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2018年7月31日 (火)

認知科学(3)

『死とともに全てが無に帰す』と云う表現は、多くの人に歓迎されません。自分の全てが『全否定』されるように感じて、『心』は『面白くない』と受け止めるからです。

『正直に(信仰深く)生きれば、死後に極楽(天国)が用意されている』『自分も死ねばあの世で先に亡くなった親しい故人と再会できる』『お盆には、先祖の霊が一時戻ってくる』『死後自分の霊は千の風になって自由に空を巡る』などと『信じて』おられる方にとっては、『死とともに全てが無に帰す』という表現は、あまりにも冷たく、味気ないものであるからです。

何故、人類は『天国(地獄)』『あの世』『死者の霊』などという概念を思いついたのか、言いかえれば必要としたのかは、『精神世界(心)』の特質を考えれば見えてきます。

『精神世界』の根底にあるものは、『安泰を希求する本能』で、これは生物進化の過程で培われ継承されてきたものと梅爺は考えています。

『死とともに全てが無に帰す』という考え方は、『安泰を希求する本能』によって『面白くない』と受け止められます。『情』の『寂しい』『空しい』『悲しい』という感覚それを後押しします。つまり安泰が脅かされたと感じ、なんとしても、安堵できる考え方を考え出して、自分を説得しようとします。

その時、『天国』『あの世』『不滅の霊』などという概念が提示されれば、渡りに船と飛びつきたくなるのが人情です。

このように『精神世界』では、『物質世界』の『摂理』を無視した、自由奔放な『抽象概念』『虚構』の提示が可能です。これが『精神世界』の特徴の一つです。

自分の周囲の事象を、『物質世界』に属する事象か、『精神世界』の『抽象概念』または『虚構』に属する事象かを、区別すると、色々なことが判然と見えてきます。梅爺がブログを書き続けて会得した、じつに役に立つ『考え方』です。

『認知科学』で『心』を眺めて観れば、それは生きている『脳』の活動を土台として出現する『仮想世界』ですから、『脳』が死ねば『心』も死ぬと考えるのが妥当です。

言い換えれば、『心』は生きている人だけに与えられる特権ですから、『生』を大切にしたい気持ちがつのってきます。重要なのは死後ではなく、生きている現在ということになります。

親しい方が故人になられた場合、残された人の『脳』には、故人の『思い出』が記憶として存在し、残された人の『精神世界』では、故人は概念として存在し続けます。概念は、すでに実体として存在しない故人を実態があるかのように彷彿させます。しかし、それは故人の『霊』がもたらすものではありません。

故人を知っていた人が全て亡くなれば、誰の『精神世界』にも、故人の概念は出現しなくなります。

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2018年7月30日 (月)

認知科学(2)

『認知科学』に関する知識を増やそうと、『心と脳ー認知科学入門:安西祐一郎著(岩波新書)』を読み始めました。梅爺のような素人には、うってつけの入門書です。安西先生は、この分野を専門とする学者で、慶応義塾長も務められました。

安西先生は、この本を執筆する目的を、『大事なことは、心のはたらきについて考えることを通じて、人間とは何かを見つめ直すことにある。』と書いておられます。それこそが、梅爺の興味の対象です。

『心』は、梅爺がブログで『精神世界』と表現してきたもので、『脳』が創りだす『仮想世界』です。『仮想世界』ですから、実態のある存在物として、触ったり、目で確認したりすることができません。

一方『脳』は、梅爺の区分では『物質世界』に属する実態のある存在物で、触ったり、目で確認することは当然できます。

自然界で『物質世界』に属するものは、全て『摂理』に支配されています。『脳』も例外ではありません。『脳』を構成している素材は、自然界に存在するごく当たり前の元素やその化合物であり、神経系に流れる電子信号は一般の物理法則、ホルモンなどの物質で情報伝達するものは一般の化学法則を利用しています。つまり『脳』は、きわめて複雑なシステムではありますが、『物質世界』に存在する素材と、『摂理』だけで機能しています。

しかし、『心』は実態として確認ができないわけですから、言ってみれば『幽霊』のようなもので、実態として確認できるものしか信用しないという人にとっては、何とも『いかがわしい』ものに思えるかもしれません。

しかし、実際にはこの『心』は、人間が『生きる』上で、非常に大切な役割を担っています。生物としての『人間』の特徴の多くは『心』が関与して形成されていると言ってよいでしょう。『いかがわしい』どころか『かけがえのない』ないものが『心』なのです。『認知科学』はそれを究明しようとする学問です。

『心』は、『物質世界』に属している『脳』が機能している時に、言いかえれば『脳』の持ち主が『生きている』時に、出現します。

土台となる『脳』が機能を停止した時には、『心』も機能を停止します。つまり、人が死ねばその人の『心』は消滅し、無に帰します。

『宗教』は、肉体が滅びても『霊』は不滅であるなどと説きます。本当かどうか確認のしようがありませんが、少なくとも『霊』は『心』のことであるとすれば、上記のように『死とともに無に帰す』と考えるのが、理にかなった考え方となります。梅爺の理性は、そちらを選びます。

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2018年7月29日 (日)

認知科学(1)

梅爺は10年以上ブログを欠き続けて、自分の最大の興味の対象の一つが、『認知科学』と称する領域に関わるものだと実感しています。

『Wikipedia』には、『認知科学』に関する以下の概要説明が掲載されています。

認知科学(にんちかがく、英語:cognitive science)は、情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとする研究分野。認知科学は以下に挙げる諸学問の学際領域である。

心理学 - 認知心理学 - 進化心理学 - 文化心理学
人工知能 - ニューラルネット - コネクショニズム - 計算機科学
言語学 - 心理言語学 - 生成文法 - 認知言語学
人類学 - 認知人類学 - 認知考古学
神経科学 - 認知神経科学 - 脳科学
哲学 - 心の哲学 - 認識論

現代人はひと昔前の人達と異なり、豊富な最新科学知識を保有しています。この特権を活用して、従来ある分野に限定して思索していたことがらを、学際的に検証し直すべきではないかと何度もブログに書いてきました。

『宗教』や『哲学』も、神学や旧来の哲学だけの領域で観るのではなく、学際的な思索の対象にしたらどうかと云う提言です。『芸術』でさえも、ある部分はこの手法の対象にして良いと考えています。

『人間は何故神と云う概念を必要としてきたのか』『自分は何故存在するのか』『人間は何故美を欲するのか』などは、従来の『神学』『哲学』『芸術論』だけでは、説明しきれないからです。

『学際派』の台頭は、『専門派』にとっては、従来の権威を脅かされるものとして、警戒されがちですが、時代の流れには抗しきれないものになるでしょう。『宗教』は特に、『神』や『教義』が批判の対象になることを危惧することになりますが、この試練に耐えられないようならば、『宗教』そのものの価値を問われることになりますので、正面から向き合わざるを得ないのではないでしょうか。

上記のように『認知科学』は、沢山の学問領域を総合的に網羅するものですから、これではまとまりがつかなくなるだろうと心配になるほどです。

しかし、梅爺がブログに書いてきた人間の『精神世界』は、まさしく『認知科学』でないと究明できそうにありませんから、多いに期待したくなります。

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2018年7月28日 (土)

医療知識の増加がもたらすもの(4)

人間の活動を、基本的な生命維持に関与する『肉体的な活動』と、『精神世界』が関与する『精神的な活動』に区分けすると、前者は他の生物と大きな違いがなく、人間を崇高な存在にしている真の要因は後者であると、一般的に考えられてきました。

『飲食』『排泄』などという行為は、他の生物と同等な下等な活動であり、『芸術』『宗教』などは、人間でしかなしえない高等な活動であるという認識です。

人間の価値を、『精神世界』の活動に重きを置いて評価したくなる気持ちは分かりますが、それだけでは人間の本質は見えてこないような気がします。

『物質世界』に属する肉体の、基本的な生命維持活動という土台の上に、『精神世界』は出現したものです。

『脳』の機能が高度に進化して人間の『精神世界』が出現したことになりますので、『脳』を保有する他の生物にも、人間とは比較にならないレベルとはいえ、ある種の『精神世界』が存在すると考えるのが妥当ではないでしょうか。

厳密に表現すれば、極めて『高度なレベル』までに進化したものが人間の『精神世界』であるということになります。『脳』の高度な進化が、人間の特徴を際立たせていることになります。

『精神世界』の根源に『安泰を希求する本能』があり、これは人間だけでなく他の生物にも共通するというのが梅爺の『仮説』です。

『利己(邪心)』『利他(仏心)』などという価値観も、同じ『安泰を希求する本能』から派生したものと梅爺は考えています。

『理と情』『意識と無意識』の複雑な絡み合いで『精神世界』は機能していますが、原始的なレベルでは『情』と『無意識』が先行し、後に『理』と『意識』が上乗せで加わって現在の『精神世界』が成立したものと考えると、多くの事象が納得できます。

私たちが、自分で制御できるのは、『意識』の領域なので、これだけを『精神世界』と誤解しがちですが、『情』や『無意識』が『精神世界』では大きな存在であることも知っておかなければなりません。

『医療知識の増加』が私達の行動にどのような影響を与えるかは、そのことだけを取り上げて論ずることは無意味なことではありませんが、それ以前に、私たちは自分の『精神世界』について理解を深める必要があると感じました。

『脳科学知識の増加』が、今後『精神世界』の理解を深めていくために、大きな役割を果たすことになるでしょう。『脳科学』は現時点ではまだまだ未知の領域が大きな学問分野です。

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2018年7月27日 (金)

医療知識の増加がもたらすもの(3)

病気を引き起こす因果関係や、健康を維持するために対応した方が『良い』と思われる事項が次々に明らかになると、多くの人は、『病気にかからないこと』と『健康を維持すること』を優先する『生き方』を採用しようとします。 

『禁煙』『禁酒(節酒)』は勿論のこと、食材の制約、十分な睡眠時間の確保、早寝早起き、ウォーキング時間の確保と励行、ストレスとなる要因を極力抑えることなどに配慮した生活パターンを採用しようとします。『健康に良い』とテレビ宣伝される『サプリメント』を競って購入したりもします。

『安泰を希求する本能』の支配されている人間の、ある意味で当然な対応です。 

このような謹厳、清貧な生活パターンだけの励行を『苦痛』と感じない人は幸せな方で、多くの場合、刹那的な欲望を満足させるために、この生活パターンを『苦痛』と感じたり、逸脱した行為に走ろうとしたりします。 

『永く生きる』ことを最優先するか、現在(刹那)の『喜び』『達成感』『感動』などを最優先するかといった選択の問題でもありますが、人間はわがままで、二者選択ではなく、できればどちらも達成したいと、都合のよいことを願います。 

『芸術家』などは、現在の創作に没頭したりしますから、『健康に悪い』ことが分かっていても、寿命よりも創作を優先する生活習慣を採ったりします。 

老人は誰もが『ピンコロ』の死を願うと言いながら、『今晩ピンコロと死んでもよいか』と問われると、『それは嫌だ』と論理的とは言えない回答をします。 

人間がわがままであるというより、人間の『精神世界』は、多様な価値観が共存する複雑な領域であり、『理』だけで律することが難しいということの証左なのではないでしょうか。刹那的な欲望には『情』が深く関与します。 

『医療知識』が増加すれば、私達の生活パターンは、その分制約されることになるように思えますが実際には、そう単純な話ではなさそうです。 

『タバコ』は身体に悪いと一般に云われるようになって、『喫煙者』は減少しましたが、『ゼロ』にはなっていません。 

『嗜好』も『精神世界』の価値観の一つですから、基本的人権としてこれを認めないというところまでは、国家機関も踏み切れないという話になります。アメリカの『禁酒法』は長続きしませんでした。『精神世界』が関与すると、一律の価値観で律することが難しいということです。『宗教』に関する『信教の自由』を認めることもこれに類します。

特に反骨精神の旺盛な人は、国家や社会が一律の価値観で個人の行動を規制しようとすると、逆らう傾向が強いことになります。『愛国無罪』などという無茶な論理で国民の愛国心を煽る中国に住んでいる反骨精神の持ち主は、陰で辟易しているに違いありません。

『愛煙家』の『倉本聡』が、人気ドラマシリーズ『やすらぎの里』で、主人公役の『石坂浩二』に劇中タバコを吸わせたのは、『禁煙こそ正義』と云わんばかりの世の中の風潮への反骨心からではないでしょうか。

視聴者の平均的価値観を重視せざるを得ないテレビ局は脚本をもらって困ったと思いますが、大御所『倉本聡』の立場を『忖度』して受け入れざるを得なかったのでしょう。

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2018年7月26日 (木)

医療知識の増加がもたらすもの(2)

昨今の医療技術の発展はすさまじく、現在かかっている『病気』以外でも、『血液』『唾液』『肺からの排気』などを検査するだけで、将来かかる可能性の高い病気を『予測』することまでもが可能になりつつあります。

いわゆる『マーカー』と称するものへの反応で、『予測』が可能になるという話です。

『予測』が提示されたにも関わらず、『予防』処置を怠ったの場合の、『個人責任』『医療機関責任』『国家や自治体の責任』も、昨日と同じ論法で展開されることになります。

更に厳密に見れば、『予測』行為の責任も単純ではありません。『予測』には、『誤認』もある確率で紛れ込むからです。

このように観てくると、この問題は『医療知識の増加』に限られず、『一般的な知識の増加』にも当てはまる話です。

『情報への接触機会』は、誰にでも平等に与えられるべきであり、一方『個人情報』は保護されるべきというのが、先進国の『基本的人権』に関わる一般議論です。

しかし、国家は『ある種の情報』の公開は国益に反するとして、『機密情報』として秘匿できる権限を保有していますし、『国家安全』のためなら、テロ組織、テロ行為を事前に摘発できるとして、一般市民の電話通話、メール交信などを傍受することがアメリカなどでは行われています。

このよな『秘匿権限』、『個人情報への介入権限』を、他の目的に転用すれば、どのよな恐ろしい事態になるかは容易に想像できます。

『独裁国家』『一党独裁国家』などで、このような権力者による『情報』コントロールが行われていることは、よく知られています。

しかし、私達の体制でも同様な問題を包含していることを認識しておくべきでしょう。

『知る権利』『使う権利』『結果責任』は、全てに共通する問題です。『個人の視点』と『国家の視点』で観方も変わりますから、この問題は、『人間』『人間社会』が存在する所では、どこでも生じます。

梅爺がブログに何度も書いてきたように、『個性的な精神世界』を保有する『人間』が、コミュニティ(人間社会)を形成して生きる時に必ず遭遇する問題です。

これもまた何度も書いてきたように、この『問題』への普遍的対応方法は見つかっていません。その都度議論するほかありません。

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2018年7月25日 (水)

医療知識の増加がもたらすもの(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の65番目のタイトルは『Our Increased Medical Knou-how(医療知識の増加)』で、著者は健康ビジネスへの投資の専門家である『Esther Dyson』です。

著者が懸念していることは、病気の原因は何かが判明した時に、それが私達の行動に及ぼす影響との関係です。異なった言い方をすれば、健康のために対応する(行動する)人と、対応しない人が出現した時に、『責任』が誰が負うのかという問題です。

世の中の事象には、長所と短所が裏腹で共存しますから、長所だけに目を奪われないすることは一般論として大切なことです。

ところで、上記の問題は、あまり深刻な問題でないように一見思えます。

しかし、以下のような分類をして考えてみると、『人間』および『人間社会』の本質に関わっていることが見えてきます。

(1)知識を獲得し、理解できる能力(判断力)のある人。
(2)知識を応用して利用できる能力(判断力、財力)のある人。
(3)知識を獲得するための環境(教育、財力)に恵まれない人。
(4)知識を応用して利用できる環境(財力)に恵まれない人。

誰もが(1)と(2)を満たす人であり、それでも『行動しない』人がいたとすれば、それはその人の価値観が選んだ結果ですから、『行動しない』ことでもたらされる結果に関しては、その人の『個人的責任』であると言えそうです。

たとえば『喫煙は健康に悪い』ということを知っていながら、『喫煙』し肺がんに犯されたとすれば、『自業自得(個人的責任)』ということになります。

しかし、この例もそれほど単純ではありません。『喫煙しない人』が、『喫煙する人のタバコの煙』を吸引せざるを得ない環境に置かれ、肺がんに犯されたらその責任は誰にあるのかというような問題です。

ここでも『喫煙者』を悪者にすることは簡単ですが、『喫煙者』は社会が提供する『喫煙指定場所』で喫煙していたということになると、『責任』は、タバコの煙が漏れる『喫煙指定場所』を提供した者か、それを定めた(タバコの煙が漏れることを厳密に規制しなかった)法律、条例の施行者、つまり国家や自治体の『責任』となるのか、といったような議論に発展していくかもしれません。

上記分類の(3)(4)は、貧富の差、国力の差などで、『情報』および『情報の応用』環境に恵まれない人が、『不利』をこうむることになる『責任』はどこにあるのかといった問題です。

『格差』はある程度是認しなければ、『人間社会』は成り立たないとしても、命の問題に関わるようなことも、『しかたがない』で済まされるのかといった議論にもなります。

たとえば、『高額医療費』を支払える財力に或る人の命が救われ、医療費の負担ができない人の命は救われないとしたら、それは『基本的人権』に関わる問題で、憲法違反になるのかといった議論です。

そうかと云って国家財政は無限ではありませんから、誰もが『高額医療』の対象施術の恩恵にあずかれるという結論も現実的ではありません。

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2018年7月24日 (火)

感染症対策(4)

『現代科学』のおかげで『感染症』は克服されようとしているのかというと、そうではありません。 

人類が『免疫力』を持たない、新手の『ウィルス』『病原菌』が今後も出現し続けるからです。 

何故そのようなことが起こるかと言えば、『ウィルス』も『病原菌』も、生き残りをかけて『進化』しようとするからです。 

地球上のすべての『生物』は、自分の生き残りを優先する習性を同等に保有しています。『人類』もその『生物』の一種に過ぎません。『物質世界(自然界)』は『人類』だけに都合の良い環境として存在しているのではありません。

『人類』に『感染症』をもたらす『ウィルス』や『病原菌』を、発見する能力を『人類』は保有するようになり、それらを抑制するための『抗生物質』『ワクチン』などを開発する能力も今や獲得しています。『科学』がもたらした成果です。

しかし『ウィルス』や『病原菌』は、『抗生物質』『ワクチン』に対して耐性を持つように突然変異で『変容』するために、『人類』は再び新手の『ウィルス』『病原菌』との戦いを強いられます。

『インフルエンザ』の新手の『ウィルス』が出現し、そのたびに大騒ぎになるのはこのためです。

『ブタ』や『トリ』だけの『感染症』の原因であった『ウィルス』が、突然変異で『人類』の感染症の原因に変わるのもこの現象です。

『科学』を応用する能力を保有する『人類』は、やや有利な立場にあるとは言えますが、『人類』と『ウィルス』『病原菌』との生き残りをかけた戦いは、まさしく『イタチゴッコ』です。

『病原菌』は『細菌』の一種ですが、『細菌』の全てが『人類』の敵ではありません。『人間』の腸内には、数兆個の『腸内フローラ』が共生していて、私達の健康維持に欠かせないう存在になっています。

私達は他の生物と共生しなければ生きていけない存在です。自分だけで生きているなどと思いあがってはいけません。数十億年かけて、『生物進化』はこのような関係を偶然にもたらしました。

土中や水中の毒性のある物質を、分解してくれる、『微生物』なども、『人類』にはありがたい味方です。

『感染症』は『人類』にとって、ある意味で戦争以上に恐ろしい脅威ですから、『感染症』の流行を抑制するために、『ワクチン接種』に協力的であるべきと云うこのエッセイの著者の主張は、反論の余地のない『ごもっとも』なことです。

文明国だけで防御しても、地球規模の『感染症』流行は阻止できませんから、貧しい国々の人々も含めて予防措置をとる必要があり、結果的に国際的な経済にも影響する問題をこのことは包含しています。

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2018年7月23日 (月)

感染症対策(3)

『医学』や『医薬』の目覚ましい発展で、昔ならば『死』につながった病気を予防、治癒できるようになり、私達の平均寿命は延びました。

日本を含む先進国の多くは、『予防接種』で、『小児麻痺』や『天然痘』をほぼ根絶できています。

このエッセイの著者も、現代科学、現代医学がなければ、私たちは、今も疫病の恐怖におびえながら生活することになったであろう、と述べています。

現代医学は、『ガン』『循環器疾患』や対処方法が見つからない『難病』を克服することに注力しています。

『新薬』の開発も対象ですが、最近は人間の身体が本来保有している『自己治癒能力』や、『iPS細胞』を利用した、健康な『細胞移植』などの『再生医療』と呼ばれる領域が注目されています。

『NHKスペシャル 人体』シリーズを観て、人間の身体は、骨を含む各種の臓器が発する『エクソソーム』と呼ばれる『メッセージ物質』を内包する微小カプセルを介して情報伝達が行われる、大規模で複雑な『情報ネットワーク』で支えられていることを知りました。

『循環系』『神経系』のネットワークは、従来も分かっていましたが、全ての臓器が参加する『情報ネットワーク』はまさしく驚きです。

骨が『筋力強化』『記憶力強化』『精力強化』などに関わる『メッセージ物質』を発信しているなどとは夢にも思いませんでした。

『エクソソーム』や『メッセージ物質』の役割を解明すれば、その情報を利用して、『自己治癒能力』を活性化させる医療が今後の主流になるのではないでしょうか。

『ガン』や『循環器系疾患』も、その対象になりますから、これは医療の革命とも言える話です。

ただし、楽観視ばかりは禁物です。人体の『情報ネットワーク』は、数十億年かけて『生物進化』でもたらされた『バランス』で支えられているはずですから、これに人工的な手を加えることは、どのような副作用を起こすか予測が難しいからです。

副作用なしに『難病』が治癒、克服できるということならば、夢のような話です。

これは医療だけの話ではなく、『物質世界(自然界)』が形成している『バランス』に人工的な手を加える時の『危惧』と共通です。

自然の現状『バランス』に『神』が関与しているとしたら、現代科学はまさしく『神の領域』へ踏み込みつつあると言えます。

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2018年7月22日 (日)

感染症対策(2)

『感染症』の犯人が『ウィルス』や『病原菌』であることが、科学的(医学的)に明らかになったのは、近世以降のことです。

人類の歴史の大半は、『疫病の流行』は『得体のしれない恐怖』であったことになります。

科学知識がなくても、実体験から『病気が伝染する』ことは分かりますから、病人を隔離するなどの処置はとられました。

経験的に伝承されている知恵や知識として、『薬』や『療法』があったとは思いますが、現在の科学から観れば『怪しげな内容』であったに違いありません。

結局、『疫病』は、『加持祈祷』に頼るしかありませんでした。『天皇』から『権力者』まで、国を挙げて『加持祈祷』にのめり込むという姿は、現代人には滑稽に見えますが、当時の人達にとってそれがどれだけ切実なものであったかは想像に難くありません。

私たちは、歴史を観るときに、このように当時の人達の『精神世界』のレベルを考慮に入れるべきです。

2500年前のインドの人達、2000年前のユダヤの人達が、どのような『価値観』や『常識』をもっていたのかを考慮しなければ、『釈迦』や『キリスト』の言動の本質は理解できないはずです。現代人の『常識』で、『聖書』の全ては読み解けないのではないでしょうか。

科学知識がない時代の人達は、『疫病』は、『悪霊の祟り』が原因と推察していました。そういう因果関係の説明が、もっとも説得力をもっていたからでしょう。

『空海』や『最澄』が、『桓武天皇』に登用されたのも、『国家安寧』を『加持祈祷』する能力に秀でていると信頼されたからです。

『空海』や『最澄』が、いかがわしいペテン師であったということではなく、本人たちも仏教の奥義を極めて、自分たちは、仏の力を借りて『国家安寧』に寄与できる能力があると信じていたに違いありません。

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2018年7月21日 (土)

感染症対策(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の64番目のタイトルは『What - me worry ?(何を危惧するかですって?)』で著者は遺伝子科学の研究者である『J.Craig Venter』です。

このエッセイの内容は、感染症対策として、『ワクチン接種』の重要性を述べているものですので、ブログのタイトルは『感染症対策』と意訳しました。

著者は、『科学者として、楽観主義者として、無神論者として、そして一人の男として、私は特に危惧することはありません』と最初に自分を紹介しています。

西欧の社会で、『自分は無神論者である』と述べることは、勇気がいることですから、この著者の性格がその点からも読み取れます。

しかし、そのような著者でも、『感染症対策としてワクチン接種に応じない人達がいる』ことは大変心配であるというのがこのエッセイの論旨です。

このことの背景に、アメリカでは、『ワクチン接種で子供が自閉症になる』という噂を信ずる両親が、『ワクチン接種』を忌避するケースが多いという状況があるようです。

勿論『ワクチン接種』と『自閉症』は、関連がないことが科学的に立証されていますが、一度広まった噂の影響は甚大であるということなのでしょう。

日本でも、このようなことが起きているという話はあまり聞いたことがありません。

文明国の『死』では、『心臓病』『ガン』に次いで『感染症』が3番目の『死』の原因になっています。

これは、『ワクチン』や『抗生物質』などの医療技術が普及しているためで、人類の歴史を考えれば、なんといっても恐ろしいのは『感染症』であったことは明白です。

『心臓病』や『ガン』は感染しませんが、『感染症』は文字通り感染して、周囲の人も死へ追いやるからです。

中世のヨーロッパでは、『ペスト(黒死病)』で人口の1/3が亡くなったとことや、近世でも1918年に、インフルエンザの流行で世界の3%の人が亡くなったと伝えられています。

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2018年7月20日 (金)

想像に潜む魅惑的な危険(4)

このエッセイの最後に著者は、『「想像」を過大視することは、心の弱さゆえに厳しい現実の世界から目をそらすことになりかねない』という主旨の表現をしています。

『現実から逃げない強い人間になりなさい』というお説教のようで、このようにまともに言われてしまうとへそ曲がりな梅爺は、『お言葉ですが』と言いたくなります。

『科学』の場合の『現実』は、『真偽』の判定が可能なことから『真実』と言いかえることができます。ですから『現実から目をそらすこと』は、真理の追究に反することになりますから、『現実から逃げるな』は妥当な主張になります。

一方、人間や人間社会が関与する『現実』には、個性的な『精神世界』の価値観が絡みますから、多くの場合『現実』は『真偽』の判定の対象にはなりません。

『現実』が『正しいかどうかは判定できない』ということですから、『現実から逃げない強い人間になりなさい』と言われても対応に窮します。

『頑張ってオリンピックで金メダルをとる』という『現実』もあれば、『自分は才能不足と判断してあきらめる』という『現実』もあります。どちらもが『強い人間』の対応なのかなどといったことは判断できません。

周囲の状況(現実)に、肯定的に対応するか、否定的に対応するかも、その人の『精神世界』の価値観が関与します。つまり、対応は個性的になります。

上記の例では、『自分の才能を高く評価する』ことも、逆に『限界ありと評価する』ことも、その人の『価値観』による『現実の直視』になります。

このように『科学』の場合とは異なり、日常生活では『現実の直視』は異なった行動結果を招来します。

『高い目標を掲げ続けて達成した人だけが強い人間』などと、単純なお説教をしてもらいたくないと反論したくなります。

人間は、自分にとって好ましいと思えない状況を感ずると、好ましい状況を『想像』することで、『安泰』や『心の安らぎ』を得ようとします。

いわば、『気実から逃れるために想像している』ことになりますから、『現実から逃げるな』などと言われても困ります。

『想像する』ことは、私たちにとって『呼吸をする』のと同等に、生きていくために欠かせない行為です。

私たちにとって重要なことは、『夢』か『現(うつつ)』かを、常に理性で混同しないようにすることではないでしょうか。

しかし、昨日も書いたように、『夢』と『現(うつつ)』を混同しない、『楽観』と『悲観』のバランスを程よくとるということは、やさしいことではありません。

これは高度な『精神世界』を獲得した人間と云う生物の宿命かもしれません。

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2018年7月19日 (木)

想像に潜む魅惑的な危険(3)

『想像』の内容は、以下のように区分できます。 

(1)『因果関係』や『因果関係』の連鎖の妥当性を論理的にチェックしながら、主として『理』をベースに『虚構』を構築したもの。
(2)『因果関係』や『因果関係』の連鎖の妥当性にはこだわらず、主として『情(願いや期待など)』をベースに『虚構』を構築したもの。
 

『理論物理学』の『仮説』などは典型的な(1)の例となります。一方『おとぎ話』などは(2)の典型例です。 

実際には、(1)と(2)の中間の『想像(虚構)』が大半かもしれません。

昨日も書いたように、『安泰を希求する本能』が私達の『精神世界』を支配しているとすれば、自分にとって都合のよい『状態』を、『想像する』『夢見る(期待する)』『予測する』のは『安泰』を判断する時の基本行為になります。

当然対(つい)の行為として『安泰を脅かすもの』を『想像する』『危惧する』も行われます。

『安泰である』『安泰ではない』と『脳』が認識した時に、対応するホルモンが分泌され、その情報は神経系、循環系(血流)を介して、全身に届けられます。『想像』は『精神世界』の事象ですが、結果的に『物質世界』に属する私達の身体に影響を及ぼすことになります。

『積極的になる』『爽快になる』『快活になる』などのポジティブな反応だけではなく、『鬱になる』『食欲がなくなる』『不眠症になる』などのネガティブな反応にも襲われます。

『想像』は判断に関わる重要な役割を負っていると同時に、心身の活動にも影響を与えるものであることが分かります。

このエッセイの著者は、『理論物理学』の分野の『仮説(想像)』に潜む『魅惑的な危険(本当はまだはっきりしていないことを、あたかも本当であるかのように表現する)』を問題にしていて、それはそれで問題ではありますが、梅爺はそれほど気になりません。なぜならば、この分野の『仮説』を論ずるときには、『情』は一切関与しないからです。『情』が関与しないというのが『科学』の議論の特徴です。したがって『正しいと信ずる』などという主張は無意味です。

梅爺が気になるのは、私たちが日常駆使している『想像』に潜む『魅惑的な危険』です。なぜならば、その場合の『想像』には、必ずと言ってよいほど『情』が絡んでいるからです。

『願い』や『期待』が込められている『想像』を、現実のものとしようと努力することは人間らしい行為の一つです。自分の力では実現できないことは、神仏の力で実現してほしいと『祈り』ます。反面、自分にとって不都合なことを『想像』した場合『他人を誹謗する』『復讐をする』などのネガティブな行為に走る原因にもなり得ます。

『想像』と『現実』を混同してしまいがちな、云いかえれば『夢』と『現(うつつ)』の境界がはっきりしなくなりがちな人間の習性が気になります。

『夢を抱かないと生きていけない』一方『現実を直視しないと生きていけない』という人間が抱える『矛盾』への普遍的な対応方法は存在しないのではないでしょうか。これは『楽観』と『悲観』のバランスの問題でもあります。

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2018年7月18日 (水)

想像に潜む魅惑的な危険(2)

このエッセイの著者は、『白黒がはっきりしていないことを、はっきりしていると誤解させる表現は控えろ』と言っていることになり、それ自体は『ごもっとも』なのですが、私達の日常生活や社会生活のこととして考えると、この種の『白黒がはっきりしていないことを、はっきりしていると誤解させる表現主張』が周囲に横行していることに気付きます。 

日常生活や社会生活に絡む事象には、人間の『精神世界』の価値観が関与しており、その価値観は『個性的』で多様ですから、普遍的な『真偽』を決することができません。 

『政治、外交政策』『経済政策』はもとより、『倫理・道徳』『法律』『イデオロギー』『宗教の教義』も人間の『精神世界』の価値観が関与していますから、厳密にいえば『真偽』を決することはできません。論理的に『絶対に正しい』とは言えないということになります。 

しかし、『分からないから前へ進めない』では、生活は成り立ちません。そこで私たちは、『信ずる』『期待する』『約束事として受け容れる』などという行為で、『分かったことにして前へ進む』ことになります。『正しい結果、都合がよい結果をもたらすであろうという前提』で行動することにほかなりません。

ここで、このエッセイが問題にしている人間の『想像(する行為)』の本質を考えてみたいと思います。

『想像』は、人間の『精神世界』固有の行為、事象です。人間が存在しない世界では『想像』は存在しません。

『精神世界』を支配する大きな要因の一つが『安泰を希求する本能』であろうと梅爺は考えています。常に『何が自分にとって都合がよいことか悪いことか』を意識的、または無意識に認識して、『都合のよいこと』を優先して選択しようとする欲望(本能)が働いているということになります。人間の本質は『利己的』であることを、直視する必要があります。

従って『想像』も、この本能が引き金になっていると推測できます。

自分にとって都合のよいことを推測、想像した時には『愉快』『安泰』を感じますが、逆に都合の悪いことを推測、想像した時には『不快』『危険』を感じ、多くの場合その『不快』『危険』を回避しようとする行動に出ます。この行動が、生物としての人間の生き残り確率を高めてきたとも言えます。

『想像』は『精神世界』の事象で、『精神世界』の事象の特徴は、『物質世界』の事象のように『摂理』に拘束されることがないことです。つまり自由奔放に、『虚構』を創りだせるということです。『物質世界』では、桃から人間の子供は生まれることはありませんが、『精神世界』は『虚構』として『桃太郎』は存在できます。

何かを議論する時に、それが『物質世界』の事象なのか、それとも『精神世界』が関与する事象なのかを先ず区別すべきです。そうすれば『精神世界』が関与する事象には、『絶対正しい』などと言えるものが存在しないことに気づくはずです。私たちにできることは『私は支持する(賛成する)』『私は支持しない(反対する)』『私はどちらとも決めかねる(分からない)』のいずれかを選択することです。

人間の『精神世界』は個性的ですから、価値観、判断基準は同じではありません。違いを認識したうえでどのように振る舞うかは、その人の『理性』の問題になります。

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2018年7月17日 (火)

想像に潜む魅惑的な危険(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の63番目のタイトルは『The Dangerous Fascination of Imagination(想像に潜む魅惑的な危険)』で、著者はフランスの理論物理学者『Carlo Rovelli』です。

『理論物理学』に関する科学ジャーナルの分野で、最近もてはやされている『マルチバース説(宇宙は複数存在するという説)』『多次元空間説(量子の世界は10次元の空間であるなどという説)』『未知の素粒子存在説』などは、『想像』に対する少々過剰反応ではないかという意見が述べられています。

著者は勿論『洞察に満ちた考え方を提示する人』や『誰も思いつかないようなことを指摘する人』を賞賛することはやぶさかではないと釘をさした上で、上記のような『もてはやしの風潮』は何となく『危険』と感ずるという主張です。

未だ『真偽』が確定していない『仮説』を、あたかも『真』であるようにもてはやすのは『危険』であるという主張なら、梅爺も理解できないわけではありません。

『仮説』をもてはやすだけでは、『科学』は『哲学』と同類になってしまうというようなニュアンスの主張が書いてあり、これだけ読むと『哲学』は『科学』より程度が劣ると言っているようにも聞こえますから、もう少し丁寧な表現であってほしいと感じました。

梅爺流に、『科学』と『哲学』の違いを述べれば以下のようになります。

『理論物理学』の世界は『哲学』に似ています。論理的な推論をベースに『仮説』が提示され、その後多くの人がその『仮説』に接して、『科学』の場合は実験、観測で検証され矛盾が見いだせなければ、その説は受け容れられ、『哲学』の場合は論理的、情感的に共感を得た人が、受け容れることになります。

ただし『科学』と『哲学』では、思考対象が異なることがあることを認識する必要があります。『科学』は『物質世界』の事象の因果関係を解明することが対象になりますが、『哲学』では、更に『精神世界』の事象(形而上的事象)の因果関係を解明することも対象となります。たとえば『自我とは何か』といったことが思考対象になったりします。

『物質世界』の事象は、普遍的な評価尺度で、『真偽』を決めることができますが、『精神世界』の形而上的な事象には、普遍的な評価尺度は存在しません。従って、『哲学』の『仮説』は、『科学』の『仮説』のように、『定説』や『公理』に変わることが原則としてありません。あくまでも『カントの考え方』『ニーチェの考え方』として後の世に残ることになります。受け容れる人の『精神世界』を啓蒙し、個人的な共感を呼び起こすかどうかに価値があります。

その意味で『哲学』は『芸術』にも似ています。『バッハの音楽』『モーツァルトの音楽』『ベートーベンの音楽』として後の世に残りますが、どの『音楽』が『正しい』かなどといった検証の対象にはなりません。云い方を変えると『哲学』の主張や、『作曲家の残した作品』は、どれも『間違いとは言えない』ということになります。

基本的に最後まで『真偽』が決まらない『哲学』の議論と、いつか『真偽』の決着がつく『科学』の議論を混同するなという主張ならば分かります。

このエッセイの著者は、『科学』の『仮説』は、文字通り『真偽』がまだ定まっていないものなので、『謙虚な提示』であるべきで、あたかもこれは『正しいぞ』と言わんばかりの『派手な提示』は控えるべきであると言いたいのでしょう。

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2018年7月16日 (月)

『侏儒の言葉』考・・幻滅した芸術家(4)

人間は『慈悲と無慈悲』『良心と邪心』という、相反するものを『精神世界』の中に持ち合わせているという基本認識がないと、『創造者』は『鑑賞者』の『共感』を醸し出す『作品』は創れないのではないでしょうか。

人間がそのような存在であるのは、『罪深い』からではなく、『生物』として進化の過程で獲得してきた基本的な習性を持ち合わせているからです。

何度も紹介してきた『安泰を希求する本能』が、支配的であるからです。時と場合によって、『安泰』のために『慈悲』か『無慈悲』かのどちらかを、『良心』か『邪心』かのどちらかを選択しているにすぎません。

『キリスト』は、『罪を悔い改めて、愛に行きなさい』、『釈迦』は、『できるだけ邪心を排除して仏心に近づきなさい』と説いています。

生きるために最終的に好ましい『価値観』が、『愛』や『仏心』であるという教えですが、あくまでも目指す『理想』であって、それを『現実』と取り違えるとおかしな話になります。

現実に自分の中にある『無慈悲』や『邪心』と、どのように付き合いながら生きていくかは、自分の『理性』で判断しなければなりません。

従って『愛や良心を信じない芸術家』などという表現は、梅爺には洞察の浅い表現に思えます。

自分が望むように他人が『愛』や『良心』を表現するとは限りません。

大体『愛』や『良心』は、『抽象概念』ですから、普遍的な定義も存在しません。

そのような状況で『愛を信じない』『良心を信じない』などと云ってみても始まりません。

世の中には、自分の価値観で観ると『幻滅』したくなることが確かにありますが、一方『感動』を覚えることも沢山あります。『幻滅』だけでしか世の中を観ない人は不幸な人です。

『芥川龍之介』のこの一文は、梅爺にとってはあまり啓発的ではありませんでした。

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2018年7月15日 (日)

『侏儒の言葉』考・・幻滅した芸術家(3)

『幻滅した芸術家』という言葉から、梅爺は19世紀末にフランス中心に出現した文芸の風潮『デカタンス』を想起します。

『虚無的』『耽美的』『厭世的』『頽廃的(たいはいてき)』なイメージで、『芸術』の表現様式に、そのようなものがあってもよいと思いますが、それこそが(それだけが)『芸術』の本質であるという主張には合意できません。

世の中に馴染めない性格の人が、『芸術』の世界に引きこもり、自分の『精神世界』を表現した『金色の夢』に耽(ふけ)るのが『芸術家』であるという主張にも合意しかねます。

人間の『精神世界』は、比喩的に言えば『宇宙』のように広大で、しかも個性的ですから、沢山の『不思議』や『驚き』を内包しています。

その『不思議』や『驚き』を、ある種の表現様式で、あぶりだして見せるのが『芸術』の本質で、基本的には『創造者(芸術家)』と『鑑賞者』があって成立します。『創造者』と『鑑賞者』は、『共感』という『絆』で結ばれますが、『共感』の中身は個性的で同じものとは言えません。

『作品』という媒体が、『鑑賞者』の『精神世界』を刺激し、『鑑賞者』なりの『不思議』や『驚き』を体感する、それが『芸術』の大きな特徴です。この現象は『ケミストリー(化学反応)』と表現されます。

『物質世界』の化学反応は、因果関係が一義的に特定できますが、『精神世界』の『ケミストリー』は、何が何を誘発するのかは特定できません。

同じ『モーツァルト』の音楽を聴いて、誰もが同じように『感じて』いるわけではありません。

『創造者(芸術家)』と『鑑賞者』が同一の人物、つまり『他人』の『鑑賞者』が存在しないケースも『芸術』と呼ぶことに梅爺は懐疑的です。

『鑑賞者』は、世の中の人達であるとすれば、『芸術』はそもそも世の中とはかけ離れたものではあり得ません。

『鑑賞者』に化学反応を起こさない、『創造者』の独りよがりな『作品』は、後世に残ることはありません。

ただ『鑑賞者』の感受性や価値観は、時代とともに変化しますから、当初受け容れられなかった『作品』が、時代を経て『名作』に変貌することはよくあることです。『ゴッホ』の絵画などが典型例です。

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2018年7月14日 (土)

『侏儒の言葉』考・・幻滅した芸術家(2)

『愛』や『良心』といった抽象概念を、何故人類は考え出し、共有してきたのでしょうか。

『愛』や『良心』は、『利他的』な行為に関連して使われます。

本来生物は人間も含め、本質的には『利己的』であるように思えます。『生き残りのために自分に都合のよい選択をする』という本能を継承しているからでしょう。

しかし、『群』で生きることを選んだ生物は、『群』の都合を自分の都合より優先するという、『利他的』な行動も一部加えるようになりました。

『母性愛』などがその典型ですが、本質的には『利己的』でありながら、特定の場合には『利他的』でもあるという存在になったということです。

『個』の生き残りのためには『利己的』であり、『種』の存続のためには『利他的』であるということでみれば、ある意味で『安泰を希求する』という点では同じです。

高度な『精神世界』を保有するようになった人類は、『利己的』であることと『利他的』であることを、どのように共存させるかといった大きな問題を抱えるようになりました。

しかし、どのようなバランスが普遍的に正しいのかといった答は見出していません。多分将来も見つけられないでしょう。

そこで、私たちは、約束事として『道徳』『倫理』『法』『イデオロギー(民主主義など)』『宗教の教義』などを考え出し、そのコミュニティの歴史や事情で共有継承してきました。

『愛』や『良心』といった抽象概念は、これらの約束事を補佐するものとして考え出されたものです。

人間の『利己的』な側面ばかりを観て、『愛や良心を信じない』などというのはおかしな話です。『利己的』だけに陥らないように、時に『愛』や『良心』を必要とするだけで、逆に『愛』や『良心』だけでは、生きていけない厳しい現実も認めざるをえません。『清く正しく美しく』と叫べば、人間はそうなれるほど単純な生物ではありません。

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2018年7月13日 (金)

『侏儒の言葉』考・・幻滅した芸術家(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』の中にある『幻滅した芸術家』に関する感想です。

比較的短い内容なので、先ず全文を紹介します。

或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かもしれない。しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽(たちま)ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣(わけ)ではない。

『芥川龍之介』自身は、『或一群の芸術家』に属するのかどうかで、この一文の解釈が変わってきます。

属するのであれば、『自嘲気味な告白』になり、属さないならば、『自分は違うぞ』と言っていることになります。どうも前者のような気がします。

この世で『百般の人事(色々な人間関係)』を体験すれば、勿論幻滅することもありますが、逆に『なんと人間は面白く、愛おしい存在なのだろう』『生きることはなんと素晴らしいことなのだろう』と感ずることもあります。

それが、多くの人の実感であり、『幻滅』だけしか残らないというのは、少し病的ではないでしょうか。

人間関係に疲れた人が、自分の『精神世界』で、自分に都合のよい『虚構』を思い描き、それを『金色の夢』と感じて、心の安らぎとするというのは、別に芸術家に限った話ではなく、程度の差はあれ誰にでもある話です。

『現実』から『虚構』に逃げ込みたくなるのは、『安泰を希求する本能』のなせるわざで、『精神世界』を保有する人間には、避けられないことです。

『芥川龍之介』が、『人間は個性的である』という事実の重要さをどれほど理解していたのかは分かりませんが、この一文を読む限り、それは感じられません。

他人が『自分と同じように考えていない』『自分と同じように感じていない』ことを知った時には、確かに戸惑い、『面白くない』と感じたりしますが、人間は『個性的』であることを認めれば、それはいかんともしがたいことであると気づきます。

冷静に考えれば、『違い』は『お互い様』で、他人も同じように戸惑い、『面白くない』と感じているに違いないからです。

ここで云う『他人』は、『親』『兄弟』『配偶者』『親友』も含みます。厳密には『自分』以外はすべて『他人』です。

『愛』や『良心』を信じないという人にとって、『愛』『良心』とは何なのかが、梅爺にはよく分かりません。

『他人』の中に、それを見いだせなかったとして幻滅しているのか、『自分』の中にも見いだせないといっているのかも分かりません。

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2018年7月12日 (木)

一つの宇宙(2)

私たちが属している『宇宙』の他にも、無数の『宇宙』が存在する可能性があるといっても、私たちが属している『宇宙』と同じような『宇宙』であるとは限りません。

科学者は、時空の概念さえ全く異なった『宇宙』を想定しています。

他の『宇宙』では、『銀河系』『恒星』『惑星』などが出現するとは限りませんので、その場合には『生物』の存在は期待できません。

無数の『宇宙』が存在する場合には、それら全てを支配している『絶対的な摂理』が存在するに違いないという推測になります。

私達が、私達の『宇宙』で見つけた『摂理』は、『絶対的な摂理』にある条件が働いて偶然成り立っている、つまり『絶対的な摂理』の一つの側面にすぎないかもしれないと科学者の一部は考えています。

条件が異なれば、異なった様相を呈する他の『宇宙』になるという推測です。

私達の『宇宙』は、現時点でも『膨張を続けている』ことが、天体観測から分かっています。しかし、その『膨張』のメカニズムは、未だ分かっていません。

私たちが真空であると思ってきた『宇宙』空間には、『宇宙』の『膨張(引き離す力)』『収縮(引き寄せる力)』に関与するある種の『エネルギー』が存在しているのであろうという推測できますが。この『エネルギー』は現時点で私達の観測技術では確認できません。

この謎の『膨張』に関与する『エネルギー』は、『真空のエネルギー』『ダーク・エネルギー』などと呼ばれて、『収縮』に関与するものは『ダーク・マター』と呼ばれています。名前だけがついていて正体は分かっていません。

『ダーク・マター』は、観測技術では捉えれないにもかかわらず、『質量』を保有し、それゆえに他の物体を引き寄せる『重力』源となっていると考えられます。

『何故膨張を続けているのか』は分かっていませんが、『膨張を続けている』という事実は、観測で分かっているというのが現状です。

この事実を『アインシュタイン』の『重力場方程式』で表現しようとすると、ある種の『定数(ていすう)』を方程式に組み入れるこの必要があります。

この『定数』こそが、私達の『宇宙』だけに偶然適用された条件ではないかと考える科学者がいます。つまり『定数』が異なれば、異なった様相を呈する『宇宙』になってしまうという話です。

『宇宙は無数に存在する』という仮説もさることながら、『私達の宇宙は膨張の末に将来どうなるのか』も興味の対象になります。

『太陽の終末(地球の終末)』や『宇宙の終末』は、理で推測する限り、いつかは必ず起こる事象です。

人間の時間感覚では、それは遠い遠い先の話なので、今はうろたえる必要がないと言うだけの話です。

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2018年7月11日 (水)

一つの宇宙(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の62番目のタイトルは『One Universe(一つの宇宙)』で、著者はアリゾナ州立大学の宇宙物理学者『Lawrence M. Krause』です。

ご想像通り、このエッセイは『宇宙がもし一つではないとしたら』科学者はどうすればよいのだろうという内容です。

『宇宙は無数に存在するかもしれない』と言われても、私達凡人は、『へー、そうなの』と少し驚く程度でおしまいになります。そのことで、私達の生活環境が、脅かされることにはなりそうもないと判断するからです。

それよりも『お隣の○○さん、新車を買ったんだって』と聞かされた時の方が、『へー。そうなの』と同じ相槌をうちながらも、我が家の使い古した車を思い浮かべて、対抗心や嫉妬心やらで、穏やかならぬ気持になるに違いありません。

しかし、科学者にとっては、『基本的、絶対的な摂理』と考えていたことが、必ずしも基本的、絶対的ではないかもしれないということになれば、全てを土台から考え直さなければならないことになり、心穏やかでは済まされないのであろうと容易に想像できます。

私たちは、138億年前に『ビッグ・バン』で、『宇宙』が出現し、その『宇宙』に約2兆個(最近のNASAの推計)存在すると言われている『銀河系』の中の、ありふれた銀河系の一つ『天の川銀河』のやや辺境に存在する『太陽系』の惑星の一つ『地球』に住んでいることを、科学知識として知っています。『太陽』は『天の川銀河系』の中に存在する1000億個の『恒星』の一つに過ぎません。

最初にこのことを聞かされたときは、『なんと自分はちっぽけな存在なのだろう』と思い知りましたが、それでもやはり『へー・そうなの』で済ませました。生活基盤が脅かされるとは感じず、新しい知識が増えたにすぎないと受け止めたからです。

しかし、人類の歴史の中で、上記の科学知識を『常識』として知っているのは、少なくとも20世紀以降の人間だけです。それより昔の人達のことを考える時は、『知らずに生きていた(知らなくても生きていけた)』ということを認識しなければなりません。『神が天地を創造した』という推測も、その当時の人達の『宇宙観』『世界観』でなされたことを知る必要があります。

このエッセイの著者は、私達の『宇宙』を支配している『摂理』が、絶対的なものではなく、偶然私達の『宇宙』だけに適用されるものとして定まったものかもしれないという考え方に遭遇して、戸惑っています。

現時点で他の『宇宙』の他の『摂理』の存在を検証する方法がありませんから、『科学』としては検証できないことをただ『推測』するにとどまることになり、それでは検証を必須の条件とする『科学』の原則から外れてしまうという矛盾に遭遇するからです。

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2018年7月10日 (火)

夏目漱石『虞美人草』(6)

『吾輩は猫である』もそうですが、『夏目漱石』の小説には、『詩人』『哲学者』や『教師』といった、切った張ったの世の中からは縁遠い人物が登場します。

読者の大半は、切った張ったの世界で生きている人達ですから、『夏目漱石』の小説は、浮世離れした『別世界』を覗き込むような感を受けます。『別世界』は人間の好奇心を喚起します。『旅』に惹かれるのもそのためです。

『夏目漱石』自身も、自分が切った張ったの世界から縁遠い人物であることを弁えていて、読者に虚構の『別世界』を提供しているとも言えるでしょう。

『虞美人草』にも、『小野さん(詩人)』『甲野欽吾(哲学者)』『井上狐堂(教師)』が登場します。『宗近一(外交官志望)』が、唯一切った張ったの世界に近い人物です。

『夏目漱石』は男ですから、男の登場人物は見事に表現されていて、梅爺も自分の中にある男の習性と照らし合わせながら、つい苦笑してしまったりします。

一方女性の登場人物は、女心を知り尽くして描いているというよりは、男の視点で『こうであろう』『こうあって欲しい』と思う女性像が表現されているように感じます。これは梅爺の主観ですので間違っているかもしれません。

女性の読者にはどのように見えるのか、是非知りたいとも思います。

『虞美人草』では、『甲野藤尾(虚栄心の強い女)』『藤尾の母親(世間体が気になる女)』『井上小夜子(父親の意に従順に従う女)』と分かりやすい『ステレオタイプ』な表現になっています。唯一『宗近糸子(宗近一の妹)』が、他人の価値観にも理解を示す柔軟な女性として描かれています。作者としては『宗近糸子』がお気に入りなのでしょう。

明治時代の世相や風潮も理解しないといけないとは思いますが、人間は一般に多面的で、男も女も『ステレオタイプ』に区分けすることは困難です。『理屈っぽいのに情にもろい』『優しくもあり、厳しくもある』というのが普通です。

人間の多面性を主題にする小説もあれば、『虞美人草』のように『ステレオタイプ』に区分けすることで、人間の本質を描く小説もあります。

小説は『虚構(フィクション)』ですから、そのような手法も許され、読者もその方が理解しやすくなります。

とにかく、『虞美人草』は『夏目漱石』の該博な語彙、表現力に圧倒される小説です。

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2018年7月 9日 (月)

夏目漱石『虞美人草』(5)

『夏目漱石』はこの小説で何を云いたかったのでしょう。

『宗近一』のように、『人生の重要な場面では真面目に振る舞え』という考え方が『賢く』、『甲野藤尾』のように『プライド』や、『藤尾』の母のように『世間体(せけんてい)』を優先する考え方は『愚か』であると単純に云いたかったとは思えません。

『夏目漱石』ほどの洞察力を持ってすれば、人間の『精神世界』は個性的であり、普遍的な価値観で、何が『賢く』、何が『愚か』などと単純に論ずることは到底できないと認識していたはずです。

『人生の重要な場面では真面目に振る舞え』という主張は、耳に心地よく『そのとおり』と受け入れたくなりますが、よく考えてみると、これはある意味で利己的に振る舞うことを許容しているようにも見えます。『ホンネ』に従えということにもなるからです。

従って『真面目に振る舞う』ことは、他人を傷つけることにもなりかねません。

『小野さん』が、『井上狐堂』先生に、直接『小夜子との結婚は断る』と言えなかったのは、それが先生や『小夜子』の心を傷つけると逡巡したからです。確かに、『浅野さん』という第三者による伝言で伝えたのは、男らしくない行為ですが、傷つけるということには変わりがありません。

『真面目に振る舞えば』、自ら後悔する度合いは減り、相手からも『分かった』と云ってもらえる確率が高まるであろうと思いますが、『真面目に振る舞う』ことが、すべてことをうまく運ぶ結果になるとは限りません。

梅爺も個人的には『プライド』や『世間体』を、最重要視する価値観は『馬鹿らしい』と思いますが、『藤尾』のように、それを『命』より大切と思う人が存在することを認めざるをえません。『夏目漱石』も『藤尾』を否定せず、現実にそのような価値観の人間が存在することを示したかったのではないでしょうか。読者は自分の価値観を確かめることになります。

ただ人間は、幼少期、青年期を経て成人になる過程で、『自分の価値観を信ずる』ことと『自分の価値観を疑う』ことの間で揺れ動く経験を沢山するはずです。親や教師も、それが人間として当然のことであり、『信ずる』ことも『疑う』ことも双方重要なのだと教えることが重要なのではないでしょうか。

最終的には自分の『理性』で、『信ずる』『疑う』のどちらかを選択することになりますが、このことに関する訓練を重ねておけば、『命』より大切な『価値観』などと云うものは、そうそう存在しないと分かるはずです。

『価値観の違い』が存在することは認め、『自分はそうは思わないが、あなたがそう考えることは認める』と言えるようになれば、世の中の多くの諍(いさか)いなくなるはずです。

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2018年7月 8日 (日)

夏目漱石『虞美人草』(4)

『小野さん』は、大学に入る以前、京都で『井上狐堂』先生の家に下宿し、生活と学業継続の援助を受けました。実家が貧しかったのでしょう。

『井上狐堂』先生は、ゆくゆく娘の『小夜子』と、『小野さん』を結婚させたいと願い、『小野さん』も『小夜子』もそれを内々に了承していました。

『小野さん』が恩賜の銀時計を授かるほどの優秀な成績で大学を卒業し、これから社会的にも更に『箔をつける』ために、博士論文を執筆しようと考えています。

『小野さん』は、『甲野藤尾』に文学を講ずる為に家庭教師役として甲野家に出入りするようになり、『藤尾』の魅力に取りつかれて、将来は結婚したいと思うようになります。

『甲野藤尾』は、父親同士が知り合いであった『宗近一』の許嫁(いいなずけ)と両家は内々に考えていましたが、虚栄心の強い『藤尾』は、外交官試験に落第するような男より、秀才の『小野さん』を選び、『小野さん』の心を奪うように振る舞います。

そのような折に、『井上狐堂』先生は、娘の『小夜子』と『小野さん』を結婚させるために、京都から東京へ移住してきます。

『井上狐堂』先生の東京での生活の準備に『小野さん』は奔走し、先生は『小野さん』に娘『小夜子』との結婚をそれとなく迫ります。

京都時代の恩義には感謝している『小野さん』ですが、優柔不断で『甲野藤尾』とのことを云いだすことができず、友人の『浅野さん』に仲介役を頼んで、間接的に『小夜子』との結婚を断ろうとします。

『浅野さん』から間接的に断わりの話を聞いた『井上狐堂』先生は、何故『小野さん』自身で云いに来ないのかと激怒し、『小夜子』はただ泣き崩れます。

これらの事情を知った『宗近一』は、『小野さん』に『人生の重大な場面では真面目になれ』と説き、『小野さん』も『藤尾』に惑わされていたことに気付き、目覚めて『小夜子』との結婚を決意します。

更に、『宗近一』は、『藤尾』と『小野さん』『小夜子』を引き合わせ、『小野さん』も『小夜子』と結婚することを告げます。

『小野さん』は自分の虜と考えて疑わなかった『藤尾』は、プライドを傷つけられ服毒自殺してこの小説は終わります。

明治時代の日本の読者が、この小説をどのように受け容れたのかを知りたくなります。

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2018年7月 7日 (土)

夏目漱石『虞美人草』(3)

『探偵小説』や『推理小説』などの大衆小説で、実際の世の中では起こる確率の低い『偶然の出会い』が、謎解きの重要な要因として最後に提示されたりすると、読者は『おいおい、それはないだろう』と言いたくなります。 

もっとも、『アガサ・クリスティ』の探偵小説などは、もともと精緻なパズルのように構成されたプロットが、特徴ですから、逆に読者はその『虚構』を楽しみ、『現実離れしている』などと非難したりはしません。 

しかし、『松本清張』のように社会問題を扱う推理小説で、『現実には想定し難い偶然』が、謎解きの要因として登場したりすると、読者は小説のテーマのリアルさと謎解きの『無理な設定』の間のギャップに違和感を覚えます。 

『夏目漱石』の『虞美人草』では、『偶然の出会い』が頻出します。 

『夏目漱石』は、『小説』は世の中をリアルに写実するものではないというようなことを云っています。『小説』に限らず、『音楽』『絵画』といった芸術も、現実をリアルに描写することが必要条件ではありません。 

元々、『小説』は作者の『精神世界』が創出する『虚構(フィクション)』で、基本的にはどのような因果関係の提示も許されるのは当然です。 

ただその『小説』の目的が、世の中を忠実に描写することであれば、その中で利用される因果関係は、リアルなものでないと説得性を欠きます。 

『虞美人草』は人間の『心』を描写することを目的としていますので、描写を際立たせるためにプロットそのものに非現実的な『偶然』が使われてもよいということなのでしょう。 

この小説が朝日新聞に掲載されたのは、明治40年(1907年)のことで、その当時を知らない梅爺には、小説に登場する男女の振る舞いが、世相を反映したものなのかどうか判定できません。 

『甲野欽吾』は大学で哲学を専攻し、卒業後職につかずに、思考内容を日記に綴ることが日課程度の人物です。亡父が残した財産で、当面の生活には困らないということなのでしょうが、現代人の感覚では浮世離れした生活にみえます。世間体を極度に気にする母(父の後妻)と、虚栄心の強い異母妹『藤尾』との同居には少々辟易していて、相続権のある家、財産はすべて『藤尾』に譲って家を出たいなどと言いだして、母を困らせます。母にとっては、ホンネはありがたい話なのですが、夫の前妻の息子を『追い出した』と世間から『後ろ指をさされる』ことが耐え難いと言い張ります。『老後はあなたに面倒を見てもらいたい』などとこれも世間体を気にしてホンネではないことを口にします。

『宗近一(むねちかはじめ)』は『甲野欽吾』と大学の同期生で、卒業後外交官試験を受けて落第し、再挑戦のために浪人中の身の上です。『小野さん』のような秀才ではありませんが、豪放磊落(ごうほうらいらく)な気性で、人生で大切な場面では『真面目に振る舞うべき』と云う主張の持ち主です。『真面目』ということは、自分の心に正直に従うということで、『世間体』を優先したり、『優柔不断』であってはいけないという意味です。

『夏目漱石』が『宗近一』を、『好ましい人物』として描いていることは確かですが、この『真面目な振る舞い』が小説の最後で『藤尾』の自殺を招くことになります。

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2018年7月 6日 (金)

夏目漱石『虞美人草』(2)

3組の未婚男女のは勿論のこと、他の登場人物の『精神世界』の特徴が見事に描き分けられていますから、それらの登場人物の交わす『会話』が面白いのは当然ですが、地の文章の表現も多彩を極めます。

木々や草花、風景描写、登場人物の服装の描写、『精神世界』の描写に、該博な漢籍の語彙が駆使されます。

『虞美人草』を読んで、自分も小説家になりたいと思う人がいれば、よほど能天気な人ではないでしょうか。天才ピアニストの演奏を聴いて、自分も頑張ればこのようにピアノが弾けそうだと考える人が能天気であるのと同じ話です。

人間に対する深い洞察もさることながら、矛盾を抱えながら生きる人間への暖かい視線とそれをユーモアとして表現してしまう器量にひきこまれます。

器量のあまりの違いに圧倒され、梅爺はとても小説家にはなれないと思い知りました。

文章の全てが『詩的』であり『哲学的』です。『虞美人草』はそれほどの小説です。

主なる登場人物は以下です。

甲野欽吾(兄)、甲野藤尾(妹) ・・・ただし異母兄弟
宗近一(兄)、宗近糸子(妹)
小野さん
井上小夜子

この6人が、3組の未婚の男女です。

甲野藤尾の実母(甲野欽吾の義母)
井上狐堂(井上小夜子の父、小野さんの恩師)
浅井(小野さんの友人)

これらが、重要な役柄として登場します。

『虞美人草』の主人公は誰かは、読む人に依って異なると思いますが、一般的には、虚栄心の強い美貌の女性『甲野藤尾』として差し支えないでしょう。

『甲野藤尾』に文学を講義する目的で甲野家に出入りする『小野さん』は、恩賜の銀時計を授かるほどの優秀な成績で帝大を卒業し、博士論文をこれから書こうという『詩人』です。頭脳明晰で、服装も紳士然ですが、強く自分を主張できない優柔不断なところがあります。

『甲野藤尾』は、『小野さん』と『宗近一』を、結婚相手の候補として天秤にかけ、自分中心の虚栄心で、二人の気持ちを弄(もてあそ)びます。

『宗近一』は、大学の成績はそれほど良いわけではなく、外交官になるための試験にも落第中の人物ですが、豪放磊落(豪放磊落)で男らしい気性の持ち主です。父親同士の約束で、『甲野藤尾』の結婚相手とされていて、『甲野藤尾』を将来の結婚相手と考えています。

『夏目漱石』が、自分の価値観で好感を持って描いているのは、『宗近一』『宗近糸子』『甲野欽吾』で、世間的には誰もがうらやむような美貌の持ち主『甲野藤尾』、大秀才『小野さん』は、『人間の弱さ』を持つ人物として描いています。

しかし、『悪人』として全否定しているわけではありません。『人間の弱さ』にも暖かい視線を注いでいます。

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2018年7月 5日 (木)

夏目漱石『虞美人草』(1)

電子ブックリーダー『Kindle』で、『夏目漱石』の『虞美人草』を読みました。

1907年に朝日新聞に連載された小説で、『夏目漱石』にとっては、プロの小説家になって以降、最初の作品です。

新進小説家としての器量を問われる作品であると、不退転の覚悟で執筆にあたったに違いありません。漢籍や西欧文化に関する該博な知識が、惜しみなく注ぎ込まれていますから、難しい漢字の熟語がふんだんに登場します。

当時の日本人の庶民が、この文章を難なく読みこなし、理解できたのであれば、現代の日本人の国語に関する『語彙』は明らかに貧弱なものになってしまっています。

約100年で、日本人の知識の質と量は、大きく変わっていることを改めて認識させられます。

日常接している『情報』の量と質が、当時と今では圧倒的に異なっていますから、現代では電子機器の操作などの情報処理に能力を費やす半面、言語への対応能力が貧弱になったのでしょう。人間の『脳』の総合能力は、無限ではないことの証左のような気がします。

『パソコン』にも処理能力限界があるように、140億個の『脳神経細胞ネットワーク』で構成される人間の『脳』にも、限界があるのは当然です。『物質世界』に存在する『実態』は、すべて有限であるということでしょう。

梅爺は初めて『虞美人草』を読んだことになりますが、若いころではなく、この歳になって読んで良かったと感じています。

梅爺は、世の中の事象を、『物質世界』と『精神世界』に分けて観るという対応方法をブログを書いている過程で身につけました。

『虞美人草』では、3組の未婚の男女の『関係』が、小説の骨格になっています。一種の恋愛小説とも言えますが、現代の日本人が考える恋愛小説とは趣が異なります。『詩的』であり『哲学的』であると言えます。

3組の未婚の男女は、当然のこととして、それぞれ個性的な『精神世界』を保有しており、『感性』『価値観』が異なります。

その異なった『精神世界』が、当時の日本の世相の中で、どのように絡み合い、どのような結果を醸成していくのかが、この小説の醍醐味です。

勿論、時代とは無関係な普遍的な人間の習性も、見事に洞察されています。

『夏目漱石』は梅爺のように『精神世界』などという言葉は使いませんが、『精神世界』の本質を理解しながら読むと、この小説が如何に素晴らしいかが分かります。若いころの梅爺では、この面白さを感知できなかったでしょう。

『夏目漱石』の『人間』を観る眼の鋭さが分かり、『畏れ入りました』と言いたくなります。日本が生んだ大文豪という表現は過大ではありません。

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2018年7月 4日 (水)

量子力学(2)

多くの科学者が、『量子力学』を究極の理論として、それを用い『宇宙』の事象を含む、全ての物理的な事象を解明しようとしていますが、このエッセイの著者は『それはうまくいかないであろう』と述べています。

理由は、現在の『量子力学』が、『物質世界』の理解を深めるために、あまりにも性急に作り上げられた理論で、『究極の理論』とするには、不備が多すぎるという意見です。

梅爺は、この意見を批評する能力を持ち合わせていません。

このエッセイの著者は、『マルチバース』仮説も、受け入れがたいと述べています。

『マルチバース』仮説は、私たちが属する『宇宙』以外にも、他の『宇宙』がほぼ無数存在するという推測です。

私たちが観察できる事象や、認知できる歴史は、ごく一部のものであり、私たちが『知らない』事象や歴史は無限に近いほど他にあるという主張は、『信じられない』とこの著者は書いています。

『同意できない』という意味で『信じられない』と書くことは、誰にも許されますが、『科学』の『真偽』を扱う議論として、『信じられない』と主張することは、意味をなしません。

『マルチバース』の『真偽』は、現時点では証明できていませんので、『私はマルチバースは存在しないという説を支持する』と発言は許されますが、『マルチバース説は間違いである』と主張するために『信じられない』という表現は使うべきではありません。

『私はそれが正しいと信ずる』したがって『それは正しい』と言う論理は、『科学』では通用しません。しかし、私たちは日常、この論理を多用して、『自分が正しい』『あなたは間違っている』という主張しあっています。

『マルチバース』仮説に関しては、梅爺はこの著者と異なり、『可能性が高い』と考えています。しかし、それは梅爺の『精神世界』が下す価値判断に過ぎません。

『マクロな世界』と『ミクロな世界』は、本質的に地続きで、一元的に説明ができるに違いないと、これも『その可能性が高い』と考えています。

『マクロな世界』は『ミクロな世界』の特殊な一面に過ぎないのではないでしょうか。

やがて、『量子力学』という言葉は不要になり、『物理学』という体系の中で、全てが統合的に説明される時代が来るのではないでしょうか。

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2018年7月 3日 (火)

量子力学(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の61番目のタイトルは『Quantum Mechanics(量子力学)』で、著者は理論物理学者の『Lee Smolin』です。

同類の話題を、同じ場所にまとめた編集になっているために、『基礎科学』や今回の『量子力学』のような話題が続き、必ずしも十分な予備知識をもたない梅爺は、苦戦しながら読んでいます。

『量子力学』は、20世紀の前半に提唱された、新しい学問分野で、『素粒子』などのミクロな世界の事象を扱っています。

私たちが目で観察できる自然界の事象を説明するための『摂理(法則)』や『常識』が、『量子力学』の世界では必ずしも通用しないことが判明して、科学者でさえも最初は戸惑いました。

しかし、傍証実験にも見事に合格して、今では物理的な事象を理解するための基盤になっています。ただ『重力』だけは、対応する『素粒子』が確認できていないこともあり、完全な理解の対象にはなっていません。

『量子力学』の特徴の一つは、『物理量』が飛び飛びの値をとり、マクロな世界で私たちが体験できる連続的な中間値をとらないことです。

『素粒子』は、『粒子』でもあり『波』でもあるという二面性をもつ存在であるという説明も、理解を難しくします。

更に、もうひとつのマクロな世界の事象と大きく異なるのは、事象の因果関係が一義的に定義できないことで、確率的な予測しかできないという、いわゆる『不確定性原理』です。

『量子力学』によって、人類の『物質世界』に関する知識は大幅に増えたことは確かですが、このエッセイの著者は、本質的な理解に至っていないことを危惧しています。

たとえば、『量子力学』は、『原子』があるエネルギーレベルから、別のエネルギーレベルへ移行する時に、付随的に何が起こるかは予測しますが、移行が何故起きるのか、いつ起こるのかは予測できません。

『物質世界』に存在する『摂理』の一部を人類は発見し、その『摂理』がどのようなものであるかを数式で表現したり、説明はできても、『摂理』は何故存在するのかは、全く分かっていないことに似ているような気がしますので、この著者の危惧は『ごもっとも』とは感じますが、解明は極めて難しいであろうと凡人の梅爺でも想像できます。

この著者が求めていることは、『物質世界』を『マクロな世界(目で観察できる世界)』『ミクロな世界(量子力学の世界)』と分けるのではなく、『統合世界』として一元的に解明しようと云うことなのでしょう。

広大な『宇宙』の謎を探るためには、『ミクロな世界』の理解が必要であることは、『天体物理学』では常識になっていますから、この著者の願いもそこにあるのでしょう。

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2018年7月 2日 (月)

『侏儒の言葉』考・・古典(2)

人間は、他人から『誹謗される』『冷たくされる』『無視される』と、『精神世界』に強いストレスを感じます。『安泰を希求する本能』が、脅かされるからです。 

その原因が、相手との『価値観』の違いであり、『精神世界』が個性的である以上『価値観』に違いがあることは避けられないと『理性』では理解している人でも、咄嗟には『不快』と感じます。 

『精神世界』は、『理(理性)』より『情(情感)』が、最初に強く働くからです。 

人間は大人になる過程で、すこしづつ『理性』を養い、『理性』で『情感』を抑制することができるようになります。一瞬は『ムッ』としても、それを顔や態度に出さないようにしようとしたりします。 

勉強するということは、知識の量を増やすことだけが目的ではなく、知識を用いて自分で思考する、自分の価値観を確認することです。『理性』を養うというのはそういうことです。 

人間は個性的である以上、最後は『自分で考える』『自分の価値観を優先する』しかありません。 

芸術家も人間である以上、自分の作品に対する『批評』が気になるのは当然のことでしょう。『酷評』されれば不快と感ずるのは当然です。 

自分の『精神世界』を表現したいという欲望が、芸術家を制作に駆り立てます。その欲望の中に、自分の表現に対して『他人共感を得たい』という欲望も含まれているのではないでしょうか。『他人との絆を確認する』ことが、『安泰』を確認する重要な要因であるからです。『自己表現』『他人の共感を獲得』が『芸術』の本質で、その本質ゆえに人間は『芸術』を必要とします。 

『芥川龍之介』が、自分の作品に対する批評家の『酷評』を毛嫌いした気持ちは分かります。自分の『知性』に対して自負があり、批評家より自分のレベルが高いと、無意識に感じてしまうからなのでしょう。頭がよい人にありがちな反応です。 

しかし、『何故自分は酷評を嫌うのか』について、自分を見つめ、自分の狭量さを笑い飛ばすようなところがあってもよいのにと、梅爺は感じてしまいます。 

『芥川龍之介』がもしそのような人物であれば、最後は『自殺』するということにもならなかったかもしれません。『自分にこだわる』『自分を客観的に笑い飛ばす』という矛盾する対応を駆使しながら、私たちは生きています。 

何度もブログに書いてきたように、『精神世界』は実に厄介です。

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2018年7月 1日 (日)

『侏儒の言葉』考・・古典(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』の中にある『古典』に関する感想です。

非常に短い文章なので、以下に全文を掲載します。

古典の作者の幸福なる所以(ゆえん)は兎に角(とにかく)彼等の死んでいることである。

我々のーー或いは諸君の幸福なる所以(ゆえん)も兎に角(とにかく)彼等の死んでいることである。

『芥川龍之介』がこの一文で何を云いたいのかは想像するしかありませんが、多分、『作品』に対する批評家や一般の人達の『批評』、特に『酷評』についての意見なのではないでしょうか。

死んでしまった『古典』の作者は、後世の人の『お門違いな批評』や『悪意のこもった酷評』を、目にしたり耳にしたりすることがありませんから『幸福』であり、既に作者が死んでしまっている『古典』に対しては、私たちは『勝手気ままな批評』をしても、作者と論争や諍(いさか)いが起きませんので、私たちも『幸福』である、と言いたいのでしょう。

人は、他人から『酷評』されると、なかなか冷静には対応できないものです。梅爺も器の小さな人間なので、つい、ムッとして、顔にそれが出てしまったりします。

『芥川龍之介』も、自分の作品に対する批評家のネガティブな『批評』を、嫌っていたと言われていますので、この一文は、自分の心情を述べているのかもしれません。

『侏儒の言葉』の文章は、総じて『シニカル(冷笑的)』な印象を梅爺は受けます。

一方『夏目漱石』の文章は、『アイロニカル(皮肉的)』ではありますが、『諧謔的(ユーモア)』で、読者のあたたかい笑いを誘うように感じます。

『芥川龍之介』からは、西欧の教養人と似た印象を受けますが、『夏目漱石』からは、江戸時代から受け継がれている、日本人の『諧謔精神』を強く感じます。

双方、並はずれた『知性』の持ち主ですが、『芥川龍之介』の『知性』は、鋭利な錐(きり)のようであり、『夏目漱石』の『知性』は、茫洋(ぼうよう)とした海原のように感じます。

梅爺の好みでいえば、『夏目漱石』に軍配が上がります。

『芥川龍之介』が生前このような梅爺のブログを目にしたら、浅薄な人間が生意気なことを言っていると、きっと気を悪くしたに違いありません。

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