« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »

2019年1月31日 (木)

江戸の諺『口車に乗る』(2)

『口車に乗る(乗せられる)』は、現在でも私たちが使う表現です。 

『諺臍の宿替』では、遊女を紹介する仲介業の男に、客がだまされて大金だけを盗られてしまうという『美人局(つつもたせ)』の小話が載っています。 

『落語』には、吉原の遊女や花魁(おいらん)に、『あっちが(わたしが)本当に心を許すのは、主様(あなた)だけ』などと囁かれて、のぼせあっがてしまう、田舎者や大店(おおたな)の放蕩若旦那が登場しますが、この本の小話もそれに類するものです。 

『色恋』や『金銭』に目がくらんで、冷静な判断が出来ずに、身を滅ぼしてしまう話は、古今東西後を絶ちません。それらの欲望は、人間の『精神世界』の『安泰を希求する本能』に強く働きかけるからでしょう。ある瞬間『理』で『情』が抑制できなくなってしまう典型的な例です。 

官僚が、それほど大金ではない『賄賂』を受け取って、罷免され一生を棒に振るニュースなどをみると、『どうしてこんな簡単な損得勘定の判断ができないのだろう』とあいた口がふさがらない印象を受けますが、これも、『理』が『情』に一瞬負けてしまう例なのでしょう。

江戸の人たちにとって、『車』は現代の私たちが抱く『人間が乗る便利なもの』ではなく、荷物を運ぶ『大八車(荷車)』であったはずです。

『風車』『水車』という表現がありますから、『車』は『くるくる回るもの』というイメージもあったと思いますが、一方『肩車』という表現もありますから『車輪』はなくても『ものを運ぶ手段』のイメージもあったのでしょう。

『口車』はこの後者の意味でつかわれているものと思います。慾得をくすぐるうまい話を持ちかけて、だます側にとって『思うつぼ』へ相手を運んでしまうという比喩なのでしょう。『口車』という言葉を思いついた人の語彙感覚が見事です。

話が少し逸れますが、梅爺は日本で何故人間を運ぶ車が、近世の『人力車』まで出現しなかったのだろうと不思議に思います。平安朝にあった『牛車』が、その後西欧のような『馬車』に進化せず、『駕籠』などという実に労力を要する非効率な手段に止まったのは何故だろうという疑問です。

街道の大半は、勾配のある舗装されない細い道であったということもあるでしょうが、『人間をモノなみに運ぶことは不敬』という考え方があったのかもしれません。それとも1000年以上にわたって、日本人は一人も思いつく知恵者は居なかったということなのでしょうか。

| | コメント (0)

2019年1月30日 (水)

江戸の諺『口車に乗る』(1)

『江戸のことわざ遊び(南和男著:平凡新書)』を読んでいます。

この本は、江戸末期から明治初期にかけて、ベストセラーになった『諺臍(へそ)の宿替(やどがえ):(一荷堂半水著、歌川芳梅挿絵)』を紹介した内容です。その時代に日本人が用いていた『諺』を知るのに格好の本です。

『臍の宿替』というのは、可笑しくて臍の位置が変わってしまうという表現で、これも当時の日本人に通用した『常用句』であったのでしょう。『背に腹は代えられぬ』などと同様、実に奇想天外ですが、見事な比喩です。

梅爺は、前に『梅爺閑話』で、『江戸いろはカルタ』『上方いろはカルタ』を紹介しました。

日本人の『精神世界』が歴史的にどのように醸成されてきたのかが梅爺の関心事の一つで、それをを推量するには、庶民に受け入れられていた『諺』を観てみるのが手っ取り早い方法と考えたからです。

『いろはカルタ』や『諺』で表現されている『諧謔』の心が、梅爺は大好きです。私たちの周辺には、『理』だけでは解決できない矛盾をはらむ事象(特に『精神世界』が絡む事象)が沢山ありますが、それをおおらかに受け容れて笑い飛ばしてしまう日本人の伝統的な『精神』を梅爺は日本人として誇りに思います。宗教や道徳が説く、杓子定規な『お説教』より、こちらの方が、人間や人間社会の本質を見事に洞察しているように思います。梅爺は『夏目漱石』が大好きですが、『諧謔』が作品のベースにあるからです。

梅爺はまだ詳しくあたったことがありませんが、『ユダヤのジョーク』『ロシアのジョーク』『アラブ人のジョーク』などを観てみれば、同じくその民族の『精神的伝統』を垣間見ることができるのでしょう。

『諺臍の宿替』は、とりあげた『諺』ごとに、落語風の小話が紹介され、『歌川芳梅』のしゃれた挿絵が添えられています。著者の『一荷堂半水』は、大阪の町人ですが、なかなかの才覚の持ち主です。

江戸時代は、木版刷りの本でしたが、明治期に入ってからは、西洋の印刷技術を利用した製本に変わったのではないでしょうか。

最初の『諺』は、『口車に乗る』です。

| | コメント (0)

2019年1月29日 (火)

『侏儒の言葉』考・・椎の葉(4)

『椎の葉』の文章の中ごろに、以下のこれまた難解な一節があります。

少なくとも生涯同一の歎(たん)を繰り返すことに倦(う)まないのは滑稽であると同時に不道徳である。(中略)
追記 不道徳とは過度の異名である。

このブログで梅爺が最初に使った『おかめ顔』の話をこれに当てはめれば、『おかめ顔』に生まれついた女性が、『もし絶世の美女に生まれていたら、きっと幸せだったに違いないのに、おかめ顔故に私の人生は不幸の連続だ』と嘆き続けるとしたら、それは『滑稽』で『不道徳』であるということになります。

『安泰を希求する本能』をもつ人間は、『安泰(理想)』と『安泰を阻むもの(現実)』の間で、右往左往しながら『生きていく』運命を背負います。

『絶世の美女(理想)』と『おかめ顔(現実)』も、この一例にすぎません。一生自分が『絶世の美女』に生まれつかなかった運命を呪いながら生きる女性も確かに居るでしょうが、多くの女性は『おかめ顔(現実)』を受け容れて、生きていこうとするに違いありません、その時でも『受け容れる行為』そのもにに『安泰』を求めますので、『絶世の美女』でも不幸な人生を送ったひとの例を取り上げて、『私は私で良かった』と自分に言い聞かせたりします。この様な人にとって『美人薄命』などという諺は、鬼に金棒になります。

更に『おかめ顔』でも賢い女性は、『おかめ顔』ならではの『愛嬌(あいきょう)』を武器に、したたかに生きていくに違いありません。表情のない『絶世の美女』よりは『愛嬌』たっぷりの『おかめ顔』の女性に男は魅力を感ずるに違いないからです。

自分ではコントロールできない『運命』を嘆いて、ネガティブに生きていくより、『運命』を受け容れ、それをさらに武器にして生きていく人は、『賢い』といえるでしょう。

嘆いてばかりいる人は『不道徳』かどうかは別にして、『滑稽』であるとは確かに言えるかもしれません。

人間は肉体的にも、精神的にも『個性的』であるという事実は、人間を非常に複雑な存在にしています。

したがって、人間を一律に『こういうものだ』と断ずることはできません。

『侏儒の言葉』が、『芥川龍之介』の『価値観』による『断言』に満ちているのは、『表現の自由』として受け容れるにしても、読者は自分の『価値観』を失わずに『読む』必要があります。

若いころの梅爺ではできなかった『読み方』が現在出来ることを幸せに思います。

| | コメント (0)

2019年1月28日 (月)

『侏儒の言葉』考・・椎の葉(3)

『椎の葉』という文章は、以下の難解で衝撃的な表現で始まります。

完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。

『他人が読む』ことを意識して書く文章では、暗黙のうちに筆者と読者が、『語彙』に関して、ほぼ似たような認識ををもつという前提が必要です。

筆者が独自の『造語』を使ったり、この『語彙』は読者に誤解を与えかねないと感じた時には、筆者の『定義』をまず提示しなければなりません。

しかし、これを厳密に実行すると、文章は煩雑になり、饒舌(じょうぜつ)になり、文章の『美』が失われることになりかねませんので、このバランスの差配は易しくありません。『梅爺閑話』を書きながら、梅爺が一番意を払うことがこのことです。

『梅爺閑話』を読まれた方から、『あなたが言っていることはおかしい』と反論をうけることがあり、よくうかがってみると『語彙』に対する解釈が、梅爺がが想定した解釈の範囲を大きく逸脱していることが判明することがよくあります。

『精神世界』が『個性的』であるために、筆者が思いもしなかった『啓発』を読者に喚起することがあると同時に、筆者が思いもしなかった『誤解』を読者に与えることもあります。『言葉』を使えば何でも正しく伝えられるという楽観は禁物です。

『椎の葉』の冒頭の文章では、『幸福』と『白痴』という『語彙』の解釈が問題になります。読者の誰もが、『芥川龍之介』と同じ解釈をするとは限りませんので、文章は難解になってしまいます。

梅爺の解釈では、『幸福』は、『精神世界』が創りだした相対的な抽象概念で、強いて付言すれば、自分の周囲の事象が『自分にとって都合がよい』と判断した時の『情感』の表現であるということになります。

したがって『完全に幸福になり得る』ことが、論理的にあるとすれば、自分の周囲の事象が、何から何まで『自分にとって都合がよい』状態ですから、現実にそのようなことはあり得ないと考えてしまいます。

しかし、確率的にそのように感ずる人が世の中にいないとは言えませんから、そういう人を『白痴』と呼ぶのが適切かどうかは、また別の問題になります。

それは、『能天気』や『聖人』と呼べる人かもしれないからです。『白痴』には蔑視の意図が込められますが、『聖人』なら敬意が込められることになります。

文章の解釈は多様に可能であり、筆者の思惑がそのまま読者に伝わるとは限りません。

| | コメント (0)

2019年1月27日 (日)

『侏儒の言葉』考・・椎の葉(2)

『侏儒の言葉』を読み始めた時は、大文豪の主張なので、梅爺のような凡人が見落としている『真実』が書かれているに違いないと、思いこんでいましたが、読み続けるうちに、どうもそれは勘違いであると気づきました。

考えてみれば、それは当然のことで、人間の『精神世界』は『個性的』ですから、『芥川龍之介』は『芥川龍之介』の『価値観』を表明しているということにすぎません。

『侏儒の言葉』が『物質世界』を対象とした『科学』を論じているのであれば、『個性的な価値観』は許されず『普遍的な真偽』を表現しなければなりませんが、『侏儒の言葉』が論じている内容は、すべて『精神世界』が関与する事柄ですので、『個性的な価値観』の表明は許されます。

しかし、『芥川龍之介』は、『あなたたち(読者)は、そう考えないかもしれませんが、私はこう考えます』と謙虚に書いているというよりは、『多分あなたたちは、浅薄な理解に止まっていると思いますが、真実はこうなのです』と、高飛車に『自分の主張が正しい』と言っている風情を強く感じます。

梅爺は、『芥が龍之介の価値観』『聖書の価値観』は『そういうことが言いたいのだな』と『侏儒の言葉』や『聖書』を客観的に読むひねくれ者ですが、『大文豪の著作』『神の言葉が書かれている聖書』であるから内容は『真実』であると、素直に思いこんで読まれる方も世の中にはおられるに違いありません。

『椎の葉』に話を戻せば、『おかめ顔はおかめ顔で、絶世の美人でなない』という主張も、『おかめ顔にはおかめ顔独自の美がある』という主張も、『どちらが正しい』かを競うものではないというのが、梅爺の考えです。

もっとはっきり言ってしまえば、どちらであっても、『自分はそう思う』という姿勢に止まる限り、それはそれで良いということです。

いずれにしても『椎の葉』のたとえ話で、『どちらが正しい』かを競い合ってみても、あまり益はありません。日本人は『蓼食う虫も好き好き』と、絶対的な価値観などないことを諧謔で笑い飛ばしてきています。

| | コメント (0)

2019年1月26日 (土)

『侏儒の言葉』考・・椎の葉(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『椎の葉』に関する感想です。

『椎の葉』は、梅爺にとっては非常に難解な文章です。中心的な主張は、以下の部分にあると思いますので、原文で紹介します。

「家にあれば笥(け)にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたつたばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。學者はこの椎の葉にさまざまの美名を與へるであらう。が、無遠慮に手に取つて見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。

冒頭の万葉集の『短歌』は、『家に居る時は、ちゃんとした器にごはんを盛って食べるものを、旅先では器がないので代わりに椎の葉に盛って食べることになる』という内容です。微笑ましい旅先の光景が目に浮かびますが、『芥川龍之介』にかかると、そうばかりとは言えないということになります。

『ありたい』ものは、『ちゃんとした器』であり、『あり得る』ものは、『代用の椎の葉』ということですから、本来は『ちゃんとした器』であって欲しいのに、現実にはそれがないので『椎の葉』で妥協するとは、人間が『願望(ありたいもの)』を抱きながら、『現実(あり得るもの』を止むなく受け容れて生きていることを意味することになります。

ありていに言ってしまえば、『おかめ顔』に生まれついた女性が、『絶世の美人』に生まれたかったと願いながら、『おかめ顔』で生きていかざるを得ないとあきらめるというようなことでしょう。『絶世の美人』が『笥(け)』であり、『おかめ顔』は『椎の葉』になります。

『学者がこの椎の葉にさまざまな美名を與へる』ということは、たとえば『美は相対的な概念で、個性には個性としての美がある』などという主張をすることを指し、『おかめ顔』も『美』であると強弁するようなことを思い浮かべれば理解できます。

しかし、『芥川龍之介』にかかると『無遠慮に手に取つて見れば、椎の葉はいつも椎の葉である』ということになりますので、『おかめ顔』は、どうみても『おかめ顔』以外の何物でもないというつれない話になります。

| | コメント (0)

2019年1月25日 (金)

科学がもたらす未来(4)

このエッセイの著者は、科学の成果を大幅に取り込んだ未来社会が、衰退または滅亡するかもしれない事態を、『ローマ帝国』の終焉に例えて、警告しています。

『ローマ帝国衰亡史』の著した18世紀のイギリスの歴史家『エドワード・ギボン』は、衰亡の理由として、『節度を越えて巨大化したものの衰退は、自然で避けられないこと』、『理性を欠いた野蛮な振る舞い、型にはまった宗教の教義の横行による社会の硬直』を挙げています。

これらの要因が、革新や新しい試みを求める知的な努力を阻害し、絶え間ない戦争による疲弊を招来し、さらに原理主義が台頭して、ヨーロッパは、次の時代である『暗黒時代』へ向かうことになったと『ギボン』は論じています。

このエッセイの著者は、これが『繰り返されることがないとは言えない』と危惧しています。

人々が、時代の大きなうねりに巻き込まれて、理性で自分を律することが出来なくなり、あれよあれよと波に呑み込まれてしまうことを心配しているのでしょう。

それほど人間は愚かではないと言いたいところですが、近世でも『ドイツのナチズム』『日本の軍国主義』『中国の文化大革命』など、国家レベルの狂信的な暴走がありました。このような場合には、一部の人の知性などは、抑制の力にはなりません。

暴力的に破壊尽くされた後に、人々は悪夢から覚めたように、理性で『過去を反省』しますが、『のど元過ぎれば熱さを忘れる』のたとえのように、再び違う狂信に翻弄されることを繰り返してきました。

過去の『狂信』は、主として『イデオロギー』的なものでしたが、今度は『科学がもたらすもの』が、人間の理性を麻痺させる要因になりかねないという警鐘です。

『判断』をすべて『人工知能』にゆだねて、人間が自ら『考えない』という事態は、自ら人間を放棄することであるという警告ならば、梅爺も同意できます。

人間が『主人』、『科学がもたらすもの』は『道具』であり『下僕』であるという、基本的な関係を常に意識する必要があるのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年1月24日 (木)

科学がもたらす未来(3)

このエッセイの著者や、多くの知識人が、『科学』の成果がもたらす未来を危惧しているのは、今までにもたらされた成果と、今後もたらされるであろう成果との間に、大きな違いがあると予感しているからです。

今までの成果は、一言でいえば『便利』『快適』な『道具』として、生活の中へ入り込んできました。少なくとも『道具』である以上、それを保有し利用する『人間』側が『主人』であり、『道具』は『下僕』でした。『人間』にとって都合が悪ければ、『道具』を使わないという意思を示せば良いことでした。

しかし、今後もたらされるであろう成果で、上記の『主人』と『下僕』の関係が維持できるかどうかを多くの人たちが危惧しています。

『科学』の成果は、すべて今まで通り『便利』『快適』であり続けると勘違いすることを危惧していることになります。

『人間の能力をはるかに凌駕する人工知能』が出現すると、『人間』は『人工知能』に頼らないと『生きていけない』ことになり、『主人』と『下僕』の関係は逆転します。これは『人工知能』が従来の『神』の座を奪うことのようにも見えます

『人間が生まれつき保有していた資質を、遺伝子操作で変えた新種の人類』が出現すると、今まで『人間』の本質的な特徴であった『個性』が消滅する恐れがあります。『個性』のない『人間』が構成する『人間社会』は、誰もが体験したことがない未知の世界です。その将来は繁栄へ向かうのか、絶滅へ向かうのか予測ができません。

すこし心配しすぎではないかと、ご批判があるかもしれませんが、いずれにしても『人間』の『理性』や『叡智』が、『科学がもたらす未来』を洞察して、不都合な事態を事前に避けることが出来るかどうかにかかっています。

『戦争』や『格差』の問題と並んで、『科学がもたらす未来』は、現在の人類の大きな課題であるという認識は必要でしょう。

こう考えると、現在の政治リーダーたちの『理性』や『叡智』のレベルは、大いに心もとないものであるように思えます。

| | コメント (0)

2019年1月23日 (水)

科学がもたらす未来(2)

『生命』は、『自然界(物質世界)』の中で出現し、『生命』を保有する『生物』は、『自然界』という環境の中で『生き』、その環境が創り出す時間の中で『進化』してきました。『生物進化』は、『科学の急速な進化』に比べれば、実にゆったりした『変容』です。

『自然界』が創り出す『環境』は、原則的には『循環』型で、夜昼や四季が繰り返されるものでした。

しかし、『自然界』にも、生物の視点で見ると突発的に大きな都合の悪い『変化』が起こることがあります。『地震』『津波』『台風』『大雨』『干ばつ』『火山噴火』『宇宙からの飛来物の衝突』などです。

『生物の視点で見ると』とことわったのは、『自然界(物質世界)』で起きている『変容』は、『摂理』に支配された『動的な平衡移行』にすぎず、ことさら『生物』や『人間』を困らせてやろうなどという『意図』は関与していないと申し上げたかったからです。

しかし、『環境の大きな変化』は、『生物』にとってはその生存にかかわる重大事件で、それに遭遇するたびに、その『環境』でも生きていける資質を偶然に手に入れた『個』が生き延び、その子孫を残して『種』は継承されてきました。『生物進化』と『環境変化』の深い関係がここにあります。

このことに関して、『人間』と他の『生物』の違いはありません。

中世以前の人類の歴史では、数世代の間、生活環境は『変わらない』などということは珍しくありませんでした。むしろ『自然界』からもたらされる『変化』よりは、『人間社会』が創り出す『権力者の交代』『異民族の来襲』などといった『変化』の方が、人々には大きなストレスであったかもしれません

現在私たちは、私たちの祖父母が想像もしなかった『生活環境』で生きていますが、このようなことは人類史のなかで『特異』なことです。

『科学』の成果がもたらした『生活変化』に、今までは『なんとか対応』できてきましたが、今後もたらされるであろう『変化』にも、対応できるかどうかは、『分からない』というのが、このエッセイの著者を始め、多くの知識人が警鐘を鳴らして危惧していることです。

| | コメント (0)

2019年1月22日 (火)

科学がもたらす未来(1)

『What should we be worried about ?(我々はなにを危惧すべきか』というオムニバス・エッセイ集の81番目のタイトルは、『Blown Opportunities(吹き飛ばされてしまう絶好の機会)』で著者は、MITのノーベル賞受賞物理学者『Frank Wilczek』です。

『吹き飛ばされてしまう絶好の機会』とは、『科学がもたらす素晴らしい世界(絶好の機会)』を、愚かな人類が、不幸な未来へ誘うことに利用してしまうことの危惧を示唆しているものです。

梅爺は、その文脈を受け止めて、ありきたりですが『科学がもたらす未来』というブログのタイトルにしました。

『科学の行き過ぎた進展は人類を滅亡に導く』というような論調は、この著者だけでなく、多くの人が唱える主張です。

これらが、『科学』を『悪者』にしようとすることが目的ならば、梅爺は必ずしも同意できませんが、『科学がもたらす成果を扱う人間側の知恵が足りずに、結果的に人類が不幸へ向かう』という『危惧』ならば同意できます。

『科学の成果を利用』することで、私たちの生活は、たった50年程度の間に激変しました。もちろん、人類の歴史の中で、この様な体験をしているのは私たちだけです。

『電磁気理論』『量子理論』などの基礎知識の応用が、『IT(情報通信処理技術)』を飛躍的に高度にし、私たちは遠隔地に居る知人と即座に交信をしたり、世界中の出来事を我が家で見聞したりできるようになりました。

『細胞』『代謝』『遺伝子』など生命にかかわる基礎知識や、『細菌』『ウィルス』などの知識は、私たちの健康を維持するための医療環境を一変させました。一昔前は『人生50年』でしたが、今では『人生80年』になっています。

さらに今後『科学』が何をもたらすのかは、具体的に予言することは容易ではありませんが、『更にとんでもないこと』が実現するであろう予感は誰もが持ち合わせています。

人間の能力をはるかに超えた『人工知能』、『遺伝子』操作で『変容』した『新種の人類』などの登場も、ないとは言えない時代になっています。

生物としての『人間(ヒト)』は、数十億年かけて、ゆっくり『進化』してきましたので、基本的な資質や能力は、数千年前の『人間』と私たちはほとんど変わりません。

それなのに、生活環境だけが、たった50年の間に激変しているわけですから、ミスマッチが起こるのは当然のことのように思います。

私たちは、本来『急速な変化』を受け容れる能力を持ち合わせず、その準備も出来ていないかもしれないということにほかなりません。

| | コメント (0)

2019年1月21日 (月)

愛着心、執着心(4)

『愛着心』と『執着心』を一緒に論じてきましたが、日本語の『愛着心』と『執着心』は、異なったニュアンスの言葉であることは承知しています。

『愛着』は、自分が『帰属』するもの、自分が『保有』する(したい)ものに『安堵』を求める情感で、『安泰を希求する本能』が背景にあると梅爺は考えます。

一方、『執着』は、自分が信ずる『価値観』や、自分が目指す『高み』にこだわる心です。もちろんこれも『精神世界』がもたらすものですから、『個性的』であり、人によって濃淡があります。

梅爺は、ほとんどのことに強い『こだわり』を持ちませんが、突然あることには、強くこだわったりしますから、そのこだわりだけが強調されて『頑固爺さん』などと呼ばれる羽目になります。人間の『精神世界』はダイナミックに『変容』しているにも関わらず、私たちはある局面だけを切り取って、他人を類型的に区別しようとします。その方が『分かりやすい』からですが、人間の『精神世界』はそのような単純なものではありません。

女性は『優しい男性が好き』などとおっしゃいますが、厳密に言うならばそのような『男性』は存在しません。そうおっしゃる『女性』も、ご自身がどんな場合でも『優しい』かどうかを考えてみれば、お分かりになる筈です。

人間は『個性的』なのですから、自分と同じ『価値観』の人や、どのような場合でも自分に都合よくふるまってくれる人を求めることには無理があります。『他人の異なった価値観の存在は認め、それに対して配慮ができる人』を、恋人や結婚相手に求めることをお薦めします。当然ご自身もそのような人間になろうと心掛ける必要があります。

自分が目指す『高み』にこだわるのも『執着』です。科学者は寝食を忘れて研究に没頭したり、芸術家やっスポーツ選手は究極のパフォーマンスを求めて日ごろの修練を怠りません。職人も、自分が理想と考える作品を求めて鍛錬を怠りません。

これも、より高いレベルに達した自分を思い描き、そこに『安堵』を求める心が背景にありますから、やはり『安泰を希求する本能』によるものであろうと梅爺は考えます。

これは人間の『精神世界』だけが関与する独特の行為です。犬や猫が研究に没頭したり、修練、鍛錬に明け暮れることはありません。

| | コメント (0)

2019年1月20日 (日)

愛着心、執着心(3)

『日の丸』や『君が代』は、過去の悲惨な戦争や『軍国主義』を想起させるものなので、学校の式典などで、掲揚したり、斉唱したりすることを拒む先生がいたりしますが、梅爺は『日の丸』や『君が代』で、日本が『軍国主義』へ逆戻りするなどとは思いません。

『愛国心』は人間の『精神世界』が無意識に引き起こす情感であるとすれば、それを素直に認めて、『絆』を確認する様式手段として『国旗』『国歌』が使われることも受け入れれば良いと考えています。

梅爺は『日の丸』のシンプルで洗練されたデザインも『好き』ですし、『君が代』の他国に例を見ない旋律構成(メロデー)も音楽として『好き』です。

確かに『君が代』の歌詞の内容は、『天皇』を神格化して仰ぐもので、『民主主義国:日本』の国歌として、不適切というご指摘も分かりますが、梅爺は『君が代』とは『天皇を象徴とする立憲民主主義国:日本』のことだと考えればよいではないかと、都合よく考えています。あの見事なメロデーを失いたくないというのがホンネです。

人間の『精神世界』は、必ず『愛着心』『執着心』を生み出すように出来ています。人間が『生きて』いることの証でもあります。『死』とともに『愛着心』『執着心』は消え去るからです。

何に『愛着心』『執着心』を持つかは、もちろん『精神世界』が『個性的』である以上、人によって異なります。

いいかえれば、何に『愛着心』『執着心』をもっているかを観れば、その人の『精神世界』の一端を垣間見ることが出来ます。

『男性』と『女性』で、対象とすることに違いがあるように見えるのも興味深いことです。『男性』は、何の役にも立たないものを集めたり、作ったりすることに情熱を燃やしますが、『女性』にはそのような傾向があまり見受けられません。

心理学者はこのことを『男性はロマンチスト』『女性はリアリスト』と表現したりしますが、この違いは、『生物進化』の中の役割分担で生じたものと考えられています。

これが本当であるとすれば、『男性』は『空想の中に安堵を求め』、『女性』は『現実の中に安堵を求め』ているということなのでしょう。

『外』へ出向き、新しい体験を強いられた『男性』と、『家』に止まり、毎日同じような生活で『家』を守る『女性』の習性がもたらしたという説がありますが、それだけの理由なのかどうか梅爺は良く理解できているわけではありません。

| | コメント (0)

2019年1月19日 (土)

愛着心、執着心(2)

私たちは『情感』で『深い絆』を感じる相手に対して『愛着』を覚えます。『血のつながり』はさらにその『愛着』を強固にします。

『夫婦』『親子』『兄弟姉妹』『祖父母と孫』『友人』『同級生』『趣味の仲間』『信仰の仲間』などが典型的な関係です。

しかし人間の『精神世界』は厄介で、『絆』が失われた、信頼が裏切られたと感ずると、その関係は、『愛着』から、逆に深い『憎悪』に転じてしまうことがあります。この場合ただの『憎悪』ではありませんので、悲劇は大きなものになります。

私たちは、帰属しているところ、かつて帰属していたところにも『愛着』を感じます。

『国』『育った市町村』『学校』『勤務組織(会社など)』『趣味のサークル』『信仰のサークル』などです。

『自分の存在が認めてもらえる(もらえた)ところ』として、『安堵』の気持ちが持てるからでなのしょう。

梅爺は『精神世界』の根元に『安泰を希求する本能』があるという『仮説』で、周囲の事象を眺め、『矛盾』が少ないと感じています。

『絆』や『帰属』に『愛着』を抱くのは、この本能によるものと考え得られます。本能ですから、誰かに『そうしなさい』と教えられなくても無意識に抱く情感です。

梅爺は自分の『愛国心』について考えてみて、それを一層強く実感しました。梅爺はかなり強い『愛国心』の持ち主で、世界の中で『日本』が何かの形で認められた時には、有頂天に喜びます。

梅爺は、敗戦後の『日本』で教育を受けましたから、それ以前の『軍国主義的な愛国心』を涵養(かんよう)する教育は受けていません。先生たちも『軍国主義』との関係を断つために、努めて『愛国心』には触れようとしなかったように思います。

そのような梅爺が、熱烈な『愛国者』なのですから、『愛国心』は、ことさら『道徳教育』を強化する必要などないと考えています。

『WBCの野球』『サッカーのワールドカップ』『オリンピック』などで、日本中の若者が熱狂しているのを観れば、『愛国心』教育など無用であることがよくわかります。

過去に『軍国主義』が『愛国心』を利用しただけで、『軍国主義』と『愛国心』はそもそも一体ではありませんから、どのような時代でも『愛国心』は存在します。本能に根ざす情感なのですから当然の話です。

| | コメント (0)

2019年1月18日 (金)

愛着心、執着心(1)

人は何かに『愛着心』『執着心』を抱きます。

多くの人は、『生きること』に『執着心』を強く抱き、苦痛や苦悩に耐えようとしますが、一部の人は、それが度を越すと、今度は『死にたい』と願うようになります。

『命は神から授かったもので、自ら命を絶つことは神のご意思に反する行為である』などと、宗教的な価値観で説諭してみても、『自殺願望』に執りつかれた人の心を翻させることが出来るとは限りません。

ストレスが多い社会で、『自殺』比率が高まるのは、このためですが、平穏な社会でも『自殺』をゼロにすることは困難です。

これは人間の『精神世界』は『個性的』で、ある特性に注目してグループ内の分布状況を眺めてみると『正規分布』しており、両端に必ず大多数の人たちとは異なった特性を保有する人がある比率で存在することになるからです。『精神世界』が『個性的』であることは、実に厄介な問題を招来します。

『いじめ』『差別や『犯罪』にも、同じことが言えます。

『自殺』『いじめ』『差別』『犯罪』の発生比率を、少なくするための社会的な施策は、大変重要ですが、それでも根絶することは困難です。『信仰』や『道徳』などで対応するにも限界があります。

『誰でもよいから殺したかった』などという凶悪犯の自供を聞いて、私たちは驚き、どうしてそのような『価値観』を抱くのかと眉をひそめますが、残念なことに『異常な価値観』を抱く人が出現することも、根絶は困難であるということになります。

『警察』や『裁判所』を持たない国家はないことが、この現実を示しています。

人間の『精神世界』は、崇高な世界を生み出すと同時に、おどろおどろしい世界も生み出す温床です。

『精神世界』の本質を直視し、理解する努力が求められるのはそのためです。『きれいごと』では済まされません。

『正規分布』の中で、誰もがある『偏り』を有しているのですが、多くの人はその『偏り』が小さいために自覚せず、自分は他人と同じく『正常』であると思っています。しかし、人間社会では極端に『偏った』人が必ず存在し、出現することを避けられません。

| | コメント (0)

2019年1月17日 (木)

『ハムラビ法典』とアメリカの独立宣言(6)

日本の歴史でも、社会の『共有された主観』が、短期間に覆されたことは、何度かあったに違いありません。

古くは『仏教の伝来』などがそれに当たると思いますが、近世では2度大きな体験をしています。

『明治維新』と、『第二次世界大戦の敗戦』です。

『明治維新』は徳川時代の『鎖国状態』から、一気に『西欧文明』を取り入れて、西欧列強へ『追いつけ、追い越せ』の『富国強兵』政策へ転じました。『士農工商』と言われていた時代から、殿様や武士を否定する社会体制に転じたわけですから、それまでの『共有された主観(価値観)』は否定され、新しい『共有された主観』の確立に明治政府は奔走したことになります。為政者が強引に『共有された主観』を変えた事例です。

明治政府が創りだそうとした『富国強兵』という新しい『共有された主観』は、やがて『軍国主義』へと変貌していき、『日本は神国、日本国民は天皇の赤子』『米英は鬼畜』というような過激な『神話』を信ずるようになっていきました。もちろん、当時も『理性』でものを考える人たちは、本心でこのようなことを『信じて』はいなかったでしょうが、それを主張することは『非国民』のそしりを受けることで、沈黙を強いられていたことになります。

しかし、『第二次世界大戦の敗戦』で、今度はその『神話』は否定され、進駐軍によって『民主主義』を受け容れるように強いられました。外部の力で『共有された主観』が変えられた事例です。

『共有された主観』を変えることは、その社会にとって『ショック』ですが、敗戦時の日本人は、意外にすんなり『民主主義』を受け容れました。多分敗戦で失ったものがあまりに大きく、立ち直りのきっかけに何か新しいものを本能的に欲していたのかもしれません。教育水準の高さも関係していると思います。この時の日本の変わりようは、世界を驚かせました。

『共有された主観』の代表的な例は、『宗教』です。現代アメリカ人の40%が『生物進化』を認めないというのも、典型的な例です。

しかし、『共有された主観』は、いかに根強く見えても、やがて何かの拍子で変貌することがないとは言えません。『パラダイム・シフト』はこのことを意味します。

梅爺が『偏屈爺さん』といわれるのは、やたらと『共有された主観』に、疑問を投げかけたりするからなのでしょう。しかし、これも梅爺の『個性』ですから、変えようがありません。

| | コメント (0)

2019年1月16日 (水)

『ハムラビ法典』とアメリカの『独立宣言』(5)

『サピエンス全史』を読んでいて、梅爺は、今まで気づかなかった重要な事柄を知りました。

それは、以下の三つの概念を区別する必要があるということです。

(1) 客観(Objective)
(2) 主観(Subjective)
(3) 共有された主観(Inter-Subjective)

『共有された主観』という概念が、『人間社会』では実に重要な事柄であることを認識できました。

『客観』と『主観』は、個人の『精神世界』のことを考えると、理解できます。最も『客観』に耐え得るものは、『物質世界』の『摂理』や数学の公理であると前に書きました。人類の全員が『明日は太陽は昇らない』と『信じ』ても、翌朝太陽は昇ってきます。『地震は起きないでほしい』と『願ったり』『祈ったり』しても、いつか地震は必ず起こります。たとえ人類が地球上から消え去っても、太陽は昇り、地震は起きます。『太陽の運行』『地震の発生』は、『客観』的な『摂理』がもらたすものであるからです。

しかし、人間の『精神世界』が、自由奔放に創り出す『架空の因果関係』や、『情』が絡んだ『価値観』。『抽象概念の表現』などは、ほとんど『客観』には耐えません。この様な『個性』が関与するものの観方が『主観』です。

アメリカの『独立宣言』で述べられている『人間は神によって平等に創られた』『人間は神から犯しがたい権利を賦与されている』『独立宣言に書かれていることは自明の真実である』などは、『主観』にすぎません。『サピエンス全史』の著者は、これらを『神話(Myth)』と呼んでします。

『サピエンス全史』の著者が、『人間は個性的であるように生物進化してきた』と表現していることの方がむしろ『客観』に近いもので、したがって人間は『平等』に創られたりはしていないと考える方が妥当です。自分の容貌、体格、能力を思い浮かべてみれば、それは誰でも分かる筈です。

人類の歴史の中で、多くの『神話』が創られ、継承されてきました。ここでいう『神話』は、『ギリシャ神話』『古事記に書かれた日本の神話』のことだけではなく、宗教の『教義』、『憲法』『法律』『独立宣言』、『イデオロギー』、『道徳』『倫理』『ことわざ』などを含みます。

何故これらの『神話』は、『客観』性を欠くにも関わらず、『人間社会』で根強い『慣性』をもって、継承されてきたのかを説明するキーワードが『共有された主観』です。

『精神世界』の『主観』で創りだされた『神話』は、やがて多くの人が『信ずる』ようになって、あたかも『客観』的な『事実』のように、『人間社会』に深く根付くことになります。これが『共有された主観』のパワーです。

個人の『主観』と、『人間社会』に存在する『共有された主観』は似て非なるものです。少数の個人が、『神による天地創造は客観に耐える表現ではない』といくら叫んでみても、大多数の人が『信じて』いる宗教の『教義』はびくともしません。

『人間社会』では『共有された主観』が、重要な意味を持つということが本質です。人間は『共有された主観』を『客観的な真実』と勘違いする習性が強いということです。

『共有された主観』が、否定されるのは、多くの人がそれを『信じなく』なるか、何らかの強制的な手段で、『信ずる』ことが出来なくなるかのいずれかの場合です。

| | コメント (0)

2019年1月15日 (火)

『ハムラビ法典』とアメリカの『独立宣言』(4)

『サピエンス全史』の著者は、梅爺と同じく『普遍的な真実』と言えるものは、科学の法則や数学の公理しかないという立場で論じています。

この視点で、昨日紹介した『独立宣言』を表現し直すと次にようになると書いています(以下は梅爺の拙訳)。

すべての人間は、個性的に進化(生物進化)を遂げてきた生物で、生まれながらにある属性を保有している。この属性は突然変異などで変わり得るものである。属性の中には『命(維持能力)』『安泰を望む本能』がある。これらのことは自明の真実である。

『サピエンス全史』の著者や梅爺は、『法』や『独立宣言』を意味のないものだと言っているのではありません。人間社会を効率よく、または統治者にとって都合よく運営するために、その社会の大半の人が受け容れる『約束事』として、『法』『憲法』『独立宣言』『倫理』『道徳』は必要であり、当然重要なものであることは論を俟(ま)ちません。

しかし、それは、人間の『精神世界』が創り出した、『価値観』を表現したものであり、『普遍的な真実』などと断言することは慎重を要するといっているだけです。

そのようなことに厳密にこだわることはないだろうと、言われそうですが、現代の人間社会を観ていると、『自分の価値観が絶対に正しい』と『信じて』、それを『信じない』人を『敵』とみなして、お互いに『非難し』『殺し合う』などという事態が後を絶たないからです。

『精神世界』は『人間』や『人間社会』にとって必要なものであるがゆえに、存在し、進化してきたものですが、そうであるからこそ『精神世界』の本質を多くの人が正しく理解してほしいと願っています。

『人間』は生物として『個性的』であることの宿命から逃れることはできません。『個性的』であることを認めたうえで、その集合体でる『人間社会』をどのように運営するかが問われ続けてきました。『異なったものを効率よく統率する』ことは基本的な矛盾であり、理想的な方法は見つかりそうにありません。手っ取り早い方法として『個性』を否定したり、抑制する統治様式が歴史の中で繰り返し出現しますが、長い目で見ると最後まで繁栄する例は多くはありません。

『民主主義』『自由経済主義』『資本主義』などは、その過程で考え出されてきた知恵ではありますが、これもまた人類の『理想郷』であるなどとは言えません。『色々問題はあるが、相対的にもっと良い方法が思い当たらない』ということで、多くの人が受け容れているだけのことです。

これらは『精神世界』を保有する『人間』だけに、意味がある『約束事』であることも知っておく必要があります。『物質世界』に『○○主義』などは存在しません。

| | コメント (0)

2019年1月14日 (月)

『ハムラビ法典』とアメリカの『独立宣言』(3)

『ハムラビ法典』では、国民は『上層階級』『平民階級』『奴隷階級』に区分けされていて、各階級の中では、『男』は『女』より価値が高いとされています。 

『ハムラビ法典』では、どの階級の人間が、どの階級の人間に対してどのような『犯罪行為』を行ったら、どのような処罰を受けるかが、詳細に書かれています。 

『上層階級』の『男』が、『平民階級』や『奴隷階級』の『女』を殺した時には、いずれも『罰金刑』が課せられますが、罰金の額は『平民階級』の方が『奴隷階級』より高いと差別されています。 

『上層階級』の『男』同士が、争って不当に相手を傷つけた場合は、犯人には同じ傷が処罰として与えられます。『目には目を、歯には歯を』という考え方が適用されています。 

バビロニア王国では、『階級』や『性別』による差別は『当然のこと』という社会通念が存在していたことになります。 

これに対して、1776年に、アメリカがイギリスからの『独立』を宣言したときに発布されたのが『独立宣言』です。全文は長い文章ですが『サピエンス全史』の著者は、重要な部分を以下のように要約しています。以下に梅爺の拙訳で紹介します。 

すべての人間は創造主(神)によって平等に創られていて、同じく創造主(神)から、誰も犯すことが出来ない権利が賦与されている。その権利の中には、『命』、『自由』、『幸福の追求』が含まれる。これらのことは我々にとって自明の真実である。 

『階級』や『性別』による『差別』を当然とする『ハムラビ法典』とは異なり、『独立宣言』では、『すべての人間は平等に創られている』という基本的な考えが述べられています。 

現代のアメリカ人は、古代のバビロニア人を『間違っている』と批判するに違いありませんが、古代のバビロニア人が、『独立宣言』を読んだら、逆にアメリカ人を『間違っている』と批判するに違いないと、『サピエンス全史』の著者は皮肉っぽく書いています。 

著者に言わせれば、両者ともに『間違っている』ということになります。なぜならば、『ハムラビ法典』も『独立宣言』も、人間の『精神世界』が創り出した『虚構』の価値観を肯定する立場で書かれているだけで、この内容を『普遍的な真実』とすることには無理があるからです。 

『福沢諭吉』は、『独立宣言』に啓発されて、『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』という名言を残しましたが、これも『普遍的な真実』とは言えません。

厳密にいえば、『普遍的な真実』と言えるものは、『物質世界(自然界)』を支配している『摂理(法則)』や、数学の提示する『公理』しかありません

| | コメント (0)

2019年1月13日 (日)

『ハムラビ法典』とアメリカの『独立宣言』(2)

『ハムラビ法典』は、紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典で、アッカド語が使用され、石柱に楔形文字で記されています。 

中東の広域を支配した『バビロニア王国』は、数万人規模の『軍隊(専従軍人)』を保有する国家でしたから、支配領域には数百万人の人たちが住んでいたものと思われます。 

七万年前、アフリカから世界各地へ拡散していったときの『ホモ・サピエンス』は、精々数十人から数百人の『集団(部族)』であったと推定すると、約4~五千年前に、人類は、巨大な『国家』『帝国』を構成するまでに『文明』を進化させていたことになります。 

これを可能にしたのが、七万年前ころの『認識革命』であったと『サピエンス全史』の著者は考えています。抽象概念を他人と共有できる能力が、人類の『脳』の最大の特徴になったということです。 

『神(神々)』『法』『貨幣』『国家』などという概念は、いずれも『認識革命』があって初めて可能になる抽象概念です。

『ホモ・サピエンス』がその後、地球上でもっとも『賢く』、もっとも『獰猛な』生物となり、人口を増やし続けることができたのは、『認識革命』のおかげです。

生物の個体としては、必ずしも『強く』ない『人間』が、『道具』を駆使し、同じ目的をもって集団で行動することで、巨大で強い動物を次々に絶滅に追いやりました。

一方抽象的な認識能力は、『味方』『敵』という区分けを創り出し、人間同士陰惨な殺し合いをすることにもなりました。これほどグループ間の殺し合いを大規模に、徹底して行う生物は、皮肉なことに居ません。

この習性は現代の人類にまで継承されています。

『ハムラビ法典』は、ハムラビ王が、神殿に祀る3体の『神々』から、託宣を受け、策定したと序文に書かれています。『神々』との直接的な関係を、『権威』として利用するのも、人間の『精神世界』の特徴です。

『ユダヤ教』の『モーゼ』、キリスト教の『キリスト』、『イスラム教』の『ムハンマド』も、同じく『神』との特別な関係が『権威』の源になtっています。

| | コメント (0)

2019年1月12日 (土)

『ハムラビ法典』とアメリカの『独立宣言』(1)

『サピエンス全史』という本を読み進めながら、梅爺は喜びの歓声を挙げています。

梅爺は、ブログを書き続ける中で、『人間』や『人間社会』を理解するには、『物質世界』『精神世界』の関係を理解することが、最重要と何度も何度も書いてきました。

『サピエンス全史』という本は、『物質世界』『精神世界』という言葉は用いていませんが、主張している内容は、梅爺が言いたいこととほぼ同じです。

梅爺が歓声を挙げているのは、この世に少なくとも梅爺とほぼ同じ考え方の人が存在することを知った喜びです。大袈裟にいえば、この著者に遭遇するまで『生きていてよかった』ということです。

梅爺のブログは、読者も限定されており、『屁理屈が多い偏屈爺さんのブログ』と受け止められている節があり、『難しい、面白くない』といわれることがあっても、それ以上の良いご評価はなかなかいただけませんので、そう云うものだと観念しながら、それでも『生きている証』としてこのスタイルは変えないぞと、意地になって書き続けています。

『物質世界』と『精神世界』に区分けして、周囲の事象を眺めると、今まで漠然として理解できなかったことが、絡まった糸玉をほぐすように、判然と見えてきます。

この体験をブログの読者にも味わってもらいたいと、色々手を尽くしてきましたが、表現能力が稚拙なために、なかなか思うようには意図が伝わりません。

しかし、『サピエンス全史』の著者(イスラエルの大学教授)は、見事な事例でこれを分かりやすく説明しています。

人類史に初めて登場した法典である『ハムラビ法典』と、近世アメリカが独立した時に発布した『独立宣言』を題材にして、これらがいずれも人間の『精神世界』が創り出した虚構の『価値観』に基づいた内容であることを指摘しています。

多くのアメリカ人は、少し前の日本の『教育勅語』のように、幼少期から学校で暗記するまで『独立宣言』を教えられていますから、『金科玉条』にこの内容は『正しい』『真実』と、思いこんでいますが、『そうではない』ことをこの本は指摘しています。

梅爺流に表現すれば、人間の『精神世界』が創り出した虚構の『因果関係』に基づく『価値観』ということになりますが、『サピエンス全史』では『Imagined Code(想像で作られた規律)』という表現になります。

| | コメント (0)

2019年1月11日 (金)

文明の進歩は人類を幸せにしたのか(5)

文明の進歩とともに、人類は『物質世界(自然界)』に存在する素材や、『物質世界』を支配する『摂理』を応用して、『物質世界』には元々存在しなかった『人工物』を創り出し、それを『道具』として利用してきました。

『石器』『土器』に始まり、野生の植物を品種改良した『麦』『米』『野菜』『果実』、野生の動物を品種改良した『家畜』、『農機具』『大工道具』『縫製道具』『調理道具』『印刷道具』『医療道具、薬』『家庭電化製品』『メディア配信製品(映画、テレビ・ラジオ)』『各種乗り物』『上下水道』『電力ネットワーク』『通信ネットワーク』『コンピュータ』など、私たちの周辺はこれらの『道具』で満ちています。

中には『大量殺りく兵器』などという、おどろおどろしいものもあります。

他の生物は、『物質世界』に存在するものを、ありのまま『利用』するに止まっているのに対し、人類はありのままの『物質世界』から『人工物』を創り出し、それを加えて拡大した『物質世界』の中で生きていますから、その意味で地球上に存在する生物のトップに君臨していると言っても過言ではないでしょう。

人類が地球資源を、独り占めで利用していることに対して、他の生物から『抗議』を受けることもありませんので、それを『当然』のここと、思いあがってしまっているようにも思えます。

従来、『人間』と『道具』の関係は、『主人』と『家来』の関係であり、あくまでも『道具』を使う『人間』側に主体性がありました。

ところが、『情報革命』以降、この関係が曖昧になり始め、中には『人間』が『家来』、『道具』が『主人』という、逆の関係も生じ始めています。『道具』が主体的に判断し、『人間』がそれを無条件に受け入れて従うという関係です。

高度な『IT(情報通信処理技術)』が、ある面で『人間』では太刀打ちできない『能力』を発揮するようになったからです。『人工知能』などがその典型ですが、さらに将来あらゆる面で『人間』が太刀打ちできないこのになり、さらに『道具』が自分で勝手に進化して、全く『人間』の手に届かぬ存在になってしまうという可能性も秘めています。

『道具』は『人間』に『快適、便利』をもたらすののという視点だけで観ていると、この『関係の逆転』は気付きにくいものかもしれません。

しかし、『道具』が主体性をもつということは、『道具』によって『人間』が滅ぼされてしまう可能性もありますから、『快適、便利』なら良いと能天気に受け容れていることは危険です。

『人工知能』『人間の遺伝子操作』などに、人間社会としてどのように対応していくかは、『情報革命』という新しい『文明』の時代に生きる人間に課せられた大きな課題です。『生物』としての『人間』と、人工的な『道具』や遺伝子操作した人工的な『資質』を合体させた、『新種の人類(サイボーグ)』が登場し、従来の『生物』としての『人種』は存在しなくなると、未来を予言する人たちもいますが、全く荒唐無稽として笑ってすまされないことです。

『人間』は、『道具』に対して必ず主体性を保持することを堅持するかどうかがカギのように思います。

『文明の進歩は人類を幸せにするか』という設問は、今こそ真剣に考えなければならない事態なのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年1月10日 (木)

文明の進歩は人類を幸せにしたのか(4)

『農耕革命』『産業革命』『情報革命』を経る中で、相対的に人類の生活は、物質的に豊かになり、便利で効率よくもなりました。

しかし、社会の中に『階級』が生まれ、『格差』も生じました。

『民主主義』で『基本的人権』を認めようとするのは、『格差』を解消するためではなく、『格差』に最低限の歯止めをかけるための知恵です。

『アメリカンドリーム』を、アメリカが『自由を尊重する国家』であることの代名詞のように唱える人がいますが、おかしな話です。成功することが極めて難しい社会であることを、『誰にも機会は解放されている』という詭弁で隠蔽するためにに頭のいい人が考え出した言葉のような気がします。多くの人が、まんべんなく成功できるなら『アメリカンドリーム』などという言葉は不要です。

人間は、生まれながらの能力差を含め、肉体的にも精神的にも個性的であることが宿命づけられています。つまり、『平等』には創られていないからこそ、人間社会では『平等』という抽象概念が生まれました。『平等』でないからこそ、『平等』の概念が必要であるという関係を、正しく理解している人は多くはありません。『平等』『自由』は『正しい』と皮相な理解に止まっています。

人間社会には、必ず『格差』があり、その『格差』を利用して経済行為などは行われています。『入学試験』『入社試験』『オーディション』が存在することもその証です。『格差のない社会』などと、叫ぶ政治家を梅爺は信用しません。

人間社会が約束事として考えなければならないのは、『行き過ぎた格差』に歯止めをかけることだけです。

文明の進歩でその都度深刻な『格差』が生じました。『格差』は『勝者』と『敗者』を明確にし、『敗者』の鬱積した不満が、社会を覆す要因になることを『勝者』は恐れます。

誰も自分が『敗者』であることを認めたくはありませんから、『自分は勝者ではないが敗者でもない』と考えて自分を納得させようとします。このため、現代社会では『中産階級』という概念が重要になります。日本人の大半は『自分は中産階級に属している』と考えています。政治リーダーも『中産階級』を利用して、社会の混乱要因を抑止しようとします。

| | コメント (0)

2019年1月 9日 (水)

文明の進歩は人類を幸せにしたのか(3)

7万年前の『認識革命』で、人類は、他の生物には類をみないものを生み出しました。『宗教』と『芸術』です。 

もちろん、当時の人類は、それを現代人のような意味で『宗教』『芸術』と区分けしていたわけではありません。 

自分たちが『生きている』ことと、周囲の『自然(現象)』とは無関係ではないらしいと『認識』し、『自然』に秘められているように『認識』できる『摩訶不思議な力』の背後に『神』『霊』が宿ると、抽象的な『因果関係』を考え出しました。 

『シャーマン』を介して『神』や『霊』の真意を聞きだそうとし、自分たちに不都合な事態を招来しないように『神』や『霊』に『祈る』ようになりました。 

これらの基本的なパターンは、現代の『宗教』にも継承されています。 

しかし、当時の人類にとって、『神』や『霊』と関わることは、生活のすべてであり、グループの『絆』の根源でした。現代は生活の一部に『宗教』は後退しています。たとえば『宗教』と『政治』は切り離すべきという考え方が、多くの国家で約束事になっています。 

『芸術』の原点となった行為も、『精神世界』を何らかの形式で『表現』したいという、本能的な欲求から生まれたものでしょう。『自分の存在を認めてもらいたい』『仲間と情感を共有したい』などという『精神世界』の欲求が、『歌う』『踊る』『楽器で演奏する』『造形する』『描く』という形式的な行為を、ごく自然に生み出していったのではないでしょうか。もちろん当時の人々は、これが『芸術』であるなどとは考えていませんでした。 

最初の『芸術』は『宗教』と密接に関係したもので合ったはずですが、やがて自分の『精神世界』を満たすための行為として独立した意味を持つようにもなったのでしょう。 

古代人が洞窟内に残した壁画の真の『意味』は、私たちには分かりません。『精神世界』が関与しているらしいと推測するだけに止まります。 

人間にとって、『肉体的に生きる』ことと、『精神世界の欲求を満たしながら生きる』ということは両輪で、両方合わせて『生きる』ということになります。災害の復興時のような過酷な環境で、『歌』が『生きる』勇気を喚起するのは、『歌』は空腹を満たしませんが、心を満たすからです。 

このことは、『認識革命』後の人類にすべて共通です。

『宗教』や『芸術』が、『精神世界の欲求を満たす』ことに関与することはたしかですが、『宗教』や『芸術』と無縁であると思っている人も、誰もがこの『欲求』を保有しています。そして、その欲求を無意識に満たそうと『精神世界』は活動しています。

物質的に豊かな生活は、必ずしも精神的に豊かな生活ではありません。

『衣食足りて礼節を知る』と言いますから、二つの『豊かさ』は無縁ではありませんが、一体でもありません。精神的な『豊かさ』が少ない人の『幸せ』は造花のようなもので、本物ではありません。

| | コメント (0)

2019年1月 8日 (火)

文明の進化は人類を幸せにしたのか(2)

自然の動植物を採取して、食料にしていた時代の人類は、『農耕革命』後の人類より、一日の就労時間が短く、労力として費やしたエネルギーも少なかったから『幸せであった』とは言えません。

ただ、『農耕革命』後の人類は、空腹に怯えることがなくなったとはいえ、同じ素材だけを食べる機会が増え、栄養素に偏りが生じ、採取時代の人類より、健康的ではなくなったというのは、面白い指摘です。赤ん坊が母乳以外のもので育てられるようになって、免疫力が落ちたという指摘も同じです。

人間の『命』を維持するために、必要な栄養素は何かという知識や免疫に関する知識は、近世以降の人類が科学知識として得たものですから、それ以前の人類は、経験則で何らかの知恵を持っていたとはいえ、バランスのとれた食材などということに深く思いが至らなかったのは仕方がないことです。空腹さへしのげば、生きていけると考えたとしてもおかしくありません。

『人類の幸せ』を論ずることも、易しいことではありません。

『幸せ』は、『精神世界』の抽象的な価値観であり、さらに『精神世界』は個性的なのですから、普遍的に『幸せ』を定義することが出来ないからです。

極端な場合、ある人にとって『幸せ』は、他の人には『不幸』であることもあり得ます。

『ブータン』が、『国民総幸福度』を最優先にする政治を行っているということで、注目を浴びていますが、『私は現状を幸せと思います』と答える国民の比率を高めることを指標にしています。

北朝鮮の人たちの大半は、洗脳されているか、それとも恐怖政治に怯えて、『私は現状を幸せと思います』と答えるのでないかと思いますので、北朝鮮は『国民総幸福度』が極めて高い国であるという、皮肉な言い方もできます。

『文明』が進化するにつれて、人間の生活環境は、より複雑になり、対応するために要求される『知識』の量も増えますから、『精神世界』のストレスが増えることは確かなことでしょう。

物質的には、豊かで快適な環境になる一方、精神的にはストレスが増える環境になるということです。

江戸時代の日本人には、『鬱病』などという症状をていする人はほとんどいなかったと言われています。

『産業革命』『情報革命』は、ものすごいストレスを人間の『精神世界』に課しているということにもなります。

ストレスが増えることは『不幸』というなら、『文明』は明らかに『不幸』の種をまき散らしているという表現も可能になります。

| | コメント (0)

2019年1月 7日 (月)

文明の進化は人類を幸せにしたのか(1)

『サピエンス全史』という本を読んでいると、色々啓発されることがあります。

『文明の進化は人類を幸せにしたのか』ということを、考え直すきっかけもその一つです。

『文明の進化(進展)』は、人類の生き方の多様性を生み出し、生活を豊かにし、何よりも人口が増え続けていることが『成功』の証であろうと、それ以上のことをあまり深く考えずに過ごしてきましたが、『サピエンス全史』という本には、『文明の進化』の短所が指摘されていて、『なるほど』と考えさせられます。

物事は、必ず長所と短所が表裏一体であると考えれば、今まで『文明の進化』の短所を考えなかったのは迂闊でした。

『サピエンス全史』では、人類(ホモ・サピエンス)の『文明の進化』の節目を『認識革命』『農耕革命』『産業革命』『情報革命』としています。

『認識革命』は、約7万年前の出来事で、『精神世界』が『抽象概念』を認識し、それを仲間で共有して『絆』を強化したことを意味します。

人類の進化については、『2足歩行するようになった』『道具を作って利用するようになった』『火を利用できるようになった』などという、表面的な『行為』が、重要な要因であると教えられてきましたが、目に見えない『精神世界』の機能の進化が、実はそれ以上に重要であると指摘されて、梅爺は大変啓発されました。

生物として『人間』の特徴の多くは、高度な『精神世界』を保有していることに依存していますから、この視点で見直すことは意味があります。

『サピエンス全史』では、まず『農耕革命』の短所を次のように指摘しています。

(1)人間の平均的な労働負担が増えた。1日の就労時間が増え、労働の内容もよりエネルギーが必要になった。
(2)摂取する栄養素に偏りが生じ、病気になる可能性が高くなった。
(3)人間が『小麦』や『米』を野生の植物から人工的な『植物』に変えたが、そのことは逆に人間が『小麦』『米』の『家畜』になってしまったともいえる。

人間が『小麦』『米』の『家畜』になってしまったという表現は、分かりにくいと思いますが、生物種として、『小麦』『米』が地球上で野生のときより多量に繁茂するようになり、その子孫繁栄を確実にするために、人間が『種まきし』『耕し』『肥料を与え』『水を与え』『雑草を抜き』といった、献身的な行為でそれを支えていることを意味します。

この短所をもって、『人間の幸せが損なわれた』と結論付けるのは短絡しすぎですが、『農耕革命』の本質を理解するために、知っておく必要があります

| | コメント (0)

2019年1月 6日 (日)

古代人の『精神世界』(6)

『ネアンデルタール人』は、約3万年前に絶滅しました。ところが、最近ヨーロッパ、西アジア系の人種の人たちの遺伝子の中に、数%の『ネアンデルタール人』の遺伝子が継承されているという科学的な報告がなされ、議論を呼んでいます。

『ホモ・サピエンス(現生人種)』や『ネアンデルタール人』の、遺伝子配列(ゲノム)が、科学的に解析可能な時代になって、初めて判明したことですから、信憑性が高いとすれば、これは、『ホモ・サピエンス』と『ネアンデルタール人』の間に『交雑』があったことを示しています。

『ナンデルタール人』は、肌の色が白く、髪はブロンドであったと言われていますので、『ホモ・サピエンス』の『コーカソイド(白人種)』に、『ネアンデルタール人』の遺伝子が伝わっているという話は、あり得ることのような気がします。

日本でも、現在の『日本人』の中に、10%程度の『縄文人』の遺伝子が継承されていると言われています。このことは先住の『縄文人』と、後に渡来し、農耕文化、鉄器文化で日本を席巻した『弥生人』との間に、『交雑』があったことを示しています。

『縄文人』『弥生人』ともに、『ホモ・サピエンス』種ですから、『交雑』で、子供が生まれ、その子供もまた、正常な『生殖能力』を保有していて、現代『日本人』の遺伝子の中に『縄文人』の遺伝子があることは不思議なことではありません。

ただ、『縄文人』と『弥生人』は、『敵対関係』『支配関係(弥生人が縄文人を支配)』『共存関係』のいずれの関係であったのかは、分かっていません。多分、場所や時代によって、どの関係も存在したのではないでしょうか。いずれにしても『交雑』があったことだけは、科学的に立証されているということです。

ところが、『ネアンデルタール人』と『ホモ・サピエンス』は人類種としては、異なっていますので、『交雑』で子供が生まれても、その子供は『生殖能力』を持たないのではないかと推察できます。『ライオン』と『トラ』の『合いの子』、『馬』と『ロバ』の『合いの子』は、一代限りでそれ以上の子孫を残せません。

しかし、現代の『ホモ・サピエンス』の中に『ネアンデルタール人』の遺伝子が一部継承されているということは、『合いの子』の一部に、『生殖能力』を保有する者も存在したことを示唆しています。種の違いといっても、非常に近い関係ならそのような可能性があるのかもしれません。

『ホモ・サピエンス』のグループによって、『精神文化』『言語』に違いがあり、『好戦的なグループ』『平和的なグループ』と色々なグループがあったに違いありません。

したがって、『ホモ・サピエンス』と『ネアンデルタール人』の関係は一律ではなく、色々な関係があったと想像するのが自然です。ただ結果的に、全体としては『ネアンデルタール人』の純粋種は絶滅してしまったということなのでしょう。

| | コメント (0)

2019年1月 5日 (土)

古代人の『精神世界』(5)

『ホモ・サピエンス』が『ネアンデルタール人』を絶滅に追いやったのは、前者が『宗教』を保有し、後者が保有していなかったからである、というような説明を前に聞いて、その時はあまりピンときませんでした。

それよりも『食料』や『水資源』を奪い合うという、『生きる』ことに直結した動機の方が原因としては可能性が高いと感じました。

しかし、『サピエンス全史』を読んで、『認識革命』の意味を知り、『そういうことか』と理解が出来ました。

つまり、『宗教』故に、せん滅が行われたのではなく、『宗教』を保有するレベルにまで、『ホモ・サピエンス』の『精神世界』が進化していたために、せん滅が行われたと考えれば納得がいきます。

抽象概念を共有できるということは、『言葉』の表現能力も、『ホモ・サピエンス』が『ネアンデルタール人』を圧倒していたことが推測できます。

『個』の体格や体力で勝っていたと考えられる『ネアンデルタール人』が、『目的』や『戦術』を共有してグループで行動する『ホモ・サピエンス』に勝てなかったのは当然のことです。

このことは、最初の『人類』は、『捕獲者』ではなく強い動物に『捕獲され食べられてしまう立場の者』であったことを考えると、よく分かります。人類は『捕獲される』危険に怯えながら、ビクビク生きていたということです。

しかし、『認識革命』で、『ホモ・サピエンス』は、『捕獲される側』から『捕獲する側』へ立場を逆転することに成功しましたた。『目的』や『戦術』を共有し、進化した『武器』を使って結束して行動することで、巨大で強い動物を、『捕獲』できるようになったからです。

このことは、『地球』上でもっとも獰猛な生物に『ホモ・サピエンス』が変貌したことを意味します。

『マンモス』の絶滅は、『地球』の気候変動だけでなく、『ホモ・サピエンス』との遭遇も一つに原因と考えられています。

『ホモ・サピエンス』が初めて進出した直後に、『オーストラリア大陸』『南北アメリカ大陸』では、そこに生息していた、巨大動物の大半が『絶滅』しています。『オーストラリア大陸』の『有袋類ライオン』や、『アメリカ大陸』の『巨大ナマケモノ(身の丈6メートル、体重8トン)』を、今では見ることができません。

『アフリカ』や『アジア』には、まだ獰猛な猛獣が残っているのは、『人類』と『動物』が長い時間をかけて、共に『進化』した時代があったからと言われています。『動物』側も、次第に獰猛化した『人類』に対応する『知恵』を身につけていったからというわけです。

獰猛な『人類』を知らなかった、『オーストラリア大陸』『アメリカ大陸』の巨大動物たちは、対応する知恵を持たないゆえに、簡単に絶滅に追い込まれたと想定できます。

『ガラパゴス諸島』に、近世になって初めて『人間』が入ったとき、動物たちは全く『人間』を警戒する様子がなかったと言われています。

| | コメント (0)

2019年1月 4日 (金)

古代人の『精神世界』(4)

『サピエンス全史』の著者は、『ホモ・サピエンス』がアフリカから世界各地へ拡散を開始した7万年前頃に、抽象概念を認識し、その価値観を共有する資質を確立したと推定し、これを『認識革命』と呼んでいます。

梅爺流に観れば、私たち現代人の『精神世界』に近い状態を先祖の『ホモ・サピエンス』が保有することになったことを意味します。

人類の文明史を論ずるときに、以下の『革命』をエポック・メーキングな出来事とするのは、定説になっています。

『農耕革命』・・3万年前、トルコ、中近東周辺で始まる。
『産業革命』・・18世紀半ばから19世紀にかけて、イギリスで始まる。
『情報革命』・・20世紀後半、アメリカや先進国で始まる。

これらに先だって、『精神世界(脳)』の『認識革命』があったとする、主張は新鮮で説得力があります。人間を『精神世界』の視点で理解することが大切と、何度もブログに書いてきた梅爺は、『精神世界』の視点で『文明史』を観るということに共感を覚えます。

『精神世界』の基盤に、『安泰を希求する本能』があるというのが、梅爺の『仮説』です。『個』の生き残り、『種』の世代継続に、この本能は必要であるからです。この本能は、人類が人類になる前の先祖の生物から、生物進化の過程の中で継承してきたものと推察しています。したがって、『安泰を希求する本能』は、人間だけでなく、多くの生物種に共通する本能です。

私たちの周囲の事象が、『安泰』を強固にしてくれるものか、それとも『安泰』を脅かすものかどうかを、まずこの本能が先行して判断しようとします。

強固にしてくれると判断した時には、対応するホルモンが脳内に分泌され、私たちは『愉快』『嬉しい』『楽しい』と感じます。『笑顔』はそれを表現する行為です。

一方脅かされたと判断して時には、これまた対応するホルモンが分泌され、私たちは『不愉快』『困った』『苦しい』『悲しい』と感じます。顔の表情も変わり、『笑顔』は消えうせます。

『不可思議』に見える事象に遭遇すると、なんとか『因果関係』を創造(想像)して、自分を納得させようとします。『分からない』として放置することは、『安泰を希求する本能』が、『不安』を喚起するからです。『因果関係』の創造は、『抽象概念』や『虚構の論理』を生み出すことになります。

これが『認識革命』の本質です。

自然の中に、私たちの命を司る『神々(精霊)』が存在するという『宗教』の原点である『アミニズム』が『虚構』として考え出され、『神々』と交流できる特殊能力を持つとされる『シャーマン』が、部族の中の重要な役割を果たし始めます。『シャーマン』の祭祀は、『政治』の原点でもあります。日本では、今でも『政治』を『まつりごと』と表現しています。

『ホモ・サピエンス』は、『神(精霊)』などという抽象概念を理解し、共有してそれを一族の『絆』として結束を固めました。また同じ『神』を認める他の部族は、『味方』として、同盟関係を結び、それ以外の『敵』に共同で立ち向かうようにもなりました。

部族間の『物々交換』などという行為は、お互いに『価値観』という抽象概念を共有しなければできないことです。古代人が想像以上に遠方の他の部族と、『物々交換』していた証拠が、考古学の発掘で確認されています。

『認識革命』で、『ホモ・サピエンス』が圧倒的に進んだ『精神世界』を保有していたとしたら、それで劣る『ネアンデルタール人』を圧倒したことは容易に推測できます。

『個』では体格や、腕力で勝っていたと思われる『ネアンデルタール人』が、『ホモ・サピエンス』にかなわなかった理由が見えてきます。

| | コメント (0)

2019年1月 3日 (木)

古代人の『精神世界』(3)

ヨーロッパや西アジアで、遭遇した時『ネアンデルタール人』も『ホモ・サピエンス』も、自然の動植物を食料として採取する生活様式でした。原則的には、食料を求めて移動しながら生活していました。数十人単位で一族を形成していたものと考えられます。

季節によって、どこにどの食料源があるかは、経験で認識していたはずですから、一族の『縄張り領域』を設定して、その中で移動していたということでしょう。縄文時代の日本も同じ状況ではないでしょうか。

5~6万年前の地球上の人類の人口は、精々数万人程度ですから、自然の恵みが豊かな地方では、『縄張り領域』を設定すれば、お互いに干渉することなく、生活圏は確保できたはずです。縄文時代の日本が比較的平和な世界であったと想定される所以(ゆえん)でもありあす。

もちろん、地球の気候変動で、食料の採取が非常に難しくなった時には、食料源をめぐって部族同士の『闘争』が全くなかったとは言えません。

もし『ホモ・サピエンス』は『ネアンデルタール人』を徹底絶滅に追いやったとしたら、それは単に食料源や水資源をめぐる『闘争』というよりも、精神的に相手を『敵』とみなす、他の要因があったのではないかということになります。

『ローマ帝国』が『カルタゴ』をせん滅に追いやり、『ナチスドイツ』が『ユダヤ人』を抹殺しようとしたように、相手を『邪悪な存在(敵)』とみなす価値観を共有する習性を『ホモ・サピエンス』は保有しています。人種間対立、宗教間対立も同じ構図です。

これは、出会いがしらの単なる『闘争』より根が深く、『徹底せん滅』という陰湿な結果を招来します。

『敵』といった抽象概念を認識し、それを共有する行為は、まさしく人間の『精神世界』の特徴的な習性ですから、『ホモ・サピエンス』がすでに、この習性を保有していたとしたら、『ネアンデルタール人』を『絶滅』に追いやったのは、そのためと考えられます。

『サピエンス全史』という本では、『ホモ・サピエンス』がアフリカを出た七万年くらい前に、この抽象概念を認識、保有しはじめたと推測し、これを『認識革命』と呼んでいます。

| | コメント (0)

2019年1月 2日 (水)

古代人の『精神世界』(2)

私たち現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史の長さは、約17万年です。 

138億年前に『宇宙』が誕生し、45億年前に『地球』が誕生したことを考えると、17万年は、ほんの一瞬すぎない短い期間です。 

現生人類の先祖である最初の人類が、『地球』上に登場したのは、約600万年前です。600万年にしても、『宇宙』や『地球』の歴史に比べれば、極めて短い期間です。 

『宇宙』や『地球』の歴史の中で、ほとんどの期間『人類』は存在していなかったということです。『天地創造』以来、人間がずっと存在し続けてきたと説明する『宗教』の教義とは、事実はあまりにも異なっています。 

600万年前に、『チンパンジー』の先祖から、生物進化で枝分かれして、最初の『人類種』が登場しました。その後、約20種の『人類種』が枝分かれで登場しましたが、現在では『ホモ・サピエンス』以外はすべて絶滅して『地球』上には存在していません。『ホモ・サピエンス』は17万年前に、先祖の人類種から枝分かれしたということです。 

『ホモ・サピエンス』は、2~3種の別の人類種と、『地球』上で同時に存在する機会がありました。一番有名なのはヨーロッパ、西アジアに住んでいた『ネアンデルタール人』です。しかし『ネアンデルタール人』は約3万年前に絶滅しています。

『ホモ・サピエンス』が、アフリカからその他の地へ移り始めたのは、約7万年前で、少なくとも5万年前には、ヨーロッパ、西アジアに到達していると考えられています。

つまり、『ネアンデルタール人』と『ホモ・サピエンス』は少なくとも2万年程度の間、地球上の同じ地方(ヨーロッパ、西アジア)に同時に存在していたことになります。

何故『ネアンデルタール人』は絶滅したのかは、人類考古学の謎の一つです。色々な『仮説』はありますが、『定説』にはなっていません。

絶滅に『ホモ・サピエンス』が関与しているかどうかが、最大の議論の的です。

『ホモ・サピエンス』だけが、『ネアンデルタール人』絶滅の原因であるかどうかは別にして、少なくとも関与がなかったとは言い難いと梅爺は推察しています。

| | コメント (0)

2019年1月 1日 (火)

梅爺詩集『老いの言の葉』(5)

あけましておめでとうございます。
皆様のご多幸を記念します。

期待と不安

『期待』と『不安』は裏表です。

プロポーズをする時、試合や受験に臨む時、『期待』と『不安』で揺れ動きます。

先のことは誰にもわかりません。

分からないままに放置すると不安に駆られますから、結果を類推しようとします。

『良い結果』を強く願う習性が私達の本能です。それが『期待』になります。

結果の類推には『悪い結果』も必ず含まれます。それが『不安』を呼び起こします。

『期待』と『不安』が裏表なのは、そのためです。

『良い結果』は幸運と喜び、『悪い結果』は不運と嘆きます。

このため人生は笑ったり、泣いたりの連続になります。

『悪い結果』を後悔のタネにしないために私たちは努力をします。

でも努力は必ず『良い結果』をもたらされるとは限りません。

余程の例外の除いて、幸運だけ、不運だけの人生はありません。

当り前のことは幸運と気付かずに、私達は不運を強調しがちです。

『不安』や不幸ばかりを抱え込んでいると、困ったことに体調も悪くなります。

『病は気から』は先人の教訓です。

当り前のことを幸運と受け止めれば、心は明るくなり、笑顔も増えます。

『期待』を強めて楽観的に生きる方が健全です。

『悪い結果』に遭遇したら、次の『よい結果』の布石と考えればいつまでも悔やまずにすみます。

残念なことに、分かっていてもこのように振る舞えないのが人生です。

でも分かっていなければ、もっと不幸です。

| | コメント (0)

« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »