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2018年12月13日 (木)

『侏儒の言葉』考・・暴力(3)

人類のすべてが、『釈迦』のように『煩悩』を解脱できれば、人間社会から『暴力』は亡くなるかもしれません。しかし、そのようなことは望みようもなく、『理性で情感を抑制できない人』『自分の望みをかなえるためには手段を選ばない人』が、どのような社会にも統計学上のある比率で存在し、出現しますから(この根源も人間が個性的であることに由来)、人間社会において『暴力』を根絶することは論理的には不可能です。

私たちにできることは、『暴力の出現比率、再発比率を下げる努力』『暴力を罪として刑罰に処すこと』程度のことだけです。『裁判機構』『警察機構』を擁しない国家は存在しないことがそれを立証しています。

人間社会で恐ろしいことは、『権力者の暴力(肉体的、精神的抑圧)が特権的に黙認される体制』です。『独裁者』による恐怖政治体制などが典型で、『裁判機構』『警察機構』も『独裁者』の私物に化してしまいます。

人類はこの弊害を排除するために、『民主主義』『三権分立』などという『仕組み』を考え出しました。『法』の下では『王様』も『庶民』も平等という考え方です。これで『特権的な暴力を振るう人物』は出現しにくくなりました。

それでも特定の『コミュニティ』の中で、『特権的に暴力を振るう人物』が頻繁に現れ、『独裁社長』『独裁的なスポーツ指導者』などの露呈が後を絶ちません。

『地位の特権を暴力で表現したくなる習性』は、誰もが根源的に保有する『煩悩』の一つなのかもしれません。戦時中の日本陸軍内部で横行した『上等兵の兵卒に対する暴力』などは、幼稚の極みですが、それでも黙認されました。

『暴力はいけない』『暴力追放』と叫ぶことは容易ですが、人間の『煩悩』の中に『暴力』の種が潜んでいると考えると、実際の対応は容易ではないことがわかります。

『人間を支配することに暴力は必要か、必要でないか』という問いに答えることも容易ではありません。

『支配する』という言葉に、そもそも暴力的なニュアンスが含まれているようにも感じます。

それでは『人間社会を統率する』といいかえたら、『暴力』の関与はなくなるのでしょうか。

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