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2018年5月31日 (木)

進化論の五つの謎(10)

船木氏の提示する三つ目の『謎』は、『生物の大分類はどのように生じたのか』です。

古代ギリシャの『アリストテレス』なども『分類』を試みていますが、現在は、学術的に8段階で、一つの『生物』の属性が表現されます。『ヒト』を例にとると以下のようになります。

(ドメイン) 真核生物
(界)    動物界
(門)    脊椎動物門
(網)    哺乳網
(目)    サル目
(科)    ヒト科
(属)    ヒト属(ホモ)
(種)    ホモ・サピエンス

現在『地球』上に存在する『生物種』の数は、870万種程度の予測されていますが、その90%は『未発見』であるとも言われています。『生物種』ということになると、『動物』、『植物』、『菌類』以外に『古細菌』『真正細菌』などを含み、特に深海などは、未探査の環境領域ですから、このような数字になるのでしょう。

『進化論』では、全ての『生物』の先祖をたどれば、ある『生物(最初の生命体)』にたどり着くと説明されますが、現実には、この追求はほとんど不可能です。なぜならば、先ず『単細胞生物』が枝分かれして、異種が出現し、その異種間で、片方がもう一方の『単細胞生物』を呑みこんで、更に新種の『単細胞生物(厳密には細胞内に2種の生命体の要素が取り込まれた共生生物)』が出現したというようなプロセスは、たどって解明することが難しいからです。

一つの『先祖』にたどり着くという話は、あくまでも理論上の話と言うことになります。最初の『生命体』の出現は、『宇宙』の『ビッグバン』同様に、全てが解明できているわけではありません。『先祖』は『たったひとつ偶然出現した生命体』という想像はロマンティックでもありますが、そうでないかもしれません。

『何故これだけ多種類の生物に分かれたのか』という設問に、『目的』で答えることはできません。『物質世界』の事象には『目的』はないからです。

38~40億年かけた『生物進化』は、『物質世界』で次々に起きた『変容』です。勿論偶然の要因と『摂理』がこの『変容』を作りだしました。従って、再度やり直しても、同じ結果になるとは限りません。

『何故生物は多様に分かれたのか』の、『Why?』は問うても無意味ですが、『How?』は追求できるはずです。現時点では未だ分からないことが多いために、私達には『謎』に見えるだけです。

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2018年5月30日 (水)

進化論の五つの謎(9)

船木氏が『多細胞生物の出現』は『謎』と言いたくなる気持ちが、梅爺にはよくわかります。

『多細胞生物』は、単に『単細胞生物』が寄り集まって『群体』を形成したものではありません。『細胞』のひとつひとつに役割分担があり、それらが連携して全体として『個』が形成されるという見事な『システム』であると言えます。

『単細胞生物』の『細胞』のなかで行われている活動も、驚くべき内容であることが、最近の『細胞』の研究で判明していますが、『多細胞生物』は、その『細胞』をサブシステムとして、全体として更に驚くべき『システム』になっています。

元機械エンジニアであった梅爺は、このような『システム』は到底設計できないとただただ畏れ入るばかりです。

『単細胞生物』と『多細胞生物』の間には、あまりにも大きな飛躍があり、それはマジックのようにも思えますので『謎』と言いたくなる気持ちは分かります。

『原生代後期』に最初の『多細胞生物』が出現したらしいことは、『化石』などから分かっていますが、『動物』『植物』『菌類』が、同じプロセスで『単細胞』から『多細胞』へ進化したのか、別々のプロセスであったのかもよく分かっていないことの一つです。

『原生代後期』は何回かの氷河期を繰り返し経験した時期で、この後『地球』は温暖化へ向かい『カンブリア紀(5億4200万年~4億8830万年前)』になって、『カンブリア大爆発』と呼ばれる、沢山の『生物(多細胞生物)』が地球に一挙に出現することになります。

このように『生物進化』は、リニア(線形)に促進されるのではなく、地球環境との関係で、段階的、飛躍的に進行してきました。『単細胞生物』の時代が約30億年も続き、突如『多細胞生物』が出現したことになります。

『ダーウィン』は、『生物進化』はリニアに進行すると考えていたようです。現在では新しい事実は沢山分かってきていますが『進化論』そのものの全面否定にはなっていません。

現在私達のような『多細胞生物』が存在していることは『事実』ですから、『謎』のはやがて合理的に説明できるようになるのではないでしょうか。ただし、『あるべき姿』『理想形』として『多細胞生物』が出現したのではないことだけは確かなことです。

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2018年5月29日 (火)

進化論の五つの謎(8)

船木氏が提示する二つ目の謎は『多細胞生物の出現』です。

約40億年前に『地球』に出現した『生命体』は、『単細胞生物』であったと考えられています。

これに対して『多細胞生物』が出現したのは『いつか』は、諸説がありますが、地質学の分類で言う『原生代後期(9億年~5億4200万年前)』であったとするのが有力です。

『多細胞生物』は、細胞内に『核』と呼ばれる小器官を保有しています。このため、『多細胞真核生物』と呼ばれることもあります。『赤血球』のように『核』を持たない『細胞』もありますが、これは例外です。

現在、私達の眼で識別できるすべての『動物』『植物』は『多細胞生物』です。勿論私たちも『多細胞生物』です。

『多細胞生物』が出現する以前は、『古細菌』『真正細菌』『単細胞真核生物』が存在しました。生物学的に専門的な話になりますから、個々の解説は省きますが、要するに『単細胞生物』であったということです。

『単細胞生物』は独立した『生命体(生物)』ですから、『細胞分裂』することで繁殖します。『細胞分裂』できなくなったものは『死』を迎えますが、『細胞分裂』はネズミ算式に仲間を増やしますから、『種』の生き残り戦略としては、極めて効率の良い(繁殖率が高い)ものに見えます。

後の『多細胞生物』の大半は、『両性生殖』方式で子孫をつくる方式を採用しています。これは『子孫を増やす』という戦略としては、『単細胞生物』の『細胞分裂』に比較して、極めて不利なものです。子供の数が限られる、子供が生まれるまでに時間がかかる、子供が大人に成長するのにも時間がかかることになるからです。

唯一『両性生殖』の方が有利なのは、『個』が『生きる』ために保有している機能が多彩であり、環境の変化などにも柔軟に対応できることです。

『両性生殖』が優れているとは単純に言えませんが、結果的にこの戦略を採択した『生物』が生き残ってきたことになります。『生物進化』は生き残りに有利な選択をすることではなく、選択したものが結果的に有利に見えるということです。

人間の身体は、見事なくらい良くできていますが、『理想的』であるかどうかは分かりません。『生物進化』が選択してきたものの現時点における集大成に過ぎません。『生物進化』をもう一度はじめからやり直しても、現在の人間が出現するとは限りません。

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2018年5月28日 (月)

進化論の五つの謎(7)

小惑星の海洋衝突で多量に大気に生成された『アンモニア』は、やがて雨と一緒に海へ降り注ぎ、海水中の粘土粒に付着して、海底へ沈殿し厚い地層になったと推測されます。 

この地層には、大きな水圧がかかりますから、地層内部は高圧、高温になり、『アンモニア』はより複雑な有機物質へと変わる『重合反応』が起きたと中沢氏は推測しています。この環境では、RNA,DNAなどの生成に脱水反応を必要とする有機物質も出現可能になります。 

海水中で有機物質ができたというの説明では、RNA、やDNAのような高分子有機物質ができるという説明が困難ですが、海底地層の内部で『重合』が進んだという仮説では矛盾が解消されます。 

『生命体』の素材となる有機物質が、多量に『地球』に出現した後に、何が起きたかについても中沢氏は論理的に推測していきます。 

次なる『地球』に起きた事件は、40億年前に活発になった『プレートテクトニクス』の移動です。『プレートテクトニクス』は現在でも地震の原因になっています。 

『プレート』同士の衝突で、海底地層の一部は、海溝から地球内部のマントル層へ落ち込みますが、一部は泥粒になって海水中へ放出されたと考えられます。つまり有機物質も海水中へ放出されたことになります。 

この時、有機物質は最大の存続危機にさらされました。高温環境で『加水分解』され元の無機物質へ分解されてしまうからです。 

しかし、この時海水中には、『硫化鉄』を素材とした『小胞(アワ)』も生成され、有機物質の一部はこの『小胞』に包まれて、『加水分解』される難を逃れたと中沢氏は推測します。

アルカリ性と酸性の熱水同士が混じり合う環境で『硫化鉄』の『小胞』が生ずることは実験でも確認されています。

後に出現する『生命体』の『細胞』も、『細胞膜』という『小胞』内部に、有機物質素材が包まれている形態ですので、似たものとして『小胞に包まれた有機物質』が出現したという推測は、興味深いものです。

勿論『細胞膜』は『硫化鉄』ではありませんので、このまま『生命体』へつながったとは思えませんが、自然界に『小胞に包まれた有機物質』が出現したとなれば、その後の展開の可能性が見えてきます。

中沢氏は、これらの仮説を、類似環境の実験で、確認、実証して進めています。単なる机上の推測ではないところも説得性があります。

前にも書いたように、この仮説が梅爺の知る限り、現時点で最も矛盾の少ない合理的なものと感じています。船木氏が提示する第一の謎への一つの見解です。

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2018年5月27日 (日)

進化論の五つの謎(6)

中沢氏は、『地球』に多量な有機物質が一気に出現したメカニズムを、『地球』で起きた歴史的事件に関連付けて推論しています。中沢氏はこれを『有機物質ビッグ・バン』と呼んでいます。

『海底熱水噴出孔付近』や『干潟』で、有機物質が偶然少量生成されたという他の仮説に比べて、圧倒的な説得力を持ちます。

歴史的事件というのは、38~40億年前に、多数の小惑星が地球へ飛来し、海洋へ衝突したことを指します。

『地球』誕生直後(45億年前)に、火星規模の惑星と衝突(ジャイアント・インパクト)し、その時に『地球』の衛星『月』が誕生したと考えられています。

『月』の表面に大きなクレーターが沢山観られるように、38~40億年前には、多数の小惑星が『地球』や『月』へ飛来し、衝突していたということになります。

これらの小惑星は、『火星』と『木星』の間に現在も存在する『小惑星帯』から飛来したと考えられます。

当時は、太陽系の惑星間の軌道が、現在のように安定しておらず、惑星同士の衝突が頻繁であったということです。その後、小惑星飛来は、減少し安定期に入りましたが、それでも皆無であったわけではなく、6500年前の小惑星の飛来、衝突で恐竜がほぼ絶滅(恐竜の亜種の鳥類は生き残った)しました。現在も『地球』は安全が保障されているわけではありません。規模の大きな衝突が起これば、『地球』環境は激変し、人類は絶滅してしまう可能性もゼロではありません。天文学者は、危険な小惑星接近を常時観測し、『地球』との衝突確率を計算しています。

『宇宙』という『物質世界』で、『摂理』に則って継続している『変容』の全てが、人間にとって都合のよいものとは限りません。『神』や『仏』が人類を救ってくださるなどと言う保証はありません。『摂理』は、『情』とは無関係な冷徹な法則に過ぎません。

38~40億年前に起きた、多数の小惑星の海洋衝突で、高熱の『衝撃後蒸気流』が大気へ放出され、大気の『窒素』『水素』『炭酸ガス』と反応して、後に有機物質(アミノ酸)の基盤素材となる『アンモニア』が多量に発生したというのが中沢氏の仮説です。

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2018年5月26日 (土)

進化論の五つの謎(5)

中沢弘基氏の『生命誕生』という著書とその内容については以前に紹介しましたが、概要は以下のようなものです。

自然界では、時間とともに『複雑なもの』はバラバラになって『単純なもの』に『変容』していくのが通例です。これは『エントロピー増加の法則』と呼ばれる現象です。

結晶構造の『氷(分子は固定状態)』は、解けて液体の『水(分子は流動状態)』になり、さらに蒸発して『水蒸気(分子がバラバラの単独常態)』へと『変態(相変化)』していくのが『エントロピーの増加』です。

ところが、『生命体』のことを考えると、以下のように、『単純なもの』が『複雑なもの』に変容していますから、環境の『エントロピーは減少』していなければならないことになります。

(1)無機物質(単純構造)から有機物質(複雑構造)が創られる。
(2)有機物質も、より高分子構造に合成される。
(3)『単細胞』が『多細胞』の複雑な構造に変わる。

これらを俯瞰すると、『進化』は『生命体』が出現してから始まったことではなく、無機物質だけの時代から継続して行われていたプロセスではないかという推測にたどり着きます。

『進化』は『生物進化』だけの話ではないという考え方に、梅爺は賛同したくなります。地球環境で継続的に行われてきた『進化』の、一つの形態が『生物進化』であるという方が、共通な一般論に基づいているという点で、より説得力を持つと感ずるからです。

中沢氏は、この地球環境で『進化』が可能であったのは、『地球環境の総エントロピーが減少し続けている』ためと推測しました。具体的には、宇宙に対して『地球』は誕生以来放熱を継続しているということです。

『宇宙』の中に、『生命体』が存在する惑星は、あるに違いないと多くの科学者は考えていますが、中沢氏の仮説が正しければ、その惑星も、『地球』同様に『総エントロピーの減少が継続している』ことが条件になります。そうでないと『進化』が起きないからです。

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2018年5月25日 (金)

進化論の五つの謎(4)

一つ目の謎は『そもそも原始細胞はどうやって発生したのか』です。 

45億年前に、『宇宙』に『地球』が誕生し、約38~40億年前に、最初の『原始細胞(単細胞)生物』が出現したというのが、現代科学知識としての定説になっています。 

『宇宙』に存在した『塵』と『ガス』を素材として『地球』が誕生し、最初は灼熱の火球でしたから、『生命体』は存在できませんでした。 

その後、地球の表面は冷却され、大半が『海』で覆われ、窒素、水素、炭酸ガスの大気を保有するようになりました。『生命体』の誕生は、このような環境で起きたことになります。 

船木氏が提示する最初の『謎』は、『無機物質』だけを素材として構成されていた『地球』に、『有機物質』、しかも『高分子有機物質』を素材とする『生命体(原始細胞)』が何故出現したのかという問いです。 

結論的に言えば、この問いに答える科学的『定説』はまだ存在しません。梅爺の知る限り、『地球に有機物質が存在するようになった理由』に関しては以下の4つが有力な『仮説』です。 

(1)宇宙から飛来した小惑星(有機物質を包含)が地球と衝突し、もたらされた。
(2)海底の熱水噴出孔付近で合成された。
(3)陸と海のはざまに存在する干潟で合成された。
(4)海底の地層の中で合成された。
 

前にブログで紹介したように、梅爺自身は『海底の地層の中で合成された(中沢弘基氏の仮説)』を受け容れています。 

(4)の内容は、後で紹介しますが、その前に(1)~(3)についての感想を述べます。 

(1)の宇宙からの飛来説は、『何故小惑星(隕石)には有機物質が含まれているのか』という『謎』へ問題を先送りしただけのところが、梅爺としては不満です。 

(2)の『海底の熱噴出口付近での合成』は、最も多くの科学者が支持している説ですが、後に遺伝子構造の基となったRNA,DNAのような高分子有機物質を作り出すには、化学的な脱水反応が必要で、これが海水中で起きたとするには難点があります。

(3)の『干潟で合成』は、(2)の難点を克服する説として登場しました。干潟は、あるときは水中に没し、あるときは天日にさらされるという都合のよい環境ですが、何か苦し紛れに思いついたような印象を受けます。

(4)は、日本の中沢弘基氏の提示する仮説で、中沢氏は『生命誕生』という著書の中で、詳しく論じていて、梅爺は最も合理的な洞察であると納得し受け容れています。

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2018年5月24日 (木)

進化論の五つの謎(3)

この本で『進化論の五つの謎』として提示されているものは以下です。

(1)そもそも原始細胞はどうやって発生したのか。
(2)多細胞生物はどのように出現したのか。
(3)生物の大分類はどのようにして生じたのか。
(4)意識というものがなぜ出現したのか。
(5)理性は進化の結果であるといえるのか。

(1)から(3)までは、本来の『生物進化』という『仮説(現状では定説に近い)』で、検証が難しいとされていることですが、(4)(5)は、更に『精神世界』の出現と『生物進化』の関連に関する問いかけになりますので、一層困難な内容になります。

この本には『謎』の解説はあり、船木氏の個人的な見解も添えられていますが、勿論普遍的な『解答』はありません。『解答』がないから『謎』であるともいえます。

船木氏は、勿論『生物進化』を大筋として肯定する立場をとられておられますが、それでも『謎』が残っていることも認めて、学問を深めてほしいと願い、これらの『謎』を提示されたのでしょう。船木氏のホンネは、生物科学者の思考は『浅すぎませんか』という挑戦かもしれません。

『ビッグ・バン理論』を大筋として肯定しても、まだまだ『宇宙』には『謎』が残っていることにも同様なことが言えるのかもしれません。

生半可な理解で、『全てが分かった』ように振る舞うことへの警鐘ともいえます。

『謎』を『謎』として理解できる能力が科学の原点であり、論理的な思考が求められます。『謎』への挑戦が、文明を高みへ誘う原動力になります。

船木氏が提示する『五つの謎』に、勿論梅爺は『答える』能力がありませんが、『謎』のまま放置するのは芸がありませんので、いつもの悪い癖で、『こうかもしれない』という勝手な自論や感想を書いてみることにします。

お断るするまでもなく、勝手な内容ですので、『正しい』などと主張するつもりはありません。いつもの梅爺の『頭の体操』です。

船木氏がこのブログを読めば、『あなたは、私の本の内容をまったく理解していませんね』と失笑されるかもしれません。

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2018年5月23日 (水)

進化論の五つの謎(2)

著者の船木氏の、『人間』を見つめる基本的な視点が分かる一文が以下です。
これを読んだだけで、梅爺は船木氏に共感を覚えます。

人間が生物であるということは、一方では合理的に説明可能なことであり、他方では、それを生きるときには、とても魔術的なことです。大人になると自分が生物であることに慣れ、それに由来する諸条件を大体において考慮に入れることができるようになります。それによってひき起こされる体験を、魔術的というよりは想定内のこととして処理することができます。
それが老人になってしまえば、想定内であったことが対処不能なことになり、その意味が死への接近であると捉えられるようになります。子供のときのように、知らないものによって経験がふるまわされはじめるので、ふたたび経験は魔術的になってきます。

ここで『合理的』『魔術的』という言葉が対語として使われていますが、梅爺流に解釈すれば『合理的』は『因果関係が論理的に推定できる』ことで、『魔術的』は反対に『因果関係が論理的に推定できない』ことと考えられます。

生物としての『人間(ヒト)』は、『物質世界』に属する存在ですから、機能や機能の働きはすべて『摂理』に支配されています。従って理論的には『合理的』に説明できるはずです。『理論的には』とことわったのは、生命活動に関するすべての『摂理』は解明されていませんので、現時点では説明できないこともあるという意味です。

一方『人間』が『生きる』ということは、脳が創りだす『精神世界』を駆使する行動が加わりますので、『因果関係が論理的に推定できない』状況が起きます。具体的には『精神世界』特有の『情感』や『抽象概念の価値観』などが行動に影響を及ぼすからです。

それでも大人になると、『自分にこういうことが起きたら、こう振る舞えばよい』という『想定』がある程度経験則で機能しますが、子供や老人には、『どうしたらよいか分からない』ことが降りかかってきますから、『魔術的』になるということになります。

子供は大人になるための『未知』なる体験が『魔術的』であり、それはワクワクするものですが、老人にとっては『未知』なる体験が増えるということは『死』への接近を意味するということになります。

梅爺の事象を観るために使い分ける『物質世界』と『精神世界』は、船木氏流にその本質を表現すれば前者は『合理的』後者は『魔術的』ということになります。

船木氏の洞察に、梅爺は異存がありません。

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2018年5月22日 (火)

進化論の五つの謎(1)

『進化論の五つの謎:船木亨著(ちくまプリマー新書)』という本を読みました。

『ビッグ・バン理論』『生物進化論』は、梅爺の好奇心をかきたてるものですから、これに関して何度もブログにとりあげてきました。

この本は、『タイトル』に惹かれて購入しました。著者の『船木亨』氏は、生物進化を専門とする生物学者なのであろうと勝手に想像し、梅爺が知らない新しい専門的な『謎』を提示してもらえるのであろうと期待しました。

しかし、船木氏は、大学では文学部で倫理を専攻され、その後熊本大学、専修大学などで文学部教授をされている方で、現代フランス哲学などがご専門であることを知りました。

本を読み進むうちに、『生物進化論』を専門とされない方が『進化論』を論じることが如何に意味のあることかが分かってきました。

梅爺が何度もブログに書いてきたように、現代ほど『学際的』に事象や対象を観ることが求められる時代はありません。

『西欧思想史、哲学史』を専門とされる船木氏が、『科学』の歴史に大きな影響を及ぼした『生物進化論』をどのように観ているのかは、『生物進化論』の専門家が書いた解説書を読むのとは異なった『洞察』に接することができます。

船木氏と生物学者のどちらが『正しい』かという比較ではなく、どちらの『観方』が読者にとって本質を理解しやすいかということが重要です。

船木氏は哲学の専門家らしく、文体は平易ではありません。梅爺は自分の頭の悪さを棚に上げてのことですが、深遠な内容こそ平易な説明をお願いしたい言いたくなります。しかし、文体は著者の『個性』ですから、あくまでも梅爺の個人的な感想です。

勿論船木氏は『生物進化論』をよく勉強しておられ、梅爺などが及ばない該博な知識をベースに論じておられますから、『生物進化論』そのものの知識も沢山得られます。

船木氏がどのような方かは、以下の一文で想像できます。

いまのわたしにできそうなことは、世界がどのように合理的か魔術的かということを解明する、というほどまでにはいかず、合理的に説明するとはどういうことかについて考えることくらいです。それについては、かなり徹底的に考えられそうな気がします。

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2018年5月21日 (月)

『侏儒の言葉』考・・武器(4)

『精神世界』が創りだし、人類で共有してきた『抽象概念』は、『物質世界』には適用できないことを楯にとって、梅爺は『抽象概念』は意味がないと言っているのではありません。

『正義』『愛』『理想』などという『抽象概念』は、社会秩序を維持し、人と人の絆を深め、行動のベクトルを効率よく合わせるために、重要な意味を持っています。

『抽象概念』を共有できる能力こそが、『人間』を他の生物とは異なった存在にする要因の一つと言えます。

この能力が、『宗教』『芸術』などを生みだしたことを考えれば、『抽象概念』は人が『生きる』上で、如何に重要なものかが分かります。

しかし、昨日も書いたように『抽象概念』には比較するための普遍的な尺度がないということが重要なことで、このことを理解することが大切です。

色々な『正義』『愛』『理想』に関する主張があった時に、どれが『優れている』かを誰もが納得する形で推し量ることができないということです。

『抽象概念』の価値は、主観でしか判別できません。『人間』の『精神世界』は生物として『個性的』であるように宿命づけられていますから、主観は厳密にいえば一人一人異なります。『正義』という言葉を聞いて『考えること』『感ずること』は同じではありません。

誰でも、自分の主観で『正義』『愛』『理想』を表現することは許されますが、それが『正しい』と主張することには慎重であるべきです。

『人間』の本質を考えると、『世の中が同じ価値観で一色に染まる』ということは不自然なことです。『多様性』は社会の効率を妨げる要因として『均質』を強いるか、『多様性』を認めるかの選択を、社会や国家は迫られますが、梅爺は個人的には『多様性』を認める社会が好ましいと考えています。『均質』は寧ろ脆弱で、『多様』が柔軟で強靭であると思うからです。

したがって『均質』を求めて『雄弁家』が、その人の『正義』を振りかざす事態は、『芥川龍之介』同様に『恐ろしい』と感じます。

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2018年5月20日 (日)

『侏儒の言葉』考・・武器(3)

私たちは『正義』という言葉に接すると、それは『正しい』ことを意味していると受け止めてしまいます。反対の意味の言葉として『邪悪』を思い浮かべ、自分は『正義』の側に立ちたいと思うのが人情です。

何しろ『漢字』の『正』も『義』も『正しい』という意味ですから、それが組み合わされたら『絶対正しい』と受け止めてしまうのは当然です。

『正しい』はやがて『善いこと』に転じます。『正義の味方月光仮面』は『善いヒーロ』となります。

この大衆心理をうまく利用して、能弁家は、『自分の主張(価値観)』を大衆に『正しい』と思い込ませる時に『正義』という言葉を使います。『水戸黄門』の印籠のように『正義』をかざされると、『へへー』と畏れ入ることになります。

梅爺はブログを書き続ける中で、世の中の事象を『物質世界(宇宙や自然界)』と『精神世界(人間の脳が創りだす仮想世界:心)』に区分けして観るようになりました。

この観方に従えば『正義』は、『精神世界』の事象に属します。

人類は言葉で『意図』や『思い』を表現する能力を高め、『人間』と『人間社会』でのみ意味を持つ、『抽象概念』を言葉で表現し、共有するようになりました。

主に『価値観』『情感』『想像上の存在』などに対応する言葉が『抽象概念』として考え出されました。『正義』『邪悪』はそれに属します。

『愛』『希望』『目的』『美』や儒教の『仁・義・礼・智・信』『(君に)忠』『(親に)孝』などはすべて『抽象概念』です。梅爺は『神』『仏』『天国』『地獄』などもこれに属すると考えています。

『人間』や『人間社会』で、これらの『抽象概念』は、『必要なもの』として創出され、重要な意味を持ちますが、『物質世界』では通用しません。

この単純な区分けに気付いて、梅爺は色々な事象が、整然と理解できるようになりました。

しかし、世の中では、これが区分けされない為に、そもそも単純なことが『複雑』に論じられているように思います。一番多い混乱は、『精神世界』の『抽象概念』が『物質世界』にも適用できるとする主張です。

『物質世界』で繰り返されている『変容』の裏には、何か深遠な『目的』が秘められているのではないかといった主張です。『神による天地創造』や『驕(おご)れる人間たちを罰するための天災』などという表現は、『自然界(物質世界)』の事象にも『意図(目的)』が秘められているはずであるという考え方が反映しています。

もうひとつ重要なことは、『精神世界』の『抽象概念』には、普遍的に比較するための尺度がないということです。一方『物質世界』には『真偽』を判定できる普遍的な尺度が存在します。それが『摂理』です。ただ人類はすべての『摂理』を明らかにできていませんし、そもそも何故『摂理』が存在するかは未だ分かっていません。

厳密にいえば、『正しい』『美しい』などは、相対的な価値観に過ぎないということです。他人が振りかざす『正義』に『芥川龍之介』が共感できないというのはそのためですが、それよりも『正義』の名のもとで、煽動されてしまう『人間社会』に『恐ろしさ』や『嫌悪感』を感じて、この『武器』という一文を書いたのでしょう。

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2018年5月19日 (土)

『侏儒の言葉』考・・武器(2)

昨日も書いたように、このエッセイは『武器』になぞらえて『正義』を論じたものです。 

話す時、文章を書く時に『比喩』を用いると、理解しやすくなることがありますので、この手法は日常よく使われます。 

梅爺もブログを書くときに、よくこの手法を用います。 

しかし、その『比喩』は本当に妥当なものかどうかを、よく考えてみる必要もあります。『比喩』は詭弁で相手を言いくるめる時の手段としてもよく使われるからです。 

一般に『比喩』も使いすぎると、少々鼻についてきます。 

『正義』を『武器』にたとえた『芥川龍之介』は、以下の類似性を強調しています。 

(1) 誰もが手にできる(金で買える)。
(2) それ自体は恐ろしいものではないが、使い手(話し手)によっては恐ろしいものになる。
 

特に強調したかったのは(2)なのでしょう。 

『正義』という『抽象概念』を『武器』という『実態があるもの』になぞらえているところがミソで、読者は分かったような気になります。勿論『芥川龍之介』は読者に対して詭弁を弄しているわけではありません。

人は立場に依って、『正義』という言葉で異なった価値観を表明し、能弁家が唱えると、周囲が煽動され、それが『正しい』という空気が社会に生じ、それに抗することが難しくなってしまうことを『恐ろしい』と表現しているのでしょう。

この『比喩』で『正義』を表面的に論じているだけで、『正義とは何か』という本質に迫っていないのは、少し残念です。

『正義』は能弁家が唱えると『恐ろしい』ものになるということは分かりますが、それならば能弁家でない人が口にした時は、『恐ろしくない』のかど問いただしたくなります。

『儒教』『キリスト教』『社会主義者』『国家主義者』の『正義』を例に挙げた後で、自分は今までどの『武器』も執りたいと思ったことがないと書いていますから、これらの『教義』や『イデオロギー』には共感したことがないということなのでしょう。

『正義』というものはすべからく『いかがわしい』と言いたいのか、自分の性(しょう)にあった『正義』に出くわしたことがないと言いたいのか曖昧です。

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2018年5月18日 (金)

『侏儒の言葉』考・・武器(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』の中の、『武器』というエッセイに関する感想です。

一部を抜粋で紹介します。

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらが本当の「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。

日本は新聞紙の伝える通り、---いや、日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。

武器そのものは恐れるに足りない。恐れるのは武人の技量である。正義それ自身も恐れるに足りない、恐れるのは煽動家の雄弁である。

過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。青竜刀に似ているのは儒教の教える正義であろう。騎士の槍に似ているのは基督(キリスト)教の教える正義であろう。此処(ここ)に太い棍棒(こんぼう)がある。これは社会主義者の正義であろう。彼処(かしこ)に房のついた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。

幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執(と)りたいと思った記憶はない。

『侏儒の言葉』が書かれたのは、大正時代の半ばから昭和の初めであることを考えると、上記の内容は、色々な関係者の反感を買ったであろうと想像できます。

当時この文章を、拍手喝さいで迎えた人は、『社会常識』を鵜呑みにしない柔軟な思考の持ち主で、いつの時代でもそのような人は少数派です。

一読して分かるように、この文章は『武器』になぞらえて『正義』を論じたものです。

『日本は二千年来、常に「正義の味方」である』などは、もっとも痛烈な批判で、梅爺はこれを読んで笑ってしまいましたが、当時多くの日本人は、『芥川龍之介』の言いたい真意を理解できなかったかもしれません。

『万世一系の天皇が統治する神国日本』は、当然『正義の道』を歩んでいると、学校でも教えられ、新聞もその論調を展開していたわけですから。

『芥川龍之介』は、愛国心の薄い『非国民』と非難されることを覚悟の上で、この一文を書いたのでしょう。その非難を見こして『侏儒(こびと、知識の低い人)』の言葉としてお読みくださいと、先に釘を刺したのかもしれません。

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2018年5月17日 (木)

実験物理の成果が少ないと言って案ずることはない(4)

このエッセイの著者は、歴史的な偉大な『摂理』の発見は、『謎』や『パラドックス』として不思議に思える事象に対して、論理的に説明できる『仮説』を提示することが原点となっていると述べています。 

私たち凡人は、事象が秘めている『謎』や『パラドックス』をそれと気付かずに、見過ごしてしまいますが、有能な科学者は、それを見逃しません。 

現代の科学の『謎』の多くは、『物質』の究極な常態(素粒子など)にからむもの、『宇宙』の起源に関係するもの、『細胞』や『遺伝子』に絡むものですので、『論理推論』で提示される『仮説』を、証明するための『実験』には、多くの場合多額の設備費用、運用費用がかかります。 

これに国家財政で対応しようとしているのは、アメリカ、日本、ヨーロッパ、中国、ロシアなどで、発展途上国ではとても耐えられません。 

ノーベル賞を受賞する科学者の国籍が限定されるるあるのもこのためです。 

『人類』が保有する基本的な『謎』を解明することに、どれだけ金をかければよいかなどという判定基準はありません。 

しかし、それらの『謎』の解明は、『何故私たちが存在しているのか』について、現状以上に明解な説明を可能にするに違いありません。 

古代から近世初頭まで、人類は『何故私たちは存在しているのか』『世界はどのようにできているのか』について、考え続けてきました。哲学者、神学者がその時に知り得ていた知識や、推論、想像で、『仮説』を提示しました。

今私たちは、最新の科学知識を用いて同じ問いに立ち向かうことができます。過去の哲学者や神学者の『仮説』を論証することもできます。『デカルト』『カント』『ニーチェ』が残した言葉を学ぶことは大変意味のあることですが、その内容だけを鵜呑みにせず、現代の視点で見直すことも大切です。

『分からないこと』を何とか『分かること』に変えたいと願うのは、『精神世界』の『安泰を希求する本能』に依るものです。『推論』『直感』『想像』など人間の能力の全てが駆使されます。

『物理』の場合は、『理論物理』が提示する『仮説』が重要です。『論より証拠』ではなくどちらかと言えば『証拠より論』ということになります。

『証拠』を求める『実験物理』は、金、時間、手間がかかる時代になってきました。勿論斬新な発想も求められますが、何よりも、地味な実験の繰り返しなど忍耐力が必要になります。

一方、『理論物理』は、文字通り『推論』『発想』『想像』が主役ですから、『天才』が輝く分野です。

世界の中で日本はこの分野で高いレベルにあることは、誇らしいことです。しかし、凡人の梅爺にできることは、『応援団』として声援を送ることだけです。

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2018年5月16日 (水)

実験物理の成果が少ないと言って案ずることはない(3)

『物質世界(宇宙や自然界)』を支配する『摂理』を明らかにするのが『科学』の目的です。

『物質世界』には、未だ解明できない『謎』は沢山ありますが、その『謎』は必ず新たな『摂理』の解明で普遍的に説明できると科学者は考えています。

何故『物質世界』を支配する『摂理』が存在するのかという『謎』は、現時点では解明の手掛かりがありません。『科学』にとって究極の『謎』であり、『科学』の最大の弱点ともいえます。

既存の『摂理』は、すべて『発見』されたものにすぎず、何故存在するのかは分かっていないということです。

手っ取り早く、『摂理』は『神の創造である』と主張する一部の学者はいて、宗教関係者は、『科学』に一方的に攻めこまれて不利になりつつある『宗教』の現状を挽回できるかもしれないと期待を寄せますが、大半の科学者はそれを受け容れていません。

梅爺も『摂理は神の創造』という『仮説』には賛同できません。なぜならば『摂理』は冷徹な法則に過ぎず、『摂理』がもたらす『物質世界』の『変容』は、人間にとって都合のよいものばかりとは言えないからです。『天災』は『変容』がもたらすものです。

人間に対して『愛』や『慈悲』で接して下さるはずの『神』が、そのような冷徹なものの創造に関与しているとは考えにくいからです。

そもそも、『物質世界』では、『理想』『目的』『あるべき姿』『愛』『慈悲』『美』『情』などという『抽象概念』は意味を持ちません。これらの『抽象概念』は人間の『精神世界』が考え出したものであり、人間が『生きる』上でのみ重要な意味を持つものです。

何度もブログに書いてきたように、私たちは周囲の事象が『物質世界』に属するものなのか、人間の『精神世界』が関与したものなのかを区別し、『精神世界』の価値観や概念を『物質世界』に持ち込まないようにすべきです。

こうすると、今まで釈然としなかったことが、霧が晴れるように見えてきます。

『神々しい日の出』は、人間の『精神世界』の価値観が関与した表現です。しかし、『物質世界』には『変容』の一つとして『日の出』があるだけで、『神々しい』という概念は意味を持ちません。

『神が天地を創造(デザイン)した』という考え方は、物事には必ず『目的』があるはずであるという『精神世界』の考え方が反映しています。

『物質世界』に『目的』や『神のご意思』を持ちこむことには無理があります。『物質世界』には、『摂理』によって、絶え間なく動的に平衡状態が遷移する『変容』が存在するだけです。『太陽』も『地球』も、偶然の『変容によって出現したものに過ぎません。『人間』もその延長で偶然出現した生物に過ぎません。

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2018年5月15日 (火)

実験物理の成果が少ないと言って案ずることはない(2)

『物理学』において『実験物理』と『理論物理』は両輪であり、両者の補完で科学は進展してきました。 

『江戸いろはかるた』に『論より証拠』という諺があります。『論』は『理論物理』、『証拠』は『実験物理』が相当します。ただし、『物理学』においては、この諺が示唆するように『実験物理』は『理論物理』より重要というようなことはありません。 

このことから分かるように、『論より証拠』と言う諺を、論理命題として考えると、この命題は必ずしも『真』とは言えません。つまり『証拠より論』という表現の方が適切な場合もあるということになります。

多くの日本人は『論より証拠』は、真実を述べていると勘違いしているように思えます。

それは『論より証拠』という諺のせいなのか、それとも日本人に平均的に継承されている『精神世界』の価値観が、『情』にくらべて『理』をあまり重んじない為なのか、梅爺には分かりませんが、何となく後者の理由なのではないかと感じます。

前に『日本語の本質』というブログを書いて、『日本語はなぜ美しいのか』という本の内容を紹介しました。その本の中に、『日本語』は言葉自体に『情感』を伝達する要素(質感)が強く内包されているという著者の洞察があり、梅爺は『なるほど』と共感しました。このようなことが起こるのは、『日本語』が『母音』を認識基盤にする言語であるためで、このような言語は世界中に、『日本語』とハワイの現地人の言語しかありません。

言語の目的は、『意味(定義)』や『論理』を伝える手段と、梅爺はそれまで考えていましたので、『日本語』の発音事態に、『情』の質感が内包されているという主張は、目からうろこが落ちる思いがしました。日本人はお互いに『日本語』を話すことで、知らず知らずに『情』のコミュニケーションを行っていることになります。夫は妻に毎日『I love you』などと念押しする必要がないということを意味します。

梅爺は日本人の割には『理屈屋』ですので、仕事の現役時代も、『論』を先に確定して行動しようとしましたが、多くの上司には受け入れられず、大概の場合『難しいことをごちゃごちゃ言っていないで、汗をかいて行動しろ』と言われました。

売り上げが伸びない時に、その要因はどこにあるのかを明確にしようとすると、『そんな暇がれば、お客さんのところへ行け』というようなことを言われてしまいました。日本人の多くが『論より証拠』を『真』と考えているらしいとその時気付きました。『頑張る』という言葉が、とにかく好きなのはそのためなのでしょう。政党大会の最後に、全員が拳(こぶし)を突き上げて『頑張ろう』と叫ぶのは、梅爺の眼には滑稽に映ります。『何を頑張るのですか』と茶化したくなります。

『理』をあまり好まない日本人が不得手なのは、『議論』や『ディベート』が下手であるということにつながります。日本人が、国際人として活動していくために今後克服していかなければならない短所の一つであろうと思います。

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2018年5月14日 (月)

実験物理の成果が少ないと言って案ずることはない(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の58番目のタイトルは『No Surprises from the LHC:No Worries for Theoretical Phisics(実験物理からは驚くべき成果が何も得られなかったが、理論物理に関しては案ずることはない)』で著者は科学分野のコンサルタントである『Amanda Gefter』です。

最新の高度な科学知識に通じていないと、このエッセイの内容は理解できません。梅爺は、著者が『言いたいこと』はなんとか理解できましたが、引用されている科学者の名前や、その人たちが成し遂げた成果の内容は、馴染みがないものであり、理解できたとは言えません。

老人にとっては、このような難しいエッセイを読むのは難儀ですが、『脳トレ』と覚悟して読みました。

著者が言いたいことを大雑把に言ってしまえば、以下のようになります。

最近の実験物理は巨額の金がかかる。ヨーロッパ原子力研究機構(CERN)の有名な加速装置(LHC)には、90兆円の費用が投じられ、30年に渡って約1万人の科学者(主として実験物理学者)が研究に携わってきた。
それにもかかわらず、世界を驚かすような新素粒子の発見などは何もなかった。『ヒッグス粒子』の存在確認は行われたが、これは理論物理が数10年前に唱えた『スタンダード・モデル』で仮説として指摘されていたことを確認したに過ぎない。
実験物理は、『事実を確認する』という点で、必要であるが、『どうしてそのようなことになっているのか』を説明するものではない。
歴史的に物理学を推進してきたものは、理論物理である。『謎』や『パラドックス』とされていた問題を、純粋な論理だけで解明し、それを仮説として提示してきた。
実験物理がその仮説に矛盾がないことを確認することで、『仮説』は『定説』や『法則』になってきた。理論物理は『どうしてそのようになっているのか』を説明するものである。
『アインシュタイン』の『特殊相対性理論』が導き出した数式を、彼より以前に実験物理で見つけていた科学者はいたが、『見つけた』だけで、『アインシュタイン』のように、『どうしてそうなっているのか』を説明することができなかった。
30年に渡るCERNの実験が、空しいものであったと言っているのではない。そこで得られた膨大なデータの中には、『謎』や『パラドックス』にみえるものが沢山あるに違いない。
それらの他にも『宇宙物理学』には、『ダーク・エネルギー』『ダーク・マター』など『謎』は沢山残されている。それらを理論物理で解明すれば、宇宙の真理へ一歩近づけることになる。それこそが科学者の夢だ。

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2018年5月13日 (日)

続 日本人はなぜ無宗教なのか(6)

欧米のグループの『調和』の考え方を分かりやすく反映しているものに、『スポーツのチーム』『オーケストラ』があります。

メンバーを『均質』化することが、強い『チーム』、良い『オーケストラ』を実現する手段であるとは考えられていません。

『コーチ(監督)』『マエストロ(指揮者)』には、メンバーの『個性』を見極めて、その上で全体としての高い『パフォーマンス』を実現させるための『知恵』が求められます。『リーダー』は、『個性的なメンバーで構成される集団』であるからこそ必要になります。『リーダー』の真の役割はこのようなものだと理解している日本人は意外に少ないのではないでしょうか。『リーダー』は『グループで一番偉い人』という肩書ではありません。

現在の日本でも、『プロ野球』や『プロ・サッカー』で、『チーム内の競争が真に強いチームをつくるために必要』と最近言われるようになりました。

これは、『集団内の軋轢がその集団を強くする』という考え方で、日本人の『均質で軋轢の少ない集団』が好ましいとしてきた従来の考え方から観ると異質です。『軋轢』は勝者と敗者を明確にしますから、確かに日本人は避けたくなりますが、それは『しかたがないこと』というのが欧米の考え方です。

『均質なメンバーによる集団』を好んできた日本人も、スポーツや芸術を通して、異なった『価値観』に触れるようになりつつあることは良いことです。時と場合で、柔軟に対応できる資質が身に備わることを意味するからです。

『無宗教』の話が、だいぶ脇道に逸れましたが、日本人の多くが『私は無宗教です』と主張する背景には、『均質で構成される集団』が好ましいという考え方が潜んでいるように思えます。

『宗教』の『教義』に関心を示すことは、何か『平凡』を逸脱することになり、周囲とは異なった生き方になると感じて避けているのではないでしょうか。それであるが故に、周囲の人と同じように形式的な宗教的慣習は行いながら、周囲の人と同じように『私は無宗教です』と言っているのではないでしょうか。

このような理由で、『宗教』の『教義』や、『哲学』について自分で考えてみることを避ける日本人の生き方は、好ましいとは言えません。

『難しいことは考えずに、面白おかしく生きる』というだけでは、折角深遠な『精神世界』を保有しながら、『宝の持ち腐れ』の人生になってしまって惜しいような気がします。

周囲の人はともあれ、『私はこう考える』という日本人が増えることは、日本が健全な社会になる為に必要なことではないでしょうか。

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2018年5月12日 (土)

続 日本人はなぜ無宗教なのか(5)

『均質なメンバーで構成される集団』と『個性的なメンバーで構成される集団』のどちらが強いか、効率が良いかは単純な比較が難しい話です。

日本人は古代から『和』を大切にしてきましたが、それは『均質なメンバーで構成される集団』が好ましいという価値観に支配されてきたように思えます。

前に紹介した『村落』の『サガ流し』の行事のように、『善い』ことも『悪い』ことも極端なものは排除することで、『均質』な『平穏な日常』を確保しようとしていることもその一例です。人間関係も、『角が立たない』ように、表向きは誰もが同じことを口にし、同じ振る舞いをすることが無難とされます。このことが高じて、『他人が自分をどう見ているか』を異常なほどに気にかけ、『後ろ指を指される』ことを極端に恐れます。つまり、『均質』なメンバーの一人であることが、『安泰』を保証する重要な要因であるという共通認識が現在でも定着しています。

日本流の『均質なメンバーで構成される集団』には、勿論良い側面もありますが、『人間』は生物として宿命的に『個性的』であるという事実を考えると、『元々均質でないものを均質に見せる』という無理があるように思います。

明治政府は、『富国強兵』で、欧米に短期間で追い付こうとしましたから、『均質な国民』を育成することが重要と考えました。国民全員に『教育』の機会を提供したことは、素晴らしいことで、戦争に負けた日本が、比較的早期に国力を回復できたのは、『教育レベル』の高さがあったからと言えます。

しかし、日本の『教育』には、現在でも明治政府が進めた『均質な国民』の育成の考え方が色濃く残っているように感じます。『平均点の高いクラス』を実現した先生は有能とされます。つまりレベルの高い『平凡』が『教育』の理想と考えられているように見えます。

欧米の『教育』は、『個性的なメンバーで構成される集団』という考え方が基盤にありますから、『生徒の個性を見出して、それを伸ばす』ことができる先生は有能と言うことになります。『非凡』は個性の一つですから排除されません。クラスの『調和』は、『均質』な生徒を作るのではなく、『個性的』な生徒たちを『まとめる』知恵として求められることになります。

梅爺は、欧米の考え方が『優れている』かどうかは、判断しかねますが、少なくとも『人間』の本質である『個性』を認めている点は無理がないように感じます。

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2018年5月11日 (金)

続 日本人はなぜ無宗教なのか(4)

『平凡』『非凡』は、純粋に個人のレベルの話なのか、集団の中の個人レベルの話なのかを分けて考える必要がありそうです。

純粋に個人レベルで言えば、人間は誰でも内心は自分が『非凡』であることを願います。他人より優れているという優越感は、『安泰を希求する本能』を満たすからです。

子供は純真ですから、『プロ野球の選手になりたい』などと口にします。

しかし、大人になるにつれて、色々なことを体験し、多くの人は『自分は非凡に属する人間ではない』と自覚するようになります。

これで一件落着とならないところが、人間の『精神世界』の複雑な所で、『非凡の人を嫉妬し、何かと難癖をつける』『平凡の方が幸せになれると言い張る』『見栄を張って自分を自分以上に見せようとする』など、なんとか自分の立場を肯定しようとしたりします。

『平凡』な人は、他人の『非凡』さを認識できない(認めようとしない)という悲しい現実がありますから、他人の『非凡』の価値を心から認めることができる人は、器の大きな人であると言えます。

現代の日本は、『非凡』であることが否定されるような社会ではなく、それなりに賞賛の対象になりますから、まあまあ健全な社会といえるのではないでしょうか。特に、芸術、スポーツ、学問などの分野では『非凡』が重要な要因になります。

一方、集団の中の個人レベルの話として、『平凡』『非凡』がどのように扱われるかという点になると、これは『個人』と『集団』のどちらの都合を優先するかという問題に帰着しますので、日本の事情は外国と必ずしも同じではないような気がします。

縄文時代から日本の『部落』などのコミュニティでは、『和』を大切にする考え方が定着していて、『聖徳太子』はそれを継承して『17条憲法』の第一条に『和をもっと尊しとなす』として掲げたのではないでしょうか。農耕社会の定着が背景にあるとよく言われますが、農耕社会は日本だけのことではありませんので、日本固有の別の要因があるのかもしれません。

現代の日本人の大半も、『集団では和が大切』という主張を抵抗なく受け入れます。しかし、日本人の考える『和』は、欧米の『調和』という言葉の意味とは必ずしも同じではありません。日本の『和』では集団が『均質』であることを要件としますが、欧米の『調和』では集団の構成要因はそれぞれ個性的であることが前提となっています。

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2018年5月10日 (木)

続 日本人はなぜ無宗教なのか(3)

『日本人はなぜ無宗教なのか』を考えようとして歴史を参照にしようとしても、あまり参考になる資料はありません。

その時代時代の平均的な日本人の『価値観』を示す資料が少なかったり、分かりやすくまとめた資料もほとんどないからです。

私たちが学校で学ぶ『歴史』は、『有名人の所業』『事件』が中心で、『庶民』がどのような『価値観』に支配されていたのかは分かりません。

『柳田國男』『折口信夫(しのぶ)』などで有名な『民族学』は、無名の平均的日本人の生活や精神世界の実態を明らかにしようとする試みで、従来の『歴史』とは一線を画するものです。『柳田國男』は『平凡人の歴史』を明らかにするのが自分の仕事であると述べています。

若いころの梅爺は、『民族学』はあまり程度の高い学問ではないと勝手に判断して、『柳田國男』の著作などを読もうと思いませんでした。

しかし、『日本人はなぜ無宗教なのか』などという問題を考えようとすると、『民族学』の資料の中に、多くのヒントが含まれていることに気付きます。

日本の『村落(ムラ)』に、伝わっている『しきたり』や『言い伝え』には、昔の日本人が生きる上で必要とした『価値観』を反映しているからです。

『日本人はなぜ無宗教なのか』という本の著者阿満氏も、『柳田國男』と『民族学』を評価し、いくつかの事例を参照しています。

その一つが、長野県の『村落』に伝わる正月の行事『サガ流し』です。

『サガ』は漢字で書くと『性』『相』などとなりますが、ヤマト言葉では『善悪』の意味になります。

正月に、これからの1年間村落』に『災い』がもたらされないようにと、『怨霊』などの悪い要素を村人総出で『流す』ということなら分かりますが、『サガ』を『流す』となると『悪い要素』に加えて『善い要素』も『流す』ことになってしまいます。

『柳田國男』は、村人が、『村落』にとって、悪いことが起こることを望んでいないと同時に、善いことが起こることも望んでいなかったと考え、村人は『平凡な日常を継続できることが最も好ましい』という『価値観』を保有していたと解釈しています。

梅爺流に表現すれば、『平凡な日常』という『安泰』を脅かすものは、『悪いこと』と『善いこと』の両極があると、村人たちは『信じて』いたということになります。

そう言われてみると、現代の日本人の間にも『平凡が好ましい』という『価値観』が潜在意識として継承されているようにも思えてきます。『出る釘は打たれる』などという諺も、『能力のある人は気をつけなさい』というより、『能力があっても目立たないようにしなさい』と言っているように思えます。

『柳田國男』もまた、『平凡』を重視する価値観の持ち主でした。

『平凡』とは何か、『非凡』とは何かを考えると、日本人の平均的な『精神世界』の『価値観』が見えてくるのかもしれません。

その中に日本人の『宗教観』も含まれるのではないでしょうか。

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2018年5月 9日 (水)

続 日本人はなぜ無宗教なのか(2)

日本人が『自分は無宗教です』と平然と言って、矛盾を感じない『したたかさ』は、庶民が歴史の中で、そのような考え方を自ら培ってきたのではないかと梅爺は感じていました。

言うまでもなく、日本人は『無宗教』なのではなく、『宗教心』が背景にある慣習行為を、『宗教』と意識せずに励行しているだけのことです。

しかし、『日本人はなぜ無宗教なのか』という本の著者阿満(あま)氏は、このことに明治政府の政策が深く関係していると述べています。

明治維新政府は、日本をどのような国家にするかについて、最初から明確なビジョンを有していたわけではありません。

私たちはその後の歴史を知っていますから、明治政府が、迷わず国家作りに邁進したかのような錯覚をしがちですが、実際は、次々に難題に遭遇しながら、試行錯誤で綱渡りのような政治を行っていたことになります。

欧米の政治体制を視察した上で、形式的には『立憲君主制』を採用しようとしましたが、実態は『天皇』を国体の中心とする国家を選択しました。日本人は『国民』ではなく『臣民』となったわけです。

明治維新が『錦の御旗』を後ろ盾に成し遂げられたことの延長で、『天皇』を権威の中枢に据えることで、再び国内が混乱することを抑え込もうとしたわけです。明治政府は、決して盤石な基盤で運営されていたわけではない証拠です。

『神格化された天皇の絶対権威』を必要とした為に、天皇家の歴史の背景にあった『神道』を、『国教』にする企てが進められました。天皇家の祖先とされる『天照大神』が八百万の神々の中で最も権威ある『神』とされました。

徳川幕府が行っていた『キリシタン禁止令』は、明治政府によって廃止されたわけではなく、最初はそのまま継承されました。

『神道』を『国教』としようとする動きが、如何に徹底したものであったかは、『廃仏毀釈』で『仏教』を否定しようとしたことでも分かります。1868年に太政官布告『神仏分離令』として発令され、3年間この布告は効力を持ち続けました。地方によっては、この間本当に寺や仏像が破壊され、僧侶は還俗させられました。多くの貴重な歴史的な建造物や仏像が破壊されました。

しかし、『日本』が『神道』を『国教』にしようとしていることは、『キリスト教』文化圏の西欧各国から強い非難の対象になりました。

何よりも、明治政府が推進しようとした欧米との通商上の『不平等条約』撤廃の外交交渉にとって、これが大きな障害になりました。

困った明治政府は、渋々『信教は個人の私事』として認めることになりました。

しかし、この時『井上毅』などの法学者は、『信教はあくまでも個人に属すること』としながら、『天皇』が行う祭祀は、『国体』を維持する為に重要なしきたりであり、これは『宗教』に属する行為ではないと、『屁理屈』のような主張を展開しました。

国民(臣民)が、日常生活の中で行う宗教的な慣習も、また『宗教』とは言えないという、世界に類を見ない考え方がこれに依ってよって根付いたと阿満氏は述べています。

日常生活の中で行われる慣習は『宗教』ではないとする、日本人の常識は、歴史的に『したたかな』庶民が培ってきた面と、明治政府によって進められた政策の両面が背景にあることが分かりました。

今でも日本人に継承されている宗教的な慣習の多くは、古代の『自然宗教』から受け継がれてきたものと、『仏教』の様式が慣習化したものです。

何故昔の日本人はその行為を必要としたのかを深く考えずに、私たちは、本来は宗教的な行為を行っていることになります。

『極楽往生』を願う葬式、『大願成就』を願う参拝などの効用を、心の隅では疑いながら、それでも『そうあってほしい』『皆そうするから』と現代人も続けています。

しかし、これらの慣習が現代でも廃(すた)れないのは、『精神世界』を支配する『安泰を希求する本能』が関与しているからであろうと梅爺は考えています。『宗教』があるから『願い』『祈る』のではなく、『願い』『祈る』ために『宗教』を必要としてきたのではないでしょうか。『安泰を希求する本能』は、『宗教』とは無関係に誰もが保有していますから、『無神論者』も保有しています。『無神論者』も『こうあってほしい』と『願う』ことはありますが、『神がそれをかなえてくれる』とは考えていないだけのことです。

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2018年5月 8日 (火)

続 日本人はなぜ無宗教なのか(1)

前回、『日本人はなぜ無宗教なのか』というブログを書いた時に、日本人は日常の生活に溶け込んでいる宗教的な慣習を『宗教』と考えていないことをその理由としてあげました。

日本人の大半が、『葬式』『法事』『お盆(先祖の霊を迎える)』では『仏教』様式で対応し、『祈願』は『神道』様式で対応しながら、『自分は無宗教です』と答えることに疑念を抱かないのは、『創唱宗教(キリスト教、イスラム教、仏教など)』を信仰の対象としている外国の人達には理解が難しいことでしょう。

日本人にとって『宗教』とは『創唱宗教』のことであり、それにどっぷり浸かると、なにやら窮屈な生き方を強いられそうだと感じて、回避してしまうのではないでしょうか。『オーム真理教』の事件や、『イスラム国』の狂信的な行動に接して、『宗教はいかがわしい、宗教は怖い』と感じている方も多いのでしょう。

『キリスト教』『イスラム教』はもとより、『仏教』でさえもその『教え』の本質を学んだ上で回避しているわけではありませんから、『食わず嫌い』の感があります。

梅爺もブログで『宗教』を論ずる為に、少しは『キリスト教』『イスラム教』『仏教』について勉強をしましたが、深い知識を有してはいません。梅爺の周囲の知人たちも、梅爺以上に知識は希薄です。

『教義』に対する興味より、面倒くさいことには関わりたくないという気持ちが先行しているように見えます。

『宗教』の都合のよい部分だけは、慣習儀式として利用し、本来『憂き世』である現世を『浮き世』と言い換えて、『何かに強く拘束されずに、気ままに楽しく生きる』ことを日常優先するところは、『したたか』であるとしか言いようがありません。

このような人達に『キリスト教』の『原罪』の概念などを説いても、ピンと来ないのは当然のことです。

そもそも日本人は、昔から『人間は単純に律することができない複雑な存在である』ことを、薄々感じて、それを肯定してきたように思えます。

物事には必ず異なった観方があると感じたからこそ、『江戸いろはかるた』のような諧謔で矛盾を笑い飛ばし、それを庶民が共有してきたのでしょう。

『清く、正しく、美しく生きなさい』と言われれば、表向きは神妙に『ごもっとも』といいながら、『世間はそれだけじゃ渡っていけません』とすぐに言いだしたりします。

『浄土真宗』の敬虔な信者は、一方で『門徒の世間知らず』などと諧謔のネタにされてしまいました。

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2018年5月 7日 (月)

物理学のための大規模実験が困難な時代に(4)

『宇宙』の構成を探るためには、『素粒子』といった微小な世界を究明する必要があり、このためには『ビッグ・バン』直後の『宇宙』を人工的に再現する必要があります。

勿論『ビッグ・バン』は、人工的に再現はできませんから、ごくごく微小な『ビッグ・バン』まがいな状況を作りだすという話です。

欧州連合の研究組織『CERN』が、スイスのジュネーブ郊外に建設した、全周27Kmの『加速器』は、世界最大規模のエネルギーを発生させることができ、このエネルギーで加速した『陽子』と『陽子』を衝突させ、瞬間的に『ミニ・ビッグ・バン』状態を起こし、出現する『素粒子』などを観測する装置です。

これを用いて、2012年に、第17番目の『素粒子』である『ヒッグス粒子』の存在とその質量が明らかになりました。

アメリカも、日本も『CERN』へ研究者を派遣し、共同研究をしていますが、やはり、自国の強力な『加速器』は自前で保有したいと科学者たちは望んでいます。

このエッセイの著者は、『CERN』の3倍のエネルギーを発生できる『加速器』の建設予算を、アメリカ議会が否認したことを、残念がっています。多分このエッセイを書く動機も、このことに由来するのでしょう。アメリカが自前の強力な『加速器』を保有していたら、更に新しい『素粒子』の発見もあり得たのにと述べています。

日本は、とても一国で膨大な予算は捻出できませんので、科学者たちは知恵を絞って、少ない研究費で何とか高エネルギーの『加速器』を実現しようと努力しています。

人類にとっての最大の謎である『宇宙』『生命』を究明するのに、なんとか科学者が思う存分研究できる環境を提供してあげたいと思いますが、アメリカのような大国でも、その予算は簡単には捻出できない時代になっているということです。

梅爺も、この著者の主張には同情しますが、自分が政治権力者であったとしても、『福祉』『教育』などの予算を削ってまでも、世界一の『加速器』を作れとは命令する自信はありません。

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2018年5月 6日 (日)

物理学のための大規模実験が困難な時代に(3)

『宇宙の最大の謎は、宇宙が理解可能にできていることだ』というのが『アインシュタイン』の名言の一つです。

『アインシュタイン』の時代も、現代も人類は、『宇宙』の全てを理解できているわけではありませんが、理解できたことはすべて、『摂理(法則)』に則(のっと)っており、ほとんどが驚くべきことに数式で論理表記できることです。

これを敷衍して推論すると、現在理解できていないことも、将来それを説明できる新たな『摂理』や数式が見つかるであろうということになります。

『アインシュタイン』が『宇宙が理解可能にできている』といっているのは、このことを指します。

しかし、さすがの『アインシュタイン』も、なぜ『宇宙』はこのように、見事なまでに『摂理』に支配されて成り立っているのか、そして何よりも何故『摂理』が存在するのかについては、皆目見当がつかないことを『宇宙の最大に謎』という言葉で表現していることになります。

『科学』にとって究極の謎は、『何故摂理が存在するのか』です。現状では手掛かりらしいものがみつかっていません。

『摂理は神がデザインしたものだ』と信じて、それ以上の追求をやめてしまいたくなりますが、それでは、『宗教』と同じ行動パターンになってしまうために、科学者たちは、『神に依る問題決着』を望んでいません。したがって、やがてこの究極の謎にも論理的な説明を求めて挑戦することになるのでしょう。

広大な『宇宙』を理解するためには、原子核、素粒子といったミクロの世界を対象にした『量子物理学』が必要になります。

『ヒト』という生物を理解するためにも、細胞といったミクロな世界を対象にした『細胞生物学』『分子生物学』が必要になります。

『マクロ』な世界と『ミクロ』の世界は、地続きにつながり、同じ『摂理』で支配されているということに、梅爺は驚嘆を禁じ得ません。

『宇宙』の中では取るに足らないちっぽけな『ヒト』の『脳』の中に、『精神世界(心)』という広大な仮想空間が存在することにも驚嘆します。

ひとつひとつの『摂理』は、比較的単純なルールですが、それらが創りだす『物質世界』の『変容』は多様であり、私達の眼には『神秘』に見えるものもあります。

138億年前の『ビッグ・バン』で『宇宙』の歴史は始まり、その『変容』の中で、『生命』が誕生し、『生物進化』を経て『ヒト』が存在しているという『因果関係』は、『科学』の定説です。

『ビッグ・バン』以降、『宇宙』で何が起きたかについては、多くのことが分かってきていますが、『ビッグ・バン』がなぜ起きたのか、現在の『宇宙』の70%以上の構成要素である『ダーク・エネルギー(宇宙を膨張させる要因)』『ダーク・マター(重力による膨張に逆らう要因)』の正体は分かっていません。

『宇宙の始まり』『宇宙の成り立ち』を理解する為には、『素粒子』の研究が欠かせませんが、この『実験施設』の建設と運用に、膨大な費用がかかることが、『科学』にとっての大きな問題です。

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2018年5月 5日 (土)

物理学のための大規模実験が困難な時代に(2)

このエッセイの著者が懸念していることは、現代人が『短期的な視点で利害を追求する』傾向が強くなり、『長期的な視点で、疑問に答える為の基礎研究投資をすることに消極的になりつつある』ということです。

背景には、『宇宙の謎』『量子物理学の世界の謎』『生命の謎』『人間の身体のしくみに関する謎』などを科学的に究明しようとすると、実験設備とその運用に膨大な費用がかかることがあります。

科学者は、『人類共通の謎』と解き明かすことこそ、『最優先事項』ではないかという主張になりますが、政治家や経営者にとっては、有限な予算をどの優先順序で何に割り当てるかが現実的な問題であり、『人類共通の謎』は確かに重要であったとしても、今はそれ以上に優先すべき課題があるという主張になるのでしょう。

これは、人間は『個性的』であり、立場や環境でも『価値観(優先度)』が異なることの典型的な例です。日本でも国家予算の割り当て検証の時に、『世界一速いスーパーコンピュータがどうして必要なのですか。二番目ではいけないのですか』と、予算を求める研究機関に詰め寄った女性政治家がいました。北朝鮮では、国民が飢えても、『大陸弾道弾ミサイル』『核兵器』の開発が最優先されています。

現代人が物事を近視眼的にしか見ないようになったという指摘は、ある程度あたっているのかもしれませんが、国家が研究投資に消極的になりつつあるというのは、そう単純に決め付けられないことであるように思います。しかし科学者からすると、そう言いたくなるであろう気持ちは分かります。

『実験』の大切さを主張するのは著者が『理論物理学者』であるからです。

『物理学』は『理論物理学』と『実験物理学』の両輪で成り立っています。

『アインシュタイン』や『湯川秀樹』は『理論物理学者』です。紙と鉛筆、それに現代ではコンピュータと『優秀な頭脳』さえあれば、『理論物理学者』はやっていけますから、これはそれほどお金がかかりません。

しかし、『理論物理』では、論理的推論で『仮説』を唱えることになり、それが『真』かどうかは、『実験物理学』による検証が必要になります。

現代は『量子物理学』『天体物理学』などの『実験検証』の為の実験設備やその運用に膨大な費用がかかる時代になっています。

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2018年5月 4日 (金)

物理学のための大規模実験が困難な時代に(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の56番目のタイトルは『Big Experiments Won't Happen(大規模実験ができそうにない)』で、著者はハーバード大学の理論物理学者、天文学者の『Lisa Randall』です。

科学者たちの究極な興味対象は、『宇宙はどのように進化してきたのか』『人間は(生物として)どのように進化してきたのか』『私たちの命のしくみはどのように構成されているのか』『宇宙はどのように構成されているのか』などで、これは『梅爺閑話』の大半の話題と同じです。

誰もまだ詳細は分かっていないからこそ、梅爺のような、知識、能力が乏しい爺さんでも『ああだろうか、こうだろうか』と能天気なブログが書けるとも言えますが、これらを追求する真の目的は、『何が人間をユニークな生物にしているのか』を知ることであり、更に『人間としてどのように生きるべきか』の理解を深めることにあります。

従って、『科学』が目指していることは、従来『神学者』や『哲学者』が問いかけ続けてきた疑問に、異なった視点から答えることでもあります。

ただ、『科学』が人間の『精神世界』を駆使して『物質世界(自然界)』の『摂理』の普遍的な『真偽』を明らかにしようとしているのに対して、『宗教』『哲学』は『精神世界』の中にとどまって『抽象概念』を扱った『推論』や『虚構構築』を行っていることが大きな違いです。

近世以前は『科学知識』が、現代に比べて極端に少なかったわけですから、『宗教』『哲学』が、『精神世界』の抽象概念を用いた『推論』『虚構構築』にならざるをえなかったのは、当然とも言えます。

しかし、多くの『科学知識』を獲得した私達は、その知識を利用して、昔の『神学者』や『哲学者』が推論した内容を検証することがでできる特権を保有しています。これを梅爺は『学際的な検証』と呼んでいます。『宗教の教義』や『哲学者の主張』を、違った視点で見直してみることは、現代の私たちであるが故にできる大切なことであると考えています。

『宗教』や『哲学』では、どうしても『真偽』をベースに論ずることが難しいために最後は『信ずる』という行為が求められます。『聖書の内容を正しいと信ずる』『カントの主張を正しいと信ずる』というようなことになります。

しかし『科学知識』をベースにした議論は、『信ずる』ではなく『知る(理解する)』というレベルに行きつけます。『科学』の場合も『仮説』がありますから、『信ずる』は皆無ではありませんが、『今のところそうであろうと思う』ということで、後に『真偽』が明らかになれば、『考え方を変える』ことは差し支えありません。これは『信ずる』ことを絶対視する『宗教』と異なります。

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2018年5月 3日 (木)

日本人はなぜ無宗教なのか(8)

科学知識を保有する現代の日本人では、想像しにくいことですが、古代、中世の日本人は災厄や不幸は『怨霊の祟り』『死者の穢れ』などが原因と、心の底から信じていたわけですから、『神道』の祭祀、『仏教』の『加持祈祷』、『陰陽思想』の占いなどを総動員して、これを断とうとしました。このためには『神道』と『仏教』の良いとこどりをした、『神仏混淆』の考え方も出現しました。

『仏教』は、葬式で『死者を安らかに成仏させる』ことを強調し、更に平安末期から鎌倉時代にかけて、『法然』『親鸞』などが、阿弥陀仏に念仏を唱えれば、誰でも『極楽浄土』へ行けると説法したために、日本人の心の底にあった『死者の祟り』『自分の死後の不安』が緩和するようになりました。

それでは、日本人は皆信仰の厚い『仏教徒』になったのかというと、そうではないところが、『人間』特に庶民のしたたかなところです。

『死』や『死後の世界』に関する悩みは、葬式で解決できるとして、その部分だけを『仏教』に頼り、寺と墓地は地元に導入しましたが、日常は、謹厳な生活よりは『思いのままに楽しく生きる』ことを優先しました。『仏教』が『葬式仏教』になってしまったのは、このためです。

『日本人はなぜ無宗教なのか』という本の著者は、江戸時代徳川幕府が主要学問とした『儒教』の影響も、日本人の精神性や宗教心に影響を与えていると述べています。

『仏教』が主に『来世』の安寧を保証してくれるのに対し、『儒教』は『現世』での身の処し方を説いています。『仁、義、礼、智、信』『君に忠、親に考』などという教えを、表向きは『ごもっとも』と受け入れながら、内心は『そういつもいつも堅苦しいんじゃ息が詰まりますな』と感じて、現実は『愉しく生きる』ことを優先しようとしたのではないでしょうか。

『仏教』が『現世』を『憂き世(苦しさが常態)』と表現したことを庶民は『浮き世』と表現を変えてしまい、『儒教』の『謹厳実直』を『諧謔』で笑い飛ばしてしまうようになりました。『江戸いろはかるた』などがその典型です。『庶民はしたたか』と梅爺が書いたのはこのことで、こういう庶民に共感を覚えます。

『来世』は『葬式仏教』で対応し、願い事があれば神社で『参拝』し、それでも『現世』は『せめて生きている間は楽しく』と『無宗教』を標榜する現代の日本人は、このようにして出現したことになります。

梅爺流に表現すれば、『精神世界』の『安泰を希求する本能』が全ての背景にあり、都合のよいことだけを選択しているということになります。

外国の『創唱宗教』を信仰する人達には、このような日本人は、『宇宙人』のような理解しがたい人達に見えるに違いありません。しかし、梅爺はこのような日本人は嫌いではありません。

日本人は無宗教であるのではなく、世界の常識から観ると一風変わった『宗教心』を保有しているということでしょう。

この話題は、まだまだ書きたいことが沢山ありますが、今回はここまでとし、またいつか続編を書きたいと思います。

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2018年5月 2日 (水)

日本人はなぜ無宗教なのか(7)

『怨霊の祟り』『死者の穢れ』『言霊の効現』が、災害や不幸をもたらす原因と考えて恐れていた古代の日本人は、懸命に『鎮魂の祭祀』や『穢れを祓う祭祀』を行ったに違いありません。神社の建立の主たる目的はそのことであったのでしょう。 

勿論自然を司る『神々』に、『豊穣』といったポジティブなお願いもしたと思いますが、何よりもネガティブなことを回避したかったのでしょう。 

しかし、庶民の感覚からすると、一向に災害や不幸がなくならないことから、『祭祀』の効果を疑う心が芽生え始めたのではないでしょうか。 

そのような頃、朝鮮半島経由で『仏教』が伝来し、当時の『識者』であった日本の指導者層は、『仏教』の洗練された教義や儀式に魅力を感じ、その効力に期待したのではないでしょうか。

『自分たちは遅れていて、海の向こうには進んだものがある』という意識は、古代から日本人につきまとい、現代の日本人の潜在意識の中にも受け継がれています。

明治維新後、有為な青年たちが『キリスト教』に憧れ、第二次世界大戦後は、進歩的文化人といわれる、何やら怪しげな人達が、西欧の思想を得意げに吹聴したのも、このためではないでしょうか。

サッカーのハリルホジッチ監督が『日本の選手は外国のチームをリスペクトしすぎる』と評するのも、受け継がれてきた精神性が関与しているものと思われます。

それでもスポーツや芸術の分野で、世界を相手に物おじしない若者が出現するようになりつつあることは、すこしづつ日本人の精神性が変容していることを示していています。しかし過度の『謙虚』が、一気に過度の『傲岸』にならないことを梅爺は願っています。

『聖徳太子』や『聖武天皇』が、『仏教』を国の基幹として『護国安寧』を願ったのは、新しいものに賭ける思いが強かったからでしょう。

国家を挙げて大仏を建造したにも関わらず、依然として災厄や不幸は一向に減らない為に、『桓武天皇』は奈良とその基盤であった古い『仏教』に見切りをつけ、京都に都を移し、大陸から新たにもたらされた新しい『仏教(密教)』に『護国安寧』を託しそうとしました。

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2018年5月 1日 (火)

日本人はなぜ無宗教なのか(6)

奈良時代、平安時代になると、昨日紹介した古代日本人が生活の基盤として『信じていたこと(怨霊の祟り、死の穢れ、言霊の効現)』に加えて、『仏教』とともにもたらされたインドの土着宗教の考え方『六道輪廻』が、社会常識として信じられるようになりました。

『六道輪廻』とは、あらゆる生き物は『地獄』『餓鬼』『畜生』『阿修羅』『人間』『天』の6つの世界を経めぐり続けるという考え方です。つまり、『前世』と『来世』の存在が信じられるようになったことになります。

このことは、死後『地獄』『餓鬼』『畜生』の世界へ落ちないように、当時の人々は『死後の世界の救済』を強く望んでいたということにもなります。

古代、中世の日本人が、日常『何を本当に信じていたのか』を理解しないと『何を望んでいたのか』『何を恐れていたのか』も見えてきません。

そして、現代の日本人が、あまり深く考えずに行っている宗教的『慣習』の多くは、昔の人達が切実に必要なものとして対応した行為そのものであると考えると、合点がいきます。

現代人は、昔の人ほど切実にその行為を行うのではなく、『それが社会の慣習であるから』ということで、『それらしい時に、それらしく振る舞う』ことで対応していますが、その背景にある『宗教的な意味』は消え失せてはいませんから、あまり意識はしていないにしても、『宗教』の影響を受けている、つまり日本人はある種の『宗教心』をもっていることになります。

日本人の『宗教心』の多くは、古代の土着宗教、それから派生した『神道』に関わるものですが、勿論『仏教』に関わるものも少なくありません。

『宗教』が民衆へ影響を与えたとも言えますが、一方民衆はしたたかに『宗教』を利用して、『安堵』しようとしたも言えます。その証拠に、『神道』からも『仏教』からも、都合のよい対応方法を採用しています。

日本の『仏教』はこのような民衆に迎合するために、『神道』と共存するようになったのではないでしょうか。

日本の『仏教』は、『葬式仏教』と言ってよいほど、死者を弔うことが中心になっています。それは、日本の民衆がそのことを望んだからではないでしょうか。『来世の救済』は、『神道』ではなく『仏教』の様式の方が、効力がありそうだと民衆が信じたからなのでしょう。

『寺』と『墓地』が隣接する形で、『寺』は日本中へ普及していきました。『仏教』は生きている人というより、死者の救済が主になり、日本独特の『葬式仏教』として今日にまで継承されてきたことになります。

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