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2018年12月14日 (金)

『侏儒の言葉』考・・暴力(4)

『人間社会を統率する』ということは、実際には大変難しいことで、『理想的な方法論』を人類は見出していません。 

何故難しいのかという理由は、極めて簡単で、『人間社会構成する個人が個性的である』からです。つまり、同じ事象に接しても、『個人』は、同じように『感じたり』『考えたり』しないということです。 

このバラバラな『価値観』を容認すると、『社会の統率』は出来ませんから、逆に『統率のための価値観』を提示して、『個人』は多少の不満は我慢して、これを受け容れる必要が生じます。 

この『統率のための価値観』をどのように『決める』かで、『個人』の不満の量は変わります。 

多くの『民主国家』では、『統率のための価値観』を議論し、決定する主体は国民であるという考え方に立脚し、実際には『選挙』で選出された国民の代表が議会で議論し、『多数決』で決定する方式が採られます。

『統率のための価値観』は、『憲法』や『法律』という形式で提示され、国民は、個人的には自分の『価値観』と異なっていても、『統率のための価値観』としてそれを優先して受け容れます。形式的であれ、『国民が参加して決めたもの』なので、誰かから無理やり押し付けられたという不満は少ないからです。

『独裁国家』や『独裁政党国家』では、形式的には『人民会議』で決定するように見せかけて、『独裁者』や『独裁政党』が『統率のための価値観』を提示します。国民は内心不満であっても、表面的な安泰を優先して、これに従います。従わなければ、身に危険や不都合が及ぶからです。

『殺すなかれ』『盗むなかれ』は、『モーゼ』がシナイ山で『神』から託宣された『十戒』に含まれていて有名ですが、『殺す』『盗む』を認めれば、自分が『殺される』『盗まれる』可能性も認めなければいけないことになり、これは多くの人にとって不都合であると理解できますから、『殺すなかれ』『盗むなかれ』は、『統率のための価値観』として人間社会にとりいれられました。『神』の力を借りなくてもこの程度の『価値観』は人間だけで作り出せます。

『肉体的に危害を加える暴力』が、『悪いこと』『罪に値すること』は、『統率のための価値観』として、議論の余地がありません。

問題は『統率のための価値観』として特定の『価値観』を強引に取り込もうとするプロセスに、目に見えない『暴力的な手法』が用いられていないかどうかということです。特定の『価値観』を押し付けるのは、『暴力』の原点であるからです。

見かけ上は『民主国家』であっても、『統率のための価値観』を決めるには、多少なりとも『暴力的な手段』が必要であるとすれば、『芥川龍之介』が、『人間の支配には暴力は必要かもしれない』と言っているのはそのことかもしれません。

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