『科学』を受け入れようとしない人たち(2)
『科学』を『信奉する人』と『信奉しない人』の、皮肉な関係の象徴として、筆者は『ニュートン(1642-1727年)』と『ウィリアム・ブレイク(1757-1827年)』を紹介しています。
英国ロンドンの国立図書館の中庭には、大きな『ニュートン』の銅像が建っていて、これは『ウィリアム・ブレーク(詩人、画家)』が描いた『ニュートン像』を基に作られたものです。
『ニュートン』は偉大な科学者で、限りなく『自然界の摂理』を解き明かそうとしましたが、『ウィリアム・ブレイク』は『科学』を毛嫌いしていたことで有名な人物です。本来縁はないはずの二人が、『銅像』でつながっているのは、確かに皮肉な話です。
『科学』は『物質世界』の『摂理』を明らかにしようとする領域で、原則として『因果関係』『真偽の判定』は普遍的、論理的に定義できることを前提としています。
つまり『摂理』を基にした判断基準があり、『同じ条件なら同じ事象が起きる』という『再現性』も、『真偽の判定』には重要な要因となります。
しかし『科学』の領域にも、『結果が予測できない偶発的な事象』は例外的に存在します。これに対しては『確率』などの、統計的な予測が適応されます。『物質世界』のミクロな領域を扱う『量子物理学』、細胞の複写過程で生ずる『突然変異』、『生殖』のプロセスの卵子と精子の結びつき、気象予測や地殻変動予測などの事象は、あらかじめ『結果』を詳細に予測することはできません。『確率』を利用した『因果関係』の予測とはいっても、『何が起きるかわからない神秘の世界』というわけではありません。
言い換えると『科学』は、『客観的な理』が支配する領域です。人間の『願い』『期待』『好き』『嫌い』などという『精神世界』の『主観的な情』は全く通用しません。
唯一科学者が『仮説』を唱える場合にのみ、『主観(直感)』を起点とすることは許されますが、『客観的な理』でそれが『証明』されなければ、『仮説』が『定説』や『法則』として認められることはありません。
人間の『精神世界』の思考において、『客観的な理』だけを用いる『科学』は、特殊な領域です。このことを理解することがまず必要になります。
私達の日常の思考は、『客観的な理』と『主観的な情』を無意識のうちに併用しています。特に『主観的な情』は、『安泰を希求する本能』と直接結び付きやすいために、これを使うことを禁じられると、多くの人は『不自然』『異常』『苦痛』を感ずることにもなります。『客観的な理』だけで議論している『科学者』は『変な人たち』として目に映りかねません。
一方『芸術』は、『主観的な情』が主役を演ずる領域です。『客観的な理』も全く使われないわけではありませんが、脇役です。
『主観的な情』には、普遍的な『価値基準』はありませんから、個人的に『好き嫌い』で評価はできますが、客観的な『優劣』を決めることは難しくなります。
『モーツァルト』と『ベートーベン』のどちらが『好きか』は個人として表明できますが、誰もが認める尺度で、『どちらが優れているか』を論ずることはできません。
『主観的な情』は、宿命的に『個性的』であり、多様であることを次に理解することが求められます。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
Enjoy daily galleries
http://pooppornfree.wettitporn.kanakox.com/?meaghan
1980 porn dubai porn porn jennifer gordon mature sample video porn halibel porn pics
投稿: imogeneiz16 | 2020年7月10日 (金) 18時56分