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2018年4月30日 (月)

日本人はなぜ無宗教なのか(5)

日本人は『宗教的な考え方に起因する慣習』を受け容れていますから、『宗教心がない』わけではありません。とても『無宗教な民族』などとは言えません。むしろ、『非常に宗教的な考え方に影響を受けている民族』ということもできます。

『宗教的な考え方』があまりにも当たり前なこととして生活に溶け込んでいますので、それを『宗教』と自覚していないだけのことです。

それでは、『宗教的な考え方』の内容は、どのようなものなのでしょうか。それを考えるには、縄文時代から受け継がれている『土着の宗教とそれを受け継いだ神道の考え方』、その後伝来した『仏教の考え方』、そして徳川幕府によって奨励された『儒教の考え方』を全て鳥瞰し、相互の関連も見ていく必要があります。

『キリスト教の考え方』は、多くの日本人の潜在意識にある『宗教的な考え方』にほとんど影響を及ぼしていません。日本へもたらされてからの歴史が浅いことと、あまりに基本的な考え方が従来の日本の考え方と異なっているからです。一言でいえば、『一神教』と『多神教』の違いです。

あまりにも異なったことは、『憧憬』の対象にもなりますが、多くの場合は潜在的な『忌避』の対象になります。人間の『精神世界』はそのように振る舞うような習性を保有しているからです。『外国に憧れる』と『外国を嫌う』、『キリスト教に憧れる』と『キリスト教を忌避する』という心情は、同じ習性から生じます。

『日本人はなぜ無宗教なのか』という本の著者の阿満(あま)氏も、古代からどのような『宗教的な考え方』が日本人に影響を及ぼしてきたかという視点で論じています。

古代の日本の『宗教』は、『アミニズム(自然崇拝)』の一種であったと考えられます。自然現象の全てには『霊』が宿るという考え方ですから、『霊』を『神』と言いかえれば、当然『多神教』に類する『宗教』です。

人間は、周囲に存在する『摩訶不思議』な事象が、どうして起こるのかと『知りたい』と思い、その『因果関係』を説明するために、『霊(神)』という抽象概念を考え出したのでしょう。『霊』や『神(神々)』が自然界を支配しているという考え方です。『宗教』の原点はここにあると梅爺は考えています。

世界の土着宗教の大半は『アミニズム』に属するもので『多神教』ですから、寧ろ後に出現した『ユダヤ教』およびそこから派生した『キリスト教』『イスラム教』の『一神教』の考え方の方が『珍しい』考え方とも言えます。

古代の日本人が共有していた『宗教的な考え方』の重要な点は、以下に列記できます。

(1)すべての『天変地異』は、『怨霊の祟り』がもたらす。『怨霊』は、非業の死、不慮の死を遂げた人の『霊』である。
(2)『死』は『穢(けが)れ』であり、『穢れ』は不幸をもたらす要因である。
(3)言葉にも『言霊(ことだま)』が宿る。縁起が悪いことは口にしてはならない。

現代の日本人はさすがに『怨霊の祟り』は信じていませんが、『お祓(はら)いや、禊(みそぎ)で穢れを落とす』、『縁起の悪いことは口にしない』などという習慣は継承されています。

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2018年4月29日 (日)

日本人はなぜ無宗教なのか(4)

現在の日本存在する仏教の『寺』と、コンビニエンス・ストアの店舗と、どちらの数が多いのかというような質問をよく耳にします。

『寺』の数は7万8千弱、コンビニエンス・ストアの店舗数は5万2千弱で、『寺の数の方が多い』が正解です。

日本を訪れた外国人は、どこへ行っても『寺』があることを見て、『日本は仏教国である』と思うに違いありません。

確かに、日本人の多くは『仏教』を身近に感じ、『キリスト教』や『イスラム教』などより『仏教』に関する知識を沢山保有しています。6世紀の半ばに、『仏教』が日本に伝来して以来、『仏教』は日本人に大きな影響を及ぼしてきた歴史があるからです。

日本人のほとんどが今でも『葬式』は『仏教』の様式で行い、『お盆』には『ご先祖様』を『仏教』の様式で迎えます。

繰り返しで恐縮ですが、それでも現代の日本人の70%の人が『自分は無宗教である』と答えているのです。

これは、もともと『仏教に由来する行事』であったものを、日本人が『生活の中に溶け込んだ慣習行事』と受け止めるようになり、『慣習』は『宗教』ではないと思い込んでいるからと説明する以外に、説明のしようがありません。

このような考え方(常識)は、日本人だけに通用するもので、外国人には通用しません。

『神道に由来する行事』『仏教に由来する行事』を、『生活の中の慣習』として都合よく受け入れているだけで、日常『神道』や『仏教』への深い信仰に基づいた『生き方』はしていないという自覚があるために、『自分は無宗教です』と発言するのでしょう。

『慣習』として行事を行う時は、元々の様式を尊重しますから、『神道の祭祀』ではそれらしく振舞い、『仏教の祭祀』でもそれらしく振舞います。『その時だけの信者』を抵抗なく演じます。

『慣習』としていることには、『それを必要としている』からで、そのことについては後述します。

問題は、『創唱宗教』である『仏教』や『キリスト教』の教義が重視するような、『人としての生き方』『心の安らぎ』といった問題に、多くの日本人は『無関心』であり、もっとはっきり言えば『関わりたくない』『お説教がましい強制を受けたくない』と忌避する潜在意識が働いているようにみえることです。

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2018年4月28日 (土)

日本人はなぜ無宗教なのか(3)

日本人は『私は無宗教です』と言いながら、新年の『初詣』には出かけます。9000万人の人が『初詣』にでかけると言われていますから、病気でもない限り、赤ん坊から老人まで挙(こぞ)って『初詣』に出かけるという驚異的な数字です。

『神前結婚』『子授け祈願』『赤ん坊の初参り』『七五三』『家内安全祈願』『学業成就祈願』『交通安全祈願』『豊作祈願』『大漁祈願』『興行成功祈願』『スポーツ必勝祈願』『建築の地鎮祭』などが、日常の生活習慣として受け入れられていて、神社のお世話になっています。

梅爺が働いていたころ、最新の『コンピュータ』を製造する工場内に『稲荷神社』があり、毎月工場の幹部はそろって『安全祈願』の参拝をしていました。『最先端の科学技術』を駆使した『コンピュータ』の安全稼働は『神頼み』ということに、梅爺も苦笑しながら付き合っていました。

日本の田舎の家では、『神だな』『仏壇』があり、灯明、お供えなどを欠かさない習慣が残っています。

これらの対応を客観的に観れば、『日本人は宗教心を持っている』と言う方が妥当な気がします。

それにも関わらず、日本人の多くが『私は無宗教です』と答えて矛盾を感じないのはどういうことなのでしょう。

日本人にとって、『宗教』とは、『創唱宗教』である『仏教』『キリスト教』『イスラム教』のことであり、生活に溶け込んでいる『宗教的習慣』は『宗教』とは考えていないという実態が見えてきます。

元々『宗教』に関連する行事、習慣も、生活の中に溶け込んでしまうと、『宗教』とは無縁と受け止めていることが分かります。

『無宗教』を標榜しながら、『クリスマス』を受け容れてしまうのもこの為なのでしょう。『クリスマス』は年中行事の一つというわけです。

公共施設の建設で、『地鎮祭』を税金で行ったのは、『政教分離』に反し『憲法違反』かという裁判が過去に行われ、『最高裁』は、『慣習』で行われたことで『宗教(この場合は神道)』とは関係ない、つまり『憲法違反』ではないと判決を下しました。

『天皇家』が行う、『神事(神道の祭祀)』も国費が使われていますが、『憲法違反』ではないということなのでしょう。

いったん社会の『慣習』になったものは『宗教』とは言えないという日本でしか通用しない『常識』が成立していて、『最高裁』でさえそれを是認していることになります。それゆえに私たちは『宗教的行為』を日常行いながら『自分は無宗教です』と平然と言っていることになります。

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2018年4月27日 (金)

日本人はなぜ無宗教なのか(2)

日本人が、西欧のキリスト教文化圏の国を訪れた時、現地の人から『あなたが信仰する宗教はなんですか』と問われることがあります。

この時『無宗教です』と答えると、一般に大きな誤解を招き、時に軽蔑の対象になったりします。

キリスト教文化圏(多分イスラム教文化圏でも)では、『無宗教』は『神の存在を信じない人(無神論者)』と受け取られ、『人の道をわきまえない、自分勝手で、冷酷な人』とみなされてしまうからです。極端に言えば『まともな人間ではない』という印象を与えてしまうことになります。

日本では70%の人が『自分は無宗教です』と答えても、大きな問題にならないにもかかわらず、『異文化』の環境では大きな波風を起こしてしまう典型的な例です。『異文化』の中で『宗教』に関わることが最も厄介です。

以前アメリカ人の『結婚に関する意識調査アンケート』のデータを見たことがありますが、『結婚相手が無神論者であったらどうしますか』という問いに対し、『結婚しない』と答えた比率が最も高い数値でした。『人種が異なっていたら(肌の色が異なるなど)どうしますか』、『異なった宗教の信仰者であったらどうしますか』という問いに『結婚しない』と答えた比率より高いということです。

『無神論者』は『人でなし』『最低な人間』と同義語に近いということでしょう。

キリスト教文化圏で、自らの信念から『私は無神論者です』と宣言する人達は勿論います。イギリスの生物学者『リチャード・ドーキンス』などが有名ですが、彼らは、社会からの迫害(時に身の危険)、蔑視を覚悟の上での行為ですから、日本人の多くが能天気に『無宗教です』と言っているのとは大違いです。

日本で海外旅行がブームになり始めたころ、旅行社のガイドに『宗教を問われたら、仏教と答えるのが無難』などと書いてあり、本当にそう答えたら、今度は現地の人から『仏教とはどのような宗教ですか』と質問され、答えられずに恥をかいたなどというエピソードがこの本では紹介されています。

梅爺もブログを書き始めて、『お釈迦様の教え』の本質について、少し勉強しましたが、それ以前に『仏教とはどのような宗教か』と問われたら、しどろもどろになったに違いありません。

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2018年4月26日 (木)

日本人はなぜ無宗教なのか(1)

『日本人はなぜ無宗教なのか:阿満利麿(あま・としまろ)著(ちくま新書)』という本を読みました。

『お前さんはよくもまあ、そういう本を次々に探し当ててきて読みますね』と言われそうですが、自分の興味に素直に従うと、自然にこのようなことになってしまいます。

梅爺の興味の対象が『宗教』だけにあるわけではなく、人間の『精神世界』という広大な仮想世界に、なんといっても興味を惹かれます。

『宗教』や『芸術』は、その『精神世界』の産物ですから、どうしても『宗教』に関するブログが増えてしまいます。

勿論、『精神世界』を生みだしている『脳』のメカニズムや、その『脳』が現在のレベルに至った『生物進化』も、興味の対象です。

この本の著者阿満氏は、NHKでジャーナリストとして活躍した後に、明治学院大学の教授になられた方です。

日本人にアンケートをとると、70%の人が『自分は無宗教だ』と答えながら、そう答えた人の75%が『宗教心は大切だ』と答えているとこの本は紹介しています。

この一見『矛盾』する回答に、日本人の『宗教意識』の本質が含まれていることになります。

著者は、『宗教』を『自然宗教』と『創唱宗教』とに区分すれば、この『矛盾』は説明できると述べています。

『創唱宗教』というのは、『教義』を唱えた『教祖』が誰であるか分かっていて、多くの場合の『教義』を記述した『聖典、経典』が存在する『宗教』のことです。『創唱宗教』という表現は著者の『造語』です。具体的には『キリスト教』『イスラム教』『仏教』などが相当します。

一方『自然宗教』は、『教祖』が誰であるかは不明で、多くの場合『教義』をまとめた『聖典、経典』さえ存在しない『宗教』のことです。世界の土着宗教の大半が『自然宗教』で、日本の『神道』などもその出自を考えると『自然宗教』の一種と考えて良いのではないでしょうか。

日本人が『自分は無宗教だ』と言う時の『宗教』は『創唱宗教』を念頭に置いており、『宗教心は大切だ』と言う時には生活のなかで継承されてきた『自然宗教』の慣習、しきたりを念頭に置いているということになります。

つまり、日本人は自分で自覚していないとしても『自然宗教』への信仰心を保有しているという説明になります。

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2018年4月25日 (水)

データ村八分(4)

既に存在する『膨大なデータ』はどのような内容のものであり、それを管理しているのは誰で、それを『ある目的』のために解析しようとしているのは誰か、そしてその『ある目的』とは何かを、一般の人達(村八分にされている人達)に公開する社会的なしくみが必要になります。

しかし、残念なことに現状は、そのような議論さえ行われていません。

『個人情報』を悪用してはいけないという、法令はありますが、個人のインターネットの利用情報を、インターネット運用会社がシステム管理の目的で取得ししているのは『悪用』かどうか判然としません。

『アマゾン』で本を購入すると、『その本を購入された他の方は、このような本も購入されています』という別の本を紹介するメッセージが返ってきます。

これは、『親切』なのか『お節介』なのかは、受け取り様ですが、梅爺の『購入情報』が利用されていることは確かです。

このように、好むと好まざるを問わず、私たちは、『情報ネットワーク』の監視対象になっており、個人の行動に関わる情報も『膨大なデータ』の中に含まれています。

現代社会は『膨大なデータ』とともに進展しており、それは時代の特性として受け入れざるを得ないことですが、『一般の人達(データ村八分にされている人達)』が不利益をこうむる事態は、好ましいことではありません。

『膨大なデータ』に含まれてしまう『個人に関わる情報』の扱い方については、今後『明解な社会の約束事』にしていく必要があります。

このエッセイは、これについての警鐘を鳴らしているものと梅爺は受け取りました。

本質的には、『個人の権利(秘密にしたいこと)』と『社会の都合(安全保障、効率など)』が、同じではないことから発する問題で、『個の都合』と『全体の都合』が矛盾した時の普遍的な解決策がないことを考えると、これもまた難しい問題であることは確かです。

そうであるが故に『社会の約束事』が必要になります。『約束事』は大半の人が『受け容れる(許容できると認める)』内容を模索することで、『何が正しい』かを論ずることではありません。『憲法』『法』『道徳』はそのコミュニティの『約束事』に過ぎませんから、論理的に『真』であるとは言えません。

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2018年4月24日 (火)

データ村八分(3)

民主主義体制国家では、『情報社会』になって、国民がアクセスできる『情報』の量は、以前とは桁違いに増えました。

そのことで判断の選択肢が増えて良いことだと思いがちですが、『人間』の脳はそう単純なものではありません。

心理学者が主張するように、『人間は選択肢が多いほど、判断が遅くなったり、困難になったりする』という習性を一般的に持っています。勿論個人差はあります。

『味噌ラーメン』『醤油ラーメン』『塩ラーメン』しかメニューにないラーメン店で、注文を決める時と、数ページに及ぶメニューが用意されている中華料理店で注文を決める時のことを想像してみれば、『なるほど』と思います。

『人間』の脳の情報処理能力には限度があり、脳が採用している『選択アルゴリズム』は、多数の選択肢がある場合には適していないのではと推測できます。

気も遠くなるような『膨大なデータ』を、人間の脳は処理できないにも関わらず、コンピュータなら処理できるという話を、どのように受け止めるかが問題です。

『人間の及ばないことを補ってもらえるのでありがたい』と楽観的にとらえるか、『コンピュータが下した結論に、わけもわからず従うのは危険だ』と懐疑的に受け止めるか、皆さまはどちらですか。

人間の医者が発見できないような病気を、『データ解析』でコンピュータが見つけてくれる、『宇宙』に存在する『地球』と似た環境の『惑星』を、『データ解析』でコンピュータが見つけてくれるなどという話は、『ありがたい』部類の属しますが、コンピュータが、個人思想、行動に関する『膨大なデータ』を解析して、身に覚えのない人を『あなたはテロリストである』と摘発するようなことが起きれば、それは『危険』な部類に属します。現にアメリカでは、国家機関が『テロリスト』割り出しに、『膨大なデータ』解析を用いています。

『情報社会』の初期の段階では、『デジタル・デバイド(情報処理能力の格差)』が問題でした。コンピュータを利用できる環境に身を置き、コンピュータを使いこなすことができる人と、そうでない人の間で、社会的、経済的に有利、不利が極端に分かれることを危惧した議論でした。

勿論、この問題は今でも存在しますが、もっと『恐ろしい事態』が進行していることを私たちは知っておくべきです。

それは、『膨大なデータ』にアクセスし、それを解析できるのは、一握りの人達で、その他の大多数の人々は、『村八分』になっているということです。

しかも解析結果が、『村八分』にされている人達にも及ぶとなれば、放置はできないことになります。

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2018年4月23日 (月)

データ村八分(2)

ネットーワーク上に、膨大に蓄積され続ける『膨大なデータ』に、私達個人は、自由にはアクセスできません。 

たとえアクセスできたとしても、『膨大なデータ』を解析する能力を持ち合わせていません。つまり、『膨大なデータ』から『村八分』にされているということです。 

解析するプログラムのしくみは『アルゴリズム』と呼ばれるもので、今や数学の天才など限られた人達が開発に携わっています。『検索エンジン』などはその代表例です。 

『アルゴリズム』には『AI(人工知能)』のしくみも組み込まれますので、人間ではとても予測できないような、『解析結果』が得られたりします。 

『スーパーマーケット』の『膨大なデータ』を解析したら、『週末帰宅途上で買い物に来たサラリーマン男性は、子供の紙おむつを買う時に缶ビールも一緒に買う傾向が強い』というような『解析結果』がでたというアメリカの話を聞いたことがあります。 

奥さんに頼まれて『紙おむつ』を買ったサラリーマン男性は、ついでに自分の為に『缶ビール』を買うという傾向が強いとなれば、『スーパーマーケット』は、『紙おむつ』売り場の隣に『缶ビール』を陳列して、売上増加を狙うことになります。 

流通業の『マーケティング(市場戦略)』『マーチャンダイジング(商品)戦略』『棚陳列レイアウト』などにも、『膨大なデータ』の解析が適用されます。勿論、『保険業界』『金融業界』も新商品の開発には、同様な方法が適用されます。

人間の歴史の中で、常に特定の『情報』を握っている人が『権力者』になりました。逆に『権力者』は、『情報』を独占しようとします。 

インカ帝国の王様は、太陽の運行を観測して、農耕の『種をまく時』を特定し、国民に知らせ、それゆえに崇められていました。 

現代社会でも、同じことで『情報』を握っている者が『強者』になります。『情報』は『権力』に結びつくという話は、今も昔も変わりありません。 

独裁国家や一党独裁国家では、国民が自由に『情報』にアクセスすることが強く制約されますが、これは独裁者や独裁政権にとって、都合の悪い『情報』が国民に知られると、体制が崩壊してしまうという恐れを、『権力者』が抱くからです。 

しかし、昔と違って現代は、『情報』を隠ぺいすることが、難しくなりつつあります。北朝鮮や中国の『権力者』にとっては頭が痛い話でしょう。 

話を日本のような『民主国家』に戻せば、『膨大なデータ』にアクセスし利用できるのは、ごく一部の人達で、残りの大半の国民は、『村八分』にされているということになります。 

この状況を『民主主義』と呼べるのかが大きな問題です。

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2018年4月22日 (日)

データ村八分(1)

『What Should We be Worried About ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の55番目のタイトルは『Data Disenfranchisement(データ村八分)』で著者は英国の編集者『David Rowan』です。

現代は、『情報化社会』と呼ばれていますが、それは私達個人にとって、『便利な情報処理が利用できる』というありがたい側面と同時に、ネットワーク上に膨大に蓄積された『データ』を利用して、見知らぬ誰かが、『何かを企んでいる』という恐ろしい側面を孕んでいます。

このエッセイは、後者の『ネットワーク上のデータを利用して誰かが何かを企んでいる』ことを危惧する内容です。

世界規模で、刻一刻どれほどの膨大なデータが情報処理システムに、取り込まれ、蓄積されているかは想像を絶する量に登ります。

『気象衛星』の気象データ、『偵察衛星』の地上状況データ、『道路管理システム』の通過車体データ、渋滞データなど例を挙げれば切りがありません。

『YouTube』『FaceBook』『Instagram』などに、登録者が投稿する、動画、静止画、会話文章が、毎分毎秒どのぐらい増え続けているかも、膨大な量であることは容易に想像できます。

『インターネット・ブラウザ』を提供している『マイクロソフト』『グーグル』『アップル』などは勿論のこと、通販などを提供する主要ホーム・ページ提供会社も、利用者の全てのアクセス記録を採取、蓄積しています。

『スーパーマーケット』の本部には、各店舗から消費者のレジ通過情報が集められ、『金融機関』も当然窓口、ATMの個人別取引データを収集・蓄積しています。

アメリカでは、テロ防止のために、全ての『電話会話記録』が、国家機関によって録音されていると言われています。

『膨大なデータ(ビッグ・データ)』が収集・蓄積されるだけなら、一般市民には直接影響がありませんが、この『膨大なデータ』を、誰かが解析して、その結果を用いて『何かを企む』ということになると、影響がないなどと澄ましていられなくなります。

インターネットを利用する限り、私たちは、『監視対象』になっていることを知っていなければなりません。『個人情報』は悪用されないなどと能天気に信用するわけにはいきません。どこまでが悪用なのか、明確な規制がないからです。私達の行動パターンは、筒抜けに見透かされているのです。

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2018年4月21日 (土)

『侏儒の言葉』考・・小児(4)

昨日まで、梅爺は『軍人』を少しばかり擁護するようなことを書いてきましたが、勿論『軍人』には社会の弊害になる側面もあることは承知しています。

それは、コミュニティの安全を守るための目的を越えて、『他のコミュニティを軍事侵略する』目的として活動することと、自分が属するコミュニティの権力者や権力組織と結びついて、『戦う』以外の政治内容にも介入することです。

なぜ日本が『第二次世界大戦』で、多くの国民の命を失い、国が焦土になるような結末に追い込まれたのかは、勿論単純な因果関係で論ずることができない問題ですが、『軍人』が政治権力と結びつく危険を、誰も阻止できなかったという原因は、大きな影響力をもったことは確かでしょう。

明治維新政府が、列強に追いつくために『富国強兵』策を採り、近代装備の『軍隊』組織して以降、やがて『軍隊』は肥大化して、時に『天皇』の威(統帥権)を借りて、シビリアン・コントロールの聴かない『妖怪』に変貌していきました。

アメリカとの国力差を知っていた『山本五十六』は、『日米決戦で勝つ』などということは『理』で判断すればゼロに等しい確率であることを承知していたはずですが、『軍人』として最終命令には従うという選択をすることになりました。『軍人』という立場の恐ろしい側面を如実に示す事例として、悲劇的です。

『芥川龍之介』が、『軍人は小児に似ている』とこき下ろす主張をしても、それは個人的な価値観ですからかまいませんが、あまりにもまっとうにシニカル過ぎて、梅爺はこれを読んで『ニンマリ笑う』というより『苦笑』せざるをえませんでした。もっと『軍人』の表面ではなく本質へ迫ってほしいと感じました。

『夏目漱石』ならば、同じことを論じても、江戸の文化を受け継いで、もっと『諧謔』表現で、『軍人』を笑い飛ばしたのではないでしょうか。

民主主義、シビリアン・コントロールが根付いている現代日本では、『軍人』が再び『妖怪』となる危険は少ないと思いますが、『軍人』ではない他の思いもよらない『妖怪』が現れ、誰も阻止できない状況にならないとは限りません。

多くの国民が、物事の皮相な側面ではなく、本質を自ら考えるようになれば、その危険を回避できると梅爺は期待しています。

誰かが何かを痛烈にこき下ろしたら、『そうだ、そうだ』と追従する前に、他の価値観や本質について少し考えて観ることが大切であると思います。

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2018年4月20日 (金)

『侏儒の言葉』考・・小児(3)

『軍人』は小児並みの頭の持ち主で、振る舞いも幼稚と『こき下ろす』前に、『軍人とは何か』『幼稚なように振る舞うことには意味があるのではないか』ということも少しは考察すべきではないでしょうか。『軍人』という特殊な職業の本質を考えてみるということです。

『軍人』という専門の職業が、出現したのは人類が『文明』を築いてからのことです。

日本でも、専門の『職業軍人』が出現したのは、平安後期、鎌倉時代の頃で、それまでは、日常は農耕などに従事している人が、『非常時』に、『兵卒』として駆り出される人達でした。

『軍人』は、自分が属するコミュニティにとって、有利となることを獲得するために、『敵』と『戦う』ことを使命とします。『戦う』ことには常に『死』が付きまとい、それを覚悟しなければならないことを意味しますから、『軍人』は極めて特殊な職業になります。

『軍人』には『戦い』や『死』を自分に納得させる『大義』が必要であり、また隊を組んで戦う時の効率を考えると、『規律』を優先させる必要があります。『上司の命令は絶対』などという特殊な価値観が必要になります。

いざという時に逃げ腰になるようでは『軍人』は役に立ちませんから、『死を覚悟した誇り高き人』というイメージを創り上げるために、普段は『りりしい軍服』をきて、周囲からの尊敬をかちとる状況が準備されます。若い女性は『りりしさ』に惚れたりします。『戦い』で功績があった人には『勲章』『功賞』を与えて、より高い尊敬の対象になるよう仕向けます。これで、『軍人』はいざという時に、逃げられなくなります。

このようにして、特殊な価値観、振る舞いをする『軍人』集団がコミュニティに出現したことになります。勿論、コミュニティにとって必要であるからこそ、『軍人』が存在していることになります。

このように考えると、『軍人』はある意味で、『単純な規律を守り』『幼稚に見える振る舞いをする』必要があるということになります。

現在の日本や、『芥川龍之介』の時代の日本に『軍人』が必要かどうかという議論は簡単ではありません。

『軍人』は『小児並みの愚かな人達』で、コミュニティにとって『無用の長物』と言えるならば簡単ですが、そうはいきません。

梅爺が能天気にブログを書いたり、『芥川龍之介』が『侏儒の言葉』を書いたりできるのは、『軍人』の存在で、国の安全が保たれているからかもしれません。ひょっとすると、『軍人は小児並み』と『こき下ろす』だけの行為は、滑稽なことかもしれません。

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2018年4月19日 (木)

『侏儒の言葉』考・・小児(2)

人は他人から自分の存在を否定するようなことを言われれば、立腹するのが普通の反応です。 

『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があるからであろうというのが梅爺の推測です。 

自分の存在を否定される、または蔑まれるということに対して『精神世界』は、『安泰が脅かされた』と感じますから、無意識に反発しようとします。よほど理性の抑制が利く人でない限り『立腹』が表面化してしまいます。 

『お国のために身を捨てる覚悟でいる』と自分を美化して納得している『軍人』が、『あなたは小児なみで大人ではない』とこき下ろされれば、『立腹』するのは当然です。『お前は何さまのつもりなのか』と言いたくもなるでしょう。

『芥川龍之介』がこの文章で指摘していることは、ひとつひとつそのことだけを取り上げれば『そういう観方もできる』といえることです。

日頃から『軍人』が偉そうに振る舞うことを、苦々しいことと感じていた読者は、これを読んで『快哉(かいさい)』を叫んだかもしれません。

しかし問題は『芥川龍之介』が、人間の『精神世界』は宿命的に個性的であり、同じ事象を観ても、一人一人『考え方』『感じ方』が異なるという事実を、どれだけ理解していたのだろうかということです。

もし自分の主張は『まともな大人の正しい主張』であり、『軍人』の振る舞いは『愚かな小児並みの振る舞い』と心の底から信じて論じているのであるとするならば、『芥川龍之介』という人物の器はそれほど大きくないと言いたくなります。

何故ならば、異なった『精神世界』の価値観から観れば、『芥川龍之介』のような『文人』は、『世の中の、役立たずの穀つぶし』と言われてしまうこともありうるからです。つまり、『軍人』や『文人』ばかりではなく、『学者』『聖職者』『芸術家』『政治家』でさえも、特定の価値観で『こきおろす』対象になるということです。

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2018年4月18日 (水)

『侏儒の言葉』考・・小児(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』に登場する話題『小児』に関する感想です。

『芥川龍之介』は、『小児』という短い文章の中で、『軍人』を徹底的にこき下ろしています。

この文章ゆえに『芥川龍之介』は、軍部から『非国民』『危険思想分子』と糾弾され、『侏儒の言葉』は発禁処分になったというような話を聞いたことがありますが、梅爺には真偽の程は分かりません。ただ、『富国強兵』が日本の国是であった時代ですから、さもありなんと思います。

短い文章なので、ご参考に全文を掲載します。

軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更言う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(ラッパ)や軍歌に鼓舞されれば、何の為に戦うのかも問わず、欣然と敵に当たることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具と似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も・・・わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒に酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

現代の日本に生きている梅爺は、これを読んで、論旨は理解できますが、『軍人』に対する一方的な蔑視の姿勢には少し違和感を覚えます。このような価値観を有する人が、世の中にいてもおかしくないとは思いますが、『私はまとも、軍人は愚か』という単純な構図が気になります。世の中にはこのようなもの言いで溜飲を下げる人が多くいますが、梅爺は失礼ながらその人の器を少し疑うようにしています。

『侏儒の言葉』は、『芥川龍之介』という人の『精神世界』を垣間見ることができるという点では面白い読み物です。

日本を代表する『文豪』が書いていることなので、『内容は正しいに違いない』などという先入観念は梅爺は持ち合わせていません。

『科学論文』や『数学の解説書』ではありませんから、そもそも『正しい、間違い』を論ずる対象にはなりません。

同じ『事象』を観察しても、人に依って『考え方』『感じ方』は異なります。『芥川龍之介』がこのような文章を書いたのは、軍人が威張り散らしたり、巾を利かせたりする当時の世相を、余程腹にすえかねたからなのでしょう。

勿論、『ホンネ』が吐露されていますが、このような過激な文章を発表すれば、身に危険が迫るということも覚悟の上で書いたのでしょうから、その勇気は評価に値します。

その点は、能天気に『梅爺閑話』を書いている梅爺とは、社会環境が異なります。現在の、日本が、当時より成熟した社会であることの証拠なのでしょう。そのことに感謝したくなります。

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2018年4月17日 (火)

技術と魔術(4)

現在の『技術応用製品』の多くは、多様な要素技術が複雑に組み合わされて実現されたものです。

『パソコン』や『スマホ』は、『高集積半導体技術』『多重化無線技術』『高度なソフトウェア技術』などがあって実現できたものです。

表面的に『一つの機能』を実現するために、裏側では膨大な、論理的因果関係が連鎖して作動しています。多くのエンジニアの時間をかけた努力がそれを生みだしています。

『インターネット』を利用した『検索』を利用する時に、私たちは『キーワード』を入力し、ボタンを押すと『関連情報』が画面に表示されるという単純な因果関係でこれを受け入れがちです。しかし、裏側では、膨大な『データベース』から効率よく『関連情報』を抽出するための、高度な『ソフトウェア』や、高度な『通信技術』が働いています。つまり、膨大な因果関係が連鎖しているということです。非常に頭の良いソフトウァアエンジニアや、通信エンジニアがこれに関わっています。

ボタンを押すと『関連情報』が表示されるという、単純な因果関係は、『魔術』の場合の『呪文』を唱えると『不思議な現象が起こる』という単純な因果関係に似ています。

このために、多くの人達は、『技術』と『魔術』が区別できなくなってしまいます。これが引き起こす弊害をエッセイの著者は危惧していることになります。

『技術応用製品』ばかりではなく、世の中の大半の事象は、表面化している事象の裏側に、無数の因果関係が連鎖していることを、私たちは理解すべきです。

『人間が愚かなために、戦争やいじめ、差別がなくならない』などという、単純な因果関係で論ずるのは、あまりに皮相な考え方です。

『戦争』や『いじめ、差別』の本質は、人間が生物としてどのように進化してきたのか、一人一人が個性的であることを宿命づけられていることは人間社会に何をもたらすのか、などまでさかのぼって考えなけらば見えてきません。

梅爺は、このことを考えて『安泰を希求する本能』という『精神世界』を支配する価値観にたどり着きました。

何を『安泰』と考えるかの価値観も一人一人個性的に異なっているわけですから、人間社会に相克が生ずるのは、ある意味で当然のことです。

理想論を言えば、『全ての人が、相互の価値観の違いを認めて理性的に振る舞う』ことですが、人類の歴史でこのようなことが実現できたことはありません。梅爺も、あらゆる場合そのように振る舞えるという自信もありません。

『戦争反対』とデモで叫んでも、『戦争』はなくならず、『いじめは良くない』と『道徳教育』を強化しても『いじめ、差別』はなくなりません。『人間』は誰もが『素晴らしい側面』と『おどろしい側面』の両面を持ち合わせていますが、その根源は『安泰を希求する本能』であろうと梅爺は考えています。

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2018年4月16日 (月)

技術と魔術(3)

梅爺は、ショウビジネスとしての『マジック』は大好きで、ラスベガスを訪れた時には必ずと言ってよいほど『マジック・ショー』『イリュージョン・シアター』を観に出かけました。 

ラスベガスには、有名な『マジシャン』のために建てられた専門の劇場がいくつかあり、本物の象が舞台から突然消えたり、人を乗せた自動車が空中浮揚したりと、奇想天外なショーが繰り広げられます。 

しかし、梅爺は『カルト』に属する『魔術』は信ずる気にはなれません。 

梅爺の好きなブラジル人作家『パウロ・コエーリョ』の小説では、『カルト』が『人間には理解できない神秘な現象』として、多くとりあげられますが、これは『パウロ・コエーリョ』の『精神世界』の価値観で、梅爺とは違うと割り切って読むことにしています。 

勿論人間の『精神世界』という、複雑深遠な世界を『カルト』を利用して描きたくなる『パウロ・コエーリョ』の気持ちは理解できないわけではありません。『精神世界』は不思議な世界で、多くのことが現在でも科学的にも解明できていないからです。

『分からない』ことは放置できずに、何らかの『因果関係』を推測したくなるのは、昔の人も現代人も同じです。ただ保有している『科学知識』の量が違っているだけです。

著者は、最近のパソコンやスマホが、『AI(人工知能)機能』と称して、お節介をやいてくれるのは、時に煩わしいと書いています。

これは、『技術』の本質は何かを示唆している重要な指摘です。

梅爺は『技術』を応用したものは、あくまでも『人間』の『道具』であるべきと考えています。『道具』をどのように使いこなすかは、『人間』に委ねられるべきという考え方です。『人間』が『主(あるじ)』、『道具』は『僕(しもべ)』とする主従関係が大切ということです。

ところが、最近では、この主従関係が逆転してしまうようなものが出現しはじめました。『AI(人工知能)の応用』などが最たるものです。『人間』は何も考えずに、『道具』の指示に盲従し、『便利でありがたい』などとこれを歓迎する人まで現れています。

これは、『人間』にとって非常に危険なことです。

裏側で何が行われているかを考えずに、表面的な事象を、『便利』『素晴らしい』として鵜呑みに受け容れる人が増えることは、『人間社会』を思わぬ落とし穴へ導きかねません。

『人間』は非才ですから、『考えて』判断しても間違うことがあります。しかし、『考えず』にズルズルと不都合な状態へ追い込まれることは、『人間』の尊厳を放棄した恥ずかしいことではないでしょうか。

『魔術』と『技術』の違いを区別することも重要ですが、『技術』そのものも鵜呑みにすることは慎重であるべきです。

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2018年4月15日 (日)

魔術と技術(2)

このエッセイの著者が危惧しているのは、現代人の多くが、『技術』の最終成果のみを『便利』『快適』なものとして受け容れ、その最終成果をもたらす前段の『因果関係』または『因果関係』の連鎖には興味を示さないことです。

つまり、表面的な『事象』が『便利』『快適』であれば受け容れるという刹那的な対応になっていて、『なぜそのようなことが可能なのか』『長所の裏側に潜んでいる短所は何か』などを考えることを放棄していることに対する危惧です。

現代の『最新技術』は、あまりにも複雑であり、その詳細を理解できるのは一部の専門家であることは確かですが、『技術』の本質的な意味は、普通の人でも努力をすれば理解することができます。

『技術』ばかりではなく、周囲の事象の本質的な意味を『考えてみる』ことは、現代社会を生きる人間にとって重要なことです。

本質を考えてみれば、表面的には長所ばかりが強調されていることの裏側に、短所が必ず潜んでいることに気付きます。

『広告』などでは長所ばかりが強調されますが、つられて購入してみると、思いもよらない短所が露呈することがあります。薬には副作用があったり、吸引力の強い電気掃除機は、騒音がひどかったりします。

『先端技術』に話を戻せば、東日本大震災で、『原発』の脆弱さがもたらす甚大な被害を私たちは体験することになりました。震災がなければ、『便利』『効率の良さ』『経済性』など、『原発』の長所だけが今も強調され続けられていたのではないでしょうか。

『iPS細胞』による『再生医療技術』、『自動車の自動運転』など、確かに長所は魅力的ですが、裏側に短所が潜んでいることには変わりがありません。

表面的な『事象』だけを受け入れるという態度は、『技術』と『魔術』とを区別できないことを意味します。

他人から『これが正しい』と言われると、『なぜ正しいのか』などを自分で深く考えずに受け容れてしまうことにもなります。

『自爆テロで多数の異教徒を殺害すれば、天国でアッラーの神の祝福が受けられる』などという過激な聖職者の言葉を信じてしまう、純真な若者が続出することに、私たちは困惑しますが、自分の『理性』で『考える』訓練を怠ると、人間はこのように振る舞う恐ろしい習性を保有しているということにほかなりません。

『技術』と『魔術』を区別できないことは、やがて本質を理解せずに鵜呑みにしてしまう人達、言い換えれば『理性』で考えることを放棄した人達が増えるということで、著者は危惧しているのでしょう。

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2018年4月14日 (土)

魔術と技術(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の54番目のタイトルは『Magic(魔術)』で、著者はMITの物理学者『Neil Gershenfeld』です。

内容は、人々が『魔術』と『技術』を区別できない現状を危惧したものです。

有名なSF作家『アーサー・クラーク』の言葉『成熟した最新技術は、いずれも魔術と区別できない』に触発されてエッセイは書いています。

『技術』は、『物質世界』で見つかった『摂理(ルール)』を、何かの目的に応用するための手段です。『摂理』は、普遍的な因果関係に立脚していますので、『技術』は『こうしたから、そうなった』という論理的な説明が可能です。そのような因果関係が複雑に連鎖することもあり、最終的な現象が摩訶不思議に見えることがあります。それでも、必ず論理的な根拠が背景に存在します。

一方、『魔術』は、一見摩訶不思議に見える現象の背景は、論理的に説明されることはありません。

ショービジネスとして演じられる『マジック』は、観客を欺くことが目的ですから、『種明かし』は行われません。『種明かし』されないだけで、実際には論理的な因果関係を利用した『種』があります。多くの場合この『種』は『技術』を応用したものです。観客は『騙された』ことは承知の上で、不思議であればある程、マジシャンの腕前を賞賛します。

厄介なのは、『カルト』という『狂信的な世界』で用いられる『魔術』です。人間の知識や能力を越えた『ある力』が働いて、摩訶不思議に見える事象が起きたと説明され、人々は『信ずる』ことでそれを受け入れます。

『宗教』を『カルト』と呼ぶことには、多くの宗教関係者が異を唱えると思いますが、『宗教』は『信ずる』ことを基盤としていますので、『カルト』的な側面が必ず付きまといます。

『信ずる』という行為は、『科学』『技術』の世界では無用なものです。科学者が『私はこれが正しいと信ずる』などと言えば、ただ嘲笑の対象になるだけです。

ショービジネスの『マジック』では、『騙された』と認めても、『神の天地創造』『大天使の処女マリアへの受胎告知』『キリストの死後三日目の蘇り』は、『信じて受け容れる』ことがキリスト教の信仰者には求められます。『疑う』ことは、『神への冒涜』となり畏れ多いことになってしまいます。

『宗教』には『カルト』の側面が付きまとうと、梅爺が書いたのはのは、このようなことを理由からです。

『宗教』は、本来人々を『惑わす』目的で人間社会に定着してきたのではありません。周囲に摩訶不思議な事象の起こる『因果関係』を、論理的に説明する『知識』を持たなかった当時の人々は、『神仏』といった、抽象概念を想定することで、『神仏のみ業(わざ)』として不思議な現象を説明し、自分を納得させようとしたに違いありません。

やがて、『神仏』を、『愛』『慈悲』『罪の購い』などの更に高度な抽象概念と結びつけることで、『宗教』は人々に『心の安らぎ』という、『精神世界』にとっては最も重要なものを提供するものに変わりました。『宗教』は、人間として生きる上で必要なものになりました。

『心の安らぎ』を得るために、『カルト』的な側面も必要とされるということが、多くの『科学知識』を獲得した現代人にとって、『矛盾』になりつつあります。

『宗教』がこの『矛盾』をどのように克服するのかが、梅爺の興味の対象です。『信じなさい。そうすれば救われます』というだけの説法では、通用しない時代に突入してしまったからです。

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2018年4月13日 (金)

ミクロコスモス『生命』(8)

『ヒト』の場合『細胞』の『核』の中に、23X2(46)本の『染色体』が存在し、『染色体』はひも状の『DNA』が折り畳まれた形で収納されたものです。 

『DNA』には、4種の『ヌクレオチド(塩基)』をアルファベット記号のように利用して、『細胞』が、20種の『アミノ酸』の中から、どれを選び、どの順序でつなぎ合わせて特定の『たんぱく質』をつくるかといった『指令』が記述されています。『ヌクレオチド』を1文字と換算すると、『ゲノム(DNAに記述されている情報)』は30億文字に相当する『情報』となります。『ヒト』の設計書は30億文字で記述されているという話です。 

しかし、『DNA』の情報で、『たんぱく質』をつくるための『指令』部分は全体の3%程度であり、残りの97%は『ジャンク情報』と呼ばれています。 

多くの科学者は『ジャンク情報』には、まだ私たちが解明できていない特別な意味が込められているのではないかと推測しています。『生物進化』の過程で、無駄な情報が大量に残るということは考えにくいからです。たとえば、どの環境条件で『たんぱく質』をつくるのかといった、タイミングを指定しているのではないかというような推測がその一つです。『ヒト』の身体は思春期になると、特定の機能の発現がありますが、なにがそのタイミングをコントロールしているのか、詳細が分かっていません。 

『DNA』には、驚くべきことに情報処理の世界で『エラーチェック・自動修正機能』と呼ばれている機能が備わっています。文字情報の一部が、正しくない文字に置き換わっても、それを検出して修正してしまうということです。 

このおかげで、私たちは、正常な身体を維持していることになりますし、親から子供へ正常な遺伝子の受け渡しも行われます。 

しかし、この機能も完ぺきではありませんから、非常に稀な確率で、異常な遺伝子情報が生ずるはことになります。難病の多くは、この異常遺伝子情報で発症します。

『たんぱく質』は、『アミノ酸』が『DNA』の指令に基づいてひも状に連なったものと書きましたが、これは『たんぱく質』の『一次構造』と言われるもので、実際にはその『一次構造』の『たんぱく質』は、折り畳まれて目的別の『構造体』になり、その『構造体』同士が連結したりして、『四次構造』までの更に複雑な『構造体』になります。

この複雑な『構造体』がその『たんぱく質』の重要な資質であり、その表面にできる凹凸が、『たんぱく質』が周囲環境と化学反応する時の重要な役目を果たします。

『たんぱく質』の素材となる『アミノ酸』には、『親水性』と『疎水性』の二種類があり、『たんぱく質』も『親水性』の部分と『疎水性』の部分を保有することになります。水で満たされている『細胞』のなかで、『たんぱく質』が安定した状態を保つには、『親水性』の部分を表面に、『疎水性』の部分を内側にして『構造物』は折り畳まれなければなりません。

『細胞』の中には、この『折り畳み』が正常に行われるように手助けする補助役の『たんぱく質(分子シャベロン)』もあることが分かってきています。

今まで紹介してきたことは、『たんぱく質』の驚くべき機能のごく一部に過ぎません。

私達の身体の中にある『ミクロ・コスモス』ともいえる壮大な生命維持システムは、言い換えれば複雑に張り巡らされた『ネットワーク・システム』でもあります。神経細胞ネットワークで電子的な信号伝達が行われ、血液の循環システムを利用して、エネルギー源や情報媒体である化学物質が身体の隅々にまで送り届けられます。全てが『物質世界』の『摂理』に則って機能しています。

人類の最高の知恵者を総動員しても、このような『システム』を設計することができるとは限りません。

永い時間をかけたとはいえ、『物質世界』の『摂理』が、偶発的な試行錯誤の中で、このような見事な『システム』に到達したことに、梅爺はただただ驚嘆するのみです。

『たんぱく質』の他の驚くべき役割については、機会を改めて書きたいと思います。

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2018年4月12日 (木)

ミクロコスモス『生命』(7)

『ビッグ・バン』から、私たちが存在するまでになったプロセスは、壮大なドラマです。しかしその因果関係は、明解に提示できます。

このドラマの内容は、宗教が唱える『神に依る天地創造』とは、あまりにもかけ離れています。

『天地創造』は6日間で行われ、最後の日に『人間』が創られたという話になっていますが、現実は、『ビッグ・バン』が138億年前であるのに対して、『人類種』の出現は500~800万年前、『ホモ・サピエンス』に至っては17万年前ですから、相対的にはごくごく最近のことで、逆に言えば『宇宙』の歴史のほとんどは、『人間不在』であったということです。

『人間』の出現に『神』が関与したとすれば、『神』は138億年間辛抱強く待っていて下さったことになります。

しかし、『神』の関与は、どう考えても疑わしいことを『科学』は明らかにしています。それは、『ビッグ・バン』から必然的に『人間』が出現したのではなく、無数の幸運な『偶然』が重なって、『人間』が出現したことを物語っているからです。

一つでも『偶然』の内容が異なっていたら、私たちは存在していないということです。例を一つだけ挙げれば、『太陽』という恒星の惑星として『地球』が『ハビタル・ゾーン(生物が生命活動を行うことができる自然環境)』の周回軌道に存在しなかったら、私たちは存在していなかったということです。

このような、危なっかしいことに『神』が『賭けた』とは考えにくいことです。

無数の幸運な偶然を演出したのが『神』であるという逆の主張もあるのでしょうが、梅爺は『偶然の連鎖』の方が妥当であるように思います。

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2018年4月11日 (水)

ミクロコスモス『生命』(6)

『宇宙』が出現(ビッグ・バン)したことで、私たちが存在しているという因果関係は、現在では科学的な『常識』です。

生体(生物)の以下の階層が、それを物語っています。

個体(ヒトなど)
器官(心臓、肝臓、腎臓など)
組織(結合組織、上皮組織、神経組織など)
細胞(血液細胞、神経細胞、筋肉細胞、生殖細胞など)
オルガネラ(ミトコンドリア、小容体、ゴルジ体など)
分子(たんぱく質、核酸、脂質、ATPなど)

『オルガネラ』という言葉は普段あまり耳にしませんが、『細胞』内に存在する『サブシステム』で、特に『ミトコンドリア』は生物進化の初期の段階に、宿主である生物の『細胞』に侵入した細菌のような別の生物が、その後宿主とともに共生進化してきたものであると考えられています。

その証拠に、『ミトコンドリア』は、独自の『DNA』を保有しています。この『DNA』は『ヒト』の場合、必ず『母親』から譲り受けることが分かっていますから、これを利用して母系の先祖を探ることができます。

この現象を利用して、『現生人類(ホモ・サピエンス)』の先祖は、17万年前にアフリカで出現したことが推定されました。『ミトコンドリア』の『DNA』を遡って突き止めたことから、最初の『女性(全ホモ・サピエンスの先祖)』は、『ミトコンドリア・イヴ』と呼ばれています。

『ミトコンドリア』は、『細胞』の中で絶妙な役割分担をおこなっています。血流で運ばれてきた『酸素』を、エネルギー通貨とも言える『ATP』に変換して『細胞』に供給しています。逆に自分が必要とする養分は、『細胞』から供給してもらっています。この役割分担は『生物進化』の過程で時間をかけて形成したものです。『細胞』は『ミトコンドリア』という『サブシステム』を抱え込むことで、ひとつひとつが独立した『発電所』を保有していることになります。60兆個の『発電機能付き細胞』が、私達の『生』を支えているのです。

生命体を構成する『分子(有機化合物)』が出現するためには、『宇宙』で『物質進化』が先行して進行していなければなりません。

『分子』を頂点とする階層構造は以下のようになります。

分子
原子(元素)
素粒子
超ひも

最初の物質を『超ひも』とする理論は、現時点では『仮説』ですが、少なくとも『ビッグ・バン』で『素粒子』が出現しなければ、私たちは存在しえないという関係は明白です。

ただ、『生命体』に必要な『分子(有機化合物)』が、どのようにして出現したのか、『生命体』そのものが、どのようにして出現したのかは、『仮説』はいくつかありますが現在の科学では解明できていません。

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2018年4月10日 (火)

ミクロコスモス『生命』(5)

『ヒト』の身体には『たんぱく質』が必要なので、『たんぱく質』を含む食材を食べるのだと多くの方が考えておられ、『コラーゲンたっぷりの食材でお肌ツルツル』などという発言も聴かれますが、厳密には違います。

食べた食材に含まれる『たんぱく質』は、一度消化器官で消化され、『アミノ酸』になり、腸から吸収された『アミノ酸』を利用して『ヒト』に必要な『たんぱく質』が再び合成されるというプロセスが踏まれます。

食材に含まれていた『コラーゲン』も、一度消化され『アミノ酸』に分解されます。その『アミノ酸』は『ヒト』の『コラーゲン』として再利用される確率は高いとは言えますが、食材の『コラーゲン』が、そのまま『ヒト』の『コラーゲン』になるわけではありません。ちなみに『ヒト』の『たんぱく質』の約1/3は『コラーゲン(たんぱく質の一種)』です。

人工的に『遺伝子操作』した植物(大豆)などは、安全管理のために『材料として使っていません』などと食品表示されていますが、論理的には、消化器官で『アミノ酸』に分解されてしまえば、『遺伝子操作』をした大豆も、しない大豆も区別がつかなくなるはずですから、問題ないはずです。しかし、『思いもよらないことが起きるかもしれない』という疑念が完全に払しょくできない為に上記のような措置がとられているのでしょう。

『科学技術』を応用する時には、『念には念をいれてチェックする』『思いもよらないことが起きるかもしれないと警戒を怠らない』ことが大切です。多くの場合『長短所は表裏一体』ですから、コマーシャルなどで『長所』だけが連呼されたら、眉に唾してみることです。

1953年に、『DNAの二重らせん構造』が科学者によって明らかになりました。

近世における『科学的な発見』では、『ダーウィン生物の進化論』『アインシュタインの一般相対性理論』『宇宙の起源ビッグバン理論』と並んで『DNAの二重らせん構造』は大きな影響を持ちます。

今まで『分からなかったこと』が、霧が晴れるように鮮明に見え始めたからです。

折角見え始めたにもかかわらず、多くの人が『分からなかった』時代に、推測されていたこと(今となっては多くは虚構と言えます)を今でも『信じて』います。『神による天地創造』がその最たるものでしょう。

『文明』には『慣性』があり、『古い考え方』が根強く残るということでしょうが、やがては『新しい考え方』に切り替わっていきます。

『古い考え方』を教義とする『宗教』は、やがて多くの人達が保有する『常識』との『矛盾』に直面せざるをえなくなるのではないでしょうか。

『DNAの二重らせん構造』の発見は、『遺伝』の詳細な『しくみ』を解き明かす起点になりました。

私たちは、両親の資質の一部が、どのように子供へ『遺伝』するのかの『しくみ』を知ることになりました。『メンデルの法則』の時代には、『遺伝』が現象的に理解されていましたが、『しくみ』は分かっていませんでした。科学はこのように進展します。

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2018年4月 9日 (月)

ミクロコスモス『生命』(4)

私達の身体は、60~70%は『水分』で、固形成分の約20%は『たんぱく質』で構成されています。

『たんぱく質』は、基本的には20種類の『アミノ酸』が、枝分かれせずに一列につながった高分子化合物ですが、その後複雑に『折り畳まれて』目的別の『構造体』になったものです。

『アミノ酸』は、『アミノ基』と『カルボシキル基』の両方の官能基をもつ有機化合物の総称です。そのうち生体の『たんぱく質』の構成ユニットとなるものを『αーアミノ酸』と呼びますが、ここでは『αーアミノ酸』を略して『アミノ酸』と呼びます。

『生物』が生命活動を継続させるためには、20種類の『アミノ酸』を必要としますが、『ヒト』の場合、そのうち9種は、体内で作りだすことができませんので、外部から摂取する必要があります。これを『必須アミノ酸』と呼びます。体内で作り出すことができる11種は『非必須アミノ酸』と区別されます。

『必須アミノ酸』をバランスよく摂取するために食生活は重要になります。『サプリメント』などに頼らず、『豚肉』『魚肉』『鶏卵』『牛乳』『大豆』『黒酢』などを食材に使うことが推奨されています。

『アミノ酸』の原料となる元素は、『窒素(N)』『酸素(O)』『炭素(C)』『硫黄(S)』『水素(H)』の5種類に限られます。

一般に『アミノ酸』が、100~500以上一列に連結したものを『たんぱく質』と呼びます。理論上は、20種の『アミノ酸』の組み合わせによって、ほぼ無数といえる『たんぱく質』が構成されることになりますが、『ヒト』の生命活動に必要な種類は約10万種と考えられています。

これらの『たんぱく質』は、『細胞』の核内にあるDNAに記述されている『情報』に基づいて、必要に応じて作りだされます。DNAにはどの『アミノ酸』をどの順序で連結しなさいという指令が記述されています。

速いものでは1秒間に数万個の『たんぱく質』が生成されます。このような速さがないと60兆個の『細胞』が生成、維持できないということでしょう。

『ヒト』の『たんぱく質』は、目的機能別に以下の種類に分類されます。

酵素たんぱく質(代謝の触媒)
構造たんぱく質(コラーゲンなど)
輸送たんぱく質(ヘモグロビン、コレステロールなど)
貯蔵たんぱく質
収縮たんぱく質(筋肉運動)
調整たんぱく質(他のたんぱく質の活動調整)

『ヒト』の生命活動は、基本的には『たんぱく質』の機能を利用した『ミクロコスモス(微小宇宙)』とも言える目もくらむような『システム』であるという実感を味わっていただけたでしょうか。

私たちは、誰もがこのような『システム』の持ち主なのです。自分の中に『ミクロコスモス』が存在すると考えただけで、それを支配している『摂理』に感謝したくなりませんか。

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2018年4月 8日 (日)

ミクロコスモス『生命』(3)

このブログは主として『科学的アプローチ』に関するものです。

色々な本を読んで、学生時代に習わなかった『最新科学知識』を学び、それを総合的に鳥瞰(ちょうかん)して『自分はどのように命を維持しているのか』を考えてみたいという興味が背景にあります。

言いかえれば、それは『死とは何か』を考えてみることにもなります。『死は誰にでも訪れるもの』という諦観は勿論梅爺も持ち合わせていますが、『科学的アプローチ』で『死とは何か』を考えることは、少しニュアンスが違うように感じています。

『生命』を科学的に理解するには、『細胞生物学』の最新知識を知ることであろうと考え、『たんぱく質の一生:永田和宏著(岩波新書)』を読み始めました。

永田先生は、京都大学再生医科学研究所の教授で、『iPS細胞』で有名な山中教授と同じ研究所に属しておられる方です。一方永田先生は、専門外の『和歌』の分野でも有名な方で、『科学』と『文学』という異質な世界で活躍されています。梅爺流に言えば、『理と情のバランスが取れた方』ということになり、羨ましい限りです。そのこともあってか、この本も、論理的ながら美しい文章で綴られています。

『たんぱく質の一生』という本は、『生命』の基本要素である『細胞』を生成、維持するための基本材料『たんぱく質』についての、一般人向け解説書です。

『栄養源』としての『たんぱく質』については、日常的に私たちは耳にしていますが、『細胞』の基本材料という視点で、説明を受けると、自分の身体の中に『ミクロコスモス(小宇宙)』とも言える、目もくらむような世界が存在していることを再認識し、圧倒されます。

私達の身体は、約60兆個の『細胞』で構成されていて、その一つの『細胞』には約80億個の『たんぱく質』が使われているというのです。

受精時、たったひとつであった『細胞(卵子と精子の遭遇)』が、60兆個にまで分裂、増殖するということ、そのひとつひとつの『細胞』を維持する為に『たんぱく質』が黙々と機能しているということ、を想像して『ミクロコスモス』と呼ぶことが大袈裟ではないことにご同意いただけるのではないでしょうか。

梅爺の60兆個の『細胞』は、日々1兆個ほど、死滅、再生してます。そして梅爺の『細胞』は、宿主が梅爺という『生物個体』であることを特別に認識せずに、宿主の梅爺が、泣いたり、笑ったり、願ったり、祈ったりしていることにはおかまいなく、ただただ『摂理』に従って活動を継続しています。

梅爺は『自分は自分の意志で生きている』『自分のことは何でも知っている』と時折思いあがったりしますが、この『ミクロコスモス』のことを知ると、『生かされている』という表現の方が妥当であることを思い知ります。

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2018年4月 7日 (土)

ミクロコスモス『生命』(2)

『自分はどこから来たのか』『自分は何者なのか』『自分はどこへ行くのか』という問題へのアプローチ方法は二通りあります。

一つは『物質世界』の事象としてこれを考えるアプローチ方法です。換言すれば『科学的アプローチ』ということもできるでしょう。

『宇宙』の中で、『生命体』はどのように出現したのか、『生命体』はどのように進化して『ヒト』という『個体』が出現したのか、『ヒト』という生物種はどのように世代を紡いできた(種を継承してきた)のか、『ヒト』の命はどのようなしくみで維持されているのか、などを解明していくアプローチ方法です。

もうひとつは『哲学』『神学』などの領域でこれを考えるアプローチ方法です。換言すれば『形而上学的アプローチ』ということもできるでしょう。

『科学的アプローチ』で一部が解明され始めたのは、近世以降のことで、更に大半の『科学知識』はこの50年以内に得られたものですから、梅爺にとっては、学生時代に学べなかった『知識』ということになります。

近世以前は、『形而上学的アプローチ』が主流でした。『科学知識』が欠落しているのですから、それしか方法がなかったという表現が正しいのでしょう。

著名な哲学者や聖職者(神学者)の主張が、人間社会へ大きな影響を与え、その慣性は現在にまで及んでいます。

何よりも『天地は神が創造した』という宗教的な教義を、無視できない環境で『形而上学的アプローチ』が行われてきたことを理解することが重要です。

現代人の多くは、『科学知識』を総合的に理解しておらず、『天地は神が創造した』という教義を否定するほどの勇気も持てませんので、『結局わからない』ということでお茶を濁すことになっているように思えます。

あるいは、『科学的アプローチ』を認めることは、宗教の教義を否定することだとして、逆に『科学』こそいかがわしいと主張する人々もおられます。

梅爺は、『形而上学的アプローチ』は無意味であるとは思いませんが、一度『科学的アプローチ』の『最新科学知識』を理解したうえで、それと『形而上学的アプローチ』の内容が矛盾することがないかどうかを検証することが大切ではないかと考えています。これを『学際的アプローチ』という言葉で、何度もブログに書いてきました。

『最新科学知識』を保有していることは、私達現代人の特権のようなものです。近世以前では、どのような偉大な人でも、このような『科学知識』を保有していなかったからです。人類の歴史の中で、私達は非常に特異な時代に生きているということです。

『デカルト』『カント』『ニーチェ』がもし、私達と同じ『科学知識』を保有していたら、主張は大きく異なっていたでしょう。

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2018年4月 6日 (金)

ミクロコスモス『生命』(1)

『自分はどこから来たのか(生を受ける前)』『自分は何者なのか(生きている今)』『自分はどこへ行くのか(死の後)』は、人類が脳の『理性』を獲得して以来、答が分からない難問として私たちの前に立ちはだかってきました。

もちろんそのような問いに興味を抱かない人もいますが、それは人間の『精神世界』が個性的であることに依るものです。価値観、感受性などは、人に依って驚くほど異なっています。両親の遺伝子の偶然の組み換えで子供の遺伝子が決まるという、生物進化の過程で獲得したしくみが、この個性的な差異を生みだす要因になっていますから、人は『個性的』であるという宿命から逃れられません。このことが、人間や人間社会を考える上で、最も重要な要因であると梅爺は考えていますが、一般に教育の中などでそのことは強調されないのはなぜなのでしょう。

人は自分の価値観、感受性を中心に周囲を観ますので、異なった価値観、感受性の人を、嫌ったり、蔑(さげす)んだりしがちです。しかし、人間が『個性的』であることを考えれば、それは『お互い様』のことのので、慎重であるべきです。

価値観や感受性が似ている人達がカップルやグループを組めば、ストレスが少ない関係が構築できますが、厄介なことに、親子、兄弟姉妹、夫婦といった緊密な関係でも、個人が『個性的』であることによる『差異』は容赦なく表面化します。それを『お互い様』と笑いとばせれば、深刻な問題にはなりません。

人間は『個性的』であるという宿命を背負っていることを理解していれば、『親子断絶』『兄弟喧嘩』『夫婦不和』などの多くは回避できるのではないでしょうか。

自分の価値観、感受性が『正しい』と考える前に、一度冷静に自分を客観的に眺めてみることができれば良いのですが、これはなかなか難しいことです。

人間関係の秘訣は『忍耐と寛容』などと良く言われますが、これは自分を否定することではなく『お互い様』であることを理解することではないでしょうか。

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2018年4月 5日 (木)

『井沢元彦』氏の史観(8)

『ネガティブな内容は口にするな』という風習は、相手に対する『思いやり』が根底にあると梅爺は感じていましたが、『言霊信仰』のためだといわれると、得心するところもあります。 

『ネガティブなことは口にするな』の反対は『ポジティブなことは大いに口にせよ』ということになりこれも一種の『言霊信仰』ということになります。 

サッカーの日本代表チームの、重要な試合が近づくと、実況担当のテレビ局が『絶対に負けられない試合がそこにある』と、番組宣伝のコマーシャルで連呼します。『口にすれば実現する』と言わんばかりの勢いです。 

梅爺も『愛国心』があり、サッカー好きですから、日本に是非勝ってほしいと願いますが、『絶対に負けられない試合がそこにある』などと言われると、さすがに少し違和感を覚えます。 

スポーツの試合は、運もからみ、『絶対に勝つ』などという状況は保証されないからです。『絶対に負けたくない試合』はありますが『絶対負けられない試合』はスポーツにはありません。 

日本人は宗教心が薄い、などとよく言われます。確かに特定の『宗教』に関わるのは『結婚式』『葬式』などの冠婚葬祭の儀式のときだけで、あとは、季節行事として『クリスマス』『初詣』などを節操無く行うのですから、宗教心が薄いと言われても仕方がありません。 

しかし、井沢氏の本を読むと、日本人は、古代から『怨霊信仰』『穢れ忌避信仰』『言霊信仰』という、立派な『宗教』を継承していることに気付きます。 

これらの信仰をまとめて『日本教』と呼べば、日本人は潜在的に(あまり自分では意識せずに)『日本教』を信じているということになります。具体的な儀式などを考えると、『日本教』は『神道』に一番近いものですが、それは日本古来の土着信仰が様式化されたものですから当然です。

『お坊さん』『神父さん』『牧師さん』の説教を聞かなくても、生まれ育った環境の中で自然に『信仰』が身についているわけですから、心理学的には、最も強い『確証バイアス』であるとも言えます。

ただ、あらゆる『宗教』が、現代の『科学知識』の前で、絶対とされてきた『教義』の内容の再検証を迫られていることを考えると、『日本教』もそれを回避できません。

『日本教』の中に、日本の伝統文化の一つとして、社会にとって好ましい要因があれば、それは残し、逆に弊害を生ずる要因があれば、それは是正していく勇気が必要です。

梅爺の中にも確かに『日本教』は継承されていますので、今後自分なりに対応を考えていきたいと思います。

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2018年4月 4日 (水)

『井沢元彦』氏の史観(7)

『穢れ』を洗い去るものとして、『水』や『火』が用いられるのは世界共通です。『沐浴』『手や口を水で清める』『洗礼』『護摩焚き』などが宗教の行事として定着しています。日本では『滝に打たれる修業』や『火の上を歩く火渡り』なども行われます。

さらに日本では、『清め』のために『酒』や『塩』も使われます。古代人も『腐敗を防ぐ力』があることを知っていたからでしょうか。相撲の土俵は『塩』を撒くことで清められますが、これは相撲が神事であったことと、力士の安全祈願が込められているのでしょう。

連敗が続いた野球チームは、ダッグアウトの外に『塩』を盛り、悪運を祓おうとしますし、料亭は客を迎える玄関に『塩』を盛って、内を清めます。

葬式に参列すると『清めの塩』が配布され、自宅に帰って入る前に、身体に『塩』を振りかけて『穢れ』を清めます。

このように、日本の生活風習の中に、『穢れを清める』ための習慣が今でも根強く継承されています。

日本人の深層心理の奥に、『穢れを忌避する信仰』が存在するという井沢氏の指摘は説得力があります。

『穢れを祓う』行為は『禊(みそぎ)をする』とも表現されます。『禊をする』ことで、『穢れていたものが、清められる』ということになり、失言で一度は失脚した政治家が、次の選挙で再び当選を果たすと『禊が終わった』などと得意げに述べたりします。庶民の側にも『禊をしたもの』は許してあげるという、温情がないわけではありません。

井沢氏が、三つ目にあげるのは、日本人の『言霊(ことだま)信仰』です。

これは、口に出した『言葉』には霊力があり、その内容が『本当に起きてしまう』ことを恐れる信仰です。

『悪い事態を予測する話』をすると、周囲から『縁起でもないことを言うな』とたしなめられます。

日本では『ガン患者』本人への告知を、医者が逡巡するのも、このような風潮があるからなのでしょう。

前の戦争のおり、『日本は負ける』などと口にすれば『非国民』と罵倒されましたが、口にした内容が『本当になってしまう』ことを恐れる心理が日本人に働いていたと井沢氏は指摘しています。

理性的な判断をすれば、国力の差で日本がアメリカに勝つことなど考えられないと考えた人も多かったと思いますが、『愛国心』と『言霊信仰』で口封じをされ、結局無謀な戦争に突き進んで、悲惨な結末を迎えることになりました。

『可能性が高い予測』の中には、自分にとって嫌な内容も含まれると思いますが、これは『根拠のないネガティブな話』とは異なります。

『言霊信仰』が、再び日本を不幸へ向かわせないために、『ネガティブな予測』をすべて『縁起が悪い』と切り捨てる習慣を改める必要があります。

しかし、『信仰』は、強い『確証バイアス』として『精神世界』を支配しますから、簡単に『価値観』の転向はやさしいことではありません。

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2018年4月 3日 (火)

『井沢元彦』氏の史観(6)

井沢氏が指摘する日本人の信仰対象の二つ目は『穢れを忌避する信仰』です。

『清らかなもの』を『善』、『汚れたもの』を『悪』とするのは、日本人だけではなく古代の人類に共通する価値観です。

『美』は『快い情感』を脳に喚起し、『醜』は『不快の情感』を脳に喚起するのは、『不快』を『安泰を脅かすもの』として本能的に忌避するために、生物進化の過程で獲得してきた習性です。

『美』か『醜』かを先ず判断し、『美』は受け容れ、『醜』は忌避するという行動が一般的です。ただし、『美』『醜』は抽象概念ですから、普遍的な判断基準がありません。従って、人によって判断のレベルは異なります。

前に指摘した『怨霊の祟り』も、『怨霊(悪霊)』が身にとりつき身が『穢れる』ために、災いの攻撃対象になると日本の古代人は推量したのでしょう。

『穢れた状態』は『厄に取りつかれた状態』と表現され、『厄を祓う』ことが重要になりました。

『神道』では『穢れを祓う』儀式が先ず行われ、日本の『仏教』では『厄除け』の儀式が執り行われます。『穢れを祓いたい』という権力者や庶民の願いに、日本の宗教は応えてきたということでしょう。

古代の天皇が、次々に遷都を行ったのは、既存の都が『穢れてしまった』と考えたからと井沢氏は指摘しています。経済的な負担を覚悟してでも遷都を行った理由としては説得力のある理由です。

『奈良の都』『大仏』を捨ててでも、『平安京(京都)』へ遷都しようとした『桓武天皇』は、『奈良の都』が穢れてしまい、『大仏』も災いを避けることに役立たないと考えたからなのでしょう。

当時大陸から伝わってきた『風水の思想』や、最新の『仏教』で、『平安京』を『災い(怨霊)』『穢れ』から護ろうとしていることがその証左です。『最澄』『空海』は、新しい『仏教』で、『桓武天皇』にとりいった僧です。『延暦寺』『東寺』や、著名な神社などは京都を護るために『風水の思想』に基づいて配置されたものです。

当時の『風水』や最新『仏教』は、現代の『科学知識』に匹敵する最新の知識でした。私たちは『宗教』と『科学』を別のものとして区別しますが、当時の人々にとっては、そのような区分はありません。

『占い』『穢れ祓い』『厄除け』は、生活にとって必要なものであり、それを心から信じていたことになります。

古代の日本人は、『死』と『血』を穢れの対象としてきたと井沢氏は指摘しています。『死』は他の民族も穢れの対象にしていますが、『血』はむしろ聖なるものと考えられているケースもあります。キリスト教徒は『聖餐式』で、ワインを飲みますが、これは『キリストの血』を象徴しています。多くの宗教では動物の生贄(いけにえ)が神前に供えられ、『血』は聖なるものとして流されます。

日本人がなぜ『血』を穢れの対象にしたのかは、推測するしかありませんが、『殺す(血を流す)』は『死』につながり、更に『怨霊』を生むと考えたからではないでしょうか。

農耕民族であった弥生人は、殺生に普段接することが少ない一方、縄文人は狩猟民族であったために『獲物を殺す』ことが日常で、『死』や『血』は身近なものでしたから、『死』や『血』を穢れとしてのは、弥生人ではないでしょうか。

今でも『同和問題』などの『部落差別』が日本の社会問題ですが、最初は、弥生人による縄文人の差別ではなかったのかと井沢氏は書いています。渡来人が先住人を支配し、差別するケースは、インドの『カースト制度』なども同じです。

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2018年4月 2日 (月)

『井沢元彦』氏の史観(5)

この世で起こる、人間にとって都合の悪い事象は、全て『怨霊の祟り』によるという『因果関係』の推測は、理性的な現代人ならば『迷信』として受け入れません。

『天災』は、『自然界(物質世界)』を支配する『摂理』がもたらす『変容』に過ぎず、『疫病』の原因は、体内に潜入した『病原菌』『ウィルス』が、『細胞』の正常な活動を阻害するために起こることは承知しているからです。

中世以前の日本人と、私達の違いは『科学知識』を保有しているか、していないかの違いです。

ですから、当時の日本人を私たちは、当時の『科学知識』レベルで理解する必要があります。身の回りの『摩訶不思議な事象』は、なんとしてもその『因果関係』を推量して得心したいと願うのが、人間の『精神世界』の習性ですから、私たちも、当時の人間なら『悪霊の祟り』を受け入れた(信じた)に違いありません。

『摩訶不思議な事象』は『目に見えない何者か』であると、古代の人達は推量し、それを『神』『霊』という抽象概念として共有したものと梅爺は考えています。

人間の力を越えたこの『何者か』を、『畏怖』するのが最初の対応であったと思われますので、後の宗教が『愛』『慈悲』『善』の象徴として『神仏』を定義したのとは事情が異なります。

縄文時代の日本人にとっては、『自然に宿る神々(霊)』が『畏怖』の対象であったものと想像できますが、弥生時代以降、『国家』の成立と同時に、権力抗争が激しくなり、競争相手を流罪や死に追いやった権力者は、その後、身に降りかかる不幸は、敗者の恨みによるものと強く考えるようになったのでしょう。

権力抗争には、非情な手段に訴えても勝たねばならない一方、その分『怨霊の祟り』に悩まされるという矛盾に苛(さいなま)まれたことになります。

『怨霊の祟り』という考え方は、世界のどこにもありますから、決して日本独特日本ののものではありませんが、『怨霊を祀って鎮魂すれば、今度はその怨霊が自分たちを守護してくれる』という逆転の発想に近い『怨霊信仰』は、かなり日本独特のものです。

『非情な手段は避けられない』しかし『怨霊の祟りは恐ろしい』という矛盾を、実に都合のよい論理を考え出して、権力者は『矛盾の克服』をしようとしたのでしょう。これも人間の『精神世界』が『安堵を希求する』がゆえに考え出す自己弁護のための虚構論理です。

権力者の中で始まった『怨霊信仰』が、やがて庶民の間にも浸透していったのでしょう。

『鎮魂』のための『神社』がこれほど多く今でも存続している国は、他にはないことを考えると、日本人の深層心理、潜在意識の中に今でも『怨霊信仰』が根強く残っているとする井沢氏の主張には、一理があるように感じます。

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2018年4月 1日 (日)

『井沢元彦』氏の史観(4)

現代の日本人にも、『話し合い至上主義』があるのは、『怨霊信仰』の結果として考え出された『話し合い優先』の考え方が、継承されているからであると井沢氏は指摘しています。

外国にも『事前の説得』活動はありますが、日本の『根回し』は『こっそり行う』というニュアンスがあり、犯罪と知りながら『業界談合』などが後を絶たないのも、『話し合い至上主義』の悪い面であると井沢氏は書いています。

『話し合い至上主義』は決して悪いことではありませんが、その『弊害』も日本人はわきまえておくべきという指摘ならば、その通りでしょう。話し合えば、必ず皆が合意できる結論が得られるなどという保証はないからです。それに密室での『話し合い』は公正を欠きます。

聖徳太子の『17ケ条憲法』の、第1条は『和をもって貴うとしとなす』で、第17条は『夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし』で、いずれも独断するな、話し合いで決めろと言っています。

明治天皇の『五カ条の御誓文』も、第一は『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ』です。

日本人のリーダーは、昔から『民主主義』的な発想をもっていたと考えたくなりますが、これも『(敗者)怨霊の祟り』を最も恐れるために、明らかな敗者を作らない為の方策であるというのが井沢氏の指摘です。

聖徳太子の『17ケ条憲法』では、第一条が『話し合い』(怨霊と祟りを回避)、第2条が『仏教への帰依』、第3条が『天皇の詔(みことのり)に従え』となっていることを、井沢氏は『価値観』の順序として重視しています。

古代の建築物で、高いものの順は『出雲大社の神殿』『東大寺大仏殿』『京都御所太極殿』と平安時代には言い伝えがあったことが分かっています。従来『出雲大社の神殿』は、疑問視されていましたが、最近の発掘調査で、実際に45メートルの高さの神殿があったことが確認されました。

井沢氏は、この建築物の高さの順が、聖徳太子の『17ケ条憲法』の最初の三つ(怨霊信仰、仏教、天皇)と合致していることも指摘しています。古代の日本人の価値観の順序として注目すべきということでしょう。

聡明な聖徳太子が突然『和をもって貴しとなす』などと言い出したのではなく、古代から継承されてきた『怨霊の祟りを忌避する』手段を、憲法で明文化したに過ぎないという指摘です。

非業の死を遂げた人の『怨霊の祟り』を恐れることは、近世まで日本の歴史で重要な役割を持っていました。『天皇家』や『藤原摂関家』などが、自分たちに『恨み』をもつ『悪霊』の祟りを、どれだけ恐れたかは、いくつもの事例をあげることができます。権力抗争の中では相手を無実の罪で死へ追いやるということが避けられなかったためなのでしょう。

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