって、常に興味の対象であり、これを商売にしようとする人間が現れるのは、いつの世も同じです。

ただ『お上』は、風俗を乱すものとして、これを『取り締まり』の対象にしますから、どの程度の『表現』が、その時代に許されていたのかは、『人間社会』『文化』を考える上で、重要な指標になります。

江戸の後期から明治の初期に『諺臍の宿替』という本は、大ベストセラーになりましたから、その時代にこの種の表現は許されていたことが分かります。

『隣はよく子供ができるのに、うちはどうしてできないのだろう』と問う亭主に、女房が『隣は本手で、うちはいつもお前さんが茶臼を好むから、せっかくひいた粉も外にこぼれてしまうからさ』などと答える、きわどい『小噺』が添えられています。

『食』や『性』は、人間の基本的な欲望にかかわることで、それに関する考え方は、そのコミュニティの『文化』を知る上で重要なものです。日本も、時代や地方によって、この『文化』が違っています。

『性』を『おおらかに』扱う『文化』もあれば、『罪』の意識と絡めて『密かに』あつかう文化もあります。『宗教』の影響も大きく受けます。

本能的に『隠れた行為』にしようとするのは、『排泄時』『性行為時』は、『無防備』となるために、『生物進化』のプロセスで獲得した本能であるという説明もありますが、真偽のほどは分かりません。『性』と『恥ずかしさ』が結びついたのはなぜか、という問いの中に、意外な理由が答があるのかもしれません。

| | コメント (0)

2019年3月20日 (水)

非凡と凡庸(4)

『天才』は、貴重な存在であり、人間社会に必要なものですが、『天才』だけの集合体の社会がすぐれたものと言えるかどうかは別の話です。

『天才』でありながら、他の能力も、平均値以上という、『どこから見ても非の打ちどころがない』人が、世の中には『いない』とは言えませんが、多くの『天才』は、ある能力だけに秀でていて、他の能力では『社会性を欠く』など、むしろ普通の人より劣っている場合が往々に見受けられます。

企業の組織をうまく機能させるために、『ジェネラリスト(一般職)』と『スペシャリスト(専門職)』の組み合わせが好ましいと言われるように、人間社会も、『凡庸』の人と『非凡』な人の組み合わせが好ましいのではないでしょうか。

企業の経営者が、多くの場合『ジェネラリスト』から選ばれるように、人間社会のリーダーも『凡庸』の人の中から選ばれることが求められるのかもしれません。

勿論経営者やリーダーは、『凡庸』といえども『暗愚』では困りますから、多様な要因を総合的に判断できる能力を持ち合わせている人でなければなりません。『総合判断力』に優れているということは、ある意味で『天才』にも匹敵する貴重な存在であるということです。

特に、『人間』や『人間社会』の本質を理解した上での『総合判断力』が重要です。この視点で観ると『トランプ大統領』『プーチン大統領』『金正恩』などは、梅爺には怪しげなリーダーに見え、社会に不幸をもたらす危険性を感じます。

このエッセイの著者が、『凡庸』な人たちが世の中で重用(ちょうよう)される風潮を憂いる気持ちは分からないでもありませんが、それは『凡庸』の人が『暗愚』である場合のことで、『凡庸』であっても『総合判断力』に秀でた人は、リーダーとして必要であると認識すべきです。

人間社会に非凡な『天才』をうまく組み込んで、機能させることが出来るかどうかは、『総合判断力』に秀でた、リーダーの手腕です。

『天才』を『天才』と認める能力は『総合判断力』にかかります。『天才』を社会に適合できない『厄介者』としてしかみることができない人は、『凡庸』で『暗愚』な人です。

『暗愚』がのさばる風潮は、確かに危惧すべきものと言えます。

| | コメント (0)

2019年3月19日 (火)

非凡と凡庸(3)

『天才』は遺伝子の希有な組み合わせで出現すると考えると、統計学的には『平均値』から遠いところに出現することになり、その遺伝子が作り出す『能力』や『性質』は、『普通の人(平均値に近い人)』のそれより『偏っている』ことになります。

結果的に、『普通の人』が羨む『能力』であれば、『天才』となりますが、その逆の場合もあり、その場合には『狂人』『変人』『奇人』と称されることになります。

言い換えると、『天才』と『狂人』は表裏の関係にあるともいえます。

『普通の人』にとって、『天才』を理解することが難しいように、『狂人』も理解が難しくなります。

テレビや新聞で、『凶悪犯罪』が報じられ、犯人が『誰でもよいから無差別に殺したかった』などと供述するのを聞いて、多くの『普通の人』たちは、『どうして、そのような考え方の人間が存在するのだろう』と、眉を曇らせますが、統計学的に非常に偏った考え方の人が出現するのは、残念ながら避けられません。

『犯罪者』を生み出す要因は、『社会』なのか、生物学的な要因なのかは、いつの時代も議論されてきたことですが、両方の要因が絡んでいることは確かですから、『社会』だけの責任に帰すことはできません。どのような『社会』でも、必ず偏った考え方の人は、ある確率で出現するという現実は認めざるを得ません。

『天才』の話が、別の方向へ逸れましたが、『天才』も『偏った人』であることには違いがありません。

面白いことに『天才』と呼ばれる人は、一方において『奇人』『変人』に属すると言われ、『社会性を欠く』と見なされる「場合も多いのが実情です。このエッセイの中でも、それが強調されています。

歴史や文明を『変革』していくのに『天才』が必要であるとしても、その『天才』は、『普通の人』たちで大半が構成されている『社会』に、馴染みにくい性格の人であるという、一種の矛盾をはらんでいることになります。私たち『普通の人』たちは、『天才』とどのように付き合っていけばよいのでしょう。

| | コメント (0)

2019年3月18日 (月)

非凡と凡庸(2)

『天才』の定義も明確ではありません。

(1)生まれつき備わっている傑出した能力
(2)生後、生きる環境の中で習得した高い能力

(1)(2)ともに、『天才』と呼ばれることがありえますが、多くの『天才』は、(1)をベースに(2)で更に能力に磨きをかけた人であるように思います。

つまり『天才』には、『生まれつき』の要因が深く関与しているといえるような気がします。

優秀な両親から、優秀な子供が生まれる可能性が高いことは間違いありませんが、必ずそうであるともいえません。

歴史的な『天才』は、特別優秀な両親から生まれたとは,、かならずしも言い伝えられていませんから、『天才』の出現には、遺伝子継承時の『突然変異』が関与していることも分かります。日本では、『トンビが鷹を生む』とこれを表現してきました。

『生物進化』は、新しい環境に適合できる能力が『突然変異』で出現し、進行してきました。環境に合わせるという『目的』をもって出現したわけではなく、偶然の『突然変異』がたまたま環境に適応するものであり、その子孫が生き残ったということです。

私たちは、肉体の各器官が、見事に『目的』を果たしていることを知って驚き、このような精緻な『しくみ』は、『神のデザイン』としか考えられないと思いがちですが、これらは、数億年、数千万年かけて、偶然の『突然変異』が累積された結果です。その意味で『生物進化』は、非常に効率の悪い仕組みです。『全知全能の神』が、『人間』を出現させるために、わざわざこの様な効率の悪い手段を用いるとは考えにくい話です。

『天才』の出現は、『生物進化』に直結するわけではありませんが、偶然の『突然変異』が関与している点は同じです。

『突然変異』を、統計学的な確率で究明した学者が、アメリカの『Sewall Wright』で、このエッセイでも彼の理論が引用されています。ただ『Fitness Landscape』『Adaptive Valley』などと言う、この分野の専門用語が使われていて、素人の梅爺は理解に苦しみました。

学術論文でもないかぎり、このように専門用語を得意げに使う人を、梅爺は評価しません。専門用語を使う必然性がないからです。

| | コメント (0)

2019年3月17日 (日)

非凡と凡庸(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の84番目のタイトルは『Excellence(優秀さ)』で著者は数学者、経済学者の『Eric R. Weistein』です。

非常に難解な文体で書かれたエッセイで、著者が言いたいことの本質を梅爺が理解できたかどうかは疑わしいのですが、『非凡な優秀さ』と『凡庸な優秀さ』の違いを挙げて、『凡庸な優秀さ』の人たちが、『優秀な人たち』として、社会の主要機関(政府機関、大学など)で登用されている現状に、『これでよいのか?』と警鐘を鳴らしているのであろうと受け取りました。

そこで、このブログのタイトルは『非凡と凡庸』と意訳しました。

人類の歴史の『変化』は、一人のまたは一握りの『非凡な人材』の出現で繰り返されてきたと言えるのではないでしょうか。特に『科学』『芸術』の分野などでは、それが顕著です。

『ガリレオ』『ニュートン』『ダーウィン』『アインシュタイン』が出現しなかったら、『物質世界』の事象を理解する現在の能力を私たちは、まだ保有していなかったことになるかもしれません。

体力では、『百人力』は現実に難しい話ですが、『理』や『情』に関する『知的能力』では、千人、一万人が束になっても、一人の『天才』に勝てない事態が存在します。

悲しいことに、梅爺のような『凡庸』な人間には、『天才』と自分の間に、どれほど大きな『違い』があるのかは、『何となく感ずる』程度で、量的、質的に認識できません。

言い換えると『人間』は、自分の『能力』の範囲でしか、周囲を認識できません。認識できないにしても、自分とは異なった『能力』による異なった『認識』が存在するかもしれないと『想像』し、他人に畏敬の念を持つことが出来る人は、『器が大きい人』です。しかし、残念なことに、世の中には『器の大きな人』は沢山はいません。『天才』も外見は普通の人に見えますから、つい自分のレベルで判断してしまいます

このエッセイの著者は、『凡庸の優秀さ』を、真の『優秀さ』と勘違いする風潮が世の中に蔓延していることを危惧しています。

『核エネルギーの利用』『遺伝子操作』『人工知能の活用』など、人類にとって非常に難題を抱える現在、人類の将来を『凡庸な優秀さ』で、かじ取りしていけるかという心配なのでしょう。

しかし、このことは『凡庸』な人たちが、『非凡』な人たちの存在を認めないと始まらない話ですが、そのこと自体が上記のように不可能に近いことですので、なんとも出口のない議論になってしまうような気がします。

| | コメント (0)

2019年3月16日 (土)

江戸の諺『口の歯にかかる』『噛んで吐き出される』

『くちの歯にかかる』は、本来『口の端にかかる』のはずですが、『端』を口に関連する『歯』に変えて面白くしたものでしょう。これも現代でも使われる表現です。

『誰かが自分のことを話題にしている』『噂の種になっている』というような意味で、良い噂と言うより『悪口』を言いふらされているニュアンスがあります。

一方『人の噂も75日』という表現がありますから、どんな『悪口』でも、75日我慢していれば『口の歯にかからなくなる』ということを見据えて、悪事に手を染めながらダンマリを決め込む悪徳政治家などがいますから、手に負えません。

自分のことは棚に上げて、他人の欠点をあげつらう習性は、誰にでもありますが、これは、前にも書いたように、『精神世界』が『安泰を希求する本能』に支配されているために、相対的に自分の方が優位にあるという『優越感』を得ようとする行為です。

『学歴』や『役職』など、一種の『看板』を誇示して。『俺を誰だと思っているのか』などと、相手を威嚇しようとしたり、『友人に有名人がいる』ことを自慢げに話したりするのも、すべて歪んだ『優越感』で、自分を相対的に『高み』に居ることを示そうとする行為です。

『他人の悪口は一切口にしない』というのも、徳の高さを示すものですが、中には、自分が『他人の口の歯にかかる』ことを避けるための防御策としてそのように振る舞う人もいますから、世の中は様々です。

『噛んで吐き出される』は、現代ではあまり使われませんが、『一応承知したように見せかけて、最後はすげなく拒否する』というような意味になります。

『煮ても焼いても食えない』と最初から拒否されるより、、一層たちの悪い対応になります。

『精神世界』をのぞき見るための『窓』として、またその社会の文化を知るために、『諺』はなかなか役に立ちます。

人が何故そのことを興味の対象にするのか、何故それをそのように表現するのかを洞察すると、『精神世界』や『文化』の本質が見えてくるからです。

| | コメント (0)

2019年3月15日 (金)

江戸の諺『尻(けつ)の毛むしる』

あまり上品な表現ではありませんが、これも現在でも使われる表現です。

相手を騙して油断させ、思いがけないひどい仕打ちをすることで、当然表現から分かるように男が被害者になります。

同様に男が被害者になる表現として『鼻毛を抜く』があり、こちらも相手を騙す意味で使われます。

『諺臍の宿替』という原本には、以下のような小話が載っています。

女「コレコレお前さんも、あまり偉そうに勝手気ままにしなさんな。男が相手なら強いかもしれないけれど、私にかかったら何でもないヮ。いくら大きな尻でも、今のうちにカラッけつ(無一文)にして、尻の毛までむしりとってあげるよ」
男「アハハ・・。もう眉毛も鼻毛もだいたい抜かれてしまったから、何もかもついでじゃ、すっぱり抜いておくれ。いっそ、そうなったら、これからは抜かれる用心もしないですむわ。お前に抜いてもらったら本望(ほんもう)じゃ」

世の中を知り尽くした遊び人の男と、商売女の『狐と狸』のような、化かし合いの会話で、この先悲劇が起きそうな気配はありません。

しかし、純情な男が、したたかな商売女の手にかかると、『尻の毛をむしられた』後は、男が逆上して刃傷沙汰に及んだりすることになります。

江戸の人たちが、『比喩』に、『意表を突いた表現』『突拍子もない表現』を好んで用いていることが分かります。

ここでは、更に『下世話』な表現をあえて選び、庶民が『ニンマリ笑う』様子が伝わってきます。

『上品』『下品』も、人間が宿命的に保有する両面です。生物としての行為は『下品』であることを避けられません。そうであるがゆえに『上品を装う振る舞い』を尊ぶ考え方が生まれます。しかし、基本的に『下品』は避けられないことを知っている庶民は、それを『笑い飛ばす』ために、あえて『下世話な表現』を好むのでしょう。

| | コメント (0)

2019年3月14日 (木)

江戸の諺『尻(けつ)に敷く』

現在も『尻(しり)に敷く』という表現で使われています。

女房が亭主を軽んじて、夫らしく扱わず、勝手気ままに振る舞うことで、『あいつは、かかあの尻に敷かれている』と言えば、『あいつは恐妻家だ』ということに外なりません。

しかし、『自分が偉いと思い込んでいるバカな女房』『威厳のないダメな亭主』という単純な図式を示しているだけではないところが、人間関係の微妙なところです。

『惚れたはれた』の間柄の時は、相手の何もかもが『素晴らしく』観えていますが、やがてそのうちに、逆に相手の短所が、実際より大きく感じられるようになります。

人間の『精神世界』はそうなるように出来ています。どんな場合も相手の長所を重く評価し、短所は見過ごすことができる人は『器量の大きな人』で、世の中にはそのような人は多くはいません。

外では、『立派な学者』『すぐれた社長』などと評価され、『いっぱしの男』として扱われている人も、家に帰れば、『食べこぼす』『下着を脱ぎっぱなしに放置する』など、女房からみると『ダメな男』『だらしがない男』の面だけが、大きく観えてしまうことがあります。

『何から何まで立派な人』などは、この世にほとんどいませんし、偉そうに振る舞う女房にしても、亭主から観れば『同じこと』なのですが、人間の『精神世界』は自分を客観視しない習性があり、『自分のことは棚に上げて、相手の短所を非難する』ことになりがちです。

『お互いさま』と相手を許容出来れば、円満な夫婦になりますが、これまたそのように『出来た夫婦』は世の中に多くは存在しません。

賢い亭主は、『自分が尻に敷かれている』ように振る舞えば、一見家内に波風がたたないと分かっていますので、そのように見せかけます。

『尻に敷く女房』と『尻に敷かれる亭主』のどちらが知恵者かは、よくよく観察してみないと判ずることができません。

| | コメント (0)

2019年3月13日 (水)

江戸の諺『かぶりつき』

『かぶりつき』は、現代でも同じ意味で使われる表現です。 

芝居小屋の舞台に近い、最前列の観覧席のことで、『役者』や『芸人』に、『かぶりつける』ほど間近な距離ですから、『食い入るように観る』というようなニュアンスが含まれることもあります。 

正しく『意味』を伝えるだけならば、『最前列』と『理』の表現をすればよいはずですが、『粋』を愛する江戸っ子は、これをわざわざ『かぶりつき』などという意表をついた表現に変え、その何となく滑稽な風情を想像しながら楽しんだのでしょう。 

『諺臍の宿替』という原本に載っている『かぶりつき』に関する小噺を読むと、『かぶりつき』は、詳細まで観える良い席というより、あまり良くない席として扱われています。物事は、良いことと悪いことの表裏一体ですよと笑い飛ばしているのでしょう。その部分を以下に紹介します。 

この『かぶりつき』というやつは、第一首がくたびれるし、どうかすると役者のツバはかかる。雪の場には頭から紙屑を浴びせられ、幕があけば埃(ほこり)がかかるし、立ち回りが激しくなると、刀の鞘尻で間違って叩かれる。 

現代では、更に『他人の行動』を、第三者的に間近でみることを『かぶりつき』でしかと見届けるなどという場合にも使います。 

他人のイザコザは、それに巻き込まれず、『高みの見物』をする限り、これほど『面白い見世物』はないと人は感じます。『他人の不幸は蜜の味』などという、『ブラックユーモア』もあります。『スポーツ観戦』なども、自分は安全な観客席に身を置いて、フィールドで展開する、『戦い』を楽しむことにほかなりません。思いもよらない展開、悲喜劇を、第三者として『楽しむ』ということが目的です。 

自分を『安泰』な場において、他人の『安泰』でない行為を間近で注視し、自分は『安泰』であることを再確認して安堵するというのが、人間の『精神世界』の習性です。『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されているからと、梅爺は考えています。

私たちは、心から他人の不幸に同情すると言った『思いやりの心』を持つと同時に、上記のように、自分の『安泰』を確認し、ある種の優越感で安堵すると言った、邪(よこしま)な心も保有しています。

自分の中に『善人』と『悪人』が同居していることを、直視できる人が真に健全な人ではないでしょうか。自分は『善人』であるとだけ思い込んでいる人に、時折梅爺は閉口することがあります。

| | コメント (0)

2019年3月12日 (火)

江戸の諺『目に入っても痛くない』

現代では『目に入れても痛くない』という表現で使われます。 

子や孫を『溺愛する』ことを意味するのは、今も昔も変わりません。 

亡くなった落語家の『立川談志』は、『江戸落語の真髄は、ファンタジーである』と自論を述べていました。癖の強い落語家でしたが、なかなか洞察が利いた表現で、梅爺は『なるほど』と得心しました。 

『ファンタジー』は、現実には存在しない『空想の世界』のできごとで、人間の『精神世界』のみが創出できる『虚構』です。 

一方『物質世界(自然界)』のできごとは、すべて『摂理(法則)』に支配されていますから、勝手な『虚構』の表現は許されません。 

『太陽は東から昇り、西へ沈む』のが『物質世界』に事象です。『ある日突然太陽が西から昇り、東へ沈んだ』という表現は、『物質世界』には適用できませんが、これが『精神世界』の『虚構』であるならば許されることになります。 

『桃から生まれた桃太郎』『竹から生まれたかぐや姫』など、すべて『虚構(ファンタジー)』です。 

梅爺は、『神仏』『極楽・地獄』『あの世』『死後の霊』などすべて、人間の『精神世界』が創出した『虚構』であろうと考えています。 

しかし、多くの方は『桃太郎』『かぐや姫』は、『おとぎ話(虚構)』と認めますが、こと『宗教』にかかわる『神仏』『極楽・地獄』などの話になると、『虚構』を認めることに逡巡されます。『心の安らぎ』『死後に対する不安』に関与することですから、『虚構』と認めてしまうと、心のよりどころを失ってしまうと感ずるからなのでしょう。

人間は『精神世界』が考え出した『因果関係』に関する表現を、『信ずる』ことで、あたかもそれが『本当のことである』かのように受け止めることが出来ます。

『物質世界』に存在する『本当のこと』と、『精神世界』が創りだした『本当のこと』を『信じる』こととは、大きな違いがあるのですが、多くの方はこれを混同しています。

『溺愛する』ことを『目に入れても痛くない』などと、突拍子もない表現をし、その突拍子のなさを受け容れることを、江戸の人たちは、『粋』としていたのではないでしょうか。『江戸落語』の『ファンタジー』もこれと同じです。

梅爺も、『梅爺創作落語』をブログに乗せるにあたり、『ファンタジー』『荒唐無稽』に徹しようと思いながら、性格上どうしても『理(理屈)』がちらほら顔を出してしまいます。『荒唐無稽』に徹した『落語』を創作するのは、意外に難しいことです。

| | コメント (0)

2019年3月11日 (月)

科学論文の出版(4)

『人間』の体の活動は、ミクロに観れば、『物質世界』の『摂理』だけに支配されている『変容』ですが、『マクロ』に観れば、非常に複雑多様な要因が絡んで全体が維持されている、『複雑系のシステム』です。

『科学』はミクロな『変容』を解明すると同時に、『複雑系のシステム』である全体も把握しようと努めています。

それに、一人一人が『個性的』であるという要因も加わりますから、問題は更に複雑になります。

ノーベル賞を受賞した『本庶佑(ほんじょたすく)』先生が、開発したがん治療薬『オプシーボ』は、ある患者によって『劇的に効く』『効果が薄い』『副作用が強く出る』などの『差』があると報じられています。

『本庶佑』先生も、この『違い』の原因究明が次なる研究課題であると述べておられます。

『免疫療法』をがんにも適用するという考え方は、マクロに論ずれば、一般論として誰にでも適用できることになりますが、具体的な『治療法』の効果は、個人によって効果が異なってくるという現実の問題を抱えることになります。

テレビのバラエティ番組では、『健康長寿』『美容』『肥満解消』などをテーマにしたものが、毎日と言ってよいほど、どこかのチャンネルで流されています。

その分野の権威、名医と称する先生が登場して、『こうすれば健康が保たれる』『こうすれば痩せることが出来る』と、自信たっぷりに断言したりしますので、梅爺は苦笑してしまいます。

番組の翌日には、全国のスーパー・マーケットで、『塩麹(しおこうじ)』『エゴマ油』『サバの缶詰』が売り切れたりしますので、視聴者の反応は極めて敏感です。

『一般論として嘘ではない』ということと、『誰にでも効果がある』ということには違いがあることを、私たちはあまり意識していません。

マクロに観れば類似していますが、ミクロに観れば『個性的』で、一人一人異なっている『人間』の本質を理解することは容易ではありません。

『複雑系システム』である『人間』を、単純に割り切って理解することのメリットもありますが、弊害も多いように思います。

私たちは『個性的』であることの意味をもっと深くとらえるべきです。

| | コメント (0)

2019年3月10日 (日)

科学論文の出版(3)

このエッセイの著者の専門分野が『脳科学』『脳医学』であるために、更に『論文』を議論することに、難しさが付きまとうことになります。 

それは観察対象が『人間の脳』であるからです。『人間の脳』は、マクロに観れば『同じようなもの』と言えますが、『ミクロ』に観れば、一人一人『脳神経細胞のネットワークの姿』が異なっていますから、『個性を持つ別のもの』ということになります。 

『脳医学』『精神医学』が進み、現在では、『精神疾患』を、『脳』に直接メスを入れたり、針を差し込んだりせずに、薬の服用や、『脳』の特定の部位に磁場を当て、電流を流すことで、つまり従来の外科手術なしに、治療を行うような方法が採用されようとしています。 

患者の負担は大幅に減りますがから、歓迎すべき方法なのですが、上記のように、『脳』は一人一人個性的ですから、『ある人には効果があるが、ある人には効果がない』または『ある人には副作用場ないが、ある人にはある』といった『違い』が現れます。 

『人間』を科学的に究明することは、『宇宙』を科学的に究明するより難しいとよく言われます。

『宇宙』は非常に複雑多様な要因が関与して『変容』するもので、『人間』もその点では似ていますが、『人間』が『宇宙』と異なるのは、『情感』という目に見えないものが、生命活動に深く関与していることです。

言い換えれば『宇宙』は『物質世界』だけで探求出来ますが、『人間』は『物質世界(肉体)』と『精神世界(心)』の複合体として探求しなければなりません。

『脳科学』は、やがて『ホルモン』などを利用して、『精神世界』を『物質世界』へ置き換えることに成功するかもしれません。『愛情』や『怒り』は、対応する『ホルモン』によって出現することがすでに分かっています。

『個性的』であること、『精神世界』を保有することが『人間』を探求する上で厚い壁にになっています。

私たちは『自分』のことさえ、よく『分からない』わけですから、『他人』を理解するなど至難の技になります。

梅爺の『60兆個の細胞』の一つ一つは、『ホスト』である梅爺を『生かしてやろう』意図して活動しているわけではありません。逆に『ホスト』の梅爺は、一つ一つの細胞が、『今何をしているのか』を詳細に知っているわけではありません。

この様な不思議な関係で、梅爺の『命』は紡がれているのです。

| | コメント (0)

2019年3月 9日 (土)

科学論文の出版(2)

同様の実験を複数の研究グループが行い、その成果を論文で発表した時に、研究者にとってそれがいかに有益な『情報』であるかを、エッセイの著者は以下のような例を挙げて説明しています。

同様の実験を20の研究グループが行ったとして、

<Aのケース>
16のグループが類似のポジティブなデータが得られたと、3つのグループは逆にネガティブなデータが得られたと、そして残りの3つグループは有意なデータは何もも得られなかったと論文で発表した。
<Bのケース>
3つのグループがポジティブなデータが得られたと、3つのグループは逆にネガティブなデータが得られたと、そして残りの16のグループは有意なデータは何も得られなかったと論文で発表した。

論文発表の母数が、上記のように20個である場合、科学者は<Aのケース>の方が<Bのケース>より、実験の意味の有意性が高いと判断することになるのは当然です。

したがって、オリジナルな実験であれ、追認の実験であれ、その成果はすべて公表してもらえるのがありがたいと主張する気持ちは分かります。上記のように『有意性』についての判断が確度高く出来ると同時に、時間、費用、労力を節約できるからです。

しかし、現実はそう簡単ではありません。『同じ実験を行った』と言っても、適切な設備であったかどうか、実験を進めるプロセスが適切であったか、データの採取方法が適切であったかなどを、検証しないと『同じ実験であった』とは言えないからです。

『物質世界』の事象を観察対象とし、普遍的な『摂理』を見出して、事象の『真偽』を明らかにするのが『科学』の特徴です。当然のことながら、そこで議論を進めるために使われる『データ』は信憑性が高いものでなければなりません。

しかし、『データ』を取得するためには、方法論、手段が必要となり、その方法論、手段を考え出すのは人間(科学者)ですので、そこに『誤認』『誤差』『過失』が紛れ込まないとは言えません。

『主観を排除して客観的に事象を観る』ことが科学者に求められますが、科学者も人間である以上、『誤認』『誤差』『過失』はゼロにはできません。

それらの『誤認』『誤差』『過失』が、故意でない限り、そして後に科学者自身が後にその『不適切さ』を認めたような場合は、『誤認』『誤差』『過失』は非難の対象にならず、むしろ科学者としての姿勢が賞賛されたりします。『アインシュタイン』のような科学者も、『前の主張に誤りがあった』と認めたことがあります。

『宗教』の『教義』のように、『瑕疵(かし)はない』という前提を『信ずる(反論は許されない)』世界と、『科学』の世界はこの様に極端に異なります。『宗教』で、数千年も同じ『教義』が存続できるのはこのためです。

| | コメント (0)

2019年3月 8日 (金)

科学論文の出版(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の83番目のタイトルは『Science Publishing(科学論文の出版)』で著者は、カリフォルニア州立大学ロシアンゼルス校の脳科学者『Marco Iacoboni』です。

このエッセイの著者が『危惧』していることは、ご自分が専門である『脳科学』『脳医学』の分野に関する科学論文の出版の『ありかた(現状)』です。

ある研究グループが、ある実験を行い、新しい『事実』を発見したとデータを添えて論文発表したとします。新しい『事実』の発見は、大きな反響が期待できますから、出版の対象になり易いのは当然のことです。

『科学』の特徴は、第三者が同様の実験を行って、同じ結果が得られることで『信憑性』が高まることにあります。

しかし、他の研究グループが同様の実験をおこなった内容は、多くの場合出版の対象になりにくいのが現状です。権威ある研究グループが、同様の実験を行い、先に出版された『事実』に反することを発見した時に限って出版される可能性がありますが、そうでない場合は出版元は『二番煎じ』と見なして、出版の対象にしないからです。

したがって、最初に出版された論文の内容が、信頼に値するものかどうかの判断が、しにくくなるということになります。

この問題解決する為に、エッセイの著者は、最初の実験であれ、追認の実験であれ、それを行ったすべての研究グループの『結果』が論文として出版されることを望んでいます。

確かにそれは理想的な解決方法かもしれませんが、現実には出版元の『思惑』や、研究グループの方針(公表するかどうかなど)が絡み、梅爺には簡単に実現するようには思えません。

学会と出版元が、この問題を議論する必要があることは確かですので、何らかの進展があることを期待しますが、なかなか名案は見つからないのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年3月 7日 (木)

江戸の諺『日を延ばす』『日を切る』

『日を延ばす』『日を切る』は、職人などが手掛けるものの『完成日』にかかわる表現で、『日を延ばす』は今流に言えば『締切を延ばす』ことで、『日を切る』は『締切を厳守する』ことです。

約束通りの『日』に、必ず納入する職人は、『日切職人』と言われ、世の中の信用が高かったのは当然のことです。

『日を延ばす』は、当初の『見積もり』や『読み』が甘く、『完成日』を先延ばしせざるを得なくなることもありますが、人間の『精神世界』の不思議な一面として、『何となく気が進まないことは先延ばししようとする習性』があります。

英語ではこれを『Concrastination』と一語で表現します。

『難しいことは先延ばしにする』『簡単と分かっているが、面倒くさいので先延ばしにする』と色々な動機がありますが、『先延ばし習性』は、多少なりとも誰にでもあるのではないでしょうか。

『夏休みの宿題』を、夏休みが終わるころになって、あわてて渋々やるというようなことがそれにあたります。梅爺は、明らかに、自分でも嫌になるくらい『先延ばし習性』が強い人間です。『生まれつき』というと言い訳になりますが、『遺伝子』のせいにしたくなります。

もちろん『人間』の『精神世界』は『個性的』ですから、『思いついたらすぐ実行しないと気が済まない』という、逆の習性を有する人もいます。

『思いついたらすぐ実行する人』の方が、『先延ばしする人』より、人間社会では得をすることが多いことは、梅爺でも理解しています。

平清盛が、瀬戸の開削工事のときに、完成間近に日没になりそうになったので、扇をかざして日を招き戻したというのが『日招き』の伝説です。

『時間』は、『物質世界』の摂理で決められた人間ではコントロールしようのないものですが、そうであるがゆえに、『不老不死の薬』同様に、『時間を操作する』夢を、人間は『精神世界』の虚構として創作しつづけてきました。

現代のビジネスでは、約束した納品日に納入しないと、『罰金』などが契約上課せられたりしますから、仕事の現役時代は、このストレスが大変なものでした。『年金生活』では、この種のストレスから解放されて、逆に緊張が薄れ、簡単な約束さえ度忘れしたりすることも多くなっています。

| | コメント (0)

2019年3月 6日 (水)

江戸の諺『大金を振りまわす』

『大金を振りまわす』は、『大金を動かす』ことで、転じて、『大金持ちであることを鼻にかけ、ひけらかす(いやな奴)』という意味になります。

これは、現代でも通用しますが、多くの人たちは『大金持ち』ではないため、『やっかみ』の気持ちがこのような表現を生むのでしょう。

もっとも、『資本主義経済』を肯定する時代になって、現代では、『金が幸せの元』と本気で考える人たちが増えていますから、『いやな奴』というよりは『うらやましい奴』という意味での『やっかみ』が働いているのでしょう。

梅爺は、他人の保有する潜在能力の素晴らしさに『うらやましさ』を感じますが、他人が保有する財産には、それほど『うらやましさ』を感じない性格です。豪邸に住み、美酒美食を常とし、高級車を乗り回し、高級ブランド品で身を固め、美女を多数周囲へ侍らせるといった生活にはあこがれません。したがって『蓄財』には無頓着と言うより、ほぼ無能です。

しかし、『生きて』行くためには、『金』が必要であり、ささやかなことを求めても、それには『金』がかかりますので、『金』を『不浄なもの』などと強がって蔑視はしているわけではありません。

江戸っ子は『宵越の金を持たない』などと『粋』がっていましたが、人間である以上それは『タテマエ』で、『大金』を手にすればやはり狂喜乱舞したに違いありません。

梅爺は『経済』の仕組みにも『弱い』のですが、『資本主義経済』が、『実態のないもの』『将来期待できる成果』などを『信用』して取引し、見かけ上の『富』がどんどん増えていくことを、手品をみるように、あっけにとられて見ています。

『成長』を前提に、走り続ける『自転車』のようなもので、危なっかしいように思います。

『信用』を共有する人間の能力が、『文明』の推進役であったことは理解できますが、複雑すぎる『金融経済』の行き過ぎが、最後に人類に何をもたらすのか、心配になります。

少なくても、目に見える『大判小判』を『振りまわし』ていた江戸の大金持ちの方が、社会にとって安全で健全な存在であったのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年3月 5日 (火)

江戸の諺『胸が狭い』

『胸が狭い』というのは、『胸が小さいことを悩む女性』のことではありません。

この表現は現代ではあまり使われませんが、『江戸のことわざ遊び』という本には、『借金がかさみ、それが気苦労で昼夜胸を痛め、段々と胸が細る』などという『小噺』が紹介されていますから、『胸が狭い』は、『気苦労が多い』『心配性』などの意味なのでしょう。

『胸を痛める』ならば、現代でも『心配する』意味で使われますが、更に他人の不幸に深く同情する時にも使われます。

古代から人類は、『心』という『抽象概念』を創り出し、共有してきました。『心』は実態として目には見えませんが、誰でも自分の中に『ある』と実感できるからです。

しかし、『心』を創り出しているのは『脳』であると特定できるようになったのは、近世以降のことで、それまでは、『心』は『心臓』が創りだしていると、人類は考えていました。気持ちが高ぶると、心臓の鼓動は激しくなりますから、もっともな『推測』と言えます。『心臓』『Heart』という名前がそれを端的に示しています。

古代エジプトでは、『ミイラ』を創る時に『心臓』は特別に扱われました。死後の世界でも『心臓』は必要と考えたからなのでしょう。

『ピアノの詩人・ショパン』は、若くして祖国『ポーランド』を離れ、その後独立を求める動乱状態に『ポーランド』がなったために、生涯祖国へ帰ることができませんでした。死後、彼の『心臓』は、遺言により『ワルシャワ』の教会の柱の中へ収納されました。『祖国愛』は『心臓』で表現されていることになります。

現代では『心』を創り出すのは『脳』と分かっていますが、『心』と『脳』の関係は、詳細にわたって解明されているわけではありません。『心』の解明は『宇宙』の解明より難しいという科学者もいます。

梅爺がブログで『精神世界(心)』と『物質世界(脳)』の関係を、勝手にあれこれ推測するのは、少しでも矛盾のない『因果関係』を見出そうとするからです。

『因果関係』を特定して、『安堵』しようとするのも、『心(精神世界)』の不思議な習性の一つです。

| | コメント (0)

2019年3月 4日 (月)

江戸の諺『顔が広い』

『顔が広い』は現在でも使う語法です。『交際範囲が広い』ということで、『顔』は、身体の部位の中で、その人を識別する上で最も手っ取り早い場所ですから、日本語には『個人』『個人の尊厳』『人間関係』『表情』にかかわる多くの『成句』があります。

『顔が曇る』『顔が立つ(顔を立てる)』『顔に書いてある』『顔に出る(顔に出す)』『顔に泥を塗る』『顔を合わせる』『顔を売る』『顔を貸す』『顔をこしらえる』『顔を出す』『顔を染める』『顔をそろえる』『顔をつなぐ』『顔を並べる』『顔をほころばせる』『顔を汚す』

これは『英語』でも同様で、『face』は多くのイデオムで使われます。『face』は動詞としても使われ、『立ち向かう』『でくわす』などの意味になります。

『人間』が一人一人異なった『人相』をしているのは、『神』がそのようにデザインしてくださったためではなく、生物として進化の過程で、多くの他の生物と同じく『両性生殖』の方法を子孫を残すための手段として偶然採用したからにほかなりません。

両親の『遺伝子構造』の偶然な組み合わせで、子供の『遺伝子構造』が決まるためで、『容姿』『体格』『指紋』だけではなく、ミクロに観れば『人間』はすべて『個性的』にできているといっても過言ではありません。特に『精神世界』が関与する『考え方』『感じ方』も『個性的』です。

『人間』や『人間社会』を理解する上で、この『人間は宿命的に個性的に創られている』ことの本質を洞察することが最も重要なことになります。一人一人が異なっていることは、誰もが体感して知っていますが、『個性的』であることの意味を理解している人はそう多くはないように思います。

『人間社会』では、『個性を生かす』ことも『個性を殺す』ことも、時と場合によって求められます。『個(個人)』と『全体(社会)』の『価値観』は多くの場合相反するものですから、バランスをとることは易しくありません。

『人間社会』が抱えている、最も大きな問題の一つは、このことです。『戦争』『宗教対立』『人種差別』『いじめ』などが、何故なくならないのかは、この問題が背景にあるからです。

トランプ大統領が、選挙の票稼ぎのために国民に向かって『アメリ・ファースト』と単純に叫び、本当にそのように振る舞えば、『アメリカ』は国際社会から疎んじられて、孤立化していくことになるでしょう。

『アメリカ・ファースト』と『国際協調』のバランスをどのようにとるかが、本来政治リーダーの任務です。『アメリカ・ファースト』は『分かりやすくてよい』などと言うのは、単純すぎます。『人間』も『人間社会』も、それほど単純な存在ではありません。

| | コメント (0)

2019年3月 3日 (日)

江戸の諺『眼面(まなこづら)のふし穴』

『眼面(まなこづら)のふし穴』は、現代ではあまり使われない表現です。

外見には、ちゃんと顔に目が付いているのに、その目は虚ろな『ふし穴』同様で、何も見えていないということですから、『考えが浅い』『洞察力を欠く』というような意味になります。

一見聡明そうに見える人でも、聡明であるとは限らないという皮肉も込められています。

周囲の事象を認識する能力に欠けるという意味で、『頭が悪い』人のことのようですが、実は一般に『頭がよい』と考えられている人でも、時に『眼面のふし穴』になってしまうことがありますので、『精神世界』は実に厄介です。

『脳』の認識には、『情』による認識と、『理』による認識があります。

『情』による認識は、本能的に危険を避ける、『好き嫌い』で判断するなど、一般的に『無意識』の行為です。生物の原始的な『安泰を希求する本能』を、人間も継承している証のような気がします。

ところが、人間は自分に都合の悪いことは、無意識に避けようとする習性があり、現実に存在する事象でも、『見たくない』『聞きたくない』と本能的に回避します。『頭がよい人』でも『眼面のふし穴』になってしまうのはこのためです。この逆が、都合のよいことは現実に存在しない事象でも『見た』『聞いた』と勘違いすることです。

一方、『理』による認識は、『因果関係』を知りたいという『意識』が働いている行為です。『科学者』が『物質世界(自然界)』の『摂理』を解き明かそうとするのはこれに相当します。

こちらも、『因果関係』を知りたくないという『情』が強く働いた時には、認識を避けようとすることになります。

自分を冷静沈着に客観視できる人は、『理性』の優れた人で、世の中にこういう立派な人は沢山は居ません。

梅爺も、冷静沈着、客観的に自分を観ることは、まったくできませんので、典型的な凡人です。

江戸の人たちは、『脳科学』の知識などは持ち合わせていませんでしたが、人間の本質は見事にとらえていたということでしょう。

他人を笑うために『眼面のふし穴』という表現を用いたのか、自分を笑い飛ばすために用いたのかは、分かりませんが、人間は自分に都合よく振る舞う習性があることは気付いていたのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年3月 2日 (土)

グローバル・カルチャーは一つに収束するのか(4)

『政治(経済)イデオロギー』が、『グローバル・カルチャー』の収束を阻む要因であるとすれば、『世界統一国家』構想などは、夢のまた夢ではないでしょうか。

『国連決議』が、必ずしも効果的な問題解決になっていない現状が、それを如実に示しています。

『世界統一国家』は、地球が『地球外知的生物(宇宙人)』によって攻撃を受けるというような、SF小説のような事態が起きた時に可能になるかもしれません。

結束しないことには、地球人類がすべて『絶滅』に追いやられるといった、外部要因による切羽詰まった状況にならない限り、人類は結束へむけて行動することはないという予測です。

『グローバル・カルチャー』の収束を考える上で、無視できない要因は、『科学知識』の普及と、『科学技術』がもたらす、『情報通信処理』のインフラストラクチャーの普及です。

『科学』が明らかにしてきた『事実』と、『宗教』が『教義』の中で述べてきた『説明内容』との違いを、人間の『理性』は『理解』し始めることになり、この傾向の進展は誰も押しとどめることができません。一時的な反動として『宗教』の『原理主義』が強まることがあったとしても、それは長続きしません。

『情報通信処理』のインフラストラクチャとしての『ネットワーク』が、地球を覆うようになって、人々は、自分が属する『世界』とは異なった『世界』が存在することを、感覚ではなく、直接的な視聴覚能力で、認識するようになりました。

異なった『世界』を、自らの判断で忌避することが主流なら、『カルチャー』の融合が起きませんが、人間は必ず異なった『世界』に『興味』を抱き、自分が属する『世界』より勝っていると感じたものには『羨望』を抱くことになります。

人類の歴史を観れば、『異なった文化』同士が接触した時に、必ず相互に影響が生じ、『文化の融合』が行われてきました。文明の進化の大きな要因は『異なった文化の接触と融合』にあることは明らかなことです。

現代の、『ネットワーク・インフラ』の普及は、個人レベルで『異文化』を体験できる環境が提供されていることを意味します。

『独裁者』や『独裁政党』が、『情報』を統制しようとしても、人々は知恵を尽くして、外部の『情報』を取得しようとします。

『グローバル・カルチャー』が一つに収束するかどうかは別にして、『ローカル・カルチャー』は、外の世界の『情報』の影響を受け、『変容』していくことは確かなことです。

問題は、『カルチャー』が一つに収束することを、最終的に『個人』が認めて受け容れるかどうかですが、『個性的』な『個人』は、最後まで『違い』を主張しようとするのではないでしょうか。

大局的に収束の方向に向かうとしても、一つに収束することは起きにくいと梅爺が考えるのはそのためです。

| | コメント (0)

2019年3月 1日 (金)

グローバル・カルチャーは一つに収束するのか(3)

グローバル・カルチャーが、なかなか一つに収束しない要因として、現状では以下の事柄が思い浮かびます。

(1)どれか一つの『宗教』に集約されるとは考えにくい。非常に永い目で観れば『無宗教』に収束する可能性だけが唯一考えられる。
(2)『民族意識』が希薄になり、真に『人類みな兄弟』の意識に変わるとは考えにくい。非常に永い目で観れば、『国際結婚』が増え、混血児の比率が高まって純粋な『民族意識』が徐々に意味を持たなくなることは考えられる。『日本』では、スポーツ選手の領域。テレビのアナウンサー、芸能タレントなどの領域でその傾向が顕著になり始めている。
(3)世界が『民主主義』『自由経済』に収束するようには見えない。かつて『フランシス・フクヤマ(日系アメリカ人)』が、『歴史の終わり』という著書で、『民主主義』『自由経済』が、人類がたどり着いた究極の『体制』であると論じたが、現状はその予言通りにはなっていない。当面国家統率のために効率が良い『独裁主義(中国、北朝鮮など)』と、効率は悪いが、体制を覆すほどに人民の不平が高まる可能性が低い『民主主義』のせめぎ合いが続くように見える。また、『成長の持続』を前提とする『自由経済』の考え方は、人口の増加、資源の枯渇という現実の前に、見直しが迫られることになり、手放しに『理想』とすることは困難になりつつある。

上記のように、『宗教』『民族意識』『政治(経済)イデオロギー』が、グローバル・カルチャー^の収束を阻む、強い要因であることが分かります。

非常に永い目で観れば、『宗教』は、『科学知識』の普及とともにその存在感が薄れ、『無宗教』が大多数を占めるようになる(つまり『無宗教』へ収束する)ことが考えられますから、『宗教』は最も頑強な要因に見えて、実はもろいのかもしれません。それでも、数百年以上の時間を要するのではないでしょうか。

『民族意識』は、『国際結婚』の比率の増加で、『混血児』の割合が増えて、根拠が失われていくことが考えられます。しかし、これも何代もの世代交代の中での出来事ですから、やはり数百年の時間を要するでしょう。

こう考えてくると、最後の抵抗要因は、『政治イデオロギー』かもしれません。個人とコミュニティの価値観の違いを解消する、普遍的な方法は見つかりそうにありませんから、それは当然のことともいえます。

人間が生物学的に『個性的』であるように宿命づけられていながら、群れをなして生きる(コミュニティの一員として生きる)方式を、これまた生物進化の過程で採用したことが、『グローバル・カルチャー』を一つに収束させない最大の理由なのではないかと梅爺は思います。

| | コメント (0)

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »