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2018年8月31日 (金)

地球温暖化の犯人は人類なのか(6)

『宇宙』や『自然界』は、『物質世界』に属し、『摂理』によって『変容』し続けています。『人間』も肉体だけの視点で観れば、『物質世界』に属する存在ですから、基本的に私達の『命』の営みは『摂理』に支配されています。

しかし、『人間』は、肉体の一部である『脳』が創りだす『精神世界(心)』という仮想世界を保有し、その『精神世界』が『命』の営みに影響を及ぼしますので、『人間』の『生きる』という事象は、他の生物の『生きる』という事象に比べて、非常に複雑で、分かりにくいものになっています。

『宗教』『イデオロギー』『芸術』『哲学』『スポーツ(ルールーを決めて勝敗を決するゲーム)』『科学』などは、『精神世界』を保有する『人間』であるからこそ、生み出した領域です。

『精神世界』は宿命的に『個性的』であり、この『個性的』な『個』が集まって形成される、『全体(社会、コミュニティ、組織など)』の『行動』も、非常に複雑なものになります。

『個』の都合と、『全体』の都合は、多くの場合矛盾しますが、この矛盾を普遍的に解決する方策を人類は見つけていません。多分将来も見つけることはできないのではないでしょうか。

『宇宙』や『自然界』と、『人間社会(個が集まって形成される全体)』とは、多様な要因が複雑に絡んで『変容』しているのと云う点で類似しています。

このように『因果関係』を単純に特定できない特定できないシステムは『複雑系』や『カオス』と呼ばれ、現状の人類の能力では、『解』が特定できません。

しかし、『解』が特定できないという状態を『分からない』として放置することは、人間の『精神世界』では『安泰を脅かす要因』となりますので、なんとしても単純な『因果関係』を想定して、私たちは納得しようとします。

『民主主義は善い、独裁主義は悪い』というような主張がそれにあたります。

『地球温暖化の犯人は人類である』という主張もそれに類するもののような気がします。

実際は『分からない』にしても、私たちが犯人かもしれないという容疑』が晴れたことにはなりませんから、『全体』としてどのように振る舞うべきかを、考えたり議論したりすることには真摯に対応するべきではないでしょうか。

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2018年8月30日 (木)

地球温暖化の犯人は人類なのか(5)

『人類』が『地球』上に存在しない時代にも、『地球』は『寒冷化(氷河期)』『温暖化(間氷期)』を周期的に繰り返してきたことが分かっています。

そして『温暖化』が始まる要因が、大気の『温室ガス(炭酸ガスなど)』の増加であるとは特定できていません。寧ろ『温暖化』が進行すると大気の炭酸ガスの比率が増えると言った因果関係が逆の現象も『環境考古学』は明らかにしています。

今私たちが直面している『地球温暖化』は、必ずしも『人類の行動』に依るものとはいえないと主張する人達は、これらの歴史を根拠にしています。

それでも、大気の『温室ガス』が増えれば、環境が『温暖化』するという因果関係は確かなことですので、問題は『人類の行動』がもたらした『温室ガス』の増加が、『温暖化』の主要因なのかどうか、主要因でないにしても、どれほど影響しているのかということになります。

ひょっとすると、他の原因が『温暖化』の主要因であり、『人類犯人説』は成り立たないのではないか、または『人類犯人』と断定して騒ぎ立てるのは、何かの政治的な意図によるものではないかと、疑念を表明する人達がいます。しかし、そうであるからといって『人類の行動』は温暖化に全く影響を与えていないという証明にはなりません。

『地球』の気候は、確かに非常に複雑で多様な要因が関与しますから、『温室ガス』の増加が『温暖化』の原因と単純に断ずることは慎重であるべきです。

『地球』の気候や温度に一番直接的な影響を与えているのは、『太陽』と『地球』の位置関係であることは確かなことです。

『公転(1年間で太陽の周りを一周する)』の軌道が少しでも変われば、大きな影響を受けます。『地球』は誕生時から、現在の軌道にあったわけではありません。

『自転(一日で一回りする)』の軸の傾きも、一定ではなく、厳密には変化しています。この変化は『歳差運動』と呼ばれ、よくコマの頭振り運動にたとえられます。しかし、『歳差運動』とコマの頭振り運動は似てはいますが同じとは言えません。

『歳差運動』は25800年の周期で、元へ戻ることが分かっています。

この『歳差運動(地軸の傾きの微妙な変化)』が、『地球』の気候に大きな影響をもたらすと推定できます。

また『地球』と『地軸』の関係も変化する可能性があり、その場合は北極、南極の位置が、現在とは異なった場所に移ることになります。当然新しい極地の気候は大きく変わります。

『太陽』自体も、周期的に『黒点』の出現など、変化していて、当然その影響は『地球』へ及びます。

『地球』の気候は、このように現代科学では『複雑系』とよばれるしくみの中で『変容』します。シミュレーション・モデルをつくってみても、初期値の設定に依って全く異なった答が出たりします。

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2018年8月29日 (水)

地球温暖化の犯人は人類なのか(4)

『カンブリア大爆発』は、その前の氷河期が終わり、『地球』が温暖化して、氷が融け多量の土砂が水と一緒に海へ流れ込み、豊富なミネラルなどが海へ供給されたことが『引き金』になって起きたと考えられています。たとえば『カルシューム』がなければ、『脊椎動物』などは出現できないからです。

『地球』の気候変動がなければ、『生物進化』が急速に進まず、結果的に私たちも存在しなかったことになります。

いうまでもなく、この時代には『人類』は存在していませんから、『人類』がいない時代でも『地球温暖化』は起きていました。

『マンモスの絶滅』も、『地球』が氷河期から間氷期へ移行する時に起きたと考えられています。この気候変動で、植物の生態系が変わり、マンモスが好物としていたイネ科やヨモギ科の植物が姿を消したことが絶滅の要因の一つと推定されています。この時期には『人類』も『地球』上に存在していましたから、人類に依るマンモスの大量捕獲(食料として狩猟の対象になった)が絶滅の原因と考える学者もいます。

アメリカ大陸に生息していた大型哺乳類の多くが、絶滅したのも、『人類』の乱獲が主な原因と考えられています。

『マンモスの絶滅』の時期は、日本の『縄文時代』に相当します。海水面の上昇、植物生態系の変化などの影響を『縄文人』は体験したことになります。『縄文人』は絶滅してはいませんが、部分的に居住地の移動などを迫られたのであろうと推測できます。

この時の温暖化とは異なりますが、『縄文時代』に九州で大規模な火山噴火があり、近辺の『縄文人』は絶滅、または安全な場所への移住があったとも考えられています。2万年間におよぶ『縄文時代』のことは、詳細に分かっていません。『卑弥呼』から現代までは、たった1700年の歴史ですから、『縄文時代』がいかに永い時代であったかが分かります。このように時間の尺度で歴史を観るということは、学校の歴史の時間では強調されませんが、日本や日本人を理解するために極めて重要なことではないでしょうか。

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2018年8月28日 (火)

地球温暖化の犯人は人類なのか(3)

最近『環境考古学』という新しい学問分野が注目を浴びています。

『地球』誕生(45億年前)以来、『地球』環境がどのように変化してきたかを探る学問領域で、特に『生物進化』との関連の究明が大きな意味を持ちます。

『恐竜の絶滅(6千6百万年前)』『マンモスの絶滅(1万5千年前)』や、『生物進化』が急速に進んだ『カンブリア大爆発(5億4千年前)』には、いずれも『地球』環境の大きな変化が関与していることが分かってきました。

『カンブリア大爆発』は、大規模な火山噴火があったというようなことではなく、『海中で爆発的に生物種が多様化し進化が進行した』状態を表現したものです。化石が残っていることで有名な『三葉虫』などがこの時代の代表的な生物です。

『恐竜の絶滅』は、宇宙から飛来したある規模以上の大きさの『小惑星』が『地球』と衝突したために、舞い上がった粉塵が『地球』全土を覆い、『地球』が一時的に寒冷化したことで、生態系が崩れ、『恐竜』の大半は餓死したものと考えられています。

現在『地球』上に生息する『鳥類』の先祖は、『恐竜』につながりますので、厳密にいえば『恐竜』は絶滅していないという観方もできます。

『小惑星』と『地球』の衝突は、小規模なものは、現在でも起きています(隕石の飛来)から、今後規模の大きな衝突が起きないという保証はありません。そのようなことになれば『人類』は絶滅に追い込まれることにもなりかねません。

『地球』上に『人類種』の祖先が出現したのは、5~8百万年前のことですから、『恐竜』が絶滅したころには、『人類』は全く存在しなかったことになります。

私達現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史は、高々20万年程度ですから、非常に幸運な『地球』環境の時期しか体験していないことになります。『地球』と『人間』の関係は極めて浅い歴史しかなく、その間『人間』が体験してきた『地球』環境は、45億年の『地球』の歴史のなかでは、特殊な環境(結果的に人間いは都合のよい環境)であるという認識が必要です。

『大気に酸素がほとんどない時代』『地球全体が凍結(全球凍結)した時代』『地球上に一つの大陸しかなかった時代(その後分裂し現状の地理へ移行)』など、現在の『地球』とは全くことなった環境が存在していたことを理解しておく必要があります。

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2018年8月27日 (月)

地球温暖化の犯人は人類なのか(2)

『快適』『便利』を手に入れることが、生活を豊かにし、それは『幸せ』につながると私たちは考えます。

『快適』『便利』を手に入れることは、必ずしも『贅沢』とは言えませんが、『贅沢』につながりやすいとは言えるでしょう。貧困からの脱出は『幸せ』の要因として好ましいと一般に考えられていますが、相対的には『贅沢』への移行にもなります。

従って、『幸せ』を求めることは、より『贅沢』な生活環境を手に入れることであると考え、この考え方が内包する『陥穽(おとしあな)』にはなかなか思いが至りません。

産業革命以降、多くの大衆が、一斉に『贅沢』を手に入れる機会が訪れました。『贅沢』は一部特権階級の人だけのものというそれまでの常識が、崩壊し始めたことになります。

現在も、その延長上にあり、庶民の梅爺でも、車を所有し、インターネットを利用し、高画質高音質のテレビを視聴し、エアコンで空調を行い、新幹線や飛行機で国内外の旅行を楽しんでいます。

しかし、この『贅沢』さの裏側で、『地球資源の濫費(らんぴ)』『地球温暖化の進行』があったのだと指摘され、『幸せ』に水がさされたような気になります。

一転して、『幸せ』どころか、『このままで推移すれば、人類は滅亡に向かうぞ』と云われたようなものです。

何故このようなことになったのかを洞察する必要があります。『欲望だけを満たす振る舞いは罪である』『悔い改めよ』などという、道徳的、宗教的説諭を急に唱えても、本質は見えてきません。

自分もちゃっかり『贅沢』な生活を送りながら、したり顔で『限りない物欲が現代社会の病巣の根源である』『消費を麻薬のように大衆に提供する商業主義が悪い』などと主張する『評論家』には、失笑させられます。『快適』『便利』を求めるのは『安泰を希求する本能』が根源にありますから、そのすべてを否定することは無理な話です。

『地球温暖化』は『人間の行動』だけでもたらされたのかどうかは、疑念の余地がありますが、たとえそうだとしても、これは『個』が自分にとって都合のよいことを追求した時に、『全体』は不都合な事態になることがある、ということの典型的な事例に過ぎません。

『個』の行動の集積が、将来『全体』にどのような影響を及ぼすかを、事前に予測する能力に欠けていることも背景にあります。人類が生き延びる確率を高めるために『群をなして生活する』方法を選択して以来、この問題が繰り返されてきました。

『個』と『全体』の都合の相互矛盾は、『地球温暖化』だけではありません。

残念なことに、この『矛盾』を普遍的に解決する手法を、人類は手にしていません。多分、将来も手にすることはないでしょう。

現実的に解決する方法として、『法律』『倫理』『道徳』『宗教』『イデオロギー』がありますが、いずれも便法で、普遍的な解決策ではありません。

どのような原因であれ、『地球温暖化』が不都合な事態として進行しているのであれば、これに対応する『個』と『全体』の対応のバランスを考える必要があります。『座して死を待つ』のは愚かであるからです。人類の行動が『地球温暖化』の主要因かどうかは判然としないとしても、逆に『影響を与えていない』とも断言できないからです。

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2018年8月26日 (日)

地球温暖化の犯人は人類なのか(1)

主として産業革命以降、人類は地球資源を夥(おびたた)しく消費するようになり、地球大気に含まれる『温室効果』といわれるガス(炭酸ガスなど)の比率を大幅に増やすことになって、その結果深刻な『地球温暖化』が始まりつつあると、多くの学者や環境問題を憂える人達が主張し、大衆の多くもそれを信ずるようになりました。

1988年に創立された国連関連の『気候変動に関する政府間パネル(IPCC)』は、現在までに5回の『報告書』を公開し、このままの事態が続けば、2100年には、1988年~1999年の平均に比べて、地球の気温(私たちが体感する)は、0.3~4.8度C上昇し、海面水位は0.26~0.82m上昇すると警告しています。予測幅が大きいので、どう受け止めるか戸惑いますが、最悪の数値になったと仮定すれば、人類の生活や健康にも関わる大問題となります。

『IPCC』の作業部会には、全世界から、学者や環境問題の専門家が1000人以上参加し、『報告書』の査読にも、2500人に以上の専門家が参加しています。

『国連の関連機関』『全世界から集まった専門の学者たち』と聞いただけで、私達大衆の判断にはバイアスがかかり、活動の『中立性』『正当性』を疑わなくなります。『報告書』の内容に、異論を唱える証拠を入手したり、難しい学術的な議論を展開する基礎知識を保有していないからです。

元アメリカ副大統領の『アル・ゴア』は、環境問題で人類に警告を与える『不都合な真実』という本を出版し、その内容を可視化した映画も公開しました。

『アル・ゴア』は、一躍『白馬の騎士』『愚昧な大衆を啓蒙する宣教師』のようにもてはやされ、2007年に、『IPCC』とともにノーベル平和賞を受賞しました。

これで、『地球温暖化』を引き起こした犯人は、『私たち自身』であるという罪の意識が大衆の脳に刷り込まれました。『神の命令に逆らって、アダムとイヴがエデンから追放された』時点から人類が負っている『原罪』に似たような罪の意識です。

しかし、その後『IPCC』の『報告書』には誤記があることや、引用されているデータの信憑性に疑念が生じたりして、『IPCC』の権威は少しゆらぎはじめています。

現状で人類が獲得している『科学知識』では、『人類の行動が地球温暖化を引き起こす要因である』という『因果関係』を立証することは難しいと主張する学者も存在します。

梅爺は典型的な門外漢で大衆の一人ですが、『人類の行動』だけ『地球温暖化』を引き起こしている原因であるかどうかは、『疑って』います。『人類の行動』は犯人ではないと思っているのではなく、『それだが原因』と云わんばかりの主張を疑っているということです。

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2018年8月25日 (土)

Anthropocebo現象(2)

『科学知識』を保有するようになって、私たちは、『自分を観る目』が変わりました。『生物進化』を知って、私たちは人間だけが特種な生物ではないことも理解するようになりました。

『人間は、神が神の形に似せて創造してくださった特別な存在』と、中世までの西欧人は『信じて』いたことを考えると、驚くべき認識の違いです。

しかし、文化の慣性は思いの外強く作用し続けますので、アメリカ人の40%は今でも『生物進化』を受け容れていないと言われています。

ごく最近まで、州によっては、『生物進化』を公立の学校で教えることを法律で禁止していました。大統領選挙の時に、候補者が『生物進化を信じる立場かどうか』などが選挙民にとって重要な情報であることを知って、梅爺は驚きました。

『生物進化を信ずる人』は、『神を信じない人』『信頼できない人』と単純に判断し、大統領にはふさわしくないと考え投票しない人が40%もいるとすれば、アメリカの大統領とは一体何なのかと考えさせられてしまいます。

一国の政治リーダーは、少なくともあるレベル以上の『知性』『教養』『品格』を備えているべきと云う考え方もステレオタイプすぎますが、『単純な正義感』などを振りかざして、『アメリカ・ファースト』などと叫ぶ大統領を受け容れる考え方よりはまだましであるような気がします。

私たちは、今や『地球環境を悪化させる最大の元凶』であると、ネガティブな表現が繰り返されると、人間は『心理的な影響』を受けて、益々事態を悪化させてしまうのではないかという、このエッセイの著者の危惧は、いまひとつ梅爺にはピンときません。

人間個人の『Nocebo(ネガティブな情報に影響を受けて事態を悪化させてしまう)』習性が、そのまま『人間社会』にも適用できるという論理が飛躍しすぎているように感じます。

色々な個性をもったメンバーで構成される『人間社会』は、それほど柔(やわ)なものではなく、もっとしたたかな対応をするのではないでしょうか。

『集団心理』で一時的に同じ方向へ突っ走ってしまうという危険性もありますが、やがて冷静になって、本当の問題点や適切な対応策に気付き、ブレーキをかける『民衆の知恵』も有しているように思います。

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2018年8月24日 (金)

Anthropocebo現象(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の69番目のタイトルは『The Anthropocebo Effect』で、著者はニューヨーク大学の環境学者『Jwnnifer Jacquet』です。単純に日本語へ変換することは困難なので、ブログタイトルはそのまま『Anthropocebo 現象(効果)』としました。

『Anthropocebo』は、『Anthropocene』と『Nocebo』という二つの単語を組み合わせた『造語』で、著者が提唱したものです。

『Anthropocene』というのは、人類の存在が地球環境へ影響を与えるようになった時代の意味で、いつの時点を始まりとするかは学者によって異なります。

『農耕文化』が始まった時代(約2万年前)という主張もあれば、『産業革命』以降(19世紀)という主張もあります。しかし、一般には19世紀頃からという考え方が受け入れられています。

『Nocebo』は、心理学で使われることばで、患者に故意にネガティブな情報を与えると、容体が悪化することを意味します。『これは思いの外重態かもしれません』などと医者に云われると、病状は更に悪化してしまう現象のことです。『Nocebo効果』と呼ばれることもあります。

『Nocebo』の逆の言葉として『Placebo』があり、こちらは『この薬は効きますよ』と云って、実際には何の効果もないものを与えると、患者の容体は良くなるという現象を説明する言葉です。『Placebo 効果』と呼ばれることもあります。

『頭痛』に効くといって、『歯磨き粉』を患者に飲ませたら、頭痛が治ったというような話です。

『Nocebo』『Placebo』は、『心(精神世界)』と『身体(物質世界に属する)』が、地続きであることを示唆しています。『安泰が脅かされた』『安泰が確保された』と『脳』が受け止めると、対応するホルモンが分泌され、その情報が血流とともに、全身に『情報』として伝達され、『身体』はその『情報』に対応しようとします。心配事をかかえると、『不眠症になる』『食欲がなくなる』『血圧が上がる』などの影響が表れるのはそのためです。笑顔が健康を増進するなどというのもこれに該当します。『心身ともに健康』が如何に人間にとって重要なのかが分かります。

日本人は昔から、『病は気から』という諺で、この人間の習性を現象としては認識していました。

『Anthropocebo』は、人類の行動が地球環境を悪化させる元凶であると、ネガティブなことばかりを耳にしていると、人類は本当に滅亡へ向かって突き進んでしまいかねないという危惧を表現した言葉と云うことになります。

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2018年8月23日 (木)

不安を感知する能力の盲点(4)

ハーバード大学の環境学者が、『Handprinter』という名称の、スマホ用アプリケーションを開発したことがこのエッセイで紹介されています。

『地球温暖化』に歯止めをかける『良い行為』を、その日どれだけ行ったかを数値で示すアプリケーションで、友人や家族とその数値を共有して、グループとしての貢献度を実感するというものです。

主旨は理解できますが、この程度のアプリケーションでは、皆が競って利用するほど魅力はなさそうだと梅爺は感じました。

案の定、このアプリケーションを商用化するために、300万円の基金募集(ファンド・レイジング)を試みましたが失敗したと書いてあります。

一方、エッセイの著者が最近目にした富裕者層向けの雑誌では、個人の庭に2億円でジェット・コースターが走る専用『テーマ・パーク』を建設する広告が載っていたと書いてありました。

個人用『テーマ・パーク』に、2億円出費する人がいても、『Handprinter』に300万年出資する人がいないと著者は嘆いています。

大衆は、目先の利益や欲望を優先し、迫りくる『危機』を感知しようとしない『愚か』なものと断ずるのは容易ですが、『人間』や『人間社会』がこのように振る舞う背景は、そう単純なものではありません。

『生物としての人間』『精神世界を保有する人間』は個性的であり、この個性的な人間が集まった『人間社会』は、『個と全体の価値観の相互矛盾』を孕んで、普遍的に解けない問題を抱えていることへの洞察が必要です。

『清く、正しく、美しく生きよ』といった道徳的説諭や、『おごり高ぶった人間社会は神の怒りに触れることになる』などといった宗教的な説諭が、人間社会の問題に基本的な解決をもたらさないことは、歴史がそれを示しています。

人類が『迫りくる危機を感知しようとしない』『世界平和を祈りながら、一向に平和にならない』理由は、『扁桃体』の盲点などといった単純なものではないのではないでしょうか。

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2018年8月22日 (水)

不安を感知する能力の盲点(3)

地球の大気の中の『炭酸ガス』濃度が高まると、温室効果で地球は温暖化するという因果関係は、科学的に正しいと受け止められていますが、昨今の『炭酸ガス』濃度を高めた要因は、人類の『行動』がもたらしたものであると主張には、反論する人もいます。

快適、便利な生活を人類が求め、多くの『エネルギー』『工業製品』を生みだしたことが、『炭酸ガス』濃度を高める最大の要因になっていると、多くの学者は主張しています。熱帯雨林の木材大量伐採も要因の一つにされています。

地球の歴史は45億年あり、大半の時期は『人類は不在』でしたが、その間にも何度も『寒冷化』『温暖化』を繰り返してきました。

人間の活動の影響はゼロではないにせよ、『温暖化』の原因をそれだけに負わせるのはいかがなものかと云うのが反論する人達の意見です。しかし、それならば、『これが原因』という他の証拠を提示する必要がありますが、梅爺はそれらしいものに接したことがありません。

いずれにせよ、人類が『炭酸ガス』濃度を高める原因にならないように、ブレーキをかけることは、意味のあることと思います。

『地球温暖化の危機』は、元アメリカ副大統領の著作『不都合な真実』で脚光を浴び、映画化もされて人々を啓蒙しましたが、国際的に『最優先事項』として共有認識されるにいたったとは言い難い状況です。

『京都』『コペンハーゲン』で行われた、国際会議でも合意には達していません。これは、『扁桃体』が『危機』を感じ取らないからといった単純な話ではなく、政治、経済、利権、格差などが絡んだ複雑な背景があるからです。

何を『最優先』するかといった判断は、人間の『精神世界』が関わりますが、誰もが認める『正しい答』を出す方法はありません。それは、個人、組織、社会、国家でも同じことです。

国際的大企業の幹部も、『地球温暖化の危機』を深刻に受け止め、企業としてできることを定めて公表し、実行しようとしていますが、『消費者がそれを評価しているとは言えない』とこのエッセイの著者は書いています。

大衆は『愚者』であり、『愚者』である原因は『扁桃体』の認識に盲点があるからだと言いたいのでしょうが、洞察が浅いように感じます。

『現状の危機』は誰でも理解しますが、『将来の危機』は、『精神世界』の総合機能が関与しないと理解できません。

総合機能には、『記憶』『推論』『価値観のバイアス』など複雑な機能が絡みますし、『生まれつきの資質』『生後の生活体験』も関与します。

何故『将来の危機』を理解しないのか、または理解しようとしないのかは、大変難しい『脳科学』の課題なのではないでしょうか。

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2018年8月21日 (火)

不安を感知する能力の盲点(2)

『地球温暖化による迫りくる危機』といった『理』による推論で導き出された『因果関係』の結果(概念)を、多くの人が『危機』と感知しないことを著者は『危惧』し、その原因として『脳』の『扁桃体』を挙げています。

『扁桃体』は、『不安』『危険』を察知するように機能する『脳』の部位ですが、多くは感覚器官からもたらされた体感情報を処理した結果で、『脳』が理的推論で導き出した概念(たとえば地球温暖化によってもたらされる危機)を『不安』『危険』となかなか察知しないからであるという説明です。

梅爺は、『そうかな』とも思いますが、そのように簡単に『扁桃体』に責任を押し付けて済まされる問題なのかなと少し疑念を抱きました。

たとえば、『あなたはガンに犯されています』と、突然宣告された場合、この宣告は医療診断がくだした理的推論ですが、宣告された人は『死』を意識して、一瞬パニックになります。自分の周囲で『ガンで死ぬ』事例を沢山見聞きしている故に、自分も切羽詰まった状況に追い込まれることを悟るからです。決して『能天気』に受け止めたりはしません。

『死』といった逃げられない切羽詰まった状況が想定される時には、その要因が『理的推論』でもたらされた概念であろうが、自分の感覚器官が感知した体感情報であろうが、深刻に対応するのは同じような気がします。

『地球温暖化』が人類に危機をもたらすという情報に接して、多くの人が『能天気』にみえる対応をするのは、その情報が『真』かどうかに、半信半疑であることと、『逃げられない切羽詰まった状況』という実感がわかないからでしょう。喫煙家が、『タバコは身体に悪い』と云われても、なかなかやめないのも同じです。

『今は別に痛痒を感じない』『何か起こるとしても少し先のことである』と感ずると、人は『現状を続けても良いのではないか』と現状を肯定しようとします。

現在の『安泰』を最優先してしまう習性で、『保守的』な習性と呼べるものです。一方将来の『安泰』を優先するために現状は変えるべきであると考え実行するのが『革新的』な習性です。

『情』の判断が強い時には『保守的』になり、『理』の判断が強い時には『革新的』になります。人は個人に依って程度の差はあれ、『保守的』『革新的』の両習性を保有しています。『精神世界』全体が『安泰を希求する本能』に支配されていて、複雑な総合判断の結果『深刻に対応する』『能天気に対応する』の選択になるのであろうと梅爺は考えています。この判断に関わるのは『扁桃体』だけではないでしょう。

『地球温暖化の危機』だけが、『精神世界』にとって特別な対応事例ではなく、人類が『精神世界』を保有して以来、あらゆる事象に『精神世界』は同じカラクリで対応してきたと言えるのではないでしょうか。

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2018年8月20日 (月)

不安を感知する能力の盲点(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の68番目のタイトルは、『Our Blind Spots(我々の盲点)』で、著者は心理学者の『Daniel Coleman』です。

『Daniel Coleman』は、『Emotuonal Intelligence(情的知性)』という概念を紹介した有名な心理学者です。

私たちは、『知性』は理的なものと考えがちですが、『Daniel Coleman』は、『Intellectual Intelligence(理的知性)』と『Emotional Intelligence(情的知性) 』とを区別し、寧ろ人間が健全な社会生活を送るためには、『Emotiona Intelligence』の方が重要であることを立証しようとしました。

『知能テスト』で『IQ』を調べ、それで人間の資質をしる指標にしようとしてきた教育界に一石を投じたことになります。『頭が良い子』より『他人を思いやる子』の方が人間としての相対価値は高いかもしれないという提言であったからです。

梅爺も昔彼の著書を読んで、強く啓発されました。『精神世界』を『理』と『情』に分けて論じているのは、この本から得た知識を流用しているにすぎません。

今回のエッセイで、著者が指摘しているのは、現在人類が抱え込んでいる深刻な問題(たとえば地球温暖化の問題)を、人間の『脳』は、『不安要素』として感知する能力を欠いているということです。

人間の『脳』で、『不安』『危険』を察知するのは、『扁桃体(amygdala)』と呼ばれる部位です。『安泰を希求する本能』と深く関わっていると考えられる部位です。

永い生物進化の過程で、『扁桃体』は出来上がってきたもので、基本的には『茂みの奥でゴソゴソ音がするのは、自分を獲物として狙っている猛獣が潜んでいるのではないか』といった『不安』を喚起するよう原始時代に獲得した能力が現在に引き継がれていると著者は書いています。

その後、中世時代になると、『ネズミ』や『ノミ、シラミ』を恐ろしい病気に関連するものとして『不安視』する資質も加わりましたが、『扁桃体』の機能はその程度にとどまっているとも書いてあります。

従って、『大気』の組成変化を、感知する『器官』も能力も人間にはなく、『扁桃体』は、『地球温暖化』で迫りつつある危機を、『不安』ととらえないということになります。

『理性』だけで、『不安』要因を認識できる人の数は少ないために、人類の『本当の危機』に対して大半の人達は『能天気』であることを著者は危惧しています。

利害が切羽詰まったものとして見えてこない限り、人間は『能天気』であるということには同意できますが、この議論に『扁桃体』まで持ち出すのは適切かどうか梅爺には判断できません。

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2018年8月19日 (日)

『侏儒の言葉 』考・・・告白(4)

『宗教』は、『神』との関係で『悔悟の念』『罪の意識』を私たちに説明します。

『神』は何でもお見通しなので、『神』の前で『悪いこと』をしてはいけない、仮に『悪いこと』をしてしまったら、『懺悔』して『神』に許しを乞いなさいという論法です。日本人も『お天道様はお見通し』『天網恢恢疎にして漏らさず』などと表現してきました。

『神』に背き続けると、死後『地獄』へ落とされますよと、恐怖心をあおられますから、なんとしても『懺悔』して『悔い改め』、『神』の許しを乞うことになります。

『神』を信ずる人には、『神』は『慈愛』で接してくださいますよと、何とも心強いありがたい保証もあります。

しかし『悔悟の念』『罪の意識』を、私たちは本当に『神』との関係で保有しているのでしょうか。

梅爺は、『宗教』や『神』とは無関係に、人間は『悔悟の念』『罪の意識』を保有するようになったと考えています。無神論者も、『悔悟の念』『罪の意識』に相当するものを保有しているものと推察しています。

逆に『宗教』が、『悔悟の念』『罪の意識』を『教義』に反映させて、巧みに利用していると考えた方が得心が行きます。

梅爺は『宗教は意味がない』と云っているのではなく、『心の安らぎ』を得る最も効果的な手段として、人間社会が必要としていることは承知しています。

梅爺が考える『悔悟の念』『罪の意識』が『精神世界』に出現したプロセスは以下のようになります。

(1)人間の『精神世界』は周囲の事象を、自分にとって『都合のよいこと』か『都合の悪いこと』かを本能的に先ず判別する。『安泰を希求する本能』がその基盤にあり、これは生き残りの可能性を高めるに継承されてきた。
(2)やがて人間は、『都合のよいこと』を『善いこと』、『都合の悪いこと』を『悪いこと』といった抽象概念として判別する習性を保有するようになった。
(3)そして、全ての事象は『善いこと』『悪いこと』という単純な区分けができるはずであると考えるようになった。
(4)『悪いこと』に自分が加担してしまったという自責が、『悔悟の念』『罪の意識』を生みだした。

上記の論法で、(3)の、『全ての事象は「善いこと」「悪いこと」に区分けできる』というのは残念ながら錯覚です。唯一『真偽』の判別が可能なのは、『物質世界(自然界)』の事象や『数学』の世界の論理事象だけです。『精神世界』の価値観が絡む事象の大半は、普遍的な『善悪』の区分けはできません。人々はやがてそのことを薄々感ずるようになり、それでも『神』ならば『善いこと』『悪いこと』は御存じなので、『神』の御心に従えば良いとう見事な『知恵』を思いつきました。

『芥川龍之介』の『告白』に触発されて、『告白』の意味を考えることになりました。このような思考の連鎖が読書の楽しみの一つです。

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2018年8月18日 (土)

『侏儒の言葉 』考・・・告白(3)

動物の中で、『告白』をするのは人間だけのように見えます。祭壇の前で『懺悔』している犬や猫をみたことがありません。

『他人のスキャンダル』や『他人の告白』に、私たちは飛びつく習性を保有しています。『秘め事』が明るみに出ることで好奇心が満たされ、時に『自分はそれよりはましな人間だ』と『優越感』を感じたり、また時には自分も保有している『悩み事』を他人も保有していることを知って安堵したりします。

『告白』が人間固有の行為であるとすると、それは人間の高度な『精神世界』が関与していることを示唆しています。

『告白』には、『自らの意志で告白する』場合と、『他人から強いられて告白する』場合があります。

容疑者の『犯行の告白』などは後者で、これは『裁判』の『証拠』となり、重要な意味を持ちます。ところが、後に『虚偽の告白を強要された』と容疑者が主張するような場合もあり、『告白の信憑性』を再検証しなければならないこともありますから、『告白』だけで絶対的な証拠にはならないという厄介な話です。しかし一般的には、人間社会の約束事である『裁判に依る判決』に、『告白』は重要な役割を果たすものであるという共通認識を私たちは保有しています。

興味深いのは、『自らの意志で告白する』という人間の行為です。

これは明らかに『精神世界』がなせる業ですから、何故人間は『自らの意志で告白する』のかを考えることは、『精神世界』の一端を垣間見ることになります。

『自らの意志で告白する』という行為の背景には、『悔悟の念』『罪の意識』などが原動力になっているように思えます。『心の重荷』になっていることから解放されたいという欲望が、『告白』という行為となって現れるのでしょう。梅爺流に云えば『安泰を希求する本能』が基盤にあるということになります。

さらに『悔悟の念』『罪の意識』の奥には、『善悪』のうち自分は『悪』に加担してしまっているいるという『理性』による『判断』が存在していることになります。

人間は、幼児期から成人になる過程で『理性』を身につけていきますから、『理性』が確立されていない幼児には『悔悟の念』『罪の意識』は薄いことになります。幼児も保身のために瞬間的に『ウソ』をつきますが、『ウソは泥棒の始まり』などと叱られても、真の意味は分からないに違いありません。ただ『泥棒』は『悪い人』という単純な認識で『自分は悪い人にはなりたくない』という思いから、渋々『ごめんなさい』と云うことになるだけのことです。『理性』で『因果関係』を理解したわけではありません。

人間の『精神世界』は『個性的』ですから、大人になっても一般の人とは異なった偏った『理性』の判断をする人も必ず現れますから、大人ならば誰もが『悔悟の念』『罪の意識』を保有しているとは限りません。

『無法行為』『犯罪』などが、人間社会で後を絶たないのはこのためです。『警察機構』を持たない国家が存在しないのもそのためです。

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2018年8月17日 (金)

『侏儒の言葉 』考・・・告白(2)

昨日『精神世界』の全貌は、その持ち主本人にも把握できないものだと書きました。

『天文物理学者』でさえも、『宇宙』の全貌は把握できていないように、『認知科学者』でさえも、『精神世界』の全貌は把握できていません。

古来『哲学者』は、『自分とは何か』を問い続けてきて、今もそれが続いているのは、『精神世界』の全貌が把握できていないことに由来するように思います。

それが『群盲象をなでる』ような行為になってしまうのは、しかたがないことです。

『アインシュタイン』のような天才科学者を、『死』で失うのは人類の損失なので、生きている内に『脳の状態』を外部の『情報処理装置』にダウンロードしておいたらどうかと云う『SF小説』まがいの話を前に本で読んだことがあります。そうすれば、『アインシュタイン』の死後も、人工的にその『脳』を再現し、活用できるはずだという話です。

残念ながら、このアイデアには、いくつかの問題があります。

一つは、『脳』の情報処理のしくみは、詳細に分かっていませんから、それをダウンロードする『情報処理装置』そのものを現実に作れないことです。

もうひとつ、決定的な問題は、『脳』はダイナミックに『変容』し続けていますから、ある一瞬をダウンロードで『静止画』のように切り取って見ても全貌(実態)を保管できたとは言えないことです。

『脳』は『静止画』ではなく『動画』としてとらえることが必要になりますが、それでもある『時間帯』を観察しただけで、その人の『脳』の全貌とはとても言えません。

梅爺の『脳』は、老化で細胞の数が減少しているだけでなく、時々刻々外部の情報の刺激を受けて『変容』しています。

このために、若いころの梅爺と、現在の梅爺では、別人であると云ってよいほど『精神世界』は変容しています。特に『価値観』は大きく変わっています。

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2018年8月16日 (木)

『侏儒の言葉 』考・・・告白(1)

『芥川龍之介』の『 侏儒の言葉 』の中にある『告白』というタイトルの一文に関する感想です。

冒頭に、以下の記述があります。

完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現もできるものではない。

この後に、『ルソー』は告白を好んだ人であるがその著書『懺悔録』の中に赤裸々な彼は見いだせないし、一方『メリメ』は告白を嫌った人であるがその著書『コロンバ』の中で、知らず知らずに自分を語っているのではないか、とも書いてあります。

そして、告白文学とその他の文学の境界は見かけほどはっきりしていないと結んでいます。

『告白』で、自分をありにままに表現できない理由は二つあるように思います。

一つは、『自尊心』『見栄』『羞恥心』などが働くためです。この根源は『精神世界』を強く支配している『安泰を希求する本能』で、『赤裸々に自分を曝(さら)す』ことが、周囲との人間関係の中で『自分に不利な状況』を惹起するであろうという不安、恐怖心なのではないでしょうか。人間に『保身』の心理が働くのはこのためです。

世の中には、したたかな人もいて、『告白』を逆手にとって『同情を買う』ために利用する場合もあります。勿論この『告白』も、『保身』を着飾っていますから自分を曝していることにはなりません。純真な人ほどこの手の『告白』に騙されやすいことになりますから、厄介な話です。

二つ目の理由は、そもそも『精神世界』の全貌は、その持ち主でさえ把握できないものですから、『全てを曝す』ことなど、到底できないということです。

私たちは、自分を『表現』しながら生きていますが、それは『精神世界』の一部を反映しているにすぎません。勿論『芸術』の表現も同じです。

『モーツァルト』の音楽は、『モーツァルト』の『精神世界』の一部を反映しているだけで、彼の『精神世界』の全貌などではありません。

いずれにせよ『告白』は、虚飾をまとっているか、『精神世界』の一部を反映しているかですから、『完全に自己を告白することは何人にもできない』という『芥川龍之介』の認識に、梅爺は異論がありません。

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2018年8月15日 (水)

案じても仕方がない(2)

人間の避けられない『精神世界』の特性を考えると、このエッセイの著者が言うように、『案ずることを断念』することは不可能で、誰にでも『危惧』は付きまといます。

勿論その『危惧』の、内容、程度には個人差があります。人間の本質的な特徴の一つが、『個性』であるからです。自分の『危惧』を、他人は『危惧』と認識しなかったり、その逆の場合もよくあることです。

問題は、『精神世界』の『理』が、『危惧』を認識すると、なんとか『因果関係』を特定して、それを回避、緩和しようと『対抗策』を考え、その『対抗策』を実行に移すことにあります。

『このままでは勝てない』と『危惧』したスポーツ選手は、『対抗策』として『体幹の強化』というトレーニングを採用したり、『このままでは倒産する』と『危惧』した経営者は、『対抗策』として『リストラ』を実行したりします。

人類の『文明』や『科学』は、この『危惧を放置できない』という人間の『精神世界』の特性があって、進化、発展してきました。

自分を取り巻く自然現象の『因果関係』が『分からない(危惧)』ために、その原因を『神の御業(みわざ)』として得心しようとしました。これが『宗教』の原点ではないでしょうか。

自分の周囲の他人が、何を考え、何を感じているかが『分からない』ために、自分を表現するための『言語』を創りだし、やがて種々の『表現』で、他人との『絆』を確認しようと『芸術』が生まれたのではないでしょうか。

従って、誰も彼もが『案じても仕方がない、なるがままに任せるしかない』と言い出したら、社会が成立しなことになります。

しかし、『世界平和は一向に訪れる気配がない』『地球温暖化の進行は鈍らない』『宗教対立は深刻化するばかりで、解決のめどがない』『利己的な人々が増えつつある』というような『危惧』は、確かに自分一人が思い悩んでも解決できそうもないことはすぐに理解できます。

従って、『くよくよ思い悩まないようにしている』という対応は、ある意味で賢い選択であるかもしれません。

繰り返しで恐縮ですが、『危惧』が、人類の文明を支えてきた要因であるという認識も重要です。

人類が共有している『知恵』『叡智』の大半は、『危惧』があってこそ、考え出されたものであるからです。

どう云う内容の、どう云うレベルからは、『対抗策』を個人的に考えることを断念するかは、そのj人の『理性』が決めることです。

厳密に表現すれば、『危惧』を断念することは、人間には不可能なことです。そうであるからこそ、『釈迦』は『煩悩を解脱する努力をせよ』と説きました。逆説のようですが『釈迦』は『煩悩の解脱』は難しいことを認識してからこそ、そう説いたに違いありません。

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2018年8月14日 (火)

案じても仕方がない(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の67番目のタイトルは『I've Given Up Worrying(案じても仕方がないとあきらめている)』で、著者は脚本家の『Terry Gilliam』です。

非常に短い文章なので、梅爺の拙訳を添えて紹介します。

I've given up worrying. I merely float on a tsunami of acceptance of anything life throws at me....and marvel stupidly.

私は、案じても仕方がないとあきらめることにしている。生きているが故に押し寄せてくる津波のような体験に翻弄され、うつけ者のようにただただ驚嘆している。

著者の『精神世界』が創り上げた価値観ですから、この主張が『正しい』かどうかは論じても仕方がありません。

世の中は、自分の能力では対応や解決ができないことがらで満ち溢れていますから、このような主張が万人の共感を呼ぶことになるのかもしれません。

梅爺の『精神世界』に関する理解に基づいて上記の文章を読むと、少々コメントしたくなります。

『危惧(案ずる)』『心配』『不安』という『精神世界』の事象の大半は、『情』が『無意識』に創りだすものです。従って、『理』と『意識』で、『危惧しない』『心配しない』『不安と感じない』と自分に言い聞かせても、意志で自由にコントロールできるものではありません。

生きている以上『危惧』『心配』『不安』は必ず付きまといます。そして『脳(精神世界)』は『安泰を希求する本能』で、なんとかそれらを回避、緩和しようとします。

これらの回避、緩和も、『無意識』に行われるものと、『意識(意志)』に行われるものに区別されます。

『つらい』『悲しい』体験も、『脳』が受けたストレスは、『無意識』のうちに、時間の経過とともに薄れていきます。具体的にはホルモンの分泌(『物質世界』の事象に属する)が関与しています。強いストレスに対する、生物そしての防御機能が働くということで、その根底に『安泰を希求する本能』が働いているためと梅爺は考えています。このことは、私たちが『忘れよう』と『意識』で考えて行動するのとは違います。『忘れよう』と思って『忘れる』ことができるほど、『脳』のストレスは単純ではありません。

一方、『精神世界』の『理』は、『危惧』『心配』『不安』を認識すると、その背景にある『因果関係』を何とか特定しようとします。そしてそれらを回避、緩和するための『対抗策』を『理』で考え出そうとします。つまり自分の『意識』の支配下で、問題解決をしようとします。この行動も『安泰を希求する本能』があるからであろうと推測できます。

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2018年8月13日 (月)

スティーブ・ベリーの小説『The Tudor Plot』(4)

『スティーブ・ベリー』は、過去にも『きわどい』ストーリーを小説に仕立ててきました。

中国の『一党独裁体制』の批判と、『秦の始皇帝の墓ミステリー』とを組み合わせたもの、北朝鮮の『独裁体制』の批判と『アメリカ建国時の財政スキャンダルミステリー』を組み合わせたものなどもありました。

北朝鮮を舞台とする小説では、『金正恩』の腹違いの兄『金正男』を明らかにモデルにした主人公が、弟の『独裁政権』を崩壊させようとする内容で、『アメリカ建国時の財政スキャンダル』の秘密をネタにアメリカを脅して、活動資金や兵器を手にしようとするものでした。この主人公は、小説の中では企みに失敗し、殺されますが、実際の『金正男』も、その後本当にクアラルンプール(マレーシア)空港で暗殺される事件が起きました。

一方中国を舞台とした小説では、中国が『民主主義国家』に変貌したり、ロシアを舞台とした小説では、『ロマノフ王朝』の復興が実現したりと、『あっけらかんと能天気な結末』になっています。

アメリカの読者の潜在的な『願望』をうまく利用した商業主義の大衆小説と云うことなのでしょう。『フィクションなので何でも許される』という能天気な楽観主義が垣間見えます。ハリウッド映画にも、それが見受けられます。

最近の日本は、アメリカに似た風潮もありますが、それでも『スティーブ・ベリー』のような作風の作家は、社会制裁の対象になり、なかなか出現しないのではないでしょうか。

今回の小説の『歴史ミステリー』は、伝説の人物『アーサー王』が実在の人物で、その墓はなんと『アイスランド』に存在するという話になっています。

敵のサクソン人から、墓が凌辱されないようにと、『アーサー王』の家臣(ブリトン人)が、こっそり遺体を『アイスランド』に移し、秘密の場所に埋葬したということになっています。

5~6世紀に、ブリトン人が、『アイスランド』へ進出していたかどうかは、梅爺は分かりませんが、この突飛とも見える発想が、『スティーブ・ベリー』の真骨頂といえるでしょう。

読者の興味をひくためには、『何でもあり』という徹底ぶりです。

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2018年8月12日 (日)

スティーブ・ベリーの小説『The Tudor Plot』(3)

『スティーブ・ベリー』の小説は、今までも何冊かブログで紹介してきました。

何冊も読んだということは、『歴史ミステリー』と現在のドラマを組み合わせたストーリー展開に魅せられてきたからです。

今回の小説は、現在の英国王室のスキャンダルを題材にしていて、確かに現実にスキャンダルともいえそうな事件が色々ありましたから、読者は小説のストーリー展開を、『このようなことがあってもおかしくない』と受け容れてしまうのかもしれません。

梅爺も途中で『バカバカしい』と、読むのをやめてしまったわけではなく、覗きメガネで、いかがわしいものをこっそり観るように、最後まで読みとおしたわけですから、作者や出版社の商業主義に、まんまと乗せられた一人です。

しかし、冷静に我にかえれば、やはり『これは、少しやりすぎ』と思いますので、皆さまに推薦はしかねます。

真面目な方からは叱られそうですが、人間には『他人の不幸は蜜の味』『他人のスキャンダル大好き』という不謹慎な面があるように思います。梅爺は自分にもそのような習性があることを認めた上で、それが暴走しないように理性でなんとか抑制する努力をしています。

一方、当事者の心情を思いやって、苦しみや悲しみを共有しようとする『心』も持ち合わせていますので、なんと『精神世界』は矛盾に満ちた厄介なものかと思わざるをえません。

前者は、『安泰を希求する本能』が根にある『優越感』で、相対的に他人より自分が『安泰である』『有利な立場にある』と判断して安堵する行為です。

一方後者は、他人の『心』を『忖度(そんたく)』して、情感を共有し『絆』を確認しようとする(同情する)行為で、これも『群』でないと生きられない人間の本能が働いた結果です。一見『優越感』と『同情』は矛盾するようですが、同じ『安泰を希求する本能』に根差していると梅爺は考えています。同じ根から、矛盾するようにみえる枝葉が生まれてくるという考え方です。

自分は安全な観客席に身を置いて、進行するスポーツゲームや、社会情勢を『批評する(非難する)』のも、『優越感』からした行為なのでしょう。

この小説は『少しひどい』などと云っている梅爺の態度もこれに類します。

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2018年8月11日 (土)

スティーブ・ベリーの小説『The Tudor Plot』(2)

この小説のストーリーは、何とも『きわどい』と昨日紹介しましたが、どのくらい『きわどい』のかは、紹介するのも憚られます。

しかし、紹介しないわけにもいきませんので、以下に概要を示します。

『陰謀』の張本人(悪人)は、英国の国会議員(貴族籍)の『ニゲル・ユアストーン』です。息子の妻が、英国王室の王女『エレノア』ですが、息子は不妊症で子供は望めません。『ニゲル・ユアストーン』は、『エレノア』を次の王位に就けようと企み、『エレノア』もこの企みに乗ります。

『エレノア』が王位に就くには、先ず『エレノア』の兄の『リチャード皇太子』と、その息子『アルバート王子』が邪魔になります。

『ニゲル・ユアストーン』は、新聞社を利用して『リチャード皇太子』の女癖の悪さを国民に喧伝し、国民の失望を煽ります。『リチャード皇太子』自身も王位継承の意欲はないことから、『王位辞退(息子のアルバート王子に王位を譲る)』の宣言をするように巧みに誘導します。

一方『アルバート王子』は、容姿、振る舞いとも国民に受け入れられ、国民の期待を担う王室の人気者です。『ニゲル・ユアストーン』は、なんと南アフリカのテロリストを利用して、『アルバート王子』を暗殺抹殺しようとします。

『ニゲル・ユアストーン』は、息子の嫁である『エレノア』と関係をもち、『エレノア』を妊娠させて、息子の子供として認知することを企みます。つまりその子が『エレノア』の後に王位を継いだ時に、義父として権力を振るおうという魂胆です。

『ニゲル・ユアストーン』は新しい『ユアストーン王朝』の権威を『アーサー王』を持ちだして確固たるものにしようとします。

勿論これらの企ては、全て主人公『コットン・マローン』の活躍で水泡に帰し、めでたしめでたしで話は終わります。

いかがですか、いくらなんでも『ひどい(きわどい)』ストーリーでしょう。宮廷を我が物にしようとした、『藤原道長』や『平清盛』でも、こんなひどい企ては思いつかなかったでしょう。

小説を売るために、何でもするという、アメリカ人の能天気な一面なのでしょうが、さすがに今度は梅爺も『おいおい、いくらなんでも限度と云うものがあるでしょう』と云いたくなりました。

アマゾンの読者書評にも、『ひどい小説だ』と批判が乗っています。しかし、多くの読者は、奇想天外のストーリーを楽しんでいるようにも見えます。

『ストーリー・テラー』としての才能には梅爺も感心しますが、現存する人物を貶めるようなモデル小説はいただけないと思いました。

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2018年8月10日 (金)

スティーブ・ベリーの小説『The Tudor Plot』(1)

アメリカの歴史推理小説作家『スティーブ・ベリー』の小説『The Tudor Plot(チューダー王朝の陰謀)』を、アマゾンの電子書籍リーダー『Kindle』に原文(英文)をダウンロードして読みました。

多分この本は、日本で書籍として発売されておらず、翻訳本もなさそうですから、電子テキストをダウンロードして読むのが、一番手っ取り早いのではないでしょうか。

現英国王室をモデルに、王位継承の『陰謀』を描いた小説で、登場人物は、名前は変えてあるものの、明らかにモデルが誰かは読者に分かりますから、このような小説は英国王室から名誉棄損で訴えられないのかと心配になるほど、内容は『きわどい』ものです。なにしろ王室のメンバーの一人『王女』が、『陰謀』に加わる『悪人』なのですから。

登場する王室関係者は以下のような顔ぶれです。カッコ内(青字)は、対応する実在の王室メンバーの名前です。

ヴィクトリア2世女王(エリザベス2世女王
ジェームス殿下(
フィリップ殿下:エリザベス女王の夫)
リチャード皇太子(
チャールズ皇太子:最初の妻ダイアナ、現妻カミラ)
エレノア王女(
アン王女:チャールズ皇太子の妹)
アルバート王子(
ウィリアム王子:チャールズ皇太子とダイアナの間の長男)

主人公は、『スティーブ・ベリー』の小説のほとんどに登場する、アメリカ法務省の特殊工作員『コットン・マローン』です。『ジェームス・ボンド』ばりの超人的な活躍が売り物です。今回は、英国王室の王位継承の『陰謀』を見事に暴く役割を果たします。

『スティーブ・ベリー』の小説では、現代のストーリーに、過去の『歴史ミステリー』が絡む構造になっていて、今回は、5~6世紀の『アーサー王』伝説が採用されています。

『アーサー王』は、ブリトン人を率いて、侵攻してきたサクソン人と戦った英雄とされていますが、実在の人物かどうかは現在も分かっていません。

私たちは、『アーサー王』と云えば、『円卓の騎士』『聖剣エクスカリバー』『キャメロット城』などを思い浮かべますが、これらは後代に創られた物語です。

今回は、王位継承を企む悪人が、『アーサー王』が実在の人物であることを墓の発見で証明し、その功績を利用して、王位継承の正当性を国民に訴えようとします。

現在の英国王室は『ウィンザー家』と呼ばれていますが、元は『Saxe-Coburg(ザクセコブルグ)家』で、これは、ビクトリア1世(女王)の配偶者が、ドイツ『Saxe-Coburg家』の出身であったからです。しかし、第二次世界大戦の時にドイツ色を排除するために『ウィンザー家』に改名されました。

陰謀者は、ドイツを先祖とする現王室ではなく、正当な英国王朝の創設を、『アーサー王』を利用して国民に印象付けようということなのでしょう。

このようなことで、英国民が新しい王を認めるのかどうか、梅爺にはどうもピンとこない話です。なにやら無理やり『陰謀』と『アーサー王』を結びつけた感がぬぐえません。

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2018年8月 9日 (木)

カタルシスの約束(4)

人間が『トランス』になりやすい条件がいくつか経験的に分かっています。

『単調なリズム音の繰り返し(心拍数に近いリズム周波数が効果的)』『激しい踊りを長時間継続』『火炎を凝視し続ける』『呼吸だけに意識を集中し続ける』などです。

『宗教』や『ヨガ』などは、これらをうまく取り込んで、『信者』や『参加者』を『トランス』または『トランス』に近い状態へ誘おうとします。

『木魚のリズム』『(密教)の護摩(火炎)焚き』『ろうそくだけの灯明』『座禅』などは仏教の例ですが、『キリスト教』も『イスラム教』も同様な手法を『ミサ』『礼拝』に採用しています。

『宗教』の『教義』を創出した人の能力もさることながら、『宗教』に『トランス』の方法を採用した人は、なかなかの戦略家です。

人々は、『トランス』に依る『心の安らぎ』『別世界との交流』という『感覚』で、『神仏』の存在を『信じやすくなる』からです。人類が『トランス』の能力を保有していなければ、『宗教』は出現しなかったであろうと梅爺が考えるのはこのためです。

『アルコール摂取』『麻薬摂取』『喫煙』なども、人間を『トランス』または『トランス』に類似した状態へ誘う手段です。

アメリカには『宇宙人に拉致されUFOへ連れて行かれたことがある』と主張する人が沢山いますが、『トランス』に依る幻覚を実体験と勘違いしているのであろうと考えられています。

『カタルシスの約束』というエッセイでも、『宗教』が『天国(極楽)』を約束するために、人為的な手法で人々を騙していると暗に批判しています。

この著者の主張は、人類社会の進歩のプロセスには『永遠の平和』などという『カタルシス』の実現段階はなく、効率の悪い『試行錯誤』しか具体的対応方法はないとということで、これはごもっともな話です。

『カタルシス』を究明すれば、どこからが『現実逃避』なのかが分かるとも書いています。しかし、一時的であれ『宗教』で『心の安らぎ』を得ることが、『現実逃避』の悪い例として断ずることができるのかどうかは、やさしい問題ではありません。

『安泰を希求する本能』が、時に『現実逃避』、時に『現実復帰』を優先的に選択するのではないでしょうか。『カタルシス』『トランス』は、『現実逃避』を選んだ時の手段として私たちは保有しているのではないでしょうか。

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2018年8月 8日 (水)

カタルシスの約束(3)

人間の『脳』が、外部環境から受ける情報や刺激で、突然『恍惚状態』『陶酔状態』『催眠状態』などと呼ばれる状態に陥ることが分かっています。

この状態は『トランス』状態と呼ばれます。『カタルシス』はこの『トランス』の一つではないでしょうか。

『トランス』には勿論個人差があり、なりやすい人と、なりにくい人がいます。『催眠術』にかかりやすい人、かかりにくい人がいるのはこのためです。多分、かかりにくい人は『精神世界』の『理(理性)』の機能が強い人なのではないでしょうか。

『トランス』は、『睡眠』状態と類似しています。完全な『睡眠』状態ではなく、『覚醒』状態と全く無関係ではありません。少なくとも外部からの音声情報には、『睡眠』状態のときより、よりよく反応します。『催眠術師』がポンと手をたたくと、被術者が、元へ戻るのもそのためです。

『脳』が何故『睡眠』を必要とするのかは、まだ分かっていません。当然『トランス』を何故必要とするのかも分かっていません。何らかの理由があって、『トランス』の状態を進化の過程で獲得したという前提での話です。

梅爺は、『睡眠』と『トランス』は無縁ではないと感じますが、それを証明する能力を有していません。『睡眠』に関する脳科学の研究が『トランス』の謎も明らかにしてくれることを期待しています。

『トランス』になると、『心は穏やかに解き放たれ、大きな安泰に包容されている心地』になると言われています。また『別世界に身を置いていると感じ、別世界の何者かと心が通うような心地』になるとも言われています。

人類の歴史では、『トランス』になりやすい人が『預言者』『霊媒者』『巫女(みこ)』となり、『神』や『死者』の意向を仲介する重要な役割を果たしました。

『トランス』の能力を人間が保有していることが、人間が『宗教』を創出した理由であると梅爺は考えています。

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2018年8月 7日 (火)

カタルシスの約束(2)

個人的な体験である『カタルシス』と、人類の共通体験としての『カタルシス』を一緒に論じているために、このエッセイは分かりにくくなっているような気がします。

『個人』と、個人の集合体である『社会』の、本質的な違いや意味を理解せずに、人類共通の体験としての『カタルシス』なるものを論ずることに難があります。そもそも人類共通の『カタルシス』などという概念を私たちは共有しているとは言えません。

『社会』が理想郷として希求する、『永遠の平和』『神の国』『パラダイス』『桃源郷』を、ここでの議論の都合上『カタルシス』とするならば、これらは人間が『精神世界』で創造した抽象概念であり、実態としては『存在』することを証明する方法はありません。そのことが理解できていれば、これを人類共通の『カタルシス』と呼び変えてみても始まらないことが分かるはずです。

『社会』は、個性的な『個人』の集合体ですから、『社会』が同じ『価値観』で統一されることはありません。『個人』は生物として個性的であるように宿命づけられているからです。

『社会』のメンバーが、全員『同じように考え』『同じように感ずる』状態などはあり得ません。同じ『価値観』が存在するかの如く見せる体制として、『独裁政治(恐怖政治)』『一党独裁政治』などがありますが、あくまでも『みせかけ』にしかすぎません。『個人』の不満が、やがてマグマのように噴出し、『社会』が危機に瀕するようになる事例を、歴史は繰り返してきました。

『争い』や『殺し合い』を減らす手段として、『価値観』を統一しようとする策は、現実的ではありません。『社会に異なった価値観が存在することを、基本的に認めた上で、共存の道を探る』ことを受け容れることが唯一現実的な策です。

梅爺でも思いつくこのようなことが、人類の『常識』に依然なっていないことが不思議に思えます。

『自分の価値観だけが正しい』『他人の価値観は間違っている』と単純な白黒議論から私たちが今でも抜け出せないのは、『他人の価値観』は、『自分の安泰を脅かす要因』であると、『精神世界』が脅威に感ずることが根にあるのでしょう。『宗教』や『政治』が、『正義』『邪悪』などという言葉を頻用することも、私たちが白黒議論へ陥りやすくなることを助長しています。

自分の『価値観』を、相対的なものとして客観視するには、『理性』による訓練が必要になります。

そろそろ、人類は、『異なった価値観の共存』について、具体的な努力を開始すべきではないでしょうか。

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2018年8月 6日 (月)

カタルシスの約束(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の66番目のタイトルは『The Promises of Catharsis(カタルシスの約束) 』で、著者はドイツの新聞編集者『Andorian Kreve』です。

『カタルシス』という言葉を一言で表現する日本語の語彙は見つかりません。そこで、ブログのタイトルは『カタルシスの約束』と直訳にしました。

強いて挙げれば『恍惚(こうこつ)』が近いかなと思います。精神的な『感動』『霊観』などの体験の後に訪れる『心が浄化された』と感ずる状態のことです。

下賤な表現で恐縮ですが、『カタルシス』には『便通』の意味もあります。『抱え込んでいたものを出して、すっきりした』という『感じ』がよく伝わってきます。

『一時的な体験』という意味では、誰もが『カタルシス』を体験しているのではないでしょうか。

『優れた芸術作品』『スポーツの名勝負(参加、観戦)』『宗教儀式』『自然との一体感』などが、一時的な『カタルシス』へ私たちを誘います。

残念なことに『カタルシス』は刹那的な体験で、その状態がいつまでも続くわけではありません。しかし、私たちは永続的な『カタルシス』も存在するのではないかと錯覚し、期待します。

個人の体験ではなく、人類共通の体験として、進化の過程で『カタルシス』は存在しなかった、というのがこのエッセイの著者の主張です。

『天国』『救い』『永遠の平和』『神の国の究極的な勝利』などを、人類は共通の体験としたことがないということです。

人類にとっては『カタルシス』は、『空しい約束』に過ぎないということが言いたいのでしょう。

直接的には表現されていませんが、『天国は近い』『最後の審判で救済される』『神の国がもたらされる』などと説き、存在しないものを、存在するかのように『約束』する『宗教』への批判が込められているように感じます。

個人に『カタルシス』をもたらすための、『常套手段』が芸術や宗教の儀式で巧みに使われていることも、このエッセイは解説しています。

代表的な事例として、『ベートーベン』の『第九交響曲』について述べられています。この曲は、人々が苦難に遭遇した時、連帯感の高揚を必要とするときなどに良く演奏されます。特に第四楽章の『合唱(歓喜の歌)』が、感動を生む要因になっています。

『歓喜の歌』の歌詞(シラーの詩)の内容も感動の要因ではありますが、『ベートーベン』が音楽の様式に仕掛けた技が聴衆を『カタルシス』に導く主要因です。『短調』から始まって開放的な『長調』でエンディングを迎えること、リズムをクライマックスに向けて変えていくことなどがそれに相当します。

『ベートーベン』は人間の『精神世界』に訴える手法を、直感的に用いたのでしょう、それが天才的な才能と言えるものです。『広告』などで用いられる計算された手法と同類に扱うのは失礼な気がします。

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2018年8月 5日 (日)

認知科学(8)

『認知科学』は『精神世界(心)』を『情報処理システム』としてとらえます。

『情報処理すステム』というと私たちは、『コンピュータ・システム』を思い浮かべますが、『コンピュータ・システム』は一種の『情報処理システム』であるにすぎません。

このように、『情報処理システム』を、一般的な『汎用概念』にして抽象化できるのも人間の『精神世界』の特徴です。

『心と脳』という本の著者安西先生は、『心』の『情報処理システム』を以下のように定義しています。

(1)何らかの情報を入力として受け取り、その入力情報と、(2)(a)すでに心の中に記憶されている情報や、(b)やはり心の中に記憶されている処理の方法(これも情報である)、(c)心の中の他の要素システムとの相互作用(情報のやり取り)、(d)外界のシステム(他者、社会、環境など)との相互作用によって別の情報を創り出し、(3)その情報を記憶したり他の情報と結びつけたりすることによって内部状態を変えるとともに、(4)得られた情報を出力し、また(5)この(1)~(4)の過程を繰り返しながら、(6)右の(1)~(5)の全体を、自分で創り出す新しい情報処理のしくみや外界との相互作用によって変えていくことをいう。ただし、入力情報がない場合や、入力も出力もない場合がある。

日本人の多くは、このような『微に入り細にいる理の定義』を『頭が痛くなる』などといって忌避し、『心』は曖昧模糊なものとしてそのまま受け入れればよいではないか、などと主張します。梅爺は少し変な日本人なので、このような表現が嫌いではありません。

安西先生も、『心』をありのままで受け容れることも大切なことで、芸術は古来その大切さを表現してきたものであろうとを認めておられます。

上記の定義は、非常に重要なことを示唆しています。

それは、『精神世界(心)』は、常にダイナミックに『変容』しているということです。

梅爺は『宇宙』や『自然界』が、常にダイナミックに『変容』していることとの関係を連想してしまいます。

『精神世界(心)』を創り出している『脳』は、『自然界(物質世界)』に属する実態ある存在であり、『物質世界』の『摂理』に支配され、ダイナミックに『変容』しているからなのでしょう。一見別世界に見える『精神世界』は、『物質世界』と地続きであることの証左ではないでしょうか。

厳密にいえば、梅爺の『精神世界』は、時々刻々『変容』していることになり、『屁理屈好きの爺さん』などと固定概念で決めつけられることに反発したくなります。若いころの梅爺と、現在の梅爺では、別人のように『精神世界』は異なったものになっています。同じ小説を読んだり、同じ音楽を聞いたりしても、『心』の受け止め方は全く異なっています。

『精神世界』を『情報処理システム』としてとらえると、何が見えてくるのかについて、今後も別のブログで感想を述べていきたいと思います。

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2018年8月 4日 (土)

認知科学(7)

『群で生きる』方法を選択した以上、『群』の中のメンバー同士が、『認識』しあうことが必要になります。いわゆる『絆』が重要なことになります。『絆』は『安泰を確認して安堵する』ために必要になります。

『コミュニケーション』はこのための手段であり、『群』を創って生きる生物は、いずれも何らかの『コミニュケーション』の手段を保有しています。

『人間』が、このために採用した『言語』『文字』は、『人間』と云う生物の活動を飛躍的に高度なものにすることになりました。勿論、『言語』を操れるように、『脳』や『肉体(口内、咽喉)』が進化したことも特筆すべきことです。

『群』の中で、『自分』の存在が『認められる』ことは、『安泰』につながりますから、『自分を表現』しようとします。『孤独』は人間にとって『安泰を脅かす最大の要因』です。『自己表現』の高度に進化したレベルが、現代人の『芸術創作』ではないでようか。

また、『群』の中の他人が、『何を考えているのか』『何を感じているのか』を知ることは、『安泰』を獲得する手段ですから、『言葉』だけではなく、顔の表情、仕草など全てを観察して相手の意向を確認しようとします。生まれたばかりの『赤ん坊』が、母親の『目』を探して、母親の気配を探るのは、このためと考えられます。

『人間』は周囲の事象を、『自分の安泰を脅かすものであるかどうか』という視点で判断しようとします。ボールが顔へ向かって飛んで来れば、無意識に避けようとします。そのような物質的な危険だけではなく、『精神世界』が推論で導き出した抽象的な事象も、『安泰を脅かす要因』として受け止めます。

古代人は、『地震』や『火山噴火』を、『神の怒り』と推論し、『神の怒りを鎮める』ための宗教的儀式を考えだしました。

後に『慈悲の仏』『愛の神』などと、『神仏』に関する推論は変容しますが、基本的には、『心の安らぎ(安泰)』を希求す『人間』の『精神世界』が関与しているものと考えられます。

現代の洗練された『宗教』『芸術』なども、元をたどれば『安泰を希求する本能』が関与していると梅爺が考えるのはそのためです。

『精神世界』の特筆すべき特徴は、『物質世界』に実態として存在するものではないものも『抽象概念(虚構)』として表現してしまうところにあります。

『嬉しい』『悲しい』などという、『情』の状態を『抽象的な形容詞』で表現することも特筆すべきことです。

『抽象概念』『抽象的形容詞』を駆使し、他人と共有する能力は、『人間』の『精神世界』の大きな特徴です。

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2018年8月 3日 (金)

認知科学(6)

『心と脳ー認知科学入門』という本には、『人間』の特徴として以下の五つを挙げています。

(1)コミニュケートする人間
(2)感動する人間
(3)思考する人間
(4)熟達する人間
(5)創造する人間

しかし、これらの特徴は、生物として『人間』だけが保有しているものとは言えません。ただ『人間』の能力が、他の生物に比較して飛びぬけてレベルが高いとは言えます。このことから、『生物進化』の過程で、『人間』という生物が出現したことが分かります。『人間』だけが『神』に愛(め)でられ、『神の形に似せて創られた特別な存在である』と云う主張は無理があります。

『人間とは何か』を考える上で、このような特徴を考察することは無駄とは思いませんが、突然『五つの特徴』を列記されても、何故この特徴を採用したのか、他に特徴はないのかなどという疑問が残ります。

梅爺は、『精神世界(心)』の根底を支配する、『安泰を希求する本能』が、『人間』の特徴と言えるもののすべてを生みだす要因になっていると考えています。この本能は、『個体』『種』として生存し続けるための欲求ですから、『生物』全てに共通する本能で、『人間』も継承しているという考え方です。

『コミュニケーション』『感動』『思考』『熟達』『創造』は、同じ『安泰を希求する本能』から派生していると考えれば、これらの特徴が独立したものではなく、関連していることも見えてきます。

『人間』が、『個体』『種』の両面で、生き延びる可能性を高めるために、『群を創って生きる』という方法を選択したことも、『人間』『人間社会』を考える上で重要な要因であることも認識しておく必要があります。

『人間』は『成人』になるまでは、能力が未熟で、『生きる』ことに他人(親など)の庇護を必要とすることも『人間』を考える上で重要な要因です。

『赤ん坊』が母親の胎内であるレベルまで成長した時に『出産』されるという『しくみ』は、『生物進化』の過程で、母子ともに『生き残れる』確率が高いレベルとして選択されたものです。『赤ん坊』の頭蓋のおおきさと母親の許容できる産道のおおきさの、微妙なバランスでこのレベルが選択されています。

『成人』になるまでに時間を要するという『人間』の特徴は、ある意味で大きな『短所』ではありますが、『個体』『種』が生き延びるために、総合的に選択された方法ですから、観方に依って『長所』『短所』のどちらとも言える話です。

じっくり時間をかけても『立派な成人』を作り上げた方が、『個体』『種』ともに有利と云う選択がなされたのでしょう。

『生物進化』は『物質世界』の事象ですから、『目的』『あるべき姿』はなく、試行錯誤による『変容』のなかで、有利な『平衡状態』を見出したということになります。『長所』『短所』の両面がありますから、『人間』は必ずしも『理想的な生物』とは言えません。

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2018年8月 2日 (木)

認知科学(5)

私たちが日常『正しい』『間違い』という形容詞や、『・・・である』と断言する表現をあまり深く考えずに使っていて、実はこのことが、人間社会の相互理解の上で誤解を生ずる原因になっていることを梅爺は案じています。

科学や数学の世界では、普遍的な『真偽』の判定が可能ですから、『正しい』『間違い』という表現で誤解は生じません。同じく『・・・である』と断言できますし、断言することの意味もあります。

しかし、人間の『精神世界』の価値観が関与することがらで、『正しい』『間違い』、『・・・である』と断ずることは注意を要します。

厳密に表現すれば『私の価値観ではその考え方を支持したい』『私の価値観では、そうであるという考え方を採用したい』ということになるはずです。

人間の『精神世界』の『価値観』は『個性的』であるように、宿命づけられていることを重視すべきです。『個性的』である背景は『生物進化』で採用した『両性生殖』にあります。父と母の遺伝子の偶発的な組み合わせで子供の遺伝子構造が決まるからです。つまり、厳密にいえば親子でも『個性』差があるということです。『価値観』が個性的であるということは、『価値観』には絶対的な尺度が存在しないということです。

科学や数学の世界の『正しい』『・・・である』と、『精神世界』の『価値観』が絡んだ時の『私個人としては正しいと思う』『私個人としてはそうであると思う』という表現が、言葉の上で区別できていれば問題がなかったと思いますが、残念ながら『日本語』にはそのような区別がありません。梅爺の知る限り『英語』にも区別がありません。

『普遍的に正しい』と『私の価値観では正しいと思う』の違いを、理解しない為に、私たちは日常、水かけ論のような空しい議論をしています。

一番困るのは『私の価値観では正しいと思う』ことが『普遍的に正しい』と論理転換してしまうことです。『宗教』や『イデオロギー』が絡むとこの傾向は一層顕著になります。

梅爺も知らず知らずにこの混乱に陥っていることがありますから、偉そうなことは言えませんが、国会の質疑答弁などをテレビで観ていて、失笑を禁じえないことが度々あります。

『私は正しいと思う』、だから『正しい』という論理が横行する社会は、成熟度の低い社会です。異なった価値観とどのように共存するかが、社会の成熟度の指標なのではないでしょうか。

多くの方が受けいれることを戸惑いますが、『人間社会』の事象で、普遍的に『正しい』と言えることはほとんどありません。

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2018年8月 1日 (水)

認知科学(4)

『認知科学』にとって難しいのは、『精神世界(心)』で処理される情報としての『抽象概念』やその価値が普遍的に『定義』したり、『定量化』したりすることができないことです。

『正義』『平和』といった『抽象概念』や、『美しい』『悲しい』といった抽象的な状態表現のことを考えて観ればご理解いただけるでしょう。

『正義』『平和』といった言葉に接した時に、一人一人が思い浮かべる事柄は、同じである保証はありません。人間の『精神世界』は個性的であるからです。

誰かが『美しい』『悲しい』という言葉を使った時に、それを聞いた人が共感できたとしても、自分の感じ方とレベルに違いがあるかどうかは、推し量るしかありません。これも人間の『精神世界』が個性的であることに由来します。

『科学』は、普遍的に受け容れられる『定義』や、『定量化』して普遍的な価値を比較できる対象を扱うことが原則です。

『認知科学』が、『精神世界(心)』へ踏み込んだとたんに、普遍的に『定義』や『定量化』ができない事象に遭遇することになります。『認知科学』の最大の壁はそこにあります。

しかし『認知科学』に関する解説書には、このことが明記されていません。従来の『科学』の手法の延長で『精神世界(心)』も解明できるという見通しがあるのでしょうか。

『脳』の情報の処理の『しくみ』を、コンピュータなどの情報処理の『しくみ』と比較するようなことはできたとしても、『精神世界』で行われている情報処理の本質を解明できるとは限りません。

私たちは、日常生活の中で『抽象概念』や『抽象的な形容表現』が、重要な役割を果たすことを、直感的に理解しています。

何故人間にとって『抽象概念』や『抽象的な形容表現』が重要なのかが、梅爺の興味の対象です。

『名誉』や『大義』を、時に『命』以上に大切にする『価値観』の根源を知りたいと思います。『認知科学』はこのようなことにも答える術(すべ)になるのでしょうか。

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