« 『侏儒の言葉』考・・「人間らしさ」(1) | トップページ | SNSは本当に大衆のものなのか(1) »

2018年12月26日 (水)

『侏儒の言葉』考・・「人間らしさ」(2)

「人間らしさ」は、人間の『アイデンテティ(特徴的な属性)』であるともいえますので、これを否定することは、『己の否定』となります。

『芥川龍之介』の『精神世界』は、『何事も意に沿わない』『気に入らない』と受け止め、それをシニカルに表現することが特徴のように思えてなりません。

「人間らしさ」は、人間である以上誰もが負う『属性』ですから、気に入らない部分があるからといってそれを取り去ることはできません。

「人間らしさ」は、その人の『容姿』『性格』『潜在能力』と同じで、『生きる』こととの引き換え条件で、その人に付与されたものです。

「人間らしさ」を否定して『生きる』ことは、『煩悩を解脱する』ことと同様に、普通の人には不可能です。

それならば、「人間らしさ」を覚悟して受け容れ、それとどのように付き合いながら『生きる』かを考える方が、健康的、建設的です。

『夏目漱石』の小説を読んで感ずることは、彼は負わされている宿命を、まず受け止め、どうしても不都合なこと、理解が難しいことが含まれていれば、その本質を洞察したうえで、それを『諧謔』で笑い飛ばそうとしていることです。『草枕』の冒頭の部分が、端的な例です。

山路を登りながら、こう考えた。 

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

梅爺は『芥川龍之介』の斜に構え、シニカルに表現するスタイルより、『夏目漱石』の、ドンと構えて笑い飛ばすスタイルが好きです。

哲学者の『木田元』氏は、『哲学などに興味を持たない方が健康的だ』と書いておられますが、これは『夏目漱石』の姿勢に通じます。

何事もシニカルに、ネガティブに受け止め続ければ、それは『生きる』ことからどんどん遠ざかることになり、終には『死』しかないというようなことになりかねません。『芥川龍之介』が自らを死に追いやったのは、そのためではないでしょうか。

しかし、これも『芥川龍之介』の『精神世界』が、個性的であることに由来しますから、他人が『およしなさい』と言って変わるような易しいものではありません。

『侏儒の言葉』を読むと、いつも同じ感想になってしまいますが、それは梅爺が強くそれを感じるからなので、ご容赦いただくしかありません。

『精神世界』が厄介なものである以上、「人間らしさ」も厄介なことであることは確かです。ただ、その厄介さを、ネガティブにとらえるかポジティブにとらえるかで、『生き方』が変わるということではないでしょうか。

|

« 『侏儒の言葉』考・・「人間らしさ」(1) | トップページ | SNSは本当に大衆のものなのか(1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 『侏儒の言葉』考・・「人間らしさ」(1) | トップページ | SNSは本当に大衆のものなのか(1) »