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2018年12月31日 (月)

古代人の『精神世界』(1)

『サピエンス全史』という現生人類の歴史の本を読みながら、梅爺はハッと思い知らされたことがありました。それは、農耕革命が起きる前の人類(ホモ・サピエンス)の『精神世界』の内容がどのようなものであったかということです。 

梅爺は、ブログで毎回のように人間の『精神世界』について考えることが大切であると書いてきましたが、そのくせ、上記の古代人の『精神世界』がどのようなものであったかを、迂闊にも考えたことがありませんでした。 

『サピエンス全史』という本には、当然のことながら、古代人の『精神世界』は、類推の域を出ない、学問的には『分からない』領域であると書いてありました。 

もちろん『精神世界』という言葉は使われていませんが、文脈からして、それは梅爺が『精神世界』と呼んでいるものを指していることは明白です。

『精神世界』は、『脳』が創り出す仮想世界で、生きている人間だけが保有できるものです。その上刻々とダイナミックに変容していますから、死んでしまった人、特に古代人の『精神世界』などは、再現して検証する方法は、現代科学をもってしても見つかっていません。

『人類考古学』などの分野では、遺跡から発掘された『人骨』などから、どのような体格であったか、頭蓋の容量から『脳』の大きさがどの程度であったか、『歯』の摩耗などから、何を食べていたかなどは、科学的に再現、特定ができますが、これらはすべて『人間』の『物質世界』に属する事柄の検証であり、その人物が、『何を考えていたか』『どのように感じていたか』など、抽象的な『価値観』も含め、全く検証する術がありません。

もちろん、残されている遺物から、間接的な『仮説』を主張することは可能ですが、それはあくまでも『仮説』に過ぎません。

洞窟に残されていた古代人の『壁画』などから、『精神世界』に関する『仮説』は立てることが可能ですが、それが『真実』であるとは言えません。

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2018年12月30日 (日)

SNSは本当に大衆のものなのか(4)

SNSで発信された『情報』の『著作権』のありかたについて、このエッセイの著者は危惧をしています。

表向きは、発信者の個人に『著作権』があることは、認めながらも、SNSのサービスを無償利用するときの『承諾事項』として、SNS側にもその『情報』を、利用、加工、改変、他への発信する権利があることを認めることを要求しているとエッセイには書かれています。

これは、非常に曖昧な『著作権』の拡大解釈ですから、本来なら司法の判断を仰ぐべきことかもしれません。

『個人』が発信した『情報』は、それだけをとればそれほど価値があるとは思えないものも多く、目くじらを立てるほどの問題はないと考えがちですが、それらを、総合分析すると、大衆のホンネ(意向)や心理が浮かび上がってくることになりますので、簡単に問題がないとは見過ごせません。これを、ビジネスがや国家が戦略的に利用すれば、逆に知らない内に大衆は、ビジネスや国家に操られてしまうという問題がないとは言えまないからです。

アメリカでは、『FaceBook』が、すべての電子『情報』を、逐次『国営ライブラリー』へ提供しているとこのエッセイには書かれています。

『FaceBook』の言い分は、将来万が一『FaceBook』が、何らかの理由で存在しなくなった時も『国営ライブラリー』に資料は保存されていることのメリットを強調していますが、『国営ライブラリー』がこの膨大な『情報』データをどのように利用するかは、明確にされていませんから、そう単純な問題ではないことが分かります。

『情報を握った者が勝者』であるとよく言われますから、『情報社会』では、『Google』『MicroSoft』『Yahoo』『SNS各社』などが、最も『勝者』に近い存在かもしれません。

中国などは、『国家』そのものが『情報』を握ろうとし、一党独裁でそれが可能ですが、民主国家では国家が、上記のような『勝者企業』と結びつこうと考えるのは当然のことですから、私たち大衆は、そのことにも警戒を怠らないようにしなければならないというのが、このエッセイの主旨ならば、『そのとおり』ということになります。

大衆は、従来は考えられなかった巨大な『監視社会』に身を置くようになったということです。

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2018年12月29日 (土)

SNSは本当に大衆のものなのか(3)

SNSは、インターネットの特徴と大衆の欲求(需要)をうまく組み合わせて、考え出されたビジネスです。そこに、今まではなかった大きなビジネス・チャンスがあると洞察した知恵のある起業家が初め、予想以上の大成功を収める結果になりました。

SNSを利用する大衆は、提供されるサービスの内容に魅了され、しかも無料で使えるというメリットだけを強く意識していますが、SNSを経営する企業が、どういう裏側の仕組みで収益を上げているのかについては、あまり関心をよせません。

視聴料を払わなければならない『NHK』よりも、無料で視聴できる『民放』のテレビ局さえあればよい、という心理に似ています。『テレビを見るという点では同じではないか』ということで、提供される番組の『質』については、関心をよせない方も多くおられます。

SNSと『民放』は、似ています。企業収益を上げることをどうしても最優先しますから、無料に見せかけて提供している大衆へのサービスの『質』は、二の次になり易いということです。

もちろん、SNSや『民放』の経営者は、企業としての社会責任や倫理観も持ち合わせていますし、同業間の競争で、大衆から悪い評価を得ることは、致命的であることも承知していますから、大衆を『無視』するというわけではありませんが、企業としてのホンネは収益優先になることは避けられません。

一般論としては、自由経済を採用している社会において、これはどの企業にも当てはまる話です。

大衆は、経済の仕組みを理解し、企業は大衆に『無償奉仕』をするために存在しているのではないことも認識しておくべきでしょう。

SNSを始めた起業家は、収益を上げるビジネス・チャンスとして事業を立ち上げたことは間違いありませんが、そのサービスが、これほど社会へ大きな影響を及ぼすことになるとは、深く考えていなかったのかもしれません。

アメリカの『トランプ大統領』が、毎日『Twitter』でつぶやく内容は、国際政治に影響を与えます。ホンネの『感想』なのか、大衆の反応を計算しつくした『戦術発言』なのかも含めて、私たちはその『情報』内容を判断しなければなりません。大統領がつぶやくおかげで、分かりやすくなることもあれば、分かりにくくなることもあるということです。

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2018年12月28日 (金)

SNSは本当に大衆のものなのか(2)

従来大衆への『情報』は、特定の組織(新聞社、出版社、ラジオ局、テレビ局)が、発信内容を自己責任で管理していましたから、この様に発信された『情報』は『ある程度信憑(しんぴょう)性がある』と大衆は暗黙に認めていました。もちろん絶対『間違い』がないわけではありませんが、総じて大衆は信用して付き合っていたことになります。

しかし、インターネットやSNSで、『個人』がその他多数の他人へ向けて、自由に『情報』発信できるようになって、『情報』の信憑性への信頼は大きく揺らぐことになりました。

『個人』は良識ある『個人』とは限りませんので、『公序良俗』に反する『情報』、『偽りの情報』なども発信され、『情報』野放し状態になってしまったからです。

もちろん『個人』が自由に『情報』発信できることのこれまでにないメリットは沢山ありますから、何もかもけしからんということではありません。『多様性』は一見混乱を招きやすく効率が悪いように見えますが、『均一』よりも強靭である場合があります。『民主主義』を『独裁主義』と比較する場合によく言われることです。

中東の国の大衆による民主化運動では、政府側の弾圧の実態が動画で全世界に流され、国際世論の形成に貢献し、運動が有利に展開することになりました。

結論的に言ってしまえば、『情報』を取得した個人が、その『情報』の信憑性を自ら判断しなければならない時代になったということです。

しかし、多くの人たちは『情報は総じて正しい』と受け止めることに慣れてしまっていますので、『情報』を無条件に信じてしまうという不都合が横行しています。

このエッセイは、この種のSNSが抱える問題ではなく、SNSへ発信したコンテンツの著作権に関する不透明さ、SNS経営会社が将来経営不振などで、業務が継続できなくなったときの責任、『情報』を発信者本人や他人が利用したい(検索や再編集など)と思う時のサービス提供のありかたなどに、『危惧』を表明したものです。

『情報』がSNS運営会社や、国家などに、発信者個人の思惑とは異なった利用をされてしまうことへの『危惧』でもあります。

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2018年12月27日 (木)

SNSは本当に大衆のものなのか(1)

『What should we worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の80番目のタイトルは『Is the New Public Sphere...Public ?(新しく大衆が獲得した世界は本当に大衆のものなのか)』で、著者は南カリフォルニア大学で、ジャーナリズムを教える『Andrew Lih』です。

『新しく大衆が獲得した世界』というのは、YouTube、Twitter、FaceBook、Instagramなど、今流行りのSNS(社会ネットワークシステム) のことです。

梅爺自身は、まだスマホを持たずガラケー(ガラパゴス・ケータイ)で済ませていることもあって、SNSへはまりこんではいません。

パーソナル・コンピュータを使った、ブログ(梅爺閑話)へは熱心な投稿を続けているほかは、時折コンテンツ検索のためにWikipedia、YouTubeを利用したりするだけです。

梅婆は、専用の『iPad』を所有していて、子供たちや孫たちとSNSを利用した交流をしていますので、我が家では梅爺だけが、原始的なガラパゴス生物種に属しています。

仕事の現役時代には、最先端の企業用コンピュータ・システムのビジネスに携わっていましたので、多くの方から『率先してSNSをお使いでしょう?』と質問を受け、その都度曖昧な返事をしています。

とりわけ、SNSへ反感を持っているわけではありませんが、SNSといえども営利システムですから、裏側で展開される経営側のホンネを忖度して、『そんなものには踊らされないぞ』と肩ひじを張っているのかも知れません。

何よりも『イイネ』などという軽薄な返事を返すことに、気恥ずかしさを感じて無意識に避けているのかもしれません。

そうはいっても、そのうちに何かの拍子でSNSにどっぷりはまることもないとは言えません。

SNSが、世界的に及ぼした社会的影響が大きいことは、いまさら言うまでもありません。インターネットを利用して、見知らぬ多数の人たちが情報を共有できるという画期的な手段であるからです。

インターネットやSNSの出現で、『情報』に関する考え方が大きく変わりました。それまでは、手紙、電話(個人と個人の情報交換)、新聞、雑誌、書籍、ラジオ、テレビ(特定の組織から大衆への情報発信)に限定されていた『情報』が、個人から多数の他人へ『情報』を送る手段が提供されたからです。

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2018年12月26日 (水)

『侏儒の言葉』考・・「人間らしさ」(2)

「人間らしさ」は、人間の『アイデンテティ(特徴的な属性)』であるともいえますので、これを否定することは、『己の否定』となります。

『芥川龍之介』の『精神世界』は、『何事も意に沿わない』『気に入らない』と受け止め、それをシニカルに表現することが特徴のように思えてなりません。

「人間らしさ」は、人間である以上誰もが負う『属性』ですから、気に入らない部分があるからといってそれを取り去ることはできません。

「人間らしさ」は、その人の『容姿』『性格』『潜在能力』と同じで、『生きる』こととの引き換え条件で、その人に付与されたものです。

「人間らしさ」を否定して『生きる』ことは、『煩悩を解脱する』ことと同様に、普通の人には不可能です。

それならば、「人間らしさ」を覚悟して受け容れ、それとどのように付き合いながら『生きる』かを考える方が、健康的、建設的です。

『夏目漱石』の小説を読んで感ずることは、彼は負わされている宿命を、まず受け止め、どうしても不都合なこと、理解が難しいことが含まれていれば、その本質を洞察したうえで、それを『諧謔』で笑い飛ばそうとしていることです。『草枕』の冒頭の部分が、端的な例です。

山路を登りながら、こう考えた。 

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

梅爺は『芥川龍之介』の斜に構え、シニカルに表現するスタイルより、『夏目漱石』の、ドンと構えて笑い飛ばすスタイルが好きです。

哲学者の『木田元』氏は、『哲学などに興味を持たない方が健康的だ』と書いておられますが、これは『夏目漱石』の姿勢に通じます。

何事もシニカルに、ネガティブに受け止め続ければ、それは『生きる』ことからどんどん遠ざかることになり、終には『死』しかないというようなことになりかねません。『芥川龍之介』が自らを死に追いやったのは、そのためではないでしょうか。

しかし、これも『芥川龍之介』の『精神世界』が、個性的であることに由来しますから、他人が『およしなさい』と言って変わるような易しいものではありません。

『侏儒の言葉』を読むと、いつも同じ感想になってしまいますが、それは梅爺が強くそれを感じるからなので、ご容赦いただくしかありません。

『精神世界』が厄介なものである以上、「人間らしさ」も厄介なことであることは確かです。ただ、その厄介さを、ネガティブにとらえるかポジティブにとらえるかで、『生き方』が変わるということではないでしょうか。

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2018年12月25日 (火)

『侏儒の言葉』考・・「人間らしさ」(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』の中の、「人間らしさ」についての感想です。

前半が重要と思いますので、転記して紹介します。

わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屢(しばしば)「人間らしさ」に軽蔑を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?・・或は愛より憐憫(れんびん)かもしれない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住することに耐えない精神病院に変わりそうである。Swiftの竟(つい)に発狂したのも当然の結果という外はない。

『侏儒の言葉』を読んでいて、梅爺が戸惑うのは、重要な意味を有するように見える言葉を使いながら、その言葉の『定義』が提示されていないことです。

今回は「人間らしさ」という言葉がそれにあたります。そのようなことは、説明しなくとも分かるだろう、ということなのかもしれませんが、梅爺は見栄を張って『分かった』振りもできませんので、戸惑います。

『礼拝(らいはい)する勇気は持っていない』『憐憫を感ずる』ということから察すると、「人間らしさ」はあまり好ましくないことと『芥川龍之介』は受け止めているらしいことは推察できます。

でも『「人間らしさ」に動かされぬようになったら、人生は住むに耐えられない精神病院に変わってしまう』というようなことを言っていますので、文脈からすると『好ましくない「人間らしさ」のおかげで、私たちは発狂せずに生きているが、頭がよくて一代の鬼才と言われたSwiftのような人物は、真面目に「人間らしさ」を排除しようとして、発狂してしまう』という風に読みとれます。

「人間らしさ」は『必要悪』で、これを排除すれば、発狂してしまうということになります。

さて、皆様は「人間らしさ」が、ここでは何を意味するのかを「読みとれたでしょうか。

梅爺は、「人間らしさ」は、『情と理が絡んで機能する精神世界を駆使して生きること』とまず考えてしまいます。

高度に進化した『脳』を保有する人間であるからこそ、可能なことで、他の生物にはみられない「らしさ」であるからです。

『精神世界』は、『哲学』『宗教』『科学』『芸術』を生み出す基盤でもありますが、『情』が『理』に先行して強く作用するために、『愛する』『嫌悪する』『信ずる』『疑う』などといった『理』では必ずしも説明できない行為が重要な役割を演じます。

『理』は、『因果関係』を論理的に特定しようとする能力で、主として生後受けた教育や、育った環境で育まれます。『理』は『情』を抑制するためにも重要な役割を演じます。『感情』を表に出したら不利になるという『因果関係』を重視すれば、『感情』を表現することを抑制します。

厄介なことに『精神世界』は個性的であり、誰もが同じよう『考え』『感じ』たりするわけではありません。このため、『情』の強さ、『理』の抑制の強さは、人によって異なり、他人の行為が、理解しにくいことも生じます。

このため、自分と異なった価値観の持ち主は『敵』と見なして、排除しようとして『戦争(殺し合い)』などという恐ろしい行為にも発展することがあります。

『精神世界』を「人間らしさ」と考えるならば、確かに『好ましくない』ことが起こる要因でもありますが、でも『生きる』ために獲得してきた機能ですから、『精神世界』そのものを『好ましくない』と言って否定することはできません。

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2018年12月24日 (月)

犯罪で形成された国家(4)

このエッセイの著者は、弱い国家ほど、強いジャーナリズムが必要と述べています。

不正や腐敗を指摘し、糾弾する役目がジャーナリズムにあるという意見は、ステレオタイプな意見で、洞察が浅すぎるように感じます。

不正や腐敗が国家の中枢にまで及んでいる国では、ジャーナリズムも同じ泥沼にまみれていて、たとえ一人の新聞記者が正義感を奮い立たせてみても、記事は検閲され、その記者は左遷させられるに違いないからです。

これらの国では、ジャーナリズムは、国家権力の広報機能を負うだけで、不正や腐敗の糾弾など、夢のまた夢です。これも、現在の北朝鮮、中国の『報道』をみれば、ジャーナリズムなど機能していないことが分かります。

それでは、日本のように比較的民主主義が社会に根ざしている国ではどうかというと、北朝鮮や中国のようなことはないにしても、やはりジャーナリズムが『公正』、『中立』であることを阻害する要因があります。

『NHK』は管轄省庁である『総務省』の意向を忖度するでしょうし、民放や新聞社は、経営の基盤を『広告(コマーシャル)』に依存する以上、広告主の意向を配慮せざるを得ません。また民放は視聴率を上げるために、ポピュリズムへの安易な迎合を行いがちです。

そのような状況で、それでも『公正』『中立』に徹しようとする、放送局や新聞社の努力を、国民はある程度理解して受け容れていることになりますから、日本の民主主義はレベルが高いと言えるのかもしれません。

『犯罪で形成された国家』『独裁国家』『一党独裁国家』が、将来本当の『民主主義』へ転ずることはあろうと思いますが、現状の『慣性』は想像以上に強く、大変なエネルギーと時間を要するに違いありません。

『個性』を認めない社会は、国の経営は効率的かもしれませんが、個人の『精神世界』は苦痛に苛まれます。歴史は、最終的に国民が『自由』を求めて決起し、体制が覆えるという事例が多いことを示していますが、権力側も、『秘密警察』『軍隊』などを総動員して、必死に弾圧に出ますので、痛ましい犠牲も避けられません。

民主主義国家の人たちは、これらの国家について『危惧』しますが、他国への干渉には限界がありますので、結局、『問題を抱えた国』の国民が、何を選択するかを見守るほかありません。

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2018年12月23日 (日)

犯罪で形成された国家(3)

『人間』や『人間社会』を理解する上で、重要な要因の一つが『人間は個性的であるように宿命づけられている』ということです。

この意外に単純な『事実』が、日本で重視されてこなかったのは、明治維新以来の国策が『富国強兵』で、個性を排して国家に準ずる『金太郎飴』のような一律な『日本人』が育成目標であったからです。個性を廃してステレオタイプに振る舞うことが、安泰をもたらすという点では、現在の北朝鮮、中国と同様な状況であったともいえます。

『聖徳太子』以来、『和をもって貴しとなす』という考え方が、日本文化で継承されてきたことが、さらに『一律の日本人』を形成しやすくしたのかもしれません。

『聖徳太子』が初めてこの表現を使ったのではなく、縄文時代、弥生時代、古墳時代からこの思想が『日本人』の中にあったと考えるべきでしょう。

『日本人』が『平和』を好む民族であるなどという解釈は手前勝手で、対立を『戦い』ではなく『和議』で決した方が、犠牲が少なくて済むという現実的な解決手段であったということでしょう。各地に豪族が乱立する社会で、培われた知恵であったのではないでしょうか。

現代の日本にも、『和を優先する』という文化は継承されていて、『野球』や『サッカー』でもそれが話題になります。『ぬきんでた個性』と『チームの和』のどちらが重要かといった議論ですが、外国人の目には、『日本』のチームは『チームの結束力』が重視されているように映ります。

『人間』が個性的であるということは、同じ事象に接しても、誰もが同じように『感じたり』『考えたり』はしないということです。

他人との関係で、『自分の考え』を殺して『他人』や自分の属するグループの平均的な『考え方』に合わせることを優先するという習性を日本人が持っているとしたら、それは長所でもあり短所でもあります。

『短所』は、『自分の考え』をもつ努力をやめて、常に周囲の意向を気にかけるようになってしまうことです。

本当の『和』は、自分を殺して他人に合わせることではなく、お互いの『違い』を認めたうえで、共存できる方策を一緒に考えることです。

『リーダー』には、『個性的な個の集合体』が社会であることを認識し、『和』を模索する能力が必要です。『リーダー』の『権力』を利用して甘い蜜を吸おうとすり寄ってくる人たちの誘惑に負けない『理性』も求められます。

『犯罪が形成する国家』は、論外ですが、どの国家でも『権力』と結託して利権をほしがる人たちが必ず存在します。『犯罪が形成する国家』を危惧するより、このどの国でも起こり得るこの問題を危惧することが重要ではないでしょうか。

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2018年12月22日 (土)

犯罪で形成された国家(2)

聖書の『黙示録』には、この世の終わりに『キリスト』が再来しそれを率いる『正義』の軍と、『アンチ・キリスト(悪魔)』が率いる『邪悪』な軍が最終決戦を行い、『正義』が勝つという予言が記されています。 

私たちは、この世を『正義』と『邪悪』の戦いの場であると単純に白黒でとらえがちで、『黙示録』もこの論法の延長として受け容れてしまいますが、実際はそれほど単純な話ではありません。 

それは、『釈迦』が指摘するように、人間の心には『仏心』と『邪心』が共存し、誰もがこの宿命から逃れられないというのが『現実』であるからです。 

『善良』だけの人、『邪悪』だけの人という存在は、希有で、多くの人は『善良でありながら邪悪』『邪悪でありながら善良』という実に厄介な存在です。 

自分は厄介な存在だと認めることが出来る人は健全で、むしろ『自分は善良だけの存在』と信じて疑わない人が問題です。このような人が『私は正しい、あなたは間違い』と『白馬の騎士』『月光仮面』のように振る舞うからです。 

何よりも『正義』『邪悪』という考え方は、人間が考え出した抽象概念で、相対的な価値観ですから、『真偽』を判定する普遍的な尺度がないと認識することが大切です。 

『政治家』や『官僚』が、『私利私欲』の誘惑に負けて、社会の約束事や法に反する行動をするのを根絶することは、人間の習性の本質を考えると、非常に難しいと認めざるを得ません。 

『権力闘争』を勝ち抜いてリーダーの座に就いた政治家、『エリート選抜競争』を勝ち抜いた高級官僚などは、『私利私欲のない人』とは正反対のイメージの人たちですから、『私利私欲で行動しない人』をそこに求めること自体に矛盾があるのかもしれません。

表向きは民主主義の体制を装いながら、政治リーダーが、裏で『犯罪組織』『麻薬密売グループ』と結託して、私腹を肥やすといった国家は、確かに『ひどい国家』ですが、この『犯罪組織』『麻薬密売グループ』を、『大企業』『産軍複合体』などに置き換えれば、『韓国』や『アメリカ』が思い浮かびます。

『犯罪で形成された国家』は単純で分かりやすい事例ですが、『特定組織の利害に結びついた国家』ということになれば、どの国家も怪しげな問題を抱えていることになります。日本も『森友学園』『加計学園』と首相の関係が問題になりました。

『どこから見ても非の打ちどころがない人』などは、現実に存在しないにもかかわらず、社会の重要な役割を担う人には、大衆は自分のことは棚に上げてそれを求めようとします。

『大統領』や『首相』がふさわしくない人物であると判明した時に、『弾劾(だんがい)』する手段は、民主主義には備わって科割っていますが、一般的には『スーパーマン』であることが求められます。『スーパーマン』でない人物に『スーパーマン』を求めるということに、そもそも無理があります。

その国家で、『政治リーダー』になる資質を相対的に保有する人材はいますが、そのような人は『政治リーダー』になることを多くの場合選びません。『政治リーダー』になりたい人が、民主的な選挙を経てその地位につきます。

『ふさわしい人』ではなく『なりたい人』が、『政治リーダー』になるというのが、『民主主義』の抱えている問題の一つです。

『トランプ大統領』以外に、大統領にふさわしい人物が『アメリカ』にはいないとは思えません。

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2018年12月21日 (金)

犯罪で形成された国家(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の79番目のタイトルは『Classic Social Sciences' Failure to Understand  "Modern" States Shaped by Crime(古典的な社会科学では現代の犯罪で形成された国家は説明できない)』で、著者は哲学、政治科学の専門家で企業経営者でもある『Eduardo Salcedo-Albaran』です。 

古典的な政治科学では、神や王の意思を基盤とする中世の王国の後に、近代の大衆を中心とする自由主義的な国家が出現した、ということになっています。 

これらの近代国家は、社会福祉や個人の自治権を保護する、大衆が認める法律で維持されていて、多くの西欧国家は民主主義、公平な法、人権の保護を採用しています。そして、これが近代化を推進する要因になっているという説明がなされてきました。 

しかし、近代国家の中のいくつかは、犯罪を基盤に形成され、犯罪者が法を公布し、しかもひどいことには、形式的な民主主義でそれらが正当化されています。 

このように、古典的な政治科学で論ずる対象にならない、国家について我々は危惧すべきである、というのがこのエッセイの著者の主張です。 

著者は、アフリカや中南米の国家を具体的に名指しして、この問題を論じていますが、梅爺の脳裏にすぐ浮かぶのは、『中国』や『北朝鮮』です。

しかし、『中国』や『北朝鮮』の国家体制が出来上がった歴史的な経緯を考えると、必ずしも犯罪が基盤であったとはいえませんから、梅爺の直感は、現在の『中国』『北朝鮮』の指導者を『いかがわしい』と個人的に感じている故の反応で、このエッセイに対応させて論ずるには適切ではないと、すぐに思いなおしました。

このエッセイが対象にしているのは、『犯罪組織』や『麻薬の密売組織』などが、その国家の指導者、議員たちそれに官僚を、『賄賂』や『弱みに付け込んだ脅迫』で操るという、実に程度の低い話です。見かけ上は民主主義の体裁を装いながら、『犯罪組織』を有利に利する法案が成立したりするということになります。

しかし、これは極端な話で、どのような民主主義国家にも、程度の差はあれ、これに類する話がないわけではありません。

政治家や官僚が、私利私欲のために、『好ましくない組織』と裏取引し、法に反する行いをするという例は、先進的な民主主義国家でも、頻繁に起きる事件です。日本も例外ではありません。

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2018年12月20日 (木)

『虚構』の共有(6)

『ホモ・サピエンス』が、何故7万年前に『認識革命』を起こすことができたのかはわかっていません。

人類種は、『2足歩行を開始』『自由になた手を利用して道具を操ることを開始』したことが、『大容量の脳を獲得』につながったと推測はできますが、明確な因果関係は分かっていません。

『2足歩行』『大きな頭蓋の保有』は、人類にとって有利なことばかりではなく、極めて不利なことも多かったにも関わらず、何故『進化』の過程でそれを『自然選択』したのかも分かっていません。

『大きな頭蓋』は、女性にとって分娩が極めて危険なことになり、子孫を沢山残すという観点でみると、不利な要因であったはずです。また、他の動物とは異なり、生まれた子供は未熟で、大人になるまでに長い時間を要するということも、不利な要因であったはずです。周囲の大人の介助がなければ、子供が大人になれないということは、大人には負担であるからです。

現代のように、『文明』が発達し、人類が生物種の頂点に君臨する状態では、『大きな頭蓋』『大人になるまでに多くの知識や経験を習得』は、人類にとって有利な要因ですが、人類種が地球上に登場してから、ほとんどの期間は、人類は他の強い捕食動物の『捕食対象』であり、常に怯えながら生きていたことを考えると、『大きな頭蓋(大容量の脳)』の選択は、実に不思議です。

『抽象概念』を理解し共有することで、『ホモ・サピエンス』は、目的を共有する大グループを結成して、行動できるようになったと推測できます。

体格や力では、『ネアンデルタール人』に劣っていて、個人や少人数の戦いでは不利であった『ホモ・サピエンス』が、大グループの戦略的な戦いで、『ネアンデルタール人』を圧倒し、追い詰め絶滅に追い込んだのであろうと、『サピエンス全史』の著者は推測しています。

しかし、最近ヨーロッパ、西アジアの人たち(ホモ・サピエンス)の遺伝子の5%ほどに、『ネアンデルタール人』の遺伝子が継承されていることが判明しましたので、一部で『交雑』があったとことも否定できなくなりました。

私たちの先祖について、私たちはまだ分からないことだらけです。

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2018年12月19日 (水)

『虚構』の共有(5)

人間以外にも、『群』を作って生きる生物はいますが、『ボス』が支配する動物の群の場合、群のメンバー数はだいたい100~150程度です。

『絆』を構築できる仲間の数には限度があり、それ以上は、『信頼が置けない見知らぬ他人』となって、『群』は『部外者』『敵』と見なすことになります。

『絆』を構築できる仲間の数を、100程度から一気に大幅に増やすことに成功したのが、『ホモ・サピエンス』であるというのが、『サピエンス全史』の著者『ユヴァル・ノア・ハリル』の主張です。

これを可能にしたのが『認識革命』で、約7万年前のことと推察しています。

『認識革命』が、何故『他人を仲間と見なす』ことに貢献するのかは、次のように説明できます。

他人同士でも、『同じ神を信じている』『物々交換に関して同じ価値観を持っている』ことがお互いに判明すれば、仲間と認めることができます。しかし、このようなことを可能にするには、『脳』が、『神』『物々交換のための価値観』といった『抽象概念』を『認識』し、それをお互いに『共有』する能力を保有している必要があります。『認識革命』で、生物として初めてこの能力の獲得に成功した『ホモ・サピエンス』は、『群』を構成するメンバー数を飛躍的に大きな数に変えました。

『国家』『帝国』などという規模の『群』が出現し、この大規模な『群』を統率、運営する為に『文明』が発展していったことが分かります。

『精神世界』で自由奔放な『虚構』を創出する能力が、人間の重要な特性であることまでは梅爺も洞察できていましたが、この能力こそが人類が『文明』を発展させた原動力であるということまでは、気づきませんでした。『サピエンス全史』を読んで、梅爺の考え方は強固になりました。

そのような視点で、周囲を観てみると、私たちは、『同級会』『同窓会』『県人会』『会社の同期会』『会社のOB会』『趣味の仲間』『信仰の仲間』など、『抽象概念』をベースに他人との『絆』を確認しながら生きています。

梅爺は『日本国民』『日本人』であることに疑念を抱かず生きていますが、もし、梅爺に『日本(国家)』『日本人(民族)』などという『抽象概念』を受け容れる能力がなければ、砂上の楼閣のようなものであることが分かります。

『抽象概念』を『認識』『共有』する能力が、『文明』を進化させ、私たちの『言語』や『芸術』表現を豊かにしてきたという主張は、説得力のある『仮説』であると梅爺は思いました。

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2018年12月18日 (火)

『虚構』の共有(4)

『精神世界』が自由奔放に創りだす『虚構』は、『物質世界(自然界)』の事象として適応させることはできません。

『物質世界』の事象、因果関係は全て『摂理』で規制されていて、逸脱は許されません。一方、『精神世界』の『虚構』を規制するものはありませんので、文字通り自由奔放、『何でもあり』ということになります。

これも何度もブログで紹介してきたように、『桃から生まれた桃太郎』『竹から月生まれ月へ帰るかぐや姫』などは、自然界の『摂理』を無視して成り立つ話です。言い換えれば、自然界に『桃太郎』『かぐや姫』は存在しません。

この例は『おとぎ話』なので、誰も異存なく認めますが、『神』も『虚構』であると梅爺が言った途端に、顰蹙(ひんしゅく)を買うことになります。

『神』という『虚構(抽象概念)』は、人類の歴史上、大きな意味を持っているという次なる梅爺の主張に入る前に、『桃太郎と神を同列に論ずるのはけしからん』と感情的な反論を受けてしまいます。

『サピエンス全史』の著者『ユヴァル・ノア・ハリル』も、梅爺と同じ主張です。『神』は人間が創造した『虚構』、しかしながらこの『虚構』を共有する能力こそが『ホモ・サピエンス』を地球上の生物の頂点へと導く原動力であったという主張です。もちろん『神』だけでなく、『会社』『教会』『国家』『国連』『民族』『貨幣』などという『想像した現実』が、原動力であったということです。

『ユヴァル・ノア・ハリル』は、この『想像した現実』を共有する能力を『ホモ・サピエンス』が獲得したことを、『認識革命(Cognitive Revolution)』と呼んでいます。

後に、『農耕革命』『産業革命』『情報革命』と、人類は『文明』を進化させることになりますが、最初の『革命』が『認識革命』であるという考え方です。

実際には『認識革命』と『農耕革命』の間に、『ホモ・サピエンス』の『文明』の発芽があったという主張です。

次に紹介する、何故『認識革命』が『文明』を生み出すことになったのかという洞察が秀逸です。

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2018年12月17日 (月)

『虚構』の共有(3)

実際に存在するものを『認識』することは、『生物』が最初に獲得した能力であろうと思います。周囲の状況を判断して、自分に都合よく行動することが、生き残っていくために必須の要件で会ったからです。『捕獲者』として『獲物』を認識して捕獲する、自分が『獲物』にならないように『捕獲者』から逃げるといった行動は、上記の『認識』で行われます。

人間も、この基本的な能力は具備しています。五感の中でも、視覚、聴覚が重要な役割を演じています。

この能力をさらに発展させて、実際に存在するものを『認識』した後に、そのものがもたらす先の事象を『推測』することが出来るようになります。

野兎は、周囲の草むらが風もないのにカサコソと音を立てることを『認識』して、捕獲者である狼が自分を狙っていることを『推測』して逃げ出します。

私たち人間は、西の空の夕焼けを『認識』して、『明日は晴れる』と『推測』します。

この『認識』『推測』の能力で、人間はすでに他の生物より高度なレベルに達していますが、さらに高度なレベルにまで能力を進化させました。

それは、実際には存在しないものを、あたかも存在するように『認識』して、その『認識』をベースに次なる『推測』をするという能力です。

『神』『愛』『正義』などという、抽象物、抽象概念が典型的な例になります。

『サピエンス全史』の著者『ユヴァル・ノア・ハリル』は、これを『Imagined Reality(想像した現実)』と呼んでいます。そして、『会社』『教会』『国連』『国家』『民族』『通貨』なども『想像した現実』であることを鋭く指摘しています。

『ホモ・サピエンス』が、この『想像した現実』を扱う能力をいつ獲得したのかは、定かには分かりませんが、少なくとも七万年前に『アフリカ』から、世界各地へ移動を開始したころには、保有していたと推測できます。

『ユヴァル・ノア・ハリル』の仮説が正しいとすれば、この能力が、『ネアンデルタール人』を絶滅に追いり、やがては『文明』を創り出し発展させる原動力になったと考えられるからです。

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2018年12月16日 (日)

『虚構』の共有(2)

梅爺がこの本の著者に共鳴するのは、梅爺のように『物質世界』『精神世界』といった区分けで、周囲の事象を論じているわけではありませんが、結果的に主張していることは、梅爺の言いたいことと同じであるからです。

世界のどこかに、梅爺と同じように考えている見知らぬ人がいることを知ることほどうれしいことはありません。

さらにうれしいのは、同じ主張をしながら、梅爺の洞察よりはるかに深い洞察を著者がしていることを知ったことです。このことは梅爺が啓発され、考え方がさらに強化されることを意味します。

具体的には、人間の『精神世界』の特徴の一つである、自由奔放な『虚構』を考え出す能力についての洞察です。

梅爺は、『物質世界(自然界)』と人間の脳が創りだす『精神世界』の対比を考えている中で、『自由奔放な虚構の創出能力』が『精神世界』の重要な特徴の一つであることに気付きました。

何故人間がそのような能力を持つようになったのかは、『精神世界』を支えている『安泰を希求する本能』を機能させるために、それが必要であったからであろうと推測しました。

人間には、自分の能力では『分からない』こと、自分にとって不都合なことに遭遇すると、それは脳内に『不安』を引き起こします。具体的には対応するホルモンが分泌されます。このときに、ある種の自分を安心させるための『因果関係』を『虚構』として考え出し、『そういうことに違いない』と納得しようとします。

人類が考え出した最強と言える『虚構』は、『神』であろうと梅爺は思います。何しろ『神』は『全知全能』ですから、『天地を創造した』『私たちの罪を許してくださる』とどんな『因果関係』でも利用できます。日本人が古来『苦しい時の神頼み』と言ってきたのは、『諧謔』で自分を笑い飛ばしているとはいえ、実に含蓄のある表現であることがわかります。

梅爺の『虚構創出能力』に関する洞察はそこまででしたが、『サピエンス全史』の著者『ユヴァル・ノア・ハリル』の洞察は、さらに深いもので、梅爺は自分の考えの浅さを思い知らされました。

『ユヴァル・ノア・ハリル』の主張は、『ホモ・サピエンス』の『虚構創出』とそれを仲間と共有する能力が、『ネアンデルタール』などの先住人種を絶滅においやり、その後『文明』を築くための基盤になったというものです。

『精神世界』の『虚構創出能力』が人間にとって、特徴的であるところまでは梅爺も追い詰めましたが、『文明』がその能力で開花したというところまでは思いが至りませんでした。しかし、『虚構』に着目する強力な味方を発見できてわが意を得ました。

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2018年12月15日 (土)

『虚構』の共有(1)

昨年の大学の同級会で、国立の研究所で最先端の研究に従事してこられた経歴のMさんが、『今読んでいる「サピエンス全史」という本は面白いよ』と教えてくれました。

『サピエンス』は『ホモ・サピエンス』のことで、私たち『現生人類』を意味する生物学的な分類名称です。

この本は、『現生人類』の歴史に沿いながら、何故地球上の生物界の頂点に君臨するようになったのかを、推理しながら解説する『ノン・フィクション』で、著者はイスラエルの歴史学教授の『ユヴァ・ノル・ハラリ』です。

梅爺は、早速アマゾンの電子書籍リーダーに、英語版をダウンロードし、読み始めました。

『ホモ・サピエンス』の概略の歴史は、梅爺も何度かブログに書いてきましたから、この本を読んでその『知識』を再確認することができました。

この本の啓発的なところは、『ホモ・サピエンス』について、現時点で解明されていないいくつかの『謎』に、著者の鋭い洞察(仮説)による推論で、『仮の解答』を提示していることです。

『仮説』を証明することは難しいのですが、梅爺には非常に説得力のある内容でした。

梅爺は、この『仮説』を覆すほどの強力な新しい『仮説』に遭遇しない限り、この著者の考え方を受け容れていくことになるでしょう。

まだ『普遍的な定説』が存在しないからといって、私たちは自分の中で『答』を出すことを逡巡する必要はありません。『自分としてはこの考え方を採用する』という立場は、たとえ仮の立場であっても、さらに自分の『考え』を推し進めるうえで重要な役割をはたします。ただ、その立場が『絶対正しい』と勘違いしないように、常に自分を監視することも必要です。

『ホモ・サピエンス』について、解明されていない『謎』とは、次のようなものです。

● 何故地球上に人類種として『ホモ・サピエンス』だけが現存しているのか。

● 『ホモ・サピエンス』に先行して地球上に存在し、現時点では絶滅してしまっている人類種(たとえば、ネアンデルタール人)は、『ホモ・サピエンス』にどのような影響を及ぼしたのか。

● 何故『ホモ・サピエンス』は『文明』を創りえたのか。

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2018年12月14日 (金)

『侏儒の言葉』考・・暴力(4)

『人間社会を統率する』ということは、実際には大変難しいことで、『理想的な方法論』を人類は見出していません。 

何故難しいのかという理由は、極めて簡単で、『人間社会構成する個人が個性的である』からです。つまり、同じ事象に接しても、『個人』は、同じように『感じたり』『考えたり』しないということです。 

このバラバラな『価値観』を容認すると、『社会の統率』は出来ませんから、逆に『統率のための価値観』を提示して、『個人』は多少の不満は我慢して、これを受け容れる必要が生じます。 

この『統率のための価値観』をどのように『決める』かで、『個人』の不満の量は変わります。 

多くの『民主国家』では、『統率のための価値観』を議論し、決定する主体は国民であるという考え方に立脚し、実際には『選挙』で選出された国民の代表が議会で議論し、『多数決』で決定する方式が採られます。

『統率のための価値観』は、『憲法』や『法律』という形式で提示され、国民は、個人的には自分の『価値観』と異なっていても、『統率のための価値観』としてそれを優先して受け容れます。形式的であれ、『国民が参加して決めたもの』なので、誰かから無理やり押し付けられたという不満は少ないからです。

『独裁国家』や『独裁政党国家』では、形式的には『人民会議』で決定するように見せかけて、『独裁者』や『独裁政党』が『統率のための価値観』を提示します。国民は内心不満であっても、表面的な安泰を優先して、これに従います。従わなければ、身に危険や不都合が及ぶからです。

『殺すなかれ』『盗むなかれ』は、『モーゼ』がシナイ山で『神』から託宣された『十戒』に含まれていて有名ですが、『殺す』『盗む』を認めれば、自分が『殺される』『盗まれる』可能性も認めなければいけないことになり、これは多くの人にとって不都合であると理解できますから、『殺すなかれ』『盗むなかれ』は、『統率のための価値観』として人間社会にとりいれられました。『神』の力を借りなくてもこの程度の『価値観』は人間だけで作り出せます。

『肉体的に危害を加える暴力』が、『悪いこと』『罪に値すること』は、『統率のための価値観』として、議論の余地がありません。

問題は『統率のための価値観』として特定の『価値観』を強引に取り込もうとするプロセスに、目に見えない『暴力的な手法』が用いられていないかどうかということです。特定の『価値観』を押し付けるのは、『暴力』の原点であるからです。

見かけ上は『民主国家』であっても、『統率のための価値観』を決めるには、多少なりとも『暴力的な手段』が必要であるとすれば、『芥川龍之介』が、『人間の支配には暴力は必要かもしれない』と言っているのはそのことかもしれません。

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2018年12月13日 (木)

『侏儒の言葉』考・・暴力(3)

人類のすべてが、『釈迦』のように『煩悩』を解脱できれば、人間社会から『暴力』は亡くなるかもしれません。しかし、そのようなことは望みようもなく、『理性で情感を抑制できない人』『自分の望みをかなえるためには手段を選ばない人』が、どのような社会にも統計学上のある比率で存在し、出現しますから(この根源も人間が個性的であることに由来)、人間社会において『暴力』を根絶することは論理的には不可能です。

私たちにできることは、『暴力の出現比率、再発比率を下げる努力』『暴力を罪として刑罰に処すこと』程度のことだけです。『裁判機構』『警察機構』を擁しない国家は存在しないことがそれを立証しています。

人間社会で恐ろしいことは、『権力者の暴力(肉体的、精神的抑圧)が特権的に黙認される体制』です。『独裁者』による恐怖政治体制などが典型で、『裁判機構』『警察機構』も『独裁者』の私物に化してしまいます。

人類はこの弊害を排除するために、『民主主義』『三権分立』などという『仕組み』を考え出しました。『法』の下では『王様』も『庶民』も平等という考え方です。これで『特権的な暴力を振るう人物』は出現しにくくなりました。

それでも特定の『コミュニティ』の中で、『特権的に暴力を振るう人物』が頻繁に現れ、『独裁社長』『独裁的なスポーツ指導者』などの露呈が後を絶ちません。

『地位の特権を暴力で表現したくなる習性』は、誰もが根源的に保有する『煩悩』の一つなのかもしれません。戦時中の日本陸軍内部で横行した『上等兵の兵卒に対する暴力』などは、幼稚の極みですが、それでも黙認されました。

『暴力はいけない』『暴力追放』と叫ぶことは容易ですが、人間の『煩悩』の中に『暴力』の種が潜んでいると考えると、実際の対応は容易ではないことがわかります。

『人間を支配することに暴力は必要か、必要でないか』という問いに答えることも容易ではありません。

『支配する』という言葉に、そもそも暴力的なニュアンスが含まれているようにも感じます。

それでは『人間社会を統率する』といいかえたら、『暴力』の関与はなくなるのでしょうか。

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2018年12月12日 (水)

『侏儒の言葉』考・・暴力(2)

自分の『価値観』の正当性を『問答無用』と相手に押し付ける手段が『暴力』であるとするならば、肉体的に危害を与える行為だけが『暴力』ではありません。

『言葉』も『暴力』になりえます。このことを理解しない人たちが多いために、インターネット上で他人の尊厳を貶める『罵詈雑言』が行き交い、『炎上』などという品格を欠いた事象が頻発します。、

社会的な地位を利用して、それを行うならば『パワー・ハラスメント』になります。

社会的な地位が高くなると、人間は『自分は偉い』と勘違いしやすくなります。『貴様は自分を何様だと思っているのか』『私が誰かわかって口をきいているのか』などと威嚇する人物に、尊敬に値する人物はいません。

スポーツは、軍隊と似たところがあり、『上下関係』で命令に絶対服従する必要が時に生じますので、昨今スポーツ界で『パワー・ハラスメント』の問題が噴出している背景に、『上下関係』に関する勘違いがあるのでしょう。

『暴力』でしか問題解決が出来ない人を、『芥川龍之介』が『石器時代の脳髄しか持たぬ人物』と表したくなる気持ちはわかります。

『教養』や『理性』が、『暴力』を抑制する要因になることはわかりますが、人間社会から『暴力』が一向になくならないところをみると、人間と『暴力』の問題には、人間の本質にかかわる何か深い要因があるのかもしれません。

『芥川龍之介』もなんとなくそれを感じたのでしょうか、『人間支配には暴力は必要なのかもしれない、或は必要でないのかもしれない』と曖昧な表現で、それ以上の言及を避けています。

梅爺は、これも『精神世界』を根源で支配している『安泰を希求する本能』が関与していると考えたくなります。

自分の『安泰』を脅かすものを、根本的に排除する手段は、自分の『安泰』を脅かしている相手を完全に抹殺することです。

生物の世界で、『相手を完全に抹殺する』という『暴力』行為が生存競争の中で行われます。もちろん自分の『生き残り』を賭けた命がけの行為ですから、その行為を行った生物には『暴力はいけないことである』などという認識はありません。

他の生物を捕食のために殺すという『暴力』も、根源は『安泰を希求する本能』ですから、本来『罪の意識』などとは無関係な行為です。

『暴力』を『いけないこと』『罪』と関連付けて認識するのは、人間という生物の『精神世界』が高度な進化を遂げてきたからです。

しかし、人間にも先祖の生物から継承している『安泰を希求する本能』があり、自分を優先する『生き残り』のために『暴力』という手段を行使する誘惑から逃れられないのではないでしょうか。

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2018年12月11日 (火)

『侏儒の言葉』考・・暴力(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『暴力』という一文への感想です。

大変短い内容ですので、全文を紹介します。

人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかし、亦権力も畢竟(ひっきょう)はパテントを得た暴力である。我々人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかもしれない。

最初に『芥川龍之介』は『人生は複雑である』と言い放っただけで、『何故人生は複雑なのか』には言及していません。

自分の意思とは無関係に『生命』を得てこの世に現れ、また自分の希望とは無関係に死を迎えるという、自然界(物質世界)の『摂理』に支配されて『生きる人生』という視点で見れば、確かに一人の人間を構成する60兆個の細胞が繰り広げる『生の営み』は気も遠くなるほど『複雑』ですが、『芥川龍之介』の指摘する『複雑』は、このことではないでしょう。

『芥川龍之介』の指摘する『複雑』は、『人間関係』に由来するものと推察できます。

この『複雑』という言葉に、『人生はなかなか自分の思うようにはいかない』という意味が含まれているとすれば、その原因は『人間は一人一人個性的であるように宿命づけられている』ことであろうと梅爺は思います。『生物進化』の過程で獲得した世代交代の『しくみ:両親の遺伝子から子供の遺伝子が偶発的に決まる』がその宿命の要因です。

無人島に一人生きる『ロビンソン・クルーソー』は、生物として『生きる』ことには過酷な試練をうけますが、『複雑な人間関係』に悩むことはありません。つまり『ロビンソン・クルーソー』には『芥川龍之介』流の『人生は複雑である』という表現はあてはまりません。

人間が『個性的』であるために、必ず『価値観』の違いが生じ、『人間関係』の中で、その『価値観』の違いにどのように対応していくか求められます。

論理的にいえば、人間の数だけ異なった『価値観』があるということで、この事実を『理性』でまず理解しなければなりません。

残念ながら、多くの人が『人間は個性的である』ということの深い意味を理解しているようには見えません。その証拠に、他人が自分と異なった『価値観』を表明すると、戸惑い、怒り、『あなたは間違っている』と糾弾し、自分の『価値観』だけが『正しい』と主張します。

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2018年12月10日 (月)

梅爺創作落語『極楽詣で』(12)

(ご隠居)『それでも八っつぁんが観てきた極楽の周囲の様子は、和尚の話とそれほど違いませんな。暑くも寒くもなく、色とりどりの花が咲き乱れ、香(かぐわ)しい香りが漂い、天女の楽の音がどこからか聞こえてくるといったところは、和尚の話とそっくりじゃありませんか』
(八五郎)『そういわれればそうですな。でも又兵衛さんにも言ったとおり、あっしはあんな何も変化がないところに3日もいたら、飽き飽きして逃げ出したくなるというのがホンネですな』
(ご隠居)『でも極楽の霊者は、その何も変化がないことこそ心の安らぎと受け取って満足しておられるなら、それでいいんじゃないのかい』
(八五郎)『とにかく分かったことは、この世とあの世は全くの別の世界であるということですな。この世で通用する考え方、感じ方の尺度は、あの世には持ち込めないと覚悟する必要がありますな。とにかく誰も死ねば極楽へいけるのですから、そこへ行ったら郷に従えばよいという、それだけのことですな。それよりも、人がこの世にある時の生き方について述べられたお釈迦様の教えにもっと耳を傾けるべきではないんでしょうかな。極楽で阿弥陀如来様から聞いた話では、お釈迦様の本当の関心は、何故人が生きることはとは苦しいことを伴うのかといったことで、そのために煩悩の解脱という境地に至ったということでした。あっしはそれを聞いて目からうろこが落ちました。死後の救いではなく、生きている時の救いをお考えになったということですからな。あっしらにとってはまず生きる方が死ぬことより先決でござんしょ』
(ご隠居)『なにやら極楽を観てきて、八っつぁん、一段と賢くおなりだねぇ』
(八五郎)『聞いていたことと、実際に観たことが大きく違っている時、聞いて極楽観て地獄、何ぞといいますが、極楽は観ても聞いても極楽でしたな。地獄なんぞはないと分かれば一層すっきりしますなぁ』
(ご隠居)『そういった事情を知らない檀家の人たちは、地獄へ落ちることから免れようと、お布施を包む紙があと何枚必要なのだろうと、そんなことばかり気にして生きているんですな』
(八五郎)『それで、檀家の衆たちは、御本尊の前で、ナンマイダ、ナンマイダ(何枚だ:南無阿弥陀仏)とお伺いを立てているわけですな』

お後がよろしいようで。

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2018年12月 9日 (日)

梅爺創作落語『極楽詣で』(11)

(八五郎)『この話を万福寺の和尚にすべきでござんしょうかね』
(ご隠居)『極楽の阿弥陀如来様のご希望では、八っつぁんに、この世で本当の話を広めてほしいということでしたな』
(八五郎)『へぃ、安請け合いしてしまい後悔しているんですよ』
(ご隠居)『これはあくまでも私の了見ですが、和尚に話しても、全く聞く耳を持たんでしょうな。少なくとも、今すぐ話をするのはやめた方がよかろうのぉ』
(八五郎)『あの和尚は石頭ですからな』
(ご隠居)『いや、石頭というよりは、人間というものは誰でも一度思い込んだことを変えることは難しいもんですよ。特に和尚は、若い時からの修行で、仏のこと、極楽、地獄なんぞといったあの世のことを沢山学び、頭へ叩き込んできましたから、その考え方は、ちょっとやそっとでは変わらんfでしょうなぁ』
(八五郎)『あっしも、それがちょいと気になっていたんですよ』
(ご隠居)『とりあえず極楽があることがわかったのは良いとして、地獄はない、如来、菩薩、明王、天部などは、お釈迦様の教えとは関係がない、などと聞いたら、腰を抜かすというより、大いに立腹するんじゃありませんか』
(八五郎)『あっしの観てきた極楽は、人は死ねば誰でも行けるところでしたから、こんなことが分かっちまったら、地獄へ落ちる恐れを誰も抱かなくなり、お寺へお布施を届けること人も減って、和尚としてはおまんまの食いっぱぱぐりになっちまいますからな』
(ご隠居)『地獄へ落ちたくなかったら、この世で功徳を積め、つまりお布施を払えというのが和尚の決まり文句ですから、たしかに地獄がないというのは、和尚には困ったことになりますな。ただ、お前さんの話によると、先祖を供養することは大切で、それがないとあの世の霊者が、盆に里帰りできないということでしたから、先祖の供養には和尚が必要かもしれませんな』
(八五郎)『しかしよく考えてみると、この世の人たちが、先祖を供養しなくなったりして、誰の頭にも先祖の思い出がなくなってしまったら、あの世の霊者は誰も里帰りできなくなり、この世とあの世の関係は全く途絶えることになりませんかなぁ』
(ご隠居)『でも、八っつぁんのところへ現れた又兵衛さんは、お前さんの遠い祖先で、お前さんの思い出にはないお人じゃないのかい』
(八五郎)『そう云われればそうですな。まあ、身内や知り合いで先に死んだ者があるなら、その人の思い出が生きてる人の頭にある限り、とにかく供養しろということですな。極楽では霊者同士の関係は皆心得ているようですから、先祖の関係をたどって、遠い先祖も里帰りできるということですな』

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2018年12月 8日 (土)

梅爺創作落語『極楽詣で』(10)

(八五郎)『それじゃ、又兵衛さん、そろそろこの世に帰るとするかね。どうすればいいんだい』
(又兵衛)『先ほどの、現世の渕を見下ろす崖の上の野原へ移りましょう。はい到着しました』
(八五郎)『極楽じゃ、どこへ行くにも瞬(またた)く間だね。ここで何をすればいいんだい』
(又兵衛)『八五郎さん、お独りで、崖の縁(ふち)へ行って、下の縁の渦へ思い切って飛び込んでください』
(八五郎)『下の渦までは2間もありそうで、ちょいと足がすくんじまうな。それにあっしは自慢じゃねーが泳ぎは得意じゃねーんだよ。こんなところで溺れて土左衛門になりたくはねーな』
(又兵衛)『極楽では、死ぬというようなことはありません。大丈夫ですから思い切って飛び込んでください』
(八五郎)『お前さんも薄情だね。そんな離れたところにいないで、こちらへ来て一緒に飛び込んでおくれよ。一人じゃ心細くていけねーよ』
(又兵衛)『それではまた私もこの世へもどってしまい、堂々巡りになるって八五郎さんご自身で言っていたではありませんか。目をつぶりこの世へ戻ることを念じながら飛び込んでください』

(八五郎)『ご隠居さん、これがあっしが極楽へ行ってきた経緯(いきさつ)です』
(ご隠居)『するってぃと、お前さん現世の縁の渦へ飛び込んだのかい』
(八五郎)『もうやぶれかぶれで飛び込んだんでございますが、気がつくと、濡れも何もせずに仏壇の前に座っておりました。あっしにとっては極楽は一刻ほどの時間のつもりでしたが、長屋の外に出ると、出会う皆が、八っつぁん3日(みっか)ほど見掛けなかったけど、どこへ行っていたんだいと、ご隠居と同じことをきくもんですから、この世と極楽じゃ時間の進みが違うんじゃないかと初めて気づきました』
(ご隠居)『それで、早速太郎兵衛さんの所へ行って、お雪さんを嫁にほしいと頼んでみたのかい』
(八五郎)『へぃ、どうも驚いたことに、極楽のおっかさんの言っていたことがその通りで、とんとん拍子に縁談がまとまりました』
(ご隠居)『それは、おめでたい話で何よりですな。それにこれでお前さんが極楽へいってきたのは、夢や作り話ではないことが確かになりましたな』

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2018年12月 7日 (金)

梅爺創作落語『極楽詣で』(9)

(八五郎)『あっしを好いていてくれる娘が近所にいるって、一体誰のことですかい』
(おっかさん)『長屋の太郎兵衛さんのところの、お雪さんだよ』
(八五郎)『お雪坊なら、幼馴染だが、おっかさんも知っての通り、お雪坊は今や長屋小町といわれる別嬪(べっぴん)で、気立てもやさしい娘(こ)ですから、お雪坊さえ望めば、日本橋の大店(おおだな)の若旦那のところでも、どこでも輿(こし)入れできますよ。あっしのような貧乏大工には出る幕がございませんよ。それに近頃じゃお雪坊はあっしをみかけると、ぷいと横を向いてわざと知らんぷりをして通るんですよ』
(おっかさん)『お前も馬鹿だね。それは好いているからこその素振りじゃないか。女は好いた人と一緒になるのが、何より幸せなんだよ。この世に戻ったら、しっかり話をつけるんだよ』
(八五郎)『好いているからこそ知らんぷりをするなんて、どうも女心は難しいもんですな。でも、8年ぶりにおっかさんのお説教がきけて、極楽に来た甲斐がありました。戻ったら太郎兵衛さんに、お雪坊を嫁にもらえるかどうか確かめてみましょう』
(おっかさん)『今度お前に会えて話が出来るのは、お前が死んでこちらに来た時だから、だいぶ先の話になるね。それまでは盆の度に里帰りして、蔭ながらお前を見守っていますよ。この世では達者が一番だからね』
(八五郎)『へぃ、かしこまりました。それでは、おとっつぁん、おっかさん名残惜しいですが、この辺でお暇いたします。あれっ、そう礼を言った途端に、二人の姿はもう見えなくなりましたな』

(又兵衛)『お二人ともにこにこしていましたから、八五郎さんのお気持ちは十分伝わりましたよ。さて外(ほか)に極楽について、見聞きされたいことはございますか』
(八五郎)『見渡すところ一面に色とりどりの花々が咲き乱れていて、えも言われぬかぐわしい香りがただよっていますな。それに暑からず、寒からずで実に居心地のよいところですな。極楽には季節の移り変わりなんてものはないのかい』
(又兵衛)『季節ばかりか、夜昼の区別もありません』
(八五郎)『どこからか、妙なる楽の音(ね)が聞こえてきますが、あれは誰が奏でているんですかな』
(又兵衛)『空中に浮かんだ天女たちが楽器を奏でているんですよ。もっとも八五郎さんにはその姿は見えませんがね』
(八五郎)『四六時中楽器を奏でているんじゃ、天女さんたちも時には疲れて休みたくなるんじゃないのかい』
(又兵衛)『極楽では、疲れる、飽きるなどということはありません。霊者は食べたり飲んだりはしませんが、いつも満腹です。夜はありませんから眠ることもありません。それに何よりも心を煩(わずら)うこともありませんから、いつも心穏やかです』
(八五郎)『何から何まで結構な聞こえるけれども、正直なところ、あっしは三日も極楽に居たら、飽き飽きして逃げ出したくなりそうな気がしますな。どうも罰当たりなことをいうようですが』
(又兵衛)『残念ながら極楽に、この世の考え方を持ち込むことはできません。飽き飽きして逃げ出したくなるというのは、この世の人の考え方、感じ方です。八五郎さんも霊者として極楽の住人になれば、変わりますよ』

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2018年12月 6日 (木)

梅爺創作落語『極楽詣で』(8)

(阿弥陀如来)『それでは、後のことは又兵衛さんにお任せしますよ』
(又兵衛)『かしこまりました。八五郎さん、せっかく極楽へいらっしゃったのですから、ひとつご両親に会っていかれてはいかがですか』
(八五郎)『おとっつぁんが亡くなったのは10年前、おっかさんは8年前ですから、もし会えるならそいつはうれしいですな。ろくに親孝行はできなかったこともこの際詫びてぃと思います。しかし、又兵衛さん、極楽へきてから姿が見えたのは、又兵衛さんと阿弥陀如来様だけで、外の霊者の方々の姿はどこにもみえませんが、いったいどこにおられるのでしょうな』
(又兵衛)『極楽では、この世で縁があった者同士だけが、以心伝心で集い、お互いの姿も見ることができます。そうでもしないとここには大昔からの霊者が数え切れないほどおられますから、もし皆姿が見えていたら煩わしいことになりますからな』
(八五郎)『それで、姿が見えるもの同士は、話もできるということなのかい』
(又兵衛)『それは、私と八五郎さんがこうして話をしていることでもお分かりでしょう。それでは目を閉じてご両親に会いたいと念じてみてください』
(八五郎)『なんだか狐につままれたような気分だが、やってみましょうかね』

(又兵衛)『はい、目を開けてみてください。ここにご両親がおられます、今までのいきさつは伝えてありますから、すでにご存じです』
(八五郎)『これは、おとっつぁん、おっかさんおなつかしゅうございます。また会えるなんて思いもしませんでした。親孝行したいときには親はなし、なんていいますが、世話ばかり掛けて何も恩返しできなかったことを悔やんでおります。どうか勘弁してください。おとっつぁんもおっかさんもお変わりのない様子で安心いたしやした』
(おとっつぁん)『極楽の霊者に向かってお変りもないはないだろう。ここでは変わるなんてことはないんだよ。それよりもお前が日ごろ先祖を大切に供養してくれるおかげで、わしらは毎年盆には、里帰りしてお前の元気な様子を蔭ながらみて感謝していたんだよ。礼をいうのはわしらの方だよ』
(八五郎)『畏れ入ります。次の盆も楽しみにお待ちします』
(おっかさん)『ところで八五郎、お前まだ独り身なのはよくありませんね。そろそろ身を固めたらどうなんだい』
(八五郎)『これはおっかさん、極楽でお説教でございますか。そいつぁ、あっしも身を固めたいとは思いますが、何しろ貧乏な大工職人のところえ嫁にこようなどという娘はそうはいないんですよ』
(おっかさん)『お前のカンの鈍いのにはあきれるね。近所にお前に恋焦がれている娘がいることに気づかないのかい』

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2018年12月 5日 (水)

梅爺創作落語『極楽詣で』(7)

(阿弥陀如来)『まず私のことをお話いたしましょう。私を皆様が阿弥陀と呼んでくださるようになったのは、お釈迦様の教えがこの世で広まった後のことで、それ以前、私はただ極楽を取り仕切る役目の者でございました。あの世と共に私はずっとこの役目をはたしてきただけでございます』
(八五郎)『するってぃと、阿弥陀様はお釈迦さまが現れるよりずっと前から極楽の守り番であったってぃことですか』
(阿弥陀如来)『お釈迦様がお生まれになるずっと前から、この世は存在しておりましたし、当然ながらお釈迦様の時代より前に亡くなられた方も数え切れないほどおられました。極楽は亡くなった方を霊者として迎え入れるところであって、お釈迦さまが創ったものでも、お釈迦様のために存在するところでもありません』
(八五郎)『ってぃことは、お釈迦様も極楽では霊者のおひとりにすぎないということですか』
(阿弥陀如来)『そのとおりです。お釈迦様は、この世で人間の生き方を深く洞察された方で、その内容が素晴らしいがゆえに、この世の多くの人に受け容れられました。でもお釈迦様も人間のおひとりであることには変わりなく、お亡くなりになった後は、この極楽で霊者として過ごしておられます。極楽には、この世のような身分の差はありません。この世で偉い方でも。、極楽で特別な扱いは受けません。それにお釈迦様は生前死後のことにはあまり触れておられません。お釈迦様のご興味の対象はこの世で生きることの意味であったということでしょう』
(八五郎)『するってぃと、如来、菩薩、明王、天部などという仏様は、どういうことになるんでございましょう』
(阿弥陀如来)『お釈迦様は、そのようなものとは関係がありません。お釈迦様の教えが仏教として、インドから外の地へ伝わったときに、その土地にそれ以前から存在した土着の祭祀や風習が、仏教に入れ混ざって、いろいろな役目の仏様が出現したということです。増えすぎて仏教の当事者も困り、曼荼羅などで役割分担を説明しようとしましたが、さらに秘密めいて分かりにくいものになってしまいました。詳しく知りたければ、お釈迦様の霊に会って、問いただされたらいかがですか』
(八五郎)『あっしらが仏教として教えられたことと、お釈迦様のはじめられた仏教は、かなり違うものであるというお話でございますな。この話を万福寺の和尚にしたら、腰を抜かすどころか気を失うかもしれませんな』

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2018年12月 4日 (火)

梅爺創作落語『極楽詣で』(6)

(阿弥陀如来)『八五郎さんにもご足労をおかけしましたな。亡くなった方がこちらへ来て、盆には里帰りしますが、霊者になった者はこの世の人には姿が見えませんから気配を感じていただくしかありません。この世で語られている極楽や私(阿弥陀如来)のことは、想像だけが膨らんでしまうらしく、必ずしも実態でないことが吹聴されているようで、案じておりました。八五郎さんには、亡くならずにこちらにおいでいただいたわけですから、是非ありのままの極楽や私を観ていただいて、もう一度この世へお戻りになったら、その話をこの世の人たちにお伝え願いたいのです』
(八五郎)『へぇ、そいつはあっしには大役で、大変な重荷でございますが、なんとかお役にたつようにいたします』
(阿弥陀如来)『それでは、又兵衛さん、後のことはお願いしますよ。八五郎さん、その前に私に何かお聞いておきたいことはございますか』
(八五郎)『あっしは無学なもんでございますから、トンチンカンなことをお聞きするかもしれませんが、こちらはあの世の極楽だとして、地獄はどちらにあるんでございましょう。万福寺の和尚は、功徳を積まないとお前さん地獄へいくことになりますぞなんぞとやたらに脅かすもので、いつも気になっていたんでございますよ』
(阿弥陀如来)『残念ながら私も地獄については何も存じません。もちろん地獄をみたこともありません。多分この世の人たちが想像して考え出しただけの場所で、そのようなところはないのではありませんか』
(八五郎)『そいつはどうも驚きましたな。帰ってその話を和尚にしたら腰を抜かすかも知れません。それにしても極楽には、次々に亡くなった霊者が送り込まれてくるとすると、段々手狭になるなんてことはないんでございますか』
(阿弥陀如来)『極楽には、広い狭い、長い短い、遠い近い、初め終わり、などというこの世でいう尺度はございません。どんなに霊者が増えても何も困りません』
(八五郎)『へーぇ、重宝なところでございますな。するっていと三途の川にも川上、川下なんてものはないんでございますな』
(阿弥陀如来)『始めも終わりのありませんから、そうなりますな』
(八五郎)『これは大変お聞きにくいことなんでございますが・・・』
(阿弥陀如来)『御遠慮なさらずに、どうぞお聞きください』
(八五郎)『万福寺の和尚の話では、仏の教えを始められたのはお釈迦様ということでございますが・・』
(阿弥陀如来)『はい、そのとおりです』
(八五郎)『それなら、仏様は釈迦如来お一人ということにしていただければ、あっしらにも分かり易いんでございますが、どうしてお釈迦様以外に、やれ如来だの菩薩だの明王だの天部だのと沢山の仏様がいらっしゃるんでしょうかな。何べん説明を聞いても複雑すぎて、数も多すぎて頭に入らないんでございますよ。阿弥陀如来様もそのおひとりなので、これは失礼な話でございますが、前々から理由(わけ)を知りたいと思っておりましたもので』

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2018年12月 3日 (月)

梅爺創作落語『極楽詣で』(5)

(八五郎)『生きたまま極楽へ行けるという珍しい役目を果たす人間に選ばれるのは面映ゆいことですな。いつも得意げに極楽の話をしている万福寺の和尚さんに、あっしが逆に本当の話を伝えるなんざ、ちょいと想像しただけでも痛快ですな。何やらちょいと不安の気もないではありませんが、ここはひとつ腹を決め阿弥陀如来様を信じて、この話に乗ろうじゃないか』
(又兵衛)『いや、助かります。それでは早速極楽へと向かいましょう。どうかこの仏壇の前で私の隣にお座りください。そして私の手を握り、目を閉じてください、これから一緒に「南無阿弥陀仏」と3回唱えてください。私が「はい」と云うまでは目を開けないでください』
 

(又兵衛)(八五郎)『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』 

(又兵衛)『はい、目を開けてよろしゅうございますぞ』
(八五郎)『へーぇ、あっという間に着いてしまいましたな。ここが極楽かい』
(又兵衛)『ここは「現世の渕」の崖の上の野原で、ここから私が足を滑らし、あそこに見える三途の川の渦に落ちて、お前様の長屋の部屋に現れたという次第です。最前あそこの渦から吹きあげられて、ここへ無事着きました。阿弥陀如来様に元の場所へ戻していただいたということでございます』
(八五郎)『水の中を通ってきたのに、どこも濡れていませんな。極楽というところは便利なところですな』
(又兵衛)『せっかく極楽へいらっしゃったのですから、お前様も覚えておられるご先祖様に会っていただいたり、この世とは違ういろいろなところへも是非ご案内したいと思いますが、まずその前に阿弥陀如来様にお礼を言いにいきましょう』
(八五郎)『阿弥陀如来様のところはここから遠いのかい』
(又兵衛)『極楽では、遠い、近いという考え方がございません。そこへいこうと思えば、そこへ行けるのでございます』
(八五郎)『なにやら、まやかしのような話ですな。ここではあっしは生粋の新参者ですから、よろしく頼みますよ』

(又兵衛)『阿弥陀如来様、只今この世から戻りました。仰せのとおりに、この世の八五郎様をお連れいたしました』
(阿弥陀如来)『おぅ、御苦労であったな。お前さんの珍しいものには何にでも首を突っ込みたがる癖は生来のもので直しようがありませんが、「現世の渕」には二度と近づかぬことですな』
(又兵衛)『畏れ入ります』

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2018年12月 2日 (日)

梅爺創作落語『極楽詣で』(4)

(八五郎)『するってぃと何かい。お前さんは極楽へ戻る方法をご存じごなのかい』
(又兵衛)『はい、先ほど阿弥陀如来様に教えていただきました』
(八五郎)『ちょいとお待ちよ。ここに居るのはお前さんとあっしの二人だけじゃないのかい。阿弥陀如来様がこんな汚い長屋を訪ねてくださるなんてぃ話は聞いたことがありませんな』
(又兵衛)『いえ、阿弥陀如来様は極楽におられて、何から何まで私どもの面倒を見てくださいます。極楽の霊者は、どこに居ても以心伝心で阿弥陀如来様とお話ができるのでございます』
(八五郎)『へーぇ、驚いたね。それでお前さん極楽へ戻る方法を教えてもらったってぃわけかい。その方法とやらは、厄介なものなのかい』
(又兵衛)『いえ、その方法はいたって簡単なのでございますが、厄介なのはそれに一つの条件がついておりましてな』
(八五郎)『なんだいその条件てぃのは』
(又兵衛)『この世の人間を一人を道連れにしないと帰れないということでございます。急な話で恐縮ですが、八五郎さん、極楽までご一緒いただけませんかな』
(八五郎)『いくらご先祖様のお前さんの頼みでも、そいつはきけませんな。だいたい極楽へ行くということは、あっしがこの世をおさらばして死ぬということになるんじゃないのかい。貧乏暮らしでも、まだまだこの世に未練がありますからな』
(又兵衛)『そうおっしゃるだろうと思って、そのことも、阿弥陀如来様に確かめてございます。私に極楽まで付き合っていただいた後は、お望みならいつでもこの世へ御戻りいただけるというでございました』
(八五郎)『その時はまたお前さんを道連れにしなければならないとなると、この話は堂々巡りになっちまうじゃないのかい』
(又兵衛)『いえいえ、お前様一人でお帰りになる方法も阿弥陀如来様に確かめてございます』
(八五郎)『なんだってまた阿弥陀如来様はこの世の人間の道連れをご所望なさるのかねぇ』
(又兵衛)『この世の人たちは、極楽のことは話に聞くだけで、半信半疑な人や、中には全く信じない方もおられますな。阿弥陀如来様は、八五郎さんに実際極楽を観ていただいて、この世にもどり正しい話を伝えてほしいということでございましょう』

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2018年12月 1日 (土)

梅爺創作落語『極楽詣で』(3)

(見知らぬ老人)『実は、手前はお前様の先祖にあたるものでございます。詳しく申せば、お前様の爺さんのまた爺さんで、この世では又兵衛と申しておりました』
(八五郎)『爺さんくらいまでの話なら、少しは聞き及んで知ってても、そのまた爺さんとなると、申し訳ないが皆目見当もつきませんな。へーぇ、そうかいお前さんはあっしのご先祖様なのかい』
(見知らぬ老人:又兵衛)『お前様が、日ごろ手厚く先祖を祀っておられるおかげで、この場所がすぐにわかりました。そこの仏壇の中を通ってここへまいりました』
(八五郎)『霊者というのは便利なものですな、こんな狭い仏壇の中を通って、あの世とこの世の行き来が出来るってことですな。ご先祖様とは知らずに、最前は盗人呼ばわりして、とんだ失礼をしました。どうか勘弁しておくんなさい。ところで盆でもない今の時期にどうしてここへ現れることになったんですかい』
(又兵衛)『それについては、手前も面目のない次第がございましてな。ご指摘の通り、極楽の霊者は、年に一度盆の時期に、この世へ舞い戻ることができます。三途(さんず)の川の岸辺に、そのための「渡り浜」がありまして、そこからこの世へ戻ります。私どもは、水の上も地面と同じように歩くことができますから、難儀はありません。ただし、受け入れ側のこの世の人が先祖を手厚く祀っていることが要件でございまして、この世にそのような人がいない場合は、この世へは戻れません。この世に戻った霊者の姿は、この世の人たちの目には見えません。
この度、私がこちらへ来る羽目になったのは、盆の時の「渡り浜」ではなく、三途の川の早瀬にある「現世の渕」の渦を通ってのことでございます。この「現世の渕」は、極楽では近づく必要がないとされている所ですが、つい野次馬根性で渕の崖上から覗き込んで、足を滑らして渦にはまることになってしまいました。渦の中は暗闇でしたが、やがて光がもれる裂け目が見えてきて、そこを通り抜けてみると、ここに出たという次第です。幸いお前様が普段先祖の霊を手厚く祀っていてくださった為に、仏壇の中に光の裂け目ができて、私を導いてくれたに違いありません。お前様に私の姿が見えるということは「現世の渕」を利用してこちらへやってきた霊者の姿は、この世の人にも見えるということでございましょう』
(八五郎)『なるほど、事の次第はわかりましたが、ところで、この先どうされるおつもりなんですかい』
(又兵衛)『お前様にもお目にかかれましたから、もうこれ以上この世に留まる理由(わけ)はありません。ただ、極楽へ戻るためには、ひとつ厄介なことがございましてな』

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