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2017年6月30日 (金)

梅爺創作落語『夢現(ゆめうつつ)』(6)

(八五郎) 『自然を含めた世の中の大きな仕組みの大元は、「縁起」と「諸行無常」と考え、生かされている命に感謝し、自分ばかりか他の命も大切にしなさいということですな』 

(お釈迦様) 『八五郎さん、呑みこみが速いですな。そのとおりです。しかし、人間の心が抱え込む苦しみは、「縁起」や「諸行無常」だけでは説明できません。私は色々考えた末に、人間の心には大元に「善良柔和」を大切にする「仏心」があり、一方厄介なことにその「仏心」をかき乱そうとする、我欲や快楽を求める「煩悩」というものもあると気づいたんですな』 

(八五郎) 『あっしなんぞは、うまいものを食いたい、うまい酒が呑みたい、ちょいといい女と懇(ねんご)ろになりたいなどと、始終考えていますから、「煩悩」が着物をきて歩いているようなもんですな。こいつは参りましたな』 

(お釈迦様) 『人間は、だれもが「仏心」と、「煩悩」が創りだす「邪心」の両方を持ち合わせるようにできていますから、「煩悩」を持っていることを恥ずかしいと思う必要などなりません。でも、自分の中の「煩悩」が一方において、心の憂いや悲しみ、満たされない気持ちを作り出していると考えれば、「煩悩」を野放しにすることは賢くないということになります。もしも、「煩悩」を完全に取り除くことができれば、人は生きていながら「仏心」だけの存在、すなわち「仏」になれるということにもなります。「煩悩」を完全に取り除くことを「解脱(げだつ)」と呼びます。私が弟子たちに説いたのは、「煩悩」を持つのは仕方が無いとしても、それを野放しにせず、できる限り「仏心」に近づきなさいということでした』 

(八五郎) 『てーことは、人は死んで「仏」になるんじゃなく、生きている時にできるだけ「仏」に近い存在になるように努力することが大切ということになりますな。死んだら極楽へ行きたいなどという願いも「煩悩」ってことでございますか』 

(お釈迦様) 『あの世、死後の魂、極楽、地獄などという話は、私の後の仏教が考え出したことで、私自身が一番深く考えたのは、「人はどのように生きるべきか」であって、死んだ後のことではありません。死んだ後も、生きていた時と同じような苦しみに苛(さいな)まれることがあるのかどうかは、私も知りませんし、あまり興味がそそられることでもありません。大切なことは、「縁起」と「諸行無常」で、つかの間この世で与えられた命と、どのように向き合うかではありませんかな』

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2017年6月29日 (木)

梅爺創作落語『夢現(ゆめうつつ)』(5)

(八五郎) 『そう言われてみると、自分が正しいと信じたことが、本当に正しいと勘違いして、おっかぁはあっしを、「お前さん間違っているよ」となじり、あっしはおっかぁを、「てやんでぃ、お前こそ間違っている」と云い返して、喧嘩になることがしばしばですから、お釈迦さまからご覧になれば滑稽なんでございましょうな』 

(お釈迦様) 『自分にとっては正しいと信ずることが、他人にとっては必ずしもそうではないと判断できる人は賢い人で、そう云う人はむしろ少ないために、世の中には諍い、殺し合いが絶えないんでしょうな。神仏を信ずるという宗教は、心の安らぎを得るためには有効ですが、自分が信ずることだけが正しいと主張して、信じない人を排斥する弊害もないとはいえません』 

(八五郎) 『折角の機会でございますので、お釈迦様が伝えたかった教えとは何であったのか、あっしにも分かるように教えていただけないでしょうか』 

(お釈迦様) 『世の中は「縁起」で相互につながっていて「諸行無常」であるということと、自分の中にある「煩悩」を排除して「仏心」に到達する努力をしなさいという、二つのことに行き着きますな』 

(八五郎) 『たったそれだけですか。たしかに、それだと曼陀羅も極楽も登場しませんな。恐れ入りますがもうちょっとわかり易くご説明いただけませんか』

(お釈迦様) 『人はどんなに栄耀栄華(えいようえいが)を極めても、病(やまい)や死に苛(さいな)まれ、苦しむのはどうしてなのだろうと、私は不思議に思い、その理由(わけ)を考え続けました。身体の苦しみだけではなく、心が憂いや悲しみや満たされない気持ちにとらわれ、こちらも苦しむのは何故だろうと、これについても考え続けました。平たく云ってしまえば、生きることがすなわち苦しむことなのは何故かということです』

(八五郎) 『あっしなんぞは、楽しいこと嬉しいことだけに目を向けて、嫌なことは見ないようにしちまいますが、さすがお釈迦様はなさることが反対なんでございますね。それで答は見つかったんでございますか』

(お釈迦様) 『世の中の全てのことは、どこかで必ずつながっていて、自分だけで存在しているものなどはないと気づいたんですな。これを私は「縁起」と呼ぶことにしました。自分が自分だけで生きているなどと思うのは思い上がりで、周りとのつながりの中で生かされていると考える方が自然だということです。周りの人達は勿論のこと、石ころのように一見関係が無いように見えるもの、お天道様の光や雨や風などまで全てがどこかで自分が生きることに関わっていると考えると、自分本位に苦しいなどと言っているのは罰当たりで、どんなことにも感謝の念が湧いてきます。もう一つ大切なことは、世の中のことは縁起でつながっていると同時に、絶え間なく変わり続けているとみると合点がいくことに気づききました。このことを「諸行無常」と呼ぶことにしました。人間が生まれてきて、生き、死んで行くのも諸行無常に従っていることと考えれば、自分だけは特別でありたいなど願うのは筋違いということになります』

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2017年6月28日 (水)

梅爺創作落語『夢現(ゆめうつつ)』(4)

(八五郎) 『お釈迦様にそのように云われてしまうと、戸惑いますなぁ。お釈迦様の教えは仏教として広まっていて、仏教では、沢山の仏たちの役割を示した曼陀羅を信ずることや、あの世で極楽へ行けるかどうかを願うことが大切だと、教わってきましたからなぁ。お釈迦様の今しがたのお話と、あっしの教わった仏教とが違がっちまっているのは、どうしてなんでございましょう』 

(お釈迦様) 『私の死後、私の教えは天竺(てんじく)を始め、色々な土地へ広まっていったのですが、その土地土地で、既に存在していた、他の神々を信ずる宗教と混じり合って、仏たちの曼陀羅やら、あの世の地獄、極楽などという話が出来上がり、色々な儀式も追加されるようになったんでしょうな。八五郎さんがお住まいの日本でも、元はと言えば百済(くだら)や唐からもたらされた仏教が、日本の神々の信仰と混じり合って、いまでは日本独特の仏教に姿が変わっていると言えますな』 

(八五郎) 『するってぃと、元々のお釈迦様の教えは、なんとなく影が薄くなってしまって、お釈迦さまとしてはご不満なんじゃありませんか』 

(お釈迦様) 『仏教ということでは、私の教えが全くないがしろにされることはありませんが、教えより、儀式などの形式が重視されるのは、確かに私の本意とは異なりますな。しかし、私の死後の出来事ですから、今更どうこう云ってもはじまりません。最初の教えが後の世の人達の色々な解釈で、幅が広がったり、奥が深くなったりするのは、人間の考え方、感じ方が一人一人違っていることに依ることですから、そうなるのがむしろ自然の成り行きでしょうな』 

(八五郎) 『たしかに、日本には色々な仏教の宗派があって、どれが正しいのやらあっしらには見当がつきません・・』

(お釈迦様) 『八五郎さん、世の中には、何が正しいかがはっきりしていることより、はっきりしないことの方が多いということをわきまえることが大切です。お天道様が東から昇って西に沈むというのは誰にとっても合点がいくことですが、人が心で考え出すことは、一人一人考え方、感じ方が違うんですから、誰もが合点できる答は見つけることは難しいことになります。日本の仏教のどの宗派が正しいかどうかなどは誰にもわかりません』

(八五郎) 『しかし、そのような優柔不断なことを云っていたら、ことは何も前へ進まなくなりはしませんか。生きていくためには、とにかくどれかを選ばなければならないですからな』

(お釈迦様) 『そのために、人には信ずるという能力が備わっているんですな。自分にとってはこれが正しいと信じて前へ進むことになります。勿論それを選んだ責任はその人にあるわけですから、うまくいかない時に他人のせいにはできません。くどいようですが、自分が正しいと信じたことは、誰にとっても正しいことかどうかは分からないというもわきまえておく必要があるということです』

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2017年6月27日 (火)

梅爺創作落語『夢現(ゆめうつつ)』(3)

(八五郎) 『ちょいと藪から棒で失礼ではございますが、そこにおられるのはお姿からお釈迦様とお見受けいたしましたが・・』

(お釈迦様) 『はいはい、私は釈迦でございますが・・、そういうあなたは江戸は神田明神下のどぶ板長屋にお住まいの八五郎さんですな』

(八五郎) 『こ、こいつは驚きました。お釈迦様はあっしのことまでご存知なんでございますね。いやはや光栄なことでございます』

(お釈迦様) 『何もそんなに驚かれることはありませんよ。ここはあなたの夢の中なんですから、夢をみておられるご本人が八五郎さんであることは、私でなくても言い当てることはできますよ』

(八五郎) 『するっていと、ここは極楽ではないんでございますか』

(お釈迦様) 『最前にも申した通り、ここはあなたの夢の中の世界で、極楽ではございませんな。してまた、どうしてここが極楽だと思われたんですかな』

(八五郎) 『お釈迦様は涅槃(ねはん)で入滅(にゅうめつ)され、釈迦如来という仏様になられて、今は極楽であっしたちを見守ってくださっておられると、寿福寺のご住職が教えてくれたんでございますよ。それに極楽には、お釈迦様のほかに、沢山の如来、菩薩、明王、天と呼ばれる仏様もおられ、その仏様たちと一緒にあっしらのご先祖の霊魂たちも、何も憂いなく、ただただ平穏に過ごしていると聞いておりやした』

(お釈迦様) 『その寿福寺のご住職とやらは、極楽に大変詳しいところをみると、極楽へ行ったことがおありなんでしょうかな』

(八五郎) 『極楽てぃのは、あの世にあり、あの世は亡くなった人の霊魂が行くところでございますから、未だご存命のご住職は、極楽へ行かれたことは無かろうと思います・・・』

(お釈迦様) 『ということは、生きておられる方はどなたもあの世へいったことがなく、あの世へ一度行くともうこの世には戻れないとすると、一体どうして極楽があると言えるんでしょうかな』

(八五郎) 『ちょ、ちょっとお待ちください。お釈迦さまからそのようなお尋ねがあろうとは考えてもみませんでした。てーことは、お釈迦さまも、あの世や極楽のことはご存知ないということでござんしょうか』

(お釈迦様) 『私は生前、煩悩の解脱(げだつ)、つまり悟りで得た知恵を、弟子たちに語りました。つまり、この世の成り立ちやしくみ、この世でどのように生きていくべきかという話が主で、あの世や極楽の話を本筋とした覚えがありません。大体、如来、菩薩、明王、天などと色々なに違った姿や目的の仏たちがいるなどと言う話もした覚えがありません。ですから、あの世や極楽のことについては私も疎いんですよ』

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2017年6月26日 (月)

梅爺創作落語『夢現(ゆめうつつ)』(2)

(八五郎) 『閻魔様にしても、考えてみるとよく分らないことだらけでござんしょ』 

(ご隠居) 『ほぉ、閻魔さまにも何か不審な点があるのかい』 

(八五郎) 『だってそうじゃありませんか、夜昼かまわずにやってくる死んだ人の霊を、極楽行き、地獄行きと裁こうってわけですから、飯を食う暇も、ちょいとひと眠りする暇も、憚(はばか)りへ行く暇だってないってことになりはしませんか。働きづめで、身体を壊すなんてことはないんでしょうかね。それに、死んだ人の生前の善い行い、悪い行いが書かれている閻魔帳なんてやつは、誰がいつ準備するんでしょうな』 

(ご隠居) 『そう言われれば、閻魔さまの普段の暮らしぶりや、閻魔帳が書かれる経緯(いきさつ)なんてことは、聞いたことがありませんな』 

(八五郎) 『そうでござんしょう。どうもあの世のことに関する話は、昔ちょいと頭の賢い人が考え出した創り話なんじゃないかと、あっしは薄々疑っているでございますよ』 

(ご隠居) 『そいつは、どーも大胆なご意見ですな。もしお前さんが間違っていたら、罰が当って、地獄へ行くことになりはしませんか』 

(八五郎) 『へぇ、あっしもそいつは気がかりでございましたが、夢でお釈迦さまに出会えたってぃことは、罰が当らない証拠のように思えてひと安堵いたしやした』 

(ご隠居) 『三途の川や閻魔さまで、話が逸れてしまいしましたが、お前さんの夢のどこが妙なのか、まだうかがっておりませんな』 

(八五郎) 『ご隠居さんも先ほどおっしゃったように、あっしもてっきりお釈迦様のおられるところは極楽にちがいないと思ったんでございますがね・・』 

(ご隠居) 『ほぉー、そこは極楽ではなかったというのかい』 

(八五郎) 『極楽なら、お釈迦様のほかにも、阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王、帝釈天などという有難い仏様たちが沢山集っておられ、周りは明るい光が満ちていて、妙(たえ)なる楽の音が響き、得も言われぬかぐわしい香りに包まれ、亡くなった人達が、白くきれいな衣を身にまとって、皆(みんな)楽しそうに微笑んでいるはずじゃございませんか』 

(ご隠居) 『たしかに、寿福寺のご住職は、極楽てぃところはそう云うものだといつも話しておられますな』 

(八五郎) 『そうでござんしょう。ところが夢の中のお釈迦様の周りだけがほんのり明るいだけで、周りの暗闇を覗いてみても、お釈迦様以外には誰もいないんでございますよ』

(ご隠居) 『するっていと、そこは極楽ではないというのかい』

(八五郎) 『少なくとも、寿福寺のご住職の話が正しければ、極楽とは言えないてぃことになりますな』

(ご隠居) 『そうとなりゃー、そこんところがどうなっているのか、お釈迦様にお尋ねするしかありませんな』

(八五郎) 『へぃ、あっしも思い切ってお釈迦さまにお尋ねしたんででございますよ』

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2017年6月25日 (日)

梅爺創作落語『夢現(ゆめうつつ)』(1)

(ご隠居) 『八っつぁん、朝っぱらから浮かぬ顔のご様子だが、どうかされたのかい』

(八五郎) 『へぃ、昨晩ちょいと妙な夢をみちまったもんで・・・』

(ご隠居) 『そりゃー夢なんてものは、たいてい妙なもの、怖いもの、嫌なものと相場がきまっていますからな、一々気にしていたら身がもちませんよ。あたしなんぞも、年をとってからは、嫌な夢が多くなりましたな。夢の中で、迷子になったり、大事なものを無くしたり大慌てして、目が覚めて「夢で良かった」と一安堵することが度々ですよ。ところで、お前さんの妙な夢というのはどんなものか、差し支えなければ教えていただけますかな』

(八五郎) 『へぃ、実は夢の中でお釈迦様にお会いしたんでございますよ』

(ご隠居) 『お釈迦様てぃと、あのお釈迦様のことかい』

(八五郎) 『お釈迦様に、あのもこのもはありゃしませんよ。蓮座に座って、何やら瞑想しておられましたから、間違いなくお釈迦様でしたな』

(ご隠居) 『お釈迦様がおられる所と言えば、そこは極楽じゃありませんか。夢の中とは言え、極楽へ行くことができたとなれば、妙な話どころか、そいつは縁起の良いめでたい話じゃないのかい。ところで、極楽へ行くには、手順があるはずですから、お前さんも、先ず三途(さんず)の川を渡り、次に閻魔(えんま)様のお裁きを受けたんだろうね』

(八五郎) 『そこんところがどうも妙でして、夢では三途の川も閻魔様も無しに、すとんとお釈迦様のなところへ行っちまったでございますよ』

(ご隠居) 『ほぉ、それではお釈迦様が、お前さんのために手間を省くよう便宜を計ってくださったっていことなんですかな』

(八五郎) 『そうでありゃー、有難いお話ですな。ところでご隠居さんは、見てきたように三途の川や閻魔様の話をなさいますが、それについて、ちょいと腑に落ちないことがありますので、教えていただけませんかね』

(ご隠居) 『どんなことですかな』

(八五郎) 『先ず三途の川ですが、川幅がどのくらいで、水の深さはどのくらいなんでございましょう。それに、源がどこで、最後にたどりつく海はどこなんでございましょう』

(ご隠居) 『お前さんも妙な所で理屈っぽいね。そう言われてみると、三途の川について、そのような詳しいことは一度も聞いたことがありませんな。ただ、先に川を渡ったご先祖様の霊が、「おいで、おいで」とこちらへ向かって手を振るという話は聞いたことがありますから、川幅は向こう岸が見えるくらいのものなんでしょうな。水の深さが分からないと何か困ることでもあるのかい』

(八五郎) 『深さによっては、歩いて渡れるのか、渡し船を頼まなければならないのか思案が要りますからな』

(ご隠居) 『なるほど、そういわれると、三途の川をどうやって渡るのかも、聞いたことがありませんし、源や河口などという話も皆目聞いたことがありませんな。どうも、あの世の話は、だれが云いだしたのかは知りませんが、あいまいといえばあいまいなことばかりですな』

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2017年6月24日 (土)

空海の『大我』(4)

自分を『大我』として『認識』することは、自分を『無限に大きな存在』として『認識』することと同義です。

『物質世界(自然:じねん)』の一部として、実態として存在する自分は、極めてチッポケなものである一方、『精神世界(大我)』は、無限の広がりが可能な異次元な世界であるという話になります。

『小さな存在の中に、大きな存在が潜んでいる』という『矛盾』に、人類は昔から気付き、それを何とか『説明』しようと試みてきました。

『グノーシス派』として『カトリック』からは異端視されたキリスト教の教派が残した『トマスによる福音書』の中で、『キリスト』は『何故卑しい肉体の中に、高貴な精神が存在するのか不思議だ』と率直に述べています。

このような『疑問』を発する『キリスト』は、『全知全能の神の子』とは言えませんので、『カトリック』が排除するのは分かりますが、『キリスト』が人間であるなら梅爺は大いに共感します。

『宗教』『哲学』がこの『矛盾』を論じてきましたが、いずれも『物質世界』と『精神世界』は異次元で、異質なものであると明確に区分しないために、非常に分かりにくい『説明』を繰り返してきたように梅爺は感じます。

梅爺は、『物質世界』と『精神世界』は異質なものであると割り切って考えるようになって、多くの『矛盾』はなくなりました。

『広大である』という概念は、『物質世界』と『精神世界』では尺度が異なるというだけの話です。

『人の命の重みは、地球より重い』などという話も、『重さ』を混同しているために『矛盾』に見えますが、区分して考えれば良いだけの話で論理として『真偽』を論ずる必要などありません。

空海は、自らを『大我』と認識すれば、人の生き方が変わるということを言いたかったのではないでしょうか。『大我』なるがゆえに、壮大に『考え』『感じ』『表現する』ことができるからです。

『釈迦』が説いた『煩悩を解脱して仏になる』ということも、『大我』に通ずることになるのでしょう。

しかし、人間は『生きている』ことが、『大我』を有効に使う条件になります。『大我』を使う特権は『生きている』人間にだけ与えられています。

つまり、『生きる』ことを大切にしなさいということに行き着きます。

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2017年6月23日 (金)

空海の『大我』(3)

空海は、周囲の『自然界』を『自然(じねん)』、その中に身を置く自分を『我(が)』と定義しました。

この関係は、最先端の科学知識を保有していなくとも、誰もが自らの感覚器官を働かせて『認識』できる話です。

梅爺流にいえば、『我(が)』を『肉体』と考えれば、客観的には『肉体』は『自然界(物質世界)』の一部であり、『自然界』の『摂理』に則って『生きている(生かされている)』ということになります。

ただし、人間が『肉体的には自然界の一部として存在している』と『認識』できるのは、『精神世界』を保有しているからです。

路傍の石ころには『精神世界』がないとすれば、石ころは『自分が自然界の一部として存在している』ということさえ、『認識』してはいないはずです。

『デカルト』の『我思う、ゆえに我あり』という表現は、人間には『思う』という『精神世界』の能力があるからこそ、自分が『存在』していることを『認識』できるということを言っているのであれば、梅爺は納得できます。

空海は、『自然(じねん)』と『我(が)』の垣根を取り去り、『我(が)』を『自然(じねん)』と渾然一体に融合させることが重要と説いています。

多分『密教』の『奥義』を極めることで、そのような境地に達するということなのでしょうが、梅爺は詳細を理解していません。

『自然(じねん)』と渾然一体に融合した『我(が)』を、空海は『大我(たいが)』と定義し、『大我』を『じねん(じねん)』同様に、無限ともいえる広大なものに拡大させることが重要と説いています。

空海は、梅爺のように『肉体(物質世界に所属)』と『精神世界(物質世界とは異次元な仮想世界:心)』とを区分けして論じていませんので、分かりにくい話ですが、仮に『精神世界』のこととして『大我』を想定しているとすれば、納得がいく話になります。

『精神世界』は、『物質世界』のように『摂理』に制約されることはありませんから、人間は自由奔放に『虚構』を想定することが可能です。

『自然(じねん)と我(が)を融合させる』『融合した大我(たいが)を無限に拡大させる』という想定は、『精神世界』が創り出す『虚構』と考えればよいという話です。

問題は、何故空海は『大我』の必要性を説いているのかということになります。

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2017年6月22日 (木)

空海の『大我』(2)

梅爺の『空海』観は、間違っているかもしれませんが、梅爺の眼には『空海』は『仏教(密教)』の教えを受け入れたというより、『仏教(密教)』を介して(利用して)、『宇宙(自然界)』や『人間』の本質や真理を探ろうとした『思想家(哲学者)』のように映ります。

『空海』は8~9世紀の人物であることをまず考えなければなりません。

現代に生きる私たちは、『自然界の事象』『肉体に関する事象』『脳が創出する事象』などに関する科学知識を有していますから、8~9世紀の人たちが、『摩訶不思議』『神秘』ととらえていた事柄を、今では論理的な因果関係として理解しています。『加持祈祷』や『おみくじ』には社会の慣習としては付き合っても、本気でそれが効力を持つものと考える人は少なくなってきています。

勿論、現代でも『摩訶不思議』『神秘』に見える事象は沢山ありますが、科学者は、そこに私達がまだ知らない『摂理』があるにちがいないと考え、普遍的に因果関係を説明できる方法を見つけようと努力しています。論理的には『自然界(物質世界)』には『摩訶不思議』『神秘』『奇跡』は存在しないという前提です。

『空海』は、『摩訶不思議』『神秘』の原因を知るために、当時としては最先端の『学問』を利用しようとしました。『仏教』『回教(イスラム教)』『道教』などを比較して『仏教』が一番すぐれているなどという評論も行っています。

中国で『仏教』の中でも最先端の『密教』に出会い、留学僧ながら、最高位の『奥義伝授』を極め、日本へ帰って『真言密教』の開祖になりました。

『空海』は、仏教の僧侶としては勿論のこと、『賢者』『知恵者』として周囲から尊敬され、『空海』自身も自分の知恵を人々のために役立てようとしたのではないでしょうか。

勿論『空海』がたどりついた、『宇宙の真理』としての『曼荼羅』は、現在の視点でみれば『精神世界』が考え出した『虚構』であるということになりますが、当時の『賢人』が入手できる知識を総動員してたどりついた結果ですから、その努力に敬意を表したくなります。

Iさんのお話で、『空海』は、周囲の自然界を『自然(じねん)』と定義し、その中に存在する自分を『我(が)』と定義していることを知りました。

ここからは、Iさんのお話の受け売りになりますから、梅爺の誤認があるかもしれません。

正しく理解するということも大切ですが、『空海の思想』『Iさんの話』に啓発されて、梅爺の『精神世界』が独自に『考え始める』というプロセスに意味があると思いますので、その視点でブログを書き進めることにします。

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2017年6月21日 (水)

空海の『大我』(1)

3ケ月ほど前の話ですが、勤務していた会社の同期入社の会合が、年に一回開催され、約50人が出席しました。平均年齢が76歳という高齢者の会合ですから、さすがに体調不良などで、直前に出席を断念するような人も増えてきましたが、元気な人はま益々元気な風情で、健康の個人差が目立つ年頃になってきました。

梅爺は昨年はポルトガル旅行と日程がぶつかって、欠席しましたので、2年ぶりの出席になりました。

会合の基本は宴会形式ですが、最初に短い『講演』を行うしきたりになっていて、今年は仲間内の二人が講師を務めました。

そのうちの一人がIさんで、『空海の思想』についての話をされました。

梅爺は『仏教』や『密教』のことをほとんど知らないと言ってよいほどの門外漢ですが、何故か『空海』という人物には惹かれることが多く、今までもたびたびブログで取り上げてきました。とにかく類稀(たぐいまれ)な才能に恵まれた人物であったことに驚かされます。

『空海』『弘法大師』『お大師さま』として、現在でも日本人には人気の高い『名僧』ですが、『密教』を介して『自然界』と『人間』のかかわり合いを深く考えた『思想家(哲学者)』としての魅力に満ちています。

時代は違いますが、同じようなことに興味を抱く梅爺が惹かれる理由はそこにあるのでしょう。

Iさんは、60歳で会社を退社され、仏教系大学の大学院に入学して、『空海』の研究で博士号までもとられた方です。

偶然のことから『空海』に惹かれるようになったことを知りました。

Iさんは、大学の頃は勉学より『山歩き』に熱中していた『岳人』ですが、ある時京都の古美術の店で、小さな『大日如来像』を見つけ、何故か気に入って店主と折衝して購入し、その仏像から『空海』に興味を抱くようになったということでした。

『山歩き』『大日如来像』から『空海』にたどり着くという思考プロセスは突飛に見えますが、『自然界』と『人間』のかかわり合いに興味を抱く人間としては起こりうることのように思います。

『山歩き』をすれば、大自然と自分の関係を深く考えるようになるのは当然であるからです。

『大日如来』は、『密教』の『曼荼羅』で、『宇宙』をつかさどる中心の仏とされています。『大日如来像』から『空海』にたどり着くのもまた当然の話です。

Iさんは『仏教学』の博士号をとっておられるにも関わらず『私は、仏教には詳しくありません』と謙遜されました。『仏教』の熱心な信者というより、『空海の思想世界』の研究に没頭してきたということなのでしょう。

梅爺も、宗教に関しては信仰の薄い人間ですが、思想家としての『釈迦』や『キリスト』には興味を抱いていますので、何となくIさんのお気持ちが分かるような気がしました。

Iさんの講演で『空海』の思想に、『大我(たいが)』という概念があることを知りました。

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2017年6月20日 (火)

『男』に関する神話(6)

エッセイで紹介されているアメリカ人の『結婚』に対する価値観(アンケート結果)を観ると、『人種』『宗教』『学歴』『家柄』『収入』などを重視する人の割合より、『人柄』を重視する人の割合が多いことが分かります。

『私を愛してくれる人、話を聞いてくれる人、尊厳、尊敬の念で接してくれる人』が好ましいということになっていて、『ごもっとも』とは思いますが、少し『きれいごと』過ぎるようにも感じます。しかし『理想』は何かと問えば、このようの答になるのは当然なのかもしれません。

『相手の人柄』に高いレベルを求める一方、『自分の人柄』には触れていないのが気になります。『自分の人柄』は立派であるとう無意識の前提があるのではないかと皮肉りたくなります。

アメリカは、現実には『人種』『宗教』『学歴』『家柄』『収入』などの差別が強い国です。

本来なら、これらにこだわる『結婚観』がアンケート結果に出そうですが、『きれいごと』になっている背景は何なのだろうと梅爺は興味を惹かれます。

数十年前とアメリカ人の『結婚観』がどのように違うのかは比較されていませんが、著者も予想と異なった結果になったと感じてこのエッセイを書いたのでしょう。

もっと、従来の『人種』『宗教』などの要因を重視する回答を予想していたのではないでしょうか。そして『男』の『浮気容認』『女性の容姿重視』などの、よく言われている気質も反映すると予想していたのでしょう。

この結果は、『個人の尊厳を尊重する』という崇高な社会価値観によるものなのか、『きれいごと』ですます軽薄な社会価値観の反映なのかが気になります。

アメリカの『トランプ大統領』の出現を観ると、アメリカ人の平均的な『民度』は高いとは思えませんので、『結婚』に関してだけ崇高な価値観が定着しているとは考えにくいと感じています。

梅爺の偏見かもしれません。

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2017年6月19日 (月)

『男』に関する神話(5)

ひと昔前に『男は火星人、女は金星人』というノン・フィクションがアメリカでベストセラーになり、梅爺のアメリカ人の友人から紹介を受けて読みました。

カウンセラーで心理学者の著者が、離婚調停に臨席して得た夫や妻の言い分を分析し、『男と女は、お互いに異星人であると認識した方がよい』という結論に達した経緯が綴られていました。

つまり、『相手は自分とは違う』ということを認めることが、結婚生活を維持する基本であるということで、梅爺の『個性の違いを認めることが人間関係の基本』といういつもの主張と変わりません。

人間関係のいざこざの大半は、『他人が自分と同じように考えたり、感じたりしないのは怪しからん』と勝手に思い込むことで生じます。

この本の説が正しければ、『男女を問わず人間は個性的である』というより、『男』というグループと『女』というグループの間に、『違いの有意差』があるということになります。

『脳科学』は、『男』と『女』で、『脳における情報処理遂行の様式は同じではない』ことを認めていますので、男女で『精神世界』が出力する内容が異なることはありうるかもしれません。

太古に、『男』は狩猟などで遠出したために、地形パターンの認識、効率よい狩猟方法の推論など『理』の判断を重視した『脳』になり、『女』は住居にとどまって育児、家事を担当していたために、『情』の判断を重視する『脳』になったという説明が一般的ですがこれも『仮説』の一つに過ぎません。

『男は火星人、女は金星人』という本によれば、『男』は問題や悩みを抱えた時に、一人で対応しようと努力する傾向が強く、他人の介入や指図を嫌いますが、『女』は問題や悩みを抱えると、周囲の共感を得ようとして、すぐに打ち明ける傾向が強いと書いてありました。

夫が悩みを抱えて、一人になりたがっている時、妻が『あなた、どうしたの、顔色が悪いわよ』などと詰め寄れば詰め寄るほど、夫の気持ちは妻から離反していくので、『放っておくのがよい』と書いてありました。

逆に、妻が愚痴をこぼしたら、夫は形式的でも『それは大変だね』と同情を示して相槌を打ちなさいと書いてありました。妻は共感を求めているだけで『解決策』を求めているわけではありませんから、『こうすればよいだろう』などと『理』で考えた『解決策』を示すのは、反ってやぶへびになるということでした。

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2017年6月18日 (日)

『男』に関する神話(4)

昔の人は『何事にも目的、あるべき姿がある』と考え、『物質世界』の事象もそのような眼で観ました。

『天地は神がデザインし、創造した』『人間は神の姿に似せて創られた』などの『仮説』は永い間人間社会では『真』と考えられてきました。

近世以降に、科学者が『ビッグ・バン(宇宙の始まり)』や『生物進化』を明らかにし、上記の『仮説』は、現代人の多くは『虚構』であると受け止めるようになりました。

人間の『精神世界』が、何事も『因果関係』を明らかにしようと努めたり、『目的』『あるべき姿』を設定して、それに向かって行動しようとするのは、『安泰を希求する本能』が強く『精神世界』を支配しているからであろうと梅爺は考えています。この考えは、梅爺の『仮説』ですから、『真』であると証明されているわけではありません。ただ拙い梅爺の『理性』では、この『仮説』に矛盾を見出せませんので、梅爺自身は気に入っています。

周囲の事象を観て、因果関係が特定できないと人間は『不安』を感じ、『安泰が脅かされた』と感じます。そこで、自分で自分なりの『因果関係』を創造して、納得しようとします。『知りたい』という好奇心はこの『安泰』を求める行為と考えられます。この場合『科学』のような厳密な『仮説』は必要となりませんので、百人百様の勝手な『因果関係』を考え出します。

『証明』や『検証』が求められませんから、『因果関係』『仮説』は『なんでもあり』ということになります。これが『精神世界』が『物質世界』と大きく異なるところです。『カラスが泣き叫ぶからきっと悪いことが起こる』などということになります。私達は、日常、知らず知らずのうちに、この勝手な類推を多用しながら生きています。

人間の『精神世界』は、現在のことではなく将来のことも推測し、これにも『理想』『あるべき姿』を想定しようとします。将来の姿を分からないままに放置することは、同じく『不安』の原因となり、『安泰が脅かされる』ことになるからであろうと思います。

『独身者』にとって、『結婚』は将来自分に起こりうる事態ですので、『理想』『あるべき姿』を懸命に想定しようとします。

このエッセイの示すアンケート結果は、まさしくそれを反映しています。

しかし、能天気な人は自分が『理想』『あるべき姿』を思いついた時に、それはすぐに『実現できる』と勘違いします。『実現できないからこそ、理想、あるべき姿なのだ』と考える人は理性的です。

能天気な人は、『理想』と『実現』の大きな相違に出くわすと、その原因を他人に転嫁し、『自分は悪くない、相手が悪い』と言い張ります。『結婚』における『離婚』は、このようにして起きるのではないでしょうか。

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2017年6月17日 (土)

『男』に関する神話(3)

人間の脳は、因果関係を推測できる能力を持っています。

『物質世界』の事象の因果関係を普遍的に解き明かすのが科学の世界です。この場合、その説明は論理的でなければなりません。

どうしても『原因』が判明しないときは、科学の世界では『仮説』を立て、その『仮説』に矛盾がないかを検証します。一つでも矛盾が見つかればその『仮説』は『真』とは言えないという結論になります。

誰も矛盾を指摘できない状態がある期間続けば、その『仮説』は『定説』となって、やや格上げされます。

『アインシュタイン』のような頭の良い科学者でも、『宇宙は膨張しない』という『仮説』を唱えていて、後にそれが『偽』と判明しました。科学者にとって、『仮説』が否定されることは、特に不名誉な話ではありません。

『物質世界』で続いているあらゆる『変容』は、『新しい平衡状態への動的な移行』ですから、『変容』そのものに『目的』があるようには見えません。つまり『物質世界』の『変容』は、『理想』『あるべき姿』へ向かっているとは言えません。

人間にとっては大変不都合な自然災害は、『地殻変動』『気圧変動』などがその原因で、『物質世界』では『新しい平衡状態への動的な移行』に過ぎません。

『思いあがった人間を懲らしめる』とか『何かの祟(たた)り』とか、『目的』があって自然災害は起きたわけではありません。

ところが、人間の『精神世界』では、『理想』『あるべき姿』という『抽象概念』が非常に重要な役割を担っています。

今回のエッセイの話題である『結婚』も、『理想』『あるべき姿』が当事者にとっては重要であり、アンケートもその内容を浮き彫りにしようとしています。

『精神世界』の『理想』『あるべき姿』という『抽象概念』を当り前のこととして私たちは受け入れますので、『物質世界』にも『理想』『あるべき姿』が存在するに違いないと勘違いします。

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2017年6月16日 (金)

『男』に関する神話(2)

人の『価値観』は、『精神世界』が関与して形成されます。

『精神世界』は『理』と『情』が絡む複雑な世界で、現代の脳科学でも詳細は解明されていません。

ただ生物進化の中で、『安泰を希求する本能(自分に都合のよいものを優先的に選択する)』が継承されていて、強く『精神世界』を支配していると梅爺は考えています。

また、『精神世界』は個性的ですから、『男はこういうもの』『女はこういうもの』と単純な区分けはできません。多くの男性が同じような習性を持っているということは統計的には言えても、男性なら皆同じとは言えません。女性も同様です。

『精神世界』が、先天的な要因(遺伝子など)と後天的な要因(生後育った環境からの影響)のどちらが影響が強いのかもはっきり分かっていませんが、大雑把にいえば、40%程度が先天的要因、60%程度が後天的要因の影響を受けていると推測されているようです。

このエッセイで紹介されているアンケート調査は、現代のアメリカ人の『価値観』を反映しているということになりますが、100年前のアンケート結果(同じ質問)が残っているわけではありませんから、時代による変貌も推測の域を出ません。

同じ調査を現在の日本で行ったらどうなるのかも、興味がありますが同じく推測の域を出ません。

ただ、アンケートに対しては、自分を良く見せようとして、人はやや『きれいごと』の回答をする傾向がありますから、それも配慮する必要があります。

このアンケート結果を観る限り、現代のアメリカ人は、『愛する人』『信頼ができ、何でも話せ、尊敬の念をもって接してくれる相手』と結婚することを、重要視していて、『人種の違い』『宗教の違い』『年齢差』などは、それほど大きな阻害要件とは考えていないことが分かります。

しかし、アメリカは世界でも離婚率の高い国の一つですから、現実の結婚は、理想を描いていた結婚とは異なるということなのでしょう。

『愛』や『信頼』は、人間関係に基本的に求められますが、人は『個性的』であるという宿命を帯びていますから、『考え方、感じ方の違いを認めて寛容に受け容れる姿勢』が必要になります。

結婚は親密な人間関係の典型例ですから、特にこの認識が重要です。『理想の相手』を求めたり、『理想の相手』になろうとしてみても、うまくいくはずがありません。何から何まで完璧な人などいないのですから。

『愛』『信頼』『尊敬』などという『きれいごと』だけで、結婚を考えているとしたら、多くのアメリカ人は能天気で、少しでも『きれいごと』に反することに気づいたら、とたんに嫌気がさして離婚するということになってしまうのもそのためかと邪推したくなりました。

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2017年6月15日 (木)

『男』に関する神話(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の48番目のタイトルは『Myths About Men(男に関する神話)』で、著者はアメリカの人類学者(生物学主体の)『Hellen Fisher』です。 

著者は、2010年から2012年まで毎年『独身者へのアンケート調査』を行いました。 

アンケート対象者は、全米から無作為に選んだ5000人の男女で、年齢は21歳から70歳過ぎまでを包含しています。 

未婚、離婚、死別などの理由は問わず、現在『独身』であることが条件で、『婚約中』『同棲中』などは対象になりません。 

勿論、白人、黒人、アジア系、ラテン系(ヒスパニック)の人種が含まれ、同性愛者なども含まれています。 

アンケートは、150の質問(多くは10ほどの付帯質問を含む)に答えてもらう形式になっています。 

著者が、このエッセイで言いたいことは、従来『男はこういう習性を持っている』と一般に言われていたことと、アンケートの結果はかなり違っているということです。 

『危惧すべき結果』はなく、『好ましい結果』になっているというのが結論です。 

従来一般的に信じられていた『男の習性』は、『浮気性』『家庭より仕事』などを指すのでしょう。 

このエッセイで紹介されているアンケート結果を以下に示します。 

『結婚したい』 20歳代68%の男性、20歳代71%の女性
『子供が欲しい』 43%の男性 50%の女性
『同じ人種の相手を望む』 21%の男性 31%の女性
『同じ宗教の相手を望む』 18%の男性 28%の女性
『同じ相手と添い遂げたい』 76%の男性 76%の女性
『家庭内に自分だけのスペースを持ちたい』 56%の男性 77%の女性
『銀行口座は別々にしたい』 25%の男性 35%の女性

『愛する人より、自分が望むすべてのものを持っている相手と結婚したい』              31%の男性 23%の女性
『性的な魅力を感じなくても、自分が望むすべてのものを持っている人と結婚したい』         21%の男性 18%の女性
『信頼でき、何でも話せ、尊敬の念を持って扱ってくれる相手と結婚したい』               89%の男性 89%の女性

この結果をどのように解釈するかは、人によって異なると思いますが、梅爺は特別驚くことはありませんでした。

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2017年6月14日 (水)

『侏儒の言葉』考・・修身(4)

梅爺のように『信仰心』に乏しい人間は、『信仰』に厚い人から『良心や愛に乏しい冷たい心の持ち主』であると評されることがあります。

『良心』や『愛』は、『神』の『啓示』であり、『神』を信じない人には無縁なものであるといわんばかりのこの評に、梅爺は反発してさらに不評を買うことになります。

梅爺は、『神』の存在があろうがなかろうが、人間は自ら『良心』『愛』といった抽象概念を創り出す能力を保有していると考えています。

『殺すなかれ』『盗むなかれ』といった『十戒』の掟(おきて)も、『神』の『教え』として人間に授けられたものではなく、人間がコミュニティの『約束事』として自ら考え出したものであると考えています。

『良心』『愛』は、群(コミュニティ)で生活することで、生き残りの確率を高めようとした人類が、群の中で他人との関係(絆)を『安泰』で維持するための知恵として考え出した抽象概念であろうということです。

生物進化の過程で『抽象概念の創出能力』『推論能力』を人間の『脳』が保有するようになって、他人との絆を『安泰』に維持するための『良心』『愛』『掟』を重要な概念として群(コミュニティ)で共有するようになったと考えています。

個人と群で相反する価値観を調整するために、つまり『利己』と『利他』のバランスをとるために『良心』『愛』『掟』などの概念が重視されるようになったと考えれば納得できます。『ロビンソン・クルーソー』のように無人島で独り暮しをしている人間には『良心』『愛』『掟』は重要な概念ではないことを考えてみれば分かります。

『神が人間を愛してくださるように、人間同士も愛し合いなさい』という宗教の教義は、『キリスト』や『パウロ』といった偉大な思想家が、『神』と人間の絆にも『愛』という概念を敷衍(ふえん)させて作り上げたものではないでしょうか。

『絶対なる神』の『愛』は『究極の愛』であるとして、『愛』の本家本元は『神』であるといった論法になっていますが、『愛』という概念を創出したのはそもそも人間であると考える方が梅爺には自然に思えます。

『神』を信じない人は、『愛を知らない人だ』と決めつけるのは、いくらなんでも説得力に乏しいように思います。

『侏儒の言葉』の『修身』の章を読んでいて『良心』について考えたついでに、抽象概念の仲間である『神』や『愛』のことまで考えてしまいました。

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2017年6月13日 (火)

『侏儒の言葉』考・・修身(3)

良心は厳粛なる趣味である。

こう単純に断じられてしまうと、戸惑うと同時に『芥川龍之介は何が言いたいのだろう』と忖度(そんたく)することになります。

『良心』は『自らの理性で判断する能力』と梅爺は『勝手に』定義しました。梅爺の『精神世界』が創出した定義ですから、梅爺にとっては説得力のある定義です。しかし、誰にも通用する普遍的な定義ではありません。『精神世界』は『個性的』であることの証左です。

次には『厳粛なる趣味』とは何を意味するのかを考えてみました。『趣味』は『個人的な嗜好』で、『厳粛なる』は『軽薄に対応すべきでない』と表現を変えてみると、『自らの理性で判断する能力は、軽薄に対応すべきでない個人的な嗜好である』となり、これもこなれた日本語の文章とは言えません。しかし、ぼんやり本質が見えてきます。

意訳すれば、『良心は、その人だけの尊重すべき判断能力である』というようなことになります。

人間は『個性的』ですから、自分の『良心』と他人の『良心』は『異なる』ことも許容する必要があるということでしょう。自分の『良心』に他人が共感してくれればうれしいことですが、自分の『良心』を他人へ押し付けることは慎重であるべきです。『良心』を『趣味』という言葉に置き換えてみれば、共通性が理解できます。

幼児は『理性』が乏しく『情感』で反応しますが、やがて成長するにつれて『体験』や『学習』で、自分の『理性』を磨いていくことになります。『良心』は『理性』で『利己』にばかりに走りがちな自分を抑制することを意味するような気がします。

こう考えると『良心』が『道徳』をつくることがあっても、『道徳』は『良心』をつくらないという『芥川龍之介』の主張も見えてきます。

与えられた『道徳』を鵜呑みにして守ることだけに安住してしまうと、自分自身の『良心』で『判断する』するという一番大切なことを放棄することになるということでしょう。評論家の解説だけを鵜呑みにして、理解できたと勘違いしてはいけないということにも通じます。

才能ある文豪が表現するとこうなるのかもしれませんが、『もう少し易しく表現していただけませんか』と言いたくもなります。

謎めいた表現で読者の『精神世界』の興味をそそる能力にたけているから文豪なのだと言われれば、『畏れ入る』しかありません。

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2017年6月12日 (月)

『侏儒の言葉』考・・修身(2)

『憲法』『法』『倫理』『道徳』は、コミュニティにおける『便宜上の約束事』ですから、その内容が『絶対的に正しい』というわけにはいきません。

したがって『憲法を改悪するな』という主張は、『憲法の内容を現在と異なった表現にすることは悪いこと』と最初から決めつけていることになりますから、これも論理的な発言ではありません。

個人が主張できることは、『私は現状の憲法が好ましいと判断する』ということで、それに賛同する人が多ければ、民主主義社会では現状の『憲法』が維持されるまでのことです。ただ『私は現状の憲法が好ましくないと判断する』と主張する人の権利も認めなければなりません。

『約束事』の内容を絶対に変えてはいけないというような『約束事』でもない限り、『憲法改定』が善か悪かという議論は滑稽です。どのように『改定』するかの具体案が提示されて初めて『議論』が可能になります。

『憲法』を改定することは、再び『日本が戦争をする国になる』ことだというような議論は幼稚すぎます。『憲法』が制定された敗戦直後の日本と、現在の日本では『国内事情』『国際事情』が大きく異なっていますから、『改定』議論することに梅爺は反対ではありませんが、具体的な『改定案』が提示されたら反対を個人的に表明するかもしれません。

『憲法』『法』『倫理』『道徳』を『コミュニティ』に属する個人は遵守(じゅんしゅ)するように求められます。特に『憲法』『法』は違反すれば処罰されます。

『コミュニティ』の秩序を効率よく維持することを優先すれば、『遵守』はやむをえないと個人が受け入れることを前提としているからです。したがって、『私の価値観とは異なっている、ズレている』と仮に感じたとしても『遵守』する必要があります。

『自らの理性で判断する』能力の高い人(芥川龍之介の表現では良心を持っている人)にとっては、『約束事』は精神的なストレスになる可能性が高いことは当然です。『個人の価値観』と『全体の価値観』は同じとは限らないからです。

『コミュニティ』の中の強者は、権力で『約束事』を蹂躙しがちで、何も考えずに『約束事が正しい』と受け入れる弱者(良心を持たない人)は、『約束事』にとっては愛すべき人たちなります。多くの中間の人々は、自分と『コミュニティ』の価値観の違いをストレスと感じながら『遵守』するわけですから、『芥川龍之介』流に表現すれば『道徳の迫害を受けるもの』ということになります。

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2017年6月11日 (日)

『侏儒の言葉』考・・修身(1)

『侏儒の言葉』の『修身』というタイトルの章では、『道徳』と『良心』について次のような記述(一部だけ引用)があります。

道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである。

道徳の与えたる恩恵は時間と労力の節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。

妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。

強者は道徳を蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者は又道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。

良心は厳粛なる趣味である。

良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗(かつ)て、良心の良の字も造ったことがない。

『芥川龍之介』が『良心』という言葉をどのような定義で用いているのかは必ずしも判然としませんが『自らの理性で判断すること』というような意味ととれば、上記の表現に梅爺は概ね賛同します。

というより、梅爺と同じように考える先人がいたことを知ってうれしくなりました。

梅爺は何度も、『憲法』『法』『倫理』『道徳』は、人間の『コミュニティ』が、『コミュニティ』にとって都合がよいことを優先して策定した『約束事』であるとブログに書いてきました。

背景には『個人の都合』と『コミュニティ(全体)の都合』が相容れないことが必ず起こるという事情があります。

『人間』は、生物進化で子孫を残す仕組みとして『両性生殖』を採用したおかげで、『身体』も『精神』も『個性的』であるように宿命づけられています。両親の遺伝子が偶発的に組み合わされて子供の遺伝子が決まるからです。人間の遺伝子の種類は200種以上あり、その組み合わせが『個性的』になるのは当然のことです。

『個性的』ですから、同じ事象に対応するときに、厳密には誰も同じように『考えたり』『感じたり』はしていないことになります。

『個性的』な個人が自分の判断で勝手に振る舞えば、『コミュニティ』の秩序は保てませんから、『コミュニティ』においては『個人の都合』より『約束事』を優先させるという知恵で、『憲法』『法』『倫理』『道徳』が生まれました。

しかしこれは苦肉の策で、人類は『個の都合』と『全体の都合』の矛盾を普遍的に解決する方法を、未だに見出していません。

『憲法』『法』『倫理』『道徳』は『コミュニティ』の『約束事』ですから、違う『コミュニティ』では必ずしも通用しるとはかぎりません。また、『便宜』として決めた『約束事』ですから、『科学』における『真偽』の判定をする対象にはなりません。

道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである。

『芥川龍之介』と梅爺が同じことを考えていることをご理解いただけたでしょうか。

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2017年6月10日 (土)

Six hours' sleep for a man, seven for a woman, and eight for a fool.

英語の諺『Six hours' sleep for a man, seven for a woman, and eight for a fool.』の話です。

『男は6時間、女は7時間、馬鹿は8時間眠る』ということで、人間を『男』『女』『馬鹿』に区分けし、『男』を『馬鹿』の対極に位置づけていますから、この場合の『男』は『まともな男(馬鹿でない男)』という意味になるのでしょう。

『勤勉なる男は6時間の睡眠で十分、寸暇を惜しんで働け』というようなことを言いたいのでしょうか。

梅爺は、仕事の現役時代は確かに睡眠時間は6時間に満たないもので、今考えるとよく身体がもったものだと思います。

現在は、全く『怠惰な老人』になり果てて、8時間どころか10時間程度眠っていることもざらですから、『馬鹿』以下という体(てい)たらくです。

『歳をとると、早く目が覚めてかなわない』などとおっしゃるお年寄りが多いのですが、梅爺はそうではありませんから、『特異な老人』なのかもしれません。

この諺では、『男』と『馬鹿』の中間に『女』を位置づけていますから、大変女性には失礼な表現になっています。『男』同士が、優越感をあらわにして、この諺を交わしている様子が目に浮かびます。

『Lady First』は確かに、西欧社会に定着している習慣ですが、男同士の会話の中では、この諺のように、『男尊女卑』の表現がユーモアとして使われることを、梅爺は体験しました。

『男女平等』などという考え方が定着したのは、西欧といえども近世以降のことで、『Lady First』は、『強い男が、か弱い女を守る』という『騎士道』などの考え方が反映しているように思います。

『男同士』が集まれば、『女はしょうがない』とこき下ろし、『女同士』が集まれば『男はしょうがない』とこき下ろすのは、ある意味で健全な人間社会のユーモアなのかもしれません。

男女の違い、男女を問わず個性の違いは、人間が宿命的に保有するものですから、『法による人権』などという論理的な概念を抜きにすれば、私達は『違い』を現実的に受け止めて生きていくしかありません。

自分を『馬鹿ではない』という立場に置いて、『馬鹿』を蔑むことは、ほめた行為ではありませんが、『安泰を希求する本能』に支配されている私達が、自分を優位な立場において、つい他人を蔑むことはありがちなことです。

これを慎むためには、『知性』『理性』を高めるしかありませんが、難しい話です。

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2017年6月 9日 (金)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(8)

『パーティクル・フィーバー』というドキュメンタリー映画を観ていて、当然のことながら人類が総力を結集すると、『途方もないこと』を実現できるということを実感させられます。

『ヒッグス粒子』の存在を確認し、その『質量』を測定するなどという行為は、一人の人間では決して実現できないことです。

『理論物理学者』『実験物理学者』『実験装置の設計者(工学技術者)』『装置の製造技術者』『膨大な開発予算承認に係る政治家』『研究機構を組織として運用する管理者』などが、同じビジョンで結集して『偉業』が成し遂げられたことが分かります。

エジプトの『ピラミッド』、中国の『万里の長城』、日本の『大阪城の築城』なども同様に、役割分担をしながら多くの人々の『知恵』が結集されて実現されたものです。

『大阪城』は『豊臣秀吉』の発想で、築城が開始されたのは当然ですが、それを実現させたのは、数多くの『知恵者』達です。『知恵者』達は必ずしも歴史に名前を残してはいませんが、偉大な貢献をしていたことになります。

『法隆寺』は『聖徳太子』の寺として有名ですが、あの伽藍を設計、建築したのは当時の『知恵者』達です。

『古墳時代』から『飛鳥時代』までは、2~3百年の期間ですが、その短い期間に、『知恵者』達の体制が形成されたことに梅爺は興味を惹かれます。

勿論、中国大陸、朝鮮半島経由で、最新の『文化』『技術』が移入されたことは推測できますが、急速に『知恵者』集団の体制が形成されるには、人々の潜在的な理解能力などポテンシャリティがあらかじめ存在していたことなどが必要条件になります。

『歴史』は為政者の歴史として、教えられることが多いのですが、当時の『知恵者』達のレベルがどのようなものであったのかという視点で眺めると、異なった様相に見えてきます。

たとえば、当時としては世界でも有数の人口を抱えていた『江戸』の、『上水』『下水』『ゴミ』などの処理はどのように行われていたのか調べれば、『知恵者』達の存在や、その能力レベルが見えてくるはずです。私達が想像する以上に見事な『しくみ』を実現していたのではないでしょうか。

『CERNがヒッグス粒子の存在を確認した』というニュースだけでは、『知恵者』達の存在は実感できません。

『パーティクル・フィーバー』というドキュメンタリー映画が、『知恵者』達が、一喜一憂する様を克明に記録して提示してくれたために、私達は『知恵者』たちも人間であることを知ると同時に、知恵の結集は偉大な成果を生み出すという当り前なことを再確認することになります。

『CERN』には勿論日本人の科学者も参加していますが、イスラエルや中東の科学者も参加しています。政治体制、宗教の違いなどにとらわれず、『知恵者』達が結集していることは、素晴らしいことです。

『科学知識』は人類共通の資産であるべきです。

ヨーロッパの『国益優先主義』が優勢になり、『CERN』のおおらかな『人類平等思想』の運営が難しくなるといった事態にならないようにと梅爺は願っています。

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2017年6月 8日 (木)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(7)

『宇宙が加速度的に膨張を続けている』ということから、それなら『宇宙』の終わりはどうなるのかと問いたくなります。 

『Big Crunch』『Big Freeze』『Big Rip』の三つの『仮説』があります。 

『Big Crunch』は、やがて膨張は収縮に転じ、『宇宙』は『ブラック・ホール』のような一点に収縮するという考え方です。この説を現時点で支持する学者は少数です。 

『Big Freeze』は、やがて膨張する率は減少して平衡状態(膨張率ゼロ)になるという考え方で、『宇宙』はリニアに膨張を継続するという予測です。銀河と銀河の距離は離れていきますが、各銀河は現状の集団構成を維持するということなのでしょうか。 

『Big Rip』は、膨張する率が更に大きくなり続け、『ダーク・エネルギー』の支配が圧倒的となるため、全ての物質は『素粒子』レベルまでバラバラになってしまうという予測です。 

いずれにしても『宇宙』にも『終わり』があるということになります。 

地球上に出現して、高々数百万年しか経っていない『人類』が、遠い未来に起きる『宇宙の終わり』を案ずる必要はありませんが、『論理的には終わりがある』という事実は知っておく必要があるでしょう。

私達の『宇宙』は、『ダーク・マター(引き寄せる力の素)』と『ダーク・エネルギー(引き離す力の素)』のバランスが『絶妙』であるために、現在の姿になっていると考えざるをえません。

もし『ダーク・マター』が圧倒的に優位なら、『ビッグ・バン』そのものが起こらなかったか、『ビッグ・バン』後の急膨張(インフレーション)も起こらず、『宇宙』は『巨大なブラック・ホール』になってしまったと考えられます。

逆に『ダーク・エネルギー』が圧倒的に優位なら、全てが引き離されますから『宇宙』は膨張するだけで、『素粒子』が集まって『物質』を形成することができなかったことになります。つまり『星』も『銀河』も誕生せず、私達も存在しなかったことになります。

『ダーク・マター』と『ダーク・エネルギー』の絶妙なバランスは、『偶然』生じたものなのか、それとも何か『必然』の意味を持つのかについても、科学者は議論していますが、分かっていないことの一つです。

もし『偶然』なら、たとえば『マルチ・バース理論』において、無数の『宇宙』が生じたとしても、全てが私達の『宇宙』と同じような歴史をたどらないということになります。あるものは『ブラック・ホール』になり、あるものは急速に膨張を続けるものの『星』や『銀河』は出現しないことになるのではないでしょうか。

人類の価値観で眺めれば、私達の『宇宙』が現状のようになっているという『偶然』はとてつもない幸運であったということにもなります。

『天の川銀河の出現』『太陽系の出現』『太陽からの距離がハビタル・ゾーン(生命体が生存可能な環境)といわれる場所に地球という惑星が出現』も、に人類の価値観で眺めれば、稀有な幸運といえる『偶然』に見えます。

勿論『生物進化』の過程で、『ホモ・サピエンス』が出現したのも『偶然』に見えます。

何かの拍子に一つでも異なったシナリオが選択されたとしたら、『私達は存在していない』ということになります。

『物質世界』の事象の大半は『偶然の変容』に見えますが、その『変容』は『摂理』に則っていることがわかっていますから、最後の問いは『何故摂理は存在するのか』『摂理の存在は偶然なのか必然なのか』ということになります。

『摂理』を部分的に発見し、その『摂理』を利用するまでに人類はなっていますが、『摂理』はなぜ存在するかは皆目分かっていません。

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2017年6月 7日 (水)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(6)

『マルチ・バース理論』と『超対称性理論』のどちらが正しいのかと、双方を支持する学者がかたずを呑んで、『CERN(欧州原子核研究機構)』が発表する『ヒッグス粒子』の『質量』の値を待っている様子が映画で紹介されています。

もしも『自分の仮説が否定されたら、これまでの何十年も続けてきた研究の全てが否定されてしまう』と心境を正直に吐露する学者もいて、梅爺はその人間性に共感を覚えました。

発表の結果は、『マルチ・バース理論』と『超対称性理論』の予測した丁度中間に近い値で、両理論とも、完全に『否定』はされないまでも、『肯定』もされないという『痛み分け』の結果になりました。

『CERN』が発表した『ヒッグス粒子』の『質量』は、膨大な数の『人工的な陽子の衝突』から得られた、これまた膨大な数の観測データを統計的手法で処理した結果ですから、『確率で認めることができる中心値』であって『絶対値』ではありません。

科学者たちは、この『ヒッグス粒子』の『質量』を肯定したうえで、自説を修正し、新たな『仮説』を提示しようとすることになるでしょう。『事実』だけを積み重ね、一切の『情』を排除して、『理』だけで『科学』は進展していきます。

現在の『宇宙物理学』では、解明できていない『ダーク・マター(引き寄せる力の素)』と『ダーク・エネルギー(引き離す力の素)』について、紹介しましたが、これと絡む問題として『宇宙が加速度的に膨張を続けている』という観測に基づく『事実』もまた、何故そうなるのかが解明できていない問題です。

『宇宙が加速度的に膨張を続けている』という『事実』は、アメリカの天文学者『ハッブル』が、複数の『銀河』が『遠ざかっていく速度』を観測して確認したものです。『アインシュタイン』は当初『宇宙』の『膨張』も『収縮』もないと予測していましたから、『ハッブル』のもとに出向いてデータを確認し、自分の予測の『誤り』を認めました。

『宇宙が加速度的に膨張を続けている』としたら、『宇宙』は最後にはどうなるのだろうという自然な疑問が湧いてきます。

勿論、これについても科学者は、『仮説』を立てています。

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2017年6月 6日 (火)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(5)

現在『宇宙』に関する、二つの注目すべき『仮説』があります。一つは、『マルチ・バース理論』で、もうひとつは『超対称性理論』です。 

『マルチ・バース』は、無数に近い複数の『宇宙』が存在するという説です。人類は、自分たちが属する『宇宙』は唯一のものと考えは『ユニバース』と名付けましたが、それと対比させるために『マルチ・バース理論』と呼ばれています。 

これが正しいとすれば、私達の属する『宇宙』の『外』には、異なった『宇宙』が無数にあるということになり、まさしく気が遠くなるような話です。 

実際に私達の『宇宙』の『外』を観測する手段はありませんので、『マルチ・バース理論』は、ある前提条件で理論計算した結果に基づく予測になります。 

複数の『宇宙』が、『ビッグ・バン』を起点として同時に発生した、または『急膨張(インフレーション)』のプロセスで、『泡』のように発生したという説明になっていますが、梅爺は詳しく理解する能力を欠いています。 

ただ、この理論が成り立つためには、『ヒッグス粒子』の質量の理論値があり、これを超えると『マルチ・バース理論』は成り立たなくなるらしいのです。 

この理論を唱える宇宙物理学者は、『CERN(欧州原子核研究機構)』の発表する『観測値』をかたずをのんで見守ることになりました。 

もうひとつの『超対称性理論』は、現在確認されている『素粒子』には性質が正反対の『反素粒子』が存在するという『仮説』です。少なくとも、『ビッグ・バン』で出現した当初の『宇宙』は、『対称的に対となる素粒子』が存在したはずであるという考え方です。

これも勿論ある前提のもとに理論計算した推測ですが、梅爺は、『超対称性理論』の本質しを理解する能力を欠いています。何故現在の『宇宙』は、『対称的』に見えないのかも説明できません。

ただこの『超対称性理論』が成り立つには、これまた『ヒッグス粒子』の質量がある値でなければならないらしいのです。したがって、この『仮説』を唱える学者も『CERN(欧州原子核研究機構)』の測定結果をかたずをのんで見守ることになりました。

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2017年6月 5日 (月)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(4)

『ヒッグス粒子』の存在が確認できたことで、人類の『物質』に関する理解は一段と進んだことになります。

『宇宙物理学者』は、『宇宙の始まり』『宇宙の終わり』について、解明努力を続けています。一人の人間としては高々100年しかこの世に存在することができない科学者が、過去の科学者たちが究明した知識も累積的に利用しながら、『宇宙の始まり』『宇宙の終わり』に迫るわけですから、人間の『脳』はなんと素晴らしい能力を保有しているのかと感嘆してしまいます。

梅爺流に表現すれば、『科学』は、人間の『精神世界』の『理』の機能だけを駆使する領域です。

『宇宙』の広大さに比べれば、人間の『脳』などは、浜辺の砂粒にもならないほどのチッポケなものです。『物質世界』の視点で観ればか弱い人間ですが、『精神世界』の秘めたる能力は素晴らしいという対比に圧倒されます。『精神世界』は『生きている』期間だけしか利用できませんから、『生きている(生かされている)』ことにただただ感謝の念がつのります。。

『宇宙の始まり』は138億年前の『ビッグ・バン』であることは、『科学』の定説になっています。『ビッグ・バン』以降何が起きたのかは、だいぶ分かってきていますが、『ビッグ・バン』がなぜ起きたのか、『ビッグ・バン』が起きるもととなった高エネルギーだけで『無(時間、空間がない)』の世界が何故存在していたのかは、ほとんど分かっていません。勿論『仮説』はありますが、『ビッグ・バン』のような『定説』にはなっていないということです。

現在『宇宙物理学者』をもっとも悩ましていることは、正体がつかめない『ダーク・マター』『ダーク・エネルギー』の問題です。総質量に換算して比較すれば、『宇宙』の存在する『原子』は5%で、『ダーク・マター』は25%、その他が『ダーク・エネルギー』と言われています。

『ダーク』と呼ばれるのは、現在の人類の持てる技術では測定できないことを意味します。光を出しませんので『見えません』し、電磁波による観測にも反応しません。

『ダーク・マター』は『宇宙』の『物質』をお互いに引き寄せる『力』の素で、その質量による『重力』が、『力』の要因と考えられています。

一方『ダーク・エネルギー』は、『宇宙』の『物質』を引き離す『力(反重力)』の素で、不思議なことに膨張を続ける『宇宙』空間で、その『密度』は一定であると考えざるをえないといわれています。つまり、『宇宙』が膨張すればするほで、『ダーク・エネルギー』は増えているということになり、従来の『摂理』では説明できません。

これらのことから、多くの科学者は、現在分かっている『摂理』や、素粒子の『標準模型』だけで、『宇宙』は説明できないということを認めています。

やがて、未知の『素粒子』の発見、新しい『摂理』を追加導入などが行われ、現状では『未知』の事象も『既知』に変わる日がくるのではないでしょうか。

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2017年6月 4日 (日)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(3)

『ヒッグス粒子』は、1964年にイギリス・ケンブリッジ大学の『ピーター・ヒッグス』氏が『仮説』としてその存在を予測したものです。

つまり、当時の『量子物理学』の知識を利用して、机上の理論計算で『仮説』を導き出したことになります。

『ヒッグス粒子』の存在が注目を浴びたのは、その後定説となった素粒子に関する『標準模型』を矛盾なく説明するためにも必要であったからです。

『標準模型』では、16種の『素粒子』の存在が確認されていますが、17番目の『ヒッグス粒子』が加わることで、『素粒子』が『質量』を帯びている理由が説明できるとされています。

ただし『光子(フォトン:素粒子の一種)』だけは例外で、『質量』を持っていません。

何故『光子』だけは例外なのか、何故他の素粒子が『ヒッグス粒子』に動きを阻害される(速度が遅くなることが重さとなって現れる)のかの詳細を、理論的に説明できる能力を梅爺は有していませんから、表面的な知識だけを『信じて』受け容れることにしています。

しかし、『宇宙』に存在する物質が『質量』を保有しなかったら、現状のような『宇宙』は形成されず、したがって私達も存在しなかったことは梅爺でも推量できますから、『ヒッグス粒子』の本質的な意義は理解できます。

『科学』の世界、特に『物理学』の世界の面白いところは、『理論』だけで、『物質世界』の『摂理』の一部を予測できる可能性を秘めていることです。『理論物理学』の世界がこれにあたり、『アインシュタイン』は有名な『理論物理学者』です。

『理論物理学者』は、いくつかの『前提』の下に理論計算し、その条件では『矛盾』がないことを確認して、結果を『予測(仮説)』として提示します。つまり『演繹』的に結論を出します。

一方『物理学』の世界には、『実験物理学者』という人たちがいて、この人たちは、『物質世界』の事象を、実験データの採取、解析で解明しようとします。つまり、こちらは『帰納』的に、『摂理』の一部を実証することになります。

今回の『CERN』のプロジェクトは、世界中の『理論物理学者』『実験物理学者』が協力して遂行されたもので、50年前に『ピーター・ヒッグス』氏が提示した予測を、実態として『確認』したことになります。

結果発表には、『ピーター・ヒッグス』氏も招待され、『私が生きている間に、このような日が迎えられたことは感無量』と述べていました。その後『ピーター・ヒッグス』氏はノーベル賞を受賞しました。確かに幸運な『科学者』です。

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2017年6月 3日 (土)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(2)

『CERN(欧州原子核研究機構:スイス、ジェネーブ)』の保有する実験装置の規模は『世界一』です。

アメリカはこれ以上の実験施設を建設する計画を進めましたが、途中で議会の予算承認が得られなくなり、着工していた工事を放棄することになりました。

『アメリカにはもっと優先度高く解決すべき問題がある』ということで、議会の予算承認が得られませんでした。『知識が必要なら、他人が見つけた知識を盗めばよい』などと暴言を吐く議員もいたことを、このドキュメンタリー映画は紹介していました。

アメリカの政治家で、知性や教養を欠くのは、トランプ大統領だけではないなと失笑を禁じ得ませんでした。そういえば、日本にも『世界一速いコンピュータは必要ですか、二番目ではだめなんですか』などと得意気に質問した政治家がいましたから、アメリカだけを笑うわけにはいきません。

軍事目的に転用できる、ロケット、衛星開発には予算を付け、当面実益が見えない『素粒子研究』には予算をつけないという判断は、『プラクティカル』とも言えますが、その意義を認め研究機構に予算を投じた『欧州』は大人であり『器が大きい』ということになります。

素粒子は『物質世界』に実在する究極の小さな物質ですが、このミクロな世界の解明ができないと、広大な『宇宙』の解明もできないということに科学者は気付き、情熱を注いでいます。

ガリレオは『宇宙は数学の言葉で書かれている』という名言を残しましたが、現在では『宇宙(物質世界)』の『摂理』は、数式で表現できるということが常識になっています。しかし、何故そのような論理表現できるように『摂理』が存在するのかの理由は皆目分かっていません。『摂理』は偶然の産物なのか、それとも必然的なものとして存在するのかという議論も盛んですが、両者推測の域を出ません。

素粒子の世界、宇宙の解明は、物理学者と数学者の共同作業になっています。

『物質世界』の事象は、『摂理』を利用して普遍的に『真偽』の判定が可能です。ただし、この考え方が適用できるのは『科学』『数学』の世界に限定されます。

逆に人間の『精神世界』の判断が絡む事象は、適用する絶対尺度がありませんから、論理的に『真偽』を普遍的に決定できません。

このことをわきまえている人は意外に少なく、多くの人が『何事にも正しい答がある』と思い込んでいるように梅爺には見えます。日本では、学校のテストに必ず『正しい答』があることになっているのも、誤解のもとなのかもしれません。『分かりやすいニュース解説をする人』は人気を博しますが、解説内容が『正しい』とは限りません。

このドキュメンタリー映画の中でも、多くの科学者が、『何故科学者になったのか』という問いに対して、『真偽』の判定ができる世界に魅力を感じたからと答えています。

『理』の世界をこよなく愛する人は、科学者に向いています。しかし科学者も人間として生きていくためには、『情』の判断とも付き合わねばなりません。

人間の『精神世界』は、『理』と『情』の複雑な絡み合いで、個性的な判断が行われるようにできているからです。このドキュメンタリー映画に登場する科学者たちも、『理』だけのコチコチ人間でないことが垣間見えて、共感を覚えました。

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2017年6月 2日 (金)

ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された、科学ドキュメンタリー映画『パーティクル・フィーバー』を録画して観ました。

『CERN(欧州原子核研究機構)』が約20年をかけて巨大な実験装置を構築し、加速した『陽子』同士を衝突させて、人工的にミニ『ビッグ・バン』環境を創り、従来理論上でだけ存在が予測されていた『ヒッグス粒子(新素粒子)』を、実験データから『実在』の可能性が極めて高いことを立証するまでの科学者たちの苦闘を記録した映画です。

2007年から、2012年の公式発表までの5年間を丹念に追った内容で、科学者たちの『人間性』が垣間見えるという点でも大変面白い映画でした。

このプロジェクトは、実験装置だけで1兆円もの経費を要し、世界中の優秀な科学者数千人が関与するといった、人類の科学史に類を見ない規模であることも重要な意味を示唆しています。

実験途上で行われた記者会見で、経済記者から、『この実験は人類にどのような実益(経済効果)をもたらすのか』という質問があり、応対した科学者は『ノー・アイデア』と正直に答えています。

『生きる』だけなら、必ずしも必要としない『科学』や『芸術』に、人間は何故情熱を燃やすのかといった問いが、この映画の中でも提示され、『人間とはそういうものだ』といったあいまいな説明になっていました。

梅爺流に答えれば、それは人間の『精神世界』が生物進化の過程で継承してきた『安泰を希求する本能』によるものということになります。

『肉体』と『精神(心)』の両面が『安泰』であって、初めて人間は『健全』であるということです。

『好奇心』を持つのは、『分からない』ままに放置する『不安』を払拭し、なんとか因果関係を特定して『安堵』したいとする欲求です。

『芸術』の自己表現は、他人との『絆』を確認して『安堵』したいとする欲求が原動力です。自分が『どう考え』『どう感じている』かを表現することは、『絆』確認のための基本行為であるからです。

『ヒッグス粒子』の存在確率がきわめて高いことが分かって、従来の物理学が想定していた素粒子の『標準模型』は、これで出そろった(17種)ことになりましたが、『宇宙』には未知の『ダーク・マター(引き合う力の基となる質量)』『ダーク・エネルギー(宇宙を膨張させるエネルギー)』があると理論上分かっていてもまだその正体は解明できていないものが存在します。

科学者は、現在の物理法則は完全なものではなく、『何かが欠落している』と感じています。その『何か』が判明した時に、『宇宙』の『はじまり』『おわり』についても新しいことが判明すると期待しています。勿論、『私達はなぜ存在しているのか』ももっと詳細に説明できるということでもあります。

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2017年6月 1日 (木)

『侏儒の言葉』考・・鼻(2)

梅爺は、この『鼻』とタイトルされた文章の、全体的な文脈については概(おおむ)ね異論がありません。勿論細かいところの表現で、『考え方』が違うところはあります。

たとえば、世の中や自然界せ起きる偶然に見える出来事について『偶然はいわば神意である』と『芥川龍之介』は書いていますが、この『神意』という表現は読者の誤解を呼ぶかもしれないと感じました。

少なくとも『物質世界』の『変容』のきっかけは、『偶然』ですが、ここに『神の意図』などは関与していないと梅爺は考えています。人間の『精神世界』が絡む世の中の事象にも『偶然』にみえることが起こりますが、こちらも『神の意図』は関与していないと考えています。

人間にとって『不思議』なことを、すべて『神意』としてきたのが今までの歴史ですが、科学知識を得た現在は、そろそろ『見直し』が必要な時期ではないでしょうか。しかし、『常識的思考(不思議なことは神の所業とすること)』の慣性は強固ですから、一朝一夕で人類の『精神世界』は切り替わらないとも予測しています。『神』と疎遠になることは、『安泰が脅かされる』と『精神世界』が警告を発するからです。『理性』で受け入れようとしても『情感』が拒もうとします。スポーツ選手に『必勝祈願』と勝敗は無縁といっても、『祈願』の習慣をすぐにやめたりはしないでしょう。

『芥川龍之介』が、『自己欺瞞』を『嗤うべき我々の愚昧』と断ずる気持は理解できますが、『何故人間は愚昧なのか』について一言も触れていないために、『冷たい自嘲』で終わっていて、江戸時代からの伝統的な『諧謔』精神が垣間見えないのは残念です。

『愚昧』を『冷たく』皮肉で観るか、『温かく』包容して観るかで、『人間の観方』は変わってきます。

『賢くないのはあっしばかりと思っていましたが、どうも世の中の人は誰も賢そうで賢くないところがありますな』などと『落語』で『はっつぁん』が話すのを聞けば、『そうよ、人間てぃものはそういうものよ』と応じたくなります。

『何故人間は愚昧なのか』について、梅爺は『精神世界』の成り立ちから度々論じてきました。生物として受け継いできた『安泰を希求する本能』が基盤にあると考えると、因果関係が見えてきます。多くの『愚昧』は、『情』が『理』を凌駕することで起こります。『分かっちゃいるけどやめられない』は典型的な例です。

この本能ゆえに誰もが『愚昧』から逃れられないということになります。『愚昧』は『賢くない人』だけのことではありません。『釈迦』はこれを『煩悩』として認め、そのうえで『煩悩』を排除して仏心に帰依しなさいと説いています。

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