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2018年2月28日 (水)

日本人の起源(10)

厳密には『日本人の起源』は『良く分かっていない』というのが人類学、歴史学の表現になりますが、このブログでは勝手な『仮説』を述べてきました。

現時点で、梅爺の頭は『このように整理されている』ということに過ぎませんから、今後新しい発見や、文献に接すれば『仮説の変更』が行われることになります。要点は以下のようになります。

(1) 『縄文人』は複数ルートで日本列島に到達した、アジア大陸の『古モンゴロイド』の融合した末裔である。『アイヌ人』は『縄文人』の末裔である。
(2) 2500年前、北九州へ渡来した『弥生人』は、アジア大陸で『古モンゴロイド』と『新モンゴロイド』が融合した当時の『最新モンゴロイド』の末裔である。
(3) その後、日本列島で『縄文人』と『弥生人』が融合し、『弥生人』資質が強い現在の『日本人モンゴロイド』が形成された。

最初に書いたように、ブログは『個人的な心象』の記述ですから、学術論文ではありません。皆さまも、自由に『日本人の起源』に思いをはせてみたらいかがでしょうか。

しかし、自分の『仮説』の中で、一つだけ引っかかっていることがあり、この点では頭がクリアになっていません。

それは、『日本語』の成立プロセスの問題です。梅爺は『言語学』に関する知識をほとんど持ち合わせていませんので、これに関しては勝手な『仮説』さえも持ち出す能力がありません。

普通に考えれば、現在の『日本語』のルーツは、『弥生人』の使っていた言語がベースになっているということになります。

もしそうなら、『日本語』は、アジア大陸で使われてるいずれかの『言語』と強い『相関』があるはずです。『ハングル』と『日本語』は文章の論理構造が同じと言われていますが、これがその『相関』と言えるのかどうか判断できません。『中国語』は明らかに『日本語』とは異質であると感じます。

梅爺の直感では、『日本語』の基盤に『縄文人』の言葉の影響が強く残っているように感じます。いわゆる『大和言葉』の背景に『縄文人』の言葉や文化があるように感ずるということです。

しかし、支配者が『縄文人』から『弥生人』に変わっていった時に、『言語』だけは『縄文人』の文化を継承するということが、ありえるのかどうかと戸惑っています。

何よりも、『アイヌ人』は『縄文人』の末裔であるとすれば、『アイヌ語』に『縄文人』の言葉が影響しているはずですが、それを証明する能力を持ち合わせていません。

『琉球人』にも、同じく『縄文人』の影響が強く残っているとしたら『沖縄の言葉』『アイヌ語』の間に何か『相関』が見つかるのでしょうか。

このように、『日本語』について、梅爺は現時点で全く論ずる能力がありません。

そのうちに『日本語の起源』というような本を読んで、また勝手なブログを書き始めるかもしれません。

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2018年2月27日 (火)

日本人の起源(9)

北九州へ渡来した『弥生人』は、やがて日本列島の中心部をほぼ支配下におくようになり、日本の歴史は次なる『古墳時代』、『ヤマト朝廷時代』へと移行していきます。

『ヤマト朝廷』は、近畿を中心に繁栄を迎えますが、勿論『弥生人』の末裔が主力民族であったことは間違いありません。

しかし、ある程度まとまった数で渡来してきたと考えられる最初の『弥生人』の時代から、既に約900年が経っていますから、当時の人達は、自分たちがアジア大陸、朝鮮半島の出自であるという意識は薄れ、日本列島に住む『人間』であると自認していたに違いありません。

『ヤマト朝廷国家』の成立は、『国家』『日本人』の自覚を醸成し、むしろ中国に存在する強大な国家や、朝鮮半島を支配する国家への対抗意識が強くなっていたと考えられます。

それ以降、『日本(国家)』『日本人』という意識が、現在の私たちにまで継承されてきたことになります。言い換えれば、『日本』『日本人』という意識がほとんどなかった時代の、日本列島の人類史を私たちはもっと知る必要があるのではないでしょうか。

人類学的に『日本人』の起源を考えることも重要ですが、その後の『日本の精神文化』を育む土壌になった、『縄文文化』『弥生文化』の本質は何であったのかを考えることがもっと重要であるように思います。

『日本の精神文化』が、世界の他の民族の『精神文化』より、優れていると思い込むのは不適切ですが、少なくとも日本人である梅爺にとって『日本の精神文化』は愛着の対象です。

梅爺個人は、異文化を知れば知るほど、『日本の精神文化』への愛着が強まります。異文化の人達に『日本の精神文化』の本質を知ってもらいたいと願います。

『国家防衛』に必要な範囲の『軍事力』、国家の運営や国民の生活を健全にするための『経済力』は、『日本』にとって必要なことと梅爺は思いますが、他国を威嚇するための『軍事力』『経済力』までを求める必要はありません。むしろ、『日本の精神文化』を強く反映する『芸術』『教育』『伝統行事』などを重視する心の豊かな国家でありたいと願います。

私たちが『誇れる日本』は、そのような『国家』ではないでしょうか。

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2018年2月26日 (月)

日本人の起源(8)

昨日も書いたように、日本列島の『縄文人』だけであった社会が、比較的短期間(数百年間)の間に『弥生人』主力社会に変貌したのは、どのような理由に依るものかは『分かっていない』のが現状ですが、是非推測してみたくなります。

『弥生人』の本格的渡来開始は、2500年前頃からと考えられていますが、どのくらいの数の人達が渡来したのか、成人男性中心の『戦闘』グループが渡ってきたのか、女子供を含む一族郎党で渡ってきたのかなども考えなければなりません。

『戦闘』グループは、背後に『クニ(国家)』といった大規模な権力組織の存在を必要としますので、当時の朝鮮半島がまだそのレベルに達していなかったとすれば、『女子供を含む一族郎党』の渡来と考えるのが妥当な気がします。

縄文時代後期には、『稲作農耕文化』『鉄器文化』の存在を『縄文人』は知っており、『稲作農耕』も一部で開始されていたという説もありますが、本格的『稲作農耕文化』『鉄器文化』は『弥生人』によってもたらされたと考えて差し支えないのではないでしょうか。

『自然草木果実採取』『狩猟』『漁猟』中心の『縄文人』と、『農耕』中心の『弥生人』では、居住地の選定基準が異なりますから、居住地の『住み分け』が可能であり、『縄文人』と『弥生人』の関係は基本的に『住み分け共存』の形で開始されたのではないでしょうか。

勿論『縄文人』にとって、よそ者である『弥生人』は好ましい存在ではなく、排除しようとする小競り合いはあったと考えられますが、局面的な戦闘では『鉄器文化』の『弥生人』が優勢であったと容易に想像できます。

食料の確保という点で、『稲作農耕』の『弥生人』は圧倒的に有利であり、『住み分け共存』の中で『弥生人』のコミュニティの人口が、『縄文人』のコミュニティの人口に比べて圧倒的に多くなっていったのではないでしょうか。

世界の人類史を観ても、『農耕』部族は、『狩猟』部族に比べて、人口増加率が10倍程度高いことが指摘されています。

『縄文人』コミュニティは、近隣の『弥生人』コミュニティに、じわじわ併合されていったか、それをよしとしないコミュニティは、『弥生人』が未だ優勢ではない土地(東北、北海道、南九州、沖縄)などへ逃避することになったのではないでしょうか。

このように考えると、数百年の短期間に、北九州、四国、北関東までの本州のほとんどが『弥生人』支配下になり、人口も10倍程度増えたことの説明がつくように思います。

勿論、『弥生人』支配下では、『弥生人』と『縄文人』の混血も増えていったということになります。

渡来した『弥生人』が、武力で『縄文人』を制圧、殲滅したというシナリオも考えられますが、この時代に多量に殺戮された人骨は発掘されないことから、上記のような『じわじわ実質支配を強めていった』というシナリオが妥当なような気がします。

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2018年2月25日 (日)

日本人の起源(7)

『縄文人』『アイヌ人』が『古モンゴロイド』の末裔であるとすると、2500年前に日本列島(北九州)へ渡来した『弥生人』は、アジア大陸で『古モンゴロイド』と『新モンゴロイド』が融合して形成された当時の『最新モンゴロイド』の末裔であったということになります。 

『弥生人』は、その後北九州から、南九州、四国、北関東までの本土まで拡散し、日本の主要な人種になっていきます。この拡散の過程で、『縄文人』と『弥生人』の間で何があったのかも良く分かっていません。 

現代の日本人は、地域差もありますが、平均的に90%の『弥生人資質』と10%の『縄文人資質』を継承していると言われています。『縄文人』主流から、『弥生人』主流へどのように変容していったのかは興味深いことです。 

『縄文時代』後期に5~6万人程度であった総人口は、『弥生時代』には70~80万人にまで増えています。稲作農耕で食糧事情が良くなったというのが一般的な推測です。 

『弥生人』の進出に最後まで抵抗した地域、稲作農耕に適さなかった地域などは、その後も『縄文人』が主流であったことになります。 

南九州、琉球、東北、北海道などが、それに該当します。 

従来、『琉球人』と『アイヌ人』は、人類学的な資質が似ていることが謎とされてきましたが、上記の『弥生人』進出の陰で、『縄文人』支配地が、北(東北、北海道)と琉球に分断されたと考えると納得できます。 

『琉球人』と『アイヌ人』は、『縄文人』の資質を強く継承していることになります。 

人骨などの調査で、『縄文人』の資質はバラツキが少ないのに対し、『弥生人』の資質はバラツキの幅が大きいことが特徴と言われています。 

『縄文人』は、1万年をかけて、日本列島に融合が進んだ『古モンゴロイド』の末裔であり、『弥生人』は、アジア大陸で『古モンゴロイド』と『新モンゴロイド』の融合がまだ進行中の状態であったと考えると、バラツキの大小の理由が分かります。

これらを総合すると、日本列島には、先ず『古モンゴロイド』が渡来し約1万年かけて『縄文人』が形成され、その後、今度はアジア大陸で融合が進んでいた当時の『最新モンゴロイド』である『弥生人』が渡来して、両者が更に融合し、現在の『日本人モンゴロイド』に変容していったという推測になります。

アジア大陸では、『モンゴロイド』間の融合が、連続して進行していたのに対し、日本列島では、『古モンゴロイド』が定着した後に、空白期間があってからアジア大陸の『最新モンゴロイド』が渡来して、両者の融合が新たに開始されたという、他のアジア地域とは異なった特異の事態が起きたということになります。

現在の『日本人モンゴロイド』は、各種『モンゴロイド』の融合による『雑種』であることには違いがありませんが、その形成プロセスが他とは異なっているということでしょう。

先祖は同じ『モンゴロイド』でも、中国、朝鮮半島、日本では、それぞれの異なった特徴を持つ『モンゴロイド』になっている理由がこれで説明できるような気がします。

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2018年2月24日 (土)

日本人の起源(6)

近世まで北海道に独自のコミュニティを保有していた『アイヌ人』は、人種的にどのような人達なのでしょう。

西欧の人類学者も、謎の多い『アイヌ人』に興味を示し、中には、古代に極東までたどり着いた『コーカソイド(白人種)』の末裔ではないかという説までありました。従来の研究では極東までたどり着いた『コーカソイド(白人種)』は見つかっていませんし、何故中間のアジア大陸ではその痕跡がないのかは説明がむずかしくなります。

しかし、文豪トルストイの顔写真と、アイヌの酋長の顔写真を並べて掲載し、『似ている』と主張し、『コーカソイド(白人種)』であることの証拠とした学者もいました。

確かに、『アイヌ人』に共通する彫りの深い顔、毛深さなどは、そう言われてみると一般的日本人とは異なりますので、梅爺も半信半疑ながら『そうかもしれない』と受け止めていました。

『日本人の起源』と言う本を読んで、現時点で『アイヌ人』がどのように考えられているかを知りました。

結論的に言えば、『アイヌ人』も『モンゴロイド(黄色人種)』であり、『縄文人』の末裔であるということです。

これは、人骨の特徴やDNAなどの検証など、多岐にわたる研究結果であり、『やっぱりそうか』と納得しました。しかし、もしそうなら『アイヌ語』は『縄文人』の話していた言葉を継承しているのかという疑問が生じます。現在の『日本語』は『アイヌ語』とは別物とすると、『日本語』は一体どのように形成されてきたのでしょう。

『モンゴロイド』は、『古モンゴロイド』と『新モンゴロイド』に分けて考える必要があることが分かります。

アフリカを脱出した『ホモ・サピエンス』の中で、最初にアジア大陸に到達した人達がその地に適応して『古モンゴロイド』となり、その一部が日本列島へ到達して、『縄文人』そしてその末裔の『アイヌ人』になったという考え方です。

『古モンゴロイド』は、顔の彫が深い、毛深いなどの特徴があり、それが『縄文人』『アイヌ人』へ継承されているということでしょう。

ベーリング海峡を渡って、北米、中米、南米にまで達した人達も『古モンゴロイド』の末裔と言えるのではないでしょうか。

アジア大陸の北方寒冷地へ進出した『古モンゴロイド』は、やがてその地に適応して、鼻の低い扁平な顔、一重まぶたなどを特徴とする『新モンゴロイド』に変容し、更にアジア全土では『古モンゴロイド』と『新モンゴロイド』が交流、交雑を繰り返して、現状の『モンゴロイド(中国人、朝鮮人など)』になったと考えられます。

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2018年2月23日 (金)

日本人の起源(5)

日本列島への人類の渡来ルートは、一つと限定しないほうが矛盾が少ないように思います。

Aルート : アジア大陸の北(シベリアなど)から、樺太経由で北海道へ
Bルート : アジア大陸中南部から、台湾、琉球列島などを経由して南九州へ
Cルート : 朝鮮半島から海路で北九州へ

3万年前に、最初に日本列島へ到達した『ホモ・サピエンス』は、多分『Bルート』を利用したものと考えます。

そもそも10万年前にアフリカを出た『ホモ・サピエンス』が、世界へ分散していく時に、アジア大陸に関しては、最初に中南部へ到達したと想像するからです。その延長で日本列島へ到達したと考えるのが自然と思うからです。

勿論、時代を経て後に『Aルート』で、渡来した『ホモ・サピエンス』もいたに違いありません。

『ホモ・サピエンス』の日本列島到来は、『Aルート』『Bルート』で、何度もあったに違いありませんが、そのまま定住に成功し、現在まで影響をあたえるようなケースはなかったのではないでしょうか。ある期間定住に成功した例はあったかもしれませんが、ほとんどは『絶滅』してしまったと考えて良いように思います。

沖縄の『湊川人』などは、その一つのケースではないでしょうか。沖縄で見つかる古代人の人骨の時代を測定すると、『湊川人』とその後の人達の間に数千年空白期間があるのはそのためと考えられます。つまり『湊川人』は『絶滅』したと考える方が自然のように思います。

2000年から3000年前頃になると、『Cルート』の渡来が増え始めます。『弥生人』の渡来がこれに相当します。人類が船で渡海する技術を確かなものにしたからで、『縄文時代』の後期には既に、『縄文人』も逆に朝鮮半島やアジア大陸中南部との船による交流があったという説もあります。

『縄文人』は私たちが想像するほど『未開人』ではなかったかもしれません。

1万3000年ごろ前に、『Aルート』『Bルート』で日本列島へ渡来した人達の一部が定住に成功し、約1万年かけて日本列島全域で交流、交雑し、後に『縄文人』と呼ばれる、人種的に一様に近い特徴を持つ人種になっていったと考えられます。『Aルート』『Bルート』がまじりあって『縄文人』になったという推定です。

日本列島本土だけではなく、北海道、四国、九州、琉球までも『縄文人』の居住領域になったと推測できます。1万年間という時間がそれを可能にしたのでしょう。ただし『縄文人』の総人口は5~6万人と多くはありませんでした。

農耕が未成熟で、狩猟や木の実などを食料とする生活では、自然の生態系との関係で居住できる場所は限られ、人口も限定されるからです。とはいっても日本列島は四季のある自然に恵まれ、世界の過酷な他の場所よりは住みやすかったと言えそうです。

食べ物や水を巡る過酷な抗争を避けて、各グループが自分のテリトリーを保有できたと考えると、1万年間は、比較的に穏やかな時代であったとも推察できます。このことも私達の『精神世界』の根源に影響を与えているのかもしれません。

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2018年2月22日 (木)

日本人の起源(4)

日本列島に最初の『ホモ・サピエンス』が到達したのは、約3万年前のことであったとして、その子孫は途絶えることなく日本列島に住み続け、私たちにつながっているのでしょうか。

沖縄で人骨が見つかった1.8万年前の『湊川人』は、最初に日本列島へ到達した『ホモ・サピエンス』の末裔なのでしょうか。

1万3000年前から約1万年間、日本連島の住民は『縄文人』であったと考えられていますが、『縄文人』はどうなのでしょうか。

約3000年前に、朝鮮半島経由で北九州へ到来した『弥生人』は、最初に日本列島へ渡来した『ホモ・サピエンス』の子孫ではないことはたしかですが、先住民である『縄文人』とどのように関わり合いながら、日本列島に住みついていったのでしょうか。

近世まで、北海道に独自のコミュニティを保有していた『アイヌ人』は、どのような人種なのでしょうか。最初に日本列島へ渡来した『ホモ・サピエンス』、『縄文人』との関係はどうなのでしょうか。

梅爺のような素人でも発することができるこのような問いに、現時点では誰も明解に答えることができません。

沢山の『仮説』はありますが、『そうだ』と断言できる『定説』にはなっていないということです。つまり『日本人の起源』については、『分からない』というのが正直な答になります。

しかし、『分からない』で放置することは、『精神世界』にとっては不安ストレスの原因になりますから、『こうではないか』という因果関係を考え出し、なんとか自分を納得させたくなります。

勿論荒唐無稽な因果関係では、自分さえも納得させることができませんから、知り得た情報を駆使して、論理的な矛盾が少ない因果関係を考えようとすることになります。

歴史学者、人類学者でも『定説』を見出せない上記のような問いに、梅爺は大胆に『こうではないか』と発言するわけですから、専門的な知識をお持ちの方は失笑されるに違いありません。

どうか、年金爺さんが『頭の体操』をしている程度に受け取って、以下はお読みください。

断るまでもなく、このブログは学術論文ではなく、個人的な心象の記述に過ぎません。

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2018年2月21日 (水)

日本人の起源(3)

17万年前にアフリカに出現した『ホモ・サピエンス(現生人類)』の一部が、約10万年前ころにアフリカを出て、地球上の各地へと分散していったというのが現在有力な説です。

その後、『ホモ・サピエンス』は、進出先の環境の影響で進化し、特徴の異なる『亜種』に枝分かれしていったと考えられています。

大雑把に分類すると『黒人種(ネグロイド)』『白人種(コーカソイド)』『黄色人種(モンゴロイド)』に分かれたことになります。

現在の『日本人』の先祖を、『モンゴロイド』と考えるのが妥当です。日本人の赤ん坊のお尻に青い『蒙古斑』が現れるのはそのためと言われています。

ちなみに、北米の先住民(ネイティブ・インディアン)や、南米の原住民(インカの人達など)の祖先も『モンゴロイド』と考えられています。

氷河期、ベーリング海峡が氷で閉ざされていた時に、アジア大陸の北方にいた『モンゴロイド』がシベリア、ベーリング海峡経由で、先ず北米に渡り、そこから中米経由で南米に達したという推測です。『ホモ・サピエンス』の旅路としては、これが地球上最長の移動になります。

それでは、『モンゴロイド』が日本列島に到達したのはいつの頃で、どのようなルートをたどってきたのでしょう。

ほぼ完全な人骨として発掘された、沖縄の『湊川(みなとがわ)人』は、約1.8万年前(人類学的区分で後期旧石器時代)ですが、日本本土で断片的な骨として見つかったものから推察して、約3万年程度前には、日本列島へ『ホモ・サピエンス』が到達していたのではないかと推察できます。

こう考えると、『卑弥呼』が存在していた3世紀などは、1800年程度昔の話で、3万年に及ぶ『日本の人類史』に比べれば、ほんの最近のことになります。『縄文時代』だけでも約1万年続いたということの『意味』を私たちはもっと重視すべきです。『日本人』の精神性の一部(自然の中に神々や先祖の霊が宿り、私達の生死もそれに関わるという人生観など)はこの時代から培われてきているからです。

3万年前は、氷河期の終わりころで、この時期は海面が下がっていて、北海道の北、九州の南は、陸続き、または短い海峡で大陸とつながっていたと考えられます。

最初の『ホモ・サピエンス』は、この北か南のルートで、日本列島に到達したと考えるの自然です。

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2018年2月20日 (火)

日本人の起源(2)

『日本人の起源』という本の著者『中橋孝博』氏は、九州大学の人類学教授です。発掘された古代人の人骨を研究対象にされておられる方ですが、この本には、日本人の起源を考える上で、参考になる色々な分野の最新研究成果が、分かりやすく紹介されていて、梅爺の知識も一新されました。

推測程度の自説を、誇らしげに強調するようなことは一切なく、学術的に、慎重で公平な態度が一貫していますから、大変好感が持てます。

現時点で、『分かっていないこと』『断定ができないこと』は、そのように記述されて、これも梅爺の頭の整理には役立ちました。最新の研究者でも『分からないこと』があるのは当然と思えるからです。

テレビに、『専門家』と称するコメンテータが登場して、あたかも『何でも知っている』と言わんばかりの得意げな発言をするのを聴いた時には、梅爺は失礼ながらその『専門家』を評価しないようにしています。

発掘された古代人の人骨は、多くの情報を提供してくれます。

頭蓋骨の形状(短頭か長頭かなど)、歯の特徴、社会慣習として抜歯の慣習の有無、身長や四肢骨の特徴(長さ、強度など)で、たとえば『縄文人』か『弥生人』などを区別できるからです。

明らかに殺された痕跡が残る人骨が多量にみつかれば、その当時社会に深刻な紛争があったことの傍証になります。たとえば『魏志倭人伝』には『倭国が乱れていた』と書いてありますが、その証拠になりうるかもしれないということです。

最近では、骨から抽出した『DNA』『ミトコンドリアDNA』なども、『ホモ・サピエンス』の『亜種』を推定する有力な情報の提供源になっています。

ひと昔前に比べて、『日本人の起源』を推定する情報は格段に増えてはいますが、それでも『こうであった』と断定するレベルには達していません。

有力な『仮説』は、色々提示されていますが、端的に言ってしまえば、『日本人の起源』は『わかっていない』ということになります。

梅爺は、この本を読んで得た最新の知識を含め、過去に得ていた知識も総動員して、梅爺の『仮説』を立ててみようと思います。

梅爺は、全くの素人で学者ではありませんから、勝手な『仮説』を立てることは許されます。ただ梅爺が『この仮説が正しい』と主張することは、控えるべきことであることは心得ています。

このブログは、梅爺の個人的な『知的冒険』録としてお読みください。

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2018年2月19日 (月)

日本人の起源(1)

日本人なら誰でも、『日本人の起源』に少なからず興味があるはずです。

『日本人』という人種が存在するとしたら、それは『法律』が規定した条件に当てはまる人で、生物学、人類学の視点で観ると、『日本人』という他と明らかに区別できる人種は存在しません。

そういう意味では、『日本』という『国』も、『国際法』や『外交的な約束事』に守られて存在しているだけと言えます。

『法律(国内法、国際法)』『外交的な約束事』は、文字通り『合意事項』に過ぎませんから、普遍的な『真偽』を決める手段とは言えません。

日常私たちは、上記のように厳密には考えずに、『日本人』『日本』が『当然存在するもの』として、これらの言葉を使っていて、それで大きな支障は生じませんが、『絶対的な存在』ではないという視点も忘れないようにしなければなりません。

現在地球上に住む『人類』は、全て『ホモ・サピエンス』という人類種に属するもので、17万年前にアフリカに出現した先祖を、共通の先祖としていると考えられています。

『考えられています』などと歯切れが悪いのは、この『考え方』が多くの学者によって受け入れられて有力な説ではありますが、『反論』がないわけではないからです。

仮に、『ホモ・サピエンス』が共通の祖先なら、現在『○○人』と一般に呼ばれている人達は、全て『ホモ・サピエンス』が枝分かれした『亜種』同士の混血であるということになります。

『日本人』も、『ホモ・サピエンス』の『亜種』同士が、歴史的に混血を繰り返して今日に至った『混血種』であると考えなければなりません。

少なくとも『世界に冠たる大和民族』などという純粋種ではありません。ヒトラーが宣伝した『純粋なアーリア人』などという人種も存在しません。

これは『中国人』『韓国人』『イギリス人』『ドイツ人』などにも全てにあてはまることで、『人類学』の視点で観れば、誰もが『混血種』ということになります。

勿論、梅爺も、遠い昔に日本列島へどこかからやってきた、縄文人やら弥生人の遺伝子が継承されています。

それでも、梅爺は自分のルーツを知りたいと思い、『日本人の起源(中橋孝博著:講談社選書メチエ)』を読みました。

この場合の『日本人』は上記のような厳密な定義によるものではなく、日常的に私たちが使っている『日本人』という、ある意味で曖昧な概念です。

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2018年2月18日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(6)

人類が多量に蓄積してきた『共通知識(巨人)』を利用して(巨人の肩の上に乗って)、遠くを見通すことができるという状態は、人間(主人)が『知識(道具)』を完全に掌握していると言える限り安泰です。

しかし、現実には『知識』の大半は、難解な内容になり、常人では理解が難しくなりつつあります。

その結果、私たちは『便利な結果』だけを求めるようになり、その『結果』がもたらされるプロセスで幾重にも使われる『知識』については興味を示さなくなります。

パソコンのワン・クリックで何が起こるのか、スマホのワン・タッチで何が起こるのかは知っていますが、内部でどのようなしくみが働いているのかは理解していないことになります。

ワン・タッチで結果に到達できるという便利さに慣れ切ってしまうと、世の中の『因果関係』は全て短絡的に得られると勘違いすることになります。これは大変危険なことです。

『因果関係』の間には、多くのプロセスが関与し、このプロセスは『知識』で成り立っていることを理解することが大切です。

常人では理解しがたい『知識』でも、その詳細は別にして『本質』は理解しておく必要があります。

『知識』そのものが、新しい『知識』を生みだしていく『人工知能』は、『知識』が人間の思惑を離れて暴走したり、極端な場合、知識が主人となって人間を道具として操るというようなことになったりする危惧があります。

梅爺は『人工知能』に反対はしませんが、その将来が全てバラ色であるとは思えません。『核兵器』が人類を脅かすように、『人工知能』も人類を脅かすものになるかもしれないという危惧です。

『ウンベルト・エーコ』は、『やがて、巨人(知識)が、小人(人間)の肩に乗るような事態が招来するかもしれない』と書いて、このエッセイを結んでいます。

深遠な洞察であるように思います。

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2018年2月17日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(5)

若者は『現状は気に入らない』と言っても、『過去を理想として復活させよう』とは一般に言いません。『新しい未来を築こう』ということになります。

しかし、人は成人になり、老人になると、『今は良くない、昔は良かった』という表現に変わります。いつの時代も大人は『いまどきの若者は』といって眉をひそめてきました。現在の若者も、歳をとるとそう言うにきまっています。

若者も、老人も『現状に不満』を持つ傾向は同じです。これは、身近なものは、長所より短所の方が目立つということなのでしょう。

恋愛に舞い上がっている男女は、相手の長所だけが大きく見えますが、その時期を過ぎると今度は相手の短所が気になり始めます。

前にも書きましたが『夜目、遠目、笠の内』は、身近に確認できないものを、理想化、美化しようとする人間の本性を見事に表現しています。

老人は、『現状への不満』のアンチテーゼとして『昔は良かった』と言いがちです。しかし、昔もつらく、苦しいことがあったはずですが、それは薄らいで、『良かった』ことが誇張され、美化されます。『同窓会』などはこれで話が盛り上がります。

梅爺流に考えると、これは『昔を肯定することで、自分の過去も肯定したい』と考えるからであろうということになります。自分の生きてきた過去を否定されてはかなわないからです。『安泰を希求する本能』といういつもの論法に行き着きます。

しかし、『現在と過去の比較』は、都合よくある特定の事柄に限定して行っている場合が多く、そんなに昔が良いのなら、生活の全てを昔に戻したいのかというと、『それはご免だ』と、多くの場合はなります。

梅爺も、『東京物語』というような昔の映画観ていて、日本人の話し方、テンポ、語彙が現在と大きく異なることを感じ、現在の日本語より『美しい』と個人的には感じます。

『言語』は、論理を伝えるだけでなく、美や情感を伝える手段であるという日本の伝統的な精神文化が、せわしない現代社会では、論理が伝わればよいという考え方に変わりつつあるのかもしれません。

梅爺は老人ですから、『美しい日本語』の伝統は保持してほしいと、この点ではやはり過去を賛美したくなります。

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2018年2月16日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の方の上に』(4)

私たちは代々継承されてきた『言語』を『母語』として使っています。

『ウンベルト・エーコ』は、この『言語』も、『息子の父親否定』の対象になることを、中世西欧の『言語学者』『文学者』などを例にあげて論じています。

父親から継承されて現在使っている『言語』は、『劣った言語』で、遠い昔には『優れた言語』があったにちがいないという『考え方』の話です。

『言語』は非常に複雑で多様な要因が絡み合って、人間社会の中で『進化』『変容』していくものですから、『現在は劣っている』『昔は優れていた』などと比較の対象にはならないと梅爺は思いますが、中世西欧の文化人がそのような『考え方』を保有していたのは、キリスト教文化の影響があるからです。

『旧約聖書』の『バベルの塔』の逸話を、『事実』として受け入れていたということです。

『バベルの塔』の逸話の内容は以下のようなものです。

昔、人々は一つの言葉を話していて、『天(神)に届く塔(バベルの塔)』の建設を始めた。神はこれを見て『一つの言葉故に人間はこのような不遜な行為を始めた』と判断し、塔を崩し、人々の言葉をバラバラにした。

つまり、民族が皆違った言葉を話しているのは、『不遜になりがちな人間』を神が戒めたからであるという『因果関係』として説明されています。

『神』は『人間』を創っておきながら、『人間』が『神』のレベルに近づこうとするのは快く思わないという話は、どうも奇妙です。まるで『父親』が『息子が自分を越えようとすること』を快く思わないという話に似ていて、なんと『神』は狭量なのかと疑いたくなります。そもそも、自分の気に入るように『人間』を創っておけばこのようなことにはならなかったのにと言いたくなります。

それはそれとして、『バベルの塔』の逸話を事実とするならば、昔は『言葉』が一種類であったことになり、更に遡れば最初の『人間』である『アダム』の話していた言葉となり、これこそが『望ましい言葉(神から与えられた言葉)』ではないかという推論になります。

『ウンベルト・エーコ』のエッセイには、本気で『最初に存在した望ましい言語』を再現しようと努力した言語学者や文学者の話が紹介されています。

『乗っている巨人の肩の高さ』が低い故に起きたことですから、『高い肩』にのっている私達現代人は、中世のこのような試みは、『的外れ』であることを指摘できます。

しかし、17万年前にアフリカに出現した『ホモ・サピエンス』の言葉が、その後枝分かれし、現在のような8000種を超えると言われる『言語』に『変容』していったプロセスは、必ずしも解き明かされてはいません。『脳科学』とも関連しますので、『言語論』は大変難しいものになります。

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2018年2月15日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(3)

人間の本質を理解する上で、『生物として個性的であるように宿命づけられている』ことを理解することが最も重要であると、梅爺は何度もブログに書いてきました。

容貌、体格ばかりではなく、『考え方』『感じ方』が、一人一人異なっているということで、それは親子、兄弟でも同じことです。ましてや他人は言うまでもありません。

『理性』ではこれを理解していても、いざとなると忘れてしまいがちなのも、人間の習性の一つです。いざとなると『安泰(自分にとって都合のよいこと)を希求する本能』の方が強く働くからです。自分の『考え方』『感じ方』だけが『正しい』と思い込み、そのうちに『絶対正しい』と信ずるようになったりするからです。

人間社会から『戦争』『宗教対立』などがなくならないのは、このためです。

平和主義者は『戦争反対』と叫ぶのではなく、『違いを認め合おう』と叫ぶべきです。『一神教』の宗教観は、この『違いを認める』ことができないという、本質的な問題を抱えていることが大変厄介です。

昨日も書いたように、自分と近い関係にある人と『考え方』『感じ方』『価値観』が異なっていることが露呈すると、人間関係は大きな歪を抱えて、深刻な事態になります。

その典型例が『父親と息子の相克』であるとしてこのエッセイは議論が進められます。

『父親』『目上の人』と『考え方』が異なっている場合、その人たちの『考え方』は間違っていると否定することになりますが、その場合自分独自の『考え方』を持ちだすのではなく、ずっと昔には模範にすべき『考え方』があったとして、過去に回帰しようとすることが人間社会ではよく起こると『ウンベルト・エーコ』は指摘しています。

『暗黒時代』の中世を否定して、ギリシャ、ローマの時代を賛美した『ルネッサンス』などがその例です。

『宗教』において、過去の『教祖』を絶対視するのも、この例なのかもしれません。近い過去の人達は『間違っている』として、遠い過去の人達は『正しい』と考える論拠は確かに曖昧です。遠いものが『良く観える』というのは『精神世界』の興味深い現象です。

日本人は『夜目、遠目、笠の内』とこれを表現しています。遠いもの、観えないものは『自由な想像の対象』になりそこに『理想』があると勝手に思い込むからなのでしょう。これも『安泰を希求する本能』がもたらす事象であろうと梅爺は考えています。

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2018年2月14日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(2)

精神科医に教えてもらわなくても、息子が潜在的に『父親を殺したい』という願望を持っているということぐらいは知っている、と『ウンベルト・エーコ』は書いています。『殺す』は穏やかならぬ極端な表現で、『否定したい』『越えていきたい』ということなら分かります。

人間は近い関係にある他人との間に、『考え方』『感じ方』『価値観』の違いを認めた時に、深刻な相克の問題を抱えます。

遠い他人ならば、無視して通れますが、近い関係にある他人の場合は、『敬慕』『愛情』『友情』などのそれまでのプラスの『絆』が一気に反転して、『憎悪』『嫌悪』のマイナス対象になってしまうという深刻な問題になります。

この『一気の反転』現象は、『精神世界』独特の事象です。日本人は『可愛さ余って憎さ百倍』などと諧謔的ユーモアでこれを表現しています。

権力者が自分の意に従わない者、意に反する者を、たとえそれが親子、兄弟、配偶者、友人の関係であっても『殺す』という歴史的事例は、古今東西枚挙に暇(いとま)がありません。

『基本的人権』が尊重されるはずの現代でも、忌まわしい事件は後を絶ちません。『独裁的将軍様』が支配するお隣の国は顕著な例ですが、日本でも、横暴なリーダーが部下を左遷するなどという事件は日常茶飯事で起きています。

『ウンベルト・エーコ』は、『父親の息子殺し』の例として、旧約聖書の『アブラハム』の逸話を挙げていますが、これは今回のテーマとは少しずれているように梅爺は感じました。

『アブラハム(年老いて父親)』の信仰心を試すために『神(ヤーヴェ)』は『アブラハム』の最愛の息子『イサク』を生贄(いけにえ)として殺すように命じたという逸話です。

悩んだ末に『アブラハム』は『イサク』を殺すことを決意しますが、最後の瞬間に『神』が介入して『イサク』は助かります。信仰心が本物であることを『神』が認めたからということになっていますが、試練といえども少し度が過ぎる話で、キリスト教徒もその解釈に苦慮する逸話の一つです。『使徒パウロ』によれば『神』は『慈愛の神』であるということになっているからです。

この逸話では『アブラハム(父親)』と『イサク)(息子)』の間に、『価値観の違い』などという相克があったわけではなく、『神』と『アブラハム』の問題解決の手段として『イサク』が登場するだけですから、このエッセイの本来のテーマからずれていると梅爺は感じました。

ただ『ウンベルト・エーコ』は、この逸話には『親が子供を自分の私有物と暗黙に考えている』という問題が含まれていると書いています。確かにこの親の意識は『親子相克』の原因の一つになるという点では、関連があるかもしれません。

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2018年2月13日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『巨人の肩の上に』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の41番目のタイトルは『On the Shoulders of Giants(巨人の肩の上に)』で、主として、歴史上繰り返されてきた『先人賛美(逆に先人否定)』の問題を、『父親と息子の相克』を例に挙げて論じた内容です。

『巨人の肩の上に乗る小人』は、西欧の教養人なら誰でも知っている比喩で、現代人が物事を遠くまで見通せるのは、古代から蓄積されてきた人類の知識や知恵の膨大な蓄積の上に立っているからであるという意味を表現したものです。『小人』は現代人、『巨人』は膨大な知識や知恵の蓄積を指しています。

原典は12世紀のフランスの哲学者『ベルナール』の言葉にあるとされています。

古代人も現代人も、人間個人としての基本的な能力は変わりませんが、現代人の方が『優れている』ように見えるのは、過去に蓄積された知識や知恵を利用できる立場にあるからという主張は、『そのとおり』でしょう。

『釈迦』や『キリスト』が現代へタイムスリップし、現代人の知識や知恵を身につけたなら、『話す内容』は違ってくるであろうと梅爺は夢想したりします。

『釈迦』や『キリスト』が当時乗っていた『巨人』の肩の高さは、現代の私たちが乗っている『巨人』の肩の高さより『低い』ことを配慮して、彼らの言動を観る必要があります。

私たちが『釈迦』や『キリスト』より『優れている』のではなく、乗っている『巨人』の肩の高さが違うだけです。低い肩の上に乗っているにもかかわらず、『釈迦』や『キリスト』は、私たちよりも深く本質を見通しているが故に、偉大なのです。

現代人が、圧倒的に高い肩の上に乗っているのは、主として『科学知識』の量に由来します。『政治』や『経済』は勿論のこと、『宗教』『芸術』『哲学』などに属することも、高い肩の上からの視点で見直して観るべきであると、梅爺は何度もブログに書いてきました。

『学際的な視点』で、物事を再検討できるのは現代人の特権であるからです。

『宗教』『芸術』『哲学』は、人間の『精神世界』に属する領域で、ここに『物質世界』の『摂理』を扱う『科学』を持ちこむのは『場違い』であるというご指摘もありますが、梅爺はそうは思いません。

『精神世界』は『脳』が創りだす仮想世界ですが、『脳』そのものは『物質世界』に属する『実態』であり、それは『摂理』で機能していると考えると、『場違い』ではなく『地続き』であると思うからです。

『学際的な視点』で、見直すのは『宗教』『芸術』『哲学』に対する冒涜ではなく、次の世代へ『より高い肩』を継承していくことであろうと考えています。

『ウンベルト・エーコ』は、『先人賛美』『先人否定』の問題を、該博な歴史的知識で論じています。

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2018年2月12日 (月)

日本語の特質(8)

世界にたくさんある『言語』が、ほとんど『子音』を主要認識手段としているのに対して、『日本語』はなぜ『母音』を主要認識手段とする、特殊な『言語』なのでしょう。

数万年前に、『日本』へ到達した『ホモ・サピエンス』は、自分たちの『言語』をゆっくり時間をかけて、培ってきたのでしょう。幸い、極東の島国の環境は、『言語』を純粋培養する環境として適していたと考えられます。

その後、色々の民族が流入してきましたが、先住民が徹底制圧され、異なった言語や文化を強要されることはなかったと言えるのではないでしょうか。

民族移動や、制圧の繰り返しであったヨーロッパやアジアでは、制圧した側の『言語』が『子音』を主要認識手段にするものであった為に、それが大勢になっていったのでしょう。

『アメリカ』のように、最近建国された国家で、しかも多民族共存の環境では、『英語』が人為的に『言語』として選択されましたから、『英語』が風土や、人々の共通『感性』を反映しているものとは言えません。

『風土』『日本人の体格、骨格』『共有できる感性』を全て取り込みながら、じっくり培われてきた『日本語』は、世界の中では珍しい『言語』であることを、この本を読んで再認識しました。

『日本』の『精神文化』を大切にしたいなら『日本語』を大切にしていかなければならないことも再認識しました。

梅爺が、『英語』の本などを読んでいて、『日本語』とのニュアンスの違いを感ずることは多いのですが、『日本語』に『擬態語』が多いことも気になることの一つでした。

『子音』の『K』を用いた『カラカラ』『クルクル』『コロコロ』、『S』を用いた『サラサラ』『スルスル』『ソロソロ』、『T』を用いた『ツルツル』『トロトロ』などは、確かに、『子音』の属性である共通『質感』を含んでいることが分かります。

赤ん坊の時から、『脳』に刻み込まれた『母語』は、『意味』や『論理』だけでなく、無意識のうちに『感性』の情報交換の役目も果たしているという主張は大変啓発的なものです。

今後、『脳科学』が『日本語』の音韻と、『感性』の相関関係を詳細に明らかにしてほしいと願います。

胎児、新生児、幼児を通じて、『母語』の音感体験で『脳』に形成される『感性』認識能力が、『精神世界』に与える影響の大きさを再認識しました。梅爺はブログで『幼児期の情育』の重要さを訴えてきましたが、まんざら的外れではなさそうと感じています。

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2018年2月11日 (日)

日本語の特質(7)

この本の主張の素晴らしいところは、『言語』の主要素は『意味』や『論理』といった『理』だけでなく、『感性』という『情』の情報も含まれているということです。

赤ん坊は、胎児の時から母親の発する言葉の音感を受け取り、『脳』の『感性』機能が形成され始めるという主張です。

幼児が自分で言葉を話し始めた時が言語学習の始まりではなく、既に『感性』に関する『脳』は、音感に依って先行して形成され始めているということになります。

人間の『母語』に関する『脳』の基盤が、8歳までに出来上がるということは、それが大人になった時の『精神世界』の基盤であるということを考えると、極めて重要な意味を持ちます。『母語』と『精神文化』は直結しているからです。

幼児期に、『母語』以外の言語も教え込もうとすると、『脳』は混乱して、どの『精神文化』にも疎い大人になる危険があるという指摘は、もっとものような気がします。心理学ではこれを『母語喪失』という言葉で、問題視しています。

日本人の親が、自分の子供を日本人として育てたいならば、先ず『日本語』の『脳』を完成させることを優先すべきということになります。12歳以降は、既に『日本語』の『脳』が出来上がっていますから、いくらでも『外国語』に挑戦しても構わないという話です。『母語』と『外国語』は、『脳』にとって習得のプロセスが違うということを理解すべきです。

『母音』を主認識要因とする『日本語』を『母語』とする人は、『言語』の持つ基本特性から、本能的に『周囲と融和した自分』『自然と一体となった自分』という認識を優先しますが、『子音』を主認識要因とする『外国語』を『母語』とする人は、『周囲と対峙する自分』という認識を優先させるというこの本の主張は、興味深いものです。

『日本語』は話せば話すほど、相手に対して『心を開いていく』のに対して、『外国語』は、話せば話すほど相手との『違いが鮮明になっていく』ということを意味するからです。

『議論』『ディベート』を重視する西欧と、それを不得手とする日本の違いの説明としても受け取れます。

『日本語』は、数万年をかけて、日本の風土の中で、日本人の体格、骨格などに適した『音韻』や、本能的に共有できる『感性』を基盤に培われてきた言語です。

それを『母語』とする日本人にとって『日本語が美しい』のは当然のことです。そして『日本語』が生み出す『精神文化』に安堵を覚えるのも当然のことです。

梅爺は、『日本語』を愛する『日本人』が、いつまでも存在していてほしいと願います。

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2018年2月10日 (土)

日本語の特質(6)

『日本語』は、『母音』を主認識対象にする言語ですが、『子音』も勿論使われています。

五つの『母音(A、I、U、E、O)』と、九つの基本『子音(K、S、T、N、H、M、Y、R、W)』で、ご存知の『五十音(音韻)』が構成されます。

『母音』にも、それぞれある種の『感性』が込められています。この本では以下のように特性を紹介しています。これらは、もともと人間の自然な身体の動きと関連していて、古代の日本人が、言語を創りあがて行く過程で、無意識に『母音』の属性にしたという主張です。言葉の根源に『本能』『無意識』が関与しているという卓越した洞察です。『言語』は『理』だけで創りだされたものではなく、『情』が暗黙のうちに内包されているということです。

『ア(A)』 解放感
『イ(I)』 尖る感じ
『ウ(U)』 内向性
『エ(E)』 おもねる感じ
『オ(O)』 包み込む感じ

『子音』にもそれぞれ異なった『質感』が内包されていると、この本の著者は述べています。そう言われてみると、『なるほど』と思います。

『K』 きっぱり(硬い)感
『S』 さわやか(風、液体)感
『T』 確かな感じ
『N』 親密感
『H』 安心感
『M』 (幼児が最初に発する音)
『Y』 ゆらぎ感
『W』 撹乱感

『日本語』の原型である『大和言葉』では、これらの『感性』『属性』が本能的に取り込まれていることになります。『サクラ』と聴いて日本人が咄嗟に抱く感性は、『Cherry Blossom』という言葉からは得られません。

後に『漢字』とともに、中国語の発音が持ち込まれ、『熟語』などは中国風の発音が採用され現在でも併用されていますが、『大和言葉』が失われてはいません。

『ご光臨に感謝する』は、どこかよそよそしく堅苦しいのに対し『ようこそ、いらっしゃいました』という『大和言葉』の表現は、日本人に安らぎ感を与えます。

この違いの原因を著者は見事に洞察しています。

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2018年2月 9日 (金)

日本語の特質(5)

昨日は『母音』の特徴を述べました。『母音』は息を制動せずに自然体で発する音で、話し手と聞き手の間の境界線を取り除く効果があるということでした。

一方『外国語』が主に認識対象とする『子音』は、逆に息を制動して出す音、つまり息の流れを口腔や鼻腔を制御して邪魔することによって出す音と言うことになります。

『子音』は、言葉に『質感』を与えると同時に、聞く人の『脳』には強く威嚇効果に近い印象を与えることになります。

このため『子音』を主認識対象とする『外国語』では、『母音』の場合と異なり、話し手と聞き手の間の境界線がより鮮明になる効果があるとこの本には書いてあります。

この推測が妥当かどうかは、もっと色々な視点で検証する必要がありますが、日本人と外国人の『精神文化』の違いを、事象的に見てみると、『そうかもしれない』とうなずきたくなります。

『権利と義務を明確にする』『契約条件を決める』などを重視する欧米の文化に接すると、多くの日本人は少し違和感を覚えたりするのは、こういう『言語』に根差す文化の違いがあるからなのでしょう。

『母語』として『日本語』が優れているか、『外国語』が優れているかは、論じてもあまり意味がないことですが、世界の中で、『日本語』を『母語』とする私たちは、『精神世界』の特徴でみると極めて『少数派』であるということになります。

日本人の『精神世界』の特徴は、そのままでは世界に通じない恐れがありますから、私たちは外国人と付き合う時、異文化と接する時には、相手の『精神世界』の特徴を理解して対応する必要があります。

『少数派』であるが故の苦労ですが、それでも梅爺は『日本語を母語とする日本人で良かった』と心から思っています。

言葉の『感性』で、人と人の『絆』が無意識に形成されていくなんて、なんと素晴らしいことではありませんか。

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2018年2月 8日 (木)

日本語の特質(4)

『日本語』を『母語』とする人の『脳』と、『外国語』を『母語』とする人の『脳』とでは、『言語音韻認識』の基本機能が全く異なっていて、この違いが『精神世界』の働きにも違いを生じさせているというのが、この本の主張する『仮説』の基盤です。

言い方を換えれば、『日本人』と『外国人』の『精神文化』の違いは、これに由来するということになります。

この『仮説』は、もっともっと色々な面から検証する必要がありますが、梅爺は直感的に『そうであろう』と感じています。

梅爺は、合唱(男声合唱)を趣味にしていますので、『歌詞』が『日本語』の場合と『外国語』の場合で、発声法やニュアンス表現が大きく異なることを体感していましたが、この本を読んで、その理由が分かったような気がしました。

西洋音楽の体系の中で『日本語』の歌を歌い、それを美しく表現するには、プロの日本人歌手でも、相当の訓練と配慮が必要になります。従って『日本語』を知らない外国人の歌手が『日本語』の歌を歌うことは、至難のことになります。日本人の私達の耳には、『美しい日本語』ではなく『変な日本語』に聞こえることになるからです。

『母音』と『子音』の本質的な違いを理解することが、この本を理解する上で大切なことになります。日本人と外国人の『精神世界』の違いがそれに由来しているという主張になっています。

『母音』は息を制動せずに声帯振動だけで出す、自然体の発生音です。驚いた時には『あっ』、感動した時には『おぅ』、痛い時には『うっ』、勢いをつける時には『えぃっ』などと無意識に発声します。

また、自然体で発声される『母音』は、音響波形的にも『自然の音』に似ています。このため『日本語』を『母語』とする人の『脳』には『自然の音』は、心地よく聞こえることになります。

『木の葉がサラサラ鳴る音』『虫の音』『屋根に落ちる雨の音』『浜辺の波の音』は、日本人の感性に働きかけ、『自然と一体になった安堵感』を得ることになります。

しかし『外国語』を『母語』とする人には、これらの音は『母音』と似た音響波形のため、言語脳である『左脳』ではなく、『右脳』で雑音として聞き流されることになります。日本人が『美しい』と感じている音が『雑音』にしか聞こえないという違いが生じます。

『母音』や『自然の音』は、『左脳』で処理する人に、『心を開かせ、相手との一体感を抱かせる』要因になると、この本には書いてあります。

これが事実なら、『日本語』は、話し手と聞き手の間に、『理屈抜きの一体感(絆)』『言わずもがなの共感』を生みだす効果があるということになります。

『日本語』が『母語』の世界では、夫婦や恋人の間で、毎日『愛している』などと念を押す習慣が生まれないのはそのためとこの本には書いてあります。

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2018年2月 7日 (水)

日本語の特質(3)

『日本語』を『母語』とする人と、『日本語』以外の言語を『母語』とする人で、『精神世界』の『感性』基盤がどのように違ってくるのかが、この本で解説されています。

この違いを生む原因は、『日本語』の基本『音韻』が『母音』を基盤にして体系化されているのに対し、ほとんどの『外国語』の基本『音韻』は『子音』を基盤に構成されていることにあると、著者の黒川さんは述べています。

『母音』を『音韻』基盤にするのは、世界では『日本語』とハワイ原住民の話す『ポリネシア語』くらいしかなく、その他の言語は全て『子音』を『音韻』基盤にしているとこの本は述べています。

この違いが、『脳』の機能と関連して、『精神世界』の『感性』の違いを生みだすというのが著者の主張です。

人間の『脳』で、基本的な『言語認識処理』を担当するのは『左脳』です。したがって『日本語』を『母語』とする人は、『母音』を基本に認識するように『脳』の機能が出来上がります。一方、ほとんどの『外国語』の場合、『子音』を基本認識の対象にするように『脳』は出来上がります。外国語では『母音』は寧ろ雑音として聞き流されていると言われています。

更に『日本語』は、『ん』を除いて『子音+母音』または『母音』で基本『音韻』が形成されていて、一つの『音韻』は独立して発音され、聞きとられます。

たとえば『ク・リ・ス・マ・ス』は、それぞれの『音韻』を独立して一拍で発音し、速めに話そうが、ゆっくり切れ切れに話そうが『クリスマス』として情報伝達ができます。しかし、『英語』の『Christmas』という単語は、『子音』を主体とした『Christ』と『mass』という二つの『音韻』で構成され、一気に続けて発音しなければ情報伝達できません。『ク・リ・ス・マ・ス』という日本語の一拍一拍区切った発音では、英語圏の人には全く意味が通じません。

『日本語』を『母語』とする人の『脳』は、『母音』を重視した認識に適したものとして、8歳程度までに完成します。更に、『大人』の『脳』になるのは12歳ごろまでを要します。

このことから著者は、日本における幼児の『英語教育』、小学校からの『英語教育』開始に強く反対しています。

ただし、『日本語』の基盤が出来上がった12歳以降は、何カ国語でも自由に学びなさいと述べています。

国際感覚をもった大人になってほしいと、幼児期からの『英語教育』が必要と多くの人が主張していますが、これは反って、『脳』の形成期に混乱を生じさせ、どの国の文化基盤も持たない『変な大人』を生みだす弊害があるという主張です。

『脳』にとって、『母語』の習得と、その後に挑戦する『外国語』の習得は全く異なったプロセスであるということでしょう。

仕事の関係で、40歳くらいになってから本格的に『米語』を習得せざるを得なくなった梅爺の過去の体験を思い出すと、『そういうことか』と色々なことが思い当たります。

『子音』主体の発音や聞き取りに難渋したこと(今でも難渋していること)、意味は理解できても、『米語』ネイティブの人が感じているであろう『感性(ニュアンス)』は理解が難しいことなどです。

英語の本の読書は、『意味』を理解するという点で、梅爺はあまり苦労なく対応できますが、ヒアリングや情感を交えた会話にはてこずる理由が良く分かりました。『読書』と『会話』は、『脳』の機能としては別物なのでしょう。

梅爺はれっきとした『日本語』を『母語』とする『日本人』の脳の保有者であるという当然のことを再認識しました。

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2018年2月 6日 (火)

日本語の特質(2)

著者の黒川さんは、『日本語』『言語学』を専門とする学者ではなく、大学では物理学を専攻し、その後コンピュータメーカーで『AI(人工知能)』の仕事に携わり『脳と言葉の関係』を探求対象にされた方です。現在は『感性リサーチ』という会社を起業し、ビジネス・コンサルタントをされておられることを知りました。

ご自分も母親となり、新生児、幼児が『言語能力』を会得していくプロセスを体験し、『自説』を構築していく上の基盤の一つにしています。

『仕事』『育児体験』などから、言語学者とは異なった視点で、柔軟に『言語の本質』に肉薄していく様子が、この本には書かれています。

現代は、何事も物事の本質を探るのに、『学際的』な視点が必要であると梅爺はブログで繰り返し主張してきましたので、黒川さんの姿勢に共感を覚えました。素人の勝手な『言語論』として、言語の専門家は敬遠するのかもしれませんが、梅爺は、『専門領域から抜けきれず、その領域だけで権威を保持しようとする専門家』は好きになれません。

黒川さんの『仮説』を理解するには、先ず『母語』とは何かを理解する必要があります。

『母語』は、新生児が最初に『体験』する『言語』のことで、多くの場合母親の『母語』が新生児、幼児の『母語』になっていきます。

注意を要することは、『人種』で『母語』が決まるわけではないということです。『人種』としては『日本人』の新生児、幼児でも、『英語』を『母語』とする人達だけの環境で育てられれば、『英語』が『母語』になるということです。

『脳』が創りだす『精神世界』は、『母語』の影響を強く受けますので、『英語』を『母語』として育った子供は、『日本語』を『母語』として育った子供とは、『人種』は同じ『日本人』でも『精神世界』の基盤が異なるということです。

現代の『脳科学』でも、新生児、幼児が、『どのように言語能力を獲得していくかに関するプロセス、しくみ』は詳細に分かっていません。

従来は、『言葉の意味認識』『言語の論理構造』を、どのように獲得していくのかが主たる研究対象でした。

梅爺も孫が幼児期に『しゃべりだす』プロセスを観察して、『魔法』をみているような驚きを感じます。『赤い』『丸い』などという『抽象概念』を難なく会得して、『赤い自動車』『赤い服』、『丸いリンゴ』『丸いお皿』と使い分けたり、色々容姿が異なる『犬』の種類を『ワンワン(犬)』という共通概念で把握したりするからです。

更に、誰も『文法』などは教えていないのに、『ボクがお父さんと約束した』などという、文法の論理構造に合致した『センテンス』を話し始めるのも不思議です。

『遺伝子(DNA)』の中に、『言語』を習得する能力が基本的に継承されているという『仮説』がありますが、あくまでも『仮説』に過ぎません。

この本で著者が主張する『仮説』は、『母語』を習得していくプロセスで、『発音体験』から『感性』の基盤も一緒に『脳』に組み込まれていくという主張です。つまり日本人の『感性』基盤は、『母語』である『日本語』の影響を強く受けているということです。

『言葉』には、『意味』『論理構造』などという『理』ばかりではなく、『感性』という『情』も関与しているという視点が斬新です。

『精神世界』は『理と情の複雑な関係』でできていると考え、ブログにも書いてきた梅爺には、この著者の主張は、『やっぱりそうか』と得心がいきます

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2018年2月 5日 (月)

日本語の特質(1)

『日本語はなぜ美しいのか(黒川伊保子著:集英社新書)』という本を読みました。

著者の黒川さんのことについては何も知らず、ただタイトルに興味を覚えて本を購入しました。

読む前に、大変失礼ながら、内容は『国粋的な日本語賛美』なのかなと勝手に想像しました。

『美しい』という形容詞は、人間の『精神世界』が情感を著わすために創られた抽象概念ですから、『日本語は美しい』と主観的に主張することは問題ありませんが、たとえば『外国語に比べて美しい』と客観的に主張することは非常に難しいことです。

主観的な主張なら、日本人が『日本語は美しい』と主張することと、フランス人が『フランス語は美しい』と主張することは同じレベルの話です。

しかし、『外国語に比べて美しい』と主張するとなると、具体的な比較方法、調査対象、調査結果などを、少なくとも定量化して提示しなければなりません。普通に考えればそれは無理な話と分かります。

梅爺は日本人ですから、当然のことながら『日本語は美しい』という主張に共感を覚えます。いつもブログに書いているように、『安泰を希求する本能』が働くからで、『自分にとって都合のよいこと(状態)を優先して受け入れようと』するからです。『日本の野球は強い』『サッカーも最近とみに強くなりつつある』などという主張に共鳴したくなるのも、そのためです。

『日本語はなぜ美しいのか』というタイトルは、著者が考えたものか、出版社が売り上げを伸ばそうと提案したのか分かりませんが、読者の興味を惹くための意図があるのでしょう。

しかし、読んでみるとこの本は、『言葉の本質』『日本語の特質』に対する鋭い洞察であり、梅爺は啓蒙され、今まで漠然と考えていた問題意識に、『そういうことか』と回答を得ることができました。

正しく表現すれば、『何故母語の日本語に、日本人同士が無意識に反応して、情感を共有するのか』を論じた本です。

言葉は『意味の伝達』手段と単純に梅爺は考えていましたが、それに加えて『無意識の情感伝達手段』であるというこの本の主張に接して、『なるほど、そうか』と得心がいきました。

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2018年2月 4日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ある夢』(4)

『ウンベルト・エーコ』がこの『ある夢』というエッセイを書いたのは、行き過ぎの商業主義、繰り返される暴力、他人の暴力に巻き込まれてしまう危険、古いしきたりや習慣を鵜呑みにして踏襲、など現代社会の弊害に気付いてほしいという目的が込められています。

『パソコン(インターネット)』『テレビ』の電源をオンにしないという行為は、その時と『意思』の問題で、現代社会に生きる私達でもできることだと書いています。

歴史的に、いつの時代も『新しい時代』の弊害に人間は流され、その都度識者は『弊害』を指摘し、『古き良き時代への回帰』を提唱しました。

しかし、『時代』は常に新しい方向へ『変容』していくもので、人為的に『古き良き時代へ回帰』できたためしはありません。

『パソコン』や『テレビ』を悪者にしてみても、問題の本質は良い方向へ向かうとは思えません。

『新しい状況』を寧ろ是認し、その中で『人間はどのように考え、振る舞うべきか』を追求することの方が現実的です。

『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイの最後に、ある人が『ウンベルト・エーコ』の『夢』を次のように評したと書いています。

『このような夢が真実とならないようにする勇気が必要だ。そうしないのは悪魔に屈することで、悪魔に屈するのはあなたが弱いからだ』

『ウンベルト・エーコ』がこの一文を最後に書いたのは、この様に評した人も、現代に毒されている典型的な人だと言いたかったからではないでしょうか。

現代社会の弊害は、『勇気』や『悪魔の排除』などでは実現できません。『道徳』『倫理』『信仰』を強化せよと言っても実現できません。

多くの人が、『人間の本質は何か』を理解し、『個性的な個人で構成される社会のありかた』、『利己と利他のバランス』などという問題に自分なりの見識を保有するようになることが重要です。

このようなことを一人一人に考えてもらうための、『幼時からの情育(他人と情感を共有する訓練)』『青少年への人間教育(人間の本質を教える教育)』などを充実する必要があります。

『差別』『いじめ』『暴力』などは、『道徳』の問題として『それは悪いからやめろ』、『宗教』の問題として『悪魔に魂を売るな』といくら言ってもなくなりません。

誰もが潜在的に抱えている『差別』『いじめ』『暴力』の本能を、自分で見つめる努力が必要です。『私はそのようなこととは無縁の善良な人間である』と思い込んでいる人が、一番厄介です。

狂信的な善人ほど手に負えないものはありません。

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2018年2月 3日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ある夢』(3)

『夢見る』という言葉は、二つの意味を持ってます。一つは、睡眠中に『夢』を見ること、もうひとつは、覚醒中に『夢(願い事)』を想起することです。

覚醒中の『夢』では、簡単には実現しそうもないことを、薄々感じながら『願い』ますから、実現すれば『望外の喜び』になります。

何故覚醒時に『夢』を抱くかは、簡単な理由で、人間の『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があるからであろうと梅爺は考えています。

『想定される都合の悪い事態』は、『精神世界』にはストレスになりますから、それを無意識に回避する行為として、『都合のよい状態』を『夢』みることになります。

『悩み』『悲しみ』『苦しみ』に、打ちのめされた状態から、人間が立ち直ろうとするときに『夢』『希望』は重要な要因となります。『夢』『希望』が持てない状況は『絶望』であり、『精神世界』は危険にさらされます。

睡眠中の『夢』の『内容も、無意識であれ意識的であれ普段『願っている』ことが現れるのであろうと人々は考え、同じ『夢見る』という言葉を併用したのでしょう。日本語も、英語も言葉の使い方は同じです。しかし、覚醒中の『夢』と睡眠中の『夢』は、『精神世界』の行為としては異なったものです。

睡眠中の『夢』には、『願っている』ことばかりではなく『案じている』ことも現れます。梅爺の経験では、むしろ『案じている』ことに関する『いやな夢』をみることの方が多いように感じます。願い事がかなった『夢』などは、あまり見ません。

『フロイド』の『夢分析(性衝動が根底にあるとする)』が正しいかどうか、梅爺は判断できませんが、少なくとも『夢』は、人間の『精神世界』に深く関わっていることだけは確かでしょう。

睡眠中の『夢』は、現代の『脳科学』でも、完全に解明できているわけではありません。

覚醒中の『夢』にしろ、睡眠中の『夢』にしろ、『夢』は生きている人間だけが体験できる特権です。

『死』は、肉体の生命活動を奪いますから、連鎖的に『精神世界』は消滅する(無に帰す)と考えるのが妥当なような気がします。

生きている証として、私達は『夢』から逃れられません。梅爺が『夢とはなんだろう』と考えるのも、生きているからこそのことです。

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2018年2月 2日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ある夢』(2)

『原始社会』と『現代社会』の大きな違いの一つが、人間の『知識量』と『情報量』です。

『ウンベルト・エーコ』の『夢』は、『現代社会』の『知識』を保有している人間が、突然『情報量』が極端に少ない環境に追いやられるという話ですから、単純な『原始社会』『現代社会』の違いだけでは論ずることができません。

『ウンベルト・エーコ』が問題提起したかったことは、『過剰な情報の氾濫』で、現代人は、自分で考えたり判断することを放棄し、手っ取り早く特定の情報を鵜呑みにしてはいないかということではないでしょうか。

また『便利』が氾濫しているために、自分で『行動する』『創る』という行為から疎遠になってしまってはいないかということなのでしょう。

つまり『人間』の『人間らしさ』の本質の一つは、『個性的な創造能力を駆使する』ことであるにもかかわらず、現代人はその『人間らしさ』を放棄していることに警告を発しているのであろうと思います。

『夢』の中で、『ウンベルト・エーコ』は、狩りでしとめた獲物を、家族で分かち合いながら食べ、暖炉の火(勿論薪を調達する必要がある)の前で、家族、親子の『会話』がはずむ様子を描いています。

また『ウンベルト・エーコ』は近所の子供たちを集めて、『読み書き』を教え、若者たちには『文学』『哲学』を講義したいとも書いています。

人々は、『本』に興味を持つようになり、図書館の廃墟の中から、幸運にも残っていた『本』を探してきて、それを熟読するようになると書いています。

皮肉にも、戦争で強いられた『原始生活』の中に、『ウンベルト・エーコ』が望む、『理性的、知性的な人間』の人間らしい営みがあると論じていることになります。

勿論、『ウンベルト・エーコ』は『核戦争があった方がよい』『原始生活を望んでいる』と言っているわけではありません。

前にも書いたように、『現代社会』で生きている私達に、実は何が『大きな問題』であるかを認識してもらうために、極端な想定をしているにすぎません。

私達の周囲にも、『現代文明』の問題点を指摘し、『昔は良かった』と回顧する主張は沢山あります。しかし現代の『悪いところ』と昔の『良いところ』だけを比較しても始まりません。現代にも『良いところ』があり、昔にも『悪いところ』があるからです。

現代日本の生活環境を、江戸時代へ逆戻りさせることが『好ましい』などという論調は単純すぎます。

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2018年2月 1日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ある夢』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の40番目のタイトルは『A Dream(ある夢)』で、『ウンベルト・エーコ』が眠っていた時に見た『夢』の内容を紹介する体裁をとりながら、現代文明の行きすぎについて読者が『考える』ように仕向けています。『夢』は便法であり創作であろうと思います。

『現代文明は行き過ぎの弊害が多い』と直接的に論じた文章を読むより、このような手法で問題提起された方が、読者の興味を喚起し、読者は自ら『考える』ことで、問題の本質を深く認識することになります。

『夏目漱石』の『吾輩は猫である』なども、この手法を駆使した見事な作品です。『猫』の人間観察内容を語らせることで、人間の本性が見えてきて、それは読者にとっても思い当たることですから、つい笑ってしまいます。江戸庶民の『諧謔精神』を継承したものの観方でもあり、梅爺好みです。

『人間は清く正しく美しくあるべきだ』などと真顔で主張する人に、『夏目漱石』は、『お前さん、人間てぃものは、そうはいかないようにできているといるということくらい、ちょいとご自分の胸に手を当てて考えてみりゃ、分かることでござんしょ』と『猫』に言わせてほくそ笑んでいるようなものです。

『深刻な問題』『難解な問題』の本質を、『夢』や『猫の言葉』といった分かりやすい手段で提示する手法は、多くの文学者の常套手段です。

梅爺も、以前『神は存在するか』といった、誰もがしり込みしそうな話題を、『夢の中の神様との対話(その続編)』という体裁でブログに書きました。勿論梅爺が本当にこのような『夢』を観たわけではありません。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-4845.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-d046.html

『ウンベルト・エーコ』の『夢』の以下のように内容は、恐ろしいものです。

地球上で、『核戦争』が起こり、全人口の半分に近い30億人が直接的に、または放射能被害で死亡してしまう。 

『ウンベルト・エーコ』は家族や親しい人たちと、幸いにも生き残り、放射能被害もないイタリアの田舎で生活することになる。

戦争で、便利な『社会インフラ』は壊滅しますので、原始社会に逆戻りしたような生活ぶりになります。

『電気』もない、勿論『テレビ』や『インターネット』は使えない、必要なものは自分で調達したり、創ったりしなければならないと、『不便』を書き連ねながら、『ウンベルト・エーコ』は、むしろそれを歓迎し、嬉しがっているような印象を受けます。『現代文明』の行きすぎを論するために、対極の『原始生活』を読者に提示し、『あなたはそれを不幸と考えますか』と暗黙に問いかけていることが分かります。

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