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2019年2月28日 (木)

グローバル・カルチャーは一つに収束するのか(2)

梅爺が、『グローバル・カルチャー』は、そう簡単には一つに収束することがないと考える根拠は、何度もブログに書いてきた、『人間の精神世界は、宿命的に個性的になるようにできている』『生物進化の過程で、群れをなして生きる方式を採用したために、群の統率に必要な価値観と、個人の価値観の間に矛盾が生じたが、その矛盾を普遍的に解消する方法は見つかっていない』ということです。

『精神世界』が『個性的』であるということは、同じ事象に遭遇しても、ミクロに観れば『同じように感じたり、考えたりはしない』ということです。『価値観』も微妙に異なります。

一方『群(コミュニティ)』を統率する為には、『メンバー(個人)』は、あたかも『同じように考え、同じように感じ、同じ価値観を信奉している』かのように振る舞う必要があります。これが『群』と『個人』の間に生ずる基本的な矛盾です。

更に、複雑なことに、『個人』が『群(コミュニティ)』の『価値観』を信奉し続けていると、その『価値観』に『洗脳』され、その『価値観』が『自分(個人)』の『価値観』の一部にすり替わってしまいます。

『アメリカ』と『イスラム圏』は異なった『コミュニティ』ですから、そこに住む人たちはそれぞれの『価値観』を保有しているのはこのためです。世界が一つの『コミュニティ』に容易に収束しないのは、このためです。

梅爺は、自分の『精神世界』が創り出す純粋な『価値観』と、日本人として日本社会で生きてきたために、知らず知らずのうちに身についている日本人の『価値観』の両方を有していることになります。梅爺は日本の歴史、文化、日本語から多大な影響を受けているからです。

梅爺は、無意識のうちに、『自分の純粋な価値観』『他人の異なった価値観』『梅爺が属するコミュニティの価値観』『梅爺が属さないコミュニティの価値観(梅爺にとっては異文化の価値観)』の四つを、比較したり参照したりしながら生きていることになります。

自分が最終的に採用した『価値観』は、どれに属するものかを、時折客観的に見つめ直そうと思いますが、これは容易なことではありません。

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2019年2月27日 (水)

グローバル・カルチャーは一つに収束するのか(1)

『サピエンス全史』という本を読んでいて、沢山啓発されることがあると同時に、色々な疑問も浮かんできます。

疑問の一つが『グローバル・カルチャーは一つに収束するのか』です。

『サピエンス全史』の著者は、『永い目で大局的に観れば、グローバル・カルチャーは、収束することになる』と言う主張をしています。

世界の共通言語が、『英語』『スペイン語』などの少数の言語に集約されていること、グローバルに通用する信用通貨が『ドル』『ユーロ』『円』に現実的に収束していることなどを考えると、『そうかな』との思いますが、一方、民族自立で、近世にヨーロッパの植民地体制(帝国主義体制)が崩壊し、20世紀になってからも、『ソヴィエト連邦』『ユーゴスラビア連邦』が分解して、多くの小国が誕生しているようなことを考えると、『収束』どころか細かく『分裂』する方向へ向かうのではないかとも思えてきます。

歴史的には、『ローマ帝国』の崩壊をどのように観るかが議論の対象になってきました。勿論、なぜ『ローマ帝国』は巨大な『帝国』になることが出来たのかという議論と対の議論になります。

『コミュニティ』の『効率的な運営』を優先すると、『巨大』で『一様(均質)』な組織が『強い』ということになり、『巨大化』『少数の価値観への収束』が促進されますが、やがて『コミュニティ』のメンバーの中に、『効率的な運営』ではなく、『自分たちに価値観』を優先、主張する人たちが出現し、『コミュニティ』は『分裂』『崩壊』するように逆に向かう、ということの『繰り返し』が歴史ではないかと梅爺は思います。

言い方を変えると、『効率』を優先すると人間社会は『me too(皆と同じ)』になり、『個人の価値観』を優先すると『me only(私だけ)』になるということでしょう。

『世界統一国家』を理想として説く経済学者や国際政治学者がいますが、上記のように考えると、それは実現しないという結論になります。

梅爺の考え方は、『究極は収束に向かうとしても、その間何度も何度も収束と分裂を繰り返すことになる』ということになります。

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2019年2月26日 (火)

江戸の諺『木で鼻をくくる』

『木で鼻をくくる』は『目から鼻へ抜ける』よりさらに突飛な表現です。

これも現代に通用する表現で、『無愛想に、相手の話に乗らない対応をする』ことの意味です。いかにも鼻先で『フン』といって、相手を無視する情景が浮かびます。

『諺臍の宿替』では、『今木で鼻をくくっているから、手が離せない。他のことにかかわりを持つ暇などない』というような内容の小話が挿絵と共に紹介されています。

『無愛想』は、人間関係の中で、自分を不利にする要因ですから、一般的には好ましくないことですが、そうかといって不自然なほど『愛想』がよいのも、なにか下心がありそうだ、『いかがわしい』と相手を警戒させることになりますから、『精神世界』の表現は、実に微妙です。

幼児の屈託のない笑顔が、周囲の大人を和ませるのは、他人の『安泰』を、自らの『安泰』に重ね合わせて、『楽しい』『嬉しい』と感ずるからです。

人間の『精神世界』では、自分を他人が『共感』して受け入れてくれる、他人の心を読み取って共感するといった、『絆』の確認が重要な要因になります。『生物進化』の過程で『群れをなして生きる』方法を選択したことが背景にあるものと梅爺は考えています。『安泰を希求する本能』が背景にあるという推測です。

『無愛想』は、『そもそも他人に興味がない』『他人の考えていること、感じていることは自分には煩わしいことだ』『相手を警戒して自分を見せないようにしたい』と、『精神世界』が感じている時の表現です。

人間の『精神世界』は『個性的』ですから、どのような時でも『無愛想』な人もいますが、多くの人は時と場合によって『無愛想』になることがあります。『体調がすぐれない時』『心配事を抱えている時』などは、どうしても『無愛想』になります。自分のことで精いっぱいであるからです。

『精神世界』は『個性的』であると同時に、ダイナミックな『変容』をしていますから、梅爺も、そうありたいと願っても四六時中『好々爺(ここうや)』でいることは困難です。

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2019年2月25日 (月)

善い神、悪い神(8)

私事で恐縮ですが、最近梅爺は『後期高齢者健康診断』の検便の結果、『大腸がん陽性』の判定を受けました。その後、『大腸カメラ検診』を受け、ポリープが二つ見つかり、同時に切除の手術をを受け、その一つから『大腸がん細胞』が検出されました。検便で血液反応がでたのは、びろうな話でこれまた恐縮ですが、永年抱え込んでいる『痔』のせいと判明しました。さらに、体の他の部位に『がん』が存在しないかどうかを調べるため『CT撮影検査』を受け、こちらの方は幸いにも『問題なし』と判断されました。

『健康診断』の結果を受けて、最後の『CT撮影検査』の結果が分かるまで、約3ケ月を要しました。これは、『老人大国』の日本を反映し、地元の総合病院(最新の医療機械が充実している)が、老人の患者で混雑しているためです。

この体験から、梅爺は持論の『物質世界』『精神世界』で世の中の事象を観ることに、一層の確信を得ました。

自分のことであるにも関わらず、梅爺の『精神世界』が創り出す『意図』『願い』などとは無関係に、梅爺の『生命活動』は行われているということです。

60兆個ある梅爺の『細胞』の一つが、何らかの理由の突然変異で『がん細胞』に変容することなど、自分ではコントロールのしようもありません。

言い方を変えれば、『精神世界』と連動してコントロールできる部分は、自分のごく一部であり、その他の『活動』は、梅爺の『預かり知らない』別世界であるということです。そこでは『物質世界(肉体)』が『摂理』に従って『変容』しながら生命活動を継続していることにほかなりません。

『老い』や『死』は、『物質世界』の『変容』で、それも普遍的な『摂理』の支配のもとに起こる現象です。

『福の神(善い神)』に取りつかれたおかげで長生きできるわけでもなく、『貧乏神(悪い神)』にとりつかれたおかげで、『病い』や『死』がもたらされるわけではありません。『大腸がん細胞』が見つかったからといって、梅爺は『厄払い』に走ろうとは思いません。

しかし、科学知識が豊富に存在する現代でも、多くの人が『吉凶』は『善い神(善霊)』『悪い神(悪霊)』のせいと考えて、『因果関係』を納得しようとしています。

社会に継承されている『主観の共有』は、想像以上に根強いことが分かります。『神』は人間の『精神世界』が創りだした虚構の概念であるとして観れば、すべて判然とすることですが、自分の基本部分が『物質世界』の『摂理』などという味気ないものに支配されていて、それが自分の意思ではコントロールできないということを『認めたくない』という『精神世界』の情感が邪魔をしているのでしょう。

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2019年2月24日 (日)

善い神、悪い神(7)

自然界で『人間』に都合の悪いことも起こることは、古代人も感知できますから、論理的に『善い神(都合がよいことをもたらす神)』と『悪い神(都合が悪いことをもたらす神)』という『対神教(二神教)』の概念が生まれてくるのも必然です。 

『宗教』の分類は、『多神教』『一神教』と大別されることが多いのですが、『対神(二神教)』についてその意味を考えてみるのも必要な気がします。

人間の『精神世界』は、面白いことにある『抽象概念』を創出すると、必ずと言ってよいほどそれに対象的な『抽象概念』も思いつきます。

『正邪』『美醜』『陰陽』『明暗』などいくらでも例を挙げることが出来ます。『天国(極楽)・地獄』そして、『対神教(二神教)』の『神(善い神)』『悪魔(悪い神)もこれに相当します。

『キリスト』の死の直後、色々な『宗派』が生まれ、その中の『グノーシス派』などが、『対神教』の考え方を採用しています。なんと『創造神』は『悪い神』の位置づけにおなっています。後に『カトリック』が『グノーシス派』を『異端』としました。

『多神教』『一神教』『対神教』を採用してみても、人間は論理思考をするがゆえに、必ず次なる疑問を感じ始めます。

『多神教』・・中でも一番偉い『神』は誰なのだろう。
『一神教』・・神意とは思えない凶事が起こるのは何故だろう。人間を何故神の意に従う善良な存在に創らなかったのだろう。
『対神教』・・『善い神』と『悪い神』のどちらが強いのだろう。

『キリスト教』は『一神教』と見なされ、それが『教義』の中心ですが、現実には『多神教』『対神教』のような要素も包含しています。古代から根強く継承されてきた概念の影響を受けているからなのでしょう。

『精霊』『大天使、天使』『守護聖人』などが信仰の対象になっています。そして何よりも『悪い神』として『悪魔』も登場します。

『キリスト』が布教を開始する前に荒野で『修行』している時に、『悪魔』の誘惑と戦いそれをはねのけたというような逸話が『聖書』にありますが、万物を創造した『神』が、何故自分を誘惑し試みに合わせようとするような『悪魔』も創造したのかは不思議な話です。

『黙示録』に現れる、この世の最後に『神』と『悪魔』の最終戦争がおこり、『神』が勝利するというような話も、『神』が必ずしも万能、絶対ではないと言っているようで不思議です。

『神』は『全知全能』『絶対』などという『概念』は、『カトリック』が教義を強固にするために後に創出した『虚構』であり、原始『キリスト教』や『新約聖書』が記述された時代は、『多神教』『対神教』の要素がまだ渾然と混じっていたのではないかと梅爺は推測します。

人間の『精神世界』が自由奔放に創出する『虚構』は、観方によって色々な『矛盾』を指摘できるのは当然のことです。そのため『宗教』は必ず、『宗派分かれ』を起こします。『神仏』という『概念』は、人間が創出したものと考えれば、これは得心がいく話です。

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2019年2月23日 (土)

善い神、悪い神(6)

『人間』や『人間社会』にとって、『善い、正しい(善良)』『悪い、間違い(邪悪)』という抽象概念の区別は、重要な意味を持ちますが、これは、元々『安泰を希求する本能』が『都合がよいこと』『都合が悪いこと』を区別することから派生したものであろうと梅爺は考えています。

繰り返しになって恐縮ですが、『物質世界』の『正しい(真)』『間違い(偽)』と、『精神世界』で使われる『正しい』『間違い』は、本来区別すべきものです。

『物質世界』の『正しい』は、普遍的に『正しい』ことを意味しますが、『精神世界』の価値観が絡む『正しい』はそうではありません。

私たちは、日常生活の中で、『私は正しい』『あなたは間違っている』と深く考えずにこの言葉を使っていますが、これは『物質世界』の『正しい』が、『精神世界』にも適用できると勘違いしていることであるとすると、由々しき問題です。『人間社会』の諍(いさか)いの大半は、この勘違いが元で生じているからです。

『精神世界』の価値観が絡む事象には、論理的、普遍的に『正しい』と言えることなどほとんどありません。本来は『私はその立場をとる』という主観的な主張であると認識すべきです。

歴史的に『一神教』の概念が最初に出現したのは、古代エジプトのファラオ『アメンホテプ4世』とその妃『ネフェルデティ』が信仰した『アテン神(太陽神)』です。ただしこの信仰は、一代で終焉し、古代エジプトは再び『多神教』へ逆戻りし、『アテン神』の痕跡の多くは破壊されました。『多神教』で権力を支えてきた『神官』たちにとって、ファラオやその妃の勝手な振る舞いは、都合が悪かったからなのでしょう。

後に人類の歴史に大きな影響を及ぼすことになった『一神教』は、『ユダヤ教』の『ヤーヴェ(神)』信仰です。これから『キリスト教』『イスラム教』が後に派生しました。現在、世界の中の多くの人たちは、『神は一人』という概念を『当たり前』のように受け容れていますが、これも『精神世界』の価値観がからむ判断ですから『普遍的で正しい』とは言えません。

『ヤーヴェ(神)』は古代エジプトの『アテン神』の影響を受けているという観方もありますが、梅爺は、『ユダヤ民族』が置かれていた立場が生み出したものであろうと考えています。

他民族による支配や、奴隷として外国へ拉致されることに悩まされ続けた『ユダヤ民族』は、民族の結束のためのアイデンテティとして、『自分たちだけを愛してくれる一人の神』を必要としたからであろうと推測しています。

『ユダヤ教』が、他民族への『布教』などに無関心なのは、当然のことです。『ヤーヴェ』は、『ユダヤ民族』のためだけの『神』であるからです。

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2019年2月22日 (金)

善い神、悪い神(5)

歴史上の『出来事』は、何故そのことが起きたのかを、後世の人たちが『後付けの推測』でもっともらしく説明しますが、本当の理由は『分からない』ことが大半であると『サピエンス全史』の著者は書いています。

『何故4世紀のローマ帝国はキリスト教を国教にしたのか』、『明智光秀は何故織田信長を本能寺で討ったのか』なども、『出来事』は明白ですが、『コンスタンチノス帝』や『明智光秀』の心の内は、推測の域を出ません。

著名な歴史学者や、歴史小説の作家の理由に関する『言い分』を、私たちは『信じて』、それが『事実』と勘違いしているということにもなります。これも前に書いた『主観の共有』にあたる人間社会固有の現象です。

『キリスト』が『ローマ帝国』のユダヤ支配と関連して語られないのは、『ローマ帝国』の国教となった『キリスト教』の教祖を、昔『ローマ帝国』自体が『危険分子』として処刑したとという不都合な『事実』をあからさまにしないためであろうと梅爺は思いますが、これも『後付けの推測』にほかなりません。

『ローマ帝国』が『キリスト教』を国教と定める以前、『ローマ帝国』は帝国領土内に住む『キリスト教徒』を弾圧したことも歴史上の著名な『事実』です。

それは、『キリスト教徒』が、『ローマ皇帝』を『神』として崇めることを拒否したからで、『キリスト教』が『一神教』であるが故の悲劇です。『皇帝ネロ』などによる大弾圧が物語として伝承され、私たちは、非道な大虐殺が行われたと想像しますが、2~4世紀にかけて犠牲者の総数は数千人規模であったと『サピエンス全史』には書かれています。

それよりも、中世以降のヨーロッパで、『カトリック』と『プロテスタント』という『キリスト教』の宗派の争いで、犠牲になった人の数は、比較にならないほど多いとも書いてあります。

話が逸れてしまいましたので、人類の古代の『宗教』に話を戻します。

当初の『宗教』は『アミニズム(自然崇拝)』で、必然的に『多神教』の様式になること、神々と交流できる能力を持つ『シャーマン』が重要な役割を演ずること、そして『宗教』は、そのコミュニティだけの共有概念(自分たちだけの神々)で、他のコミュニティへの『布教』使命などは、誰も考えなかったとすでに書きました。

高度な『脳』の『認知機能(精神世界)』を有する人類は、やがて、『多神教』に含まれるいくつかの疑問に気付いたはずです。

(1)沢山いる『神々』のなかで、一番『強い力』を持つのは、どの『神』なのか。
(2)人間に『善いこと』をもたらす『神』と、『悪いこと』をもたらす『神』の関係はどのように理解すればよいのか。

(1)の疑問に、論理的に答えようとすると、『神は一人(一神教)』という概念が出現し、(2)を論理的に考えると、この世は、『善い神』と『悪い神』の戦いの場であるとする『対神教(二神教)』の概念が出現する筈です。

『対神教(二神教)』という表現は、梅爺の造語で一般的ではありません。平たく言ってしまえば『神と悪魔の戦い』ということになります。

歴史を眺めてみると、『多神教』に続いて、『一神教』『対神教』が出現しています。いずれも、人間の『精神世界』が、考え出した概念であると考えると梅爺は納得がいきます。

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2019年2月21日 (木)

善い神、悪い神(4)

『アミニズム』から生まれた『宗教』は、自然界のあらゆるものに、『神』や『精霊』が宿ると考え、特に、人間にとって都合の良いことを行ってくれる『神』を、目的別に想定しますから、『宗教』の形態は『多神教』になります。

豊作を願う『田の神』、豊漁や安全を願う『海の神』、戦争を勝利に導いてくれる『戦争の神』など、目的別に多様な『神々』が、共存すると考えて、古代人はそれ以上の『矛盾』を感じなかったのでしょう。

人類の『宗教』は、『多神教』から始まったと考えるのが自然です。

人類の初期文明で出現した最初の『宗教』は、古代エジプト、古代ギリシャ、メソポタミア、インド、中国などすべて『多神教』です。

注目すべきことは、それらの『宗教』は、そのコミュニティ(文明圏)にとっての『神々』であり、他のコミュニティへ、布教しようなどという使命感はなかったということです。コミュニティ毎に『我々の神々』を保有していて、他のコミュニティの『あなた方の神々』には無関心か、または敵としての排斥の対象であったということです。『布教』を使命としたのは、後に『私たちみんなの神』という概念が確立してからです。これも『キリスト教』の『使徒パウロ』が関与しています。『キリスト教』を、『ユダヤ教』の一宗派から、『世界宗教』に変貌させたのは『使徒パウロ』です。

人類の歴史で、異なったコミュニティを統合した巨大な『帝国』が出現した時に、初めて、それぞれの『宗教』をどのように扱うかが、帝国統治のために問題になりました。『ローマ帝国』には元々『ローマの神々』が存在していましたが、制圧した地方でも、ローマ帝国へ恭順である限り、その地方に継承されてきた『土着の神々』を信仰することを許しました。

キリストの時代のユダヤは、『ローマ帝国』の『属州』の一つであり、上記のように、『ローマ帝国』へ恭順であるかぎり、『ユダヤ教』の存在は許されていました。しかし、一方において『ローマ皇帝』を『神』として崇めるように強制され、『ユダヤ教』の神殿に、『ローマ帝国』の紋章や、『皇帝の彫像』を飾ることを求められ、信仰の厚い『ユダヤ教徒』からの反撥がありました。

『キリスト』はあからさまに『反ローマ支配』を口にしていませんが、その主張は『ローマ帝国』に迎合する『ユダヤ王(形式的に存在が認められていた、属州の実質支配者はローマから派遣されていた総督)』や、腐敗した『ユダヤ教』の神職者たちを、痛烈に批判する内容でした。

民衆が『キリスト』を『救世主』と崇めるようになり、そのことに統治上の危険を感じた『ローマ帝国』およぶその追従者たちが、『危険分子』として、『キリスト』を裁判にかけ『ローマの刑法』に則って『十字架』で処刑しました。『キリスト』が人々の『罪』を一身に背負って、死んでくださったなどという話は、後に創られた虚構の論理であろうと梅爺は思います。

『キリスト』の死の直後、ユダヤ民衆が『反ローマ』で蜂起し、『ローマ帝国』は反乱分子や『ユダヤ教神殿』を徹底弾圧、破壊しました。これが『ユダヤ戦争』です。神殿の一部は『嘆きの壁』としてエルサレムに現存し、『ユダヤ教』の信仰の対象になっています。

『キリスト教』が、このような歴史背景で生まれてきたことは、あまり語られません。何故1世紀のユダヤに、『神の子』が出現したのかも語られません。梅爺は歴史を理解しないと『キリスト』は見えてこないと感じています。

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2019年2月20日 (水)

善い神、悪い神(3)

『アミニズム』様式の『宗教』では、現代の洗練された『宗教』のように、『神(神々)』は、『愛』『慈悲』『救い』を『人間』へもたらす存在ではありませんでした。そのような『概念』が、『神』の属性になったのは、大分後々のことで、初期の『キリスト教』の布教に身を投じた『使途パウロ』の影響が大きいと梅爺は考えています。

古代の『アミニズム』では、自然界を目に見えない力で支配している『恐ろしい存在』が『神(神々)』であったということです。『恐ろしい存在』は、『人間』にとって都合の良いことばかりか、都合の悪いことももたらすことは、古代人も体感し、認識していたはずです。

都合が悪いことをもたらすのは、『恐ろしい存在』が、『怒っている』からであると、これまた虚構の『因果関係』を創出したに違いありません。『神の怒り』という『概念』は、その後の洗練された『宗教』にも踏襲されています。本来『愛』『慈悲』の『神』が、何故『怒(いか)る』のかという矛盾は、洗練された『宗教』の神学者を悩ませてきました。

洗練された『宗教』では、『神の怒り』の原因は、『人間が不遜になり、神に背を向けて勝手な振る舞いをした』からと、『信仰』の問題とする『因果関係』が導入されましたが、初期の『アミニズム』は、『恐ろしい存在』が、なぜか分からない理由で『怒りだす』と考えただけで、必ずしも自分たちの行いが悪いからと考えたわけではないと梅爺は推測しています。

『太陽の日蝕』『明るく輝く星の突然の出現』など、むしろ自然の異常現象の中に『凶事』のきっかけを見出そうとしたのではないでしょうか。

『アミニズム』では、兎に角都合の悪いことを起こさないように『鎮まっていてほしい』という『鎮魂』が、『神(神々)』への願い事の基本でしたが、やがて都合の良いことをもたらしてほしいという、積極的な願い事も、目的別になされるようになりました。

『アニミズム』では、『神と特別に交流できる能力をもった人(シャーマン)』が登場し、その人がコミュニティのリーダーになることもありました。コミュニティには日常生活を支配する『権力者』も登場しますので、『シャーマン』と『権力者』の関係も、人類の歴史では重要な問題になりました。

日本の『神道』では、『鎮魂』と『国家安寧』『無病息災』『家内安全』『豊作豊漁』などといったいった祈願が、現在でも行われています。『アミニズム』の色彩が濃く残っているためです。

日本では『シャーマン)』の役割を『天皇』が継承し、『権力者』をその時代の『政治リーダー』が継承して、共立共存が現在も続いています。結果的に『権力者』が『絶対独裁者』にならない抑制力として『天皇』が機能するという、実に見事な『バランス』をとる『知恵』が働いていると梅爺は感じています。

『天皇制』は『民主主義』に反するので『廃止』せよという主張もありますが、『民主主義』を基盤にしながら『天皇制』も維持している、日本の姿勢を梅爺は『人間の習性をしたたかに利用している』と評価しています。

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2019年2月19日 (火)

善い神、悪い神(2)

『神(神々)』という『概念』は、『主観の共有』で人間社会に、広範に根付いている典型的な例であろうと梅爺は考えています。

しかし、古代社会から現代まで、同じ『神(神々)』が、踏襲されてきているわけではありません。

『古代エジプトの神々』、『古代ギリシャの神々』、『古代ローマの神々』などを、現代人は『信仰』の対象にしていません。時代によって『神』と『人間』の関係が変わるのは、『神』のせいではなく『人間』側の事情によるものです。そのようなことが可能になること自体、『神』は『人間』の想像上の『概念』であることの証左のような気がします。

現代社会では、世界的に観ると『ユダヤ教の神』『キリスト教の神』『イスラム教の神』『ヒンズー教の神々』『仏教の仏』などが、『主観の共有』に支えられて『信仰』の対象になっていますが、やがていつの時代かに、忘れ去られる存在になるかもしれないと、歴史を概観しながら、梅爺は畏れ多くも考えています。

『サピエンス全史』には、人類の『宗教』の歴史が、記述されていますが、ほぼ、梅爺が過去にブログに書いてきた推測と同じ内容です。

生き残りの確率を高めるために、高度な『脳』の認知機能を獲得した私たちの祖先は、『因果関係を特定できない不思議な事象』に遭遇するたびに、『安泰を希求する本能』が働いて、『もっともらしい因果関係(虚構の概念や物語)』を創出し、それを『主観の共有』で、代々継承してきました。誰か知恵者が考え出した虚構の『因果関係』を『信じて』、安堵(心の安らぎ)を得てきたとういうことです。

『太陽』『月』『星』『オーロラ』の存在や動き、『雨』『雪』『風』『季節の循環』などの自然現象、周囲に存在する多様な『動物』や『植物』、『誕生』『成長』『老い』『死』など、すべて『摩訶不思議』であり、何か見えない『力』が、自分たちの存在にかかわっていると感じて、その見えない『力』の正体を、『神(神々)』『精霊』として関連する『概念』『物語』を創出しました。

自分たちにとって都合の良い『事象』も、都合の悪い『事象』も、『神(神々)』『精霊』に由来するものと考えたであろうことは容易に推測できます。

この様に人類が最初に創出した、『宗教』の形式は、『自然崇拝』の『アミニズム』様式であったと考えられます。

『山』『川』『大木』『大きな岩』など、すべて『ご神体』とされるのは、日本だけではありませんが、特に日本は、『やおよろずの神々』として、この考え方が根強く継承されてきました。

梅爺は『アミニズム』は、幼稚で野蛮な『信仰』様式であるとは、必ずしも考えていません。古代の人間がそのように『考えた』のは、自然の成り行きであったと思うからです。

その証拠に、私たちも一見『摩訶不思議』な事象に賞遇すると、勝手に『因果関係』を考え出して、自分を納得させようと今でもしているからです。それが『人間』の習性なのです。

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2019年2月18日 (月)

善い神、悪い神(1)

『サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ著)』という本を読んでいて、梅爺は次々に興味をそそられる内容に遭遇します。

この本は、イスラエルの大学の先生が書いた、私たち現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史を、学際的に解説したもので、読んでいてほとんど抵抗を感じないのは、思考プロセスが梅爺と極めて似ているからなのでしょう。

自分と似た考え方の人に、例え本を介して間接的であれ、遭遇することは嬉しいことです。

もちろん、この本には梅爺が『人間』を理解するときの基盤に使う、『物質世界』『精神世界』などという用語を用いた区分は登場しませんが、『結局同じことを述べている』ことが分かります。

梅爺が気付かなかった鋭い指摘がもちろんあり、この視点は梅爺の主張を覆すものではなく、さらに補強してくれるものですので、これまた無上の喜びです。

たとえば、梅爺は『精神世界』は『個性的』であるがゆえに、『精神世界』で特に『情』がからむ判断は、すべて『主観的』になると論じてきました。

平たく言ってしまえば、『誰も同じ事象に遭遇しても、同じように考えたり、感じたりはしない』ということです。

これは『精神世界』をミクロに観ればという話で、たとえば『母』という言葉を聞いたときに、思い描く情景や感情は、一人一人違っているということを意味しています。

しかし、一方、『人間』は、他人の『主観的な主張』をそのまま『信じて』受け容れ、自分のものにしてしまうという習性も保有しています。

『精神世界』は自由奔放に、『概念』や『因果関係』を、『虚構』として創出出来ますが、誰かが言い出した『虚構』を、他人も『信じて』その人のものにしてしまうという状況が、『人間社会』では起こりやすいということです。

本来は一人一人が『同じように考えたり感じたりしない』ように宿命づけられているはずの『人間』が、『社会』というコミュニティの場では、誰か他人の『考え方感じ方』を、自分のものとする習性が働くために、マクロに観ると『社会』では『主観の共有』が出現すします。この場合『信ずる』という行為が基盤になります。

この『主観の共有』という概念を、『サピエンス全史』を読んで梅爺が『主観』として『共有』するようになったということですから、ややこしい話です。梅爺も典型的な『人間』であるとうことにほかなりません。

『社会』に広範に根付いた『主観の共感』は、非常に強固な『慣性』をもち、それが『理性』の判断とは矛盾することが判明しても、なかなか消滅しません。

科学知識を保有する現代社会でも、多くの人が『宗教の教義』『昔からのしきたり』を『信じて』いるのはこのためです。

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2019年2月17日 (日)

青木紀久子 室内楽の夕べ(ウィーンの輝き)

2月15日(金)の夕刻、品川の『アンビエンテ』で、『青木紀久子 室内楽の夕べ(ウィーンの輝き)』が催され、梅婆と出かけました。

『青木紀久子』さんは、室内楽の著名なピアニストで、毎年演奏会を続けておられます。梅爺の合唱仲間で畏友の『青木修三』氏の奥様で、そのような御縁から毎年楽しみにしている演奏会です。

今回も、会場は満席で、素晴らしい演奏を堪能しました。

演奏者は去年と同じで以下のメンバーでした。

青木紀久子(ピアノ)
クリストフ・エーレンフェルナー(ヴァイオリン)オーストリア
ヘルベルト・ミュラー(ヴィオラ)オーストリア
富岡廉太郎(チェロ)

プログラムは5ステージで、以下の内容でした。

シューベルト・・弦楽三重奏
ベートーベン・・弦楽二重奏
モーツァルト・・ピアノ三重奏曲
フンメル・・ピアノとヴィオラのソナタ
モーツァルト・・ピアノ四重奏曲

作曲家は、18世紀から19世紀の初頭にかけて、ウィーンを中心に活躍した人たちで、クラシック音楽の黄金期と呼ばれる『ロマン派』の時代を築きました。

音楽は、音や声で『精神世界』を表現する芸術領域で、人類の歴史とその歴史が一致するであろうと考えられています。『精神世界』を表現することは、群で生きる人類にとっては、他人との『絆』を確認する手段、『神』と交流する手段であったからです。

『西欧音楽ロマン派』は、古代ギリシャから継承されてきた『理』を重んずる文化を基盤として継承しているために、『情感』を表現することが主体でありながら、音程、和声、対位法など『理』の法則(ルール)が背後に組み込まれています。

この特徴が、異なった楽器を集めた『合奏』や、人間の声を集めた『合唱』というような様式を可能にしています。『理』が整然としたハーモニーや旋律の進行に寄与していて、聴く人の『精神世界』にも調和感を喚起します。

日本の伝統音楽も含め、西欧音楽以外の『音楽』では、この『理』の取り込みがあまりないため、素朴感や情緒の表現に止まっているように感じます。

『室内楽』は、演奏家の音楽性が一つになって、互いに会話のような受け渡しが行われます。楽器の特徴も顕著ですから、緊張感の中に調和感があります。

演奏会の余韻を楽しみながら帰宅しました。

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2019年2月16日 (土)

江戸の諺『目から鼻へ抜ける』

『目から鼻へ抜ける』も現代に通用する表現です。

『頭がよい』『機転がきく』『要領がよい』などの意味でつかわれます。

突飛な言葉の組み合わせで表現することを、この時代の日本人は好んでいたといえるのではないでしょうか。江戸ではそれが『粋(いき)』であったのでしょう。

亡くなった落語家の『立川談志』は、江戸の落語の『真髄』は『ファンタジー』であると喝破(かっぱ)していました。実に見事な洞察です。突飛な発想が『おかしさ』の根源なのです。梅爺も『創作落語』ではこのことを配慮しますが、どうしても『理屈っぽい』内容になってしまうのは梅爺の『個性』のせいです。

論理を好む西欧人なら、『そのようなことは実際にはあり得ない』などといって、受け入れないであろう突飛な言葉の組み合わせが、、日本人には『うける』ということは、興味深いことです。

多分『精神世界』の『理』より、直感的な『情』を優先する傾向が強いためでしょう。周囲の自然環境が『情』を豊かにする多様性を秘めているからではないでしょうか。この習性は現代の日本人にも継承されていますから、デメリットとしては、西欧人と『ディベート(論理的な議論をする)』ことは得意ではないことが挙げられます。

もちろん、当時の人たちも、最初に『突飛な表現』に接した時には、何のことか分からなかったはずですが、『お前さん、そんなこともご存じないのかい』などと言われると、自分が『粋』ではないことを認めることを恐れて、必死にそれを受け容れる努力をしたのでしょう。これも現代に日本人に共通する習性です。日本人にとっては『他人(ひと)と違う』のは、恐ろしいことなのです。

『目から鼻へ抜ける』は、大仏の職人が、目玉をはめた後に、鼻の穴から脱出したことで『機転がきく』という意味になったと言われていますが、本当のことは分かりません。

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2019年2月15日 (金)

『精神世界』を理解する方法(10)

人間の『脳』は、生物種として『生き残り』の確率を高める能力を『自然選択』し、高度に進化してきました。『神』が『愛する人間に特別の能力を賦与してくださった』わけではありません。

『抽象概念の言語のよる表現とそれを共有する能力』『因果関係の推論能力』などを駆使して。私たちの『精神世界』は、自由奔放に『虚構』を創出できます。

『虚構の因果関係』は、『物質世界』の『因果関係』のように、『摂理』に縛られることはありませんから、文字通り自由奔放なものになり得ます。

それを『虚構の因果関係』と自覚していれば、問題はありませんが、それが『物質世界』の『因果関係』と同様に『普遍的に真である』と主張し始めると、問題が生ずることになります。

過激な宗教の『原理主義者』、自国民だけがすぐれていると狂信する『国粋主義者』、信奉するイデオロギーだけが正しいと主張する『独裁政党主義者』、富が幸せをもたらすと信ずる『金満主義者』など、『虚構の因果関係』を『真』と主張する人たちが後を絶ちません。

人間の『精神世界』で、特に『情』が絡む価値観は、元はと言えば『自分にとって都合がよいか悪いか』を判定することから派生したものです。さらに繰り返しになりますが、その価値観は『個性的』であって、普遍的な比較尺度をもたないものですから、それが『物質世界』の『真』同様に、『真』であると主張することは慎重であるべきです。

梅爺は、『自己主張』は意味がないと言っているのではありません。『私はこう思う』『私はこう感ずる』『私はこれを信ずる』などという主張することは、自分を他人に理解してもらうために、必要なことです。『絆』を確認する手段でもあるからです。

しかし、それに留まらずに、『自分の思うこと、感ずること、信ずること』が、普遍的に『正しい』と言い出すことは慎重であって欲しいと言いたいだけです。

他人は、自分とは異なった『価値観』の持ち主であるという事実を受け容れて、人間関係に対応していただきたいと願っています。

『精神世界』の本質を考えると、どうしてもそのような結論へ行きつきます。

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2019年2月14日 (木)

『精神世界』を理解する方法(9)

『精神世界』は、『物質世界』の支配を受けている『脳』が『生命活動』を維持していることで出現する仮想世界です。

『脳』が死に至れば、必然的に消滅します。『パソコン』へ電源やバッテリーからのエネルギー供給が断たれれば、アプリケーション・ソフトウェアは機能しなくなり、スクリーンの画像も、スピーカーからの音声も消えてなくなるのと同じ話です。

死んだ『脳』は、『物質世界』の素材で構成される唯の『物体』にすぎないのと同様、エネルギー供給の断たれた『パソコン』は、同じく『物質世界』の素材で構成された唯の『物体』にすぎない存在になります。

『宗教』や『芸術』の基盤となる『精神世界』は、何か神聖で崇高なもののように思いたくなりますが、『脳』という『物質世界』に属する『物体』が機能している前提で存在できるものであることが分かります。

『物質世界』と地続きで『精神世界』が存在すると梅爺が主張するのはこのためです。

このことを冷徹にとらえれば、『肉体(脳を含む)』が、『死』の状態になったときに、『精神世界』は消滅し『無』に帰すと考えるのが妥当です。

『肉体は死んでも霊は不滅である』、『死後の霊はあの世(天国、地獄)へ赴く』などという主張は、『そうあって欲しい』と『願う』人間の『精神世界』が創出した『虚構』にすぎないと梅爺が思うのはそのためです。

『安泰を希求する本能』に支配される『精神世界』は、自分にとって不都合と思われる事態を、『虚構』の『因果関係』で解消しようと試みるからです。

梅爺も、無意識に『自己弁護』する『論理(虚構の因果関係)』をひねり出して、なんとか自分を納得させようとしながら生きていますから、古人が思いついた『虚構の因果関係』を笑い飛ばすことはできません。

誰かが言いだした『虚構の因果関係』を、多くの人が『主観で信じて共有』するようになると、それは人間社会では大きな慣性をもつ力となり、侮れないものになります。『宗教』はこの現象をうまく利用していると言えるでしょう。

『科学知識』が豊富な文明国アメリカでも40%に人たちが『聖書の記述を信じて、生物進化を認めようとしない』のも、多くの日本人は『私は無宗教です』といいながら、『初詣』で神社を訪れ、『仏滅』の日には『慶事』をさけ、『風水』で方角を定めたりしているのはこのためです。

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2019年2月13日 (水)

『精神世界』を理解する方法(8)

『精神世界』が『個性的』であるのも、『生物進化』にその原因があります。

『子供』は『両親』から『遺伝子』を受け継ぎますが、『生物進化』の過程で、多くの動物が『両性生殖』の方式を採用し、人類もそれを利用しています。

『受胎時』に、両親の『遺伝子』を利用した偶然ともいえる『組み合わせ』で『子供』の『遺伝子』が決まります。数万種といわれる人間の『遺伝子構造』が、このように伝えられることで、『ミクロ』にみると人間は『個性的』になるように宿命づけられています。『指紋』はもちろんのこと、『容姿』『体格』も『個性的』であるのはこのためです。

『精神世界』を創り出す『脳』の140億個といわれる『細胞』で構成される『脳神経ネットワーク』も、『遺伝子情報』と『生後の生育環境』が関与して、生成されますから、宿命的に『個性的』になります。

『パソコン』の電子回路は、皆『同じ』ですが、人間の『情報処理回路(脳神経ネットワーク』は、一人一人異なっているということです。

『人間は、そもそも個性的になるように宿命づけられている』という事実が、『人間社会』に『不都合』を生じさせます。『個人』が『個性的』に勝手に振る舞ったのでは、社会の秩序は保てなくなるからです。

生物として『群れをなして生きる』方式を『生物進化』で選択した人類にとって、『個』と『全体』の、都合が矛盾する事態をどのように収拾するかが、常に問題となってきました。残念ながら、この矛盾を普遍的に解決する『知恵』を、人類は今も見出していません。

『宗教の教え』『法律』『道徳』『倫理』『イデオロギー』などが、なんとか『個は全体の規範を遵守すべし』と説いてきましたが、完全な解決策ではありませんので、いつ爆発するか分からない『個』の『個性的』というマグマを抱えているともいえます。

『個』の自由に比較的寛容な『民主主義』と、寛容でない『独裁主義』の対立が現在でも存在するのは、人類が『知恵』を持たない証拠でもあります。

少なくとも『個性的』であるという事実を直視して議論することが大切で、『個性的であってはいけない』などと、事実に反することを強制し続けると、やがてマグマは爆発することになるのではないでしょうか。

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2019年2月12日 (火)

『精神世界』を理解する方法(7)

周囲の事象を『脳』が、『都合がよい』と判定することももちろんあります。この時も『脳』は対応するホルモンを分泌して、『肉体』へそれを知らせます。『愉快』『楽しい』などという『情』が、これに対応します。 

『喜怒哀楽』は、『情』がもたらすものであり、『泣く』『笑う』などがこれを肉体的に表現する行為であることを前に書きました。他人との『絆』を確認する為に、『情』を肉体的に表現することは重要な意味を持つからです。人間にとって『言葉』は『情』を表現する手段ですが、『情』の表現手段は『言葉』だけではありません。『芸術』で『精神世界』を表現する領域は『文学』だけではなく『音楽』『造形(絵画、彫刻)』『舞踊』と多様であるのもこのためです。

『安泰を希求する本能』は、周囲の状況を『都合がよい』『都合が悪い』『どちらでもない(無視、放置できる)』と『判定』し、対応する『情(情感)』が派生します。『言葉』による『情』の表現は、以下のように分かれます。

『都合がよい』・・『嬉しい』『楽しい』『美しい』『正しい』
『都合が悪い』・・『悲しい』『悩ましい』『苦しい』『醜い』『間違い』

これらは、状態を『定性的』『抽象的』に表現したのので、『定量的』な比較はできません。『精神世界』を考える上で、『価値観』を『定量的』に比較できないということは大変重要な意味を持ちます。

更に、先に挙げた『精神世界』の特徴の2番目の『個性的である』が、問題を一層ややこしくします。同じ事象に遭遇しても、人間は『同じように感じたり、考えたりしない』ということになるからです。

『感動した』と二人の人間が『言葉』で『表現』した場合、『マクロ』に『情感』を共有しているとは言えますが、『ミクロ』には同じ『精神世界』を保有しているとは言えません。

多くの人たちは、『情感は定量的に比較できない』『情感による価値観には個人差がある』ということを理解していないために、自分が『感じたり、考えたり』しているように他人も『感じたり、考えたり』しているに違いないと勘違いしています。そして、このことが人間関係で悲喜劇を生む要因にもなっています。

極端な場合、自分が『美しい』『正しい』と『感じて』いることに、他人は『醜い』『間違い』と『感じて』いることもあり得ます。

特に『情感』を基盤とする『価値観』で、『正しい』『間違い』を論ずるときには、よほど慎重でなければなりません。この場合の『正しい』『間違い』は、『科学』や『数学』のような、『理』で『真偽』判定ができる世界の『正しい』『間違い』と同じではありません。

人間社会では、同じ『正しい』『間違い』という言葉の表現が使われるために、人類は混乱を重ねてきました。自分が『正しい』と『情感』で判断したことが、やがて『絶対的に正しい』に変わり、これを受け入れない相手は『間違い』『邪悪』と非難の対象になるばかりか、『抹殺』の対象にまでなります。

地球上から『イデオロギーの対立』『宗教対立』は無くならないのは、『精神世界』の本質を理解していないことが原因のように思います。

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2019年2月11日 (月)

『精神世界』を理解する方法(6)

『精神世界』を理解するためには、『物質世界』の『変容』の一つである『生物進化』の内容を知る必要があります。

約40億年の歴史を持つ『生物進化』の中で、『人類種』という生物の『歴史』は、6百万年程度であり、私たち『ホモ・サピエンス』に至っては17万年の歴史しかありません。

しかし、『生物進化』の中で、生物としての本質的な『資質』は、最初の生命体から脈々と継承され続け、私たち『ホモ・サピエンス』の中にもその『資質』は継承されています。

その『資質』の中で、重要な役割を演じているのが『安泰を希求する本能』であろうと梅爺は推察しています。この『本能』を前提に考えると、『人間』や『人間社会』に関する事象の本質が見えてくるからです。生物としても『個』が生き延び、『種』が代々継承されていくために、この本能は欠かせないものです。もちろん人間以外の生物も、程度の差はあれこの本能を有しています。

前に列記した『精神世界』の特徴の1番目は、『情』が重要な役目を果たしているということですが、『情』は、『安泰を希求する本能』と深くかかわっています。

私たちは、絶えず周囲の状況を観察し、それが自分にとって都合が良い状況か、そうでないかを意識的に、または無意識に判定して次なる行動を準備します。

都合が悪いと判定した時は、『脳』はそれを『不安』『危険』というストレスとして対応するホルモンを分泌して、『肉体』に『警戒警報』を発令します。これが『悲しみ』『憂い』『苦しみ』といったネガティブな『情(情感)』を喚起します。

ボールが自分の顔へ向かって飛んで来れば、私たちは咄嗟に手で顔を覆い、防御しようとします。これは無意識のまさしく本能的な行為ですが、高度な理性を進化で保有するように「なった『人間』は、『不安』『危険』の原因を、『因果関係』で推測(推論)し、『安堵』しようとします。『不安』を解消しようとするのは『安泰を希求する本能』が働くためです。

古代の科学知識を持たなかった『人間』にとって、自然界の事象の大半は、『不思議』であり、その『不思議』を『分からない』まま放置することは、『不安』のストレスとなりますから、何としても『因果関係』を推論して、『安堵』したい思ったのは当然のことです。

『天地は神が創造した』『死後にはあの世がある』などは、すべてこの様な古代の人たちが『安堵』を得るために『推論』した内容にほかなりません。これらの表現を『論理命題』とすれば、現代の『科学知識』では論理的に『真(正しい)』と証明はできません。

しかし、これらの表現内容は、は多くの人が『正しい』と『信じ』で現代にまで継承されていて、『人間社会』に大きな影響を及ぼしています。現代のアメリカ人の40%は『生物進化』を、『聖書』の記述に反するとして『信じ』ていないと言われています。

『サピエンス全史』という本の著者は、これを『主観(信ずること)の共有』と表現していて、この社会的な『慣性』が、想像以上に強固であることを指摘しています。見事な洞察です。

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2019年2月10日 (日)

『精神世界』を理解する方法(5)

『物質世界』を理解するには、『宇宙』の歴史や、最新の科学知識の本質を知る必要があります。

『物質世界』を支配している『摂理(法則)』を解明することが、『科学』の目的であるからです。

『物質世界』は、論理的で普遍的な『因果関係』だけが支配する世界であることに、まず気が付ききます。この『因果関係』を用いれば、『真偽』の判定も普遍的に出来ることにも気づきます。

『物質世界』で起きている『変容』を眺めてみると、一見それは多様な要因が絡む複雑な動きに見えますが、基本的には『動的な平衡移行』であることが分かります。『変容』を起こすきっかけは、偶然存在する『ムラ(一様ではない状態)』や『歪(ひず)み』である場合が大半です。『物質世界』の『変容』には、『目的』『意図』などは無いことを理解する必要があります。『目的』『意図』が重要な意味を持つ『精神世界』と対比して『物質世界』を理解するために、このことは重要な意味を持ちます。

『物質世界』がすべて一様になり『ムラ』や『歪み』がなくなれば、『変容』は起こらなくなりますが、それは『物質世界』の『死』の状態を意味します。

幸い、『ビッグ・バン』以降、『宇宙』は『変容』し続けており、その一部を利用して、私たちは『生きて』います。

私たちの『命』も、『物質世界』の『変容』の一つです。60兆個の『細胞』が、周囲の状態に対応して黙々と活動しており、それが総合的に『命』の維持という『平衡状態』を保っています。

『老い』は、その『平衡状態』が、若いころの『平衡状態』とは異なったものになりつつあることであり、それがある限度を超えると、『命』の維持という『平衡状態』が保てなくなり、『死』を迎えることになります。

味気ない言い方になりますが、『物質世界』の視点で観れば、『命』は『動的平衡活動がある範囲内で継続されている状態』ということになります。

『精神世界』の『願い』『祈り』は、この『物質世界』の『変容』には、残念ながら本質的な影響を及ぼすことはありません。

人は『精神世界』では『生きていたい』と望みますが、『物質世界』の『変容』である『命』は、『科学』で相対的な『延命』が可能になったとしても、現状では永遠に継続することはできません。

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2019年2月 9日 (土)

『精神世界』を理解する方法(4)

『精神世界』の特徴を、結論的に列記すれば以下のようになります。この様に結論だけを提示されても、理解が進むわけではなく、何故そのようなことが重要なのかも即座にはお分かりいただけないかもしれません。

しかしここでは倒叙法の推理小説と同様、まず『犯人』を提示し、その後何故その人が『犯人』なのかを解説することにします。

(1)『精神世界』は、『情』と『理』が複雑に絡み合って機能する。基本的には『情』が『理』に優先して機能する。『情』は無意識。『理』は意識に喚起されるものなので、『無意識』と『意識』とが複雑に絡み合っているともいうことが出来る。『情』が絡む『価値観』は、『物質世界』では通用しない。
(2)『精神世界』は、『個性的』であって、『情』がからむ『価値観』には比較する為の基準がない。
(3)『精神世界』は、『物質世界』と地続きであり、『物質世界』の基盤の上でのみ存在可能である。(『物質世界』が消滅すれば、『精神世界』も消滅する)
(4)『精神世界』は、『安泰を希求する本能』に強く支配されている。他人との『絆』を大切にするのは、『安泰』を確認するためである。
(5)『精神世界』は自由奔放に『虚構』『抽象概念』『真偽とは無関係の因果関係』を創出する。表現方法は、『言葉』『音楽』『造形』『舞踊』など多様である。

一方、『物質世界』の特徴は、前にも述べた通りに以下に列記することが出来ます。

(1)あらゆる『実態』は有限の種類の『素材』で構成されている。例外はない。
(2)『動的な平衡移行』という形で『変容』が進行し、その『変容』は『摂理(ルール)』に支配されている。これも例外がない。『変容』には、『目的』『あるべき姿(理想形)』などはない。(『精神世界』の『情』がからむ『価値観』は、『物質世界』には適用できない)
(3)事象の『真偽』は、普遍的に判定できる。

何やら大変難しいことを論じているように見えますが、『本質』を理解してしまえば、『なんだ、そういうことか』とことにすぎません。

ただ、ここに列記されていることは、私たちが、親、先生、聖職者、先人から『聞かされて受け容れていた常識』に反するものもありますので、そのことに抵抗があるのは当然です。

しかし、今までの潜入概念や常識を排除して、これらの特徴を受け容れ、それが提供する新しい世界を虚心に観れば、得心がいく世界がそこに広がる筈です。

梅爺自身は『目からうろこが落ちる』と感じました。どうして今までこの様な事を誰も体系的に教えてくれなかったのだろうと、そのことの方が不思議です。

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2019年2月 8日 (金)

『精神世界』を理解する方法(3)

『神』の存在について論ずるのがこのブログの目的ではありません。

『精神世界』の本質を理解していただくには、どのような方法が効果的かを考えることが目的です。

『精神世界』はこれですといって、手にとって見ることはできません。『精神世界』は『脳』が創り出す、実態のない『仮想世界』であることが、理解を難しくしています。

『仮想世界』があくまでも『仮想世界』に留まっていたら、私たちはその存在を実感することが困難になります。しかし、実際には『人間』の『精神世界』の内容は、間接的に表現され、私たちはそれを感知できます。

端的な例を挙げれば『喜怒哀楽』がそれにあたります。役者は意図的に『喜怒哀楽』を表現しますが、一般的には『喜怒哀楽』は、無意識に私たちを襲ってくる『情感』で、『なぜか悲しい』『なぜか嬉しい』ものです。そうなろうと意識してなったものではありません。このことから『精神世界』には、『意識』だけでなく『無意識』が関与していることが推測できます。

『喜怒哀楽』を私たちは、顔の表情(泣く、笑うなど)、体の振る舞い、声(言葉)で表現します。自分が今どのような情感を保有しているかを表現するのは、『自分の存在と状態』を他人に認めてもらう『訴え』にほかなりません。赤ん坊が『不快』を『訴えて』泣くのはこのためです。

何故『訴える』のかは、他人との関係(絆)を確認して『安堵』したいからです。生物進化の過程で、『人間』は生き残りの確率を高めるために『群れをなして生きる』方法を選択しました。『群れをなして生きる』生物は『人間』だけではありませんが、この方法を選択した生物は、必ず仲間との関係(絆)を確認する能力を保有しています。

ただ、『人間』の『絆』を確認、共有する能力は、極めて高度の進化してきました。

『精神世界』は目に見えない『仮想世界』ですが、それが間接的に『表現』されることで、私たちは『精神世界』の存在を実感することが出来ます。

誰もが、自分の『心』の存在を実感しながら生きています。『心』の一部は、『無意識』が関与していますので、私たちは自分の『心』を、意のままにコントロールできません。不思議なことに、自分の意でコントロールできない別の自分が、自分の中にいるということです。

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2019年2月 7日 (木)

『精神世界』を理解する方法(2)

『物質世界』は『自然界』と、『精神世界』は『人の心』と言い換えることが出来ます。

『物質世界(自然界)』は、実態のあるもので構成されており、そこで起きる事象はすべて『物質世界』の『摂理(ツール)』で支配されています。例外はありません。

『物質世界』のすべての事象、およびすべての『摂理』を、人類は現時点で『理解』しているわけではありませんが、それは人類の能力が及ばないだけで、いつの日にか『理解』できるようになったとしても、『例外』はないであろうと『科学者』は考えています。『物質世界』の事象を『摂理』で解き明かすことが『科学者』の使命です。

『物質世界』に存在する実態あるものは、すべて有限の種類の『素材』を使って構成されています。『素材』は『素粒子』『元素』などです。『素粒子』は宇宙の始まり『ビッグ・バン』で出現しました。

『人間』も『物質世界』に存在する実態ですから、私たちの『肉体』は、上記の有限の種類の『素材』で構成されていて、『生命活動』は、『物質世界』の『摂理(物理法則、科学法則)』に支配されています。この意味で『人間』は他のすべての『生物』と変わるところはありません。『物資世界』の視点で観る限り、『人間』は特別な存在ではありません。

『人間』は『生物進化』の過程で出現した一種の『生物』にすぎません。

138億年前に、どのように『宇宙』は出現(ビッグ・バン)したのか、約40億年前の『地球』に、どのように最初の『生命体』が出現したのかは、最新科学でも分かっていません。もちろん『仮説』はいくつかありますが、『定説』にはなっていないということです。

ただ、『宇宙』や『生命体』の出現は、『神』の力を借りなくても可能であったと『科学者』は推測しています。この推測は、人類が継承してきた『神による天地創造』という『宗教』の教義とは大きく異なっています。

『天空(物質世界)のどこかに、実態として神が存在するとしたら、その神は有限の種類の素材で構成されていて、神の活動のすべてが摂理に支配されている』というなりますので、多くの『科学者』は、『物質世界』には『神』は存在しないという結論に達するのは自然の成り行きです。

『神』は、この後論ずる人間の『精神世界』にとってのみ意味のある『抽象概念』であると考えると、何故人類は太古から『神』を『信じて』きたのかが見えてきます。

『物質世界』だけで観る限り『神』の居場所はそこにはありません。しかし、『抽象概念』としての『神』は、人間の『精神世界』にのみ、存在可能です。

『物質世界』と『精神世界』を区別して考える意味について、少し興味を抱いていただけたでしょうか。

『神』は『物質世界』には実態として存在しませんが、『精神世界』には共有の『抽象概念』として存在するということです。

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2019年2月 6日 (水)

『精神世界』を理解する方法(1)

梅爺は、ブログを書き続けて得た最大の収穫は、世の中の事象を『物質世界』と『精神世界』に区別して考えてみるという『方法論』に気付いたことです。

世の中の事象を『理解』するということは、『人間(自分を含め)』および『人間社会』を『理解』する上で、極めて有効な『方法論(手段)』であるということです。

今まで『摩訶不思議』に思えていたことが、『目からうろこが落ちる』ように、『なんだ、そういうことか』と見えてきますから、是非多くの方にも体験していただきたいと、繰り返し何度も書いてきました。

たとえば、『人間は何故宗教を必要としてきたのか』『人間は何故芸術を必要としてきたのか』『人間は何故理よりも情を優先して判断しようとするのか』などということが、『そういうことか』と見えてくるということです。

梅爺が若いころに、このような『方法論』を教えてくれる人に出会っていたり、このことを解説した本に出会っていたとしたら、人生は変わっていただろうと、『惜しい』気持ちになりますが、それでも気付かず死ぬよりは良いと、自分に言い聞かせています。

しかし、梅爺が『物質世界と精神世界とを区別して事象を観ることが大切』と切り出すと、多くの方は興味を示されずに、むしろ戸惑ったような表情をされます。

『この爺さんは、何かとても難しい哲学的な話をしようとしている』と、最初から忌避反応を示すことになるのであろうと推測できます。

『物質世界』も『精神世界』も、『抽象概念』であり、人は『抽象概念』の意義を深く考えるのは億劫であり、苦手であるからなのでしょう。もちろん、『哲学者』のように、そういうことを考えることが、大好きという方もおられますが、人間社会の中では少数派であるらしいと梅爺は感じています。

『神』『愛』『正義』『平和』とは何かというようなことの意義を考えるのも同じです。

又は、多くの方にとっては『神』『愛』『正義』『平和』などということは、『自明のこと』であり、いまさら深く考えたり議論したりする必要などないと考えておられるのかもしれません。

『精神世界』のことを、興味を引く分かりやすい例で、説明する方法はないかと、梅爺は考えてみました。

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2019年2月 5日 (火)

江戸の諺『江戸へ小便しに行く』

江戸の諺『江戸へ小便しに行く』の話です。

あまり上品な表現ではありませんが、ほんの表面だけをかじっただけで、全体を会得しているように得意げに振る舞うことを嘲笑った諺です。

現代でも『アメション(アメリカへ小便しに行く)』『パリション(パリへ小便しに行く)』などという表現で、ちょっとそこへ行ってきただけで、『アメリカ』や『パリ』のことは何でも知っているように得意げに話す人を、蔭で嘲笑う時に使う言葉になっています。

裕福になった現代の日本では、旅行業者が『○○一周8日間の旅』などというパック旅行を売り物にし、添乗員や現地ガイドのサポートで、至れり尽くせりの旅をお金さえ払えば誰でも楽しむことが出来ます。現地の言葉や文化に通じていなくても、気軽に参加できますから、多くの日本人が安心して海外へ出向くことになりました。それでも最低限『異文化』を見聞することにはなりますので、島国育ちの日本人が、『異文化』の存在を実感するだけでも意味があると梅爺は思っています。ただ現地の人たちと、『交流』することはほとんどなく、『風物』を観るだけですから、これで『異文化』を見聞したというのは少し大袈裟です。

梅爺も『コストパフォーマンス』を重視して、この種のパック旅行を何度も利用してきましたので、それは『○○ション』のたぐいで、偉そうなことはあまり言えません。仕事の現役時代に『海外出張』したときは、荷物の盗難に気を使いながらタクシーを呼びとめ、行ったことがない訪問先を探し、込み入った仕事の交渉を英語で行うなど、パック旅行に比べると、ストレスは大変なものでした。

『諺臍の宿替』では、上方の男が、『一度は江戸を観ないと男とは言えない』ということで江戸へやって来ますが、八百八町をすべてめぐるのは、お金も時間もないということで、少しの滞在で上方へ戻る小話が載っています。江戸で小便をしたら、勢よくでたと言うので、上方へ帰ったら今度は勢いのよい小便をするぞと心に誓うという滑稽な話になっています。

生半可な知識で、すべて見知っているように振る舞うなという教訓は、『梅爺閑話』を書いている梅爺には耳が痛い話です。

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2019年2月 4日 (月)

間違った動機を強いられる環境(4)

このエッセイの著者は、人間社会からできるだけ『間違った動機を強いられる環境』を無くしていくために、新しい社会システムの仕組み、文化として継承していくべき社会の価値観が必要と書いています。

『ごもっとも』なことですが、これでは政治家が使う常套句『前向きに対処していきたい』と同様、具体的には何も言っていないに等しいことになってしまいます。

この問題の本質は、『個』と『全体』の『価値観』が異なっている時に、どのように対応すべきかということにあります。

人類が、『群れをなして生きる』方法を採用して以来、この問題はずっと人類に付きまとってきました。

そして、基本的には『個』と『全体』の『価値観』の間に、『違い』や『矛盾』があったときに、それを普遍的に解決する方法を、人類は現在も見出していません。人間は『生物』の『個』として、『個性的』であるように進化の過程で、宿命づけられていますから、『普遍的な解決策』は、人類社会が存続する限り、見いだせないに違いありません。

『イデオロギー(民主主義など)』『宗教の教義』『憲法』『法』『道徳』などが『次善の対応策』を提示し、それがその社会で『多くの人が支持する規範』になっていますが、とても『普遍的な解決策』とは言えません。

理想的な夢物語としては、『個人』が『理性』を研鑽し、『人間は個性的である』という事実を受け容れ、『他人の価値観』の存在を最低限認めて、『違った価値観の共存』を認めるか、『歩み寄る妥協点の模索』をするといった対応をとる社会の到来が望まれるということになります。『忍耐』『寛容』などという概念を深く理解する社会ともいえます。

しかし、私たちの周囲は、このような状態からは程遠い様相を呈しています。

北朝鮮や中国のように、『独裁者』『独裁政党』の『価値観』を、コミュニティの『価値観』として国民に強いることを、いつまでも継続できるとは思いませんが、アメリカの『トランプ大統領』のように、『アメリカ第一』などと単純に振る舞うのも、『アメリカ』という国家としての『個』と、『国際社会』という『全体』の、対立矛盾が深まるばかりで、これも長くは続かないに違いありません。『アメリカ第一』はむしろ『アメリカ』に不利益をもたらすことが徐々に明らかになるであろうからです。

『個性的』な『個』が集まって『全体』を行使した時に、『個』と『全体』のあり方はどういうことになるのか、解答はないにせよ、その本質を多くの人が理解することが重要です。

『解答がないなら考えても仕方がない』という、主張は皮相すぎます。問題は『解答』ではなく、『本質』なのです。

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2019年2月 3日 (日)

間違った動機を強いられる環境(3)

収監された新参者の囚人が、身を守るために『刑務所』内の特殊な習慣に基づく動機(間違った動機)で行動することを紹介しました。

これに類することを、エッセイの著者は、以下のように紹介しています。

(1)民主的な選挙で選ばれる『政治リーダー』は、短い任期の中で『成果』を挙げること、次の選挙で再び勝利することを最優先に行動する。このため、本来はもっと重要かもしれない長期的視点に立った政策はないがしろになってしまうことがある。
(2)弁護士は、裁判で勝訴を勝ち取ることが、高い報酬につながるため、被告が『悪人』であることを知りながら『無罪』を主張することがある。
(3)企業経営者は、任期内に成功という『成果』を出し、株主の支持をえることを優先する為に、いかがわしい行為、灰色の行為に走ることがある。『政治リーダー』と同様に、本来はもっと重要かもしれない長期的視点、従業員を大切にする視点などがないがしろになってしまうことがある。

新聞社の幹部が、広告主に不利になる記事を差し控えたり、テレビ局の幹部が、視聴率だけを優先して、低俗な番組を制作する、なども同様のことと言えるでしょう。

これらは、本来その社会にとって重要であることよりも、当事者にとって都合の良いことが、したがって社会にとっては不都合なことが行動の動機となっている例です。

本来その社会にとって重要なことを、大衆が共通の価値観として持っているとは限りませんので、必ずしも社会の大半の人たちが不都合と感じていることが『間違い』として機能しているとは限りません。

少数の『賢者』や『識者』の『価値観』で判断すると『不都合』ということも、表現としては『間違い』と記述されることがあります。

このエッセイの『間違った動機』は、著者(識者)の『価値観』が反映していると観るのが妥当です。

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2019年2月 2日 (土)

間違った動機を強いられる環境(2)

普段ブログで『間違い』『正しい』という表現を用いる時には慎重を要すると何度も書いてきた梅爺が、『間違った動機』という表現をタイトルに使っているのは一貫性を欠きますので、少し釈明をします。

人間の『精神世界』の表現として使われる『間違い』『正しい』は、抽象概念であり、『科学』や『数学』で、因果関係の『真偽』を論ずるときのような、普遍的な判断基準に基づいた表現ではありません。

『精神世界』の『間違い』『正しい』は、厳密にいえば以下のような表現の方が妥当です。

(1)ある個人の価値感覚で判断し、都合が悪いことは『間違い』、都合の良いことが『正しい』と表現されることがある。
(2)ある人間社会において、大多数の人が都合が悪いと受け止めることは『間違い、都合が良いことと受け止められることが『正しい』と表現されることがある。

梅爺の知る限り、世界のどの言語も、この『科学』『数学』の『間違い、正しい』と、『精神世界』の普遍的な判断基準のない『間違い、正しい』を、別の語彙で表現しているものはありません。もちろん日本語においても区別がありません。

このため、人間社会の議論で、混乱、誤解が生じます。

トランプ大統領が、『共和党は正しい』『民主党は間違い』などと、臆面もなく発言し、それを熱狂的に支持するアメリカ国民が半数近くいるということは、大衆の『理性』などはあまりあてにならないことを示しているように見えます。

『単純な白黒論議』『耳に心地よいスローガン』などで、大衆が右往左往し、人間社会が動いていくとすれば、梅爺も心配になってきます。残念ながら、『日本はそうではない』と言えないような気がするからです。

梅爺がこのブログで採用した『間違った』は、社会の大半の人にとって『不都合な』という意味です。『科学』『数学』の普遍的な『真偽』の『偽』の意味ではありません。

言葉は、コミュニケーションの便利な手段ですが、『誤解のもと』にもなる要素をはらんでいますので、実に厄介です。

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2019年2月 1日 (金)

間違った動機を強いられる環境

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の82番目のタイトルは『The Power of Bad Incentives(間違った動機の力)』で、著者は脳科学者の『Sam Harris』です。

人間社会の中で、立場上『間違った動機』を強いられて行動してしまうことを危惧する内容が綴られています。

原文のタイトルよりは、文意を分かりやすく伝えるために、このブログのタイトルは『間違った動機を強いられる環境』と意訳しました。

『間違った動機』が、横行する典型的な場所として、エッセイの著者は『アメリカの刑務所』内で、囚人たちが『独自の社会』を構成している例を挙げています。

白人の若者が、罪を犯して刑務所送りになったとき、囚人たちの、暴力、虐待、レイプから身を守るために、若者はボスが仕切る『白人のグループ』へ仲間として加わることになるであろうと書いてあります。

刑務所内は、同じくボスが仕切る『黒人のグループ』、『ヒスパニックのグループ』があり、それらの『グループ』はお互いに、やくざ組織のような対立抗争を繰り返しています。確かに、この様な状況は、アメリカの映画やテレビドラマでよく見受けられる情景です。

アメリカ社会が抱える『人種差別』の問題が、皮肉なことに刑務所の中で、より顕著に、鮮明になっているということです。

日本の刑務所でも、囚人仲間に『ボス』と取り巻きの集団が存在し、新参者の囚人は、『ボス』に恭順の意を表さないと、嫌がらせを受けるというようなことがあるのかもしれませんが、アメリカの場合は『人種の対立』が背景にあるために、陰惨で深刻な状況になっています。

上記の白人の若者は、本来『人種差別主義者』ではなかったとしても、『刑務所』の環境では、それを行動の『動機』にするように強いられます。そうしないと、身の安全が保てないからです。

この様なことは、『刑務所』だけの話ではないというのが、エッセイの著者の危惧するところです。

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