« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月31日 (水)

物理学と神(8)

この本を読んで梅爺は、多くの『知識』を得たり、再確認したりしました。しかし、その内容を二番煎じで解説することがブログの目的ではありませんので、『科学史』にご興味のある方は、ご自分でお読みいただきたいと思います。

一つだけ、『物質世界』の『摂理』を探求する現代科学者の中に、『人間原理』を主張する人達がいることについて、梅爺の感想を述べたいと思います。

『人間原理』という言葉は、何を言わんとするのか分かりずらいと思いますが、には、これは以下のような主張です。

『宇宙の誕生以降、宇宙環境で起きた事象(変容)は、全てが後に人間を出現させることに都合が良いことが優先されているように見える。これは偶然ではなく、摂理の奥に、人間を出現させるための一貫した意図が存在すると考えざるを得ない』

この主張を『科学』の『仮説』と呼ぶには、少しばかりお粗末であるように梅爺は思います。

『○○のように見えるから、△△である』という『因果関係』の表現は、主観的な価値観の主張であって、『論理証明』のための道筋が何も提示されていないからです。この程度の主張ならば、何でも主張の対象になります。

確かに、現在地球上に存在する『人類』という生物は、優れた『精神世界』を保有するという点で特殊な生物とも言えますが、『人類』を出現させるために『宇宙』が一貫した意図をもって後押ししたというのは、あまりにも『不遜』『傲岸』な考え方ではないでしょうか。

『宇宙の歴史の中で起きた変容が、幸運にも偶然地球という惑星を創りだし、幸運にも偶然に地球上に生命体を出現させ、幸運にも偶然人間という生物にまで進化させた』と考える方が、梅爺にはしっくりきます。

非常に幸運な偶然の積み重ねが『人間』を出現させたことに『感謝』しますが、『人間』を出現させるという『意図』が、『宇宙』の摂理に潜んでいるとは到底思えません。ひつでも条件が狂えば、『人間』は出現しなかったと考える方が妥当です。

『人間』が未来永劫『宇宙』環境に存在し続けるという保証はなく、仮に『人間』が絶滅しても『宇宙』は存在し続けるでしょうから、『人間原理』という『意図』が『摂理』の奥に潜んでいるとはとても思えません。

宗教的な視点で見ると、『人間原理』という『意図』の存在は、『神の意図』と結びつけて受け容れ易いのかもしれません。

しかし、この『意図』の存在を証明することは、『神』の存在を証明することと同様に難しいことになります。

従って『人間原理』への対応は、『信ずる』といいう行為しかありませんから、『人間原理』は『宗教』に似た主張とも言えます。

『人間原理』が科学界で主流の考え方になるとは思えません。

ただ科学者も『人間』ですから、その『精神世界』が、自由奔放な『因果関係』を虚構で創りだすことがあろうとは理解できます。

『人間は(自分は)、特別な存在』と思うことで『安堵』を得たい気持ちは分かりますが、残念ながら『人間』は、生物として『特別な存在』とまでは言いきれません。

| | コメント (0)

2018年1月30日 (火)

物理学と神(7)

『物理学と神』という本は、『神』を論ずる為に書かれた本ではありません。中世から現代までの『科学史』を体系的に、分かりやすく教示するために、一般読者の興味の対象である『神』を引き合いに出しているにすぎません。

池内先生の該博な知識が、分かりやすい文章で綴られていますから、『科学史』を概観するにはうってつけの本です。

以下のような、話題が網羅されていますので、梅爺のような『野次馬』にはたまらない面白さです。

『永久機関』『錬金術』『パラドックス』『カオス(複雑系)』『フラクタル(自己相似性)』『宇宙の膨張』『複数宇宙論』『対称性の破れ』『核力(強い力)』

現代の『科学知識』の大半は、ここ100~150年で獲得されたものであることを改めて実感しました。

人類の文明の歴史は約5000年と考えると、そのほとんどの時代は、現在の『科学知識』を持たなかった人達が、懸命に『精神世界』を駆使して、周囲の事象を理解しようとしていたということになります。

歴史に名を残す、著名な『哲学者』『宗教家』『芸術家』の多くは、現在の『科学知識』を持たなかった人達です。

梅爺は、これらの『哲学者』『宗教家』『芸術家』の残した成果を全て無意味というつもりはありませんが、現代の視点で『再評価』する必要もあろうと考えています。それが現代人の義務でもあるからです。

将来、私たちは、更に新しい視点で『再評価』されることになります。それが人類の『文明』の進展なのではないでしょうか。

過去の『哲学者』『宗教家』『芸術家』が残した成果の中で、現代でも矛盾なく受け入れられる『普遍的な事柄』と、当時の人達にとっては理解に『限界』があって、『誤りがある』『矛盾を内包する』ことは、区別して対応すべきということです。

『芸術』は、『精神世界』の『情感』が表現対象ですので、比較的『普遍性』が高いと言えます。『バッハ』の音楽、『ミケランジェロ』の彫刻が代表例です。

しかし『哲学』『宗教』となると、『理』が関与する内容表現が増えますので、過去の成果を、そのまま受け入れることが適切ではなくなります。

『アリストテレス』の『世界観』、『聖書』に書かれた『天地、人間の誕生次第』などは、現代人の『科学知識』とは相いれません。

何故当時の人たちがそのように考えたのかを『理解』することと、それを現代にも通用することとして受け容れることは違います。

永い人類の歴史の中で、私たちは『科学知識』の保有量という点で、特殊な存在です。この『科学知識』を活用して『思考する』ことが、現代人の特権でもあり義務であろうと梅爺は考えます。『過去』は学び参考にすべき対象ですが、批判する対象でもあるということです。

繰り返しになりますが、それが、『過去』を『未来』へ継承していくことに役立つからです。

| | コメント (0)

2018年1月29日 (月)

物理学と神(6)

『ニュートン』が発見した物理学(ニュートン力学)は、当時としては画期的なもので、人々は『宇宙』の真理の根源を見つけたと考えたに違いありません。

なにしろ『初期条件』を設定すれば、結果として何がもたらせるかを正しく推定できる法則であったからです。

しかし、20世紀が近付いたころから、原子より小さな新粒子が発見されるようになり、それらの新粒子が所属する世界では、物質の振る舞いは、『ニュートン力学』のように、事前に予測できないらしいことが分かってきました。

これに関して、『ハイゼンベルグ』が『不確定性理論』を唱えました。粒子の位置と速度、エネルギーとその状態にある寿命が、同時に双方とも完全に決定できないという主張です。全く予測できないということではなく、確率論的な予測しかできないというlことです。現在ではこれは『定説』になっていて、原子の世界を論ずるには、『ニュートン力学』ではなく『量子力学』が必要になることが明らかになっています。

『不確定性理論』は、物質の振る舞いに関して、『神』は『ニュートン力学』の場合のような決定論的な役割を果たしていないというようにも受け止められます。

『量子力学』のこの『不確定性理論』を、直感的に疑った『アインシュタイン』は、『神はサイコロ遊びをしない』と批判しました。これに対して『ハイゼンベルグ』は『サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよい』と反論しました。

これは『神』に関する論争ではなく、『宇宙』の根源的な『摂理』に、『不確定性』という概念が必要かどうかの論争です。

『ビッグ・バン』が仮に『神の一撃』で始まったとしても、その後の『宇宙』の歴史は、偶然に支配されているように見えますから、『神』はずっとサイコロ遊びに興じ続けているということにもなりかねません。

『量子力学』の『不確定性』と、『物質世界』の『偶発的な変容』は、同じこととして論ずることはできませんが、後者は、あまりにも多様な要因が複雑に絡んで『変容』が進行する(平衡状態が動的に移行する)ために、少なくとも『人知』では正確な予測ができないということを意味しています。

人間社会の『政治』『経済』も、同じようなことが言えて、『人知』では正確な予測ができません。

『結果』を『神のご意思』として受け止めることはできたとしても、結果に至るプロセスで『神』は何をなさっていたのか分かりませんから、これを揶揄して『サイコロ遊び』と呼ぶ人が出てくるのも避けられません。

『全知全能の神』がどうして『サイコロで決める』必要があるのかという批判が生じますが、梅爺流に考えれば、『神は全知全能である』と考えたのも、『神がサイコロ遊びに興じている』と考えたのも、人間の『精神世界』が創りだした虚構に過ぎませんから、どちらが『正しい』かなどと議論することには意味があるとは思えません。

人間にとってマクロに捕えられる世界では『ニュートン力学』で物質の振る舞いは正確に予測できますが、人間にとって『量子』といったミクロな世界では『不確定性理論』が成立するというように受け入れれば良いのではないでしょうか。

マクロな世界は時間を含めて『4次元』ですが、『量子』の世界は『10次元』であるという主張もあります。『10次元』が今後『定説』になるかどうかは分かりませんが、そう考えることで『宇宙』が矛盾なく説明できるというなら、『科学知識』のレベルが上がったとして歓迎すれば良いように思います。

人間が発見した『物質世界』の『摂理』は一部にしかすぎません。未だ多くのことが『分かっていない』ことになりますが、これを探索するプロセスに、『神』や『悪魔』といった『精神世界』の創出した虚構概念を持ち込むことは、あまり意味があることとは思えません。

| | コメント (0)

2018年1月28日 (日)

物理学と神(5)

近世の科学者の多くは、『神』の存在を完全に否定しないまでも、疑い始めました。

『神』の力を借りなくとも、『宇宙』や『生命体』が誕生するらしいと分かってきたからです。そして何よりも、『物質世界(自然界)』を支配している『摂理(法則)』は冷徹なもので、人間だけを特別扱いしたりはしないことにも気づきました。『物質世界』では、『愛』『慈悲』などという概念は通用しないということです。善良で信心深い人ならば、天災から命を護ってもらえるなどという保証はないからです。

しかし、現時点でも科学者は『神』をないがしろにできない『後ろめたさ』を抱えています。それは、『物質世界』を支配している『摂理』の一部を発見はしてきたものの、『何故摂理が存在するのか』という根源的な問いに、全く答えられないからです。

『分からない』ことは、『精神世界』の安泰を脅かすストレスになりますから、昔の人が『分からない』ことの『因果関係』を『神』に求めたように、現代の科学者の中には、『物質世界を支配する摂理をデザインしたのは神ではないか』と主張する人達もいます。

『アインシュタイン』も『摂理』があまりにも見事な数式で表現できることに、畏敬の念を払っています。

梅爺はこの主張に反論する能力がありませんから、『摂理をデザインしたのは神』かもしれないと思いますが、この場合の『神』は、歴史的に『宗教』が説いてきた『神』とは、似て非なるものであると言わざるをえません。前述のように『愛』『慈悲』『救い』『罪』などとは無縁の存在に思えるからです。

『物理学と神』の著者の池内先生は、『今後も科学者の前に、神は色々な形で登場するであろう』というような主旨のことを書いておられます。

それは『神』が存在するからではなく、人間の『精神世界』は、その都度『安泰を求めて』都合のよい『因果関係』を創り上げるために『神』を定義するであろうということにほかなりません。

人間にとって『分からない』ことがある以上、『神』は形を変えて登場するに違いないからです。池内先生は、これを『神は老獪(ろうかい)にして悪意を持たず』と表現しています。

『分からない』ことの根源を『神』とすれば、全ての『因果関係』の追及はそこで停止してしまいますから、極めて便利な論法と言えます。昔『神』を思いついた人はなかなか頭の良い人であったと梅爺は感心してしまいます。

| | コメント (0)

2018年1月27日 (土)

物理学と神(4)

16世紀になって、哲学者『デカルト』が、『哲学原理』を著わし、感覚より理性を信用すべきこと、物理学において数学が有効であること、普遍的な基準を見つけてそこから論理を構築べきことなどを主張しました。

『デカルト』や後の『ニュートン』は、『神』を否定したわけではなく、自然界(物質世界)の『摂理』の探究こそが、『神』の存在を証明することになると考えていたことになります。『聖書』と自然界が矛盾していたら、自然界の方に『神』の真意があるということにほかなりません。

結果的に、『神』は『地球上』から、天空のどこか遠くへ追いやられ、科学者は地上の権力者と結託して、正々堂々と自然の探究にいそしめる基盤が確立していったことになります。

『地動説』が定着すると、宇宙の中で『地球』だけが特別な存在ではないことを認めざるを得なくなりますので、『地球』以外の場所を舞台とした、SF小説のようなものも登場することになります。『地球』以外の住人が存在するとなればその先祖は、アダムとイヴとは言えなくなり、『神』の権威はますます揺らぐことになりました。

『神』という唯一絶対の権威が地に堕ち、『聖』と『俗』が分離されて、『俗』が幅を利かす時代が到来したことになります。『俗』そのものも変遷し、『王政』から『市民中心の政治』へと移行していきました。

そして『俗』に加担した無信心の科学者は、『神』を追放しただけでなく、新たな『悪魔』を創りだすようにもなりました。

『悪魔』は『神』同様に、人間の『精神世界』が創出した、虚構の抽象概念であろうと梅爺は考えています。

何故このような抽象概念を人間が必要としたかは、簡単な理由で、それは『精神世界』を『安泰を希求する本能』が支配しているからと梅爺は推測しています。

人間は『分からないこと』に遭遇すると、なんとしても『因果関係』を考え出して(創出して)、納得しようとします(安泰を得ようとする)。『神』『悪魔』は、その『因果関係』を成立させる手段であったということでしょう。天地を創造したのは『神』であり、人間を堕落させるのは『悪魔』と考えたことになります。

抽象概念では、多くの場合裏と表の概念『対』になって表現されます。『神、悪魔』『天国、地獄』『正、邪』『美、醜』などがそれにあたります。人間の『精神世界』が保有する一つの特質が『論理的な推論』であることの証左です。

『精神世界』では自由奔放に、虚構を創出できることが特徴です。『物質世界』の『摂理』で合理性が問われることもありません。

しかし、時に人間は虚構を真実と錯覚し、人間社会は混乱することがあります。厄介なことに虚構を『真実ではない』と証明することは、『神は存在しない』ということを証明することと同様に困難です。

虚構と真実を区別するのは、その人の『理性』ですが、『理性』は『情感』の影響を受けやすいという、これまた厄介な習性を私たちは保有しています。

| | コメント (0)

2018年1月26日 (金)

物理学と神(3)

古代ギリシャの『アリストテレス自然学』に、『キリスト教』の神学者がどのように対応するかが、最初に問題になりました。

12世紀にパリで開催された大司教会議で、『アリストテレス自然学』は、『聖書』の記述に反するという理由で、これを教えることが禁じられました。

『聖書』では、過去のある時点で、『神』が天地を創造したということになっていますが、『アリストテレス自然学』では、宇宙は永遠に変化しないということになっているからです。

現代の科学知識では、有限の過去に『ビッグ・バン』が起きて『宇宙』が産まれたということですから、どちらかといえば『聖書』の方が事実に近いことになります。

『アリストテレス自然学』では、『地球』は、火、空気、水、土の4元素で造られ、宇宙の中心であって動かない特別の存在であるとされていました。月より上は、高貴な元素『エーテル』でできていて、宇宙の果ての恒星は、天球面上を円運動しているという考え方です。

13世紀になって『トマス・アクィナス』は、その著書『神学大全』の中で、『アリストテレス自然学』と『キリスト教の神学的教義』を調和させようと努力を傾けました。この結果、それ以降『キリスト教』では、『天動説』こそが『聖書』の記述に符合するという考え方が定着してしまいました。後に『ガリレオ(地動説を唱えた)』が、『カトリック』から異端として糾弾されたのはそのためです。

『トマス・アクィナス』は頭がよい人でしたから、『アリストテレス自然学』と『聖書』の間には『矛盾』があることに気付かなかったわけではありません。そこで『聖書の一部は無知な人々にも分かるように故意に誤った記述をしているのだ』と少々強引な弁明をしました。

『聖書は字義通り受け取らなくてもよい』ということですから、いくらでも拡大解釈、自由な創造が可能になります。『ダンテ』の『神曲』における『地獄』『煉獄』『天国』は、この考え方の延長で誕生しました。

しかし、15世紀に、神職者『コペルニクス』によって『地動説』が唱えられ、『天動説』が揺らぎ始めます。『天動説』では『地球』が宇宙の中心ですから、そこに『神』の居場所があると主張できましたが、『地動説』となると、『太陽』が宇宙の中心になってしまい、『神』の居場所があやふやになってしまうという困った事態になりました。

『宗教改革』の担い手の『ルター』や『カルヴァン』は、『聖書』だけが正しいと主張して『コペルニクス』の『地動説』に反対しています。『神』の居場所が『地球』ではないという考え方を受け入れることができなかったのでしょう。

| | コメント (0)

2018年1月25日 (木)

物理学と神(2)

『池内了』先生は、この本の『あとがき』に『神の存在を信じているわけでもない私だから、かえって気軽に神を使う(科学史検証の手段として:梅爺注)ことができると考えたのである』と書いておられます。

この文章だけを読むと、『無神論者によるキリスト教糾弾』のようにとれますが、この本を通して読んだ印象は、そうではなく、池内先生は、寧ろ『不可知論者』であると感じました。

『神が存在する』ことは、誰も論理的に『証明』できません。勿論『神は存在しない』ことを証明することも不可能です。『何かが存在しない』ことを論理的に証明することは、ほとんど不可能なことです。

梅爺は何度もブログに書いてきたように、『神』は、人間の『精神世界』が創出した虚構の抽象概念であろうと考えています。この概念は歴史的に人間社会で語り継がれ継承されてきましたので、多くの人の共通概念として通用しています。梅爺も、抽象概念としての『神』は、自分の頭の中に保有しています。

しかし、『天空のどこかに父なる神(全知全能の創造主)が実態として存在する』ことに関しては、『存在しないであろう』と推測しています。前述の通り『存在しない』ことを証明することは梅爺にも、誰にもできません。誰も『天空の全てを隈なく調べる』ことができないからです。

しかし、『天空には実態としての神は存在しない』と想定して周囲の事象を眺めて観て、梅爺の理性では『矛盾』を見出せませんのでこの考え方を受け入れています。

科学者の池内先生も同様な立場ですから、厳密にいえば、梅爺も池内先生も実態としての『神』の存在に関しては、『不可知論者(存在する、しないを証明できない)』であるということになります。

池内先生の『神の存在を信じているわけでもない』という表現は、『信じない』として、自然界や人間の事象を眺めてみても、特段の『矛盾』は発見できないという、梅爺と同じ考え方なのであろうと思います。

寧ろこの本で池内先生が主張されたかったことは、同じく『あとがき』に以下のように記述されています。

『科学によって得た知はあくまでも部分であり、未知の領域は大きく広がっている。そこから、地球環境問題や生態系の多様性の危機のような、簡単には解決できない難問が生じている。私たちがまだまだ無知であることを謙虚に学ぶためには、歴史を読み直すことが一番である』

科学者は、科学の力で全てが解決できるかのように振る舞ってはいけないという警告です。

| | コメント (0)

2018年1月24日 (水)

物理学と神(1)

『物理学と神:池内了著(集英社新書)』をという本を読みました。

『そういうことに、よくまぁ前さんの好奇心は続きますな』と言われそうですが、こればかりは、自分でも理由が説明できませんので、多分先祖からそのような習性のDNAを継承しているのでしょう。

著者の『池内了(さとる)』先生は、総合研究大学院大学の教授で、宇宙物理学がご専門の方です。『物理学と神』というタイトルでも分かるように、科学者と倫理の問題にも関心が深く、NHKBSプレミアムチャンネルで放映される、『闇の科学史』のコメンテーターとしても良く登場されます。

少なくとも、このような本が出版される以上、梅爺と同じようなことに好奇心をお持ちの方が、世の中には少なからずおられるのであろうと、推測しています。

『物理学』は『科学』の中でも特に『理』を重んずる分野で、『物質世界』の『摂理(法則)』を追求することが目的ですから、『情』が関与することはほとんどありません。

したがって『物理学』は、『神』からは一番遠いところにあり、普通は両者の接点はないように感じますが、実は『科学史』と『神』は無縁ではないことをこの本は紹介しています。

この本が対象にしている『神』は、『物理学』が西欧中心に発展した領域ですから、西欧の『神』、つまり『キリスト教』の『神』を主として念頭に置いて書かれています。

この本では、『科学史(物理学史)』を以下の五つの時代に分けて論じています。

第一期 17世紀の近代科学の黎明期
第二期 18世紀から19世紀末まで
第三期 20世紀前半
第四期 20世紀後半
第五期 現代

第一期以前は、『聖書』は神の言葉を記したもの、『自然』は神の御業(みわざ)を反映した世界と『キリスト教』が考えていましたから、『自然』を探求することは『神の真意』を知ることとして寧ろ歓迎される行為でした。したがって『神学者』の一部が『科学者』でもありました。

『聖書』も『自然』も、『神』の真実を理解するという点で、両者の間に矛盾がありませんでした。『神』と『科学』は対立する関係ではなかったということです。

ところが、第一期になって、『科学』が明らかにした『事実』が、『聖書』や聖職者の主張と異なっていることが一部判明し、初めて両者の『矛盾』が明るみに出るようになりました。

『第二期』『第三期』を迎えると、矛盾は一層顕著になり、『キリスト教』が受け身に回らざるを得ない状況が強まりました。

『第四期』『第五期』は、多くの人が『科学』と『神』が同次元では語ることをやめてしまった時代です。

最初は、『キリスト教』が推奨していた『科学』が、実は『キリスト教』を窮地へ追いやることになるという皮肉な結果になったということです。下世話に表現すれば『飼い犬に手を噛まれた』という話です。

| | コメント (0)

2018年1月23日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Some of Her Best Friends』(2)

『ウンベルト・エーコ』は、1960年代に、フランコ独裁政権下にあった『スペイン』から講演と知識人との交流を目的とした催しに招待されたことがあったとこのエッセイで紹介しています。

民主主義と自由な思想の信奉者であり、独裁政治は認めない信条の持ち主であると自認していたために、最初は招待を断りました。しかし、『自由な討議』を保証するので是非にと再三依頼を受け、ついに招待を受諾しました。

『スペイン』に出向いてみると、当然のことながら『色々な考え方の人たち』がそこにはいて、『フランコ独裁政権下のスペイン人』とひとくくりにして断ずることが不適切であることを、身を持って体験することになりました。

その経験から、その後は原則として身に危険が及ばないと考えられる限り、外国からの招待をうけ、現地の人との『話し合い』を続けてきました。

ところが、『アメリカ』の雑誌の女性編集長が、『イスラエル』のシャロン政権の政策に反対するために、ヨーロッパの知識人に『イスラエル・ボイコット』『イスラエルの学会や知識人との交流もボイコット』するように、呼びかけてきました。

この雑誌は、『翻訳文化』をテーマにしてレベルの高いものであり、『ウンベルト・エーコ』も以前何度か依頼を受けて論文を掲載してきました。当然ながら女性編集長とは親しい間柄でした。

『ウンベルト・エーコ』はこの女性編集長の考え方(イスラエル・ボイコット)に『反対』を表明するわけですが、ここで例のレトリックを、ユーモアたっぷりに使って見せています。

『私は彼女の親友の一人です。でも彼女の今回の主張(イスラエル。ボイコット)には同意できません』と。『Some of Her Best Friends』をタイトルにしているのはこのためです。

『同じ毛色の猫しかいない国は世界のどこにもいない。それなのに皆同じ毛色の猫だと断ずる人は、人種差別主義者である』と皮肉たっぷりに述べてこのエッセイは閉じられています。

『外国』を観る場合に、その国の『権力者』『庶民』『特定の個人』を区別する必要があります。しかし、これは『好き嫌い』の情感が先行すると、意外に難しいことで、つい『皆同じ毛色の猫だ』と言ってしまいがちです。

| | コメント (0)

2018年1月22日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Some of Her Best friends』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の39番目のタイトルは『Some of Her Best Friends(彼女の何人かの親友)』で、『ある外国の政治体制が好ましくないという理由で、その国の人々まで排斥してはいけない』という内容が述べられています。

『理性』で考えれば当然の話ですが、『嫌悪』という情感が先行すると、私達もこの弊害に陥りやすい習性を持っています。

梅爺の周囲にも、『中国や韓国の人たちは嫌い』と公言される方が何人かおられ、理由を尋ねると『だってあの人たちは日本を嫌うように教育されていて、現に嫌っているから』とか、『日本への観光客の、公共の場での節度を欠いた振る舞いは、目に余るから』いうような答が返ってきます。

確かにテレビで放映される『中国の反日デモ』の破壊活動のすさまじさや、韓国の『慰安婦問題』に執拗にこだわる運動は、観ていると梅爺も心が暗くなりますが、そうであるからと言って全ての中国人、韓国人を『政治のメガネ』だけで、いっしょくたにして観るのは偏見であると自戒するようにしています。前にも書きましたが、梅爺が仕事でお付き合いした中国人、韓国人の中には、尊敬すべき方々が何人もおられたという経験が、梅爺に自戒を促す要因になっています。

お互いに『異文化』の背景を背負っていることは避けられませんが、それを認めた上で、忌憚のない意見を交わすことは、必ず相互理解を生みだします。

このエッセイのタイトルが『Some of Her Best Friends』となっているのは、この前のエッセイが『Some of My Best Friends』であったことを受けています。

『Some of My Best Friends』は、あることを主張する時に、必ずと言ってよいほど使われる『言い回し方(レトリック)』の例として、とり上がられていました。

『私にはユダヤ人の親友が何人かいます。でも、ユダヤ人に共通するこれこれの習性はとても受け入れられません』というような主張をするときの『前置き』としてのレトリックです。

この主張をしている人は、『お前は人種差別主義者だ』と糾弾されることを、事前に推測して、『私にはユダヤ人の親友が何人かいます』という、予防線を張って自己弁護していることになります。

『ウンベルト・エーコ』は、この種のレトリックを非難しているというより、人間の自己弁護の習性をユーモアで紹介しているように感じました。

『Some of Her Best Friends』は、『私は彼女の親友の一人ですが、それでも彼女の言動には賛成できない』ということを、今度は『ウンベルト・エーコ』自身が主張するために、前のエッセイを踏襲した機知に富んだタイトルとして採用しているものです。

| | コメント (0)

2018年1月21日 (日)

『侏儒の言葉』考・・自由意志と宿命と(4)

『芥川龍之介』がこの文章で『自由意志』と言っている中に、『無意識の判断』も含んでいるのかどうか分からず、少し気になりました。

『精神世界』の『判断』は、『理』と『情』、『意識』と『無意識』が複雑に絡んで実行されます。

『理』と『意識』の組み合わせは、確かに『自由意志』と言えそうですが、人間にとって厄介なのは『情』と『無意識』の組み合わせです。

『一目ぼれ』『毛嫌い』などの行為は、この『情』と『無意識』の組み合わせが判断のベースにあります。

このように考えると、判断レベルは2種類あり、一つは『理』で脳内に設定した判断レベル、もう一つは『情』が同じく脳内に設定して判断レベルであると思われます。

前者は、生後の体験などをベースに、その人が創りだした判断レベルですが、後者は先天的な『遺伝子』によって付与された資質が創りだしたものと考えられます。『遺伝子』が絡みますから、『宿命』の要因が含まれます。

『理』の判断レベルは『善悪』の判断のベースになり、『情』の判断レベルは『好き嫌い』の判断ベースになります。

『他人を理由なく毛嫌いするのはよくないことだ』という判断は、『理』の判断が、『情』の判断を抑制した結果です。

このように考えてくると、人間の『判断』に、『宿命』の要因が絡むのは、避けられないことであることが分かります。『遺伝子』が『情』『無意識』に関与しているからです。

ただ、人間の素晴らしいところは、最終的に『理』で『情』を抑制できる可能性を秘めていることです。

しかし、全てに『理』を優先してしまうと、実に味気ない人間になってしまうことも事実でしょう。

『理に依る抑制』と『奔放な情の吐露』のバランスが、その人を魅力的に見せます。

自分のバランス点は、自分で決めるしかありません。そのことには責任を伴いますが、うまくいけば魅力あふれた人間になることもでき、うまくいかない時は、大人げない人間になってしまうかもしれません。

| | コメント (0)

2018年1月20日 (土)

『侏儒の言葉』考・・自由意志と宿命と(3)

『遺伝子』で先天的に付与された個人の資質は、『宿命』として受け入れざるをえません。

梅爺の父親は生前、『一升瓶には二升は入らない』と良くいっていました。自分の器量を弁えろという意味で、身分相応の努力まで否定したものではないと梅爺は受け止めていました。弁解にこの言葉を利用すれば、何でも逃げ腰になってしまうからです。

もうひとつ人間にとって『宿命』といえるものがあります。

自分の責任が全く絡まない予期せぬ事故や災害に巻き込まれ、不幸にも命を落とすことさえありことがそれにあたります。

これは人間の将来を見通す能力に限界があることの証左で、『賢い人』『善良な人』『信仰深い人』なら、『宿命』を回避できるわけではありません。

『賢い』『善良』『信仰深い』は、『精神世界』の価値観で、事故や災害に見舞われた時は、肉体の『生命維持活動』が継続できない状況に追い込まれますから、『物質世界』に属する肉体という土台が崩壊してしまいます。土台を失えば『精神世界』は存在できませんから、『賢い』『善良』『信仰深い』などといくら主張しても何の効力もありません。

東日本大震災で起きたこの種の非情な事態を見て、私達は言葉を失い、ただ涙を流すしかありませんでした。人間は思いあがって『自分たちは特別な存在』であると思いがちですが、『物質世界』の圧倒的な『摂理』の力の前には、他の生物同様に無力な存在です。

私達に『命』を付与し、それを機能できるようにしてくれるのも『摂理』ですが、『命』を奪うのも『摂理』です。『摂理』は人間だけを特別扱いはしませんし、ましてや『愛』や『慈悲』などといった属性はありません。

『芥川龍之介』の文章には、このような『人間の先見性欠如』が原因で私達が遭遇する『宿命』は論じられていませんので、この感想を書き添えました。

私達は日ごろ、『宿命』『運命』などという言葉を、あまり深く考えずに使っていますが、『精神世界』の『価値観』が絡む時には、少し慎重になるべきでしょう。

自分の『価値観』を優先して、『神に変わって悪を懲らしめる』『天誅を行う』などと主張し、『悪が滅びるのは彼らの運命』などという時の『運命』はいかがわしいものです。

アメリカと北朝鮮の国家リーダー同士が、この種の『罵詈雑言』の応酬を繰り返しているのは、ご存知の通りです。程度が低すぎます。

| | コメント (0)

2018年1月19日 (金)

『侏儒の言葉』考・・自由意志と宿命と(2)

『理性』が乏しいと、人間は『先天的な資質』だけで『行動』する度合いが高まります。粗暴な資質を遺伝子で継承していたとすれば、粗暴に振る舞います。これは、ある意味、人間以外の動物の行動に似ています。

逆に言えば、人間を他の動物と異なった存在にしている最大の要因は『理性』であるとも言えます。

それでは、『理性』とは何なのでしょう。

『因果関係』を推測し、その『真偽』を判断する能力が、『理性』の一面です。しかし、残念なことに私達の周囲の事象で、『因果関係』の『真偽』を普遍的に判定できるものは、『科学』や『数学』のような世界の事象しかありません。

その他の『政治』『経済』『宗教』『芸術』などの、人間の『精神世界』の価値観が関与する事象には、普遍的に『真偽』を判定する基準がありません。この背景には、人間が『個性的』であるという本質があるのですが、ややこしいのでここでは省きます。

梅爺がこのように言うと、多くの方が戸惑われ、怪訝な顔をされます。そして、『殺すな』『盗むな』などは、普遍的な判断基準ではないのかと反論されます。

残念ながら『殺すな』『盗むな』は、普遍的な判断基準ではなく、人間社会の『約束事』に過ぎません。現に、戦争では敵を『殺す』ことが是認されたり賞賛されたりしますし、なんといっても人間は他の生物を『殺して』食料にしなければ生きていけません。『憲法』『法律』『道徳』『倫理』などは全て『約束事』です。時代や社会環境が変われば『約束事』の内容も変わります。キリスト教社会とイスラム教社会では、倫理、道徳の判断基準が異なっています。

人間の『精神世界』が絡む事象についても、『因果関係』を推測し、その是非を判断する行為が伴ないます。これが『理性』のもう一つの側面です。

ただし、この場合は、『普遍的な判断基準』がありませんから、何らかの『基準』を自分で作り上げなければなりません。

『親の教え』『先生の教え』『聖職者の教え』『昔からの習慣』『その社会の常識』『評論家の意見』など、様々なものがこの自分の『判断基準』形成に影響を与えます。多くの場合、『何が良いこと(好ましいこと)で、何が悪いこと(好ましくないこと)か』という判断基準です。

それらを総合して、最後に自分の判断基準を採択することが好ましく、それができる人はより『理性的』な人ということができます。『理性』には質の違いがあるということです。

ただ『他人の考え』や『常識とされるもの』に安易に従うのは軽薄であり、良質な『理性』とは言えません。

良質な『理性』を保有している人の比率が高い社会が、成熟した文明社会です。

| | コメント (0)

2018年1月18日 (木)

『侏儒の言葉』考・・自由意志と宿命と(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』に登場する話題『自由意志と宿命と』に関する感想です。

この話題に関する『芥川龍之介』の最初の書き出しは以下です。

兎に角(とにかく)宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我々の態度は寛大になるに相違ない。同時にまた自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺をまぬがれるから、我々自身に対する我々の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか? 
私は恬然(てんぜん)と答えたい。半ば自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或(あるい)は半ば自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。

いつものとおり、『芥川龍之介』は、『宿命』『自由意志』という言葉の定義をせずに、上記のような主張を開始しますから、読者は、『芥川龍之介』の考え方を忖度(そんたく)しながら読むしかありません。

梅爺は、『人間の行動の動機』の違いを論じているのであろうと推測しました。

『宿命』は、自分ではどうすることもできない、先天的な要因で行動は動機づけられているということなのでしょう。『宗教』では『神意』『天意』などというものが存在するという前提で、このような主張が行われることがあります。

一方『自由意志』は、後天的に人間が獲得した自らの判断基準で、行動は動機づけられるということでしょう。『自由』の代償として『責任』がありますよと『芥川龍之介』は言っています。

結論は、どちらかを重視せずに、『宿命』『自由意志』の双方を半ば『信じ』半ば『疑って』対応しなさいという、分かったようで分からない話になっています。

このような場合には、梅爺はいつもの『物質世界』『精神世界』の視点でこの問題を考えてみることになります。

自分ではどうすることもできない先天的な要因の影響を受けていることは確かです。『遺伝子』で梅爺に継承された『資質』がそれに相当します。体格、容貌、能力、体質は当然として、寿命などもこれに属するものかもしれません。『遺伝子』の継承は、『物質世界』の『摂理』が背景にあります。

更にこれに加え、『精神世界』の『情』も、多分に『遺伝子』の影響をうけます。『好み』などがそれにあたります。梅爺の好物のひとつに『ピーナッツ』がありますが、何故そうなのか自分では説明できません。

『遺伝子』で継承された『資質』は、確かに本人にとって選択の余地がない『与えられたもの』ですから、『宿命』として受け容れる以外にありません。

人間の『行動』は、『精神世界』の判断が引き金になりますが、この判断は、『理と情』『意識と無意識』が複雑に絡みますので、『行動』の動機を全て『宿命』のせいにするわけにはいきません。

しかし、上記のように、『与えられた資質』の影響はゼロでもありません。

この難しい問題のカギは、『精神世界』の『理性』にあり、『理性』のほとんどは後天的な体験を通して養われます。『理性』で『宿命』の不都合な『資質』を抑制できる可能性が残されています。

| | コメント (0)

2018年1月17日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Some of My Best Friends』(4)

昨日も書いたように、『断定的にものを言う』ことが危険であることは、『ウンベルト・エーコ』に指摘されるまでもなく理解できます。 

しかし、そうであるからと言って『人間社会』で誰もが、『断定的な表現を控える』ことになると、『社会』の営みが行えなくなってしまいます。 

逆に、独裁者や独裁政党の価値観で、『断定』が行われると、多くの場合人々の『精神世界』は抑圧され、恐怖が支配することにもなります。 

日本の政治家は、『しっかり議論をして、丁寧に国民に内容を説明したい』などと耳に心地よい表現をしますが、実はこのようなことを実行することは至難の業です。

他人が、『○○はXXである』などと、断定的な発言をした時には、前後の文脈からそれは『私はそのように考えている』と個人的な意見として述べているのか、『それが普遍的な真実である』と主張しているのかを、聴き手が判断しなければなりませんが、それは易しいことではありません。

梅爺はブログを書くときに、読者に誤解が生じないように気を遣ってはいますが、万全は期し難いことです。

人間は自らの『精神世界』を表現するために、『ことば』という見事なしくみを発案して継承してきました。より詳細に『情感』や『意図』を表現できることで、『文明』や『文化』を開花させてきました。生物の世界で人間が支配的な地位を得ているのはこれに依るものです。

『ことば』は強力な手段であると同時に、反面誤解を生みだす要因にもなります。

私達は、『精神世界』の『記憶』『推論能力』『情感』などを総合的に駆使しながら、『ことば』で他人とのコミュニケーションを行っています。

ややこしいことに他人は自分とは異なった『精神世界』の保有者で、コミュニケーションに対応しますので、話し手の意図が、話し手の期待するように聴き手に伝わるとは限りません。

『キチンと説明すれば分かっていただける』などと、安易なことを言う人もいますが、残念ながらそれはあらゆる場合にあてはまるとは言えません。

『精神世界』のレベルが大きく異なっている場合は、コミュニケーションは成立しません。端的な例を挙げれば、梅爺は『フランス語』でコミュニケートする能力がありません。『レトリック』も宝の持ち腐れとなります。『釈迦』でさえ、理解できない人には話しても無駄と述べています。

日本の庶民文化ではこれを『馬の耳に念仏』と諧謔で笑い飛ばしてきました。

| | コメント (0)

2018年1月16日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Some of My Best Friends』(3)

『物質世界』の『摂理』を探求する『科学』の世界では、多くの場合普遍的に『真偽』の判定が可能ですが、人間の『精神世界』の『価値観』が絡む事柄(政治や経済など)の大半は逆に『真偽』の判定はできません。人間は生物種として『個性的』であるように宿命づけられているために、各自の『価値観』は相対的なものであるからです。

『ウンベルト・エーコ』もこのエッセイの中で、『断定的にものを言う』ことの危険さを指摘しています。

西欧の教養人らしく、何故危険であるかを『理(論理)』で説明するために、以下の有名な論理学の『命題』を例に挙げています。

『クレタ人は皆嘘つきである』

ある人種に属する人が、『皆嘘つきである』などということは、私達の常識では認めにくいことですから、この『命題』は『真』とはいえないと、すぐに思いつきますが、『ウンベルト・エーコ』はそのようなあやふやな常識でこの問題を考えてはいません。

『ウンベルト・エーコ』は、純粋な『論理』で、この『命題』を『真とは言えない』という結論へ導こうとします。

その論法はこうです。

この発言をクレタ人の一人が行ったとすると、この『命題』が仮に『真』ならば、その人は嘘をついていることになりますから、『クレタ人は皆嘘つきである』という表現内容は『嘘(偽)』になり仮定と矛盾します。したがってこの『命題』は『真』とは言えないということになります。

いかがでしょう。大変込み入っていますから、良く考えてから『なるほど』と気付くことになります。

梅爺は、これは『言葉遊び』の一種で、『詭弁』のようなものだと思いたくなりますが、『理』を重視する西欧人は、このような論法を体系化して『論理学』を学問の一つとして確立しました。

深遠な思考を行う『哲学』の分野は、『因果関係』を推量する分野でもありますので、『哲学』と『論理学』は結びつきます。西欧の『哲学』と、西欧の『論理学』はともに進展しました。その原点は『古代ギリシャ』にあります。

『インド』や『中国』にも、古代に偉大な思想家を排出していますが、『思想』から『論理学』が独立することがなかったことに、梅爺は興味を抱きます。

『思想』である以上、必ず『論理』は内包されますから、『インド』や『中国』に論理的な思考がなかったわけではありません。ただ何故か独立した『学問』にはならなかったということです。

『釈迦』の『説法』の中に含まれる、『釈迦』独特の『論理』について、現在では『西欧論理学』との比較で研究がおこなわれています。

『釈迦』が偉大な『思想家(哲学者)』であり、同時に独自な『論理体系』を保持していたことが明らかになりつつあります。

『孔子』や『孟子』も、同じような視点で研究すれば、同じく独自な『論理体系』が見えてくるのかもしれません。

| | コメント (0)

2018年1月15日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Some of My Best Friends』(2)

仮に梅爺が以下のような発言をしたとします。

『私には、常日頃尊敬している何人かの中国人の友人がいます。しかし、昨今日本を訪れる大半の中国人観光客の日本における振る舞いは、日本の社会マナーに反したもので、眉をひそめたくなります』

これに対して、以下のような反論を頂戴するかもしれません。

『あなたは常日頃、ブログで異文化との共存の重要さを説いている割に、この程度のことで苦情を述べるのは、狭量すぎませんか』
『中国人は、公共道徳レベルで劣っていると決めつけてるのは、人種的な偏見ではありませんか』

そこで、梅爺は、更に以下の弁護を多分することになるのでしょう。

『中国人全般に対して偏見を持っていないことをご理解強いていただくために、最初に尊敬すべき中国人の友人がいますと申し上げたでしょう。それに、日本を訪れる大半の中国人観光客が社会マナーが悪いと申し上げているだけで、全ての中国人とは言っていません』

これが、『主張』の前にある『伏線』を張っておいて、後に弁解できるようにしておく『レトリック』の例です。『ウンベルト・エーコ』がこのエッセイで言いたかったことはこういうことなのでしょう。

『自己弁護』は、『自分の安泰を最優先する本能』に支配されている私達が、意識的に、無意識に行う行為です。『煩悩』を解脱した『お釈迦様』でもない限り、人間は誰もが『自己弁護』の欲求から逃れられません。

自分の言動のもたらす影響を推論で予見して、あらかじめ『理』で『自己弁護』のための伏線を張っておく行為は、高度な人間の『精神世界』ならではの行為です。

『見え見えのレトリック』は、多くの人が感じ取って、寧ろ逆効果になりかねませんが、頭のよい人が巧みにしかけた『伏線』は、なかなかそれと見抜けません。

『レトリック』にはオブラートに包んでものを言う効果もあり、『レトリック』そのものがすべて悪いとは言えませんが、『騙(だま)す』目的の『レトリック』はいただけません。しかし、『レトリック』を『レトリック』と必ず見抜ける保証がありませんから実に厄介です。

| | コメント (0)

2018年1月14日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Some of My Best Friends』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の38番目のタイトルは『Some of My Best Friends』で、『ウンベルト・エーコ』の友人を紹介するのかと思って読みましたら、そうではなく、誰かがスピーチををするときに『私の親友の何人かは○○です』という言い回しを使ったら、最後は必ず『○○』を貶(おとし)めるような話になるという話をするためのタイトルであることが分かりました。

つまりこのエッセイは、『ウンベルト・エーコ』の『レトリック(修辞学)』に関する蘊蓄(うんちく)であったわけです。

イタリアのある政治家が『ドイツ人を批判する』スピーチをするときに、『私の最初の妻はドイツ人でした』と先ず話した例を挙げています。『ドイツ人の全てが悪いと言うつもりはないが、こういうところはいただけない』というような論法を展開するために、利用した『言い回し』なのでしょうが、『離婚』したからには、ドイツ人との相性が悪いと告白しているようなもので、説得性に欠けると『ウンベルト・エーコ』は皮肉っています。

梅爺は西欧の『レトリック(修辞学)』に詳しくありませんが、『自分の主張に、相手が論理的な反論をしにくいように、巧みな表現を用いて防御する手法』ではないかと理解しています。

古代ギリシャ以来、『理を重視する文化』が西欧の主流で、日本人としてはかなり『屁理屈好き』の梅爺でも、西欧人の『理へのこだわり』には、少々辟易することがあります。

『ウンベルト・エーコ』は、西欧社会(イタリア)の教養人ですが、梅爺の感覚では、『何もそこまでこだわらなくても』と言いたくなる主張がないわけではありません。

対称的に、日本人は一般論としては、『理よりも、繊細な情の表現にこだわる』と言えるかもしれません。

西欧人と日本人とどちらの資質が優れているかなどという比較は、あまり意味がありません。ただ私達は、『理にこだわる』文化が現に存在することを、『異文化』として知っておく必要があります。

『私の友人の何人かは○○です』で始まったスピーチは、必ず『でも(but)』とか『しかしながら(however)』と言う展開になると『ウンベルト・エーコ』は茶化しています。

| | コメント (0)

2018年1月13日 (土)

利己的と利他的(8)

『人間』の『利己的行動』『利他的行動』の背後には、『遺伝子』によって継承された本能が関与するものと、必ずしも『遺伝子』の直接的な影響とは言えない、後天的に『精神世界』で醸成された『価値観』が関与するものとがあるというのが、梅爺の行き着いた考え方です。

人間の行為は、必ず周囲にある種の影響を及ぼします。この影響を事前に推測して、時に『理性』で行為を抑制または変更できるかどうかが、その人の『器』のレベルを決めます。

自分自身が、『理性』による思考の末に獲得した『判断基準』を保有しているということは望ましいことですが、これは難しい要求です。多くの人たちは、『目の前の利害』『他人の意見』『社会常識』などというもので、判断してしまうからです。

特に『理性』の発達が未熟な幼児や子供に、どのレベルの『判断基準』を植え付けるかは難題です。親の『価値観』、宗教の『教義』をどのレベルまで子供の脳に植え付けるかは、許容範囲に関する定見がありません。

梅爺は『道徳教育』『宗教の教えの伝授』を全て否定するつもりはありませんが、基本的には大人が慎重に振る舞うべきではないかと考えています。

子供が大人になった時、自分の『理性』で、自分の『価値観』を獲得するように手助けしてあげることが重要ではないでしょうか。大人が自分の『価値観』を子供に押し付けることは、子供にとって不幸なことかもしれないからです。人間は『個性的』であることが宿命づけられていますから、子供が親と異なった『価値観』をもつことは起こりうることで、親は覚悟する必要があります。

人間は『個性的』である以上、人間社会では、『他人の身になって考えてみる』という努力が重要になります。『違いを認めて共存する』ためのそのことが大きな意味を持つからです。

『他人の身になって考えてみる』『他人の立場を思いやる』ということは、『後天的な利他的行為』を多く生みだします。特に『弱い立場の人達を思いやる』ことが大切です。『弱い立場にいる人達』の多くは、その人の責任でその立場を強いられているわけではないからです。

物質的に豊かな社会に加え、このような『後天的利他行為』が隅々にまで行き届いている社会が、真に成熟して『人間社会』と言えるのではないでしょうか。

人間は何故『利己的』なのか、『利他的』なのかを、これで全て論じきれたとは思いませんが、このブログを書くことで、自分の頭がかなり整理できたと感じています。

| | コメント (0)

2018年1月12日 (金)

利己的と利他的(7)

昨日も書いたように、初期の『生命体』の中に、偶然『利己的に振る舞う習性』を発現させる『遺伝子』を持つ『個』が出現し、その習性は生き残りの確率を高いものであったために、その『個』の子孫が繁栄することになった、というのが梅爺の推測です。

この習性は、その後枝分かれした多くの『生物種』の中に継承され、私達『ホモ・サピエンス』にも継承されているということでしょう。

『母性愛』などという『利他的』にみえる習性も、その習性が強い方が、子供の生き残り確率が高まり、結局その子供にまた子供が産まれる確率も高まるために、基本本能として、多くの生物にその習性を発現させる『遺伝子』が継承されてきたと考えられます。結果的に『種』の継承に有利な習性が『生物進化』の過程で選択されたということになります。

『生物種』は、多くの場合『利己的』に振る舞いますが、特別の状況では『利他的』に振る舞うこともあるということで、ある『遺伝子』は『利己的習性』を発現させ、ある『遺伝子』は『利他的習性』を発現させるということではないでしょうか。

このような本能に属する『利己的』『利他的』な行為は、その行為を行っている者にとっては、無意識、無条件な行為であって、『そのように振る舞うのが正しいか間違いか』などという『理』による判断は加わっていません。『先天的な利己の心』『先天的な利他の心』と梅爺が前に書いたものがこれにあたります。

しかし、『人間』という生物種は、『脳』の進化で高度な『精神世界』を保有するようになったために、『先天的な利己の心』『先天的な利他的の心』に加えて、『遺伝子』が直接影響しているとは必ずしも言えない『後天的な利己の心』『後天的な利他の心』も保有するようになったと考えると、私達の複雑な行動の基盤を理解できるような気がします。

自分に有利な状況を実現するために、『周囲を騙す』ような単純な行為をする生物種はありますが、このレベルは『先天的な利己的行為』と言えます。しかし、『人間』の場合は、『後天的な利己的行為』が加わるために、行為全体が複雑なものになります。自分の『立身出世』を優先するために、ライバルを権謀術数で不利な状況に追い込むなどという行為がこれにあたります。

『後天的な利他的な行為』も、非常に複雑なものになり、『祖国同胞』を守るために兵士になって死を覚悟で戦地へ赴く、天国で『アッラー』の神の祝福を得るため、イスラム教徒同胞の繁栄のために『異教徒』を殺害する『自爆テロ』に走る、などということになります。

これらは、後天的に『道徳』『倫理』『宗教の教義』などに接し、『精神世界』の『価値観』が醸成されていったことによるもので、人間以外の生物には、このような『価値観』は存在しないように見えます。『群をなして生きる』ことを選択したことと、『精神世界』の高度化が、人間社会に『道徳』『倫理』『法』などが出現する要因になったとと梅爺は考えています。『道徳』『倫理』『法』は、コミュニティの約束事であって、普遍的『善悪』を決めるものではありません。コミュニティによって『道徳』『倫理』『法』の内容が異なるのはそのためです。

| | コメント (0)

2018年1月11日 (木)

利己的と利他的(6)

『遺伝子情報』には、『遺伝子情報』が代々絶えることなく継承されることを優先するようにと言う『基本指令』が含まれているという主張は、何となくわかったような気にもなりますが、やはり釈然としません。

梅爺は、人間の『精神世界』の基盤に『安泰を希求する(自分の都合を優先する)本能』があると何回もブログに書いてきました。

『リチャード・ドーキンス』は、『遺伝子』の『指令』の基本に、『遺伝子が絶えることなく代々継承されていくことを優先するように』という内容が含まれていると言っていることになります。

『精神世界』は『理』と『情』で構成され、『情』の一つである『願望』の奥に『安泰を希求する本能』があると梅爺は言いたいのに対し、『リチャード・ドーキンス』は、『遺伝子情報』という、『抽象概念』に『自分を絶えることなく継承させたい』という『願望(意図)』が込められていると言っているように感じられるために理解が難しくなります。

『遺伝子情報』は、『DNA』『ヌクレオチド』といった『物質世界』の『モノ』を利用して表現されているだけで、基盤となっている『モノ』には、『願望』『意図』などという『情』は存在しないと梅爺は考えるからです。

『モノ』から創られた最初の『生命体』には、『安泰を希求する本能』などはなかったと考えるのが妥当です。

『生命体』が幸運な『進化』を遂げる過程で、偶然『安泰を希求する本能』が強い習性を発現させる『遺伝子』を持つ『個』が突然変異で出現し、その『遺伝子』を継承する子孫は、『生き残り確率が高い』ために、その『遺伝子』を持たない子孫より繁栄したということではないでしょうか。

私達は、その子孫として『安泰を希求する本能』を保有しているということでしょう。

『生物進化』の中で『遺伝子』というしくみは継承されてきましたが、個々の『遺伝子情報』の内容は、『変容』してきました。

『ヌクレオチド』『DNA』『遺伝子情報』には、自分を代々継承していきたいというような『願望』や『意図』はありませんが、『生物進化』の結果として、『遺伝子情報』にそのような『願望』や『意図』が込められているように見える事態になったということではないでしょうか。『遺伝子には利己的な意図が込められているように見える』という表現なら、梅爺は納得できます。

| | コメント (0)

2018年1月10日 (水)

利己的と利他的(5)

個々の『生命体』には寿命があり、死を迎えて死滅しますが、子孫を残すことで、その『生命体』の『種』は継承されます。 

子孫を残すことでは、『遺伝子』のしくみが利用されます。

つまり、『種の保存、継承』は、『遺伝子の保存、継承』と対の事象ということになります。お互いに相互依存しているということです。

このことは、『種』が『遺伝子』を利用しているとも言え、また逆に『遺伝子』が『種』を利用しているとも言えます。

私達は、子孫を残して『ホモ・サピエンス』が絶えないようにするために『遺伝子』を利用していると考えますが、観方によっては、『遺伝子』が絶えないように、私達が『遺伝子』に利用されているともいえるという話です。

『種(生命体)』と『遺伝子』は、鶏と卵の関係のように見えますが、実は地球上に出現した時期を考えると、『遺伝子』情報を表現するための『ヌクレオチド』、『遺伝子』情報を搭載し自己複製が可能な『DNA』といった、有機化学物質、高分子化学物質が先に登場したと考えるのが自然です。

私達は『生命体』が出現した後の『進化』を、『生物進化』として理解していますが、『生命体』が出現する以前に、当初『無機物質』だけであった『宇宙』に、『有機物質』が出現したプロセスを考えると、『物質世界』にも『進化』があったと考えたくなります。『ヌクレオチド』『DNA』の出現の詳細は科学も解明出ていませんが、少なくとも『物質進化』でそれらが出現し、その『物質進化』があったからこそ、その延長上に『生命体の出現』『生物進化』が可能になったと考えるのが妥当なような気がします。

この不思議な関係を説明するために、『リチャード・ドーキンス』は、『Selfish Gene(利己的な遺伝子)』という考え方を提示しています。

『遺伝子』情報は、『DNA』の二重らせん構造の上に、4種の『ヌクレオチド』を基本『文字(アルファベットに類する)』として組み合わせ、表現した『語』の意味に相当します。『語』の意味とは、たとえば髪の毛を『黒髪』にするか『金髪』にするかを決める『指令』のことです。

『遺伝子』という言葉の定義はあいまいです。つまり、『ヌクレオチド』の文字列という化学物質の実態を指すのか、文字列が表現している『語』の意味を指すのかが、通常明確に区分されずに使われるからです。

『リチャード・ドーキンス』が『利己的な遺伝子』と言う場合も、『化学物質』なのか『語の意味』なのか曖昧ですが、どちらかと言えば『語の意味』ということなのでしょう。個々の『遺伝子』のことではなく、『遺伝子』情報に共通に含まれる『利己的な習性』という本質を表現したかったのではないかと思います。

『語の意味(指令)』であるとすると、それは実態のない『抽象概念』ですから、それが『利己的』であると言われても、すぐに理解することは容易ではありません。

『リチャード・ドーキンス』が言いたいことは、『遺伝子情報(指令)』には、『遺伝子情報』が代々継承されていくことを『優先しなさい』という『利己的な指令』が本質的に含まれているということなのでしょう。

『遺伝子情報』が代々絶えることなく継承されていくことを優先するように、ホスト役の『生命体』に『指令』を送っているということは、ホスト役の私達『生命体』は、『遺伝子情報』に都合よく利用されているということになります。

| | コメント (0)

2018年1月 9日 (火)

利己的と利他的(4)

『釈迦』の思想の基盤には、『生ずる性質のものは、滅する性質のものである』という認識があります。『諸行無常』というものの観方です。

科学が探求の対象にしている『物質世界』の事象を観ると、この『釈迦』の認識が極めて本質をとらえていることに驚かされます。

『物質世界』の絶え間ない『変容』の中で、出現した『モノ』は、その存在を永遠にとどめることはできず、やがて『変容』によって、『モノ』としては存在しなくなります。

これに逆らう方法はありませんから、『不老不死』は『願望』に過ぎず、それを実現することは誰にもできません。

『宇宙物理学』は、『太陽』や『地球』も、永遠に今の状態を維持することはないことを論理的に予測していますし、『宇宙』そのものにさえ『終わり』があることを認めています。ただ、それが起きるのは、人間の『時間感覚』では遠い遠い先のことですので、私達が今おびえることではないと言うだけのことです。

『宇宙』が誕生してから138億年、『太陽』『地球』が誕生してから45億年が経っていますが、私達『ホモ・サピエンス』が出現してからは、たった20万年しか経っていません。人間の『文明』の歴史に至っては、約5000年しかありません。私達の『時間感覚』で、『人類の長い歴史』などと表現しますが、『宇宙』の歴史に比べれば、『瞬間』ともいえる短い時間に過ぎません。

40億年前に、『地球』に出現した『生命体』は、『遺伝子』を介して、新しい『生命体』を生みだすしくみを獲得しました。最初の『生命体』は、『単細胞生物』でしたから、自己複製(細胞分裂)で新しい『生命体』を生みだしましたが、やがて高度に進化した動物(多細胞生物)は、『両性生殖』によって『子供(子孫)』を生みだすというしくみを獲得しました。

『両性生殖』で産まれる子供は、単なる親の『複製』ではなく、両親の『遺伝子』の偶発的な組み合わせで、ユニークな個性をもった人間として産まれてきます。このユニークな個性が、人間を理解する上で重要になることを梅爺は度々ブログに書いてきました。

容貌、体格がそれぞれ異なるように、『考え方』『感じ方』も厳密にいえば、一人一人異なります。

他人も自分と同じように考え、感じているに違いないと勘違いしたり、自分と同じように考えないのは『間違っている』などと糾弾したりすると、人間関係はこじれます。

『利己的な心』『利他的な心』を考える時も、このことは重要で、ある人が保有する『利己的な心』『利他的な心』の量と質は、それぞれ異なっていることを認識しておく必要があります。

多くの人に統計的に共通な資質として論ずるときと、ある特定の『個人』を論ずるときは、意識して区別する必要があります。

| | コメント (0)

2018年1月 8日 (月)

利己的と利他的(3)

人間以外の動物にも、『利他的』に見える行為をおこなうものがいます。産まれた子供が、一人立ちできるまで、母親(時に父親も協力して)が保育を担当する行為、群に敵が近付いていることを、鳴き声を発して仲間に警告するような行為(鳴き声を発したものは、敵の関心をひき、標的になりやすいというリスクが高くなるのも関わらず)は、『利他的(自己犠牲で他を利する)』に見えます。

人間以外の動物が、人間と同じレベルの『精神世界』を保有しているかどうかは、判別が困難ですが、少なくとも『宗教』『芸術』などを保有しているようには見えませんから、『精神世界』を保有していたとしても、本能的な『情感』『直感』が支配する原始的なレベルであると考えてよいのではないでしょうか。言い換えれば。人間もこのレベルから現在のレベルまで『精神世界』を進化させてきたということでしょう。

人間の『精神世界』における『理性』を含めた高度な価値判断で、『時に利他的に振る舞った方が、むしろ自分の安泰が高まる』という考え方の存在に気付き、それが代々継承されたために、人間は『利他の心』を持つという梅爺の主張では、上記のような動物の『利他的行為』を説明できません。

梅爺の主張でも、『利己の心』は、確かに『遺伝子』の先天的な指令によるものが主であるということになりますが、『利他の心』は後天的(『遺伝子』の直接指令に依らず)に獲得した『価値観』であるということになります。しかし、動物の場合は後天的な『価値観』を獲得するだけの『精神世界』のレベルに達していないという矛盾が説明できないからです。

これらを総合して考えると、『利他的な心』には、後天的に獲得した価値観だけではなく、一部『遺伝子』で継承された先天的(本能的)なものもあると考えざるを得なくなります。

従って『リチャード・ドーキンス』の『利他の心』が『遺伝子』で継承されるという主張は間違いではありませんが、人間に関しては、『遺伝子』で継承された原始的な『利他の心(母性愛など)』に加えて、後天的に『精神世界』が創りだした『利他の心』も保有していると考えたくなりました。

言いかえると『後天的な利他の心』という価値観を持つのは、人間だけということになります。『法』『道徳』『倫理』『宗教の教義』が、この『後天的な利他の心』を生みだす基盤になっていると考えれば得心がいきます。

| | コメント (0)

2018年1月 7日 (日)

利己的と利他的(2)

人間を含めた『生物』の、基本本能は『利己的』であると考えて、周囲を見回してみると、ほとんどのことが納得いきますから、それは『遺伝子』が『利己的であれ』と『生物』に命じているからであるという説明にも、特段の反論をする気にはなりません。

そしてその根源は、『生物進化』にあり、『個の生き残り、および種の存続を最優先する習性』を保有している者が生き残り、子孫を残してきたと考えれば、『生物』が基本的に『利己的』であることの理由が説明できます。逆に言えば『利己的』であるが故に、生物は生き残ってこられたともいえます。

梅爺は、人間の『精神世界』の基盤に『安泰を希求する本能』があると、何度もブログに書いてきましたが、上記の考え方を別の形で表現したものです。

『安泰を希求する本能』は、言いかえれば『自分に都合のよいことを最優先する』ということで、『利己的に振る舞う』ということと同義です。

ところが、本来『利己的』であるはずの『生物』が、時に『利他的』な行動をすることがあるために、『これは一体どうしてなのであろう?』と、生物学者、人類学者、脳科学者それに哲学者、神学者などが頭を悩ませてきました。

カトリックからは異端の宗派とされた『グノーシス派』に伝わる『トマスによる福音書』の中で、『キリスト』は、『卑しい肉体を持つ人間に、高貴な精神が宿るのは何故だろう』と率直な疑問を述べています。『神の子キリスト』が、私達と同じようなレベルの疑問を口にするのはおかしな話ですが、『グノーシス派』では『キリスト』は人間の『預言者』ですから、このような疑問を提示してもおかしくないことになります。『神の子』は、カトリックが創り上げた教義です。

一人の人間の中に『仏心と邪心が同居しているのは何故か』という疑問が、『釈迦』の『煩悩の解脱』という考え方を生みだす原動力になっています。

『仏心』は『利他的な心』で、『邪心』は『利己的な心』と言い換えることができます。

一見矛盾しているように見える『利己的な心』と『利他的な心』は、実は根源は同じで『安泰を希求する本能』に起因するのではないかと、梅爺は考えるようになりました。

『生物進化』の過程で、『人間』は『群』をつくって生きる方法を選択したことに、『利己的な心』と『利他的な心』が分かれるきっかけになったという考え方です。

つまり、『個』の都合を優先すると、『群(全体)』にとっては不都合が生ずるという事態に遭遇し、『個』は自分の欲望を抑制しても、『群』の都合を優先する必要があることを認識するようになりました。言い換えれば、『群』の都合に合わせておいた方が、寧ろ自分も『安泰』であるという価値判断が生じたことになります。

人類は、『個の都合』と『群(全体)の都合』が矛盾する時に、それを普遍的に解決する方法を未だ見出していません。

しかし、次善策として『法』『道徳』『倫理』などの概念や『民主主義』『多数決』といった社会の運営方法も考え出し、共有してきました。『神のご意思に従う』などという『宗教』の教えも、次善策の一つと考えられます。

『個の安泰』と『群の安泰』のどちらかを優先するかで『利己的』『利他的』という振る舞いに分かれるだけで、『安泰を希求する本能』という一つのものに根差していると考えたことになります。

『利他的な振る舞い』の究極な形は、『自分の命を犠牲にしても、他人を救う』という行為で、『キリストが人類の罪を一身に背負って、十字架の死を受け入れた』という、キリスト教の教義は、文字通り『究極の利他的な行為』であると信者に説いています。

梅爺のこの考え方には、一つの難点があります。それは『人間』は高度に進化した『脳』による『精神世界』を保有しているために、『利己的』『利他的』といった『概念』を理解できるとしても、人間のような高度な『精神世界』を持たないように見える他の『生物』にも、『利他的』にみえる行動があるのは、どうしてなのかという疑問に答えていないことです。

| | コメント (0)

2018年1月 6日 (土)

利己的と利他的(1)

イギリスの生物学者で無神論者としても有名な『リチャード・ドーキンス』の著書『Selfish Gene(利己的な遺伝子)』を、電子書籍でダウンロードして読みました。

生物の一般的行動習性は『利己的』ですが、人間も含め中には『利他的』に振る舞うことがある生物も存在します。

『遺伝子』の視点で、この問題を論じているのが『Selfis Gene』という本です。

初版は40年前に出版されましたが、現在は改定されたバージョンで出版されています。『リチャード・ドーキンス』の『仮説』が述べられていて、大変興味深いのですが、今回はこの本の感想と言うより、梅爺自身の考え方を述べてみたいと思います。

梅爺は、学術的な論文を書くつもりはありませんし、書くための基礎知識も不足していますので、『勝手な思考』を綴ることになります。誤謬、誤認識があるかもしれませんが、『一つの考え方』としてお読みください。

以前に、同じく『Selfish Gene』に触発されて、『遺伝子とは何か』というブログを掲載しました。

『遺伝子』という言葉には、日常よく接しますから、『分かっている』と思っていましたが、よくよく考えてみると『遺伝子とは何か』は易しい設問ではないことが分かります。結局、『生命とは何か』『生命はどのように出現したのか』という科学でも解明でしていない問題へたどりつくからです。

『リチャード・ドーキンス』は、生物の中にある『利己的』習性、『利他的』習性は、『遺伝子』情報が元で形成されていると主張しています。

多聞、大元の要因は『遺伝子』情報に起因するのは間違いないと思いますが、梅爺は『利己』『利他』は、人間の『精神世界』の活動と深く関わっているのではないかと考えています。

『遺伝子』の指令は、極めて基本的なものだけで、人間の振る舞いの詳細について、細かく指令を送っているとは思えません。

『遺伝子』の指令に基づいて、二次的、自主的に起こす人間の振る舞いの中に『利己』『利他』が顕著に表れてくるのではないでしょうか。

サッカーの監督が、基本的な『戦い方』を指示し、フィールドにおけるその時々の行動は、選手の自主的な判断が主体で行われているのに似ているような気がします。

| | コメント (0)

2018年1月 5日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『謀略』(4)

『精神世界』の深層に『安泰を希求する本能』があるというのが、梅爺の仮説です。このように考えると、多くのことが矛盾なく説明できるからです。

自分の中に何故『良心、邪心』『利己心、利他心』といった矛盾するものが共存するのかは、宗教家や哲学者が、色々な考え方を述べています。

『悪魔の誘惑』『性悪説』などが原因と言われても、梅爺は釈然としません。梅爺の考え方は以下のとおりです。

生物として人間が『群で生きる』ことを選んだことで、私達は『自分の都合』を優先するか、『群の都合』を優先するかの判断を求められるようになりました。

『自分の都合』と『群の都合』は、多くの場合矛盾しますから、どちらを優先するかは易しい判断ではありません。時と場合によって、どちらを優先するかを決めなければなりません。残念ながら、人類はこの矛盾に対応する普遍的な方法論を見出していません。

生物進化の過程の中で、常に『自分を優先するか』『群を優先するか』を問われ続け、私達の『精神世界』の中に、両方の選択肢を許容する考え方が定着したのであろうと梅爺は考えています。

『良心、邪心』『利己心、利他心』は、矛盾した両面を反映しているだけで、言い換えれば同じ『安泰を希求する本能』から派生したものといえるのではないかというのが梅爺の考え方です。

生物学者の『リチャード・ドーキンス』は、『利己的な遺伝子』という著作の中で、『遺伝子の基本的な資質として利己がある』と主張しています。

何故私達の『精神世界』に『安泰を希求する本能』があるのかは、遺伝子に込められている資質に依るものと言われれば、多聞そうであろうと認めたくなりますが、梅爺は、そればかりではなく、人間の『精神世界』が、後天的に創りだした価値観が、世代を超えて継承され、それがまた、遺伝子の優先資質として選択されて、現状に至っているのではないかと思います。

『群で生きる』からこそ、『法』『道徳』『倫理』が必要になり、『良心』『利他心』も重要な役割を持つようになります。無人島に一人生きる『ロビンソン・クルーソー』には、これらは無用です。

『群で生きる』以上、『違いを認めて共存する』『ある価値観を強要し、それに従わないものを排斥する』『大多数が認める価値観を皆が規範として守る』の方法しかありません。

『自分のアイデンテティを優先するために、他者を敵として排斥する』という考え方が人間社会からなくなりません。言い換えると、ある種の人間社会は必ず『敵の存在を必要とする』ともいえます。

『ユダヤ人嫌い』が、根強く残るのは、人間の本質に関わるこのような問題が絡んでいるからではないでしょうか。

| | コメント (0)

2018年1月 4日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『謀略』(3)

『ユダヤ人排斥運動』がエスカレートし、やがて『ユダヤ人は世界の秩序を覆そうとする民族である』ということの例証として、著名な『ユダヤ人』がやり玉にあがったと『ウンベルト・エーコ』は書いています。 

心理学者の『フロイド』、理論物理学者の『アインシュタイン』、作曲家の『マーラー』『シェーンベルグ』などです。 

『フロイド』は、深層心理に『性』が絡んでいると主張し、謹厳実直な人達、特に敬虔なキリスト教徒達から顰蹙(ひんしゅく)を買いました。『アインシュタイン』は、『一般相対性理論』という、画期的な考え方を物理界へもたらしました。『シェーンベルグ』は『12音階作曲技法』を新たに提唱し実践しました。 

いずれも、確かに『従来の考え方』を打ち破る画期的な『論理』や『技法』ですが、これをもって『ユダヤ人は世界の秩序を覆そうとする民族である』とするのは、滑稽なまでに馬鹿げた話です。 

人間の『精神世界』が、『確証バイアス』ゆえに『因果関係』をデッチあげて、自分なりに得心しようとする極端な例です。 

これほどひどい話ではなくても、私達も日常、勝手な『因果関係』を想起して、自分を得心させたり、自己弁護しようとしていることに気付きます。

自分にとって不都合なことは、『精神世界』へのネガティブなストレスになり、私達は、意識的であれ、無意識であれ、それを回避する手段をなんとか考えようとします。自分は何と心が貧しい人間なのだろうなどと、深刻に悩む必要はありません。それが、生物としての人間の宿命であると達観し、どう対応するかは、自分の『理性』を頼りにするしかありません。

他人が自分より優れていることを認めることは、『精神世界』では『面白くない』というストレスなり、『でも、あいつにはこういう欠点がある』などと口にして、なんとか自分の評価を高めようとします。

江戸の人たちは、これを『目糞、鼻糞を嗤(わら)う』と笑い飛ばしています。『どっちもどっちだろう』と、自分は高いところに身を置いて見下しているのではなく、『どうも、人間(自分も含めて)てぃものは、始末に悪いものよ』と本質を見抜いて笑い飛ばしているように感じます。梅爺は、日本人のこの諧謔精神が好きです。

ヨーロッパにある『ユダヤ人嫌いの感情』、『アメリカ』の白人社会に残る『白人至上主義』、キリスト教徒の中に見受けられる『イスラム教蔑視』、中国人や韓国人の中にある『反日感情』などは、歴史的な背景はありますが、多くは『面白くない』という『精神世界』の情感が生み出しているものです。

残念ながら、『理性』でそれを克服できる人が少ない以上、『敵視』『蔑視』が続き、それがまた紛争を呼び起こすことになります。

これは、諧謔では笑い飛ばすことができるレベルの話ではありません。

| | コメント (0)

2018年1月 3日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『謀略』(2)

人類の歴史に多大な影響を与えた『本』としては、『聖書』『クアーラン(コーラン)』などの例があります。

『シオン賢人達の議定書』は、悪い影響を及ぼした『本』の一つに数えられます。

ロシアで発刊されたこの『本』は、すぐに各国で翻訳され、ドイツでは『ナチ』の『ユダヤ人弾圧』を正当化するために利用されました。小学校の教科書にも引用され、国民を洗脳する手段とされたという話ですから恐ろしい話です。結果的に数百万人のユダヤ人が、強制所に送られ、老若男女を問わず、命を奪われました。

『シオン賢人達の議定書』は、ユダヤ人の12部族の長老(賢人)達が、プラハ(チェコ)のユダヤ人墓地に秘密裏に集まって、世界制覇を誓い合ったという、もっともらしい話になっていますが、勿論史実としての証拠はありません。

さすがに、ヨーロッパの教養人から、内容の信憑性を疑う声が上がりましたが、『ユダヤ人弾圧』の片棒を担ぐ人たちは、『この本が真実かどうかは問題ではない。とにかくユダヤ人が世界制覇を狙っていることは確かなのだ』と、無茶苦茶な論理で反論の声が上がったと『ウンベルト・エーコ』は書いています。やがて『ユダヤ人』を擁護すれば、『非国民』とされてしまうほどにエスカレートしていったのでしょう。

日本でも戦時中は『鬼畜米英』が叫ばれ、同調しなければ『非国民』扱いされましたので、他人事(ひとごと)ではありません。

人間の『精神世界』には、『確信バイアス』という習性があり、一度強く信じ込むと、覆すことが難しくなります。

人間は、『生きていく』ために、『信じて行動する』ことが必要になりますが、一方『理性』で『疑う』訓練を怠ると、『確信バイアス』の餌食になってしまいます。

『宗教』『イデオロギー』そのものが悪いわけではありませんが、時にそれらが『確信バイアス』を生みだす要因になることはわきまえておく必要があります。

北朝鮮の国民が、独裁者の『恐怖政治』の下で『非国民』扱いされることを恐れて、『将軍様』を讃えているのか、『洗脳』による『確信バイアス』で、心の底から『将軍様』を讃えているのかは、判別が難しいところですが、両面があるのでしょう。

日本は、敗戦後、アメリカから『民主主義』を強いられ、多くの国民がそれまでの価値観を変えることに戸惑い、苦悩しました。

しかし、大局的に観ると、日本は『軍国主義』から『民主主義』へ急速な転換に成功し、世界の人々を驚かせました。

これは、日本人の教育レベル、歴史的な精神風土などが背景にあるためで、どの国でも抑圧体制から解放されれば『民主主義』へ早変わりするわけではありません。

『サダム・フセイン』を排除しても、『イラク』は未だ混迷していますし、『金正恩』を排除しても、北朝鮮が『民主国家』に早変わりする保証はありません。

| | コメント (0)

2018年1月 2日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『謀略』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の37番目のタイトルは『The Plot(謀略)』で、ユダヤ人が世界制覇を目論んでいるというデマを世界に流すきっかけになった『シオン賢人達の議定書(The Protocols of the Elders of Sion)』という書物の話です。

『シオン賢人達の議定書』については、前に何度かブログで触れてきました。

20世紀の初頭に、『ロシア』で発刊されたのが最初と言われています。

帝政ロシア時代に、ロシア国内の『ユダヤ人排斥』を目的に、諜報機関がでっちあげたものではないでしょうか。

何故帝政ロシアが、『ユダヤ人排斥』の世論を煽る必要があったのか梅爺は分かりませんが、ユダヤ人実業家の台頭が、国家経済にとってなにがしらの不都合なものとして警戒心が高まったのか、『ロシア正教』からみて『ユダヤ教』は看過できないという宗教対立が背景にあったのか、など色々想像はできます。

ヨーロッパ社会に根強く継承されている『ユダヤ人嫌い』の風潮が、このようなデマを増幅しやすい要因であったことは確かでしょう。

何故ヨーロッパ社会に『ユダヤ人嫌い』の風潮が継承されてきたかについても、何度もブログで梅爺の推測を書いてきました。ユダヤ民族は、古代から異民族の迫害の的になり、パレスチナの地を追われて外国へ難民として逃れました。避難先で『ユダヤ民族』は、『ユダヤ教』を自分たちの『絆』の証として信仰し、その排他的な姿勢が、周囲の外国人から疎まれる原因になっていったものと思われます。

民族の誇りや絆などを優先せず、『郷に入れば郷に従え』で、避難先に同化するように努めれば、疎まれることなどなかったはずです。『誇り』『自尊心』『アイデンテティ』などという『価値観』は、人間の『精神世界』にとって軽視できないものであるということが分かります。『安泰を希求する本能』と深いかかわり合いがあるからでしょう。時に人間は『命』よりも『名誉』『誇り』を優先することもあります。

北朝鮮がつっぱればつっぱるほど、国際社会で孤立していきますが、『金正恩』にとっては、つっぱりをやめることは、不名誉な敗北となるために、暴走に拍車がかかることになります。『名誉』のために『破滅』を選ぶことも辞さないということなら、巻き込まれる国民にとっては不幸な話です。

『スポーツ』や『芸術』などの世界で『民族の誇り』などといっている内は、あまり大きな問題にはなりませんが、『戦争』が絡むと、とたんにおぞましい話になります。

『名誉』『自尊心』を、『命』に優先する『価値』とみなすかどうかは、個人の個性的な価値観に依存するために、一律の答はありません。『不名誉』に甘んじて『生きる』ことを選んだ人を、梅爺は非難する気持ちは希薄です。

| | コメント (0)

2018年1月 1日 (月)

梅爺詩集『老いの言の葉』(4)

あけましておめでとうございます。
皆々様のご多幸を祈念いたします。

年賀状の交換は、あまり意味のない『虚礼』なので、やめにしたいとおっしゃる方が周囲におられます。

梅爺も一時は、そのように感じた時がありますが、今はそうは考えていません。

たとえ年に一度であれ、縁あって人生の一時期を『共に生きた』方々との過去を思い浮かべることは、自分が『生きている』『生かされてきた』ことを感謝する為に大切であると感ずるからです。

過去を美化するための懐古は、梅爺の好みではありませんが、過去を現在とは無縁なものとして切り捨てたくはありません。

元日恒例の『老いの言の葉』をお届けします。今年は短い内容です。

困りもの 

自分を『善人』と言う人に本当の『善人』はいません。
自分を『善人』と思い込んでいる人の『狂信』は困りものです。
 

自分を『悪人』と言う人に本当の『悪人』はいません。
本当の『悪人』の『悪業』は困りものです。
 

自分を『賢人』という人に本当の『賢人』はいません。
本当の『賢人』の『沈黙』は困りものです。
 

自分を『愚人』と言う人に本当の『愚人』はいません。
自分を『愚人』ではないと思い込んでいる人の『傲岸』は困りものです。

| | コメント (0)

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »