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2018年9月30日 (日)

死による喪失(3)

ところが、この死は生物進化に必須な要因という従来の常識が、終わりを告げるかもしれない時代に今やなりつつあります。人間が進化した知性で、死を避けようと多大の努力を傾けるようになったからです。

この努力は、誰も死を望まないということを考えれば当然のことに見えます。自分の生き残りを優先しようとするからです。

人類は、なんとか老化や死をまぬがれることはできないかと、ずっと夢見てきました。

この思いは、芸術、文化そして多く科学の分野に浸透しています。死を、おどろおどろしいものとしてとらえ、死を嫌い、恐れ、この世で悪いものは死と結びつけようとします。もし死を克服できるなら、人生はもっと素晴らしいものになるのではと考えます。

20世紀に入ってから、人類の長年の夢は、実現するかもしれない段階に入りました。人類は、遺伝子を発見し、遺伝子の中にある老化や死を司っているメカニズムを突き止めました。そればかりか、遺伝子を操作して、異なった資質の遺伝子に変えてしまう技術も保有するようになりました。

遺伝子に要素を加えたり、削除したりして資質を変え、しかも異種の生物間で遺伝子を交換することも可能になりました。可能性は、エクサイティングで無限のように見えます。

細胞の中で、老化や寿命を決めているメカニズムを発見したことで、私たちは、人間の生き方を変えることが可能かもしれないと考えるようになりました。

それ程遠い将来をまたなくとも、寿命は延ばせるかもしれません。医療や科学の力で、最近生まれた子供は、平均150歳まで生きられると推測されています。

ガン、心臓病、認知症など人類を最も脅かしている病気を克服できるようなれば、その次は寿命を限定している要因を洗い出し、これを変えることに努力は向けられるでしょう。

どうして150歳と決める必要があるのでしょう。病気から解放され、寿命を延ばす方法が見つかれば、200歳、300歳、500歳も可能になるはずです。

なんと素晴らしいアイデアでしょう。これは素晴らしいことではないかもしれないと疑う人は少ないために、裕福で、科学技術の進んだ社会は、老化を阻止し、寿命を延ばす研究に優先的に投資をしています。

『健康で長生き』のための研究は、寿命を延ばす研究にほかなりません。健康や生命機能を時間とともに失うことが『老い』ですから、それを回避できれば、死も回避できるという論法になります。

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2018年9月29日 (土)

死による喪失(2)

あらゆる世代交代において、生命はその一番素晴らしい要素を、パッケージして次の世代へ受け渡します。カスやクズは排除し、新鮮で、最新で、輝いている新世代を生みだすところは、命の蒸留プロセスのように見えます。

地球上でこの営みは約40億年も続けられてきました。最初の生命体は、単細胞生物で、岩にとりついて光合成をおこなう程度のものでしたが、それが、膨大なエネルギーを創りだし、広大な想像力を駆使し、詩を書き、音楽を奏で、互いに愛し合い、ついには自分たちや宇宙の謎を解明しようとする生物(人間)にまで魔法のように変身を遂げました。

そして、その素晴らしい生物(人間)も死にます。

死こそが、このような生命体の繰り返される更新と、着実な前進を可能にしてきた要因です。

老化や死が、生物種を成長させ繁栄させてきました。『自然選択』(生物進化で使われる用語;梅爺注)は、『次の世代を生みだすために生き延びることができる子供』を、その親よりも優れたものとみなし採用(選択)します。当り前のようにみえるこのことが生物進化の本質です。ですから、親は身を引いて、自分より優れた子供がうまく生きてくことを優先して受け入れなければなりません。

簡単に言ってしまえば、親は、子供や孫と、限られた資源を奪い合うようなことをしてはいけないということです。

死はそれほど重要なことですから、自己破壊的な老化プログラムを私達の遺伝子は保有していて、若いころは当たり前に行っていた細胞の再生産ができなくなっていきます。そのことで、私たちは私たちより新鮮で、最新で、輝いている生まれ変わりの世代に、最善の遺伝子を継承し、培ってきた技やアイデアを受け渡して、やがて死ぬことになります。

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2018年9月28日 (金)

死による喪失(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の74番目のタイトルは『The Loss of Death(死による喪失)』で著者は、ロンドン大学の脳科学者『Kate Jeffery』です。

このエッセイのひとつ前のエッセイ『自然死』では、梅爺は自分の感想を述べることを控えて原文(梅爺の拙訳)のままで紹介しました。

『自然死』の内容は、著者は駄々っ子のように、『死んで自分が無に帰してしまうのは嫌だ。科学者はもっと頑張って、老化防止、若返りの技術を実現して欲しい』というものでした。

皆さまはどのように読まれたのか分かりませんが、梅爺は『個』の視点でしか『死』をみていないことに不満を感じました。つまり、世代交代によって生物種が『命』を継承していくしくみの意味を洞察していないのは思考が浅すぎると感じました。

高度な『精神世界』を保有するにいたった人間が、個人としては『長生きしたい』と願うのは、『安泰を希求する本能』が基盤にありますから当然のことです。

一方、生物種としての人類の世代交代は、『物質世界』の『摂理』が背景にある『変容』で、個人の『願い』などとは無縁なものです。

生物種としての人類(全体)の都合は、個人(個)の願いなどという都合と相容れません。

これも梅爺が何度もブログに書いてきたように、『個』と『全体』の都合は矛盾することがあり、これを解決する普遍的な方法はないという事柄に該当します。『死』はまさしくこの矛盾をはらんでいる事象です。

『個』が『死にたくない』と駄々をこねると、『全体(人類種)』は種の継承ができなくなってしまうということです。

『精神世界』の情感は、生きている『人間』および、それが集まった『人間社会』では、非常に重要な意味を持ち、『人間』および『人間社会』を、素晴らしいもののも、おどろおどろしいものにもしてしまう要因です。

しかし、残念ながら『物質世界』の事象を考える時には、この情感は意味を持ちません。

『長寿祈願』『安全祈願』をしてみても、『死』や『天災』は避けられないという単純な話です。

今回のエッセイ『死による喪失』は、梅爺好みの『洞察』に満ちていて、前の『自然死』とは対象的です。

長文ですが前回同様全文を拙訳でご紹介します。

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2018年9月27日 (木)

夏目漱石『草枕』(6)

『夏目漱石』の小説の主人公は、読者が『自分にもそういう面がある』と共感を覚える『凡人』として設定されているように感じます。

『坊ちゃん』『三四郎』それにこの『草枕』の私(画家)などです。

一方、主人公の『凡人』を際立たせるために、一般には『変人』『奇人』と考えられる人物や、ミステリアスな『女性』が物語の周辺に配置されます。

それに加えて、世の中をうまく渡る『俗人』や、世間を疑いなく受け入れている極めつけの『善人』も登場します。『善人』の筆頭は『坊ちゃん』の婆や『清(きよ)』や『三四郎』の故郷の母、三四郎に嫁ぐことを夢見る幼馴染の『お光』などです。

これらの『凡人』『奇人』『変人』『ミステリアスな女性』『善人』が織りなす、『精神世界』の『絡み合い(インタラクション)』が『夏目漱石』の小説の真骨頂です。面白くないはずがありません。

『草枕』の温泉宿の『若奥様:那美』は、村人たちからは『あの家の女は代々頭がおかしい』と噂されています。

昔、この宿の娘が寺の若い僧と恋に落ち、無理に別れさせられたことで、池に身を投げて死んだという事件が村で語り継がれていることが噂の背景にあります。

村人たちは、狭い世間だけの常識を共有している『善人』ですから、『善人』から観ると『那美』は『出戻りの頭がおかしい女』であることは疑いなしとなります。しかし実際には『那美』は、知性や感受性に富んだ女性です。

よくよく考えてみると私たちも、知らず知らずに自分を『善人グループの一員』として、その常識で他人に『間違い』『おかしい』などと云うレッテルを張っていないとも限りません。

『夏目漱石』の小説は、深く読めべそれだけ味わい深いという点で、優れた文学作品です。

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2018年9月26日 (水)

夏目漱石『草枕』(5)

『夏目漱石』の小説には、現実世界では起こる確率がきわめて低い『偶然の出会い』が度々登場します。

『夏目漱石』は、『芸術』は現実の忠実な写実である必要がないといったことを述べていますから、『承知の上』で、寧ろ意図的にそのようなプロットを構築しているのでしょう。

『偶然の出会い』は、それが相乗的にもたらす登場人物たちの『精神世界』の『変容』を描くための手段に過ぎません。

『精神世界』の摩訶不思議さをあぶりだすことが小説の目的ですから、非現実的な『偶然の出会い』を読者は寛容に受け入れねばなりません。この不自然さだけにこだわると、テーマを見失い本末転倒になります。

『夏目漱石』の小説は『壮大な大人のための童話(フィクション)』として読めばよいのではないでしょうか。

20世紀初頭の日本の世相の一部も、小説には勿論描かれています。

『戦争』『貧困』など、深刻な問題を日本が抱えていたはずですが、それらを『慨嘆』したり、『弾劾』の対象にしようとする風情は『夏目漱石』の小説には見当たりません。

人間の『精神世界』の妙を描くために、登場人物の周辺にある種の別世界を作り上げているように梅爺は感じます。

梅爺も『梅爺閑話』には、世相や政治の問題をあまり取り上げず、ひたすら『宗教』『芸術』『宇宙』『生命』に固執している点で、なんとなく『夏目漱石』の心情に共感を覚えます。

浮世離れしたことに、異常な関心を示すのは、哲学者、芸術家、科学者、などに共通する特性ですが、こればかりは遺伝子で受け継いだ特性(個性)ですから、『能天気』と言われても仕方がありません。

逆に世相や政治への関心が旺盛で、不誠実や矛盾は絶対に許せないと、正義感をたぎらせる方もおられることは承知しています。

それも個性ですから、個性で済ましていただければよいのですが、こう云う方はえてして他人の『能天気』も許せないと、時折お鉢がこちらへ回ってきますので、閉口することがあります。

梅爺も世相や政治に全く無関心であるわけではありません。ただ興味の優先度が低いだけです。

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2018年9月25日 (火)

夏目漱石『草枕』(4)

『草枕』の中で、『夏目漱石』は『西欧』と『東洋』の『芸術』の違いを以下のように表現しています。

「西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場(かんこうば)にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。」 「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。…超然と出世間的(しゅっせけんてき)に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏(ひとりゆうこうのうちにざし)、弾琴復長嘯(きんをだんじてまたちょうしょうす)、深林人不知(しんりんひとしらず)、明月来相照(めいげつきたりてあいてらす)。ただ二十字のうちに優に別乾坤(べつけんこん)を建立(こんりゅう)している。…汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、全てを忘却してぐっすり寝込む様な功徳である。」

この見事な洞察、諧謔に満ちた表現に、梅爺は感嘆してしまいます。

『夏目漱石』の小説には、不思議な魅力を持つ女性が登場します。

『草枕』の『那美』、『虞美人草』の『甲野藤尾』、『三四郎』の『里見美禰子』などです。

『夏目漱石』は、生身の女性をリアルに描く作家ではありません。むしろ男性が心に描く『憧憬の的』のような女性を登場させます。

しかし、決して何から何まで『理想像』として描いているわけではなく、『身勝手』『冷酷さ』などの一面も織り交ぜます。

男性も女性も、異性の『ミステリアス』な所に惹かれるということなのでしょう。人間として『完璧』などという人はいませんが、『足りない』こともミステリアスな部分として魅力に感じてしまうのかもしれません。

『夏目漱石』の小説では、女性がミステリアスであることを、その女性の『発言』内容、つまり『会話』で表現しています。

女性が登場した時の『会話』が秀逸で、読者もミステリアスな霧の中へ誘われてしまいます。

『夏目漱石』の女性観が、これらの表現でうかがえます。

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2018年9月24日 (月)

夏目漱石『草枕』(3)

『草枕』は『夏目漱石』がプロの作家になって最初の小説と言われていますから、特別の思いで書きあげたのでしょう。

冒頭の以下の文章は、名句として有名です。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に掉(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画(え)が出来る。

『智』『情』『意地』は、『精神世界』が絡む事象ですが、人間の『精神世界』は個性的であることが特徴ですから、他人は必ずしも自分とは同じように『考えたり』『感じたり』はしません。

人は自分の『安泰』を優先しますから、『智』に秀でた人は、『理屈っぽい』と非難の対象となり、『美人』は『薄命である』などと根拠のない中傷の対象になります。自分より優れた他人を、『やっかみ』の対象として溜飲を下げ、人は己の『安泰』を確認しようとします。

更に自分自身も、『理(智)』と『情』のバランスをどのように保つかについて、一定の判断基準を持ち合わせていませんから、何となくまずいと感じながら『自尊心』などを優先して、結局損をする羽目になるなどということもあり得ます。

上記の短い文章の中に、『精神世界』の不思議さと、それと関連して何故人は『現実逃避の虚構』として『芸術』を必要とするのかといった本質が表現されています。これだけで梅爺は『夏目漱石』のファンになります。

『草枕』は、熊本県玉名市小天温泉を舞台にした小説です。英語教師として熊本の第五高等学校へ赴任していたことがこの舞台を選ぶきっかけになっているのでしょう。

『坊ちゃん』も、英語教師としての最初の赴任先『松山(愛媛県)』を舞台にしています。その土地の風情を表現するために、小説家として自然な選択であるように思います。いくら『フィクション』とはいえ、全く見ず知らずの土地を舞台にすることは難しいからです。

『草枕』の主人公は、30歳の洋画家で、山中の温泉宿に滞在し、その宿の『若い奥さま:那美』と知り合います。『那美』は、一度嫁いで、離婚して実家に戻ってきている女性で、ミステリアスな女性として描かれています。主人公と『那美』の不思議な『精神世界』の交流が、この小説の根幹です。

主人公が温泉に浸かっているときに、それを知ってか知らずか『那美』も入浴するために現れると云った天真爛漫な行為が描かれています。その裸身から、西欧の『裸体画』とは違う美の印象を主人公は感じます。

『西欧』と『東洋』の『芸術』の本質的な違いなども、この小説の興味深いテーマになっています。

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2018年9月23日 (日)

夏目漱石『草枕』(2)

帝大を卒業後、中学(愛媛:松山)、高校(熊本)などで英語教師を務めていた『夏目漱石』が、プロの作家として独立するためには、それなりの覚悟が必要であったであろうことは容易に想像できます。

処女作『吾輩は猫である』の発表には、相当の心血を注いだことでしょう。新しい作風を世の中は認めて評価してくれるかどうかについて、周到な『読み』と『計算』が織り込まれているように思います。

梅爺はそのような『読み』や『計算』を、芸術家にあるまじき『打算』であるなどと非難する気には全くなりません。

イタリアの知の巨人『ウンベルト・エーコ』も、優れた『文学』についての条件を、一見して面白いこと、そして更によく読むと深い思想や洞察が見えてきて興味深いことと述べています。『二度おいしいグリコアーモンドキャラメル』のようなものを指すのでしょう。

鑑賞者のことなど何も考えずに、自分の思うままに表現したら、偶然世の中がそれを評価してくれたというような芸術家がいたとしたら、それは極めて幸運な人でしょう。

しかし、芸術家も人間である以上、鑑賞者(他人)を意識するのは当然のことです。『ウンベルト・エーコ』も『一人でも読者がいる限り、自分は書き続ける』と述べています。そうであるからといって、ただ鑑賞者を意識するだけに徹しても、レベルの高い芸術は生まれません。このバランスがその芸術家の力量、器となります。

そもそも『芸術』は、創作者と鑑賞者の『精神世界』の『絆』があって成立するものです。

『坊ちゃん』は、『吾輩は猫である』で確立した文人としての名声を、更に確たるものとするために追い打ちをかけた作品のように見えます。『坊ちゃん』が『面白い』ことは天下一品ですが、必ずしも『深読みすると更に面白い』という作品とは言えません。多くの読者を獲得し、名声を不動のものにするための役割を果たしたことになります。その分『夏目漱石』も、肩の力を抜いて、自分でも楽しみながら書きあげた作品のように梅爺には見えます。

名声や、一定の読者層を獲得した後に、『夏目漱石』は、本当に書きたかったテーマや作風へ挑戦していったのではないでしょうか。

『草枕』『虞美人草』を経て晩年の『こころ』へと向かいます。

これらは『人間のこころ』を描いていて、『深読みすると更に面白い』方に重点が置かれていますから、読者は『難解』の印象を受けます。『坊ちゃん』のように、ただただ面白く痛快な小説ではありません。

梅爺が読んだ作品で云えば、『草枕』『虞美人草』『こころ』は『夏目漱石』の『精神世界』を垣間見るのには絶好の作品です。

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2018年9月22日 (土)

夏目漱石『草枕』(1)

アマゾンの電子書籍リーダー『Kindle』で、『夏目漱石』の名作を続けて読んでいます。

『kindle』を購入した時に、『夏目漱石』『芥川龍之介』『太宰治』などの名作が、無料でダウンロードできることを知り、喜んで対応しました。

年金爺さんにはありがたいサービスで、おかげで、ひょんなことからこの年齢になって名作を読み直すことになりました。同じ本でも、読んだ年齢で、全くと言ってよいほど感想は異なりますから、梅爺には新鮮な体験になりました。

『吾輩は猫である』『こころ』『虞美人草』『草枕』『三四郎』『坊ちゃん』の順で読みましたが、作品が発表された順は、以下のように梅爺が読んだ順とは異なります。

『吾輩は猫である』・・1905年
『坊ちゃん』・・1906年
『草枕』・・1906年
『虞美人草』・・1907年
『三四郎』・・1908年
『こころ』・・1914年

このように、発表順に並べてみると、『夏目漱石』のその時々の心境がうかがえて興味をひかれます。

『夏目漱石』の神髄は、『人間の心の深い洞察』『該博な知識に裏付けされた見事な文学的表現』『諧謔精神』であろうと梅爺は思います。

英国留学の経験もあり、当時の西欧文学への理解があったとはいえ、明治維新からそれほど時間が経っていない日本で、『自分の文学スタイル』を打ち出した『夏目漱石』の独創性には圧倒されます。

『夏目漱石』は当然西欧文学を評価はしていますが、それに無条件で心酔したりせず、堂々と日本人の文学のジャンルを切り拓こうとしたことに感銘を受けます。

『横山大観』が西欧の絵画に触れて、独自の画風を編み出し、作曲家の『武満徹』『細川俊夫』が、日本人の『情感』を、西洋音楽の作曲にとりいれたように、私たちの『精神世界』は、日本人であることから逃れることはできません。『夏目漱石』にも日本人を感じます。

梅爺は国粋主義者ではありませんが、海外の文献を翻訳紹介するだけで、得意になっているように見える学者や評論家は、敬して遠ざけることにしています。

『夏目漱石』が出現しなかったら、現代の日本文学の様相は大きく変わっていたのではないでしょうか。

今回は『草枕』の感想が主ですが、『夏目漱石』に関する全般的な感想も含めて紹介したいと思います。

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2018年9月21日 (金)

自然死(4)

老化防止より、薄毛対策を重視すると云った馬鹿げた状況は、成功実績がない分野への投資は、ハイリスク・ハイリターンに類するとして避けるというのが一般的であるからです。

十分な研究動機があっても、財政的な支援は無いに等しいい状況です。

老化防止の研究者は、設備不足、低給料、風変わりな実験の相次ぐ失敗で人生を棒にする恐れに悩まされ続けています。

これは深刻な問題です。しかし、数少ない科学者は、研究資源が乏しい中で、ことの重要性を認識して研究に励んでいます。

成功の確率は、マンハッタン計画(米国の原子爆弾開発計画)に等しいものかもしれません。しかし政府も企業もマンハッタン計画のようには支援しません。

大きな期待は、個人の資産家が研究へ投資するか、この目的のために設立された機構へ投資することにかかっています。

風変わりながら将来を見通せる億万長者が、自分の不老不死のためにこの機会を利用するかもしれません。これはある程度実際にある話で、私は希望を寄せています。

個人的には、私は他の人とそれほど変わることはありませんが、私は死は免れないということを簡単に受け容れることができず、心の中で葛藤しています。

存在していた人が全て失われ、やがて私も無に帰すと考えると、不安になります。老化や死を解決する技術への期待は、わたし自身暗黒の暗闇から逃れたいと願う気持ちに依ると云ってよいでしょう。

現実的な話、不老不死の技術が、私が死ぬ前に完成して欲しいと願っても、最近の技術の進歩の度合いを考えると、それは無理そうだと分かります。

私の生前であれ、死後であれ、老化を治癒する技術が、近い将来実現するとは思えません。

善良な人達が、病に苦しんで死んでいきます、このような状況は、従来では考えられなかった方法で、変えていくべきです。

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2018年9月20日 (木)

自然死(3)

しかしながら、一人の人間が不死になるということは、一人の子供をつくって人口を増やすことに較べれば、環境への影響は寧ろ少ないとも言えます。

更に、人間の若返りが可能になれば、老いて朽ち果てていくより、医療処置の必要性は少なくなり、その人は自分が生きていく環境であるからこそ、環境をより大切にしようとするようになるのではないでしょうか。

更に次なる、寿命延長への反対論は、あらゆる寿命延長への試みは、結局失敗するだろうというものです。

そうかもしれませんが、この主張は、チャック・イーガーが、音速の壁を破るまでは、それは不可能だと云われていたことに似ています。

たとえ、老化を遅らせ、または若返らせる技術的な方法を見出す可能性が低いとしても、見出す努力が従来十分であったとは言えません。

私たちが人生で立派なことを成し遂げてきたとしても、そうだからと云ってその恩賞として、近い将来不老不死の恩恵を受けることはなさそうです。

地球上には、危惧しなけらばならない他の問題が沢山あるとしても、一人の人間に関わる問題としては、不老不死以上に重要な問題はありません。

そうであるにも関わらず、寿命延長の研究には多額の資金が投入されることはありませんでした。

歴史的に成功した事例の欠如、人間社会に広く浸透している宗教的な信条、が理由で政府はこれに投資しようとしないでしょう。

この技術の実現は難しいであろうことと、世の中が、間違った認識に染まってしまっていることの為に、企業もまたこの問題には興味をあまり示しません。

実現すれば膨大な利益を得ることにはなりますが、これは化粧品の改良のように易しいことではないことも確かです。

老化防止の研究の100倍もの研究資金が、現状では薄毛対策の研究に投じられています。

ことに依ると、ふさふさの頭髪を再び獲得しようと飲んだ薬が、実は副作用的に老化防止にも効果があると、皮肉なことに気付くことがあるのかもしれません。

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2018年9月19日 (水)

自然死(2)

来世などは存在しないという事実は避けられず、それを認めることは恐ろしいという現実の中で、来世に関する楽しいファンタジーを、多くの人が信じ、共有するのは、どうして弊害をもたらすことになると言えるのでしょう。

それは、私たちが唯一保有している命が宿る現世で、正しい判断をするときの弊害になるからです。

私達が生きている時間は短いと知った時に、どの瞬間も、どの出会いも非常に貴重であることに気付きます。

幸せや愛は、生きている時だけ得られるものなのです。宇宙のどこかに、私たちを愛して下さる超自然の存在(神:梅爺注)など実存しないと知れば、生きている人間同士がお互いに愛を持って接することの重要さが理解できるはずです。

多くの人達が、死について真剣に考えず、ウソをついていることは、一方において先進の技術がもたらす画期的な可能性を無視することにもなりかねません。

死は、私たちが考えるほど避けられないものではないかもしれません。科学的には、私達の寿命を何千年やそれ以上に延ばすことは、不可能だという理由は見つかりません。それは、現状では思いもよらない斬新な技術でもたらされるかもしれません。

しかしながら、多くの心理的、社会的、政治的な理由故に、科学者はそれを実現しようということに、それほど努力を傾けていません。

勿論、人間の寿命を延ばすことに反対する色々な議論があることは承知しています。最も多い主張は、老いて死ぬことは、自然の現象であり、自然の現象には逆らうべきではないというものです。

しかし、小児麻痺、天然痘、らい病など多くの病気は、自然の現象であるにも関わらず、望ましいものではないという理由で、技術で治癒されてきました。

自然は美しいものである一方、恐ろしいものでもあります。私たちは、科学や技術で、その恐ろしさを緩和することを可能にしてきました。

寿命延長に反対する次なる主張は、劇的に寿命が延びると、再生可能であるべき環境に多大な悪影響が及ぶというものです。

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自然死(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の73番目のタイトルは『Natural Death(自然死)』で、著者は論理物理学者の『Antony Garett Lisi』です。

『Natural Death』は、人間の誰もが自然の摂理による『死』を免れないことを意味しています。

『そのような当り前のことで悩んでみてもしかたがない』『避けられないのであるから覚悟するしかない』などと、凡人の梅爺は、自分の『死』について深く考えたりせずに、逃避しようとしますが、世の中には、真正面から取り組んで考えようとする人もいます。哲学者やこのエッセイの著者がそういう人たちです。

このエッセイに対して勿論梅爺は同意できること、反論してみたくなること(論旨は明快ですが単純すぎること)がありますが、今回は梅爺の感想を述べることをあえてせずに、原文(全文)を梅爺が拙訳してご紹介します。著作権上、著者の了承が必要なのかもしれませんが、金銭が絡むことがない善意の行為として、お許しいただけるものと勝手に判断しました。お読みいただいた皆さまが、ご自身で『死』ご関する思索を深められることを期待します。

医学研究の分野で、現状を打破する斬新な発見や進展がない限り、私たちの大半はは100歳に至る前に死にます。

あなたが死を迎える前に、あなたの愛する家族や友人が、衰え、病にかかり、死にいたる状況に立ち会わなければならないことにもなるでしょう。そして、死は、その人達の人格や、その人たちが保有していた記憶を永久に消滅させてしまいます。

このような体験を何度も何度も繰り返して、私たちは、それが自然の摂理だと悟ります。しかし、悟って見ても、この摂理は恐ろしく、悲劇的で、心を暗くするものであることには変わりがありません。

自分の死について考えることは、それほど恐ろしいものなので、多くの人達は、死に真摯に立ち向かおうとしません。

死がもたらす無から目をそらし、自分の存在が本当に無に帰してしまうことを認めようとしません。

自然の摂理はそうなっているとしても、人間の心は情感でも思考でも、それを受け容れるようにはできていません。

そこで、多くの人達は、自分にも他人にもウソをついて、なんとか得心しようとします。

ウソの最たるものが、謎めいた死後の世界があるという話です。このウソは、敵を殺し、自分も死ぬかもしれない戦場に若者を送りだす時に、若者の勇気を鼓舞する目的で、何千年にわたって利用されてきました。

更に、病の苦しみ、死の喪失感に直面して、多くの人は現世よりも素晴らしい来世があると自分に言い聞かせようとしてきました。しかし、この話には信用できる何の証拠もありません。

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2018年9月18日 (火)

自由意志を信ずるか信じないかは科学の問題ではない(2)

このエッセイの著者は、『自由意志』に関する色々な人の意見を以下のように紹介しています。

(1)『我々は、自分たちがあたかも自由意志を保有しているかのように振る舞うべきで、他人も同様であることを認めなければならない(Daniel Dannett)』 

(2)『私の自由意志の最初の活動は、自由意志の存在を信ずることだ(William James)』 

(3)『「システム1」は自動、一方「システム2」は意識による内省が含まれる(Daniel Kahneman)』

確かに、このような勝手気ままにみえる難解な意見ばかりを目にしていたら、『自由意志』の問題は、科学の問題とは思えなくなり、投げ出したくなる気持ちが分からないでもありません。

(1)は、『宗教』の『教義』や、『道徳』『倫理』として使われる表現のようで、これだけで『はい、分かりました』と従う人はよほど従順な人です。

(2)は、『我思う故に我あり』といった、『哲学』の表現に似ています。

(3)は、『システム1』『システム2』とは何かの説明がありませんので、憶測するしかありませんが、『システム1』は梅爺の表現『物質世界(肉体が属する)』、『システム2』は同じく『精神世界』と置き換えれば、何が云いたいのかはボンヤリながら推測できます。

しかし、『システム1』と『システム2』の相互関係は、これだけの表現では分かりませんし、『意識による内省』は『自由意志』を指すのかどうかも分かりません。

『自由意志』がもし存在するとしたら、それは『精神世界』に属するものであると推定できます。問題は、『物質世界』の影響を受けずに、『自由意志』が存在可能かどうかですが、これは『脳科学』『認知科学』の解明が進まないと、現状では『分からない』と言わざるをえません。

このような状況で、梅爺の直感は、『自由意志は存在するのではないか』と囁いています。

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2018年9月17日 (月)

自由意志を信ずるか信じないかは科学の問題ではない(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の72番目のタイトルは『The Belief or Lack of Belief in Free Will is not a Scientific Matter(自由意志を信ずるか信じないかは科学の問題ではない)』で、著者はハーバード大学の心理学者『Howard Gardner』です。

前に、『自由意志は存在しない』と主張するスタンフォード大学の脳神経科学者『Robert Sapolsky』のエッセイをブログで紹介しましたが、これはそれに呼応するもので、こちらは『自由意志は存在するだろう』という主張に加担しながら、それでもこの問題を『科学』の議論の対象にするのは無理がありそうだと匙(さじ)を投げて、『もう、考えるのはやーめた』とエッセイを結んでいます。

前のエッセイに関する感想を述べた時に、梅爺は『精神世界の中だけで、物質世界の摂理の支配を受けない因果関係の構築が可能であることを考えると、自由意志と呼べるものは存在するのではないか』と書きました。

勿論、梅爺の『仮説』ですから、これが『正しい』などと思い込んでいるわけではなく、現時点で自分にとっては矛盾が少ない考え方であるとして受け容れているだけです。

『自由意志は存在しない』と云う人の論理も、『自由意志は存在する』という人の主張も梅爺には、好奇心の対象になります。

『自由意志は存在しない』と主張する人が挙げる理由の一つは、『意識の判断に先んじて、必ず肉体(器官、神経など)の行動がある』というものです。

つまり、『判断』は、肉体の『行動』に従属するものとして遅れて起きるということになり、従って、『判断』は制約の中で起こっているので『自由意志は存在しない』ということになります。

分かりやすく云えば、五感で察知した刺激によって、肉体の『器官』や『脳神経ネットワーク』が『行動』を起こし、その後に『意識』の総合判断が行われるということです。

私たちは、自分では『自由奔放に考えている』と思っていますが、それは『お釈迦様の掌(たなごころ)の上を自由な世界と思い込んでいる孫悟空』のようなものだということになります。

梅爺の推測は、最初の反応は確かに『肉体(物質世界)』主導で起こるとは思いますが、その後それを受けた『精神世界(心、意識)』が情報処理を行った結果、逆に『精神世界』から『肉体』へ『情報』の『副流』が起こり、これに依って『肉体』は影響を受けるというものです。

この『副流』現象は、『自由意志』によると云ってもよいのではないかと考えています。

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2018年9月16日 (日)

自由意志は存在するのか(4)

『自由意志は存在しない』という主張は、『意志は存在しない』と云っているわけではありません。

『意志』は存在するけれども、それは他から何の影響を受けない(Free)なものではないといっていることになります。

人間の『行動』は、『先天的』であれ『後天的』であれ、その時点で保有している『資質』の影響を強く受けるという主張であれば、『そのとおり』と言わざるをえません。

梅爺が『梅爺閑話』を書いているのも、『アインシュタイン』が『一般相対性理論』を論理的に導き出したのも、それぞれの『資質』が基盤にあってのことです。

『意志』は『資質』の影響のもとに出現するので、その『意志』が引き起こす『行動』も『資質』の影響下にあるという『三段論法』は分かりますが、そうだからといって、『行動』の責任を『資質』に転嫁するのは、少々無理な論法になります。

『資質』の大半は、自分の『意志』で選択したものではないので、『あなたの資質は気に入らない』と他人から云われても、責任の取りようがないのは確かです。『あなたが美人でないのは気に入らない』と言われるようなものですから。

しかし、『意志』が関与する『判断』や『行動』は、『個性的』であるが故に、たとえ『資質』の影響下でもたらされたとしても、『ユニーク』なものになりますから、その人の『責任』が問われる対象になるのではないでしょうか。

もし、人間が『個性的』でなく、だれもがコンピュータのように、同じ『判断』『行動』を惹起するのであれば、『責任』を問題になりません。

人間は宿命的に『個性的』である以上、その『個性』を生みだしている『資質』は自分で選択したものであろうが無かろうが、最終的にもたらされる『判断』『行動』には、『責任』が付随するという約束事にしないと、人間社会は成り立たないからです。

『人間社会』は『個性的』な個人の集合体であるということの本質を理解することは易しいことではありません。

非常に偏った『考え方』『行動』をする人が、統計分布上、必ずある比率で出現することも覚悟しなければなりません。

『個性的』であることは認めるが、あるレベル以上の偏りは認めないという基準(約束事)を設定することは非常に難しいことです。『人間社会』が内包する難題の一つです。

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2018年9月15日 (土)

自由意志は存在するのか(3)

人間を考える時に、身体や脳(物質世界)も、心(精神世界)も『個性的』であることが最も本質的なことで、このことが人間や人間社会を理解することを複雑にしています。

あまりにそれが複雑なために、『人は個性を排除して、均質であるべきだ(それが理想だ)』という考え方につい加担したくもなります。それで一見問題が解決できるように錯覚するからです。『日本人としてあるべき姿』などというものを定義して、誰もがそれに向かうことが『好ましい』という主張が生まれたりします。

『独裁(独裁者、一党独裁)体制』などは、国民に『均質』を強要するもので、ある種のことは、この方が効率よく処理できることは確かなことです。反対することや議論することが許されないからです。

しかし、『個性』を否定することは、人間の根源にある『安泰を希求する本能』を脅かすことになり、これに人間は最も強く反発します。精神的な苦痛と受け止めるからです。

人類の知恵は、結局『個性的』であることを認めた上で、『基本的人権』『民主主義』などという人間社会を運用する『概念』や『しくみ』を考え出しました。

個性的、多様を認めた社会の方が、結局柔軟で強靭であるという認識を多くの社会が共有するようになった経緯がそこにあります。

『民主主義』は決して効率が良いシステムではありませんが、効率を犠牲にしてもその方がまだましであるという認識です。『民主主義』が理想的などと主張はお門違いで、単に次善の策に過ぎません。『民主主義』にも短所は沢山ありますから、これを是正していく『知恵』は、私たちに絶えず求められています。

『自由意志』が存在するかなどという議論よりも、人間の『意思』は『個性的』であり、その『個性的』であることの要因は、何に依るのかを洞察することの方が重要なような気がします。

『個性的』であることを生みだす一つの要因は、『遺伝子』などの『先天的』な要因であることは確かですが、それ以外に生まれた後の環境などによって形成される『後天的』な要因もあると考えるのが自然ではないでしょうか。

『一卵性双生児』として生まれた兄弟も、生後全く別環境で育つと、それぞれ異なった『個性』の人間になることが、教育や心理学の実験で確認されています。

『先天的』と『後天的』の要因が、どのような比率で『個性』を形成するのかを、定量的に調べることは難しいのですが、多くの研究結果は『先天的』な要因が圧倒的に支配的であるとは云っていません。

生まれつきの要因で、その人の人生や運命がすべて決まってしまうというようなことではないという認識が、私たちに希望や期待をもたらします。

『後天的』な要因の多くには、その人の『自己責任』が関与しますから、『犯罪』に対する責任として『刑罰』を与えることは、不適切と言えないことになります。

しかし、一般論として、行動を決める要因を、『先天的』か『後天的』か判別することは易しいことではありません。『犯罪』の場合、現状では『裁判』がそれを都度行っています。『分からないが、それでも決めて前へ進まねばならない』という状況は、『生きている』以上日常的に遭遇することです。『正しいかどうか良く考えて判断し、行動しなさい』などという説諭は、現実にはあまり役に立ちません。

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2018年9月14日 (金)

自由意志は存在するのか(2)

人間の行動の全ては『自由意志』がもたらす結果とは言えないことは確かでしょう。ボールが顔へ向かって飛んで来れば、無意識に手で防ごうとしたり、顔をそむけたりします。『安泰を希求する本能』が、『無意識』な行動を引き起こすからなのでしょう。『無意識』は『意志』が関与していないからこそ『無意識』と呼ばれます。

『精神世界』には、『意識(随意)』と『無意識(不随意)』が関与しており、多くの『情感』は『無意識』が引き起こすものです。

『感動する』『悲しい』『嬉しい』などの『情感』は、突然襲ってくるもので、決して『そうしよう』という『意識』がもたらしたものではありません。

一方、『因果関係を推論する』などの『理的行為』は、『突然の閃き(無意識)』が引き金になることもありますが、多くは『解明したい』という『意識(意志)』が先行すると云ってよいのではないでしょうか。

しかし『解明したい(何故か知りたい)』と思う『意思』そのものは『無意識』が引き起こしているともいえますので、結局すべての行動は『無意識』が支配しているという主張を否定することは難しくなります。

このエッセイの著者も、『実感としては、自由意志が存在しないと云う主張を受け入れるのは難しいことだが、論理的にはそう言わざるを得ない』というような表現をしています。多分エッセイには書かれていませんが、上記のようなプロセスの洞察があってのことでしょう。

『人は自由意志を保有していない』ということを前提にすると、『法(特に刑法)』や『教育』の基本的な考え方を再考しなければならなくなります。

『犯罪』は、『犯人の意志』が引き起こしたものではなく、その人間の脳や身体が保有する『資質』が引き起こしたものであるという論理になってしまいます。つまり、そういう『資質』を保有していることの責任を、その人に問うことはできなくなります。美人に生まれたのか、そうでなく生まれたのかの責任をその人に負わせることはできないのと同じです。

このエッセイの原タイトル『あなたの頬骨は美しいと褒めることの危険』は、このことを云おうとしています。

『頬骨が美しい』ということは、その人の『意思』とは無関係な先天的な『資質』ですから、それを『褒める』ことで、『意志で獲得したもの』という錯覚を生じさせる危険を指摘していることになります。

『あなたは美人だ』『あなたは賢い』と他人から褒められれば、悪い気はしませんが、それは自分の『自由意志』が働いて保有したものではありませんから、それで『優越感』を持つことは、人間関係に好ましい結果をもたらさないことになります。

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2018年9月13日 (木)

j自由意志は存在するのか(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の71番目のタイトルは『The Danger of Inadvertently Praisinng Zygomatic Arches(あなたの頬骨はなんと美しいのかなどとうっかり褒めるのは危険なことだ)』で著者は、スタンフォード大学の脳神経学者『Robert Sapolsky』です。

この原タイトルでは、何が云いたいのかは直接伝わりませんから、梅爺のブログのタイトルはエッセイの主旨を重視して『自由意志は存在するのか』に変えました。

このエッセイの著者は、『人は自由意志を保有しない』という主張の持ち主です。

脳神経科学の専門用語や、ホルモンなどの名前が沢山出現して、このエッセイを理解するのは易しくありませんが、煎じつめると以下のようなことが云いたいのであろうと梅爺は受け止めました。

一見『自由意志』で、判断しながら私たちは行動していると思いがちですが、実は、先天的に保有しているその人の『資質(遺伝子情報)』が、環境から受ける刺激に呼応して行動内容を決めているだけに過ぎないという主張です。

『あらゆる行動は、そう行動するようにあらかじめ仕組まれている』とこのように端的に云われてしまうと、身も蓋もないような気になり、反論したくなりますが、それもまた易しくありません。

この問題は、梅爺流の認識で表現すれば、『精神世界(心)』と『物質世界(身体や脳)』は、相互にどのように関係で成り立っているのかという認識に帰着します。

人の場合、『精神世界』と『物質世界』は地続きですから、『精神世界』に『自由意志』が存在するとしても、それは『物資世界』の影響を受けていない、純粋なものであるとは、確かに云い切れません。

『精神世界』はすべて『物資世界』の制約を受ける、つまりあらゆる場合『精神世界』は『物質世界』に従属する云い切れるのであれば、『自由意志は存在しない』という主張に一理があることになります。

しかし、梅爺の直感では、『精神世界』で一次的に創出された判断内容(これは確かに『物質世界』に従属していると言えても)が、二次的に逆に『物質世界』に影響を与えるという、『副流作用』があるように感じます。

簡単な例を挙げれば、『愛する人に自分は捨てられるのではないか』と論理推論(これは一次的な判断)して『不安、心配』が生じ、その『不安、心配』は、脳(物質世界)にある種のホルモンを分泌することを促し、その結果食欲がなくなる、不眠症になる、というような結果を招来するようなケースが『副流作用』と言えるような気がします。

人間の行動は、『精神世界』と『物質世界』の複雑なインタラクション(相互作用)で決まるもので、全て『物質世界』の制約を受けているとするのは、単純すぎるような気がします。

勿論『自由意志』とは何かという定義に依っても、この議論は変わってきます。

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2018年9月12日 (水)

レナード・バーンスタイン(6)

NHK交響楽団の首席指揮者『パーヴォ・ヤルヴィ』は、バルト3国の『エストニア』出身です。父親の『ネーメ・ヤルヴィ』も著名な指揮者ですが、ソ連支配下時代に一家で『アメリカ』へ亡命し、長男の『パーヴォ・ヤルヴィ』は『アメリカ』で音楽教育を受けました。その時『レナード・バーンスタイン』との出会いがあったことになります。

『エストニア』は合唱が盛んな国で、ソ連支配下時代も、その監視下で『合唱祭』を国民的な催しとして継続しました。『愛国的な歌』や『ソ連体制批判の歌』は、厳しく規制されたのでしょう。

『パーヴォ・ヤルヴィ』は『レナード・バーンスタイン』の思い出を、以下のように語っていました。

『私(パーヴォ)は、音楽家の家で育ったので、音楽の基礎知識はある程度身につけていると考えていました。しかし、バーンスタインに出会って、音楽をやっていく上で必要な知識を何も知らないことを思い知らされました。バーンスタインは、歴史、哲学、他の芸術分野にも該博な知識を保有していて、それが音楽の基盤ともなっていることを知ったからです。
あるとき、バーンスタインから指揮法を1対1で教えてもらっていた時、バーンスタインの付き人は「次の予定があるので、その辺で切りあげてください」と何度も促しましたが、バーンスタインは一向に気にせずやめませんでした。ついに、付き人は業を煮やし「教えるのは、やめにしてください」と叫びました。その時バーンスタインは「私は教えてなんかいない、今この青年の人生を変えようとしているのだ」と答えたのです。この時の感動は一生忘れません』

『広上淳一』は、若いころヨーロッパの若手指揮者コンテストに優勝し、オランダの有名なオーケストラ『コンセルトヘボウ』の、アシスタント指揮者を務めていた時に『レナード・バーンスタイン』と出会いました。

その時、『広上淳一』は、『レナード・バーンスタイン』の豪放磊落な性格に圧倒されましたが、特に『LearningとStudyは違う。音楽をやる上ではLearningが大切』と教えられたと語っていました。

上辺の知識や技術を身につけるのは『Study』で、その意味を自分で理解し、自分なりに使いこなす能力に変えるのが『Learning』ということなのでしょう。

このことは、『音楽』ばかりではなく、人間が生きていく上で、何事にも求められることです。日本の教育では、正しく暗記した人が高得点をとるしくみになっていて『頭が良い人』とされますが、実に皮相な話です。

梅爺が『レナード・バーンスタイン』に、興味を抱き、共鳴するわけをご理解いただけたでしょうか。人生でこのような師に巡り合ったひとは、幸せな人です。

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2018年9月11日 (火)

レナード・バーンスタイン(5)

『レナード・バーンスタイン』は、20世紀のアメリカが生んだ、世界的で偉大な指揮者、作曲家、ピアニストです。

新大陸『アメリカ』は、クラシック音楽と云う点で、当然ヨーロッパに較べて後進国でした。

『ドヴォルザーク』『ストラビンスキー』『プロコイエフ』など、外国の音楽家、作曲家がアメリカを拠点として活動したことは有名ですが、アメリカ人の中から、世界が認める音楽家が出現したのは、『レナード・バーンスタイン』をもって嚆矢(こうし)とすると言ってよいのではないでしょうか。

『レナード・バーンスタイン』は、一般にはミュージカル『ウェストサイド・ストーリー』の作曲家として知られています。『音楽』の本質は『クラシック』も他のジャンルの音楽も変わることがないという柔軟な認識があったのでしょう。日本の『武満徹(たけみる・とおる)』なども同じです。

『レナード・バーンスタイン』は、若手の音楽家、指揮者の育成に、生涯情熱を傾けたことでも有名です。生前来日して、日本でもセミナーを開催しています。

現在世界で活躍する『指揮者』の多くも、『レナード・バーースタイン』の薫陶を受けています。日本人の『指揮者』では、『小澤征爾』『佐渡裕』『広上淳一』などが『弟子』と言われています。『小澤征爾』は更に『カラヤン』の『弟子』でもありました。

現在、NHK交響楽団の首席指揮者(初代)である『パーヴォ・ヤルヴィ』も、『レナード・バーンスタイン』から薫陶を受けた一人です。

地上波NHK教育テレビの『クラシック音楽館』という番組の中で、『広上淳一』と『パーヴォ・ヤルヴィ』が、師『レナード・バースタイン』の思い出を対談形式で語る内容が放映され、梅爺は『レナード・バースタイン』に一層の興味と親しみを感ずるようになりました。

『広上淳一』も『パーヴォ・ヤルヴィ』も、音楽の師としてばかりではなく、人生の師として『レナード・バーンスタイン』を敬愛しています。『魅力的で大きな器』の持ち主でなければ、人間関係においてこのようなことは起こりません。

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2018年9月10日 (月)

レナード・バーンスタイン(4)

『自分を無にして、周囲を包容する』という資質は、『自己主張をしない』『相手に迎合する』ということではありません。

先ず、『個性的であることが人間の本質』という洞察ができ、そのことを深く理解していることが必要です。厳密にいえば親子や兄弟も個性的と云う点では他人です。夫婦は云うに及びません。

この一見『当り前』に思えることを私たちは普段忘れがちです。自分が『考えたり』『感じたり』しているように、他人も同様に『考えたり』『感じたり』しているのであろうと錯覚したり、自分の『考え方』『感じ方』が『正しい』と思い込み、他人にそれを強要したり、それを認めない相手を非難したりします。

論理的、普遍的に『正しい』と言えることは、『科学』が対象とする『物質世界』の事象や、『数学』が対象とする『論理』の事象にしか適用できせん。

人間の『精神世界』が絡む世の中の事象には、『正しい』『間違い』を区別する基準がありません。

『法』『道徳』『倫理』『宗教の教義』などで、『正しい』『間違い』を判定しているように見えますが、これらは、コミュニティの『約束事』であり、『約束事』はコミュニティの状況や時代によっても変わります。

大多数の人が『約束事』として認める判断基準がコミュニティ(人間社会)に存在することがコミュニティを運用するために必要であることは、勿論梅爺も承知しています。

『自分を無にして、周囲を包容する』ということは、『自分の価値観を保有した上で、他人の価値観の存在とその内容を理解する』能力のことです。うわべだけ『腰が低い人』になることではありません。

自分の価値観を信頼しながらも、他人の価値観を洞察し、必要に応じて自分の価値観を更に確固たるものに変えていく勇気と柔軟な発想がなければ、この資質は成り立ちません。

平たく言ってしまえば、『自分を信じて疑い、他人を疑って信ずる』という極めて難しいバランス感覚を保有していなければなりません。他人を愛することができない人には、このバランス感覚は期待できません。

『オーケストラ』や『コーラス』といった、コミュニティとしては限定された条件や環境のなかであるが故に、理想的に近い『リーダー』が出現しやすいのかもしれません。

国家や大きな企業体では、あまりにも環境条件が多様複雑であり、利害の対立も顕著ですから、理想論よりも、力づくや権謀術数で、とりあえず『まとめたように見せるリーダーシップ』が受け入れられてしまうのかもしれません。

音楽やスポーツの世界の『リーダー』と、国家や企業体の『リーダー』の乖離を深く考えてみると、人間や、人間社会の本質理解が深まるような気がします。

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2018年9月 9日 (日)

レナード・バーンスタイン(3)

『オーケストラ』や『コーラス』の『指揮者』に興味をもった梅爺は、関連する以下の本を読みました。 

『オペラのおしごと(三澤洋史著)』
『The Ignoranto Maestro(Itay Talgam著)』
 

『オペラのおしごと』は、梅爺の合唱団の常任指揮者『三澤洋史』先生の著作で、長年『合唱指揮者』として従事してきた『オペラ』に関する体験談が綴られています。『三澤』先生は、現在『新国立劇場』専属のプロの合唱団の指導者を務めておられます。世界的に有名な『バイロイト音楽祭』で、コーラス指揮のアシスタントを経験し、イタリア、ミラノの『スカラ座』にも研修の為の留学をされておられます。文字通り、日本のオペラ・コーラス指揮の第一人者です。 

『The Ibnoranto Maestro』は、ぶらりと立ち寄った書店の洋書コーナーで偶然見つけた本で、『指揮者』に関する梅爺の興味に端的に答えてくれる内容が書かれています。 

タイトルをそのまま訳せば『無知な指揮者』となりますが、この本が云っていることは、『自分を無にして、周囲を大きく包容できる資質』のことです。英語と云う異文化の世界を理解することは、難しいことです。辞書を引いて単語の意味を調べるなどという行為は、表面的な理解にしか過ぎません。 

この本では、過去、現在『大指揮者』と評されている以下の人達について述べられています。 

『トスカニーニ』『リッカルド・ムッティ』『リヒャルト・シュトラウス』『ヘルベルト・フォン・カラヤン』『カルロス・クライバー』『レナード・バーンスタイン』 

『指揮者』の理想像が『Ignoranto Maestro』となったのは、最近のことで、過去の大指揮者の中には、自分の価値観をオーケストラ部員に強要する『カリスマ的指揮者』や、一点のミスも許さない『完璧主義の指揮者』や、楽譜に書かれていることを絶対視する『教条主義的な指揮者』がいたことが分かります。

この歴史的経緯を観ると、『政治リーダー』についても同じことが言えそうだと気づきます。

しかし、『オーケストラ』の『指揮者』に較べて、『政治リーダー』は遅れていることが分かります。

世界の『政治リーダー』を眺めて観ても『Ignoranto Leader』と言える人物が多くは見当たりません。

『カリスマ的独裁者』『皮相で単純な判断しかできないのに、自分を大人物と思い込んでいるリーダー』『イデオロギーや宗教の教義にこだわる教条主義的なリーダー』で満ち溢れています。

『自分を無にして、周囲を大きく包容できるリーダー』などというのは、政治の世界では望むべきもない、空しい期待なのでしょうか。

現在は無理としても、日本社会が成熟すれば、そのような『政治リーダー』が日本に現れるのでしょうか。

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2018年9月 8日 (土)

レナード・バーンスタイン(2)

『音楽』への関わり合い方としては、『作曲』『演奏』『鑑賞』があります。

『作曲』は、豊かな感受性をベースにした創造能力を必要としますが、それに加えて、音階、調律、リズム、和声、対位法、楽器の特性、人間の声の音域などに関する膨大な基礎知識を必要とします。

思いついたメロディを、楽譜にする程度のことならば梅爺でもできますが、本格的な『作曲』は、プロの領域に属するもので、残念ながら自分では対応できないと自覚しています。

『演奏』も、多くはプロでないと対応できない領域であり、基礎訓練から積み上げたプロの技は、スポーツと同じく、梅爺の目には、正に人間業とは思えないものに映ります。

『歌う』こともプロの技を必要としますから、『音楽好き』とはいえ本来素人には近づきがたい領域ですが、唯一『合唱』だけは、最低限の訓練で素人でもあるレベルにまでは到達できます。

梅爺が素人『男声合唱団』のメンバーとして、『歌って』いるのは、このような事情に甘えているからです。

仕事をリタイアした後の梅爺にとっては、『鑑賞』が楽しみの一つです。

地上波NHK教育放送の『クラシック音楽館(NHK交響楽団の定期演奏の放映がメイン)』、NHKBSプレミアム放送の『プレミアム・シアター(世界のオーケストラやオペラなどの放映)』などを録画して、のんびり鑑賞しています。

ホールへ出向いて『生演奏』を聴くことが理想ではありますが、老人の梅爺には、我が家で好きな時間に、テレビの高画質、高音質を楽しむことに不満はありません。

このような『鑑賞』を続けているうちに、梅爺はオーケストラの『指揮者』に多大な興味を抱くようになりました。

梅爺が属する『男声合唱団』の常任指揮者は、プロの指揮者『三澤洋史(ひろふみ)』先生で、『三澤』先生から受ける啓発も多大です。

人間社会で『リーダー』に求められる資質の大半が『指揮者』には求められます。『名指揮者』の中に、理想的な『リーダー像』に近い資質を備えた方がおられることに梅爺も気づくようになりました。

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2018年9月 7日 (金)

レナード・バーンスタイン(1)

梅爺の人生で『音楽』は欠かせない伴侶でした。

勿論、『プロ』の音楽家になろうと考えたことや、本格的な基礎教育を受けたことはありませんが、いつも『音楽』がそばにあったということです。『音楽好き』の性癖は、先祖の誰かのDNAを継承しているのでしょう。ちなみに梅爺の父親は『音楽』には無関心で、『歌舞音曲は男のたしなみに非ず』などと口にしていました。

新潟県の長岡で、敗戦(終戦)直前に、米軍の空爆を受け、我が家は家財をすべて焼失し、母親は大やけどをうけて、その後の一家の生活は貧しさを強いられました。

当時4歳であった梅爺は、『貧しさ』の全てを鮮明に覚えているわけではありませんが、それでも『ひもじさ』や『欲しいと思ってもかなえられない絶望感』の一部は覚えています。幼児期に『おもちゃ』『本(絵本)』などを手にした記憶はまったくありません。

小学校の低学年で『本を読む』面白さに取りつかれ、友達の本、学校や長岡市の図書館の本を借りて、子供向けの『世界名作全集』『吉川英治』『江戸川乱歩』などをむさぼるように読みました。人間は『飢え』を満たすためなら、なんとか知恵を働かせるものです。『本が身近になかったから読書好きにならなかった』などというのは言い訳にすぎません。

本が買えない状況では、『楽器』などは望むべきもない状態でしたが、ようやく『木琴』を買ってもらうことができ、知っている『歌』のメロディを、我流で演奏し始めました。

小学校の高学年の時に、母親が東京へ出向いたおりの『おみやげ』で、半音演奏ができる本格的な『ハーモニカ』を手にした時は、飛び上がらんばかりに嬉しかったことを覚えています。

中学校では、『ハーモニカ・バンド』『吹奏楽部(トロンボーン担当)』の課外活動、高校、大学くでは『コーラス・クラブ』に入って、学業よりこちらに精を出しました。現在も、『爺さん合唱団(東京大学OB男声合唱団)』に属しているのは、その延長です。『楽譜を読む』こともこのような経験の中で自分で学びました。

高校の時には、ようやく、レコードでステレオ再生ができる装置を、部品から組み立てて、なんとか購入した『シューベルトの未完成交響曲』『チャイコフスキーの悲愴交響曲』を繰り返し、繰り返し聴きました。ようやくこのころ我が家は人並みの生活ができるようになっていました。

『飢え』を満たすためには、知恵を働かせてなんとかするという対応は、『音楽』についても同じでした。本当に『好き』なら、なんとかするという人間の習性を梅爺は自分の体験から信じています。

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2018年9月 6日 (木)

Creolization(クレオール化)(6)

人間は自分より優れている人に遭遇すると、その影響を受けます。クラスに優秀な生徒が一人転校してきたりすると、そのクラスの平均的な成績が上がったりします。

スポーツでも、優れた選手、優れたチームが出現すれば、周囲に良い影響を及ぼします。

『異文化』に遭遇した時に、影響を受けて自分たちの文化に『変容』が生ずるのは、人間の習性として避けられないことで、人類の文明はそのようにして発展してきました。ローマ人は、『ギリシャ語』を学んで『ラテン語』の表現レベルを向上させました。中国からもたらされた『漢字』で、日本人の『やまと言葉』の表現レベルが画期的に『変容』したのもその例です。

『文明』『思想』『宗教』『芸術』『技術』が、伝播していくのもそのためです。

しかし、人々の平均的価値観が変わっていくということはは、避けられないことであるとしても、『良いこと』であるとばかりは言えません。『クレオール化』の本質がそこにあります。

『淘汰』され、『消滅』してしまう可能性があるものは、全く『無意味』なものであるとは言えないからです。

『クレオール化』を考える時に、もっとも難しい領域の一つが『芸術』であることは確かなことでしょう。

『芸術』は、芸術家の『精神世界』の個性的な表現ですから、鑑賞者の『好き』『嫌い』の評価は受けるにしても、どれが『優れている』と絶対的な評価を下すことはできません。

西欧の『オペラ』はレベルが高く、日本の『能』『狂言』はレベルが低いなどということは言えません。『宗教』も同じことで、『キリスト教』は他の『宗教』に比べて洗練されているなどとも言えません。

しかし、『クレオール化』で、人々が単純な判断様式を受け容れてしまう可能性があり、これが『クレオール化』の『弊害』の一つと言えます。

このエッセイの著者は、『クレオール化』で『芸術』が、『均一化』され、一部が『消滅』の危機に瀕することを危惧しています。

ツヴァイクの言葉として、『存在を多様な方法で表現するために芸術がある』を引用し、エッセイを締めくくっています。

『芸術』に関するこの考え方に梅爺は異論がありません。

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2018年9月 5日 (水)

Creolization(クレオール化)(5)

『日本』も明治維新の直後は、『国家存亡の瀬戸際』でしたから、国を一色して『富国強兵』へ効率よく邁進するための政策が採られました。ぐずぐず議論をしていたりすると、列強の植民地になってしまうという恐れが、維新のリーダーたちにはあったからです。『国論が割れる』『内紛が続く』ことを強度に警戒したことになります。

『天皇権力の絶対化』もそのために必要とされました。『短期間の近代化』などと表現すると、明治政府が『善政』を布(し)いたという、きれいごとになりますが、実態はなりふり構わず『富国強兵』に突き進んだというのが実態ではないでしょうか。

『全小国民に均等に教育機会を与える』などと云う政策も、『民主的な善政』に見えますが、実態は『国の方針に無条件で従う国民』を育成することが目的でした。金太郎あめのように、同じ価値観を信奉する国民を、『富国強兵』は必要としたからです。

長年続けられたこの日本の『教育方針』が、『他人と同じように振る舞うことが無難』という、日本人の『価値観』を醸成し、現在にもその影響を残しているように思えます。『お上の意向は絶対』『個性は見せない』などの習性が、日本人の短所として取り上げられるのはそのせいでしょう。

しかし一方において『教育』は、国民の『理性』のレベルを上げることになり、第二次世界大戦敗北後の『日本』を復興されたのは、『教育レベルの高さ』を武器にした『日本人』という人材でした。

明治維新のリーダーたちが『教育』に託したこととは、違う『結果』がもたらされたことは皮肉でもあり、幸運でもありました。

現在の『日本』の教育は、何を目指しているのかは梅爺には判然としません。

梅爺の願いは、避けられない『クレオール化(異文化との折衝による変容)』の中で、自分を見失わずに主張できる日本人を育成して欲しいということです。

他人を認めながら、自分を主張するということは、『理性』の高い人間でしかできないことであるからです。

『クレオール化』は恐れたり、忌避したりする必要はありませんが、それに漫然と流されることは避けたいということです。

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2018年9月 4日 (火)

Creolization(クレオール化)(4)

『人間社会』を効率よく運用しようと思えば、同じ『価値観』や『ルール』を共有する方式を採用するのも一つの方策です。

中国の共産党による『一党独裁体制』、北朝鮮の『独裁体制(形式的には労働党という政治組織の体裁をとりながら、実質は金一族の世襲支配)』は、政策実施の『効率性』だけを考えれば、『民主主義体制』に優るかもしれません。

仮に、高潔で洞察力に優れ、私利私欲や権力を求めない独裁的な『リーダー』が出現したとすれば、『民主主義体制』は太刀打ちできないかもしれません。

中国や北朝鮮が現状の『体制』になっているのは、『歴史の経緯』があったことも知る必要があります。独裁的に効率よく国家運営をしなかったら、その時点で国家が存続できなかった事情があったはずです。

国家存亡の危機を脱することができたのは、『独裁体制』を採用したからなのか、現状でも『独裁体制』の継続が国家にとって有利なのかは、簡単に答が出せることではありません。中国や、北朝鮮の国民の総意が、今後何を選択していくかは、基本的には彼等に任されることがらです。

ただ歴史を俯瞰すると、一般論として『独裁体制』は、『権力者に依る恐怖政治』『陰湿な権力闘争』『賄賂の横行などの腐敗』の温床になる傾向が強いと言えます。『自分の都合を最優先する(保身)』という人間の本能の、悪い一面が顕在化しやすいからなのでしょう。

『独裁体制』は、外部の価値観、文化によって、現状が否定されることを極度におそれますから、『異なった体制』『異なった文化』の影響を最小限度にしようと取締りを強化します。

つまり『クレオール化(異文化との接触による変容)』が起こりにくい環境を、人為的に創りだそうとします。

北朝鮮はその意味で『孤立化』していますが、中国は『経済開放』をせざるを得なかったために、ある程度の『自由』が国民に与えられ、その結果、多くの中国人が観光で訪れた、日本や外国の文化を体験してしまうという、中国政府にとっては『悩ましい事態』が起きつつあります。

政治的には『排日』と云いながら、経済的に『親日』にならざるを得ない状況、国民の一部が、あこがれの『日本』に押し寄せている状況が、『矛盾』として中国政府に徐々にのしかかることになるのではないでしょうか。『日本文化』を体験した中国人には、『クレオール化』が、始まってしまうからです。

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2018年9月 3日 (月)

Creolization(クレオール化)(3)

このエッセイの著者は、『グローバリゼーション』『文化の均一化』『特異文化の消滅』を、『好ましくないこと』というニュアンスで書いています。

評論家や文化人が、このような主張をすることが多いのですが、そういう主張をしながら、ちゃっかり『グローバリゼーション』の恩恵に浴していることには、口をつぐんでいるように見えて、梅爺は釈然としません。

勿論、何事でもそうであるように『グローバリゼーション』には『長所』と『短所』があることは云うまでもありません。根底にあるものは人間やコミュニティの『自己都合を優先する欲望(安泰を希求する本能)』であることを認識する必要があります。『自己都合』を実現することは『幸せ』になることであり、誰もが『幸せ』になる権利があるという考え方を肯定する限り、『グローバリゼーション』の流れは止まりません。

『グローバリゼーション』が進行する背景は、非常に多様な要因が複雑に関与していますが、主としては『経済支配』『情報処理技術』が重要な役割を演じています。『先進国』『発展途上国』にとって、『グローバリゼーション』は異なった意味合いを持ちますが、『発展途上国』にとっては、『貧困からの脱出』という願望が秘められています。しかし、対応を間違うと『経済格差』を一層促進してしまうということも起きます。

『グローバリゼーション』は『アメリカ』による『世界をアメリカ化する企み』であると云う人もいて、確かに一部の能天気なアメリカ人は、『自分たちが世界のお手本』と単純に信じているようにも見えますが、梅爺は『グローバリゼーション』は『アメリカナイゼーション』と同義語であるとは考えていません。

『文明』や『科学技術』があるレベルに達した時に、人間社会に必然的に起こる『変容』が『グローバライゼーション』ではないでしょうか。

レベルや内容は違いますが、『ローマ帝国』が占領地、支配地で行ったことも、当時の『グローバライゼーション』と言えるのではないでしょうか。

水が高いところから低いところへ向けて流れるように、快適や便利に関わることは、『異文化』として浸透していくものです。人間の『安泰を希求する本能』は強固であるからです。

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2018年9月 2日 (日)

Creolization(クレオール化)(2)

『エドゥアール・グリッサン』は、自分が生まれ育ったカリブ海フランス領マルティニークで起こった、文化の『変容』を『クレオール化』という概念で表現しました。

概要(Wikipediaの記載参照)は以下のようになります。

(1)本国に住んでいたフランス人が植民地に移住すると、本国を知らない子供が生まれてくる。彼らと本国で生まれた子供を区別して、植民地生まれの子供をクレオールと呼ぶようになる。
(2)フランス人の征服や、持ち込んだ疫病により原住民が壊滅。そのため、新たな労働力としてアフリカから大量の黒人奴隷が連れてこられる。彼らの子供もまた、アフリカ育ちの奴隷と区別するため、クレオールと呼ばれる。
(3)農園での労働において、白人支配者と黒人奴隷との間、または黒人奴隷間の最低限のコミュニケーションのための言葉がクレオールと呼ばれるようになる。その子供たちはクレオール語を習得する。クレオール語は奴隷の言葉として差別される。
(4)さらに植民地生まれのあらゆるもの、人、物、習慣、文化など、すべてがクレオールとよばれるようになる。
(5)19世紀半ばに奴隷制が廃止。アフリカからの労働力を期待できなくなる。そこでアジアの植民地(インド、中国、レバノン)から貧しい下層民が安価な労働力として連れてこられる。そしてまた新たなクレオール化が進む。

この事例は植民地という環境の、『支配』と『被支配』が関与する『クレオール化』で、人類の歴史では、『制圧、占領』などこれに類するものは沢山ありますが、一方『支配』と『被支配』が必ずしも関与しない異文化の遭遇の事例も沢山あります。

明治維新以降、日本が行ってきた、西欧文化の取り込みなどはその例になります。日本人は特に西欧文化への好奇心が強く、日本語の中にカタカナの『外来語』が沢山あるのは、その端的な証拠です。

人類の歴史で、異文化との遭遇がもたらしたものを考える上で、『クレオール化』は一つのキーワードであるということになるのでしょう。

人間社会にとって異文化との遭遇は避けられないものであり、自分たちが保有していなかったもの、自分たちより優れていると判断したものを取り込んで、人類の『文明』は発展してきました。

異文化との遭遇がもたらすものは、必ずしも都合のよいものばかりだけではありませんが、人間社会の『知恵』は、時間をかけて『淘汰』や『取捨選択』を行い、異文化の一部を自分の文化の一部にしてしまいます。

『イスラム教』を信ずる人達は、元々教祖『ムハンマド』が、『ユダヤ教』『キリスト教』の影響を受けて『イスラム教』を創設したなどということは既に念頭になく、疑いもなく『アッラーだけが唯一の神』と信じています。

『イスラム教』が、アラブ人の『アイデンテティ』になったのは、『ムハンマド』以降のことです。

同じく『キリスト教』が西欧人の『アイデンテティ』になったのは、ローマ帝国が『キリスト教』を国教と定めて後のことです。

『伝統』『古き良きこと』などと云う概念が、どのような経緯で、いつ形成されたのかを知らずに、闇雲に『金科玉条』のごとく扱うことは、あまり賢い対応とは言えません。

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2018年9月 1日 (土)

Creolization(クレオール化)(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の70番目のタイトルは『The Relative Obscurity of the Writings of Edouard Glissant(エドゥアール・グリッサンの著作の相対的不透明性)』で著者は、ロンドンの美術館学芸員である『Hans Ulrich Obrist』です。 

内容は、進行する『グローバライゼーション』『文化の均一化』『特異な文化の消滅』が秘めている危険性を指摘し、特に『芸術』の分野に及ぼす影響を危惧するものです。 

原タイトルに登場する、『エドゥアール・グリッサン(1928-2011年)』は、カリブ海のフランス領マルティニーク出身の作家、詩人、文言評論家で、彼が唱えた『Creolization(クレオール化)』という言葉(概念)は、文化の『変容』を考える時のキーワードの一つになっていることを梅爺は初めて知りました。

このエッセイのタイトルは分かりにくいので、ブログのタイトルは、単純に『クレオール化』としました。『クレオール化』とは何かを後で説明します。

このエッセイの本質は、人間社会が異文化に遭遇した時に、どのように反応するか、その結果起こる元々の文化の『変容』をどのように評価すべきかということです。

私たちは、『伝統は継承されるべき』『古き良きものは残すべき』といった主張をよく耳にし、あまり深く考えずに『そうにちがいない』と受け容れています。

しかし、『伝統とは何か』『古いものの中で何を良きものとするのか』ということを考えてみると、判然としないことになります。

『伝統』や『古き良きもの』は、私達の『アイデンテティ(固有資質)』を形成する要素になっていて、これを否定することは、自分の存在を否定することにつながるということかもしれませんが、そうであれば『アイデンテティ』は何故必要なのかということになります。

いつもの梅爺の解釈を採用すれば、自分を否定する状況は、『安泰を脅かす状況』と『精神世界』が無意識に感知するために、逆に自分を肯定するために『アイデンテティ』を必要とするのではないでしょうか。

『日本人であることを誇りに思う』ために『日本人のアイデンテティを必要とする』ということなのでしょう。

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