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2017年4月30日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アダム以前に人類は存在していた』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の28番目のタイトルは『What Are We to Do with the Pre-Adamites?(アダム以前の人間の存在をどう考えればよいのか)』で、聖書で最初の『人間』とされている『アダム』より前に、『人間』が既に存在していたとしたら、一体どうなるのだろうと、興味深い問題を提起して論じています。

『ウンベルト・エーコ』は、エッセイを書くときに、必ずしもその時点で話題になっていることを取り上げるとは限らないと述べています。

この姿勢は、梅爺がブログを書くときと同じで大いに共感します。話題になっている事件や出来事に関しては、多くの人や解説者が意見を述べていますから、いまさら自分が加わらなくともよかろうと、へそ曲がりに避けていることもありますが、それよりも『人間』や『社会』が持つ普遍的な本質について自分の意見を述べたいと思う心が強いからにほかなりません。『心象を書く』などと気取っているのもそのためです。

『Turning Back the Clock』という本のタイトルが示すように、『ウンベルト・エーコ』は専門であるヨーロッパ中世史の該博な知識を引用して、梅爺と同じように『人間』や『社会』の本質を論じます。

いつの時代も『人間』は、周囲を好奇心で眺め、その時代の『知識』や『推論』を駆使して、不思議に見える事象の『因果関係』を考え出し、自分を納得させようとしてきました。この本質は現代人も同じです。梅爺流にいえば『精神世界』の本質は同じということになります。

『科学知識』が乏しかった中世では、空想も交えて現代人から見ると、滑稽とも思える『因果関係』を考え出していたことになります。

そのように考え出された多くの『因果関係』は、現代では『間違った認識』ということになりますが、『ウンベルト・エーコ』は『因果関係』の内容より、人々が懸命に『考えようとしていた』その姿勢に温かいまなざしを注いでいます。

『自分も同じ時代に生きていたら、どのように考えたのであろうか』と同情するからなのでしょう。中世の人たちが考え出した『因果関係』の内容は滑稽でも、考えようとした姿勢は滑稽ではないからです。

私達が『常識』として認識していることも、後の世の人たちからは、『あの時代の人たちは、間違った認識をしていた』といわれてしまうことがあるに違いありません。しかし、一生懸命『考えようとした姿勢』は評価してもらえるのではないでしょうか。

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2017年4月29日 (土)

Great love, great sorrow.

英語の諺『Great love, great sorrow.』の話です。

『愛が深ければ深いほど悲しみも深くなる』という訳になりますから、何が言いたいかはすぐに理解できます。

『深い愛に包まれて生きている』『深く愛する人と一緒にいられる』などの状態は、『精神世界』が『安泰』を実感している状態のときで、人間は『幸せ』に浸ることになります。

しかし、『物質世界(自然界)』が絶え間なく『変容』しているように、人間が『生きる』こともいつまでも同じ状態を維持することは残念ながらできません。

『釈迦』は、これを『諸行無常』と喝破(かっぱ)しました。勿論、人間の『生』も『死』も『諸行無常』の一環です。

『幸せな状態』に酔いしれている人に、『その状態はいつまでも続きませんよ』というのは、意地悪なようですが、『諸行無常』は誰にも避けられないことであることは確かなことです。

『深い愛』で『幸せの極致』を体感した人は、『愛が破局した時』『愛する人が亡くなった時』には、今度は『悲しみの極致』を味わうことになります。この諺はそれを表現しています。

しかし、『悲しみの極致』を恐れて、『幸せの極致』を追い求めない人の人生は、無味乾燥なものになります。負けることを恐れて、勝負を避けるアスリートはいません。『勝つ喜び』と『負ける悔しさ』を両方味わうことが、アスリートにとっては『生きている証左』であるからです。

『幸せの極致』と『悲しみの極致』を両方体験した人は、むしろ『見事に生きた人』なのではないでしょうか。

『物質世界』の『摂理』によって、私達の『命』は、有限の期間活動できる宿命を帯びています。

この『生きている期間』を有効に使い、『大いに笑う』ことを追い求め、その反動として『大いに泣く』ことがあったとしても、それは望ましい『生き方』なのではないでしょうか。

梅爺は、自分の人生もそうありたいと願っています。

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2017年4月28日 (金)

科学知識の啓蒙(4)

このエッセイの著者は、『ニューヨーク・タイムズ』の科学欄、健康欄の編集者ですから、できるだけ『正しい情報』を『興味を持って読んでもらえるように表現する』ことに腐心しています。

この『正しく』『面白い』情報を発信することは容易なことではありません。

『梅爺閑話』は個人的な『主観』を表現するだけで済みますが、『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、少なくとも『客観』的である必要がありますから、比較にならないほどのむずかしさがあります。ブログは誰でも書けますが、一流のジャーナリストは、一流の人物でないとなれません。

『科学知識』に関する記事ばかりではなく、全ての『新聞記事』の価値が問われる時代になってきました。

私達の周囲には、新聞ばかりではなく、多数のメディアが発信する『情報』であふれかえっています。

インターネットの『SNS(Social Network System)』で、個人が誰でも『情報』発信することが容易にできる時代になったために、『不適切な情報』『いかがわしい情報』『誤解を招く情報』も沢山飛び交っています。

新聞が主要メディアであった時代は、自分だけ『身を律すれば』よい話でしたが、現在のように『情報』が『玉石混交』で飛び交う時代には、新聞は『自分が玉(ぎょく)』であることを一層鮮明にしないと生き残れなくなってきたからです。

『情報化社会』は素晴らしい環境ではありますが、『個人』が自ら『情報』の『妥当性』を検証できる能力を持たないと、とんでもない事態になってしまいます。

どのような『情報』も、そのまま鵜呑みにしてしまうことは危険なことです。評論家や解説者の説明をそのまま信ずることにも慎重であるべきです。

自分の『理性』が最後のよりどころであるとしたら、『科学知識』を含め、多くのことに興味を持ち、表面的なことではなく、そのことの本質を洞察する訓練をしておく必要があります。

『科学知識』の啓蒙に、梅爺は異論がありませんが、それよりも『物事の本質を自分で洞察する』訓練が現代人には求められていると考えています。

『何でも知っている』ことが重要ではなく、『どのようなことでも、自分でその本質を洞察しようとする姿勢(努力)』が重要です。

少なくとも、中等教育以上のレベルでは、そのことを『教育』の目標に掲げるべきです。

世の中のことは、大半が『何が正しい』かを普遍的に決めることができませんから、最後は『自分の理性で自分が納得する』しかないからです。つまり『信ずる前に一度疑いなさい』ということになります。

しかめっ面をして『疑い深い』人は嫌われますが、笑顔で『疑う』人は意外に好感をもって受け容れてもらえるものです。

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2017年4月27日 (木)

科学知識の啓蒙(3)

昨日『科学知識』を、以下のように区分して論じたらどうかと書きました。

(A) 『物質世界』の『摂理』に関する知識。
(B) 『摂理』を応用した『技術』に関する知識。

今日は(B)について考えてみます。

私達の周囲は、『摂理』を応用した『技術』で構成した製品で満ち溢れています。しかし、私達はそれらの製品が、どのような原理で作動しているか、どのような『技術』が使われているのかといった『知識』にはほとんど興味を持たず、ただ『結果として得られる利便性』だけを享受しています。

さらに製品提供者は、『利便性』を高めるために、『使いやすさ』も製品の重要な要素として配慮しますから、製品はブラックボックスとなり、利用者は一層原理や技術には関心を示さなくなります。

まだ幼児の孫たちが、指を器用に使って『i-Pad』を操作し、ゲームや『YouTube』を楽しんでいるのをみると、周囲に存在するものを、ごく当たり前に受け容れていることに驚かされます。

『ない』が『ある』に変わった時に、人間は『驚き』ますが、最初から『ある』ものには『驚き』はなく、すぐに適応する能力に長けていることがわかります。

『驚き』を味わった人でも、『ある』が常態になれば、『驚き』は薄れていきます。そして『ある』に慣れてしまうと、もう『ない』には戻れなくなります。

『人間』のこの習性につけこんで、『広告』は巧みに私達をリピーター・ユーザに誘おうとします。『毎度ありがとうございます』などという客へのあいさつは、日本人の商人の見事な知恵(洞察)です。

このような習性は明らかに『精神世界(脳)』の特性が関与していることが分かります。『のど元過ぎれば熱さを忘れる』『住めば都』なども、同じ特性が関与しているのでしょう。『慣れる』ことが『安堵感』を増すことになると考えると、『精神世界』は『安泰を希求する本能』に支配されているという梅爺の仮説に矛盾しないと感じます。

『ハイビジョン・デジタルテレビ』『PC』『タブレット端末』『スマホ』などに使われている、『半導体技術』『情報処理技術』『AD(アナログ、デジタル),DA変換技術』『デジタル無線通信技術』は、大変高度で複雑な技術です。『飛行機』『自動車』『新幹線』も高度で複雑な技術で構成されています。

勿論、利用者である私達は、その原理や技術の詳細を理解する必要はありません。

しかし、これらの製品の利用に『慣れて』しまうと、魔法の杖を一振りするだけで『便利な結果』が得られると勘違いしてしまいます。

現実には『製品』の中では、非常に多数の『因果関係』が連鎖して『結果』に到達するようになっています。

自然界の事象も、人間社会の事象も、多くは非常に多数で複雑な『因果関係』が連鎖して『変容』しています。

この多数の『因果関係』を粘り強くたどらないと、物事の本質は洞察できません。便利な製品に『慣れて』しまって、世の中のことは何でも単純な『因果関係』で構成されていると勘違いするのは、非常に危険なことです。

『科学知識』そのものの啓蒙も重要ですが、『因果関係』の連鎖をたどる努力を教えることも重要なことになります。

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2017年4月26日 (水)

科学知識の啓蒙(2)

現代人の多くが『科学知識』を学ぶことに積極的でないのはどうしてなのでしょう。

『難しすぎて、どうせ自分には分からない』という弁明が多く聞かれます。その裏には『知らなくても生きていける』というホンネ垣間見えます。昨日も書いたように、最新の『科学知識』の内容は、高度で複雑ですから、関連する基礎知識も含め、総合的な理解能力が求められ、『私には無理』と言いたくなる気持ちは梅爺も理解できます。

しかし、『科学知識』にも色々な種類やレベルがありますから、『科学知識』とひとまとめで論ずることは適切ではないかもしれません。

(A) 『物質世界』の『摂理』に関する知識。
(B) 『摂理』を応用した『技術』に関する知識。

(A)に属する分野は『宇宙』『生命』『生物進化』『脳』などで、梅爺が頻繁にブログに取り上げてきました。個々の知識を紹介することや、知識を保有していることを自慢することが目的ではなく、『人間』や『人間社会』の本質を理解しようとすると、どうしてもそれらの知識が必要になると考えるようになったからです。これを昨日書いたように『学際的なアプローチ』と呼ぶことにしています。

『人間』は、『何故戦争をやめられないのか』『何故宗教を必要とするのか』『何を美と感ずるのか』『何故好奇心を保有しているのか』『何故身勝手に振る舞うのか』『何故いじめを行うのか』などの設問を考えようとすると、道徳や倫理だけでは答がみつからないと考えるようになったからです。

『科学』からは別世界と思われている『宗教』『芸術』の本質理解も、『人間』の行為である以上『学際的なアプローチ』の対象になると考えています。

このような新しい視点の『宗教論』『芸術論』は、まだあまり目にしませんが、やがて梅爺の拙い内容をはるかに超えた、『学際的アプローチ』に立脚した著作が出現するのではないでしょうか。

梅爺のこの主張が適切であるとすれば、『人間社会』でリーダーとなる人は、少なくても『科学』に関する本質理解を保有し、『学際的なアプローチ』の思考ができる人でなくてはならないことになります。『人間』や『人間社会』を深く洞察できない人にリーダーなど務まるはずがないからです。

しかし、世界の大国といわれる国々の政治リーダーはこれらの資質の保有者には見えず、むしろ単純で身勝手で皮相な論理を振りかざし、そのくせ権謀術数だけには長(た)けているように見えるのは嘆かわしい話です。このようなリーダーを認める国民のレベルが低いのか、はたまた『民主主義』というシステムに欠陥があるのかと疑いたくなります。

(A)の『知識』を、『教養』として保有する人が多い国は、文明度が高い国といえるのではないでしょうか。『人間社会』が誤った方向へ動こうとする時に、ブレーキとなる可能性を秘めているからです。

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2017年4月25日 (火)

科学知識の啓蒙(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の45番目の話題は『The Disconnect(断絶)』で、大衆への科学知識啓蒙がうまくいっていないことを『危惧』する内容です。著者は『ニューヨーク・タイムス』の科学欄編集担当者『Barbara Strauchi』で、最新の科学情報を分かりやすく解説する難しさと、米国の科学知識啓蒙活動が衰退気味であることを案じています。 

1964年にイギリスの物理学者『ピーター・ヒッグス』が発表した『新種の素粒子の存在』の予測は、2012年に欧州の研究所の実験で『存在が確認』され、17番目の『素粒子』として認定されました。『ヒッグス粒子』として、世界中に報道されました。 

人類の歴史上、稀に見る大発見ですが、私達は『ヒッグス粒子』について、詳しく理解できたとは言えません。おそらく、かなりの専門家でもなければ、数式を用いた物理的表記の内容や、『ヒッグス機構』と呼ばれる『自発的対称性の破れ』などという考え方は理解できないのではないでしょうか。

勿論梅爺もこのレベルの理解は到底望めません。しかし、『ヒッグス粒子』がなければ、何故『宇宙』の物質が『質量』を保有するようになったかが証明できないと言われると、事の重大さの一端が理解できたような気になります。

『宇宙』が現在のような形で存在するには『ヒッグス粒子』が必要不可欠であったということですから、私達も『ヒッグス粒子』のおかげで存在しているという因果関係になるからです。

同時にこのような基本的なことがようやく分かったということは、『物質世界(宇宙、自然)』の『摂理』について私達が『知っている』ことは、ごく限られたことなのだろうという推測にもなりました。

最近の『科学知識』は、あまりにも細分化、専門化された領域のことなので、『からくり』の詳細を私達が理解することは非常に難しくなっています。

しかし、そのことが持つ『本質的な意味』を分かりやすく表現してもらえれば、私達でも理解でき、この『本質的な意味の理解』こそが現代人に求められる必要な『教養』ということになります。『からくり』の詳細を理解できればそれにこしたことはありませんが、たとえそれは無理でも『本質的な意味』を知ることは必要ということになります。

なぜならば、『人間』や『人間社会』の事象を理解しようと思えば、『科学知識』を含めた総合的な『教養』が必要になる時代になったと思うからです。これを梅爺は『学際的なアプローチ』と呼んでいます。

哲学者が、哲学の分野だけで『自分とは何か』と悩んだり、宗教家が、宗教の教義だけで『心の安らぎ』を説明しようとする時代ではなくなったと考えています。

現代人の『教養』として『科学知識』をとらえようとする人が減り、新聞も『科学欄』を縮小せざるを得ないような状態を著者は憂いていますが、梅爺も由々しいことだと思います。『教養』を軽んずる文明は衰退するに違いないからです。

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2017年4月24日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『美女コンテストと原理主義者』(4)

このエッセイで『ウンベルト・エーコ』は『グローバライゼーション』は『功罪半(なか)ばする』と書いています。つまり、良い面が5個あれば、悪い面も5個あるということなのでしょう。 

何となくわかった気になりますが、よくよく考えてみると『グローバライゼーション』という言葉の定義はあいまいです。 

『グローバライゼーション』に反対する人たちは、実はあれは『アメリカナイゼーション』であって、ホンネを悟られないように表現をわざとあいまいにしているのだと非難します。 

確かに、アメリカ人の多くは、世界中どこでも英語が通じ、『マクドナルド』『スターバックス』があると思い込んでいるのではないかと皮肉を言いたくなることがあります。 

アメリカで通用することはどこでも通用し、通用しないとなると『通用するように変更しろ』と臆面もなく要求するところがあります。『ミス・ワールド・コンテスト』を『ナイジェリア』で開催するなどという発想は典型例です。

梅爺は、『グローバライゼーション』は、永い時間をかけて自然発生的に進行するものと、一方が他方へ自分の流儀を短期間に、人為的に押し付けるものの二つに区分できるのではないかと思います。

人類の歴史を観れば、異なった文化が出会ったときに、人間は他の文化に興味を持ち、自分に都合のよい面を自発的に受け入れて『融合』が進行していったことは明らかです。受け入れ側が自分の『好み』で選択している分には軋轢は生じません。

日本がかつて朝鮮半島、台湾を植民地化し、『日本語』を公用語として現地の人たちに強いたようなことは、人為的な『ジャパナイゼーション』であって、軋轢と反感を招来することになりました。

現在世界で進行している『グローバライゼーション』も、『自発的受け入れ型』と『人為的な強要型』に区分けして考えないと混乱します。

ただし、現在の『グローバライゼーション』は、『情報通信システム』を共通手段として用いるなど巧妙に行われますので、『自発的な受け入れ型』か『他からの強要型』かを区別することが極めて難しいことは確かです。後進国の人たちは、『スマート・フォン』を自ら欲しいと思って購入したのか、先進国の巧妙な宣伝や売り込み手法で欲しいと思わされてしまったのかは、判別が難しいからです。

イスラム教『原理主義者』の肩を持つわけではありませんが、彼らが『人為的に押し付けられている』として反発するのは人間の習性としては自然な行為であるともいえます。

ただ『美女コンテスト』への反対意思を、『キリスト教徒』殺害で示そうという発想は、『理性』の欠如としか言えません。

『宗教』は特に、自分の『教義』を絶対視し、他からの干渉や批判に敏感です。それは『教義』は『神の意志』と関連し『絶対に正しい』と『信ずる』ことが存立基盤になっているからです。

『私はあなたに干渉しませんから、あなたも私に干渉しないでください』といった穏やかな解決策は模索されず、相手を『異教徒』『異端』として抹殺するという結果になりがちです。

梅爺は『人間は誰もが個性的である』ことを『認め合う』ことを望みますが、このような人類の基本合意は、現状では残念ながら夢のまた夢のような気がします。世界は『自分が正しい』と主張する人たちであふれています。

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2017年4月23日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『美女コンテストと原理主義者』(3)

『宗教』によって『戒律』の内容が異なり、人間社会の様式によって『法』『道徳』の内容が異なりますから、これらが『約束事』であると考えれば得心できるというのが梅爺の考え方です。

しかし、子供の頃から『戒律』『法』『道徳』を『守る』ように教え込まれると、人間は、『戒律』『法』『道徳』を『ア・プリオリ(無条件に存在するもの)』なものと思い込みやすく、その内容に疑念を抱かずに『正しいもの』として受け容れてしまいがちです。

梅爺は、『戒律』『法』『道徳』は無意味なものと言っているのではありません。コミュニティの秩序を維持するための人間の『知恵』がそれらには込められていますから、無意味どころか重要な役割を負っているといえます。

『戒律』『法』『道徳』の内容を、『論理的に正しい』ものと考えるか、『コミュニティによっては有意義』なものと考えるかの違いになります。梅爺の考え方は後者で、いずれも、『神から授けられたもの』ではなく、元々人間が考え出したものであると推定しています。

スポーツの『ルール』も同じくゲームに秩序を与えるための『約束事』ですから、これを例にして考えれば分かりやすいかもしれません。『ルール』は絶対的に正しいので変更は許されないなどということはなく、状況が変われば『改定』されます。

『ナイジェリア』で開催される『ミス・ワールド・コンテスト』に、地元のイスラム教『原理主義者』グループが猛然と反発し、一見『コンテスト』とは関係のない、キリスト教教会を焼き討ちし、神父を含む200人の信者を殺害したという、私達には『不条理』としか思えない事件が起きた背景に『グローバライゼーション』の浸透があると『ウンベルト・エーコ』は書いています。

確かに『コンテスト』が、『ニュー・ヨーク』や『東京』で開催されていれば、このような事件は起きなかったでしょう。

イスラム教『原理主義者』達は、自分たちの『コミュニティ』の安泰な維持が脅かされたと感じ、脅かす黒幕は『キリスト教文化』であると勝手に推定して、このような事件を起こしたことは明白です。

『グローバライゼーション』の先導役は『アメリカ』および先進国ですが、これは『経済至上主義』の考え方が背後にあり、『キリスト教文化』とは直接の関係がありません。イスラム教『原理主義者』に、これを洞察する、『知性』『教養』がないことが悲劇を生んだと言えるでしょう。『知性』を欠いた思い込みほど恐ろしいものはありません。

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2017年4月22日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『美女コンテストと原理主義者』(2)

『ナイジェリア』の国情を梅爺は詳しく知りませんが、『イスラム教徒』が主流を占めるならば、人前に水着姿で登場する『美女コンテスト』は、『不道徳の極み』と受け止められることは容易に推察できます。

『イスラム教』の戒律が厳しい地域では、女性は素肌はおろか、髪の毛も人前にさらしません。『貞淑な女』を求める男性中心の考え方が背後にあるように感じます。ヨーロッパや日本にも同様な考え方の時代がありました。

トルコのように『世俗化』が進み、公共の場で女性は『ヒジャブ(頭を覆う布)』を着用しないようにという法令が出されているようなところでさえ、今でも『ヒジャブ』の着用を求める運動が絶えず、政治論争になっています。

インドネシアでは、若い女性の間で、カラフルな『ヒジャブ』を着用することがオシャレとして流行しているという話を聞いたことがあります。従来黒が主体であった『ヒジャブ』をオシャレの対象にしてしまう女性心理は分からないでもありません。『ヒジャブ』そのものを否定するまでに至らないのは、『戒律』の浸透の強さの証で、『宗教』が社会へ与える影響力の強さを示しています。

今まで何度もブログに書いてきたように、『宗教』の『戒律』や、コミュニティの『法』『道徳』は、『約束事』として定められたことですので、原則としてそのコミュニティでだけしか通用しないものと梅爺は考えています。

個性的である『人間(個人)』が、『全体(コミュニティ)』の一員として生きるためには、コミュニティの『掟』を定めて、それを『個人』の価値観に優先させなければ秩序が保てないからです。

生物進化の過程で、人類が生き残りの確率を高めるために『群れで生活する』方法を選んで以来、この『個』の価値観と『全体』の価値観の相違をどのように調整するかが、人間社会の難しい課題として継承されてきました。

『コミュニティ』の共通な『約束事』はその一つの対応策です。

『民主主義』の社会では、『約束事』はみんなが参加して決める背景があり、『約束事』であるという認識が比較的受け入れられますが、『宗教』の『戒律』は、聖職者が『神の意向』などとして、一方的に信者へ教授しますから、コミュニティの『約束事』というような認識は薄れ、『厳守すべき戒め』となり、これに反することは『神への背徳行為』となります。

繰り返しになりますが、『戒律』は『約束事』に過ぎないというのは梅爺の『考え方』で、梅爺にはそう考えることで矛盾がありませんが、『宗教』の視点で観れば梅爺は『異端者』ということになるのでしょう。

梅爺の考え方に従えば、『戒律』『法』『道徳』は『正しい』かどうかを議論する対象ではなく、『約束事』とすることが『コミュニティ』にとって意味があるかどうかを検証すべき対象であるということになります。

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2017年4月21日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『美女コンテストと原理主義者』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の27番目のタイトルは『Beauty Queens, Fundamentalists, and Lepers(美女コンテスト、原理主義者、ハンセン氏病患者)』で、『グローバライゼーション』の功罪を論じたものです。

タイトルだけから、このエッセイが『グローバライゼーション』の功罪を論じていることを推察することはできません。

『ハンセン氏病患者』というタイトルの中の言葉は、『発展途上国の人たちに、先進国並みの消費を押し付けたり、実現困難な夢を抱かせたりするする』ことは、『ハンセン氏病患者を収容する施設に、ナオミ・キャンベル(当時の黒人スーパー・モデル)のポスターを添えて美容化粧品を売り込む』行為に近いと『グローバライゼーション』を風刺したたとえ話からの引用です。

こういうたとえ話は、強い印象を読者に与えますが、梅爺の好みではありませんので、ブログのタイトルは『美女コンテストと原理主義者』だけにしました。

『美女コンテンスと原理主義者』が何故『グローバライゼーション』の功罪を論ずることになるのかは、以下の『事件』が関与します。梅爺は、このような事件が20年ほど前にあったという記憶がありませんので、エッセイで紹介されている『事件』の概要を以下に紹介します。

ナイジェリアで『ミス・ワールド・コンテスト』が開催されることになり、それに反対する『イスラム原理主義者』のグループが、イベントとは全く関係がない現地のキリスト教会を焼き討ちにし、神父を含む信者200人を殺害したというのが『事件』の概要です。その後、イベントはロンドンに場所を移して行われましたが、世界中から顰蹙(ひんしゅく)を買う後味の悪い結果になりました。

ナイジェリア人で、『ノーベル文学賞』の受賞者である『ウォレ・ソインカ』は、『私は各国の美女コンテストや国際的な美女コンテストは、どれも好きではないが、原理主義者たちの怒りに直面したら、肉体や美の表現権利を守るべきという立場を採るだろう』とイタリアの新聞へ寄稿しています。

『ウンベルト・エーコ』は『自分がナイジェリア人であれば、同じように考えるであろう』と書いています。

『事件』だけを取り上げれば、確かに『不条理』であると非難できますが、当時のナイジェリアは貧しい国であり、多くの子供たちが飢え、病人のための薬も不足する状況でしたから、そのような国での『ミス・ワールド・コンテスト』の開催計画は、場違いで『能天気』な企てであったことも確かでしょう。

主催者および、主催者に協力したナイジェリアの人たちの良識を梅爺も疑いたくなります。

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2017年4月20日 (木)

『危惧』の神秘を危惧する(6)

『危惧(不安)』の反対の概念は『期待』です。

私達は、新しい環境に身を置くときには『期待と不安でいっぱいです』などと感想を述べます。

人間の『精神世界』が共有する『抽象概念』には、必ずと言ってよいほど、このような対称的で対(つい)になる『概念』があります。

『神/悪魔』『天国/地獄』『正義/邪悪』『平和/戦争』『爽快/不快』『勤勉/怠惰』『都合/不都合』『美/醜』など例をあげればきりがありません。

何故『精神世界』は、対となる『概念』で構成されているのかの真因は、同じく『精神世界』が高度な『推論能力』を保有してからではないでしょうか。物事には『表(都合のよい面)』と『裏(都合が悪い面)』があるはずだと推論するからにちがいありません。

『抽象概念』を対(つい)の形で創出できるのは、生物としての『人間』の特徴といえるでしょう。他の生物と『人間』の大きな違いの一つが、『抽象概念』を創出できること、『推論能力』で将来のことまで推測できることであるように思います。

『言語』がこれに関与していることは明らかですが、『言語』が高度な『精神世界』を進化させる要因であったのか、逆に『精神世界』の進化が『言語』を高度な体系にしたのか、梅爺は浅学(せんがく)にして知りません。

どの民族の言語も、文法は『論理体系』で構成されています。『推論能力』が遺伝子として継承されてきたという、一部の言語学者の主張は傾聴に値するように思います。『言語』は、特定の賢人が考案したものではなく、コミュニティの中で自然発生的に構築され、しかも『論理体系』が備わっているという事象は、誰もが『推論能力』を継承していると考えるしか答が見つからないからです。。

梅爺は、『推論能力』の進化は『安泰を希求する本能』に由来すると考えています。生き延びる確率を高めるためには、周囲の限られた『情報』を利用して、論理的な『因果関係』を推察しそれを行動を選択する時に利用したと考えれば納得がいくからです。『パターン認識能力』も同じような理由で進化継承されてきたのでしょう。

『危惧』と『期待』は対(つい)の概念ですから、『危惧とは何か』という問いは『期待とは何か』という問いでもあることになります。

全て『安泰を希求する本能』が原点であると考えれば納得がいきます。

何故概念は対(つい)として存在するのかは、『精神世界』にとって判断がしにくいことを、生きていくために無理にでも判断しなければならないからです。私達は、絶対的な答は分からない環境で、『都合のよいこと』と『都合の悪いこと』を両方想定して判断するということです。

『神/悪魔』『天国/地獄』も、あることに対する『期待』と『危惧』から生まれた概念に過ぎないのではないでしょうか。

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2017年4月19日 (水)

『危惧』の神秘を危惧する(5)

『危惧』そのものは意識に属するものなので、『危惧』しているだけでは、事態は何も変わりません。

『危惧』の基を理性で認識し、それを排除するための方策を考え、実施して初めて事態は好転します。

このような行動の起点に『危惧』がなるのは何故なのか、解明する必要があるとエッセイの著者は書いています。

梅爺の推測は、何度もブログに書いてきたように、『精神世界』を支配する『安泰を希求する本能』によるものという考え方です。

この『本能』は人によって強い(悲観的)、弱い(楽観的)の程度差はありますが、誰もが保有するもので、基本的な『遺伝子情報』として継承されているのではないでしょうか。

人間の場合、高度な『脳』の機能で、『安泰を希求する本能』はレベルの高い解決策を創りだしたりしますが、もともとは生物進化のプロセスで獲得したものですから、あらゆる生物に共通の『本能』であろうと思います。

多くの生物では、『闘う』『静観する』『逃げる』といった基本的な判断にこの『本能』が関与しているのでしょう。

『危惧』はストレスとなりますが、人間とストレスの関係もまた単純ではありません。

ストレスに対する耐性や、対応能力にも個人差がありますから、同じストレスに遭遇しても同じ事態になるとは限りません。

ストレスは必ずしも『悪者』ではなく、人間が『生きる』活動を健全に維持していくために適度なストレスを必要とすることも知っておくべきでしょう。特に梅爺のような老人には、脳の老化を食い止めるためにストレスが必要です。

『神様にお願いして天国へ行っても、三日で飽きてしまうだろう』と梅爺が毒舌を吐いて顰蹙をかっていますが、人間の本性を考えると、あながち間違ってはいないと自負しています。

結局、ストレスとの付き合い方が上手いか下手で、その人の人生は大きく変わるのではないでしょうか。

自分にとってどのレベルのストレスが適度なものなのか、どのようなストレスにはどのように対応すべきかをわきまえていることが、健全に生きるための必要条件のような気がします。

個人差がある以上、これも『自分で』判断し、実行する以外に方法がなさそうです。

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2017年4月18日 (火)

『危惧』の神秘を危惧する(4)

このエッセイの著者は、『危惧』には、意識の一つとしてとらえる側面と、『脳内(生物)活動』としてとらえる側面があり、両側面は明らかに『関連』があることは分かっていても、現時点ではその『関連』を明解に説明できない、つまり『神秘』に見えていると書いています。

梅爺流に言えば、『危惧』を『精神世界』の事象として観るか、『物質世界(脳)』の事象として観るかの違いであり、両者の関係を追及するには、『学際的なアプローチ』が必要になるということです。

このエッセイの内容に、梅爺は違和感を覚えないのはそのためです。

『精神世界』は、『脳』の仕組みを解明することなしには明らかにはできません。

何故人間は『宗教』や『芸術』を必要とするのかも、『脳』の仕組みの解明で徐々に見えてくるのではないでしょうか。このように『宗教』や『芸術』を『科学』の視点で観る行為を邪道であるとは考えていません。『宗教』や『芸術』は、『脳』が関与する領域で、決して独立した『聖域』ではないと思うからです。

『心の安らぎ』や『美の感動』は、対応する脳内のホルモン分泌がもたらすものといった味気ない事実が判明するかもしれませんが、一方『宗教』や『芸術』の本質の深さ、人間の崇高さも見えてくるのではないでしょうか。

『危惧』は、『脳』の『認知機能』や『推論機能』が総合的に働いて起こる情感です。強く意識する『危惧』もあれば、『何となく嫌な予感がする』といった『虫の知らせ』のような『危惧』もあります。

煎じつめて言えば、『安泰が脅かされている』と感ずるストレスが『危惧』の正体です。

人間の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』が活動の基盤にあると考えると、色々なことが『そういうことか』と見えてきます。『安泰を希求する本能』は生物が『進化』するための要因の一つでもあります。

周囲の情報を『感覚器官』がとらえ、『安泰が脅かされている』と『認知』するのも『危惧』ですが、脳内に蓄積されている過去の記憶や知識を利用して『推論』を行う『危惧』もあります。

『あの人の態度が最近冷たくなった。もう私を愛してはいないのでは』や『最近体重が減り始めた。もしやガンで余命が少ないのでは』などと『推論』するのが後者の例です。これらの場合は明らかに自分で『危惧』のタネを創っていることになります。

心配のあまり『何も手に付かなくなる』ことや、反対に『問題に立ち向かって解決しよう』と前向きになることや、時には冗談で紛らわせようとしたりすることもあると、エッセイの著者は書いています。

冗談の例として映画俳優で監督でもある『ウッディ・アレン』の言葉を引用しています。

『私は死ぬことは恐れない。ただそれが起きる時にそこに居合わせたくないだけだ』

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2017年4月17日 (月)

『危惧』の神秘を危惧する(3)

『危惧』の情感は、現状や抱えている問題が、『不都合な事態』になるのではないかと『脳』が『推論』して起こります。

生物の中で、『人間』が最も高度な『推論』機能を獲得していると断言はできませんが、『人間』の『推論』機能は、相対的に他の生物より高そうであるように見えます。

自然界を支配している不思議な力は、『神(または神々)』が関与していると、古代の人々は『推論』し、『神(神々)』という『抽象概念』を思いついたのであろうと梅爺は『推論』しています。興味深いことに、地球上のあらゆる民族、部族が『神』という概念を保有しています。未開の地の部族でも、彼らの『言葉』を保有し、彼らの『神』という概念を保有しています。『言葉』の機能の進化の延長に『神』という『抽象概念』は必ず出現するように見えます。

人類はその後『神(神々)』を、『宗教』の『教義』の中に組み込み、『教義』を高度で洗練された体系にまで進化させました。『宗教』は人間社会へ大きな影響力を持つようになり、人々は、神へ願い事をし、神へ祈りをささげることを、当り前の習慣にしてきました。、

しかし、他の生物が、『神』へ祈りをささげている様子は見たことがありません。『人間』の推論機能が、他の生物より高そうだと梅爺が考えるのはそのためです。

その後、人類は『科学』的な探求を続け、自然界を支配している不思議な力の正体は『摂理(普遍的なルール)』であることが分かってきました。

それならば、その『摂理』を『神(神々)』と呼べばよいのかということになりますが、そうはいきません。

『宗教』の『教義』が教える『神(神色々)』は、人間に対して『愛』『慈悲』を垂れ、私達の『罪』を赦しても下さいますが、自然界の『摂理』は、ただ冷厳な『ルール』であって、『愛』『慈悲』『罪の赦し』などとは無縁であるからです。

『摂理』は自然界に、人間が『天災』と呼ぶような『変容』を起こす要因です。『天災』は容赦なく善良な人間の命を奪ったりしますから、『摂理』を『神』とすることは到底できません。

人間の悪行を懲らしめるために『神』が天罰として『天災』を起こしたなどという説明はとても無理があります。『科学知識』は『宗教』の『教義』の一部を窮地へ追い込もうとしていますが、人間社会における『宗教』の慣性は大きく、現代人の多くが『神は実在する(単なる抽象概念などではない)』という考え方を捨て切れずにいます。

梅爺は、『物質世界(自然界)』と人間の『精神世界』を区別して考えることで、『神』は人間の『精神世界』が創り出した『抽象概念』であろうと考えるようになりました。『神が人間を創造した』のではなく『人間が神を創造した』という畏れ多い考えです。

ついでに申し上げれば『愛』『慈悲』『罪』『正義』『邪悪』『平和』『目的』なども、『神』同様に全て人間の『精神世界』が創出した抽象概念であろうと考えています。

梅爺の推論通りならば、人間がいない世界では『神』『愛』『慈悲』『罪』『正義』『邪悪』『平和』『目的』という概念は通用しないことになりますが、そう考えてみて『矛盾』はどこにも見つかりませんので、この考え方を受け容れています。

『物質世界(自然界)』は、ただ『摂理』によって『変容』を繰り返しているだけで、『変容』は『正義』『邪悪』などとは無縁です。『天災』を『邪悪』と観るのは人間の『精神世界』の価値観です。『地震』も『津波』も自然界では単に『変容』にすぎません。

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2017年4月16日 (日)

『危惧』の神秘を危惧する(2)

このエッセイの最初の部分は、『危惧』している時に私達の『脳』の中で、どのようなことが起きているのかを、詳しく論じています。

『脳科学』に詳しくない梅爺は、『脳の部位の英語表現(専門用語)』に戸惑いました。ですからこの部分は、翻訳(梅爺の拙訳)で紹介します。

簡潔に言ってしまえば、私達が『危惧』し、心理的なストレスを体験している時には、『脳』の『前帯状皮質』と『眼窩前頭皮質』が相互に影響しあい、またそれらと『扁桃体』も影響しあって活性化します。
『扁桃体』は『海馬』『皮質下の構造』とともに、『視床下部』を制御します。
『視床下部』は『自律神経』を制御し、『自律神経』は『エピネフリン』『アセチルコリン』(いずれもホルモン)の分泌を促します。
『視床下部-下垂体-副腎系』は血液中へ『コルチゾール』(副腎系皮質ホルモン)を送り込みます。
このように、私達が『危惧』するときには、驚くほど複雑な神経系と分泌系の相互作用が起きており、これが人間の『脳』と『身体』の活動に影響を及ぼしていることになります。

著者の言いたいことは、『専門用語』を羅列することではなく、『意識』に属する『危惧』は、生物学的には非常に複雑な『脳内活動』と関連しており、『脳内活動』の全貌が解明できていない現時点では『危惧』を明解に論ずることが難しいということです。

つまり『危惧とは何か』は、分からない(神秘な)ことが多いということなのでしょう。

テレビに、『何でも知っている』と言わんばかりの『脳科学者』が登場して得意げに解説するのを聴いて、梅爺は『本当かなあ』と思うことが度々ありますが、この著者のように『現時点では分からない(明解に断言できない)』と正直に言ってもらった方が共感が持てます。

この著者は、梅爺のように、『危惧』を『物質世界の事象(脳内の動き)』と『精神世界の事象』とで対比させて論じてはいませんが、結局同じことを言おうとしていると感じました。

上記の『翻訳』部分の大半は、梅爺流に言えば『物質世界』で起きている、物理現象、化学現象を記述していることになります。

私達は、『笑ったり』『泣いたり』『危惧したり』『怒ったり』することを、『心』に起因する事象と受け取っていますが、『脳(物質世界の一部)』の中では、それに対応する、物理反応、化学反応が起きていることを知れば、『心とは何か』の認識が少し変わるはずです。

『宗教』『芸術』は、『心』が深く関与する分野ですが、これもまた『脳』が関与していると観れば、『心の安らぎ』『美に接した感動』などが、それぞれの目的の『ホルモン』の分泌と対応づけられることが分かるはずです。

梅爺は『宗教』『芸術』を、味気ない『ホルモン』と対応づけることで貶(おとし)めようというのではありません。

高尚な『宗教』『芸術』に接した時の『心』の動きも、『物質世界(脳)』の事象が基盤になっているという『事実』を述べているだけです。

梅爺はこのように考えることで、自分が『物質世界』の『摂理』によって『生かされている』ことへの感謝が深まるばかりです。

『生きている』からこそ、『宗教』『芸術』を体験できるということになります。『精神世界』が享受できるのは、生きている人間に限定された期間だけ与えられる特権なのです。死とともに『精神世界』が消滅すると考えれば、死者にとって『宗教』『芸術』は無縁なものになるからです。

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2017年4月15日 (土)

『危惧』の神秘を危惧する(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の44番目のタイトルは『Worries on the mystery of worry(危惧の神秘を危惧する)』で、著者はカリフォルニア州立大学アーバイン校の認知科学者です。

この本のひとつ前のエッセイ『昔も今も危惧することなどない』に関しては、少々無茶な論法ではないかと、梅爺は批判的に紹介しましたが、このエッセイは、『危惧とは何か?』という疑問に科学的に迫ろうとする内容で、こういう姿勢は梅爺好みですから大いに満足しました。

最近の50年間ほどで、人類はそれ以前とは比較にならないほど豊富な『科学知識』を獲得しました。

この知識を駆使して、私達はあらゆる事象を再吟味することが必要と梅爺は考えています。これを梅爺は『学際的なアプローチ』と呼ぶことにしています。このエッセイはまさしく『危惧』に対する『学際的なアプローチ』です。

従来『哲学』『宗教学(神学)』『芸術』など、その分野だけで『思索』していた問題、たとえば『私達はどこから来てどこヘ向かうのか(自分とは何か)』『神は存在するのか』『美意識とは何か』などの疑問も、『学際的なアプローチ』をすれば全く新しい視界が広がるのではないかということです。

科学知識が乏しかった時代に、賢人が『何を考えたか』は勿論現在でも参考になり、敬意を払うべきではありますが、それにばかりとらわれていると、『知性の進化』は滞ることになります。

今までと違った認識を受け容れることは、勇気のいることですが、『知性の進化』のためには必要なことです。

50年後、100年後の人類は、現在の私達の『認識』や『理解』を超えた新しい『認識』『理解』を獲得するに違いありません。

勿論過去から未来へ、普遍的に継承される『認識』『理解』があるに違いありませんが、多くの事柄は、それに対する『認識』『理解』は変わっていくのではないでしょうか。

そういう意味で、『宗教』の『原理主義的な考え方』に梅爺は共感が持てません。2000年以上も前に書かれた『聖典』の内容が、『全て正しい』などということはあり得ないからです。

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2017年4月14日 (金)

『ミュシャ展』(新国立美術館)(2)

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『スラブ叙事詩』の中の一枚『大ボヘミアにおけるスラブ的典礼の導入』

『ミュシャ』の『アール・ヌーボー的画風』は、パリに滞在していた貧しい画家であった時に、偶然請け負った『ポスター』が一躍有名になったもので、食べていくための手段として描いたものでした。
 

勿論画家としての才能があったからの成功ですが、一度有名になるとその『画風』を変えることが難しくなり、『ミュシャの画風』がその後続いたのでしょう。その後名声をバックにアメリカに渡り、ここでも富豪のパトロンがつくなどして生活に困ることがなくなり、チェコへ帰国して、ようやく『画家』として描きたかった作品『スラブ叙事詩』に取り組むことになったのでしょう。 

しかし、切手のデザイン、本の挿絵、教会の壁画、ステンドグラスのデザイン、演劇の舞台デザインなども同時に器用にこなしていますので、多彩な能力の持ち主であったことは明白です。 

チェコがナチスに占領され、『愛国者ミュシャ』は逮捕され、厳しい尋問を受けたことで体調を崩し、78歳の生涯を閉じています。最後は悲劇的ですが、概ね『名声を得た画家』としての生涯を送っていますから、芸術家としては幸せな部類に属します。 

チェコへの『愛国心』は分かりますが、何故『チェコ叙事詩』ではなく『スラブ叙事詩』を題材にしたのかは、興味深いことです。 

『スラブ民族』は、『インド・ヨーロッパ語族スラブ語派』を母体とする言語を話す人たちのことで、一つの民族を指すわけではありません。 

言語的な分類だけで、人類種の『スラブ民族』が存在するわけではないという話です。言語的に分類すると以下のようになります。 

東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)
西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)
南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)
 

言語が似ているということは、歴史的な関連が強く存在したことをうかがわせますが、言語と人種は単純に同じ分類にはならないところが、『人類の歴史』の奥深いところです。それは多民族国家『アメリカ』が『英語』を採用していることでもわかります。 

『ミュシャ』は、『スラブ人』の先祖は同一民族と考え、自分もその末裔と考えていたのではないでしょうか。 

西欧がヨーロッパの歴史の主流であるとすれば、一般に『スラブ人』と呼ばれる人たちの歴史は、周囲の異民族からの侵攻を常に受け、『強者に立ち向かう戦いの歴史』といったどこか『悲劇的』な印象が強いところがあります。『スラブ叙事詩』からもその印象を受けます。

20枚の絵にはタイトルがつけられていて、歴史的な場面が想像によって描かれていることは分かります。『民族愛』『信仰』『正義のための戦い』『芸術』『真理』などがテーマらしいことは分かりますが、『ゴヤ』の絵のような人間の本質を洞察する一貫した視点は感じ取ることはできませんでした。

芸術家は、自分の祖国の文化の影響を、知らず知らずに受けることは当然ですが、逆に祖国の文化や歴史を『賛美』する目的で芸術表現を利用しようとする行為には無理があるのかもしれません。人間を普遍的に見る視点が欠如することになるからでしょう。

『スラブ叙事詩』が大作、労作であることは分かりますが、『スラブ』という仮想の人種を題材にして、沢山のことを表現しようとしたために、反って焦点がぼけて、観る人を戸惑わせることになっているように感じました。

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2017年4月13日 (木)

『ミュシャ展』(新国立美術館)(1)

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『スラブ叙事詩』の中の一枚『故郷のスラブ人』

4月10日に、大学時代に属していた男声合唱団(東京大学音楽部コールアカデミー)の同期会年次総会が都心で開催され、この会は夫婦同伴も可ということで梅婆と出席しました。

年次総会は夕刻からの開催ということで、その前の時間を利用して、新国立美術館(六本木)で開催中の『ミュシャ展』を観ました。

『アルフォンス・ミュシャ(1860-1939年)』はチェコの画家で、一般には『アール・ヌーボ的な画風(フランスの女優サラ・ベルナールをモデルとするポスターなど)』で知られています。『ミュシャ』はフランス語の発音で、チェコの言葉では『ムハ』となります。

梅爺は、チェコのプラハは2度訪れたことがありますが、『ミュシャ美術館』には行きませんでした。『アール・ヌーボー的な画風』と勝手に決め付けて気が進まなかったからです。

今回の日本での『ミュシャ展』が話題を呼んでいるのは、『ミュシャ』が人生の後半20年をかけて描いた20枚の大作『スラブ叙事詩』が、全て展示されているからです。

『スラブ叙事詩』の全てが、チェコ以外の国で公開されるのは世界初のことで、『ミュシャ』の孫などは、『国宝ともいえる作品を国外へ持ち出すことなどあり得ない』と反対したと伝えられていますが、富裕国『日本』のオファーは、『スラブ叙事詩』の現在の所有保管者である『プラハ市』にとって金銭的に魅力的だったのでしょう。美術好きの日本人が多数『ミュシャ展』に押し寄せて、ビジネスとしても成り立つということでしょうから、大変結構な話です。

2012年から、『スラブ叙事詩』はプラハの『ヴェレトゥルジュニー宮殿』で公開展示されてきました。このような大作が最近まで一般公開されなかったのは、ナチスの占領時代は略奪を恐れて秘匿され、共産党政権時代は『愛国心を煽る』として公開されなかったからです。

『スラブ叙事詩』は、『アール・ヌーボー的』な『ミュシャ』の画風とは全く異なり、『スラブ民族』の歴史上の事件を題材とした作品です。

『ミュシャ』の『民族愛』『愛国心』が表現されていますから、スメタナの交響詩『わが祖国』の絵画版ともいえるものです。

『スラブ叙事詩』は、いずれも幅や高さが、6~8メートルに及ぶ大作ですから、どうやって日本まで運んできたのだろうと、梅爺は本質的でないことが気になりました。

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2017年4月12日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『十字軍のエルサレム攻略』(6)

1099年7月に『十字軍』の『エルサレム攻囲戦』が行われました。

『十字軍』の態勢は、騎士1500人、歩兵12000人と推定されています。

迎える、イスラム勢力は、ファーティマ朝(エジプト)の守備隊1000人で、指揮官は『イフティファール・アッ=ダウラ』でした。

数で比較すると『十字軍』が圧倒的に有利に見えますが、高い城壁に囲まれた『エルサレム』の全ての門を閉ざした『籠城戦法』をイスラム勢力は採りましたので、『十字軍』は苦戦を強いられました。

『十字軍』は食料と水の不足に悩まされました。イスラム勢が『十字軍』が接近する前に、『エルサレム』近辺の井戸に毒物を投げ込んであったからです。『籠城』しているイスラム勢には、食料も水も確保されていました。

当時はまだ兵器として大砲、鉄砲はありませんから、弓矢が主体で、これに投石機(十字軍)、岩石おとし、『ギリシャの火(火炎弾)』(いずれもイスラム勢)が使われました。勿論肉薄戦になれば、剣、槍で戦うことになります。

『十字軍』は、『投石機(カタパルト)』や、城壁を乗り越えるための『攻城塔』を現地でつくる必要がありましたが、材料となる木材や鉄の釘などが調達できずにいました。パレスチナの丘には灌木しかなく、木材にはならないからです。ようやく、ベネツィアやイギリスの船が、近くの港に木材や釘などを運び込み、現地での組み立てができるようになりました。現在のような通信網のない時代に、後方との連絡がどのように行われたのか想像するしかありませんが、『兵站』は効率の悪いものであったに違いありません。

城壁の外側には『堀』が掘られていて、『攻城塔』がこれを突破するのにも難儀しました。城壁の上から、『岩石おとし』『弓矢』『ギリシャの火』で攻撃してくるイスラム勢の前に、『十字軍』の歩兵は大半が戦死したと考えられています。

ようやく一部の『攻城塔』が城壁への接近に成功し、攻め入った『十字軍』は城内からの開門を行い、全軍が一斉になだれ込んで、前にも書いた、大殺戮、大略奪が行われました。7月の太陽のもとで、数万の死体が腐敗し、すさまじい悪臭を放ったと『ウンベルト。エーコ』は書いています。

とらえられたイスラム勢の指揮官は、身代金を払って釈放されています。このような取引を行った騎士に対する歩兵たちの怒りが、暴徒化した要因とも考えられます。

ローマ教皇の『聖地奪還』というきれいごとの指令が、現地では『異教徒の大量殺戮』『物品の大略奪』で終わりました。『ウンベルト・エーコ』がこの悲惨な出来事を、実況放送形式でエッセイをかいた真意は、現代人にも潜む『人間の恐ろしい習性』について、理性を失うなと警告したかったからではないかと思います。

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2017年4月11日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『十字軍のエルサレム攻略』(5)

西ヨーロッパを出発した『十字軍』は東へ進み、『東ローマ帝国』の支配地(現在とトルコ)を経由して、西アジアへ入り、南進して『エルサレム』に到着しました。

西アジア(現在のシリア、ヨルダン、パレスチナ)はイスラム教の『都市国家』が支配していた地域で、『十字軍』はこれを次々に攻略しながら進みました。

騎士のリーダーの中には、攻略した『都市国家』で、『キリスト教王朝』を開設する人間も出現しました。飢えに苦しみながら苦しい進軍をするより、名誉と安定した生活基盤を獲得して、そこに住みつこうとする気持ちも理解できます。

そのような『エルサレム』に向かって一向に進軍を開始しない一部の騎士に対して、兵士たちは『聖地奪還』の目的を忘れたのかと怒りだし、自分たちだけで決起するぞと、騎士を突き上げたと伝えられています。

もうひとつ重要なことは、イスラム教の『都市国家』では、『ユダヤ教』『キリスト教』を信ずる人たちも、コミュニティで『共存』が許されていたことです。

『十字軍』がそれをどのように認識したかは定かではありませんが、『エルサレム攻略』に成功した時に、場内にいたほとんどの『ユダヤ教徒』『イスラム教徒』を、老若男女の区別なく『殺戮』しています。犠牲者の数は4万人に上ると推定されています。

当時の『カトリック』が、いかに『教条的』であったかが分かります。中世西欧で横行した『異端審問』『魔女狩り』などの過酷な行為も同根です。

私達は、現在の『イスラム国』の教条的な行為に眉をしかめますが、当時の『イスラム教徒』や『ユダヤ教徒』は、『十字軍』の『教条的』な行為に翻弄されたことになります。

騎士のリーダーの中には、『モスク』や『シナゴーグ』に難を逃れて逃避していた『イスラム教徒』『ユダヤ教徒』を『殺すな』と命じた人もいましたが、暴徒化した『十字軍』の兵士たちの殺戮、略奪を止められなかったともいわれています。

『戦争』は人間を野蛮にするという習性は、現在も変わっていません。人間から『理性』を奪うということが『戦争』の最大の弊害です。

日本人も80年前には、『鬼畜米英』と叫んでいましたから、他人事(ひとごと)ではありません。

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2017年4月10日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『十字軍のエルサレム攻略』(4)

西欧の歴史を主体に学んできたために、なんとなく『スマートで強い十字軍』『野蛮で弱いイスラム軍』という勝手な思い込みがありましたが、昨日も書いたように、実際は圧倒的に『イスラム勢力優勢』で終始していたことが分かりました。なんともお恥ずかしい次第です。 

しかし『十字軍』には同情すべき事情があることも認識しておく必要があります。 

それは『西ヨーロッパ』からの『遠路遠征』であることです。現在のような便利な交通手段があるわけではありませんから、陸路(騎馬または徒歩)にせよ海路にせよ、西アジアまたはアフリカ(エジプト)への遠征は、想像を絶する大変さが伴なったことでしょう。 

カトリック圏内では、途上の支配者である王侯貴族の支援(食料や宿舎の提供)が得られたでしょうが、イスラム勢力圏に入れば、兵站(へいたん)の確保、未知の気候や地理への適応、言葉や文化の違いへの対応など、苦労が絶えなかったはずです。 

秀吉の命令で『朝鮮征伐』に出向いた日本の『武士団』も、敵地で辛酸をなめましたが、『十字軍』はさらに『遠路遠征』ですから、もっと大変であったと想像できます。 

ハンディキャップは、完全に『イスラム勢力圏内』の他人の土俵で戦ったということでしょう。『イスラム勢力』優勢なのは当然のことです。しかし『イスラム勢力』側も、全員が団結して『十字軍』に対抗したとは言えないところがあり、こちらも問題を抱えながらの戦闘でした。 

『十字軍』はそれでも、王侯の資金援助などがありますが、一般の信者が多数『聖地巡礼』に出かけているのも大変な話です。途中で病死する、イスラム勢力圏内では略奪される、殺されるといったことが起きたに違いありません。 

200年にわたる『十字軍』の歴史は、梅爺に興味を抱かせますが、それに拘泥していると、『ウンベルト・エーコ』が紹介している『エルサレム攻囲戦』がボケてしまいますので、今回は『第一回十字軍』『エルサレム攻略』に焦点を絞って考えてみたいと思います。 

『第一回十字軍』は、ローマ教皇の呼びかけに応じた、騎士団と傭兵である歩兵中心で構成されていました。『十字軍』のメンバーではありませんが、多くの聖地巡礼者が、つかず離れず一緒に行動していたことが推測できます。

いつの時代でも『戦争』は莫大な金がかかるものですが、『十字軍』の資金は王侯貴族の『献金』でまかなわれたのでしょう。ローマ教皇は、『聖地奪回へ参加した人、支援した人は罪が許される』宣言し、当時の人たちはそれを『信じた』のでしょう。

現代の『イスラム教原理主義集団』は、『自爆テロ』を決行すれば、死後天国で『アッラーの神の右に座すことができる』と若者を洗脳し、若者たちもそれを『信じて』行動していますので、人間は1000年前とそう変わっていないとも言えます。

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2017年4月 9日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『十字軍のエルサレム攻略』(3)

『ウンベルト・エーコ』がこのエッセイを書いた主目的は、中世の『エルサレム攻囲戦』に関する歴史知識を読者に提供することではなく、『戦争』の背景にある、人種対立、宗教対立、人の死にマヒしてしまった兵士の残虐行為、勝者による敗者の略奪行為といった不条理を明らかにすることであろうと思います。 

『ウンベルト・エーコ』の専門分野でもある中世ヨーロッパの歴史を題材にして、読者の興味を惹きながら、現代も不条理な戦争を繰り返す『人間』の変わらぬ習性を指摘することが主旨であるのでしょう。 

『何故人間は戦争をやめないのか』『何故戦争で人間は野蛮になるのか』『宗教間の対立は何故深刻なのか』『人種偏見は何故起こるのか』といったテーマは勿論梅爺の興味の対象ですから、『ウンベルト・エーコ』の問題意識には共鳴しますが、このエッセイでは『答は読者で考えなさい』と問題を提起するにとどまっています。 

上記の問題意識を再確認するためにも、『エルサレム攻囲戦』について背景を考えてみたいという気になりました。 

『ウンベルト・エーコ』がエッセイで紹介しているのは、『第一回十字軍』遠征時の出来事です。 

『十字軍』遠征は、その後約200年間に、9回(説によっては8回)行われています。全体像を把握するために簡単に列記してみます。 

第一回(1096-1099年) 陸路 エルサレム攻略成功
第二回(1147-1148年) 陸路 敗北
第三回(1189-1192年) 海路 休戦協定 エルサレム未奪還
第四回(1202-1204年) 海路 エジプト経由 コンスタンティノポリス略奪
第五回(1218-1221年) 陸路 敗北
第六回(1228-1229年) 陸路 平和条約 エルサレム統治権獲得
第七回(1248-1249年) 海路 敗北 
第八回(1270年)       海路 敗北
第九回(1271-1272年) 海路 敗北(全滅)

このように観てみると、全体としてはイスラム勢力の方が優勢であったことが分かります。第一回の『エルサレム攻略成功』と第六回の『平和条約締結、エルサレム統治権獲得(神聖ローマ帝国フリードリッヒ2世の外交術)』だけが、キリスト教陣営の成果と言えそうです。

この他、『民衆十字軍』『少年十字軍』『羊飼い十字軍』など、民衆主体で結成されたものもありますが、ほとんどは大敗に終わりました。

『罪が許される』として信仰心で決起してみても、統制のとれない軍隊ではイスラム勢力に歯が立たなかったのでしょう。

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2017年4月 8日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『十字軍のエルサレム攻略』(2)

『十字軍』遠征は、11世紀にはじまった中世の歴史的史実です。

ローマ教皇『ウルバヌス2世』が『クレルモン』での教会会議で、『聖地(エルサレム)を異教徒から奪還せよ』と述べたことで、ヨーロッパ(カトリック圏内)全土の騎士団、民衆(聖地巡礼を目指す)が立ち上がったということになっていますが、勿論直接のきっかけはそうであったとしても、もっと複雑な政治情勢、宗教情勢が背後にあるよに梅爺は勘ぐってしまいます。

当時、東ローマ帝国(コンスタンチノポリス:現在のイスタンブール)は、トルコのイスラム朝『セルジューク朝』の攻撃に晒され『アナトリア半島』を占領されてしまったりしていましたから、東ローマ帝国皇帝からローマ教皇『ウルバヌス2世』に、援軍派遣要請をしていたことが分かっています。

当時『東ローマ帝国』は『正教』、西ヨーロッパ諸国は『カトリック』と『キリスト教』は宗派分かれしていましたから、『東ローマ帝国』の皇帝から、『カトリック』の教皇に『援軍支援をした』ということ自体異常であり、切羽詰まった状況が読み取れます。

『キリスト教』に疎い多くの日本人は、『キリスト教』の『カトリック』『正教』『プロテスタント』の区別や違いをあまり理解していません。更に『プロテスタント』といわれる宗派にも、沢山の枝分かれがあることも、理解していません。

『キリスト教』に限らず、『宗教』は必ずと言ってよいほど『宗派分かれ』が生ずるのは『何故か』を梅爺はブログで仮説を述べてきました。

『人間』の『精神世界』は『個性的』であるように宿命づけられているので、必ず『私はあなたのようには考えない』という人が登場することになるというのが、梅爺の考えです。『神の真理』が、人によって解釈が異なるというのは矛盾であり滑稽ではないかと言いたくもなります。このことから、もともとの『教義』も、『人間』が創作したものであろうと考えています。『神が人間を創った』のではなく、『人間が神という概念や教義を創りだした』という『畏れ多い』考え方です。

宗派分かれすると、お互いの反目は強くなります。ローマ教皇は、『東ローマ帝国(正教)を助けなさい』とカトリック圏内の王侯や騎士には言えないので、『聖地を奪還せよ』間接的な発言をしたのではないでしょうか。

『十字軍』は、『東ローマ帝国(コンスタンティノポリス)』を通過して、パレスチナ地方へ遠征しました。『東ローマ帝国』を支援するどころか、『十字軍』やベネティア軍によって『コンスタンティのポリス』の略奪が行われています。現在『ベネティア』にある多くの秘宝は、『コンスタンティノポリス』からの略奪品です。『ベネティア・グラス』などのガラス工芸製造技術も『東ローマ帝国』から職人を移住させてつくらせたものです。

『十字軍』へ参加した騎士や、『聖地巡礼者』は、純粋に『聖地(エルサレム)奪還』を目指していたのかもしれませんが、派遣の裏には、政治的、宗教的背景があると梅爺は想像しました。

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2017年4月 7日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『十字軍のエルサレム攻略』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ『Turning Back the Clock(時を遡る)』の26番目の話題は『The Taking of Jerusalem; An Eyewitness Report(エルサレム攻略実況放送)』です。

1099年7月に、ヨーロッパから遠征してきたカトリック系騎士団に率いられる『十字軍』と、『エルサレム』を守っていたエジプトのイスラム教シーア派王朝『ファーティマ朝』の守備隊が、激しい攻防戦の結果、『十字軍』が勝利した歴史上の『エルサレム攻囲戦』の様子を、現代の戦地特派員(レポーター)の『実況中継放送』風に記述した異色のエッセイです。

ヨーロッパ中世史に詳しく、それを舞台とした小説を何冊も書いている『ウンベルト・エーコ』ならではの見事な手法です。

現代の最先端通信技術による『実況中継』と、中世の『エルサレム攻囲戦』を組み合わせるという発想は、大人のための童話(ファンタジー)のようなものですが、『エルサレム攻囲戦』が突然生々しい人間同士の戦いとして読者に迫ってきます。

『堅苦しい内容』『難解な内容』を分かりやすく、興味深く読者へ提示するために、仮想人物による『討論』『質疑応答』風に記事術するといった手法は、作家がよく用いる方法です。

『夏目漱石』の『吾輩は猫である』も、登場人物の珍妙な会話や、猫の語りで展開しますが、意外に哲学的なことを論じていたりして、作者の巧妙な『仕掛け』が背後にあると感じます。落語と違って登場人物は『教養ある人たち』ですが、『人間の本性を笑い飛ばしている』という点では、日本伝統の『諧謔』が踏襲されていて、梅爺は笑い転げてしまいます。猫に人間を批評させるといった奇抜な発想も見事です。

『歴史的な攻防戦』は、『実況放送』風にすれば、単なる『歴史書』を読むのとは異なった面白さがあるのは当然です。

歴史小説が、この手法を利用しているために、『関ヶ原の合戦』は歴史の教科書より小説の方が断然『面白い』ことになります。

梅爺は、『エルサレム攻囲戦』については、ほとんど何も知識を持ち合わせていませんでしたが、『実況中継』を読んで、俄然興味がわいてきました。

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2017年4月 6日 (木)

危惧しても始まらない(4)

『危惧』する状態になり、悩みぬいて藁(わら)をもつかむ思いで試行錯誤しているうちに、『名案』を思いつくことがあります。

昨日も書いたように『危惧は名案の母』という体験を、梅爺は仕事の現役時代に何度も体験しました。『名案』にたどり着いた時の喜びは一入(ひとしお)で、自分に自信がわいてきました。『艱難辛苦汝を玉にす』とはこのことかと感じ、『よーし、次も頑張るぞ』と前向きな気持ちになりました。

厳しいトレーニングに耐えて、試合に勝ったスポーツ選手も同じ心境なのでしょう。『難題』『試練』を乗り越えることで、人は成長することが分かります。人生において『立ち向かう』『逃げる』の判断は、難しいのですが、『逃げて』ばかりの人生は悔いを残すのではないでしょうか。

人間の『脳』のしくみはその全貌が分かっていませんので、現状では『不思議』にみえることが沢山あります。

『名案』を思いつくきっかけも、『危惧を抱えて煩悶した結果』も確かにその一つですが、むしろ、『心配事を一度棚に上げ眠る』ことも効果があると心理学者は行っています。

目覚めたときの爽快感の中で、突然『名案』が閃きやすいというのです。『眠っている間に、脳神経細胞は記憶を再整理するから』と脳科学者は推測しますが、仮説の域を出ません。

梅爺は、目覚めた直後というより、入浴中、トイレの最中、ベランダでタバコをくゆらせている時に、突如『閃く』ことがあると実感しています。

『タバコはやめなさい』と梅婆に言われて、1日4本に節煙はしたものの、まだ続けているのは、この『名案の閃き』があるからと、自分に言い聞かせています。禁煙しない格好の言い訳になっています。

『脳』の活動は、緊張時と弛緩(しかん)時と両方に意味があるということなのでしょう。これは『筋肉』なども同じですから、エネルギーを使う、エネルギーを貯めるの違いに起因しているのではないでしょうか。

『命』と『エネルギー摂取、消費』の関係は、『命』が『物質世界』の『摂理』で維持されていることの間接的な証(あかし)です。

エッセイの著者の『今も昔も危惧すべきことなど何もない』という主張は、少々乱暴と感じましたが、ついでに、『危惧とは何か』『危惧の効用』については、自分なりに考えるきっかけになりました。

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2017年4月 5日 (水)

危惧しても始まらない(3)

人間である以上『危惧』と無縁に生きることはできないことを昨日まで論じてきました。

『危惧』が解消される状態を『あるべき姿』『理想』として思い浮かべ、それを『実現』するための具体的な行為(手段)を考案しようとします。『安泰を希求する本能』が私達の『精神世界』を支配しているからです。

科学者にとって『疑問』は、『危惧』と類似したものです。『因果関係』を『分からない』ままに放置しては『精神世界』は落ち着きませんから、解明して安堵したいと思います。『好奇心』もまた『安泰を希求する本能』に立脚していることが分かります。

このエッセイの著者が『危惧するな。行動せよ』というのは無茶な話で、多くの場合『危惧』が引き金になって、『行動』が立案されることになります。

『窮すれば通ず』と昔の日本人はこれを表現しています。『危惧』すること自体は嫌なことですが、結果的に『危惧』が『解決策』を導き出す主因になることを見事に洞察していたことが分かります。

梅爺は、最近腰痛が原因の脚の筋肉痛で、歩行に支障がでる事態が2ケ月間ほど続きました。勿論整形外科へ通ったり、ツボを探してマッサージしたり、お灸を据えたりと、ありとあらゆる思いつきを試したりしました。

その中のどの施療が功を奏したのかは判然としませんが、どうにか痛みが消えて通常の歩行ができるようになりました。老化により脚の筋肉が弱っていることが原因と推定できましたので、再発させないために『歩く』『運動する』を今後強化したいと思っています。

『肉体的な痛み』は『危惧』同様、『解消策』を必死で模索する引き金になります。人間は『問題』『疑問』『危惧』を抱えるからこそ、その解決策を考案し、それを知恵として共有し、文明を進化させてきました。

『失敗は成功の基』と同様、『危惧は名案の母』という関係がありますので、『危惧するな』ではなくむしろ『大いに危惧しなさい』という方が、現実的ではないでしょうか。

しかし、『危惧』はよい結果ばかりではなく、人間に悪い影響も及ぼすことも、理解しておく必要があります。

何事にも長短があるように、『危惧』は『ストレス』として時に健康を損なう要因にもなります。

『ストレス』に耐える能力は個人差があり、『危惧』を良い方に活用する人と、『危惧』に負けて精神的、肉体的に健康を害していしまう人が生じます。

『病は気から』というように、『採り越し苦労(危惧)』ばかりしていると、消化機能に支障をきたしたり、うつ病になったりすることにもなります。

心理学者の中には、『笑う』行為がストレスを解消することに有効と唱える人もいますので、梅爺は『苦虫をかみつぶしたような顔の爺さん』を避け、いつも笑みをたたえた『好々爺』になりたいと願いますが、これはなかなかの難題です。

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2017年4月 4日 (火)

危惧しても始まらない(2)

著者が本当に言いたいことは、『危惧するだけなら事態は何も変わらない』ということなら、梅爺は同意できます。

ただし『There is nothing to worry about.』という英語の文意を、上記のように解釈することはとても無理な話です。

何故『危惧するだけなら事態は何も変わらない』という解釈なら同意できるかというと、『危惧する』は『祈る』『願う』などと同じで、人間の『精神世界』の中で行われている行為で、外の実態のある世界には直接の影響を及ぼすことにはならないと考えるからです。

昔の人は『加持祈祷』で、『疫病が流行らないこと』『干ばつが起こらないこと』『豊作』『家内安全』『子授け』などを『願い』ましたが、『物質世界(自然界)』を『摂理』が支配するしくみについて『科学知識』を得た今日(こんにち)では、残念ながら因果関係は存在しないことが判明しましたので、『理』を尊重する人たちは実質的な効果を本気で信ずることはなくなりました。

世界中の人たちが『平和』を祈っても、『平和』は訪れないのもそのためです。

しかし、このような『考え方』をあからさまに主張することは、周囲の人たちを不快にすることにもなりますので、梅爺は『参拝』『祈祷』などの社会的な習慣には形式的にお付き合いをしています。祈りの『宗教曲』を合唱で歌ってもいます。そのことで実態ある世界が変わることはないと考えますが、『祈る』『参拝する』という行為で、自分の『精神世界』が『安らぐ』ことは実感しますので、『祈る』『参拝する』が全く無意味な行為とは考えていません。

『宗教』は、あくまでも自分の『精神世界』をみつめ、『心の安らぎ(安泰)』を得るためのもので、『宗教』を実態ある外の世界と関連付け、これを変えるための手段にしようとした時に、トラブルが起きるのは避けられなくなります。『宗教』の『原理主義者』が『テロリスト』を生み出したりするのは、その典型例です。

『精神世界』は周囲の『物質世界』から得られた『情報』を引き金にして活動することが大半です。

しかし『精神世界』のなかの思考は『抽象的なもの』ですから、直接外の実態ある世界に影響を及ぼせません。

『精神世界』が実態ある『行為』を考案し、それを『実行』した時に初めて外の実態ある世界に影響を及ぼすことができるようになります。

その意味では『危惧しても始まらない。行動しなさい』という主張は一理があります。

次なる問題は『危惧』は具体的な『行動』とどのような関係があるかということになります。

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2017年4月 3日 (月)

危惧しても始まらない(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の43番目の話題は『There is nothing to worry about. And there never was.(今も昔も危惧すべきことなど何もない)』で、著者はYahoo News 記者の『Virginia Heffernan』です。

硬質な英語の文体で、文意を理解するのが難しいのですが、著者が言いたいことは、『危惧しても始まらないし何も変わらない。現状を注意深く受け容れることが、安寧をもたらし、賢く振る舞う知恵を思いつかせてくれる。危惧などしていないで、行動しなさい』ということらしいと受け止めました。

著者はまた、文明評論家の『Marshall McLuhan』の言葉、『配電網が西欧社会の方向付けを行う』を引用して、『頭が痛くなるほど、関わった方がよいのか逃避した方がよいのかを危惧することで、一縷の光が見えてくる』、つまり『大いに危惧すべし』という従来の西欧社会の思い込みを打破するために、『インターネット』が世論を誘導しないようにしてほしいとも書いています。

『インターネットが西欧人を危惧するように仕向けている』『危惧をやめて、行動しよう』という著者の『論理』が、いまひとつ梅爺にはピンときません。『McLuhanの言葉の引用』『危惧』『インターネットの功罪』を論理的に関連付けに用とする主張に無理があると思うからです。

もう少しはっきり言えば、この著者は気取った文章で悦に入っているだけで、物事の本質を、誰にもわかりやすく説得する能力に欠けていると感じました。大変無礼な感想ですが、梅爺が『そのように感じた』というのは、梅爺の個性ですからご容赦いただくしかありません。

先ず第一に、『危惧するな』と言われて『はい、分かりました。危惧をしません』と対応できるほど『危惧』は人間にとって易しい代物ではないことを、著者が理解しているようには見えません。

生物進化の過程で培われてきた『安泰を希求する本能』は、人間にとって『生きる』ことに直結するもので、『(安泰が脅かされることを)危惧する』こともまた、対の本能である考えるべきです。

人間の『精神世界』は、常に周囲の情報をチェックして、『安泰を脅かす要因は存在しないか』と『危惧』し、その後『判断』を行い、『安泰を求める行動』に移行します。これが、人間の基本行動であり、この累積の中で人類は文明を築き、繁栄してきました。

勿論『判断』は、後に不都合と判明するものもあり、失敗や挫折も繰り返してきました。科学の世界の『真偽の判断』を除いて、『精神世界』が不都合な判断をしない保証はありません。何が『正しい』かを事前に判定する方法がないからです。『進学』『就職』『結婚』などの対応する時の『判断』を思い描いていただければ、梅爺が何を言いたいのかご理解いただけると思います。

つまり『危惧』は人間が生きる上で不離不即の行為ですから、『危惧することなどない』と言われても『危惧しない』わけにはいきません。

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2017年4月 2日 (日)

Necessity has no law.

英語の諺『Necessity has no law.』の話です。

『必要の前に法は通用しない』ということで、『やっぱりホンネはそういうことでしょう』と梅爺はついニヤニヤしてしまいます。人間の本質の一面を鋭くとらえていると感ずるからです。

梅爺のいつもの思考規範でこの諺を観れば、何を言いたいのか理解できます。

『必要』は言いかえれば『自分にとって必要なこと(自分にとって都合がよいこと)』で、『安泰を得る』条件として求めている概念です。

『安泰を希求する本能』が、人間の『精神世界』を基盤のところで支配していると梅爺は考えていて、この視点で人間や人間社会の事象を眺めるようにしています。

『法』は人間社会が『文明』を保有するようになった後に考え出された、そのコミュニティの規範となる『約束事』です。個人の『必要』ではなくコミュニティの『必要』を具現化するために考え出されたものです。

『個人』の『必要(都合)』と、コミュニティ(社会)の『必要(都合)』は、必ずしも同じではなく、多くの場合『矛盾』します。

人類は、群(コミュニティ)を形成して生きていく方法を生物として選択しましたので、それ以来この『矛盾』は私達につきまとい、解けない難題となっています。

『法』は便宜的に考え出された一つの『約束事』に過ぎませんから、絶対的に『正しい』とはかぎりません。

この諺は、『個人の都合(必要)』を優先すれば、『コミュニティの法(約束事)』は役に立たないことがあるということを言っています。両者は『矛盾』しているわけですから当然の話です。言い換えれば、いざとなると人間はコミュニティより自分を優先しようとするという習性が強いということでしょう。

人間は『利己』を優先すれば、『法』より自分を優先し、『利他』を優先すれば『法』を優先して自分は抑制することになります。親は本能的に身を賭して子供を守ろうとしたりしますが、一般的に『利他』の価値を認める人はかなり理性的な人です。

したがって、この諺が『正しい』かどうかなど議論しても始まりません。人間にはそのような側面があり、『矛盾』を抱えながら生きていることを指摘しているだけであるからです。

梅爺は、このような堅苦しい表現より、日本の『背に腹は代えられぬ』という、諧謔で笑い飛ばす表現が好きです。『お前さん、いざとなれば、人てぇものは、そういうものよ』という江戸の庶民の語り口が聞こえてくるからです。

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2017年4月 1日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『異文化共存における折衝』(4)

『ウンベルト・エーコ』は『異文化』への対応は、相手を知ろうとする努力に尽きると言いたいのでしょう。この努力なしに『折衝』がうまくいくはずはありません。

『異文化』などと大上段に構えなくても、人間社会で起きる問題の大半は、『相手を知らない』ことで生じます。

相手のしぐさや表情から、何を考えているのか、何を感じているのかをある程度は推測できますが、『精神世界』を直接覗き込む手段はありませんから、『相手を知る』ことは至難のことです。

したがって、人間関係は、『相手を知る』こと以前に、『違いの存在を認める』ことが必要です。これを認めてしまえば、冷静に対応できます。

アメリカ人のビジネスマンと『折衝』をする中で、梅爺は『英語』の難しさを痛感しました。単語として知っていると思っていた『言葉』が、『折衝』では特別な意味を持つことを初めて知ることになりました。勿論アメリカ人は特別の意味などとは考えずに、『当り前』のこととしてその言葉を使っていることに気付きました。

『Insist』:日本人は『主張する』という意味で一般的に使いますが、アメリカ人は相手と立場(Position)が異なっていることを前提として、自分の立場を表明するときにこの言葉を用います。ビジネスでは最初のお互いの『立場』を文章化して交換することがあり、これを『Position Paper』と呼びます。

『Debate』:単なる討論ではなく、相手との立場の違いを認識して、如何に自分の立場の方が論理的、合理的であるかを述べ合うことを意味します。結論より、その発言の論理性、合理性を競うときの言葉です。

『Negotiate』:これも相手との立場の違いを認めたうえで、妥協できる『中間案』を模索するときの言葉です。『折衝』はこれにあたります。

『Persuade』:これは、自分と考えが異なる相手を、自分と同じような考え方に変えようとする行為を指します。

日本人は『白黒をつける』という言葉を使い、『どちらが正しいか』を決めようとします。そして『白黒をつける』ことが可能であると勘違いする場合が多いように思います。

梅爺の会社の上司が、『アメリカへ行って相手を説得しろ』と梅爺に命ずるのは、相手の『分かりました、あなたが正しいことを認めます』という『言質(げんち)』をとってこいという意味なのです。

しかし、現実的には『説得(Persuade)』は困難です。アメリカ人はそれを知っていますから、最初はお互いに立場を主張(Insist)し、その後少し討論(Debate)してから、最後は折衝(Negotiate)しようというプロセスになります。

言葉の意味も含めて、これがアメリカのビジネス文化なのです。

『白黒をつける』『折伏(しゃくふく)する』ことが大切という、日本の文化と違いがあり、これに関しては慣れればアメリカ流の方が快適と梅爺は感ずるようになりました。

しかし、日本へ帰ると『お前は折伏に失敗した』と評価されることが多く、ほとほと閉口しました。

『ウンベルト・エーコ』の『折衝論』を読んでいて、昔のことをほろ苦く思い出してしまいました。

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