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2018年11月30日 (金)

梅爺創作落語『極楽詣で』(2)

(大屋のご隠居)『万福寺の和尚の話じゃ、極楽浄土は西方十万億土の遠い場所と聞いておったがの。それがなにかい、お前さんがここお江戸の神田から、ちょいと行って戻ってこれるくらい極楽は近い場所なのかい』
(八五郎)『なにせ、行きと帰りの道中のことについちゃ、何も覚えて居りませんから、遠いか、近いかと尋ねられてもお答えできませんな』
(大屋のご隠居)『どうも煙に巻かれたような話ですな。何があったのか、もうちょっとわかるように話しておくれよ』

(八五郎)『へい、かしこまりました。昨夕(ゆんべ)仕事を終えて家に帰ると、暗い部屋の仏壇の前に、白髪白衣の見知らぬ爺さんが、しょんぼり座っていたんでございますよ。もっともあっしには昨夕(ゆんべ)のことですが、今になって考えてみると4日ほど前のことになりますな。その後の顛末はこういうことでございます』

(八五郎)『ちょいと、そこのお方。他人の長屋へ断りなくあがりこんじゃ困りますな。それともなにかい、何か金目のものでも探しておられるのなら、お生憎さまですな。住んでいる独り身のあっしでも困るほど、ここには何もありはしませんよ。どうせ盗みに入るなら、この先の大屋さんのところになさいな。あそこなら少しは金目のものも見つかるかもしれませんからな』
(見知らぬ老人)『突然、お騒がせして申し訳ありません。手前は盗人(ぬすっと)などではなく、極楽に住む霊者でございます』
(八五郎)『ちょいとおまちよ。霊者ってぃのは既に死んじまった人のことじゃないのかい。お前さんが霊者ってぃことは、お前さんは幽霊ってぃことかい。どうも驚いたね。幽霊にしちゃお見かけするところ足があるのはどうしてだい』
(見知らぬ老人)『幽霊は普通の霊者ではなく、死んで成仏できない亡者(もうじゃ)がこの世にあらわれる姿のことでございます。したがって霊者には足がございます』
(八五郎)『そういうことかい。それにしても、亡くなった人がこの世に戻ってくるのは盆の時期と決まっているんじゃないのかい。それがこんな春先に、選りによって、あっしの長屋へ現れることになっちまったのは、何か深い理由(わけ)でもあるのかい』

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2018年11月29日 (木)

梅爺創作落語『極楽詣で』(1)

相変わらず馬鹿馬鹿しいお話でございますが、一席お付き合いをお願いいたします。

お寺で和尚さんのありがたい説法などを聞いておりますと、必ず『あの世』の話が出てまいりますな。

『この世』で仏の教えに反するようなことばかりしておりますっていと、死んだ後の『あの世』では、『閻魔さま』から『地獄』へ行くように命じられてしまうってんですから、なんとも恐ろしい話でございます。

誰も胸に手を当てて考えてみれば、生きているだけで後ろめたいことの一つや二つはございますから、なんとか『地獄行き』だけはご勘弁いただきたいと案じたり願ったりすることになりますな。

和尚さんの方も、その辺のことは承知しておられるとみえて、『地獄へ行きたくなければ功徳を積みなさい』などと言いながら、よく確かめてみると『功徳』とは『お布施』をはずむことらしいことが分かったりしますので、『地獄の沙汰も金次第』などと、昔の人はうまいことを言ったものでございます。

(大屋のご隠居)『おや八っつぁん、二三日見かけなかったけれど、どちらか旅にでも出ておられたのかい』
(八五郎)『それがご隠居さん、ほんの一刻ほど、極楽へ行ってまいっただけなんでございますよ』
(大屋のご隠居)『八っつぁん、年寄りをからかうんじゃないよ。極楽なんてところは死んだ人がいくあの世じゃないかい。お前さんは、それそのようにぴんぴん生きているんだから極楽はないだろう。それに、一刻ほど留守にしたら、二三日経っていたなんて不思議な話も腑に落ちませんな』
(八五郎)『それはあっしも腑に落ちないんでございますが、浦島太郎も竜宮城から戻ってみると、この世では突然白髪の爺さんに変わったということですから、あの世から帰ってきて、おかしなことに出会うことがあるのかもしれませんな』
(大屋のご隠居)『するっていと、お前さんが極楽へいってきたというのは真面目な話なのかい』
(八五郎)『真面目も真面目、大真面目な話でございます』

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2018年11月28日 (水)

Dan Brown の小説『Origin』(12)

犯人が判明し、『ヴァルデスピーノ司教(カソリック)』『ジュリアン皇太子』『パルマリアン教会』への嫌疑は晴れ、『皇太子』と『女美術館長(アンブラ・ヴィダル)』の仲は元に戻り、将来を誓い合います。旧弊にとらわれない次の『国王』『王妃』の誕生が約束されたということになります。

関連する犯罪(暗殺)に関与した『人工知能』は、プログラムに則って『自己消滅』します。

『国王』は臨終を迎え、特別の仲(プラトニックな同性愛)であった『ヴァルデスピーノ司教』は後を追って自ら命を絶ちます。

物語はめでたく終わりますが、『科学者(犯人)』の『宗教はやがて見放され、科学が支配する』という未来予測が読者へ突きつけられたままで残ります。

梅爺は『宗教対科学』という比較で、人間や人間社会を論ずるのは単純すぎるように感じます。

人間が『生きる』ことに大きく関与しているのは、『物質世界』の『摂理』であることは確かで、これは『科学』の領域ですから、将来『科学』の重みが一層増すことは間違いありませんが、一方『脳』が創り出す『精神世界』の抽象概念が生み出す『価値観』も『生きる』ことへ少なからず関与していることも確かですから、『精神世界』の重要性も減ずることはないと考えられます。

『精神世界』の活動の典型的な一つである『芸術』などは、『科学』の隆盛で衰退するようなことはないでしょう。

しかし、従来『精神世界』の活動の中で重要な位置を占めていた『宗教』が、従来通りに『人間』や『人間社会』から受け容れられ続けるかどうかは不透明です。少なくとも従来通りとはいかずに影響力が減少するのではないでしょうか。

それは、『宗教』が権威を保つために、本来『物質世界』で論じられるべき事象にまで、『これが真実』と『虚構』を提示し、それを無条件に『信ずる』よう信者に求めてきたことが、段々理性で受け入れられにくくなるからです。中世の人たちに通用した話は、現代人には通用しません。『科学知識』の量が全く違っているからです。

『天地創造』『エデンの園』『アダムとイヴ』『処女懐胎』『死者復活』などは、現代人の理性では受け入れられにくいことです。

『煩悩を解脱する努力』『周囲に愛で接する』などという『生き方』に関する『宗教』の『教え』は、『精神世界』にとどまった話ですから、現代人にも通用します。しかし、『虚構の出来事』を『事実』として押し通すことは無理な話です。

『宗教』が、生き残る道は『教え』と『出来事』を区別し、『出来事』は『科学』に任せて、『教え』だけに徹することのように思いますが、『出来事』の否定は『教義』全体の否定につながりますので、難しいことには違いがありません。

将来『精神世界』が重視する『価値観』のなかで、『宗教』がどれだけの位置を保ち続けられるかが問題です。『虚構の出来事』を無条件に『信じろ』と説くだけでは、衰退は避けられないのではないでしょうか。

しかし『精神世界』から、『芸術』『道徳』『倫理』が失われていくことはないでしょう。『科学』は重要ですが、『科学』だけが『生きる』ことを支配しているのではないことを、私たちは認識すべきです。

『Origin』という面白い小説を読んで、梅爺は一層そのことを強く感じました。

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2018年11月27日 (火)

Dan Brown の小説『Origin』(11)

小説では、『証拠』の公開で、世界中が論争に巻き込まれ、多くの人が『宗教』と『科学』の問題を、改めて考えることになります。 

『無神論者』は、鬼の首を取ったように『それみろ』と叫び、『神による天地創造』を信ずる人は、一層感情的にこの『証拠』に反撥します。

人間社会には、『伝統』『習慣』などがあり、慣性がありますから、すぐに現状の『宗教』が全否定されるようなことにはなりませんが、将来人類は『宗教』離れをする可能性はあるように梅爺は思います。現代人は『古代エジプトの神々』『古代ギリシャの神々』をすでに信仰の対象にしていないことが、それを示唆しています。 

読者に自ら『考えてほしい』というのが作者『Dan Brown』の真の意図なのでしょう。

小説は結末へ至り、ついに一連の騒動の首謀者(犯人)が明らかになります。

伝統的な『探偵小説』では一般にタブーとされていた、『被害者が犯人』というプロットが採用されています。

つまり、全世界の人がインターネットで中継されている『科学的新証拠発表会』を注視する中で、暗殺者によって殺害された発表者の『科学者』自身が、一連の事件を周到に仕組んだ『犯人』であったという破天荒な結末です。

人類の起源について決定的な『科学的新証拠』を発見した『科学者』は、従来からの強い持論である『宗教は人類に有害な存在』を具体的な手段で示すために、『科学者暗殺の黒幕は宗教団体(その関係者)』という疑惑を駆り立てる筋書きをねつ造し、実行したことになります。

自分の命と引き換えに、壮大な復讐を果たすというような話ですが、『科学者』自身が深刻なガンに犯され、死を覚悟して、どうせ死ぬなら『宗教』を巻き添えに貶めようとしたということなのでしょう。『科学者』の母親が『宗教』に洗脳され、不幸な死に方をしたということも復讐の背景にあることが明らかになります。

『暗殺』以前、以後も『科学者』の思惑通りに事件を進行させるには、有力な『共犯者』が必要になりますが、この場合の『共犯者』は、生身の人間ではなく『科学者』が創造した『人工知能(ウィンストン)』であるという、巧妙な設定になっています。

『人工知能』が犯人の一人という設定は、『Dan Brown』らしい、現代社会の関心事と科学知識を反映したものです。『犯人』の死後も、『犯人』の意図を実行する『共犯者』が存在するという見事なアイデアです。

暗殺の実際の実行犯『元スペイン海軍提督』は、妻子の命ををセビリアの『教会テロ』で奪われ、『敵を愛せよ』などというカソリックの教えに反抗して、原理主義宗派『パルマリアン教会』の信者になります。

この実行犯の心理に便乗し、『教会テロ』で妻子を殺したのは、『科学者』の『無神論』を支持するグループであると洗脳して、『科学者』への復讐に奮い立たせたのは、『リージェント』というインターネットで声の指令を送ってくる謎の人物でしたが、その正体は『科学者』の創造した『人工知能』であったということになります。

『人工知能』は、一方で『教授』等の逃亡を手助けするようにふるまいながら、一方では『元スペイン海軍提督』を唆(そそのか)して『教授』の命も狙わせるという、多重人格のように振る舞うところが読者を混乱させます。

『科学者』は生前、事件のすべてを詳細に予見して『人工知能』に指令を出したのか、『科学者』の死後は『人工知能』が自主判断で行動したのか、梅爺には判然としませんでした。いずれにしても『人工知能(コンピュータ)』が犯罪の一端を担ぐという設定は、空恐ろしい話です。

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2018年11月26日 (月)

Dan Brown の小説『Origin』(10)

この小説では、昨日紹介した地球環境で、単純構造から複雑構造への変容は起こり得るという仮説で、『ユーリーとミラー』の実験を超高速の『量子コンピュータ』を用いて約40億年の時間経過をシミュレーションすると、『DNA』が出現し、『単細胞生物』が出現し、やがて高等生物が出現することが確認できたという筋書きになっています。 

もっともらしい話に見えますが、この強引な論理には無理があると梅爺は感じました。『DNA』は還元的な化学反応(脱水反応)ですから、海中の環境で出現したとは考えにくいからです。しかし、小説なので『何でもあり』といわれれば、それまでです。一種のSF小説と割り切ればよいのでしょう。 

生命体』の先祖は、『宇宙』から『地球』へ飛来したものという『仮説』もありますが、これも論証は出来ていません。仮にそうだとしても、『宇宙でどのように生命体が出現したのか』という謎が残り、問題の先送りするにすぎません。 

この小説に話を戻すと、『科学者』は、地球での『生命体』の出現とその進化を、コンピュータ・シミュレーションで再現させ、『我々はどこから来たのか』という設問に答えたことになります。つまり、『神』の力を借りなくても、自然界はその摂理だけで、『生命体』を出現させることができると言っていることにほかなりません。

さらに『科学者』は、未来についてもコンピュータ・シミュレーションで予測し、『我々はどこへ行く(向かう)のか』という設問に対しても答えています。

その内容は、『生物としての人間が、科学を応用したモノを体の内外に装着し、ハイブリッド人間(サイボーグ人間)という新種の生物へ進化する』というものです。

現在でも『人間』は、メガネ、入歯、補聴器、心臓のペースメーカーまどを装着して、不都合を補っていますが、もっともっと高度なモノを装着して、多くの不都合を克服した『新種の人間』に進化するという話です。

たとえば『がん細胞』だけを攻撃する、『ナノ・ロボット』を血液内へ注入したり、『脳』の思考や記憶を補佐するための『コンピュータ』を、体内へ埋め込んだりすると言った話です。

確かに、これらは『可能性』がある話ですが、『生物としての人間』を科学の力で『より優れた特性へ変えた新種の人間』が構成する社会は、どのようになり、個人は幸せなのかといった多くの疑問を抱きます。

この小説では、『がん』で自らの死を覚悟した『科学者』が、『新種の人間』の出現で、争いのない、格差の少ない平和な社会を作ってほしいと明るい未来を期待した最後のメッセージを述べます。

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2018年11月25日 (日)

Dan Brown の小説『Origin』(9)

地球の歴史で起きた事象の中で、『物質』や『生命体』が、単純な組織構造から複雑な組織構造へ変容(進化)できたのは何故であろうという疑問があり、この疑問への解答は見つかっていません。

『有機化学物質』が『低分子構造』から『高分子構造』へ変容する事象や、『単細胞生物』から『人間』のような複雑高度な『多細胞生物』に変容(進化)する事象がこれに該当します。

『生命体』にとって必須な『DNA』構造の高分子物質が、何故単純な低分子物質から出来上がったのかが説明できなければ、『生命体』出現の謎にも迫れないからです。

科学者を悩ませているのは、『熱力学の第二法則』という物理法則として定説になっている考え方に、単純構造から複雑構造への進化という事象は矛盾するからです。

『熱力学の第二法則』は『エントロピー増大の法則』ともいわれ、自然界を永い目で見れば、複雑な構造は、単純な構造へ変容し、その時『エントロピー』は増大するという考え方です。

氷を20度の室温で放置すれば、融けて水に変わる(複雑な個体構造から単純な液体構造へ変わる)というような例がわかりやすい話です。

自然界で、単純構造が複雑構造へ変容することが明らかに起きているわけですから、局所的に『エントロピーを減少させる事象』があり、それには必然的な理由がなくてはなりません。

この小説では、この理由として、MITの若い科学者の『仮説』を採用しています。その『仮説』は、『自然界(物質世界)』に存在する究極な指令は、『エネルギーの放出量を増大させよ』というものであるという内容です。

『熱力学の第二法則』も、一般的には成り立ちますが、それよりも上記の究極な指令が強力に働く条件では、成り立たないということなのでしょう。

『無機質』な物質よりも『生命体』の方が、繁殖による個体数増加で、『エネルギーの放出量』は増大しますから、自然環境で『無機質』な物質が、複雑な構造へ変化し、やがて『生命体』に変容するのはあり得る話であるということになります。

梅爺は前にブログで『生命誕生(中沢弘基著)』という本を紹介し、中沢先生の『地球は誕生以来、熱を宇宙空間へ放出し続けている。つまり地球環境のエントロピーは全体として減少している。したがって地球環境では、単純構造が複雑構造へ変容する(進化する)ことが起こる』という『仮説』も紹介しました。

この小説の『自然界の究極指令』説よりも中沢先生の『仮説』の方が説得力があるように梅爺は感じます。

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2018年11月24日 (土)

Dan Brown の小説『Origin』(8)

『教授』と『女性美術館長(将来のスペイン王妃候補)』は、『王宮警護部隊』が差し向けたヘリコプターで『サグラダ・ファミリア教会』から脱出し、『科学者』の研究基地であるコンピュータ施設が、バルセロナ市内にあることを突き止め、潜入します。

なんとコンピュータ施設は、現在では使われていないゴシック様式のカソリック教会の中にありました。『無神論者』であった『科学者』が皮肉をこめて選んだ場所なのでしょう。

コンピュータは『科学者』が開発した大規模な最新の『量子コンピュータ』でした(梅爺注:実用的な量子コンピュータはまだ現時点では存在しません)。

コンピュータに指定の『47文字のパスワード』を入力し、『科学者』が『グッゲンハイム美術館』で発表しようとしていた『証拠』の内容が、ついにインターネットで全世界へ配信されます。

『証拠』は、古代の地球環境(大気ガス、海水、気温、落雷放電)で、アミノ酸などの生物に必要な有機化学材料が生成され、地球環境を支配している物理法則、科学法則だけでやがて『生命体』に変容することを、スーパーコンピュータのシュミレーション(数億年の事象を、短時間に短縮)で実証したものでした。

地球に存在する素材と、『自然法則(摂理)』だけで、『生命体』は出現するという話ですから、『天地創造』といった『神』の関与は否定されることになり、宗教関係者がこの『証拠』公開を危惧して、『科学者』を暗殺したという推理が一層深まります。

古代の地球環境で、生物に必要な有機物質が生成されるという実験としては、1953年アメリカの二人の科学者『ユーリーとミラー』が、ある前提条件で、生命体の基礎となる単純なアミノ酸の生成に成功して有名になりました。『』ユーリーとミラー』は、『生命体』そのものの出現を期待しての実験でしたが、その意味では失敗に終わりました。しかし、現在では彼らが想定した環境条件は、必ずしも古代の地球環境を忠実に反映していないという反論があり、『生命体』出現の決定的な『証拠』にはつながらないとされています。

現在科学者にとって現在解けない謎は、高分子有機化学物質が『生命体』に変容するプロセスで、いくつかの『仮説』はありますが、『定説』にはなっていません。

地球環境の条件の中だけで、『生命体』は出現しうるという『仮説』は、多くの科学者が支持していて、梅爺も『そうであろう』と推測していますが、決定的な論証は出来ていません。この小説で、『ユーリーとミラー』の実験を肯定し、『ユーリーとミラー』が気付かなかった条件を加味すれば、『生命体』の出現は可能であるという筋書きになっています。この条件というのは、『エントロピー』に関するもので、この話には梅爺も興味をそそられました。

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2018年11月23日 (金)

Dan Brown の小説『Origin』(7)

『科学者』が、人類の起源、人類の将来を特定する『証拠』をみつけ、世界へ公表しようとして暗殺されました。

『証拠』を事前に知っていた宗教関係者3人のうち、『ヴァルデスピーノ司教(カソリック)』だけが生き残っていること、刺客(元スペイン海軍提督)の背後に『パルマリアン教会(原理主義の新宗派)』があることを読者は最初のうちに知らされますから、『カソリック』または『パルマリアン教会』が暗殺の黒幕であろうと推理します。

読み進むうちに、一層その嫌疑が深まるような展開になります。仮に最後にどちらかが黒幕ということになれば、実存の組織の名誉棄損として作者は訴えられかねません。さすがに『そうではない結論』が用意されています。『何でもあり』のきわどい小説ですが、『最後の一線』は心得ているということになります。

『科学者』暗殺事件の直後、『ヴァルデスピーノ司教』は、マドリッド王宮から『皇太子ジュリアン』を拉致して、姿をくらまします。

『司教』と『皇太子』に嫌疑が及ぶことを危惧した『王室広報担当』は、『王宮警備の主任』へ嫌疑を転嫁して逮捕し、逃亡中の『教授』と『女性美術館長』に関しては、『教授』が『女性美術館長』を人質にして逃亡していると偽の発表します。

『ヴァルデスピーノ司教』と『皇太子』は、静養先から抜け出してきた『現スペイン国王』が指定する場所で『国王』と密会します。

病状から死を覚悟している『現スペイン国王』は、最後の別れと遺志を『皇太子』へ伝えます。なんと『国王』と『司教』は、同性愛の恋人同士であったことが告白され、『国王』と『司教』は、『皇太子』が『国王』に就任したら、『古い伝統にとらわれずに国家を治めるように』と諭します。もちろん、同性愛はプラトニックな関係なのですが、従来『同性愛』を認めてこなかった『カソリック』のことを考えるとこれは、きわどい話になります。読者の好奇心を満たすなら『何でもあり』のアメリカ人らしいストーリーの典型例です。実在の人物なら名誉棄損になりかねませんが、架空の人物であると言う理由で許されると踏んでいるのでしょう。

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2018年11月22日 (木)

Dan Brown の小説『Origin』(6)

『ラングドン教授』と『アンブラ・ヴィダル(女性美術館館長)』は、『科学者』のスマートフォンを現場から持ち去り、それを介して『人工知能ウィンストン』の指示に従いながら、ビルバオからバルセロナへ逃走します。『科学者』のプライベート・ジェットや特別仕様の車が逃走に使われます。

バルセロナで、『科学者』が居住していた『カサ・ミラ(アウディの設計した建築物)』の最上階へ潜入し、『証拠』を公開するための『47文字のパスワード』を探します。そして浴室に残されていた『薬』から、『科学者』が深刻なガンを患っていたことも知ります。

このパスワードは、『科学者のお気に入りの予言的な詩の一節』であることだけが手掛かりで、ついにその詩の作者は『ウィリアム・ブレーク』であることを突き止めます。『ウィリアム・ブレーク』は18世から19世紀を生きた実在のイギリスの詩人、銅版版画作家で、『宗教』に懐疑的な人物でした。

『科学者』の『ウィリアム・ブレーク』に関する蔵書は、すべて『サグラダ・ファミリア教会』の寄贈され、地下霊廟に、特定のページを開いて展示されていることが分かり、『教授』と『女性美術館長』は、今度は『サグラダ・ファミリア教会』へ向かいます。

『カサ・ミラ』は警察に包囲されていましたが、『女性美術館長:未来のスペイン王妃候補』を保護救出のために差し向けられた『王宮警備』のヘリコプターで脱出します。『女性美術館長』は救出に来た二人の警備員に命令してヘリコプターは『サグラダ・ファミリア教会』へ向かいます。

『サグラダ・ファミリア教会』では『ペーニャ神父』の助けを借りて、二人は地下霊廟で『ウィリアム・ブレーク』の該当の『詩』を見つけ、ついにパスワードを特定します。

パスワードは『"The dark Religions are departed & sweet Science reigns"(暗黒の宗教は見捨てられ、すぐれた科学が支配する)』でした。この文章は46文字ですが『&』をラテン語の『et』に置き換えることで47文字になると『教授』は推論します。

一方、『科学者』を『グッゲンハイム美術館』で暗殺した刺客『ルイス・アヴィラ(元スペイン海軍提督)』は、背後の命令者で『Regent』と名乗る謎の人物の指示で、バルセロナへ向かい『サグラダ・ファミリア教会』へ潜入して、『教授』と『女性美術館長』を警護していた『王宮警備員』二人を殺害し、『教授』の命も狙います。

『教授』は暗闇で刺客を待ち伏せし、体当たりで刺客を階段の下へ突き落とします。刺客は死亡しますが、『教授』も意識を失います。

意識を取り戻した『教授』は、『科学者』の残した『証拠』の一般公開へ踏み切るために、一層の決意を固めます。

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2018年11月21日 (水)

Dan Brown の小説『Origin』(5)

天才的コンピュータ・サイエンティスト『エドモンド・カーシュ(アメリカ人であるが、バルセロナに在住)』は、『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。』という人類にとって根源的な『問い』に応える科学的な『証拠』を見つけたことを公に宣言しようとします。

しかし、彼は宗教界の重鎮たちに、事前にその内容を通告し、反応を確かめようとします。

一般公開予定の前に、『世界宗教会議(主要な宗教の代表メンバーが国際的に集う会議)』のメンバである、『ヴァルデスピーノ(スペイン・カソリック司教)』『イェフーダ・コーベス(ユダヤ教ラビ)』『サイド・アルファディ(イスラム教神学者)』の3人と、『カタロニア修道院』で密かに会い『証拠』を提示します。そして、この『証拠』を一カ月以内に一般公開すると通告します。

三人の宗教関係者は、『宗教』のすべてが否定されると感じ動揺します。『一か月以内』は実は『三日後』であることがその後判明しますが、不可解なことに公開前に、『ユダヤ教ラビ』と『イスラム教神学者』は何者かに暗殺されてしまいます。『証拠』に接した3人のうち2人が殺された(消された)ことになります。

『カソリック司教』は『公開を止めるように』という、要請とも脅迫ともとれるボイス・メールを『科学者』へ送りますが、『公開』は、ビルバオの『グッゲンハイム美術館』を貸し切りにして挙行されることになります。

『公開』には、数百人の『招待客』が出席し、『招待客』には、全員に『ヘッド・フォン』が配布され、人工知能『ウィンストン』の各人向けにカストマイズされたガイドを受けます。

『招待客』の一人に、『科学者』のハーバード大学時代の恩師『ラングドン教授』が含まれていて、二人は『公開』セレモニーの前に会って会話を交わします。

いよいよ『公開』セレモニーが始まります。『招待客』は大規模な『仮想現実』の中に身を置いて、映像で流れるプレゼンテーションを視聴します。このセレモニーの様子は全世界へインターネット中継され、『証拠』もこの手段で公開されることになっていました。

しかし、『証拠』の公開の直前に、『科学者』は、刺客(元スペイン海軍提督)によって暗殺されてしまいます。現場に居合わせた『ラングドン教授』と『美術館館長(女性)』は、刺客を差し向けた黒幕は、『科学者』のコンピュータに収納されている『証拠』も消滅させようとしていることに気づき、それを守るため、『科学者』に代わって公開に踏み切るために現場から逃走します。しかし、その行動で『容疑者』と疑われ、『王宮警備組織』『警察』から追われる身になります。

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2018年11月20日 (火)

Dan Brown の小説『Origin』(4) 

『Origin』という小説の舞台には『スペイン』が選ばれています。

これは『Dan Brown』のストーリー・テラーとしての才能と広範な知識を顕著に示しています。『スペイン』を舞台に選んだことを梅爺が何故見事と思うかの理由は以下です。

(1)ヨーロッパ屈指の『カソリック』信者を擁する国である。人口の半数以上が『神』の存在を信じている。『カソリック』の『王室』および政治への影響力は強い。『科学』と『宗教』の対立を描くには、格好の国である。
(2)保守性が強い文化の中で、社会改革を望む『無神論者』の若者層が増えている。『王室』も改革に無関心ではいられない状況になりつつある。
(3)対極的に、超保守的、原理主義的な宗派活動も存在し、中でも『パルマリアン教会』は、ローマ・バチカンの『カソリック』から独立した立場をとり、独自の『法王』を擁している。
(4)建築家『ガウディ』の思想は『科学的』でもあり『宗教的』でもあるように見える。この小説にはうってつけのものである。
(5)『スペイン』の観光名所を登場させることで、読者の興味を引き付けることができる。『マドリッドの王宮』『カタロニアの修道院』『ビルバオのグッゲンハイム美術館』『バルセロナのカサ・ミラ(ガウディ設計の建物)』『バルセロナのサグラダ・ファミリア教会(ガウディ設計の教会)』が、主要な役目を果たす場所として小説に登場する。

主要な登場人物を以下に列挙します。この顔触れを見ただけで、小説の内容に興味を覚えていただけるに違いありません。

● 『ロバート・ラングドン』教授(ハーバード大) 『Dan Brown』の小説の定番の主人公。
● 『エドモンド・カーシュ』天才的コンピュータ・サイエンティスト、未来学者。
● 『ヴァルデスピーノ』スペインのカソリック司教。国王の信頼が厚い。
● 『アンブラ・ヴィダル』美貌のグッゲンハイム美術館女性館長。皇太子『ジュリアン』から求婚された未来のスペイン女王候補者。
● 『ジュリアン』スペイン皇太子。
● 『ウィンストン』『エドモンド・カーシュ』が創造した人工知能。声だけのロボット。
● 『ルイス・アヴィラ』元スペイン海軍提督。妻子を教会テロで失う。『エドモンド・カーシュ』の直接的暗殺犯。
● 『ゴルザ』マドリッド王宮警護責任者
● 『モニカ・マーチン』マドリッド王宮広報担当責任者(女性)。
● 『ペーニャ』サグラダ・ファミリア教会神父。

人物は当然小説だけの仮想の人物ですが、場所、建築物、組織などはすべて実在するものですから、一般の読者は好奇心を煽られます。『王室』『カソリック』に関してきわどい話が展開しますから、スペインの人たちや関係者にとっては心穏やかならぬ小説であろうと想像できます。

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2018年11月19日 (月)

Dan Brown の小説『Origin』(3)

『理』により推論する限り、『物質世界』に実態としての『神仏』は存在しないと梅爺は考えますが、それはいくつかの『前提』を重視した推論ですから、もちろん梅爺が理解できていない『前提』があれば、結論は異なったものになりえます。 

つまり、『物質世界』に『神仏』は存在しないことを、普遍的に梅爺は証明できません。基本的姿勢は『無神論者』といわれる人たちと同じですが、厳密にいえば『わからない(証明できない)』わけですから『不可知論者』になります。 

一方、『精神世界』の中に共有されている『神仏』という『抽象概念』の存在とその意義については理解できますから、世の中の『無神論者』よりは柔軟です。 

この梅爺の立場は、なかなか理解されません。多くの場合『存在しないと思うと言いながら、その抽象概念の意義は認めるなどというのは甚だしい矛盾だ』と批判されます。これは『物質世界』と『精神世界』の関係が理解されていないからです。『神仏』は『精神世界』でのみ意味を有します。 

梅爺の推論が正しければ、もし地球上から人類が消え失せれば、『神仏』という概念も消滅し、『物質世界』は『神仏』のない世界であり続けるであろうということになります。地球上に『人間』が出現するまでは『神仏』は存在しなかったとすれば、もとへ戻ったことになります。『神』は『人間』を創造したのではなく、『人間』が『神』を創造したという畏れ多い推論です。 

『人間はどこから来たのか、人間は何者なのか、人間はどこへ行くのか』は、ゴーギャンがタヒチで描いた絵画のタイトルとして有名です。この問いは、歴史上、多くの哲学者たちを悩ませてきました。 

中世以前の人類は、現代人が保有するような『科学知識』を持ち合わせていませんでしたから、哲学者は四苦八苦しました。

現代の科学者は、上記の『問い』に、あるレベルの科学的な『答』を提示しています。

『我々はどこから来たのか』・・地球上に存在した物質(もとは宇宙の素材)を利用して偶然『生命体』が出現した。『生命体』は生物進化して『人間』が登場した。
『我々は何者か』・・地球上に存在する生物進化で登場した生物の一種。
『我々はどこへ行くのか』・・『個体(個人)』は死んで、素材に戻る。それ以外は何も残らない。『種』は地球環境が許す限りにおいて世代交代で存続し続ける。ただし、都合がよい環境は未来永劫続かないので、いつかは『種』も絶滅する。

ただ『我々はどこへ行くのか』については、『科学技術で強化されたサイボーグ(新種人類)への変身』『地球外の惑星への移住』などという、SFまがいの話も登場することがあります。

実に『味気ない答』です。ここには『神(仏)』『神による天地創造』『霊の不滅』『輪廻転生』『あの世(天国・地獄)』『最後の審判ですべての死者が復活』などという話は一切登場しません。

『Origin』という小説は、現代人が抱え込んだ、『宗教』と『科学』のあまりにも違う『説明』内容の矛盾を正面から取り上げたものです。

作者は、公平に描こうとしていますが、作者自身は『科学有利』という立場であることが、うかがえます。

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2018年11月18日 (日)

Dan Brown の小説『Origin』(2)

梅爺は『梅爺閑話』を10年にわたって書き続け、その中で『物質世界(宇宙、自然界)』と人間の『精神世界(心)』の関係を論じているうちに、『神仏』という概念は、人間の『精神世界』が『虚構』として考え出した『抽象概念』であろうと考えるようになりました。

『物質世界』の中に、『宗教』が説くような『神仏』が実態として存在するとは、論理的に考えにくいと強く思うようになったということです。『物質世界』に実態として存在するものは、すべて138億年前の『ビッグ・バン』で出現した有限の素材(素粒子)で構成され、その構成のプロセスは『物質世界』を支配する『摂理(ルール)』に則っています。生物としての人間(ヒト)も、例外ではありません。

天空(物質世界)のどこかに『神仏』が実態として存在するとすれば、『神仏』もまた同じ素材で構成され、その活動は『摂理』によって規制されていることになります。この推論内容は、『宗教』が説く『神仏』の姿からは程遠いものです。

さらに決定的なことは、『物質世界』には、『愛』『慈悲』『罪』などという抽象概念は全く通用しないということです。『愛』『慈悲』『罪』などという抽象概念は、『神仏』同様、人間が『精神世界』で創出したものと考えれば、得心がいきます。

人間の『精神世界』の大きな特徴の一つは、自由奔放に『虚構』『抽象概念』を創出できることです。『物質世界』の『摂理』に制約されない自由奔放な『虚構』が可能ですから、『ドラゴン』『フェニックス』も出現します。そして『神仏』も登場します。

このような特徴を持つ『精神世界』を、なぜ生物としての人間(ヒト)は、生物進化の過程で保有するようになり、それを高度なものに進化させてきたかを考えることは重要です。当然『生きる』ためにそれが有利な条件であったからです。『神仏』という抽象概念を創出し、それを共有することは『生きる』ために有利な条件であったということです。

『精神世界』は人間にとって極めて重要な意味を持ちます。それを考えるには『情』のことを理解する必要があります。しかし、『精神世界』で重要な意味を持つ『情』は、『物質世界』では何の効力も持ちません。

『情』に強く支配される『精神世界』と、それが通用しない『物質世界』の違いを理解すれば、『神仏』は実態として『物質世界』には存在しないけれども、『精神世界』における『抽象概念』としての『神仏』は、人間にとって意味のあるものであることがわかってきます。

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2018年11月17日 (土)

Dan Brown の小説『Origin』(1)

アメリカのミステリー作家『Dan Brown』の最新小説『Origin』の英語版を、電子書籍リーダー『Kindle』にダウンロードして読んでいます。

『Dan Brown』は、『Da Vinci Code』が世界的なベストセラーになり、一躍人気作家になりました。

『Da Vinci Code』は、『レオナルド・ダヴィンチ』が15世紀末に、ミラノ『サンタ・マリア・デッレ・グラチィエ修道院』の食堂の壁に描いた『新約聖書』の名場面『最後の晩餐』の中に、『レオナルド・ダヴィンチ』がある『秘密』を忍ばせたという仮説で展開するミステリー小説です。

画面中央に描かれている『キリスト』の右隣の人物は、『若い使途ヨハネ』と歴史的には見なされてきましたが、実はこの人物は『マグダラのマリア(女性)』で、彼女は『キリスト』の妻であったというのが小説の筋立てです。カトリックでは一般に『マグダラのマリア』は娼婦ということになっていますから、信者から反感を買いました。

『歴史』に隠されている『秘密』と、それに関連して現代の世界で起きた『事件』を組み合わせた小説技法は、『Dan Brown』だけではなく『Steve Berry』も得意とする分野で、梅爺は、新刊が出版されると買いあさって読んで、ブログで紹介してきました。

『Dan Brown』は『歴史』のほかに『最新科学』の知識も小説に盛り込みますので、野次馬精神に富んだ読者にとっては、『歴史知識』『最新科学知識』それにストーリーの『謎解き』を一緒に堪能できるという『一石三鳥』の楽しみ方ができます。それに現代のストーリーは、世界各地で展開しますから、もうひとつ『仮想世界旅行』の楽しみも加わります。

『Dan Brown』同様、『最新科学』を小説に取り込む作家としては『Michael Crichton』が有名で、その作風は『テクノ・スリラー』と呼ばれています。『ジェラシック・パーク』が代表作です。琥珀(化石)の中に閉じ込められていた蚊から抽出された血液が恐竜の血で、このDNAから恐竜を再生させるという話です。

『Michael Crichton』は、医者、小説家、脚本家、映画監督など多彩な能力の持ち主できたが、66歳の若さで他界しています。

『Dan Brown』『Steve Berry』『Michael Crichton』は、いずれも『アメリカ人』であることに梅爺は、何か特別の理由があるように感じています。『アメリカ文化』が基盤にあることは確かですが、特に『創造的なフィクション』と『商業主義』を結び付けて、『本が売れるのなら、あえてタブーも犯す』ということを辞さない姿勢を感じます。アメリカ以外の国では『社会的に物議を醸す小説』は、出版が自粛されるのではないでしょうか。

『Origin』も、まさしく現代社会最大のタブーともいえる『科学と宗教』の問題に真っ向から取り組んだ小説です。

無神論者の天才的な科学者が、『人類の起源、人類の将来』を論理的に説明できる『証拠』を発見し、それを世界へ向けて発表しようとした矢先に、何者かに殺されてしまうという『事件』でこの小説は始まります。『証拠』の内容は巻末まで伏せられ、読者はそれを知りたさに読み進むことになります。

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2018年11月16日 (金)

『侏儒の言葉』考・・地上楽園(6)

『生きる』ことには、『煩悩(欲望)』や『争い』が否応なくかかわります。『自分にとって都合の悪い状況』が次々に押し寄せてきます。

そのような状況の中で、『心の安らぎ』『平和』を希求するのは当然のことですが、皮肉な言い方をすれば、『心の安らぎ』『平和』だけの状況は、『生きている実感』を喪失することにもなりかねません。

『人間』という生物が抱えているこの本質的な矛盾を理解することは易しいことではありません

『スポーツ』は『争い』と『平和』を共存させるために人類が考え出した見事な知恵です。『ルール』の中で『争う』というこの手法を、『政治』『経済』も踏襲しようとしていますが、『スポーツ』ほどうまくはいっていません。

梅爺は『心の安らぎ』『平和』は、無意味なものであると言いたいのではありません。それが手に入らない究極の願いであると知りながら、希求し続けることが大切なことではないかと考えています。

『釈迦』の教えに従って『邪心を排除して仏心だけの存在になりたい』と願うことも、『キリスト』の教えに従って『敵をも愛する人になりたい』と願うことも、現実にはそれが不可能であるがゆえに大切な意味をもつのではないでしょうか。『どうせ不可能なのだから、そのような努力は無駄だ』とは思いません。

『地上楽園』も、そのような意味で、希求し続ける対象になるのであれば、問題はありません。

しかし、それが本当に存在するものであるかのごとく、物知り顔で説く人たちが出現すると、反論したくなります。

絶対に手に入らない壮大な『幸せ』を希求するのも『人間』の習性ですが、一方『生きている』現実の中に、局所的な小さな『幸せ』を見つけて満足しようとするのもまた『人間』の習性です。

『人生の楽園』というテレビ番組があり、仕事をリタイアした人が、自分が『やりたかったことを実現』するために、田舎暮らしを選び、新しい人生を送っている様子を紹介する番組です。

自分の『意思』を中心に『生きる』ことが、その人にとって『楽園』であるということに違和感を覚えません。『生きる』ことと『楽園』を、その人の価値観の中で両立させてしまえる人は健全な『精神世界』の持ち主と言えるのではないでしょうか。

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2018年11月15日 (木)

『侏儒の言葉』考・・地上楽園(5)

人類の歴史に『楽園願望』はいつも付きまとっています。人間は、『苦しい現状』から逃れたいと『願い』、『精神世界』で『楽園』という抽象概念を創り出すからです。『悩み、憂い、悲しみ』などから解放されて生きていける願望の場として、『楽園』はこれ以上魅力的な場所はありません。 

死後の『楽園』として『天国』『極楽』を考え出し、それだけでは後ろめたいと考え対極の『地獄』も考え出しました。『精神世界』の推論は、面白いことに必ず反対の概念も思いつきます。 

『宗教』は、この人間の『願い』と『恐れ』をうまく利用し、『神仏に帰依すれば天国、極楽が約束される』と信者に説きました。 

人間は自分にとって都合のよい話を受け容れますから、善男善女はあげてこの話に飛びついたのは、当然のことです。 

しかし、科学知識を獲得した現代人は、人間の『精神世界』が自由奔放に考え出す『抽象概念』は、『宇宙』『自然界』などの『物質世界』に実態のあるものとして存在するとは限らないことに気づき始めました。 

『浦島太郎』や『かぐや姫』は、フィクションであると認めながら、なお多くの現代人が『神仏』『天国、地獄』は存在しないと言いきれずに逡巡しているのは、それだけ『宗教』の強い影響を継承し続けているからではないでしょうか。 

『古代エジプト』『古代ギリシャ』『古代ローマ』の神々は、現代人にとって『浦島太郎』と同様フィクションになってしまいましたが、『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』の『神』の存在は別物としてなぜ受け容れるのか、梅爺には興味深い話です。古代の人たちは、『偽の神』を信じていた野蛮人であり、自分たちは賢明であるがゆえに『本当の神』を見出したということなのでしょうか。

人類と『宗教』の歴史的な関係とその意味を梅爺は否定するつもりはありません。いつの時代も『安泰を希求する本能』を持つ『人間』は、『心の安らぎ』を獲得する方法として、『神仏の慈悲』にすがるという、実に見事な『因果関係』を思いつき、これを求め続けてきました。『宗教』は人々の願いに応えてきたことは確かです。

『心の安らぎ』を得るための方法として、これ以上効果的なものはないという経験的な体験がその基盤になっているように思えます。

しかし、現代の科学は、『安泰を希求する本能』や『心の安らぎ』の正体を、別の視点で研究対象にし始めました。『生物進化論』のプロセスが関与していることが判明しています。生物の『個体』や『種』が、世代交代をしながら生き延びていくために効果的な資質としてこの本能が『自然選択』されたという観方です。

『生きる』ことは、『心をかき乱すこと(都合の悪いこと)』に対応し続けることで、その反動として私たちは『心の安らぎ』を希求することになります。

『生きる』ことには『争い』が付きまとい、それが絶えない世の中で、『平和』を希求するのと同じ話です。

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2018年11月14日 (水)

『侏儒の言葉』考・・地上楽園(4)

『天上』にも『地上』にも『楽園』など存在しないと梅爺は考えていると昨日書きました。

『天上の楽園(天国、極楽)』は、生きている人間には確認しようがありませんから、『存在』は信ずるほかありません。『信ずる』『信じない』はその人の選択に任されます。梅爺は『信じない』という立場を受け容れているという話です。

しかし、『地上の楽園』については、『存在しない』と断ずるのは、行き過ぎかもしれません。『地上の楽園』は抽象概念で、絶対的な定義がなく相対的な価値観で判ずるものとすれば、ある人にとって『此処は楽園である』という場所があってもおかしくないからです。

日本人は、これを『住めば都』と見事に表現してきました。ある人にとっては耐えがたい場所が、ある人にとっては『楽園』でありうるということです。

自分が今いるところが『楽園』と思える人は、人生をポジティブにとらえることができるうらやましい人です。

同じ状況が、ある人にとっては『苦界』であり。ある人にとっては『楽園』でもあるというように、人間の『精神世界』は実に不思議です。『精神世界』の本質は『個性的である』ということにほかなりません。

『芥川龍之介』の『精神世界』は、『シニカル(冷笑的)にものを観る』ところが特徴のように思います。もちろんそのような視点も、読者には啓発的ではありますが、『清濁併せ呑んで笑い飛ばす』という、日本伝来の『諧謔』はあまり感じ取れません。

梅爺は『諧謔』が大好きなので、どうしても『芥川龍之介』には違和感を覚えます。それが梅爺の『精神世界』の個性ですからお許しいただくほかありません。

『地上楽園』など『存在しない』などと言いながら、『地上楽園』に住むことになった『八っつぁん』を主人公に、落語を書いてみたいと想像したりします。

『竜宮城』から、なぜ『浦島太郎』は帰りたくなったのかに通ずる話です。

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2018年11月13日 (火)

『侏儒の言葉』考・・地上楽園(3)

『生きる』ことには『つらいこと』『苦しいこと』『悲しいこと』が付きまとい、これは『煩悩』がなせる業であると『釈迦』は洞察しました。

非常に論理的な思考者であった『釈迦』は、『煩悩の解脱』を目指し、自らはそれに成功したと伝えられています。

しかし、人間の『精神世界』の本質を考えると、『煩悩の解脱』は『願うこと』であるにせよ、人間には無理な話であることに気付きます。

周囲の事象が、自分にとって都合がよいことか、悪いことかを、意識的に又は無意識に常に判断しながら対応することが『生きる』ことの基盤である以上、必ず自分にとって都合が悪い事態に遭遇し、『つらいこと』『苦しいこと』『悲しいこと』というストレスが襲ってきます。

言い換えればそれは『生きている』ことの証でもあります。強がりを言えば、『生きて』いたければ、それを『受け入れる』しかありません。『艱難辛苦汝を玉にす』と前向きに受け入れることが求められます。

なぜそのような思いまでして『生きて』いたいのかといえば、周囲の事象が、自分にとって都合がよいことにも遭遇することがあるからです。それを『精神世界』は『喜び』『愉快』『感動』として受け止めます。これも脳内に対応するホルモンを分泌させます。

『生きてたよかった』と感ずるこの経験を私たちは知っているがゆえに、『つらいこと』『苦しいこと』『悲しいこと』にも耐えて生きていこうとします。

『禍福はあざなえる縄のごとし』と古人は、この長所、短所の存在を喝破しています。人生を短所だけで観てはいけないということでしょう。

『釈迦』の『煩悩を解脱せよ』はごもっともなことですが、それは論理的に無理となれば、『楽しいこと』を『苦しいこと』より重視して生きていくほかありません。

『能天気』のように聞こえるかもしれませんが、これ以上の方法は思いつきません。『どんな時でも笑顔を絶やすな』という単純な教訓は、実は深遠な真理なのかもしれません。

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2018年11月12日 (月)

『侏儒の言葉』考・・地上楽園(2)

『天上』にも『地上』にも『楽園』は現実に存在しないと考えている梅爺は、周囲の人から『夢のないひねくれた爺さん』と敬遠されていますが、『芥川龍之介』の『地上楽園』を読むと、彼も基本的には同じ考え方であることがわかりますので、このように屈折した表現をする心情がわかるような気がします。

梅爺ほどではないにせよ、多くの現代人は『楽園など、どうもなさそうだ』と薄々感じておられるのではないでしょうか。でも『ない』と口にすることは『夢のない話』であると逡巡しておられるのでしょう。

『芥川龍之介』は、古来の詩人や学者が提示する『地上楽園』は『絵空事』にすぎないと断じたうえで、もしも『地上楽園』があるとすれば、『心穏やかならぬことが起きない世の中』であろうと、皮肉っています。つまり、このよう『地上楽園』は存在せず、逆説的に現実に生きることは『心穏やかならぬこと』を回避することはできないと言っていることにもなります。

『芥川龍之介』が最終的に『自殺』を選んだのは、『心穏やかならぬ世の中』を逃れる方法は『死』しかないという結論に達したからなのかもしれません。

梅爺は、『生きる』ことは『心穏やかならぬこと』と付き合うことであると割り切ることが『健全』と考えるようにしています。そう云えるのは『本当に心穏やかならぬこと』『再起不能な絶望』に幸運にもまだ遭遇していないからかもしれません。

なぜ人間は『楽園』を夢見るのでしょう。

梅爺は、人間の『精神世界』の習性から、それが説明できるように考えています。

人間の『精神世界』を支配するものは、『安泰を希求する本能』であるといういつもの『仮説』の繰り返しになります。

周囲の事象が、自分の『安泰を脅かしている』と感じた時、考えた時に、それは『面白くないこと』『不満』『危険』というストレスとなって、脳内にある種のホルモンが分泌されます。

とっさに人間が対抗策として選ぶのは、本能的に『逃げる』『戦う』などの行動のほかに、『ストレス』を解消するための因果関係を推論することです。

『楽園』は『そのような場所があれば安泰が得られる』という因果関係が導き出した仮想の抽象概念です。現実の世界には存在しませんが、『願う』うちに、一部の人たちはそれが『存在する』と『信ずる』ようになります。

『神仏』『天国、極楽』などというのも、これに類する抽象概念であると考えれば得心がいきます。

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2018年11月11日 (日)

『侏儒の言葉』考・・地上楽園(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『地上楽園』に関する感想です。

『地上楽園』はこのような文章で始まります。

地上楽園の光景は屡(しばしば)詩歌にもうたわれている。が、わたしはまだ残念ながら、そう云う詩人の地上楽園に住みたいと思った覚えはない。基督(キリスト)教徒の地上楽園は畢竟(ひっきょう)退屈なパノラマである。黄老の学者の地上楽園もつまりは索莫として支那料理屋にすぎない。

『芥川龍之介』が考える『地上楽園』は以下のように表現されています。

唯此処に住んでいれば、両親は子供の成人と共に必ず息を引き取るのである。それから、男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫迦(ばか)には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻になるや否や、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変わるのである。それから子供は男女を問わず、両親の意思や感情通りに、一日のうちに何回でも聾(おし)と唖(つんぼ)と腰ぬけと盲目とになることが出来るのである。(中略)
これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の瞑想の中にこういう光景を夢見なかった。夢見なかったのは別に不思議ではない。こういう光景は夢見るにさえ、あまりに真実の幸福に溢れすぎていたからである。

『芥川龍之介』の非常に屈折した『精神世界』が如実に表現されているように梅爺は感じます。

人一倍『頭がよい』『芥川龍之介』は、自分は凡人ではないという自負があるに違いありませんが、そうでありながら世の中の凡人(善男善女)の一人であるにすぎないと自分を見なしているところが、興味深いところです。

此処に書かれている『芥川龍之介』の『地上楽園』は、逆説が込められていますから、そのように読む必要があります。

『現実の世に中』では、子供が親より先に死ぬこと、兄弟が莫迦に生まれていがみ合うこと、女は貞淑な妻になるとは限らないこと、子供が親に反抗することなど、心穏やかに過ごせないことが起こります。

そうであるがゆえに、そのようなことが起こらないところが『地上楽園』であると逆説的に述べていますから、現実には『地上楽園』は存在しないといっていることになります。

『屈折した賢者』につきあうのは、易しいことではありません。

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2018年11月10日 (土)

第四の文化(6)

『情報化社会』の特徴の一つは、私たちが手に入れられる『画像視覚情報』が大幅に増えたことです。

テレビ、DVD、インターネットの『youTube』などを介した『動画情報』が周囲に満ち溢れています。衛星通信中継で、世界各地で現在起きていることを、ほぼリアルタイムで視聴できます。評論家が『世界が小さくなった』と表現するのはこのことです。

『百聞は一見に如かず』といわれるように、『現物』『現地』を『動画情報』で観ることは圧倒的な説得力を持ちます。私たちは『観たもの』は信用します。

ただ人間のこの特性が、『情報化社会』にある種の不都合をもたらしました。『観たもの』を表面的に受け入れてしまうという不都合です。

端的な例は、選挙の候補者選びに現れます。その候補者が『政治リーダー』として必要な基本的資質を保有しているかどうかなどよりも、『風貌』『弁舌』『自信ありげな態度』『他の分野の有名人(スポーツ選手、俳優など)』『庶民的な振る舞い』などで、投票者を決めてしまいます。

候補者には専門の『スタイリスト』がついて、服装、メイクアップ、話し方などを指導します。また候補者は、庶民にわかりやすいキャッチフレーズを用います。

『トランプ大統領』の『強いアメリカの復活(アメリカ・ファースト)』、『小池都知事』の『都民ファースト』などが典型です。

コミュニティの利益を優先するなどということは、政治の基本ですから、言わずもがなの話で、問題は、そのコミュニティが他のコミュニティとのかかわりの中で存在している以上、『他との関係』をどのように調整するかが、もっと大切なことになります。

『アメリカ・ファースト』『都民ファースト』は、『アメリカ』『東京都』を、国際社会、日本社会のなかで孤立させてしまい、反って不利益になるかもしれないことへの洞察を欠く恐れがあります。『トランプ大統領』になって、『アメリカ』は国際社会で孤立し、他国の尊敬が得られなくなりつつあるように見えます。

『日本』は『強い日本の復活』などを掲げずに、世界の他国から『尊敬される国家』になることを目指してほしいと願っています。

『インターネット』が人間社会へもたらす『長所』『短所』を洞察するには、『人間』『人間社会』への深い洞察が必要になります。

それには『情報』の表面的な意味だけでなく、内包する意味にまで思いをはせる必要があります。これは容易なことではありません。『学び』『考え』る訓練が必要です。『理性』を鍛えるということはそういうことです。

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2018年11月 9日 (金)

第四の文化(5)

『インターネット』には、誰もが加入することができ、見知らぬ他人に対して、自分を主張する、つまり情報を発信することができます。

梅爺が『梅爺閑話』を書き続けていることが端的な例です。

社会の中で情報の発信者が、特定な個人や組織に限定されていた、以前の時代にくらべ、これは画期的なことです。以前は『声なき声』などと言われていた庶民が、自分の『声』をあげることが可能になったわけですから。

『百家争鳴(ひゃっかそうめい)』どころか、『一億争鳴』を可能にする環境が庶民に与えられました。

しかし『百家争鳴』は、しっかりした自分の意見を持っている人たちが、たくさん集まって議論を交わすような状況を意味していますが、『一億争鳴』は、残念ながらそのようなことになっていません。

情報発信者としての最低限の素養、規律を身につけていない人たちが、『身勝手な意見』『偏見に満ちた意見』『狂信的な意見』『恐怖をあおる意見』『夢をあおる意見』『興味本位の性に関する意見』などを『インターネット』に投稿し、その意見を批判する能力のない読者がそれを鵜呑みにして、賛同者が一大勢力になっていく恐ろしさをエッセイの著者は指摘しています。

これらの人たちは、『論理』より『情感』で行動し、『娯楽』や『金儲け』を『洞察』『理解』より重視し、何よりも『科学』には興味を示さないことを著者は嘆いています。

これだけを読んでいると、『インターネット』という道具を庶民に与えたのは、『子供の火遊び』のような話になってしまいますが、もちろん『インターネット』という道具が悪いのではなく、それを利用する人間側に問題があることを認識しておく必要があります。

人類は歴史の中で、『新しい道具』を見出した時に、その使い方に関する共通認識、約束事を確立するまでに試行錯誤を繰り返してきました。

『インターネット』に関しても『好ましい使い方の体験』『好ましくない使い方の体験』をたくさん経験しながら、やがて共通認識、約束事(ルール)などを社会に確立していくのではないでしょうか。

このエッセイで指摘されているように、『インターネット』が『刹那的、思慮深くない人たち』を増やし、その人たちが、社会は自分たちと同程度のレベルの人たちで構成され、運営されていると勘違いしているように見える現状は好ましい状態ではありません。

『皆が聡明であるべきだ』などという主張は、論理的ですが非現実的です。社会は『聡明な人』『聡明でない人』で構成されていますから、誰にも平等に『インターネット』という道具が与えられたときに、それでも社会にとって好ましくない事態を招来させないためにはどうすべきかという議論をすべきです。

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2018年11月 8日 (木)

第四の文化(4)

『インターネット』の時代になって、人々は、『深く考える』ことを避けるようになった、つまり軽薄な人間になったとエッセイの著者は指摘しています。

昔に比べて、周囲には『情報』があふれているわけですから、むしろ『考える』材料が増え、思慮深くなるはずですが、まるで反対の現象を呈しているのはどういうことなのでしょう。

この理由についてはいくつかの仮説を思いつきます。

(1)『選択肢』の数が多くなると、人は『選ぶ』『判断する』意欲を失っていまう。つまり『情報』が異常に多いということは、人間にとって『情報』がないことに等しい。
(2)表面的に見える事象を、『情』や『直観』で受け入れ、『理』で裏側に存在する『因果関係』を推論しようとしなくなる。その方が安易な対応であり、人間は安易な対応を好む。
(3)事象を自分の能力の範囲だけで判断し、世の中には自分とは比較にならないほどの能力の持ち主がいることに畏敬の念を持たない。
(4)すべての事柄に、『正しい答』が存在すると勘違いし、自分で『考える』以外の方法で安易にその『答』を手に入れようとする。

確かに、人々の『情報』への対応が、このように傾向を示し、『思慮深さ』が失われつつあるように思います。

『情報化時代』の人間の習性は、社会学者、心理学者、脳科学者などにとって格好の研究材料であることがわかります。

『便利で快適な生活環境』『情報があふれている環境』は、人類史の中で私たちだけが体験しているものです。

人間の対応能力は有限であるとすれば(たぶん有限でしょう)、何かを得た分何かを失うのは当然のことです。

しかし、いかなる時代でも『思慮深くあること』が人間にとって最も重要なことであるとすれば、『情報化社会』でそれを失いつつあることは大きな問題です。

『思慮深くあること』が重要であるという認識さえも薄れているのではないでしょうか。世界の『政治リーダー』の顔ぶれをみても、『単純な論理』を得意げに振り回す人物が多いことが、時代の特徴を反映しているように感じます。

『思慮深くあること』を重視する人間社会へ回帰できるのかどうかは、私たちの叡智にかかっています。

『情報化社会』を認めたうえで、そのような社会へ向かう処方箋を考え、実行することは容易ではないでしょう。しかし、それへ立ち向かう『日本』であってほしいと願います。

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2018年11月 7日 (水)

第四の文化(3)

『インターネット』以前の情報メディアでは、『情報発信者』が誰であるかが特定できましたから、発信者は発表内容に『責任』を負う必要がありました。

『法』がある種の規律を定めることもありましたが、発信者自らが自らに規律を課すことを行っていました。

『嘘を報じない』ということが基本でしたが、それ以外にも関係者を傷つける表現は差し控えるなどの自制が働いていました。

そのような背景がありましたから、大衆も『新聞』の報道内容は『間違いではない』『妥当な表現である』と受けとめる習性が定着していたことになります。発信者と受信者の間に暗黙の信頼関係が存在していたともいえます。

それでも、『誤報』や『故意の情報操作』が皆無なわけではありません。それが発覚した時には大衆は『だまされた』と憤慨します。

権力者がメディアを支配すると、発信者と受信者の信頼関係は成り立たなくなります。それでも大衆の多くは、受信情報を鵜呑みにして、為政者にとって都合のよい『洗脳』が行われてしまうのは、ご承知のとおりです。

北朝鮮の人たちの『将軍様崇拝』は、『洗脳』なのか、そう言わないと身の安全が保てないからなのかは判然としませんが、純真な国民ほど『洗脳』されてしまっているのではないでしょうか。

日本人も戦時中は『鬼畜米英』『神国日本』などと叫んでいたわけですから、『大衆文化』は健全であるなどと手放しではいえません。程度の差はあれ、人は何かの影響を受けて『洗脳』されることを避けることができません。『精神世界』の仕組みが負う宿命です。

『インターネット』は、誰もが『発信者』になれるという素晴らしい環境ですが、この『発信者』の多くは、発表内容に責任を負う必要があると認識しておらず、そのための規律も認識していません。もちろん規律を守るための訓練を受けていません。

『発言の自由』『表現の自由』は、基本的人権であるなどと皮相な理解の人たちが、勝手な発言をするわけですから、『インターネット』は開拓時代のアメリカ西部のような『無法地帯』になってしまう可能性を秘めています。現に一部は『無法地帯』になっています。

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2018年11月 6日 (火)

第四の文化(2)

『インターネット』と結びついた『大衆文化』を『第四の文化』と呼ぶことの妥当性は置くとして、これが社会に従来にない大きな影響を与えていることは確かです。

『テレビ』が普及し始めたころ、評論家の『大宅壮一』は、その影響力を『一億総白痴化』と評しました。

情報発信者である『テレビ局』は、広告収入を得るための指標となる『視聴率』を重視し、製作費のかからない『低俗番組』を制作し、視聴者も『刹那的な娯楽』を求め、与えられた情報を鵜呑みにして、自らの思考や洞察を深める努力を放棄してしまうというようなことを言いたかったのでしょう。

約60年経って、日本人は従来に比べて『白痴化』したかどうかは、検証してみる価値があるかもしれません。

『第四の文化』というエッセイの著者は、『インターネット』が大衆の思考力、洞察力を阻害する要因になっていると危惧しています。

しかし、『テレビ』と『インターネット』では大きな違いがありますから、『テレビ』の場合の『一億総白痴化』と同じには扱えません。

『テレビ』はそれまでにない圧倒的な量と質の『情報』を視聴者(大衆)に提供しました。それまでの『新聞』『書籍』は『文字情報であり、『ラジオ』は『聴覚情報』でしたから、大衆は、『脳』で情景を想像していました。実際の情景を視覚で観るのと、想像することには大きな差があり、『満たされないもどかしさ』がある一方、『理想的な情景を思い描いて大きな満足を得る』という側面もありました。

『文字情報』の『絶世の美女』から自分で思い描いた美人には不満がありませんが、テレビ画面に現れた『絶世の美女』と呼ばれる女優には、『おいおい、この程度をそう呼ぶのかよ』と反論したくなったりします。『精神世界』の不思議な習性の一つです。

話が少し逸れましたが、要はテレビ局が発信者であり、視聴者はあくまでも『受信者』であったということです。

一方『インターネット』は、利用者がすべて『発信者』になる可能性を提供しています。人類の歴史の中で、これは従来にない画期的な出来事です。

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2018年11月 5日 (月)

第四の文化(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の78番目のタイトルは『The Fourth Calture』で著者は、『Center for Maritaime Systems』の客員教授である『Bruce Parker』です。

タイトルで表現されている『第四の文化』は、従来私たちが『大衆文化』と呼んできたものです。

『大衆文化』は、大衆の娯楽や日常の生活様式にかかわるもので、高い知的レベルの理解などは求められない、どちらかというと情感で容易に受け容れやすいものですから、社会になにがしかの影響を与えるものであっても、とくに深刻な影響を与えるものではないと見なされてきました.。自分は『大衆』より『知的レベル』が高いと密かに自負する人たちからは、時に低い評価の対象にもなっていきました。

しかし、『インターネット』という技術が提供する手段と結びついたときに、『大衆文化』は、社会の健全さを阻害するものに変貌してしまっているとこのエッセイの著者は危惧しています。

エッセイの主旨とは直接関係しませんが、『第四の文化』というからには、『第一の文化』『第二の文化』『第三の文化』もあるはずで、それは何かと気になります。

このエッセイは、『科学者』と『教養人』の存在が『第一の文化』『第二の文化』の母体で、『専門分野の内容を大衆へ啓蒙しようとする科学者、思索者』を『第三の文化』の母体とだけ紹介しています。

この分類は、『大衆』との距離で『文化』分類していることはわかりますが、梅爺にはあまりピンときません。しかし、このことは今回の主旨とは直接関係しませんので、これ以上のコメントは差し控えます。

『インターネット』と結びついた『大衆文化(第四の文化)』は、もはや、『ポップ・ミュージック』『映画』『テレビ』『ビデオ・ゲーム』の話とたかをくくることができなくなりました。

『第四の文化』は、『宗教』『政治』など、人々の日常生活の中のすべてに影響を与えるものに変貌しつつあるというのが、著者の主張です。

『第四の文化』は、『ボトムアップ』型で、雪だるま式に肥大化して、結局社会全体のレベルを下げてしまうことになりかねないという話です。

差別用語をあえて使えば、『馬鹿な大衆を増やしてしまう』ということなのでしょう。『大宅壮一』が、テレビの普及時に指摘した『一億総白痴化』という名言を思い出しました。

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2018年11月 4日 (日)

テクノロジーが民主主義を脅かすかもしれない(6)

このエッセイの関する梅爺の感想は、タイトルは『テクノロジーは人間社会を脅かすかもしれない』とするほうが妥当であるということです。

『民主主義』は『人間社会』のある一面で、これだけが脅かされると読者が勘違いしかねないからです。

人類の歴史の中で、この50年間ほど『科学・技術』が、異常なほどに急速に進歩(変化)した時代はありません。私たちは、以前の人類とは全く異なった『環境』に身を置いているということです。

もちろんそれまでの人類の歴史も、『環境』の変化はありましたが、現代に比べてそれは相対的に『ゆったりした変化』であり、その変化を人間社会全体が『ショック』として受け止めることは、あまりありませんでした。

そもそも、生物としての『ヒト』の進化は、少なくとも何十万年という時間をかけたものですから、さらに『ゆったりして変化』であったといえます。

基本的に、祖父母、両親、子供の生活環境は、あまり異なったものではなく、同じ『価値観』『習慣』を継承するものでした。行動範囲も限定された狭いものでした。

それに比べて、『科学・技術』がもたらす急速な環境変化は、まさしく『ショック』として現代人に襲いかかっています。現在ではなんとか対応できているように見えても、この先もっと大きな『ショック』が押し寄せてきたときに、人類は対応能力を維持できるのか、心配になります。今のところ、『科学・技術』の進歩が減速する気配はありません。

解決策は、『科学・技術』の変化に合わせて、人間社会の『価値観』『ルール』『しきたり』を調整しながら対応するしかありません。

人類が、それを行える理性を保有していると信ずるしかありませんが、一歩誤れば、人類は自分で作り出した『科学・技術』に押しつぶされてしまうかもしれません。

『科学・技術』の変化は、人為的に減速させることがあったとしても、後戻りや放棄することはできません。

『民主主義』だけではなく、『宗教』『芸術』『教育』『医療』『福祉』など、ありとあらゆる世界が、影響を受けます。

このエッセイの著者は、『その心構えがまだできていない』と案じていますが、そのことに関しては梅爺も同感です。

『昨日のことが明日も続く』と楽観的に考えずに、『変化』を覚悟して、その変化のもたらすことが、良い方向へ利用するということにほかなりませんが、易しいことではないことは確かです。

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2018年11月 3日 (土)

テクノロジーは民主主義を脅かすかもしれない(5)

エッセイの著者が7番目に挙げる、『テクノロジーが民主主義を脅かすかもしれない』要因は、『グローバリゼーション』です。

インターネットや衛星通信で、世界中が、ほぼ同時に同じ情報を共有できるようになり、瞬時の金融決済も可能になりました。

これらは便利で快適な環境であると同時に、『ある地域でそれまで共有してきた価値観の崩壊』、経済環境が悪化した国から海外投資が一斉逃避することで起きる『国家財政危機』など、人間社会にとって非常に都合が悪いことももたらす環境であることが判明しました。

『IT(情報通信処理技術)』の人間社会への浸透が顕著になり始めた1960年代ごろから『情報化社会』という言葉が用いられるようになり、多くの未来学者が、その影響を論じ始めました。『バラ色の未来』を提唱する楽観論と同時に、『暗い未来』を予測する悲観論もありました。

多くの人は、『なぜ技術の話でそのような大騒ぎをするのか』と、それらが議論のための議論にすぎないとたかをくくっていました。

それまでの人類体験から、『技術』は生活を便利に変える程度の影響はあっても、人間社会を根底から揺るがすようなものではないと感じていたからでしょう。私たちの生活は、約束事である『法』『道徳』『倫理』や、文化的、宗教的価値観で支えられており、それは堅固なものであると思い込んでいたからです。

現在でもまだその考え方は強固で、『科学』や『技術』を胡散(うさん)臭いものと観る人たちがたくさん存在します。『私はアナログ人間です』などと主張して、『技術音痴』を自己擁護したりします。

『政治リーダー』の大半が、『科学音痴』でありながら、国の舵取りはできると勘違いしているのはこのためです。

しかし、『IT』は人間社会に根本的な影響を与えることが避けられない事態であることが認識され始め、2000年の『九州・沖縄サミット』では、メイン議題に取り上げられました。

議長国である日本の『森首相』に、事前に問題を集約して報告するために、『ダボス会議』で有名な『世界経済フォーラム』の事務局と一緒に、チームが編成され、梅爺も一員として議論に参加しました。

『先進国』と『発展途上国』『後進国』との間に生ずる『格差(デジタル・デバイド)』に関する議論を、アメリカ、ヨーロッパで開催された会議で行いました。

このころ『森首相』は、側近に『IT(イット)とは何か』と尋ねたという逸話が、まことしやかに流されました。『政治リーダー』の『科学音痴』を揶揄するジョークであろうと思いますが、ある種の信ぴょう性が込められているようにも感じます。

『IT』が『グローバリゼーション』を促進し、それが世界的な政治、経済に大きな影響を与えるという認識は、現在ではもはや常識です。このエッセイの著者が、初めて指摘したことではありません。

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2018年11月 2日 (金)

テクノロジーは民主主義を脅かすかもしれない(4)

エッセイの著者が5番目に挙げる要因は、インターネットの普及で、すぐに『真実情報(暴露情報)』が誰の目にも触れるようになったことで、人々が異常なまでに『透明性』を求めることです。

国民の『知る権利』などを得意げに主張する野党の政治家をテレビなどで観ると梅爺も少々辟易することがありますから、エッセイの著者の云いたいことは分かるような気がします。

人間の『精神世界』は複雑で、安泰を希求するが故に『真実を知りたい』と願う時と『真実は知りたくない』と願う時があります。

『あからさまな事実』だけでは身も蓋もないことになり、色々な環境条件を含めた異なった視点での高度な議論や、関連する『創造的な意見の提示』ができなくなってしまう危惧を著者は述べています。

高度な『エロチシズム』は、隠ぺいされていることを想像することにあるというようなことを考えると、『あからさまな暴露』に優るものがあることを理解できるような気がします。

人間や人間社会の本質を理解できる、有能な人材が『政治』に関わることを忌避するようになることの損失を著者は指摘しています。

『政治リーダー』は、そのうち自分の『大腸の内視鏡写真』までも公開することを求められるのかと、皮肉っています。

勿論、『国益に反する』などというタテマエで、国民をミスリードするために、事実を『政治リーダー』が隠ぺいすることもあり得ますから、『透明性』の扱いは簡単ではありません。国民の多くが、皮相な判断ではなく、人間や人間社会の『本質』を理解して、対応する理性を待つ以外に、対応方法はありません。残念ながらこのような高度な社会を人類は実現できていません。

エッセイの著者が6番目に挙げる要因は、5番目と似ていますが、人々が『自由』を強く求める傾向が、テクノロジーによって増幅されるということです。

『発言の自由』『報道の自由』『信教の自由』などは、民主主義社会で基本的な権利として保証されていて、民主主義の柱をなすものです。

しかし、これらの『行き過ぎ』は、深刻な問題を社会へ投げかけることにもなります。『過ぎたるは及ばざるがごとし』という昔の人の知恵が働かないことを云いたいのでしょう。『自由の行き過ぎ』は、人類にとって『両刃の剣』であると著者は書いています。

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2018年11月 1日 (木)

テクノロジーは民主主義を脅かすかもしれない(3)

このエッセイの著者が、『テクノロジーが民主主義を脅かすかもしれない』要因として3番目に挙げる要因は、多くの政治リーダーたちが、最新の『科学』が関与する問題を判断するための基礎知識を欠いているという指摘です。

人類にとって、今日重要な問題は、以下に列記するようにいずれも、最新『科学』に関する素養がなければ判断できません。

『エネルギーを何に頼るか』『ニュー・メディアの社会的影響』『遺伝子操作の是非』『新種のウィルス攻撃』『水不足』『大量殺戮兵器の扱い』『複雑なデリバティブ商品(金融市場)』『地球温暖化対策』『最新の医療診断』『サイバー戦争』『知的所有権の保護』『万能細胞の利用』

確かに、永田町の先生たちの顔ぶれ、言動を観ていて、これらの問題を『科学』の視点で深く洞察できそうな方がおられるとは思えません。これは日本だけの問題ではなく、世界共通です。

不適切な政治リーダーが、不適切な判断を下して、将来に禍根を残す可能性は確かに無視できないように思います。

『政治リーダー』『政治のしくみ』だけが、前時代的なものとして取り残されている不都合は、人類にとって深刻な問題です。

著者が4番目に挙げる要因は、リーダーとして本当に必要な統治能力やリーダーシップとは、無関係な要素で、リーダーが選出されることに対する危惧の指摘です。

投票者は、リーダーにふさわしい資質がなんであるかを見極め、それを満たしているかで判断するのではなく、『テレビ映りが良い』『自分たちの仲間の一人と云う親近感』『良家の出身』『弁が立つ』などという、『表面的なイメージ』で投票してしまうということなのでしょう。確かにこれは、『マルチ・メディア』という技術が関与しています。

『情報社会』は、多量な情報があふれ、人々はそれらを活用して深い洞察ができるようになったのかというとそうではなく、『表面的なみため』『短縮された表現、スローガン』などで手っ取り早く判断するようになったという皮肉な結果になっています。テレビやインターネットが無い時代には、人々は、新聞を丹念に読み、本も沢山読んでいました。

『科学』『技術』がもたらす快適さ、便利さは、因果関係を考えずに、『結果』だけを手っ取り早く受け容れると云う習性を増長させる結果になっています。

繰り返しになりますが、『深い洞察』『辛抱強い議論』を前提に社会合意を醸成していく『民主主義』とは、相容れない習性であることは確かです。

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