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2017年5月31日 (水)

『侏儒の言葉』考・・鼻(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』を電子書籍リーダー(Kindle)で読んでいます。

梅爺のいつもの思考規範(『物質世界』と『精神世界』の区分け)で、検証しながら読むと、自分と『同じ考え方』、自分と『違う考え方』が判然と見えてきて、なかなかエキサイティングです。若いころの梅爺は、ただ字面(じづら)を読んでいただけで、このような『深読み』はできませんでした。

『精神世界』は『個性的』ですから、『芥川龍之介』と梅爺の『考え方、感じ方』に違いがあるのは当然で、これは『どちらが正しいか』『どちらが優れているか』というような評価の対象にはなりません。

ブログでは、主として『違い』を紹介しますが、それをもって梅爺が『正しい』『優れている』と主張しているわけではありません。

『侏儒の言葉』の2つめの文章のタイトルは『鼻』です。

『クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、世界の歴史はそのために一変していたかもしれない』という有名な『パスカル』の警句を引用して、この話題は始まります。

『芥川龍之介』は、『アントニィ』が『クレオパトラ』に恋をしていたとすれば、少々鼻が曲がっていても『アントニィ』にとって『クレオパトラ』は『絶世の美女』であったにちがいないとして、ひとたび恋に落ちると、人は『実相』を見ずに『自分に都合のよいように塗り替えて』相手を観ようとすると述べています。

これを『芥川龍之介』は『自己欺瞞』と表現し、『あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い』ものにすると書いています。

そして、この『自己欺瞞』は『恋愛』だけではなく、人間のあらゆる行為で起こりうることで、『政治家』『軍人』『実業家』にも同じことがきっと起こると論を進めていきます。

そして、人間には『自己欺瞞』を理智で修正する能力があること、世の中は『偶然』で動くことがあることは、否定はしないが、歴史の大半は、人間の『自己欺瞞』によって動いてきたという結論に達します。

この部分は『侏儒の言葉』では以下のようになります。

つまり2千余年の歴史は眇(びょう)たる一クレオパトラの鼻の如何によったのではない。寧ろ地上に遍満(へんまん)した我々の愚昧(ぐまい)に依ったのである。嗤(わら)うべき、---しかし荘厳な我々の愚昧に依ったのである。

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2017年5月30日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『胎芽の精神』(6)

『命』『心(精神)』『人間』の本質を考えるときに、『学際的』な思考が必要ではないかと昨日書きました。

『命、心、人間はいずれも神が創造したもの』という考え方を、一度棚上げして、自然界に、『命』『心』『人間』がどのように出現したのかを洞察することが、科学知識を含めて『学際的』に考えることに相当すると梅爺は考えています。

『地球』は45億年前に、『天の川銀河』の中の恒星『太陽』の『惑星』の一つとして誕生しました。『銀河』も『太陽』も『地球』も全て宇宙のガスと塵から、物理法則[摂理)によって出現しました。宇宙そのものは138億年前の『ビッグ・バン』で出現したものです。

『地球』に、約40億年前に最初の『生命体(単細胞生物)』が突然(偶然)出現しました。どのようにして出現したのか、最初の『生命体』はどのようなものであったかは、詳細に分かっていません。

その後『生命体』は『生物進化』を続け、現在地球上に存在するあらゆる『生物』へと枝分かれしていきました。『人類種』は約500~800万年前に出現し、私達『現生人種』は約17万年前に登場しました。

『人類種』の『脳』も同時に進化を続け、『人類種』は『脳』が創り出す仮想世界『心(精神世界)』を保有するようになりました。『生きる(生き残る)』ためにそれが必要であったからです。

以上が、『科学知識』が導き出す『命』『心』『人間』に関する説明です。

宇宙の歴史を最初からやり直してみても、『地球』という惑星や、私達のような『人間』という生物が出現するとは限らない偶然が関与していますから、とても『神のデザイン』であるとは思えません。『人間』は基本的には他の生物と同じく『安泰を希求する本能』で行動します。基本的には『利己的』に振る舞いますが、『利他』を認める理性も保有しています。

このように『命』『心』『人間』を認識したうえで、『避妊、堕胎』『植物人間』『安楽死』『遺伝子操作治療』『生きるために他の生物の命を奪うこと』は、どういうことなのかを考えてみれば、少し違う世界が見えてくるかもしれません。

『ウンベルト・エーコ』が、昔の人はこのように考えていたという事例を紹介してくれるのは、参考にはなりますが、むしろ、『自分は今どう考える』かが重要なことのような気がします。

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2017年5月29日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『胎芽の精神』(5)

『トマス・アクィナス』が悩んだ問題は、実は現代人にとっても難題であり、共通の定義や答は見つかっていません。

煎じつめると、『命』『心(精神)』『人間』の関係は明確ではないということになります。

宗教では、これらに更に『神』を加えた議論になりますから、一層難しい話になります。

『神』を一応除外して考えても、以下のような疑問には、普遍的な答は見出せません。

● 避妊、堕胎は殺人行為か。(人の命を人為的に操作する権利を人は保有するのか)
● 植物人間(基本的な脳の機能だけが残って命は保たれている)は、人なのか。
● 人は自らの安楽死を求める権利を保有するのか。
● 人の遺伝子を操作する治療はどこまで許されるのか。
● 人は生きるために他の生物の命を奪う行為をどこまで是認できるのか。

勿論、人間社会には、ある共通認識が存在して、多くの人は以下のように考えています。

● 目的が是認できる避妊、堕胎は認められる。
● 植物人間も、命が継続している限り人間である。
● ある条件のもとで安楽死は認められるべきである。
● 難病に苦しむ人には遺伝子を操作する治療は許される。
● 人も生物として生態系に組み込まれている以上、他の生物の命を奪って生きることはやむをえない。

しかし、『目的』『植物人間』『ある条件』『難病』を定義しようとすれば、現実には戸惑うことになり、『やむをえない』と弁明することには後ろめたさが残ります。

私達は、極めてあやふやな『共通認識』で、『分かっている』と自分をごまかしていることに気付きます。

結局、『命とは何か』『心とは何か』『人間とは何か』を、深く考え、相互の関係を探るしかありません。その時、従来の哲学の分野だけで、または宗教の教義だけを頼りに考えることには限界がありますから、『科学知識』も含めて『学際的』に考える必要があるというのが、梅爺の主張です。

勿論、『学際的』に考えれば答が見つかるとは限りませんが、少なくとも、現在よりは理性で納得がいく説明が得られるのではないかと期待しています。

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2017年5月28日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『胎芽の精神』(4)

キリスト教の教義を信じながら、『理性』で『因果関係』を解明したいという考え方も保有していた近世以前の西欧の人たちにとって、以下のようなことが真剣な議論の対象であったことを、『ウンベルト・エーコ』はエッセイの中で紹介しています。

『人の精神が神から付与されたならば、母親のお腹にいる胎児も精神を持っているのか』
『人は誰も原罪を負っているとしたら、親から子へ原罪はどのように受け継がれるのか』

いうまでもなく、『人の精神は神から付与された』『人は誰も原罪を負っている』という二つの『命題』が、キリスト教の教義を信ずる人にとっては『真』であるという前提が、これらの議論の出発点です。

ですから、二つの『命題』は、論理的に『真とは言えない』ということになると、それ以降の議論は意味を持たなくなります。

『人の精子や卵子は、人と同じ命の価値を保有しているのか』などという疑問も近世以前には深刻な議論の対象でした。

『神が認めた婚姻以外の目的のために、精子や卵子が使われることは罪悪』という『カトリック』が指針を示したために、『避妊』『堕胎』は勿論、婚姻外の性交渉は『神への冒涜行為』であるとされてきました。

最近になって『カトリック』が指針の内容を緩和したのかどうか、梅爺は知りませんが、『命』『精神』は『神』から付与されたものと言う基本的な考え方は変わっていないのではないでしょうか。

13世紀のイタリアの神学者、哲学者である『トマス・アクィナス』が、『胎児と精神』の問題をどのように論じていたかを『ウンベルト・エーコ』は紹介(下記は梅爺の拙訳)しています。

植物は植物の心を持っており、動物は植物の心を吸収したうえで感覚的な動物の心を持っている。人は更にこれら植物の心、感覚的な動物の心を吸収したうえで理性的な心を保有するようになる。この理性的な心(精神)が人に知性を与えている。したがって、人は個々に理性的な存在である。

胎児(受胎から8週間を経たのちの受精卵の状態)は人の形になる過程で理性的な心が神から与えられる。胎芽(受胎後8週間までの受精卵の状態)はまだ動物の感覚的な心までしか保有していないので、胎芽は精神を保有していない(つまり人とは呼べない)。

想像を『事実』として論ずれば、このような議論はいくらでもできることになりますが、『トマス・アクィナス』は大いに悩んでこういう結論に達したのでしょう。

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2017年5月27日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『胎芽の精神』(3)

英語には『精神』にあたる言葉がいくつかあって、梅爺はそのニュアンスの違いを理解しているとは言えません。 

『spirit』『mind』『soul』『heart』 

『神』が『アダム』に命の息を吹き込んで、『アダム』が獲得した『精神』は、聖書の英語では『soul』と表現されています。 

『soul』には、『内省する心』『理性的な心』『神を畏れる心』というようなニュアンスが含まれているのでしょう。『spirit』には『やる気』『前向きな心』といった行動的な意味があり、『mind』は『理の心』、『heart』は『情の心』といった意味を梅爺は感じますが、間違っているかもしれません。 

『soul』という言葉もそうですが、宗教は、人間の能力では理解できないことに関して、私達を『神秘』『奇跡』の世界へ誘おうとします。全ては『神の御業(みわざ)』と言ってしまえば、確かにそれ以上の『因果関係』を追求する必要がなくなり、一応安堵が得られます。 

しかし、『科学』の世界では『神秘』『奇跡』はタブーです。『物質世界』の事象には、まだ人間が『因果関係』を特定できないもの、つまり『神秘的』『奇跡的』に見えるものが沢山ありますが、それは『因果関係』を特定する『摂理』をまだ人間が見出していないからであると科学者は考えています。 

『神秘的』『奇跡的』に見えるものも、いつかは『理』で『因果関係』の解明ができるという考え方ですから、論理的には『物質世界』には『神秘』『奇跡』は存在しないと想定していることになります。 

『信ずる』ことを基盤とする『宗教』と、『疑いを理で晴らす』ことを基盤とする『科学』が、水と油のように相容れないのはこのためです。

『心の安らぎ』が得られることが、『宗教』の最大の効用ですが、やがて『科学』は『心の安らぎ』の正体を、『理』で解明することになるのではないでしょうか。

それは『脳』を『科学』で解明することにほかなりません。易しいことではありませんが、現状でも少しづつ『未知』が『既知』に変わりつつあります。

『精神』は『脳』が機能している状態を総括的に表現した言葉と梅爺は考えていますが、『精神』は『神から人へ付与された特別なもの』とは思えません。

しかし、昔の人が『そのように考えた』ことを批判するつもりもありません。梅爺が当時の人間で、科学知識を持たなければ、そう考えたかもしれないからです。

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2017年5月26日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『胎芽の精神』(2)

現代人の多くは、地球上に『生命体』が出現し、進化して『人間』という生物種になったことを科学知識として知っています。

したがって、『原理主義者』でもない限り、『聖書』に書かれていることは『全て正しい』などと、キリスト教の信者でも考えなくなりました。

『聖書』に書かれている『人の生き方に関する教え』が重要であって、『聖書』に書かれている『出来事』は、昔の人が『因果関係』をそのように考えただけのことと、ある意味で割り切って受け止めておられるのではないでしょうか。

しかし、科学知識を持たなかった、近世以前の『人間』にとっては、そうはいきませんから、深刻に議論することになりました。

旧約聖書の『創世記』で、『神』が初めて人間『アダム』を創った時の様子は、以下のように書かれています。

『神は地面の土を使って人の形をまず創り、鼻の穴から息を吹き込んで、命をあたえ、その結果精神を保有する人間が誕生した』

このことは、『人間は他の生物にはない精神を神から付与された』ということになります。

人間は確かに高度な『精神世界』を保有する生物ですが、それは『生物進化』のプロセスの中で『脳』が獲得した機能で、偶然人間だけが保有しているように見えますが、決して『神』から付与された特別な能力ではないというのが梅爺の考え方ですから、このようなことを近世以前に主張したら、『異端者』『神の冒涜者』として火あぶりの刑に処せられたに違いありません。

近世以前の『キリスト教』神学者を大いに悩ませたのは、『原罪』と『精神』の関係でした。

『アダム』が『原罪』を負っていたからこそ、『エデンの園』から追放されたことになりますから、命を吹き込まれて、『精神』を保有したとともに『原罪』を負ったという解釈になります。

それでは、その後の『人間』には、『原罪』はどのように受け継がれていったのか深刻な議論の対象になりました。

ある神学者は『父親の精液が原罪を子に伝える媒体である』と仮説を唱え、多くの人がその『説明(因果関係)』に『なるほど』とうなずきました。

現代人には滑稽に見える議論ですが、当時の人たちは『大真面目』であったということです。ただし精液は父親の資質の一部を遺伝子として子供に伝える媒体であることは、現代科学が明らかにしていることですから、ある意味で見事な推測であったともいえます。。

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2017年5月25日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『胎芽の精神』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の31番目のタイトルは『On the Soul of the Embryo(胎芽の精神)』で、『人間の受精卵はどの時点から人間といえるようになるのか』という問題を論じたものです。

この問題に対する『普遍的な回答』は現代人も持ち合わせていません。勿論『個人的な見解』や『宗教的な主張』は存在しますが、誰もが認める『数学の答』のような『答』はないという意味です。

『ウンベルト・エーコ』もエッセイの最後に、『私は回答を提示するつもりはない。ただ歴史的にどのような議論がなされてきたかを紹介しただけである』と書いています。

『世の中の問題には、必ず正しい答がある』と信じておられる方には、もどかしい話ですが、『世の中の問題の大半には、正しい答と言えるものがない』と考えている梅爺にとっては、『ウンベルト・エーコ』の発言は当然のことと受け入れられます。

タイトルの『Embryo(胎芽)』は、受精後8週間までの、受精卵形態の呼び名で、それ以降は『Fetus(胎児)』と呼び名が変わります。『胎児』になると、人間の原型が確認できるようになるという区分けなのでしょう。

受精後、受精卵は『細胞分裂』を継続するだけですから、その視点で観れば『Embryo』と『Fetus』の区別はありません。

『人間の受精卵はどの時点から人間と言えるようになるのか』などという議論は、議論のための議論で、『そんなことどうでもいいではないか』と言いたくなりますが、この問題は『キリスト教の教義』とからめて考えると、『どうでもよい』とは言えなくなるために、ヨーロッパのキリスト教社会では、昔から深刻に議論されてきました。

この背景には、『キリスト教の教義』として重要な、『神が精神を有する人を創った』『人は生まれながらにして原罪を負っている』という『命題』があります。

論理的にこの二つの『命題』は、『真』であると証明はできませんが、『キリスト教』を信仰する人には、これは『真であると信ずる』対象です。

『礼拝』や『ミサ』で、信者は毎回『私は以下のことを信じます』と、『使徒信条』『クレド』で宣言します。『疑う』『信じない』は、神を冒涜する行為になりますから許されません。

無条件に『信ずる』ことが求められる一方、『ギリシャ哲学』以来、『理を重視する』文化がヨーロッパには継承されていますから、『信ずる』ために納得いく『因果関係』を何としても探そうとすることになります。

日本人には『どうでもよい』ように思えることを、西欧の知識人が議論の対象にするのはそのためです。

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2017年5月24日 (水)

The apple never falls far from the tree.

英語の諺『The apple never falls far from the tree.』の話です。

『リンゴの実は、木の幹から離れた遠いところには落ちない』という訳になり、ニュートンの『万有引力』の話かと思いましたが、そうではなく『子供は親と似たり寄ったり』という意味で使われるようです。

日本流にいえば『蛙の子は蛙』『瓜の蔓に茄子はならず』ということになります。

しかし、この諺が普遍的に『真』かというと、そうではありません。

日本にはこれを示す別の『トンビが鷹を生む』という表現があります。

子供の資質は、両親の遺伝子の偶発的な組み合わせで継承されますから、多くの場合『子供は親に似たり寄ったり』になるのは当然のことです。

しかし、遺伝子の組み合わせはには、稀な組み合わせや突然変異が起きることもあります。結果として障害を持った子供が生まれることや、逆に『天才的な能力』の持ち主が生まれることもあります。後者を『トンビが鷹を生む』と表現していることになります。

遺伝子のことなど知らなかった昔の日本人が、『事象』だけを観て『蛙の子は蛙』だけでなく『トンビが鷹を生む』ことも気づいていたことが分かります。

人間の総合的な資質に関して、厄介な話は、それが先天的な遺伝子の継承だけで決まらないということです。

生後の環境の中で、何を体験したか、何を学習したかで、その人の資質は大きく変化していきます。

したがって、『トンビが鷹を生む』という諺も、遺伝子継承の結果だけではない場合もあることになります。

つまり、子供が生まれた後に、親をしのぐ努力をして、親より優れた人間と評価されることもあるということです。

『自分の頭が悪いのは、親も頭が悪かったから』などと言い訳をしている人は、意気地のない人です。

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2017年5月23日 (火)

『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の形成』(6)

『集団幻影の形成』には、『他人の考え方』が強く影響するとこのエッセイの著者は書いています。

『親の教え』『先生の教え』『聖職者の教え』などが、人間の『考え方(価値観)』に大きく影響することは確かなことです。情報量が多い昨今では、『評論家』『解説者』『専門家』と称する人たちがテレビに頻繁に登場して、大衆の『考え方』に大きな影響を与えています。

大人になって、自分の『思考』で、自分の『価値観』を再評価できる人は良いのですが、子供のころに脳に刻み込まれた『価値観』から逃れられないとすると、時に『不幸』を招くことになるかもしれません。

子供に、『教えるべきこと』と『教えることを配慮すべきこと』とを区分けすることは、非常に難しい話です。

親から子供への『知恵の伝授』は、種の存続を考えると重要なことですが、『何を知恵とするか』の判別は難しいということです。

特に『宗教』に関しては、難しい問題が多いように思います。どのような信仰を『受け入れるか』『受け入れないか』の判断は、成人になってからのその人の『理性』に任せばよいではないかと主張する方もいて、梅爺もどちらかといえばそれに賛成です。

『サンタがプレゼントを持ってくる』などという話は他愛がないものですが、『悪い子は地獄へ行きますよ』などと脅かすのは考えものです。

『宗教』同様、『道徳』『倫理』なども、難しい問題を内包しています。『愛国心』などは人為的に強要しなくとも、人間は『コミュニティへの帰属(絆)』を『安泰を希求する本能』で持ち合わせていますから、『特殊な形』で押し付ける必要はないのではないかと思います。

社会において『自分は正しい』と信じて、少しも『疑わない』大人は、問題の要因になりがちです。

『自分が、ある考え方を選択する』ということと『その考え方が絶対正しい』と主張することは、『別のこと』であると区分けできない大人は周囲に迷惑を及ぼします。

人間は一人一人が『個性的』ですから、自分の『考え』を明らかにすることは他人との『絆』を確認する上で重要なことになりますが、その『考え』が『正しい』として、それを受け入れない人を糾弾、排除しようとすることには慎重であるべきです。

コミュニティに属している人たちが、自分たちの共有している考え方が『幻影』かもしれないと疑うことができればよいのですが、現実にはそのような賢いコミュニティはなかなか存在しません。

人間や人間社会は、『信ずる』『疑う』のどちらかへ大きく傾くと、傾きを逆転させることが難しくなるという習性を有しています。自分を理性で『疑う』ことができる人は賢人です。

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2017年5月22日 (月)

『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の形成』(5)

『集団幻影の形成』は、何となくわかるような気になりますが、よくよく考えてみると色々な疑問に遭遇します。

戦前の日本人の多くは、『神国日本』というような根拠のない『幻影』を抱いていましたので、『集団幻影』が形成されることがあることは分かります。

このエッセイの著者は、そのコミュニティの『賢者』『有識者』が、一般大衆が『幻影』を抱かないように、啓蒙すべきと書いています。

しかし、ことはそれほど単純ではないように思えます。強固な『集団幻影』が形成されると、そのコミュニティで『それは適切な考えではない』と主張する人は、『異端者』『非国民』などと弾劾され、『賢者』『有識者』などと尊敬されるどころの話ではなくなります。

『独裁者』や『独裁政党』が、ある考え方を人々に押し付け、それが『集団幻影』にまでなってしまうと、それに異議を唱えることは『命の危険』を覚悟した決死的行為になります。『賢者』『有識者』は、沈黙することになりかねません。

『宗教』のコミュニティに関して、『教義』を『集団幻影』と呼ぶのは極端で失礼なことと承知はしていますが、『教義』を『疑う』ことは許されないという状況は、強い『集団幻影』を抱いているコミュニティの習性と同じように見えます。

このエッセイの著者は、コミュニティ定着している『考え方』が、『現実』に即しているか、『検証』することが大切とも書いています。

これも、いつもの梅爺流のものの観方(『物質世界』『精神世界』の区分け)を適用してみると、それほど簡単な話ではないことが分かります。

コミュニティが抱いている共通的な考え方が『物質世界』の事象に関するものであれば、『現実』に即しているかどうか検証は可能になります。

『天地は神が創造した』という『考え方』は、『ビッグ・バン』という『現実』で検証すると『真』とは言い難いということになります。『物質世界』の事象は、『摂理』に支配されていることから、普遍的な『真偽』の判定が可能になります。

しかし、コミュニティが共通に抱いている考え方が、もともと『精神世界』が創造した『虚構』である場合は、検証に供する『現実』がありませんから、検証そのものができません。

たとえば『生前罪深い生活を送った者は死後地獄に落ちる』という考え方が、人々の共通認識であったとしても、その考え方が適切かどうかの『検証』はできません。

このエッセイの著者は、『何事も、現実に即しているかどうか検証ができる』と勘違いされているのではないでしょうか。

欧米の『合理主義』が陥りやすい勘違いであるように思います。

人間の『精神世界』が創り出す『考え』には、『虚構』が含まれ、その上『抽象的価値概念』を用いた比較、『好き嫌い』といった『情感』による区分けが多用されますので、何が『正しい』か、何が『現実』かなどを検証することは多くの場合できません。

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2017年5月21日 (日)

『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の形成』(4)

『グループへの帰属意識』は、『コミュニティとの絆』を確認しようとする無意識の情感です。『家族愛』『愛校心』『愛社精神』『愛国心』などがその表れですが、それが『醜く肥大』した時には、『部外者』を排斥、蔑視、弾圧などという事態になります。

人間の歴史は、この『醜く肥大した妖怪』ゆえに、数々の悲劇が生まれ、現在もそれがないとは言えない事態が世界各地で繰り返されています。ナチスの『ユダヤ人弾圧』は近世に発生した事件です。

『宗教』は身内の集会では『世界の平和』を祈ったりしますが、根拠もなく『異教徒は自分たちより劣っている』と信じている人たちの数は少なくはありません。

キリスト教文化が母体である欧米では、『テロ』がある以前から『イスラム教徒への不信感』が根強くありましたが、『テロ』はそれを一層助長することになりました。

中国や韓国で行われている『反日教育』も、『相手を貶(おとし)めることで自分の優位性を相対的に確認する』といった、人間が無意識に行う『自己防御』の行為が背景にあります。『愛国正義』などというスローガンに私たちは驚きましたが、アメリカのトランプ大統領も似たり寄ったりの言動で得意げに振る舞っていますので、中国だけを問題視するわけにいきません。

中国や韓国の人たちが、『反日教育』を『醜い妖怪』と気付くことを私たちは気長に待つしかありません。現状では抗議をすれば一層『反日意識』を煽ることになります。

『グループへの帰属意識』は、人間の習性として避けられないものですが、どのレベル以上を『醜い肥大』とするかの尺度がありません。ある時突然『妖怪』が出現したように見えることもあります。

『肥大化した妖怪』が出現しないようにするためには、『人間は個性的であるがゆえに、相互の違いを認めて共存する』以外に方法がないことを、繰り返し子供の時から教えるしかありません。

このことを当り前のこととして理解している大人が、どの割合で存在するかが、その社会(国家)の民度の高さになります。

トランプ大統領は、『アメリカの失業率を小さくする』ことが『偉大なアメリカの復活』と唱えていますが、それでアメリカが民度の高い、他国から尊敬される国になるとは限りません。

『自分は偉大だ』と主張する個人も国家は、嘲笑の的になることはあっても、本当に偉大であったためしはありません。

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2017年5月20日 (土)

『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の形成』(3)

活動している(水素を燃焼し続けている)『恒星』は、通常4%程度のエネルギー出力変動がありますが、『太陽』は幸運なことに、エネルギー出力変動がそれに比べて非常に小さいことが、過去からの観測で分かっています。

そうであるからこそ、『地球』に生命体が出現できたともいえますが、『幸運な偶然』であることには変わりがありません。

しかし、その『太陽』も、すでに水素の半分を燃焼していると考えられていて、40~50億年後には、燃え尽きて『死の星(白色矮星)』に変貌すると予測されています。

死の直前『太陽』は大きく膨張し、『地球』は呑みこまれてしまうと考えられています。勿論『地球』の全ての『生命体』は絶滅することになります。

私達『ホモ・サピエンス』が、『地球』に登場してからまだ17万年しか経っていませんから、40~50億年先は、『永遠』と言えるほどの将来ですので、今おびえることはありません。

このエッセイの著者は、『予測できる災害』に対して、科学の力で対応策を講じておくべきと述べていますが、『地球』全体を危機に陥れる『災害』のエネルギーは膨大なものですから、人為的に制御することは、現状では不可能に近い話です。『地震』や『台風』のエネルギーを人工的に開放することが難しいことで、ましてや『宇宙』に起因する『災害』の対応策はもっと難しいことになります。

『地球を脱出して、他の惑星へ移住する』などという話も、現状では『夢物語』です。

ここまでは『物質世界』の話で、『科学』の視点での議論ですが、『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の形成』は、人間の『精神世界』が深く関わる問題になります。

『無意識が創り出す妖怪』の例として、著者は『グループへの帰属意識』『威勢や権力を渇望する心』を挙げています。

『グループへの帰属意識』や『威勢や権力を渇望する心』は、誰もが保有する『安泰を希求する本能』が根源にありますから、程度の差はあれ誰もが内に秘めているといえます。

『無意識が創り出す妖怪』というからには、それが『醜いものに肥大』した時のことを著者は案じているのでしょう。

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2017年5月19日 (金)

『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の自己形成』(2)

このエッセイの著者は、『宇宙は、人類や文明にとって、容赦のない危険なものである』と書いています。 

私達は『自然がもたらす恵みへ感謝する』などと言いますが、へそ曲がりなことを言えば、『自然』は『人間』へ恵みをもたらすために存在しているわけではありません。逆に『人間』は現状における『自然』の都合のよいところを利用することで存在が可能になっている(生きていられる)だけのことです。 

『物質世界(宇宙、自然)』は、『人間』の存在とは無関係に、『摂理』に則って『変容』を継続しているだけで、時にその『変容』の内容が、『人間にとって容赦のない危険なもの』であることは当然あり得ることで、覚悟しなければなりません。

『地震』『津波』『台風』で多くの命が失われることは、『人間』にとっては耐え難い苦痛ですが、『人間を懲らしめるための天罰』ではありません。『不都合な物理現象』の典型例です。 

現在の地球が、私達の生命維持に適した環境になっているのは、『宇宙』の『変容』を考えれば、『極めて幸運な偶然』としか言いようがありません。 

人間の『時間感覚』で考えると、生命維持に適した環境が永く続いていて、『この状態はいつまでも続くのではないか』と思いたくなりますが、人間の生存を許さない環境が、論理的にはいつか必ず訪れることになります。

その『変容』が、何が原因でいつ起こるのかを全て詳細に予測することは、現在の科学知識では困難です。

このエッセイの著者も、『大量のガンマ線飛来』『地球に近い恒星の超新星爆発』『小惑星や隕石の飛来(地球との衝突)』『大火山噴火』『大量の太陽風飛来』『太陽エネルギーの出力変動』などを可能性として挙げているだけで、その『時期』については述べていません。

私達は、今すぐおびえることはありませんが、『現状は永遠には続かない』ということは、わきまえておく必要があります。

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2017年5月18日 (木)

『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の自己形成』(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ州の47番目のタイトルは『Unfriendly Phisics, Monsters from the ID, and Self-organizing Collective Delusions(不都合な物理事象、無意識が創り出す妖怪、集団幻影の自己形成)』で、著者はアメリカの『進化心理学』の学者『John Tooby』です。

『不都合な物理事象』というのは、梅爺流の表現をすれば、『物質世界で続いている変容事象は、必ずしも人類に都合のよいものばかりではない』ということになり、そういうことを言いたいのでしょう。

『Monsters from the ID』という表現は、1956年のアメリカSF映画『Forbidden Planet(禁断の惑星)』で使われた言葉で、心理学の世界ではよく使われる常套句らしいことが、調べてみて分かりました。専門用語とは違っているかもしれませんが、分かりやすくするためにここでは『無意識が創り出す妖怪』と訳しました。人間は、知らず知らずに何やら恐ろしい考えに取りつかれてしまうという、『精神世界』の一面を表現しているものと理解しました。

『Self-organizing Collective Delusions』も、社会心理の言葉のようですが、ここでは『集団幻影の自己形成』と訳しました。閉ざされたコミュニティで、自分たちに都合のよい考え方を正当化し、それが外の世界でも通用すると皆で勘違いするといったことを指しているらしいと理解しました。『北朝鮮』などが典型例なのでしょう。

専門分野の人が、専門用語を『誰でも知っている』かの如くに使うのは、梅爺のような素人には迷惑な話です。それでも、『こういうことが言いたいのだろう』とあれこれ推察するプロセスは、結構楽しくもあります。

この著者は、『不都合な物理事象』『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の自己形成』の三つが、いま人類が『危惧』すべきことだと主張しています。

梅爺流に分類すれば、『不都合な物理事象』は『物質世界』に関することで、『無意識が創り出す妖怪』『集団幻影の自己形成』は『精神世界』に関することになります。

『物質世界』と『精神世界』では『危惧』の対象が異なりますから、分けて考えないと頭が混乱します。

この著者の専門分野は、『進化心理学』ですから、『精神世界』の問題をより重視しているように見えます。しかし、『精神世界』は『物質世界』以上に未知の領域ですから、解決案が提示されているわけではなく、問題提起にとどまっています。

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2017年5月17日 (水)

『侏儒の言葉』考・・星(6)

『侏儒の言葉』の最初の話題のタイトルは『星』で、文章の前半は、『星にも生死がある』ということを、天文学の知識を利用して記述しています。

梅爺流に観れば、『星』を『物質世界』の実態として観ていることになります。天文学者が『星』を科学的に解説しているのと同じです。

『物質世界』を支配する『摂理』を、普遍的、論理的に解明しようという所業が『科学』です。言い換えれば、判明している『摂理』を利用すれば、『物質世界』の事象は『真偽』の判定をすることができます。

しかし、『真偽』の判定ができるのは、『物質世界』の事象を対象にしたときだけであるということを認識することが重要です。

人間の『精神世界』の価値観や判断が絡んだ事象は、『科学』の世界のような『真偽』の判定はできません。なぜならば、判断の基盤に『情』という、絶対的な尺度では測れない要素がからんでいるからです。別の言い方をすれば、『科学』には『情』を持ち込めません。

人間は『生きる』ために、『前へ進む』ために、『決断』することが必要になります。何が『正しい(適切)』かわからない状況(ほとんどがこれに相当します)でも『決断』しなければなりません。『進学』『就職』『結婚』などを想定いただければご理解頂けるでしょう。

このために、『精神世界』は『信ずる』という行為を多用します。つまり、自分の『決断』が適切であると、その時点で自分を『安堵』させようとするのが『信ずる』という行為です。『信ずる』という行為なしには人間は生きていけません。

しかし『信ずる』という行為にも欠点があります。『信ずる』がやがて『正しいと信ずる』になり、最後には『間違いなく正しいと信ずる』という強固な信念になることです。ひどい時には自分と同じことを『信じない』人を『異端者』として弾圧、排除しようとするに至ります。『宗教』の原理主義者が典型例です。

話が逸れてしまいましたが、『侏儒の言葉』の『星』の文章では、後半、突然『星に共感を覚える』という『精神世界』の話に転じます。

『星も自分と同じようにやがて死ぬ運命にある』と思って眺めると、『瞬いている』さまは、『懸命に生きている』証左のように見えてきて『共感』を禁じえないということなのでしょう。

私達は、周囲の事象に、『自分にとって何か特別の意味が込められているのではないか』と『精神世界』で認識しようとします。『因果関係』を自分で考え出し、納得(安堵)しようとするからです。天井の『しみ』や、腰板の木目を観ても『何か』を連想しようとするのも、これに当たる行為です。

『芥川龍之介』のような才人も、常人と変わりなく『星』を観て、『共感』を覚えたという話に過ぎませんが、才人らしく前半は、科学『知識』を披歴しています。

この文章だけから、『芥川龍之介』が、『物質世界』と『精神世界』の違いの本質を認識していなかったと断ずることはできませんが、認識していれば、このような文章にはならなかったのではないかと感じました。

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2017年5月16日 (火)

『侏儒の言葉』考・・星(5)

『芥川龍之介』は、この文章の中で、『星』を『主観表現』している『正岡子規』の以下の短歌を紹介しています。

真砂(まさご)なす 数なき星のその中に 吾に向ひて光る星あり

梅爺は、この句を含めた『正岡子規』の短歌選集を男声合唱曲として歌ったことがあり、才人の文学的表現能力に感銘したことを覚えています。

『正岡子規』が、夜空の星の一つが、特別に自分へ何かを語りかけてくると『感じた』背景について梅爺は分かりませんが、『精神世界』がその時そう『感ずる』状態にあったのでしょう。『寂寥感』『孤独感』などではないかと推察しました。病床に伏せていた『正岡子規』にとっては、『死』を感じながら、『生きて周囲を観る感動』『自然と自分の絆を確認したいと思う欲望』が常人より鋭かったのかもしれません。

しかし、『物質世界』の『星』の輝きには、地上の特定の誰かに、特定のメッセージを送るなどという『目的』は含まれていません。

『物質世界』の事象には、『摂理による絶え間ない変容』であって、『あるべき姿』『目的』『理想』という概念は適用できません。これらの概念は人間の『精神世界』においてのみ意味を持ちます。

多大な被害をもたらす天災も、『思いあがった人間を懲らしめる目的』で発生しているわけではありません。『忌まわしい天災』という表現は、人間の『精神世界』の価値観で、『物質世界』ではただ『地震』『津波』『台風』が『変容』として起きているだけです。

この視点で観れば、『正岡子規』の短歌は、『精神世界』が創造した虚構表現であるということになります。

『精神世界』の表現は、『虚構』が含まれているので意味がないと梅爺はいいたいわけではありません。

『精神世界』は、『安泰を希求する本能』がベースにあると考えると、何故人間は『精神世界』で次々に『虚構』を創造し、それにすがろうとするのかが見えてきます。

『安堵』するためには自分にとって都合のよい因果関係(ストーリー)を必要とするからです。

『亡くなった人の魂が星になって私達を見守ってくれている』などという『虚構』で悲しみを癒そうとします。つまり『安堵(安泰)』を得ようとします。

『芸術』はすべて『虚構』表現であるといってよいのではないでしょうか。『宗教』にも『虚構』は多く含まれています。『生きる』ことと、『安堵』を得るための虚構を考え出す人間の習性は密接に関係しているように思えます

『生きている』限り、『安堵を希求する本能』は働き、私達は自分で自分を説得しようと『虚構』を考え出し、利用しているのではないでしょうか。

しかし、『物質世界』の事象を扱う時には、『虚構』は許されません。

私達は、この違いを『理解』すべきです。『虚構』は『物質世界』には居場所がありませんが、『精神世界』では重要な役割を負っているということです。『虚構』を『真実』と信じたくなることがありますが、そこは『理性』で抑制しなければなりません。

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2017年5月15日 (月)

『侏儒の言葉』考・・星(4)

『侏儒の言葉』の最初の話題のタイトルは『星』です。

『芥川龍之介』は、当時の天文学の『知識』を引用して、夜空にきらめく星も、永遠にきらめき続けるわけではなく、いつかは死を迎え、その死が次なる新しい星の誕生の要因になっていることから、『生死は運動の法則のもとに、絶えず循環しているのである』と書いています。

また『太陽』や『地球』は、『宇宙』に比べれば、『一点の燐火(りんか)』にすぎないちっぽけなものであるけれども、『地球』で起きていることは、『宇宙』で起きていることと『変わりはない』とも書いています。

これらの認識は、現在の梅爺の認識と大きく変わることはありません。

梅爺流の表現では、『宇宙』は『物質世界』そのものであり、『物質世界』を支配する『摂理(法則)』によって、『動的平衡移行』という『変容』を続けている、ということになります。限定されている『素材』と、多分数は有限であろう『摂理』に則った『変容』であって、それ以外のことは起こりません。『奇跡』などという『理』で説明できない事象も存在しません。

『星』の誕生、死も『変容』であり、私達の『命』の誕生も死も『変容』です。

『星』の素材の一部や、私達の肉体を構成していた物質素材の一部は、死後宇宙空間に、自然界に戻され、新しい星や、新しい『命』となって再利用されるという点でも同じことです。『生死は運動の法則のもとに、絶えず循環している』という『芥川龍之介』の表現は、必ずしも適切とは言えませんが、言いたいことは理解できます。

このことは、仏教の『輪廻転生』と似ていますが、決定的に違うのは、『物質世界』の循環は、素材の再利用のことで、素材は元の『主体(星、ヒト)』の属性を保有していない(炭素は何の目的に使われても炭素である)のに対し、『輪廻転生』では、元の『主体(ヒト)』の属性(霊)が、次の命の属性として引き継がれるかのような説明になっていることです。

『輪廻転生』は、人間の『精神世界』が創造した『虚構』であると梅爺は考えています。

しかし、この『虚構』は、昔の人々が、『自然の移り変わり』『天体の運行』『人間の生死』という『物質世界』の事象を観て、『推論』したものであり、『物質世界』の事象に触発されたといってもよいのではないでしょうか。

このことは重要なことを意味しています。つまり、人間は『物質世界』の事象を観て、自分の『精神世界(理性、情感)』で、『(自分にとって)都合のよい解釈』に基づく『虚構』を考え出す習性をもっているということです。

『芥川龍之介』は、『星もやがて死ぬ』と思うと、『明滅する星の光は我々と同じ感情を表しているようにも思われる』と書いています。

この感想は『芥川龍之介』の『精神世界』の主観的な解釈、価値観で、『芥川龍之介』にとっては意味のあるものです。

『物質世界』の『星』は、物理原則に従って輝いているだけですが、『芥川龍之介』の『精神世界』では『感情を表している』という『虚構』表現に変わります。

『星の輝きは星の感情の表現である』という記述は、『心象』の表現(文学など)としては通用しますが、『物質世界』の事象の記述としては適切ではありません。

『芥川龍之介』が『物質世界』の事象を『客観表現』することと、『精神世界』で『主観表現』することの違いを、どこまで意識していたのかは読み取れませんが、この違いを理解できている人は意外に少ない梅爺は感じています。

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2017年5月14日 (日)

『侏儒の言葉』考・・星(3)

『侏儒の言葉』の『序』で、『芥川龍之介』は以下のように書いています。

『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

梅爺流に解釈すれば、『芥川龍之介』は人間の『精神世界』は常に『変容』し続けていることを感じ取っていたことを示しているような気がします。

『精神世界』が創り出すその人の『信条』の中には、『変容』しない強固なものがあり、それを『思想』と呼ぶことができるのかもしれませんが、生物としての『脳』の働きを観れば、『常時状態が動的に変容している』と受け止める方が自然です。

『蔓草』が伸びていき、幾すじもの蔓に枝分かれしていくという表現は、脳神経細胞ネットワークが動的につながっていく様子を連想させ、さすがに的確に『精神世界』を洞察しています。

『芥川龍之介』の時代には、『才人』といえども現在の梅爺と同様な『科学知識』を保有していなかったことを考えると、『人の考えは思想などという言葉で簡単に固定できない』という洞察は見事です。

同時代の読者は、『私の思想をつたえるものではない』という表現だけを読んで、『責任回避』していると感じたかもしれませんが、『私の思想の変化を時々窺わせる』という表現の真意を読み取ることは難しかったかもしれません。

『精神世界』は『動的に変容し続けている』と受け止めている梅爺には、何の違和感もありません。

『侏儒の言葉』は、『梅爺閑話』同様に、色々な『項目』に関するその時々の『心象』を書いていますので、非常に共感を覚えます。

勿論、『侏儒の言葉』と『梅爺閑話』の内容や表現には、月とスッポン程の差がありますから、並べて論ずるつもりはありません。

ただ『心象』を書く、という行為に共感を覚えるという意味です。その意味で『芥川龍之介』がこれを『箴言(しんげん)』などと、高いところから見下すように思いあがって書いたのではないと強く感じます。

『梅爺閑話』もまた『箴言』ではないからです。

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2017年5月13日 (土)

『侏儒の言葉』考・・星(2)

『芥川龍之介』の『侏儒(しゅじゅ)の言葉』は、35歳で自殺(服毒:催眠剤の多用)するまでの5年間に書き残した箴言(しんげん)集で、梅爺流にいえば『芥川龍之介』の『精神世界』を如実に反映している作品として興味を惹かれます。

『箴言(しんげん)』は、聖書の言葉のような『戒めの言葉』『格言』を意味しますが、『侏儒の言葉』を著者自身が『箴言』として書いたのではなく、後に人々がこれを『箴言集』と呼ぶようになったのではないでしょうか。

『侏儒』は、『身体の小さな人(小人)』『役者』『知識の少ない人』などの意味ですから、著者が自分自身をそのように表現しているのであるとすれば、少なくとも『賢人の言葉』として書いているのでないことになります。

もっとも、世間的に見れば『賢人』の『芥川龍之介』が、自分を『侏儒』と表現するところに、『精神世界』を知るヒントがあります。

能力が高い人ほど、自分の『無能』を自覚するということでしょう。自分で『偉い』という人で本当に『偉い』人に梅爺は遭遇したことはありません。パラドックスのように聞こえますが、『私は頭が悪いので』とへりくだる人に、本当に『頭が悪い』人はいません。

梅爺は、日本文学史や『芥川龍之介』に詳しいわけではありませんが、『芥川龍之介』が稀代の『才人』であることは、容易に理解できます。しかし、何故『自殺』したのかは理解できているわけではありません。

『芥川龍之介』『太宰治』『三島由紀夫』『川端康成』といった、文学における『才人』が何故自殺するのかも、凡人の梅爺には理解が難しい事柄です。

『文学で自己表現する人』が、『死』の誘惑に駆られやすいという相関関係は簡単には、立証できるとは思いませんが、人間の『精神世界』を解明するときには重要な意味を持つのかもしれません。『生』についてとことん考えると『死』が対極として魅力的に見えてくるのでしょうか。

『芥川龍之介』の場合は、実母が精神の病を持っていたことが分かっていますが、それを持って『遺伝的な気質』と決めつけるのは単純すぎるような気がします。

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2017年5月12日 (金)

『侏儒の言葉』考・・星(1)

『Amazon』の電子書籍リーダー『Kindle』を購入して愛用するようになりました。

紙の書籍を読み慣れてきましたので、最初は違和感もありましたが、慣れてみるとこの『文明の利器』には長所も多く、今では重宝(ちょうほう)しています。

何よりも、英語のペーパーバックの本を読もうとすると、文字の小ささが、老眼には負担が大きすぎると感ずるようになったのが『Kindle』を購入した一番の理由です。電車で移動中の読書は『楽しみ』のひとつですが、『楽しみ』以上に苦労するようになってしまったからです。

『Kindle』では、文字の大きさは自在に変更でき、バックライトの輝度も選択できますから、電車の中ばかりではなく、薄暗い喫茶店の中などでも、快適に読書ができます。

『Kindle』で読書をするには、原則有料で読みたい本のコンテンツをダウンロードする必要があります。

読みたい本の『タイトル』や『著者名』が分かっている場合は、これで対応できますが、いままでのように本屋の書棚を眺めていて、突然『面白そうだ』とひらめくような本の選び方は難しくなりました。ぶらりと本屋へ立ち寄って、書棚を眺めまわす『楽しみ』は我慢しなければならなくなりました。

ただお目当ての英語の本は、かなり大きな書籍店の洋書コーナーでも置いてあるとはかぎりませんから、『Kindle』で検索して購入する(ダウンロードする)のは梅爺には大変便利です。

『夏目漱石』『芥川龍之介』『太宰治』といった作家の著作は、すでに著作権の有効期限が切れているとみえて、代表的な著作内容は、『Amazon』が無料ダウンロード・サービスを行っています。

年金老人の梅爺は『これはありがたい』と、めぼしい作品を早速ダウンロードして、何十年ぶりに『名作』を読み返し始めました。

若いころの梅爺とは、『考え方』の規範が大きく異なっていますので、現在の視点で『夏目漱石』『芥川龍之介』の『精神世界』を垣間見ると、新しい発見がたくさんあります。

『芥川龍之介』の『侏儒(しゅじゅ)の言葉』は、特に作者の『精神世界』を反映していますから、現在の梅爺の視点での感想をブログで紹介していきたいと思います。

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2017年5月11日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパのルーツ』(4)

『ヨーロッパのルーツ』の候補として『キリスト教』が取り上げられるのは、『現在のようなキリスト教の様式』を確立したのは、自分たちであるという『ヨーロッパ』の人たちの自負があるからなのでしょう。

しかし、先行する『ユダヤ教』がなければ『キリスト教』は生まれなかったという歴史的な経緯を、どれだけのヨーロッパの人たちが理解しているのでしょうか。または、理解しているとしても、『ユダヤ教』『キリスト教』の本質的な違いをどれだけ理解しているのでしょうか。

人類の古代文明の発祥地は、『エジプト』『中東(イラク)』『インド』『中国』であり、『ヨーロッパ』の文明は後発ですから、『ヨーロッパ』を形成するに必要な要素は、ほとんど外部からの移入であったといえます。

『ウンベルト・エーコ』は勿論このことをよく理解していますから、『欧州憲章』で『ヨーロッパ』のルーツについて記述するなら、『キリスト教』だけを特別に取り上げることなく、『エジプト文明』『古代ギリシャ文明』『イスラム文明』『アジア(中国)文明』にも言及すべきと述べています。他の文明を柔軟に取り入れ、それを自分のものにしていく『寛容さ』こそが『ヨーロッパ』の特徴であるということなのでしょう。

勿論『ヨーロッパ』は外部から取り込んだことだけで成り立っているわけではなく、特に近世以降は、政治イデオロギー(民主主義、社会主義、共産主義)、経済システム(資本主義)、科学、工学、芸術の分野で他の地域を牽引する役割を果たしました。

古代ギリシャから受け継がれている『真理を探究する精神』『論理を重視する精神』と、柔軟に異文化を吸収しようとする好奇心が、『ヨーロッパのルーツ』に関与していて、将来もそうあってほしいという『ウンベルト・エーコ』願いがこのエッセイには込められているように感じました。

したがって、『ユダヤ教』がなければ『キリスト教』がなかったとは言えますが、一方『ヨーロッパ』が関与しなければ現在の『キリスト教』はなかったともいえるということなのでしょう。

『ローマ帝国』は最初『キリスト教』を迫害対象にしていましたが、一転してこれを『国教』にしました。これこそが『ヨーロッパ』の対応の本質なのかもしれません。

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2017年5月10日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパのルーツ』(3)

『イエス』自身は、政治的に『反ローマ帝国』を唱えたりはしていませんが、結果的に人々の支配者に対する不満を結集させるきっかけになったような気がします。

『イエス』の死の直後に、『反ローマ帝国』を掲げてユダヤの人々は決起し(ユダヤ戦争)、『ローマ帝国』は、反乱軍およびエルサレムを徹底壊滅に追いやりました。『ユダヤ教』の大神殿もこの時破壊され、現在エルサレムには、『嘆きの壁』(ユダヤ教の聖地)だけが残されています。

このように『ユダヤ戦争』と『イエス』の活動を結び付けて歴史が語られることはありませんが、間接的な影響力があったと梅爺は推測しています。

それにしても『イエス』は謎に包まれた人物です。布教活動は、30~33歳と考えられていますが、それまでの人生はほとんど分かっていません。

『誕生にまつわる話(処女懐胎)』や、『救世主』の誕生を恐れた『ヘロデ王(ユダヤ王)』による新生児大虐殺の難を逃れて、幼少時はエジプトのアレキサンドリアで過ごしたなどという話は、後の人々が『イエス』を美化し、権威づけるためにに創作した虚構であろうと梅爺は思います。

勿論『十字架』の死後三日目に『蘇った』などという話も同様でしょう。

『聖書』以外に『イエス』を知る手がかりが全く残されていないのも不思議な話です。当時は『歴史』を記録して残す方法もあったわけですから、支配者側の『ローマ帝国』の記録に『それらしい人物』が登場してもおかしくないはずですが、まったく見つかっていません。

『イエス』とほぼ同じ時代の『死海の書』にも、『イエス』らしい人物は登場しません。『死後三日目に蘇った』などというニュースは、当時の大ニュースのはずですが、歴史のどこかも記載されていません。

これらのことから『イエス』は本当に実在した人物か、と疑う人たちもいますが、注目すべき『思想家』『宗教改革者』が存在したのであろうと梅爺は考えています。

少なくとも『イエス』自身は、後に『キリスト教』と呼ばれる『宗教』の創始者であるとう意識は全くなかったのではないでしょうか。

堕落した『ユダヤ教』の立て直しのために『説いた』内容が、ユダヤ人以外の人たちにも『普遍的な教え』として受け入れられていくためには、『第二の人物』の出現が必要になります。その人物こそが『使徒パウロ』です。

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2017年5月 9日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパのルーツ』(2)

『ヨーロッパのルーツ』の候補に挙げられている『キリスト教』は、ヨーロッパ発祥の宗教ではありません。

『ローマ帝国』の属州であった1世紀の『ユダヤ』に、突然『布教者イエス』が出現し、主としてユダヤ人を対象に『真の信仰のありかた』を説きました。

『イエス』の出現を理解するのは、当時の『ユダヤ』がどのような状況に置かれていたのかを知る必要があります。

『ローマ帝国』の支配を受け入れることで、形式的に『ユダヤ王国』の存在は認められていましたが、実質的な政治支配者は『ローマ帝国』から派遣されてきていた『総督』でした。聖書に登場し、『イエス』を裁判にかけ、『死刑(十字架の刑)』を宣告した『ポンティオ・ピラト』も『総督』です。

『ローマ帝国』は支配下の属州に、『ローマ帝国』に対して従順なら寛容な政策で臨み、反抗するものは『徹底弾圧』で臨みました。

『ユダヤ王国』は従順に振る舞いましたので、『王国』の存立、『ユダヤ教』は許されていました。

『ローマ帝国』が『キリスト教』を『国教』として布告したのは、4世紀のことですから、当時の『ローマ帝国』自身は、ギリシャ神話の神々に似た『ローマの神々』を信仰していました。中には自分の彫像を『神』として崇めるように求める皇帝も現れ、エルサレムの『ユダヤ教』神殿の装飾も『ローマ風』に変えるように求められました。

保身のために『ローマ帝国』に反抗できない『ユダヤ王』や『ユダヤ教』神官の煮え切らない態度に、心あるユダヤの人たちは不満をつのらせていったことは容易に想像できます。

『退廃的なユダヤ教の状況』に反発し、厳格な掟で共同生活を行う『ユダヤ教』の新しい宗派が存在していたことを『死海の書』は伝えています。

荒野で『悔い改めよ』と叫んだ『洗礼者ヨハネ』なども、このような背景で出現した人物であったのでしょう。勿論『イエス』も同様です。

『イエス』の言動に共鳴するユダヤ人は増え、やがて人々は『イエス』を『救世主』と考えるようになりました。

『ローマ帝国』『腐敗したユダヤ教』にとっては、『イエス』の存在は危険人物であり、反逆者としてとらえられ『ローマ帝国』の刑法に従って『十字架刑』で処刑されたということではないかと梅爺は推測しています。

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2017年5月 8日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパのルーツ』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の29番目の話題は『The Roots of Europe(ヨーロッパのルーツ)』です。 

当時(このエッセイが書かれたのは2001年ごろ)、EUでは『ヨーロッパ憲章』の起草が進められていて、この中に『ヨーロッパのルーツ』の項を含めるか否かの議論が盛んであったことを『ウンベルト・エーコ』は紹介しています。 

誰もがすぐ思い浮かべる『ヨーロッパ』の社会共通基盤は『キリスト教』であろうということです。 

ヨーロッパを旅すれば、大都市の中心には『大聖堂』があり、田舎の村にも必ず『教会』がありますから、『キリスト教』の影響が強いことはすぐに分かります。 

『ヨーロッパ憲章』の起草では、『ヨーロッパのルーツはキリスト教である』という項目を明記するか、明記すべきでないかが議論の争点になっていると『ウンベルト・エーコ』は紹介しています。 

明記すべきとする人たちは、ローマ帝国のコンスタンチヌス帝が、『キリスト教をローマ帝国の国教とする』と布告して以来、ヨーロッパの全域が『キリスト教』を、『国の統治』『人々の日常生活』『文化の醸成』の基盤としてきた『歴史的事実』は明白であると主張しています。

一方、明記に反対する人たちは、『ヨーロッパ憲章』は過去というより、未来のための意味合いが強いので、今後も『ユーロッパ』をつなぐ絆が『キリスト教』でなければならないような印象を与え、『キリスト教』以外の宗教や、外部の文化を阻害することになるのは好ましくないと主張しています。

人間の『精神世界』は個性的ですから、このように異なった優先度、異なった価値観で意見が分かれるのは当然のことです。

どちらが『正しい』かという議論はあまり意味がありません。どちらを多くの人が支持するかという問題です。

梅爺は個人的には、『明記しない』方を選びます。

しかし、それは梅爺が『ヨーロッパ』の住人ではなく、『理性』による判断、価値観を優先できるからで、もし住人であったとしたら、『現状を守りたい』という『情感』が強く働いて『明記すべし』と主張するのかもしれません。

『ヨーロッパ』の多くの人たちのホンネは、歴史や文化を維持継続させたいということで、『イスラム教』などの勢力が強くなることには抵抗するのではないでしょうか。日本人もお金を落としてくれる外国からの観光客は歓迎しますが、異文化の外国人を移民として受け容れることには抵抗を覚えるのと同じです。

『個人』も『コミュニティ』も『国家』も『多国共同体』も、自分優先から脱却することは困難です。人間の『精神世界』は『安泰を希求する本能』が支配的であるからです。これを抑制するには『理性』が必要になります。

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2017年5月 7日 (日)

ソーシャル・メディアが科学音痴を増やす(4)

『ソーシャル・メディア』には、『科学』に関する情報だけでなく、あらゆる種類の情報が氾濫しています。

しかも、その情報は『玉石混交』で、『いかがわしい情報』『惑わすための情報』『一面だけを誇張した情報』が多く含まれています。

心理学者は、『人間は、選択肢が多くなるほど決断が困難になる』という実験結果を報告しています。『ラーメン』と『タンメン』しかない中華料理店と、100種にも及ぶメニュー札が下がっている中華料理店では、注文を決めるまでに要する時間は大きく変わることを考えれば頷けます。

情報が多い方が有利と一般的には考えられますが、上記の人間の習性を配慮すると、情報が多いことが反って『判断』することを躊躇させ、やがては放棄させてしまう可能性が高まることが分かります。

『表面的な表現をそのまま鵜呑みにする』『他人の意見を受け入れる』は、自分で『判断』することを放棄したことを意味し、情報過多社会では、どうしてもそのような人たちが増えることになるのではないでしょうか。

『ソーシャル・メディア』が普及すると、『科学』ばかりではなく、あらゆることに関して皮相な知識しか持たず、不適切な理解しかできない人たちが『増える』ことになるのではないでしょうか。『科学音痴』だけが増えるわけではないような気がします。

『科学』が、人類文明に大きな影響を与えるようになった現代では、最先端『科学』の内容が『難しい』からといって、その本質を一般の人に分かってもらうための努力を放棄するわけにはいきません。一番影響を受けるのは私達であるからです。

『科学者』自身が、一般の人向けに分かりやすい解説を行うことが理想ですが、『科学者』の資質と『著述家』の資質の両方を持つ方は残念ながら少ないために、良質な『サイエンス・ライター』『サイエンス・ジャーナリスト』を育成するシステムが必要と叫ばれています。

『iPS細胞』でノーベル賞を受賞された山中教授も、このことを熱心に説いておられます。

一般論になりますが、『情報化社会』では、優秀な解説者の出現ばかりを当てにせず、一人一人が自ら、洞察し判断するための訓練をする必要があります。

猜疑心だけの人が増えるような誤解を与えかねませんが、梅爺は『何事も信ずる前に疑いなさい』と申し上げたくなります。

人間は最後は、信じないと生きていけないように宿命づけられていることは梅爺も理解していますから、最後まで頑なに疑う猜疑心を奨励しているわけではありません。

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2017年5月 6日 (土)

ソーシャル・メディアが科学音痴を増やす(3)

ソーシャル・メディアに流れる科学に関する情報が、無意識に、または意図的に適切でない表現になっていることが次なる問題であるとエッセイの著者は書いています。

物事には、必ずと言ってよいほど『良い面(長所)』と『悪い面(短所)』が共存していますが、ソーシャル・メディアに流れている科学に関する情報は、『良い面』だけが強調されているという指摘です。

『赤ワインを飲めば長生きする』『食べながらダイエットができる』では、条件や限度が併記されていませんから、『良い面』だけが強調されている例になります。少し冷静になれば『飲みすぎ』『食べ過ぎ』は逆に健康を害すことに気付きます。しかし体質には個人差がありますから、どこからが『飲みすぎ』『食べ過ぎ』であると一般論で論ずることはできません。

このようなことは、別に科学に関する情報だけでなく、他の情報にも共通して言えることです。『広告』などは、その最たるものです。

次にエッセイの著者が問題にしているのは、情報の大元の発信者が『誰』であるかで、一般の人々が情報の内容を『信ずる』傾向が強いということです。誰が発信者であるかで情報そのものに『バイアス』がかかってしまうことを問題視しています。

『ニューヨーク・タイムズにこのような記事が出ていたぞ』と人々が、電子メールで伝えると、受け取った人は『ニューヨーク・タイムズなら信頼できる』と鵜呑みにしやすいという例が書いてあります。

『ニューヨーク・タイムズ』にとっては、ブランド力が高いということで名誉なことですが、『ニューヨーク・タイムズ』に書いてあることは、何もかも適切であるとは限らないのは当然のことです。

情報で表現されていることだけを『正しいこと』として受け容れる、情報の発信者が信頼できると思うので内容を『正しいこと』として受け容れるというという話は、裏を返すと情報の受信者が、自らの判断を放棄していることにほかなりません。

『世の中のことには、必ず正しい答(解釈)がある。ただ、自分にはその正しい答を考え出す能力がないので、手っ取り早く、表現されている内容をそのまま受け入れるか、信用がおけると思う人の発言なら受け入れる』ということなのでしょう。

多くの人が『答が書いてある本を探す』『専門家、評論家の意見を尊重する』という行為に走りますが、残念ながら、世の中の事象の多くには、『正しい答』などありません。

関連の本を参考に読む、そのことに詳しい人の意見を聴くことは、勿論無意味ではありませんが、あくまでも『自分で自分を納得させるために最終判断を下す』場合の手段に過ぎません。

『物質世界』の事象には普遍的に『真偽』を判断することができますが、人間社会の事象の大半は、『何が正しいかを普遍的に判断する基準が存在しない』という基本的な考え方を受け入れれば、私達の行動は変わるはずです。

『梅爺閑話』では、梅爺がどのようにして自分を納得させたかという話題を掲載しています。梅爺の考え方が普遍的に『正しい』と主張するつもりは全くありません。

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2017年5月 5日 (金)

ソーシャル・メディアが科学音痴を増やす(2)

『科学』に関する科学者と一般の人の関心内容がズレているのは問題であるとこのエッセイの著者は述べています。

確かに問題であるとは言えますが、ズレるのは当然のことと梅爺は考えます。

科学者の関心は、『物質世界』を支配している『摂理(原理、法則)』で、未だ謎として残っているものを、普遍的、論理的に解き明かそうということです。このためには、すでに解明されている『摂理』に関しても深い理解力が求められます。

『科学ジャーナル』に記載されている論文を読んでも、一般の人が理解できないのは、すでに解明されている『摂理』が、新しい論理証明のために当然のこととして引用されているからです。難しい数式が使われているのはそのためです。

煎じつめると、科学者の関心は、『宇宙』『素粒子』『生命及び進化』『脳』などに集約されます。

一方一般の人の関心は、自分中心の『好奇心』をそそられる対象になります。

昨日紹介したエッセイの著者の例を引用すれば、『地球温暖化の犯人は二酸化炭素ではない』は、『真相はこうだ』との示唆に『野次馬的』に反応しているだけで、偶然『科学』に関する話題であったにすぎず、『科学』に関心を抱いたためとは言えません。梅爺流に表現すれば、『人間』の『精神世界』を支配する『安泰を希求する本能』は、『真相』『真犯人』などという言葉に弱いということです。今まで『こうだ』と思い込んでいたことに、『違いますよ』と言われれば、『精神世界』は不安になり、『それでは、本当のこととは何か』を確認して、安堵したくなるからです。

『赤ワインを飲めば長生きする』『食べながらダイエットできる』は、もっと直接的に自分にとって都合のよい話に反応しただけに過ぎません。『安泰を希求する本能』は、言い換えれば『自分に都合のよいことを最優先する』ということです。これらも偶然内容が『科学』に関するものであっただけで、『科学』そのものに関心を抱いたとは言えません。

私達は、自分の能力の範囲で、周囲のことを判断し、特に『自分に都合のよい話』には強く反応します。『健康』『金儲け』『出世』の話に弱いのはそのためです。

こう考えれば、科学者と一般の人の関心対象がズレているのではなく、一般の人にとって『科学』そのものが、優先度の高いことがらではないということなのでしょう。

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2017年5月 4日 (木)

ソーシャル・メディアが科学音痴を増やす(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の46番目のタイトルは『Science by (Social)Media』で、インターネットを利用したSNS(Social Network System)の普及で、人々が生半可な科学情報を鵜呑みにして、好ましくない『科学音痴』がむしろ増えていくことを危惧した内容です。著者はハーバード・ビジネススクール教授の『Michael I.Norton 』です。

私達は、新聞やテレビなどで、自分が興味を抱いたニュースを、友人や知人に『あなたこれをご存じ?』と電子メールで気軽に伝えます。

カナダの若いポップ・ミュージシャンの『ジャスティン・ビーバー』が、『この動画は面白いぞ』とネットでつぶやいただけで、日本の『ピコ太郎』は一躍世界の有名人になりました。ソーシャル・メディアの威力は恐るべきもので、ひと昔前ではこのようなことは考えられませんでした。

人々が、友人や知人にメールで伝えたり、SNSでつぶやいたり、ブログを書いたりする話題は、世界の政治、有名人のスキャンダルなど様々なジャンルにまたがりますが、中には『科学』に関するものもあるとこのエッセイは以下のような例をあげています。

『赤ワインを飲む人は長生きする』『二酸化炭素の排出量が地球の気候変動を起こしているという主張は根拠が薄い』『食べながらダイエットできる』

科学に関する関心が、一般の人たちの中に広まることは、大いに望ましいと著者は認めるものの、いくつかの点で『ソーシャル・メディア』で扱われる科学情報には問題があり、情報に接すれば接するほど、人々は『科学音痴』になっていくだろうと危惧しています。

第一に、人々が関心を持つ『科学に関する情報』は、必ずしも科学者たちの関心の対象であるとは限らないということです。

『ソーシャル・メディア』に登場した『科学の話題』の1/4は、『科学の専門誌』は話題にしていない(論文の対象になっていない)ことがらであるとこのエッセイは紹介しています。

科学者の関心だけが『重要』とは限りませんが、人類共通の謎を解き明かそうとしている人たちの関心と、一般の人たちの関心がズレていることは、考えてみれば当然のことと梅爺も感じます。

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2017年5月 3日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アダム以前に人類は存在していた』(4)

17世紀に『アダム以前にも人類は存在していた』という疑問を著作にした著者は、当時の最新知識として、地球には『アダムの子孫』とは思えない人たちがいて、その人たちの歴史は6000年よりはもっと古いらしいことに気付きました。具体的には『中国人』や『中南米人(インカ、マヤなど)』のことです。 

目の前に突き付けられた『事実』は、キリスト教文化の中で教えられ信じられてきた『6000年前に天地創造があり、それと同時に最初の人間アダムが創られた(創造主である神によって)』という話と矛盾することに戸惑いを感じたからでしょう。 

しかし、この疑問を著作にして発表するには並々ならぬ『勇気』が要ったはずです。自分が所属する『キリスト教』社会の根幹に疑問を呈することになるからです。それでも、自分の理性をだますことはできないと決心をして本を書いたのでしょう。現代の北朝鮮で、『将軍様』の権威に疑問を呈する書物を出版するようなものです。梅爺が能天気にブログを書いているのとは大違いです。 

『ガリレオ』『コペルニクス』『ダーウィン』も、同じような状況で自分の『理性』を優先して、同様に当時の『常識』とは異なる『自説』を唱えました。 

『アダム以前にも人類は存在していた』という疑問を呈した著者は、もしそれが本当なら、『原罪』『大洪水(ノアの箱舟の話)』『十字架の死による贖罪』などのキリスト教の『教義』の根幹の意味も、従来の認識とは異なったものになってしまう可能性があるという論理展開をすることになりました。 

この本が発刊後『異端の書』として、焼却されたであろうことは容易に想像できます。

『ウンベルト・エーコ』は、この本に書かれている内容や因果関係の推測が、現代では不適切なものであることはもちろん承知の上で、『理性による思考』に共感し、エッセイで紹介したのでしょう。

それは『ウンベルト・エーコ』が、現代人が『常識』として深く考えようとしない事柄に、卓越した洞察力を駆使して、異なった『観方』を提示する、『理性による思考』の賢人であるからです。

どのような時代にも、賢人が存在しますが、多くの人は賢人の存在に気づかなかったり、過小評価して退けたりしてしまいます。

残念ながら、誰もが賢人を賢人として認識できる能力を持っているとは言えないからです。

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2017年5月 2日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アダム以前に人類は存在していた』(3)

17世紀にこの小冊子を書いた著者は、『ビッグ・バン(138億年前)』『地球の出現(45億年前)』『生命体の出現(40億年前)』『人類種の出現(500~800万年前)』『現生人類の出現(17万年前)』などという『科学知識』を持ち合わせていなかった人です。

勿論『生物進化』『遺伝子』『細胞』はおろか、『細菌』『ウィルス』などといった知識も持ち合わせていません。

上記の『科学知識』は、全て梅爺流にいえば『物質世界』の事象に関する知識です。

『物質世界』に実態が存在するものは、全て『ビッグ・バン』で出現した素材で構成され、『物質世界』の事象である『変容』は、極めて論理的な『摂理』だけに支配されています。

小冊子の著者は、17世紀の『常識』『知識』で、『アダム以前に存在した人類』の問題を考え、納得がいく説明が得られずに途方に暮れているように見えます。『物質世界』と『精神世界』が区別できずにいるためです。

17世紀の『常識』『知識』の多くは、人間が『精神世界』で自由奔放に創造した『ストーリー(虚構)』や『(抽象)概念』ですから、これらの『常識』『知識』で、『物質世界』の事象(聖書に書かれている天地創造、大洪水など)を説明しようとすることに無理があります。

『精神世界』の本質で、特徴の一つが、上記のように自由奔放に『ストーリー(虚構)』や『抽象概念』を創造できることです。自由奔放というのは、『物質世界』の『摂理』による制約を受けない『ストーリー(虚構)』のことです。

現代人は『桃から生まれた桃太郎』『竹から生まれたかぐや姫』などは、さすがに『おとぎ話(虚構)』として、実態が存在しないことは認めますが、『六日間で天地創造』『処女懐胎』『死後三日目の復活』という話は、『聖書』に書かれていることなので、『虚構』とすることを躊躇しがちです。『聖書』に『虚構』が含まれていると認めることは畏れ多いからです。

梅爺がブログで繰り返し書いてきたことは、『精神世界』が創造した『虚構』や(抽象)『概念』を、『物質世界』に存在する事象と混同しないようにする努力が必要であるということです。梅爺は『聖書』に書かれている『出来事』の多くは人間が創作したもので、『虚構』が含まれていると考えています。それでも『聖書』の素晴らしいところは、人間の『精神世界(特に愛の概念)』を洞察した『キリスト』の『教え』が記述されていることです。『教え』は現代人にも通用します。

『神々しい日の出』は、人間の『精神世界』の抽象概念(神々しい)という価値観が絡む表現です。人間にとっては意味のある表現ですが、『物質世界』には『日の出』という事象があるだけで、『神々しい』という価値観は『物質世界』には無縁です。人類が絶滅しても、『日の出』という事象は存在し続けますが、それは単に『日の出』であって、『神々しい日の出』は存在しないことを考えればご理解いただけるでしょう。

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2017年5月 1日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アダム以前に人類は存在していた』(2)

『アダム』以前に人類が既に存在していたらという問題意識を『ウンベルト・エーコ』が持ったのは、前から欲しいと思っていた中世の書物を、古本屋のカタログでみつけ購入して読んだことがきっかけです。

その本は、1635年に出版された小冊子で、『アダム以前の人間の歴史』を論じたものです。著者はプロテスタント(カルヴァン派)の信者で、『Isaac de la Peyrere』です。

『アダム以前にすでに人類は存在していた』などと主張することは、聖書の内容を否定することですから、当時では『命がけ』の主張であったに違いありません。カトリック信者では考えられないことで、『命乞い』のためにこの書物をローマ法王に献上しても赦してはもらえなかったであろうと『ウンベルト・エーコ』は書いています。

『異端の書』としてほとんどは燃やされてしまったので、現在残っている部数は少ないのでしょう。

それでも、『ウンベルト・エーコ』は安いお金でこの本を購入できたので、現代人にとっては興味のない本なのであろうと述べています。

この本が出版されたのは、アメリカ大陸の存在をヨーロッパの人たちが知るようになってから150年位後のことで、ヨーロッパの人たちが世界中に頻繁に出向く機会が増え、『アメリカ大陸(特に中南米)の先住民やその文化』、『中国の古い歴史』などの『情報』に接する機会が多くなった時期です。

それ以前の西欧キリスト教文化圏では、『神による天地創造は約6000年前の出来事』と考えられていました。『旧約聖書(創世記)』に対して神学者が示した『歴史観』が『常識』であったということです。『常識』を列記すると以下のようになります。

(1)6000年前に『天地創造(六日間の作業)』が行われ、『地球』や『人間』が出現した。
(2)最初の『人間』は『アダム(土を材料に創られた)』であり、『アダム』の肋骨から『イヴ』がつくられた。
(3)『アダム』と『イヴ』は、神の命令に反して『禁断の木の実』を食べ(原罪)、『エデンの園』から追放された。
(4)子孫たちもまた神に背き、神の怒りを買って、『大洪水』で絶滅した。ただ信仰深い『ノア』の家族だけが神に許され『箱舟』で生き延びた(現在の人間はその子孫)。
(5)人間は『アダム』の犯した原罪を宿命的に継承している。
(6)神は独り子『イエス』を地上へ遣わし、『イエス』は『十字架の死』で人々の罪を『贖(あがな)った』。

しかし、『アメリカ大陸』や『中国』からもたらされた『人間の歴史』に関するいくつかの事実を判断すると、とても『6000年』といった短い歴史ではなさそうだとこの小冊子の著者は感じ取り、『どう考えればよいのか』と疑問を呈したことになります。

その疑問は、いかにもヨーロッパ人らしい、理屈っぽいものです。

(1)『天地創造』以前に『人間』は存在していたとすればどう説明するのか。
(2)『アダム』以前の『人間』の子孫(中国や中年米に存在しているようにみえる)は、『神』や『原罪』を知らない人たちである。そのような人たちが『大洪水』を生き延びたとしたら、どう説明すればよいのか(『神』を知りながら、背いた人は滅ぼされ、知らない人は生き延びた?)。
(3)したがって、これらの人々(子孫)は、『十字架の死』で罪を贖ってもらえる対象ではないことになる。
(4)『十字架の死』で罪を贖ってもらえる対象になる人たちは、地球上の『一部の人たち』だけであるということになってしまうが、どう説明するのか。

『聖書』に書かれていることと、現実に理性が獲得した事実が矛盾するということを正直に述べているだけのことですが、キリスト教(プロテスタント・カルヴァン派)の信者としては、『原罪』『十字架の死による贖罪』を否定できずに悩んでいる様子が窺えます。

梅爺のように、『天地創造』『原罪』『十字架の死による贖罪』などという概念は、宗教の『教義』を体系化するために人間によって考え出された『虚構』であると割り切れないための悩みです。

梅爺は『宗教』の本質は『心の安らぎ』をえることで、そのためにこのような『概念』を必要としたと考えています。『神』が存在するゆえに『心の安らぎ』が得られるのではなく、『心の安らぎ』を得るために『神』という『概念』を必要としたという畏れ多い推測です。したがって梅爺は、何故人間は『心の安らぎ』を必要とするのかに興味があります。

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