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2017年12月31日 (日)

サーチ・エンジン考(2)

煎じつめると、このエッセイの著者が『危惧』していることは『AI(人工知能)』の長短所に関することと言えます。

『AI』は『素晴らしい』『便利』ともてはやす風潮がありますが、『危険性』『落とし穴』も持ち合わせているということならば、梅爺も賛成です。

『人間が個人的に判断すべきことをコンピュータに依存してよいのか』『誰も回答できない問題を、無理やりコンピュータに回答させることは適切なのか』などという問いで『危惧』を示すことができます。

『AIを利用することは正しいのか』という設問に、『AI』はどのように答えるのでしょう。

何度も梅爺がブログに書いてきたように、人間の『脳(精神世界)』は、生物として『個性的』であるように宿命づけられています。このことが『人間』や『人間社会』を考察する時に最も重要な要因となります。

一方『コンピュータ』に、『個性的』でない『普遍性』のある『知能』を付与できるのか、できるとしてそれは『人間』にどういう影響を及ぼすのかが気になります。

『AI』は、人間の『知能』とは異質な『知能』であるという認識が必要です。『人間』の判断を補佐するものであるべきで、『人間』に代わって判断するという依存は危険です。

『サーチ・エンジン』は、『意味検索』でおせっかいな『回答』を提示などせず、以前のように、『文字列マッチングでこういう情報が見つかりました』とだけ言ってくれる方が反って親切なのかもしれません。提示された『情報』が、自分の求めていた『情報』かどうかは、人間が判断することになるからです。

『AI』の短所を強調しましたが、勿論長所もあります。人間が思いもしなかった『斬新なものの観方』を提示してくれる可能性があるからです。

『手放しのAI礼讃』は『マユツバ』ものですが、道具として上手に利用すれば、有効であることは間違いありません。全ての道具に共通することです。

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2017年12月30日 (土)

サーチ・エンジン考(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の52番目のタイトルは『The Opinions of Search Engines(サーチ・エンジン考)』で、著者はアメリカのコンピュータ・サイエンティストの『W. Daniel Hills』です。

『サーチ・エンジン』というのは、『Google』や『Yahoo』といった、インターネット・ウェブサイトで私たちが『検索』をする時に裏側で使われているソフトウェア製品のことです。

私たちが『単語(または関連する複数の単語)』を入力すると、データ・ベースの中から、その『単語』を含む『情報』をを探し出して提示してくれる、極めて便利な方式です。

少しでも気にかかることを思いついたら、パソコンやスマホで『検索』し、ある種の『回答』が得られるのですから助かります。

大げさにいえば、現代人のライフ・スタイルを革新的に変えた『道具』が『サーチ・エンジン』です。おかげで、本形式の『百科事典』は売れなくなりました。

従来の『サーチ・エンジン』は、単語を構成する『文字列』と同じ『文字列』を含む『情報』を、機械的に探し出す(マッチング)という方式でしたが、最近の『サーチ・エンジン』は、コンピュータが『単語』の『意味』を推測して、該当する関連『情報』を提示するという高度な方式に変わってきています。

最近の流行りの言葉を使うなら『AI(人工知能)』の手法が用いられているということになります。

著者が『危惧』していることは、コンピュータが適切な『意味』を推測できるのかという疑問です。

普遍的な『真偽』の判定ができる『科学』の分野の『意味検索』なら、大きな問題はありませんが、『人間社会』で使われている『抽象概念』を用いた『意味検索』となると、検索で提示された『情報』が適切であるとは一概に言えません。

このエッセイでは、『世界の独裁者』と入力したらどうなるのだろうと書かれています。

『独裁者』かどうかを判断するには、いくつかの『前提条件』があるはずで、この『前提条件』を提示せずに、『回答』だけ提示されても適切な『回答』かどうかは分からないということでしょう。

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2017年12月29日 (金)

宇宙になぜ我々が存在するのか(8)

『宇宙』という広大な世界を理解するためには、『量子物理学』のような極めてミクロな世界を理解しなければならないという事実は、私達が物事を総合的に理解する上で『マクロな視点』と『ミクロな視点』の両方を併用しなければならないという教訓を含んでいるように思います。

『マクロな視点』だけにとらわれると『空理空論』と非難され、『ミクロな視点』だけにとらわれると『重箱の隅をつつく』と嘲笑されがちですが、両方の視点を駆使した主張は説得力を持ちます。

科学者たちは、『ニュートン』や『アインシュタイン』が明らかにしてきた『摂理』に、『量子物理学』の『摂理』を加えて、『マクロな世界』と『ミクロな世界』を『統一理論』で理解しようと努力を重ねています。『超ひも理論』などが有力な基盤となるかもしれないと期待されています。

『量子物理学』の主役は『素粒子』です。

現時点で存在が確認できているものは、『クォーク』という種類に属する6種、『レプトン』という種類に属する6種、『ボゾン』という種類に属する4種、それにどれにも属さない『ヒッグス粒子』の計17種です。

『クォーク』と『レプトン』は、『物質』を形作るのに必要な『素粒子』で、『ボゾン』は『力』を伝えるために『素粒子』です。

『力』の正体も『素粒子』であると梅爺は初めて理解しました。『宇宙』に存在する4つの力のうち、『電磁気力』は『光子』、『強い力(原子構造内の力)』は『グルーオン』、『弱い力(原始構造内の力)』は『ウィーク・ボゾン』という『ボゾン』に属する素粒子が関与しています。しかし、もうひとつの『重力』に関しては、対応する『素粒子』が見つかっていません。この『素粒子』は仮に『グラビトン』と名付けられていますが未発見ということです。

『ヒッグス粒子』だけは、独立した『素粒子』ですが、この『素粒子』が存在するおかげで、物質は『質量』を有することになったと考えられています。

『クォーク』『レプトン』は、同類の『素粒子』が3種で構成されています。代表的な『レプトン』は、『ニュートリノ』と『電子』ですが、厳密には3種の同類『素粒子』で構成されます。この3種ということには、『対称性の破れ』にとって必要条件なのだそうです。理論物理学者が、目に見えない世界を『理』だけで考えて『仮説』を提示し、実験物理学者が、それを具体的に実験で証明するという関係で『摂理』が解明されていきます。

理論物理学、実験物理学の両方の世界で、日本はノーベル賞受賞者を排出してきています。優秀な若者が後に続くことを梅爺は期待しています。

『宇宙になぜ我々が存在するのか』について、梅爺はある程度理解できたような気がしますが、私達が出現するのに必要な『物質世界』における『変容』が、無数に連鎖している事実にはただただ圧倒されます。どれか一つの『変容』の結果が違ったものであったら、私達は出現しなかったからです。

この連鎖を『稀有な偶然』と考えるか、『目的のある必然』と考えるかの議論はまだまだ続くことになるのでしょう。『宗教』は『目的のある必然(神の意図)』を主張するのでしょうが、その場合には『神の再定義』が必要になるかもしれません。

梅爺は『稀有な偶然』と考えていますが、それが『正しい』とする論拠を持ち合わせているわけではありません。しかし、『稀有な偶然』に感謝する心は持ち合わせています。

私達に都合のよい『稀有な偶然』が、今後も続いてほしいと『願い』ますが、『祈ればそうなる』とは期待していません。『摂理』は、私達の『願い』や『祈り』とは無関係に存在する冷徹な『ルール』に過ぎないからです。

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2017年12月28日 (木)

宇宙になぜ我々が存在するのか(7)

『宇宙』は、誕生以降創られた『物質』と、残りは真空の空間(無の空間)で構成されていると永い間人類は考えてきました。

ところが、私達が『物質』と呼ぶものを全て寄せ集めても、質量やエネルギーに換算して『宇宙』のたった4.4%にしかならないことが明らかになってきました。73%は『暗黒エネルギー』、23%は『暗黒物質』とよばれる正体不明のもので『宇宙』は構成されているというのです。

『暗黒(ダーク)』と名付けたのは、私達の目に見えず、直接の測定手段が見つからないという意味で、今のところ正体不明です。『宇宙』の96%が正体不明なモノで構成されているということですから、私達は『宇宙』についてほとんど分かっていないとも言えます。

『暗黒エネルギー(引き離す力として作用)』『暗黒物質(引き付ける力として作用)』は、間接的な証拠を利用した論理推測によって、その存在を科学者は認めています。

日本を含めた世界の科学者が、『暗黒エネルギー』『暗黒物質』の正体を明らかにしようと努力していますから、いつの日にか『大発見』が報じられ、『宇宙』の『摂理』に関する新しい事実が分かり、現状の謎の多くが解明されるかもしれません。そして従来の科学的な定説は修正されることもあり得ます。

私達が『無の空間』と考えてきた『空間』は、実は『無』ではなく、『素粒子』や『暗黒エネルギー』『暗黒物質』が存在する『空間』であるということです。『無の空間でビッグ・バンが起きた』という表現は適切ではないことになります。少なくとも膨大なエネルギーを秘めた『場』があったということなのでしょう。

昨日も書いたように、『宇宙』の誕生時には、『物質』と『反物質』が『対』で生成されたにもかかわらず、現在では『物質』だけが残っているという事実を説明する理論として『量子物理学』では『対称性の破れ』という考え方が提唱されています。

その理論の詳細を梅爺は理解できていませんが、『対称性の破れ』で、現在の『宇宙』は『物質』主体の世界になったらしいことを知りました。

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2017年12月27日 (水)

宇宙になぜ我々が存在するのか(6)

私達が生きていくためには、『肉体』とそれを活用した種々の『生命維持活動』を必要とします。

『肉体』の素材は、『宇宙』の歴史の中で創られた元素やその化合物で、『生命維持活動』は、『宇宙』を今でも支配している『摂理(物理法則、化学法則など)』をそのまま一部利用しています。

崇高に思える『精神世界』も、脳で展開されるミクロな物理変化、化学変化によって支えられています。

このことからも、私達は、生きる基本条件を『宇宙』に依存しており、『宇宙』の誕生がなければ、私達は存在しないということは分かります。

ただ『摂理』は、『宇宙』の誕生にも関わったとすると、それ以前から絶対的に存在していたということになります。何故『摂理』は存在するのかは、人類にとって究極の謎で、現時点では解明の手掛かりさえありません。

であるからこそ『摂理』は『神』ではないかと主張される方もおられます。梅爺も『摂理』を『神』という名で呼ぶことは特に異論はありません。『神によって万物が創造された』という表現も可能になります。ただこの場合の『神』は、冷徹な『ルール』に過ぎず、人間にとって好都合なものとは言えません。『愛』『慈悲』『罪の許し』『死後の世界の安堵』などという概念とは無縁になります。つまり『宗教』の教義が説く『神』の姿からは程遠いものになります。

『宇宙』誕生後の『変容』の中で、『素粒子』を原料にして、各種『物質(元素やその化合物)』が出現したという話を聞いて、梅爺は『基本的なカラクリ』は理解できたと思いましたが、『量子物理学』の視点で観ると、『宇宙』に『物質』が存在することは、『不可解』であるということになってしまうことを知りました。

『量子物理学』の世界では、『宇宙』の誕生時に、『物質』と『反物質』が対になって生じたと考えられ、やがて『物質』と『反物質』が出会うと、莫大なエネルギーを発して両者は消滅してしまうというのです。これは『対生成』『対消滅』と呼ばれるルールです。

『梅爺』が存在するからには、『反梅爺』も存在し、両者が出会って握手でもした瞬間に、核爆発以上の大爆発を起こすというような話かと誤解しましたが、現在の『宇宙』空間にはほとんど『反物質』は存在しないらしいことを知り安心しました。『反物質』の存在を証明するために、科学者は人工的に『反物質』の生成に成功しています。勿論微量ですから、『物質』と反応して大爆発をおこすというようなものではありません

本来『対消滅』で全てなくなってしまうはずなのに、現在の『宇宙』には『物質』だけが残っていることが『不可解』ということです。

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2017年12月26日 (火)

宇宙になぜ我々が存在するのか(5)

古代ギリシャの哲学者は、『物質』を細かく切り刻んでいけば、最後にそれ以上切り刻めない『モノ』になると考え、それを『アトム』と呼びました。

近世以降、科学者は『物質』の中心構造(アトム)を明らかにし、『物質』を『元素』で区分けしました。

驚くべきことに、どの『物質(元素)』の中心構造も、基本的には『原子核とその周囲を周回する電子』で構成されていることが分かりました。ただ『原子核』を構成する『陽子』『中性子』の数と、周回する『電子』の数が異なっているというだけの違いです。

『鉄』と『炭素』は、外見的には違った『物質』に見えますが、中心構造は同じ法則に支配されているということですから、これは『人間』と『ライオン』は違った生物に見えても、『遺伝子構造』でみれば同じ法則に支配されているという話と似ています。

複雑多様に見える『物質世界』は、非常に単純なルール(摂理)で支配されていることに驚かされます。そして『物質世界』を理解する上で必要な何かが、この事実に隠されているように感じます。

『原子核』はそれ以上、細かくはできないものと一時は考えられていましたが、やがて『陽子』『中性子』は、『クォーク』という更に小さな素材から創られることが分かりました。

『クォーク』や『電子』など、それ以上細分化できないと考えられる素材は現在『素粒子』と呼ばれています。

しかし『素粒子』もまた、更に小さい『ひも』と呼ばれるものの、エネルギー環境での『振動様式』の違いに過ぎないという仮説(超ひも理論)が現時点で有力視されています。『超ひも理論』で、現在まで解明できていない『量子物理学』の難問を解明できるかもしれないと期待されています。ちなみに『超ひも理論』で考えると『宇宙』は10次元の世界になり、私達の『宇宙』以外にも無数に近い他の『宇宙』が存在するという推測になります。

『ひも』が定説になれば、『素粒子』の素材ということになり、『ひも』こそが究極の素材になります。

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2017年12月25日 (月)

宇宙になぜ我々が存在するのか(4)

『宇宙』の誕生以来、数々の『因果関係』が幸運に連鎖して、私達『人間』が地球上に存在しているということになりますが、大元は『宇宙の誕生』です。

『風が吹けば桶屋が儲かる』という説明は、必ずしも『真』とはいえない論理命題を強引に『真』として行われますが、『宇宙の誕生があったから我々は存在している』という『因果関係』の説明も、仲介する『因果関係』の数が比較にならないほど多いということを除けば同じです。

つまり、一つでも『因果関係』が成立しないという事態が起きていれば、『我々は存在していない』ことになります。

しかし、現実に我々は存在していますから、稀有な幸運によって『因果関係』が連鎖したという推定になります。我々が存在するのは『当然』のことではなく、『存在しない』確率の方がはるかに高いということです。現時点で『宇宙』を観察しても、『人間』と同等な生物は発見できていないことがそれを物語っています。

しかし『宇宙』は広大ですから、『地球』に似た環境の『惑星』が存在し、その環境が数十億年継続していれば、『生物進化』のプロセスが機能し、そこに『人間』に似た生物が存在する可能性は否定できないと科学者は考えています。

『宇宙になぜ我々が存在するのか』という本は、私達の『肉体』を構成する素材物質が、『宇宙』でどのように創られたのか、そして『物質(素材)』の出現には『素粒子』が不可欠であることを解説しています。

『素粒子』は『量子物理学』の発展とともに、明らかになってきた概念で、その大半の科学的成果は、ここ50年の短い時間にもたらされたものですので、梅爺は学生時代には、知識は得られませんでした。

『量子物理学』の領域は、非常に難しく、梅爺が簡単に理解できる世界ではありません。また天才的な学者がこぞって挑戦しても、未だ解明できていない分野が多い領域でもあります。

しかし、この本の著者の村山先生は、その本質を分かりやすく解説してくださいます。

おかげで梅爺の『素粒子』に関する基礎知識と理解は格段に広がりました。

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2017年12月24日 (日)

宇宙になぜ我々が存在するのか(3)

『物質世界(宇宙、自然界)』の歴史の中で、無数の『変容』が生じ、更に多くの幸運の累積があって、『地球』『生命体』『我々』が現在存在していると、科学者や理性的な人が考えるようになったのは、近世以降のことです。

『ユダヤ教』『キリスト教』の世界の人々は、『旧約聖書』創世記の話を中世まで『事実』として受け容れてきました。

自分という『存在』はどう考えても『摩訶不思議』であり、『神が神に似せて人間の先祖(アダムとイヴ)を創造した』という説明以外の説明は思いつきませんから、『さもありなん』と誰もが受け入れたことになります。

現代でも、万物の創造主は『神』であると『信ずる』方々は少なくありません。

一方、『科学』が明らかにした説明は、先入観さえ排除できれば、『理』にかなったものとして納得できます。

『人間』は、『宇宙』に存在する他の『モノ』と、本質的に何ら変わらず、その生命活動は『物質世界』の『摂理』だけで維持されていることが明らかになりました。

『精神世界』の高い能力が創りだす数々の成果を観て、『人間』は特別な存在と考えたくなりますが、それは『脳』の機能の『進化』によるもので、他の生物とレベルの違いがあるだけということにほかなりません。

冒頭に書いたように、無数の幸運な偶然の累積の上に、『我々は存在している』という見方が多くの科学者の見解です。

しかし、科学者の中には、逆に『人間』を出現させるために、全ての『変容』が必然的に起きたと考える人たちもいます。あまりに確率の低い幸運の連鎖を目の前に突き付けられて、むしろ逆の視点で観たくなるということなのでしょう。これは『人間原理』と呼ばれる考え方です。この考え方の延長には、『人間を出現させる』という目的は誰が設定したのかという議論があり、再び『神』という概念が浮上します。

梅爺は、個人的には『人間原理』は受け入れることができません。『人間』を出現させるために、『宇宙』が必然的に『変容』してきたという考え方は、あまりにも自分中心な観方で、傲岸であると思うからです。

『宇宙』で起きる『変容』には、『目的』など存在せず、ただ『動的に平衡状態が遷移している』と考える方が納得できます。

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2017年12月23日 (土)

宇宙になぜ我々が存在するのか(2)

我々が存在することを可能にした『物質世界』の歴史を大雑把に俯瞰すると以下のようになります。 

(1) 138億年前に『ビッグ・バン』で宇宙が誕生
(2) 45億年前に太陽系惑星『地球』が誕生
(3) 40億年前に『地球』に『生命体』の先祖が誕生
(4) 600万年前に、『人類種』の先祖が出現
(5) 17万年前に『ホモ・サピエンス(人類種の一種)』の先祖が出現
(6) 我々はその子孫として存在
 

これで、『どこから来たのか』『何故存在するのか』はある程度説明できていると言えます。

それでは『どこへ行くのか』はどのように考えればよいのでしょう。

個人としての『人間』が死んだ後に『どこへ行くのか』という設問ならば、火葬されるにせよ、土葬されるにせよ肉体を構成していた素材(元素やその化合物)に還元されるだけという味気ない推測になり、生前保有していた『精神世界』は消滅して『無』に帰すという推測になります。強いて表現すれば『物質世界へ帰る』ということでしょうか。

『宗教』の多くは、『肉体は滅びて土へ戻る(自然界の素材に戻る)けれども、死者の霊は神仏のもとへ召される』と私達へ説いてきました。

それを『信ずる』方々は、上記のような梅爺の推測は受け入れ難いと感ずることでしょう。

一度『精神世界』に根付いた『価値観』を否定することは難しいという習性が働くためと考えられますが、それ以上に『無に帰す』と言われると(またはそのよう状態を想像すると)『精神世界』の基盤にある『安泰を希求する本能』が脅かされ、ストレスが生じ、限りない『寂寥感』に襲われ、なんとか『無に帰すことはない』という因果関係を見つけようとすることになるからではないでしょうか。『聖職者』の『霊は神仏のところへ召される』と言う説明を聴いて、『よかった』と安堵するのはそういう心理背景があるからです。

このように反応するのは『生きている人間』ならば避けられないことで、自分の『死』であれ、愛する人の『死』であれ、『死』が『悲しみ』の対象になるのはそのためです。

梅爺とてそれは同じなのですが、それでも『理性』で推論する限り『無に帰す』という説明以上に納得できるものを見出すことができませんから、『あの世』や『天国』はあまり期待しないことにしています。その分『生きている時間』は大切にしたいという気持ちが強まります。

『個人』ではなく、『人類』は『どこへ行くのか』という設問ならば、環境に恵まれている間は『子孫を残す』ことで存続し続けることができますが、いつかは環境が変わり、存続できなくなる時が訪れるであろうという推測になります。

勿論、すぐに『人類が絶滅する』という状況が起きるわけではありませんが、いつかはその日が訪れると考えるの妥当ではないでしょうか。

たとえば『太陽』が燃え尽きれば、地球環境は『人類の存続』を許さないものに変わるであろうというようなことです。

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2017年12月22日 (金)

宇宙になぜ我々が存在するのか(1)

『宇宙になぜ我々が存在するのか(村山斉著:講談社ブルーバックス)』という本を読みました。

村山氏は、日本が世界に誇る若手宇宙物理学者で、東大、カリフォルニア州立大学バークレー校の両校で、教鞭をとり、研究を続けておられる方です。

梅爺のように、宇宙物理学に全く素養のない読者を対象に、平易な日本語で、分かりやすく(興味を惹くように)説明してくださることはありがたいことです。

『難しい内容』を『易しく解説』する能力は、誰もが保有するものではありません。最先端の学者で、その才能をお持ちの村山氏は、貴重な方です。

普通の人は、『科学の先端研究』には携わることはできませんが、その本質を『理解する』ことは、重要な意味を持つからです。『科学』に依存する度合いが高い現代では、特に重要なことです。

古代から、『我々はどこから来たのか、何故存在するのか、どこへ行くのか』という疑問は、哲学者、神学者などを虜にし、悩ませてきました。

ゴーギャンの同タイトルの『絵画』は有名で、ゴーギャンも芸術家として同じ疑問を持ち続けていたことが分かります。

哲学者は、やたらと難しい語彙を用いて、凡人には即座に理解しがたい説を展開し、神学者は、結局『万物の創造者:神』と『神のご意志』で説明しようとしてきました。

しかし、近世以降『科学』が、これまでとは全く異なった視点で、この疑問に答え始めました。梅爺にはようやく『真打(しんうち)』が登場した感があります。

『宇宙になぜ我々が存在するのか』という本は、具体的には『素粒子とは何か』を科学的に解説した本です。勿論『哲学』や『神』は登場しません。

『宇宙』の誕生が、私達の存在の引き金になっていることは、梅爺も理解していましたが、何故『素粒子』を知ることが、更に重要なのかを初めて知ることができました。

何故学校ではこのようなことを教えてくれなかったのかと、恨めしく思いましたが、考えてみると梅爺が学校生活を送っていたころは、これらの『科学的事実』が分かっていなかったことに、はたと気づきました。

自分が年老いたこと、最近の『科学』の進展が目覚ましいことを、改めて痛感しました。

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2017年12月21日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『イタリア人は反ユダヤ主義者か』(6)

ヨーロッパの中で『イタリア』だけが、特に『反ユダヤ主義』の強い国といえるかどうか分かりませんが、『ウンベルト・エーコ』は、少なからず『シオン賢人達の議定書(捏造の疑いが高い書物)』の流布に歴史的に加担したことを認めています。

現在の『イタリア』では、むしろ昔から根強く存在していた『一般的な反ユダヤ主義(ユダヤ人嫌い)』が再び強まっていると書いてあります。『人種差別』の一種ですから、好ましくないというニュアンスで書かれています。

『バチカン』のお膝元である『イタリア』は、『カトリック』文化の強い国ですから、似て非なる『ユダヤ教』への反発が強く、それが『ユダヤ人嫌い』につながりやすいのでしょう。

『日本』は地理的な理由で、歴史的に『ユダヤ人』集団と隣人として接する環境を経験しておらず、『反ユダヤ主義』が問題になることはありませんでした。

第二次世界大戦中、リトアニア領事館に赴任していた外交官の『杉原 千畝(すぎはら ちうね)』が、独断でポーランドからのユダヤ人避難民に『ビザ』を発行し、第三国へ逃避させることで、結果的に6000人の命を救った話は有名です。

このため、『イスラエル』では、親日感情が強いと聞いたことがあります。日本人としては誇らしい話です。

『日本』はまた、歴史的に『イスラム教』の影響も強くは受けていませんので、特に中東諸国から敵視されることもかありません。

しかし、『親アメリカの国家』『親イスラエルの国家』という視点から、イスラム過激派からは『敵視』されないとは限りません。

来るべき『東京オリンピック』を『テロ』の場としないためにも、『日本』の『外交』は十分な配慮を求められます。『日本』だけで『日本』の安全は守れない時代になっているからです。

『日本』にとって人種偏見に近いものと言えば、『中国人嫌い』『韓国人嫌い』の根強い感情が現在でも存在することでしょう。特に年配者に多いように感じます。

歴史的な『日本』の朝鮮半島、中国大陸への植民地政策、敗戦後その反動として『中国』『韓国』で行われた『反日教育』など、複雑な関係が背後にありますが、『○○人嫌い』は、双方の国家の将来にとって有益な結果をもたらしません。

国民の交流の場を増やし、相互に『違いを認め合う』努力が必須です。『好き嫌い』は人間の感情として理屈ではありませんから避けられないとしても、『敵視』『蔑視』は緩和する必要があります。

庶民レベルの交流が創りだす『相互認識』は、両国政府間の『見解』とは異なります。庶民の『相互認識』が『政府見解』に影響を与えるまでになるように、辛抱強い努力が求められているように思います。

梅爺が現役時代にビジネスで接した『中国人』『韓国人』には、尊敬すべき方々が沢山おられました。それらの方々にとって、梅爺が逆に尊敬に値する『日本人』であったかどうかは自信がありませんが、少なくともこのような『交流』『相互認識』の輪が広がっていくように期待してやみません。

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2017年12月20日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『イタリア人は反ユダヤ主義者か』(5)

『ユダヤ民族』は『世界制覇を企む邪悪な民族』という考え方は、やがて著名な『ユダヤ人』を誹謗することにもつながっていきました。

心理学者の『フロイド』、作曲家の『シェーンベルク』『マーラー』、それに物理学者の『アインシュタイン』までが誹謗の対象になりました。

新しい学説、新しい手法の提示が、『既存秩序を乱そうとする企み』であるという主張です。なんと程度の低い話と呆れますが、世の中にはこの種の主張を真面目にする人たちが後を絶ちません。

誹謗する『目的』のためには、私達はどのような『口実』も利用するということです。人間の『精神世界』は、崇高な世界であると同時に、このようにおどろおどろしい世界でもあります。人間である以上、この宿命からは逃れられません。『安泰を希求する本能』が『精神世界』の根底にあるからです。『煩悩』を排除する努力をしなさいと説いた『釈迦』は、2500年前にすでに人間の習性を見抜いていたことになります。

『キリスト教文化』のヨーロッパで、『反ユダヤ主義』が存在するのは、当然『宗教』の問題が絡んでいます。

『キリスト教』は『ユダヤ教』から派生したことは、キリスト教徒も認めざるを得ないことですが、『キリスト教』の方が『ユダヤ教』より洗練された宗教であるという優越感を肯定しようとして、『蔑視』が生じます。

両方とも『一神教』であることは同じですが、『ユダヤ教』の『神』が『ユダヤ民族だけの神』であるのに対して、『キリスト教』の『神』は『人類の神』であると格上げされています。

この『格上げ』を行ったのが『使徒パウロ』で、『ユダヤ民族』の『旧約聖書』の解釈は『間違い』と言明しました。このために『使徒パウロ』は『ユダヤ教徒』からは『異端者』として逆に非難されています。

『使徒パウロ』は『キリスト教』を、パレスチナ以外の地域へも布教しようとした人ですから、『格上げ』が必須であったということです。このおかげで、後に『キリスト教』は『ローマ帝国』の『国教』になり、世界の歴史に大きな影響を与える『宗教』になりました。

『キリスト』自身は、ユダヤ人社会で生きた人ですから、特に『神』の概念を『格上げ』することには言及していません。

その意味で、現在の『キリスト教』の基盤を創始したのは『使徒パウロ』であるともいえます。

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2017年12月19日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『イタリア人は反ユダヤ主義者か』(4)

『ウンベルト・エーコ』は『反ユダヤ主義』は2種類あると書いています。

一つは、昨日紹介したような、中世以前からヨーロッパに存在していた『ユダヤ人嫌い』の感情です。『ウンベルト・エーコ』はこれを『Popular anti-Semitism(一般的な反ユダヤ主義)』と呼んでいます。

もうひとつは、中世以降、何者かによって意図的にでっちあげられた『ユダヤ民族は危険な(邪悪な)民族である』という思想で、『ウンベルト・エーコ』はこれを『Intellectual anti-Semitism(思考で産み出された反ユダヤ主義)』と呼んでいます。

この後者の『反ユダヤ主義』の背景に、人間の『精神世界』のおどろおどろしい面があると梅爺は感じます。

自分より優れた人物に遭遇すると、それを素直に認めて尊敬することをせず、『あいつは頭は良いかもしれないが性格が悪い』などと何がしかの欠点を指摘して誹謗する習性があるということです。

自分より優れた人物を認めることは、相対的に『自分が劣っている』ことを認めざるを得なくなることになり、『安泰を希求する本能』が『面白くない』と感じて脅かされますから、何かの理由をつけて、自己弁護しようとするためなのでしょう。『他人(ひと)の不幸は蜜の味』などという、ブラックユーモアもこの種類のものです。

でっちあげられた『反ユダヤ主義』で、よく引き合いに出されるのが、20世紀の初頭に、ロシアで発刊された『The Protocols of the Elders of Sion』という書物です。日本では『シオン賢人の議定書』などと訳されていて、『ダン・ブラウン』のベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』などでも引用されています。

ユダヤ人の長老たちが秘密裏に取り交わした『世界制覇計画』の密約という内容ですが、本当にそのような密約が存在したという証拠はありません。

たぶん『帝政ロシア』時代に、何かの目的で『反ユダヤ主義』を煽るために、誰かが意図的に捏造(ねつぞう)したものではないでしょうか。

しかし、この本はその後色々な言語に翻訳されて各国で出版され、内容が独り歩きするようになりました。

最も有名な例は『ナチス・ドイツ』で、この本が『ユダヤ人弾圧』の大義名分として利用されたことです。小学校の教材にもなったと言われています。

『ユダヤ民族』は『世界制覇を狙う邪悪な民族』というレッテルが貼られて、結果的に数百万人が『大量虐殺』されました。『世界制覇を狙う邪悪な人物』である『ヒトラー』が、自分を棚に上げてよくまあこのようなことが言えるものだとあきれますが、これが歴史の真実です。

人間の『精神世界』が生み出した『虚構』が、やがて『真実』と『信じられる』と、このような恐ろしい行為の原動力になるということです。

現在でも、私達の周囲には沢山の『虚構』があるはずですが、残念なことに私達にはそれを『虚構』と見破ることは容易ではありません。

『理性を駆使して、自分で考える』訓練を怠ると、大きな悲劇に巻き込まれてしまいます。

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2017年12月18日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『イタリア人は反ユダヤ主義者か』(3)

古代から近世まで、『ユダヤ民族』の多くは、『外国』での生活を余儀なくされました。 

『外国』人にとって、『ユダヤ人』は、『閉鎖的』で、『理解できない言語』を話し、『理解できない宗教的儀式』を行う、何やら胡散(うさん)臭い人たちに見えたに違いありません。 

人間の『精神世界』は、自分が『理解できないこと』は、先ず『胡散臭い』と受け取り、次に『たいした意味はない』と勝手に決め付けて、無視したり、蔑視の対象にしがちです。気をつけているつもりですが、梅爺も無意識にこのように対応してしまうことがあります。 

特に、自分たちとは異なった振る舞いをする人たちは、『変な人たち』『劣った人たち』と決めつけたりします。 

『ユダヤ民族』は、中世以前から『聖典(キリスト教では旧約聖書)』に接するために、文字の読み書きができる教養人が多数いました。文字の読み書きができない中世以前の『外国人』も、薄々相手の方が『賢そうだ』と感ずることになり、一層『面白くない』『嫌い』という感ずるようになったに違いありません。 

これが歴史的な『反ユダヤ主義』の始まりです。 

『外国』によっては、『ユダヤ民族』に自由な居住を認めた所もありますが、やがて多くの国が、『ゲットー』などと呼ばれる『ユダヤ人居住区』を定めて隔離し、宗教活動などはその『居住区』の中だけで認めるようになりました。 

『ユダヤ民族』が『アイデンテティ』を失わないために、結束すれば結束するほど、『外国人』には『閉鎖的』と疎まれるようになったという皮肉な話です。

『ローマ帝国』、アフリカからイベリア半島へ進出した『イスラム系王朝』、『オスマントルコ』などは、ある程度『異教徒』に寛容で、権力に従順に従う限り領土内の『ユダヤ民族』居住を認めていました。

『リコンキスタ』で、『イスラム系王朝』との戦いに最終的に勝利し、イベリア半島を掌握したスペインの『イザベラ女王』は、征服地に住んでいた『イスラム教徒』『ユダヤ教徒』に『カトリック』への『改宗』を迫り、従わない人たちは全て国外追放しました。『ユダヤ人』の大半が、『改宗』を拒み、宗教弾圧がそれほど過酷ではない他のヨーロッパ諸国へと移住しました。

この歴史の名残で、『スペイン』は、現在でも『カトリック』が強い勢力を維持する国家です。他のヨーロッパの国のように、その後の『宗教改革』で『プロテスタント』と勢力を分かつこともありませんでした。

『スペイン』のゴルドバには、キリスト教教会に改修された『モスク』や、今はユダヤ人が住んでいない『(昔の)ユダヤ人街』などが残り、観光地になっています。

近世になって、『ヒトラー』が、『イザベラ女王』どころではない『ユダヤ人大弾圧』を行い、数百万の『ユダヤ人』が収容所へ送られ、虐殺されました。

『ユダヤ民族の悲劇』は、昔の話だけではありません。

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2017年12月17日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『イタリア人は反ユダヤ主義者か』(2)

20世紀の半ばまで、『ユダヤ民族』は欧米社会に分散して居住していましたが、1948年の『イスラエル建国』で、多くの人たちが『新しい祖国(パレスチナ地域)』へ移住しました。さすがに、古代、中世まで遠隔地であったことで、アジアまでは『ユダヤ民族』が多数進出することはありませんでしたので、私達には『隣人』としての『ユダヤ人』という感覚はありませんが、西欧社会ではそれがどこでも『当り前』であったということです。

現在、世界には1358万人の『ユダヤ人』がいて、『イスラエル』に住んでいるのは570万人、アメリカに住んでいるのは527万人と言われています。残りの約19%の人たちは、それ以外の国と言うことになります。

『アメリカ』の、メディア業界(新聞、テレビ、映画)、金融業界で、ユダヤ系の人たちが重要な役割を果たしていると言われています。一方『アメリカ』のヨーロッパ系白人は、『ユダヤ人』を嫌う慣習が根強く残っており、これが暗黙の『人種差別』を生みだしています。『○○スタイン』『XXバーグ』などという『姓』で、『あの人はユダヤ人だ』と後ろ指を指されたりします。『アメリカ』の人種問題は、『黒人』『ヒスパニック系』『アジア系』だけではありません。『白人至上主義』の背景は複雑です。

『ユダヤ系アメリカ人』がメディア業界、金融業界を陰で支配しているとすると、当然『政治』や『外交』にもその影響が現れます。私達は『アメリカ』の『政策』を観る時にこの視点でも観る必要があります。『アメリカ』は理想的で清廉な『自由・民主主義の国』とは言えません。

紀元前13~14世紀ころ、『エジプト』に奴隷として連行されていた『ユダヤ民族』は、リーダー(預言者)の『モーゼ』に率いられて、『エジプト』を脱出し、紅海、アラビア半島を経てパレスチナの地へ到達したとされています。『エジプト』脱出から、パレスチナ到着まで約40年を要しました。

これが『旧約聖書:出エジプト記』に書かれている『エクソダス』と呼ばれる逸話です。紅海を横切るときには『神の奇跡』で、海が割れ、海底に歩道ができたという話は有名です。

パレスチナに到着した『モーゼ』は、『シナイ山』に上り、『神(ヤーヴェ)』から石板に刻まれた『十戒』を授与されました。これが『神』と『ユダヤ民族』の約束事(契約)の原点で、『旧約聖書』はその『約束事』に関わることを記述した聖典ということになります。

『パレスチナ』は『神』が約束してくれた『蜜とミルクが滴る地』ということになっています。

1948年の『イスラエル建国(外交、軍事による強行)』時に、『神』との約束の地へ戻った(第二のエクソダス)という宣言がなされました。

ここは自分のものだと主張する『大義名分』が必要なことは理解できますが、そこに住んでいたアラブ系パレスチナ人にとっては、『神との約束の地である』などという主張は無茶苦茶で、寝耳に水であったに違いありません。でも、これが20世紀の出来事なのです。人間は『大義』『正義』と称して、何を行うか分からない習性をもつという、何やら怖い話です。

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2017年12月16日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『イタリア人は反ユダヤ主義者か』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の36番目のタイトルは『Are the Italians Anti-Semites ?(イタリア人は反ユダヤ主義者か)』で、西欧キリスト教社会に根強く存在する『反ユダヤ主義』が、イタリアの場合はどうなのかを論じたものです。

『ユダヤ民族』は、人類史の中で、格別に『悲劇』につきまとわれた民族です。比較的に安穏な歴史に恵まれている『日本人』にとって、『ユダヤ民族』を理解することは易しくありません。

1世紀の『ローマ帝国』支配下のユダヤに、何故『キリスト』が出現したのか、『ユダヤ教』は何故『一神教』なのか、などは『ユダヤ民族』の歴史を理解しないと本質は見えてこないと梅爺は考えています。

聖画の『キリスト』や『マリア』は、伝統的に西欧系白人として描かれてきましたが、それは後に意図的に、または願望でそのような慣習になったもので、実際の風貌は、パレスチナ系ユダヤ人であったとすると実像とは異なっているのかもしれません

古代から『ユダヤ民族』は、『バビロニア』『エジプト』『ローマ帝国』『十字軍』『イスラム教王朝』『イギリス』などから侵略や支配の対象になり続けてきました。現在の『イスラエル』は、1948年に、軍事的、外交的に強引な手段で『建国』したものです。そこに暮らしていたアラブ系のパレスチナ人との間で、現在も紛争が絶えないのはご存知のとおりです。

パレスチナ人を支持する、中東のイスラム教国家との間で、政治的、宗教的対立が続き解決の目途さえありません。パレスチナの地は、どの『民族』のものかなどという議論は、永く続いた複雑な『歴史』を考えると、簡単な答が見いだせないのは当然です。尖閣列島は『日本』の領土か『中国』の領土かなどといった問題とは、かなりレベルが違います。

『エルサレム』が、『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』からいずれも『聖地』とされていることが、このことの複雑さを如実に語っています。トランプ大統領は、アメリカの政治的な立場(親イスラエル)、キリスト教的視点、イスラム教に対する偏見で『エルサレムはイスラエルの首都』と宣言したものと思いますが、このような『単純な断定』は、火薬庫の近所でわざわざ焚き火をするようなものです。

『異民族の侵略』で、『ユダヤ民族』は奴隷として敵国へ連行されたり、一部は難民として異民族の地へ逃避したりすることになりました。

『ユダヤ教』は、どこへ行っても『民族のアイデンテティ』を確認するるための重要な役割を果たしました。『ユダヤ教』の『神(ヤーヴェ)』は、『ユダヤ民族』だけの『神』であることがその証左です。そして自分たちの『神』だけが『神』であるという主張から『一神教』の概念が確立したものと梅爺は推測しています。『アイデンテティ』を確認しようとすると『排他的』になるという矛盾を抱えることになりました。

異民族の中で暮らす『ユダヤ民族』は、結束が固く、異民族との柔軟な交流を避けることで、異民族からは『嫌われやすい存在』になっていきました。

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2017年12月15日 (金)

『宇宙は本当にひとつなのか』(6)

私達の周囲は『4次元の世界』であるとは感覚的に理解できますが、『ミクロな世界』を含めると、実はもっと『多次元の世界』の中で生きているということになりそうです。

電磁力などは、『4次元の世界』だけで作用する『力』ですが、『重力』は、『4次元の世界』だけでなく、他の『異次元』との間でも作用する『力』であると考えられています。

『暗黒物質』の累積された大きな『重力』は、『宇宙』の他の物質を引き寄せる『力』として作用していますので、この『重力』は『異次元(4次元以外の)世界』からもたらされたものではないかという『仮説』があります。言い換えると『暗黒物質』の正体は、『異次元の世界』に関与しているという推定です。

『4次元の世界』の『摂理』だけでは、『暗黒物質』を説明できないとすれば、この『仮説』はさらに検証の余地があります。

『宇宙』を『多次元の世界』と考えることは、『宇宙』が複数個あるという主張とは別の話です。『宇宙』は一つであるけれども、それ自体は『多次元の世界』であるということに過ぎません。

一方、『ビッグ・バン』が何故起きたのかを説明する『仮説』が、『インフレーション理論(真空のエネルギー)』で、この考え方の中で、『宇宙は一つではない』という『仮説』が登場しました。しかもその数はほぼ無数に近いという説です。

こういう話を聞くと、私達の『宇宙』と同じような別世界がどこかにあると考えてしまいますが、どうもそうではなく、他のほとんどの『宇宙』は、『暗黒エネルギー』のような『引き離す力』が強く、星や星座や生命体は生まれないというのです。

つまり、私達の『宇宙』は、『暗黒エネルギー』と『暗黒物質』とが偶然に絶妙なバランスで存在する珍しい『宇宙』形態であるという想定です。

『地球』も『宇宙』も、すべて幸運な偶然で存在しているというこの考え方は、梅爺好みです。私達(生命、人類)も、幸運な偶然で存在するようになったということです。『私達はどこから来たのか、何故存在するのか、どこへ行くのか』などと深刻に悩んだ『哲学者』には、大変申しわけない単純な話です。

『宇宙』は他にも多数存在し、その『宇宙』はいずれも『多次元の世界』であろうと、梅爺は勝手に想像するようになりました。

いずれそのことが、もっと理論的に解明できる時がくるのではないかと想像しています。

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2017年12月14日 (木)

『宇宙は本当にひとつなのか』(5)

広大な『宇宙』の誕生を知ろうとすると、『物質世界』の極めてミクロな世界を扱う『量子力学』の知識を必要とするという考え方が常識になっています。

『量子力学』の世界では、私達が『マクロな世界』で体験してきた『常識』が通用しません。私達が受け入れている多くの『摂理』に関する『常識』の大半は、『マクロな世界』を対象にしたものです。

私達が、感じ取っている『空間』は『4次元(xyz軸の3方向と時間)』で表現できますが、『ミクロな世界』を含めると、4より多い次元で観る必要が生じます。

私達が理解している『常識』では『真空空間』は『何も存在しない空間』ですが、『ミクロな世界』や最新の天体物理学の知識を導入すると、『真空空間』にも『物体(ニュートリノや暗黒物質)』や『エネルギー(暗黒エネルギー)』が存在することになります。

『エネルギー不滅の法則』なども、『マクロな世界』に限定して成り立つ法則で、必ずしも普遍的な法則とはいえないことが分かってきています。

『ビッグ・バン』が生じた原因に関する『仮説』である、『インフレーション理論』では『真空のエネルギー』の存在を前提としています。

この『真空のエネルギー』は、私達が『マクロな世界』で理解している『エネルギー』とは異なります。『真空のエネルギー』が『暗黒エネルギー』そのものかどうかも検証できていません。

『ミクロな世界』では、この世界独特の『物質(素粒子が創りだすもの)』や『力(強い相互作用、弱い相互作用)』が理論の対象になります。

『ミクロな世界』でみると、『物質』は『粒子』と『波』の二つの特性を兼ね備えているものになります。

『電子』や『光子』は、『粒子』であって『波』であるということは、私達も学校で習ってきましたから、電波や光のには『周波数』という特性があることを知っています。

『ミクロな世界』が、私達の『マクロな世界』と大きく異なるのは、4次元以上の『多次元』の世界であることです。

『超ひも理論』といわれている『仮説』では、『10次元』であるという論理推測になっています。『超ひも理論』では、『素粒子』は『超ひも』の振動様式の違いで決まるもので、その振動は『真空のエネルギー』で得られるものと考えられています。

この『私達は4次元ではなく、もっと多くの多次元の世界の中にいる』という考え方が、『暗黒物質』や『暗黒エネルギー』の謎を解くカギを握っているのかもしれません。

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2017年12月13日 (水)

『宇宙は本当にひとつなのか』(4)

『マルチ・バース(複数の宇宙)』という考え方は、天体物理学の詳細を理解していない梅爺も、『そう考えた方が自然だ』と感じます。

『物質世界』に存在するものは、偶然の条件で『生じた』もので、そのものは他に類を見ない『個性的』なものであっても、偶然の条件の内容の違いによっては同類のものが『生ずる』ことは、『当り前』であるからです。

難しい表現で分かりにくいのですが、例をあげれば簡単な話です。

梅爺は、この世に一人しかいない『ユニーク(個性を持った)』な人間ですが、人間は梅爺だけではありません。

『地球』は、『宇宙』の中で『ユニーク』な惑星ですが、惑星は『地球』だけではありません。

そう考えると、私達が属している『宇宙』は『ユニーク』ですが、『宇宙』は私達が属している『宇宙』だけではない、という推測が妥当に思えるからです。勿論、私達が属している『宇宙』と、そっくり同じ『宇宙』は存在しないのかもしれませんが、類似の『宇宙』が他にあってもおかしくないという推測です。

他の『宇宙』では、私達の『宇宙』のように、星や銀河は存在せず(存在できる条件が整っていない)、したがって私達のような人間も存在しないかもしれないということもありえます。

私達が属している『宇宙』だけが『唯一無二』のものと考える方がむしろ不自然で、『物質世界』の他の事象に照らしてみても『宇宙は他にもある』と考えた方が納得がいきます。

私達が属する『宇宙』は、138億年前の『ビッグ・バン』で誕生したという科学的推測が、現在では『定説』になっています。

何故『ビッグ・バン』が生じたのかは、分かっていませんが、有力な『仮説』としては、日本の天体物理学者『加藤勝彦』氏の『インフレーション理論』があります。

この『インフレーション理論』から論理的に導かれる説として『マルチ・バース』が注目を浴びるようになりました。予測としては、『宇宙』はほぼ無数に近い数存在するということになるのだそうです。

梅爺は『一人』ですが、過去、現在、未来を俯瞰すれば『人間』は、ほぼ無数存在することが予想できますので、『無数の宇宙』が存在するといわれても、梅爺は驚きません。むしろそのほうが納得がいきます。

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2017年12月12日 (火)

『宇宙は本当にひとつなのか』(3)

人間は、『五感』で感受できる周囲からの情報で、事象の存在を『認識』します。換言すると、感受できないものは、本当は存在していてもそれを『認識』できません。

人類は太古から、空を眺めて、そこに『見える』ものは存在すると『認識』してきました。その後、望遠鏡や、その他な科学機材で、より遠くまで『見える』ようになりましたが、『見える』ものは存在するという『認識』は変わりませんでした。

一方『ビッグ・バン』で出現した『素粒子』を材料として、その後各種『元素』が出現したという『仮説』に矛盾が見つからないことから、『宇宙』に存在する全ての『物体』は、有限の種類の材料だけで構成されているという考え方が定着しました。『銀河』『星』それに『人間』にもこの考え方は適用されます。

ところが、『見えているものが宇宙の全て』という考え方に矛盾が見つかり、現在の科学者は、『見えていないものが宇宙には存在する』という『仮説』を支持するようになっています。この考え方が広く受け入れられるようになってから、まだ20年位しか経っていません。

『見えていないが存在するらしいもの』は、『ダーク・マター(暗黒物質)』と『ダーク・エネルギー(暗黒エネルギー)』です。

驚くべきことに、『宇宙』全体の23%は『ダーク・マター』であり、73%は『ダーク・エネルギー』であると考えないと、現在の『宇宙』は存在しえないという推測なのです。

私達が従来『宇宙』の全てと考えていた、『銀河』『星』『ガス』『塵』それに『ニュートリノ』などの素粒子を全て加算しても、『宇宙』全体の4%に過ぎないということですから、『何か小さなものを見落としていた』というレベルの話ではなくなります。

『ダーク・マター』と『ダーク・エネルギー』は、間接的にその存在を立証することはできていますが、本当の『正体』は分かっていません。

『ダーク・マター』は『重力』を有し『引き付ける力』として作用している一方、『ダーク・エネルギー』は『引き離す力』として作用しています。マクロに観れば、両者のバランスで『宇宙』は現在の状態(バランス)を保っていると考えられます。

従来の常識では、『他とほとんど反応しないのに重い質量をもつ(重力を持つ)もの:ダーク・マター』や、『空間が膨張しても密度が一定なエネルギー:ダーク・エネルギー』は全く説明できません。

全く新しい『摂理』が見出されない限り、『ダーク・マター』も『ダーク・エネルギー』も解明できないと考えられています。

『ニュートン物理学』『アインシュタインの一般相対性理論』では説明できませんから、そのうちに『○○のXX理論』という画期的な学説が登場するかもしれません。

『ビッグ・バンはどのように起きたのか』『ダーク・マター、ダーク・エネルギーをどのように説明するか』を解明しようとする過程で、『マルチ・バース』仮説が登場しました。『○○のXX理論』で『マルチ・バース』は定説に変わるのかどうか興味深いことです。

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2017年12月11日 (月)

『宇宙は本当にひとつなのか』(2)

『宇宙は本当に一つなのか(講談社ブルーバックス:村山斉著)』を読みました。

著者の『村山斉(むらやまひとし)』先生は、日本が世界に誇る若手『宇宙物理学者』で、東大、カリフォルニア州立大学バークレー校で、研究の傍ら教鞭をとっておられます。

村山先生は、最先端の難解な研究分野の内容を、凡人の梅爺でも理解できる易しい文章で表現してくださいます。優秀な研究者は、多くの場合優れた『文才』を必ずしも持ち合わせておられませんから、村山先生は大変貴重なお方です。

『分子生物学』の『福岡伸一』先生、『宇宙物理学』の『村山斉』は、梅爺にとっては『蒙昧』を拓いてくださる大先生です。分かり易くというばかりではなく、興味をそそるように面白く紹介して下さるからです。卓越した『文才』がなければ、このようなことはできません。

最先端の科学内容の詳細を理解することはできなくても、その『本質』を理解することは、私達にとって重要なことです。

特に、現代社会で『科学』が占める重要性の割合は、昔とは比べものになりませんから、『本質』の理解なしに、社会の舵取りはできなくなってきています。『科学』自体には責任がありませんが、技術による『応用』のしかたを誤ると、人類は『滅亡』の危機に瀕しかねません。勿論、その逆に困窮から『救済』される可能性もありますから、舵取りが重要な意味をもちます。

政治リーダーの責任は大変重いのですが、永田町の先生方の言動を拝見していると、科学の『本質』どころか、基本的な日本語の素養や、最低限の社会的教養、倫理感まで欠いておられるような方々が多く、心配になります。

国民から顰蹙を買うような人物が、国民の代表として選ばれる『しくみ』に大きな欠陥があるような気がします。『民主主義』は理想的な社会思想であるなどという話は、どうも疑わしいと感じています。

話が逸れてしまいましたが、『宇宙は本当に一つなのか』という本で、現代の科学が未だ解明できていないことを知ることができました。『解明できていること』と『解明できていないこと』を区別することは『本質』理解にとって、重要なことです。

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2017年12月10日 (日)

『宇宙は本当にひとつなのか』(1)

最新の宇宙科学のホットな議論の一つが、『宇宙は一つなのか』です。いわゆる『マルチ・バーズ(Multiverse)論争』です。

人類は『宇宙はひとつ』と永らく思い込み、それゆえに『宇宙』を『ユニバース(Universe)』と呼んできました。

人類は、天を仰ぎみて、『宇宙』は広大であることは太古より実感していたに違いありません。そして、中世までは、『地球』が『宇宙』の中心で、『太陽』など全ての天体が『地球』を中心に回っているという『天動説』を信じていました。

『ガリレオ』や『コペルニクス』が出現し、『地球』が『太陽』の周りを回っているという『地動説』を唱え、それが動かし難い『事実』であることが判明したのは17世紀のことです。日本の戦国時代のことですから、人類の長い歴史を考えるとそれほど昔の話ではありません。

『天動説』から『地動説』への認識の転換は、人類にとって『価値観』の転換ですから、容易なものではなく、『ガリレオ』が『異端審判』で宗教関係者から糾弾されたことは有名です。

私達の『精神世界』に根付いた『価値観』は強固なものであり、それを転換することは苦痛を伴います。心理学ではこれを『確証バイアス』と呼んでいます。『確証バイアス』が『信ずる』を『正しいと信ずる』に変え、やがて『絶対に正しい』とより深く思い込むようになります。これを自省で抑制できるのは『理性』だけです。

私達の周囲で『私は正しい』と主張している人の大半は、その人の『確証バイアス』によるものです。その結果、『正しい』と認めない人を、糾弾し、阻害し、最悪の場合抹殺したりすることになりますから、『確証バイアス』は実に厄介なものです。『諍(いさか)い』『戦争』がなくならないのは『確証バイアス』によるものともいえます。

人類の『宇宙』に関する理解は、ここ50年で、『地動説』どころではない、更に大きな転換をすることになりました。『ビッグ・バン』理論が定説となり、その後の『宇宙』の歴史が次々に判明し、『宇宙』の広大さは、想像以上のものであることが判明したからです。

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2017年12月 9日 (土)

魅力的な『原始仏教』(8)

『仏教』が布教の過程で、土着の宗教と結びついてその考え方や儀式をとりこみ、時に高僧が現れて新しい解釈を提示したりしたことで、『仏教』は反って分かりにくくなってしまったと感じます。

『変容』してしまった『仏教』と、『原始仏教』のどちらが優れているか、正しいかなどは議論しても始まりませんが、少なくとも梅爺には『原始仏教』の方が魅力的です。

『日本の仏教』の問題は、『サンスクリット語』『中国語』『日本語』が関与する壮大な『伝言ゲーム』を経て現在にいたっていることです。

経典は、4世紀頃西域の僧『鳩摩羅什(くまらじゅう)』などにより、『サンスクリット語』から『中国語』に翻訳されました。『中国語』の簡潔表現を利用した『色即是空、空即是色』などは見事な翻訳ですが、表音文字を持たず、一つの漢字の多様な使い分けを特徴とする『中国語』ゆえに、中国においても、特に日本においても、新しい『解釈』が出現することになりました。

日本では、『道元』『親鸞』『日蓮』などが、経典の『漢文』を、自分流に日本語への読み下しを行って、『こういう意味なのだ』と信者に説きました。『中国語』の文法では、そのような読み下しは無理といえるものもあれば、『漢字』の意味を自分流に解釈したものもあり、『サンスクリット語』の原典を参照すると、原文とは全く異なった『解釈』になってしまっているものが少なくありません。

『仏教、本当の教え』という本には、そのような例がいくつか紹介されています。

厄介なことに、『道元』『親鸞』『日蓮』の解釈は、『釈迦』の言葉からはずれているにしても、その『解釈』だけをとれば、興味深い主張になっています。

『道元』『親鸞』『日蓮』の『精神世界』が、『中国語の経典』に触発されて新しい概念、価値観を生みだしたということでしょう。多くの日本人は、『道元』『親鸞』『日蓮』の考え方と、『釈迦』の考え方の違いを理解していないのではないでしょうか。梅爺もこの本を読んで、初めて理解しました。

梅爺は、これらが『釈迦』の真意からずれているから間違っているというつもりはありません。ただ、『違っている』という事実は理解する必要があると思います。

『釈迦』を選ぶか、『道元』『親鸞』『日蓮』を選ぶかは、違いを理解したうえで個々人が対応すべきことと考えます。

『サンスクリット語』から直接『日本語』へ翻訳された内容を、もっと知りたいと思うようになりました。日本の坊さんが唱える『お経』とは、全く異なった世界が私達の前にひろがるのではないでしょうか。

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2017年12月 8日 (金)

魅力的な『原始仏教』(7)

『釈迦』は、凡人が及ばぬ『賢人』ですが、一方その行いや論理を駆使した思考姿勢に、極めて『人間臭さ』を感じます。『煩悩』を『解脱(げだつ)』して『如来』になったという話だけ聞くと、とても梅爺などが及ばぬ『人間離れ』した近づきがたい存在に思えますが、考えに考え抜いて、ついにこの世の基盤となる『法』を見出した哲学者とみると、親近感が湧いてきます。 

これは、『キリスト』や『聖母マリア』から受ける、『神聖化』された印象とはかなり異なります。『キリスト』は『愛(神への愛、人への愛)』の大切さを説いた思想家に見えますが、『何故愛が大切なのか』を『理』で説明したりはしません。 

しかし『釈迦』は、自分が説く『法』に、矛盾がないことを徹底して『理』で説明しようとします。下世話に言えば、極め付きの『理屈屋』です。梅爺は中途半端な『理屈屋』ですが、それでも『理屈屋』ですから、『釈迦』に共感するのでしょう。 

『釈迦』の『法』の基盤となっていることは、『生ずる性質のものは、滅する性質のものである』という『命題』です。この『命題』が普遍的に『真』であるかどうかは、議論があるところですが、梅爺は『物質世界』の事象のなかに、この『命題』に反する事象を思いつきませんから、『真』であるという前提で議論を進めることに異存はありません。 

平たく言えば、『宇宙』も『星』も『人間』も、『誕生』があれば『死』がある、『誕生』があるから『死』があるということです。 

『釈迦』が『理』による説得で用いる『論法』は、以下の4つの論理表現です。 

(1) これがあるときかれがある。
(2) これが生ずるからかれが生ずる。
(3) これがないときかれがない。
(4) これが滅するからかれが滅する。
 

難しいと思う必要はありません。『これ』『かれ』にある言葉を代入して考えればよいだけのことです。つまりこれらは『因果関係』の本質を示しているもので、『釈迦』が説く『縁起(この世のものは全てお互いに影響し合っている)』はこれに立脚していることになります。 

『煩悩(これ)』が生ずるから『苦(かれ)』が生ずる、『煩悩』が滅するから『苦』は滅する、ということになりますから『煩悩』を解脱すれば『仏心(苦のない心)』が得られるという論法になります。 

凡人は『釈迦』のように『煩悩を解脱する(悟る)』ことができませんが、『あなたの中にある邪心(煩悩)をできるだけ排して、あなたの中にある仏心に近づく努力をしなさい』と教えには、『わかりました』と答えたくなります。 

『釈迦』は、『極楽浄土』『輪廻転生』『曼荼羅の世界』などを説いてはいません。これらの概念は後の『仏教』の解釈から生まれたものです。 

ただ『哲学』的な『原始仏教』に、梅爺は魅力を感じます。そしてそれが2500年前のことであることに驚きます。

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2017年12月 7日 (木)

魅力的な『原始仏教』(6)

『釈迦』は徹底して、自分を含めた世の中の事象の根源に存在する『法』を理性で追い求めます。これは『科学者』が、『摂理』を追い求めるのと同じ姿勢です。

『神秘』『奇跡』の存在を認めて、そこで探求をやめてしまうというような他の『宗教』の手法とは異なっています。

後に『仏教』が宗派分かれし、『大乗仏教』で語られるようになった『他力本願』のような考え方は、『釈迦』の教えにはありません。『南無阿弥陀仏』『妙法蓮華経』などと唱えれば、誰でも極楽往生できるなどという安請け合いはしていません。

『生きることの苦しさを滅する』には、『自分』が『法』を理解して、『仏』の境地になるしかない、というのが『釈迦』の教えの本質です。

『釈迦』は自分が考え抜いて得た『法』の知識を、それを求める人に分かりやすく、論理的に説いています。つまり、誰でも『仏』になれるけれども、本当になれるかどうかはあなた次第という話です。『法』を理解しようとしない人は、相手にしなくてよいというようなことも『釈迦』は述べています。

『釈迦』の思想は、西欧のキリスト教的な理解とは、決定的に異なっています。西欧では、自分を善に導くのは『神』、自分を悪に染めようと誘うのは『悪魔(悪霊)』と、自分の外側に自分へ影響を与えるものの存在を想定しています。

この考え方では、『人間』は『聖母マリア』のように、『神』に近い存在にはなれたとしても『神』にはなれません。

ベートーベンの『第九交響曲』の5楽章は有名な『合唱』で、『人類は兄弟』と歌いあげますが、『創造主の存在を知る』ことが『平和』の根源という認識に立っています。

ゲーテの『ファウスト』も、この世で真の『自由』を見出せなかった『ファウスト』が、死後霊となって、この世を支配する女王『聖母マリア』に遭遇し、天使たちに祝福されて、全てが清らかになるというような結末になっています。

自分の外側にある、『神』『聖母マリア』『天使』によって、『贖罪』が得られるという西欧の考え方と、自分が『法』を理解することで自身が『仏』になるという『釈迦』の考え方の違いをご理解いただけたでしょうか。

『釈迦』は、人間は周囲から影響を受けることは確かであっても、自分を究極律することができるのは、『法を知る』という自分の『知恵』しかないと説いています。梅爺は『畏れいりました』という言葉しか思いつきません。

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2017年12月 6日 (水)

魅力的な『原始仏教』(5)

日本の仏教による葬式では、長々と『お経』が唱えられ、参列者はその内容は理解できませんが、それが死者の成仏に必要な儀式であると心得て、神妙に聞き及びます。

何のことか分からないからこそ、きっと『ありがたい』内容なのであろうと想像します。子供のころからそのような習慣に慣れ親しんでいますので、『お経の内容を、私に分かるように説明してください』などと僧侶に迫ったりはしません。

日本の僧侶で、『サンスクリット語』の経典(原典)を、読みこなすことができる方が何人おられるのか梅爺は知りませんが、そう多くはおられないのではないでしょうか。

中国語経典からの理解、高僧の説話からの理解などをもとに、『釈迦』の説いた『法(この世を支配するルール)』を会得しようとする禅宗の修行などは、敬いたくなる行為ですが、『釈迦』の思想の根本は、やはり『サンスクリット語』の原典に立ち戻って理解する必要があるのではないでしょうか。

『仏教』にほとんで造詣のない梅爺でも、『仏教、本当の教え』という本を読むと、むしろ、今まで聞き及んできた『仏教』に関する雑知識を一度全て捨てて、『釈迦』の思想に対応してみることが大切なのではないかと思いました。

『釈迦』の思想は、驚くほど『宗教的』ではなく、むしろ『哲学的』です。

『何故、生きることは苦しいことなのか』という『問い』のために、『釈迦』は29歳で、地位、財産、家族を捨てて出家しました。

凡人は、そのような『問い』のために、全てを捨てるなどという行為が理解できませんが、『釈迦』は、その『問い』に対する『答』の中に、この世の『法』が潜んでいると感じ取ったのでしょう。これは『哲学者』に通ずる姿勢です。

ついに、『生きることから苦を滅する』ための『涅槃の境地』へたどりつきました。その過程は、肉体的な修行というより、過酷な『知的思考』の連続体験のように見えます。

『知的思考』を積み重ねていくことで、この世の『法』の全体像が浮かび上がってきたということなのでしょう。

梅爺も、ブログを10年書き続けることで、『物質世界』『精神世界』に区分けして周囲の事象を観るという『ルール』を思いつきました。

『釈迦』の『法』は、梅爺の『ルール』など及びもつかない『壮大な思想』ですが、ささやかな梅爺の体験が、『釈迦』に共感を覚える要因になっています。

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2017年12月 5日 (火)

魅力的な『原始仏教』(4)

『宗教』の『教え』は『聖典』に書かれています。

『ユダヤ教』の『タルムード』、『キリスト教』の『旧約聖書』『新約聖書』、『イスラム教』の『クアーラン(コーラン)』などが主たる『聖典』です。

『仏教』は、3000種ほどの『経典』がありますが、『釈迦』の教えを弟子たちがまとめた『阿含経』が最初の『聖典』といえそうです。

日本の『神道』は珍しい『宗教』で、『聖典』らしいものがありません。『神典』とよばれる関連書籍目録のようなものがあるようですが、他の『宗教』が布教に用いるような『聖典』ではありません。

『聖典』の原典が、どの言語で記述されたのかは、その後の布教のための翻訳を考えると重要な意味をもちます。

『ユダヤ教』は『ヘブライ語』、『キリスト教』は『ヘブライ語』『ギリシャ語』、『イスラム教』は『アラビア語』でそれぞれの原点が記述されたものと思います。

『キリスト教』では、『ギリシャ語』から『ラテン語』に翻訳され、長らく『ラテン語』が正規の言語でした。『ラテン語』の教育を受けていない庶民は、『聖書』を読めませんでした。聖職者を権威づけるものとして『ラテン語』だけが使われていたと観ることもできます。英国では中世から『英語』への翻訳が始まりましたが、多くの国では『宗教改革』後の近世になって、『母国語』への翻訳が開始されました。

日本では、『文語訳聖書』が先ず登場し、その後『口語訳聖書』が主流になっています。翻訳時に、翻訳ミス、誤解を与える表現が混入しないように、神学者たちが厳重なチェックをしたことと思いますが、それでも完璧な原典の再現は難しいと想像します。

『宗教』にとって『翻訳』は、布教の決め手であると同時に、教義の厳密な再現という意味では泣き所でもあります。異なった解釈が、新しい宗派(分派)を生む要因にもなります。

『仏教』の経典は、『サンスクリット語』『パーリ語』などが原典で使われた言語ですが、日本へは『中国語』への翻訳版が主として伝わってきました。

『サンスクリット語』『中国語』『日本語』といった異なった言語環境で『伝言ゲーム』が行われたことの『ツケ』を日本の『仏教』は今でも抱え込んでいるといえそうです。

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2017年12月 4日 (月)

魅力的な『原始仏教』(3)

中国語は、外国語を翻訳する時に、制約が生じやすい言語です。

日本語の『カタカナ』『ひらがな』といった『表音文字』がありませんから、外来語の『発音』をそれに近い発音の漢字の当て字で表現するか、または『意味』を重視して新しい漢字の造語を採用し、『発音』の継承を断念するかどちらかになります。

サンスクリット語の『パンニャー・パーラミター』は単に『知恵の完成』を意味する言葉ですが、これが中国語へ翻訳されるときに『般若波羅蜜多』と音写されたことが、この本では紹介されています。

これが日本へ伝わると、なにやらありがたい『お経』の言葉になり、ただただわけもなく唱える対象になったり、時には『漢字』に『特別な意味』があると推測して勝手な解釈をしたりするようになりました。

梅爺も生半可に『漢字』の意味を知っているために『般若波羅蜜多』という『文字列』を観れば、漢字から意味を読み解こうとしたりすることになります。

オリジナルな意味は『知恵の完成』ですと、最初に教えていただければ、このような勝手な対応や解釈は生じなかっただろうにと恨めしくなります。

『釈迦』の男の弟子は『中国語』で『比丘』と翻訳されました。これはサンスクリット語の『ピクシュ』を音写したものです。この中国語が英語に翻訳されるときに漢字の意味をとらえて『Comparative Hill(比較の丘)』となったと、この本では笑い話として紹介しています。英語圏の人は『Comparative Hill』から『男の弟子』などという意味を想像するのは無理な話です。『翻訳』による『伝言ゲーム』に起こりがちな『不適切な変化』の例です。

サンスクリット語で『白蓮華のように最も優れた正しい教え』というタイトルの付いた経典は、中国語では『妙法蓮華経』と翻訳され、更に『法華経』と短縮されて日本へ伝わりました。

インドでは『白蓮華』は、最も優れた花として珍重され、『最も優れたもの』を形容する時に使われる言葉です。『釈迦』が会得した『この世を支配するルール(法)』は、最も優れた正しい教え(経)であるという意味が原経典のタイトルですが、『妙法蓮華経』は、ありがたい『オマジナイ』として日本へ定着しました。

これも、『白蓮華のように最も優れた正しい教え』と教えてもらえば、それをただ唱えることより、その『教え』の内容を理解することに興味が移るはずです。

日本の仏教が、伝承以来どのような経緯で現状に至っているのかについては。それなりの事情があることは理解できますが、『分かりやすい話』を、わざわざ難解にして、庶民には、形式的な対応や、『分からないからありがたい』という思い込みを強いたりしてきたことは、反省すべきことではないでしょうか。

今こそ、日本人は自分たちが理解できる言葉で、『釈迦』の説く『法』の内容を考え直してみるべきではないかと思います。

そうすれば『釈迦』の『思想』が、今までの印象と全く異なったものとして迫ってきます。この本はそのことを梅爺に体験させてくれました。

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2017年12月 3日 (日)

魅力的な『原始仏教』(2)

『仏教、本当の教え』という本の表紙カバーに『壮大な伝言ゲームの果てに』という広告文言が書かれています。

『釈迦』の言葉が、中国を経て日本へ到来した経緯を、分かりやすく端的に表現した秀逸な表現です。

『伝言ゲーム』はパーティーの余興などで行われる遊びで、複数の参加者が並び、先頭の人に『ある文章』が耳打ちされます。参加者は次の人に、『ある文章』の内容を耳打ちして伝言していきます。

最後の人が、自分が聴いた『ある文章』の内容を披露し、その後先頭の人に耳打ちされたオリジナルな『ある文章』の内容が全員に披露されます。

多くの場合、『ある文章』の内容は、思いもよらない内容に最終的に『変化』していることが分かり、皆で大笑いするといった趣向です。

『伝言ゲーム』で、伝言の過程で『文章』の内容に変化が生ずる現象は、人間の『精神世界』の特徴が深く関与しています。

先ず、『精神世界』は『個性的』で、同じ情報に接しても全員が同じように『考えたり(理解したり)』『感じたり』はしていないということが挙げられます。

もうひとつは伝言の対象が『文章』であることで、『文章』を理解するには内包される『論理構造』を把握する必要がありますが、この時に無意識に『自分に都合のよい解釈』をしがちであるということです。

もし伝言対象が『単語(名前など)』であれば『文章』ほど大きな『変化』は起きにくいのではないでしょうか。『単語』は『勝手に解釈』できる要素が少ないからです。

『釈迦』の言葉を弟子たちが『経典』にまとめた時に、最初の『伝言ゲーム』が行われたことになりますが、その時よりも『経典』がサンスクリット語から中国語へ翻訳されるときに一番大きな『変化』が混入しました。

この中国語の『経典』が日本へもたらされ、日本的な『解釈』が更に加わりました。オリジナルな『釈迦』の言葉が、日本に届くまでに、どのように『変化』したのか、日本の仏教関係者があまり問題視していないのはどうしてなのでしょう。

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2017年12月 2日 (土)

魅力的な『原始仏教』(1)

哲学者『釈迦』への興味がつのり、『釈迦』の『思想内容』を知るために、『仏教、本当の教え(植木雅俊著:中公新書)』を読みました。

副題に『インド、中国、日本の理解と誤解』とあり、『仏教』が各地へ伝わるプロセスで、『変容』していった事情が詳細に書かれています。

著者の『植木雅俊』氏は、『法華経』『維摩経』などの主要経典を、サンスクリット語、パーリ語の原典から、現代日本語へ翻訳された方で、当然その時に、中国で『中国語』にどのように翻訳されたのかも参照しておられます。

人類が、民族や地域で、『異なった言語』を保有、継承してきたことは、人類の文化を多様化させた要因ですが、一方で『異文化理解』の足かせにもなってきました。

『翻訳』が『異文化理解』の手段として大きな役割を果たしてきたことは事実ですが、『翻訳』にもある種の『限界』があることを理解しなければなりません。不適切な『翻訳』が混入し、正しく伝わらないという問題もその一つです。

梅爺は『男声合唱』の趣味を続けていますが、原曲の歌詞が、外国語であるときに、『そのまま歌う』のか『翻訳して日本語で歌う』のか常に議論になります。多くの場合、『原曲のまま歌う』を採用することになります。

そのため、『ラテン語』『イタリア語』『ドイツ語』『フランス語』『英語』『クロアチア語』そして『サンスクリット語』『エスペラント語』の歌にまで挑戦してきました。

翻訳では『耳で聴いた時の言葉(発音、抑揚など)の美しさ』が損なわれて、作曲家の意図を反映できないという考え方を重視してのことです。

しかし、このことで日本人の聴衆の大半は、『歌詞の意味が理解できない』という短所も背負い込むことになります。

『オペラ』も同様の問題を抱えていますが、原曲の『言語』で演奏することが通例になっています。『イタリア語』『ドイツ語』『フランス語』『ロシア語』『英語』などが主流です。オペラ歌手が、数時間に及ぶ演奏を、自分の母国語ではない言語で歌いきることに、梅爺はいつも感嘆してしまいます。

『仏教』も、『中国語』に翻訳された経典が日本にもたらされ、そのまま『ありがたい経典』になってしまったために、日本の『仏教』として多くの問題を抱えていることを、この本を読んで再確認できました。

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2017年12月 1日 (金)

琵琶湖周辺への旅(10)・・比叡山延暦寺

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『横川(よかわ)中堂』(なんとコンクリート造り)

高野山』『比叡山』は、前から一度は訪れてみたいと思っていた場所ですが、今回『比叡山』の望みがかないました。『高野山』は未だ訪れたたことがありません。

『最澄』は、奈良の『南都仏教』から独立して、『延暦寺』だけで独立して僧を育成する『大乗戒壇』を設立することを目的としましたが、生前には果たせませんでした。

『天台宗』の基本的な考え方は『一向大乗』で、全ての者が菩薩であり、成仏(悟りを拓く)ことができるというものです。これは奈良の旧仏教とは相いれないものでした。『神は人間とは別もの』という『一神教』の考え方とは、『人間は仏になれる』という『仏教』の考え方は根本的に異なっています。

後に日本仏教の新宗派を開く『源信』『法然』(浄土宗)、『栄西』(臨済宗)、『道元』(曹洞宗)、『親鸞』(浄土真宗)、『日蓮』(日蓮宗)などは、皆比叡山で修業を積んだ人達です。まさに『日本仏教』の養成基盤といえますが、新宗派に枝分かれしていくところが、興味深いところです。観方に依っては『反逆児』養成所にも観えるからです。

『比叡山』の『延暦寺』という呼び名は、それに相当する寺があるわけではなく、『東塔』『西塔』『横川(よかわ)』という広い領域に分散する関連伽藍の総称です。

これらを丁寧に観て回るには、1週間も10日もかかると言われていますので、短時間の急ぎ足で回った今回の訪問は、『延暦寺を訪れた』と胸を張って言えるものではありませんが、『大雑把な雰囲気』は感じ取ることができました。

『東塔』の『根本中堂』は、比叡山の中心的な総本堂です。8世紀に『最澄』が草庵を創ったことが最初とされていますが、その後何度も火事や焼き討ちで焼失し、現在の建物(国宝)は、徳川三代将軍家光の命によって8年がかりで再建されたものです。

堂内を支える何本もの太い木材の柱は、『家光』が各大名に『寄進』を命じたもので、現在の日本ではこのような太い原木は到底手に入りません。

戦国の乱世に終止符を打った『徳川幕府』の、『仏教』への対応方針や、権力基盤に対する自信、威光が垣間見えます。各大名は、競って大木を献上したのでしょう。

『サイコパス』と言われる『織田信長』が、日本統一の権力者になっていたら、日本の歴史は大きく変わっていたに違いないと思いを馳せました。

人間社会は、偶然が複雑に絡み合って変容していきます。現在私たちが『当り前』として受け容れている『日本』も、そのようにしてできががってきたものです。

老人の梅爺は、現在の状態が継続していくことを願いますが、日本の将来も、思わぬ偶然に翻弄されながら、変容していくに違いありません。

旅をすると、色々なことを考えることになり、それが旅の醍醐味の一つと言えます。老人でさえも時に『非日常』の中に身を置いて、『精神世界』をリフレッシュすることが大切なのでしょう。

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